エレミヤ32章1~44節「アナトテの畑を買え」

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きょうは、少し長い箇所となりますが、エレミヤ書32章全体から学びたいと思います。タイトルは「アナトテの畑を買え」というタイトルでお話します。「アナトテ」とはエレミヤの出身地で、ベニヤミン領内にあった村です。主はあるときエレミヤに、このアナトテにある畑を買うようにと告げられました。当時アナトテはバビロンによって包囲され陥落寸前になっていました。そんなところを買っても二束三文です。それなのに主はどうしてアナトテにある畑を買うようにと告げられたのでしょうか。

Ⅰ.アナトテにある畑を買え(1-9)

まず1~9節をご覧ください。5節までをお読みします。「1 ユダの王ゼデキヤの第十年、ネブカドネツァルの第十八年に、【主】からエレミヤにあったことば。2 そのとき、バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中であって、預言者エレミヤは、ユダの王の宮殿にある監視の庭に監禁されていた。3 ユダの王ゼデキヤは、エレミヤを監禁するとき、次のように尋ねたのだった。「なぜ、あなたはこのように預言して言うのか。『【主】はこう言われる。見よ。わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。そして彼はこれを攻め取る。4 ユダの王ゼデキヤは、カルデア人の手から逃れることはできない。ゼデキヤは必ずバビロンの王の手に渡され、口と口で彼と語り、目と目で彼を見る。5 彼はゼデキヤをバビロンへ連れて行く。そしてゼデキヤは、わたしが彼を顧みるときまでそこにいる──【主】のことば──。あなたがたはカルデア人と戦っても、勝つことはできない。』」」

ユダの王ゼデキヤの第十年とは、B.C.587年のことです。ゼデキヤとは、南ユダ王国最後の王です。そのゼデキヤの第十年に、主からエレミヤに次のようなことばがありました。それは具体的には3~5節にありますが、主はエルサレムをバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡すということ、そしてこれを攻め取るようになるということです。ゼデキヤはカルデア人の手から逃れることはできません。その結果、主はこの都エルサレムをバビロンの王の手に渡すことになるのです。これはゼデキヤにとって受け入れ難いことばでした。というのも、この出来事のちょうど1年くらい前に、ゼデキヤはエジプトの援助を受けて一時的にバビロン軍に反撃していたからです。もしかするとバビロンに勝つかもしれないという気運が高まる中、彼らに勝つことはできないとか、エルサレムはバビロンの王の手に渡されることになるとか言うのを聞いて受け入れられなかったのでしょう。それでゼデキヤはカンカンになって怒り、エレミヤを宮殿の監視の庭に監禁してしまいました。どんなに辛かったことでしょう。その期間約1年半です。何も悪いことなどしていないのに、むしろユダの将来を考えを思って語ったことなのに、監禁されるなんてあんまりです。しかしそれは南ユダにとっては希望につながるメッセージでした。

6~15節をご覧ください。「6 エレミヤは言った。「私に、このような【主】のことばがあった。7 『見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、「アナトテにある畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから」と言う。』8 すると、【主】のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、これが【主】のことばであると知った。9 そこで私は、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った。10 私は証書に署名して封印し、証人を立てて、秤で銀を量った。11 そして、命令と規則にしたがって、封印された購入証書と封印のない証書を取り、12 おじの子ハナムエルと、購入証書に署名した証人たちと、監視の庭に座しているすべてのユダの人々の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し、13 彼らの前でバルクに命じた。14 『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。15 なぜなら──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』

ちょうどその時、主からエレミヤに主のことばがありました。それは、おじのシャルムの子のハナムエルが

彼のところにやって来て、「アナトテにある畑を買ってほしい」と願い出て来るので、それを受け入れてほしいということでした。すると主のことばのとおり、ハナムエルがやって来て、アナトテの畑を買ってほしいと言いました。でもそれはナンセンスなこと、全く考えられないことでした。アナトテはエルサレムの郊外にあるベニヤミン領内にあるエレミヤの出身地でしたが、バビロンからの攻撃を受け崩壊寸前になっていたからです。そんな二束三文の土地を買う人などどこにいるでしょう。いないでしょう。全く無意味なことですから。しかし、エレミヤは主のことばに従って、その畑を買うことにしました。

9節を見ると、その値は銀17シェケルであったことがわかります。高かったのか、安かったのかはわかりません。ただバビロンに囲まれていたので、土地は暴落していたものと思います。でもエレミヤがアナトテの畑を買ったのは土地の値段が安かったからではありません。このことを通してユダの民に神からの希望のメッセージを告げようと思ったからです。確かにイスラエルはバビロンによって滅ぼされてしまうことになります。でもそれで終わりではありません。バビロンによって滅ぼされますが、主はそこから彼らを解放し、再びイスラエルの地に戻って来るようになります。エルサレムはバビロンによって滅ぼされますが、必ず回復する時がやってくるのです。それは目に見える現実とは正反対のように見えるかもしれませんが、たとえそれが非現実的なようなことでも、神にとって不可能なことは一つもありません。神は約束されことを必ず実現してくださいます。主は必ずイスラエルをご自身の土地に戻してくださいます。エレミヤがアナトテの畑を買うようにと言われたのは、それが必ず実現することを彼らに示すための一つのデモンストレーションだったのです。

今、この時代に求められているのはこういう目を持った人たちではないでしょうか。現実を見ればそこには何の希望もないかのようにしか見えるかもしれません。しかし、信仰の目をもって見るなら、そこには希望が溢れています。イエス様が死んだラザロをよみがえらせたとき、信じるなら神の栄光を見るようになると言われましたが、まさに信じるなら神の栄光を見るようになるのです。

そこで彼は、主のことばのとおり、おじのハナムエルが彼のところにやって来たとき、助手であり書記であったバルクに命じて証拠の書類を2つ作らせました。一つには封印をしたもので、もう一つには封印をしていませんでした。これは当時の習慣で、封印をした方は正式な証書で、封印をしていない方は契約の内容を確認したり、書き写したりできるようにするためでした。エレミヤがこの時購入したアナトテの畑の価格は、銀17シェケルでした。イエス様は銀30シェケルで売られているので、土地はかなり大暴落していたと思われます。しかしたとえそれがいくらであったとしても、重要なのは皆にとって価値がないと思われたそのアナトテの畑のために、皆の前で正式に代価を払って土地を買い取ったということです。どうしてそんなことをしたのでしょうか。14~15節をご覧ください。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。』15 なぜなら──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』

主はこれを土の器の中に入れ、長い間、保存せよと言われました。なぜでしょうか。なぜなら、今、ここで取り交わした契約は、いつか必ずそのようになるからです。つまり、再びこの地で、家や、畑やぶどう畑が買われるようになるということです。彼らはその証人であったわけです。つまり、これは敵に奪われたこのアナトテの地が、再びイスラエルに戻ってくるという神からの回復のメッセージだったのです。

時として人はこんなことをしていったいどんな意味があると、全く無意味なことではないかと思うことがあります。エレミヤが取った行動は、まさにそのようなことでした。しかし、実際には、エレミヤが取った行動こそ実際的で現実的なものであり、将来と希望を与えるものでした。というのは、彼がとった行動こそ、神が願っておられたことだからです。人は皆誰かの役に立ちたいと願っています。だからこそ一生懸命に努力して資格試験を取ったり、親であれば子供にいろいろな習い事をさせたりするわけですが、それは全く本当に人の役に立つかというと、そうではありません。というのは、というのは、それは助けを必要としていている人のためにというよりも、自分がやりたいこと、自分が単にそう思っているだけのことにすぎないからです。でも本当に人の役に立ちたいと願うなら、自分の思いや考えを超えた神の考えを聞かなければなりません。

このエレミヤの生き方を見ると、それは確かに価値がないかのように見えたかもしれませんが、実はそれこそが神がエレミヤに、いや私たちに求めている生き方だったのではないでしょうか。つまり、この世の現実に流されないいで、神のみこころは何なのか、何が良いことで神に喜ばれ、完全であるのかをわきまえ知るために心を一新するということです。

これが「信仰」ということだと思うんです。15節には、「なぜなら、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。再びこの地で、家や畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。」とあります。」よく信仰というと心の問題だと考えがちですが、実はそうじゃないんですね。信仰とは家が建つことであったり、実りが与えられることであったり、社会が安定すること、そういうことと深くつながっているのです。そうしたことはひとりひとりの考え方から生まれて来るからです。ですから、私たちがどのような考え方や価値観を持っているのかということは、非常に重要なことなのです。それが家とか、畑とか、ぶどう畑といったことに現れてくるからです。エレミヤが行ったことは、まさにこうした神の祝福が、神の回復が、再びもたらされることになるという神の現実を伝えることだったのです。

それにしても、今エルサレムの町はバビロンに包囲されていて、まさに滅ぼされようとしていました。そういう時に彼は神に示されてアナトテの畑を買ったのです。なかなかできることではありません。現実的にはもうエルサレムは滅びかけていたからです。そういう現実の中でも彼は土地を買い戻し、回復を語りました。神の現実に生きるとはこういうことなのではないでしょうか。ただ頭だけで考えるということではなく、神の約束のことばを信じてそれにかけるというか、そこに生きることなのです。

Ⅱ.エレミヤの祈り(16-25)

次に、16~25節をご覧ください。「16 私は、購入証書をネリヤの子バルクに渡した後、【主】に祈った。17 『ああ、【神】、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。18 あなたは、恵みを千代にまで施し、父たちの咎をその後の子らの懐に報いる方、大いなる力強い神、その名は万軍の【主】。19 そのご計画は大きく、みわざには力があります。御目は人の子らのすべての行いに開いていて、それぞれにその生き方にしたがい、行いの結ぶ実にしたがって報いをされます。20 あなたはエジプトの地で、また今日までイスラエルと人々の間で、しるしと不思議を行い、ご自分の名を今日のようにされました。21 あなたはまた、しるしと不思議と、力強い御手と伸ばされた御腕と、大いなる恐れをもって、御民イスラエルをエジプトの地から導き出し、22 あなたが彼らの父祖たちに与えると誓ったこの地、乳と蜜の流れる地を彼らに与えられました。23 彼らはそこに行って、それを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法に歩まず、あなたが彼らにせよと命じたことを何一つ行わなかったので、あなたは彼らを、このすべてのわざわいにあわせられました。24 ご覧ください。この都を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この都は、剣と飢饉と疫病のために、攻めているカルデア人の手に渡されようとしています。あなたのお告げになったことは成就しました。ご覧のとおりです。25 【神】、主よ。この都がカルデア人の手に渡されようとしているのに、あなたは私に、金を払ってあの畑を買い、証人を立てよ、と言われます。』」

さて、土地の契約を済ませたエレミヤは何をしましたか。16節と17節をご覧ください。彼は祈りました。まず神の偉大さをほめたたえました。彼はここで、「『ああ、【神】、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。」と祈っています。エレミヤは主はどのようなお方なのかを確認しています。すなわち、主は大いなる力と延ばされた御腕をもって天地を造られた創造主であられる方であるということです。この方にとって不可能なことは一つもありません。たとえ人間的に見て、イスラエルがバビロンから帰って来るということが全く不可能なことのようでも、神にとってできないことは一つもありません。

第二に、彼は神の偉大さを象徴するものとして、出エジプトを取り上げています。20節をご覧ください。「あなたはエジプトの地で、また今日までイスラエルと人々の間で、しるしと不思議を行い、ご自分の名を今日のようにされました。」主はどのようにイスラエルをエジプトから導き出されたのでしょうか。主はエジプトの地で、しるしと不思議と、力強い御手と伸ばされた御腕と、大いなる恐れをもって、御民イスラエルをエジプトの地から導き出されました。

だから何なんですか。だから、主にとって不可能なことは一つもありません、ということです。17節にあるとおりです。つまり、エレミヤはこの祈りの冒頭で、神様の二つの大いなる奇跡、すなわち、天地創造と出エジプトの奇跡を賛美することによって、神にとって不可能なことは一つもないと告白したのです。

皆さん、神にとって不可能なことは一つもありません。神はこの天地を創造された方、イスラエルをエジプトから救い出された方です。この方にとっておできにならないことは一つもないのです。新共同訳では、「あなたの御力が及ばないことは一つもありません」(17)と訳しています。この天地を創造され、あのエジプトからイスラエルを救い出された主の力が及ばないことは一つもないのです。すばらしいですね。私たちも心を合わせて主を賛美しましょう。「あなたの御力が及ばないことは一つもありません。」神によって不可能なこと、神にとってできないことは何もないと。そのことを、神様が創造された全世界と、エジプトから救われたイスラエルの救いの御業を通して、エレミヤは賛美したのです。

しかし彼は、そうした一方的な神の救いの御業を賛美しながら、エレミヤはもう一つの現実に直面するのです。それは、そうした神の救いと恵みとは裏腹に、神に背き続けるイスラエルの姿です。25節をご覧ください。「【神】、主よ。この都がカルデア人の手に渡されようとしているのに、あなたは私に、金を払ってあの畑を買い、証人を立てよ、と言われます。』」」

エレミヤは、神には不可能なことは一つもないということを信じていました。でも、神に背き続けるイスラエルのために、証人を立ててまでアナトテの畑を買わなければならないのかとい疑問です。当然と言えば当然でしょう。元はと言えばイスラエルの問題なんですから。彼らは滅ぼされて当然なのに、なぜ金を払ってあの畑を買い、証人を立てよと言われるのか、彼にはわかりませんでした。

その答えは次の26節からのところで説明されますが、エレミヤのすばらしかったのは、これを最初ではなく最後に申し上げた点です。私たちはとかく何か疑問があると最初にぶつけたがるものです。そして相手がどのような方かを無視して一方的に語りかけて終わってしまいますが、エレミヤはそうではありませんでした。主がどれほど偉大なお方であるのかを認めることから始まりました。つまり、礼拝することから始まりました。これは非常に大切なポイントです。何か問題が起こったらその問題について話す前に、神がどのようなお方なのかを確認して祈ることから始めなければなりません。そうすれば、問題が小さくなるでしょう。主がどのようなお方なのかを知ることが、すべての問題解決の鍵だからです。

Ⅲ.神のあわれみ(26-43)

最後に、このエレミヤの疑問に対する主の答えを見て終わりたいと思います。26~28節をご覧ください。「26 すると次のような【主】のことばがエレミヤにあった。27 「見よ。わたしはすべての肉なる者の神、【主】である。わたしにとって不可能なことが一つでもあろうか。28 それゆえ──【主】はこう言われる──見よ。わたしはこの都を、カルデア人の手と、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡す。彼はこれを攻め取る。」

エルサレムがカルデア人の手に渡されようとしているのに、どうして主は自分に、あのアナトテの畑を買うようにと言われるのか。なかなか納得できないでいたエレミヤに主はその理由を語られました。それが26節から終わりまでのことばです。

27節で主は、「見よ。わたしはすべての肉なる者の神、主である。私にとって不可能なことが一つでもあろうか。」と言われました。どういうことでしょうか。この時エレミヤは二つの現実と戦っていました。一つは、主の御声に聞き従わないイスラエルという現実であり、もう一つは、それにもかかわらず、神はそんなイスラエルをあわれんでおられるという現実です。ここでは、「神にとって不可能なことが一つでもあろうか」とあります。この神の現実を見てエレミヤは、神には何でもできるんだという圧倒的な救いの恵みに触れるのです。これが神の心です。神に従わないイスラエル、そのためには滅ぼされても致し方がないというさばきのはざまにありながらも、そういう現実の破れを前にして彼は祈ったのです。これが神の心なんです。神はこの町がバビロンに渡されようとしているのに、「銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ。」と言われました。なぜそこまでしなければならなかったのでしょうか。それは、神はイスラエルを愛しておられるからです。主は遠くからエレミヤに言われました。「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くしつつけた。」(31:3)主はイスラエルを愛したのです。それはどんなことがあっても切れるものではありません。主は永遠の愛をもって彼らを愛されたのです。同じように主は、永遠の愛をもってあなたを愛されました。ご自身のひとり子イエス・キリストを通してあなたを愛されたのです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを願っておられます。すべての人がこの神の恵みとあわれみによって神に立ち返ることを願っておられるのです。つまり、神はあなたをどこまでもあきらめていないということです。主はどんなことがあってもイスラエルを救われるのです。

であれば、私たちもあきらめるべきではありません。どんなに神のさばきが近づいても、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを願っておられるのですから、やがて神がイスラエルを回復してくださると信じてアナトテの畑を買って用意しておかなければないのです。それはこの世から見たら非現実であるかのように見えるかもしれません。けれども、神の現実と私たちの現実は違います。たとえこの世にあって現実的ではないようでも、神のみこころに焦点を合わせて生きる。これが私たち信仰者に求められていることなのです。

それは36~40節を見てもわかります。神様からの最後のことばはさばきのことばではありませんでした。これは希望と回復のことば、慰めと約束のことばです。でした。「36 それゆえ今、イスラエルの神、【主】は、あなたがたが、「剣と飢饉と疫病により、バビロンの王の手に渡される」と言っているこの都について、こう言われる。37 「見よ。わたしは、かつてわたしが怒りと憤りと激怒をもって彼らを散らしたすべての国々から、彼らを集めてこの場所に帰らせ、安らかに住まわせる。38 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。39 わたしは、彼らと彼らの後の子孫の幸せのために、わたしをいつも恐れるよう、彼らに一つの心と一つの道を与え、40 わたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするために、彼らと永遠の契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないように、わたしへの恐れを彼らの心に与える。」

ここに、エレミヤの疑問に対する主の答えが示されます。カルデヤ人が滅ぼそうとしているこの地で、再び畑が買われるようになるのは、人々が祖国に帰還し、そこが祝福された地、高価な地となるからです。回復されるのはエルサレムだけでなく、約束の地の全度です。ベニヤミンの地が真っ先にあげられていますが、エレミヤが買ったアナトテがそこにあったからです。

アナトテの畑を買うという行為は、将来起こる祝福の先駆けとなる象徴的な行為だったのです。それは他の人からみれば非現実的なことのようでしたが、神様はそんな彼らに大切な約束を示してくださいました。私たちも、私たちのことばや行いが、将来与えられようとしている祝福の先駆けとなるような人生を歩ませていただきたいと思うのです。