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前回は新年礼拝で、今年私たちの教会に与えられている目標聖句からお話しました。それは2:4にあるように、「仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。」という内容でした。きょうは、順序が逆になりますが、ハガイ書の最初、1:1~11からお話したいと思います。タイトルは「あなたがたの歩みをよく考えよ」です。では早速、本文に入りましょう。
Ⅰ.あなたがたの歩みをよく考えよ(1-4)
まず、1節をご覧ください。「1:1 ダレイオス王の第二年、第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアに、【主】のことばがあった。」
ダレイオス王とはペルシャの王のことですが、そのダレイオス王
の第二年とは、西暦に換算するとB.C.520年になります。その年の第六の月の一日、預言者ハガイを通して、シェアルティアルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアに、主のことばがありました。それは次のような内容です。2節をご覧ください。ここには「万軍の【主】はこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。【主】の宮を建てる時は』と言っている。」とあります。
どういうことでしょうか。「この民」とは、バビロン捕囚から帰還したユダの民のことです。また、「主の宮」とはエルサレムの神殿のことです。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ていないと言っていました。これは彼らの言い訳です。彼らはエルサレムに帰還して神殿を建て始めましたが、反対者たちの妨害によって工事が難航していました。内部にも不一致や分裂などの問題がありました。やっとのこと神殿の礎は据えられましたが、このまま工事を続けるのは無理だと16年間も工事が中断したままになっていたのです。そんな彼らの言い訳がこれだったのです。「時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は。」
不思議なことですが、4節をみると、「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」とあります。彼らはこんな状況では工事を続けることはできないと言っていながら、自分のことになるとせっせと働いていました。主の宮が廃墟となっているに、自分たちは板張りの家に住んでいたのです。「板張りの家」とは高級住宅のことです。神の宮が廃墟となっているのに、自分たちは高級住宅に住んでいたのです。これっておかしいと思いませんか。そんなに大変だったらマイホームだって作ることなどできるはずがありません。それなのに彼らは板張りの家に住んでいました。それはおかしいじゃないかと、いうのです。彼らは決して神殿再建を否定していたわけではありません。でもちょっとでも困難があると、ちょっとでも都合が悪いと、神様のことを後回しにしていたのです。今はその時じゃないと。もっと落ち着いてからでいいんじゃないですか。こういうのを何というんですか。こういうのを「言い逃れ」と言います。言い訳ばかりです。自分のことならどんなに大変でも自犠牲も惜しまずに喜んでやるのに、いざ神様のことになると全く他人ごとでした。ちょっとでも大変だとすぐに萎えてしまい、「今はその時ではない」と言って神様のことを後回しにしていたのです。何が問題だったのでしょうか。優先順位です。優先順位が間違っていたのです。
彼らの最優先事項は何でしたか?それは神の宮、エルサレム神殿を再建することでした。エズラ記1章にはそのように主に命じられています。そのために主はペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせ、王国中に通達を出し、そのために必要な資金まで援助しました。預言者エレミヤによって告げられた主のことばが成就するためです。それこそ彼らが最優先にしなければならなかったことなのに、彼らにとっての最優先事項は何だったかというと、自分のことだったのです。自分たちのために家を建てることは決して悪いことではありません。しかしその前に彼らがしなければならないことは、主の宮を建てるということだったのです。それなのにそれをしなかったのは、彼らのプライオリティー、優先順位が間違っていたからです。だからこのように言い逃れをしたのです。
それは私たちにも言えることです。私たちにとっての最優先事項は何でしょうか。マタイ6:33にはこうあります。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
まず神の国と神の義を求めなさい。新改訳第三版では、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」とあります。これがクリスチャンにとっての最優先事項です。「神の国」とは神の支配のこと、「神の義」とは、神との関係のことです。神に支配されること、その神と正しい関係を保つこと、それこそクリスチャンが第一にすべきことです。ですから、この神との関係を保つ上で支障となるものがあるとしたら、神との関係を弱めてしまうものがあるとしたらそれを取り除かなければなりません。そして神との関係を第一にしなければならないのです。これが、聖書が教えている原則です。
たとえば、日曜日のことを考えてください。もし時間があったら礼拝に行きますと言ったらどうでしょう。だれも行けません。だってそんなに暇な人はいませんから。みんな日々忙しく走り回っています。それでも礼拝を守ることができるとしたら、それはその人の中にこれが最も大切なこと、最も優先されることという考えが確立されているからです。というのは、人はみなその人の考える優先順位に従って行動しているからです。もしそれがその人にとって最も大切なものであるならば、どんなことがあっても優先しますが、そうでないとこのような言い訳をしてしまうことになります。そのように言い訳ばかりしている人は、残念ながら何をしても、どの分野でも祝福されることはありません。それがその人となりを決めるからです。第一のものを第一にするなら、それに加えてすべてのものが加えられると聖書にあるとおりです。
アメリカの建国の父と呼ばれたベンジャミン・フランクリンは、政治家・外交官だけでなく、実業家、文筆家、科学者、発明家として多くの業績を残しましたが、その業績を称えて、アメリカの100ドル紙幣にその肖像が描かれているほどです。そのベンジャミン・フランクリンが残した有名な言葉の一つにこういうものがあります。
「言い訳が得意という人が、他のことも得意という人を、私は1人も知らない。」
言い訳が得意だという人、すぐに言い逃れをする人は、どの分野においても成功することはないということです。何をしてもうまくいくことはありません。そのためには優先順位をしっかり確立しておかなければなりません。ハガイの時代のユダの民にとっての最優先事項は何でしたか。エルサレムの神殿、神の宮を再建することでした。それが神の命令、神の教えだったからです。それはどんな犠牲を払ってでも最優先にしなければならなかったのに、彼らは「主の宮を建てる時はまだ来ていない」と言っていたのです。それは私たちも同じです。私たちも第一にすべきことを第一にすべきです。まず神の国と神の義を第一に求めなければなりません。
私たちが優先すべき第二のことは何でしょうか。それは家族との関係です。夫婦の関係や親子の関係ですね。それが、聖書が教えていることです。テモテ第一3:1~4には、このように教えられています。「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。──自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう──」
でもその前に神との関係が来ます。神との関係が健全ならば、夫婦の関係も、家族の関係も健全になるからです。なぜ家族の関係が不健全なのでしょうか。それは神との関係が不健全だからです。神との関係が健全なら、家族の関係も必ず健全になります。だから、神様と良い関係を持っている人は、夫婦関係においも、親子関係においても、また、その他ありとあらゆる人間関係においても必ず健全になります。なるはずです。問題が起こっても必ず克服することができます。イエス様のことばに従って赦し合い、助け合い、愛し合い、励まし合うからです。それができないのは神様との関係が貧弱だからです。だからイエス様は、まず神の国とその義を第一に求めなさい、と言われたのです。神との関係が第一です。第二は家族との関係です。
私たちの優先順位の第三は何でしょうか。それは私たちの働きです。たとえそれがミニストリーと呼ばれる神の働きであったとしても、です。それが神との関係や家族の関係に優先することはありません。なぜなら、神との関係や家族との関係が健全でなければ、神の働きを健全に行うことができないからです。それが、聖書が教えていることです。それが教会の仕事、教会の奉仕、教会の活動であったとしても、それが家族に優先するものではありません。まずは神様との関係です。神の国と神の義を第一にしなければなりません。そして次に家族との関係です。その次が仕事です。ミニストリー、奉仕です。神の働きと称しながら、神のため、神の栄光のため、神に喜びのため言いながら、妻を蔑ろにしていることがあるなら、それは神のみこころではないということです。教会の仕事に夢中になり、家族との時間が持てないとしたら、それは既に優先順位を間違っていることになります。そのような働きはどこかで必ず息詰まることになります。
第四は何でしょうか。第四は自分です。自分がしたいこと、それが趣味であれ、仕事であれ、付き合いであれ、それが神様との関係や家族との関係、あるいは仕事に優先するものではありません。勿論、バランスが大切ですが・・・。趣味も大切です。遊びも大切です。これがないと車のオイルがなくなった時のようにオーバーヒートしてしまいますから、それも大切ですが、それが優先順位の第一にくるものではありません。
ある人は、いや、自分を愛することができなければ他の人を愛することもできないでしょう。だからまず自分を愛さなければなりません。自分の思うように生きるのが一番いいんだと。いわゆる、心理学者フロイトの原則ですね。でもこの世の快楽だけでは、決して解決できないことがあります。それは精神的空虚と不安です。そのためにみんな疲れ果てているのです。それを真に満たすことが出来るのは、私たちを創られたほんとうの神だけであって、自分の満足や快楽ではありません。だから聖書には、自分を愛しなさいなんて一言も記されていないのです。なぜなら、あなたはもう十分神様に愛されているからです。イエスさまがいのちをかけて愛してくださいました。だからあなたに必要なのは自分を愛することではなくて、自分が神から愛されたことを感謝して、その愛を神様にお返しし、家族、隣人に仕えることなのです。だから私たちが自分を愛するとか、自分の仕事に没頭するとか、神の働きに必死になる必要はありません。それは2の次、3の次なのです。勿論、それはどうでもいいということではありません。それらのことも当然必要不可欠なものとして重要なものですが、でも優先順位を間違えると、すべてが台無しになってしまいます。
ですから、この優先順位を間違えないようにしましょう。まず神の国と神の義を第一にすることです。板張りの家に住むことではありません。神がせよと言われることをするのです。これが確立されていれば、必ず神のみこころに叶った歩みをすることができます。その結果、神の祝福に満ち溢れた生涯を送ることができるのです。
そのように優先順位を間違えて、言い逃れをしていたイスラエルに対して、主は何と言われましたか。次に、5~6節をご覧ください。5節には、「今、万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。」とあります。
そのように優先順位を間違って言い逃れをしていたユダの民に対して主は、「あなたがたの歩みをよく考えよ。」と言われました。これは7節にも繰り返して言われていることです。実は2章に入ってからも、15節、18節に2回と、全部で5回も繰り返して語られています。これはどういうことでしょうか。
新改訳第三版ではこれを「あなたがたの現状をよく考えよ」と訳しています。また、口語訳では「あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい」と訳しています。新共同訳では「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」と訳しています。実は、この新共同訳が一番直訳に近い訳です。というのは、この新改訳2017には※がありますが、下の欄外には、直訳「に心を据えよ」という意味ですよとあるように、自分の歩む道についてよく考えなさいという意味だからです。あなたがたの歩む道についてよく考えるように、自己吟味するようにということです。私たちの道、それは自分のことばかり求める道でしょうか。自分が成功すること、自分が出世すること、自分の夢がかなうことでしょうか。それがあなたの道ならばよく考えなさいというのです。その道がどこに向かって行くのか、どのような結果がもたらされるのか、それをよく考えなければなりません。
6節に、その結果が語られています。「多くの種を蒔いても収穫はわずか。食べても満ち足りることがなく、飲んでも酔うことがなく、衣を着ても温まることがない。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ。」
働けど、働けど、我が暮らし楽にならず、です。なぜなら、多くの種を蒔いても収穫はわずかだからです。食べても満ち足りることはありません。飲んでも酔うことがありません。ちっとも楽しくないのです。皆さんもそのような経験があるのではないでしょうか。働いても、働いても、すぐに消えて無くなってしまいます。物価が高騰しているからではありません。財布に穴が開いているからです。穴の開いた袋に入れているからです。だからどんなに働いても、豊かになれないのです。これだけ働けば幸せになれると思ったのに、これですべてを手に入れることができると思ったのに、湯水のように流れていきます。これさえできれば、この資格さえ手に入れることができれば、マイホームさえ手に入れたら、結婚さえできれば、就職さえできれば、きっと幸せになれると思ったのに、満ち足りることがありません。実に空しい人生です。伝道者ソロモンはこう言いました。「空の空。すべては空。」(伝道者の書1:2)
どんなに快楽を味わっても、どんなに事業を拡張し、自分のために邸宅を建てても、いくつもぶどう畑を設け、いくつも庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えても、だれよりも多くの牛や羊を所有しても、どんなに金や銀、宝を集め、多くの側めたちを手に入れても、空の空、すべては空だと。
どうしてそんなに空しいのでしょうか。それは自分のために働いているからです。神様が何を望んでおられるかではなく、自分のことで精一杯になっていたからです。だから祝福が無いのです。何となくわかりますよね。そういう生き方をしている限り、いつまで経っても満たされることはありません。多く種を蒔いても、少ししか刈り取ることができず、食べても満ち足りることがありません。結局、すべてが空、となるのです。
彼らは多くのものを期待しましたが、得た物はわずかでした。それはなぜか?ここには「それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。」とあります。彼らがそれぞれ、自分の家だけのために走り回っていたからです。それゆえ神は露を滴らせることをやめ、地はその産物を出すのをやめました。すなわち、彼らが神の命令に従わず、自分ことを最優先にしたからです。それゆえ、地は産物を出すのをやめたのです。神様に従わなければ、あなたの人生もカラカラになってしまいます。何の産物も生み出さない、不毛な人生となるのです。そのことをよく考えなければなりません。
あなたの歩みはどうですか。何の産物も生み出さない不毛な人生になっていませんか。多く種を蒔いても収穫はほんのわずか、食べても満ち足りることがない空虚な人生にはなっていないでしょうか。稼いでも、稼いでも、穴の開いた財布に入れていませんか。それはなぜか。よく考えてください。あなたがたの歩みを。それは優先順位が間違っているからです。もしあなたが神の国と神の義を第一に求めるなら、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。これが神の約束です。それに加えて、これらのものはすべてとありますが、これらのものとは何ですか?それは、その文脈で語られていることですが、それは食べ物のことであり、飲み物のことです。また着物のことです。すなわち、衣食住という私たちの生活に必要な基本的なものです。そうしたものも、神の国とその義を第一にするなら、神は必要なすべてのものを満たしてくださいます。これが聖書の約束です。
では、どうすれば良いのでしょうか。最後にそのことについて見て終わりたいと思います。7~8節をご覧ください。ここには「1:7 万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。1:8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。──【主】は言われる──」とあります。
ここにも、「あなたがたの歩みをよく考えよ」とあります。そして、山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ、と言うのです。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現わすと。どういうことでしょうか。主の宮は自動的に建つものではないということです。そのためには山に登らなければなりません。そこで木を切って、その木を運んで来て、加工して、設計図に従って組み立てなければなりません。黙って何もしないで勝手に建つわけではないのです。
それは神の宮である私たちのからだにも言えることです。聖書は、あなたがたのからだは神から受けた聖霊の宮であると言われています。その聖霊の宮であるからだ、クリスチャンライフは、自動的に建つわけではありません。イエス様を信じてバプテスマを受け、教会員になったから、建て上げられるということではないのです。そのためには山に登らなければなりません。木を運んで来なければなりません。そしてそれを組み立てて宮を建てなければならないのです。
でも、どうして主はこのように言われたのでしょうか。というのは、この宮を建てるための木材は既に与えられていたからです。エズラ3:7を見ると、ここには「彼らは石切り工や大工には金を与え、シドンとツロの人々には食べ物や飲み物や油を与えた。それはペルシアの王キュロスが与えた許可によって、レバノンから海路、ヤッファに杉材を運んでもらうためであった。」とあります。木材はツロとシドンから調達されていました。自分たちがわざわざ山に登って、木を運んでくる必要はなかったのです。レバノンから海路、ヤッファに杉材を運び入れていました。それなのにここに「山に上り、木を運んで来て、宮を建てよ」と言われているのは不思議というか不自然です。どうして主はこのように言われたのでしょうか。それは十分足りるはずの木材がなかったからでしょう。どうしてなかったのでしょうか。4節のことばから考えられるのは、彼らが自分たちの家を建てるためにそれを流用していたからです。4節に「あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか」とあります。実際、彼らは自分たちの板張りの家の建材をどこから手に入れたのでしょうか。ここからじゃないですか。つまり、彼らは宮を建てるための木材を、自分の家を建てるために流用していたのです。だから、彼らは山に行って木を切り、それを運んで来て、宮を立てる必要があったのです。マラキ書には、それは神のものを盗むことだと言われています。
本来であれば、すべてが神様のものですから神にお返ししなければならないのに、彼らはそれを盗んでいました。どのように?十分の一と奉納物によってです。本来ならばすべてが神のものですから、すべてを神にお返ししなければなりません。それが十分の一献金の意味です。別に神様は私たちから十分の一を受けなくても全く問題ないのに、あえてそうするようにと言われたのは、神のみこころに従って生きてほしいと願っておられるからです。それなのに彼らはそれを怠っていました。それを神は「わたしのものを盗んでいる」と言われたのです。えっ、ちゃんと献金していますよ。どのように私たちがあなたのものを盗んだというのですか。十分の一と奉納物によってです。確かに彼らはささげものをしていたかもしれませんが、それは余ったもの、どうでも良いものでした。そういうものを一応、形式的にささげていましたが、それは本来のささげものではなかったのです。本来のささげものは、神のものを神のものとしてお返しすることです。その表明として十分の一が定められていたのです。人によってその額は違います。でもいやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにささげることを、神は望んでおられました。十分の一というのは、その基準だったのです。しかし彼らはそれを怠っていたので、神様は「あなたがたは神のものを盗んでいる」と言ったのです。
ハガイの時代もそうでした。彼らは神のものを盗んでいました。敵の妨害によって神殿再建が遅々として進まなかったとき、彼らはその木を流用して自分たちの床張りとしていたからです。彼らは神のものを盗んでいたのです。だから呪われていたのです。だから、山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ、と言われたのです。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現わすと。
私たちはどうでしょうか。神のものを盗んではいないでしょうか。今月は金欠だ!とても十分の一は厳しい。いろいろ必要もあるし、余ったらささげよう、そう思ってはいないでしょうか。お金はいくらあっても足りない。老後のために蓄えなければならないし。それは神のものを盗んでいることになるのです。その結果はここにあるとおりです。多くを期待しても、得るものはわずかです。天は露を滴らすのをやめ、地はその産物を出すのをやめてしまいます。神様が吹き飛ばされるからです。あるのは日照りです。地にも山々にも、穀物にも新しいふどう酒にも、地が生み出すものにも、人にも家畜にも、人の手によるすべての労苦にも、です。なぜ?神のものを盗んだからです。十分の一と奉納物を自分たちのために流用したからです。だから、あなたがたの歩みをよく考えるようにというのです。山に登り、木を運んで来て、宮を建てなければなりません。ということは、これからでも遅くはないということです。確かにこれまでは自分の必要のためと、主にお返しすべきものをお返ししないで盗んでいたかもしれませんが、そうだったのか、わかりました。主よ、私は山に登ります。そして木を運んで来て、宮を建てますと、それを実行するなら、主はそれを喜び、栄光を現わしてくださいます。
感謝ですね。すべては神からいただいた恵みです。この健康も、経済も、仕事も、家族も、すべての良いものを主は与えてくださいました。しかも、神はご自身のひとり子イエス・キリストさえも惜しまずに与えてくださいました。感謝でいっぱいになります。何とか御礼をしたいです。でもとてもじゃないけど、この世のものでその御礼をすることはできません。だから私たちはささげものをするのです。でも考えてみてください。本当はそれさえも神のものなのです。それなのに神様はそれを喜んで受け入れてくださいます。
娘が幼稚園生の時、父の日に私の顔を描いた絵をプレゼントしてくれました。「ありがとう」という字を添えて。とてもほめられるような字ではありません。似ても似つかないような似顔絵を描いて、一生懸命に折った折り紙をつけて作ってくれたんです。どう思いますか?本来なら、その画用紙もクレヨンも、折り紙も、全部私が支払ったものです。それでも娘が「お父さんありがとう」とプレゼントしてくれたら、うれしくて感動します。それはお金には代えられない、何ものにも代えられない喜びです。娘が自分のことをこんなに喜んでその喜びを何とか表したいと一生懸命に作ってくれたのです。それは親として大きな喜びでした。
神様も同じです。はたから見たらそれは大したものではないかもしれません。そんなに高価なものでもないでしょう。大した奉仕じゃないかもしれない。でも神はそれを喜んで受け入れてくださいます。そしてご自身の栄光を現わしてくださいます。だから私たちも、神のものを神のものとしてお返ししなければなりません。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、主はそれを喜び、栄光を現わしてくださるのです。
私たちは、この朝もう一度、自分の歩みをよく考えたいと思います。第一のものを第一にしているかどうか。もしそうでなかったら、山に登り、木を運んで来て、宮を建てましょう。そうすれば、主は受け入れてくださいます。それを喜び、栄光を現わしてくださいます。それこそ私たちの本望ではないですか。そのような歩みができるように、神様が力を与えてくださるように祈り求めようではありませんか。