前回は、23章1~8節からお話しました。そこにはユダの民の回復の希望が語られていました。ユダの民はバビロンに捕囚の民として連れて行かれることになりますが、神はそこに「残りの者」を残しておかれ、70年にわたる期間の後に元の場所に帰らせてくださるという預言です。勿論、これはバビロンからの帰還だけでなく世の終わりにおける回復の預言でもあます。世の終わりになると神は、世界中に散らされているユダヤ人を再び約束の地に帰らせてくださいます。それが現代にもつながっているということを思うと、聖書の預言は本当に凄いなぁと改めて感じさせられます。神様はご自分が語られたことを必ず成就してくださるのですから。
今日の箇所はその続きです。9節には、「預言者たちについて」とあります。この「預言者たち」とは、にせ預言者たちのことです。ここで神はにせ預言者たちに対するさばきを語られるのです。なぜにせ預言者について語られるのでしょうか。私たちは、その前のところでイスラエルの残りの者について学びましたが、彼らはバビロンへと散らされた人たちでした。なぜ彼らはバビロンに連れて行かれたのでしょうか。なぜなら、牧者たちがちゃんと牧場の群れを養っていなかったからです。彼らは神の牧場の群れを滅ぼし散らしていたのです。1節にあるとおりです。この「牧者たち」というのは、具体的には南ユダ王国の王たちのことでした。彼らは、牧場の群れを牧さなければならないのに滅ぼし散らしていました。いわばにせの牧者だったのです。ここではそれに対応して、牧者ではなく預言者のことが取り上げられているのです。にせ牧者ならぬ、にせ預言者です。彼らは神が語ってほしことではなく、民が聞きたいこと、民の耳さわりの良いことを語っていました。その結果、ユダはどうなってしまいましたか。南ユダは滅ぼされてしまうことになりました。ですから、この預言のことばをどう受け止めるかということは、とても重要なことなのです。それは国の将来を決めることになります。今日の箇所には、そのにせ預言者に対して、私たちはどのように対処したら良いかが教えられています。
Ⅰ.酔いどれのようになったエレミヤ(9-14)
まず、9~14節をご覧ください。9~10節をお読みします。「9 預言者たちについて──私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになった。【主】と、主の聖なることばのために。10 地が姦通する者で満ちているからだ。地はのろわれて喪に服し、荒野の牧場は乾ききる。彼らの走る道は悪で、その力は正しくないことに使われる。」
「私の心」とはエレミヤの心のことです。にせ預言者たちのことで彼の心はうち砕かれ、彼の骨は震えました。このにせ預言者たちの甘いことばにユダの民がすっかり魅了され、惑わされていたからです。その民がエレミヤを嫌い除け者にしていました。なぜなら、彼のことばが厳しかったからです。エレミヤが語ることばが真理のことばだったからです。彼のことばは民の心にグサッと突き刺さりました。神のことば、真理のことばは、人の心に突き刺さります。でも、にせ預言者たちのことばは心に突き刺さるどころか、それは実に耳さわりの良いことばでした。「あなたはそのままいいんですよ」「心配する必要なんてない」「あなたはありのままで愛されているんだから」と、包み込むようなというか、安心感を与えるようなことばを語っていたのです。そのにせ預言者たちのことばにマインドコントロールされたユダの民は、エレミヤが語ることばに耳を貸しませんでした。耳さわりの悪かったからです。そんなことばは聞きたくない。エレミヤはすっかり嫌われ、孤独を体験していたのです。そのエレミヤの嘆きがこれです。
「私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになった。」
エレミヤはすっかり打ちひしがれてしまいました。酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになりました。もう立っているのがやっとです。まともに歩くことができませんでした。酔っぱらってフラフラした状態になりました。これは文字通り酒に酔っていたということではなく、自分の力では歩けないほど弱りきっていたということです。「主と、主の聖なることば」のことを考えると、あまりにも逸脱したにせ偽預言者たちのことばに、立っていることができないほどのショックと憤りで満たされたのです。
その結果、南ユダはどうなったでしょうか。姦通する者で満ちるようになりました。主に背き、偶像を拝む者でいっぱいになったのです。また、地はのろわれて乾ききり、作物は実らなくなってしまいました。人々は悪に走り、その力は正しくないことに使われるようになりました。すなわち、不正な力により頼むようになったのです。
11~14節をご覧ください。「11「実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見出した。──【主】のことば──12 それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。──【主】のことば──13 サマリアの預言者たちの中に、わたしはごまかしを見た。彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを迷わせた。14 エルサレムの預言者たちの中に、わたしはおぞましいことを見た。彼らは姦通し、嘘をついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪から、だれも立ち返らせない。彼らはみな、わたしにはソドムのようであり、その住民はゴモラのようだ。」」
「預言者」とか「祭司」とは、霊的リーダーたちのことです。彼らもすっかり汚れていました。「わたしの家」とは神の家のことです。つまり、エルサレムの神殿のことを指しています。その神の家である神殿の中にも悪が横行していました。教会も神の家と呼ばれています。世の終わりになると、その神の家である教会にも悪が横行すると言われています。Ⅱペテロ2章1節にこうあります。「しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。」
「御民の中には」とはイスラエルの中にもということですが、イスラエルの中ににせ預言者が出たように、教会にも偽教師が現れるようになります。神の教会の中にもにせ教師が現れて、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになるのです。何と自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くようになるというのです。異端というエホバの証人とかモルモン教をイメージするかもしれませんが、ここではそうした異端のことではなく、ここに「あなたがたの中にも」とあるように教会のことを指して言われているのです。教会の中にそうした偽教師が現れて、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになるのです。
その原因を作ったのが2種類のにせ預言者たちでした。それはサマリアの預言者たちとエルサレムの預言者たちです。「サマリアの預言者たち」とは、北王国イスラエルの預言者たちのことです。この時北王国はすでにアッシリアによって滅ぼされていました。彼らはバアルによって預言し、イスラエルの民を惑わしました。その結果、アッシリアによって滅ぼされてしまったのです。しかし、さらに悪いのがエルサレムの預言者たちでした。「エルサレムの預言者たち」とは、南ユダの預言者たちのことです。北王国の預言者たちはバアルの名によって預言しましたが、南ユダの預言者たちは主の御名によって預言していましたが、主が語っていないことを語っていたからです。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪から、だれも立ち返らせませんでした。 悪を行う者を糾弾するどころか、むしろ、それに加担しそれを助長するようなことをしたのです。
その結果、どうなったでしょうか。12節です。「それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。──【主】のことば──」
それゆえ、彼らは暗闇の滑りやすい道のように、そこで転び、倒れてしまうことになります。これがこの後で起こるバビロン捕囚のことです。B.C.586年に起こります。南ユダ王国、エルサレムもバビロンによって完全に滅ぼされてしまうことになるのです。
どのような分野でも指導者には大きな責任が伴います。一握りの権力者たちの誤った判断が、国を戦争と破滅に導き、社長の甘い経営判断が、企業を倒産に追い込みます。また、医者の誤った判断が、患者の命を危険にさらします。同じように、預言者や祭司といった霊的指導者の誤った指導が、国全体に混乱と破滅をもたらすことになるのです。
ところで、ここに、「主のことば」ということばが何回も繰り返して使われているのにお気づきになられたでしょうか。実にこの23章だけで17回も使われています。1節、2節、4節、5節、7節、11節、12節、そして23節、24節に2回も使われています。そして28節、29節、30節、31節、32節に2回、33節です。なぜこんなにも繰り返して使われているのでしょうか。それは、そこに主の御名で語る者が大勢いたからです。神の御名を利用して語る偽預言者が大勢いたので、真の預言者であるエレミヤは、そうじゃない、これが主のことばであると強調しているのです。たとえそれが耳さわりの悪いことばであっても、これが主のことばだ!と。そして主のことばに従うなら祝福があり、そうでなければのろいがもたらされることになります。主のことばに従わないなら、そこはソドムとゴモラのようになってしまいます。これが主のことばです。エレミヤはそれを強調しているのです。私たちはとかく耳さわりの良いことばには心を開きますが、そうでないことば、たとえば、警告とか忠告といったことばには心を閉ざしてしまう傾向があります。しかし、この主のことばをしっかりと聞かなければなりません。そうでないとかつての北王国や南ユダ王国のようになってしまいます。
次に、15~17節をご覧ください。 「15 それゆえ、万軍の【主】は、預言者たちについてこう言われる。「見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからだ。」16 万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。彼らは【主】の御口からではなく、自分の心の幻を語っている。17 彼らは、わたしを侮る者に向かって、『【主】はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言い、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」」
それゆえ、万軍の主はにせ預言者たちに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませます。これは神のさばきです。「苦よもぎ」は麻酔薬としても使われますが、基本的に精神攪乱をもたらす毒草です。それは「毒の水」同様、死に至らしめるものなのです。つまり、彼らが神のみことばを捨て自分勝手に歩んだ結果、死に至る苦しい思いをするようになるということです。なぜなら、不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからです。それだけ預言者が語ることばの影響は大きいということです。
16節には、そうした偽預言者たちのことばを聞くなと言われています。なぜなら、彼らはあなたがたを空しいものにしようとしているからです。口語訳と新共同訳聖書では、これを「あなたがたに、むなしい望みをいだかせ、」と訳しています。それは空しい望み、空しい希望です。希望があるかのようでも、そこには実体がありません。ただの気休めのことばにすぎないのです。たとえば、彼らは神を侮る者に対してさえ「主はあなたがたに平安があると告げられた」としきりに言っていました。また、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、「あなたがたにはわざわいが来ない」とか言っていました。神を侮る者に平安があるでしょうか。頑なな心のままに歩む者にわざわいは来ないのでしょうか。いいえ、主はそんなことをおっしゃっておられません。それは主の御口から出たことではなく、単に自分の心の幻を語っているにすぎませんでした。どうして彼らはこのようなことを語ったのでしょうか。聞こえがいいからです。聞く人に喜んでもらえるからです。聞く人が嫌がることは避けようとします。でも真の預言者は聞く人が喜ぶかどうかよりも、その人が主にある真の幸福を得るために滅びから救い出すメッセージを語るのです。でも、偽りの預言者たちはそうではありません。彼らは主の御口から出たことではなく、自分の心の幻を語るのです。自分の心に浮かんだことやアイディアですね。そういうことを語るのです。
皆さんは聞いたことがありますか。「預言カフェ」というのを。よくマスコミでも取り上げられています。この預言カフェに行くと預言してもらえるのです。私たちから見たらただの占いにすぎませんが、それが正当なプロテスタントの教会のブランチでやっているので、しかもそこには牧師もいるので、神からの導きを受けることができると、みんな安心して出かけて行くのです。あなたは今、どうしたらいいか判断に迷っていませんか。だったら個人預言をしてやりますから予約してください。費用は一切かかりません。但し、席上献金があります。預言をしてもらって感謝したいなら、感謝のいけにえとして献金してくださいというのです。
いったいそれが神からのことばであるかどうかをどうやって判断することができるのでしょうか。それは聖書によってです。それが主の御口によって語られたことばであるかどうかは、神のことばである聖書によって吟味されなければなりません。それが聖書のことばと一致していなければ、それは単なるひとりごとか、その人の心に宿ったただの思い付きにすぎません。いずれにせよ、それが本当に神から出たものなのかどうかは、聖書に照らし合わせて吟味しなければならないのです。それが私たちクリスチャンに与えられた役割であり、責任です。鵜呑みにしてはいけません。
こうした預言には、大きく分けて三つの要素があります。それは神から来たものなのか、それとも人から来たものか、あるいは、自分の思いでしゃべっているのに、あたかもそれが神からきたかのように錯覚して大胆に語っているかの三つです。Ⅰヨハネ4章1節にこう勧められています。「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」
霊だからと言ってすべて信じてはいけません。その霊が神からのものであるかどうかを吟味しなければなりません。にせ預言者がたくさん世に出て来ているからです。
また、Ⅰテサロニケ5章20~21節にもこうあります。「預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。」
皆さん、預言を軽んじてはいけません。預言とは、神のことばを預かることです。ですから、とても重いことです。ただし、すべてを吟味しなければなりません。すべてを吟味して、良いものを見分けて、本当に良いものをしっかり保たなければなりません。堅く守らなければならないのです。ちゃんと検証するように、ちゃんと吟味するようにということです。もしそれが本当に神からきているものであるならば、必ず神のことばと一致しているはずです。神のことばである聖書は聖霊によって書かれてあるので、それが神の霊、聖霊から来ているならば、必ず聖書の裏付けがあるからです。それは聖書のここに書いてあるから神から来た預言だと証明することができるのです。でも聖書に書いていなければ、あるいは、聖書に書いてあることに反しているならば、それは神からきたものだということはできません。それは偽りの預言です。
いずれにせよ、それがどこからきているのかをしっかり吟味しなければなりません。そしてその際の基準になるのが神のことばです。もしそれが神から出たことであるならば、絶対に聖書に反することはありません。聖書に矛盾するようなことは聖霊は絶対にしないからです。みことばと聖霊は切っても切り離せない関係があります。だからパウロはこう言ったのです。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3:16)
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。実に聖霊に満たされるとはみことばに満たされることです。みことばに満たされたら聖霊に満たされます。そうすれば知恵を尽くして互いに教え、戒め、詩と賛美の歌をもって、感謝をもって心から神に向かって歌うことができます。あなたは空しい希望を抱かせられることはありません。空しいものに振り回されることはないのです。
Ⅲ.主との親しい交わりに加わる(18-22)
ですから、第三のことは、主との交わりを大切にしましょう、ということです。18~22節をご覧ください。「18 しかし、だれが、【主】との親しい交わりに加わり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。19 見よ。【主】のつむじ風が憤りとなって出て行く。荒れ狂う暴風が悪者の頭上で荒れ狂う。20 【主】の怒りは、その心の御思いを行って成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟る。21 「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続ける。わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。22 わたしとの親しい交わりに加わっていたなら、彼らは、わたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪い生き方から、その悪しき行いから立ち返らせたであろうに。」
18節に、「だれが、主との親しい交わりに加わり」とありますが、新改訳第3版、並びに口語訳、新共同訳では「主の会議」と訳しています。「だれが、主との会議に連なり、主のことばを見聞きしたか」ということです。にせ預言者たちの問題はここにありました。この主との親しい交わりに加わっていなかったことです。そこで、主のことばを見聞きしませんでした。
皆さん、天でも会議があるのを知っていましたか。それは王である神が玉座に着いて、その左右に天の万軍が集まっている会議です。たとえば、Ⅰ列王記22:19~23にその様子が描かれています。そこにはイスラエルの王アハブが約四百人の預言者を集めて、ラモテ・ギルアデに上って行くべきかどうかを尋ねるのですが、イスラエルの預言者たちは皆アハブ王の顔色を見て彼が喜ぶことしか告げなかったので、おかしいと思った南ユダの王ヨシャファテは、「ここには、われわれのみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか」と言うと、ミカヤという預言者が連れて来られました。でもアハブ王は彼があまりすぎではありませんでした。というのは、彼はアハブについて良いことは預言しないで、いつも悪いことばかり預言していたからです。いわゆる、目の上のたんこぶみたいな存在だったわけです。でも、まあそう言わないでミカヤの言うことも聞いてみましょうと、彼の見た幻を聞くと、彼はこの天上での会議で見聞きしたことを告げるのです。それは、悪霊が偽預言者を用いてアハブを惑わすというものでした。この時預言者ミカヤは天上で行われていたこの会議に参加していたので、そこで主が語られることを見聞きしたのです。
でも、エレミヤの時代の預言者たちはこの会議に参加していなかったので、主のことばを見聞きしていませんでした。だから、彼らは主が語っておられることがどういうことなのかを知らなかったのです。
22節をご覧ください。もしこの主との親しい交わりに加わっていたなら、彼らは、主の民に主のことばを聞かせ、民をその悪い生き方から、その悪しき行いから、立ち返らせることができたでしょう。でも、そうでなかったので、彼らは預言者としての役割を果たすことができませんでした。
皆さん、これが最も大切なことです。もし私たちも主との親しい交わりに加わっていなかったら、主のことばではなく自分のことば、自分の心の幻を語ってしまうことになります。イエス様は朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられました(マルコ1:35)。なぜでしょうか。この会議に加わるためです。父なる神と親しい交わりを持つためです。
詩篇143篇8節にはこうあります。「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」
この詩篇の作者は、「私はあなたに信頼して祈っていますから」と言っています。彼は、神と交わり、神に期待して祈っていたのです。また、「行くべき道を示してください」と言っています。自分の道、自分の思いではなく、神に信頼し、神の道が示されることを求めて祈りました。このような人に神のみこころが示されないわけがありません。神との親しい交わりに加わり、その中で神のことばを聞き、神に信頼して祈るなら、確かに神はご自身のみこころを示してくださるのです。
すべてのクリスチャンに、福音を伝えるという責任が与えられています。そのために最も重要なことは何かというと、どのように福音を伝えるかということではなく、この主との親しい交わりに加わるということです。そこでみことばに耳を傾け、御霊の声を聞くことを学ぶことです。どんなに不評を買っても、神のことばを真っ直ぐに伝えなければなりません。
パウロは、若き伝道者テモテにこう書き送りました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。」(Ⅱテモテ4:2-5)
世の終わりが近くなると、人々は健全な教えに耳を傾けなくなったり、自分に都合がいいようなことばを聞こうと、自分の好みにしたがって教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くようになります。けれどもそれに屈してはいけません。みことばを宣べ伝えなければなりません。時が良くても悪くてもしっかりやりなさいと、パウロはテモテに命じたのです。そのためには、私たちがいつも主の会議に連なること、主との親しい交わりに加わり、主との親しい交わりの中で、主のことばを聞かなければなりません。
最近、アメリカのカリフォルニア沿岸のモントレーという浜に、ペリカンの天国があったという話を読みました。漁師たちは網にかかった小さな魚をその浜に捨てていたので、それがペリカンのえさになり、大量のペリカンが集まっていたのです。そこにいたペリカンたちは、何の苦労もなくえさが食べられるので、魚を捕まえる方法を徐々に忘れていきました。しかし、いつからか漁師たちが捨てた小さな魚が商業用に利用されるようになると、えさにしていた魚がなくなってしまいました。しかし、ペリカンたちは相変わらず、捨てられた魚を求めて浜をさまよいました。時間が経つと、ペリカンは1羽、2羽と死に始めました。そこで漁師たちはペリカンたちを助けるために、別の場所にいる自らえさを探すことができるペリカンを連れて来て、放しました。新しくやってきたペリカンは、海に放たれると上手にえさを取り始めました。この姿を見たモントレーのペリカンも必死に飛び回って、えさを取り始めたのです。
このペリカンの話は、誰かが投げてくれたえさに慣れてしまい、自らたましいの糧を求めようとしない、今日の私たちの姿を物語っています。キリスト教は、みことばの宗教、聖書の宗教であるともいえます。モントレーのペリカンのように、1週間に1度投げてもらえるみことばを食べることに満足していないか、自分自身を振り返ってみなければなりません。
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。(コロサイ3:16)主との親しい交わりに加わる、これが真の預言かにせ預言かを吟味するために必要なことであり、真理のみことばをまっすぐに解き明かすために必要な鍵なのです。