2025年クリスマスメッセージ ヨハネの福音書1章14節 「人となられた神」

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メリー、クリスマス!クリスマスおめでとうございます。本日はクリスマス礼拝ですが、こうして主の御降誕を祝い、共に主を礼拝できることを感謝します。本日は、ヨハネ1章14節のみことばから「人となられた神」という題で、クリスマスのメッセージをお届けしたいと思います。

くまモンの生みの親である小山(こやま)薫堂(くんどう)さんが、ホテルの料理屋に入ったときの事です。隣に外国人のおじいちゃんが寿司をつまんでいたそうです。目が合ったとき、彼は会釈してくれました。その後、このおじいちゃんは食事中、何度も小山さんのほうをチラチラ見るので、もしかしたら、くまモンの作者としての自分のことを知っているんじゃないか、と思ったそうです。それで思い切って話しかけてみようとしましたが、その時ちょうど待ち合わせの友人がやってきたので、とうとう話すことができませんでした。

ところが、次の日テレビを見てビックリしました。昨日のおじいちゃんがテレビの中で何かをしゃべっているではありませんか。字幕を見て驚きました。なんと、彼はクリント・イーストウッドだったのです。ハリウッドの俳優にして、映画監督ですね。彼は映画のプロモートのために日本に来ていたのでした。

それを知った小山さんは、たいへん悔しかったそうです。もしあの時話しかけていたら、話が盛り上がって、もしかしたらくまモンがハリウッドデビューしたかもしれない、と思ったからです。

偉大な人とつながるチャンスがあったのに、ちょっとした勇気がなかったために、すごい展開の可能性を逃してしまったのです。しかし、もっと大きな損失があります。それは、イエス・キリストとつながる機会を逃してしまうことです。

ある方にとっては、イエス・キリストと聞いても、ただの外国人のおじさんの一人くらいにしか思っていないかもしれませんが、しかし、この方こそ、私たちを罪から救ってくださる救い主です。(聖書と福音、No899から引用)。

聖書に、次のように書いてあります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

「ことば」とは、キリストのことです。キリストは人となって、私たちの間に住まわれました。なぜキリストは人となられたのでしょうか。今日はその理由をご一緒に考えながらキリストとしっかりとつながり、本物のクリスマスを味わいたいと思います。

Ⅰ.私たちに神を示すため

キリストが人となられた第一の理由は、神がどのような方であるかを見える形で私たちに示すためです。

私は伝道しているときによく言われることがあります。それは「神がいるなら見せてくれ」ということです。「神がいるなら見せてくれ」と言われても、神は霊ですから私たちの肉眼で見ることはできません。また、罪によって心がねじ曲がっている人間には、いくら見せても見ることはできないのです。そこで神は、ご自分がどのような方であるのかを示すために見える形で表わしてくださいました。それがイエス・キリストです。18節にはこうあります。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

いまだかつて神を見た者はいません。しかし、イエスを見るなら神を見ることができます。なぜなら、イエスは父のふところにおられたひとり子の神だからです。この方は永遠の初めからずっと神とともにおられたので、神を説き明かすことができたのです。

私には3人の娘がいますが、どの娘とは言いませんけれども、時々、私の行動を見抜く娘がいるのです。何人かで話しているとき、私が次に何と言うかとか、どんなことをするのかを言い当てるのです。そこにいる人たちに、「いい、見てて。お父さんは絶対こうやるからね」と言って私の方を見るのです。そしてその通りにすると「ほら、言ったでしょう!」と、そこにいる人たちに自慢げに話すのです。なぜ彼女は私の行動を言い当てることができるのでしょうか。それは私といっしょにいたからです。ずっといっしょにいて、じっと観察しながら、「あ、お父さんはこういう時にはこう言うんだな」とか、「こうするんだな」とか見てきたのです。

でも残念ながら、すべてを知っているわけではありません。知っているのはほんの一部であって、実は知らないことの方が多いのです。「親の心、子知らず」ですよ。わずか20年くらいいっしょにいたからといって私のことを理解するなんて無理です。彼女がそのように私の行動を言い当てることができたのも、実は、彼女が喜ぶようにと私が合わせていただけであって、その裏をかいていたからです。ま、こちらの方が一枚上手だったというわけです。

でもこの方は違います。この方は永遠の初めからずっと神とともにおられました。父のふところにおられたひとり子の神なので、完全に神を説き明かすことができたのです。

そのことは、1章1~5節でも語られています。「1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。1:2 この方は、初めに神とともにおられた。1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

初めにことばがあった。先ほどお話したように、「ことば」とはキリストのことです。キリストをことば(ロゴス)と表現したのは、神を啓示するために、神の人格として現れた方であるということを示すためです。神の知恵、神ご自身が現れたということです。ですから、ここには「ことばは神であった」とあるのです。この方は初めに神とともにおられました。永遠の初めからずっと神とともにおられたのです。それだけではありません。この方は神であった、とあります。神とともにおられた神です。先ほどの18節では、「ひとり子の神」とありました。ひとり子の神として、父なる神とずっとともにおられたので神を説き明かすことができたのです。

そればかりではありません。3節には、「すべてのものは、この方によって造られた」とあります。この方は創造主であられます。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもありません。この方は、あの創世記1章にある創造の御業に携わっておられたのです。

また、ここには「この方にはいのちがあった」とあります。それは人の光としてのいのちです。この方こそいのちの源なのです。この方が人となって現われてくださいました。なぜでしょうか。そのことによって、神がどのような方であるかを見える形で示すためです。

ですから、弟子の一人であったピリポがイエスに「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(ヨハネ14:8)と言った時、イエスはこう言われたのです。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ14:9)

イエスを見た人は父を見たのです。イエスを見れば、神がどのようなお方なのか、どんなに栄光に満ちた方であられるか、どんなに恵みとまことに満ちた方であるかがわるのです。

Ⅱ.私たちを罪から救うため

第二に、「ことば」が人となられたのは、私たちを罪から救うめでした。ここに「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とあります。この「人となって」という語は欄外の説明にあるように、直訳では「肉」です。「肉を取られた」という意味です。詳訳聖書には「受肉した」と訳されています。「受肉」というのは神学用語で、「神の御子であられるキリストが、人間を救うために、自ら人間となられた」ということです。栄光に満ちた神が人として生まれてくださり、実に飼い葉桶にまで下ってくださいました。考えられないことです。当時の人々は、「肉」は弱いものですぐに朽ち果てていくものだと考えていました。ですから、ことばであられる神が人となるなんて考えられないことだったのです。けれども、その神が人となって私たちの間に住んでくださいました。なぜでしょうか。それは、私たちを罪から救うためです。というのは、私たち人間がどんなに頑張っても、自分の力でこの罪を解決することはできないからです。「いや、できる!」という方がいらっしゃいますか?その方は、もうその時点で罪を犯したことになります。なぜなら、聖書の律法には、「あなたの隣人に対しし、偽りの証言をしてはならない。」(出エジプト20:16)とあるからです。つまり、嘘をついてはならないということですが、嘘をついているからです。ですから、あなたは自分の力では神の基準にかなった人になることはできないし、正しい人になることはできないのです。聖書にこのようにある通りです。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)

皆さん、義人はいません。一人もいません。神の目にかなった人はだれもいません。みんな罪人なのです。その結果は「死」です。永遠の滅びです。燃える火の池に投げ込まれることになるのです。「罪から報酬は死です。」(ローマ6:23)とある通りです。

しかし、この方は違います。この方は聖霊によって生まれました。聖なる方、神の子であられます。ですから、全く罪を持っていません。神はこの方を地上に送り、私たち全人類の罪を彼に負わせ、罪を贖ってくださいました。十字架で。この方を信じる者を義と認めてくださるためです。ですから、私たちは神の律法を守り行うことによってではなく、それを完全に行うことができる神の子キリストの贖いを信じることによって罪から救われるのです。そのために神はひとり子の神をこの世に遣わしてくださったのです。それは信じる者がひとりも滅びないで、永遠のいのちを持つためです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)

神は、それほどまでにあなたを愛してくださったのです。

今から六十年ほど前、カナダの宣教師ドン・リチャードソン夫妻がパプアニューギニアのイリアンジャワというところに入りました。そこでサウイ族の村に入り、キリストの福音を伝えたのです。ところが、いくら聖書の話をしても、全く通じませんでした。それどころか、金に目がくらんでイエス・キリストを裏切ったイスカリオテ・ユダの話をすると興奮状態になり、立ち上がって手を打ちながら、ユダをほめたたえるという始末です。

実はこの部族のモラルは、現代社会と正反対のものでした。人生で一番優れたことは、いかにして相手を(あざ)やかに欺いて裏切るか、という価値観で生きていたのです。そんな人生観の人々にとって、他人の身代わりになって十字架で死んだキリストは、単なるおバカさんでしかありませんでした。

ところで、裏切りを最高の美徳として生きていたら、結局どんなことになるでしょう。裏切りの競い合いが始まります。

しかし、裏切られた方は裏切り返しますね。こうしてこの部族で村同士が抗争を始め、それが何年間も何年間も続いたのです。やがて双方の村とも被害が大きくなり、このままでは別の部族の襲撃を心配しなければならないほど、人口が減ったのです。戦いに疲れ果てた彼らは、とうとう和解するのです。

しかしその和解が罠ではないという証拠はどこにあるのでしょう。実は例外的に、正真正銘の契約の結び方が、この部族にはあったのです。それは、タロップティムという習慣でした。訳すと、和解の子という意味です。争っている二つの部族の中から、生まれたばかりの赤ちゃんを双方の族長に渡して交換するんですね。その子どもが生きている間は、争いはしないという契約です。もし裏切れば、相手方に渡した自分たちの赤ちゃんが殺されてしまいます。それでこの儀式をもって取り交わす和解だけは、裏も表もない本物の和解だったのです。

ドン・リチャードソンはこの習慣に目を留めました。そしてこの習慣を用いて、神がしてくださったことを伝えたのです。すなわち神は、私たちと和解するためにご自分のひとり子イエス・キリストをこの世に渡され、そして十字架の上でさばいてくださったのだと。実はこの儀式で、戦いが終わることをみんなで喜ぶんです。しかしそんな大喜びの中で、例外的に涙が止まらない人がいます。それはその和解のためにわが子を手放した母親です。お腹を痛めて産んだ子、育ててきた子ども、自分たちを攻撃していた人々の手に、その愛する子が渡るのです。別れの時には胸が張り裂けんばかりになっているのです。

そのように神は、ご自分のひとり子をこの世に送って、十字架の上でさばいてくださったのです。母の涙ならぬ父の涙ですね。そしてこのひとり子イエス・キリストは死後三日目に、よみがえられたのです。

クリスマスは神が人の救いのために、イエス・キリストをこの世に送られたことを思い起こす時です。あなたの救いのために神はこのことを、成し遂げてくださったのです。

Ⅲ.私たちの間に住まわれるため

ことばが人となられた第三の理由は、神が私たちの間に住まわれるためです。ここに「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。この「住まわれた」という言葉は「天幕を張られた」という言葉です。旧約時代において、神はイスラエルの民に、荒野において幕屋(礼拝の場)を建てさせそこに臨在されましたが、同じようにキリストは人となって私たちの間に臨在されました。それは、神は私たちとともにおられるという神の約束を実現するためです。

マタイ1章23節に「その名はインマヌエルと呼ばれる。それは、訳すと、『神がともにおられる』という意味である」とあります。御子イエスが人となって来られたことによって、神がともにおられるというこのみことばが実現しました。本来、神とともにおられる方は御子イエスだけです。しかし、キリストを信じることによって、その人の中に神の聖霊が宿り、神がともにおられるということが実現したのです。

そればかりではありません。神はいつでも、どんなときでも、ともにいて下さいます。マタイ28章20節に「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」とあります。世の終わりまでいつもあなたとともにいてくださるのです。であれば、何があっても安心です。この方がいつもあなたとともにいてくださるからです。

今から14年前の3月11日、東日本大震災があったとき、日本にいた多くの外国人の方々はいっせいに帰国しました。しかし、その中で自分の国籍を捨てて逆に日本に移り住むという、思い切ったことをしたアメリカ人がいました。それは、日本文学研究者のドナルド・キーンという方です。彼は18歳のとき日本文学を読んで以来、日本の事を考えなかった日は一日もない、と言っています。彼は、一年の半分は日本にいて、東京に持っている自宅で生活していました。しかし、それまで日本でビジネスをし、収益をあげるためにきていた海外の人々が我先に日本を見棄てて出発するのを見たときに、今こそ日本を励ましたいと考え、アメリカ国籍を捨てて日本に帰化なさったのです。

私たちは、誰かを愛して、励ましたいと思ったとき、お金を送ったり、手紙を送ったりしますが、彼は自分自身を贈り物にしたのです。彼は、日本人の間に住むことによってそれを表しました。彼は日本に降り立ち、同じ空気を吸い、運命共同体の一員となることで、愛を表わしたのです。

それはキリストも同じです。キリストはあなたへの愛を現わすために、自分自身を贈り物にしたのです。彼は人となって、私たちの間に住んでくださいました。私たちと同じ空気を吸い、私たちが経験するいっさいの苦しみを経験し、そして私たちの罪を負って十字架の死にまでも従われました。そのことによって私たちに対するご自身の愛を現わしてくださったのです。神がいつもあなたとともにおられるためです。

そのためにことばは人となって、私たちの間に住んでくださいました。どうぞ、このことばなるキリストの愛を受け入れてください。そしてこの方にしっかりつながってください。あなたの人生の全てのプロセスは、ここから始まります。それによってあなたの人生を、輝くものへと導いて下さいます。

あなたはこの方につながっていますか。私はつながっているという方もちょっとでも目をそらすと、いつの間にかこの世にどっぷりと浸かっているということがあります。

イエス様は「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)と言われました。ぶどうの木であられるイエス様にしっかりとつながって、多くの実を結ぶ者となりましょう。そのために、ことばは人となって、私たちの間に住まわれたのですから。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

この神からのすばらしいプレゼントを受け取り、本物のクリスマスを迎えることができますように。