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主の2026年、明けましておめでとうございます。この新年最初の主の日も、共に主に向かい心からの賛美と礼拝をささげることができることを感謝します。
皆さんは、新年の目標を掲げましたか?箴言29:18には「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。」とあります。幻、目標がなければ、民は好き勝手にふるまうことになってしまいます。その結果、意味のない時を過ごしてしまったということにもなりかねません。ですから、目標を定めることは非常に重要なことです。私たちの教会では、いつも新年の礼拝でその目標となる聖句からメッセージしておりますが、今年の目標聖句は、ハガイ書2:4です。
「しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──【主】のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】のことば──」
主はここでバビロンから帰還したユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアに、そしてユダのすべての民に「仕事に取りかかれ」と言われました。仕事とは、もちろんエルサレムの神殿を再建することです。B.C.586年にバビロンによって破壊されたあのエルサレムの神殿を再建するようにと言われたのです。
それは、私たちの教会にも言われていることです。私たちは今年、エルサレム神殿ならぬ教会の再建に取りかからなければなりません。どのように取りかかったら良いのでしょうか?今日は、このテーマについて3つのことをお話したいと思います。
Ⅰ.強くあれ(1-4)
まず、1節をご覧ください。「第七の月の二十一日に、預言者ハガイを通して、次のような【主】のことばがあった。」
「第七の月の二十一日」とは、1:1を見ていただくとわかりますが、ペルシャの王ダレイオスの治世の第二年の第七の月の二十一日のことです。これは西暦に換算すると、B.C.520年10月27日となります。その日に預言者ハガイを通して、主がユダの総督ゼルバベルと、大祭司ヨシュア、そしてユダの民の残りの者に語られたのが、このことばです。B.C.586年にバビロンによってエルサレムが滅ぼされると、ユダの民は捕囚の民となってバビロンに捕え移されましたが、主はご自身の約束にしたがってそのバビロンを滅ぼしたペルシャの王キュロスに命じ、彼らの内の約5万人を祖国エルサレムに帰還させました。そして祖国エルサレムを復興させるのです。その最初に手掛けたことはエルサレムの宮を建て直すことでした。しかし、エルサレムに帰還したユダの民は唖然とします。その惨状があまりにもひどかったからです。それでも彼らは、預言者ハガイが語る主のことばに励まされて神殿再建に取りかかりました。1:14にあるように、主がユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の主の宮に行き、仕事に取りかかりました。それは第六の月の二十四日のことでした。それは、ちょうどこの2章の1か月前のことでした。すでに土台は据えられていました。そしていよいよその上に神殿を建て始めようとしていたその時に、このような主のことばがあったのです。
それが2節以下の内容です。2~4節をご覧ください。「『シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者に次のように言え。あなたがたの中で、かつての栄光に輝くこの宮を見たことがある、生き残りの者はだれか。あなたがたは今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。2:4 しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──【主】のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】のことば──」
「かつての栄光に輝くこの宮」とは、ソロモンが建てた神殿のことです。それはB.C.586年にバビロンによって破壊されましたが、それはまさに絢爛豪華な建物でした。シェバの女王がソロモンのところに表敬訪問したことがありましたが、彼女はその荘厳さに驚き「私は自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、なんと、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさより、はるかにまさっています。」(Ⅰ列王記10:7)と言ったほどです。彼らの中には、その神殿を見たことがある人たちがいたのです。というのは、これが語られたのはB.C520年ですが、ソロモンの神殿から破壊されたのはB.C.586年ですから、それから66年しか経っていなかったからです。70歳以上の人であれば、当時の神殿を覚えていたのではないかと思います。おそらくこのハガイもその一人だったのではないかと思います。彼もまたそれらの人たち同様、ソロモンによって建てられた荘厳な神殿を見ていたに違いありません。
それらの人たちの目には、今再建している神殿はどのように映っていたでしょうか。3節には「あなたがたの目には、まるで無いに等しいではないか」とあるように、それはソロモンの神殿とは比較にならないほどみすぼらしいものでした。基礎工事が終わっていよいよこれから上物を建てていくという時、それらの人たちにはだいたいわかっていました。どのくらいの規模の、どのような神殿が出来るのかを。それはソロモンの神殿と比べたらあまりにもちっぽけなものでした。それでかつてソロモンの神殿を見たことのある人たちは嘆いていたのです。それはエズラ3:11-12にも言及されています。
「そして彼らは【主】を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな【主】を賛美して大声で叫んだ。3:12 しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。」(エズラ3:11-12)
エルサレムに帰還した民によって主の宮の礎が据えられたとき、彼らは主を賛美し、感謝しながら言いました。「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と。これは、ソロモンの神殿を見たことがない、比較的若い人々の反応です。しかし、一方、以前の宮を見たことがある多くの老人たちは、大声をあげて泣きました。あまりにもみすぼらしいものだったからです。これが今ここで言われていることです。多くの老人たちはがっかりしていました。だから主は預言者ハガイを通して、そのように気落ちしている人たちを励まそうとしたのです。
皆さん、私たちも主のわざに励もうとするとき、かつての栄光に比べてあまりにもみすぼらしい状況を見る時、同じように気落ちすることがあるのではないでしょうか。あの時はたくさん求道者が教会に来たのに今はほとんどいない。どの教会でも救われる人は1人か2人になっている。あの頃は子どもたちが教会に満ち溢れていたのに、今はほとんどいない、若い人たちもあまりいません。年配の方も味があっていいけれども、やはり将来のことを考えたら若い人がいないのは心配になります。同じことです。あなたがたの目には、まるで無に等しいではないか。
しかし、主はそんな彼らを励ましてこう言われたのです。4節です。「しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──【主】のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】のことば──」
主は総督ゼルバベルにも、大祭司ヨシュアにも、そしてすべての民に対して同じことばを語られました。何ですか?それは「強くあれ」ということばです。ここには、「強くあれ」、「強くあれ」、「強くあれ」と連呼されています。かつての栄光に輝くソロモンの神殿と比較して嘆いている人たちに対して、そして、これからみすぼらしいように思える神殿を再建しようとしている人たちに対して、主は強くあれと言われました。
聖書には何度となくこの命令が出てきます。たとえば、モーセの後継者であったヨシュアが、イスラエルを率いて約束の地に入り、先住民と戦ってそこを獲得しなければならなかった時も「強くあれ、雄々しくあれ」と命じられました(ヨシュア1:7)。また、ダビデの子ソロモンに対しても、これから神殿建設に取りかかろうとしていた時、「強く、男らしくありなさい」と命じられました(Ⅰ列王記2:2)。それは、その時彼らに恐れや不安があったということです。そんな彼らに対して必要だったことは「強くある」ことだったのです。それはここでも同じです。まるで無いに等しいではないかのように見える神殿の再建において、彼らに求められていたのは「強くある」ことだったのです。
それは自分で強くなるということではありません。自分の力で奮い立つということではないのです。ここに「わたしがあなたとともにいるからだ」とあるように、主によって強められることです。つまり、これは信仰の問題なのです。信仰が問われているのです。自分を見たら誰もががっかりするしょう。そんなに強い人なんていないからです。たとえ自分で強いと思っている人でも、ちょっとしたことですぐに沈んでしまいます。立ち上がれない~と。私たちは誰も自分で自分を強くすることなんてできません。しかし、何もかもご存知であられる方が「強くあれ」と言ってくださるのです。ということは、私たちはこの方にあって強くあることができるということです。あなたがこの神の言葉に聞き従うなら、あなたが強くあるように神が助けてくださるからです。そこに神の支えがあるということです。この世ではどうでしょう。「強くあれ」と言われたら、じゃ、ジムにでも行って体を鍛えるかとか、メンタルトレーナーや心療内科に行ってアドバイスをもらおうと考えるかもしれませんが、そこには限界があります。でも神には限界などありません。その神がいつもあなたとともにいてくださるのです。あなたは決してひとりぼっちではありません。24時間365日、神はいつもあなたとともにいてくださいます。あなたともにいてあなたを助けてくださるのです。だからイエス様は「インマヌエル」と呼ばれているのです。あなたが自分の力で強くなれなくても、イエス様がいっしょにおられるなら強くなることかできます。パウロはピリピ4:13でこのように言っています。
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
パウロは何と言いましたか。彼は、自分は何でもできるとは言いませんでした。彼は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできると言ったのです。自分で自分を強くすることなんてできません。でもイエス様があなたとともにいるならイエス様があなたを強くしてくださいます。そしてこのイエス様の力によってあなたはどんなことでもできるのです。アーメン!信じますか? とても無理です!と言われるでしょうか。でもこれが、聖書があなたに約束しておられることです。だから、あなたは仕事に取りかかることができるのです。神の御業に取りかかるために必要なことは、まず強くあることです。神の力によって強くされるのです。そうすれば、あなたはどんなことでもできます。そして、神の仕事に取りかかることができるのです。
Ⅱ.主は揺り動かされる(5-8)
第二のことは、主は揺り動かされるということです。5~8節をご覧ください。5節には、「2:5 あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている。恐れるな。』」とあります。それは彼らの先祖たちがエジプトを出た時に約束されたことです。その時主は彼らと契約を結ばれ、もし彼らが主の声に聞き従い、主の契約を守るなら、あらゆる民族の中にあって、神の民となるということでした。あれからもう900年も経っていました。その間、イスラエルの民はどうであったかというと、神の声に聞き従うどころか神に背き、神との契約を破り続けてきました。もう契約不履行です。にもかかわらず神は彼らと結んだ約束をずっと守られ、この時に至るまで「わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている」と言ってくださったのです。そればかりか、6~7節ではこう言われました。「2:6 まことに、万軍の【主】はこう言われる。『間もなく、もう一度、わたしは天と地、海と陸を揺り動かす。2:7 わたしはすべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。──万軍の【主】は言われる──』」
どういうことでしょうか。主はこれまでも何度も天と地、陸と海を揺り動かして来られました。それはあの出エジプトの時もそうですし、今回のバビロン捕囚からの解放もそうです。それと同じようなことを、これからもナサルというのです。それは廃墟となったエルサレムの神殿を建て直すということです。そのために主は天と地を揺り動かされるのです。
この箇所はヘブル12:26~28にも引用されていることです。「12:26 あのときは御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす。」12:27 この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。12:28 このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。」
この文脈においては、世の終わりにおいて、揺れ動かされるようなことが起こると言われています。この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るため、つまり、神の御国は揺り動かされることはない、という約束です。揺り動かされることのない御国が残るために、神はあえて天と地をふるいにかけて揺り動かされるというのです。それと同じことがハガイの時代にも起こるのです。主はすべての国々を揺り動かして、すべての国々の宝物がエルサレムにもたらされ、この宮を栄光で満たすというのです。つまり、ゼルバベルによって再建されるエルサレム神殿を通して、ご自身の栄光を現わされるということです。そのために主は天と地を揺り動かされるのです。もう一度揺り動かされます。はたから見たら、何ともみすぼらしいかのように見える建物かもしれません。あのソロモンの神殿に比べたら取るに足りないもののように感じるかもしれません。しかし、主はその宮を栄光で満たされるのです。
いったいどうやってそのようなことが起こるのでしょうか。主が天と地、すべての国々を揺り動かすことによってです。それは主の御霊がなさることなのです。ゼカリヤ書に有名なことばがあります。それは「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)ということばです。これもバビロンから帰還したユダの民がエルサレムの神殿を再建する時に語られた主の約束のことばです。それは彼らの力によって成し得ることではなく、主の霊によって成し遂げられることだったのです。
また、その続きにこうあります。「大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる。彼がかしら石を運び出せば、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫び声があがる。」(ゼカリヤ4:7)
どんなに大きな山でも、主の霊によって平らにされ、低くされるのです。どんなに困難なように見えることでも、どんなに失敗しても、主の霊が彼らの間にとどまり、ご自身の御業を成してくださるのです。
日本の救世軍の父と呼ばれた山室軍平は、こう言いました。
「私は日本において使徒行伝を書き続ける」
皆さん、おわかりですか。使徒行伝とは使徒の働きのことですが、そこにはイエス様が天に昇って行かれた後、使徒たちはどのような働きをしたかがまとまれています。しかしこれは正確には「使徒行伝」ではなく「聖霊行伝」です。主が約束された聖霊が降られた後、聖霊がどのように使徒たちを通して働かれたのかが記録されているのです。そして、聖霊が彼らの上に臨んだとき、彼らは力を受けて、エルサレム、ユダヤ、サマリアの全土、さらに地の果てまでキリストの証人となって出ていきました。その記録が収められているのです。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
だからこれは「使徒行伝」ではありません。「聖霊行伝」です。その使徒行伝、聖霊行伝を、私は書き続ける。つまり、今に至るまで働き続けておられる聖霊の働きを私は書き続ける、と山室軍平は言ったのです。
これは事実です。主は「わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている。」と言われました。1世紀の初代教会において働かれた聖霊は、21世紀にこの日本においても働いておられ、すべての国々を揺り動かして大いなる御業を成しておられるのです。たとえ人口わずか5万人だとしても、主の御霊が成し遂げてくださるのです。あの出エジプトの時はものすごかったけれども、あるいは第二の出エジプトと言われるバビロンからの解放もすごかった。その同じ主の御霊が、このゼルバベルの時も働いてくださり、主の宮を再建させてくださいます。ペンテコステの時もそうでしたね。多くの民が悔い改めて主に立ち返りました。それはこれからも同じです。たとえクリスチャンが0.2%だとしても、主が大いなる御業を成し遂げてくださるのです。神はいつまでも変わることはありません。イエス・キリストは、きょうもいつまでも同じですとあるとおり、いつまでも変わらない主の御霊が、今も、これからも生きて働き、ご自身の御業を成し遂げてくださるのです。
ですから6~9節には、「わたしはする」という宣言が繰り返されているのです。英語では「I will」ですね。これからの未来においてするということです。6節には、「間もなく、もう一度、わたしは天と地、海と陸を揺り動かす。」とありますが、英語では「Once more (it is a little while) I will shake heaven and earth, the sea and dry land;」(NKJV)と訳されてあります。
7節もそうです。「わたしはすべての国々を揺り動かす」とありますが、英語の聖書には「I will shake all nations」(NKJV)と訳されてあります。その後の「わたしはこの宮を栄光で満たす」もそうです。「I will fill this temple with glory」です。
9節の「この場所にわたしは平和を与える」もそうです。「And in this place I will give peace」
このように、主は何度もI willと言って、主ご自身が、主の御霊がそれをすると宣言しておられるのです。それは主が成し遂げてくださことなのです。
でも、現実的には無理でしょ。お金がかかります。いったいどこからそのお金が降ってくると言うんですか?あくまでもそれは理想だけれども、現実的には無理でしょ?皆さん、無理ですか?アーメン!なんて言わないでください。無理じゃありません。だって主はこうおしゃつていますから。8節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。
「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。」
皆さん、銀はだれのものですか?金は誰のものでしょう?ここには、銀はわたしのもの。金もわたしのもの、とあります。すべては主のものです。ですから、この主を持っているなら、あなたはすべてを持っているのです。あなたはお金持ちです。何も乏しいことはありません。だからダビテはこう告白したのです。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことはありません。」(詩篇23:1)
主が私たちの羊飼いであられるなら、私たちは乏しいことはありません。お金がないから何もできないのではありません。信仰がないから何もできないのです。だってはっきりとこう書かれてありますから。「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。」と。もしあなたがこの主を持っているなら、あなたはどんなことでもできるのです。
パウロはピリピ4:19でこう言っています。「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(新改訳改訂第3版)
パウロはここで「私の神」と言っています。私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、すべての必要を満たしてくださいます。あなたの神はどうですか?あなたの神は貧乏神ですか?破産していますか?「今、金欠です」なんて。でも、私たちの神もパウロの神と同じです。キリスト・イエスの栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださいます。
ハガイの時代、彼らは廃墟となったエルサレムの町でもう途方に暮れていました。どこからこの宮の再建のための資金を捻出しろというのか・・。事実、エルサレム神殿を建て直すには莫大な資金が必要でした。その資金をどこから手に入れよというのか。ここから手に入れることができます。「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。」と言われる主から。すべては主のものです。資金も、資材も、労力も、すべての必要は主が与えてくださいます。神の銀行口座にはどれだけあるか知ってください。そうすれば、お金が無いなんてみみっちいことは言わなくなりますから。ないものねだりをしてはいけません。私たちにはすべてがあるんですから。私たちの主イエス・キリストは私たちのすべてのすべてであって、この方にはすべてがあるということを覚えておかなければなりません。そして、この方がすべてを揺り動かして、あなたの必要を満たし、ご自身の御業を成してくださるのです。
Ⅲ.先のものにまさる後の栄光(9)
最後にその結果を見たいと思います。たとえそれが人間的には困難なことでも、主が成してくださると信じて仕事に取りかかるなら、どのような結果がもたらされるのでしょうか。9節をご覧ください。ここには「この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。──万軍の【主】は言われる──この場所にわたしは平和を与える。──万軍の【主】のことば。』」とあります。
どのような点でこのちっぽけなゼルバベル神殿が、あの絢爛豪華なソロモンの神殿にまさると言えるのでしょうか。それはそこに主が臨在されることによってです。それがどんなに立派な神殿であっても、そこに主がおられなければただの建物でしかありません。しかし、そこに主がおられるなら、主が栄光で満たしてくださいます。これは教会にも言えることですね。教会は建物ではありません。それは教会ではなく教会堂です。教会にとって最も重要なことは、そこに主が臨在しておられるかどうかということです。どんなに立派な建物でも、そこに主がおられなければ何の意味もありません。しかし、それがどんなにちっぽけなものでも、そこに主がおられるならそこは主の栄光が満ちるのです。
このゼルバベル神殿もそうです。それはソロモンの神殿と比べたらあまりにもみすぼらしく見えたかもしれませんが、そこに主が臨在しておられました。何とイエス様の時代にイエス様が父の家と呼ばれた神殿は、まさにこの宮だったのです。勿論、その宮もヘロデ大王によってリメイクされ巨大な神殿になっていましたが、そこに神の御子キリストが出入りされたことを思うと、それはソロモンの神殿にまさるものであったと言えるでしょう。事実イエスはこう言われました。
「あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。」(マタイ12:6)
宮よりも大いなるもの、それはイエス・キリスト、神ご自身です。その主がおられるなら、それがたとえ豪華なソロモンの神殿と言えど、とるに足りないものです。確かにゼルバベルによって建てられる宮はみすぼらしいもののようでも、そこに主の栄光が満ちておられるなら先のものにまさるのです。
また、主はこうも言われました。「この場所にわたしは平和を与える。」主はどこに平和を与えるんですか。ここに、です。この場所に、です。この場所に平和を与えてくださいます。何ともみすぼらしい主の宮だと思われていたその宮に、主は平和を与えてくださるのです。どういうことですか?それはお金では買えない、お金以上に価値あるものを与えるということです。人間の力では成し得ることができないものを与えてくださいます。それが「平和」です。そこには反対者も大勢いて、そうした者たちの妨害によって工事がなかなか進みませんでした。そんなに彼らに必要だったのは平和であり、慰め、励ましでした。主は「わたしはこの場所に平和を与える」と約束してくださったのです。何という励ましでしょうか。主がこのようなすばらしい約束をしてくださるんだから、あなたがたは恐れてはなりません。強くありなさい。そして、仕事にとりかかれ、と言われるのです。
あなたに与えられている仕事は何ですか。それを成し遂げようとするにあたり、あなたが恐れていることはどんなことですか。がっかりしていること、落ち込んでいることは何ですか。強くあれ、雄々しくあれ、主があなたとともにおられますから。主の霊があなたの中にとどまっておられます。そしてもう一度、揺り動かしてくださいます。そして、主はそこに栄光を現わしてくださいます。だから、恐れないでください。あなたに与えられた仕事にとりかかってください。この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさるからです。
それは主が今年、私たちの教会にもチャレンジしておられることです。
私たちも小さな群れではありますが、大きな方がともにいて働いておられると信じて、私たちに与えられた仕事に取りかからなければなりません。私たちが今年取り組む仕事とは何でしょうか。私たちは特に今年3つのことに取り組みたいと願っています。
第一に、ビジョン2025に向けての具体的な取り組みです。これは2025年までに新しい教会を生み出すというビジョンですが、今年このビジョンの実現に向けて具体的に取り組んでいきたいと考えています。主は必ずこれを成し遂げてくださると信じます。主はその名の通り、不思議なことをしてくださると信じます。
第二のことは、働き人が与えられるように祈ることです。主は言われました。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37-38)
教会の働きにおいて最も重要なのは神様との関係ですが、そのために神様は教会に牧師、教師、伝道者を立ててくださいました。それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだ建て上げるためです。収穫は多いが働き手が足りません。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように祈らなければなりません。しかし、これは簡単なことではありません。日本では今、牧師がいないという教会がたくさんあります。日本には7,900のプロテスタント教会がありますが、実に1,000の教会には牧師がいないのです。そのうち完全に無牧の教会は300あります。それなのに、この小さな教会にフルタイムで仕える牧師を迎えることは奇跡です。しかし、主の御心なら必ず与えられます。そのためには祈らなければなりません。収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りましょう。
第三に、牧師だけでなく牧師を支える聖徒たちが整えられるように求めなければなりません。主はこう言われました。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)。これが主の命令です。主の命令は、あらゆる国の人々を弟子とすることです。そのために毎週日曜日の礼拝は重要です。また、祈り会や聖書の学び会も大切です。また、聖書をより深く理解するための助けが求められます。私たちの教会ではこれまでC-BT(教会主体の神学教会)に取れ組んでくましたが、その延長となる聖書の学びに力を注ぎたいと考えています。
この小さな教会で、そんなことができるんですか。できます。それは私たちがすることではなく、主がなさることだからです。まさに、権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって、と言われる主の霊が、とあるとおりです。現状を見たら難しいでしょう。今の時代を考えたら尻込みするかもしれません。しかし、主が私たちとともにおられます。そして主が揺り動かしてくださいます。主は言われます。「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」(ルカ12:32)
信じましょう。そして、仕事に取りかかりましょう。この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさります。主が私たちとともにおられますから。この新しい年が、主の栄光に満ち溢れた年になりますように。皆さん一人一人のこの一年の歩みが祝福に満ちたものとなりますようにお祈りします。