エレミヤ23章23~40節「真の預言者とにせ預言者を見分ける」

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今回は、前回に続いて、どうしたら真の預言者とにせ預言者とを見分けることができるか、というテーマです。真の預言者とにせ預言者とでは、どのような違いがあるのでしょうか。どうしたらそれを見分けることができるのでしょうか。どちらも、自分は主から遣わされた預言者だと主張しています。どちらも主の御名によって預言しています。ですから、外見上それを見分けるのはなかなか困難です。いったいどうしたらそれを見分けることができるのでしょうか。これは、何も昔の話ではなく、極めて現代的なテーマでもあります。今日の箇所から、真の預言者の特徴を見ていきたいと思います。

Ⅰ.麦と藁(わら)のたとえ(23-29)

まず、23~24節をご覧ください。「23 わたしは近くにいれば、神なのか。─【主】のことば─遠くにいれば、神ではないのか。24 人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。─【主】のことば─天にも地にも、わたしは満ちているではないか。─【主】のことば。」

にせ預言者たちの特徴の一つは、物理的に近い偶像の存在は認めても、どこにでもおられる真の神の存在を認めることができなかったということです。ですから、隠れたところに身を隠せば、神の目から逃れられると考えていたのです。最初の人アダムとエバは、神の命令に背いて罪を犯したとき、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠しました。そのとき神である主は、人に呼びかけて言われました。「あなたはどこにいるのか。」神である主は彼らがどこにいるのかわからなかったのでしょうか。いいえ、彼らがどんなに身を隠しても、彼らがどこにいるのかをちゃんと知っていました。その上で「あなたはどこにいるのか」と尋ねられたのです。そこはあなたのいるところではない。あなたがいるところはここだと。どんなに隠れたところに身を隠しても、神の目からのがれることはできません。なぜなら、神はどこにでもおられるからです。神はあらゆるところにおられます。ダビデは、詩篇139篇でこう言っています。「7 私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。8 たとえ 私が天に上っても そこにあなたはおられ 私がよみに床を設けても そこにあなたはおられます。9 私が暁の翼を駆って海の果てに住んでも10 そこでも あなたの御手が私を導き あなたの右の手が私を捕らえます。」(詩篇139:7-10)
  たとえ天に上っても、主はそこにおられます。たとえよみに床をもうけても、そこにも主はおられます。たとえ海の果てに住んでも、主はそこにもおられます。主はどこにでもおられるのです。ですから、たとえ隠れ場に身を隠したとしても、神の目から隠れることはできません。神はすべてをお見通しなのです。それなのに彼らは、隠れたところに身を隠せば、神の目から逃れられるのではないかと考えていました。神は、近くにいても、遠くにいても神です。神は、天にも地にも満ちておられます。彼らはそれを認めることができませんでした。それがにせ預言者の特徴の一つです。彼らは神の存在を認めていませんでした。神を恐れていなかったのです。

次に、25~28節をご覧ください。「25 わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言うのを、わたしは聞いた。26 いつまで、あの預言者たちの心に偽りの預言があるのか。心の偽りごとを語る預言者たちのうちに。27 彼らの先祖がバアルのゆえにわたしの名を忘れたように、彼らはそれぞれ自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、企んでいるのか。28 夢を見た預言者は夢を語るがよい。しかし、わたしのことばを受けた者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦は藁と何の関わりがあるだろうか。─【主】のことば─」

にせ預言者たちの特徴の第二のことは、自分たちの見た夢をあたかも神から与えられた啓示であるかのように語るということです。25節には、「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言うのを、わたしは聞いた。」とあります。ここで特徴的なのは、「私は夢を見た。夢を見た」と、夢を見たということばが繰り返されていることです。どうして彼らはこのように繰り返して言っていたのでしょうか。それを強調したかったからです。このように強調することによって、あたかもそれが本当であるかのように訴えるためです。
  確かに神は夢や幻を通しても語られることがあります。たとえば、創世記28章にはヤコブが夢を見たことが記されてあります。それは天から地に向かって一つのはしごがかけられていたという夢でした。そして、そのはしごの上を神の御使いが上り下りしていました。これは、ヨハネ1:51を見ると、天から地に向けて架け橋となられたイエス・キリストのことを示していました。このように、確かに神は夢を通しても語られることもありますが、だからと言って、夢を見たらそれがすべて神からの啓示なのかというとそうではありません。伝道者の書5:3には「仕事が多いと夢を見る」とあります。仕事が多いと夢を見るようになります。あれもしなければならない、これもしなければならないということが多くなると、神経が高ぶって寝つきが悪くなり、夢を見ることが多くなるというのです。でもそれがすべて神からの啓示なのかというとそうではありません。それなのに、にせ預言者たちは、あたかもそれが神から与えられた啓示であるかのように語っていたのです。するとどうなりますか。27節をご覧ください。ここには「彼らの先祖がバアルのゆえにわたしの名を忘れたように」とあるように、かえって神から離れてしまうことになるのです。主につながるどころか、主から離れさせてしまうことになるのです。信仰から離れてしまうことになります。コロサイ2:18には、「彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。」(新改訳第3版)とあります。「かしら」とはイエス・キリストのことです。彼らは夢や幻を見ることによって、かしらであるキリストに堅く結びつくことをしませんでした。かえって、キリストから離れてしまうことになってしまいました。

いったい何が問題だったのでしょうか。神のことばをベースにしていなかったことです。だから、やたらと自分たちの見た夢を強調していたのです。夢そのものが悪いのではありません。私もよく夢を見ます。「いつでもゆ~めを♪いつでもゆ~めを♪」夢を見ることは別に悪いことではないのです。問題は見た夢がすべて神からの啓示であると断言することです。ですから、夢と神からの啓示というものは分けて考えなければなりません。夢を見たらそれがすべて神の啓示であるというのではなく、本当にそれが神からのものなのかどうかを、神のことばによって吟味しなければならないのです。そうでないと、夢とか、幻とか、神のことば以外で受けたものをすべて神の啓示にしてしまう誤りを犯してしまうことになります。夢を見た預言者は夢を語ればいいでしょう。でも、神のことばを受けた預言者は、神のことばを語ります。これが真の預言者とにせ預言者の違いです。

そのことが、麦と(わら)のたとえでわかりやすく表現されています。28節をご覧ください。ここに「麦は藁と何の関わりがあるだろうか。」とあります。どういうことでしょうか。麦は栄養のある部分です。藁は、脱穀する時に出てくる殻のことですね。そこには栄養はありません。神の言葉は麦であり、夢は殻でしかないということです。神のことばは力となり、栄養となり、それによって生きることができますが、夢はただの幻であり、中身がないということです。栄養もありません。従って、それによって生きることはできません。真の預言者とそのメッセージは麦ですが、にせ預言者とそのメッセージは藁です。にせ預言者のメッセージは、人に何の益ももたらさないのです。

同じことが、火と金槌のたえによって表現されています。29節をご覧ください。ここには「わたしのことばは火のようではないか─【主】のことば─。岩を砕く金槌のようではないか。」とあります。神のことばが火にたとえられています。どういう点で神のことばは火のようなのでしょうか。不純物を焼き尽くすという点においてです。私たちの心に隠された汚れを焼き尽くして清めます。

ここには、さらに神のことばが岩を砕く金槌のようだともあります。どういうことでしょうか。どんなに堅いものでも粉々に砕くことができるということです。皆さんはダイヤモンドを持っていますか。ダイヤモンドは鉱物の中でも一番堅いものだと言われていますが、でもこの金槌で叩いたらどうなるでしょうか。あまりお勧めしませんが、もし皆さんがダイヤモンドを持っているなら、試してみるといいと思います。粉々に砕けますから。神のことばは金槌のようで、どんな堅いものでも粉々に砕くことができるのです。あなたの心もそうです。あなたの心がどんなに頑なでも、神のことばはそれを砕くことができます。神は砕かれた心、砕かれた悔いた心を求めておられます。私たちの頑な心も砕いていただきましょう。

このように、真の預言者のメッセージは麦のようであり、また火のようであり、金槌のようです。それは真に人を生かします。それは力があり、人を励まし、人を満たします。でも、にせ預言者のメッセージは中身のない藁のようです。いかにも神のことばであるかのように見せかけますが、それはただ聞く人の耳に心地よいだけで、何の役にも立ちません。ただの空しい話にすぎないのです。

Ⅱ.神のことばを利用するにせ預言者(30-32) 

真の預言者と偽りの預言者をどうやったら見分けることができるでしょうか。もう一つのポイントは、にせ預言者は神のことばを利用して、あたかもそれが主から与えられたものであるかのように語るということです。30~32節をご覧ください。「30 それゆえ、見よ─【主】のことば─。わたしは、互いにわたしのことばを盗み合う預言者たちの敵となる。31 見よ。わたしは─【主】のことば─自分の舌を操って、これがみことばだ、と言う預言者たちの敵となる。32 見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる─【主】のことば─。彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に語って迷わせている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らは、この民にとって何の役にも立たない─【主】のことば。」

彼らは神のことばを利用して、いかにもそれが神のことばであるかのように語ります。32節には、「彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に語って迷わせている」とあります。この「自慢話」と訳された言葉は、新共同訳で「気まぐれ」と訳されています。彼らは気まぐれで話をしていました。聖書が何を言っているかなど関係ありません。ただ自分が言いたいことを、聖書を利用して語るだけでした。その結果、民の心はカラカラに渇いてしまいました。アモス書8:1にこうあります。「見よ、その時代が来る。─【神】である主のことば─そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことの飢饉である。」(アモス8:1)
  皆さん、飢饉といってもいろいろな飢饉があります。でもこの飢饉は、パンに飢える飢饉ではありません。水に渇く飢饉でもありません。みことばを聞くことの飢饉です。神のみことばが語られないと、私たちの心がカラカラに渇いてしまうのです。皆さんも、そういう経験がおありでしょう。講壇からみことばが語られない。牧師の経験談とか自慢話など、気まぐれな話は語られても、肝心な神のみことばが語られないので渇いてしまったということが。そういう意味では、毎週講壇から語られる説教がどれほど重要であるかがわかるかと思います。私もあまり他の牧師の説教を聞くことがありませんが、聞いていて感動する時というのは、その牧師がよく準備して、神のことばを神のことばとして語っている時です。神様ってすごいなぁと改めて教えられ、主をほめたたえます。どんなに楽しいお話でも、どんなに含蓄のあることばでも、神のことばを利用して自分の言いたいことを語るような説教はあまり心が動かされません。皆さんはいかがでしょうか。

主なる神さまもそのようにおっしゃっておられます。30節と31節と32節には繰り返して、そのようなにせ預言者に対して「わたしは彼らの敵となる」と、主は語っておられます。神が敵となることが一番恐ろしいことです。でも、もし神のことばを盗んで自分たちの教えに勝手に利用するようなことがあるとしたら、あるいは、講壇から神のことばではなく、偽りのことばや自慢話といった気まぐれで語られるようなことがあるとしたら、神が敵となられます。

あなたは、どのようにして真の預言者とにせ預言者を見分けていますか。ある人たちは、夢で見た内容、たとえば死後の世界とか、天国と地獄のことなどを書物に現わし、あたかもそれが福音の真理であるかのように語っています。しかし、それをそのまま信じてはいけません。最終的な権威は、聖書にあるので、聖書に照らして吟味しなければならないのです。

Ⅲ.主の宣告とは何か(33-40)

次に、33~40節をご覧ください。「33 この民、あるいは預言者か祭司が、『【主】の宣告とは何か』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに言え。『あなたが、宣告とは何かと言うので、わたしはあなたがたを捨てる─【主】のことば。』34 預言者でも、祭司でも、民でも、【主】の宣告と言う者があれば、わたしはその者とその家を罰する。」35 あなたがたは互いに「【主】はどう答えられたか。【主】はどう語られたか」と言うがよい。36 しかし、【主】の宣告ということを二度と述べてはならない。その宣告自体がそれを言う人自身のことばであり、あなたがたが、生ける神、万軍の【主】、私たちの神のことばを曲げることになるからだ。37 「あの預言者たちにこう言え。『【主】はどう答えられたか。【主】はどう語られたか。38 もし、あなたがたが【主】の宣告と言うなら、それに対して、【主】はこう言われる。わたしはあなたがたに、【主】の宣告と言うなと言い送ったのに、あなたがたは【主】の宣告というこのことばを使っている。39 それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたとあなたがたの先祖に与えたこの都を、あなたがたとともに、わたしの前から捨てて、40 永遠の恥辱、忘れられることのない永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」

33節の「あなたに」とはエレミヤのことです。ユダの民、あるいは預言者や祭司が、エレミヤに「主の宣告とは何か」と尋ねたら、エレミヤは彼らにこう言わなければなりませんでした。「あなたが、宣告とは何かというので、わたしはあなたを捨てる─主のことば。」どういうことでしょうか。

この「宣告」ということばには※が付いていますが、下の欄外の説明を見ると、ヘブル語で「マサ」。「重荷」とも訳す、とあります。そして「あなたが、宣告とは何かというので、わたしはあなたを捨てる」にも※があって、下の説明には、七十人訳による別役「あなたがたが重荷だ。わたしはなたがたを・・・・」とあります。つまり、この「宣告」と訳された言葉は「重荷」という意味もあるわけです。神様はそれを用いて、もしこの民、あるいは預言者や祭司が「主の宣告とは何か」とあなたに尋ねたら、エレミヤよ、あなたこう言いなさい。「あなたがたが重荷だ」と。

これは語呂合わせというか、神様のダジャレです。神様はダジャレを使うので私も時々ダジャレを使いますが、こんなに高度なダジャレは使えません。謎かけみたいですね。「主の宣告とかけまして重荷とときます。そのこころは、マサにそれが「マサ」です」ちょっと意味不明でしょうか。神様のような謎かけはできないですね。あまりにも高度です。そうです、これは高度な語呂合わせ、ダジャレなんです。ご自分の伝えたいことを明確に伝えるなんて、マサに御業です。神のことばを利用しながら、主の宣告、マサは何かというのに対して、マサに、それが彼らのマサになっていくのです。重荷となっていくというのです。すごいですね。まさかあの有名な牧師が語っていたことが聖書に逸脱しているとは思わなかった・・・。まさかあのベストセラーに書いてあることが非聖書的だなんて思わなかった・・・。てっきり主の宣告だと思っていたのに、でも気付いてみたらそれが重荷となっていくのです。

マタイ11:28~30に、イエス様の有名なことばがあります。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
  すばらしい約束ですね。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」主があなたを休ませてあげます。主は心優しくへりくだっているから、あなたがたも主のくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」「くびき」というのは、2頭の牛とか馬の首の後ろにかける横木のことですね。それは自由を束縛するものです。そのくびきを負って、主から学びなさいというのです。そうすれば、たましいに安らぎが来るからです。主のことばは私たちを束縛するどころか、私たちを自由にします。それは決して重荷とはならないのです。神のことばをベースにして働くなら、必ずあなたも休ませていただくことができます。リフレッシュして力を受けることができるのです。でも神のことばをベースにしなければ、自分の考えとか、自分の思いで突っ走ろうとすると、だんだん疲れて来て、もうその重荷に耐えることかできなくなってしまいます。にせ預言者たちの宣告がこれでした。彼らの宣告は神のことばをベースにしていなかったので、くびきをさらに重くしていたのです。

35節をご覧ください。「あなたがたは互いに「【主】はどう答えられたか。【主】はどう語られたか」と言うがよい。」
  これがこの箇所のまとめとなります。これが最も重要なことです。主は何と答えられたか。主は何と言われたかということです。その預言者が何と言おうと、その有名な牧師が何と言おうと、そのベストセラー本に何と書いてあろうと関係ありません。主はどう答えられたか、主は何と語られたかが重要です。それを聞かなければなりません。それを主のことば、聖書のことばによって検証しなければならないのです。鵜呑みにしてはいけないのです。

使徒の働き17章には、ベレヤの教会について紹介されています。ベレヤの人たちは非常に熱心にみことばを受け入れ、果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べました。新約聖書の半分以上を書いたパウロ先生のメッセージを鵜呑みにしないで、パウロ先生が語ったみことばが果たしてそのとおりであるかどうかと、毎日聖書を調べたのです。そんな彼らのことをパウロは良い人だと称賛しました。非常に熱心にみことばを聞いていたというだけでなく、その聞いたみことばが本当にそのとおりかどうか調べていたからです。吟味していたからです。

逆に、吟味しない人はわきまえのない人です。箴言14:15にはこうあります。「浅はかな者はどんなことばも信じるが、賢い人は自分の歩みを見極める。」浅はかな人は、何でも鵜呑みにします。いくら聖書を熱心に読んでも、いくらあちこちのセミナーに行っても、いろいろなメッセンジャーのことばを聞いても、聖書によって吟味しなければただのわきまえのない人になってしまいます。主は何と答えられたか、主は何と言われたかを、問わなければなりません。吟味しなければならないのです。

そのように問うなら、にせ預言者たちは沈黙せざるをえません。なぜなら、彼らの預言はにせものであることが明らかになるからです。それでも、彼らが「主の宣告」ということがあるとしたらどうなるでしょうか。39節と40節です。「それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたとあなたがたの先祖に与えたこの都を、あなたがたとともに、わたしの前から捨てて、永遠の恥辱、忘れられることのない永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」
   「全く忘れる」というのは、彼らが行なったことを全く認めていないということです。イエス様が、終わりの時に偽預言者について、「わたしはあなたがたを全然知らない。」(マタイ7:23)と言われている箇所がありますが、彼らが主の名によって預言をして、悪霊を追い出しても、「全然知らない」と言われるのです。

主に反抗するなら、私たちは「主の重荷」となって、主に捨てられてしまうことになります。しかし、主に信頼するなら、逆に、主が私たちの重荷を担いでくださいます。先ほど引用したマタイ11:28にはこうありましたね。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
  また、詩篇55:22にはこうあります。「あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(新改訳第3版)
  また、詩篇68:19にはこうあります。「ほむべきかな主。日々私たちの重荷を担われる方。この神こそ私たちの救い。」
  皆さん、私たちは主の重荷となるのではなく、重荷を主に下ろさなければなりません。すべてを主にゆだねなければならないのです。あなたの重荷は何ですか。あなたの心配事は何でしょうか。それを主にゆだねなければなりません。あなたのすべての重荷を主にゆだねるなら、主はあなたのことを心配してくださいます。主があなたに真の休息を与えてくださいます。それは真の預言者のことば、神のことばを聞き、そこに生きることによってもたらされるものなのです。