Ⅰヨハネ2章1~11節 「兄弟を愛する」

 前々回からヨハネの手紙から学んでおります。ヨハネがこの手紙を書いたのは、この手紙の読者が、御父および御子イエス・キリストとの交わりに入ってほしかったからです。ここにいのちがあります。このいのちの交わりに入れられるなら、喜びにあふれるようになります。当時は多くの反キリストが現れていた闇の時代でした。そうした闇の中にあってもいのちであられる神との交わりを持つなら希望と力が与えられます。喜びに満ちあふれた人生を歩むことができるのです。

 それでは、キリストとの交わりに入れられた人の歩みとはどのようなものでしょうか。ヨハネは続いてこう言いました。1章5節、「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には全く闇がないということです。」したがって、6節にあるように、「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」つまり、神と交わりを持っていると言うのなら、光の中を歩むはずだというのです。とは言っても、私たちは弱い者であり、自分でこうすると決断してもすぐにその意思はどこかへ行ってしまい、気づいたら闇の中を歩んでいることがあります。光の中を歩むにはふさわしい者ではありません。

 大丈夫です、神はそのことを重々承知のうえで、私たちを助けてくださいますから。それはイエス・キリストの血です。御子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。ですから、自分には罪がないと言うのではなく、自分にはそうした弱さや罪があるということを認めて、その罪を悔い改めなければなりません。もし私たちが罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。そうです、光の中を歩む人というのは自分が罪人であることを認めて、その罪を悔い改める人のことなのです。そうすれば神の愛と赦しという光が差し込んできます。そうすれば光であられる神との交わりを保ち、光の中を歩むことができるのです。

 きょうの箇所には、この光の中を歩む者のもう一つの姿が描かれています。それは兄弟を愛するということです。

 Ⅰ.義なるイエス・キリスト(1-2)

 まず1節と2節をご覧ください。
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」

 ここに、ヨハネがこの手紙を書いたもう一つの目的が書かれてあります。それは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。罪を犯した後で告白して赦されることは恵みですが、そうなる前に、罪に打ち勝って正しく行動できるのはもっとすばらしいことです。

 しかし現実的に罪を犯さないで生きるというのは難しいことです。三浦綾子さんは、その著「孤独のとなり」の中で「わたしたち人間は罪を犯さずには生きていけない存在だということである。」と言っておられますが、罪を犯さずに生きていくことはできないのです。正しく歩もうとすればするほど、自分の愛のなさ、心の醜さ、冷たい言葉などに心を痛めます。ですから、罪を犯さないというのは無理なのです。

しかしここに慰めがあります。私たちが罪を犯してうなだれる時、「それでもお前はクリスチャンか」と悪魔が責め立てるような時、その背後にある神の約束のみことばにより頼むからです。ここには、「しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」とあります。
これは人間社会と全く逆です。人間の社会では、それまでは立派な人間として評価されていた人でも、ひとたび罪を犯したらすぐに放り出されてしまいます。先日も5人組の若者人気グループの一人が罪を犯したら、そのとたんすべてのテレビ局が彼をシャットアウトしました。社会的な影響を考えるとやむを得ないことだと思いますが、これがこの社会の現実なのです。しかし聖書が告げる弁護者は違います。その方は「義なるイエス・キリスト」です。キリストは、もしだれかが罪を犯したなら御父の前でとりなしてくださいます。この「とりなしてくださる方」という言葉は、新改訳第三版では「弁護してくださる方」と訳されています。ヨハネの福音書14章6節では「助け主」とも訳されています。人は罪を犯した時こそ助けが必要です。その助け主こそ、弁護してくださる方、義なるイエス・キリストなのです。

 キリストはどのように助けてくださるのでしょうか。キリストが私たちを弁護してくださるのは、人間の弁護士のように無理に無罪を勝ち取ろうと主張したり、情状酌量を訴えたりすることによってではありません。その罪に対する神の審判は正しく、私たちは死刑を宣告されても致し方ないような者ですが、キリストはそんな私たちの罪のために宥めのささげ物となってくださるのです。

ここでは裁判のイメージで語られています。私たちが罪を犯して落ち込んでいる時に、私たちを訴える者がやって来て、「おい、おまえ。それでもクリスチャンか。」と言うわけです。「もうクリスチャンなんてやめた方がいいんじゃないか。そもそも神様はお前なんか愛していない。おまえがやったことは決して赦されないんだぞ」と訴えてくるのです。そして、裁判官である神様に向かい、「神様、これはどうしようもない人間です。クリスチャンとは名ばかりで、見込みがありません。もう面倒見てもしょうがないです。罰を与えてください。ギャフンと言わせてください。」と訴えるのです。そう言われたらどうですか。もっともです。もう神様に顔向けなんてできません。しかし、私たちの弁護者であられるキリストが、裁判官である神にこう弁論してくださるのです。
「父よ、確かにこの人は罪を犯しました。しかし、私がこの人の代わりに十字架にかかって、この人が受けるべき刑罰のすべてを引き受けました。この人の罪はわたしが流した血によってきよめられました。だからこの人には罪はありません。この人は無罪です。だれもこの人を罪人として訴えることはできません。」
それで裁判官である神様は、私たちに無罪を宣告されるのです。それは私たちが何かをしたからではなく、この方が私たちの罪のために、いや、私たちの罪だけでなく、全世界の罪のための宥めのささげ物となってくださったからです。

「宥めのささげ物」ということばはあまり聞かない言葉ですが、これは次の三つのことを意味しています。第一に、人間の罪に対して、神は怒っておられるということ。第二に、その神の怒りをだれかが代わりに受けてくれたということ。そして第三に、その結果完全な罪の赦しがもたらされたということです。キリストの十字架は、私たちの罪に対する神の怒りを完全になだめてくれました。イエス・キリストが十字架にかかってくれたことで、私たちの罪に対する神のすさまじい怒りが完全になだめられたのです。キリストが私たちを弁護してくださるというのは、神ご自身が宥めのそなえ物となってくださったという事実に基づいているのです。ですから、赦されない罪などありません。この方が弁護してくださるからです。神はこの義なるイエス・キリストのゆえに私たちを完全に赦してくださるのです。それは私たちばかりでなく、彼を信じるすべての人に対して効力があります。また、それは私たちの過去の罪ばかりでなく、これからも犯すであろう罪も含めて、すべての罪に対しても言えることなのです。なぜなら、へブル7章24節、25節にこのようにあるからです。
「イエスは永遠に存在されるので、変わることのない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」

すばらしい約束ではありませんか。イエス様は永遠に存在しておられます。代わることのない祭司です。その祭司の務めこそ「とりなし」です。イエス様は永遠の祭司として、私たちのために父なる神にとりなしてくださるのです。何とすばらしい約束でしょうか。これこそ光の中を歩む者の土台です。私たちは汚れた者で、罪を犯さずには生きて生けないような者ですが、キリストがそんな私たちのために宥めのそなえ物となってくださり、私たちの罪を完全に赦し、今も父なる神にとりなしてくださるので、私たちも光の中を歩むことができるのです。

Ⅱ.イエスが歩まれたように(3-6)

次に3節から6節までをご覧ください。ここには、光の中を歩むとはどういうことなのかが具体的に語られています。
「もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。」

光の中を歩むとはどういうことでしょうか。それは、神の命令を守るということです。「もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。」しかし、「神を知っていると言いながら、その命令を守っていなければ、それは偽りであり、その人のうちには真理はありません。」というのは、私たちが神を知っている(4)とか、神のうちにいる(5)、神にとどまっている(6)というのは、神の命令を守る(4)とか、みことばを守る(5)、イエスが歩まれたように歩む(6)ということによって現れるからです。私たちが神を知り、神が私たちを愛してくださっていることを知っているならば、私たちは神が言われていることに喜んで聞き従うはずだからです。けれども神を知っていなければ、神のみことばは苦痛以外の何物でもありません。自分の願いどおりに生きることが楽しく自由なことのように思われ、そこに幸せや真の人間らしさがあるかのように思えるからです。実際には罪の奴隷として欲望のままに、欲望に引きずられて生きているのにすぎないのですが、そのようには思えません。なぜ?神を知らいからです。

しかしそのような人でも、神を知るなら変化が起こります。神の命令と神のことばがその人の内で喜びとなり、道しるべとなり、善悪の判断の基準となります。神のみことばに従って正しく歩みたいという願いが起こされ、その願いは生活全体を支配するようになるのです。この「知る」ということばは、ギリシャ語で「ギノスコー」と言いますが、これは単に頭で知る以上のことです。それし体験として、人格的に知ることを意味しています。そのように神を知るなら、確実に変わるのです。

そして、5節にあるように、私たちが神の命令を守ることで、その人のうちに神の愛が全うされます。「全うされる」というのは下の注釈にもあるように、「完全に実現している」ということです。神が私たちを愛してくださった愛は、私たちがみことばに聞き従うことで全うされるのです。すなわち、その目的に達するということです。言い換えるなら、もし私たちの一部分、たとえば知識とか感情といった部分が変わっただけなら、神の愛は途中で止まっているということです。完成していません。しかし神の命令を守る時、確かに「私は神のうちにいる」という確信を持つことができます。神の子として生まれ変わり、神との交わりの中に入れられているという確証を得ることができるのです。

では神の命令とは何でしょうか。それは7節以降に書かれてありますが、その前に6節のことばに注目してください。ここには、5節で言われていた「神のみことばを守っている」ことはイエスが歩まれたように歩むことであると言われています。神を信じ、キリストとの交わりの中に入れられた者は、当然その模範にならうはずだというのです。またそうすることがその人にとっても喜びであるはずです。往年の名バッターで、後に巨人軍の監督としてV9を達成した川上哲治氏は、巨人軍の監督に就任した時、巨人軍の創立者である正力正太郎氏と一体になってやっていくという大方針を打ち立てました。そして実際に困った時や壁にぶつかった時、「正力さんならどう対処されるだろうか」と考えて決断を下したと言います。同じように、クリスチャンは、キリストならどのようにされるのかを考えて歩むのです。

しばらく前に、W.W.J.D.というイニシャルが入ったブレスレッドとか、グッズが流行りましたが、これは「What Would Jesus Do?」の略で「イエス様ならどうする?」という意味です。イエス様ならどうするかということをいつも考えて行動するということです。これはすばらしい言動の基準だと思います。それは神のうちにとどまっている人のしるしだからです。

14世紀にカトリックの修道僧トマス・ア・ケンピスという人が「キリストに倣いて」という本を書きました。この書はカトリック教会において最も偉大なディヴーションの手引書の一つと言われていますが、多くのプロテスタント教会でも高く評価されています。それはイエス様ならどのように考え、どのように発言さし、どのように行動するのか、ということを考えて生活することを勧めているからです。もちろん、私たちはトマス・ア・ケンピスのように修道院で生活することはできませんが、その置かれた環境の中で、イエス様ならどのように行動されるのかを考え、イエス様が歩まれたように歩まなければなりません。それが神の命令を守るということなのです。

Ⅲ.兄弟を愛する(7-11)

では、イエス様はどのように歩まれたのでしょうか。神の命令を守るとは具体的にどういうことなのでしょうか。7節から11節までをご覧ください。
「愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。」
 
ここには、それは新しい命令ではなく、彼らが初めから持っていた古い命令だと言われています。それは彼らがすでに聞いているみことばです。それは兄弟を愛しなさいという命令です。これは新しい命令ではなく、彼らがすでに聞いていた命令です。ある時、一人の律法学者が、イエス様のところにやって来てこう尋ねました。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」するとイエスは彼らに言われました。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)これが、重要な第一の戒めです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めも、それと同じように重要です。」(マタイ22:39)「この二つの戒めに律法と預言書の全体がかかっているのです。」(マタイ22:40)
つまり、神の命令の中で一番重要なのは神を愛し、隣人を愛することだと言うのです。律法全体と預言書、すなわち、聖書全体がこの二つの戒めにかかっているのです。

また、ヨハネ13章34節で、イエス様はこう言われました。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

ヨハネはこの古い命令を、新しい意味内容を持った命令として書き送っています。なぜでしょうか。なぜなら、この命令はキリストにおいて真理であり、光の中を歩む私たちにおいても真理だからです。まさに、兄弟愛はこの光の中を歩むクリスチャンにとってふさわしい歩みなのです。ここで「兄弟」と言われているのは特に同じ神の家族であるクリスチャンのことを指しています。兄弟愛はクリスチャン相互の間から始まってさらにその輪を広げていくことになるからです。

一方、9節にあるように、「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。」これは、2章4節で語られたことと同じように、外に現れた実際の生活を点検することによって自分の内側を見つめるようにという招きです。その人が光の中にいるということは、兄弟を愛しているという外側の行動によって確認できるのであって、自分ではどんなに光の中にいると思っていても、実際には兄弟を憎んでいるとしたら、それは今もなお闇の中にいることになるのです。この「憎んでいる」というのは広い意味で冷たい心、無関心、軽蔑なども含んでいます。積極的に兄弟を憎むということはなくても、同じ神の家族であるクリスチャンに対して無関心であったり、冷たい心であれば、それは兄弟を憎んでいることと同じなのです。「愛」の反対語は「憎しみ」ではなく「無関心」だと言われますが、世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。

ガラテヤ5章14節には、「律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。」とあります。兄弟愛こそすべての律法の要約であると聖書は言っています。だからこの兄弟愛の中には私たちの隠れた内なる本質が現わされていると言えるでしょう。

ではどうしたら兄弟を愛することができるのでしょうか。私たちは生まれつき自分さえ良ければいいという自己中心的な性質を持っています。そのような者がどうやって兄弟を愛することができるのでしょうか。それは「神を知る」ことによって、「神のうちにいる」ことによって、そして「神にとどまっている」ことによってです。

「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきなのです。」(Ⅰヨハネ3:16)つまり、「キリストが私のためにいのちを捨ててくださった」ということを心底、体験しているならば、できるというのです。

三浦綾子さんが書いた小説「塩狩峠」は、明治時代に北海道の塩狩峠で実際に起きた鉄道事故に基づいて書かれた小説です。険しい峠を機関車がゆっくりと進んでいた時、突然最後尾の客車の連結が外れ、暴走し始めました。その時、主人公の永野信夫は自分の身を挺して列車を止め、大勢の乗客の命を救いました。彼はどうしてそのようなことができたのでしょうか。それは彼がキリストを信じ、その愛に生かされていたからです。クリスチャンであった彼は、この聖書のみことばにささえられながら生きていたと言われています。
「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持ってていません。」(ヨハネ15:13)
それはイエス・キリストのいのちを捨てるほどの大きな愛でした。彼はその愛に生かされていたのです。もちろん、この愛に生かされていれば誰でもあのようなことができるわけではありません。しかし、少なくても、そのように生きたいと願う動機となるのは確かでしょう。

聖書に「良きサマリヤ人」の話があります。強盗に襲われた人を助けてくれたのは神に仕えていた祭司でも、レビ人でもありませんでした。それはユダヤ人が蔑視していた一人のサマリヤ人でした。彼がこの傷つき、苦しんでいる人の隣人になったのです。兄弟は神をどれだけ知っているかということではなく、このサマリヤ人と同じようにする人です。そのような人こそ強盗に襲われた人の隣人になったのであり、互いに愛し合いなさいという神のみことばに生きる人なのです。

神が光であるならその神と交わる時、私たちも光となります。その歩みとは自分の罪を告白し、キリストの十字架によって罪をきよめられて歩むことであり、きょうのところで見たように、自分の兄弟を愛することです。傷つき、苦しんでいる人を見た時、あるいは、困っている人を見た時、実際に助けを与える人です。そのような人こそ隣人となるのです。

私たちもこの神との交わりに入れていただきましょう。そして、神が光の中におられるように、共に光の中を歩ませていただこうではありませんか。

ヨシュア記24章

 いよいよヨシュア記の最後の学びとなります。まず1節から13節までをご覧ください。

 Ⅰ.神の恵みを思い起こして(1-13)

「ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、そのかしらたち、さばきつかさたち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。」あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルとの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。ついで、わたしは、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、それを所有させた。ヤコブと彼の子らはエジプトに下った。それからわたしは、モーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがその真中で行なったとおりである。その後、あなたがたを連れ出した。わたしが、あなたがたの先祖たちをエジプトから連れ出し、あなたがたが海に来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵とをもってあなたがたの先祖たちのあとを追い、葦の海まで来た。あなたがたが主に叫び求めたので、主はあなたがたとエジプト人との間に暗やみを置き、海に彼らを襲いかからせ、彼らをおおわれた。あなたがたは、わたしがエジプトで行なったことをその目で見てから、長い間、荒野に住んだ。それからわたしはヨルダン川の向こう側に住んでいたエモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。ここから荒野の生活から、ヨルダン川東岸を北上していく話に入ります。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡したので、あなたがたはその地を占領した。わたしが、あなたがたの前から彼らを根絶やしにしたからである。それから、モアブの王ツィポルの子バラクが立って、イスラエルと戦い、ベオルの子バラムに人をやって彼を呼び寄せ、あなたがたをのろわせようとした。わたしはバラムに聞こうとしなかった。彼は、かえって、あなたがたを祝福し、わたしはあなたがたを彼の手から救い出した。あなたがたはヨルダン川を渡ってエリコに来た。エリコの者たちや、エモリ人、ペリジ人、カナン人、ヘテ人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人があなたがたと戦ったが、わたしは彼らを、あなたがたの手に渡した。わたしは、あなたがたの前にくまばちを送ったので、くまばちがエモリ人のふたりの王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった。わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。」

ここでもヨシュアは決別の言葉を再び語っています。しかし前章とは異なり、全イスラエルをシェケムに集めて語っています。シェケムは、いろいろな意味で、霊的に重要な場所です。前章の最後のところに、「あなたがたの神、主があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。」(23:14)とありますが、主が、この地を子孫に与えるとアブラハムに約束されたのは、このシュケムの町でした(創世記12:7)。それでアブラハムはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈ったのです。また、アブラハムの孫ヤコブが兄エサウから逃れ叔父のラバンのもとに行ったとき、その帰路の途中でエサウに会いましたが、その祈りと葛藤の中で主に拠りすがりすべての障壁を乗り越えた時、ここに祭壇を築きました(創世記33:20)。

このように霊的に非常に重要な場所でヨシュアがイスラエルの民に語った最初のことは、イスラエルの歴史の回顧でした。いったいなぜヨシュアはイスラエルの過去を回顧したのでしょうか。2節からの内容を見てわかることは、そこに神の恵みが想起されているということです。ヨシュアは過去の歴史を語ることを通して、神がいかに素晴らしいことをしてくださったか、いかに慈しみに満ち、恵み深くあられたかを思い起こさせたのです。

まず2節から4節までのところにはアブラハムの選びを取り上げています。ここで注目すべきことは、アブラハムは、父の家にいたときに、ほかの神々に仕えていたということです。信仰の父であるアブラハムも、私たちと同じように偶像礼拝者だったのに、そこから一方的に選び出されました。また5節から7節までにはイスラエルの民がエジプトから救われたことが、また8節から10節までにはヨルダンの東側における戦いでの勝利が、そして11節から13節までには、ヨルダンのこちら側、すなわち、カナンにおける戦いと征服の記録が語られています。これらのことに共通して言えることは何でしょうか。これらすべてのことは神の恵みによるものであったということです。

13節には、「わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。」とあります。それは決して彼らが何もしなかったということでありませんが、しかしそれ以上にこうしたイスラエルの民の努力や勝利も、実は神の恵みによるのであって、神の支えと助けなくしては、成し遂げられなかったということであり、そのことを常に思い起こし、肝に銘じるようにと語っているのです。

実にイスラエル民族の偉大さは、神の恵みを常に思い起こして感謝し、それを記念し、祝祭化して、心に深く刻みつけていったという点です。私たちも常に神の恵みを思い起こし、感謝をささげようではありませんか。そしてここにこそ神の大きな祝福が注がれるということを覚えなければなりません。

Ⅱ.決断と選択(14-28)

次に14節から28節までをご覧ください。まず14~18節をお読みします。
「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。すると、民は答えて言った。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。主はまた、すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです。」

ヨシュアはイスラエルの民に対して神の恵みを思い起こさせると、続いて、この民に向かってこの主に従うかどうかの決断と選択を迫ります。人生は出会いで決まると言われますが、しかし同時に、決断と選択によって決定されるとも言えます。その典型が結婚です。人はだれと結婚するかによって人生が大きく左右され、決定的な影響を受けることになります。

しかし人間にとって結婚以上に重要な選択があります。それはいかなる神を信じるかという信仰の問題です。だから宗教は嫌いなんですと、自分が無宗教であることをことさら強調する人がいますが、そういう人は実は自分という神を信じていることに気付いていません。自分の考えや思いに従って生きているのです。自分が神となっているだけのことなのです。ですから無宗教というのはあり得ません。そしてどの宗教を信じるかによってその人の生涯のみならず、死後の在り方や永遠の生き方さえも決定されてしまうのです。ここでヨシュアはイスラエルの民に、この重要な選択と決断を迫りました。あなたがたは真実な神、主に仕えるのか、それとも偶像の神々に仕えるのか、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい、と言っています。信仰の選択に妥協はありません。それぞれの責任による選択と決断を迫り、ヨシュア自らは、「私と私の家とは主に仕える。」と宣言するのです。

これに対して16節以下のところに、イスラエルの民の応答が記されてあります。民は答えて言いました。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。」と。なぜなら、「主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。」また、主は「すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです。」

主がこれだけのことをしてくださったのに、なぜ主を捨てることができるでしょうか、そんなことはできません。この方が自分たちの神ですからと、宣言しました。こうした信仰の宣言と決断はとても重要なことです。ややもすると私たちはどっちつかずにいた方が融通が利くというか、家族との間に波風を立たせずに済ませることができるので曖昧にしがちになりますが、このように決断することによって自分が依って立っているものが何であるのかが明確になり、それまで以上に主に仕えることができるようになるわけです。

しかし、それに対するヨシュアの答えは以外なものでした。19節をご覧ください。「すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。」どういうことでしょうか?ヨシュアは選択を迫り、民が主に仕えると表明するや、今度はあなたがたにはできないと否定するのです。

ヨシュアが民にこのように言ったのは、イスラエルの民が自分の意思や自分の力に頼って信仰の決断をしたことを見抜いていたからです。自分の肉の力に頼っていたのでは主に従うことはできません。必ず失敗します。ヨシュアはそれを見て取ったのです。そしてヨシュアの予想とおり、ヨシュアの死後、士師記の時代に入るやいなや、イスラエルの民は何度も何度も主に背き、偶像に仕えることになります。神を捨てたイスラエルは神の刑罰を受け、異邦の民の侵略を受け、苦しみの中に落ち込み、やがて悔い改めて神に立ち返るということを繰り返すのです。なぜそのようなことになるのでしょうか。ここでこんなにも強く決心したにもかかわずそんなに簡単に手のひらを返すようなことになるとは考えられません。実はそれほど私たちの意思はそれほど弱いのです。何かあるとすぐに躓いてしまうほどもろいものなのです。

十字架を目前にしてイエス様は弟子たちに、「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。」と言うと、ペテロは勢い込んで、「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26:33)と言いました。しかしイエス様は彼に、「今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」と預言されると、そのとおりになりました。ペテロはどんなにかショックだったかと思いますが、人間の意思の力はそれほどにもろいのなのです。彼はそのことに気付いていなかっただけです。人はつい簡単に約束しては決断します。このようにしようと堅く心に誓いますが、そのたびに裏切ってしまうのです。それほどに人間の肉の力は弱いのです。ヨシュアはそのことを重々知っていました。だから彼はここで、「あなたがたはできない。」と言ったのです。それではどうしたらいいのでしょうか。

使徒パウロはこう言っています。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:1-11)
パウロには深い悩みがありました。それは、自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっていることです。自分がしたいと思う事ができないのです。それは自分の中に住んでいる罪のためです。いったいどうしたらいいのか、だれがこの死のからだから自分を救ってくれるのでしょうか。パウロはそのように嘆きつつ、そこに真の解決を見出すのです。それがいのちの御霊の原理です。確かに自分の内に罪と死の法則があって、自分の力ではそれにどうすることもできませんが、イエス・キリストを信じたことで与えられた主の御霊、キリストにある命の御霊の原理が働いているので、このいのちの御霊の原理によって勝利することができると言ったのです。

このキリストにあるいのちの御霊の原理は、キリストを信じた時に私たちに与えられた法則です。私たちの内に聖霊なる主が臨まれると、御霊の力が肉の力に対抗して、やがていのちの御霊の原理が優位を占めるようになります。これが信仰生活だとパウロは発見したのです。つまり、もし人が救われてクリスチャンになったなら、内なる罪と死の法則がすべて消滅し、そこから完全に解放されるというのではなく、そのところに新しくいのちの御霊の法則が働き始めて、御霊の力によって勝利することができるのです。

私たちはキリストを信じたとき、キリストとともに十字架につけられ、もはや私が生きているのでなく、キリストが私のうちに生きているのですと告白ましたが、罪の力に敗北し、悪魔に誘惑されて罪を犯してしまうことがあります。それは決して意思が弱いからではなく、むしろ意思の力に頼りすぎているからです。もし自分の意思を過信するなら、それはパウロがここで嘆いたように、いつも敗北感を味わいながら生きることになるでしょう。しかし、内なる御霊の法則を聞き、御霊の働きにゆだねるなら、御霊自らがその力を発揮して、勝利へと導いてくださるのです。

ヨシュア記に戻りましょう。ヨシュアが、「あなたがたは主に仕えることはできない。」と言うと、民はヨシュアに言いました。「いいえ。私たちは主に仕えます。」
それでヨシュアは民に言いました。「主を選んで、主に仕えることの証人はあなたがたです。」すると彼らは「私たちが証人です。」と言いました。それでヨシュアは、だったら「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」と勧めました。そうでないと、主を主とすることができないからです。人はだれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を軽んじて他方を軽んじることになるからです。(マタイ6:24)ですからまず自分たちの中から偶像を取り除かなければなりません。偶像を取り除き主に心を傾けることによって、主に仕えることができるからです。
すると民はヨシュアに言いました。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」

こうしてヨシュアはその日、民と契約を結び、シェケムで彼らのために掟と定めを置きました。そして、イスラエルが主に聞き従うと言ったことばを石に書き記、主の聖所にある樫の木の下にそれを立てました。それは彼らが主を礼拝しに来たときに、確かに自分が主に聞き従うといったことを彼らが思い出すためです。私たちも自分の意思によってはすぐ神との契約さえも破ってしまうような弱い者ですが、このような契約を御霊によって心に刻み、いつも心から主に従う者でありたいと思います。

Ⅲ.ヨシュアの死 (29-33)

最後に29節から33節までを見て終わります。
「これらのことの後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・セラフに葬った。イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。アロンの子エルアザルは死んだ。人々は彼を、彼の子ピネハスに与えられていたエフライムの山地にあるギブアに葬った。」

これらの出来事の後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死にました。ここには簡単にヨシュアが百十歳で死んだとありますが、これはヨシュアが果たすべきことのすべてをなし終えた後で召されたということです。それはヨシュアの生涯が、神のしもべとして神の御旨のために、一切を捧げ尽くした生涯であったことを意味しています。彼は自らの使命、目的を明確に自覚し、そのために自分を徹底的に捧げたのです。彼に与えられた使命はこのヨシュア記の冒頭に記されてあります(1:1-9)。彼はこれを自らの生きる目的、使命として受け取り、その使命の達成のために生きたのです。私たちも、ヨシュアのごとく人生に明確な使命、明確な目的を持ち、それに向かって前進していくものでありたいと思います。

31節には、「イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。」とあります。どういうことでしょうか。ヨシュアが生きている間、また主のわざを見た長老たちが生きている間は、イスラエルは主に従っていましたが、この世代がいなくなると彼らは他の神々に心を寄せるようになっていきます。私たちはこのような弱さを持っています。指導者がいれば主に従うことができますが、いなくなったら、主から離れていってしまうのです。そうならないためにはどうしたらいいのでしょうか。自分自身が主を体験することです。主のわざを見て、主のみことばの真実、力、知恵、満たしなど、自分自身で体験するのです。そうすれば、たとえ指導者がいなくなっても、主に従うことができるようになります。

32節をご覧ください。ここには、「イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。」とあります。ここに突然イスラエルの父祖ヤコブの息子、ヨセフの遺骨がこのシェケムの地に葬られたことが語られています。なぜここに何百年も前に死んだヨセフの遺骸の葬りのことが記されているのでしょうか。

これを解く重要な聖書の記述は創世記50章24、25節にあります。
「ヨセフは兄弟たちに言った。「私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたがたを顧みて、あなたがたをこの地から、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださいます。そのとき、あなたがたはこの遺骸をここから携え上ってください。」と言った。」
つまり、このヨシュア記24章32節のメッセージは、このヨセフの預言の成就であり、そのことを銘記するようにということを伝えたかったのです。
イスラエルのカナン征服は、もとよりヨシュア一人の力によるものではありませんでした。それは既に数百年も前に、神がヨセフに約束されていたことであり、それ故にエジプトの苦難の中にあっても、それはイスラエル民族にとって希望であり続けました。そしてそれが時至りモーセに受け継がれ、ヨシュアに受け継がれて、その偉大な救済の御業は、イスラエルの歴史の中で着々と進められ、遂に成就し実現したのです。このことを忘れてはならないというのです。

それは罪が贖われ、約束の地に向かっている私たちクリスチャンにとっても言えることです。私たちはまさに今イスラエルの民がモーセやヨシュアに導かれてカナンの地に向かって進んでいるように、神の約束の地に向かって進んでいるものです。時には目の前の困難のゆえに、本当にそれが実現するのだろうかと疑ってみたり、それよりもこの世での生活が満たされていればそれでいいのではないかという思いにかられることがありますが、神が約束してくださったことは必ず成就するのです。私たちはこのイスラエルの歴史を通して、その中に働かれた神の御業を見ながら、ますます熱心に御国を待ち望まなければなりません。イエス・キリストによってなされた贖いに感謝して、主の大いなる使命のために、全力で進んでいこうではありませんか。

最後はアロンの子エルアザルの死をもって、この書が閉じます。なぜ最後がエルアザルの死で終わっているのでしょうか。ヨシュア記を読むと、随所に「祭司エルアザルとヌンの子ヨシュア」という表現が出てくるが、それはヨシュアの勝利の陰に、陰の功労者として祭司エルアザルの存在があったことを強調したかったからと思われます。彼は表面にはあまり出てこない、きわめて地味な人物でしたが、しかし彼の祈りを通してヨシュアの働きが支えられました。この陰での祈りなしには、カナン征服の偉業は成し遂げられなかったのです。すべての目に見える業の陰にあって、しかし目に見えない祈りの力が、イスラエルをカナンに導いたことを忘れてはなりません。

それは主の教会にも言えることです。ある面で牧師はヨシュアのように民の前面に立って導くような者かもしれませんが、その働きを成功に導くのは主ご自身であられます。その主の助けと支えを願って陰でとりなしてくださる信徒の方々の祈りがあってこそ、それが主の大いなる力を引き出し、偉大な御業となって現われてくるのです。もしかすると祭司エルアザルのように地味で、陰での働きに徹するような存在かもしれませんが、こうした存在があってこそ主の御業が前進していくということを忘れてはなりません。イスラエルのカナン征服という偉大な御業は指導者ヨシュアとこのような陰での祈りというパートナーシップがあってこそ実現した御業だったのです。

Ⅰヨハネ1章5~10節 「光の中を歩む」

 ヨハネの手紙第一から学んでおりますが、今回はその二回目のメッセージです。前回のところでヨハネは、どうしても伝えたいことがあると言いました。それは永遠のいのちであるイエス・キリストが現れたということです。なぜなら、このキリストにこそいのちがあるからです。ヨハネはこれを自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の手でさわりました。人は何を見るかによってその結果が決まります。この方をじっと見続けるならそこにいのちがあふれてきます。

 ヨハネがこの手紙を書いた当時はまさに闇でした。なぜなら、多くの反キリストが現れていたからです。そのような時代にあっても惑わされることなく、信仰に堅く立ち続けるためにはどうしたらいいのでしょうか。それはイエス・キリストを見ることです。イエス様をじっと見て、イエス様との交わりに入れられるなら、そうした闇の中にあっても希望と力が与えられ、喜びに満ちあふれた人生を歩むことができるのです。

 きょうの箇所でヨハネはもう一つの真理を伝えています。それは、神は光であられるということです。神は光であって全く闇がありません。ですから、この光の中を歩むなら、決して闇の中を歩むことはありません。きょうはこの「光の中を歩む」ことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 Ⅰ.もし光の中を歩んでいるなら(5-6)

 まず、5節と6節をご覧ください。
「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」

 ヨハネがキリストから聞いて彼らに伝えたかったことは、神は光であって、神には全く闇がないということでした。光と闇が交わることはありません。どんな闇でも光が差し込めば消え去ります。ですから、神には全く闇がないのです。ヨハネの福音書には、このことについて次のように記されてあります。
「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)
キリストが光であるとはどういうことでしょうか。それは、キリストはいのちであり、道を照らすともしびであり、生きる希望であるということです。しかしここでキリストは光であったというのは闇に対する光のことであり、それは汚れに対するきよさを表しています。ですから神は光であって、私たち人間のような「闇」、すなわち罪や汚れなどは一つもないということです。それなのにもし私たちが神と交わりがあると言いながら闇の中を歩んでいるとしたらどうでしょうか。私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいないということになります。

ここでヨハネは、「もし・・・と言いながら」と言っていますが、このような言い方は続く8節と10節にも出てきます。「もし、罪はないと言うなら」と、「もし、罪は犯していないと言うなら」です。どういうことでしょうか。ここでヨハネはこの手紙の読者たちに、この真理を自分の生活に適用して点検するようにと勧めているのです。私たちが言っていることと、行なっていることが異なるということがしばしば起こります。ここでは、「私は、神さまとの交わりを持っています」と言いながら、交わりを持っているとは思えない行動をしていることがあるということです。神は光ですから、神と交わりを持っているなら、私たちもまた光の中を歩んでいるはずですが、そうでなはなく悪を行なっていることがあります。もしそうであるなら、もし神と交わりがあると言っても、それは真実ではない、偽りであると言うのです。

 私たちクリスチャンは、とかくこのような過ちに陥ります。自分は神との交わりがあると言いながら、神との交わりから外れているようなことをしていることがあるのです。確かに、毎週日曜日には教会に行き、クリスチャンらしい宗教的なことを行なっているかもしれませんが、家庭や職場ではそれとかけ離れたことをしていることが意外とあります。
私はこうして毎週講壇から神のみことばを語りますが、講壇で語っていることと実際の生活にギャップを感じることがあります。講壇では「さばいてはなりません。さばかれないためです」と言いながら平気で人をさばいてみたり、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」と言いながら、自分ほどいい人間はいないと思ってしまいます。「同じように、夫たちよ。妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに生活しなさい」と言っておきながら、妻のことをいたわることはほとんどありません。「うちの夫は講壇にいる時が一番すばらしい。そこから降りてきてほしくない」と言った牧師の奥様がおられたそうですが、わかるような気がします。言っていることとやっていることが一致しないことがあるからです。言っていることはすばらしいですが、やっていることはどうもいまいちだということがよくあるのです。もちろん、神のみこころに歩みたいと願いそのようにしたいと努めていますが、闇の中を歩んでいることがあります。もしそういうことがあるなら、神と交わりがあるとは言っても、それは偽りであって、真理を行っていないというのです。

とても心に刺さることばですが、ここで間違えないでいただきたいことは、だからだめだと言っているのではないということです。ヨハネはこの手紙の中で、クリスチャンが永遠のいのちであられる神との交わりを持ってほしいのです。もしあなたが神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるとしたら神との交わりは断絶し、神の臨在を感じることができなくなるばかりか、自分のたましいはカラカラに乾ききり、礼拝は儀式的なものとなってしまうでしょう。私たちはイエス様を信じて永遠のいのちをいただいていますが、その主と交わりそこに喜びが全うされるためには、この罪の問題が処理されなければならないのです。いったいどうすればいいのでしょうか。

Ⅱ.御子イエスの血がきよめてくださる(7)

7節をご覧ください。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」

ここには、もし私たちが光の中を歩んでいるなら、光であられる神と交わりを持っているということになります。すなわち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださっているということです。この「きよめる」ということばですが、これは現在進行形で書かれています。すなわち、今もきよめられ続けているということを表しています。御子イエスの血は私たちがイエスを信じた時にすべての罪からきよめてくださったというだけでなく、今も日々の生活においてきよめられているということです。絶えず、その血によってきよめられていることによって、聖なる神と私たちが一つとなることができるのです。

これはすばらしい約束ではないでしょうか。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。心の中に染み付いている頑固な汚れも、自分ではどうしようもないという悪しき習慣からも、すべての罪から私たちをきよめてくださるのです。イエスの血がきよめることができない罪などありません。ですから私たちはこのイエスの血によって神と一つになることができるのです。

「きよめる」というと私たち日本人には、禊(みそぎ)とかお祓いをしてもらうというイメージがありますが、ここで言われている「きよめる」というのは、単に汚れを取り除くというだけでなく、神様の前に出ることができるように変えらることを意味しています。神様の目から見て聖なる者としていただくことです。たとえば、この手紙を書いたヨハネは以前「雷の子」とあだ名が付けられるほど短気な者でしたが、のちに「愛の人」と呼ばれるほどに変えられました。私たちも光の中を歩み、神様と交わりを持つことによって、そのような者に変えられていくのです。つまり、キリスト信じて救われた時だけでなく、救われた後も、年を老いてからも、いつでも、私たち十字架のもとに行くなら、御子イエスの血が、あなたをすべての罪からきよめ、キリストのように変えてくださるということです。

私たちは神様の光に照らされる時、自分の罪や汚れ、自分の弱さや愚かさに気付かされて落ち込むことがあります。このように礼拝に出て神様の語りかけを聞く時、「そういう生き方はよくないなぁ」とか「あの考えは間違っていた」ということが示されて打ちのめされそうになることがあります。私たちは罪赦されて神様との交わりの中に入れられましたが、実際には罪を犯さずには生きていけないからです。いや、クリスチャンになってからの方が罪について敏感になりました。それまでは何でもないように思っていたことが、それが大きな罪であったことに気づかされるからです。そのような時、私たちはどうしたらいいのでしょうか。そのまま落ち込んで、「私はやっぱり駄目な人間なんだ」と自分を責め続ければよいのでしょうか。あるいは、「私は罪人で駄目な者なんです」とうなだれながら生きていったらいいのでしょうか。そうではありません。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。この御子の血にお頼りすればいいのです。そして罪をきよめていただき、この神との交わりに入れていただけばいいのです。

Ⅲ.罪を認め、悔い改める(8-10)

では、そのためにどうしたらいいのでしょうか。8節から10節までをご覧ください。「もし自分に罪がないというなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

神が備えてくださったキリストの十字架の血は私たちの罪に対して無限の力を持っていることがわかりました。では私たちはこのキリストの無限の血に対してどのような態度をとるべきでしょうか。ここには絶対にとってはならない態度と、逆に取るべき態度が教えられています。まず、絶対にとってはならない態度は何かというと、8節に「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」とあるように、「自分には罪はない」という態度です。いったいだれがこんなことを言っていたのでしょうか。ここには「私たち」とありますから、当時のクリスチャンの中にそういう考え方をもっている人たちがいたようです。当時のクリスチャンの中に、グノーシス主義と呼ばれる誤った教えによってこのような考え方を持っている人たちがいました。このグノーシス主義の特徴は霊肉の二元論にあり、肉体はたましいを宿す単なる器にすぎず、その肉体がどんなことをしてもたましいは何の影響も受けることはないと考えていたので、何をしても自分には罪がないと、自分の肉欲のままに生きていたのです。

しかしこうしたグノーシスのような考えは、私たちも持ちやすのではないでしょうか。私たちはイエス様を信じて罪が取り除かれたのだから、私には罪はないと思っていますが、これは、間違っています。確かに、立場的にはキリストにあって正しい者とみなされましたが、罪の性質は持ったままなのです。それなのに自分はクリスチャンになったのだから、ある程度正しさは身に付いたのではないかと考えるとしたら、それは間違いです。

ここでヨハネは、もし自分に罪がないと言うなら、その人は自分自身を欺いていると言っています。本当の自分の姿から目をそらしているからです。聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:23)と言っています。また、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ6:23)と言っています。すべての人は生まれながらに罪を持っているのに罪がないと言うのなら、その人は自分自身を欺いているのであって、その人のうちに真理はありません。

しかし、私たちにはこのように自分を美化する心があるため、悪いのは他人だと決め込み、自分を被害者の立場に置こうとする思いが働くのです。
最初の人アダムとエバがそうでした。彼らは取ってはならないと命じられた園の中央にある木の実をとって食べ、そのことを神から咎められた時、何と言いましたか。
「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)
悪いのは私ではない、悪いのはあの女で。あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って食べたので、私は食べたのです。悪いのは自分ではない、あの女であり、突き詰めれば、あの女を私のそばにおいたあなたが悪いんです、と言ったのです。
それに対してエバはどうだったでしょうか。神がエバに「あなたは何ということをしたのか」と言われると、エバもこう言いました。
「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」(創世記3:13)
同じです。彼女も自分には罪がないと言いました。蛇が私を惑わしたので、それで私は食べたんですと、蛇のせいにしました。
これが人間の姿です。私たちの中には罪があっても、それを認めようとしない性質があるのです。自分には罪はないと言ってうそぶくのです。

しかしこのように考えるなら、きよめられる必要がなくなってしまいます。あの祈るために宮に上って行ったパリサイ人がそうでした。彼は心の中でこんな祈りをしました。
「神よ。私がほかの人のように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないことを、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。」(ルカ18:11)
このように祈れる人はそれほど多くはいません。でもこのパリサイ人は大胆にもこのように祈りました。なぜ彼はこのように祈れたのでしょうか。聖書にはこのように書かれてあります。
「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちには、イエスはこのようなたとえを話された。」(ルカ18:9)
そうです、彼は、自分は正しい人であり、間違ったことはしていない。自分には罪がないと思っていたからです。そういう人にはきよめが必要ないというか、きよめられる必要さえ感じません。
一方、取税人はどうだったでしょうか。彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)
この二人のうち、いったいどちらが義と認められて家に帰ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人の方でした。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
同じように、自分に罪がないと言うなら、きよめられることはありません。その人は自分を欺いているのであって、真理はその人のうちにはないからです。私たちはそのようにならないために、まず自分の罪を認めなければなりません。

次に、キリストの血に対して私たちが取るべき態度とはどのようなものでしょうか。9節と10節をご覧ください。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

新改訳聖書第三版には、「もし私たちが自分の罪を言い表すなら」とあります。個人的にはこちらの方が好きです。「言い表すなら」も「告白するなら」も、どちらも同じです。この言葉は原語のギリシャ語は「ホモロゲオー」という言葉で、「同じことを言う」という意味です。それは、神が語られることと同じことを言うことを意味しています。そうでなかったらそれを認めて告白しなければなりません。それが悔い改めです。そうすれば神はその罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。つまり、罪の悔い改めを通して、神の光が注がれるのです。罪を悔い改めることは、神の愛と赦しの光が差し込んでくる窓なのです。あなたの心の窓を閉ざすなら神の愛の光は差し込んできません。しかし自分の罪を認め、神に向かって心を開くとき、罪を赦しくださる神の光が差し込んで来るのです。

私たちが罪を犯すとき、その罪にどのように向かい、どのように対処するかはとても重要です。もし自分には罪かせないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。しかし、もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるのです。

ダビデはバテ・シェバと姦淫の罪を犯したとき黙って自分の心の奥に隠しました。するとそれがバレないようにと今度は彼女の夫を戦いの最前線に立たせて戦死させました。これでバレないだろうと思っていましたが逆に彼の骨は疲れきり、一日中うめきました。昼も夜も 御手が彼の上にのしかかり、骨の髄さえ、夏の日照りで乾ききりました。
しかし、彼が自分の罪を神に告白したとき、神は彼の罪のとがめを赦してくださいました。そのときダビデはこう言って賛美しました。
「幸いなことよ その背きを赦され 罪を赦され 罪を覆われた人は、幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」(詩篇32:1-2)

私たちも同じです。私たちもイエス様を信じて罪赦された者ですが、それは罪がないということではありません。日々罪を犯すような者ですが、もし私たちがその罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。神様は決して「またやったのか。愚か者めが」とは言われません。むしろその罪を認めて神の前に悔い改めるなら、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。

あなたはどうでしょうか。悔い改めていない罪はありませんか。きょう主の御前に自分の罪を認めて、悔い改めましょう。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるという神のみことば約束に信頼しましょう。そのような人こそ光であられる神と交わりを持ち、光の中を歩んでいる人です。この光の中を歩むことで、神のいのちと喜びに満ちあふれた日々を送らせていただきましょう。

Ⅰヨハネ1章1~4節 「永遠のいのちを伝えます」

これからしばらくの間、ヨハネの手紙を通して、私たちがイエス・キリストの恵みと豊かな愛によって支えられ、生かされていることを深く覚えさせていただきたいと思います。今回はその第一回目となりますが、「永遠のいのちを伝えます」というタイトルでお話しします。

 

最近の統計によると、日本人の平均寿命は男子が80.98歳、女子が87.14歳で、共に香港に次いで世界第二位だそうです。ところが、アフリカのシオラネオレでは、ちょっとデータが古くて2012年のものですが、男女の平均が45.33歳です。ほかにもアフリカには平均寿命が45歳から55歳までの国がいくつもあります。アフリカでは私の歳でもう亡くなっている人たちがたくさんおられるのです。世界中の人々の命がみな神から与えられたかけがえのないものであることを思うと、人々はその命を本当に正しく使っているのかと疑問が生じてきます。

 

しかし、聖書はこの肉体的いのちと同時に、もっと大切ないのちがあることを私たちに伝えています。それは「永遠のいのち」です。この手紙を書いたヨハネは、2節でこう言っています。

「このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」

ヨハネが読者に伝えたかったのは、この「永遠のいのち」でした。この「永遠のいのち」とは、もちろんイエス・キリストのことです。イエス・キリストこそ永遠のいのちそのものであり、私たちに与えられる「永遠のいのち」の源であります。きょうは、この「永遠のいのち」について三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.いのちのことば(1-2)

 

まず、この永遠のいのちは実際に存在していたものであるということです。1節と2節をご覧ください。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」

 

ヨハネはなぜこの手紙を書いたのか、ここにその目的が明らかにされています。それは1節の終わりにありますが、「いのちのことば」を伝えたかったからです。「いのちのことば」とは何でしょうか?この「ことば」と訳された語は、原語のギリシャ語では「ロゴス」といいます。これは単に口から出す言葉と言う意味ではなく、宇宙全体に秩序を与えて動かしている真理そのものを意味しています。ちょっとわかりづらい表現ですが、ユダヤ人にとって「ことば」とは、天地を創造する神の知恵と力を表すものでした。ですからこれは、神を啓示するために、神の人格として現れた方であるという意味です。

 

ドイツの宣教師でギュツラフという人がいましたが、彼が日本人に訳させた最初の日本語訳聖書では、この「ロゴス」という言葉を「賢いもの」と訳しました。ですから、ヨハネの福音書1章1節の「初めにことばがあった」という文章をこのように訳したのです。「初めに、賢いもの、ござる」

また、宮城県気仙沼付近の方言であるケセン語で聖書を翻訳した山浦玄嗣(はるつぐ)先生は、ここを「初めにあったのは、神さまの思いだった」と訳しています。これが一番分かりやすいかもしれませんね。初めにあったのは神さまの思いでした。その神の思い、神のいのちが現れた。それがイエス・キリストです。

 

では、その神の思い、神のいのちであるキリストとはどのようなお方なのでしょうか。1節には「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことば」とあります。どういうことでしょうか。初めからあったものとは、神が天地を創造される前からすでに存在していたもの、永遠なる方であるという意味です。ヨハネは、このいのちのことばを聞きました。また、実際に自分の目で見ました。そして、自分の手でじかにふれたのです。つまり、ヨハネはこれを机上の空論のような抽象的なものではなく、実際的で、現実的な出来事だった言っているのです。

 

そんなの嘘だと言われる方もおられるかもしれませんが、ヨハネは確かにいのちのことばを実際に見て、聞いて、触れたのです。というのは、このいのちが実際に現れたからです。そうです、このいのちこそ、初めから御父とともにあり、人となって現れた方、私たちの主イエス・キリストです。

 

ヨハネは、このキリストの弟子として歩みました。12弟子の中で、いつもイエス様のそばに3人の弟子がいましたが、その一人がこのヨハネでした。ですから、いつも間近でイエス様の教えを聞きました。間近でイエス様の姿を見ていました。それはまさに、手で触れられる距離感だったでしょう。別にこうやって触ったわけではなかったでしょうが、実際に触れることもあったかもしれません。そのように、きわめて親しい交わりを持っていたのです。そして、この世界でいちばん大切なものを教えていただいたのです。

 

もちろん、ヨハネは最初から、自分の目の前にいるイエス様を、「いのちのことば」だとは思っていなかったでしょう。最初は預言者の一人ぐらいにしか思っていなかったかもしれません。自分たちをローマ帝国の圧政から解放してくれる英雄の一人ぐらいにしか思っていなかったのではないかと思います。けれども、主イエスの生きざまは、一般の預言者や英雄のそれではありませんでした。イエス様は社会で疎外されている人々をこよなく愛し、一方、ユダヤ教の指導者たちに対してはその偽善を激しく責めました。そしてその信念を貫いて、最後は十字架に架けられて処刑されました。そこにはこの世の成功も栄誉もありませんでした。しかしこの世でいちばん大切なものを貫き通されました。その生きざま、死にざまを、ヨハネは最も間近で見たのです。触れたのです。そして、その十字架の死から復活したイエスと出会ったのです。復活された主イエスを見て、聞いて、触れて、実際に確かめることで、この方こそいのちのことば、永遠のいのちであると確信したのです。ヨハネにとってそれは単にあこがれや空想の産物といったものではなく、本当に神が人となって現われてくださり、人間の手でじかにさわることができる存在だったのです。

 

いったいヨハネはなぜこんなことを言っているのでしょうか。それはヨハネがこの手紙を書いた当時、そうではない教えがはびこっていたからです。つまり、あなたがたが見たと言っているイエスは肉体を持っていたかのように見えたかもしれないけれどもそれは幻覚であって、実際には霊にすぎなかったという教えです。こういう教えを何というかというと「二元論」と言います。「二元論」は、肉体は悪であり霊こそが善であると教えます。だから、悪である肉体を痛めつけることによって霊を高めることができると考えて禁欲主義に陥ったり、逆に、大切なのは霊なのだから肉体はどうでもいいと快楽主義に走ったりしていたのです。人は何をどう考えるかによってその結果である行動が決まります。もしもこのような考え方に立つなら、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださったということはまったく無意味なものとなってしまい、そこには何の希望も、喜びも見出されないことになります。ただ目先の、現実だけを追い求める生活となってしまうからです。しかし、キリストは実在された方であり、実際に目で見て、耳で聞いて、手でふれることができました。この方が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことで私たちの罪は完全に贖われました。それゆえ、この方を信じる者に聖書が約束しているように永遠のいのちが与えられました。神との交わりが与えられたのです。このイエス・キリストをじっと見るとき、そこにいのちがあふれてきます。そして、この方が語られる一つ一つのことばが私たちを生かしてくれるのです。

 

ヨハネは、このいのちを「じっと見つめ」と言っていますが、この「じっと見つめ」と訳されている言葉と同じ言葉がヨハネの福音書1章14節にも使われています。そこには、こう書かれてあります。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

ヨハネはここで、イエス様をじっと見つめていると、神のひとり子としての栄光が見えてくる、と言っています。そして、この方は恵みとまことに満ちておられるお方なのだということが見えてくる、と言いました。皆さんはこの方をじっと見つめていらっしゃるでしょうか。別のものを見ているということはありませんか?

 

先週シモン先生の牧師就任式があり、その中でもお話しをされていただいたのですが、いったいなぜシモン先生は牧師になられたのでしょうか。それは「あなたはわたしを愛しますか」と言われる主に、「はい、愛します」と答えたからです。その先にあるのが「わたしの羊を飼いなさい」とイエス様が言われたことでした。つまり、牧師になるというのはイエス様を愛することを、そのような形で応答することなのです。イエス様を愛するということの延長に牧するということがあるのであって、そうでなかったら、牧師を続けるということは難しいのです。

私は牧師になって35年になりますが、そういうことの連続だったと思います。開拓して10年くらい経った時50~60人くらいの群れに成長しましたが、その時初めて壁に直面しました。一人の姉妹が何人かの兄姉を引き連れて教会を出て行かれたんですね。初めての経験でした。寝ても覚めてもそのことが頭をよぎり、離れませんでした。「いったいどうしたらいいんだろう」と悩みました。それまでは牧師は転職だろうと思っていたのに、どうして牧師になんてなってしまったんだろうと思うようらなり、だんだん落ち込むようになりました。「もう牧師を辞めよう」と思いました。辞めるなら早い方がいいと、毎日求人広告を眺めたりしていました。

そんなとき、ある牧師に相談したら、その牧師がこう言われたのです。「日本の教会はどこも小さくて、人が減りはしないかといつも心配しているんです。でも、先生の所はいいじゃないですか。最初からゼロなんですから。失うものは何もないでしょ。これから増えるだけですよ。」何とも慰められているのか励まされているのかわからないような言葉でしたが、考えてみたら「確かに・・」と思いました。ゼロから始まったんだから、失うものは何もない。そう思うと不安とか恐れがなくなりました。

 

そのような時に聖書を読んでいたら、旧約聖書のエレミヤ書の御言葉が私の心を捉えました。エレミヤ30章18~19節に、こう書かれてあります。

「主はこう言われる。見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。彼らから、感謝の歌と、喜びの笑う声が湧き上がる。わたしは人を増やして、減らすことはない。わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる。」

これは昔、イスラエルがバビロンに捕囚となって連れて行かれた時に、神様が苦難の中にいる民に対して預言者エレミヤを通して約束してくださった言葉です。私にはこのことばが、「神様がこの教会を建て直してくださる」という約束として響いてきました。神様が建て上げてくださる。これは主の教会であり、主が建て上げてくださるということがわかったとき、少しずつイエス様にゆだねることができるようになりました。

 

ですから、教会創立20周年の年、私たちがこの大田原市で開拓伝道をすることになったとき、私の牧会スタイルというか、牧会理念が全く変わりました。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

この方をじっと見つめていれば、恵みとまことに満たされます。私が、何を、どうするかということではなく、いのちそのものであられるイエス様が恵みを与えてくださいます。私に求められているのはこのいのちのことばを語ることでしかないのです。それを聞く人がイエス様をじっと見て、そこからいのちを受け取ることができるようにみことばを語るだけでいいんだと示されたのです。

 

だから、私のメッセージは以前とは全く違うメッセージになりました。いのちのことばである聖書そのものを、恵みとまことに満ちておられるイエス様をそのまま語るというスタイルになったのです。

 

皆さん、イエス様をじっと見つめるなら、そこに神のいのちがあふれます。そして、恵みとまことに満ちておられるイエス様のいのちを味わうことができるのです。イエス様が語られることばによって人は生かされるのです。イエス様のもとに重荷を下ろし、憩い、赦しをいただくことで、安心して生きることができます。そして、イエス様に信頼することで、すべてをゆだねて歩むことができるのです。

 

あなたが見ているものは何ですか。このいのちのことば、永遠のいのちから目を離さないでください。この方をじっと見つめてください。そうすれば、あなたの人生も恵みとまことにあふれるようになります。ヨハネが伝えたかったのはこの永遠のいのちだったのです。

 

Ⅱ.イエス・キリストとの交わり(3)

 

次に3節をご覧ください。ヨハネがこの「永遠のいのち」であるイエス・キリストを伝えるのはなぜでしょうか。その目的がここに記されてあります。

「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」

 

ヨハネがキリストを伝えるのは、「あなたがた」、すなわちキリストを直接見たことのない読者もまた、「私たちの交わり」に入ってもらいたいからです。「私たちの交わり」とは何でしょうか?それは御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 

「交わり」とは何でしょうか。教会に来ると、よく「交わり」という言葉を耳にします。みなさんもこの言葉をよく使うのではないでしょうか。「礼拝後、皆さんとお交わりしてお帰りください」とか、「クリスチャンは交わりの中で成長するので互いに交わることは大切です」とかとよく言います。しかし、この場合の交わりとは一緒に食事をしたり、お話しをしたり、時間を共にすることを念頭に言われており、人との交流を指して言われている場合がほとんどです。

 

しかし、聖書が教えている交わりとは、私たちが普段使っている意味と少し違います。ここに出てくる「交わり」という言葉は、原語のギリシャ語で「コイノニア」と言いますが、これは、「何か共通のものを所有すること、分かち合うこと」です。つまり、ヨハネが「御父また御子イエス・キリストとの交わり」と言っているのは、御父および御子と共通のものを所有すること、分かち合うことを意味しているのです。では、何を共有するのでしょうか。それはイエス・キリストのいのちです。このいのちを共有する神との交わりに入れていただくことで、この交わりが広がって、今度は横のクリスチャン同士の共有関係へと発展していくわけです。そのクリスチャン同士の交わりはキリストのいのち、神の恵みの分かち合いにとどまらず、実際に持ち物を分かち合ったり、喜びや悲しみを分かち合っていくという具体的な行為になって現われていきます。ヨハネは、あなたがたもこの交わりに入ってもらいたいと言っているのです。

 

皆さん、この世は「交わりの世界」だと言っても過言ではありません。私たちは生まれるとすぐ両親との交わりが始まります。自分を育ててくれる存在との出会いが、人生の最初の出会いとなるわけですね。それから幼稚園とか、小学校とか、中学校、高校へと進んでいく中で、先生や友人たちとの出会いがあり、仕事や家庭を持つことで、それがだんだんと社会との交流へと広がっていくわけです。そして、交流が広がれば広がるほど自分とは考え方の違う人がいるんだなぁということに気づかされ、そのような違いが見えてくることで、人間関係って煩わしいなあと思わされることもあったり、逆に、「あの人に出会って良かった」と思う出会いもあったりするわけです。

 

マルチン・ブーマーという人は、「人生は出会いで決まる」と言いましたが、私たちの人生は、こうした様々な人たちとの出会いや交流によって方向付けられていくのです。ですから、だれと出会い、どんな交わりを持つかによって、私たちの人生は大きく左右されることになるわけです。そしてその究極の出会いと交わりがイエス・キリストなのです。

 

ヨハネは晩年エペソで過ごしていた時にこの手紙を書いたと言われています。彼は人生の終わりを間近にして自分の人生を振り返りながら、「私の人生にもいろいろな人との出会いがあったなぁ。交流もあった。しかし、その中で、私の人生を大きく変えた出会いがあった。それがイエス・キリストとの出会いだった。」と言っているのです。

 

この出会いは、決してあなたを失望させることはありません。私たちはこの方との出会いと交わりを通して父なる神を知り、神との交わりの中へと入れていただきました。そして、この方との交わりを通して愛とは何であるかを知り、その愛によって神様に愛されているということがわかったのです。その結果、こんな者でもこの愛をもって人を愛することができるようになったのです。これはすごいことじゃないですか。それまでは自分のことしか考えられなかったのに、自分だけ良ければいいと、自分を中心に世界が動いていたのに、キリストと出会い、キリストとの交わりを通して、神の愛に生きることができるようになったのですから。

 

私は自他共に認める自己中心的な人間で、よく家内から、「あなたほど自己中心な人はいない」と言われるのですが、イエス様と出会って、その交わりの中に生かされることによって、少しずつですが変えられてきたと思うのです。「友よ歌おう」という賛美歌がありますが、その中に、「歌い続けよう、主の愛を」という歌があります。

主イエスの深い愛にふれて 私にも愛が生まれ、

主イエスを信じた時に 私にも歌が生まれた。

いつまでも歌い続けよう 主の愛の広さ深さを

十字架でいのちを捨てた その愛の大きさを

イエス様との交わりによって私たちの人生は大きく変えられます。イエス様と交われば交わるほどイエス様のように変えられて行くのです。その交わりの中にあなたも入ってもらいたいと、ヨハネはこのいのちを私たちに伝えているのです。

 

Ⅲ.喜びが満ちあふれるため(4)

 

いったいなぜヨハネはこれらのことを書き送るのでしょうか。第三に、それは私たちの喜びが満ちあふれるためです。4節に、「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」とあります。

 

ヨハネにとっての最高の喜びは、私たち一人ひとりが御父および御子イエス・キリストとの交わりに生きる姿を見ることでした。この「喜びが満ちあふれるためです」と訳された言葉は、第三版では「喜びが全きものとなるためです」と訳されてあります。これは、当時のユダヤ教のラビたちにとっては、この世の終わりに全てのものが新しくされる時の完成の喜びを表すものでした。それはこの地上では成し得ない喜び、至極の喜びでした。ヨハネは、あなたがたが私たちと同じように御父および御子イエス・キリストとの交わりを持って生きる姿を見ることが、私たちにとってこの上もない喜びであると言っているのです。

 

皆さんにとって喜びは何でしょうか。大学入試や就職試験に合格することですか。それも喜びですね。いい人と結婚することが決まったら最高の喜びでしょう。念願の夢がかなってマイホームを新築することになったらどんなにうれしいことでしょうか。これまで自分を悩ませていた病気から解放されたら、家族の願いが叶い、それぞれが自分の願っていた道に進むことができたとしたら、それも大きな喜びです。教会も広い土地が与えられて立派な会堂が建ったらどれほどうれしいことでしょうか。しかし、それよりももっと大きな喜びがあります。それはこの地上にいながらも、さながら天国を味わう喜びです。それが御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 

イエス様は、伝道に遣わされた72人の弟子たちが喜んで帰って来て、「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもさえも私たちに服従します。」と報告すると、このように言われました。

「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしはみました。確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を与えました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。しかし、霊でもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に下記記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:18-20)

イエス様は、弟子たちが喜ばなければならないのは彼らが悪霊を追い出す力が与えられていることではなく、彼らの名前が天に書き記されていることだと言ったのです。言い換えるならこれは、彼らが救われて神との交わりの中に生きていることです。それを喜びなさいと言われたのです。

 

皆さんは何を喜んでいらっしゃいますか。私たちが喜ばなければならないのはこのことです。あなたがたがこの救いの中に入れられ、御父また御子イエス・キリストとの交わりの中に生かされることです。それを見ることはどんなに喜ばしいことでしょう。それは究極の喜び、全き喜びなのです。先日のイースターには3人の方がバプテスマを受けましたが、ヨハネがここにいたらどんなに喜んだことでしょう。もう飛び上がって喜んだに違いありません。また、そのように救われた人がキリストとの交わりの中に入れられ健全に成長しているのを見たら、どれほどの喜びでしょう。本当に喜びに満ちあふれ、神様をほめたたえたことでしょう。私たちもこのことを喜ぶ者でありたいと思います。そして、このために生きる者でありたいと願わされます。これはヨハネだけでなく、私たちにとっても大きな喜びなのです。ヨハネがこの永遠のいのちを伝えたように、私たちもこの永遠のいのち、イエス・キリストを伝える者でありたいと思います。

ヨシュア記23章

きょうは、ヨシュア記23章から学びます。まず1節から5節までをお読みします。

 

Ⅰ.あなたがたのために戦ったのは主である(1-5)

 

「主が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。ヨシュアは全イスラエル、その長老たちや、かしらたちや、さばきつかさたち、およびつかさたちを呼び寄せて彼らに言った。「私は年を重ねて、老人になった。あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。見よ。私は、ヨルダン川から日の入るほうの大海まで、これらの残っている国々と、すでに私が断ち滅ぼしたすべての国々とを、相続地として、くじによってあなたがたの部族に分け与えた。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたの前から彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う。あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。」

 

前回までのところで見てきたように、カナンにおけるイスラエルの戦いは終結し、イスラエルはその割り当てに従って安息が与えられました。それから多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていました。そこで彼は全イスラエルを呼び寄せて、その長老たち、かしらたち、さばきつかさたちに語ります。いうならば、これはヨシュアの遺言です。高齢になり自分の死が近いことを悟ったヨシュアはイスラエルの民を集めて、これからのイスラエルの状況を予測しながら、主の深い御旨を語ったのです。

 

その内容とは、まず、彼らのために戦われたのは、彼らの神、主であるということでした(3)。主なる神がイスラエルに対していかに良いことをしてくださったか、いかに恵み深くあられたかと言うことです。新聖歌172番には、「数えてみよ主の恵み」という賛美がありますが、まさにヨシュアはこのところでまず、主が成してくださった数々の良きことを思い起こすようにと語っているのです。

 

カナンの地を占領するために、ヨシュアは実に多くの労苦を強いられてきました。時には死に直面したこともありました。明日の命はもうないかもしれないと、眠れない夜を過ごしたこともありました。そのような戦いが続く中で、ヨシュアはイスラエルの民を率いて敵を打ち破り、ついにカナンの地を勝ち取ることができました。にもかかわらず、ヨシュアはここで自分たちがどれほど苦労したか、また自分たちの功績がいかに大きかったかということを全く語らず、むしろ、それらを成してくださったのは、「あなたがたの神、主である」と語ったのです。1節の初めの言葉もそうですね。「主が周囲のすべての敵からイスラエル守って安息を与えられた」とあります。主がどれほどすばらしいことをしてくださったかということです。主語はいつでも「主」です。主が良い事を始めてくださり、主がそれを完成させてくださいました。自分たちは、主がしなさいと命じることに従っただけです。

 

ここにヨシュアの徹底した謙遜さをみます。彼は神の前で決して自分自身の功績を数え上げず、それらは全て主の業であると、主に栄光を帰したのです。それゆえに彼は主と共にあって大胆に事をなすことができたのです。私たちもこのことを忘れてはなりません。私たちのために戦われたのは主であって、主が数々の良き業を成してくださったことを覚え、主に感謝するものでありたいと思います。

 

Ⅱ.十分気を付けて(6-13)

 

次に6~13節をご覧ください。

「あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行ない、そこから右にも左にもそれてはならない。あなたがたは、これらの国民、あなたがたの中に残っているこれらの国民と交わってはならない。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがらなければならない。主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたがたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった。あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中にはいって行き、彼らもあなたがたの中にはいって来るなら、交わって、縁を結んで、互いに行き来するような中になるならば、あなたがたの神、主は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、主があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。」

 

ここには、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならないとあります。モーセの書とは創世記から申命記までのモーセが書いた書ですが、ここでは特にモーセによって語られた律法のことです。ヨシュアは、モーセを通して主がお命じになったことをことごとく行いました。これからもこのモーセによって語られた神の命令を守り行わなければなりません。ここには、「断固として」とか、「右にも左にも外れず」とあります。徹底的にそれに従わなければなりません。どうしてでしょうか。

 

7節には、その理由として次のように記されてあります。「これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。」ヨシュアが懸念していたこと、ことは、そこに残された異邦の民がいて、その民と交わってしまうのではないか、ということでした。なぜそれが問題だったのでしょうか。そのことによってイスラエルの民が彼らの神々の名を口にするようになり、それらを拝んだり、仕えたりするようになるからです。

 

ここに「これらの異邦の民と交わらないようにするためである」とありますが、この「交わる」という言葉は「共有する」とか、「一つになる」という意味です。単に接触するということではありません。もし、この世は汚れているからこの世と接触してはならないと命じられているとしたら、私たちはこの世から出て行かなければなりません。けれども、神はそのようなことを命じられているのではありません。キリスト者は、この世の中に生きる者ですが、この世のものではないということです。ヨハネは、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。」(Ⅰヨハネ2:15)と言いました。またパウロは、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」(Ⅱコリント6:14)と言いました。ですから、私たちはこの世にいて、この世との関わりの中で生きてはいますが、この世と一つとなってはならないのです。私たちはこの世のものではなく、神のものだからです。その神にすがり、神の命令を守り行わなければなりません。なぜでしょうか。

 

9節から11節にこうあります。「主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたがたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった。あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。」

主は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われました。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかったのです。この主が絶対的な勝利の秘訣です。だから彼らは自分自身に十分気を付けて、彼らの神、主を愛さなければなりません。

ここには、「あなたがたは一人で千人を追うことができる。」とありますが、これは決して大げさな表現ではありません。私たちはもうすぐ士師記を学びますが、そこにはギデオンという士師が出てきます。彼はたった三百人の戦士で、十三万五千人のミデヤン人を打ち破ることができました。ですから、人数や強さは、主にあって問題ではなりません。問題は、何にすがるのか、だれと共に歩むのかということです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)」主がともにおられるなら、必ず勝利がもたらされます。それは彼らのこれまでの歩みを見てきてもわかるでしょう。主がともにおられるなら、私たちは一人で千人を追うことができるのです。

 

ですから、もしも、堕落して、これらの異邦の民の生き残っている民と親しく交わり、彼らと婚姻関係に入るようなことがあるとしたら、それが罠となり、落とし穴となり、彼らの脇腹にむちとなり、目のとげとなり、やがて主がお与えになったこの良い地から滅び失せることになるのです。後にバビロンがイスラエルを攻めたときに、このことばが実現しました。エルサレムは破壊され、バビロンへの捕囚の民となりました。

 

Ⅲ.主が約束されたことは一つもたがわずみな実現した (14-16)

 

最後に14節から16節までをご覧ください。

「見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。あなたがたの神、主があなたがたについて約束したすべての良いことが、あなたがたに実現したように、主はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、主が、あなたがたに与えたこの良い地から、あなたがたを根絶やしにする。主があなたがたに命じたあなたがたの神、主の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。」

 

14節には「見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」とあります。ヨシュアが「見よ」と民に呼びかけた時、民は一斉にヨシュアに注目したに違いありません。そのような民に向かってヨシュアは、「きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」と語ります。これはヨシュアが自らの死が間近に迫っていることを自覚していたことを示しています。人が最後に語ることばはその人が本当に言いたかったことで、最も重要なことばであると言えます。その最後の最後にヨシュアが語ったこととはどんなことだったのでしょうか。

 

ヨシュアはまず、「あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。」と言っています。これから語る言葉を絶対に忘れるな、その重要さを肝に銘じよということです。その内容とはどのようなものでしょうか。「あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。」と言うことでした。ここで繰り返し、「一つもたがわず」と語ることを通して神の約束の完全性、確実性を強調しています。自分たちが信じる神は、約束されたすべてのことを完全に果たしてくださった。その内一つも欠けることなく、一つもたがわず、みな実現してくださった。これはすばらしい証しです。主が言われたことはすべて実現し、何一つ実現しなかったものはなかったというのですから。私たちにもたくさん、神からの約束が与えられていますが、神は何一つ、そのようになさらないことはありません。すべて実現してくださいます。

 

しかし、ヨシュアが肝に銘じておくようにと言われる内容は、神が約束された良いことが彼らに実現したように、主はまた、すべての悪いことを彼らにもたらし、ついには主が彼らにお与えになられた地から彼らを根絶やしにされるということでした。すなわち、「主があなたがたに命じたあなたがたの神、主の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。」ということです。どういうことでしょうか。

 

ヨシュアは人間にとっていかなる時が一番危険であるかを知っていました。つまり、神の約束が完全に成就したかのように思われる時こそ、最も危険な時でもあるということです。だから彼は残る民に警告を発することを忘れませんでした。

 

私たちにとって最大の危機とは、困難に直面した時ではありません。どんなに苦しく辛い時があっても、それは決定的な危機ではないのです。なぜなら、そのような困難に直面する時、私たちはそれを乗り越えようと苦しみの中でもがき祈るため、神の助けによってそれを乗り越えることができるからです。私たちの人生における最大の危機は、むしろその困難が去り、問題が解決して、すべてが順調にいっていると思われる時なのです。

 

イスラエルの民は長年の夢を見事に果たし、約束の地を獲得することができました。これからさらにどんな素晴らしいことが起こるかと人々は期待していたことでしょう。民はまさに絶頂期にあり、成功と喜びに酔いしれていたわけですが、実はそのような時こそ最も危険な時でもあります。ヨシュアはそのことを感じてここで警告したのです。「勝って甲の緒をしめよ」ということわざがあります。勝利したと思える時こそ決して有頂天にならず、しっかりと緒をしめなければなりません。悪魔は知恵があり、どのような時が一番つけ込みやすいのか、いつ攻撃すればよいのかをよく知っているのです。そして、このように勝利に酔いしれている時こそ、彼らにとっての最も大きなチャンスであるということを知っているのです。

 

ですから、私たちは誘惑に陥らないように祈っていなければなりません。神に従うことこそが、悪魔の策略を打ち破る最も友好的な手段であることを覚え、順境の時、成功の中にあると木こそ主を覚え、主を第一とし、悪魔に立ち向かっていかなければなりません。これこそ私たちの人生における危機を乗り越え、真に成功に導かれていくために必要なことなのです。

 

もしあなたが今、失敗と挫折の中にいるなら主を賛美しましょう。主はあなたの内に働かれ、そのご計画を遂行されることによって、やがてあなたは困難を克服して、素晴らしい祝福にあずかることでしょう。しかし、もしあなたが今、成功と勝利の中にあるならば、そのことを感謝するとともに、ますます主に撚り頼み、主を第一として歩みましょう。そのときあなたは神に喜ばれる者として、神の祝福された人生を歩んでいくことができるのです。

Ⅱペテロ3章14~18節 「キリストの恵みと知識において成長しなさい」

これまでペテロの手紙から学んできましたが、きょうはその最後の勧めとなります。ペテロはこの手紙の最初のところで、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安がますます豊かにされると言いました。また、主イエスの、神としての御力は、いのちと平安に関するすべてのことを私たちに与えてくれると言いましたが、終わりのところでもそのことを繰り返して語り、この手紙を閉じます。それは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい、ということです。

 

Ⅰ.しみも傷もない者として御前に出られるように(14-16)

 

まず14節から16節までをご覧ください。14節をお読みします。

「ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。」

 

「ですから」とは、この前のところで勧められてきたことを受けてのことです。ペテロはこの前のところでどんなことを勧めてきたのでしょうか。彼は、主の日、すなわち終わりの日にどんなことが起こるのかを述べました。10節では、主の日は、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます、とあります。しかし13節、神はそれに代わる新しい天と新しい地を用意しておられます。それは正義の住む新しい天と地です。そこは神ご身がともに住んでおられるところで、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。以前のものが、もはや過ぎ去ったからです。イエス・キリストの血によって罪赦され、義と認められた人はみな、この新しい天と新しい地に住むようになるのです。私たちは、神の約束に従って、この正義の住む新しい天と新しい地に住むようになるのです。私たちは今これを待ち望んでいます。「ですから」です。つまり、ここでペテロは、どのような態度で主の来臨を待ち望むべきなのかを教えているのです。

 

そのふさわしい態度としての第一のことは、「しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい」ということです。

「しみ」とは、汚れがないこと、聖いということです。また、「傷」とは、非難されるところがないという意味です。きよい生活を追い求めることは主の再臨を待ち望むクリスチャンにとってふさわしい態度です。この言葉は2章13節でも使われていました。そこでは偽教師たちに対して、彼らはしみや傷のような者だと言われていました。彼らは貪欲であり、好色であり、高ぶっていました。大きなことを言って誇るのです。神の前に汚れたことを平気で言っていたばかりか、そのようなことをして神の民を惑わし、破滅に導いていました。しかし、イエス・キリストを信じて新しく生まれたのであれば、イエス様がいつ戻って来てもいいように備えていなければなりません。どのように備えたらいいのでしょうか。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」とあるように、私たちを召してくださった聖なる方にならって、私たちも、あらゆる行いにおいて聖なる者でなければなりません。

 

ではそのためにどうしたらいいのでしょうか。ペテロは第一の手紙2章1,2節でこのように勧めました。

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

そのためにはまず捨てなければならないものがありました。何ですか?すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口です。そして、純粋なみことばの乳を慕い求めなければなりません。それによって成長し、救いを得るためです。そうすれば、キリストのような聖い人に変えられていきます。

 

クリスチャンは、そのようにしみや傷のない者として御前に出られるように励まなければなりません。旧約聖書には神に受け入れられるいけにえについて記されてありますが、それはしみや傷のないものでした。同じように、私たちも神へのささげとしてしみや傷のないものでなければなりません。これこそ深い平安をもって御前に出られる秘訣なのです。

 

どのようにしてキリストの来臨を待ち望んだらいいのでしょうか。第二のことは、主の忍耐は救いであると考えることです。15節の前半のところに、「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」とあります。どういうことでしょうか。このことについては、すでに3章前半のところで述べました。主の再臨の約束を聞いても、ある人たちはなかなか信じられませんでした。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」(3:4)と言ってあざける者たちがいたのです。しかし、彼らは見落としていました。当時の世界が水によって、洪水に覆われて滅びたように、いつまでも同じままであるということはありません。主の御前では一日は千年のようであり、千年は一日のようです。時間的な感覚が全く違うだけです。私たちも小さい頃は一日が長く感じられましたが、年をとればとるほど、一日があっという間に過ぎ去って行きます。ですから、主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。それは、ひとりも滅びることがないように、すべての人が救われて真理を知るようになるために、主が忍耐しておられるからなのです。ペテロはそのことをここで繰り返して語っているのです。

 

考えてみると、私たちも救われるまでには随分時間がかかったのではないでしょうか。すぐに信じたという人もいるでしょうが、中にはかなり葛藤しながら、激しい抵抗を繰り返して、やっと信じることができたという人もいます。いろいろなパターンがあります。それでも主は私たちが救われるために忍耐してくださいました。私たちが悔い改めて、主に立ち返ることができるように忍耐して待っていてくださいました。だから私たちは救われて、今こうして主を賛美し礼拝することができるのです。もし10を数えるまで決断しなければ救われないと言われたら、信じられなかったかもしれません。私たちが救われたのは主のあわれみと忍耐によるのです。このことを覚えておくようにというのです。なぜなら、このことを覚えることで、私たちも主と同じ思いを持つことができるからです。すなわち、主がまだ再臨しておられないのは忍耐しておられるからであって、主はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。このように主の忍耐は人々の救いのためであることを覚え、私たちも忍耐をもって福音宣教に励まなければなりません。

 

15節の後半と16節をご覧ください。この主の再臨を確証するものとしてペテロは、パウロの手紙を示し、パウロもこのことを語っていると述べています。「このこと」とは何でしょうか。主の再臨のことです。今ペテロが書き送っている人たちはポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビデニヤといった小アジヤ地方の教会の人たちですが、ここはかつてパウロが伝道した地でもありました。主が再臨するということはそのパウロも語っていたことであり正しい教えなのです。それなのに、中には聖書の教えを曲解して、自分自身に滅びを招くような人たちがいました。どういう人たちですか。16節には「無知な、心の定まらない人たち」とあります。「無知」とは、聖書の知識が無い人のことで、「心の定まらない人」とは、知識はあっても心の迷いやすい人、霊的に不安定な人のことを指しています。彼らは聖書の文脈を無視して、自分たちに都合がいいように解釈していました。ペテロはここで、「その中には理解しにくいところがあります」と言っています。聖書の中には確かに理解しにくいところもあります。たとえば、前回お話しした携挙の教えなどはそうでしょう。イエス様が来臨される時、イエス様を信じている人は死んだ人も生きている人も一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになるという約束です。これはなかなか信じにくいことです。しかし、聖書はそのように約束しておられます。なぜなら、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)

これが神の約束です。現実的には考えられないことですが、神はこのように約束してくださいました。それなのに彼らはそんなことが起こるはずがないと言って否定し、自分自身に滅びを招くようなことをしていたのです。

 

また、パウロが神の恵みと、信仰による義を強調するために、「罪が増し加わるところに、恵みがあふれる」(ローマ5:20-21)と言いましたが、彼らはその言葉も曲解して、「ああ、パウロはもっと罪を犯すべきだと言っている」と非難したり、「何をしても許されるんだからもっと罪を犯してもいいんだ」と、それを口実にして好きな勝手なことをしいる者たちもいました。とんでもないことです。

 

確かに聖書は理解しにくいところはありますが、そうした箇所を曲解して、自分自身に滅びを招くようなことがないように注意すべきです。このようにして主を待ち望まなければなりません。

 

Ⅱ.自分自身の堅実さを失わないように(17)

 

第二のことは、自分自身の堅実さを失わないように、よく気をつけなさいということです。17節をご覧ください。

「ですから。愛する者たち。あなたがたは前もってわかっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。」

ペテロはここで、こうした不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失うことがないようによく気をつけなさいと、警告しています。自分自身の堅実さを失わないようにとはどういうことでしょうか。ペテロはここで、救いを失わないようにと言っているのではありません。本当に救われたのであれば救いを失うことはありません。ヨハネの福音書10章28節には次のようにあります。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」

ですから、イエス様を信じて永遠のいのちを与えられた者は、決してそれを失うことはないのです。では堅実さを失うことがないようにとはどういうことでしょうか。それは、信仰に堅く立たなくなってしまうことがないようにということです。悪い曲がった教えを聞くとだんだんそうなってしまいます。ちょうど私たちの健康と同じです。いつもジャンクフードばかり食べていると体は維持しているようでも、体の中は確実に蝕まれていきます。不健康になって体全体が弱くなってしまうのです。それは霊的にも言えることで、曲がった教えを聞き続けていると、やがて不健康になっていきます。主を求めているようでも的がはずれていたり、信仰が弱くなってしまうことがあるのです。自分では主に従っているようでも実際には自分のため、自分の欲望に従って生きているということがあるのです。信仰が形骸化し、救いの確信を失ってしまうこともあります。罪が赦されているということさえ忘れてしまう。救われているはずなのに、救われていないような生き方をしていることがあるのです。

 

だからペテロは偽預言者に気をつけるようにと警告したのです。私たちが人に惑わされないために何が必要でしょうか。真理のことばである神のみことばを聞き、そこにしっかりと立ち続けることです。神のことばが私たちを救い、私たちを成長させます。だから神のことばにしっかりととどまり続けなければなりません。神のことばにとどまることによって、聖なる生き方をする敬虔な人になることができるからです。いつ主が戻って来てもいいように、平安のうちに御前に出ることができるのです。

 

Ⅲ.主イエスの恵みと知識において成長しなさい(18)

 

最後に、18節をご覧ください。

「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。」

 

この手紙におけるペテロの最後の勧めは、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」ということでした。これが、ペテロが伝えたかったメッセージです。彼はもうすぐこの世を去って主のみもとに行くことを知っていました。そんな彼が心配していたことは自分のことではなく、彼が去って行った後で教会の中に凶暴な狼が入り込み、人々を惑わすことでした。どうしたらそうした者たちに惑わされないで、信仰に堅く立ち続けることができるのでしょうか。それはイエス・キリストの恵みと知識において成長することによってです。

 

ペテロはまずイエス・キリストの恵みにおいて成長しなさいと言っています。恵みにおいて成長するとはどういうことでしょうか。恵みとは、受けるに値しない者がただ受けることです。神は恵み深い方ですから、すべてのものをただで私たちに与えてくださいました。何を与えてくださったでしょうか。

 

まず神は私たちすべての人に自然の恵みを与えてくださいました。神は良い人にも悪い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます。もし太陽が上らなかったらどうなるでしょうか。もし雨が降らなかったらどうなるでしょう。植物は成長せずやがて枯れてしまいます。それは植物だけでなく動物も、私たち人間にも言えることです。生きていくことさえできなくなります。いのちあるものはすべて自然の恵みを受けて生きているのであって、これがなかったら生きていくことはできません。

 

そればかりでなく、神は特別な恵みを与えてくださいました。それが救いの恵みです。罪のゆえに神にさばかれても仕方ないような私たちが、そのさばきを受けないようにとご自分の御子をこの世に遣わし、この方が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、この方を信じる者はだれもさばかれることがないようにしてくださいました。これが聖書の言う救いです。私たちの人生にはいろいろな救いがありますね。金魚すくいからどじょうすくい、エビすくいやカニすくいまでいろいろあります。病気が癒されること、貧乏からの解放、人間関係のトラブルの解決など、本当にいろいろな問題がありますが、聖書のいう救いとは、それらすべての苦しみの根源である罪からの救いです。それは私たちが何かをしたからではありません。私たちがいい人だからでもないのです。真面目に生きたからでもないのです。神が私たちを愛し、私たちの罪のためにご自身の御子を遣わし、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださることによって、その救いの御業を成し遂げてくださいました。私たちはその神の御業を信じるだけで救われました。これが恵みです。私たちは罪の中に死んでいたのですから、自分では何もすることができません。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪の中に死んでいた私たちを、キリストともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。

 

ですから、あなたが過去の罪を帳消しにするために何かをしなければならないということはありません。あなたの過去の罪が、いや過去の罪だけでなく現在の罪も、またこれから犯すであろう罪もすべて赦されるのは、神がしてくださったこの贖いの御業を信じることによってなのです。イエス・キリストをあなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたは救われるのです。

 

これは恵みではないでしょうか。この神の恵みがすべての人に提供されています。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)

この救いはすべての人に提供されています。しかし、それはすべての人が自動的に救われるということではありません。クリスチャンホームに育ったから救われるとか、教会に行ったことがあるから救われるというのでもはないのです。教会と何らかの関係を持っていれば救われるというのでもありません。イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じる人だけが救われます。ですから、イエス様を救い主として信じた人はみな罪が赦されたのです。

 

しかし、神の恵みはこれだけではありません。神の恵みは、このように信じて救われた者が、霊的に成長していく上でももたらされます。救われるのは神の恵みによりますが、霊的に成長するのも神の恵みによるのです。それはちょうど畑の中に種が蒔かれるようなものです。畑の中に蒔かれた種は自然の恵みの中で成長していくように、私たちもキリストの中にいるなら霊的に成長し続け、多くの実を結ぶことができるのです。

 

イエス様はこのことをぶどうの木のたとえで説明してくださいました。ヨハネ15:4~5をご覧ください。

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

 

キリストを離れては何もすることができません。恵みを離れては成長することはできないのです。しかし、キリストにとどまるなら多くの実を結びます。この方は恵みとまことに満ちた方です。あなたが実を結ぶことができるようにと、神がこの方に接ぎ木してくださいました。ですから、この方から離れては実を結ぶことはできないのです。実を結ぶためにはこの方にとどまっていなければなりません。「私は信じます」と言ってもこの方から離れてしまうと、せっかく実を結ぶことができるように神が接ぎ木してくださったのに、実を結ぶことができなくなってしまいます。実を結ぶ方法はたった一つ、それはキリストにとどまっていることです。私はよく質問を受けることがあります。それは、「こんな私でも成長しますか」です。答えはYes!です。あなたがキリストにとどまるなら、キリストがあなたを成長させてくださるからです。

 

私たちがキリストを信じた時神の子とされ、神の性質が種となって与えられました。種は成長していきます。ですから、私たちもキリストにとどまるなら霊的に成長していきます。私たちの性質がキリストの性質に変えられていくのです。

 

私たち夫婦は、よく「似てますね」と言われることがあります。えっ、ウソでしょ。顔は似てないし、性格も行動も全然違います。私がうさぎなら家内は亀です。こんな二人ですからどう見ても似てるはずがないのですが、「似てますね」と言われることがあるのです。何が似ているのかなぁと冷静に考えてみてもやはり似てないのです。それでも似ているところがあるとしたら考え方ではないかと思います。いつも一緒にいて同じ価値観を共有し、同じ目標に向かって歩んでいるうちに、いつの間にか似た者同士になっていくのです。

これはイエス様との関係においても同じです。いつもキリストにとどまり、キリストと交わることで、キリストに似た者に造り変えられていくのです。これがクリスチャンの門表です。

 

そして霊的に成長していくと行いも少しずつ聖められていきます。悪から離れ、道徳的にきよくされ、謙遜にされていきます。神の恵みを知れば知るほど自分の罪深さを知るからです。それまでは自分ほどいい人はいないと思っていたのに、自分ほど謙遜な人はいないと高ぶっていたのに、神の恵みを知れば知るほど神の前にへりくだるようになり、他の人を自分よりもすぐれた者と思うようになります。その結果、人間関係も平和になっていきます。

 

さらに恵みによって忍耐力も身についていきます。キリストを知るまではすぐに怒っていました。自分の気に入らないことがあるとすぐに雷のように怒っていたのに、キリストを知れば知るほどだんだんキリストの性質に変えられていくので柔和になっていきます。試練が来てもそれを耐え忍ぶようになるのです。また恵みによって今まで許せなかった人も許すことができるようになるのです。

 

このように、キリストにとどまるなら霊的に成長し、キリストの性質へとだんだん変えられていきます。すべては神の恵みです。私たちは神の恵みによって救われ、恵みによって成長し、神の恵みによって変えられていくのです。

 

ペテロはこの神について何と言ったかを思い出してください。Ⅰペテロ5章10節で、彼はこう言いました。

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招いてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」

みなさん、神はどのような方ですか?神はあらゆる恵みに満ちた方です。すなわち、あなたがたをキリストにあって選び、その永遠の栄光の中に招き入れてくださった方です。その神が、しばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。不動の者としてくださるというのは、霊的大人にしてくださるということです。神は私たちをどのように霊的大人にしてくださるのでしょうか。しばらくの苦しみを通った後です。試練を通してです。苦難を通され、その後で回復させられることによって、私たちの信仰が強くされていきます。その結果、信仰に堅く立つことができるようになるのです。試練が来ると揺らぎそうになりますが、自分がどこに属しているかがはっきりわかるので、もっと神に信頼するようになります。問題が起こらないと、私たちは自分でやれると思ってしまいます。でも問題が来ると自分ではどうしようもないということがわかるので、しっかりと信仰に立とうとします。試練は私たちを弱くするのではなく、逆に私たちを強くします。そして恵みによって不動の者としてくださいます。あらゆる恵みに満ちた神がそのようにしてくださいます。これが聖書の約束です。台風が来ると木がしっかりと根を張るように、私たちの人生に試練が来ると、しっかりとキリストに根を張ることができるようになるのです。

 

先日、中国からOさんのお母さんとお友達が来て一緒に食事をしました。その中で中国の教会の話題となったとき、最近の指導者の体制によって中国の家の教会が厳しい統制に敷かれますねと言うと、彼らは口をそろえて言いました。「いいえ、それは感謝なことです。そのような苦難が私たちの信仰を強くします。もし家の教会が分散しても、私たちはもっと神様に祈ります。そして、いつそうなってもいいように準備しています。」

まさにこのみことばを生きているのです。問題があるから不平不満を言うのではなく、その問題が自分たちを強めると信じて、神に感謝しているのです。同じ問題でも一方ではつぶやき、一方では感謝する。この違いはどこから来るのでしょうか。神のみことばへの信頼です。彼らはただ単純にみことばを信じ、それを自分の生活の中に適用しているのです。

そういえば、2年前に私たちが家の教会を訪れた時、どの家の集会も2時間位の内容でしたが、そのうちの1時間半は、一人15分くらいのみことばの証でした。それが6人で1時間半です。あとは賛美と祈りが30分、全体で2時間の集会でした。次から次にみことばを証する人がいます。「事前にだれが証するか決まっているのですか」と聞くと、全然決まっていないと言います。みんな単純にみことばを生きているだけです。

たとえば、このときもOさんのお母さんはご病気で、1月に入院して退院したばかりなので日本に来るかどうか悩んだそうですが、このみことばが与えられたので全く心配していないと言いました。

「そういうわけで、肉体にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」(Ⅱコリント5:9)

すごい信仰です。自分のいのちも、健康も、すべて主にゆだねきっています。もしそれで死ぬようなことがあったとしてもそれもまた益だというのですから。ですから、あらゆる恵みに満ちた神が、私たちをしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださるとみことばにあるので、そのように受け止め、心配しません。すべてを神にゆだねるのです。

 

皆さん、私たちの神は恵みの神です。あらゆる恵みに満ちた方です。この恵みに満ちた神が、私たちをしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。この神の恵みにおいて成長させていただきましょう。あなたを救いに導いてくださった神は、恵みをもって成長させ、堅く立たせ、不動の者としてくださいます。

 

ペテロはここでもう一つのことを言っています。それは恵みだけでなく知識においても成長もしなさいということです。知識において成長するはどういうことでしょうか。もちろん、知識とは神のことばである聖書の知識のことです。だれか有名な先生の本を通してキリストの知識を得るのではありません。そんなことをしたら、その人が考えるキリスト像になってしまい、聖書そのものが教えるキリスト像ではなくなってしまいます。ですから、キリストについての正しい知識を聖書から得なければなりません。

 

どうやったら得ることができるのでしょうか。聖書の言う「知る」というのは、個人的にそれを深く体験することです。頭だけで知る知識ではなく、心の中で個人的な体験としてイエス・キリストを知ることです。先ほどお話しした中国のクリスチャンたちのように、みことばに生きることです。与えられたみことばを、祈りを通して自分の生活にどのように適用できるのかを思いめぐらし、それを実践するのです。そのようにして神との交わりが深められていきますと体験としてキリストを知ることができます。そしてこのようにしてキリストを知れば知るほど、霊的に健全に成長していくことができます。

 

ペテロは、キリストの恵みと知識において成長しなさい、と言いました。霊的に成長することが、私たちが偽りの教えや道徳的に堕落することから守ってくれます。そうでないと倒れてしまいます。それはちょうど自転車のようです。自転車は前に進んでいる時は倒れませんが、止まったら倒れてしまいます。これは霊的にも同じことで、私たちはキリストの恵みと知識において成長し続けなければなりません。そうでないと倒れてしまいます。ずっとそこに立っていることができなくなるばかりか、後退することになってしまうからです。キリストにとどまり、キリストのことばに聞き従うなら、確実に成長していきます。なぜなら、これは神の恵みによるからです。あなたの努力によってできなく、神の恵みによって神が成長させてくださいます。

 

あなたは成長していますか。成長したいと願っていますか。どこか自分の中でブレーキをかけていることはないでしょうか。自分はこのままでいいと、開き直っていませんか。そこに立ち止まっていると結局倒れてしまいます。あなたに求められていることは成長することなのです。キリストの恵みと知識において成長しなさい。

 

この手紙を書いたペテロも結構失敗しました。しかし、神の恵みにとどまることによって神の赦しを体験し、最後までキリストに従い通すことができました。私たちも神の恵みによって成長させていただきましょう。そして、このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまであるように祈りましょう。

ヨシュア記22章

きょうは、ヨシュア記22章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

Ⅰ.同胞を捨てず(1-9)

 

「そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、彼らに言った。「あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに命じたことを、ことごとく守り、また私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。」今日まで、この長い間、あなたがたの同胞を捨てず、あなたがたの神、主の戒め、命令を守ってきた。今すでに、あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞に約束したように、彼らに安住を許された。今、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川の向こう側の所有地、あなたがたの天幕に引き返して行きなさい。ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行ない、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。ヨシュアは彼らを祝福して去らせたので、彼らは自分たちの天幕に行った。・マナセの半部族には、モーセがすでにバシャンに所有地を与えていたが、他の半部族には、ヨシュアはヨルダン川のこちら側、西のほうで、彼らの同胞といっしょに所有地を与えた。・・さらに、ヨシュアは彼らを天幕に送り返すとき、彼らを祝福して、次のように彼らに言った。「あなたがたは多くの財宝と、おびただしい数の家畜と、銀、金、青銅、鉄、および多くの衣服とを持って天幕に帰りなさい。敵からの分捕り物はあなたがたの同胞と分け合いなさい。」それでルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるシロでイスラエル人と別れ、モーセを通して示された主の命令によって、彼らが得た自分の所有地、ギルアデの地へ行くために帰って行った。」

 

前章のところで、ヨシュアはすべての部族に占領した土地の割り当てを行ない、また、のがれの町と、レビ人の町々を定め、すべての仕事を終えました。そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、彼らに言いました。それが2節から5節までに記されてある内容です。彼らはヨルダンの東側に相続地がすでに与えられていました。ですから、人間的に考えるなら、わざわざ戦いに出て行く必要はなかったわけです。しかし、モーセは、ヨルダン川を渡る前に、これら2部族と半部族に、妻子と家畜を残し、成年男子の勇士たちはともにヨルダン川を渡って戦いに参加するように命じました。そして、すべての戦いが終わり安住することができるようになったら、自分たちの所有地に戻りなさい、と言いました。彼らはその命令を最後まで守り通しました。そのことに対してヨシュアはここで、その働きの功績に対してねぎらいのことばを語っているのです。ヨシュアはヨルダンの東側の土地が割り当てられていた彼らが、モーセの命令を守り、わざわざ川を渡ってまで、同胞イスラエルを助けるために労を惜しまなかったことに対して、深く感謝しました。そして多くの財宝とともに彼らを祝福して去らせたので、彼らは自分たちの天幕へと帰って行きました。

 

パウロはピリピ人への手紙の中でテモテの働きについてこう言っています。

「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。」(ピリピ2:20-22)

自分のことを考えれば、人はばらばらになります。けれども、キリスト・イエスを求めるときに、自分を無にして、他の人々のことを考えることができるようになり、そこで思いを一つにすることができるようになるのです。私たちに求められているのは、このキリスト・イエスを求めることです。キリスト・イエスを求めることで一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしなければなりません。

 

Ⅱ.戦いの危機(10-20)

 

次に10節から20節までをご覧ください。ルベン人、ガド人、そしてマナセの半部族がヨルダンの東側の自分たちの領地に帰って行ったとき、ある一つの事件が起こります。まず、10節から12節までをご覧ください。

「ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは、大きくて、遠くから見える祭壇であった。イスラエル人はこういううわさを聞いた。「ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族が、カナンの地の国境、ヨルダン川のほとりの地、イスラエル人に属する側で、一つの祭壇を築いた。」イスラエル人がそれを聞いたとき、イスラエル人の全会衆は、シロに集まり、彼らといくさをするために上って行こうとした。

ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築きました。しかもそれは大きな祭壇で、遠くからも見えるものでした。いったいなぜ彼らはヨルダン川のほとりにそんなに大きな祭壇を築いたのでしょうか。またそのことがなぜイスラエル民族に戦いをもたらす程の重大な事だったのでしょうか。

 

13節から20節までをご覧ください。

「それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせた。これらはみな、イスラエルの分団の中で、父祖の家のかしらであった。彼らはギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに行き、彼らに告げて言った。「主の全会衆はこう言っている。『この反逆は何か。あなたがたはきょう、主に従うことをやめて、イスラエルの神に反逆し、自分のために祭壇を築いて、きょう、主に反逆している。』ペオルで犯した不義は、私たちにとって小さなことだろうか。私たちは今日まで、自分たちの身をきよめていない。そのために、神罰が主の会衆の上に下ったのだ。あなたがたは、きょう、主に従うことをやめようとしている。あなたがたは、きょう、主に反逆しようとしている。あす、主はイスラエルの全会衆に向かって怒られるだろう。もしもあなたがたの所有地がきよくないのなら、主の幕屋の立つ主の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。私たちの神、主の祭壇のほかに、自分たちのために祭壇を築いて、主に反逆してはならない。また私たちに反逆してはならない。ゼラフの子アカンが、聖絶のもののことで罪を犯し、イスラエルの全会衆の上に御怒りが下ったではないか。彼の不義によって死んだ者は彼ひとりではなかった。」

 

ここにはなぜ他のイスラエルの部族がそれを問題にしたのかが記されています。それはヨルダンの東側のイスラエル人たち、すなわち、ルベン族、ガド族、マナセの半部族が、シロにある幕屋の祭壇ではない祭壇をつくり、自分たちで勝手に、イスラエルの神ではない異なる神にささげものをしようとしていると思ったからです。イスラエル人たちは、自分たちの中に罪があれば、大変なことになることを知っていました。それは彼らだけの問題ではなく自分たちの問題でもあり、イスラエル全体に影響を及ぼすものであると理解していました。だから、彼らが主に背いて罪を犯すなら、彼らと戦わなければいけないと思ったのです。それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせました。

 

イスラエル人の偉大さは、そのことを聞いたとき、シロに集まって、ルベン族、ガド族、マナセの半部族と戦うために上って行こうとしましたがすぐに上って行ったのではなく、その事実関係を確かめることから始めたことです。彼らはまずその調査団をギレアデの地に派遣しました。その団長はピネハスという人物でしたが、彼は信仰的にも人格的にも大変優れた人物であって、常に神様のみこころを求めていた人でした。私たちは人のうわさ話によってすぐに翻弄されてしまいものですがこうして事実関係を調べ、事実関係をしっかりとつかむことは極めて重要なこととです。

 

そのピネハスを団長にイスラエルの10の部族からひとりずつ、全部で十人の族長とギルアデの地の彼らのところに出かけて行くと、彼らはルベン族、ガド族、マナセの半部族の人たちに、自分たちが危惧していたことを告げました。それはイスラエルの神に対して不信の罪を犯すことであり、主に反逆していることだと。なぜこのことが不信の罪を犯すことなのでしょうか。なぜなら、レビ記17章8節、9にこう書いてあるからです。

「イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、全焼か、または、ほかのいけにえをささげ、それを主にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られる。」

シロにおける主の幕屋の祭壇以外のところでいけにえをささげるなら、その人は断ち切られる、つまり神にさばかれる、ということです。神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝すべきであって、どこで礼拝するかは関係ありません。しかし、神は礼拝する時と場所を定めておられるのです。それを無視し自分の気持ちや感情で好き勝手に礼拝をささげることは、神が喜ばれることではありません。そのようなことは不信の罪を犯すことであり、主に反逆することなのです。そうなれば、彼らだけでなく、イスラエル全体に神罰が下ることになるというのです。

 

彼らはそのようなことをかつて経験していました。17節をご覧ください。ここに、「ペオルで犯した不義」とあります。なんですか、ペオルで犯した不義とは?これはイスラエルの民が荒野で放浪していた時に、モアブの地のペオルで、バアル礼拝を始めたことを指しています。(民数記25:1-9)彼らは偽りの預言者バラムの策略によってモアブの娘たちとみだらな行為をしたことで彼らが慕っていたバアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りガイスラエルに対して燃え上がり、偶像礼拝に陥った者たち2万4千人が神罰で死にました。それと同じことにならないように、主に反逆してはならないと言ったのです。

 

そればかりではありません。20節には、ゼラフの子アカンが、聖絶のもののことで罪を犯し(ヨシュア7:1)、イスラエルの全会衆の上に神の怒りが下ったことを示し、それが彼だけでなくイスラエル全体に影響を及ぼしたように、自分たちにも影響が及ぶことを懸念しています。

 

それなのに、ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、なぜこのように大きな祭壇を築いたのでしょうか。21節から29節までをご覧ください。ここで彼ららがなぜそのようにしたのか理由が記されてあります。

 

「すると、ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族は、イスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。「神の神、主。神の神、主は、これをご存じです。イスラエルもこれを知るように。もしこれが主への反逆や、不信の罪をもってなされたのなら、きょう、あなたは私たちを救わないでください。」私たちが祭壇を築いたことが、主に従うことをやめることであり、また、それはその上で全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげるためであり、あるいはまた、その上で和解のいけにえをささげるためであったのなら、主ご自身が私たちを責めてくださるように。しかし、事実、私たちがこのことをしたのは、次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに次のように言うかもしれないと思いました。「あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか。主はヨルダン川を、私たちとあなたがた、ルベン族、ガド族との間の境界とされた。あなたがたは主の中に分け前を持っていない。」こうして、あなたがたの子らが私たちの子らに、主を恐れることをやめさせるかもしれません。それで、私たちは言いました。「さあ、私たちは自分たちのために、祭壇を築こう。全焼のいけにえのためではなく、またほかのいけにえのためでもない。ただ私たちとあなたがたとの間、また私たちの後の世代との間の証拠とし、私たちが、全焼のいけにえとほかのいけにえと和解のいけにえをささげて、主の前で、主の奉仕をするためである。こうすれば、後になって、あなたがたの子らは私たちの子らに、『あなたがたは主の中に分け前を持っていない。』とは言わないであろう。」また私たちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫に、そのようなことが言われたとしても、そのとき、私たちはこう言うことができる。「私たちの先祖が造った主の祭壇の型を見よ。これは全焼のいけにえのためでもなく、またほかのいけにえのためでもなく、これは私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ。」私たちが、主の幕屋の前にある私たちの神、主の祭壇のほかに、全焼のいけにえや、穀物のささげ物や、他のいけにえをささげる祭壇を築いて、きょう、主に反逆し、主に従うことをやめるなど、絶対にそんなことはありません。」

 

彼らが大きな祭壇を築いたのは、あることを恐れたからです。それは、後になって、ヨルダン川の西側の子孫たちが東側の子孫たちに対して、「あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか」と言って、主を恐れることをやめさせるかもしれないと思ったからです。つまり、彼らが祭壇を築いたのは、ヨルダンの東側に住んでいるために、将来自分たちの子孫がイスラエルの同胞であることを忘れ去られ、除外されるかもしれないという恐れからであり、そういうことがないように、イスラエル民族の一員であるという連帯のしるしを示そうと思ったからだったのです。だから、この祭壇は自分たちがヨルダンの西側のイスラエル民族と一つであることの象徴であって、決してそこでシロの祭壇と同様の宗教儀式を行うためではありませんでした。東側の人たちにとっては自分たちが善意で良いことだと思ってしたことが、思いもかけず、西側の人々の誤解を受け、危うく戦いに発展するところでした。

 

私たちも、時として、全く善意でしたことが思わぬ悲劇をもたらすことがあります。善意や好意でよかれと思ってしたことが、かえって仇となり悪い結果を生じさせてしまう場合があるのです。その根底にはやはり彼らの中に少なからずうしろめたさがあったことは否めません。彼らが住んでいたヨルダンの東側は放牧地として最適の地でした。多くの家畜を飼っていた彼らにとって、その地は都合のよい場所であり、是が非でも手に入れたい場所でした。一方、ヨルダンの西側のカナンの地は、山間部が多く放牧には適していませんでした。そこで彼らはモーセに頼み込み、半ば奪い取るようにしてその地を受けたのです。つまり、彼らは自分たちの勝手な願い、肉的な願望によって、神に従うよりも、自分たちの願いを優先したことで、その後ろめたさが不安を呼び起こし、もしかしたら自分たちはイスラエルの選民からも除外されるのではないかという恐れを抱いていたのです。

 

私たちも自分の肉的な思いから自分を優先してしまい、その結果、不安と恐れにさいなまれることがありますが、忘れてならないことは、主なる神はそのような失敗をも益に変えてくださるということです。主の十字架の出来事がそのことを物語っています。神のひとり子が十字架で死なれるという出来事は、この人類の歴史の中で最悪の出来事でした。しかし、神はその最悪の出来事を通して、人類に救いをもたらしてくださいました。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださるのです。(ローマ8:28)

 

ですから、私たちは自らの罪のゆえに、また弱さのゆえに、時として間違った行動を起こし、誤った選択をし、そんな中で翻弄されて悩み苦しむことがありますが、この十字架のみもとに行く時に、神はそのすべてのことを働かせて益としてくださるのです。確かに、私たちの肉的な選択や人間的な決断は、苦しみをもたらすことがありますが、しかし、神はそれだけで終わらないで、やがて大きな祝福へと変えてくださるのです。だから、全く善意でしたことが思わぬ悲劇をもたらすことがあっても、神はそれさえも益に変えてくださると信じて、神に信頼して歩み続けることが大切なのです。

 

Ⅲ.神をほめたたえたイスラエル(30-34)

 

「祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。そしてエルアザルの子の祭司ピネハスは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族に言った。「きょう、私たちは、主が私たちの中におられるということを知った。あなたがたが主に対してこの罪を犯さなかったからである。あなたがたは、今、イスラエル人を、主の手から救い出したのだ。」こうして、エルアザルの子の祭司ピネハスと族長たちは、ギルアデのルベン族およびガド族から別れて、カナンの地のイスラエル人のところに帰り、このことを報告した。そこで、イスラエル人は、これに満足した。それでイスラエル人は、神をほめたたえ、ルベン族とガド族の住んでいる地に攻め上って、これを滅ぼそうとは、もはや言わなかった。それでルベン族とガド族は、その祭壇を「まことにこれは、私たちの間で、主が神であるという証拠だ。」と呼んだ。」

 

祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足しました。そして、彼らにこう言いました。

「きょう、私たちは、主が私たちの中におられるということを知った。あなたがたが主に対してこの罪を犯さなかったからである。あなたがたは、今、イスラエル人を、主の手から救い出したのだ。」(31)

主が私たちの中におられる、という言葉はいい言葉ですね。主を愛している者たちの間には、このような誤解や悲劇はよく起こります。意思伝達が上手くいかずに、そこに誤解が生じて互いに対峙したり、敵対したりすることさえあります。けれども、主がその中にいてくださり、主がその会話を導いてくださると信じて、愛と忍耐をもって和解することに努めていきたいものです。

 

こうして、ピネハスとその一行はカナンの地のイスラエル人のところに帰り、このことを報告しました。そこで、イスラエル人はこれに満足し、一つとなって神をほめたたえました。私たちのうちには、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派といった肉の思いがあるために、必ずこのような問題が生じますが、しかし、聖書に書かれてある方法で主にあって語るなら、悪魔に自分の思いをそそのかされることなく、必ず互いに理解し合うことができるだけでなく、そのことを通しても主に栄光を帰することができるのです。

Ⅱペテロ3章10~13節 「新しい天と新しい地」

ペテロの手紙からずっと学んできました。残すところ今回を含めて2回となりました。この第二の手紙でペテロは、教会の中に忍び込んで来た偽教師たちに気を付けるようにと警告してきました。彼らは、イエスが再びこの地上に戻ってくることを否定し、そのように信じている人たちをあざけっていました。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠ったときからこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」と。しかし、彼らは見落としていました。かつてノアの時代に当時の世界が洪水によって滅ぼされたということを。それはかつてだけのことではありません。二度あることは三度あるで、もう一度滅ぼされる時がやって来ます。それが主の日です。今度はかつて水によって滅ぼされるということはありません。今の天と地は、同じみことばによって、火によって焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者のさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。なぜなら、神は私たちに対して忍耐深く、ひとりも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからです。しかし、その日は必ずやって来ます。そして神は、この天と地に代わる新しい天と新しい地とを用意しておられます。そこに私たちを迎え入れようと再び戻ってこられるのです。これが、私たちの人生のゴールでもあります。きょうのところでペテロは、この新しい天と新しい地とをどのように待ち望んだらよいのかを語っています。

 

Ⅰ.主の日がやって来る(10)

 

まず10節をご覧ください。

「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」

 

主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。子供の頃と今とでは時間的な感覚が違うように、主と私たちとでは時間的な感覚が全く違います。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、私たちに対して忍耐深くあられます。私たちの、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めて救われることを望んでおられるのです。9節の「その約束」とは何でしょうか。それは、主が再び来られるという約束です。4節には、「キリストの来臨の約束」とあります。ここに出てくる「主の日」とは、その日のことを指して言われています。キリストは今から二千年前に私たちの罪を贖い、私たちを罪から救うために、旧約聖書の預言のとおりにこの世に来てくださいましたが、そのキリストは、やがて、再び来られると約束されました。使徒1:11には、こう書かれてあります。

「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)

これはイエス様が天に上って行かれた時、それを見ていた弟子たちにふたりの天使が語ったことばです。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、あなたがたが今見たときと同じ有様で、またおいでになります。あなたがたが見たときと同じ有様とはどのような有様ですか。10節には、「雲に包まれて、見えなくなられた」とあります。それと同じ有様で戻って来られるのです。

 

この「主の日」がやって来ることについては、旧約聖書にも何度も預言されていました。たとえば、イザヤ書13章9~12節にはこうあります。

「見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。」

主の日は来るのです。主が最初に来られた時は救いの喜びをもたらすためでしたが、再び来られる時は残酷な日です。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにされます。多くの人が死に絶えていくのです。その数があまりにも多いので、ここには純金よりもまれとし、オフィルよりも少なくするとあります。それほど大きな患難の時がやってくるのです。

 

それはイエス様ご自身も預言しておられたことです。マタイ24章29~30節には、世の終わりの前兆、その苦難に続いて、信じられないことが起こると言われたのです。

「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種類は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。」

何と太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。ペテロがここで言っていることと同じです。そんなことが起こるはずがないじゃないかと思う人もおられるでしょう。考えられないことです。有史以来、ノアの箱舟の話以外、そんな話を聞いたことがありません。でも必ず起こります。なぜなら、それはイエス様のお言葉だからです。イエス様は言われました。

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)

このような日が必ずやって来ます。最近の異常気象を見ても、何だか変だなと感じている方も少なくないでしょう。

 

核戦争や気候変動、環境破壊などによって人類が滅亡する日までの残り時間を象徴する「終末時計」というものがありますが、それによると残り2分半だそうです。これは、米国の科学誌「Bulletin of the Atomic Scientists」が1947年から発表している人類滅亡までの残り時間を象徴的に時計の針で表したものですが、時刻0時0分が人類滅亡のときとされています。その日が刻一刻と近づいています。これまでは、気候変動や一部の国々で核配備が相次いだ2015年に「終末まで残り3分」という数値が設定されていました。今年、「残り2分」にした理由は、世界規模でサイバー攻撃が横行していることや、北朝鮮による核実験、シリアやウクライナ情勢の悪化、世界各地でのナショナリズムの台頭、気候変動による地球温暖化など多岐にわたります。いずれにしも、一般の科学者たちも、その日が近づいていると感じているのです。しかし、その日は科学者たちが考えているものよりもはるかに恐ろしい日です。それは神のさばきがもたらされる日だからです。

 

いったいその日はどのようにしてやってくるのでしょうか。ここには、「盗人のようにやって来ます」とあります。みなさん、盗人はどのようにしてやって来ますか?盗人は予期しないときにやって来ます。来るということがわかっていたらちゃんと用心するでしょう。家中のドアというドアの鍵をしっかりかけて、夜中でも日中のように光るセンサーを取り付けたり、防犯ブザー、防犯カメラを取り付けたりして用心します。しかし、泥棒はいつやってくるかわかりません。突然やって来ます。まさかと思うようなときにやって来るのです。

 

イエス様を信じないに人にとってはまさにそのとおりです。まさかと思うような時に、突然襲いかかるのです。しかし、主を信じる私たちにとっては、盗人のように襲うことはありません。なぜなら、その日が突然やってくるということを知っているからです。いつも聖書を読んで、いつ来てもいいように、目を覚まして用心しているからです。パウロはそのことをⅠテサロニケ5章1~9節のところでこのように言っています。

「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」

 

主の日は、人々が「安全だ。平和だ。」と言っているそのようなときに、突如として襲いかかります。その日は、これまでにないほどの苦難の日です。しかし、キリストを信じた者にとっては救いの日です。なぜなら、キリストを信じないものには神のさばきが下りますが、キリストを信じた者はさばきに会うことがないからです。そのさばきが下る前に天に引き上げられるのです。そのさばきとは永遠の滅びのことではなく、この主の日に襲いかかるさばきのことです。神は、私たちがこの御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになりました。だから、このさばきに会うことはありません。その前に天に引き上げられます。これを空中携挙と言います。昔、古い世界が洪水で滅ぼされる前にエノクが天に引き上げられたように、私たちも天に引き上げられるのです。

 

どのように引き上げられるのかについてパウロは、Ⅰテサロニケ4章16~17節でこう言っています。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。そりからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに空中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。」

まずキリストにあって死んだ人が初めによみがえります。次に生き残っている私たちです。パウロは主が再臨する時まで生きていると思っていたのでしょう。ここで「次に、生き残っている私たち」と言っています。その私たちがたちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられて、空中で主と会うのです。そのとき、地上では大混乱が起こります。それは旧約聖書も、新約聖書も予め告げていた大患難です。

 

「レフト・ビハインド」という映画をご覧になられました。これは、この大患難の様子を描いたものです。ジャンボジェット機の機長をつとめるレイフォード・スティールが、フライト中に操縦室を出ると、そこにはおびえた様子の乗務員ハティーがいました。彼女は突如として機内に起こった異常を語ります。乗っていた多くの乗客が、身につけていたものを残して消えてしまったのです。しかもこの現象は、機内に限らず全世界で起こっていました。宇宙人よる誘拐説など諸説が入り混じる中、それは聖書の黙示録の予言が成就したのだと見抜いた人々もいました。その一人が、ブルース・バーンズという牧師です。彼は牧師でしたが携挙されませんでした。本当に信じていなかったんですね。しかし彼はこの事で自らの信仰を見つめ直し、人々にキリストを信じるよう説くようになりました。一方、妻と息子を携挙で失った機長はブルースと出会い、信仰に生きるようになります。やがて反抗的であった娘も回心し、それ以外でも様々な人々が集い、信仰に目覚めていくというストーリーです。機長らは来るべき患難時代(トリビュレーション)に備え、「トリビュレーション・フォース」を結成しますが、その患難時代を通らなければならないわけです。しかし、キリストを信じた者はその前に天に引き上げられるのでさばきに会うことがないのです。ですから、確かに今は恵みの時、救いの日です。この救いの扉が開かれている間に、救いの箱舟に入らなければなりません。やがて後ろの戸が閉じられる時がやってくるからです。

 

10節をもう一度ご覧ください。ここには、「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」とあります。

天とは大気圏を含む太陽や月、星などのすべてのもののを指しています。また、天の万象とは、すべての物質を構成しているもろもろの要素、素粒子、原子、分子、電子などのことです。新改訳聖書には米印があって、下の欄外注の説明に「諸原素」とありますが、そうした諸々の原素のことです。そのようなものが焼けてくずれ去るのです。古い世界は水で滅ぼされましたが、今の天と地は7節にあるように、火によって滅ぼされるためにとっておかれているのです。これはペテロが言っていることではなく、神のことばであり聖書が、繰り返して語っていることです。

 

たとえば、イザヤ書13章13節には、「それゆえ、私は天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。」とあります。

また、同じイザヤ書34章4節には、「天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」とあります。天の万象はそのように枯れ落ちます。

また黙示録20章11節には、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」とあります。この天地は滅びるのです。しかし、神のことばはとこしえまでも堅く立ちます。決して滅びることはありません。私たちが真に信頼すべきものは、この神のみことばではないでしょうか。この神のことばである聖書が語ることに耳を傾け、イエス・キリストを救い主として受け入れて、その日に備えておくこと、それが私たちに求められていることなのです。

 

Ⅱ.聖い生き方をする敬虔な人に(11-12)

 

では、この「主の日」にどのように備えておいたらいいのでしょうか。11節と12節をご覧ください。ここでペテロは、その主の日に対してどのように備えておけばよいかを述べています。まず11節です。

「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」

 

このように、これらのものはみな、くずれ落ちていきます。何も残りません。地と地のいろいろなわざは焼き尽くされてしまうのです。このようなものに執着した人生はどんなに空しいことでしょう。それは一時的な満足は与えても、永続する満足は与えてくれません。これさえあればと手に入れることができても、すぐに飽きてしまいます。車でも、家具でも、電化製品でも、楽しいのはそれを手に入れるまで、手に入れると、すぐに飽きてしまいます。こうしたものは真の満足は与えてくれません。これらのものはみな、崩れ落ちてしまいます。消え去ってしまいます。では、私たちは何を求めて生きていったらいいのでしょうか。それが聖い生き方をする敬虔な人です。

 

「聖い」ということばは、聖書では「分離された」とか「区別された」という意味があります。神のために分離された人のことです。これまでは自分のために生きていましたが、そうした自分のための生きていた生き方から神のために、神に喜ばれる生き方をすることです。ペテロは第一の手紙の中でもこのように勧めました。

「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」(Ⅰペテロ1:13-15)

「あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」これが聖い人です。以前は主を知りませんでした。本当の恵みとは何であるかがわからなかったんです。だからこの地上のものすべてでした。それを持つことが幸せだと思っていました。しかし、神の恵みを知り、何が最も大切なものであるかを悟り、すべてのものは過ぎ去っていくということを知って、私たちの関心事はこの地上の事ではなく、天の事柄に向けられるようになりました。いつもそこを見上げて歩むようになったのです。

 

ですから、私たちは以前の無知であったときのさまざまな欲望に従って生きるのではなく、あらゆる行いにおいて聖められ、神に喜ばれるような生き方を求めるようになったのです。これが敬虔な人です。敬虔な人というのは、イエス様が歩まれたように歩む人のことです。キリストは自分の栄誉を求めず、父なる神の栄光を求め、神に従って歩まれました。まさにキリストのご生涯は、神の栄光を求める生涯でした。同じように、ペテロはここで、イエス様が歩まれたように、イエス様のように生きていくことを勧めているのです。不思議なことに、イエス様から目を離すと、この地上のこと、毎日の生活のことでいっぱいになってしまいます。ですから、イエス様から目を離さないようにしなければなりません。キリストの心を心とし、キリストのことばを心に豊かに宿らせなければなりません。キリストから目を離さなければ、キリストのように変えられていき、聖い生き方をする敬虔な人になるのです。

 

12節をご覧ください。「そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、その日が来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。」

 

この解釈は難解です。ここには、「その日が来るのを早めなければなりません」とあります。どういう意味でしょうか。その日とは主の日のことであり、主が再び戻って来られる日のことです。それはだれも知りません。それは神だけが知っておられることであって、私たちの知り得る領域ではないからです。それなのに、その日を早めなければならないというのはどういうことなのでしょうか。おそらくペテロはここで、その日を熱心に待ち望むという意味で使っているのでしょう。その日は主を信じない者にとってはさばきの日ですが、主を信じる者らとってはいつまでも主とともにいるようになるという約束が実現するすばらしい日であるからです。

 

神の愛、神の恵みを知った人、キリストのすばらしさを知った人は、この神の国がどんなにすばらしいところであるかを知った人は、それを熱心に待ち望むようになります。イエス様に早く会いたいと思うようになるはずです。決して今の生活が苦しいからではなく、イエス様がすばらしい方なので、早くこの方と会いたいと思うからです。ちょうど、好きな人がいると、その人と会いたいと思うのと同じです。もうすぐY兄とN姉の結婚式がありますが、Y兄はもう待てないという感じです。早く結婚したくて・・。「あら、そんな時もあったわね」と過去を想起しているあなた、その気持ちが大切なのです。そういう相手がいれば、その人と会いたいと思うだけでなく、その人と会うのにふさわしい者になろうと努めるでしょう。できるだけ身を清めようとします。暴飲暴食を慎みます。それまでは豚のようにどんどん食べていたのに、結婚が決まったとたんに食べるのを控えたり、今まで適当に化粧していたのにエステに通ったりして、できるだけ身を整えます。それはキリストの花嫁として、キリストと結婚する私たちも同じです。早くその日が来てほしいと、熱心にそのことを待ち望むようになるのです。ただ熱心に待ち望むだけではなく、そのために喜んで身をきよめようとします。それが聖い生き方をする敬虔な人なのです。

 

キリストを知らない時はそうではありませんでした。いつも適当に、自分自身を汚してしていました。自分の手足を不義の器としてささげ、やりたい放題でした。しかし、イエス・キリストを知ったので、キリストが再び戻ってくるということを知ったので、これを不義のためではなく義のために、強制されてではなく喜んでささげるようになりました。以前のような不義の行いをやめて、神の義を行いたいと願うようになりました。そればかりか、神はすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるので、そのために、少しでもお役に立てるような生き方をしたいと願うようになりました。まだまだ失敗ばかりで、完全な者にはほど遠い者ですが、そのような者になりたいと願うようになったのです。なぜなら、イエス様を知ったからです。イエス様が再び来られる時にもたらされる栄光がどれほどすばらしいものであるかを知ったからです。だから、その日が来るのを待ち望み、それをただひたすら熱心に求めなければなりません。

 

Ⅲ.新しい天と新しい地(13)

 

最後に、13節をご覧ください。

「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」

 

今の天と地は滅びます。これらのものはみな、くずれ落ちるのです。これらのものは神が造られたもので、神はお造りになったすべてのものを見られたとき、「それは非常に良かった」と言われました。しかし、最初の人アダムとエバが罪を犯したことで、この自然界全体に罪の影響が及んでしまいました。それで神は、すべての悪を滅ぼすと言われたのです。

 

しかし、滅ぼすことが目的なのではありません。神はこの古い天と地に代わる新しい天と新しい地とを用意しておられます。これが神の約束です。この神の約束に従って、新しい天と新しい地を用意しておられるのです。それはどのようなところでしょうか。ここには、「正義の住む新しい天と新しい地」とあります。ここには正義が住みます。正義とは何ですか。正義とは神ご自身のことです。神は義なる方です。その神が住まわれるところ、それが新しい天と新しい地です。それは古い天と地のように滅びてしまうものではありません。それは永遠に続く世界です。そのような天と地を用意しておられる。これが永遠の神の約束です。

 

イザヤ書65章17節には、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。」とあります。

また、66章22節には、「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように。主の御告げ。あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」とあります。それはいつまでも続く世界なのです。

また黙示録21章1~5節には、この新しい天と新しい地についてこのように言われています。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」」

 

これが神の約束です。神は、罪によって汚れたこの天と地に代わる新しい天と新しい地をもたらされます。神は、このことを必ずしてくださいます。なぜなら、神は真実な方だからです。真実とは、約束したことを実行するということです。約束してもそれが反故にするとしたら、それは真実とは言えません。しかし、神は真実な方ですから、約束されたことをそのとおりにしてくださいます。ですから、この約束も必ずそのとおりになるのです。この神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地に住むようになるのです。

 

いったいどうしたらこの新しい天と新しい地に住むことができるのでしょうか。そのためには神の義であられるイエス様を信じて、新しく生まれなければなりません。自分でどんなにいい人間だと思っていても、どんなに努力しても、どんなに良いことをしても、完全になることはできないからです。神は全く聖い完全な方なので、私たちがどんなに自分ではいい人間だと思っていても、それだけでは入ることはできないのです。考えてみてください。もし、ここに透き通ったグラスがあり、透き通ったおいしい水があっても、ほんのわずか、塵のようなネズミの糞が入っていたら飲むことができますか。同じように、仮にあなたが99.9パーセント正しくても、残りの0.1パーセントがけがれていたら、神に受け入れられないのです。しかし、イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえってくださったので、あなたがこのイエス様を信じるなら神の子どもとさせていただくことができ、この新しい天と地に入れていただくことができるのです。

 

あなたはどうでしょうか。イエスを信じて義と認められましたか。すべての罪が赦されていますか。どうか神の義、神の救いであられるイエス・キリストを信じてください。そうすれば、あなたもすべての罪が赦され、神の御前に義と認めていただくことができるのです。

この天地は滅びます。これらのものはみな、消えて行きます。しかし、神は新しい天と新しい地を用意してくださいます。イエス・キリストを信じる者はみなこの新しい天と新しい地で神とともに永遠に住むようになるのです。これが、私たちが待ち望んでいる天の故郷です。ここからイエス・キリストがもうすぐ迎えに来られます。その時、あなたは天に引き上げられ、イエス様と会い、いつまでもいるようになるのです。イエス様がいつ来られてもいいように、そのためによく備えておきましょう。イエス様を信じ、イエス様が再び来られるのを熱心に待ち望みましょう。それが新しい天と新しい地を待ち望むクリスチャンの姿なのです。

ヨシュア記21章

きょうは、ヨシュア記21章から学びます。

Ⅰ.執り成すことの大切さ(1-7)

まず1~7節までをご覧ください。「21:1 レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの人々の部族の、一族のかしらたちのところに近寄って来て、21:2 カナンの地のシロで彼らに告げた。「【主】は、住む町と家畜の放牧地を私たちに与えるよう、モーセを通して命じられました。」21:3 イスラエルの子らは【主】の命により、自分たちの相続地から次の町々とその放牧地をレビ人に与えた。21:4 ケハテ人諸氏族のためにくじが引かれた。ユダ部族、シメオン部族、ベニヤミン部族から、くじによって十三の町がレビ人の祭司アロンの子らのものになった。21:5 エフライム部族の諸氏族、ダン部族、マナセの半部族から、くじによって十の町が、残りのケハテ族のものになった。21:6 イッサカル部族の諸氏族、アシェル部族、ナフタリ部族、バシャンのマナセの半部族から、くじによって十三の町がゲルション族のものになった。21:7 ルベン部族、ガド部族、ゼブルン部族から、十二の町がメラリ人の諸氏族のものになった。」

「そのとき」とは、ヨシュアが主の命令に従ってイスラエル人に「のがれの町」を定めるようにと命じたときのことです。そのとき、レビ人の一族のかしらたちが祭司エルアザルとヨシュアのところに来て、ある一つの願い事をしました。その願いというのは、自分たちの住む居住地と家畜を飼うための放牧地を与えてほしいということでした。この要求は民数記35章において、すでにモーセがレビ人たちに与えていた要求に基づくものでした。レビ人はかつてイスラエルが荒野を放浪していた時に、イスラエルの民が不信仰に陥り、金の子牛を作って偶像礼拝した時でもモーセの命令を守り、またモーセに従って決して偶像礼拝に走らなかった民です。その結果、神はこのレビ人を祝福し、祭司をはじめとした聖なる仕事に携わるように選ばれました。それ故レビ人は聖なる部族なのです。したがってこの部族は神から直接に養われるべく相続地を持っていませんでしたが、イスラエルの民への相続地の分割が終わった時に自分たちの居住地と放牧地を与えてほしいと申し出たのです。

このレビ族には大きく分けて、三つの部族がありました。ゲルション族、コハテ族、メラリ族です。これは彼らの父祖レビの三人の子供の名前に由来します。長男がゲルションであり、次男がコハテ、そして三男がメラリでした。これらの三つの氏族に対する領地の分割を見ていくと、6節にゲルション族は13の町を与えられ、コハテ族には23の町が(4-5)、そしてメラリ族には12の町が与えられました(7)。

ところで、レビの長男はゲルションなのに、このゲルションよりも次男のコハテ族の方が先に、しかも多くの領地が与えられていることに気づきます。ゲルションが13の町、メラリ族には12の町しか与えられなかったのに、コハテ族には23もの町が与えられているのです。いったいどうしてコハテ族の方が優遇されたのでしょうか。

その理由については、4節に少しだけ説明されています。それは、彼らがアロンの子孫であったからです。しかし、アロンの子孫であるからというだけで、なぜこのように優遇されたのでしょうか。実はアロンの弟モーセもまたコハテ族であるのに、そのモーセについては何も言及されておらず、ただアロンの子孫であることが強調されているのです。旧約聖書を見るとモーセこそイスラエルをエジプトから救い出し、約束の地に導いた偉大な預言者です。アロンはいつもそのモーセの陰に隠れていてあまり目立たない人物でした。それどころか、アロンは指導者として相応しくない優柔不断な面もありました。そうです、モーセがシナイ山に登り、なかなか降りて来なかった時に、待ちくたびれた民が偶像礼拝に走っていったのにそれを止められなかったばかりか、自分が先頭に立ってそれを導きました。アロンにはそうした弱さがあり目立たない人物であったのに、ここにはモーセのことについては何も触れられておらずただ祭司アロンの出身氏族であったことだけが述べられているのです。これはどういうことでしょうか。それはこのアロンが祭司であったがゆえです。アロンは決して偉大な人物ではありませんでしたが、祭司であったというこのただ1点において、コハテ族が優遇されたのです。いったいこのことはどんなことでしょうか。

そもそも祭司とは何でしょうか。旧約聖書には預言者という人物が出てきます。預言者は神の言葉を語り、民はその言葉を聞いて悔い改めるわけです。それに対して祭司はあまりぱっとしません。むしろ地味で、日常的な人物が祭司です。また祭司は預言者のように民の罪を指摘して悔い改めを迫るということはしません。むしろ神と民との間に立って犠牲をささげ、民のためにとりなして祈るのです。祭司は預言者のような激しさや厳しさはありませんが、にもかかわらず、罪深く弱い私たち人間にとっては、不可欠な仲保者としての役割を持つのです。

コハテ族はこの祭司職であったアロンの直系であったがゆえに、特別に重んじられたのです。そして、この祭司一族は単に居住地を多く受けたというだけでなく、イスラエル12部族によってささげられた生産物の十分の一の、そのまた十分の一を得ることが許されたのです。このアロンの一族は極一握りであったことを考えると、いかに彼らが優遇されていたかがわかります。それは、彼らが神と民との間に立って、それを執り成す務めがゆだねられていたからです。

このことから、執り成すという働きが、私たち人間にとっても、きわめて重要な意味を持っていることがわかります。Ⅰペテロ2章9節には、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」とあります。クリスチャンにはみな、この祭司の務めがゆだねられているのです。私たちをやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるために、神とこの世の人々を執り成すという務めです。とりわけ牧師には、この務めがゆだねられています。牧師には神の言葉を語るという預言者的な側面もありますが、基本的には、神の祭司としてとりなす者でなければなりません。カトリック教会や聖公会では牧師を司祭と呼ぶのは興味深いことだと思います。祭司としての務めを司る者という意味があるのでしょう。それは牧師も同じであり、すべてのクリスチャンにも言えることです。私たちはみな司祭(祭司)なのです。そのすばらしい務めをゆだねられた者として、これを全うしていかなければなりません。

聖書には、イエス・キリストのことが祭司と呼ばれています。へブル人への手紙の中には、「私たちの大祭司」とあります。イエス様は預言的な務めもされましたが、それ以上に大祭司として、私たちのすべての罪を負って十字架で死んでくださいました。ご自分の身も心もすべて犠牲にしてささげ、私たちのためにとりなしてくださったのです。そればかりか、この大祭司であられるイエス様は、今もなお天で私たちのためにとりなしておられます。そのとりなしのゆえに、私たちのすべての罪は赦され、立ち上がり、生きることができるのです。このことのゆえに、私たちも他者のためにとりなす者となっていきたいと思います。ただ口先だけでなく、行動をもって、人々のためにとりなしの業に励もうではありませんか。

Ⅱ.イスラエルの居住地とのがれの町(8-42)

次に、8~42節までをご覧ください。「21:8 イスラエルの子らは、【主】がモーセを通して命じられたとおりに、次の町々とその放牧地をくじによってレビ人に与えた。21:9 ユダ部族、シメオン部族からは次に名を挙げる町を与えた。21:10 これらは、レビ族に属するケハテ人諸氏族の一つ、アロンの子らのものになった。最初のくじが彼らに当たったからである。21:11 彼らにはユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとその周囲の放牧地を与えた。アルバはアナクの父である。21:12 しかし、この町の畑と村々はエフンネの子カレブに、その所有地として与えた。21:13 祭司アロンの子らに与えられたのは、殺人者の逃れの町ヘブロンとその放牧地、リブナとその放牧地、21:14 ヤティルとその放牧地、エシュテモアとその放牧地、21:15 ホロンとその放牧地、デビルとその放牧地、21:16 アインとその放牧地、ユタとその放牧地、ベテ・シェメシュとその放牧地。これら二部族から与えられた九つの町である。21:17 またベニヤミン部族の中からのギブオンとその放牧地、ゲバとその放牧地、21:18 アナトテとその放牧地、アルモンとその放牧地の四つの町である。21:19 アロンの子らである祭司たちの町は、全部で十三の町とその放牧地である。21:20 レビ人であるケハテ人諸氏族に属する、ケハテ人の残りには、エフライム部族から、くじによって次の町々が与えられた。21:21 彼らに与えられたのは、エフライムの山地にある殺人者の逃れの町シェケムとその放牧地、ゲゼルとその放牧地、21:22 キブツァイムとその放牧地、ベテ・ホロンとその放牧地の四つの町。21:23 またダン部族からエルテケとその放牧地、ギベトンとその放牧地、21:24 アヤロンとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の四つの町。21:25 またマナセの半部族からタアナクとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の二つの町。21:26 残りのケハテ族の諸氏族には、全部で十の町とその放牧地が与えられた。21:27 レビ人の諸氏族の一つゲルション族に与えられたのは、マナセの半部族から、殺人者の逃れの町バシャンのゴランとその放牧地、ベエシュテラとその放牧地の二つの町。21:28 またイッサカル部族からキシュヨンとその放牧地、ダベラテとその放牧地、21:29 ヤルムテとその放牧地、エン・ガニムとその放牧地の四つの町。21:30 またアシェル部族からミシュアルとその放牧地、アブドンとその放牧地、21:31 ヘルカテとその放牧地、レホブとその放牧地の四つの町。21:32 またナフタリ部族から、殺人者の逃れの町であるガリラヤのケデシュとその放牧地、ハモテ・ドルとその放牧地、カルタンとその放牧地の三つの町。21:33 ゲルション人の諸氏族の町は、全部で十三の町とその放牧地である。21:34 レビ人の残りのメラリ人諸氏族に与えられたのは、ゼブルン部族から、ヨクネアムとその放牧地、カルタとその放牧地、21:35 またディムナとその放牧地、ナハラルとその放牧地の四つの町。21:36 またルベン部族からベツェルとその放牧地、ヤハツとその放牧地、21:37 ケデモテとその放牧地、メファアテとその放牧地の四つの町。21:38 ガド部族から殺人者の逃れの町、ギルアデのラモテとその放牧地、マハナイムとその放牧地、21:39 ヘシュボンとその放牧地、ヤゼルとその放牧地、これら四つの町すべて。21:40 これらの町はすべて、レビ人の諸氏族の残りの、メラリ族の諸氏族のものであり、くじによって与えられた十二の町である。21:41 イスラエルの子らの所有地の中で、レビ人の町は全部で四十八の町とその放牧地である。21:42 これらの町はそれぞれその周囲に放牧地があった。これらの町はすべてそうであった。」

ここには、1~7節までの記述を受けて、レビ族に対する居住地と放牧地がくじによって与えられたことが列挙されています。彼らの町は一つのところに集まっておらず、それぞれの部族の相続地にまんべんなく散らばっていることがわかります。これを地図で見ると、のがれの町と同じように、イスラエルの土地全体に、広がっているのを見ることができます。また、20章において定められたあの6つののがれの町が、彼らの居住地に置かれていたこともわかります。このことは何を表しているのでしょうか。イスラエル全体に、レビ人たちの霊的奉仕の影響が、まんべんなく広がっていたということです。レビ人たちの霊的奉仕とは何でしょうか。それは、神に仕え、神と人との間の仲介者として、とりなしをすることです。言い換えるならば、彼らの役割は、人々にもう一度やりなおす機会を与えることであり、そのために励ましを与え立ち直らせていくことです。これは単に聖職者であるレビ人だけにゆだねられた務めではなく、私たちの教会にもゆだねられている務めでもあります。イエス・キリストはご自身のからだを通して贖いの御業を成し遂げられました。そしてこの世を罪から救い、この世のさまざまな束縛から解放し、また癒されました。教会はキリストの体としてこのキリストの贖いの御業を継承し、この地上において実現していくという役割が与えられているのです。罪を犯した者、失敗した者、悪魔の手にある者たちをもう一度引き上げて、やり直しさせていくという務めがゆだねられているのです。

Ⅲ.神の約束は一つもたがわずみな実現する(43-45)

最後に、43~45節をご覧ください。「21:43 【主】は、イスラエルの父祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられた。彼らはそれを占領し、そこに住んだ。21:44 【主】は、彼らの父祖たちに誓ったように、周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。すべての敵の中にも、一人として彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。【主】はすべての敵を彼らの手に渡された。21:45 【主】がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した。」

レビ族に対する居住地並びに放牧地の割り当てが成され、これを以って、イスラエルの12部族すべての相続地の割り当てが完了しました。それはかつて主がイスラエルの家に約束されたことであり、主はその約束したとおりのことをしてくださいました。主は、イスラエルに約束したすべての良いことを、一つもたがわずみな実現したのです。これだけを見ると、何もかもめでたし、めでたしであるかのようなイメージがありますが、この後の士師記を見ると、イスラエルのパレスチナの占領は必ずしもこれで終わったわけではなかったことがわかります。イスラエルのカナン人に対する戦いは継続して行われていて、戦いに次ぐ戦いの連続なのです。特に士師記3章を見ると、占領すべき地がまだたくさんあったことが明記されています。ということは、この箇所は、事実に反する記述をしているということなのでしょうか。

そうではありません。確かに、まだ占領すべき地はたくさん残っていましたが、神の側から見ればすべては完了していたということです。つまり、これは事実的描写ではなく、信仰的描写なのです。実際にはまだそうではなくとも、信仰的にはもうすでに完了していたのです。主なる神の側においては、この時点において一切合切その通りに成ったのです。このように、信仰とは実に、この神の側での完成を受け取り、その上で私たちが最大限の努力を成していくことであるということがわかります。時としてそのように努力していく時、事が成就するどころかむしろ逆の方向に進んでいくような場面に遭遇することがあります。神が約束を反故にされたのではないかと思えるような事態に対して、私たちはなぜこうなってしまったのか、主は確かにみことばを通して私に語ってくださったはずではないか、あれはただの思い違いであったのかと悩むことがあります。時にはそのことで不信仰に陥ってしまうことさえあります。実はこの時が肝心です。神は約束してくださったことを必ず実現されますが、時としてそれとはまったく逆の事態に遭遇することがあるのは、それが本当に神のみこころなのかどうかを吟味するためであり、むしろ、そのことをバネにして、さらに大きく飛躍するためでもあるのです。丁度、私たちがジャンプをする前に、一旦、屈むようなものであって、大きくジャンプをしようとすればするほど、身を低くしなければならないのと同じです。

ですから、そうした見せかけの困難に騙されてはならないのです。主が約束されたことは、決して変わることなく、事態がまったく違う方向へ向かって進んでいるように見える場合にも、必ず実現するのです。逆風はより素晴らしい成就に至るために通るべき試練なのです。

大切なのは、神はみことばを通して私たちにどんなことを約束してくださったかということであり、それは必ず実現すると信じることです。困難があるのは、神の御力は私たちが考えているよりもはるかに大きく、高く、広いということを示すためであり、私たちの信仰を取り扱ってくださるためであって、神の側ではもうすでにみな実現していることなのです。主がイスラエルに約束されたすべての良いことは一つもたがわず、みな実現したように、神があなたの人生に約束されたすべての良いことは、一つもたがわずみな実現するのです。私たちの目ではそれとは逆に進んでいる現実を見て落ち込むことがありますが、神の目をもって物事をとらえ、一つもたがわず、みな実現したことを信じて前進させていただきましょう。

Ⅱペテロ3章1~9節 「忍耐深くあられる神」

きょうは、Ⅱペテロ3章前半の箇所から「忍耐深くあられる神」というタイトルでお話します。2章のところでペテロは、教会に忍び込んでいた偽教師たちに気をつけるようにと、彼らの特徴について述べました。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定することさえ、自分たちの身にすみやかな滅びを招いていただけでなく、敬虔な人たち、これは主に従っていたクリスチャンたちのことですが、そういう人たちをも誘惑し、滅びと破滅に導いていました。彼らは理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるので、動物が滅ぼされるように滅ぼされるのです。ですからペテロは、こうした偽教師たちには気をつけるようにと警告したのです。

 

きょうの箇所でペテロは、その偽教師たちが否定していたキリストの再臨について教えています。聖書は至るところで、キリストが再び来られると約束しています。それは私たちクリスチャンの希望でもあります。なぜなら、キリストが再臨される時すべての悪がさばかれ、この地上に本当の平和が訪れるからです。その時、すべての悲しみ、嘆き、叫び、苦しみ、痛み、罪から解放され、本当の自由と平和、喜びがもたらされます。ですから、私たちの真の希望はキリストの再臨にあるのです。

 

しかし、それを否定する者たちがいました。そうです、あの偽教師たちです。彼らはキリストの再臨なんてあるはずがないじゃないかと言って、あからさまに否定していたのです。そこでペテロは彼らの間違いを明らかにするとともに、聖書の約束に堅く立ち続けるようにと読者を励ますのです。

 

Ⅰ.思い起こして(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語っ た、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。」

 

ここにペテロがこの手紙を書き送った目的が書かれてあります。それは、これら手紙によって記憶を呼びさまさせ、彼らの純真な心を奮い立たせることです。「純真な心」とは、誠実な心のことです。正直で、真実で、うそ偽りのない心のことであります。ペテロはこの2勝において、教会の中に偽教師たちが現れて選民をも惑わすようになると警告しました。そして、多くの者が彼らについて行き、その身に滅びを招くよなことをしていた現実を見て、惑わされないようにと警告しました。そのために必要なことは何でしょうか。ここにあるように、思い起させることです。記憶を呼びさまさせて、彼らの純真な心を奮い立たせることです。私たちが惑わされてしまう大きな原因の一つは、忘れてしまうことにあります。人間はすぐに忘れてしまいます。昨日何を食べたかも覚えていません。神の恵みを忘れてしまうことで簡単に偽りの教えに惑わされてしまいます。ですからペテロはここで、そのことを何回も何回も繰り返して伝えることで、彼らに思い起こさせようとしているのです。

 

ペテロは何を思い起こさせているでしょうか。2節をご覧ください。ここには、「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」とあります。「聖なる預言者たちが前もって語ったみことば」とは、旧約聖書のことです。神は、昔、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法で語られました。しかし、彼らは自分たちの考えを語ったのではなく神からのことばを語りました。それゆえに彼らは本物の預言者であり、聖なる預言者でした。

 

また、ここには「あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」とありますが、これは新約聖書のことを指しています。旧約聖書は罪に陥った人類を救うために神が救い主を遣わすという約束が預言されていますが、その預言のとおりに救い主が来られたことを証言したもの、それが新約聖書です。それはナザレのイエスによって実現しました。その救い主の良い知らせはまずイエスご自身によって宣べ伝えられました。イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われました。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

そして、多くの病人をいやされ、悪霊を追い出し、さまざまな問題で苦しんでいた人を解放してあげました。そして、旧約聖書の示すとおりに私たちの罪を負い、私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれました。しかし、三日目に神はこのイエスを死からよみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。この方こそ旧約聖書で約束されていた救い主、メシヤ、キリストであられるからです。神はこの方を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。それゆえ、このイエスを自分の罪からの救い主と信じるなら、だれでも救われるのです。これが良い知らせ、福音です。

 

そしてイエス様は12人の使徒たちを選び、全世界に行ってこの福音を宣べ伝えるようにと命じられました。その命令に従い、使徒たちは出て行ってイエス様が命じたすべてのことを教えました。彼らは自分たちの教えを語ったのではなく、イエス様が教えたことをそのまま教えました。つまり、このイエスが救い主であられるということ、そして、このイエスを信じる者は、だれでも罪の赦しが与えられるということです。そして、もう一つのこと、それは、このイエスは再び戻ってこられるということでした。それは旧約聖書にも書かれてあったことです。旧約聖書にも書いてあり、主イエスご自身も教えられ、使徒たちもそのように教えました。それは聖書の一貫した教えなのです。それなのに、彼らの中にはこのキリストの再臨を否定する者たちがいました。それでペテロは、聖なる預言者によって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令、つまり、聖書は再臨について何と教えているのかを思い起こさせるために、これらの手紙を書いたのです。

 

私たちも忘れてしまうことがあります。もう耳にたこができるほど何回も聞いているはずなのに、いざ人から指摘されると、「あれ、何だったけなぁ」と忘れてしまい、自分の思いに走ってしまうことがあるのです。ですから、私たちは「もう何度も聞いて知っている」と高を括るのではなく、神のことばである聖書は何と言っているのかということをいつも思い起こさなければなりません。

 

Ⅱ.あざける者ども(3-7)

 

次に3節から7節までをご覧ください。3,4節をお読みします。

「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけ り、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこに あるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

ペテロはまず第一に、次のことを知っておきなさいと言っています。それは、終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うことです。「キリストの再臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

どういうことでしょうか?「終わりの日」とは、世の終わりの日のことです。それはキリストがこの地上に来られた時に始まり、再び戻って来られるときまでのことです。その終わりの日が近くなると、キリストの再臨のことをあざける者どもがやって来て言うのです。「そんなのあるはずがないじゃないか。回りを見てごらん。何も変わりがない。ずっと昔から同じじゃないか。何もかわりゃしない。」しかも、それが彼らの中から、教会の中から起こってくるというのです。教会の中に滅びをもたらす異端がひそかに持ち込まれるのです。その一つがキリストの再臨を否定することです。キリストの再臨は聖書の教えであって、クリスチャンの希望です。キリストの再臨を知り、それを待ち望むことでクリスチャンは力が与えられます。どんなに苦しくても、もうすぐ主が戻ってこられると信じていることで慰めが与えられ、励まされるのです。パウロはテサロニケの教会に書き送った手紙の中でこの再臨について述べ、「こういうわけだから、このことばを互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)と言いました。クリスチャンにとっていったい何が慰めのことばなのでしょうか「このことば」です。主が再び戻って来られるということばです。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。」(Ⅰテサロニケ4:16-17)

これが私たちにとって慰めのことばです。もうすぐ主が来られます。そのとき、私たちは霊のからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。これまでのすべての苦しみから解き放たれ、永遠の栄光の中へと入れられるのです。このことばです。

 

しかし、このようなことを語ると、中には「何をたわごとを言って・・」とそれを否定する人たちが起こってくるのです。「そんなことあるはずないじゃないか、昔も今も変わらないし、ずっと同じだ。」と。「見てごらん。何も変わっていないじゃないか」

するとクリスチャンも日々の生活でいっぱいになっていますから、現実に心を奪われて、こうしたあざける者たちに惑われ「や~めた!」となってしまうのです。主のために生きるなんてバカバカしい。そして、だんだん真理から離れていくようになるのです。本当に私たちはこの「現実」という二文字に弱いですね。どんなに信仰を持っていても、現実という二文字の前に、簡単に主から離れてしまう弱さがあるのです。そして、主が戻ってこられることを期待しなくなると、霊的にだんだん弱くなってしまいます。霊的に眠った状態になるのです。何もしなくなります。ただ自分のことだけにとらわれ、この地上のことしか考えられなくなってしまうのです。これがサタンの常套手段なのです。

 

このように、終わりの日が近くなると、あざける者たちがやって来て、キリストが再臨するという教えをあからさまに否定し、人々の関心をこの地上のことだけに向けさせて、希望を奪っていくのです。

 

5節と6節をご覧ください。しかし、彼らがこのように言い張るのは、次のことを見落としているからです。すなわち、「天は古い昔からあり、地は神のことばによって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びましたが、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」どういうことでしょうか?

 

あざける者たちは、昔も、今も、何も変わっていない、創造の初めからずっと同じだと言っていますが、そうじゃない、というのです。彼らは見落としているのか、故意に忘れようとしているのかわかりませんが、ある事実を見落としています。それは、神によって造られた当時の世界は、洪水によって滅ぼされたということです。何のことを言っているんですか。そうです、ノアの箱舟のことです。神はノアの時代に、古い時代を洪水によって滅ぼされました。このことを忘れているというのです。いや、わざと忘れたかのようにして、それを認めようとしないのです。なぜなら、認めると都合が悪いからです。それを認めてしまうと、聖書が預言しているとおりに、将来においても同じように神のさばきがあるということを認めざるを得ないことになるからです。だったら最初から認めればいいのに、認めないで自分たちに都合がいいように主張するので、結局、こうした矛盾が生じ事実を隠すようなことになるのです。

 

つまり、ペテロはここで今の天地は最初のものとは同じでないと言っているのです。かつてノアの時代に当時の世界が洪水で滅びたように、今の天地も、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきの日まで、保たれているのです。昔の世界は水によって滅ぼされましたが、今の天地が水で滅ぼされることはありません。なぜなら、ノアの洪水の時に神は、ノアとその家族に、もはや洪水で滅ぼすことはしないと約束されたからです。その約束のしるしが虹です。神は虹の架け橋をかけて、もう水によっては、この地を滅ぼさないと約束されました。ですから、水によって滅ぼされることはありません。しかし、火によって滅ぼされます。今の天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

 

だから、あざける者どもはキリストの再臨はないと言っていますが、あるのです。その日には火によってすべての悪がさばかれることになります。しかし、神を信じる者たちはさばかれません。なぜなら、キリストが代わりにさばかれ、私たちの悪を取り除いてくださったからです。キリストを信じる者はさばかれることはありません。むしろ、キリストの贖いによって罪が聖められたので、神がとともにいてくださるようになったのです。これこそ私たちの希望であり、慰めです。この希望があるからこそ、私たちはこの地上にさまざまな問題や苦しみがあっても、耐える力が与えられるのです。

 

Ⅲ.忍耐深くあられる神(8-9)

 

ですから、第三に、この一事を見落としてはいけません。この一事とは何でしょうか。8節と9節をご覧ください。8節には、「すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」とあります。

どういうことですか。皆さんは、子供の頃と今とでは時間的な感覚が全然違うように思いませんか。子供の頃は一年がとても長く感じられました。このままずっと子供のままでいるんじゃないかと錯覚を覚えたほどです。しかし、大人になると一日があっという間に終わってしまいます。ついこの前新年が始まったばかりかと思ったら、もう3月でよ。6分の1が終わったんですよ。早いと思いませんか。二十歳の頃は四十のじっさんになるにはまだまだだと思っていたのに、いつの間にか四十なんてとっくり通り過ぎ、人生の4分の3を終えようとしているのです。本当にあっという間です。

 

大人と子供の物事を見る感覚や時間の感覚が全く違うように、私たちと神様との時間の感覚は違います。私たちにとって千年は永遠であるかのような長さですが、神様にとっては一日のように過ぎ去ります。詩篇90篇4節には、「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。」とあるとおりです。神にとって千年は夜回りのひとときにすきません。神は永遠ですから、時間的な枠がないのです。

 

いったいペテロはここで何を言いたいのでしょうか。そうです、キリストの再臨をあざ笑う者たちは、キリストは二千年も前から再び来ると言っているのに来たためしがないじゃないかと言っているが、私たちにとって千年のような時の長さも、神にとってはわずか一日のようでしかない、夜回りのひとときのようでしかないということです。つまり、神はある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではないということです。また、そのことを忘れてしまったのでもありません。神様には神様の時があるのです。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者3:11)とあるとおりです。

 

ではなぜ神はその約束を遅らせておられるのでしょうか?9節をご一緒にお読みしましょう。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

なるほど、主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではないのです。主がその約束を遅らせているのは私たちのためなのです。つまり、神は私たち人間がひとりも滅びることを願わず、すべての人が悔い改めて救われることを望んでおられるからなのです。そのために神は忍耐しておられるのです。

神はいつくしみ深く、あわれみ深い方、怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。(詩篇86:15)しかし、いつまでもというわけではありません。悪に対して正しいさばきを行われるときがやってきます。後ろの戸が閉じられる時が必ずやって来るのです。しかし、今は恵みの時、今は救いの日です。今はその戸が開かれています。神が忍耐して待っておられるからです。神は、ひとりも滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるからです。一部の人だけではありません。すべての人です。すべての人が救われることを望んでおられるのです。すごいですね。神の愛と忍耐は・・。

 

エゼキエル書33章10~11節をご覧ください。

「人の子よ。イスラエルの家に言え。あなたがたはこう言っている。『私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう。』と。彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」

悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。これが神の願いです。イスラエルの人々の中には、自分たちの背きの罪によって潰されそうになっている人々がいました。もう自分は滅びるしかないのだ、と絶望していました。そんな彼らに対して主は、「なぜ絶望しているのか。わたしは決して悪者の死を喜ばない」と言われました。かえって、悔い改めて、生きることを喜ぶと、言われるのです。だから、悔い改めて、悪の道から立ち返りなさい。イスラエルの家よ、なぜあなたがたは死のうとするのか。神が願っておられることは生きることです。悔い改めて、神に立ち返ることなのです。

 

そのために神は愛するひとり子をこの世に与えてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

神はあなたを愛しておられます。と同時に、神は義なる方でもあられます。罪に対してはさばきを下さなければなりません。神はその日を定めておられます。それが終わりの日です。主が再びこの地上に来られるときです。二千年前は私たちを救うために来てくださいましたが、再び来られる時は、この地上のすべての悪をさばくために来られます。その日がなぜ遅れているのでしょうか。それはあなたのためです。ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。かえって忍耐深くあられるからであって、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからなのです。この方を救い主として信じる者は、だれでも救われるのです。

 

あなたはどうですか。この神の救いを受け取られたでしょうか。そのような確信を持っておられますか。もしまだという方がおられたら、どうぞしっかりと受け取ってください。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じてください。そうすれば、あなたのすべての罪は赦されます。人生の土台がぐらぐらと揺れ動いている方がおられますか。その方はどうぞ神のことばにしっかりと立ってください。もしあなたの感情に立つなら、すぐに平安が奪われることになるでしょう。しかし、神のことばはいつまでも変わることがありません。このみことばの上にあなたの人生の土台をしっかりと置いてください。そして、キリストの恵みの中にとどまり続けましょう。もうすぐ主が戻ってこられるからです。確かに、今は恵の時、今は救いの日なのです。