Ⅱサムエル記11章

 きょうは、Ⅱサムエル記11章の「ダビデの罪」について学びたいと思います。

 Ⅰ.ダビデの罪(1-5)

 まず、1~5節をご覧ください。「年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエル全軍を送った。彼らはアンモン人を打ち負かし、ラバを包囲した。しかし、ダビデはエルサレムにとどまっていた。ある夕暮れ時、ダビデが床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、一人の女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。ダビデは人を送ってその女について調べさせたところ、「あれはヒッタイト人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバです」との報告を受けた。 ダビデは使いの者を送って、その女を召し入れた。彼女が彼のところに来たので、彼は彼女と寝た──彼女は月のものの汚れから身を聖別していた──それから彼女は自分の家に帰った。女は身ごもった。それで彼女はダビデに人を送って告げた。「私は子を宿しました。」」

 「年が改まり」とは、冬が過ぎて春が来た、ということです。イスラエルの暦では、アビブの月(ニサンの月)が新年の始まりとなります。この月はイスラエルがエジプトから脱出した月ですが、イスラエルでは出エジプトが民族の歴史の始まりであり、新しい年の始まりでもあったのです。これは太陽暦の3~4月にあたり、レバノン山の雪解けの水でエリコやヨルダン平原が潤され、大麦の収穫が始まる時期でもあります。冬の間が雨の日が続くので戦うこともできませんが、この時期になると戦いも再開します。この時の戦いは、アンモン人との戦いです。その戦いについては10章で学びましたが、アンモン人が、ダビデの送った使者たちに侮辱を加えたことで、ダビデはヨアブと勇士たちの全軍を送り出し、アンモン人とアラム人の連合軍を打ち破りました。そして年が改まった今回は、今度はアンモン人の首都ラバを包囲する戦いに臨んでいます。アンモン人の首都ラバは、現在のヨルダン王国の首都アンマンです。アンマンという地名は、このアンモンから来ているのです。しかしダビデはこの戦いに出て行かず、エルサレムに留まっていました。もはや勝敗の行方は明らかで、出向くまでもなかったのでしょう。彼は戦いの全てを、軍の司令官ヨアブに委ねました。

2節をご覧ください。そんなある日の夕暮れ時に、ダビデが床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、一人の女が、からだを洗っているのが見えました。彼女は律法に従って月のものの汚れを清めていたのです。おそらく、周囲に配置されている家臣の家の一つの庭でのことではないかと思います。ダビデはそれを見て「これはいけない!」と思ったでしょうが、その美しさにまいってしまい、それをじっと見てしまいました。これが、人が罪に陥る最初のステップです。見なくても良いものを見てしまうのです。凝視してしまいました。「これはいけない!」と思った時点で見るのを止めればよかったのに、ずっと見てしまいました。Ⅰヨハネ2:16には「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」とあります。彼はこの目の欲にすっかり魅了されてしまったのです。

それだけではありません。3節には、ダビデはその女について調べさせたとあります。その結果、彼女がヒッタイト人ウリヤの妻でバデ・シェバであることがわかると、使いを送って彼女を召し入れました。ヒッタイト人とは、カナンの先住民の一つです。つまり彼女はイスラエル人ではないヒッタイト人という異邦人出身の人の妻だったのです。しかしダビデはそんなことを全くお構いなしに召し入れてしまいました。彼はただ自分の肉の欲に従って行動したのです。

さらに4節を見ると、ダビデは彼女を召し入れ、彼女と寝ました。これは部下の妻との不倫、姦淫の罪です。彼は自分が王であることを利用し、その権威を自分の欲望を成し遂げるために用いたのです。特に、このとき夫のウリヤは戦争に出かけていました。王の命令によっていのちがけで戦っている時に、その家臣の妻に手を出したのです。これは赦されないことです。いったいなぜ彼はこのようなことをしまったのでしょうか。

ダビデは、主なる神を信じている信仰者として、そんなことをしてはいけないということくらい分かっていたはずです。しかも彼は、神が一介の羊飼いにすぎなかった自分をイスラエルの王とされたことを感謝し、その恵みを誰よりも深く体験した人です。しかし、バテ・シェバへの欲情に突き動かされていく時、そのようなことは全く歯止めにもならなかったのです。いったいなぜ彼は罪に陥ってしまったのでしょうか。ダビデほどの信仰者がこのように罪に陥っていくのであれば、私たちごときはどんなに注意したとしても、罪を犯さずにいられるという保証は一つもありません。罪の力というのはそれだけ大きく、不気味なものなのです。神様を信じていれば、神様に従おうと努力していれば、それを防ぐことができる、罪に陥らないで済むなどという甘いものではありません。「私たちはダビデのような罪を犯さないように気をつけましょう」というだけでは追いつかないほど、恐ろしいものなのです。いったい彼はどうしてこんなことをしてしまったのでしょうか。

このことを考えるとき、この時彼がどのような状況に置かれていたのかを考えるのは有益なことだと思います。前章で私たちは、アラムを打ち破ったダビデは祝福の絶頂にあったことを学びました。その戦いによってダビデは、その勢力をユーフラテス川のかなたにまで広げたのです。それは主がアブラハムやモーセ、ヨシュアに約束されたことの成就でした。主は、彼らに約束されたことを、一つもたがわず、みな実現してくださいました。しかし、そうした祝福の絶頂にあって、彼らの中に高慢が生じていたのです。箴言16章8節に「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」とありますが、まさに高慢になったことで、破滅の一途をたどることになったのです。

私たちが霊的に一番危険なときというのは、試練や困難、弱さの中にある時ではなく、このように祝福されている時です。イスラエルに対して主はモーセを通して、「約束の地で祝福されたイスラエルが、高ぶって「自分たちの手で、このように繁栄しているのだ」と言うことがないように、そして他の神々に従うことがないように」と戒められましたが、自分たちが祝福されていると、自分たちは正しい者であると錯覚し、あたかも自分の手で何かを成し遂げたかのような思いになってしまうことがあるのです。ダビデも、主がこの国を立ててくださったことに安住し、一心に走ることを怠って、高慢になっていました。このような時は注意が必要です。私たちはいつも主の御前にへりくだり、謙虚に歩まなければなりません。そして、イエス様が教えられたように、誘惑に陥らないように祈らなければならないのです。

ダビデは、他人の妻と寝たとき、それだけのことだと考えていたかもしれませんが、そうではありませんでした。5節にあるように、バテ・シェバは身ごもってしまったのです。彼女はそのことをダビデに告げます。そして、そこからさらに深刻な話へと展開していくことになるのです。

Ⅱ.罪の隠蔽しようとしたダビデ(6-25)

次に6~25節をご覧ください。13節までをお読みします。「ダビデはヨアブのところに人を遣わして、「ヒッタイト人ウリヤを私のところに送れ」と言った。ヨアブはウリヤをダビデのところに送った。ウリヤがやって来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、また兵たちは無事か、さらに戦いはうまくいっているかと尋ねた。ダビデはウリヤに言った。「家に帰って、足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼の後に続いた。しかしウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなと一緒に眠り、自分の家に帰らなかった。ダビデに「ウリヤは自分の家に帰らなかった」という知らせがあった。ダビデはウリヤに言った。「あなたは遠征して来たのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか。」ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私が家に帰り、食べたり飲んだりして、妻と寝るということができるでしょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」ダビデはウリヤに言った。「今日もここにとどまるがよい。明日になったら、あなたを送り出そう。」ウリヤはその日と翌日、エルサレムにとどまることになった。ダビデは彼を招いた。彼はダビデの前で食べて飲んだ。ダビデは彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちと一緒に自分の寝床で寝た。しかし、自分の家には下って行かなかった。」

ダビデはバデ・シェバが身ごもったことを知ると、ヨアブのところに人を遣わし、ウリヤを自分のところに来させます。そして、戦況について尋ねると、「家に帰って、足を洗いなさい」と言いました。どういうことでしょうか。これは、ダビデが行ったことを隠蔽するための工作です。バデ・シェバの妊娠が通常の夫婦生活によるものと見せかけようとしたのです。ウリヤがバテ・シェバのところに入れば、生まれてきた子はウリヤの子であるとごまかすことができます。8節の「家に帰って足を洗いなさい」とありますが、これは「ご苦労だった。奥さんの所に帰ってゆっくりくつろげ」ということです。しかもダビデはウリヤに贈り物までしています。妻と共に楽しむためのご馳走か何かだったのでしょうが、いつになく親切な、愛想のよい態度の背景には、こうした魂胆があったのです。

ところが、このウリヤという人は実に忠実で、実直な人でした。彼は自分の家に帰ろうとせず、王宮の門のあたりで寝たのです。神の箱も、イスラエルも、ユダの仮庵に住み、主人ヨアブも、その家来たちも戦場で戦っているというのに、自分だけが家に帰り、食べたり飲んだりして、妻と寝るようなことはできるだろうか、そんなことは決してできないと思ったからです。その隠蔽工作が失敗に終わると、次にダビデが考えたことは、ウリヤに酒を飲ませて、何とか家に帰らせようとすることでした。酒を飲ませて酔わせれば、気分がよくなって帰るのではないかと思ったのでしょう。しかし、ウリヤはそれでも自分の家に帰ることをせず、自分の主君の家来たちと一緒に自分の寝床で寝ました。彼はどこまでも忠実に主君に仕えようとしていたのです。しかし今、ダビデにとって、その実直さが邪魔になっていました。なんという皮肉でしょうか。

ちなみに、このウリヤはヒッタイト人でしたが、改宗して神の民に加えられていました。ウリヤという名前の意味は「主は私の光です」です。ウリヤは神に愛された者として、忠実に神に仕えたいと思っていたのです。何と実直な信仰でしょうか。彼はダビデの下で、その良い霊的影響を受けていました。それなのにダビデは、そんなウリヤと殺そうとしたのです。

14節から25節までをご覧ください。「朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、それをウリヤに託して送った。彼は、その手紙に次のように書いた。「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が討たれて死ぬようにせよ。」ヨアブは町を見張っていて、その町の力ある者たちがいると分かっている場所に、ウリヤを配置した。その町の者が出て来てヨアブと戦った。兵のうちダビデの家来たちが倒れ、ヒッタイト人ウリヤも死んだ。ヨアブは人を遣わして、戦いの一部始終をダビデに報告した。そのとき、ヨアブは使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終えたとき、もし王が憤って、おまえに、『どうして、おまえたちはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのは、だれであったか。一人の女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。どうして、そんなに城壁に近づいたのか』と言われたら、『あなたの家来、ヒッタイト人ウリヤも死にました』と言いなさい。」使者は出かけて行き、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言を、すべて伝えた。使者はダビデに言った。「敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入り口まで彼らを攻めて行きました。城壁の上から射手たちがあなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヒッタイト人ウリヤも死にました。」ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言いなさい。『このことに心を痛めるな。剣はこちらの者も、あちらの者も食い尽くすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃し、それを全滅させよ。』あなたは彼を力づけなさい。」」

ウリヤがなかなか家に帰らないのを見て、ダビデが次に考えたことは実に恐ろしいことでした。彼を戦いの最前線に送り込み、彼が死ぬようにさせたのです。朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、それをウリヤ本人の手に託しました。その手紙には、ウリヤを激戦の真正面に出し、打たれて死ぬようにせよ、と書いてありました。ヨアブはダビデの命令を実行し、ウリヤが戦死するように仕向けました。案の定、ウリヤは戦いで死んでしまいました。ダビデが殺したのです。ダビデは自分の罪を隠し切れないと知るや、それを責める立場になるウリヤを抹殺することで自分の身を守ろうとしたのです。姦淫の罪を取り繕うために、何の罪もない、忠実な部下を殺すというさらに大きな罪を重ねました。罪はこのように新たな罪を生み、ふくれあがっていきます。一つの嘘をつくと、それを隠すために第二、第三の嘘をつかねばならなくなり、嘘がふくれ上がっていくのです。

18節をご覧ください。ヨアブは人を遣わして、このことをダビデに報告しました。これはあまりにも稚拙な作戦だったので、本来であれば司令官の責任問題になることでしたが、ヨアブはこの戦闘の一部始終をダビデに報告する際に、もし王がそれを聞いて憤り「何故そんなバカな作戦を行ったのか」と怒るようなら、「あなたの家来、ヒッタイト人ウリヤも死にました。」と言えと命じました。

21節にある1人の女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツでアビメレクを殺したというのは、士師記9章にある出来事です。勇将アビメレクが敵を追ってやぐらに近づきそれに火をつけようとしたとき、一人の女がやぐらの上から石を落とし、アビメレクの頭蓋骨を砕いたという出来事です。このことから「城壁に近づきすぎてはならない」というのが戦いの鉄則でした。しかし、ヨアブはこの鉄則をやぶり城壁に近づいたことで、敵が射かけてくる矢を防ぐことができませんでした。しかし、そのことでダビデが激怒したら、こう言えばいいのです。「あなたの家来、ヒッタイト人ウリヤも死にました。」

するとダビデはどのように反応したでしょうか。25節をご覧ください。「あなたはヨアブにこう言いなさい。『このことに心を痛めるな。剣はこちらの者も、あちらの者も食い尽くすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃し、それを全滅させよ。』あなたは彼を力づけなさい。」」どういうことでしょうか。心配するな、戦争なんだから、人が死ぬのは仕方がない。だから、これ以後頑張って敵を攻撃し、全滅させよ、と激励しているのです。ダビデはヨアブに何も言うことができませんでした。だってそのようにするようにと命じたのはダビデ本人なのですから。何という欺瞞でしょうか。ウリヤはダビデの意志によって、その命令によって殺されたのです。ダビデが彼を殺しました。それを「戦争なんだから仕方がない」と装っているのです。ダビデのこの罪は単なる人殺しでは終わらない、さらに深いもの、さらに大きな罪だったのです。どこかで、この罪のサイクルを断ち切らなければなりません。もし断ち切らなければ、取り返しのつかない結果に陥ってしまいます。いったいどうしたらいいのでしょうか。

Ⅲ.主のみこころを損なったダビデ(26-27)

ですから、主イエスを信じなさい、ということです。主の救いを受けなさい、主の恵みを受けなさい、ということです。26~27節をご覧ください。「ウリヤの妻は、自分の夫ウリヤが死んだことを聞き、自分の主人のために悼み悲しんだ。喪が明けると、ダビデは人を遣わして、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、彼のために息子を産んだ。しかし、ダビデが行ったことは【主】のみこころを損なった。」

ウリヤの妻バデ・シェバは、自分の夫が死んだことを聞き、悼み悲しみました。喪に服する期間は七日間です。喪があけると、ダビデは人を遣わして、彼女を自分の家に迎え入れ、自分の妻としました。時間が経つと、姦淫によって彼女が身ごもっていたことが明るみに出てしまうからです。それで彼は喪が明けるとすぐに彼女を自分の家に迎え入れて自分の妻としたのです。その後、彼女は男の子を生みます。

すべてが計画通りでした。ダビデと数人の使いの者、またヨアブ以外はだれも、このことについての真実を知りませんでした。しかし、彼が行ったことは主のみこころを損ないました。人間的には上手に罪を覆い隠すことができたかもしれませんが、主は決してそれを見過ごしにはならず、みこころを痛められたのです。神様はそこで何をなさったかについては、この後でⅡサムエル記を読んでいく中で見ていきますが、ここで特に覚えておきたいことは、このことが神のご計画全体の中でどのようになったのかということです。

マタイの福音書1章1~17節をお開きください。これはイエス・キリストの系図です。その中に、本日のこのダビデの罪のことが語られています。6節です。ここには「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」とあります。ダビデ王の後継ぎとなったソロモンは、このバテ・シェバから生まれました。それは今回のⅡサムエル記11章で生まれた男の子ではありません。ソロモンはその後、バテ・シェバがダビデの正式な妻となってから生まれた子です。しかしこの系図には、ソロモンの母は「ウリヤの妻」であると記されてあります。ダビデは部下のウリヤから妻を奪った、その罪が、忘れられることがないように、ここにちゃんと記されてあるのです。このようにことさらにダビデの罪を強調しているこの系図は、主イエス・キリストの系図です。主イエス・キリストは、このような人間の罪の歩みを受けて、神様のご計画によってこの世にお生まれになられたと、この系図は語っているのです。ダビデとバテ・シェバの、あのどろどろとした、決して赦され得ない罪の末裔として、主イエス・キリストはお生まれになったのです。それは、主イエスが私たちの罪を、信仰者をも容赦なく飲み込んでいく不気味な罪の力を、十字架の苦しみと死とにおいて引き受けて下さり、ご自分の命をいけにえとしてささげることによって、私たちを赦して下さるためでした。私たちがこの強力な罪の力から救われるのは、ダビデのような罪を犯さないように気をつけることによってではなく、このイエス・キリストの十字架の死による赦しの恵みの中に置かれることによってなのです。「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」という主イエスの系図は、私たちが確かにその恵みの中に置かれていることを示しているのです。(日本基督教団富山鹿島町教会ホームページから転用)

Ⅰヨハネ1章9節にはこうあります「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

ここに私たちの希望があります。私たちの希望は主イエス・キリストです。もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。そのとき、神が聖霊を注いでくださり、この聖霊の力によって、私たちの肉によってはできない罪との戦いに勝利を与えてくださるのです。これがパウロがローマ7章で見出した真理です。ローマ7章24~8章4節にはこうあります。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」

私たちは、私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。神は私たちができないことを、してくださいました。ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わしてくださり、肉において罪を処罰してくださったからです。それゆえ、私たちは神の恵みに置かれることによって、この救い主イエス・キリストの十字架の贖いにより、その名を信じた者にもたらされる聖霊の力によって、この強大な罪の力にも勝利することができるのです。イエス・キリストはあなたのために生まれ、あなたの罪の身代わりとして十字架で死んでくださいました。このイエスを信じるならあなたも救われます。神の確かな恵みの中に置かれるのです。この神の恵みによって罪に勝利する人生を歩ませていただきましょう。

雅歌1章5~8節「黒いけれども美しい」

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 前回から雅歌を学んでいます。きょうは、1章5節から8節までの箇所から「黒いけれども美しい」という題でお話します。「雅歌」とは「歌の中の歌」という意味です。これは花婿と花嫁の最高の愛の歌です。2節から花婿に対する花嫁の歌が続いています。2節には「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに」とあります。どうしてですか。花婿がそれほど麗しい方だからです。2節の後半には「あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく」とあります。主イエスが与えてくださる愛は、この世が与える喜びや楽しみよりもはるかにすばらしいのです。

3節には、「あなたの香油は香り芳しく、あなたの名は注がれた香油のよう。」とあります。これは、神に献げられた芳しい香りです。キリストは、神でありながらご自身を虚しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえに神は彼を高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになられました。捧げ尽くすところにいのちの祝福があります。キリストはご自分のいのちを献げられたので、その香油は香り芳しいのです。

4節には「私を引き寄せてください」とあります。この方は私たちを引き寄せてくださる方です。私たちが神を愛したのではありません。神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの供え物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があります。神が私たちを引き寄せてくださいました。私たちはキリストの花嫁として、花婿であられるキリストとの関係に入れられたのです。何という恵みでしょうか。しかし、そればかりではありません。花嫁の花婿に対する愛の歌はまだ続きます。

Ⅰ.私は黒いけれども美しい(5-6)

まず5~6節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。ケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、私は黒いけれども美しい。あなたがたは私を見ないでください。私は日に焼けて、浅黒いのです。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人にしたのです。でも、私は自分のぶどう畑の番はしませんでした。」

花嫁はエルサレムの娘たちに語りかけています。「ケダルの天幕」とは、黒やぎの毛でできたテントのことです。「ケダル」とは、創世記25章13節に出てくるイシュマエルの子どもの一人です。イシュマエルとはアブラハムと妻サラの女奴隷ハガルとの間に生まれた子どもです。その次男がケダルです。彼は、今日のアラブ民族の祖先となります。彼らは遊牧民となりましたが、黒やぎの毛で作られた天幕に住みました。それは黒く、汚れていました。花嫁は自分の姿を見て、そのケダルの天幕のように黒いと言ったのです。しかし、ただ黒いのではありません。ここには「黒いけれども美しい」とあります。それはソロモンの幕のようです。「ソロモンの幕」とは、神殿の聖所と至聖所を仕切る垂れ幕のことです。この垂れ幕については、出エジプト記26章31節にこうあります。「また青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作る。これに意匠を凝らしてケルビムを織り出す。」これはイエス・キリストご自身を表していた、最も美しい幕でした。ですからここで花嫁が言っていることは、自分はケダルの天幕のように黒く汚れているけれども、ソロモンの幕のように美しいということです。

どうして彼女はそのように言うことができたのでしょうか。それは花婿がそのように見てくれるからです。8節を見てください。ここには「女の中で最も美しいひとよ」とあります。これは花婿の言葉です。確かに彼女は真昼の日照りの中で畑の見張りをさせられ、日に焼けて浅黒くなっていたかもしれませんが、花婿にとっては最も美しく愛すべき最高の花嫁だったのです。だから彼女は、「私は黒いけれども美しい」と言うことができたのです。

これは私たちにも言えることです。私たちもケダルの幕のように黒く罪に汚れた者ですが、主はそんな私たちを見てこうおっしゃってくださる。「女の中で最も美しいひとよ」それゆえ、私たちも「私は黒いけれども美しい」と言うことができるのです。大切なのは私たちが自分をどのように見るかではなく、主がどのように見てくださるかということです。人がどのように見るかではなく、神さまがどのように見てくださるかということなのです。神さまが見られるその姿こそ私たちの正確な姿であり、私たちが持つべきアイデンティティーです。

それにしても、彼女はどうしてそのように見ることができたのでしょうか。6節にはその理由があります。「あなたがたは私を見ないでください。私は日に焼けて、浅黒いのです。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人にしたのです。でも、私は自分のぶどう畑の番はしませんでした。」

花嫁はここで、自分がこのように黒くなったのは生まれつきではないと言っています。日に焼けたからだと。母の息子たち、すなわち兄弟たちが、私をぶどう畑の番人にしたので、炎天下にさらされた結果、日焼けして浅黒くなってしまったのです。

でもそうでしょうか。確かに日に焼けて黒くなったということもあるでしょうが、でも普段生活するうえではそんなに気にならなかったでしょう。彼女が自分は黒いということをこんなに意識しているのは、花婿であられる王の前に出たからです。彼女は透き通るように美しく輝いた王の前に出たとき、自分があまりにも黒いということに気付かされたのです。私たちも主の前に立つとき、自分がいかに黒いか、汚れているかがはっきりわかります。暗闇の中にいると自分の黒さには気付きません。光の中に立たされて初めてその黒さに気付かされるのです。

あの預言者イザヤもそうでした。彼は自分が預言者としてイスラエルの民の姿を見たとき、「わざわいだ」と何度も非難し断罪しましたが、高く上げられた御座に着いておられる主を見たとき、そのものすごい聖さに打ちのめされてしまいました。そしてこう言ったのです。「ああ、私は滅んでします。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ6:5)彼はイスラエルの民と自分を比較していたときには気付きませんでしたが、主の聖さに触れたとき、自分がいかに汚れているかということに気付かされたのです。そうです、人は闇の中にいると自分汚れには気付きませんが、主の前に立たされたときに初めて、その黒さに気付かされるのです。

あのパウロもそうでした。彼は自分のことを「罪人のかしら」(Ⅰテモテ1:15)と言っています。新約聖書の中の13もの手紙を書いたパウロですら、神の聖さ、神の恵みの大きさが分かったとき、「罪人のかしら」であると告白せざるを得なかったのです。

神に近づけば近づくほど、光に近づけば近づくほど、影は伸びるものです。ですから、クリスチャンとして霊的に成熟すればするほど自分の汚れ、罪深さ、醜さが示されるのは当然のことなのです。どんなに自分が熱心に信仰に励み、信仰歴も長く、それなりに立派にやってきたと思っていても、主の御前に立たされるなら、「私は黒い」と言わざるを得なくなるのです。

けれども美しい!のです。なぜ?花婿なるキリストがそのように見てくださるからです。主はそんな私たちの汚れを、ご自身の血をもってきよめてくださいました。その血によって、しみや、しわや、そのようなものが何一つない者としていただいたのです。

エペソ5章26~27節にはこうあります。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」「キリストがそうされたのは」とは、キリストが教会のためにご自分をささげられたのはということです。キリストがそうされたのは、教会をきよめて聖なるものとするためでした。罪や汚れを洗いきよめ、しみや、しわや、傷や、そのようなものが何一つない栄光の教会を、ご自身の御前に立たせるためだったのです。ここに「ご自分で」とありますね。それは私たちがすることではありません。それは主がなさることです。私たちは自分の手で自分をきよめることなどできません。きよめてくださるのは主なのです。

ですから、私たちは、見た目には確かに黒いかもしれません。自分の罪深さに「これでもか」と打ちのめされそうになることがありますが、主はそのような私たちをきよめてくださり、「女の中で最も美しいひとよ」と言ってくださるのですから、私たちも「私は黒いけれども美しい」と告白することができるのです。これが私たちの姿です。あなたもイエス・キリストを信じるなら、このように告白できるようになります。ぜひ信じていただきたいと思います。

Ⅱ.私のたましいの恋い慕う方(7)

次に7節をご覧ください。「私のたましいの恋い慕う方。どうか私に教えてください。どこで羊を飼っておられるのですか。昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。なぜ、私はあなたの仲間の羊の群れの傍らで、顔覆いをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」

ここで花嫁は花婿を「私のたましいの恋い慕う方」と呼んでいます。新改訳第3版では「私の愛している人」と訳しています。口語訳では「わが魂の愛する者よ」となっています。ここではただ愛している方というよりも、「私のたましいの恋い慕う方」とか「わが魂の愛する者よ」というのが適切だと思います。というのは、ただ愛しているのではないからです。たましいから愛しているのです。たましいから愛するとはどういうことでしょうか。それは最も深いレベルで愛するということです。それは最大の愛、極みの愛です

マタイ22章37~38節には、「イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。」とあります。これはある律法の専門家が「律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と尋ねたことに対して、イエスが答えられたことです。ここで主イエスは彼に「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われました。この「いのちを尽くして」が「たましいを尽くして」ということです。それはいのちがけの愛です。いのちがけで愛しなさいというのです。これは最大の愛の表現なのです。ですから、ここで花嫁が花婿に対して「私のたましいの恋い慕う方」と言うとき、それは自分のたましいから恋い慕っている方、いのちをかけて愛するほどの方だと告白しているのです。

人はだれを愛するのかによって、また、何を愛するのかによって、その人生が決まります。それによって人生観も決まるのです。もしあなたが自分自身を愛するなら、そのような人生になります。いつも自分が願うようにならないと気が済まなくなるので、不平不満とかつぶやきに満たされることになるのです。まさに「フロイトの快楽の原則の通り」です。現代の精神医学や心理学の問題はここにあります。

生きる意味を失ってしまい、迷っていたある若者が、ある日、精神病院を訪ね、医者と相談しました。ところが、その精神科の医者は、フロイトの快楽の原則の通りに、「あなたが願う通りに快楽を楽しんでみなさい」とアドバイスしました。そのアドバイスに従って青年は、歓楽街へと行き、女遊びに明け暮れました。青年は二度と医者の所へは戻ってきませんでした。彼は、自分に嫌気がさして自殺したのです。

この世の快楽だけでは、決して解決できない精神的空虚と不安のために、人々のたましいは疲れ果てています。もしあなたが自分を愛するなら、自分の願う通りに行かない現実に嫌気がさして、何をしても満たされることはないでしょう。

しかし、神を愛するなら、感謝と喜びに溢れるようになります。なぜなら、神は完全であられるからです。この神を愛し、神に従うなら、神があなたの必要を満たし、歩むべき確かな道を示し、あなたの思いを越えたすばらしい結果をもたらしてくださるので、あなたは平安と喜び、感謝を得るようになります。大切なのは、自分を愛することではなく、神を愛することです。イエス様は「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言われました。これが第一の戒めです。

私たちの主は、たましいを尽くして愛するのにふさわしい方です。なぜなら、主は私たちのためにご自身のいのちを与えてくださったからです。ヨハネ15章13節を開いてください。ここには、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。主はそのような愛で私たちを愛してくださいました。これ以上の愛はありません。私たちはこの愛で愛されているのです。それゆえ、この方をたましいの愛で、いのちがけの愛で愛するのは当然のことなのです。あなたはどうでしょうか。あなたはだれを愛していますか。何を愛しているでしょうか。そのことによってあなたの価値観が決まります。あなたの人生が決まるのです。

花嫁はここで自分がこのように黒いのは家族のせいだとずっと恨んでいました。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人したので、私はこんなに浅黒くなったんだと苦々しい思いでいたのです。しかし、花婿に目を留め、花婿をたましいから愛えすることができたとき、そうした恨み辛みから解放されました。そしてこう尋ねているのです。「どうか私に教えてください。どこで羊を飼っているのですか。」

ここで花嫁は、花婿である王が羊飼いであることを示唆しています。ある人はここから、主な登場人物が3人いると考えます。すなわち、王である花婿と羊飼い、そして花嫁です。このように考える人は、羊飼いのような身分の低い人が高貴な王であるはずがないと考えます。常識的にはそうかもしれません。しかし、王でありながら、同時に羊飼いであられる方がいます。だれでしょうか?イエス・キリストです。イエス・キリストは王の王、主の主でありながら、同時に羊飼いであられます。黙示録19章16節にはこうあります。「その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。」「その衣」とは、白い馬に乗っておられる方で、「確かで真実」と呼ばれ、義をもってさばかれる方です。その方は血に染まった衣をまとい、「神のことば」という名で呼ばれていた方とありますから、この方はイエス・キリストです。イエス様は「王の王、主の主」と呼ばれる方なのです。

しかし、同時にこの方は羊飼いでもあられます。ヨハネ10章11節をご覧ください。ここには「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」とあります。これはイエス様のことばです。イエス様は「わたしは良い牧者です」と言われました。イエス様は羊飼いでもあられるのです。また、また、ヨハネ10章14節には「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。」とあります。これもイエス様のことばです。イエス様は「わたしは良い牧者です」と言われました。

ですから、イエス様は王の王、主の主であられますが、同時に羊飼いでもあられるのです。その羊飼いである花婿に対して花嫁はここで、私のたましいの恋い慕う方よ、あなたはどこにおられるのですかと尋ねています。どこで羊を飼っているのですか、教えてください、と言っているのです。彼女は羊飼いであられる花婿と一緒にいたいのです。片時も離れることができません。離れたくないのです。花婿が一緒にいなければ満足することができません。羊の群れと一緒にいるだけでは満足することができません。彼女にとっては花婿が必要であり、いつも花婿と一緒にいたいといのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは花婿なる主と一緒にいたいという切なる願いがあるでしょうか。そのことを求めているでしょうか。教会に行ける時には行きますとか、時間があれば聖書を読みます、祈ります、ということはないでしょうか。そのような思いでは行くことはできません。読めません。祈れません。人は何を愛するかによってその行動が決まるからです。ダビデは、このように言いました。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩篇27:4)

私たちも一つのことを主に願いましょう。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮でふける、そのために。心を尽くし、たましいを尽くし、力を尽くして主を愛しましょう。いつも主と一緒にいることを切に求めたいと思います。

Ⅲ.羊の群れの足跡を追って出て行き(8)

そのような花嫁の願い、叫びに対して、王である花婿は何と答えているでしょうか。8節をご覧ください。「女の中で最も美しいひとよ。あなたが知らないのなら、羊の群れの足跡を追って出て行き、羊飼いたちの住まいの傍らで、あなたの子やぎを飼いなさい。」

「女の中で最も美しいひとよ。」これは先ほども述べたように、花嫁である教会、私たちクリスチャンのことです。私たちは確かに黒くて醜い者ですが、花婿であられるキリストの目には最も美しいものと映っているのです。たとえ自分が黒い者だと思っていても、たとえ自分が同じ罪を繰り返すような情けない者であっても、あなたはイエス様にとってかけがえのない存在なのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と言ってくださるのです。そのお方がどこにいるのかあなたが知らないのなら、わたしがどこにいるのかを本当に知りたいと思うなら、どうすれば良いかを教えています。それは、「羊の群れの足跡を追って出て行き、羊飼いたちの住まいの傍らで、あなたの子やぎを飼いなさい。」ということです。どういうことでしょうか。

ここでは二つのことが言われています。第一に、「羊の群れの足跡を追って出て行きなさい」ということです。これは、いわゆる1匹狼のようなクリスチャンは存在しないということです。クリスチャンはみな羊です。羊は群れで行動します。もし単独で行動するとどうなるでしょうか。あの1匹の迷える子羊のたとえにあるように、どこかに迷子になってしまいます。聖書には教会はキリストのからだにたとえられていますが、からだはバラバラでは存在しません。キリストを頭として、からだ全体が一つとなってこそ機能します。それと同じです。私は群れが苦手だから自分で信仰を守りますとか、礼拝に行かなくても大丈夫です、どこでも礼拝できますから。自分で聖書を読んで祈りますと言われる方がおられますが、本当にできるでしょうか。もうそんなことは何年もやってきたので卒業しました。イエス・キリストだけでいいんです。こういうのは、聞こえはいいですがこれほど非聖書的なことはありません。なぜなら、聖書はそのようには教えていないからです。もしあなたがイエス様を知らないと思うなら、羊の群れの足跡を追って行かなければなりません。羊の群れとは何でしょうか。それは、キリストの教会のことです。もしあなたが、花婿がどこにいるのかを知りたいなら、羊の群れである教会の足跡に着いて行かなければなりません。

へブル10章25節には、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。私たちはある人たちのようにいっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合うことが必要です。かの日とはキリストの再臨の日のことですが、その日が近づいています。それを見てますますそうしなければなりません。私たちはみな群れについて行く必要があります。群れの一員として行動することが求められているのです。そうすれば花婿がどこにいるかがわかります。花婿がどのようなお方なのかがわかるのです。それがキリストのご計画です。

Ⅰペテロ2章5節にも同じことが言われています。「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」神に喜ばれる霊のいけにえとは、神に喜ばれる礼拝のことです。どうしたら神に喜ばれる礼拝をささげることができるのでしょうか。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられることによってです。「霊の家」とは教会のことです。ですから、本当に神に喜ばれる礼拝をささげたいと思うなら、私たち一人ひとりが生ける石となって、霊の家である教会の上に築き上げられなければなりません。これが神のご計画であり、神のみこころなのです。独立した石ではなく、組み合わされて一つとなってはじめて、神に喜ばれる礼拝をささげることができるのです。勿論、一人で祈ることもできます。でもあなたが本当に主との麗しい関係を求めているのなら、主と一緒にいることを願っているなら、羊の群れである教会に集う必要があるのです。

花婿なる主がどこにいるのかをあなたが知りたいならどうしたらいいのでしょうか。第二のことは、その後にあるように、「羊飼いたちの住まいの傍らで、あなたの子やぎを飼いなさい。」ということです。どういうことでしょうか。

イエス様が復活された後で弟子たちにご自身の姿を現わされたとき、同じことをペテロに言われました。イエス様がペテロに「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と問われると、ペテロは「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えました。するとイエスは彼に「わたしの子羊を飼いなさい。」と言われました。どうしてイエス様はペテロにそのように言われたのでしょうか。

J.C.ライルという聖書注解者はこう述べています。「他者に対して有用な者となることは、愛を試す主要なテストであり、キリストのために奉仕することは、真にキリストを愛する立派な証拠である。・・・それは大声で話すことでも、立派な信仰告白をすることでもなく、がむしゃらで衝動的な熱心さや、剣を脱いで戦う用意をすることですらない。それは、この世に散らばっているキリストの小羊たちのために、堅実で、忍耐強い、骨の折れる努力をすることである。そしてこれこそが、忠実な弟子であることの最善の証拠なのである。これがキリスト者のすばらしさの本当の秘訣である。」(「ライル福音書講解ヨハネ4」p491-492)

ここで、ライルが言っていることは、この雅歌において花婿が言っていることにも当てはまります。すなわち、あなたがキリストの花嫁としてキリストを本当に愛しているのなら、この世に散らばっているキリストの小羊のために労することこそ、その愛を証明することになるということです。それは忍耐強い、骨の折れる努力をすることですが、それによってより深く主を知り、主との深い主との交わりへと導かれるのです。なぜなら、花婿は羊飼いであられるからです。

私たちの人生には辛いと感じるときや、主がどこへ行ってしまったのかわからないほどの試練に直面することがあります。そのような時私たちに必要なのは、羊の群れの足跡を追って行くことです。そして、あなたの子やぎに食べさせてあげることです。どんなに辛くても羊の群れから離れてはなりません。どんなに忙しくても教会に来ることをやめてはならないのです。また主を知らない人たちに、あるいは、主を信じたばかりの若い子やぎを養わなければなりません。そうすれば、あなたは花婿である主を見出し、花婿であられる主との深い交わりの中に入れられるでしょう。

あなたが神の家族の一員として神の民に属するとき、あなたの本当の人生の目的が明らかになります。神の家族の中で、自分がどこから来て、どこへ向かっているのか、生きる意味を知ることができます。そのときあなたは、あなたに対する主のみこころが何であるのかを深く知るようになるのです。私は黒いけれども美しい。女の中で最も美しいひとよと言ってくださる花婿に、私たちのたましいの愛をささげたいと思います。

雅歌1章1~4節「歌の中の歌」

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 きょうから、雅歌に入ります。皆さんは「雅歌」という言葉を聞いたことがありますか。「雅歌」というと一般に絵を描く「画家」を思い浮かべるのではないかと思いますが、その「画家」ではなく「雅歌」です。この「雅歌」という言葉を広辞苑で調べてみると、①俗歌に対して、格式の正しい歌。みやびな歌。②旧約聖書中に収められた男女の恋愛歌。とあります。やはり、どちらかというとこの聖書の中の「雅歌」を念頭に説明されているようです。

 1節には「ソロモンの雅歌」とあります。これはソロモンが書きました。この「雅歌」という言葉には※印がついていて、下の説明を見ると、直訳「歌の中の歌」とあります。ヘブル語では「シール・ハッシリーム」と言います。意味は「歌の中の歌」です。「歌」はヘブル語で「シール」といいますが、このように「シリーム」と伸びると複数形になります。ですから、ただの歌ではなく「歌の中の歌」です。英語では「The Song of Songs」となっています。このように「歌の中の歌」という表現は、「主の主」、「王の王」という表現のように最上級を表しています。つまり、「雅歌」とは「歌の中の歌、最上級の歌」という意味です。この歌を書いたのはソロモンです。彼は伝道者の書も書きました。前回までその伝道者の書を学びましたが、その書の中で彼は「空の空、すべては空」と言いました。この世において私たちの心を満たすものは神以外にはありません。神を知らない生き方は虚しいのです。その神とはどのようなお方なのでしょうか。その伝道者の書に続いてこの雅歌があるのは意義深いと思います。つまり、神を知るということは、 神の愛を知ることなのです。

 この雅歌を読んでいくとわかりますが、ちょっと難解です。何回読んでもわかりません。その理由の一つには、ここに登場する2人の男女が誰のことを指しているのかはっきりわからないことです。伝統的にはこの2人の男女に関しては3つの解釈があります。第一に、これは実在した2人の男女で、この雅歌はこの男女の愛を歌った歌であるという考えです。つまり、これは神が用意してくださった理想的な男女の愛の関係とはどういうものなのか、夫婦の関係とはどういうものなのかを歌った歌だというのです。

第二に、これは単なる男女の恋愛の歌ではなく、神とイスラエル民族との関係を比喩的に表したものであるという考えです。ほとんどのユダヤ人の学者と一部の福音派の学者はそのように理解していて、これをイスラエルに対する神の愛の物語だと考えています。

第三に、比喩は比喩でもこれはキリストと教会との関係を表わしているという考えです。多くの福音派の学者がそのように理解しています。新約聖書には教会はキリストの花嫁とありますから、そのように解釈するのは自然ではいかと思います。ここでは「花婿なるキリスト」と「花嫁なる教会」との基本的な愛の関わりを預言的に歌った「愛の歌」と理解してお話しを進めていきたいと思います。

 Ⅰ.ぶどう酒にまさって麗しい愛(1-2)

それでは、早速本文を見ていきましょう。まず1~2節をご覧ください。「ソロモンの雅歌 あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく、」

2節から本文が始まります。2節から7節までが花嫁のことばです。それにしても、最初からドキッとしますね。いきなり「口づけ」の話です。「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。」

口づけは、愛の親密感を表しています。そもそも「口づけ」するということは、花婿と花嫁が顔と顔を合わせる行為です。花嫁がその熱い口づけを求めているのは、花婿の心と思いを知ろうとする熱意の表れなのです。その口づけは、複数形で表されています。何度も口づけしてくれたらいいのに、という意味です。ルカの福音書15章に放蕩息子のたとえ話がありますが、その話の中で父親は放蕩して帰って来た息子に何度も口づけしました。それと同じです。それは親密な愛の表現であるだけでなく、尽きることのない愛を表わしています。それは何回も与えられるものなのです。昨日だけでなく今日も、明日も与えられます。それはいつも新鮮なのです。私たちは昨日の「口づけ」ではなく、日々与えられる新しい「口づけ」を求めることができるのです。

花嫁はなぜこのような親密な関係を求めているのでしょうか。その理由が2節の後半にあります。「あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しい」花婿の愛はぶどう酒にまさって美しいからです。どういうことでしょうか。聖書では「ぶどう酒」は人生の楽しみや喜びを象徴しています。たとえば、詩篇4篇8節には「あなたは喜びを私の心に下さいます。それは彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。」とあります。この穀物と新しいぶどう酒は喜びを象徴しています。主が与えてくださる喜びは、この世が与えてくれる喜びにまさっているということです。また、詩篇104篇15節にも「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、パンは人の心を支えます。」とあります。この「ぶどう酒」とか「パン」は、この世が与える喜びと言ってもいいでしょう。すなわち、花婿の愛はこの世が与える喜びや楽しみよりもはるかにすばらしい、はるかに勝っているという告白なのです。

先ほど歌った賛美は「なんて素晴らしいイエスの名は」(What A Beautiful Name)という賛美です。イエスの名がなんて素晴らしいものなのかを歌った歌です。

なんて麗しい なんて麗しい イエス・キリストの その麗しい名に 勝るものはない

なんて麗しい イエスの名は

なんて素晴らしい  なんて素晴らしい イエス・キリストの その素晴らしい名に勝るものはない なんて素晴らしい イエスの名は

永遠の初めからあったことば。そのことばは神とともにありました。ことばは神であり、神の栄光に満ちていました。その栄光の神が、すべての人を照らすまことの光として、この世に来られたのです。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この方はご自分の民のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れませんでした。それなのに神さまは、ご自分に敵対していたこの世を救うためにこの方を遣わしてくださり、私たちの罪の身代わりとして十字架に付けてくださいました。それは、この方を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この方の愛によって、私たちは神の子とされ、栄光の御国を相続する者とされました。だれもこの愛から引き離すものはありません。なんて麗しい愛でしょうか。

使徒パウロは、この方の愛を次のように言いました。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:6-8)

 私たちがまだ罪人であったときとは、私たちが神さまに背き、神さまに敵対していたときのことです。そのようなときにキリストは私たちのために十字架で自分のいのちを与えてくださいました。そのことによって、私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださったのです。何と麗しい愛でしょうか。あれも愛、これも愛、たぶん愛、きっと愛。この世にはいろいろな愛がありますが、これほどの愛はありません。これは自分を与える愛です。相手が良い人であるかとか、悪い人であるかといったことは全く関係ありません。そのようにしてイエスさまはご自身の愛を明らかにしてくださったのです。それは私たちが滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この永遠のいのちとは、死んでから受けるいのちだけでなく、イエス・キリストによってもたらされる罪の赦しと永遠のいのちです。聖霊による神さまとの交わりです。神さまがいつも共におられます。この地上にあっても、神さまが与えてくださる平和と喜びに満たされることができるのです。何とすばらしいことでしょうか。

 このキリストが与えてくださる神さまとの交わりは、この世が与えるどんな喜びよりもはるかにすばらしい。そういっているのです。それは永続する喜びです。主イエスは言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)この水を飲む人は、また渇きます。しかしイエス様は、決して渇くことのない水を与えてくださるのです。それはこの世にあるものと比べることができません。イエスが与える愛、イエスが与える喜びにまさるものはありません。それはあまりにも大きく、あまりにも豊かで、あまりにもすばらしいので、この世のものと比べることができないのです。

 思い出してください。皆さんが救われた時のことを。思い出してみてください。一人主の御前にひれ伏して祈っているときに神の臨在があなたに臨んだ瞬間のことを。それはまさに天にも上るような思いだったはずです。思い出してみてください。兄弟姉妹と一緒に声を合わせて賛美しているときのことを。それは、ヘルモンから、シオンの山々に降りる露のようです。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからです。それは何にもまさる喜びです。キリストの愛は、ぶどう酒にまさって麗しいのです。

Ⅱ.注がれた香油のような名 (3)

次に3節をご覧ください。ここには「あなたの香油は香り芳しく、あなたの名は、注がれた香油のよう。そのため、おとめたちはあなたを愛しています。」とあります。なぜ、おとめたちはそんなに彼を愛しているのでしょうか。それは花婿の愛が香油のように芳(かぐわ)しいかぐわしいからです。この香りはとのような香りでしょうか。散歩していると、ふと花の香りが漂ってきて思わず足をとどめることがあります。その香りに季節の変わり目を感じるのです。沈丁花に春の香りを、クチナシの花に梅雨のしっとりさを、金木犀の香りには秋の深まりを感じます。そんな風情がなんともいえません。ではキリストの香りには何を感じるのでしょうか。

パウロはⅡコリント2章15節で、「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。」と言っています。この香りは神に献げられた芳しい香りです。ここに「あなたの名は、注がれた香油のよう」とあるのはそのことです。キリストの名が香油のように芳しいのは、キリストがご自身を神に献げられたからなのです。

ピリピ2章6~11節にこのようにあります。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」

何ゆえに神はこの方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのでしょうか。それは、キリストは神の御姿であられる方なのに、神としてのあり方を捨てることはできないとは考えないで、自分を無にして仕える者の姿をとり、死にまでも従い、実に十字架の死にまでも従われたからです。キリストはご自分を神に完全にささげてくださったので、神はこの方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。十字架上のキリストの犠牲は、究極的な「神に捧げる香り」であって、私たちの罪の赦しのために、神に受け入れられるものです。

捧げ尽くすところにいのちの祝福があります。「あなたの名は注がれた香油のよう。」です。キリストはご自分のいのちを献げので、香油のように香り芳しいのです。そのため、おとめたちは彼を愛するのです。

Ⅲ.引き寄せてくださる方(4)

第三に、この方は私たちを引き寄せてくださいます。4節をご覧ください。「私を引き寄せてください。私たちはあなたの後から急いで参ります。王は私を奥の間に伴われました。私たちはあなたにあって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえます。あなたは心から愛されています。」

花嫁は花婿に「私を引き寄せてください」と言っています。私たちは、引き寄せてもらわなければ花婿のもとに行くことができません。引き寄せられて初めてその後について行くことができるのです。

私は、18歳の時、高校3年生の時に教会に行きイエス様を信じました。生きる目的がわからず地に足が着いていないような生活をしていた時、後に結婚することになりますが、一人の宣教師に誘われて教会に行きました。初めは冗談のつもりでしたが、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)のみことばを聞いて、キリストにある新しい人生をスタートすることができました。それからずっとイエス様を信じて歩んできましたが、ずっと自分がイエス様を信じたとばかり思っていました。でも実際はそうではなかったのです。イエス様が私を引き寄せてくださったのです。そうでなかったら信じることもできなかったでしょう。それは信じるということばかりでなく、その後のことを考えてもそうです。イエス様を信じてからも実にいろいろなことがありましたが、それでも信じ続けることができたのは、イエス様が私を引き寄せてくださったからなのです。どんなに神から離れても、どんなに神に背を向けていても、神の方から御手を伸ばしてくださいました。

この神の愛について使徒ヨハネはこう述べています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

ここに愛があります。神がそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

預言者エレミヤは、このことをこう述べています。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)すばらしいですね。主は永遠の愛をもって愛してくださいました。過去、現在、未来において、主があなたを愛さなかったことは一度もありません。生まれる前から、そして生まれてからもずっと愛し続けてくださいました。私たちが人生で最悪だと思うようなときでも、神さまはずっとあなたを愛し続けておられたのです。クリスチャンになってからだけでなくクリスチャンになる前も、ノンクリスチャンの時ですら愛しておられました。あなたは、この永遠の愛で愛されているのです。

ここには、主は遠くから私に現れたとあります。どういうことでしょうか。主が遠くにおられるということではありません。主は私たち人間が近づくことなど決してできないお方であるということです。この方は創造主であられます。聖なる方です。「聖なる」というのは「分離している」という意味があります。この世と完全に分離しているのです。光が闇と交わることがないように、私たちと神様との間には到底近づくことができない淵があるのです。それが、罪がもたらした悲劇です。もし罪深い人間がちょっとでも近づこうものなら、たちまちその場に倒れてしまうことになります。それが「遠くから」という意味です。預言者イザヤはその聖なる方に触れたとき、「ああ、私は滅んでしまう。」と叫びました。「万軍の主である王をこの目で見たのだから。」と(イザヤ6:5)。しかし、そんな罪深い私たちを、主は永遠の愛をもって愛してくださいました。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた、とエレミヤは言ったのです。

ヨハネ15章16節には、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」とあります。

私たちが主イエスを選んだのではありません。主が私たちを選び、任命してくださいました。これを「先行的恵み」と言います。私たちが求める前から、主が先行して私たちを選んでくださいました。私たちの側から神さまに近づいたのではありません。神の方から私たちに近づいてくださったのです。これが最初のクリスマスです。クリスマスとは、神が私たちに近づいてくださった日です。神が私たちを引き寄せてくださいました。だから、私たちは主の後からついて行くことができるのです。感謝ですね。

ところで、ここには「王は私を奥の間に伴われました」とありますね。どういうことでしょうか。ここから場面が変わります。これは花婿と花嫁の結婚式を表しています。花婿に引き寄せられて花嫁が宮殿に向かいそこで結婚式が行われますが、花嫁は父親から離れて花婿のもとへ近づいて行くのです。そこで二人は結ばれます。これは結婚式において二人が結ばれた瞬間です。結婚式のクライマックスは二人が神の前に誓約をするときですが、これはちょうど結婚式において誓約がなされた直後のことです。二人は正式に夫婦として認められます。そのしるしとしてキスが交わされたり指輪の交換がなされますが、ここでは王である花婿が花嫁を奥の間に伴われるのです。そこは二人だけのプライベートルームです。そこで二人は親密な交わりへと導かれるのです。つまり、花嫁が花婿を王として、また主として認めることによって二人は結ばれ、親密な関係に入っていくということです。どういうことかというと、もしあなたが花婿であられる主イエスと麗しい関係、親密な関係を持ちたいと願うなら、この方を王として、また主として認める必要があるということです。もしあなたがこの方をあなたの王として、また主として認め、この方にすべてをゆだねるなら、王である花婿はあなたを奥の間に伴われ、より深い交わりと喜びを楽しむことができるようになるのです。

私たちはそのように告白したはずです。ローマ10章9~10節にこうあります。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

もしあなたがあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたも救われます。奥の間へと伴われ、そこで花婿なるキリストとの深い交わりと喜びを楽しむことができるのです。それが礼拝です。礼拝とは何でしょうか。礼拝とは英語でWorshipと言いますが、Worship とは神さまを「最も価値あるものとみなす」という意味があります。主イエスを最も価値あるものとみなすなら、あなたの心に主への愛が満ち溢れ、主と麗しい関係を持つようになります。これがキリストの花嫁である教会の心です。教会の心とは神を愛する心であり、礼拝を喜びます。教会にとってこれが生命線あり、いのちです。このWorshipの関係、愛の関係がないなら、どんな働きをしても虚しいだけです。神さまの愛がわからないと神さまを愛するということがわかりません。その人にとって礼拝は愛をささげることではなく義務となります。愛の関係が義務となると、神さまとのすべての関係が義務的になってしまいます。みことばも、祈りも、献金も、生き方も、です。

先週、韓国から宣教師として来日して東京で伝道しておられる崔先生と電話でお話ししました。先生は1979年に来日すると、みことばと祈りに基づく教会形成に励んできました。みことばと祈りに基づいてという言葉はだれでも口にする言葉ですが、先生はこれを実践しておられます。毎週金曜日は午前10時から午後3時まで祈り会をもっておられるのです。午前10時から午後3時までの5時間です。それを毎週続けておられる。1時間祈ったら10分くらい休憩してまた祈ります。そのようにして5時間祈るのです。そこでは日曜日に聞いたみことばをどのように自分の生活の中に実践しているのかの分かち合いもします。みことばを聞くだけではなく、それを実行しなければなりません。その聞いたみことばをどのように実行したか、あるいは、どのようにしたら実行できるのかを分かち合って祈るのです。それを10年続けています。それまでは徹夜で祈っていましたが、今は日中持つようになりました。5時間と聞くと長いように感じますがあっという間です。先生はいつも祈っています。道を歩いても、聖霊様が「祈りなさい」というと、その場でひざまずいて祈ります。するとあとでどうして聖霊様がそのように導いてくださったのかを示してくださるのだそうです。

どうして先生はこんなに祈れるのでしょうか。それは主を愛しておられるからです。まだ日本に来る前に早天祈祷会で祈っていたとき、聖霊のバプテスマを受けました。これはペンテコステ派が言っているような異言の伴う聖霊のバプテスマのことではなく、圧倒的な聖霊の満たしでした。人生の価値観が全く変えられたのです。後でそれが聖霊のバプテスマだったということに気付かされたのです。聖霊のバプテスマ、あるいは、聖霊の満たしを受けると、人生の考え方、価値観が全く変えられます。主を心から愛するようになるのです。水のバプテスマだけでは変わりません。聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしが必要です。それはイギリスの伝道者ロイド・ジョーンズも言っていることです。聖霊の満たしを受けると、主を愛せずにはいられなくなります。主を礼拝せずにはいられなくなるのです。

先生は毎日、目で聖書を読み、耳で聞く聖書を聞き、口で祈りながら聖書を読みます。すごいですね。目と耳と口で同時に聖書を読むのです。日々主の臨在に溢れているのです。雨が降ってもハレルヤです。問題があっても、すべて主にゆだねて祈ります。病院で治療できないと宣告された病も癒されました。どんなに病気になっても長くて3日で癒されると言います。バッグをなくしたとき、「主よ、財布だけでも戻してください」と祈ったら、本当に財布だけ交番に届けられたそうです。本当に主との交わりをエンジョイしているんですね。これが礼拝です。これが花嫁の心です。花嫁の心とは主を愛する心であり、主を礼拝する心です。この愛の関係、Worshipの関係こそ、私たちにとっていのちなのです。

Ⅰコリント13章3節に、「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」とあります。愛は関係です。「愛しなさい」と言われても愛はわかりません。愛が分かる唯一の方法は、無条件に愛されていることを知ることです。それは完全に赦されていることを知る経験かもしれません。イエスさまの十字架の贖いが、聖霊さまによってはっきり心に刻まれるとき、真の悔い改めと同時に、その計ることのできない神の愛が私たちの内に注がれます。それが主への賛美と変えられるのです。これが花嫁の心です。多く赦された者は多く、いや、よけいに愛するようになるのです。

あなたはどうでしょうか。主はあなたを引き寄せてくださいました。主は永遠の愛をもってあなたを愛されました。その主の愛に感謝し、この方こそ私の主ですと告白し、この方にすべてをささげようではありませんか。そのときあなたも香油が注がれたような麗しい主の愛の中へと導かれます。親密で深い交わりを持つことができるのです。主は麗しいお方です。主は香油のように香り芳しいお方です。主はあなたを引き寄せてくださいます。私たちも、「イエスさま、あなたは主です。あなたは私の罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられました。あなたに私の人生のすべてをささげます」と祈りましょう。そして、主との麗しい愛の関係、礼拝の心を持たせていただこうではありませんか。

Ⅱサムエル記10章

Ⅱサムエル記10章から学びます。

 Ⅰ.ダビデへの侮辱(1-5)

 まず、1~5節をご覧ください。「この後、アンモン人の王が死に、その子ハヌンが代わって王となった。ダビデは、「ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたように」と言った。そして家来たちを通して彼の父の悔やみを言うために、ダビデは彼らを遣わした。ダビデの家来たちがアンモン人の地に着いたとき、アンモン人の首長たちは、主君ハヌンに言った。「ダビデがあなたのもとにお悔やみの使者を遣わしたからといって、彼が父君を敬っているとお考えですか。この町を調べ、探り、くつがえすために、ダビデはあなたのところに家来を遣わしたのではないでしょうか。」そこでハヌンはダビデの家来たちを捕らえ、ひげを半分剃り落とし、衣を半分に切って尻のあたりまでにして送り返した。ダビデにこのことが告げられたので、ダビデは彼らを迎えに人を遣わした。この人たちが非常に恥じていたからである。王は言った。「ひげが伸びるまでエリコにとどまり、それから帰って来なさい。」」

 9章のところでダビデは、サウルの子ヨナタンの子で、足の不自由なメフィボシェテに神の恵みを施しましたが、今回はアンモン人の王ハヌンに真実を尽くそうと考えます。それは2節にあるように、彼の父ナハシュがダビデに真実を尽くしてくれたからです。そのように真実を尽くそうというのです。アンモンとはヨルダン川のちょうど東に面しているところですが、ダビデとの関わりについてはよくわかりませか。

このナハシュについてはⅠサムエル記11章に記されてあります。彼はイスラエルの町ヤベシュ・ギルアデと戦うために上ってくると、ヤベシュ・ギルアデの人たちは勝てないと思い彼と契約を結ぼうとします。そのナハシュはとんでもない条件を提示しました。それは、彼らの右の目をえぐり取ることでした。その条件で契約と結ぶと言ったのです。とても受け入れられない条件です。それで彼らは七日の猶予をもらい、自分たちを救う者を探します。

 その時ちょうど現れたのがサウルでした。彼は牛を追って畑からかえって来たところでしたが、そのことを聞くと、主が必ず救ってくださると言ってアンモン人たちと戦い、これを打ったのです。以後、サウルはイスラエルの王としての地位を不動のものとしていくわけです。いわば、これはサウルにとってのデビュー戦のようなものでした。しかし、その頃ダビデはまだ若く、羊飼いをしていた少年でした。ダビデが表舞台に登場するのは、この出来事からかなり後のことです。ですから、ダビデとアンモン人ナハシュとの間には接点は見られないのです。

 おそらく、ナハシュがダビデに真実を尽くしたというのは、その後ダビデがサウルの妬みを買い逃亡生活を送っていた時のことかと思われます。その時ダビデはアンモンの南にあるモアブの地にも行っています。その時にアンモンのナハシュのところにも逃れた際に、彼からよくしてもらったのでしょう。ダビデはその時のことを忘れていませんでした。そして今、そのナハシュの子ハヌンに真実を尽くそうと考えたのです。

それに対してアンモン人の首長たちはどのように応答したでしょうか。3節をご覧ください。彼らは主君ハヌンに、ダビデが遣わした使者はスパイだと言いました。それでハヌンはダビデの家来たちを捕らえ、ひげを半分そり落とし、衣を半分に切って尻のあたりまでにして送り返したのです。当時の習慣では、ひげをそり落とすこと自体屈辱的なことでしたが、半分だけそり落とすのは、もっと悪いことでした。また、衣を半分に切ってお尻が見えるようにするというのも受け入れがたい行為です。

いったいなぜ彼らはそのようなことをしたのでしょうか。信じることができなかったのです。彼らは猜疑心に満ちていました。というのは、8章12節を見ていただくとわかりますが、この時ダビデはアンモン人に勝利しており、彼らから分捕り物を奪っていました。つまり、アンモンはダビデに隷属していたのです。そのダビデが真実を尽くすわけがないと考えたのです。これは、神の恵みを拒む人に共通している心理です。持っていない人は持っている物まで取り上げられるようになるのです。

ダビデの真実を拒み、このような酷い仕打ちをするハヌンたちは、まさにキリストにある神の恵みを受け入れないで、それを踏みにじるようなことをする者たちと同じです。ヘブル人への手紙10章29節には「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。」とあります。そのように、神の恵みの御霊を侮る者には、重い処罰が下ることを覚えておかなければなりません。神の恵みの御霊を侮ることがないように、神の御子を素直に受け入れ、神の恵みに預かる物となりたいと思います。

そのことを聞いたダビデはどうしましたか。彼は人を遣わし、使者たちのひげが伸びるまでエリコに留まるように命じました。彼らがそのことを非常に恥じていたからです。ダビデの部下に対する思いやりを感じますね。と同時に、私たちもたとえ隣人に誤解され侮辱されるようなことがあっても、主に信頼して歩み続けるなら、使者たちのひげが伸びたように、必ず名誉が回復する時が来ます。失望しないで、主に信頼して歩み続けようではありませんか。

Ⅱ.アンモン人に対する勝利(6-14)

次に6~14節をご覧ください。8節までをお読みします。「アンモン人は、自分たちがダビデに憎まれるようになったのを見てとった。そこでアンモン人は人を遣わして、ベテ・レホブのアラム人とツォバのアラム人の歩兵二万、マアカの王の兵士一千、トブの兵士一万二千を雇った。ダビデはこれを聞き、ヨアブと勇士たちの全軍を送った。アンモン人は出て来て、門の入り口で戦いの備えをした。ツォバとレホブのアラム人、およびトブとマアカの人たちは、彼らだけで野にいた。」

アンモン人は、自分たちがダビデに憎まれるようになったのを見て取って、アラム人(シリヤ)の歩兵二万人、マアカの王の兵士一千、トブの兵士一万二千を雇ました。地図をご覧ください。アラムとはシリヤのことです。アンモン人の地のはるか北方に位置していた民です。また、マアカとトブもアンモンの北方に位置していた民族です。アンモン人はこの戦いのために彼らを雇い入れたのです。この戦いにかける彼らの意気込みを感じます。

このアンモンとシリヤの連合軍に対して、ダビデはヨアブを将軍とした勇士たち全員を送りました。敵は二手に分かれて戦いに備えました。アンモン人は門の入り口に、アラム人とマアカ人たちは別の野に陣を敷きました。つまり、イスラエル軍を前後から挟み撃ちにする作戦に出たのです。

9~12節をご覧ください。「ヨアブは、自分の前とうしろに戦いの前線があるのを見て、イスラエルの精鋭全員からさらに兵を選び、アラム人に立ち向かう陣備えをし、残りの兵を兄弟アビシャイの手に託して、アンモン人に立ち向かう陣備えをした。ヨアブは言った。「もしアラム人が私より強かったら、あなたが私を救ってくれ。もしアンモン人があなたより強かったら、私があなたを救いに行こう。強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために、奮い立とう。主が、御目にかなうことをされるのだ。」」

ヨアブは自分の前とうしろに戦いの前線があるのを見て、イスラエルの精鋭の中から兵を選び、アラム人に立ち向かう備えをし、残りの兵を兄弟アビシャイの手に託して、アンモン人に立ち向かう備えをしました。二手に分かれて敵と対峙したのです。すごいですね。彼がすごかったのは12節にあるように、「強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために、奮い立とう。主が、御目にかなうことをされるのだ。」と言って兵士たちを鼓舞した点です。

ここにヨアブの優れた二つの点が記されてあります。一つは、彼はこの戦いが「神の町々のために」と言っていることです。彼は、この戦いが神の町々を守るためのものであることを知っていました。つまり、信仰に基づく戦いであるという確信をもっていたのです。そしてもう一つのことは、主が、御目にかなうことをされると、結果のすべてを主にゆだねたことです。主はみこころにかなったことをされるということばは、信仰から出たことばです。私たちの信仰の戦いも同じです。大切なのは、結果ではなくプロセスです。それが自分たちの力でできるかどうかということではなく、それが何のためであるかということであり、その結果をすべて主にゆだねることです。それが主のみこころならば、主は必ず御目にかなったことをされると信じて全力で戦うことなのです。

その結果はどうだったでしょうか。ヨアブ率いるイスラエル軍の大勝利でした。13~14節には、「ヨアブと彼とともにいた兵たちがアラム人と戦おうとして近づいたとき、アラム人は彼の前から逃げた。アンモン人はアラム人が逃げるのを見ると、アビシャイの前から逃げて町に入った。そこでヨアブはアンモン人を討つのをやめて、エルサレムに帰った。」とあります。私たちも主の戦いに召されています。この戦いにおいて重要なのは、それが主の戦いであると信じて、結果のすべてを主にゆだね、全力で戦うことです。主は、御目にかなったことをされると信じて、私たちに与えられている信仰の戦いを全力で戦おうではありませんか。

Ⅲ.アラム人への勝利(15-19)

最後に15~19節をご覧ください。「アラム人は、自分たちがイスラエルに打ち負かされたのを見て、集結した。ハダドエゼルは人を遣わして、ユーフラテス川の向こうのアラム人に出て来させた。彼らは、ヘラムにやって来た。ハダドエゼルの軍の長ショバクが彼らを率いていた。このことが報告されると、ダビデはイスラエル全軍を集結させ、ヨルダン川を渡って、ヘラムへ進んだ。アラム人はダビデと対決する備えをし、彼と戦った。アラム人はイスラエルの前から逃げた。ダビデはアラムの戦車兵七百と騎兵四万を殺し、軍の長ショバクも討ったので、彼はそこで死んだ。ハダドエゼルに仕えていた王たちはみな、彼らがイスラエルに打ち負かされたのを見て、イスラエルと和を講じ、イスラエルに仕えるようになった。アラム人は恐れて、再びアンモン人を助けようとはしなかった。」

アラム人(シリヤ)たちは、自分たちがイスラエルに打ち負かされたのを見て、再び集結しました。そのアラム人を率いたのはハダドエゼルです。彼は人を遣わして、ユーフラテス川の向こうにいたアラム人に呼びかけて、出て来させました。彼らがヘラムまでやって来たとき、その軍を率いていたのはハダドエゼルの将軍ショバクでした。

このことがダビデに報告されると、ダビデはイスラエル全軍を集結させ、彼らと戦うためにヨルダン皮を渡り、ヘラムへと進んで行きました。アラム人たちはダビデ軍と対決しましたが、イスラエルの前から逃げることになりました。ダビデ軍の大勝利です。軍の長のショバクも、そこで死にます。ハダドエゼルに仕えていた王たちはみな、彼らがイスラエルに打ち負かされたと聞いて、イスラエルと戦うことをやめ、イスラエルと和を講じ、イスラエルに仕えるようになりました。もちろん、アラム人は恐れて、再びアンモン人を助けようとはしませんでした。イスラエルにとってはもう向かうところ敵なしです。

いったいこのことから、聖書は私たちに何を教えているのでしょうか。二つのことがあります。一つは、主はご自身が約束されたことを実現される真実な方であるということを示されたということです。

この戦いによって、ダビデはその勢力をユーフラテス川のかなたにまで広げました。これは創世記15章18節の約束の成就でした。「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで」

さらにこれは、ヨシュア記1章3~4節の成就でもありました。主はカナンの地を戦略しようとしていたヨシュアにこう告げました。「わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたに与えている。あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。」それはアブラハムを通して約束されたことをモーセが引き継ぎ、モーセによって主が語られたことの実現に向けて、ヨシュアが行動することを意味していました。

結果はどうだったでしょうか。ヨシュアはその生涯を終えるとき、このように告白しました。「あなたがたの神、主があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。」(ヨシュア23:14)主は、イスラエルに約束されたことを、一つもたがわず、みな実現されました。それは実際にはヨルダン川西岸の地、カナンの地を指していましたが、このダビデの時代になって、アブラハムとモーセを通してイスラエルに約束されたことが完全に実現したのです。

主は約束されたことを実現される良い方です。私たちは平気で約束を破りますが、主はそのようなことはされません。約束されたことを最後まで実現してくださるのです。まことに真実な方なのです。このような方に信頼して歩める人は何と幸いでしょうか。それはパズルの一つ一つのピースのように、それ自体では神のご計画全体のどの部分なのかを知ることは困難かもしれませんが、パズル全体が組み合わされるとき、それがどれほど完璧な計画であったかを知るようになるのです。神のご計画によってすべては益に変えられるからです。

もう一つのことは、このダビデの大勝利は、同時に彼の苦難の始まりでもあったということです。この勝利によって彼は絶頂期を迎えましたが、この後で彼の人生における大きな汚点へとつながっていくからです。11章1節には、ダビデが自分の家来たちとイスラエル全軍を送ったとき、そして、彼らがアンモン人を打ち負かしたとき、ダビデはエルサレムにとどまっていましたが、そこで彼はウリヤの妻バデ・シェバと姦淫を犯してしまう罪を犯すことになるのです。これはダビデだけでなくすべての人に言えることですが、人は苦難の中にある時はひたすら神に信頼しへりくだって歩もうとしますが、このように大きな祝福の中にあるとき、高慢になりがちなのです。こうした勝利の時こそ慢心を生み、それが大きな危機をもたらしいくのです。ですから、そのことをいつも心に刻み、どんな時でも主の御前にへりくだり、謙虚に歩ませていただきたいと思うのです。逆に、逆境の中に置かれるとき、それは確かに受け入れがたいことではありますが、その時こそ神が共にいてくださる祝福の時であることを覚え、神からの助けと力をいただき信仰によって乗り越えさせていただきましょう。

伝道者の書12章1~14節「神を恐れ、神の命令を守れ」

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 伝道者の書12章をお開きください。伝道者の書からの最後のメッセージとなります。伝道者は、最後にこの書の結論を述べます。それは13節にありますが、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってのすべてである。」ということです。

伝道者はこれまで「生きる」をテーマに人生の意味や目的について語ってきました。そしてわかったことは、「すべては空」であるということです。「空の空。すべては空。」です。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の役になると言うのでしょうか。なりません。伝道者はそれを知ろうとしてあらゆる知識や知恵を増し加えようとしました。思う存分快楽も味わってみました。事業を拡張して自分のために邸宅を建て、いくつもの庭園を造り、毎晩のようにエンターテーメントショーを催して楽しみました。しかし、そうしたことで彼の心の空白を埋めることができたかというとそうでなく、できませんでした。その時には満たされているように感じても、次の瞬間にはまた空しさが襲ってきたのです。最終的にすべての人は同じ結末を迎えます。みな死んで行くのです。であれば、生きるということにいったい何の意味があるというのでしょうか。

 あります!それは、この天地万物を造られ、私たちを造られた神を信じ、神を喜び、神のために生きることです。すべては神の御手の中にあります。人はどんなに頑張ってもすべてのことを見極めることができません。明日何が起こるかもわからないのです。自分ではどうすることもできないことがあります。ですから、すべてを支配しておられる神を認め、神にゆだねて生きることこそが最善なのです。つまり、神を恐れ、神の命令を守ることです。これが人間にとってすべてなのです。今日はこの伝道者の書の結論から、私たちの人生の幸いについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ(1-8)

 まず、1節から8節をご覧ください。1節をお読みします。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

伝道者ソロモンは、11章9節で「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。」と言いました。これは「心の赴くままに生きなさい」ということではありません。その逆で、神様のみこころに歩めということです。神のみこころならば思い切ってチャレンジしたらいい、ということですね。ですから、9節の後半部分ではちゃんと釘が刺されていて、「しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ」とあるのです。人は種を蒔けば、それを刈り取るようになります。そのことをしっかりと覚えておきなさいというのです。

ですから、若いからと言って何をしても良いというわけではありません。人生は楽しいものですが、それによって痛みが伴うことがあるのです。そういうことで人生を台無しにしてはいけません。あなたの人生から痛みや悩みを取り除き、真の喜びと自由を満喫しなければなりません。それは、どのような生き方なのでしょうか。それがこの1節にあるように、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」ということです。あなたが若い時に、あなたの造り主を心に刻みなさい、ということです。

画家のゴーギャンは地上の楽園を目指して旅立ち、タヒチ島に辿り着きました。しかし、そこも彼にとって楽園とはなりませんでした。彼は自分の最後の作品に、自分の心の内を表すかのようなタイトルを付けました。そのタイトルとは、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」というものでした。

私たちがこの問いに対する答えを見出すためには、私たちにいのちを与え、私たちの人生にすばらしい計画を持っておられる創造主なる神を知らなければなりません。

ここでは、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」とあります。どういう意味でしょうか。旧約時代の平均寿命は40歳にも満ちませんでした。青春期の若者があとどれくらい生きられるか、時はごく限られていたのです。20歳になった若者の平均寿命が七十年、八十年という現代の日本とは全く意味が違います。終わりまでの時間はごくわずかでした。その終わりを前にして今のこの時を創造主から与えられたかけがえのない賜物として受け止めなさい、という意味が込められているのだと思います。そういう意味では、この聖句は必ずしも若者だけへの呼びかけられているメッセージではありません。むしろ高齢になってあとどれくらい生きられるのかを考える多くの人たちへのメッセージでもあるのです。

ここには、「わざわいの日が来ないうちに」とあります。「また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に」とあります。創造主訳聖書では、これを「老人になって、希望が無いという日が来ないうちに」と訳しています。老人になると希望がないというわけではありませんが、若い時のように心で願うことを元気にやり遂げる力はありません。苦しみの日々が来ないうちに、「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに、創造主なる神を心に留めよ、というのです。

伝道者は2節からその年月とはどのようなものであるかを説明しています。2節には、「太陽と光、月と星が暗くなる前に、また雨の後に雨雲が戻って来る前に。」とあります。「太陽と光、月と星が暗くなる」とは、肉体的にも精神的にも言えることです。老年になると、目はかすみ、心は悲観的になりがちです。「また雨の後に雨雲が戻って来る前に」とありますが、この場合の「雨」とは、人生の試練のことを指していると思われます。青年期にも雨がありますが、老年期になるとそれが頻繁に現れるという意味です。

3節をご覧ください。「その日、家を守る者たちは震え、力のある男たちは身をかがめ、粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ、窓から眺めている女たちの目は暗くなる。」

「家を守る者は震え」とは、高齢になって手足が震えることのたとえです。また「力のある男たちは身をかがめ」とは、足腰が弱くなって身をかがめるようになることです。かつてまっすぐに伸びていた足腰が体重を支えることができなくなり、腰が曲がってしまいます。みんなそうです。「粉を引く女たちは少なくなって仕事をやめ」おもしろいですね。これはおそらくこれは歯が抜けてしまうことを表現しているのだと思います。粉が少なくなると女たちの仕事ができなくなるように、歯が少なくなると噛み合わせができなくなるということです。歯本来の仕事ができなくなります。おもしろいことに、この「粉をひく女」は英語では「The grinders」と言いますが、臼歯(きゅうば)も同じ「grinders」という言葉を使うそうです。「grinders」が少なくなると仕事にならないのです。「窓から眺めている女たちの目は暗くなる」とは、高齢によって視力が低下することを表現しています。

そればかりではありません。4節をご覧ください。高齢になるとどうなりますか?「通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみな、うなだれる。」

「通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり」とは、耳が遠くなるということです。周りの人の声が聞こえなくなります。騒々しい音も気にならなくなるのです。「鳥の声に起き上がり」とは、朝の目覚めが早くなるということです。鳥の鳴き声でも起きてしまうからです。私の寝室の隣は小さなベランダになっていますが、しばらく前に2羽の鳩がひっきりなしにやって来るようになりました。そして朝から唸っているのです。それで私は目が覚めてしまいます。歳をとったということでしょうか?「歌を歌う娘たちはみな、うなだれる」とは、歌を歌っても低くなったり、弱くなったりするということです。つまり、高齢になると声がかすれ、高い音程が出せなくなり、歌う能力が低下するのです。

さらに5節にはこうあります。「人々はまた高いところを恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、バッタは足取り重く歩き、風鳥木は花を開く。人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」

「高いところを恐れる」とは、高所恐怖症のことです。若い時は何でもなかったのに、年を取ると、はしごを上ったり、高い所に立ったりするのが怖くなります。「道でおびえる」とは、坂道を歩くのが怖くなり、道を歩くことに困難が生じるということです。創造主訳聖書ではそのことをわかりやすく訳しています。「息切れがして、坂道を上るのが大義になり、足の自由がきかず、立ち往生し」と訳しています。

「アーモンドの花は咲き」とは、頭が白くなることです。アーモンドは白い花を咲かせるのですが、それが満開に咲くように、頭が白くなります。私の頭もアーモンドの花のようになりました。

「バッタは足取り重く歩き」とは、老人の歩き方を表現しています。確かに老人になると若い時のようにシャキシャキと歩くことは困難になります。バッタが歩いているのを見るとわかりますが、バッタが歩く時はよろよろ歩きますが、そのように身をかがめてよろよろ歩くようになるということです。

「風鳥木は花を開く」これも難解です。「風鳥木」とはスパイスに用いる「ケッパー」の木のことです。へブル語で「ハパックス」と言います。これが「欲望する」という意味の「アーバー」に由来していることから、これは食欲とか、性欲のことを意味していると考えられています。また、「開く」という語ですが、へブル語で「ターフェール」という語です。これは「しぼむ」を意味する「パラル」という語に由来していることから「開く」ではなく「しぼむ」ではないかと考えられているのです。ですから風鳥木は花を開くとは、食欲や性欲が減退することを意味しているのではないかと考えられます。口語訳ではそのように訳しています。口語訳では、「その欲望は衰え」となっています。また、創造主訳聖書でも「性欲もなくなり」と訳しています。さらに、英語の訳はすべてそのように訳しています。

「And desire no longer is stirred.」(NIV)

「And desire fails.」(NKJV)

「and all desire will be gone.」(TEV)

これが、ここで言わんとしていることでしょう。人は老年になると、食欲も性欲も減退し、何の楽しみも見出せなくなります。

そして、「人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」これは、死を迎えるということです。「泣く者たちが通りを歩き回る」とは、葬儀に参列した人たちが死を悼み悲しみ、葬送の列に加わっている様子を語っています。

6節をご覧ください。「こうしてついに銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉の傍らで砕かれて、滑車が井戸のそばで壊される。」(6)こうして、ついには死がやって来るということです。歳月が経つと人の肉体は老い、衰え、ついには死に至ります。この地上で、死を免れることができる人はひとりもいません。死はすべての人に平等に訪れるのです。

では、人は死んだらどうなるのでしょうか。7節には、「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」とあります。人は死んだら、肉体は土から造られたので土に帰りますが、霊はこれを与えてくださった神のもとに帰ります。もちろん、神が提供された救いを信じた人とそうでない人とでは行き先が異なります。信じた人は神がおられる天国へ、それを拒否した人は神がいない所、ハデスに行くことになります。

であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」ということです。「わざわいの日が来ないうちに」。わざわいの日が来ないうちに、神に会う備えをしなければなりません。人は死んだらどうなるのでしょうか。へブル9章27節には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とあります。人は死んだら神の前に立つようになります。神の御前に立って人生の精算する時がやって来るのです。死んでもまた救われるチャンスがあるというのは間違っています。わざわいの日が来ないうちに、あなたの創造者を覚え、あなたの救い主を信じなければなりません。その日に備えて生きることこそ真に知恵のある生き方なのです。そのような人は、この世の富や栄誉に執着することをしません。そして、自分にいのちを与えてくださったいのちの源であられる神を認め、神を恐れて生きるのです。

あなたはどうですか。神ではないほかのものに全精力を注いではいないでしょうか。もうそうであるなら、あなたの人生においてどんな調整が必要でしょうか。やがて老年期を迎え、肉体は衰えて行きます。ついには銀のひもが切れ、金の器は打ち砕かれることになります。しかし、いつまでも変わらないものがあります。それはあなたを創り、あなたにいのちを与えてくださった創造主なる神です。これこそ、私たちが真に追い求めていくべきものなのです。ですからあなたは、あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えなければなりません。

Ⅱ.真理のことば(9-12)

次に9節から12節までをご覧ください。9節と10節をお読みします。「伝道者は知恵ある者であった。そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探究し、多くの箴言をまとめた。伝道者は適切なことばを探し求め、真理のことばをまっすぐに書き記した。」

伝道者は知恵ある者でした。そのうえ、その知恵を民に教えました。彼は思索し、探求して、多くの箴言をまとめました。箴言とは人生論のことです。また、真の祝福と喜びを与え、人生を有意義にするための真理のことばです。それは、箴言としてまとめられた聖書のことばのことです。それは神から出たものであり、伝道者の書もまた聖霊によって記された神のことばです。

11節と12節です。「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ち付けられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。多くの書物を書くのはきりがない。学びに没頭すると、からだが疲れる。」(11-12)

ここには「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの」とあります。「突き棒」とは士師記3章31節には「牛を追う棒」とありますが、牛が後ろに下がると当たって痛くなるように付けてある棒のことです。それで土を耕すようにするわけです。そのように、鈍い者を教え、正しい道に導くという意味です。「よく打ち付けられた釘のよう」とは、よく打ち付けられた釘はしっかりしていることから、信頼に値するという意味です。これらは一人の牧者によって与えられました。この牧者とは誰でしょうか。ここでは伝道者ソロモンのことですが、ソロモンを通して語られた神の知恵、イエス・キリストのことです。私たちにはこのような真理のみことばが与えられているのです。ですから、私たちはこの真理のことばに耳を傾け、従わなければなりません。

伝道者は、さらにもう一つのことを注意しています。それは、彼は多くの書物を書くこともできましたが、どんなに多くの本を書いてもきりがないということです。むしろ、そうしたものに没頭すると、かえって疲れ果ててしまうことになります。学びにはきりがありません。あれもこれも学ぼうとするあまり、大切なものを見失ってしまうことになります。本当に大切なのは神によって与えられた聖書です。聖書以外のものをいくら学んでも、結局のところ疲れ果ててしまうことになります。これで十分なのです。

箴言30章5節には、「神のことばは、すべて精錬されている。神は、ご自分に身を避ける者の盾。」とあります。神のことばには力があります。私たちは日々様々なプレッシャーやストレスに押しつぶされそうになることがありますが、そうしたプレッシャーに押しつぶされることなく、耐える力を与えてくれるのは、これが神によって与えられた神のことばだからです。この神のことばが私たちを生かすのです。

以前、ある教会の礼拝で説教をした時、礼拝後に一人の女性が私の所に来て「昨日、聖書を買いました。表紙の裏に私に相応しいことばを何か書いてください」と言いました。その人は教会に初めていらしたという方だったので、どんなことばがいいかなぁと考えながらその方のお顔を見ていると、ある一つのみことばが思い浮かびました。それは、イザヤ書43章4節のみことばです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」それで、そのみことばを書いて渡すと、その方はしばらくそれをじっと眺めていましたが、それを胸に抱くようにして帰って行かれました。それから数カ月後に、その方からメールが来ました。

「実はあの日、私は先生が書いてくださったことばがどんなことばであろうと神様からのことばとして受け取る覚悟でした。実は私はあの時、売春の仕事をしていました。こんな汚れた自分にふさわしいことばとは、どんなことばだろうと思って待っていました。すると先生は驚くべきことばを書いて下さいました。こんな私が「高価で尊い」なんて信じられませんでした。「神に愛されている」なんてとても思えませんでした。しかしあのことばで私の心は救われました。最近、私はイエス・キリストを信じました。仕事も会社の事務をしています。あの聖書のことばが私の人生を変えてくれました。」

聖書のことばは、私たちに生きる力を与えてくれます。私たちは、この神のことばに生きるものでありたいと思います。私たちの周りにはたくさんの書物がありますが、でも、学びに没頭すると、からだは疲れます。しかし、神のことばは私たちを生かしてくれます。私たちが信頼するのは、一人の牧者、神の子イエス・キリストによってもたらされた神のことばなのです。

Ⅲ.神を恐れ、神の命令を守れ(13-14)

最後に、13節と14節を読んで終わりたいと思います。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」

結局のところ、私たちの人生にとって最も重要なことは何なのでしょうか。それは、「神を恐れよ。神の命令を守れ。」ということです。なぜなら、神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからです。最終的なさばき主である神を恐れ、神の命令を守ることこそ、すべての人にとって知恵ある人生であると言えるのです。

ルカの福音書12章16~21節に、イエス様が話された愚かな金持ちのたとえ話があります。「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

この金持ちはどういう点で愚かだったのでしょうか。それは「ピント外れの価値観」を持っていた点です。彼は大豊作の作物を、新しい倉を建ててその中に十分に蓄えました。そして自分のたましいにこう言いました。

「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」

これは単なる独り言や心の中のつぶやきではありません。これは彼の人生観そのものでした。物がたくさん貯まったことで、たましいの安全までも保障されたと思ったのです。彼は「物でたましいの安全を買うことはできない」という大原則を忘れていました。ですから神から「愚か者」と叱責されたのです。「愚か者」とは「感覚を失った者」という意味です。彼は人生における正しい感覚を失ってしまっていたのです。

そんな彼に神は言われました。「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」と。その「今夜」とは、まさに宴会の真最中のことです。「もう大丈夫、安心だ、楽しもう」と言っていたその時です。「今夜」つまり、人生の終わりは誰にでもやって来ます。しかし、それがいつ来るかは誰にも分かりません。

しかし、神の前に富む者は、この人生の終わりにしっかりと備えています。「肉体の死」ということに出会っても、失わないものをちゃんと持っているのです。それはまことのいのち、永遠のいのちです。死ぬ時に手放さなければならないものをいくらっていても、それは本当の豊かさではありません。死を越えてもなおその手に残るもの、それは永遠の神との関係です。イエス・キリストを救い主として信じる者に与えられる永遠のいのちです。

同じルカの福音書16章19~31節には、「金持ちとラザロ」の話が出て来ますが、「ラザロ」はその永遠のいのちを得た人です。金持ちは毎日贅沢に暮らし、神様を求めようともせず、自分中心の生活をしていました。一方ラザロは惨めな生活で、神様の助けなしには生きられない存在でした。それは「ラザロ」という名前からもわかります。「ラザロ」という名前は「神は助け」という意味があります。彼は神の助けなしには生きていけないと告白していたのです。彼らの死後、金持ちはハデスに、ラザロはアブラハムの懐、つまりパラダイスにいました。私たちの人生は、死んで終わりではありません。生きている間の行いに応じて、神様の裁きがあり、天国と地獄に振り分けられるのです。人は、誰でも心に罪を持っています。神様

信じない自己中心的な人生を送った人は天国には行けません。しかし、イエス様は今から2000年前に十字架にかかられ、私たちを罪の束縛から解放して下さいました。罪を悔い改め、十字架の贖いと復活を信じるなら、その罪は赦され、罪のない者として永遠のいのちを受けることができます。たとえ死んでも天国に行くことが出来るのです。


 このような人こそ、神を恐れ、神の命令に歩む人です。創造者である神を信じ、神と共に歩む時、私たちの霊は満たされます。もはや、むなしい生き方ではなく、天に希望を置き、意味のある生き方が始まるのです。重要なのはスピードよりも方向です。どの方向に向かって生きているのかということです。あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいが来ないうちに。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

あなたはどうですか。あなたの人生が後悔や嘆きではなく感謝と賛美に満たされたものとなるように、ここで伝道者ソロモンが見いだした知恵を心に刻んでいただきたいと思います。すべてを支配しておられる神を認め、神を恐れ、この神とともに意味のある人生を送らせていただこうではありませんか。

Ⅱサムエル記9章

 サムエル記第二9章から学びます。

 Ⅰ.ヨナタンとの契約のゆえに(1)

 まず、1節をご覧ください。「ダビデは言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか。私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい。」

 主はダビデとともにおられたので、ダビデが行く先々で、彼に勝利を与えられました。主は周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えてくださいました。ダビデもまた、そのようにして与えられた全イスラエルを、主のさばきと正義によって治めていました。

 そのような時ダビデは、サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか、と尋ねました。それは、ダビデが親友ヨナタンと結んだ契約のゆえです。彼はヨナタンに真実を尽くしたいと思ったからです。その契約とはⅠサムエル記20章12~17節にある内容ですが、ヨナタンは自分の父サウルがダビデを殺さないというのを聞いていたのに、実際はそうでないのを見て、もしサウルがダビデを殺そうとしているのを知ったなら、そのことを必ずダビデに告げ、ダビデが殺されることがないように無事に逃がしてやる代わりに、自分の家族をあわれんで、恵みを施してほしいということでした。たとえ自分が死ぬようなことがあっても、どうか自分の家族だけは助けてやってほしい、彼の家が断たれることがないようにしてほしいということだったのです。ダビデはこのヨナタンのことばを受け入れ、主の前で契約を結びました。それが今、実行に移されようとしていたのです。ダビデは、そのヨナタンとの契約のゆえに、その真実を尽くそうとしたのです。

日本のことわざに、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざがあります。苦しい時に人を助けてやっても、その苦しみが過ぎ去るとその恩を忘れてしまうということです。ルカの福音書17章には、イエス様にツァラートを癒してもらった10人の人の話があります。しかし、そのうちで感謝するためにイエス様のところに戻って来たのはたった1人だけでした。しかもそれはサマリヤ人だけ、外国人だけでした。それを見られて嘆かれたイエス様はこう言われました。「10人きよめられたのではないか。9人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがるために戻って来た者はいなかったのか。」(ルカ17:17-18)

このように、私たちは往々にして人から受けた恵みを忘れ、感謝の心をなくしたり、神に対する感謝や約束を忘れてしまったりすることがあります。しかし、ダビデはそうではありませんでした。彼は、ヨナタンと交わした契約を忘れることなく、その契約のゆえに、彼の家族を助けようとしたのです。ここにダビデの誠実な信仰を見ることができます。私たちもダビデのように、主の前で契約したことを最後まで果たそうとする誠実な信仰者でありたいと思います。

Ⅱ.メフィボシェテへの恵み(2-8)

次に、2~8節をご覧ください。「サウルの家にツィバという名のしもべがいて、ダビデのところに呼び出された。王は彼に言った。「あなたがツィバか。」彼は言った。「はい、あなた様のしもべです。」王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないか。私はその人に神の恵みを施そう。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの息子で足の不自由な方がおられます。」王は彼に言った。「その人は、どこにいるのか。」ツィバは王に言った。「お聞きください。ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家におられます。」ダビデ王は人を送って、ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家から彼を連れて来させた。サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデのところに来て、ひれ伏して礼をした。ダビデは言った。「メフィボシェテか。」彼は言った。「はい、あなた様のしもべです。」ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵みを施そう。あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。」彼は礼をして言った。「いったい、このしもべは何なのでしょうか。あなた様が、この死んだ犬のような私を顧みてくださるとは。」

サウルの家にツィバという名のしもべがいました。彼はダビデのところに呼び出されると、ダビデは彼に、サウルの家の者で、まだだれかいるかどうかを尋ねました。その者に恵みを施すためです。あのヨナタンのゆえにです。そこでツィバは、ヨナタンの息子で足の不自由なメフィボシェテが残っていることを知らせます。覚えているでしょうか、Ⅱサムエル記4章で、このヨナタンの子について紹介されていました。彼がメフィボシェテです。サウルとヨナタンがペリシテ人との戦いによって死んだとき、メフィボシェテの乳母があまりにも急いで逃げたので、その子を落としてしまいました(Ⅱサムエル4:4)。それで彼は足なえになってしまったのです。彼は今、名も明かさずに、マキルという人の家で世話になっていました。

メフィボシェテは、いのちが奪われるのではないかと恐れながらダビデのもとに来て、ひれ伏して礼をしました。するとダビデは彼に信じられないことを言いました。何でしょうか。7節です。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵みを施そう。あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。」

何とベニヤミンの地にある祖父サウルの土地をすべて自分に返すというのです。そればかりではあふりません。いつもダビデの食卓で食事をすることになるというのです。

これは考えられないことです。当時の世界では、王が他の王によって滅ぼされたとき、新しい王は、自分に反逆して自分の国を乗っ取ることがないように前の王の家族全員を皆殺しにしました。ですから、サウルの家からダビデの家にイスラエルの統治が移ったのであれば、メフィボシェテは殺されて当然でした。その彼のいのちが守られるというだけでなく、先祖の土地まで返してもらうことができ、さらに、王の食卓で食事をすることまで許されたのです。その恵みがどれほど大きいものであったかがわかるかと思います。これが神の恵みです。Amazing Grace! 驚くばかりの恵みです[o1] 。罪過と罪との中に死んでいた私たちは滅ぼされても当然の者でした。にもかかわらず、神は十字架のキリストにその敵意を置いてくださることによって、私たちの罪を赦してくださいました。そればかりか、私たちを神の子として御国を相続する者としてくださったのです。そしてキリストとの食事、親密な交わりを持つ特権に預からせてくださいました。これは大いなる恵みです。それは、アブラハムを通して約束してくださったことであり、またモーセを通して約束してくださったことであり、このダビデを通して約束してくださったことです。神はその約束のゆえに、それを実現してくださったのです。神は約束を実行される真実な方なのです。その契約のゆえに、私たちも神の尊い救いに与る者となったのです。

メフィボシェテは、感謝してダビデの申し出を受け取りました。感謝して受け取るしかなかったのでしょう。足なえの身ですから、かつてイシュボシェテがダビデと戦ったように、戦うことはできません。また、このようなすばらしい恵みが用意されているのに、それを受け取らない理由はないからです。

 彼は自分のことを、「死んだ犬のような者」と言っています。私たちにはあまりこの言葉の持つ重みを理解していません。「犬」というのは聖書の中で非常に恥ずべきもの、卑しいものを呼ぶときの呼称として用いられた言葉です。彼は、自分がいかに卑しい者であるかを知っていました。

 神の恵みを受け入れる人は、それが恵みであることが分からないと、受け入れることができません。自分はすでに豊かであり、満足していると思っていると、罪の赦しや永遠のいのの必要性を感じなくなってしまうからです。ですから、恵みが恵みであることを知るには、本当の自分の姿、心の貧しさを知る必要があります。イエス様は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)と言われましたが、自分がいかに貧しく、惨めな者であり、さばきと死に値する者であることを認めることが救いの入口です。このメフィボシェテのように、そのことを認めることができなければ、その恵みの大きさを知ることはできないのです。

Ⅲ.王の食卓で食事をしたメフィボシェテ(9-13)

次に、9~13節をご覧ください。「王はサウルのしもべツィバを呼び寄せて言った。「サウルと、その一家の所有になっていた物をみな、私はあなたの主人の息子に与えた。あなたも、あなたの息子たちも、あなたの召使いたちも、彼のために土地を耕し、作物を持って来て、それがあなたの主人の息子のパン、また食物となる。あなたの主人の息子メフィボシェテは、いつも私の食卓で食事をすることになる。」ツィバには息子が十五人と召使いが二十人いた。 ツィバは王に言った。「わが主、王がこのしもべに申しつけられたとおりに、このしもべはいたします。」メフィボシェテは王の息子たちの一人のように、王の食卓で食事をすることになった。メフィボシェテには、ミカという名の小さな子がいた。ツィバの家に住む者はみな、メフィボシェテのしもべとなった。メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足がともに萎えていた。」

メフィボシェテへの約束を実行するために、ダビデはサウル王のしもべであったツィバを呼び寄せて言いました。サウルと、その一家が所有していた物はみな、メフィボシェテに返還されるということ、そして、ツィバも、ツィバの息子たちも、またツィバの召使いたちも、返還されたサウル家の土地を耕して、サウル家の生計を立てなければならないということです。そして、メシュボシェテは、いつもダビデの食卓で食事をするようになるということです。ツィバには15人の息子と20人のしもべがいたので、かなりの広い土地を耕すことができました。

ツィバはダビデの命令を受け入れ、それを実行しました。そして、メフィボシェテは王の息子たちの一人のように、王の食卓で食事をするようになりました。メフィボシェテには、ミカという名の小さな子がいました。この子は成長して多くの子孫をもうけ、彼によってサウルの家系が何世紀にもわたって存続するようになります(Ⅰ歴代誌9:41~44)。

かくしてメフィボシェテは、まるで王の息子たちのように、ダビデの食卓に連なるようになりました。彼はダビデと食事を共にするために、先祖の地ではなく、エルサレムに住みました。このダビデの姿はイエス様の姿を、メフィボシェテは私たちクリスチャンの姿を表しています。ダビデはメフィボシェテを恵みによって取り扱いました。また、常に自らの食卓に連なることを許しました。これは一方的な恵みによるものです。恵みとは、受ける価値のない者が受けるようになることです。メフィボシェテはまさに受ける価値のない者でした。滅ぼされてもしょうがない者でしたが、ダビデ王の恵みによって慈しみとあわれみを受けただけでなく、ダビデと同じ食卓にあずかるという光栄に預かる者となったのです。私たちも同じです。私たちは神に敵対していた者、どうしようもない罪人であったのに、神があわれんでくださり、神との食卓に与るという栄光を受ける者とされました。何という恵みでしょうか。これは人知を超えた祝福です。このような恵みと祝福を与えてくださった主に心から感謝します。そして、その恵みに生きる者でありたいと思います。


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ヨハネ20章19~21節「平安があなたがたにあるように」

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イースターおめでとうございます。きょうはイースターをお祝いしての礼拝ですが、私たちがこうしてイースターをお祝いするのは、イエス・キリストの復活の出来事が私たちにとって重要な出来事だからです。私たちは毎年クリスマスを盛大にお祝いますが、このイースターはクリスマス以上に重要な出来事だと言えるかもしれません。確かにクリスマスは神様が私たちを愛し、私たちを罪から救うためにひとり子イエスをこの地上に送って下さった日ですからとても重要な日ですが、イースターは、その御子が十字架でなされ罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださったということが真実であることを保証するものですから、そういう意味ではもっと重要な出来事だと言えます。イエス様が死からよみがえらなかったなら、私たちはどうやって罪から救われたと確信することができるでしょうか。どうやって天国に行くことができると確信することができるでしょうか。というのは、ローマ人への手紙6章23節には「罪から来る報酬は死です」とあるからです。もしキリストが死んで復活しなかったら、キリストにも罪があったということになるのです。そうであれば、私たちが救われたというのは単なる思い込みにすぎず、盲信でしかないということになります。しかし、イエス様はよみがえられました。イエス様が復活されたことで、聖書が言っているとおり、この方を信じる者は永遠のいのちを持ち、天の御国で永遠に神とともに生きるようになるという希望を持つことができるのです。もう死を恐れる必要はありません。確かに死は怖いですが、死は永遠の入り口にすぎず、イエス様を信じる人は、やがて栄光の御国に入るのです。それはイエス様が復活してくださったからです。イエス様が復活されたので、私たちは確信をもって死の不安と恐怖から解放され、永遠のいのちの希望に生きることができるのです。きょうは、このすばらしいキリストの復活の出来事から、キリストにあるいのちと希望をいただきたいと思います。

 

Ⅰ.弟子たちの真中に立たれたイエス(19-20)

 

まず、19~20節をご覧ください。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」

 

「その日」とは、マグダラのマリヤが復活の主イエスに会った日のことです。それは週の初めの日、すなわち、イエス様が十字架につけられてから三日目の日曜日のことでした。マグダラのマリヤは、その日、朝早くまだ暗いうちに、イエスのお体に香油を塗ろうと墓に行くと、そこに置かれていた石が取り除けられているのを見ました。だれかが墓から主を取って行ったのだと思った彼女は、そのことを弟子のペテロとヨハネに告げます。それを聞いたペテロとヨハネは急いで墓に向かいましたが、墓に着いてみると、そこには亜麻布は置かれてありましたが、主イエスのお体はありませんでした。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書のことばを理解していなかったので、まさか主がよみがえられたとは思いもしませんでした。

 

一方、マリヤも何が起こったかがわからず、墓の外でたたずんでいましたが、そんな彼女に主が現れてくださり、「マリヤ」と声をかけられました。その声を聴いたときマリヤはすぐにそれがイエス様だということがわかり、イエス様にすがりつこうとしましたが、イエス様は「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのもとに行って、「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」と伝えなさい。」(17)と言われました。それで彼女は行って弟子たちにそのことを告げたのです。「その日」のことです。

 

その日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていました。弟子たちは、イエスに従っていた自分たちも捕らえられ、裁判にかけられるのではないかと恐れていたのです。復活したキリストが、自分たちのところに来て姿を見せてくださるまで、弟子たちは完全に恐れに打ちのめされていました。彼らはいつもイエス様と一緒にしてそのすばらしい御業を見たり、聞いたりしていましたが、いざイエス様が十字架で処刑されると、どうしたらいいのか、何を信じたらいいのかわからなくなってしまったのです。

 

今は亡き毒舌落語家に、立川談志(たてかわだんし)という方がおられました。彼はとにかく、自分の目で見たもの以外は信用しないという人でした。著書の中で、テレビはやらせ、新聞はウソと言い放っています。「ものごとってなぁ、自分が見たものだけが本物だ。あとは全部うわさ話よ。」とよく言っていました。しかし、どうして人の話を、頭から信じないようになったのかというと、それは日本の敗戦にありました。

子供のころ談志さんは、日本軍は連戦連勝を続けているという、この大本営発表を信じ切っていましたが、それなのに、日本の本土は簡単に空襲を受けたのです。まだ小学生だった彼は、東京大空襲を経験し、その目で、その耳で、地獄を経験するのです。母と兄の3人で避難する途中、川の中から聞こえてくる「助けてくれ」という声と、土手からの「助けてやれない」という声が交差する中を必死で走り回ったといいます。信じ切っていた発表が、真っ赤な嘘だとわかったとき、それから彼は疑い深い人間になったというのです。

 

主イエスこそ人となった神であり、全能の救い主だと信じていた弟子たちは、このイエスが死刑にされ、墓にまで埋葬されてしまったとき、もうすべてが終わった、いったい自分たちが信じてきたことは何だったのかと、頭が混乱していたに違いありません。彼らは意気消沈し、また同時に、次に当局は自分たちを捕らえに来るかもしれない、と恐れていたのです。

 

すると、そこにイエスが来られました。イエスが来て彼らの真ん中に立たれると何と言われましたか?「平安があなたがたにあるように。」と言われました。閉まっていた戸を通り抜けることができたのは、イエス様のからだが地上での物理的制約を受けない霊のからだであったことを示しています。復活されたイエス様のお体は物質的な障壁を越えられるものであったということです。しかしそれは単なる霊ではなくちゃんとした肉体をもっていました。ルカの福音書24章には、復活したイエス様を見て幽霊だと思った弟子たちに対して、イエス様が「なぜ取り乱しているのですか。わたしにさわって、よく見なさい。」と言われました(24:38-39)。「幽霊なら肉や骨はありません。でも私にはあります。」そう言って、彼らに手と脇腹を見せられたのです。手と脇腹というのは、イエス様が十字架につけられた時の釘の跡と槍の跡のことです。ですから、復活されたイエスは確かに肉や骨がありましたが、それはこの肉体とは違い、物理的な障壁を越えられるものだったのです。

 

そして、こう言われました。「平安があなたがたにあるように。」イエス様はなぜこのように言われたのでしょうか。この言葉は、ギリシャ語で「シャローム」という言葉です。これは今もユダヤ人があいさつで使っている言葉ですが、「平安があなたがたにあるように」とか「ごきげんよう」といったニュアンスの言葉です。しかし、ここでイエス様が彼らに「シャローム」と言われたのは単なるあいさつではなく、それ以上の意味がありました。それは不信仰に陥り不安と恐れに脅えていた彼らの信仰を回復し、彼らにメシヤの到来を告げ知らせることによって、喜びと平安をもたらすためだったのです。

 

このとき彼らは不信仰に陥っていました。第一に、彼らはイエス様からガリラヤに行くようにと言われていたのにもかかわらず、自分たちも捕らえられるのではないかと恐れ、戸を閉めて家の中に閉じこもっていました。第二に、彼らはイエス様があらかじめ語っておられた復活の預言を信じていませんでした。第三に、イエス様が復活されても、自分たちは幽霊を見ているのではないかと思っていました。

このように彼らはイエス様が言われたことを信じることができなかったため、恐れと不安に脅えていたのです。

 

しかし、イエス様が彼らの真中に立たれ「平安があなたがたにあるように」と言われ、その手と脇腹を示されたとき、彼らは主を見て喜びました。あの恐れと不安が、喜びに変えられたのです。復活した主イエスが現れ「平安があなたがたにあるように」とみことばをかけてくださることによって、その手と脇腹を示されることによって、彼らに再び信仰が与えられたのです。イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえると言われていたことばを思い出したのです。弟子たちはそれを見て喜んだのです。

 

皆さん、信仰の対極にあるのは何でしょうか?信仰の対極にあるのは恐れとか不安です。恐れや不安は霊の眼を閉ざしイエス・キリストを見えなくさせます。反対に信仰は、喜びと希望を与えてくれます。不安と恐れのどん底にいた弟子たちが喜ぶことができたのは、復活したイエス様が現れて「平安があなたがたにあるように」と御声をかけてくださったからです。それはイエス様の恵み以外の何ものでもありません。イエス様は恐れと不安で何も見えなくなっていた彼らに「シャローム」と言われ、彼らの信仰を回復させてくださいました。同じように主は今も、この時の弟子たちのように不安と恐れに苛まれている私たちに現われてくださり、同じように御声をかけておられるのです。「シャローム」「平安があなたがたにあるように。」あなたが不安や悲しみでどんなに落ち込んでいても、主があなたの前に立っておられることを認め、そのみことばを聞くならば、あなたも弟子たちのようにそれを見て喜ぶことができます。いや、あなたが落ち込めば落ち込むほど、その喜びも大きくなるのです。

 

生涯現役の医師として活躍された日野原重明さんが、2017年に天国に召されました。たくさんの本を残されましたが、その一冊に学生時代の思い出について書かれたものがあります。

京都大学の医学部を受験した日野原さんは、合格発表を見に行くため、家を出ようとしていました。するとそこに友人から電話がかかってくるのです。彼は日野原さんの受験番号を知っていました。そして自分の合格を確認するだけではなく、ついでに日野原さんの合否を見に行ってみたというのです。その結果「番号はなかったよ」というのです。内心自信があった日野原さんは、本当にがっかりしました。誰も近づくことができない程に落ち込んだのですが、やがて大学から連絡が入りました。「合格しているのにどうして手続きに来ないのですか?」
どういうことか。実は当時の医学部受験には、二つのコースがあったのです。友人はそれを知らずに、もともと日野原さんが受けていない方のコースの合格掲示板を見て、早合点したのです。もう一つの方にはちゃんと受験番号がありました。それが分かったとき、喜びが爆発したそうです。がっかりした気持ちが深かった分、それをくつがえす事実に向き合ったとき、天にも昇るような気持ちだったと言います。

 

それは私たちも同じです。私たちも辛くて、悲しくて、不安で、落ち込むことがあります。でも落ち込めば落ち込むほど、その喜びも大きくなります。信仰によって復活の主イエスを見るとき、私たちの悲しみは喜びに変えられるからです。あなたはどうでしょうか。あなたの心は不安や悲しみでいっぱいになっていませんか。もしそうであるならば、復活されてあなたの前に立ち、「平安があるように」と言われる主の御声を聞いてください。死から復活して今も生きておられる主を信じ、主のみことばを聞くとき、あなたも喜びに満たされるようになるのです。

 

Ⅱ.わたしもあなたがたを遣わします(21-23)

 

次に、21~23節をご覧ください。「イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 

この喜びと平安によって眠っていた弟子たちの使命感が、はっきりと呼び覚まされます。それは、罪の赦しの宣言のために遣わされるということです。イエスは彼らにこう言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

イエス様はここで再び彼らに「平安があなたがたにあるように。」と言われました。どうしてでしょうか。このときの「平安があなたがたにあるように」ということばは、19節で言われたことと意味が違います。19節で言われた時は弟子たちの信仰を回復させ、恐れと不安の中にあった彼らに喜びをもたらすためでしたが、ここではそうではありません。別の目的で語られているのです。それは、彼らを福音宣教の使命に遣わすためでした。父なる神は、ご自身の権威をもって御子イエスを派遣されましたが、それと同じように、今度は主イエスの権威によって彼らが遣わされるのです。そのために必要だったことは何でしょうか。それは神との平安です。罪責感を負ったままでは、主の使命を果たすことはできません。ですからここで主は再び「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。

 

そればかりではありません。イエス様はそのように言われると、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」どういうことでしょうか。

これはペンテコステに起こった聖霊降臨のことではありません。この「息を吹きかける」という言葉は、創世記2章7節にもありますが、そこには、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」とあります。ここには、土地のちりで形造られた人間に神が息を吹きかけることで、人は生きるものとなったとあります。この「息」という言葉と「霊」という言葉はヘブル語では同じ言葉(ヘルアッハ)が使われています。つまりイエス様が弟子たちに息を吹きかけたのは、そのことによって彼らが生きるものとなるためだったのです。そのことで弟子たちは、新しく生まれ変わったのです。ですからここで「聖霊を受けなさい」と言われているのです。聖霊を受けるとは、その人の罪が赦され、神のいのちが与えられるということです。つまり、この時キリストは彼らの罪を赦し、ご自身の聖なる霊を彼らに与えられたのです。これはイエスを信じるすべての人にされることです。神はイエスを信じるすべての人の罪を赦し、ご自分の聖なる御霊を与えてくださいます。それが「救われる」ということです。

 

そのことによって、私たちは神から与えられた使命を全うすることができます。その使命とは何でしょうか。罪の赦しの宣言です。23節にこうあります。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」どういうことでしょうか。

もちろんこれは私たちがだれかの罪を赦したり、残したりする権威があるということではありません。罪を赦すことができるのは神だけです。私たちにはそのような権威はありません。しかし私たちにはその神が決定されたことを宣言する役割が与えられているのです。その権威が与えられているということです。聖霊を受け、主イエスが父なる神から権威が与えられたように、そのイエスの権威によって遣わされる者にも同じ権威、罪の赦す権威が与えられているのです。すごいですね。信じられないことですが、聖霊によって新しく生まれ変わった私たちには、そのような権威が与えられているのです。私たちもこの時の弟子たちのように不信仰な者で、罪深い者にすぎませんが、復活のイエス様を信じることでイエス様に息を吹きかけられ、聖霊によって新しく生まれ変わった者であることを覚え、この神の権威と聖霊の導きによって、きょうも周りの人々に神の愛と罪の赦しの福音を伝えていきたいと思うのです。

 

Ⅲ.キリストの復活がもたらしたもの

 

最後に、このキリストの復活がもたらしたものを考えてみたいと思います。このあと弟子たちはこの罪の赦しの宣言を伝えて行くことになります。その様子は使徒の働きを見るとわかりますが、彼らはいのちがけで伝えていきました。それで初代教会のクリスチャンたちは破竹の勢いで広がっていき、ついにはヨーロッパ大陸全土がキリストの福音に圧倒されていきます。いったいその原動力は何だったのでしょうか。それは、キリストの復活がもたらしたものです。キリストは私たちの罪を背負い十字架で死んで下さった後に、三日目に復活してくださいました。この復活によって死を滅ぼされたという歴史的事実が、彼らにそのような力を与えたのです。それが原動力となったのです。つまり、この復活の事実こそが、キリストが死から復活したということが迷信ではなく、実際にあった事実であったということを物語っているのです。

 

私は最近、「言霊信仰」に関する本を読みました。日本人は昔から起こって欲しくないことを言葉にして出すと、本当にそれが実現すると信じているところがあります。ですから、結婚式では「切れる」とか「別れる」とか「割れる」といったことばは禁句です。受験生がいる家では「すべる」とか「落ちる」がタブーですね。逆に、むかしから「勝つ」と「カツ」をかけて、勝負や試験の前に「豚カツ」を食べる験担ぎになっています。そんなのバカバカしいと思っている人でも、実は知らず知らずの間に使っているのです。たとえば、会合や宴会などを終えるとき「お開きにする」という言い方をしますが、本当は「おしまいにする」とか「会を閉める」なのです。でも、それでは縁起が悪いと考えて、あえて反対の「開く」という言い方をするようになり、それがすっかり定着するようになったのです。

こういう現象は日本社会では随所に見受けられます。しかしこれこそが日本の安全保障の障害になっているのではないか、と指摘する人もいるのです。起こって欲しくないことは考えないようにすることによって、万が一のことに備えることができなくなってしまうからです。

 

これは個人の人生についても言えることで、その代表が、死につながることをいっさい隠すということです。ですから病院では4号室や、4番ベッドはなく、飛行機には4番シートがありません。それは縁起の悪いものがあったら、本当に死んでしまうかもしれない、と恐れるからです。しかし4という数字をどんなに使わないようにしていても、死は必ずやって来るのです。必ずやって来るものについては、考えないようにするのではなく、そのためにしっかりと準備しておくことの方が賢明です。しかし、死に対する準備などできるのでしょうか。できます!

 

キリストは私たちの罪を背負って、十字架で死んで下さった後、三日目に復活することで、死を滅ぼしてくださいました。これは迷信でも何でもなく、この歴史の中で実際に起こった事実です。それは、私たちの罪が赦され、永遠のいのちを与えるために神が成してくださった神のみわざです。この神のみわざを受け入れる者、すなわち、この方を信じる者は罪が赦されて、死んでも生きる永遠のいのちが与えられるのです。

 

キリストはあなたのために死なれました。そして文字通りよみがえられました。あなたの前に立って「平安があなたがたにあるように」と言っておられます。どうぞ、この復活された主イエス・キリストを信じてください。そして、あなたの人生が天国に向かう喜びと平安なものになってほしいと思います。主はよみがえられました。復活の主の力と喜びがあなたにもありますように。「平安があなたがたにあるように。」

Ⅱサムエル記7章

今日は、Ⅱサムエル記7章からお話します。ここはとても重要な箇所です。というのは、ここには「ダビデ契約」について書かれてあるからです。旧約聖書には、罪によって失われた神の国を回復するために、キリスト、メシヤを送るということが予言されていますが、その中でも重要な予言が3つあります。一つはアブラハム契約と呼ばれるもので、これは創世記12章にありますが、アブラハムの子孫からキリストをこの世に送り、地上のすべての人を祝福するというものです。もう一つは、シナイ契約と呼ばれるもので、これはモーセの時代になってイスラエルが民族にまで成長したとき、主は彼らを律法によって聖別し、ご自身の民とすると約束してくださったものです。そしてもう一つがこのダビデ契約です。主はダビデと契約を結び、ダビデの家系から出るキリストによって、とこしえまでも続く神の国を立てると約束されました。7章13節に、「彼はわたしのために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」とあります。 きょうは、このダビデ契約からご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.預言者ナタン(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。3節までをお読みします。「王が自分の家に住んでいたときのことである。主は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた。王は預言者ナタンに言った。「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」

ダビデは30歳で王となり、40年間イスラエルを治めました。ヘブロンで7年6カ月ユダを治め、エルサレムで33年間イスラエルとユダ全体を治めました。ダビデは王となるとエブス人を攻略してそこを攻め取り、それを「ダビデの町」と呼びました。これがエルサレムです。そして、そこを政治的、軍事的拠点としたのです。すると、ツロの王ヒラムがダビデのもとに使者と、杉材、木工、石工を送り、ダビデのために王宮を建てました。5章11節に記されてあります。万軍の主がダビデとともにおられたので、ダビデはますます大いなる者となりました。

そんなある日のことです。主が周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えてくださいましたが、彼は一つのことに気付きました。それは、自分は杉材の立派な家に住んでいるのに、神の箱は天幕に安置されたままになっているということです。確かに、天幕の内側は純金でできていて神の栄光に満ち溢れていましたが、外側はじゅごんの皮でできたみすぼらしいものでした。じゅごんというのは地中海に生息していたアザラシみたいな動物です。自分が住んでいる杉材の王宮と比べると、それはくらべものになりませんでした。

そこで彼は預言者ナタンに相談しました。「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」(3)ナタンは宮廷に出入りする預言者でした。宮廷に出入りしていた預言者は、王の個人的な助言者でもありました。ナタンはダビデから相談されると、即座に答えて言いました。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」

どうですか、何だか力が湧いてくるようなことばじゃないですか。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられますから。」しかし、これは主のみこころにかなったものではありませんでした。あくまでもナタンの個人的な見解にすぎなかったのです。確かに、主がダビデとともにおられるというのは真理でしたが、ダビデが主のために家を建てるというのは間違いでした。彼はこれほど重要なことを、全く主に伺いも立てずに、個人的な判断で即答したのです。

それは、4~7節までのことばを見るとわかります。「その夜のことである。次のような種のことばがナタンにあった。『行って、わたしのしもべダビデに言え。『主はこう言われる。あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。わたしは、エジプトからイスラエルの子らを連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、天幕、幕屋にいて、歩んできたのだ。わたしがイスラエルの子らのすべてと歩んだところどこででも、わたしが、わたしの民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、「なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか」と、一度でも言ったことがあっただろうか。』」(4-7)

「その夜」とは、ナタンがダビデに告げた日の夜のことです。主はナタンを通してダビデに言われたことは、主は、エジプトからイスラエルの民を連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、幕屋にいて民を導いて来られたということ、そして、これまでどのイスラエルの部族にも、ご自身のために杉材の家を建てるように命じたことはなかったということです。つまり、ナタンが告げたことばは間違っていたということです。それは彼の思いにすぎず、主のみこころではなかったのです。

ナタンは預言者であり、とても善良で正しい人物でした。しかし、そのような人物でも自分の判断によってことばを発するなら、間違いを犯してしまうことがあります。善良で正しいだけでは人々を正しく導くことはできません。大切なのは主に祈り、主の導きを求めることです。これはナタンだけでなく、私たちに対する教訓でもあります。

Ⅱ.ダビデ契約(8-17)

次に、8~11節前半までをご覧ください。「今、わたしのしもべダビデにこう言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした。そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにいて、あなたの前であなたのすべての敵を絶ち滅ぼした。わたしは地の大いなる者たちの名に等しい、大いなる名をあなたに与えてきた。わが民イスラエルのために、わたしは一つの場所を定め、民を住まわせてきた。それは、民がそこに住み、もはや恐れおののくことのないように、不正な者たちも、初めのころのように、重ねて民を苦しめることのないようにするためであった。それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。』

主は続いてこう言われました。「万軍の主はこう言われる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした。そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにいて、あなたの前であなたのすべての敵を絶ち滅ぼした。」

どういうことでしょうか。主は一介の羊飼いにすぎなかったダビデを選び、イスラエルの王としたということです。そして、ダビデがどこに行っても、彼とともにいて、勝利を与えてくださいました。すべての敵を絶ち滅ぼしてくださったのです。そのようにして主は彼を、地の大いなる者たちの名に等しい名を与えてくださいました。

そればかりではありません。10節と11節前半には「わが民イスラエルのために、わたしは一つの場所を定め、民を住まわせてきた。それは、民がそこに住み、もはや恐れおののくことのないように、不正な者たちも、初めのころのように、重ねて民を苦しめることのないようにするためであった。それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。」とあります。

主はご自身の民のために一つの場所を定め、そこに住まわせてくださいました。どこですか?エルサレムです。ダビデの町エルサレム。それは彼らが敵の恐怖から守られ、安心して暮らすことができるようになるためです。士師の時代のように、周囲の敵に圧迫されて暮らすことがないようにするためです。

それはせかりではありません。ここで主はとても重要なことを告げられました。それが11節後半から17節までにあることです。「主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」ナタンはこれらすべてのことばを、この幻のすべてを、そのままダビデに告げた。」

主はダビデのために一つの家を造る、と言われました。ダビデは主のために家(神殿)を建てようと考えていましたが、そうではなく、主がダビデのために一つの家を造られる、と言われたのです。それはどのような家でしょうか。それはとこしえまでも堅く立つ王国です。12~13節には、「あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

とあります。

それは、ダビデの身から出る世継ぎの子が、ダビデの死後に、彼の王国を確立させるということです。ダビデの世継ぎ子とはだれでしょう。そうです、ソロモンです。ソロモンが主の御名のために一つの家を建て、主は彼の王国をとこしえまでも堅く立てるのです。しかし、それはソロモンだけでなく、ダビデの子孫として生まれ、永遠の神の国を建てられるメシヤ、キリストのことを預言していました。それはここに「彼の王国をとこしえまでも堅く立てる」とあることからもわかります。このことは16節にもあります。そこにはこのことが2回も繰り返して言われています。それは、この約束がダビデの息子ソロモンを超えて、来るべきメシヤのことを指していたからです。

預言者イザヤは、この方について次のように預言しました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:6-7)イスラエルを治めるひとりの男の子が、ダビデの王座に着いて、その王国を治めますが、それは今より、とこしえまでです。それはやがて来られるメシヤ、救い主キリストのことだったのです。そして、この預言のとおり、主はこのダビデの家系から救い主を送ってくださいました。それが今から2000年前の最初のクリスマスです。主は、この王国を立てるために救いのみわざ、十字架と復活のみわざを成し遂げてくださいました。そして今、神の右に着座しておられます。そして神の家である教会のかしらとなってこの御国を治めておられます。そしてやがて主が再び地上に戻って来られるとき、この約束が完全に成就することになります。この方はダビデの座に着いて、とこしえに神の国を治めてくださるのです。

ところで、14節を見ると不思議なことが記されてあります。それは、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」ということです。これは父なる神と子なる神の麗しい親子関係が描かれています。しかし、もしこれがメシヤのことであるならば、彼が不義を行うなど考えられないことです。ましてや、神がむちをもって彼を懲らしめるなどあり得ません。勿論、これは第一義的にダビデの子ソロモンのことを指しているとすれば、ソロモンが罪を犯すことはあり得るし、その場合、神がソロモンを懲らしめることもあります。

ある人は、この「彼が不義(罪)を行ったとき」を「彼が罪を負うとき」のこと解釈し、これはイザヤ書53書にある、「彼は罪を負った」というメシヤの受難のことを指示していると考え、それで彼はむちを受けることをよしとされた、と言っています。

しかし、ここではそういうことではなく、ダビデの子ソロモンに焦点があてられていたため、ソロモンが罪を犯す可能性があったのでそのことが戒められているのです。ですから、並行箇所のⅠ歴代誌17章にはこのことに関する記述がないのです。ちょっと開いてみましょう。Ⅰ歴代誌17章10~15節です。ここには、Ⅱサムエル記に書いてあることとほとんど同じことが記されてあります。しかし、Ⅱサムエル記にあるこの記述が抜けているのです。どうしてか?Ⅱサムエル記7章ではダビデの直接の子であるソロモンに焦点を絞った内容になっているのに対して、このⅠ歴代誌17章は、メシヤであるイエスに焦点を絞った内容になっているからです。メシヤであるキリストが罪を犯すことなどあり得ないからです。

しかし、たとえソロモンが罪を犯すことがあっても、サウルのように恵みが取り去られることはありません。これはとこしえの契約だからです。そのことが15~16節でこのように言われています。「しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(15-16)

すばらしい約束ですね。サウルからは恵みが取り去られましたが、ソロモンからは取り去られることはありません。確かにソロモンも罪を犯しました。サウルのように恵みが取り去られることはないのです。サウルとソロモンの罪を比較すると、サウルよりもソロモンの方がはるかに大きな罪を犯しました。サウルは、預言者サムエルに「待て」と言われたのに、民が自分から離れ去ってしまうのではないかと恐れて、サムエルが到着する前に、サムエルに代わって自分で主に全焼のいけにえをささげてしまいました(Ⅰサムエル13:8-9)。また、アマレクとの戦いにおいてこれを討ち、そのすべてのものを聖絶するようにと明治ら楡田にもかかわらず、肥えた羊とか牛とかのうち最も良いものを惜しんで聖絶しまぜんでした。ただ、つまらない値打ちのものないものだけを聖絶しました(15:7-9)。そのことをサムエルから指摘されると彼は、「いや、自分はちゃんと聖絶しましたよ」と答えるも、その後ろから「モー」と鳴く牛の声が聞こえるというありさまでした。でも、ソロモンの罪と比べたらかわいいものですよ。ソロモンは何をしたんですか?ソロモンは1000人の妻と多くのそばめを持ち、彼女たちが持ち込んだ偶像の神を拝んだのですから。それは赦されないことでしょう。もちろん、罪に大きいも小さいもありませんが、でも、サロモンが犯した罪はサウルのそれに比べたらはるかに大きなものでした。それなのに彼は、サウルのように王座を奪われることはありませんでした。なぜなら、これが永遠の契約に基づいていたからです。これが神の愛です。神の愛は無条件の愛なのです。私たちがどのようなものであるかは全く関係ありません。私たちがどんなに罪深い者であっても、神の御前にへりくだり、自分の罪を悔い改めて、神の救い、イエス・キリストを信じるなら、どんなものでも救われるのです。そして、どんなことがあっても見捨てることはありません。ヨハネ10:29で、イエスはこのように言われました。「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:29)

私は、福島で牧会していたとき10年間刑務所の教誨師をしていました。教誨師というのは毎月1回刑務所に行き、聖書からイエス様についてお話するのですが、そこに出席している人はみんな乾いた砂が水を吸収するように話を聞きますか。そこで、あのミッションバラバのビデオを見せたことがありました。ミッションバラバというのは、元ヤクザが悔い改めてイエス様を信じ、親分はイエス様!と証しするようになった人たちです。

それを見た一人のヤクザが、「先生。自分もヤクザだけど、こいつらはちょっと甘いです」というのです。一度信じた親分を裏切るなんて中途半端なヤクザだ。俺はヤクザを続けながらイエス様を信じます。それでもいいですか?」と言われたのです。「ヤクザを続けながらイエス様を信じるというのは難しいんじゃないかと思い、「ちょっと難しいと思いますよ。イエス様を信じたら、ヤクザができなくなると思います。でも、やってみてください」と勧めたら、もう一人のヤクザとイエス様を信じたのです。

そして出所後、一人は神戸に、もう一人は群馬県高崎の家に戻ったのですが、一年前に連絡があり、久しぶりにこられたんですね。25年ぶりの再会でした。それはちょうどこの方の奥さんが癌で闘病していて、余命いくばくかというときでした。あの時のように「いつくしみ深き」を賛美して、聖書からお祈りをしました。もう涙、涙です。隣にティッシュを置いてその時間ずっと鼻をかんでいました。

それからひと月くらいして奥様がなくなるのですが、こんなメールをくれました。 「先生。今日、医師から時間の問題です、と言われました。俺みたいな渡世人が祈ってもイエスは聞く耳持たないと思いますので、先生、自分も妻を愛し、そしてイエスを愛しました。自分の祈りが届きますように、先生、祈ってください。お願いします。わが愛しい妻。そしてわが愛するイエス・キリスト。十字架の愛を心より永遠に。」

あれから1年近くになりますが、先週、また二人で来られたのです。また3人で讃美歌を歌い、聖書からお話をして、お祈りをしました。一緒に讃美歌を歌ったり、お祈りをしながら感じたことは、彼らがどういう人たちであろうとも、イエス様はこういう人たちを愛しておられるだろうなぁということです。というのは、Ⅰテモテ1章15節に「「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」とあるからです。イエス様は罪びとを救うために来られたのです。そして、この方を信じるなら永遠のいのちをいただき、どんなことがあっても最後までイエス様が守ってくださるということです。

私たちもこの無条件の愛を受けたのです。どんなことがあっても、キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。私たちはこの神の愛によって、神の恵みを受けたのです。

Ⅲ.ダビデの感謝の祈り(18-29)

最後に18~29節までをご覧ください。まず21節までをお読みします。「ダビデ王は主の前に出て、座して言った。「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。神、主よ。このことがなお、あなたの御目には小さなことでしたのに、あなたはこのしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ、これが人に対するみおしえなのでしょうか。ダビデはこの上、何を加えて、あなたに申し上げることができるでしょうか。神である主よ、あなたはこのしもべをよくご存じです。あなたは、ご自分のみことばのゆえに、そしてみこころのままに、この大いなることのすべてを行い、あなたのしもべに知らせてくださいました。」

ダビデは、主のために神殿を建てたいと願っていましたが、主の答えは、ダビデが主のために家を建てるのではなく、主がダビデのために家を建てるということでした。主の約束を聞いたダビデは、主の御前に座して祈りました。

彼はまず、「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。神、主よ。このことがなお、あなたの御目には小さなことでしたのに、あなたはこのしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。主よ、これが人に対するみおしえなのでしょうか。」と言っています。

ダビデは、取るに足りない小さな者を選び、ここまで導いてくださるとは何ということかと驚きを隠せません。その上、はるか先のことまで告げてくださいました。このはるか先のこととは、とこしえまでの約束、メシヤの約束、神の国の約束のことです。主はそのことまで告げてくださったのです。「主よ、これが人に対するみおしえなのでしょうか。」とは、「自分にはそのような祝福を受ける資格はない」という意味です。そして彼は、「この上、何を加えて、あなたに申し上げることができるでしょうか。」と言っています。非常に言葉巧みな人であったダビデが、今、言葉を失っているのです。人はあまりにもすばらしいことが行なわれたときに言葉を失いますが、そのような状態になっているのです。

これは私たちクリスチャンにも言えることです。エペソ人への手紙2章1~5節にはこう

あります。「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」

私たちは、罪過と罪との中に死んでいた者です。自分で自分のことがわからない、自分が何をしているのかさえもよく分かっていませんでした。まさに、マルコの福音書5章に出てくるあのゲラサ人の男のようでした。彼は悪霊につかれ、墓場に住み着いていて、夜も昼も墓場や山で叫び続けていました。石で自分のからだを傷つけていたのです。もはやだれも、鎖をもってしても押さえることができませんでした。

しかし、そんな者を神は愛してくださいました。そして、罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださったのです。それはまさに神の愛によるものです。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。

私たちももう一度、自分がどのようなところから救われたのかを思い起こしましょう。神はこのような者を選び、贖い、神の子としての特権を与えてくださったことを思う時、ダビデのような感謝が溢れてくるのではないでしょうか。

私の恩師の一人に尾山令仁という先生がおられますが、この方は94歳にして現役で牧師をしておられます。神学書など、信仰に関する書物を200冊以上書いておられる方で、日本を代表する神学者のおひとりです。創造主訳聖書も刊行されました。驚くべきことは、90歳近くになってから厚木での開拓伝道に出られたことです。今も現役の牧師として仕えておられるのです。

この尾山先生が昨年ユーチューブ配信を始められました。その名も「93歳るんるんおじいちゃんねる」です。日本最高齢のユーチューバーと言われています。それは、クリスチャンの街を作りたい、クリスチャンの学校もできる、クリスチャンの病院もできる。ありとあらゆるものが備わったそういう愛の共同体を作りたいというお考えからのようです。そういうものを作ることによって日本を変えていきたいと思っているのです。この尾山先生が動画の中でイエス様の十字架について語るとき、涙ぐむシーンがあるんですね。イエス様が十字架で死なれたのは私の罪のためだったんだと。尾山先生のすばらしはいところはここだと思うんですね。日本を代表する神学者であることは間違いないですが、その尾山先生が、イエス様はこんな汚れた者のために死んでくださったという感激がいつも心にあるのです。

奇しくも、今週は受難週です。イエス様が私たちのために十字架で死なれたことを思い、悔い改めと感謝をささげるときです。グッドフライデー。なにゆえ、死ぬことがグッドなのか。もともとは「ゴッズ・フライデー(God’s Friday)」とされていたのが次第に変化したのではないかという説や、グッドにはホーリー(holy=聖なる)の意味が含まれていることから、聖金曜日という意味でグッドフライデーと呼ばれるようになったのではないかともいわれています。しかし、そればかりでなく、イエス・キリストはすべての人々の罪を背負い、人々の身代わりとなって死を迎えたとされ、つまりこの金曜日は、救い主キリストが死によって人類への愛を示し、祝福を捧げた日でもあるとのこと。さらに死から3日目、キリストは『復活』することになりますが、これは、新しい生命の誕生を意味するものです。ですから、キリストが死を迎えた金曜日は、『復活』を導いた良き日と解釈されるとのことから、この日が悲しみの日ではなく『良い金曜日』と呼ばれるようになったのではないかともいわれています。

いずれにせよ、イエス様はこんなに罪深くちっぽけな者のために死んでくださったということを思うと、ここでダビデが言っているように、それは、本当に感謝ではないでしょうか。

それゆえ、ダビデの祈りは賛美に変わります。22~24節をご覧ください。「それゆえ、申し上げます。神、主よ、あなたは大いなる方です。まことに、私たちが耳にするすべてにおいて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。また、地上のどの国民があなたの民イスラエルのようでしょうか。御使いたちが行って、その民を御民として贖い、御名を置き、大いなる恐るべきことをあなたの国のために、あなたの民の前で彼らのために行われました。あなたは、彼らをご自分のためにエジプトから、異邦の民とその神々から贖い出されたのです。そして、あなたの民イスラエルを、ご自分のために、とこしえまでもあなたの民として立てられました。主よ、あなたは彼らの神となられました。」

この賛美は圧倒的な力をもって私たちに迫ってきます。22節では、「主よ、あなたは大いなる方です。まことに、私たちが耳にするすべてにおいて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。」と告白しています。ダビデは、主がこれまでにイスラエルにしてくださったことを思い起こし、イスラエルの神こそ比類なきお方であると告白し、その神をほめたたえたのです。

次に、ダビデは、神が地上の民族の中から特にイスラエルを選び、その民をエジプトから救い出し、その上にご自身の名を置かれたことを覚えて、その神を賛美しています(23)。そして、神がイスラエルを選ばれたのは、永遠に彼らを立て、彼らの神となるためであった、と言っています(24)。

それは私たちも同じです。私たちもまた、地上の諸民族の中から選ばれ、キリストを信じて神の民とされた者です。私たちはイエス・キリストを通してこのイスラエルの神を「天の父」と呼べるようになりました。このお方は、永遠に私たちの神なのです。何という恵みでしょうか。ダビデがこの神を心から賛美したように、私たちもイエス・キリストを通して、この神に感謝と賛美をささげようではありませんか。

最後に、25~29節をご覧ください。ダビデはこう言っています。「今、神である主よ。あなたが、このしもべとその家についてお語りになったことばを、とこしえまでも保ち、お語りになったとおりに行ってください。こうして、あなたの御名がとこしえまでも大いなるものとなり、『万軍の主はイスラエルを治める神』と言われますように。あなたのしもべダビデの家が御前に堅く立ちますように。イスラエルの神、万軍の主よ。あなたはこのしもべの耳を開き、『わたしがあなたのために一つの家を建てる』と言われました。それゆえ、このしもべは、この祈りをあなたに祈る勇気を得たのです。今、神、主よ、あなたこそ神です。あなたのおことばは、まことです。あなたはこのしもべに、この良いことを約束してくださいました。今、どうか、あなたのしもべの家を祝福して、御前にとこしえに続くようにしてください。神である主よ、あなたがお語りになったからです。あなたの祝福によって、あなたのしもべの家がとこしえに祝福されますように。」

ダビデは、イスラエルの神、万軍の主が、彼のために家を建てると約束されたことを思い起こし、それが成就するようにと祈っています。27節には、「それゆえ、このしもべは、あなたに祈る勇気を得たのです」と言っています。なにゆえ、ダビデは祈る勇気を得たのでしょうか。「それゆえ」です。27節の『』にある主のことばを受けてのことです。「わたしがあなたのために一つの家を建てる」と言われたからです。つまり、ダビデの祈りは、主のみことばと約束に基づくものだったのです。それが主の御前に祈る勇気となったのです。私たちも主のみことばの約束に基づいて祈らなければなりません。主のみことばは真実であり、必ず成就します。そう堅く信じて、神の祝福を大胆に祈り求めましょう。信仰による祈りには力があるのです。

Ⅱサムエル記8章

サムエル記第二8章から学びます。

 

Ⅰ.ペリシテとモアブを討ったダビデ(1-2)

 

まず、1~2節までをご覧ください。「その後のことである。ダビデはペリシテ人を討って、これを屈服させた。ダビデはメテグ・ハ・アンマをペリシテ人の手から奪い取った。

8:2 彼はモアブを討ち、彼らを地面に伏させ、測り縄で彼らを測った。縄二本で測った者を殺し、縄一本で測った者を生かしておいた。モアブはダビデのしもべとなり、貢ぎ物を納める者となった。」

 

「その後」とは、主がナタンを通してダビデに告げられた後のことです。主はダビデに、彼が主のために家を建てるのではなく、主が彼のために一つの家を建てると言われました。それは彼の身から出る世継ぎの子ソロモンを通して立てられる王国のことですが、そればかりではなく、ダビデの子孫から出るメシヤによって立てられる王国のことを指していました。それはイエス・キリストによって立てられる神の国のことです。主はダビデにダビデの子孫から出るメシヤによってその王国を立て、それをとこしえまでも堅く立てると約束されたのです。

 

その後、ダビデはペリシテ人を討って、これを屈服させました。ペリシテ人は長年にわたってイスラエルの脅威となっていましたが、ついにそのペリシテ人を打ち、彼らを屈服させたのです。「メテグ・ハ・アンマ」とは、ペリシテ人の主要都市のガテとそれに属する村落のことです(Ⅰ歴代誌18:1)。ガテはペリシテ人の五大都市の一つでしたが、そのガテを倒したということは、ペリシテ人全体を屈服させたということです。

 

次に、ダビデはモアブを討ちました。モアブはもともとダビデと友好関係にありました。サウルから追われ逃亡生活をしていたダビデは、自分の両親をモアブの王にゆだねたほどです(Ⅰサムエル記22:3~4)。そのモアブに対して、どうしてこのような殺戮を行ったのかはわかりません。もしかすると、彼らが何らかの謀反を起こしたのかもしれません。ユダヤ教の古代誌によると、モアブの王が、ダビデの父母を殺したからとありますが、その真意はわかりません。

 

このモアブを討ったとき、ダビデは彼らを地面に伏させ、測り縄で彼らを測り、縄二本で測った者を殺し、縄一本で測った者を生かしておきました。これはどういうことかというと、大きな体の者は殺し、そうでないものを生かしておいたということです。なぜこのようなことをしたのでしょうか。本来であれば、すべての者にきびしいさばきがあって当然なのに、小さな者に対してあわれみが示されたのでしょう。それは私たちも同じです。私たちも自分の罪のために神にさばかれて当然の者なのに、神はこんな者をあわれみ、慈しんでくださいました。私たちは、神の慈しみを受けた者として、その中にしっかりとどまっている者でありたいと思います。そうでないと、切り取られてしまうことになります。神の恵みを侮ることがないように注意しなければなりません。

 

Ⅱ.シリヤの連合軍を征服したダビデ(3-8)

 

次に、ダビデが討ったのはシリヤの連合軍です。3~8節までをご覧ください。「ツォバの王、レホブの子ハダドエゼルが、ユーフラテス川流域にその勢力を回復しようとして出て行ったとき、ダビデは彼を討った。ダビデは、彼から騎兵千七百、歩兵二万を取った。ダビデは、そのすべての戦車の馬の足の筋を切った。ただし、そのうち戦車百台分の馬は残した。 ダマスコのアラムがツォバの王ハダドエゼルを助けに来たが、ダビデはアラムの二万二千人を討った。ダビデはダマスコのアラムに守備隊を置いた。アラムはダビデのしもべとなり、貢ぎ物を納める者となった。【主】は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。ダビデは、ハダドエゼルの家来たちが持っていた金の丸い小盾を奪い取り、エルサレムに持ち帰った。またダビデ王は、ハダドエゼルの町ベタフとベロタイから、非常に多くの青銅を奪い取った。」

 

3節には、ツォバの王、レホブの子ハダドエゼルが、ユーフラテス川流域にその勢力を回復しようとして出て行ったとき、ダビデは彼を討った、とあります。巻末の地図5「サウル」、ダビデ、ソロモン治世下のイスラエル」を見ると「ツォバ」がどこにあるかがわかります。何とイスラエルの北にあるシリヤのはるか北に位置しています。実は「ツォバ」はアラム人の王国で、ユーフラテス川流域にまでその勢力を広げていました。そのツォバの王ハダドエゼルが一度失ったユーフラテス川流域にその勢力をもう一度回復しようとして出て行ったのです。そのときダビデは彼を討ちました。そんな遠くの国などどうでもいいのにと思うかもしれませんが、このことにも主の深い意味がありました。創世記15章18~21節までをご覧ください。

「その日、【主】はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」

つまり、これは、神がアブラハムに与えると約束された地であったのです。それがこの時に実現したのです。神が約束されたことは必ず実現します。神はこのように真実なお方なのです。

 

ダビデはハダドエゼルを討つと、彼から騎兵千七百、歩兵二万を捕虜として取りました。また、そのすべての戦車の馬の足の筋を切りました。ただし、そのうちの戦車百台分の馬は残しました。どうしてこのようなことをしたのでしょうか。馬に拠り頼むのではなく、主に拠り頼むためです。そのことが、次のところに記されてあります。

 

次に、ダビデが討ったのはダマスコのアラムでした。ダマスコのアラムとはシリヤのことです。彼はツォバの王ハダドエゼルがダビデによって打たれたと聞くと、彼を助けるために出て来たわけですが、ダビデはそのアラムの軍勢二万二千人を討ったのです。ダビデはダマスコのアラムを打つと、北方の守りを固めるために、そこに守備隊を置きました。かくして、ペリシテと並ぶ仇敵であったシリヤはダビデのしもべとなり、貢ぎ物を納める者となったのです。

 

いったいダビデはどうしてこんなに勝利を収めることができたのでしょうか。聖書はその理由を次のように述べています。6節後半です。「主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」主がダビデに勝利を与えられたのです。ダビデはそのことをよく知っていました。そのことのゆえに、ツォバの王ハダデエゼルを討ったときも、そのすべての戦車の馬の足の筋を切ったのです。ダビデは詩篇33篇16~18節でこう言っています。「王は軍勢の大きさでは救われない。勇者は力の大きさでは救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならず軍勢の大きさも救いにはならない。見よ【主】の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に。」

私たちはもう一度、私たちに勝利を与えてくださる方がだれであるかを覚えましょう。そして、私たちが計画している主のみわざも、すべてこの主の力によって成し遂げられることを覚え、主に信頼して祈る者でありたいと思います。

 

Ⅲ.行く先々で勝利したダビデ(9-18)

 

最後に、9~18節までをご覧ください。まず12節までをお読みします。「ハマテの王トイは、ダビデがハダドエゼルの全軍勢を打ち破ったことを聞いた。トイは、息子ヨラムをダビデ王のもとに遣わし、安否を尋ね、ダビデがハダドエゼルと戦ってこれを打ち破ったことについて、祝福のことばを述べた。ハダドエゼルがトイにしばしば戦いを挑んでいたからである。ヨラムは銀の器、金の器、青銅の器を携えていた。ダビデ王は、それらもまた、【主】のために聖別した。彼が征服したすべての国々から取って聖別した銀や金、すなわち、アラム、モアブ、アンモン人、ペリシテ人、アマレクから取った物、およびツォバの王、レホブの子ハダドエゼルからの分捕り物と同様にした。」

 

ハマテの王トイは、ダビデがハダドエゼルの全軍勢を打ち破ったことを聞くと、息子ヨラムをダビデ王のもとに遣わして、祝福のことばを述べました。ハマテはダマスコから北に約150㎞のところにある都市国家ですがハダドエゼルと敵対関係にあり、これまでしばしば戦いを挑まれていたからです。そのハダドエゼルが打ち破られたことを聞いたトイは喜び、ダビデに祝福のことばを述べただけでなく、銀の器、金の器、青銅の器を贈りました。ダビデは、それらの物を主のために聖別しました。「聖別」とは、主のものとすることです。最近、この聖別することについて考えさせられています。時間でも、お金でも、奉仕でも、すべては聖別することから始まります。主のために取っておくのです。礼拝が大切なのはどうしてかというと、自分を主のためにささげる時だからです。だからその時間はこの世との一切の関わりを断ち、主に向かうのです。これが聖別です。ダビデは、他の分捕り物と同様に、ハマテの王トイから贈られた物を、主のために聖別してささげました。かつてダビデは敵が残していった偶像を破壊したことがありましたが(5:21)、ここでは、それらを聖別して主にささげたのです。どういうことでしょうか。この世のものでも主のために用いられると言うことです。但し、偶像礼拝的な要素は退けなければなりません。それ以外のものは、たとえこの世の物であっても、主のために聖別して用いることができます。

 

さくらチャーチでは今度の日曜日に教会総会が行われます。今度の日曜日が、開所式をしてさくらでの働きを始めてちょうど5年になる記念日になります。そのとき、F兄御夫妻が娘のために買ったピアノが残っているので主にささげたいと献品してくれました。しかし、あれから5年間奏楽者がいなかったのでずっとヒムプレーヤーで賛美をささげていたのですが、音大でピアノ科を専攻されたクリスチャンの方が加えられ、そのピアノを礼拝で弾いてくださることになりました。最初は家にあるピアノですがという動機からでしたが、それが信仰によって聖別されたとき、主のために用いられることになったのです。

 

あなたはどうですか。キリストのからだを建て上げるために何をささげておられますか。まず自分自身を聖別し、自分に与えられた賜物を主にささげ、主の栄光のために用いていただこうではありませんか。

 

最後に13~18節までを見て終わります。「ダビデが塩の谷でアラム人一万八千人を討って帰って来たとき、彼は名をあげた。彼はエドムに守備隊を、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、全エドムはダビデのしもべとなった。【主】は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。ダビデは全イスラエルを治めた。ダビデはその民のすべてにさばきと正義を行った。ツェルヤの子ヨアブは軍団長、アヒルデの子ヨシャファテは史官、アヒトブの子ツァドクとエブヤタルの子アヒメレクは祭司、セラヤは書記、 エホヤダの子ベナヤはクレタ人とペレテ人の上に立つ者、ダビデの息子たちは祭司であった。」

 

さらにダビデはエドム人一万八千人を討ち、エドム全土に守備隊を置きました。エドムは死海の南東、モアブの領地の下にある地です。ダビデは初め、南西のペリシテ人と戦って勝利すると、次に東方のモアブと戦い、一気に北上してシリヤの連合軍と戦い、そして今度は南下してエドム人と戦って勝利しました。彼は、このように、行く先々で勝利を収めました。彼がこのように勝利することができたのは、主がそのようにしてくださったからです。14節にはこうあります。「主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」ダビデは自分の背後には主がおられ、行く先々で勝利を与えてくださったことを認めていました。詩篇44篇3節には、「自分の剣によって彼らは地を得たのではなく自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手あなたの御腕あなたの御顔の光がそうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」とあります。彼は自分の剣によって地を得たのではなく、自分の腕で勝利したのでもない、ただ主の右の手が彼に勝利をもたらしてくれたと確信していました。

 

あなたは今どのような生活が与えられていますか。もし安定した生活、祝福された生活が与えられているのなら、それは主が与えてくださったものでることを認め、主に感謝し、主の御名をほめたたえるべきです。

 

また、ダビデが行く先々で勝利を収めることができたもう一つの理由は、彼がその民のすべてにさばきと正義を行っていたことにあります。15節には、「ダビデは全イスラエルを治めた。ダビデはその民のすべてにさばきと正義を行った。」とあります。国にとってもっとも大切なことは、正義です。経済力でも軍事力でもありません。「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。」(箴言14:34)と箴言に書かれています。ダビデは、正義によって国を治めました。それは後に来られるメシヤのひな型でもありました。ダビデの子孫から出られるキリストは、正義によって国を治められるのです。  そして、ダビデが行く先々で勝利することができたもう一つの理由は、彼には有能な補佐官たちがいたことです。16節をご覧ください。「ツェルヤの子ヨアブは軍団長、アヒルデの子ヨシャパテは参議、アヒトブの子ツァドクとエブヤタルの子アヒメレクは祭司、セラヤは書記、エホヤダの子ベナヤはケレテ人とペレテ人の上に立つ者、ダビデの子らは祭司であった。」

私たちにもこのような補佐官、戦友、協力者が与えられていることを感謝します。それゆえ、共に主に信頼して、この世の敵である悪魔との戦いに出て行き、キリストに仕える者とさせていただきたいと思います。

伝道者の書11章1~10節「あなたのパンを水の上に投げよ」

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伝道者の書11章に入ります。今日のメッセージのタイトルは、「あなたのパンを水の上に投げよ」です。伝道者はこれまで繰り返し、私たちの人生はこれから後に起こるはわからないし、だれもそのことを告げることはできない、ということを語ってきました。それでは、その不確かな将来において私たちはどのようにあるべきなのでしょうか。今日のところで、伝道者はこのように勧めています。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」(1)

 

Ⅰ.あなたのパンを水の上に投げよ(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。」

 

「あなたのパンを水の上に投げよ」とても有名なことばです。皆さんも何回か耳にしたことがあるみことばではないでしょうか。でもこれがどういうことなのかを知っている方は少ないのではないかと思います。この「パンを水の上に投げる」とは、次の3つの解釈があります。その一つは、これを穀物の海上貿易のことだと理解し、海上貿易には多くのリスクが伴うが、そのリスクを恐れず投資するなら多くの利益をもって報われる、というものです。この場合パンは穀物のこと、あるいは自分の財のことであり、「投げる」とは貿易のことを指しているということになります。それを「水の上に投げよ」とあるので、海上での取引に投資することと解したのです。

英語訳聖書(TEV)では「あなたのお金を海上貿易に当てよ。そうすればいつの日か、多くの報いが与えられるであろう」と訳しています。この伝道者ソロモン自身、海上貿易で巨万の富を築いています(列王記上10:22-24)。船を危険な海に送り出して海上貿易を行うことは難破や海賊等の危険がありますが、成功すれば巨額の利益を得ることになります。

 

もう一つの解釈は、この「水」を洪水で氾濫した肥沃な土地とのことだと解釈し、そうした土地にパン、すなわち、穀物の種を蒔くなら、多くの収穫を期待できる、というものです。

 

そして、もう一つの解釈は、「パン」を比喩的に解釈し、物惜しみしないで多くの人々に情けを施すなら、必ずその報いを思いがけないところから受けるだろう、というものです。伝統的なユダヤ教のラビ(宗教指導者)たちはこのように受け止めています。彼らはこれを「不確かな将来の中で今できる善を為せ、そして報いを楽しみに待て」と意味だと理解しています。

 

日本を代表するクリスチャンの一人に内村鑑三という人がいますが、彼もこの考え方を支持しています。彼はその注解書の中で次のように言っています。「世に無益なることとて、パンを水の上に投げるが如きはない。水はただちにパンに沁み込みて、ひたされるパンの塊は直ちに水底に沈むのである。パンを人に与うるは良し、これを犬に投げるのも悪しからず、されどもこれを水の上に投げるに至っては無用の頂上である。しかるにコヘレトはこの無益のことを為せと人に告げ、己に諭したのである。汝のパンを水の上に投げよ、無効と知りつつ愛を行え、人に善を為してその結果を望むなかれ。物を施して感謝をさえ望むなかれ。ただ愛せよ、ただ施せよ、ただ善なれ、これ人生の至上善なり。最大幸福はここにありとコヘレトは言うたのである」(内村鑑三注解全集第五巻、p253)。

 

これらいずれの解釈においても言えることは、自分の手の中にある善いものを惜しみなく蒔くなら、必ずその報いを受けるようになる、ということです。その背景にあるのは、申命記15章10節のみことばです。ここには、「必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物惜しみをしてはならない。このことのゆえに、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからである。」とあります。「彼」とは、「あなたの同胞」のことです。あなたの同胞の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対して心を頑なにしてはならないのです。手を閉ざしてはなりません。必ずあなたの手を開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。なぜなら、このことのゆえに、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからです。

 

同じことが、ガラテヤ6章9~10節にもあります。「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」

ですから、パンを水の上に投げるとはビジネスにとどまらず、貧しい人たちに分け与えたり、支援したりといった慈善事業においても言えることなのです。善を行うことに飽きず、失望しないで取り組むならば、やがて時が来て、その刈り取りをすることになるでしょう。これが神の国の原則です。

 

イエス様はルカの福音書6章31~35節で、このように言われました。「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。」

報酬や賞賛を求めずに善を行え、ということです。だれでも自分を愛してくれる人を愛することはできます。自分に善くしてくれる人に善いことをすることもできます。返してもらうことを当てにして貸すことはできます。しかしイエス様はそれでは不十分だと言われました。そういうことは、罪人でさえできます。自分の敵を愛すること、彼らに良くしてやり、返してもらうことを当てにしないで貸すこと、それがいと高き神の子とされた者にふさわしい態度であると言われたのです。「あなたのパンを思い切って水の上に流したらどうか」と。

 

これを文字通りに実行したのがマザーテレサです。彼女はこう言いました。「人はしばしば、不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい・・・正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい・・・心を穏やかにし、幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも心穏やかでいなさい。今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善を行い続けなさい。持っている一番いいものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。それでも一番いいものを分け与えなさい」。私たちも今日、このような神の国の原則に生きるようにと招かれているのです。

 

このような神の国の原則は、福音宣教においても言えることです。神様はこう言われます。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」と。すべてのクリスチャンはいのちのパンを持っています。それは、イエス・キリストです。イエス様は「わたしは、いのちのパンです。」と言われました。そのパンを水の上に投げなければなりません。それを人に分け与えなければならないのです。イエス様を信じればだれでも救われます。なぜなら、イエス様が私たちの罪の刑罰を身代わりに受けてくださったからです。ですから、イエス様を信じたらどんな人でも罪赦されて天国に行くことができるのです。イエス様はその鍵を私たちクリスチャンにゆだねてくださいました。それがいのちのパンです。ですから、このパンを持っている私たちは、これを持っていない人たちに分け与えなければなりません。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

すばらしい知らせではありませんか。イエス様を信じればどんな人でも救われます。信じなければ地獄です。どんなに自分は道徳的に立派な人生を送っていると言う人でも、イエス様を信じなければ地獄なんです。どんなに頑張っても、その人は自分で自分の罪を清算することはできません。イエス様を信じなければ、どんなに立派な人でも地獄なのです。しかし、イエス様信じたらだれでも天国に行きます。どんなに悪い人でも救われるのです。ローマ人への手紙4章4~5節には、「働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。」とあります。敬虔な者を義と認めるというのではありません。不敬虔な者、何の働きもない者を義と認めてくださるのです。これが恵みです。敬虔な者を義と認めるのは当たり前でしょう。でもそうではなく、不敬虔な者を義としてくださるのです。不敬虔な者でもイエス様を信じるなら義と認められるのです。これが恵みなんです。恵みによる救いです。イエス様の贖いというのはそれほどすごいものなのです。そのいのちのパンを、イエス様を信じた私たちはみな持っています。このパンを投げなければなりません。

 

問題は、それを水の上に投げよと言われていることです。水の上に投げたらどうなりますか?そんなことをしたら、内村鑑三が言っているように、水はただちにパンに沁み込んで、水底に沈んでしまうか、水に流されてしまうことになります。しかし、これが伝道なんです。伝道というのは、水の上にパンを投げるようなものです。投げても、投げてもなかなか実が見えません。でも大切なことは、それを投げ続けることです。そうすれば、ずっと後の日になって、あなたはそれを見出すようになるからです。私たちは、これから後に何が起こるかわかりません。でもわかることは、もし水の上にパンを投げるなら、ずっと後の日になって、それを見出すようになるということです。

 

一年ほど前、MTCの奥山実先生が来会してメッセージをされました。それを聞いた時、神様がなさることって本当にすごいなぁと思わされました。その時、インドネシアのカリマンタン島で伝道された時のお話しをしてくださいました。そこは首狩り族で有名な地でしたが、福音を待っているという知らせを聞いた奥山先生は、もう一人の現地の牧師と一緒に島に入り、1カ月間一つ一つの村を訪問して伝道したところ、多くの人々がイエス様を信じました。しかし、それはある日突然にして起こったわけではありません。実はアメリカの改革派教会が100年も前から種を蒔き続けてきたのです。この島での伝道は困難を極めました。かつてこの島はボルネオ島と言いましたが、ここに遣わされた宣教師は本当に多くの犠牲を強いられました。ある宣教師の家族はご主人が天に召され、また別の家庭では奥さんが天に召され、ある家庭では子どもが3人同時に天に召されるということもありました。それでアメリカ改革派教会はこれ以上犠牲を出すわけにはいかないと、すべての宣教師とその家族をボルネオ島から引き揚げさせたのです。帰国した宣教師たちはアメリカの教会でそのことを証しすると、アメリカの若者たちが立ち上がりました。それでアメリカ改革派教会は、一度はボルネオでの伝道をあきらめたのですがもう一度始めることにしたのです。それが100年続いていたのです。ところがびくともしなかった。なぜなら、カリマンタンでは村長が信じないとだれも信じないからです。そのカリマンタンが総崩れしました。村長が信じ、村人皆信じました。

当時、インドネンアでは共産党員とイスラム教徒との間に激しい戦いが繰り広げられていましたが、イスラム教徒に追い詰められた共産党員がこのカリマンタンに逃げ込んだのです。すると、共産党員が首狩り族と同じ格好をしていたので、だれが首狩り族でだれが共産党員なのかわからなくなってしまったのです。それでイスラム教徒は首狩り族の村長に、何かしらの宗教を持たないと皆殺しにすると宣告したのです。当時、インドネシアの公認の宗教は5つあって、仏教、ヒンズー教、イスラム教、それにカトリックとプロテスタントでした。それで村長たちはどの宗教を選んだのかというとプロテスタントを選びました。なぜなら、彼らは100年もアメリカの宣教師を見てきたからです。そこに奥山先生ともう一人の牧師が入って福音を語ったので、多くの人たちが信じることができたのです。

ですから、その背景にはアメリカの改革派教会の宣教師たちの種まきがあったのです。彼らが犠牲を払いながらみことばの種を蒔き続けてくれました。それが実を結んだのです。

 

伝道は、まさにパンを水の上に投げるようなものです。徒労に感じてしまう事があります。しかし、それは決して空しく返ってくることはありません。なぜなら、福音の種にはいのちがあるからです。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出すことになるでしょう。ですから、皆さん、みことばを宣べ伝えましょう。時が良くても悪くても、しっかりやりましょう。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また、勧めたいと思います。そうすれば、必ず、刈り取りをすることになります。これが神の国の原則です。

 

2節には、「あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。」とあります。どういうことでしょうか。これは1節と同じことですが、良いことではなく悪いことが起こったときのために備えておくことの大切さを教えています。

ルカによる福音書16章1~13節には、不正な管理人のたとえ話がありますが、彼はこのことを行いました。彼は主人の財産を無駄遣いしていました。そのことが主人にばれた時、解雇されることを悟り、果たしてどうしようかと考えた末、主人から債務のある人の額を半分にしてやったりしたのです。いわゆる恩を売ったんですね。どうしてそんなことをしたのかというと、たとえ管理人としての仕事がクビになっても、恩を売った人たちの中からだれかが自分を助けてくれるのではないかと思ったからです。

 

イエス様は、この不正な管理人をほめました。それは彼が抜け目なくやったからです。確かにやったことは悪いことでしたが、自分の状況を考え、自分の困難な将来を見据えて、何とか助かりたいと、知恵の限りを尽くし、必死に次々と手を打って備えをした、その賢さがほめられたのです。  それは霊的にも言えることです。私たちも、未来に備える必要があります。肉体が滅んだ後、永遠の天国に入るための用意が必要なのです。勿論、それは救い主を信じるということですけれども、そればかりでなく、神から与えられている様々なもの、たとえばそれがお金であったり、財産であったり、時間であったり、賜物、能力、人脈、所有物、そして福音を、預けてくださった神の良い管理者として、それらを抜け目なく、賢く用いなければならないのです。

 

Ⅱ.朝に種を蒔き、夕方にも手を休めてはならない(3-6)

 

次に、3節~6節をご覧ください。まず、3節と4節をお読みします。「濃い雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒れると、その木は倒れた場所にそのまま横たわる。風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。」

 

雲が垂れこめると、雨が降ります。風が吹いて木が倒れると、そのままそこに横たわります。これはどういうことかというと、嵐が来るのではないかと思うとついつい躊躇したり、風が吹いて木が倒れそうになると、それがどの方向に倒れるのかと心配になって、結局、何もしないということです。風を警戒する人は種を蒔くことができません。雨雲を見ている人は刈り入れをすることができないのです。つまり、完璧な条件でなければ動かないという人は、結局何もしないで終わってしまうのです。その結果、作物を腐らせてしまうことになります。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」と言われも、今はそういう余裕がないからもう少し余裕ができたらやりますとか、もう少し条件が整ったらやりますと言って、いつまでたってもできないのです。皆さんもこのような敬虔があるんじゃないですか。もっと良い時にと思っているうちに、何もできなかったということが。一番良い時、ベストな時はいつですか。「今」でしょ。たとえいろいろな心配事があっても、たとえある程度のリスクがあっても、この先何が起こるのかわからないし、私たちは先のことを予測すらできないのですから、何もしないで手をこまねいているのではなく、今それをしなければならない、というのです。

 

日本の教会開拓も同じですね。確かに日本の伝道は厳しいものがあるかもしれません。人はいない、建物はない、資金もありません。でもだからできないと考えるのではなく、確かに状況を見れば厳しいかもしれませんが、自分たちにできることは何かを考え、それを少しずつ行っていけばいいのです。なぜなら、神様のみこころは何ですか。神のみこころは一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることだからです。そのために神様は教会を与えてくださったのです。そのことはエペソ人への手紙3章に書かれてあります。パウロはそれをキリストの奥義と言っていますが、「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人となり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」(3:6)これが神の家族である教会のことです。このキリストにあって、建物全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。それは、このキリストの奥義がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためでした。つまり、キリストのご計画とは、神の家族である教会を通して、この奥義、キリストの福音を宣べ伝えることだったのです。教会はそのために存在しているのです。であれば、私たちはこのキリストのご計画の実現のために何ができるのかを祈らなければなりません。「条件が整ったらやりましょう」というのでは、結局、何もできません。あるものまでも失うことになってしまいます。パウロは2テモテ4章2節で、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」と言っていますが、そうです、時が良くても悪くても、です。時が良くても、悪くても、みことばを宣べ伝えなければならないのです。

 

そのことが、5節と6節で説明されています。「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様に、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたは一切を行われる神のみわざを知らない。朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。」

 

「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様に、風の道がどのようなものかを知らない。」新共同訳聖書は、「骨々のことと同様」を、「骨の中に」と訳し、「風」を「霊」と解釈し、「あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨の中に入るかを知らない」と訳していますが、言わんとしていることは同じです。つまり、私たち人間はすべてのことを知っているわけではない、ということです。妊婦の胎内で赤子の骨々がどのように組み合わされるか、その骨の中にどのように霊が入るのか知らないのです。そのように、私たちは神が行われる一切のみわざを知ることはできません。

 

であれば、どうすればよいのでしょうか。「朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。」将来どうなるかわからないのだから、最善の策は、自分にできるだけの努力をすることです。朝にあなたの種を蒔き、夕方にも手を休めてはいけないのです。なぜでしょうか?「あなたは、あれかこれか、どちらが成功するか、あるいは両方とも同じようにうまくいくかを知らないのだから。」どの仕事がうまくいくかわからないからです。あるいは、両方ともうまくいくかもしれません。伝道もこれと同じです。どの種から芽が出るのか、どの種が実を結ぶかなんてだれにもわかりません。人を見たり、状況を見て、自分で勝手に判断して、今はみことばの種を蒔くのをやめておこうとか、この人には親切にして、あの人には語ろうというのではなく、相手がだれであれ、状況がどうであれ、自分のベストを尽くしてみことばの種を蒔き続けなければなりません。だれが救われるのか、だれが実を結ぶようになるかなんてだれにもわからないからです。善を行うことも同じです。

 

Ⅲ.今の時を大切に(7-10)

 

最後に、7~10節を見て終わりたいと思います。「光は心地よく、日を見ることは目に快い。人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない。すべて、起こることは空しい。若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」

 

1~6節で人生がいかに不確かなものであるか、だから、ただ手をこまねいているのではなく、朝にあなたの種を蒔き、夕方にも手を休めてはならないと、どんな時でも自分のベストを尽くすこと、最善を尽くすことが賢明であると説いた伝道者は、それゆえに今の時を大切にするようにと勧めています。

 

「光は心地よく、日を見ることは目に心地よい。人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。」光は喜びの象徴です(詩篇97:11)。その光の中を生きることができるのは何と幸いなことでしょうか。人生は楽しい!人生は喜びで満ちています。しかし、人生には闇の日も多くあることを忘れてはなりません。すべて、日の下で起こることは空しいのです。この「すべて、起こること」とは何でしょうか。一般にこれは死後のことを指すと考えられていますが、尾山令仁先生は、これをこの地上で起こるすべてのことと解釈し、「しかし、永遠の世界と比べたら、この地上のことは全くむなしいことを覚えておきなさい。」と訳しています(創造主訳聖書)。

 

ある人たちは、この「闇の日」と「すべて起こること」を、「老年の日々」を指すとして、老年には「闇の日」が待っているとして、これを病気、肉体の痛み、失望などの老人の運命だと考えています。そのように考える人たちは、「光」を青年期の象徴と解釈し、若いときは夢があり、活力があり、行動力がありますが、老年には闇の日が待っていて、病気や肉体の痛み、失望などがあって実に空しいと考えます。しかし、そうでしょうか。私はそう思いません。

ヨエル書2:28~29節にこうあるからです。「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。」ここに「老人は夢を見る」とあります。これは、ペンテコステに聖霊が注がれることを預言したものですが、その日どんなことが起こるんですか。「あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」神の聖霊が注がれるとき、老人は夢を見るのです。いつでも夢を、いつでも夢を♪♪です。

 

だから老年期は闇だと考えるのは間違っています。確かに若い時のように体は思うように動かないかもしれませんが、しかし、これまでの人生の中で培ってきたことを生かして最高の今を生きることができるのです。逆に、若いからいいというわけでもありません。昨年はコロナのこともあって若者の自殺者が急増しました。しかもそれらの多くは10代だと言われています。若ければ光かというとそうではなく、年を取れば闇かというとそうでもありません。主イエスを信じて永遠のいのちが与えられるなら、いつも光の中を生きることができます。人生は楽しい!のです。ここで伝道者が言わんとしていることは、この世に生かされている「今」を喜び楽しむようにということです。しかし、闇の日があることを忘れてはなりません。私たちの人生には痛みや悲しみ、苦しみの日があるということも覚えておかなければならないのです。

 

そのことを教えているのが9節と10節です。ここには、「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」とあります。

人生は、若いうちが花です。なんだ、やっぱり年を取ったら枯れるということじゃないですかと思うかもしれませんが、そういうことではありません。年をとっても大丈夫!いつでも夢を見ることができます。しかし、若くないと出来ないこともたくさんあります。年をとってからではできないこともある。だから若いうちに楽しむこと、若い日にあなたの心を喜ばせることが大切です。それは心の赴くままにということではありません。神様に祈り、神様の栄光のために、自分はこれがしたい、これをやってみたいというとこがあるならば、思い切ってチャレンジしてみるのがいい、思う存分やりなさいということです。多少羽目を外すようなことがあっても、行き過ぎるようなことがあっても、自分が思うようにやってみたらいいのです。親はそれを否定しない方がいい。あれもだめ、これもだめ、たぶんだめ、きっとだめ、というイメージを与えてしまうと、こどもは、人生はつまらないもの、窮屈で重苦しいものだという印象を持ってしまいます。でもこども時代は二度とやってきません。若い時も二度とやってこないのです。であれば、たとえ失敗することがあっても、人生を楽しむことが大切です。イエス様を信じて、イエス様のために生きることがどんなに楽しいことなのかを、親は見せてあげなければならないのです。

 

しかし、伝道者は釘をさすことを忘れていません。9節の終わりのところでこのように言っています。「しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。」怖いですね。これじゃ、やりたくてもできません。若い男よ、若いうちに楽しめと言っておきながら、しかし、神がこれらすべてにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。若気の至りということばがありますね。若いから何をやってもいいということでありません。人は種を蒔けば、それを刈り取るようになります。罪の結果、悲劇を招くようになるということをしっかり覚えておきなさい、というのです。そうですよね、その時は良いと思っても、後でそれが心の傷、体の傷になってしまうことがあります。年をとっても尾を引いてしまうことがあるのです。ここではそれを、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ、ということばで警告しています。

 

それゆえ、結論は何かというと、10節です。「あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」

どういうことでしょうか。あなたの心から心配事や悩みを取り除きなさい、ということです。若さも青春も空しいからです。若いから何をしても良いということではありません。人生は楽しいものですが、それによって痛みが伴ってしまうことがあります。そういうことで人生を台無しにしてはならないのです。あなたの人生から痛みや悩みを取り除き、真の喜びと自由を満喫しなければなりません。そのことをパウロは若き伝道者テモテに次のように書き送っています。「あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(2テモテ2:22)

また、同じ牧会書簡と呼ばれているテトスへの手紙の中で、若い人たちに向けてこのように勧めています。「同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。」(テトス2:6)若い人に求められていることはこの一つです。それは、「思慮深くあるように」。何をしても自由です。若いうちは思う存分楽しめばいい。あなたの心を喜ばせよ。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを忘れないように。だから、「思慮深くあるように」と。いったい思慮深くあるとはどのようなことなのでしょうか。伝道者は次の12章でそのことを述べますが、ここでちょっとだけ先取りして読んでみると、12章1節にこうあります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

 

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」これが私たちのすべてです。人生は誠に不確かなものです。一寸先は闇です。この先何が起こるのか誰にもわかりません。だからといって何もしないで手をこまねいているのではなく、あなたのパンを水の上に投げなければなりません。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出すようになります。どんな時でも自分のベストを尽くさなければなりません。朝にあなたの種を蒔き、夕方にも手を休めてはならないのです。今、今という間に今は過ぎ去って行きます。それゆえ、今を大切に生きなければなりません。それは、あなたの創造者を覚えるということです。あなたが創造者であられる神を覚え、神に信頼し、へりくだって神の救いをいただき、神のみこころに歩むなら、人生は実に楽しいものです!特に、若いというのはすばらしいですね。未来があります。希望があります。でも年をとっても大丈夫です。イエス・キリストを信じるなら、義の太陽であられるキリストがあなたを照らしてくださいますから。その光に照らされて、輝いて生きることができます。そのような人からは闇も消え去ります。永遠のいのちをいただき、永遠に楽しむことができる。そのような人生を与えてくださった主に感謝します。そして、その主に信頼しつつ、私たちに与えられたいのちのパンを水の上に投げ続けたいと思います。