ネヘミヤ記2章

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 今回は、ネヘミヤ記2章から学びます。

 Ⅰ.ネヘミヤの要請、神の恵みの御手があったので(1-10)

まず、1~8をご覧ください。「2:1 アルタクセルクセス王の第二十年のニサンの月に、王の前にぶどう酒が出されたとき、私はぶどう酒を取り、王に差し上げた。それまで、私は王の前で気持ちが沈んでいたことはなかった。2:2 すると、王は私に言った。「病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように沈んだ顔をしているのか。きっと心に悲しみがあるに違いない。」私は非常に恐れて、2:3 王に言った。「王よ、永遠に生きられますように。私の先祖の墓がある都が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして沈んだ顔をしないでいられるでしょうか。」2:4 王は私に言った。「では、何を望んでいるのか。」私は天の神に祈ってから、

2:5 王に答えた。「もしも王が良しとされ、このしもべにご好意をいただけますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある都へ遣わして、それを再建させてください。」2:6 王は私に言った。王妃もそばに座っていた。「旅はどのくらいかかるのか。いつ戻って来るのか。」王はこれを良しとして、私を遣わしてくださることになり、私は予定を伝えた。2:7 また私は王にこう言った。「もしも王様がよろしければ、ユダに着くまで私が通行できるように、ユーフラテス川西方の総督たちへの手紙をいただけるでしょうか。2:8 そして、宮の城門の梁を置くため、また、あの都の城壁と私が入る家のために木材をもらえるように、王家の園の管理人アサフへの手紙もお願いします。」わが神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくださった。」

兄弟の一人ハナニからエルサレムのことを聞いたネヘミヤは、断食して天の神に祈りました。その結果、どんなことが起こったでしょうか。何も起こりませんでした。少なくてもすぐには何も変わったことは起こらなかったのです。しかし、その4か月後に事態が動きます。1節には、「アルタクセルクセス王の第二十年のニサンの月に」とありますが、これは1章1節にある「キスレウの月」から4か月後にあたります。この間ネヘミヤは、毎日祈っていたに違いありません。けれども、何も起こりませんでした。しかし、それから4か月後の、アルタクセルクセス王の第二十年のニサンの月に、王の前にぶどう酒が出されたとき、アルタクセルクセス王(アルタシャスタ王)は、何か異変を感じました。それは、ネヘミヤは王の献酌官でしたが、彼がぶどう酒を取り、王に差し上げた時、王の前で気持ちが沈んでいたのを見たからです。

それで王は彼に尋ねました。「どうしたのか」と。病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように沈んだ顔をしているのか。きっと心に悩みがあるに違いない。話してみよと。

それで彼は自分の胸の内を正直に王に言います。3節です。「王よ、永遠に生きられますように。私の先祖の墓がある都が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして沈んだ顔をしないでいられるでしょうか。」

ここで注目していただきたいことは、「私は非常に恐れて」ということばです。それを王に申し上げることは、ネヘミヤにとって非常に恐ろしいことでした。というのは、家臣が王の前で暗い表情を見せることは、許されることではなかったからです。それは王に対する不満と解釈されると、その地位を追われたり、死刑を宣告されたりしました。ですから、ネヘミヤは命がけで王に打ち明けようとしていたのです。彼が王に訴えたことは、祖国エルサレムの窮状でした。そこは70年も前に廃墟となり、門が火で焼き尽くされているというのに、黙ってなどいられません。どうして沈んだ顔をしないでいられるでしょう。ですから彼は非常な恐れがありましたが、それでもそのことを正直に王に申し上げたのです。

すると王は何と言いましたか。王はネヘミヤにこう言いました。「では、何を望んでいるのか。」ネヘミヤもネヘミヤでしたが、王も王でした。自分の前で沈んだ顔を見せ、祖国を思う気持ちはあるにせよそのように訴えるネヘミヤに対して、「では、何を望んでいるのか。」と冷静に答えることができたのは、王にそれだけの余裕が心にあったからか、ネヘミヤがそれほど王の信頼を得ていたからでしょう。なかなか言えることではありません。人の話を聞くことは簡単なようで実はその背後にこうした感情が伴っているので難しいからです。それは神がアルタクセルクセス王の思いを調節され、ネヘミヤの願いを聞き入れる状態にしてくださったからです。ついに、ネヘミヤが祈り求めていた機会がやって来ました。「では、何を望んでいるのか。」このような時、あなたなら何と言いますか?

ネヘミヤはまず天の神に祈ってから、王にこう言いました。5節です。「もしも王が良しとされ、このしもべにご好意をいただけますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある都へ遣わして、それを再建させてください。」

これがネヘミヤの返答、要求でした。これは4か月前に兄弟ハナニからエルサレムの窮状を聞いた時から、抱き続けてきた願い、祈りでした。そのためにはどうしてもアルタクセルクセス王の心が変えられなければなりませんでした。ですから彼は1:11で「子の人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように」と祈ったのです。「この人」とはアルタクセルクセス王のことです。王の心が変えられ、ネヘミヤの願いを受け入れることができるようにしてくださいと祈ってきたのです。彼は主の答えを4か月という長い間、忍耐をもって待ち続けたのです。それは長いようで短く、短いようで長い4か月でした。一か月経っても何も起こりませんでした。さらに一か月が過ぎても同じです。その上にまた別の月が迎えても事態は全く動きませんでした。しかし、彼は待ち続けました。神への信頼を崩すことなく、神が彼の仕える王の心を動かしてくださると信じて、ひたすら待ち続けたのです。そして今、その祈りは聞き入れられました。彼は自分の願いを王に知らせることができたのです。

かといってネヘミヤは彼の要求をすぐに王に訴えたりはしませんでした。彼はまず天の神に祈りました。どういうことですか?彼は祈りによって神の助けを求めただけでなく、自分が持っているすべてのものを捨てる覚悟と勇気を求めたのでしょう。というのは、そのようなことを王に申し上げることは許されることではなかったからです。

次に、彼は「もしも王が良しとされ、このしもべにご好意をいただけますなら」と言っています。王に敬意を表し、謙遜になって話しているのです。第三版では「王さま。もしもよろしくて、このしもべをいれてくださいますなら、」と訳しています。これはあくまでも王さまがお決めになることであって、自分はその王さまのあわれみを受ける身分でしかないですがと、へりくだって求めているのです。これも祈りの結果、神からの知恵であったと言えるでしょう。

そして彼は本題に入ります。「私をユダの地、私の先祖の墓のある都へ遣わして、それを再建させてください。」と。彼は自分の願いを王に知らせることができたのです。

それに対して、王は何と言いましたか。6節です。「王は私に言った。王妃もそばに座っていた。「旅はどのくらいかかるのか。いつ戻って来るのか。」王はこれを良しとして、私を遣わしてくださることになり、私は予定を伝えた。」

王妃がそばにいたのは、それが私的な食卓だったからです。正式な食卓なら、王妃はそこにはいません。それも神の計らいだったと言えるでしょう。王妃がそばにいることで、王も硬くならずにリラックスして聞くことができたからです。

それで王は、旅の期間を問いました。つまり、ネヘミヤをエルサレムに送り出す用意があるということです。ネヘミヤは即座に予定を伝えました。ここは新改訳2017の訳は少しわかりずらいです。第三版には、「私が王にその期間を申し出ると、王は快く私を送り出してくれた。」とあります。こちらの方がわかりやすいですね。王の質問に対してネヘミヤがその期間を申し出たので、王は快く送り出してくれたのです。ネヘミヤはなぜすぐに伝えることができたのでしょうか。そのために4か月の間ずっと祈っていたからです。祈りながら計画を練っていたからです。よく「何の計画もない。信仰によって進むだけだ。神様が私たちを導いてくださるのだから。」ということを聞くことがありますが、信仰とはそういうものではありません。信仰があることは、管理能力の欠如を意味することではないのです。箴言16:9には、こう書いてあります。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。」

信仰によって出かけるとは、勝手気まま、ないし計画のないまま出て行くことではないのです。企画を十分に検討し、財政面での費用を計算するなど、慎重に計画を立てた上で、主が成してくださることを期待して進めていくのです。

さらにネヘミヤは王に願います。「7 また私は王にこう言った。「もしも王様がよろしければ、ユダに着くまで私が通行できるように、ユーフラテス川西方の総督たちへの手紙をいただけるでしょうか。8 そして、宮の城門の梁を置くため、また、あの都の城壁と私が入る家のために木材をもらえるように、王家の園の管理人アサフへの手紙もお願いします。」わが神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくださった。」

ここでもまた彼は言っています。「もしも王様がよろしければ、」。私はこのような丁重な出だしが好きです。もしも王様がよろしければ、ユダに到着するまでネヘミヤが通行できるように、ユーフラテス川西方の総督たちに手紙を書いていただけないかと願い出たのです。これはユーフラテス川の西側の地を安全に旅するための策です。さらに、門と城壁を再建するために必要な大量の材木をもらえるように、森を管理していたアサフにも手紙を書いてくれるようにお願いしました。これはどういうことかというと、実際的な必要を求めたということです。それは彼が具体的に祈っていたからこそ出た求めでした。ネヘミヤは待っていた4か月の間、計画を練っていたのです。

すると、アルタクセルクセス王はそれをかなえてくれました。なぜ王はそれをかなえてくれたのでしょうか。そこに神の恵みの御手があったからです。ネヘミヤは自分でも努力したのですが、王がそれをかなえてくれたのは神の恵みのゆえであると告白しているのです。何か月というもの密室の祈りの中で、ネヘミヤはあきらめることなく神の御座を激しく攻め続けました。「主よ、エルサレムに送ってください。王の心を変え、あわれみを受けさせてください。私がエルサレムに行けるようにしてください。信号を青にしてください!」このように祈り続けていた彼は、潮の流れが急に変わった理由について少しも疑わなかったのです。それは主が働いてくださったからだと。このようなことがよくあります。人間的には考えられないことが動くことがあるのです。そこに主の恵みの御手が働いていることが見えることがある。ネヘミヤはこの時のことを、まさに主の恵みの御手が私の上にあると実感し、興奮しながらそれを伝えたかったのです。

それで彼はエルサレムに向けて出発しました。9~10節をご覧ください。「2:9 それで私はユーフラテス川西方の総督たちのところに行き、王の手紙を彼らに手渡した。王は、軍の高官たちと騎兵たちを私とともに送り出してくださった。2:10 ホロン人サンバラテと、アンモン人でその部下のトビヤは、これを聞いて非常に不機嫌になった。イスラエル人の益を求める者がやって来たからである。」

ネヘミヤはユーフラテス川西方の総督たちのところへ行き、王の手紙を彼らに手渡ししました。予期していた通り、総督たちがそこにいました。そこでネヘミヤは王の手紙を手渡します。このところを見ると、王はネヘミヤに手紙を持たせただけでなく、それ以上のことをしてくれたことがわかります。何と軍の高官たちと騎兵たちをもネヘミヤとともに送り出してくれたのです。これ以上安全な旅はありません。こうした王の行き届いた配慮が与えられたのは、王の心が主の御手に握られていたからです。神は人の心を望み通りに変えられるのです。

ところが、彼らがエルサレムに近づくと、ホロン人サヌバラテと、アンモン人でその部下のトビヤは、これを聞いて非常に不機嫌になりました。イスラエル人の益を求める者がやって来たからです。「ホロン人」とは、エルサレムの北東約25キロに位置するホロンという町の出身の人のことです。「サヌバラテ」は、サマリヤの総督だったようです。彼がどの程度ユダとエルサレムに対する統治権を持っていたかはわかりませんが、政治的野望のゆえに、ネヘミヤたちの帰還を快く思わなかったのです。アンモン人のトビヤは、アンモン人とあるので、異邦人です。おそらく、アンモンの総督だったのではないかと考えられます。彼もまた、ユダとエルサレムに対する影響力を強めたいと願っていたので、ネヘミヤたちの話を聞いて不機嫌になったのです。

ネヘミヤは早くも反対する勢力に遭いました。Ⅱテモテ3:12には、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。神のみこころに歩もうとするとき、それを妨害しようとする人たちはどこにでもいます。それはある意味で、信仰が試される時でもあります。ネヘミヤは、いかなる妨害をも乗り越える強い意志を持っていました。それは、使命感から出ているものでした。それはエルサレムを建て直すと言う使命です。それが神のみこころであるとの強い確信に満たされていたのです。あなたには、そのような使命感と強い確信があるでしょうか。私たちも神様からその使命感をいただき、いかなる妨害をも乗り越える強い意志と信仰を持って前進していきたいと思います。

Ⅱ. 城壁の調査、現状を認識する(11-16)

エルサレムに到着したネヘミヤは何をしたでしょうか。11~16節をご覧ください。「2:11 こうして私はエルサレムに着いて、そこに三日間とどまった。2:12 ある夜、私は起きて出て行った。ほかに数人の者も一緒であった。しかし私は、私の神がエルサレムのためにさせようと私の心に示しておられることを、だれにも告げなかった。また私自身が乗った動物のほかに、動物はいなかった。2:13 私は夜、谷の門を通って竜の泉の方、糞の門のところに出て行き、エルサレムの城壁を調べた。それは崩され、その門は火で焼き尽くされていた。2:14 さらに、泉の門と王の池の方へ進んで行ったが、私が乗っていた動物の通れる場所がなかった。2:15 夜のうちに流れを上って行って、城壁を調べた。そしてまた引き返し、谷の門を通って戻った。2:16 代表者たちは、私がどこへ行っていたか、また私が何をしていたかを知らなかった。ユダヤ人にも、祭司たちにも、有力者たちにも、代表者たちにも、そのほか工事をする者たちにも、その時まで私は何も告げていなかった。」

ネヘミヤはエルサレムに着くと、そこに三日間とどまりました。どうしてでしょうか。なぜ彼はすぐに仕事にとりかからなかったのでしょうか。確かに長旅の疲れを取るために、しばしの休息が必要だったでしょう。しかしそればかりでなくネヘミヤは、神の前に祈り、神の導きを求めたのです。いわゆる静思の時を持ったのです。そして、神のみこころを行うために、今後の計画を練ったのです。そして三日の時が過ぎた時、ある夜、彼は起きて出て行きました。月明かりの中で城壁を調査するためです。そこには数人の者もいましたが、神がエルサレムのために自分の心に示しておられることは、だれにも告げませんでした。つまり彼は初め、だれにも相談しないで、主との交わりの中で方向性を定めていったということです。人と相談したのはその後です。

ネヘミヤは夜、谷の門を通って竜の泉のほう、糞の門のところに出て行き、エルサレムの城壁を調べると、それはくずされ、その門は火で焼け尽きていました。「谷の門」は、町の南西にあった門と考えられています。そこから最南端の糞の門に出て行くと、その途中の門は崩され、火で焼き尽くされていました。そこからさらに、泉の門と王の池の方へ進んで行きましたが、自分が乗っていた動物が通れる場所がありませんでした。そこで彼は城壁を離れ、流れを上って行って、城壁を調べました。それから引き返して、谷の門を通って戻ったのです。彼は自分の計画を誰にも告げていなかったので、代表者たちは、彼がどこへ行ったのか、また何をしているのかを知りませんでした。

このネヘミヤの一連の行動を通して、何か物事を成し遂げるために必要ないくつかの流れを学ぶことができます。まずは、祈りと静思の時です。神が自分に成し遂げたいと願っておられることは何なのかを、静まり、祈りながら、主を待ち望むのです。それが最優先です。次に、現状認識です。夜間の調査はそのためのものです。彼はそのことをだれにも告げずに、現状がどうなっているのかを調べたのです。彼は二度にわたって破損状況を調べたと語っています。13節と15節です。この「調べる」という語は、原語では「何か特に注意深く見つめる」という意味があります。これは、傷の程度がどれほどかを入念にチェックするという医学用語です。それを基にネヘミヤは綿密な計画を立てたのです。それまでは軽々しく計画を口にしていません。不要な混乱や妨害を避けるためです。一人でいたこの沈黙の時間に、彼は途方もなく大きな事業の下地を築いていたのです。

Ⅲ.さあ、再建に取りかかろう、天の神ご自身が成功させてくださる(17-20)

黙々と再建工事の計画を立てたネヘミヤは、それをどのように実行に移したのでしょうか。17~18節をご覧ください。「2:17 私は彼らに言った。「私たちが直面している困難は見てのとおりだ。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままだ。さあ、エルサレムの城壁を築き直し、もうこれ以上、屈辱を受けないようにしよう。」2:18 そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また王が言ったことばを彼らに告げた。すると彼らは「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。」

17節の「彼ら」とは、ユダヤ人、祭司たち、おもだった人たち、代表者たちのことです。ネヘミヤは密かに城壁の状態を調べ、綿密な再建計画を練ると、それを彼らに公表し、工事に着手するように勧めました。彼はまず、直面している困難を隠そうとはしませんでした。現状をそのまま伝えただけです。「エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままだ」と。だから、これ以上、屈辱を受けないように、エルサレムの城壁を築き直そうと言ったのです。それだけなら、民は尻ごみするでしょう。こんな状態で、どうやって城壁を再建しようというのかと。そこでネヘミヤはただ再建しようと言ったのではなく、自分の経験を証ししたのです。「私に恵みをくださった私の神の御手のこと、また王が言ったことばを彼らに告げた。」(18)のです。つまり、これは夢物語ではないということです。なぜなら、神の御手が自分の上にあり、その御手に導かれて自分はエルサレムに来たのであって、そのために何とペルシャの王アルタシャスタが再建の許可を与えてくれたのです。これは主の御業であって、必ず成し遂げられると伝えたのです。

すると民は何と言いましたか。彼らはこう言いました。「さあ、再建に取りかかろう」それを聞いた民は大いに励まされたのです。そして、早速神殿の再建工事に着手したのです。彼らの中にあった絶望が希望に変えられたのです。

これは、主の御業に取り組もうとしている私たちクリスチャンに求められていることです。現状をみたら確かに困難でしょう。教会はバラバラで、財政は困難を極めています。救われるたましいもまばらで、特に若者たちは教会から遠ざかっています。聖書には何が書いてあるのかもさっぱりわかっていません。先日、国際ギデオン協会の牧師晩さん会に招かれて行った際、ギデオンの会員の証を聞きました。高校で聖書を配布していたら一人の女子学生がやって来て、「すみません。聖書にはどんなことが書いてあるんですか」と尋ねてきたそうです。それでギデオンの方は「聖書には、ほんとうの神様のことが書いてあるんですよ」と言うと、その学生は「へぇ、そうですか、だったらいいです」と言って、受け取らなかったそうです。それでギデオンの方は悩みました。もっと別の言い方があったんじゃないかと。「ほんとうの愛について書いてあるんですよ」とか、「生きる目的について書いてあるんですよ」とか、どのように言ったら通じるのかと考えさせられたと証していました。これが現実なんです。非常に困難な時代になっていると言えるでしょう。そんな中でどうやって福音宣教に取り組んでいけばいいのか。無理です。だれも信じてくれません。やっても無駄です・・・。

でも、神は私に恵みをくださった主がともにおられる。「わたしはこの岩の上のわたしの教会を建てる」と主は言われました。これは私たちが建てるのではありません。主が、ご自分の真理の御言葉の上に、ご自身の教会を建ててくださいます。ハデスの門もそれに打ち勝ことはできません。だから主が必ず成し遂げてくださるのです。「さあ、再建に取りかかろう」どうですか。神の真実な御言葉によって希望が与えられ、再建に取りかかろうという思いが与えられるのではないでしょうか。信仰に基づく確信のある言葉は、絶望した人たちを立ち上がらせるのです。実に城壁の再建は、心の再建から始まったのです。

しかし、すべての人がそれに賛同したかというとそうではありません。すぐさまそれに反対する声が上がりました。19節にはこうあります。「ところが、ホロン人サンバラテと、アンモン人でその部下のトビヤ、およびアラブ人ゲシェムは、これを聞いて私たちを嘲り、蔑んで言った。「おまえたちのしているこのことは何だ。おまえたちは王に反逆しようとしているのか。」」

ホロン人サヌバラテと、アンモン人でその部下のトビヤについては前述した通りです。そのほかにアラブ人ゲシェムは、これを聞いて嘲り、蔑んでこう言いました。「おまえたちのしているこのことは何だ。おまえたちは王に反逆しようとしているのか。」アラブ人ゲシェムは、アラビア半島は北部に定住していたケダル人の王です。彼も嘲りと蔑みによって、城壁の再建を妨害しました。

それに対してネヘミヤはどのように応答しましたか。20節をご覧ください。「私は彼らにことばを返して言った。「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。それで、そのしもべである私たちは、再建に取りかかっているのだ。あなたがたには、エルサレムのうちに何の取り分も、権利も、ゆかりもない。」」

ネヘミヤは、この城壁再建の事業は人間的な力や能力によるものではないと反駁します。これを成功させてくださるのは「天の神」ご自身であると、言い切るのです。この言葉の中には、彼の神に対する揺るぎない信頼が込められています。さらにネヘミヤは、彼らはエルサレムとは無関係であると言い放ちます。何の取り分も、何の権利も、何のゆかりもないのです。つまり、妨害してくる彼らは、エルサレムに関する権利は何もないということです。いわれのない妨害に打ち勝力は、神の約束に対する信頼から生まれるのです。