ネヘミヤ記4章

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 今回は、ネヘミヤ記4章から学びます。

 Ⅰ.敵からの妨害(1-14)

まず、1~3をご覧ください。「4:1 サンバラテは私たちが城壁を築き直していることを聞くと、怒り、非常に憤慨して、ユダヤ人たちを嘲った。4:2 彼はその同胞とサマリアの有力者たちの前で言った。「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえを献げようというのか。一日で仕上げようというのか。焼けてしまった石を瓦礫の山の中から拾って、生き返らせようというのか。」4:3 彼のそばには、アンモン人トビヤがいて、彼も「彼らが築き直している城壁など、狐が一匹上っただけで、その石垣を崩してしまうだろう」と言った。

ネヘミヤのリーダーシップによって、エルサレムの城壁は着々と再建されていきました。それを聞いた反対者たちは、激しく憤り工事を妨害します。「サンバラテ」は2:10に「ホロン人サンバラテ」とあったように、ホロン人です。2節に「彼はその同胞とサマリアの有力者たちの前で言った」とあることから、彼はサマリアの総督だったようです。彼はネヘミヤたちがエルサレムの城壁を再建していると聞いて怒り、非常に憤慨して、ユダヤ人たちを嘲笑ってこう言いました。

「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえを献げようというのか。一日で仕上げようというのか。焼けてしまった石を瓦礫の山の中から拾って、生き返らせようというのか。」4:3 彼のそばには、アンモン人トビヤがいて、彼も「彼らが築き直している城壁など、狐が一匹上っただけで、その石垣を崩してしまうだろう」と言った。」(2-3)

どういうことでしょうか。「あれを修復して、いけにえを献げようというのか」とは、城壁を修復していけにえをささげようとするのか、そんなの不可能だということです。神を信じていない人にとってはそうでしょう。いけにえをささげる、すなわち、神を礼拝することは、彼らにとって全くナンセンスなことなのです。そんな時間があるならもっと働いた方が良い。目に見えない神を礼拝するよりも、目に見える現実的のことに取り組む方がよっぽど意味があると考えるわけです。そうした未信者にとってはまさに「いったい何をしているのか」わかりないのです。

でも、イエス様を信じて救われ、神の愛とあわれみを体験した者は違います。これが人生の最優先にすべきものです。これがなければ何も始まりません。神を礼拝することこそ、私たちの人生の土台であり、すべての始まりなのです。

また彼は「一日で仕上げようとしているのか。焼けてしまった石を瓦礫の山の中から拾って、生き返らせようというのか。」と言いました。これは、自分たちが不可能なことに挑戦しているのがわからないのか、ということです。そんな大それたことができるわけがないじゃないか。がれきを集めて城壁を再建するなんて無理だ、というのです。そんな無理なことを一日や二日でできるわけがないだろうと。こんなことを言われたらだれでもやる気を失ってしまいます。それがサタンの常套手段です。敵であるサタンは、そうやってクリスチャンからやる気を奪おうとするのです。

しかし、焼けてしまった石を瓦礫の山を、生き返らせることはできないのでしょうか。できます。なぜなら、私たちが信じている神は、焼けてしまった石のように死んでいたのに、生き返られたからです。だから、たとえ廃墟となった瓦礫の山でも、そこから花を咲かせることができるのです。そのためには時間がかかるでしょう。相当の労力と忍耐が求められます。しかし、キリストを死から甦られた神は、それを成し遂げてくださいます。それは教会の建て上げにも言えることです。神の教会は一日二日でできるようなことではありません。そこには途方もない時間と労力を要します。いくつもの難題が押し寄せてきます。時には前進しているどころか後退しているのではないかのように思えるような中でも、神はキリストをよみがえらせた復活の力で必ず建て上げてくださるのです。

彼のそばにはアンモン人のトビヤがいましたが、彼も結託してこう言いました。「彼らが築き直している城壁など、狐が一匹上っただけで、その石垣を崩してしまうだろう」。そんな城壁など、狐が一匹上っただけで崩れてしまうだろう。つまり、あまりにも貧弱なものだということです。アンモン人は今のヨルダンの首都アンマンですが、城壁が築き直されていることを聞いて、非常に憤慨しました。どうやったらその工事を止めさせることができるか。彼らが考えたことは、その貧弱な技術力でした。そんな素人が作った城壁なんてすぐに崩壊してしまうよ。全く意味がないことだと。

このような嘲りはクリスチャンの誰もが経験することです。だれも自分の信仰に自信のある人などいません。みんな不安を覚えながら歩んでいます。そういう意味では私たちもこの時のユダや人のように不慣れな工事をしているのです。そんな時このように嘲られたら、やっぱり無理かとあきらめてしまいたくなりますが、この城壁は私たちの城壁ではなく神の城壁です。神が建て上げてくださいます。そのために神は1人1人に賜物を与えてくださいました。その賜物が組み合わされて神の城壁が建て上げられていくのです。私たち1人1人を見たら何もできませんが、キリストによってからだの器官が組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことによって成長し、愛のうちに建て上げられていくのです。

さて、このような敵の嘲りに対して、ネヘミヤはどのように対処したでしょうか。4~6節をご覧ください。「4:4 「お聞きください、私たちの神よ。私たちは軽蔑されています。彼らの侮辱を彼ら自身の頭上に返し、彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。4:5 彼らの咎をおおい隠すことなく、彼らの罪を御前から消し去らないでください。彼らが、建て直している者たちを憤慨させたからです。」4:6 こうして私たちは城壁を築き直し、城壁はすべて、その半分の高さまでつなぎ合わされた。民に働く気があったからである。」

まず注目すべきことは、そのような敵の心理的な妨害に対して、ネヘミヤは天の神に祈ったことです。彼はまず、「お聞きください、私たちの神よ。」と祈りました。問題に直面した時に祈るのはネヘミヤの習慣でしたが、彼は直ぐに祈りました。

ネヘミヤはどのように祈りましたか。彼は、「彼らの侮辱を彼ら自身の頭上に返し、彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。彼らの咎をおおい隠すことなく、彼らの罪を御前から消し去らないでください。」(4-5)と祈りました。非常に激しい祈りです。彼はここで神のさばきが敵の上に下るようにと祈りました。イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)と言われましたが、ネヘミヤの祈りはこのような教えに矛盾していないでしょうか。あるいは、パウロはローマ12:19で「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。」と言っていますが、これに反してはいないでしょうか。

これは、こうした教えに矛盾するものではありません。というのは、これは単に敵を呪っているのではなく、神の怒りにゆだねているからです。ダビデも詩篇の中で、敵の滅びを願う祈りをしていますが、ここでのネヘミヤの祈りもそれと同じです。彼は、神のさばきを求めることによって、神のみこころがなるようにと祈っているのです。サンバラテとトビヤたちの行為は、明らかに神に敵対していました。それゆえ、神はすでに敵をさばいておられました。ですからネヘミヤの祈りは、神のみこころがなるようにという祈りだったのです。ネヘミヤは、その復讐を神にゆだねたのです。

その結果、どうなったでしょうか。6節にこうあります。「こうして私たちは城壁を築き直し、城壁はすべて、その半分の高さまでつなぎ合わされた。民に働く気があったからである。」

そのように祈った後ネヘミヤたちは城壁を築き直し、城壁はすべて、その半分の高さまでつなぎ合わされました。民に働く気があったからです。ネヘミヤたちのすばらかった点は、彼らはただ祈っただけではなく、祈った後で状況を神にゆだね、熱心に働いたことです。「民に働く気があったからである」というのは、そのことを表しています。ここには神への信頼と人間の側の責務のバランスが見られます。ネヘミヤには、神に信頼して勤勉に働くなら必ず神が介入してくださり、ご自身のご計画の実現のために働いてくださるという確信がありました。一般に信仰者はこのどちらかに傾きがちです。神に祈ったらただ状況が変わると何もせずにいるか、それともそれを待たないで自分の思いで動いてしまうかのどちらかです。でもここから教えられることは、その両面においてバランスよく取り組むことが必要であるということです。神に信頼して前進することです。

私は教会開拓に取り組んでいますが、いつもこのバランスを考えています。ただ祈るだけでなく、また逆に自分の思いで突き進むのではなく、神のみこころは何かを祈り求め、そのみこころがなるようにアンテナを上げ、神の御業を待ち望むように心がけています。そうすると不思議なことに、点が線でつながれ、いつの間にか自分たちも想像していなかったところに導かれることが多いのです。すなわち、みことばの約束に信頼して一歩前進するとき、神が結果を与えてくださるということです。神様の御業は棚ぼた式にもたらされるものではないのです。

ネヘミヤの場合はどうでしたか。彼は祈った後で状況を神にゆだね、勤勉に働くことによって、短期間の内に城壁は半分の高さまでつなぎ合わせることができました。そうした敵の激しい妨害の中にあっても、です。ネヘミヤ6:15によると、城壁は52週間で完成したとあります。仮に週に6日働いたとすると、約8週間で完成したことになります。城壁が半分まで完成したのは、おそらく4週間が過ぎた頃でしょう。こんなに短時間でそこまで工事が進んだのは、民に働く気があったからです。彼らはサンバラテとその仲間たちの脅かしと妨害に屈することなく、祈りとみことば、そして信仰の働きによって、そうした困難を乗り越えました。それは私たちにも言えることです。私たちも敵である悪魔の攻撃によって落胆する者ですが、神への祈りと信仰の情熱によって必ず困難を乗り越えることができるのです。

Ⅱ.敵からのさらなる妨害(7-14)

けれども、問題はそれで完全に解決したわけではありません。敵はさらなる攻撃をしてきます。7~9節をご覧ください。「4:7 サンバラテ、トビヤ、アラブ人、アンモン人、アシュドデ人たちは、エルサレムの城壁の修復がはかどり、割れ目もふさがり始めたことを聞いたとき、激しく怒り、4:8 皆でエルサレムに攻め入って混乱を起こそうと、陰謀を企てた。4:9 そこで私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて昼も夜も見張りを置いた。」

サンバラテやトビヤといった反対者たちは、城壁の修復工事がはかどっていることを聞くと、激しく怒り、皆でエルサレムに攻め入って混乱を起こそうと、陰謀を企てました。

するとネヘミヤたちはどうしたでしょうか。彼らは、彼らの神に祈り、敵の攻撃に備えて、昼も夜も見張りを置きました。ネヘミヤたちは、ここでも祈っています。しかし、ただ祈るだけではなく行動に移しました。「彼らに備えて日夜見張りを置いた」のです。ここでも前回と同じ対応が見られます。祈りによって神に窮状を訴え、すぐに行動を起こすという祈りと行動のバランスです。この場合は敵からの攻撃に備えて、昼も夜も見張を置きました。

そのとき、ユダの人々はこう言いました。10節です。「荷を担ぐ者の力は弱り、瓦礫は山をなしている。城壁を築き直すことなど、私たちにできはしない。」

敵の攻撃がボディーブローのように、少しずつ功をなしてきました。ユダの人々の中に疲れと落胆が押し寄せてきたのです。いくらやっても目の前に瓦礫が散乱していて、工事が終わりそうにないと。彼らは弱気になりました。城壁を築き直すことなど、自分たちにはできない、と叫んだのです。私たちにもそういう時がありますね。いくら伝道しても一向に成果が見えてこないことが。リーダーが最も困難を覚えるのは、こういう時です。民が弱気になったときです。

これこそ敵の思うつぼです。敵らはますます活気づいてこう言いました。「彼らが気づかないうちに、見つけないうちに、彼らの真ん中に入り込み、彼らを殺して、その工事をやめさせよう。」

今が工事をやめさせるチャンスだというわけです。そしてエルサレムの真ん中に入り込み、民を殺して工事を止めさせようとしました。恐ろしいことですが、これが敵である悪魔の策略です。先日、パキスタンから難民として来日した牧師が来て、今パキスタンで起こっていることをお話してくれました。国民の多数を占めるイスラム教の過激派が、公然と教会の中に入り込み、家屋を焼き払ったり、クリスチャンに危害を加えたりということが起こっています。警察は一応調べますが、彼らもイスラム教徒なので見て見ぬふりをするので、迫害が無くなることはありません。こういうことが実際に起こっているのです。

ここでも同じです。彼らの近くにいたユダヤ人たちはネヘミヤのところへやって来て、自分たちを守るために戻って来てほしいと懇願しました。ここに「十回も」とあるのは、その緊迫感の表れです。

それに対してネヘミヤはどうしたでしょうか。13~15節をご覧ください。ここには、「4:13 そこで私は、民をその家族ごとに、城壁のうしろの低い場所の空地に、剣や槍や弓を持たせて配置した。4:14 私は彼らの様子を見て立ち上がり、有力者たちや代表者たち、およびその他の人たちに言った。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」4:15 私たちの敵が、自分たちの企みが私たちに悟られたこと、神がそれを打ち壊されたことを聞いたとき、私たちはみな城壁に戻り、それぞれ自分の工事に当たった。」とあります。

そこでネヘミヤは新しい戦略を実行に移しました。それは、民をその家族ごとに城壁のうしろの低い場所の空地に、剣や槍や弓を持たせて配置したのです。どういうことでしょうか?敵の攻撃に備えて防御を固めたということです。家族を守り、城壁を完成させるためには、いのちがけで戦うしかなかったのです。

これはクリスチャンである私たちにも言えることです。パウロはエペソ6:10~13で、次のように勧めています。「6:10  終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。」それが真理の帯であり、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の大盾、御霊の剣、といった神の武具だったのです。私たちの敵である悪魔は巧妙に襲い掛かって来ますが、そうした悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなければなりません。

もちろん、このような戦略には恐れは付きものです。事実、民は大いに恐れました。それでネヘミヤはそうした民の恐れの感情にも対処しました。14節です。「私は彼らの様子を見て立ち上がり、有力者たちや代表者たち、およびその他の人たちに言った。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」

ネヘミヤの強調点は、人を恐れるのではなく神を恐れるべきだということでした。そして、自分たちの同胞や家族のために戦うべきであるということでした。ここにも、祈りと行動の調和が見られます。

その結果どうなったでしょうか。「私たちの敵が、自分たちの企みが私たちに悟られたこと、神がそれを打ち壊されたことを聞いたとき、私たちはみな城壁に戻り、それぞれ自分の工事に当たった。」(15)

サンバラテトビヤといった敵たちは、自分たちの企みがユダヤ人たちに悟られたことを知り、エルサレムに上ることを断念しました。それでユダヤ人たちはみな城壁に戻り、修復工事を継続することができました。ここで着目していただきたいことは、ここに「神がそれを打ち砕かれたことを聞いたとき」とあることです。それは神の御業であり、神の導きであったということです。ネヘミヤは敵の攻撃に対してどのようにすべきかを神に祈り、神に示されたことを実践しただけですが、それは神の導きだったのです。私たちもさまざまな困難に直面したときただ祈るだけでなくそれを行動に移そうとするとき、果たしてこれで良いのだろうかと悩むことがありますが、そうした行動さえも神は導いておられるということです。それは必ずしも正しいことなのかどうか確信が持てない時もありますが、大切なことは神に信頼してそれを実践することです。信仰によって一歩前進することなのです。

Ⅲ.一つとなって立ち向かう(16-23)

その結果、彼らはどうなったでしょうか。その後、ネヘミヤたちはどのように工事を進めていったのかを見てみましょう。16~23節をご覧ください。「4:16 その日以来、私の配下の若い者の半分は工事を続け、もう半分は、槍、盾、弓、よろいで身を固めていた。隊長たちがユダの全家を守った。4:17 城壁を築く者たち、荷を担いで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を握っていた。4:18 築く者はそれぞれ剣を腰にして築き、角笛を吹き鳴らす者は私のそばにいた。4:19 私は有力者たち、代表者たち、およびそのほかの人々に言った。「この工事は大きく、また範囲は広い。私たちは城壁の上で互いに遠く離れ離れになっている。4:20 どこででも、角笛が鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」4:21 こうして私たちはこの工事を進めたが、その半分の者は、夜明けから星が現れるまで槍を手にしていた。4:22 そのときまた、私は民に言った。「それぞれ自分の配下の若い者と一緒に、エルサレムの内側で夜を明かすようにしなさい。そうすれば、夜には見張りがいて、昼には働くことができる。」4:23 私も、私の親類の者も、私の配下の若い者たちも、私を守る見張りの人々も、私たちの中のだれも服を脱がず、水場でもそれぞれ投げ槍を持っていた。」

ネヘミヤたちの敵が引き下がり、それぞれ自分の工事に当たることができても、ネヘミヤたちは警戒を緩めませんでした。彼の配下の若い者の半分は工事を続け、もう半分は、槍、盾、弓、よろいで身を固めていました。城壁を築く者たち、荷を担いで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を握っていたのです。18節の「築く者」とは石工のことでしょう。石工は両手を使う仕事だっので、剣を腰に差して工事に当たったのでしょう。

さらにネヘミヤは伝達の手段も確立しました。それは角笛です。工事をする者たちは互いに遠く離れ離れになっていたので、もし角笛が鳴るのを聞いたら、ネヘミヤのもとに集まることができるようにしました。このような用意周到なネヘミヤの指導に、ユダの民はどれほど安心したことでしょうか。何よりも「私たちの神が私たちのために戦ってくださる」という彼の励ましは、ユダの民に大きな力を与えたことと思います。

こうして彼らは夜明けから夕刻まで熱心に働きました。また、エルサレムの町の外に住んでいる人たちには中で夜を明かすようにさせました。まだ町の防御態勢が不完全だったからです。彼らは夜は護衛となり、昼は工事に専念しました。また、彼らの中のだれも服を脱がず、水場でもそれぞれ投げ槍を持っていました。いつでも戦うことができるようにするためです。このように彼らは一体となって、神の御業に取り組んだのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも単独で神のご計画を実行することはできません。一つとなって立ち向かうのです。そういう意味では、教会から離れたクリスチャンはあまりにも危険な場所に身を置いていることになります。私たちは一つとなって敵の攻撃に立ち向かわなければなりません。そのために、私たちはお互いを必要としているのです。神の教会の一員として、一つとなって御国の建設に取り組みましょう。