使徒の働き24章1~27節 「やがて来る審判」

 きょうは、「やがて来る審判」というタイトルでお話したいと思います。今お読みした箇所は、パウロがローマの総督ペリクスの前で受けた審判(裁判)の様子が記されてあるところです。1節には、

「五日の後、大祭司アナニヤは、数人の長老およびテルトロという弁護士といっしょに下って来て、パウロを総督に訴えた。」

とあります。ユダヤ人たちからの暗殺を免れたパウロは、エルサレムからカイザリヤに護送されてきましたが、その際、23章30節にありますように、ローマの千人隊長ルシヤは、総督ペリクスに「訴える者たちには、閣下の前で彼のことを訴えるように言い渡しておきました」と手紙を書き送りましたが、そのとおりに、五日の後に、大祭司アナニヤは、数人の長老およびテルトロという弁護士といっしょに下って来て、パウロを総督に訴えたのであります。

 きょうは、この総督ペリクスの前での裁判を通して、いかなる状況にあってもクリスチャンが採るべき態度について三つのことを学んでいきたいと思います。まず第一のことは、クリスチャンはののしられてもののしり返さないということです。第二のことは、人間にはこの地上での審判の他に死後に審判が受けるように定められているので、その審判に備えて生きましょうということです。そして第三のことは、どんなことがあってもすべてを主にゆだねてということです。

 Ⅰ.ののしられても、ののしり返さず(2-9)

 まず第一に、ののしられても、ののしり返さないということについて見ていきたいと思います。2~9節をご覧ください。ここには、パウロに対するテルトロの訴えが記されてあります。2~4節です。

 パウロが呼び出されると、ユダヤ人側の弁護士として雇われたテルトロが、パウロを訴えます。彼はまず「ペリクス閣下。閣下のおかげで、私たちはすばらしい平和を与えられ、また、閣下のご配慮で、この国の改革が進行しておりますが、その事実をあらゆる面において、また至る所で認めて、私たちは心から感謝しております。」と適当なお世辞を並べます。なぜそれがお世辞だと言えるのかというと、彼らはペリクスのことをそのようには見ていなかったからです。それは27節に彼が総督の座から降りるようになったとありますが、それはユダヤ人の暴動がきっかけだったからです。つまり、彼らはペリクスに対していい気持ちなんて全然持っていなかったのに少しでも裁判を有利に進めようと、ペリクスの歓心を買うとしたのです。

 そのテルトロがパウロについて訴えたことは、次のことでした。5~6節です。
「この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。この男は宮さえもけがそうとしましたので、私たちは捕らえました」

 テルトロの訴えによると、パウロの罪状は次の三つの点にありました。まず第一に、「この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者である」ということです。ペストのような存在というのは、放っておくとどんどん人々の間に伝染していく病気のような者だという意味です。それはパウロ自身の影響というよりも、彼が宣べ伝えていた福音の影響力がいかに大きかったかを表しています。それほどにパウロが語っていた福音の言葉は人々の間に浸透し、広がっていったのです。ローマ人への手紙1章16節に、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」とありますが、福音は人を全く新しい人に変える力があるのです。それはからし種のように、蒔かれた時には他のどんな種よりも小さいようですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほど大きくなるのです。(マタイ13:31,32)。それは「世界中で・・騒ぎを起こしている」と言われるほどの広がりを持っているのであります。

 それにしても「ペストのような存在」とはひどい言葉です。俗っぽい言葉で言えば「バイキンマン」でしょう。そのように言われて傷つき、自殺した人までいるほど辛辣な言葉です。裁判では検察や弁護人はそれを聞いている裁判官や裁判員の情に訴え、できるだけ相手に対して悪いイメージを与えることが必要なのでしょうが、テルトロはパウロを「ペストのような存在」という言葉を使って、彼がいかにびとい人間であるかのような印象を与えようとしたのです。「ペットのような存在」じゃなくて、「ペストのような存在」です。ペットならかわいいのですが、ペストは最悪です。テルトロはパウロを「ペストのような存在」だと言ったのです。

 それから、テルトロが訴えた第二の点は、パウロが「ナザレという一派の首領である」ということでした。ユダヤ教徒は、イエスを軽蔑して「ナザレ人」と呼んでいましたが、そのナザレ人イエスを救い主として信じる一派、ナザレ派の最高リーダーだというのです。総督は、こうした偽メシヤ運動がどんなに危険な狂信的政治運動を引き起こすかを知っていましたから、このように言えば、総督も放っておくことはしないだろうと考えたのだと思います。

 そして第三の点は、この男は宮さえも汚そうとしたということでした。これは21章28,29節の出来事です。彼らはパウロが神殿に入って行ったとき、異邦人トロピモを中に連れ込んだのではないかと思い込みパウロに手をかけて捕らえたのですが、実際にはそうではありませんでした。ユダヤ人たちがそのように勝手に思い込んだだけです。彼らの誤解です。にもかかわらずそのように訴えたのは、宮に関係していたサドカイ人たちがローマ政府の協力者であったことから、このように訴えることによって、裁判が自分たちに有利に展開するのではないかという計算があったからです。

 このようにテルトロは、このパウロという人物が、ローマ人にとってもユダヤ人にとっても、また政治的にも宗教的にも危険であると強調しました。神の前にも、人の前にも、全く正しく生きていると信じていたパウロにとって、このように訴えられたことは、どんなに苦しかったことかと思います。自分はただ神のみこころに従って神の福音を伝えているだけなのに、ペストのような存在だの、騒ぎを起こしていると言われたり、宮さえも汚していると言われたのではたまったものではありません。その心はズタズタに引き裂かれ、煮えたぎる怒りで一杯だったのではないかと思います。そして、このようなことは私たちにもよくあることなのです。Ⅱテモテ3:12には、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者には、大なり小なりの苦しみが伴うのです。問題は、そのような攻撃を受けた時、私たちはどうしたらいいのか、どうあるべきなのかということです。Ⅰペテロ2章19,20節には次のように勧められています。

「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」

 ここには、もし人が不当な苦しみを受けることがあっても、悲しみをこらえるなら、それを堪え忍ぶなら、神に喜ばれるとあります。人がもし不当な苦しみを受けるようなことがあったら、忍耐することが神の喜びであるというのです。いったいどうやって忍耐することができるのでしょうか。いつもそのことが頭から離れることなく、怒りがこみ上げてくるというのに、どうやってそれに耐えろというのでしょうか。そのような時はイエス様のことを思い出してください。ですから続くⅠペテロ2章22節からのところには、次のように進められているのです。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:22~24)

 キリストは、その足跡に従うようにと、模範を残されたのです。ですから、もし人が、不当な苦しみを受けるようなことがあってもイエス様のことを思い出せばいいのです。本来ならば裁かれても仕方ないようなこの私が、神の恵みによって、キリストの十字架の購いによって罪赦された者であるということを覚えるとき、不思議なことですが、その人を赦せるようになるのです。私たちの心がいやされることを経験することができるのです。あの奴隷船の船長だったジョン・ニュートンは、この驚くべき神の恵みに触れたとき、「Amazing Grace!」と叫びましたが、私たちもこのキリストの十字架による神の恵みに触れるとき、「Amazing Grace!」「何とすばらしい恵みなんだろう」と言って、悲しみをこらえることができるようになるのです。プラス伝道者の書7章には次のようにも勧められています。21,22節です。

「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。」

 これはどういうことかというと、もし皆さんが不当だと思えるような苦しみを受けることがあっても、そのことにいちいち心に留めてはいけないということです。なぜなら、そののろいを聞かないためです。また、意外に皆さん自身も人のことをののしっているんだから、人のことはあまり言えないよというわけです。ですから、正しすぎてはいけないし、知恵がありすぎてもいけません。逆に、悪すぎても、愚かすぎてもだめです。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがいいのです。神を恐れる人は、この両方を会得しているのです。(伝道者7:16~18)つまり、そのような苦しみに遭ったときに悲しみをこらえる秘訣は、イエス様のことを思い出し神の恵みに浸ることと、あまり自分を正しいとしないということなのです。

 Ⅱ.やがて来る審判に備えて(10-21)

 次にパウロの弁明を見ていきましょう。10-21節までをご覧ください。テルトロの訴えが終わると、総督ペリクスに促されて弁明に立ったパウロは、テルトロが取り上げた三つの点に対して、一つ一つ反駁していきます。まず第一点目の、彼が世界中のユダヤ人の間で騒ぎを起こしているということに対しては、11~13節のところで、お調べになればわかることですが、自分は決して騒ぎを起こしてローマの平和を乱すような者ではないと反論します。事実、彼がエルサレムに上ったのは礼拝のためであって、暴動を起こすためではありませんでした。神殿の中で騒ぎを起こしたのはむしろユダヤ人たちの方です。しかも彼がエルサレムに上ってから、まだ12日しかたっていませんから、そんな騒ぎを起こす余裕さえもありませんでした。

 第二の告訴理由である彼がナザレ人という一派の首領であるということに対しては、14節のところで次のように反論しました。「しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。」
 パウロは、自分がナザレ人という一派の首領であるかどうかについては言及しませんでしたが、自分は確かにこのナザレのイエス・キリストを信じる者たちの群れに属しているとはっきりと認めた上で、しかし、ユダヤ人たちに異端と見られているこの一派がどういうものなのかについては、これが決して異端的な者たちではなく、むしろこの者たちこそ旧約聖書の律法にかなっている者たちであって、本当の意味で先祖の神に仕えている者たちであると言いました。

 そして第三の告訴理由である宮を汚しているということについては17~21節に記されてありますが、自分は決して宮を汚すようなことはしておらず、むしろユダヤ教の律法の教えに従って礼拝のために神殿に上って行ったにすぎないと、ユダヤ人たちの訴えをことごとく打ち消しました。そして、そもそもこの問題は純粋にユダヤ教の復活という教理を巡るパリサイ派とサドカイ派の対立から起こったものであるのだから、もしそうであるならば、ローマの法廷で争うこと自体がおかしいと主張するのでした。

 このようにユダヤ人たちの訴えはパウロの弁明によってことごとく退けられていくのですがその中でも特に注目したいのは、パウロが16節で語っていることです。ここでパウロは、

「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」

と言っています。このことは既に23章1節のところでも言及してきたことです。「兄弟たち。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」と。この「良心」という言葉は、もともと「一緒に」という言葉と、「知る」という言葉が組み合わされてできた言葉で、「共に知る」という意味です。ほかの人はだれも知らなくても、自分とともにおられる神が見て、神が知っておられるという意味です。神と一緒に自分の心を神が見られて、そこにやましさがないこと、それが「良心」です。パウロはいつも、この良心を保つように最善を尽くしてきたのです。人間は、時として自分さえもごまかしかねません。ましてや他人の目をごまかすことなど朝飯前でしょう。しかし、人間の目をごまかすことはできても、すべてを見通しておられる神の目をごまかすことはできません。その神がコンピューターよりも正確に、私たちの心を知っていてくださる。その神の前に歩んできたというのです。このように言える人が、いったいどれだけいるでしょうか。自分では良心的に生きていると思っていてもそこにともに見ておられる神がいなければ、結局のところそれは自分たちの満足と自己中心的な良心でしかないのです。パウロはいつも、神の前にも、人の前にも責められるところのない良心を保つように、と最善を尽くしました。ですから、この後の24節のところで、ペリクスがユダヤ人の妻ドルシラを連れて来て、彼からキリスト・イエスを信じる信仰について話しを聞こうとしたときも、パウロが語ったことは何だったかというと、正義と節制とやがて来る審判でした。なぜなら、彼らが不義の結婚をしていたからです。ドルシラがあまりにも美しいからと、その時他人の妻であったドルシラを、ペリクスは横取りして妻にしたのです。そのことを見逃しませんでした。相手がだれであろうとも正しいことは正しいこと、間違っていることは間違っていることと、はっきりと主張したのです。そのことが自分にどのような不利益をもたらされるかといった計算を一切せず、神の前でどうなのかということを考えながら生きてきたのです。それがクリスチャンの生き方なのです。

 それにしてもなぜパウロは、そのような生き方ができたのでしょうか。それは彼の中で、この地上の審判とは別の審判を意識していたからではないでしょうか。その審判とは何でしょうか。それは25節にある「やがて来る審判」です。ヘブル人への手紙9章27節に、

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」

とあります。人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっています。その死後のさばきのことです。この地上でのさばきは、一つの法廷でも、原告と被告の言い分を証拠、証人として次々に調べ、さらに、地方裁判所から高等裁判所へ、そして最高裁判所へと舞台を移していきますが、最後の裁判は、永遠の世界におけるたった一度のさばきです。みながいっせいに被告人となり、神の前に立つ時がやってきます。そして、右と左に、羊と山羊に、救いと滅びに、天国と地獄に分けられるのです。そういう時がやって来ます。パウロはそのやがて来る最後の審判に備えて生きていたので、いつもこの神の前に責められることがないようにと最善を尽くしていたのです。

 皆さんはいかがですか。この地上での審判を逃れることができても、いつか必ず神の前での審判を受ける時がやってきます。聖書はそのようにはっきりと言っています。この神のさばきに耐えられる人がいったいいるでしょうか。いません。ただ神の子イエス・キリストの十字架の購いを信じた人だけが、価なしに義と認められるのです。この神の救いを受け入れ、やがて来る審判に備えてください。それが神が私たち人間にもっとも願っておられることなのです。

 ペリクスとドルシラはどうだったでしょうか。25節をご覧ください。パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたとき、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言いました。人はしばしば、ペリクスのように、伝道に対して、「おりを見て」と言います。「またいつか」と言うのです。しかし、この救われるためのキリストの福音に対して、「おりを見て」とか「またいつか」ということはできません。なぜなら、これは時間的な問題ではなく、人事として聞くか、我が事として聞くかという問題だからです。やがて来る審判とか、最後の審判というと、いかにもまだまだ先のことであるかのようですが、実は、義人も悪人も必ず復活するので、だれひとり逃れることのできないさばきなのです。このさばきに備える唯一の道は、今、私たちの前に差し出されている神の救いを受け入れること以外にはありません。神の救いであるイエス・キリストを素直に信じてください。そして、やがて来る審判に備えようではありませんか。

 トマス・ア・ケンピスは「キリストにならいて」という本の中で、次のように言っています。「あのさばきの日、すなわちだれも自分を弁護してくれる人を見いだすことができず、各自が自分を弁護するのに大あわてをするさばきの日のために、なぜ、あなたは自らを備えようとしないのですか?」
 
 この神の法廷の前に良心に恥じないように備えることだけが、すべての人に必要なことなのです。

 Ⅲ.すべてを主にゆだねて(22-23)

 最後に、この審判の結果を見て終わりたいと思います。ユダヤ人テルトロの巧妙な訴えに対して、パウロは心を込めてその弁明に努めましたが、果たしてその結果、どうなったでしょうか。22~23節をご覧ください。

「しかしペリクスは、この道について相当詳しい知識を持っていたので、「千人隊長ルシヤが下って来るとき、あなたがたの事件を解決することにしよう。」と言って、裁判を延期した。そして百人隊長に、パウロを監禁するように命じたが、ある程度の自由を与え、友人たちが世話をすることを許した。」
 
 何ということでしょうか。パウロの必死の弁明にもかかわらず、ペリクスは判決を遅らせ、裁判を延期しました。そして百人隊長に、パウロを監禁するように命じました。いったいペリクスはどうしてこのようなことをしたのでしょうか。22節をみると、その理由が書かれてあります。それは「ペリクスは、この道について相当詳しい知識を持っていた」からです。ペリクスはこの道について相当詳しい知識を持っていたので、パウロがローマをひっくり返そうとしているような危険人物ではないことくらいちゃんと知っていたので、ある程度の自由を与え、監禁することにしたのです。そして悪いことに彼は、これを自分の利得を得る手段として用いようと考えました。パウロからお金をもらいたいという下心があったり、ユダヤ人たちに恩を売るために利用しようと思ったのです。まことに神を恐れぬふととき者です。27節には、何とそれが二年間も続いたとあります。当初は一時的な拘留のつもりだったのが、結局このカイザリヤで二年間も過ごすことになりました。もうローマ行きは時間の問題だと思っていたパウロにとって、この二年間の足止めは決して短いものではなかったはずです。いったいどうしてこんなことになるのでしょうか。

 確かにローマ行きを切望していたパウロにとって、このカイザリヤでの二年間というものは長い試練の時だったに違いありません。しかし、パウロにとって、いやもっと長い目で見たら教会にとって、実はこの二年間というのはとても有意義で貴重な時だったのです。というのは、獄中書簡と呼ばれているパウロの手紙は、この時に書かれたのではないかと言われているからです。獄中書簡というのは、エペソ、ピリピ、コロサイ、ピレモン書です。仮にそうでないとしても、少なくても彼の深遠な思想、彼の神学体系は、間違いなくここで練られたことは確かです。これは私たちの人生にも度々起こることです。どう見ても遠回りで、無駄であるかのようにしか見えないそのような時を、神は最善に導いておられるのです。であれば、私たちはすべてを支配し、導いておられる神にすべてをゆだねて進むべきではないでしょうか。

 アメリカのインディアナン州ルイズビルという町に、カーネル・サンダースという方がおられました。彼はその町のバプテスト教会に通うクリスチャンでしたが、どんな商売をしてもうまくいかず、60を過ぎても貧乏のどん底で苦労しておられました。しかし、どんな時でもあきらめず、神に信頼し、感謝して生きていました。そして65を過ぎた頃に、美味しいフライドチキンを作る術を見いだしたのです。それは今は全米はおろか、全世界に知られるケンタッキーフライドチキンになりました。

 神のなさることには「時」があります。それがいつなのかはわかりませんが、神はご自身のご計画に従って導いておられるのです。ですから、そのみことばの約束を信じて、たとえ今はそうでなくても、必ず神が導いてくださると信じて、その時を待ち望もうではありませんか。キリストの十字架に信頼し、神の前にも、人の前にも責められるところのない良心を保つようにと最善を尽くし、すべてを神にゆだねてその「時」を待ち望むなら、そこに必ずそこに神が働いてくださるのです。いついかなるときもこの原則に立って歩んでいきたいものです。