今日は、Ⅱ列王記19章から学びます。
Ⅰ.ユダの王ヒゼキヤ(1-13)
1節の「これを聞くと」とは、18章に記されていたアッシリアの王セナケリブの使者であるラブ・シャケの脅しのことばです。それを聞いたヒゼキヤは、着ていた衣を引き裂き、粗布をまとって主の宮に入りました。これは深い悲しみと悔い改めを表しています。そして、宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに荒布を身にまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わしました。彼らはイザヤにこう言いました。「ヒゼキヤはこう言っております。『今日は、苦難と懲らしめと屈辱の日です。子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないからです。 おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのすべてのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリアの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、お聞きになったそのことばをとがめられます。あなたは、まだいる残りの者のために祈りの声をあげてください。」(3-4)
「子どもが生まれようとしているのに、それを生み出す力がない」のです。直訳では「子どもが産道に入ったのに、生み出す力がない」ということです。つまり、陣痛の激しい痛みが続いているのに、赤ちゃんが出てこないということです。このままでは死を待つしかありません。それが、ヒゼキヤが直面していた状態でした。ユダにはアッシリアをはね返すだけの力がありませんでした。でも、主はラブ・シャケが言い放った侮辱的なことばを聞かれ、それをとがめられるはずです。だから、まだいる残りの者のために祈りをささげてほしいというのです。「まだいる残りの者」とは、アッシリアの攻撃に耐えて今もエルサレムに残っている住民たちのことです。アッシリアはエルサレムの周辺を攻撃し、残すはエルサレムだけという状態になっていました。イザヤはエルサレムに住んでいたので、ヒゼキヤはそのイザヤに使いを送りとりなしの祈りを要請したのです。
それを聞いたイザヤは何と言ったでしょうか。6~7節をご覧ください。イザヤは彼らにこう言いました。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『主はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」
イザヤは、まずヒゼキヤが聞いたアッシリアの王の若い者たちが語った、あのことばを恐れるなと言われました。なぜなら、主がアッシリアの王のうちに霊を置くからです。彼はあるうわさを聞いて自分の国に引き揚げることになります。この「あるうわさ」とは、9節の「今、彼はあなたと戦うために出て来ている」との知らせのことではないかと思います。このうわさを聞いたセナケリブはエルサレムを慌ててエルサレムを降伏させるためにヒゼキヤを脅迫するようになるからです。結局、その夜、主の霊がアッシリアの陣営で18万5千人を打ち殺したので、彼は陣をたたんで自分の国に引き揚げることになります。そして、彼はそこで剣で倒れることになるのです。
ヒゼキヤが危機に直面したときに最初にしたことは、神殿に入って祈ることでした。彼は自らが祈っただけでなく、イザヤにもとりなしの祈りを要請しました。それは彼が神に信頼していたからです。それは私たちにも求められていることです。私たちが危機に直面したときに最初にすべきことは、主の前に出て祈ることです。なぜなら、義人の祈りが働くと大きな力があるからです。ヤコブ5章16節には、「ですから、あなたがたは癒されるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと、大きな力があるからです。」とありますが、義人の祈りが働くと大きな力があります。私たちは罪深い者ですが、そんな者でも主イエスを信じたことで罪が赦されました。主の前に義人とされたのです。ですから、私たちが互いに罪を言い表して祈るなら、神はその祈りに応えてくださるのです。
8~13節をご覧ください。「8 ラブ・シャケは退いて、リブナを攻めていたアッシリアの王と落ち合った。王がラキシュから移動したことを聞いていたからである。9 王は、クシュの王ティルハカについて、「今、彼はあなたと戦うために出て来ている」との知らせを聞くと、再び使者たちをヒゼキヤに遣わして言った。10 「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえが信頼するおまえの神にだまされてはいけない。エルサレムはアッシリアの王の手に渡されないと言っているが。11 おまえは、アッシリアの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを確かに聞いている。それでも、おまえだけは救い出されるというのか。12 私の先祖は、ゴザン、ハラン、レツェフ、またテラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救い出したか。13 ハマテの王、アルパデの王、セファルワイムの町の王、ヘナやイワの王はどこにいるか。』」。
ラブ・シャケは、エルサレムの城壁の外に宿営し、ヒゼキヤから降伏の言葉が届くのを待っていましたが、そうこうしているうちに、ラキシュに本営を置いていたアッシリアの王セナケリブがリブナに移動し、そこで戦っていることを聞き、エルサレムから退いてリブナに移動し、そこでセナケリブと落ち合いました。
アッシリアの王セナケリブは、クシュ(エチオピア)の王ティルハカが彼と戦うために出て来ているという知らせを聞くと、再び使者たちをヒゼキヤに遣わして降伏するように迫ります。7節の「今、わたしは彼のうちに霊を置く」と言われた主のことばが、成就し始めます。セナケリブが再び使者たちをヒゼキヤに遣わしたのは、その知らせを聞いて慌てたからです。ただちにエルサレムを降伏させるために、ヒゼキヤを脅迫したのです。
彼がヒゼキヤに伝えたことは、彼が信頼する神にだまされてはいけないということでした。彼は、何らかの方法でイザヤがヒゼキヤに語った言葉を聞いていたのでしょう。イザヤは、エルサレムはアッシリアの王の手に渡されないと言っているが、そんなことはない。アッシリアの王がすべての国々にしたこと、それらを絶滅させてことを聞いているが、それと同じようにエルサレムも滅びることになると。それらの国々の神々が彼らを救い出すことができなかったように、イスラエルの神もユダを救い出すことはできないと言ったのです。
アッシリアの王セナケリブの愚かさは、イスラエルの神を偶像と同列に置いたことでした。そうした偶像が彼らを救い出せなかったのは当然です。詩篇115篇4~8節にはこうあります。「4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。5 口があっても語れず、目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」(詩篇115:4-8)
でも、イスラエルの神、主はそのようなものではありません。主は、この天地を創られた創造主です。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむことも、眠ることもありません。主は、すべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られます。主はあなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られます。
セナケリブはそれを知りませんでした。一見すると、事態は悪化しているかのように見えるかもしれませんが、その時が来ると、主はご自身の御業を現わしてくださいます。その時と方法は主にゆだねなければなりません。主はご自身を待ち望む者に、大いなる御業を見せてくださるのです。
Ⅱ.ヒゼキヤの祈り(14-19)
それに対してヒゼキヤはどのように対応したでしょうか。14~19節をご覧ください。「15 ヒゼキヤは【主】の前で祈った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、【主】よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。16 【主】よ。御耳を傾けて聞いてください。【主】よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセンナケリブのことばを聞いてください。17 【主】よ。アッシリアの王たちが、国々とその国土を廃墟としたのは事実です。18 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。19 私たちの神、【主】よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、【主】よ、あなただけが神であることを知るでしょう。」」
ヒゼキヤは、アッシリアの王セナケリブの手紙を受け取ると、主の宮に上って行き、それを主の前に広げ、主の前で祈りました。彼が頼みとするのは、主だけでした。彼は、主のもとに自分の思い煩い、不安、恐れを持っていったのです。ピリピ4章6節には、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とありますが、私たちも思い煩い、不安、恐れがあるとき、それを主のもとにもっていかなければなりません。
ヒゼキヤはまず主に呼びかけてこう祈りました。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」(15)
「ケルビム」とは、至聖所に置かれた契約の箱の蓋の上に置かれた天使のことです。主はそこに臨在されると言われました。ですから、ヒゼキヤはケルビムの上に出しておられるイスラエルの神、主よ、と呼び掛けたのです。
そして彼は、「ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です」と告白しました。なぜなら、イスラエルの神は天地の造り主であり、地のすべての王国の神であられるからです。
そして彼は現状を訴えてこう祈りました。16~18節です。「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセンナケリブのことばを聞いてください。主よ。アッシリアの王たちが、国々とその国土を廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。」
ヒゼキヤはここでアッシリアの王セナケリブが諸国の国々とその国土を廃墟にしたことを認めています。しかしそれができたのは、それらは人の手によって造られた偶像にすぎないからです。だから彼らはこれを滅ぼすことができました。でも、イスラエルの神、主はそうではありません。イスラエルの神、主はそうした偶像とは違い、その人を造られた造り主であられます。
その上で彼は、19節でこう訴えるのです。「私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知るでしょう。」
これは解放を求める祈りです。と同時に、神の栄光が現わされることを願う祈りでもあります。
このように、ヒゼキヤは危機に直面したときそれを主のもとにもって行き、自分が信頼している神がどのようなお方なのかを認め、表現し、呼び掛け、自分が置かれている現状を訴えて、そこからの解放を求めて祈りました。もちろん、その目的は主の栄光が現わされることです。私たちも問題に直面したら、それを主のもとにもって行き、偉大な主の御名を呼び求め、自分の置かれた現状をありのままに申し上げ、そこからの解放を求めて祈らなければなりません。そのとき主は、天でその祈りを聞き答えてくださいます。主は耳を傾けて聞かれ、目を開いてご覧になり、私たちを問題から解放してくださるのです。
Ⅲ.祈りの答え(20-37)
ヒゼキヤが祈った祈りはどのように答えられたでしょうか。20~37節をご覧ください。まず31節までをお読みします。「20 アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人を送って言った。「イスラエルの神、【主】はこう言われる。『あなたがアッシリアの王センナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。』21 【主】が彼について語られたことばは、このとおりである。『処女である娘シオンはおまえを蔑み、おまえを嘲る。娘エルサレムはおまえのうしろで頭を振る。22 おまえはだれをそしり、だれをののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる者に対してだ。23 おまえは使者たちを通して、主をそしって言った。「多くの戦車を率いて、私は山々の頂に、レバノンの奥深くへ上って行った。そのそびえる杉の木と美しいもみの木を切り倒し、その果ての高地、木の茂った園にまで入って行った。24 私は井戸を掘って、他国の水を飲み、足の裏でエジプトのすべての川を干上がらせた」と。25 おまえは聞かなかったのか。遠い昔に、わたしがそれをなし、大昔に、わたしがそれを計画し、今、それを果たしたことを。それで、おまえは城壁のある町々を荒らして廃墟の石くれの山としたのだ。26 その住民は力失せ、打ちのめされて恥を見て、野の草や青菜、育つ前に干からびる屋根の草のようになった。27 おまえが座るのも、出て行くのも、おまえが入るのも、わたしはよく知っている。わたしに向かっていきり立つのも。28 おまえがわたしに向かっていきり立ち、おまえの安逸がわたしの耳に届いたので、わたしはおまえの鼻に鉤輪を、口にくつわをはめ、おまえを、もと来た道に引き戻す。』29 あなたへのしるしは、このとおりである。『今年は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、それから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。30 ユダの家の中の逃れの者、残された者は下に根を張り、上に実を結ぶ。31 エルサレムから残りの者が、シオンの山から、逃れの者が出て来るからである。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。』」
ヒゼキヤの祈りに対する応答は、イザヤを通して送られました。主は開口一番、「あなたがアッシリアの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。」と言われました。これは、ヒゼキヤにとってどれほど大きな励ましだったかと思います。
「処女である娘シオン」とは、エルサレムがまだ一度も敵に征服されたことがないことを示しています。この処女である娘シオンは、エルサレムを征服する前に撤退することを余儀なくされるアッシリアの王セナケリブの後ろ姿を見ながら、頭を振ってあざけるようになります。それは彼がそしり、ののしったのが、イスラエルの聖なる方に対してだからです。
彼はレバノンやエジプトに自分の力で勝利したと豪語していますが、それは主が大昔に計画し今それを果たしたのであって、そのことを彼が知らなかっただけのことです。主がそれを許されたので、セナケリブは城壁のある町々を荒らして廃墟の石くれの山としたのに、その主に向かっていきり立つとは、傲慢にもほどがあります。それで主は彼の鼻に鉤輪を、口にくつわをはめ、もとに道に引き戻すのです。
29~31節は、セゼキヤに対して語られた主のことばです。すばらしい約束がヒゼキヤに伝えられます。それは、「今年は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、それから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。」(29)ということです。
これは、アッシリアは撤退するが、ユダは生き延びるようになるというメッセージです。そのしるしは何でしょうか?そのしるしは、一年目は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べることができるということでした。エルサレムの周囲にある46もの城壁のある町々が滅ぼされ土地はかなり荒廃するため、すぐに収穫は望めません。最初は落ち穂から拾って食べ、二年目も同じです。しかし、三年目になると自分で蒔いた種から収穫できるようになります。最初はそれほど収穫を期待することはできませんが、徐々に回復していき、やがて安定した生活ができるようになるというのです。これが神の原則です。最初は何もありません。落ち穂から拾って食べなければなりません。しかし、徐々に実を結ぶようになるのです。
そのためには、下に根を張らなければなりません。30節には、「ユダの家の逃れの者、残された者は下に根を張り、上に実を結ぶ。」とあります。これは、ユダの町々はアッシリアによって滅ぼされますが、神は残りの民を残してくださり、この民によってユダを回復させ、やがて増え広がるようにしてくださるという約束です。それを支えているものは何でしょうか?根です。下にしっかりと根を張ってこそ、上に実を結ぶことができます。ですから、ここに「ユダの家の逃れの者、残された者は、下に根を張り、上に実を結ぶ」とあるのです。
1992年、箱根駅伝で優勝した山梨学院大の上田監督は、「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ」と言いました。私もこの言葉が好きです。山梨学院大学は創部6年目に箱根駅伝に出場すると、15位から11位、7位、4位、2位と順位を上げて行き、そしてこの年優勝にまで上り詰めることができました。その背後には、どれほどの練習と、実としては現れない下積みの期間があったことかと思います。確かに、やればすぐに成果が現れるというわけではありませんが、上に実が結ばない時でも、黙って手をこまねいているのではなく、見えない大地の下深くに、下へ下へと根を伸ばせというのです。根を張らずして実はなりません。実は目に見えますが、根は外から見えません。ややもすると、私たちはたちどころに成果が現れるものを求めがちですが、大地にしっかりと根を張るというプロセスなしには実は結ぶことはできません。下に根を張ってこそ上に実を結ぶことができるのです。あなたにとって今成すべきことは何でしょうか?私たちにとってしなければならないことは下に根を張ることです。そうすれば、上に実を結ばせてくださいます。
31節には、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」とあります。どういうことでしょうか。このようなイスラエルの回復は一方的な主の恵みによるということです。あなたの熱心ではありません。あなたの努力によるのでもありません。あなたがあれをしたから、これをしたからでもないのです。それはただ神の恵みによるのです。万軍の主の熱心によります。ですから、私たちはただこの神の約束を信じて、忍耐しつつ、へりくだって、忠実に主の御業に励まなければなりません。下に根を張っていかなければならないのです。そうすれば、やがて時が来て、実を結ばせていただける。回復させていただくことができるのです。
最後に、32~37節をご覧ください。「32 それゆえ、アッシリアの王について、【主】はこう言われる。『彼はこの都に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。33 彼は、もと来た道を引き返し、この都には入らない──【主】のことば──。34 わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」35 その夜、【主】の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた。36 アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り、帰ってニネベに住んだ。37 彼が自分の神ニスロクの神殿で拝んでいたとき、その息子たち、アデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺した。彼らはアララテの地へ逃れ、彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。」
アッシリアの王セナケリブについての預言です。セナケリブはエルサレムに侵入することも、矢を放つこともありません。これ(エルサレム)に盾をもって迫ることがなければ、塁を築いてこれを攻めることもありません。彼は、もと来た道を引き返し、神の都エルサレムに入ることはないのです。それは主がこの都を守って、これを救うからです。それは主ご自身の栄光のためであり、ダビデに与えた約束のゆえでもあります。
すると、それがその通り実現します。その夜、主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺しました。それでアッシリアの王セナケリブは陣をたたんで去り、返ってアッシリアの首都ニネベに住んだのです。そして、彼が自分の神ニスロクの宮で礼拝していたとき、彼の二人の息子によって暗殺されてしまいました。皮肉なことに、セナケリブの神ニスロクは、彼を救うことができませんでした。主が言われた通りになりました。主が語られたことは必ず成就します。そのことを堅く信じて、忍耐して主の時を待ち望みたいと思います。