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今日から受難週が始まります。それはイエス様が十字架の死という受難に向かって歩まれた最後の一週間です。ちょうど今週の金曜日が十字架につけられたその日に当たります。そこから数えて三日目の、週の初めの日、すなわち日曜日の朝に、イエス様は復活されます。ですから、来週の礼拝は、イエス様が復活されたことを記念してイースター礼拝を行いたいと思いますが、今日はその前に、イエス様が十字架で苦しみを受けられた出来事からメッセージを取り次ぎたいと思います。タイトルは「三本の十字架」です。
Ⅰ.父よ、彼らをお赦しください(32-38)
まず、32~38節をご覧ください。「32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。」
32節の「ほかにも」とは、イエスのほかにもということです。イエス様の他にも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行きました。彼らがどんなことをしたのかはここにはありませんが、並行箇所のマタイ27章38節を見ると「二人の強盗が」とあります。つまり、彼らは十字架刑に値するような重罪を犯したのです。
彼らが連れて行かれたのは「どくろ」と呼ばれていた場所でした。「どくろ」はギリシャ語では「クラニオン」、ヘブル語では「ゴルゴタ」、ラテン語では「カルバリ」と言います。英語の「カルバリー」は、このラテン語から来ています。それは響きがいいですが「どくろ」という意味です。「がいこつ」ですね。それは死を象徴しているものです。
私は福島で最初の教会を開拓しましたが、その教会の名前は、「北信カルバリー教会」です。なぜそのような名前にしたのかというと、私たちを遣わしたアメリカの教会がカリフォルニア州のガーデナという町にありますが、その教会がカルバリーチャーチという名前だったからです。カルバリーチャペルとは違います。アメリカンバプテストという団体に所属している教会ですが、その教会の牧師は本当にすばらしい牧師で、霊的にも優れていましたが、人格的にもすばらしい人で、何よりも世界宣教、特に日本の宣教に重荷を持っていましたので、その教会の名前から取りたかったのです。それでその地域の名前にカルバリーという名を付けたのです。でも意味は「どくろ教会」です。なぜその場所が「どくろ」と呼ばれていたのかというと、諸説ありますが、その丘の形がどくろの形をしていたからではないかと考えられています。その「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエス様を十字架につけました。イエス様だけではありません。イエスといっしょに引かれて行った二人の犯罪人も十字架につけられました。一人はイエス様の右に、もう一人はイエス様の左に、です。ですから、そこには三本の十字架が立てられていたのです。
34節をご覧ください。「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
これはイエス様が十字架上で発せられたことばです。イエス様は十字架の上で7つのことばを発しましたが、これはその最初のことばです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」つまり、十字架につけられたイエス様は開口一番とりなしの祈りをされたのです。イエス様がこれまで弟子たちに教えて来られたことを自ら実践されました。たとえば、ルカ6章27~28節には「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。」とありますが、これを実践されたわけです。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたを呪う者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。なかなかできないことです。でもイエス様はこれらのことを自ら実践されました。その究極がこの十字架上でのとりなしの祈りだったのです。
この時イエス様はボコボコにされていました。血まみれの状態で、それがイエス様だと判別することができないほどでした。にもかかわらず、イエス様はこう祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分からないのです。」
この「彼ら」とは誰でしょうか。それは直接的にはイエス様を十字架につけた死刑執行人たち、ローマの兵士たちのことでしょう。しかしそれだけではなく、直接手をかけなくても、彼らに死刑を執行させたポンテオ・ピラトもそうです。さらには、イエスを殺そうと企んでいたユダヤ教の当局者たちもそうでしょう。また、そうした宗教家たちに先導されてイエス様を「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ群衆たちもそうです。強いて言うなら、私たちもそうです。私たちもこの「彼ら」に含まれるのです。なぜなら、私たちも自分が何をしているのかわかっていないからです。自分が何をしているのかわからない人たち、キリストを十字架につけても何とも思わない人たちのためにイエス様はこのようなとりなしの祈りをされたのです。
このときイエス様は瀕死の状態でした。その声は虫の息のようでした。ことばを発するのが奇跡に近いような状態だったのです。そういう状態だったのにイエス様はご自分のことではなく、そんな「彼ら」のために祈られました。皆さん、自分の手のひらに釘を押し付けたことがありますか。私は遊びでやってみたことがありますが、釘の先をちょっとでも押し付けると「痛っ!」となります。それを両手両足に打ちつけられていたのですから、相当の痛みが走ったことでしょう。すべての神経がそこに集中したはずです。もう他の人のことなど考えられなかったでしょう。余裕で何かことばを発するなんてできない状態でした。しかしイエス様は自分のことなど全く無視するかのように、「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られたのです。それはイエス様ご自身がそのためにこの世に来られたということをだれよりもよく認識していたからです。ですから、イエス様は激しい痛みと苦しみの中にあってもそのことを忘れず、最後まで忠実に神のみこころを果たそうとされたのです。十字架の上でもなおも一人でも救おうと願っておられたからです。
このことばは、古今東西多くの人たちの心を捉えてきました。まさに心を奪われてイエス様を信じた人たちがたくさんいます。特に紹介したいのは、淵田美津雄(ふちだみつお)という人です。聞いたことがありますか。この人は真珠湾攻撃の総隊長、海軍大佐だった人です。のちにクリスチャンになってキリスト教の伝道者になりますが、彼がクリスチャンになったきっかけがこの聖句でした。
「父よ、彼らを赦したまえ。その成すところ知らざればなり。」
これは文語訳ですが、このことばが彼の心を捉えました。そして彼は救われたのです。そして世界中を伝道して回る伝道者になりました。アメリカと日本の架け橋となって、赦しのメッセージを伝えて行くことになったのです。このイエスのことばによって、その後も多くの人たちが救われていくことになります。
私たちはもう一度自分の信仰の原点を考えなければなりません。自分はどこから救われて来たのかを。私たちはどこから救われて来たのでしょうか。ここからです。このイエス様のとりなしによって救われたのです。これが私たちの救いの原点なのです。私たちもイエスを十字架に磔にした「彼ら」、極悪人たちとちっとも変わりません。それなのにイエス様はそんな私たちのために祈られました。本来ならこの私が十字架につけられておかしくなかったのに、そんな私たちのためにイエス様がとりなしてくださったことによって救われたのです。ここから私たちの救いの物語が始まっているのです。イエス様がこの祈りをささげてくださられなかったら私たちは救われませんでした。
35節をご覧ください。民衆は立って眺めていました。議員たちも、あざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
この議員たちとはユダヤ教の宗教指導者たちのことです。彼らも十字架につけられたイエスを見てあざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
「言った」というよりも「言ってしまった」という方がいいかもしれません。思わず言ってしまったということです。英語で表現するなら「ウップス!」です。聞いたことがありますか、「ウップス!」思わず本音が出ちゃったということです。「あれは他人を救った」それは本当です。他人を救ったなんて本当は言いたくなかったのです。他人を救ったかのように見えたとか、他人を救ったと自慢したとか、そんなふうに言いたかったのに、思わず本音が出てしまいました。「あれは他人を救った」と。そうです、イエス様は他人を救ったのです。イエス様の敵であった彼らでさえも、それを認めざるを得ませんでした。彼らは知っていました。イエス様が神の力で他人を救ったということを。だったら自分を救ってみろと。
皆さん、イエス様は自分を救うことができなかったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。自分を救うことなんてお茶の子さいさいでした。たとえば、イエス様が十字架につけられるためにローマの兵士約600人がイエス様を捕らえに来ましたが、その時イエス様が彼らに「だれを捜しているのか」と言うと、彼らは「ナザレ人イエスを」と答えましたが、そのときイエス様が「わたしがそれだ」と言うと、彼らは後ずさりして、地に倒れてしまいました。「わたしがそれだ」と言っただけで、600人の屈強なローマ兵が一度に倒れたのです。また、イエス様が風に向かって「嵐よ、静まれ」と言うとどうなりましたか。すぐに凪になりました。風や波すらイエス様の言うことに従ったのです。自然の猛威ですらイエス様の権威の前に服するのですから、ローマ兵が何人束になってかかって来ても、イエス様にかなうわけがありません。イエス様は自分を救うことなんて何でもないことだったのです。十字架の上から下りることができました。でもあえてそうされなかったのです。なぜなら、そんなことをしたら私たちを救うことができなくなってしまうからです。イエス様はそのことを十分知っておられたので、そのような彼らのことばに乗ることをしなかったのです。誘惑はあったでしょう。こんなひどいことをされるならさっさとここから下りて天の父のもとに帰って行こうと。でもそうされませんでした。あえて十字架の上にとどまられたのです。それは私たちを愛するがゆえに。釘がイエス様を十字架に留めたのではありません。私たちに対する愛が、イエス様を十字架に留めたのです。そのことをもう一度覚えたいと思います。
36~38節をご覧ください。「36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
ユダヤ教の宗教指導者たちだけでなく、ローマの兵士たちもイエス様をあざけりました。彼らは十字架に磔にされたイエス様の近くに来て、「酸いぶどう酒」を差し出しました。この酸いぶどう酒は、発酵が進んだぶどう酒に水を混ぜ合わせたものです。これは酔うためのものではありません。渇きを潤すためのものです。十字架刑があまりにも過酷な刑だったのであわれみがかけられ、麻酔薬に相当する没薬を混ぜたぶどう酒が差し出されたのです。でもイエス様はそれを飲もうとされませんでした。はっきりした意識を持ってその痛みの一つ一つを感じながら、私たちの罪の贖いを成し遂げられたのです。これが私たちに対するイエス様の愛でした。つまり、イエス様は十字架でご自身の愛を明らかにしてくださったのです。カルバリ山の十字架は、その神の愛の表れだったのです。それほどまでにあなたは愛されているということです。
イエス様はかつて、こう仰せられました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)。人がその友のためにいのちを捨てるということよりも大きな愛はありません。それは最も大きな愛です。誰かを本気で愛そうと思うなら、その人のために、自分のいのちを捨てて身代わりとなる、それ以上に大きな愛はありません。なぜなら、人が犠牲にすることができる最大のものは「自分のいのち」に他ならないからです。そしてあのゴルゴタの十字架、カルバリの十字架で、イエス様はまさにその「ご自分のいのち」を私たちの身代わりとなって捨てて下さいました。しかもそれは神の御子のいのちです。罪の汚れが一点たりともない神の子のいのちです。私たちは多かれ少なかれ罪を持っていますから十字架で罰せられても致し方ありませんが、神の御子は違います。紙の御子イエスはそのような罪を何一つ犯したことがなく、重罪どころか軽犯罪すら犯したことがありませんでした。ローマの法律ばかりか、ユダヤの律法にも違反したことがありませんでした。イエスは全く罪のない完全な方なのに、十字架で死なれました。なぜでしょうか?それはあなたを救うためです。私を救うためです。私たちの罪の身代わりとなるために十字架で死んでくださったのです。これこそ「愛」です。これより大きな「愛」はありません。だから神様は私たちのことを間違いなく愛して下さっているということがわかるのです。だって私たちは、その「しるし」をこの十字架に、しっかりと見せていただいているのですから。
朝鮮戦争の時、二人の若いアメリカ人兵士が、とある塹壕に隠れていました。二人は大の仲良しで、いつも一緒に行動していたそうですが、ある日、二人が隠れていた塹壕に手榴弾が投げ込まれました。すると、それを見た一人が、もう一人の方にウィンクするや、その手榴弾の上に自分の体を投げ出して覆い被さったというのです。当然、その人は亡くなりましたが、その尊い犠牲によってもう一人の方は、無事にいのちが守られました。
その後、生き残った兵士はアメリカに帰ってから、自分を助けてくれた友だちのお母さんに会いに行きました。そしてお母さんに尋ねました。「彼は、手紙の中でボクのことを書いていましたか?」すると「ええ」とお母さんが答えてくれたので、彼はさらに訊ねました。「手紙の中で、ボクのことを愛していると書いていましたか?」すると、そのお母さんは、突然持っていたカップを床に投げつけて、言いました。「あんたは、一人の男があなたのためにいのちを捨てたのに、『彼があなたを愛していたか』って聞くの?」。
私たちも神様に対して、これと同じようなことをしてはいないでしょうか。「あなたは、イエス様があなたのためにいのちを捨てて下さったのに、神さまの愛を疑うのか」と言われるようなことをしていないでしょうか。
Ⅱ.わたしを思い出してください(39-42)
次に、イエスの右と左に立てられた二人の犯罪人の十字架を見ていきましょう。39~42節をご覧ください。「39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」」
並行箇所のマタイ27章44節を見ると、最初イエス様と一緒に十字架につけられた二人の強盗は、二人ともイエス様をののしっていました。しかし、ここでは一人の犯罪人がイエス様をののしり、もう一人はイエス様を信じ、イエス様をののしっていたもう一人の犯罪人をたしなめています。すなわち、ある段階から一人の強盗が変えられたということです。イエスの右と左、全く同じ距離に磔けられた二人の犯罪者。二人とも強盗であり、二人とも罪深い者でした。でも何かが変わったのです。いったい何が変わったのでしょうか。犯罪者の一人は、イエス様をののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。」と言い、もう一人はイエスを信じて、「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」と言い、イエス様に「あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」と懇願しました。いったいこの違いはどこから生じたのでしょうか。
これまでも35節と37節に「自分を救ってみろ」という言葉が使われていました。ここでも一人の犯罪人はそのようにののしっています。「自分とおれたちを救え」と。彼らに共通していたことは何でしょうか。それは、今置かれている目の前の苦しみから救ってみろということです。日本語の聖書はきれいなことばで訳されていますが、原語では、ひどいニュアンスのことばが使われています。「おめえはキリストなんだろ。だったら、てめえ自身と俺たちのことを救ってみろ!」そんな感じです。いわばヤケクソです。このヤケクソは、私たちもよくあるのではないでしょうか。自分の力ではどうにもならない現実に押し潰されるとき、人は皆このようにヤケクソになります。それはクリスチャンだって同じです。それは「神様の愛を疑う程の失望」から湧き上がって来るものです。
しかし、もう一人の犯罪人は違いました。もう一人の犯罪人は、彼をたしなめてこう言いました。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
彼は「ここから下せ」とか、「おれたちを救え」と言ったのではなく、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言いました。つまり、「ここから下してみろ」ではなく、逆に「ここから引き上げてください」と言ったのです。もっと高い次元にいざなってくださいと。もっとあなたの御傍近くに置いてください。もっとあなたを知りたいのです。そうと言ったのです。この苦しみからただ解放してほしいというのではなく、この苦しみの中にあってもなおあなたを知りたいのです。もっとあなたに近づきたいのです、そう言ったのです。詩篇119篇71節にこうあります。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」
すばらしいみことばですね。この苦しみを通してイエス様の苦しみに少しでも預かることができるならそれこそ本望だと。それは本当にありがたい。苦しいけれどもありがたい。これによってイエス様の似姿に変えられるならば、私は喜んでこの苦難を耐えていきたい。そう言ったのです。あなたはどうでしょうか。そのような祈りになっているでしょうか。それとも、もう一人の犯罪人のように「自分とおれたちを救え。」の一点張りでしょうか。「とにかくここから早く下してくれ。解放してくれ。」と。病気になったらすぐに癒してください。困ったことがあったらすぐに助けてください。ああしてください。こうしてください。そういう祈りになってはいないでしょうか。そういう祈りが決して悪いと言っているのではありません。それも大切な心の叫びです。しかし、それはこの一人の犯罪人とちっとも変わらないということです。ただ目の前の苦しみから解放してほしいというだけですから。しかし、仮にイエス様がこの祈りに応えたとしても、結局、この強盗は自分の罪の中に死んでいくことになります。その時は一時の解放を経験するかもしれませんが、究極的には地獄に堕ちて行くことになるのです。確かに目の前の苦しみから解放されたいと願うのは自然なことです。できるだけ早くそこから救ってほしいと思うのは当然のことです。でも主が求めておられることは、自分とおれたちを救えということではなく、「イエス様。あなたが御国に入れられ時には、私を思い出してください」という祈りです。あなたのもとに引き上げてください。もっとあなたに近づきたいのです。もっとあなたを深く知りたい。そう願うことなのです。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」と、この犯罪人のように、苦しみの中で引き上げられること、主のみそば近くに引き寄せられることなのです。
私たちもそうありたいですね。苦しみに会うととかくそこから救ってほしい、解放してほしいということしか考えらなくなりますが、実はその苦しみこそ私たちが神のおきて学ぶ時として与えられるということを覚えたいと思います。そしてもう一人の犯罪人のように、「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」「ここから引き上げてください」と祈る者でありたいと思うのです。
Ⅲ.あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます(43)
最後に、この犯罪人の願いに対するイエス様の応答を見て終わりたいと思います。43節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」」
これは、イエス様が十字架の上で発せられた七つのことばの第二番目のことばです。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
「今日」ということばに注目してください。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」「いつか」「そのうちに」ではなく「今日」です。イエスを信じたその日に、その瞬間にパラダイスです。この「パラダイス」ということばは元々ペルシャ語から来たことばですが、原意は、柵によって囲まれた園、および庭です。旧約聖書の中にもよく使われていますが、そこでは「園」と訳されています。でもそれはただの園ではなく天の園、天の楽園のことを指しています。それが天国です。黙示録を見ると、実際に天国は園のようなところです。そこにはいのちの木が生えていて、いのちの水の川が流れています。早く行ってみたいですね。まさに楽園です。ですからイエスが「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」という時、それはこの天の園、天国のことを指して言われたのです。「今日、わたしとともにパラダイスにいます。」イエス様を信じた今日、その瞬間、イエス様は彼をパラダイスに伴ってくださると約束してくださったのです。彼は死の間際にすばらしい救いの約束をいただいたのです。
皆さんはどうですか。この約束のことばをいただいているでしょうか。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」いや、わたしはまだ聖書を全部読んでいないから無理ですとか、もっときよめられないと無理ですと思っていませんか。でも、そうではありません。あなたが救われるためには、ただイエス様を信じるだけでいいのです。この強盗を見てください。この状態でいったい何ができるというのでしょう。何もできません。彼ができたことはただイエス様のあわれみにすがり、あなたが御国に入れられるときには、わたしを思い出してくださいと祈ることだけでした。そう祈っただけで救われたのです。パラダイス、それは神がいるところ、イエス様がともにおられるところです。そこにいることができるのです。あなたがただイエス様の十字架の御業を信じるなら、あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。なぜなら、イエス様があなたの救いのために必要なすべてのことを十字架で成し遂げてくださったからです。あなたがどのような人であるかとか、あなたに何ができるかといったことは全く関係ありません。あなたがただ神の前に頭を垂れ、へりくだって自分の罪を悔い改め、神の救いを受け入れるなら、あなたも今日、イエス様とともにパラダイスにいるのです。しかし、神の側ではそのために最大の犠牲を払ってくださったということを忘れてはなりません。
イエス様はこの約束を与えるにあたり、「まことに、あなたに言います。」と言われました。「まことに」ということばは、原文では「アーメン」です。イエス様はご自身に救いを求めたその人に「まことに、あなたは今日わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたのです。これはイエス様の感動が伝わってくることばです。何がイエス様を十字架の苦しみの中にあっても「まことに」「アーメン」と感動させたのでしょうか。それはこの犯罪人の一人が自らの罪を認めてご自身に救いを求めたことです。もう自分では何もできないという絶望的な状態にありながらも、イエス様を信じて救われたいと真実に願い求めた姿が、イエス様を感動させたのです。ゴルゴタの丘に立てられた三本の十字架は、無意味に立てられたのではありません。イエス様をあざ笑う者の仲間になるのか、それともこの犯罪人のように自らの罪を認めてイエス様の救いを受け入れるのかのどちらかです。イエス様を信じて、イエス様がおられる天の御国、パラダイスに入れさせていただきましょう。イエス様は、私たちを「まことに」「アーメン」と言って救ってくださるお方なのです。