ヤコブ4章1~6節 「なぜ戦いや争いがあるのか」

きょうは、ヤコブの手紙4章から「なぜ戦いや争いがあるのか」というテーマでお話します。

以前、こんな質問を受けたことがあります。それは、どうしてこの世の中から戦争がなくならないのか、という質問です。そして、その方が言うには、世の中にはいろいろな宗教があるから戦争も起こるのではないのかということでした。確かに宗教が原因で戦争が起こったこともあります。

しかし、宗教が原因となった戦争は、ある方々が主張しているほど多くはありません。「Encyclopedia of Wars」という戦争に関する百科事典によると、歴史上には1,763件の戦争が起こりましたが、そのうち宗教的なことが原因で起こった戦争は123件(6.98%)であったとされています。ですから、歴史上の大きな戦争は、宗教とは無関係に起こっているのです。ではいったいどうして戦いや争いがあるのでしょうか。

 

Ⅰ.争いの原因(1-2a)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」

 

「あなたがたの間に」の「あなたがた」とは、この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンのことを指しています。ですから、これは教会の外での争いのことではなく、教会の中での、クリスチャンの間にあった争いのことなのです。彼らはイエス・キリストを信じて救われていました。なのに、そうした彼らの間にも戦いや争いがあったのです。信仰を持ったら争いが無くなるのかというとそうではなく、人が集まるところにはどこででも争いが起こるのです。いったい何が原因でこうした戦いや争いが起こるのでしょうか。

 

ヤコブはここでその原因を次のように言っています。「あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」こうした戦いや争いの原因は私たちの外側にあるのではなく私たちの内側にあるのであって、私たちのからだの中で戦う欲望が原因であるというのです。どういうことでしょうか。

 

2節には、「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」とあります。私たちは他の人がいい生活をしているのを見ると、「ああ、いいなぁ。自分もあんな生活をしてみたいなぁ。」とうらやましく思ったり、自分もそういう生活をしてみたいと思ってもできないと、急にひがんでみたり、ねたんだりするようになります。すると不思議なことに、そういう人を見ると嫌な気持ちになったり、敵対心を抱くようになったりするのです。やがて太刀打ちできないということがわかるとその人がいないところで悪口を言ってみたり、うわさ話をして、その人の評判を落とそうとすることさえあります。つまり、そうした自分の中で戦う欲望が外側に表れて、それが争いや戦いになるのです。

 

私は今でこそあまりありませんが、ちょっと前までは、いい車に乗っている人を見ると、「どうしてあんなにいい車に乗れるのだろうか。」とか、「あの人どういう生活をしているんだろう」と思ったものです。別にいい車に乗りたいとは思わないけれども、そういう生活をしてみたいという思いが働くのでしょう。でも、そんな生活ができるわけがないので結局のところあきらめるわけですが、ただあきらめるだけならいいものを、言わなくてもいいようなことまで言ってしまいます。「意外とああいう車にに乗っている人は見栄を張っているだけで、実際は貧しい人たちだ」とか・・。その人がどんな生活をしようと自分とは関係ないのに、自分の中に戦う欲望が、いろいろな思いを引き起こし、それが戦いや争いとなって現われるのです。

 

でもちょっと待ってください。世の中の人々ならわかりますが、クリスチャンはそういうことはないでしょう。この世の中の人々は神を知っているわけではなく、イエス様を信じているわけでもありませんから、生まれながら肉なる者であり、そのような思いを抱くのは当然かもしれませんが、イエス様を信じて救われた人たちがそのような思いを抱くなんて考えられません。クリスチャンはイエス様を信じて新しく生まれ変わった者であり、キリストのために生きていきたいと願っている者たちであり、そうした欲にも勝利しているのではありませんか。

 

確かに、クリスチャンはイエス様を信じたとき、聖霊によって新しく生まれ変えられました。古い自分はキリストともに十字架につけられたのです。私がいまこの世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。しかし、その一方で、まだ肉の性質が残っているのです。肉というのは自分のことです。自分の思いのままに生きていきたい、自分が願うように、自分の満足のために、自分の喜びのために、自分の、自分のという思い、それが肉の思いです。そうした肉の性質が残っているため、欲に引かれて、おびき寄せられ、誘惑されるのです。

 

たとえば、夫婦のことを考えてみてください。まだ結婚していない方は友人との関係でもいいです。なぜ争いが起こるのでしょうか。自分はこうしたいと思っているのに、相手はそうではないからです。自分の思いや利益と相手の思いや利益が一致しないからです。一致していればこうした問題は起こりません。しかし、誰の利益ともぶつからない欲望などはあり得ないわけですから、自分は、自分はという自分の思いが強ければ強いほど、自分の中に戦いや葛藤が生じてくるのです。そしてそれが戦いや争いとなって外側に現れてくるのです。これはクリスチャンであってもノンクリスチャンであっても同じです。確かにクリスチャンであるなら、自分というのは十字架に付けられたので死んでいるはずですから、本当に死んでいれば自分ではなく御霊が支配しているのでその傾向は少ないはずですが、御霊によってではなく肉によって歩むならノンクリスチャンと全く変わらない生き方となってしまうのです。夫婦や友人関係でもそうなのですから、そういう人たちが何人も集まっている教会の中でこうした戦いや争いが起こることは避けられません。

 

ですから、重要なのは、どうしたらこうした戦いや争いを解決することができるかということです。というのは、キリストを信じて救われたクリスチャンが互いに争ったり、戦ったりするのは、神のみこころではないからです。神のみこころは、私たちが互いに愛し合うことです。ですから私たちは、私たちのからだの中で戦うこの欲望に対して、どうしたら対処することができるのかを学ばなければなりません。

 

Ⅱ.神に願い求める(2b-3)

 

いったいどうしたらこの問題を克服することができるのでしょうか。2節後半から3節までをご覧ください。ここには、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあります。

 

ヤコブはここで、あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからだと言っています。何かをほしいと思い、うらやむのは、その根底に自分があって、自分でそれを手に入れようという思いがあるからです。そこには、「神」は存在していません。したがって、祈ることもないわけです。けれども、神は惜しみなく与えてくださる方です。ですから何かを願うなら、それを神に願い求めなければなりません。神に願って、神に祈って、神により頼むなら、神が与えてくださいます。あなたがたのからだの中で戦う欲望の解決は、まずあなたが神に向かい、神に祈り、神にすべてをゆだねることから始まります。

 

イエス様はマタイの福音書7章7~11節のところで、こう言われました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

だれでも、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。ここでも同じです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。どうしてあの人ばかり与えられるのか。それに比べて私はちっとも与えられないと、ひがんではいませんか。求めてください。願ってください。祈ってください。そうすれば、主は豊かに与えてくださいます。

 

そんなこと言われても、それは他の人のことであって、私の祈りなどちっとも聞いてくださいません、という方はおられますか。そうではありません。神はあなたの祈りも聞いてくださいます。

 

何度かお話ししたことがあるかと思いますが、私が福島で会堂建設に携わった時、いろいろな先生方が来られて信仰のチャレンジをしてくださいました。どの先生も言うのは、会堂建設の時には神様が不思議なことをしてくださるので、神様に祈ってくださいということでした。でもそれは他の教会のことであって、私たちの教会では無理だと思っていました。私たちの教会には若い人たちばかりで経済的に余裕のある人など一人もいなかったからです。

しかし、奇跡的に土地が与えられいよいよ会堂本体の工事に入ろうとした時に、一つの問題が生じました。銀行から予定していた金額の借入れができないと言われたのです。そこで、翌週の礼拝後にみんなで話し合いました。そして、本体をもっと小さくして建築費を押さえようと決めかかった時、ちょうど札幌から引っ越してきたばかりの札幌から引っ越してきたばかりの一人の韓国の姉妹が、「はい」と手を上げたのです。すると彼女はこう言いました。「日本人は何でも小さく考えます。でも神様は全能です。それが本当に必要ならば与えてくださるのではないでしょうか。だから祈りましょう。神様が与えてくださると信じて祈りましょう。」一瞬、皆の顔が凍り付きました。もう十分捧げたので、これ以上は無理だと思っていたからです。私もそうでした。しかし、彼女が言われるように、それが本当に必要なら神様が与えてくださるはずです。ですから、信じて祈ることになりました。

すると本当に不思議なことが起こりました。そのことがあって数か月後に東北電力の方が来られ隣のタイヤの工場で電気を引きたいので教会の上空を通してほしいと言われ、その為電線の下の土地の価格の評価が下がるのでその保証として多額の保証金が与えられたり、いつもの年よりもたくさんの結婚式があったりして、予定していた1年後に必要が満たされたのです。問題は祈らないことです。神に祈り求めないことです。求めるなら、与えられるのです。

 

ヤコブはこのことをただ概念として勧めていたのではありません。それは彼自身の経験からにじみ出た確信でした。ヤコブは、「らくだの膝を持つ人」と言われていたそうですが、なぜそのように言われていたかというと、彼の膝がらくだのように堅くなっていたからです。歳をとって堅くなったのではありません。彼はいつも膝をついて祈っていたので堅くなったのです。彼は祈りの人でした。その祈りの中で神に願い求めたのです。そして、神は聞いてくださるという確信を持っていたのです。

 

中国の奥地伝道のパイオニア、ハドソン・テーラーはこのように言いました。「あなたがたは、膝をついて前進しなければならない。」膝をついて前進したらろくに進めないのではないかと思うかもしれませんが、でも膝をついて前進するというのは祈って前進しなければならないということです。祈りなしに神の前に出ることはできません。祈りなしに前進することはできません。祈りこそミニストリーの原動力であり、祈りによらなければ何も生まれないというのが、ハドソン・テーラーの確信だったのです。

 

それじゃ、どうしてあなたが祈っても与えられないのでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあります。動機が間違っていれば聞かれません。神の栄光のためにではなく自分のために、自分の快楽のために使おうとして悪い動機で願うなら、与えられないのです。神様は私たちの必要を満たしてくださいますが、私たちの欲しいものを与えるわけではありません。自動販売機のように欲しいものを押せば出てくるというものではないのです。もしあなたが祈りとはそのようなものだと思っているなら失望するでしょう。というのは、祈りとは自分の願いが叶うことではなく、神のみこころがなることだからです。みこころが天で行われているように、地でも行われるようにと祈ることです。もちろん、神はご自身の栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださいますが(ピリピ4:19)、私たちは、私たちの願いではなく、あなたのみこころがなるようにと祈られたイエス様のように祈らなければなりません。これが祈りの神髄です。私たちの願いを祈ることも良いことです。「神さま、私はあれが必要なのです。どうか助けてください。」と祈るなら、神はその祈りを聞いてくださいます。神はあなたのささいなことにも関心を持っておられます。だから必要なことを祈るということは大切なことですが、もっと大切なことは、私の願うようにではなく、あなたのみこころのとおりにしてくださいと祈ることなのです。神が望まれることは私たちのベストだからです。であるとしたら、神様はベスト以下の何ものも与えないはずです。ですから、神があなたに与えようとしておられるのは何かを知ることはもっといいことであり、すばらしいことなのです。あなたが祈っても与えられないとしたら、それが神のみこころであり、あなたにとってのベストであるかもしれないからです。であれば、もう悩む必要もありません。今まではあれもほしいこれもほしいと、与えられないことをひがんでみたり、ねたんだりしていたものを、祈っても与えられないことでこれが神からの答えだということがわかれば、私たちは平安を持つことができるからです。だから、神に祈ること、神に願うことは重要で、私たちのからだの中にある欲望に対処する大切なステップです。

 

詩篇34篇10節には、「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を訪ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」とあります。すばらしい約束ではないでしょうか。主を訪ね求める者には、良いものに何一つ欠けることはありません。そう信じて神に向かい、神に願うなら、神はあなたに良いもので満たしてくださるのです。

 

Ⅲ.神の御前にへりくだる(4-6)

 

第三のことは、神の御前にへりくだることです。4~6節までをご覧ください。4節には、「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」とあります。

 

「貞操のない人たち」とは、直訳では、「姦淫を行う人たち」です。口語訳では「不貞のやからよ」と訳しています。すごいですね。「不貞のおからよ」「やから」とは、仲間のこと、あるいはよくない連中のことです。不貞を行う仲間よ、という意味です。ヤコブはこれまで祈りを込めて、「私の愛する兄弟たち」と呼んでいたのに、ここでは「不貞のやからよ」と呼んでいるのです。いったいなぜそのように呼んだのでしょうか。それは、世を愛することは神に敵対することだからです。それは霊的姦淫の罪を犯すことなのです。なぜなら、この世はキリストを拒絶する悪の世であってこの暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊が支配しているところだからです。神などいなくても自分たちには何でもできると思っています。人間中心の世界です。このような考えはこの世の芸術、文化、教育、スポーツ、科学、医学など、ありとあらゆる世界に入り込んでいます。神がいなくても自分たちは何でもできると思い込んでいます。神を無視する世界、神に敵対する世界なのです。ですから、こうしたこの世を愛することはひとえに神に敵対することであり、霊的に姦淫を犯すことになるのです。

 

いいえ、私はこの世を愛していますが神も愛しています、という方がおられるでしょうか。そういうことはできません。なぜならイエス様は、だれも、ふたりの主人に仕えることはできないと言われたからです。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじで他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)

ですから、世の友となりたいのか、神の友となりたいのかの、どちらかしかありません。そして、ここでヤコブが言っているように世の友なりたいと思うなら、その人は自分を神の敵としているということを肝に銘じておかなければなりません。

 

5節をご覧ください。ここには、「それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに下っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」

この「」のことばはゼカリヤ書1章14節のみことばの引用です。ゼカリヤ書では、「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」とありますが、ここでは、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」になっています。どちらにも共通していることは、神はねたまれる方であるということです。神の民であるイスラエルが自分以外の偶像に走って行ったら、神はどのような思いを持たれるでしょうか。ねたみです。本当に愛しているからねたむのです。どうでもよければねたみは起こりません。神は私たちが救い主イエス・キリストを信じたとき、私たちにご自分の御霊を与えてくださいました。私たちは福音を聞きそれを信じたことで、新しく生まれ変わりました。神の子として、天の御国を受け継ぐ者とされたのです。その保証として神は、ご自身の御霊を与えてくださいました。それは、私たちがやがて天の御国を受け継ぐことの保証でもあります。それはちょうどマンションを借りる時と同じです。いいマンションが見つかってそこに住みたいと思うなら、不動産を通して契約書にサインし手付金を払います。そうすることで、やがて契約の日が来たらそこに住むことができます。御霊も同じで、それは私たちが天のマンションにやがて住むことができるという手付金なのです。それまでの間、神の御霊が私たちの中に住んでくださり、イエス様を信じるように導き、神を愛することができるように助けてくださいます。本当に罪に汚れた者を聖めてくださり、キリストのご性質にあずかる者としてくださり、この地上にあってキリストの栄光を現すことができるようにしてくださるのです。

それなのに、まことの神以外のものを愛するとしたら、神の敵であるこの世を愛するとしたら、神がどれほどねたまれるでしょう。神は昔エルサレムとシオンとをねたむほど激しく愛したように、今は私たちの中に住んでおられる神の御霊を、ねたむほど慕っておられるのです。

 

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、結論は6節にあります。「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

 

ここでは、「しかし、神は」が強調されています。たとえ私たちが、神が用意しておられるベストを受けそこなっても、世の友となって神の敵となってしまっても、それで終わりではありません。それでも、神の恵みは尽きることはありません。いや、神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。これは福音なのです。グッド・ニュースです。本当に私たちは愚かな者です。自分では神に従っているようでもいつの間にかこの世の友となっていることがあります。しかし、神はそんな者さえも憐れんでくださり、さらに恵みを与えてくださいます。

 

ローマ5章20節には、「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました。」とあります。それじゃ、もっと罪を行おうということではありません。私たちは罪を犯さずには生きていけないほど愚かな者なのです。わかっているようでわからない。どこまでも自分中心で、貪欲の塊(かたまり)でしかありません。にもかかわらず神は、そんな私たちを赦し恵みを注いでくださいます。

 

でから、こう言われるのです。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」どうしたら恵みを受けることができるのでしょうか。へりくだることです。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになります。イザヤ書66章2節にはこうあります。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

神が目を留められる者はどういう人でしょうか。へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。高ぶっている人は神に向かいません。神に頼らなくても、神に祈らなくてもやっていけると思っているからです。そのような人は神の恵みを受けることはできないのです。神の恵みを受ける人は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。

 

私たちも、私たちのからだの中にはまだ古い性質が残っていて神のみこころよりも自分の意志を通そうとして、それが原因で争いや戦いを引き起こすことがありますが、そのような者をも愛し、赦してくださる主の御前にへりくだり、主ご自身を求めましょう。主のことばにおののく者でありたいと思います。それこそ、私たちのからだの中で戦い欲望に打ち勝つ最大の力なのです。

申命記32章

きょうは、申命記32章から学びます。

 

 Ⅰ.ひとみのように守られる主(1-14

 

 まず1節から14節までをご覧ください。1節から4節までをお読みします。

「天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。私が主の御名を告げ知らせるのだから、栄光を私たちの神に帰せよ。主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」

 

 モーセは、イスラエルの全会衆に聞こえるように、神のことばを歌によって語りました。その内容がこの章に記されてあります。1節には、「天よ。耳を傾けよ。地よ。聞け。」とあります。30:19節や3128節にも、天と地が証人として立てられるとありました。天と地が神とイスラエルの間に結ばれた契約の証人です。それは、これからモーセが歌う内容がいかに重要であるかを示しているものです。

 

 2節には、モーセの教えは、雨のように、露のようにしたたり、若草の上の小雨のように、青草の上の夕立のように下る、とあります。これは、これからモーセが語ることが、雨のように、また露のように、さらには若草の上の小雨のように、また青草の上に下る夕立のように必ず下ることを表わしています。

 

 3節では、主の御名を宣言し、栄光を神に帰すように言っています。なぜ主に栄光を帰さなければならないのでしょうか。それは4節にあるように、主は岩のように堅く、変わることがなく、強いので、本当により頼むことができる方だからです。また、その道は正しく、真実であられるからです。

 

それに対して人間はどうでしょうか。5節と6節をご覧ください。

「主をそこない、その汚れで、主の子らではない、よこしまで曲がった世代。あなたがたはこのように主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。」

 

イスラエルは(人間は)神に向かって悪を行い、「主の子らではない」よこしまで曲がった世代です。また、彼らは愚かで知恵のない民です。なぜなら、彼らは主によって造られたのに、その主を見捨ててしまうからです。

 

ですから、そんなイスラエルに求められていたことは何かというと、昔のことを思い出すことです。そうすれば、主がどれほどあわれみ深い方であり、真実な方であるかがわかるからです。

 

7節には、「昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせよう。長老たちに問え。彼らはあなたに話してくれよう。」とあります。「昔の日々」とは、イスラエルがエジプトから救い出された日のこと、また、その後40年間荒野を通ってここまでやって来たその全行程のことです。そのことを思い起こし、そのことを彼らの先祖に問うなら、彼らは次のようにあなたに話してくれるだろう、というのです。8節から14節までをご覧ください。

 

「いと高き方が、国々に、相続地を持たせ、人の子らを、振り当てられたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、国々の民の境を決められた。主の割り当て分はご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である。主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。主はこれを、地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い、牛の凝乳と、羊の乳とを、最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、小麦の最も良いものとともに、食べさせた。あわ立つぶどうの血をあなたは飲んでいた。」

 

ここには、主がいかにイスラエルを守って来られたのかがふんだんに語られています。まず、主は彼らとの契約に従って相続地とそれぞれの部族に割り当ての地が与えられます。それがもうすぐ起ころうとしているのです。ヨルダン川の東側の一部は既に分割されました。しかし、これからがその中心です。それも確実に行われようとしているのです。

 

そればかりか、イスラエルがここに来るまで、主はずっと彼らを守ってくださいました。主は獣のほえる荒野で彼らを見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られました。11節には、神の守りを、あたかも鷲が自分のひなを育てて、ひなが巣立ちすることができるように行なう飛行訓練にたとえています。親鷲は、巣をゆすって、ひなが巣から落ちるようにさせると、ひなは必死になって羽をばたつかせますが、それを追いかけて、ひなが地面に落ちる前に自分の翼を広げてこれを取り、守ります。そのように神は、イスラエルを守って来られたと言っているのです。これらすべてのことは、神がお一人でなされたことです。そして13節と14節では、将来カナンの地でイスラエルが、どのように豊かな神の供給を受けるかを預言しています。「岩からの油」というのは、岩地に生えているオリーブの木のことす。イスラエルでは今も、岩がごろごろしているところに、オリーブの木がたくさん生えています。主はこのようにしてイスラエルを守り、導いてこられたのです。まことに主は岩です。そのみわざは完全であり、主の道はことごとく正しいのです。

 

それなのに彼らはどうしたでしょうか。15節から18節をご覧ください。

「エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。彼らは異なる神々で、主のねたみを引き起こし、忌みきらうべきことで、主の怒りを燃えさせた。神ではない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。それらは彼らの知らなかった神々、近ごろ出てきた新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々だ。あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。」

 

「エシュルン」とは、古来のイスラエルの名称です。そのエシュルンが、約束の地における主からの祝福によって、おいしい食べ物を食べ、赤いぶどう主を飲んで肥え太ったとき、彼らは、これを与えてくださった神に感謝するどころか、神を捨て、自分の救いの岩を軽んじるようになります。そして偶像の神々に仕え、神のねたみを引き起こし、彼らを産んだ創造主なる神をおろそかにするのです。彼らは真実な神の前に出るより、この異邦の神、憎むべき偶像に仕えるのです。貧しさや苦しみの中にいる時よりも、豊かさの中にいる時の方が、神を忘れやすくなるのです。

 

それは私たちにも言えることではないでしょうか。人は豊かさの中で、神の恵みを忘れ、この世の偶像に走ってしまう傾向があります。自分の救いを軽んじてしまいやすいのです。そういうことがないように、いつも神のご性質を覚えておかなければなりません。そのためには、自分たちが昔どのような状態であったのか、そして、そこから神がどのようにして救い出してくださったのかを思い出さなければなりません。親鷲がそのひなを育てる時に胸に抱いて育てるように、私たちを大切に守り、育ててくださったことをいつも思い出し、主の恵みに留まっているなら、神を捨てることは起こらないのです。

 

Ⅱ.神の怒り(19-33


 そのようなイスラエルに対して、神はどのようにされるでしょうか。19節から33節までをご覧ください。まず25節までをご覧ください。

「主は見て、彼らを退けられた。主の息子と娘たちへの怒りのために。主は言われた。「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。わたしの怒りで火は燃え上がり、よみの底にまで燃えて行く。地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払おう。わざわいを彼らの上に積み重ね、わたしの矢を彼らに向けて使い尽くそう。飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきば、これらを、地をはう蛇の毒とともに、彼らに送ろう。外では剣が人を殺し、内には恐れがある。若い男も若い女も乳飲み子も、白髪の老人もともどもに。」

 

イスラエルが神を捨てたので、神も怒りに燃えてイスラエルを捨てられました。20節では、「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。」と言っておられます。神がこのように言われるのは、イスラエルがまことの神を裏切り、まことの神に対して誠実でなかったからです。また、彼らが神ではないもの、すなわち偶像の神に走ったので、神のねたみを引き起こし、主をそこなうむなしいことで、主の怒りを燃えさせたからです。その怒りの火はよみの底まで燃えて行き、地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払うことになります。その怒りによってイスラエルには飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきばといったものを、地を這う蛇の毒とともに彼らに送り、国の内外に殺戮と恐れが溢れるようになるのです。イスラエルの歴史の中で、このことが起こりました。B.C.586年にはバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民として連行されました。また、A.D.70年にはローマによって滅ぼされ、世界中に散らばる離散の民となりました。

 

捨てられるということは悲しいことです。私たちは、時々親に捨てられた子供たちの話を聞きます。幼い頃、家族から受けた傷のせいで一生を暗闇の中で過ごした人の話も聞きます。また、職場や学校で仲間はずれにされたという話も聞きます。聖書の話は捨てられた人たちの話です。家族から捨てられ、友達から捨てられ、人々や弟子たちからも捨てられた人たちの話がいっぱい書かれているのです。そして、イスラエルも自分たちの罪のために神に捨てられました。しかし、神はそんな彼らを捨てて終わりではありません。その回復の道をも用意してくださいました。それが救い主イエス・キリストです。イエス様は、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来たのです。」(マルコ2:17と言われましたが、イエス様の愛はいつも捨てられた者たちに向かって流れ、失われた人たちに向かって広がっています。イエス様の愛は家族に捨てられ、友達から疎外され、社会から隔離された人たちに向かっているのです。イエス様こそ私たちにとっての神の知恵であり、また、義と聖めと、贖いとなられたのです。(Ⅰコリント1:30

 

そんな神の愛は、神を捨て、自分勝手な道を歩んだイスラエルにも向けられています。26節から33節をご覧ください。

「わたしは彼らを粉々にし、人々から彼らの記憶を消してしまおうと考えたであろう。もし、わたしが敵のののしりを気づかっていないのだったら。・・彼らの仇が誤解して、「われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。」と言うといけない。まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。敵もこれを認めている。 ああ、彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの。彼らのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦みがある。そのぶどう酒は蛇の毒、コブラの恐ろしい毒である。」

 

神はイスラエルを粉々にし、彼らを人々の記憶から消し去ってしまうことはありません。つまり、神は彼らを滅ぼし尽くされることはないのです。なぜなら、もしそんなことをしたら、敵が誤解してこういうようになるからです。「われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。」27)ですから、イスラエルが正しいからではなく、ご自分の真実さのゆえに、イスラエルを滅ぼし尽くすことをせず、イスラエルに対する約束を実現されるのです。

 

28節の「彼ら」とは「イスラエルの民」のことです。「彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。」なぜなら、もしも彼らに知恵があったら、彼らは自分の終わりのことを悟ることができたであろうからです。しかし、できませんでした。知恵がなかったからです。

それは私たちも同じです。私たちも何度も同じ過ちを犯してしまうのは、知恵がないからです。いつも目先のことしか考えられません。自分が行なっていることの結果をよく考えていたのなら、偶像を拝むとか、神を捨てるといった愚かなことはしなかいでしょう。それなのに、すぐにそのことを忘れてしまうため、それが愚かなことだとわかっていても繰り返してしまうのです。

 

また、もし私たちが何かで成功したり、祝福されたりすると、すぐにそれを自分の手柄であるかのように思い込んでしまいます。しかし、それはその背後に主がおられ、主が勝利をおさめておられるからなのに、そのことも忘れてしまいます。30節には、「彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。」とあります。ギデオンが数万人のミデアン人に対して300人の兵士だけで勝つことができたのは、また、ヨナタンと道具持ちが、たった二人で、ペリシテ人の陣営に入り込むことができたのは、主がともにおられたからです。イスラエルが周囲の敵に勝利することができたのは、主が彼らを売らず、主が彼らを渡さなかったからなのです。そのことは敵も認めていることです。敵も、イスラエルの神のほうが、自分たちよりもずっと力強いということを知って、認めています。それなのに、イスラエルはそのことを忘れ、自らわざわいを招いてしまうのです。彼らの中に毒ぶどうがあったり、そのふさに苦みがあったり、そのぶどう酒が蛇の毒であったりするのはそのためです。

 

とても遠い道のりを歩いて来た人に新聞記者たちが、一番苦しかったことは何ですか、と尋ねました。

「一番苦しかったことは、暑い太陽の下で、水のない荒野を一人で歩くことでしたか。」

「いいえ、違います。」

「それでは、最も急で険しい道を苦労しながら上ったことですか。」

「いいえ、違います。」

「それでは寒い夜を過ごすことでしたか。」

「違います。」

するとその旅人はこう答えました。

「そんなことは全然苦になりませんでした。実際、私を一番苦しめたのは、私の靴の中に入っていた小さな砂でした。」

私たちを苦しめるのは何か大きな罪の行いよりも、私の中で解決されずに残っている小さなくずのようなものなのです。神を神とせず、自分の思いで突っ走って行こうする思いなのかもしれません。それが大きなわざわいをもたらすことになるのです。ですから、自分の中に主を認めようとしない思いはないかどうかを、時間を割いて点検しなければなりません。そして、それをきれいにすっかり洗い流してしなわなければなりません。

 

Ⅲ.神のあわれみ(34-52

 

しかし神は、そんなイスラエルをいつまでも捨ておかず、やがて回復してくださると約束されます。34節から52節までをご覧ください。34節から43節までをお読みします。

「「これはわたしのもとにたくわえてあり、わたしの倉に閉じ込められているではないか。復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。主は言われる。「彼らの神々は、どこにいるのか。彼らが頼みとした岩はどこにあるのか。彼らのいけにえの脂肪を食らい、彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだ者はどこにいるのか。彼らを立たせて、あなたがたを助けさせ、あなたがたの盾とならせよ。今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。まことに、わたしは誓って言う。「わたしは永遠に生きる。わたしがきらめく剣をとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは仇に復讐をし、わたしを憎む者たちに報いよう。わたしの矢を血に酔わせ、わたしの剣に肉を食わせよう。刺し殺された者や捕われた者の血を飲ませ、髪を乱している敵の頭を食わせよう。」諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。」

 

34節から35節までの「」のことばは、神ご自身が直接語っておられることばです。神はそんなイスラエルを懲らしめるために他の異邦の民族を用います。しかし、そんな彼らに対しても責任を問われ、復讐される時が来るのです。主は、「復讐と報いはわたしのもの」35)と言われ、「主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。」36)と言われます。彼らの力が失せ、これまで自分が頼みとしていたものがあてにならないということがわかり、本当にへりくだって、主に立ち返るとき、イスラエルの民はまことの神が主であるということを知るようになるのです。

 

「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。」(39

 

そして主は敵に復讐をし、ご自分の民の贖いをされるのです。神は怒りの中にあっても、ご自分の民を忘れるような方ではなく、あわれんでくださる方なのです。これはイスラエルの歴史の中で成就した預言ではありますが、最終的にはキリストの再臨によって成就します。その時キリストは敵に対してことごとく勝利され、この地上における千年間の間統治される神の王国をもたらされます。

 

Ⅳ.いのちのことば(44-52

 

44節から47節までをご覧ください。

「モーセはヌンの子ホセアといっしょに行って、この歌のすべてのことばを、民に聞こえるように唱えた。モーセはイスラエルのすべての人々に、このことばをみな唱え終えてから、彼らに言った。「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行なわせなさい。これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」

 

モーセとヨシュアは、これらの歌をイスラエルの民に聞かせた後、イスラエルの民に、これらのことばを心に納めるように命じ、このみおしえのすべてのことばを守らせるように言っています。(46)なぜならこれは彼らにとってむなしいことばではなく、彼らにいのちを与えることばであるからです。まさにこれはいのちのことばなのです。

 

そして48節から52節までには、このすべてのことばを語り終えたモーセに対して、主が命じられたことが記されてあります。

「この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかったからである。あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へはいって行くことはできない。」

 

それは、ネボ山に登り、神がイスラエルに与えて所有させようとしているカナンの地を見るように、ということでした。彼はそこで死に、イスラエルの民に加えられます。彼はカナンの地を見ることができましたが、そこに入ることはできませんでした。それは、イスラエルがかつてエジプトを出てツィンの荒野をさまよっていたとき、メリバデ・カデシュの水のほとりで、主に対して不信の罪を犯し、主を聖なるものとしなかったからです。

 

この出来事についてはすでに何度も触れてきましたが、モーセが、主から、「岩に命じなさい」と言われた時、一度ならず二度も打ってしまったことです。それはモーセがイスラエルの民の不平不満に対して憤ったからであり、神の命令に背いて、罪を犯したからでした。

 

私たちの感覚からすれば、たった一度の間違いで、約束の地に入ることができなかったというのはあまりにも厳しいのではないかと思えますが、それが律法です。律法は一点でも違反すれば、律法全体を違反したことになります。(ヤコブ2:10)モーセはこの律法の代表者でした。ですから、このモーセがイスラエルにもたらしたものが何であるかがわかると、このことも理解できます。つまり、確かに神の律法は良いものですが、それは私たちを神の元へと導く養育係であって、この律法によって救われることはできないということです。ですからモーセは、約束の地にはいることができなかったのです。

 

では、誰が約束の地に導くのでしょうか。それは彼の後継者ヨシュアでした。ヨシュアはキリストの型です。ヨシュアをギリシヤ語にすると「イエス」になります。すなわち、約束の地に入るためには律法の行ないによってではなく、この救い主キリストを信じる信仰によってであり、それは神の一方的な恵みによるのです。

ヤコブ3章1~18節 「舌を制御する」

きょうは、ヤコブの手紙3章から学びます。ヤコブは2章で、「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(17)と、行いが伴った信仰、生き方信仰について語りました。今回の箇所では、その行いの伴った信仰の一つとしてことばの問題を取り上げられています。

 

Ⅰ.ことばで失敗しない人がいたら(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」

 

ヤコブはここで、「私の兄弟たち。多くの者が教師となってはいけません。」と言っています。多くの注解者はこの「教師」を神の御言葉を語る教師のこと、つまり「牧師」のことだと解釈していますが、必ずしも牧師だけのことではありません。勿論、牧師は神の言葉である聖書を神の言葉として解釈し語るわけですから、非常に厳粛さが求められるのは確かです。しかし、それは必ずしも牧師や教師のことだけでなく、栄光の主イエス・キリストを信じたクリスチャンのすべてを指していると考えるのが自然です。というのは、ヤコブはこれまですべてのクリスチャンに対して行いの伴った信仰、生きた信仰とはどのようなものかを語ってきているからです。

 

こうした教師をはじめとするクリスチャンに求められていることは何でしょうか。舌を制御することです。2節には、「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」とあります。ヤコブがこのように多くの人が教師になってはならないと語るのは、日本語でも「口は災いの元」ということわざがあるように、人は口から発することばで失敗することが多いからです。ここには、「もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」とありますから、ことばで失敗しない人はいないということでしょう。「それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちてい」(8)るのです。

 

誰しも、この舌を抑えられたなら失敗しなかったのに、ということがあるのではないでしょうか。これだけ言ったらおしまいだと思っているにもかかわらずついついポロッと口から出てしまったばかりに家族ばかりか親類までも巻き込む問題になったり、上司に言った一言が原因で会社を辞めるはめになってしまうことさえあります。舌は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちているのです。いったいどうしたらこの舌を制御することができるでしょうか。そのためにはまず自分の舌がどんな災いをもたらすかその影響の大きさをまずしっかり自覚し、本気になって解決の道を探っていく必要があります。

 

Ⅱ.舌のもたらす影響の大きさ(3-12)

 

そこで、次に4節から12節までをご覧ください。ここには、舌のもたらす影響がどれほど大きいのかを、いくつかのたとえを用いて説明されています。まず馬とくつわのたとえです。3節をご一緒にお読みましょう。

「馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。」

 

馬は大きくてものすごい力があります。それは力を表す単位として「馬力」が使われていることからもわかります。しかし、そんなに大きくて力のある馬でも、口にくつわをかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。私は実際、馬に乗ったことがありませんが、手綱を右の方に引っ張ると右の方に行き、左の方に引っ張ると左の方に行きます。そして両方引っ張ると止まります。くつわは本当に小さなものですが、そのくつわを口にかけるとどんなに大きくて力がある馬でも御することができるのです。

 

次のたとえは船とかじのたとえです。4節をご覧ください。ご一緒にお読みしましょう。

「また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。」

 

この船は風で動く大きな帆船です。帆船は風が吹いてきたら、風になびいて進みますが、そんな時でもかじを取る人によって思いとおりに持って行くことができます。それは船全体に比べたらとても小さなものですが、たとえそれがどんなに小さくても、船全体を風に逆らっても動かすことができるのです。

 

いったいここでヤコブは何を言いたいのでしょうか。そうです、くつわにしても、かじにしても、それらは小さなものですが、馬全体を、船全体を動かす力があるということです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。

 

次に5節と6節をご覧ください。ヤコブが次に用いている例は大きな森と小さな火です。

「ご覧なさい。あのように小さい火があのように大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」

不注意な人が何気なく捨てた小さなタバコの吸い殻が大きな森を燃やしたという話を聞くことがありますが、何気なく、不用意に語ったことばが、その人の人生全体を、人格全体をダメにしてしまうことがあります。日本ではよく、大臣が放った一言によって辞任に追い込まれたり、夫婦でも絶対言ってはいけないことを言ったために、離婚に発展するケースもあります。

 

皆さん、なぜ舌を侮ってはならないのでしょうか。それは自分や他の人々の人生にこんなにも大きく、破壊的な影響をもたらすからです。ある人たちは日本語で「言葉」を言の葉と書くように、言が葉っぱのようにぱらぱらと落ちるイメージがあることから、「ことばは単なる音の響きだ」ととらえている人がいたり、一方、「言霊」(ことだま)と言って、発した言葉どおりの結果を現す力があると考える人もいます。

 

では、聖書では何と言っているかというと、創世記には、神はことばによって世界を造られたとあります。神が、「光よ、あれ」と言うと光ができました。また、預言者が神の呪いを発するとそのようになりました。逆に祭司が祝福を祈るとそのようになりました。つまりユダヤ人にとってことばは単なる響きではなく、そこには実体があると考えられていたのです。ですから彼らが「シャローム」とあいさつすると、「平安がその人に来る」と理解していました。それは私たちも同じで、ことばには重みがあるのです。たった一つのことばが、その人の人生全体に大きな影響を与えてしまうことになります。ですから、ことばが正しく用いられないと、自分や他の人々の人生を破壊してしまうことになるのです。

 

その舌を制御することについて7節と8節ではこう言っています。

「どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」

それは少しもじっとしていない悪であり、死のとげに満ちています。人間は器用に、あらゆる動物を飼いならし、自由に動かすことができます。サーカスを観に行くと、あの巨大な象が、サーカスの人によって上手に飼いならされています。百獣の王であるライオンも、飼いならされています。それなのに、なんとこの小さな舌は制御することができません。それはじっとしていない悪であり、死の毒に満ちているのです。

 

今、東京都で豊洲移転の問題で大きく揺れています。地下水に溜まっている汚水から基準値の79倍のベンゼンという発がん性物質が検出されたことで、それが人体に与える影響を考慮すると果たして豊洲に移転すべきなのか、すべきでないのかの検討がずっと続けられているのです。工場排水に含まれる害毒には敏感でありながら、自分の口から出る毒に満ちたことばを垂れ流しにしたままでよいのでしょうか。私たちは、自分の舌がどんな災いをもたらすのか、その影響の大きさをまずしっかりと自覚し、本気になって解決の道を探っていく必要があるのではないでしょうか。

 

それは9節から12節に書かれてある泉と木のたとえも同じです。同じ泉から甘い水と苦い水がわきあがることがないように、いちじくの木がオリーブの実をならせることがないように、この唇は神を賛美するために造られたのであって、神をのろったり、神にかたどって造られた人をのろったりすべきではないのです。いったいどうしたらいつもきれいな水を出すことかできるのでしょうか。どうしたら舌を制御することができるのでしょうか。

 

Ⅲ.舌を制御する(13-18)

 

ですから13節から18節をご覧ください。13節と14節には、「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。」とあります。

 

ヤコブはここで、「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはなりません。」と言っています。つまり、口から出てくることばの源になっている「心」が問題だと言っているのです。私たちの心にひそかにたまっていることが口から出て、人の心をぐさっと傷つけるのです。そこに目を向け解決されない限りは、ことばの問題、人間関係の問題は解決しません。もしあなたの心の中に、苦々しいねたみや敵対心や憎しみや恨みがあると、言ってはならないようなことを言ってしまったうことになるのです。それは話し方教室に通うだけではどうしようもない問題なのです。ねたみや敵対心があるとき、私たちは悪しき者の影響を受けてしまうのです。確かに、そういう思いで心が一杯になっているとき、自分のコントロールから外れてしまうと思わないでしょうか。普段だったら絶対に言わないようなことを言ってしまったり、やらないようなことをやってしまったりします。カーッとなって思わず手が出てしまったり、たまたま打ち所が悪ければ大変なことになってしまいます。

 

まさかあの人がと言われるような事件の数々は、決して他人事ではありません。またそのような時には、どうやって相手を苦しめようかという知恵もどんどん出てくるものです。「そのような知恵は、上から北ものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや邪悪な行いがあるからです。」そのようなものにしはいされてはなりません。そのために、私たちは上からの知恵、神の知恵に満たされなければなりません。なぜなら、17節にあるように、「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」だからです。私たちの心が整えられて平安であるとき初めて、私たちは自分の舌を制することができるようになり、良い人間関係を築いていくことができるようになるのです。

 

このことについて、イエス様は何と言っておられるかを見てみましょう。マタイの福音書12章34,35節をご覧ください。

「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが癒えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」

また、マタイの福音書15章18,19節でも、「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出てくるのからです。」と言われました。つまり、口と心はつながっていて、口は心で思っていることを語るということです。であれば、私たちは口やことばを直す前に、心が癒され、良い物で満たされる必要があります。では、そのためにはどうしたらいいのでしょうか。

 

二つのことが必要です。一つのことは、イエス・キリストを信じて、霊的に新しく生まれ変わることです。キリストを信じるなら、キリストの平和があなたの心を支配するようになるからです。良い物は良い倉から出てくるのです。キリストによって新しく生まれ変わり神の愛に満たされた良い心からは、だんだん良いことばを話すようになります。それは道徳とか倫理の問題ではありません。あなたの霊、あなたのたましいが罪から救われてきよめられているかどうか、そして、あなたの心が神の愛とキリストの平和で支配されているかどうかの問題なのです。

 

もう一つのことは、キリストの新しい性質を身に着けることです。自転車でも、水泳でもそうですが、どうしたら身に着けることができるでしょうか。実際にやってみることによってです。どんなに教室で自転車の乗り方や泳ぎ方を学んでも、それだけでは実際に乗ることはできません。そのためには何度も何度も失敗しながら、実際にやってみなければなりません。そして一旦からだで覚えたら、意識しなくてもできるようになります。それは舌を制御することも同じことで、そのためには、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないことを実践しなければなりません。

 

Ⅰペテロ310,11にはこうあります。

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを言わず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」

もし、あなたが幸いな日々を過ごしたいと思うなら、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないようにしなければなりません。私たちは常日頃、たくさんの誘惑にさらされています。悪いことをされたり、ばかにされたり、自尊心を傷つけられたりします。そのようなとき、私たちはどうしたらいいのでしょうか。これまでは条件反射的に、悪いことばや攻撃することばを言い返していました。「目には目を。歯には歯を」です。口には口です。しかし、これからは違います。キリストの愛が私たちを取り囲んでいます。聖霊の助けによって舌を押さえて悪を言わないようにするのです。何度か失敗もするでしょうが、その度ごとに聖霊に信頼して何度も何度も実践するのです。そうすれば、それが習慣となり、やがて、舌を押さえることができるよううになるのです。

 

ヤコブは2節のところで、「もしことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」と言っています。この「完全な人」というのは、「大人の人」とか、「成熟した人」という意味です。つまり、初めから舌を制御できる人のことではなく、そうした訓練によって習慣化し、それを身に着けることができるようになった人のことを言っているのです。

 

ケネス・ヘーゲンと言う人は、「愛、勝利に至る道」でこう述べています。生活をエンジョイして、幸いな日々を送り、長生きする秘訣は、『自分の舌に悪をやめさせること』です。愛は、悪を言うことをいつも慎みます。愛は人々に対して欺瞞や悪を語りません。また神のご性質の愛は、すべての人との平和を求めます。」他の人を批判することは簡単なことです。しかし、同じ環境のもとで、私たちはその人ほど立派に行うことができるでしょうか。ですから、その人を裁くのではなく、その人を愛さなければなりません。愛は多くの罪を覆うからです。愛こそ、勝利に至る道なのです。

 

ヤコブは舌のもたらす破壊力について語っていますが、同時に、舌が持つ力についても教えています。もし私たちが舌を正しく制御するなら、私たちの人生をも変えることができるはずです。私たちはことばが持つ力についてあまり意識していません。何かが起こるとすぐに、「ああ、最悪だ」と言ってしまうのです。でも本当に最悪なのでしようか。また、ある人たちは病気がなかなか治らないと、「このままだと死んでしまう」と言ってしまいます。また、ある人たちは「何をやってもうまくいかない。俺の人生はどうせこんなもんだ」と言います。もし私たちがこのような投げやりで破壊的なことばを自分に向かって発するなら、本当に最悪なことが起こり、体はますます悪くなり、失敗を重ねる人生になってしまいます。なぜなら、ことばには力があるからです。自分が発したとおりになってしまうのです。ですから、私たちに求められていることは、神様のみこころにかなったことばを語り、それを実践することです。そうすれば、そのとおりになります。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

舌を制御することはだれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。けれども、イエス・キリストを信じて、聖霊によって心を支配していただき、力の限り、私たちの心を見守るなら、そこからいのちの泉が湧き出るのです。私たちも神のみこころにかなった言葉を発することができるように、上からの知恵に満たされて、自分の唇を制御できるように求めていきましょう。

ヤコブ2章14~26節 「生きた信仰」

きょうは、ヤコブの手紙の後半の箇所から「生きた信仰」というタイトルでお話します。ヤコブは1章で、国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて、みことばを実行する人になりなさい、と勧めました。そして、その具体的な実践の一つとして、人をえこひいきしてはいけないということを取り上げました。きょうのところでも、信仰が生きたものとなって全うされることを勧めています。ここには、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」(24)とあることから、信仰による義を強調していた宗教改革者マルチン・ルターは、このを「藁の書」と言ったほどです。しかしここでは、信仰か行いか、どちらかということを述べているのではなく、本当のクリスチャンの信仰生活には、信仰も行いもあるはずだということが強調されているのです。きょうは、行いが伴った本当の信仰、生きた信仰についてお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.死んだ信仰(14-17)

 

まず、14節から17節までをご覧ください。ここでヤコブは死んだ信仰について語っています。

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

 

私たちの間に、実質の伴わない、言葉だけの信仰話がしばしばなされることがあります。ヤコブはここで、「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と言っています。ここで重要なのは、「自分には信仰があると言っても」の「言っても」です。「私は神を信じています」と言うことと、実際にその人に信仰があるかどうかは、別問題なのです。

 

このことについて、イエスさまは次のように警告されました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)また、ヨハネの福音書2章にも、「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。」(ヨハネ2:23-24)とあります。ということは、イエスさまを信じても、イエスさまがご自身をお任せになれないような信じ方があったということを示唆しています。しかもここには「多くの人々が」とありますから、多くの人々がそのような信じ方をしているということなのでしょう。神との関係が確かなものであれば、それがその人の中に働いて、必ず悔い改めにふさわしい実を結びますが、そうでないと、それが実となって現われることはないのです。

 

ヤコブはその具体的な例として、15節から17節までのところで次のように言っています。

「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

ここでも、「と言っても」が問題となっています。「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えないなら、何の役にも立ちません。そのような信仰は死んでいる信仰なのです。すなわち、それは無きに等しい信仰であり、全く無意味なのです。

 

ちょっと待ってください。私たちは何かをしたから救われたのではなく、神の恵みのゆえに、信仰によって救われたのではないのですか。パウロはエペソ人への手紙の中で、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)と言っています。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。それなのに、そのような信仰は無意味だとか、死んでいるというのはおかしいのではないでしょうか。

 

確かにパウロは、私たちが救われるのは神の一方的な恵みによるのであり、行いによるのではないことを強調しています。私たちが神に受け入れられるのはキリストの義を土台にしているのであって、私たちの行いによるのではありません。それが聖書の真理です。しかし、そのようにして始められた救いの御業は必ず行いとなって現われるのであって、行いが伴っていないとすればその信仰は死んだものであるか、その信仰に何らかの問題があるかなのです。というのは、パウロはそのエペソ人への手紙の中で続いてこう言っているからです。

「私たちは神の作品であった、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:20)

パウロは、私たちは恵みのゆえに、信仰によって救われると述べた後ですぐに、それは良い行いをするためだと言いました。つまり、パウロもヤコブも同じ行いの伴う信仰について語っていたのです。勿論、身体的、精神的、その他の理由でしたくてもできない場合もあります。しかし、そうしたケースは別として、自分には信仰があると言っても、それが単なる口先だけの、言葉だけの信仰であるとしたら、そのような信仰は死んだものであり、全く意味がないものなのです。

 

Ⅱ.見せることができない信仰(18-19)

 

次に、18節と19節をご覧ください。

「さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

 

ヤコブはここで、次の話題に入っています。それは、見せることができる信仰についてです。信仰そのものは、目に見えないものですが、信仰の行いは見ることができるのであって、もし見せることができないとしたら、その信仰は偽善的な信仰なのです。

 

多くの人が、信じているけれどもその信仰を見える形で示すことはできないと言いますが、それは正しくありません。というのは、その信仰は行いによって現わされるからです。たとえば、皆さんは今安心して椅子に座っていますが、なぜ安心して座っていることができるのでしょうか。そう信じているからです。この椅子は絶対に壊れないと疑うことなく信じているからこそ座っているのであって、もし壊れるかもしれないと思っていたら怖くて座ることができないでしょう。壊れないと信じているからこそ座るのです。つまり、座るというその動作の中に、その人の信仰が現われているのです。言い換えるならば、その人の行いを見れば、その人が何を信じているかがわかるということです。信仰には、行いをもたらす力があるからです。ですから、その人が何を信じるかということはとても重要なことなのです。

 

これはたとえ話ですが、世界的に有名な天才的な綱渡り師がいるとします。彼はこれまでどんな困難なところでも一度も失敗したことがなく渡ることができました。そして、今、目の前の崖から崖に一本の綱が張られていて、それをだれかをおんぶして渡るとします。彼は見ている人に聞きます。「向こう側に渡れると思う人?」すると全員が手を上げます。そこで彼は続いてこう尋ねます。「それでは自分におんぶしてもらってもいいと言う人?」すると誰も手を上げません。なぜなら、もし誤って落ちてしまったら自分のいのちはないからです。すなわち、信じているようでも、本当に信じていないのです。本当に信じるとは、実際に彼におんぶしてもらうという行為に現れます。本当に信じているなら、その信仰を見せることができるのです。

 

そして、見せることができない信仰とはどのようなものかを、ヤコブは19節でこう言っています。「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」

 

「神はおひとりだと信じています。」これは申命記6章4節のみことばです。そこには、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)とあります。これはユダヤ人の信仰告白です。ユダヤ人は今でもこのみことばを安息日ごとに告白しています。これはユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙ですから、ヤコブはあえてこのみことばを取り上げたのでしょう。それは私たちで言うならば、イエスがキリストであり、救い主であると告白するようなものです。このように告白することはすばらしいことです。なぜなら、そのように心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。

 

しかし、驚くなかれ、悪霊どももそう信じているのです。悪霊どもは確かに神の存在を信じており、またキリストが神の子であることも信じています。マルコの福音書3章11節、12節には、「また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、あなたは神の子です、と叫ぶのであった。」とあります。そればかりか、「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。」(ルカ8:31)とあります。つまり悪霊は、キリストがさばき主であり、最終的な刑罰の場所があることも信じているのです。そして悪霊どもはそう信じて、身震いしているのです(マルコ1:23-24)。

 

しかし、信じて身震いすることと、神の救いを受け入れて救われていることとは全然違います。本当の信仰とは、神の救いについての正しい知識を得て、それを受け入れることです。パウロはこのことを新しい創造と呼んでいます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)つまり、新しく生まれ変わる新生の体験なのです。

 

前回の申命記の学びで、「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」(申命記30:6)というみことばを学びました。いったいイスラエルはどうすれば心を尽くし、精神を尽くして、主を愛し、主に従うことができるのか。それは彼らの心を包む包皮を切り捨てることによってです。心を包む包皮とは、肉体の割礼に対する心の割礼のことです。イスラエルの民は、彼らが神の民であることのしるしとして、生まれて八日目に割礼を受けました。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている皮を切り取ることです。それはユダヤ人にとっては神の民であることのしるしとしてとても重要なものでした。それは、ユダヤ教に改宗する人たちにも求められていました。けれども、彼らがどんなに肉体の割礼を受けても意味がありません。なぜなら、それはただ形式的なことであって、それだけで心を尽くして神に従うことなどできないからです。彼らが神に従うためにはそうした肉体の割礼ではなく、心に割礼を受けなければなりませんでした。心を包む皮を切り捨てなければならなかったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちがバプテスマを受けても、それがただの形式的なものであるならば救われることはなく、私たちが救われるために必要なのはキリストを信じる信仰によって、私たちの心が神の御霊によって新たく生まれ変わることによってなのです。それが心の割礼であり、新しい創造なのです。そのような新しい創造を体験した者は、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)とあるように、全人格的、全生涯的にキリストを受け入れて生きるようになるのです。

 

「行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。」と言われても、死んだ信仰にはいのちがないのですから、見せようにも見られません。しかし、ヤコブはここで、「私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」と言っています。それは決して高慢になって行っているのではなく、そうした偽善的な信仰に対する彼のチャレンジであり、悔い改めと神への従順を求める神からのメッセージなのです。

 

Ⅲ.生きた信仰(20-26)

 

次に、20節から26節までをご覧ください。

「ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」

 

信仰と行いを分離して、一方がなくても他方があるからと反対する人たちに向かって、ヤコブは、信仰と行いとは不可分のものであることを旧約聖書の二人の人物を取り上げて、さらに説明を加えています。その二人とはアブラハムとラハブです。

 

ユダヤ人にとって、アブラハムは信仰の父でした。ヤコブによると、そのアブラハムが義と認められたのはいつのことであったかというと、彼がその子イサクを神にささげた時であったと言っています。彼はその行いによって義と認められたというのです。

 

しかし、創世記を見ると、アブラハムが義とみなされたのは創世記15章6節の時点であって、その時なはまだイシュマエルもイサクも生まれていませんでした。人間的に考えれば、アブラハムに子どもが生まれ、その子孫が天の星のようになるという神の約束が実現することが、全く考えられない時でした。それにもかかわらず、アブラハムは神の約束を信じたのです。主はそれを彼の義と認められました。ローマ4章3節やガラテヤ3章6節でパウロが言っている「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」ということばは、この時のことです。

 

しかし、ヤコブが「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。」(21)と言っているのは、それから三十年も後の創世記22章の出来事なのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。これは、創世記15章6節で、その信仰が義と認められたということばが、22章のイサクをささげたという行いによって実証されたということです。ですから、行いによって義とされたということが救われるための条件としてではなく、義と認められる信仰は、行いによって証明されるということを意味しているのです。

 

22節を見ると、「彼の信仰は彼の行いとともに働いた」とありますが、それはこのことを表わしています。元々、アブラハムが生まれ故郷のウルの町を出た時も、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)という神の召しに応答してのことでした。アブラハムの信仰はただ神を信じるというものでしたが、それは生きた神との交わりを通して育まれ、行動となって現われていきました。彼はたくさん失敗もしましたが、それでも神が恵みをもって祝福してくださったので、神への信頼が増していきました。その結果として、神からあなたの愛するひとり子をささげなさいと命じられた時も、神はイサクをよみがえらせることができると信じて、その命令に従うことができたのです。

 

ここには、「彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ」とありますが、これは、彼の信仰がその行いによって証明されたという意味です。アブラハムの信仰は、イサクをささげるという神への全き服従によって全うされたのです。このように全うされる信仰とは、神の約束のことばを土台として、そのみことばを受け入れ、そのみことばに生きることによって、捨て身になって神に信頼する信仰なのです。その時に、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼が神の友と呼ばれたように、私たちの中にも神の義が全うされるようになるのです。

 

そして、もうひとりの人は遊女ラハブです。彼女については次のように紹介されています。25節です。

「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。」

 

彼女については、ヨシュア記2章に記されていますが、彼女について特筆すべきことは、彼女がカナン人、つまり異邦人であったこと、しかも遊女であったということです。神の救いは決して、その人の素性や行いによって妨げられるものではないことがわかります。しかし、いったいなぜここでわざわざ遊女ラハブのことが取り上げられているのでしょうか。アブラハムならわかります。彼は信仰の父であり、神の友と呼ばれた人物です。しかし、彼女は異邦人であり、遊女でした。そんな彼女がわざわざ取り上げられているのには一つの理由があります。それは、彼女がアブラハム同様、行いによって義と認められた者であるということです。つまり、行いによって、その信仰が全うされた、証明されたということです。いったい彼女はどのようにその信仰を全うしたのでしょうか。

 

25節には、彼女は、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、とあります。彼女は自分の命の危険を冒してイスラエルの使者たちを招き入れ、招き入れただけでなく、別の道から送り出しました。いったいなぜ彼女はそこまでしたのでしょうか。ヨシュア記によると、彼女はイスラエルにはまことの神がおられ、その神がカナン人を滅ぼされる計画を持っておられるということを知っていたからでした。つまり、彼女は、その方こそ救い主であると信じていたので、その使者たちをかくまい、自分と自分の家族を救ってほしいと頼んだのです。その信仰がそうした行いとなって現われていたのです。

 

結論として、ヤコブはこう言っています。26節をご覧ください。

「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」

死とは、からだからたましいが離れることです。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は死んでいるのです。

 

皆さんの信仰はどうでしょうか。たましいを離れたからだのようにはなっていないでしょうか。私たちは、神の一方的な恵みによって救われました。しかし、本当に神の恵みによって救われたのなら、そこには必ず行いが伴うはずです。もっと神を愛し、神に従い、神のみ旨にかなった歩みをしたいという思いが溢れてくるはずなのです。もしそうでないとしたら、もう一度自分の信仰を吟味し、本当に救いの信仰を持っているのかどうかをよく調べてみる必要があるのではないでしょうか。

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」(Ⅱコリント13:5)

そして、行いの伴った信仰、救いに至る信仰を全うしようではありませんか。

申命記31章

 きょうは、申命記31章から学びます。

 

 Ⅰ.新しい指導者ヨシュア(1-13

 

 まず1節から8節までをご覧ください。

「それから、モーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて、言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない。」と言われた。あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。主が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである。主は、主の根絶やしにされたエモリ人の王シホンとオグおよびその国に対して行なわれたように、彼らにしようとしておられる。主は、彼らをあなたがたに渡し、あなたがたは私が命じたすべての命令どおり、彼らに行なおうとしている。強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

 

モーセは、神がイスラエル人と結ばせた新しい契約のことばを宣言しました。それは、彼らの神、主を愛し、主の御声に従うならいのちと祝福をもたらし、もし、彼らが心をそむけて、主の御声に聞き従わず、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、死とのろいをもたらすというものでした。

 

それからモーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて言いました。2節です。

「私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、『あなたは、このヨルダンを渡ることができない』と言われた。」

「出入りができない」とは戦いができないという意味です。なぜでしょうか。神によって、このヨルダン川を渡ることができないと言われたからです。どうして主はモーセに、ヨルダン川を渡ることができないと言われたのでしょうか。それは彼が百二十歳という高齢になって体力がなくなったからではありません(34:7)。それは、過去において、あのメリバで水を求めたイスラエルの民に対して彼が怒りをあらわにし、神が岩を打ちなさい(一度)と命じたのにもかかわらず、二度も打ってしまい、神を聖なる者としなかったからです。(民数記20:1-13)彼は怒りのゆえに、神のみことばに正確に従わず、自分の思いのままに走ってしまいました。それで彼は約束の地に入れないと宣言されたのです。

このようなことが私たちにもよくあります。自分の感情に流され神のみことばからずれてしまうことが・・・。そういうことがないように注意しなければなりません。

 

しかし、たとえ、モーセがカナンの地に入って行くことができなくても、神が彼らの先に渡って行かれ、エモリ人の王シホンやオグになさったように、カナン人を滅ぼしてくださいます。それゆえ、彼らを恐れてはなりません。6節のみことばをご一緒に読みましょう。

「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」

本当に力強い言葉です。あなたが今、恐れていることはどんなことですか。不安に思っていることはどんなことでしょうか。それがどのようなことであっても恐れてはなりません。おののいてはなりません。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進んでくださるからです。

 

7節と8節をご覧ください。ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の前で、同じように言って、彼を激励しています。モーセはいなくなりますが、神の計画はヨシュアという新しい指導者が立てられ、彼をとおして成し遂げられていくのです。

 

次に9節から13節までを見てください。

「モーセはこのみおしえを書きしるし、主の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちとに、これを授けた。そして、モーセは彼らに命じて言った。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、主の御顔を拝するために来るとき、あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。民を、男も、女も、子どもも、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も、集めなさい。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行なうためである。これを知らない彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」

 

モーセは、律法を記録して、それをレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちに授けました。ここで言うみおしえが、モーセ五書全部を指すのか、申命記の核心的な内容を意味しているのかは明らかではありません。しかし、一つだけ明らかなことは、この中には神との契約締結に必要な内容が全部含まれていることです。そしてモーセは、彼らがカナンの地に入って行ったら、七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、主を礼拝するためにやって来る時に、このみおしえの書を読んで聞かせなければなりませんでした。

 

仮庵の祭りは、イスラエル人がエジプトを出た後の40年間を荒野で過ごしたことを思い出し、無事に約束の地に入ることができたことを仮の住まいに住むことによって思い出すために行いました。そしてそれはまた、主イエスが地上に来てくださり、「仮庵となられた」ことを喜ぶものでした。それによって神と人との和解をもたらされたからです。

そしてそれはまた、その年のすべての収穫の完了を祝う祭りでもありました。救いの完成のひな型でもあったのです。それはキリストの再臨によってもたらされる千年王国を指し示すものでもあったのです。

 

ですから、仮庵の祭りは、エジプトで仮庵(テント)で暮らしたことの記念から始まり、この地上に住まわれ神との和解をもたらしてくださったキリストと、やがて千年王国が到来する喜び、そのすべてがつながっている喜びの祭りなのです。その祭りにおいて、このみおしえが読まれなければなりませんでした。それは、12節にあるように、男も女も、子どもも、彼らの町囲みの中にいる在留異国人もみな、このみおしえを読んで聞いて学び、彼らの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行うためです。

 

私たちはどれほどこのみおしえを聞いて学んでいるでしょうか。このみおしえを喜び、これを守り行い、主を恐れているでしょうか。私たちは新年度も聖書通読に力を入れますが、それはまさにこのためであることを覚え、喜んで聞き従っていく者でありたいと思います。

 

Ⅱ.主のあかし(14-23


 次に、14節から18節までをご覧ください。

「それから、主はモーセに仰せられた。「今や、あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを呼び寄せ、ふたりで会見の天幕に立て。わたしは彼に命令を下そう。」それで、モーセとヨシュアは行って、会見の天幕に立った。主は天幕で雲の柱のうちに現われた。雲の柱は天幕の入口にとどまった。主はモーセに仰せられた。「あなたは間もなく、あなたの先祖たちとともに眠ろうとしている。この民は、はいって行こうとしている地の、自分たちの中の、外国の神々を慕って淫行をしようとしている。この民がわたしを捨て、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破るなら、その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか。』と言うであろう。彼らがほかの神々に移って行って行なったすべての悪のゆえに、わたしはその日、必ずわたしの顔を隠そう。」

 

ヨシュアを新しい指導者として立てたモーセは、ヨシュアとともに会見の天幕に立ちました。すると主は会見の天幕の雲の柱のうちに現れて仰せられました。それはイスラエルの民が外国の神々を慕って淫行(偶像崇拝)をしようとしていること、そしてそのようにして神と結んだ契約を破るなら、神の怒りが燃え上がり、彼らを滅ぼし尽くすというものでした。これはイスラエルの民の偶像崇拝を未然に防止するための神の警告でした。その日、イスラエルの民は、「これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからだ。」と言うようになりますが、それは反対です。神がおられるから、そのようなことが起こるのです。時として私たちも同じようなことを言ってしまうことがありますが、注意したいものですね。それは神がいないからではなく、神がおられるから、神がおられるから、そのようなことが起こるのだということを。

 

19節から22節までをご覧ください。

「今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである。わたしが誓った地に彼らを導き入れる以前から、彼らが今たくらんでいる計画を、わたしは知っているからである。」モーセは、その日、この歌を書きしるして、イスラエル人に教えた。」

 

神は、イスラエルの民が、ご自分が言われたことを思い起こさせるのに、歌という方法を用いられました。それはイスラエル人に対する主のあかしです。彼らが約束の地に入り、そこで食べて満ち足り、肥え太り、ほかの神々のほうに向かい、神との契約を破り、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかるとき、それがこうした理由からだということを彼らが知るためです。

 

それにしても、モーセの死の直前の最後の仕事は歌を書き記すことでしたが、その歌はのろいがもたらされたことを思い起こさせるための歌でした。何とも悲しいことでしょう。しかし、私たちには、人にいのちを与えるところの務めが与えられていることを覚えて感謝したいと思います。

 

23節をご覧ください。

「ついで主は、ヌンの子ヨシュアに命じて言われた。「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」

最後に神は、カナンの地に入るヨシュアに対して、もう一度「強く荒れ。雄々しくあれ」と言って、励ましています。

 

Ⅲ.あなた道を主にゆだねよ(24-30

 

最後に24節から30節までを見て終わりたいと思います。

「モーセが、このみおしえのことばを書物に書き終えたとき、モーセは、主の契約の箱を運ぶレビ人に命じて言った。「このみおしえの書を取り、あなたがたの神、主の契約の箱のそばに置きなさい。その所で、あなたに対するあかしとしなさい。私は、あなたの逆らいと、あなたがうなじのこわい者であることを知っている。私が、なおあなたがたの間に生きている今ですら、あなたがたは主に逆らってきた。まして、私の死後はどんなであろうか。あなたがたの部族の長老たちと、つかさたちとをみな、私のもとに集めなさい。私はこれらのことばを彼らに聞こえるように語りたい。私は天と地を、彼らに対する証人に立てよう。私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、主の目の前に悪を行ない、あなたがたの手のわざによって、主を怒らせるからである。」モーセは、イスラエルの全集会に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた。」

 

モーセは、そのみおしえの書を書き終えると、契約の箱のそばに置くようにとレビ人たちに命じました。なぜでしょうか。それは、それが神との契約であったからです。そのようになさったのは、イスラエルの民がかたくなで、うなじのこわい民であることを神が知っておられたからです。神は、16節のところで既に、イスラエルの民が、モーセの死後に、神を捨てることを語られました。モーセもエジプトを出てからこのヨルダン川に至るまで、いやというほど、経験して、よく知っていました。ですから、モーセは最後に、彼らが堕落することと、道から反れて主を怒らせるようになることを預言しているのです。

 

これはイスラエルのことだけでなく、私たちにも言えることです。私たちもこれまでもそうでしたが、いつも主の道から反れて自分勝手に歩みやすいものです。いつも堕落して、神の道から離れてしまうのです。ひどいことに、そのことにすら気付かないことが多いのです。ですから、いつも自分の感情や思いではなく、主のみおしえに歩まなければなりません。

 

パイロットが飛行訓練学校で訓練を受けるとき、教官はつねにこう強調するそうです。「操縦席についたら、決して自分の感覚を信じるな。特に悪天候の中で飛行するときや高度が上昇するとき、それに空中で航路からそれてしまったときは、なおさらだ。そのときは計器を信じるんだ。」

あるパイロットが訓練を終えて実際の飛行をしていました。彼は飛行感覚については自信がありました。訓練によって飛行感覚を身に着けていたからです。ある日、飛行中に思わしくない天候にあい、前後の見境もつかないほどの深い霧の中に閉じ込められてしまいました。彼は自分の飛行知識のすべてをかき集めましたが、次第に五里霧中に陥ってしまいました。方向さえもわからなくなってしまったのです。そのとき、飛行学校で教官が言っていた言葉を思い出しました。

「計器を見ろ。計器を信じてそれに従え。」

自分の感覚と計器の表示はまるで違っていました。しかしこのパイロットは計器を見ながら方向と高度を把握し、落ち着いて操縦したので、すぐにその状況を抜け出すことができました。

私たちの人生にも、悪天候に見舞われることがあります。そんなとき、自分の知識と自分の感覚は問題解決の役には立ちません。かえってそのような慣れた経験が、その問題をさらに深みにはまり込ませてしまうことがあります。

私たちの人生の計器は私たちではありません。私たちの人生の正しい計器は、神のみことばなのです。今あなたが困難な悪天候に見舞われているなら、過去の経験を思い起こす前に、他の人たちの意見を聞く前に、奥まった部屋に入り、計器の数値を示してくださる神に祈り求めてください。そして、そのまま従ってください。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を 認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6

ヤコブの手紙2章1~13節 「人をえこひいきしてはいけません」

きょうは、「人をえこひいきしてはいけません」というタイトルでお話します。ヤコブは1章で、国外に散っているユダヤ人クリスチャンに対して、さまざまな試練に会うとき、それをこの上もない喜びと思いなさいと勧めました。なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になることができるからです。神はそのために真理のみことばによって、私たちを新しくお生みになりました。ですから、人間的には不可能であっても、神の御霊によって忍耐することができます。大切なのはその真理のみことばを聞くだけでなく、それを実行することです。そのみことばの実践の一つとして勧められていることが、人をえこひいきしてはいけないということです。

 

この「えこひいきする」ということばは、顔を持ち上げるという意味のことばから来ています。その人の社会的身分や財産、この世的な影響力を不当に重視することによって人を偏って見てしまうことです。聖書はこのような態度を一貫して非難しています。たとえば、レビ記19章15節には、「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。」とあります。ここでは単に強い者にへつらうだけでなく、弱い者におもねることも戒められています。おもねるとは、気に入られるようにふるまうという意味ですが、強い者にペコペコするだけでなく、弱い者に気に入られるようにふるまうこともよくないというのです。たとえ相手が強い者であっても、弱い者であっても、正しく接するようにと教えているのです。それは神が公義であられるからです。ですから、その神を信じて歩む者にも公平さが求められているわけです。人を差別してはいけない、偏見を抱いたり、えこひいきしてはいけないということです。いったいなぜ人をえこひいきしてはいけないのでしょうか。ヤコブはきょうの箇所でその三つの理由を述べています。

 

Ⅰ.栄光の主イエスを信じる信仰を持っているのですから(1-4)

 

第一の理由は、私たちは栄光の主イエスを信じる信仰を持っているからです。1節から4節までをご覧ください。1節にはこうあります。

「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」

 

ここでヤコブは主イエス・キリストのことを「栄光の主イエス・キリスト」と言っています。神の栄光は昔、神の幕屋に宿り(出エジプト40:34-38)、イエスがこの地上に生まれた時、その栄光は主イエスに宿りました(ヨハネ1:14)。そして今日、彼を信じるすべての人に神の御霊が注がれたことによって、彼を信じるすべてのクリスチャンにこの神の栄光が宿るようになりました(Ⅰコリント6:19-20)。クリスチャンとはそのような者なのです。神は、こんなに罪に汚れた者を赦してくださり、「インマヌエル」すなわち「神は私たちとともにおられる」という約束を実現してくださいました。私たちはこの主イエス・キリストを信じる信仰によって神の栄光を持つ者となったのです。であれば、もはや人の栄光とか、物質、あるいは富の栄光といったものは色あせてしまいます。もはやりっぱな服装であるとか、指輪の有無を含めてどんな指輪をしているか、お金持ちであるかどうかといったことはどうでもいいことであり、そういうことで人を差別してはいけないのです。

 

2節から4節までをご覧ください。

「あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」

 

ここでヤコブは、えこひいきとはどういうことなのかを具体的な例を取り上げて説明しています。「あなたがたの会堂に」とあるのは、当時のクリスチャンも一緒に集まって礼拝していたことを表わしています。そこにはいろいろな人々がやって来るわけですが、たとえばそこに二種類の人がやって来たとします。お金持ちと貧乏人です。お金持ちは金の指輪をはめ、立派な服装をしています。当時は、指輪をたくさんはめていることが、その人のステータスになっていたようです。そのためある人は、中指を除いた全部の指に指輪をはめ、それでもあきたらずに中には一本の指に二つも三つも指輪をはめていた人もいたそうです。彼らは自分たちが富んでいるという印象を与えるために並々ならぬ努力をしていたのです。そのため、中には指輪を借りてきてはめている人もいました。そのようにすることによって、自分を少しでもよく見せようとしていたのです。

 

一方で、貧しい人もやって来ます。貧しい人は他に着る着物とてないので、みすぼらしい身なりをし、宝石などで飾ることもできません。そのような二種類の人がやって来た時、果たしてあなたはどのような態度をするのかというのです。

 

もしあなたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。でなければ、私の足元にすわりなさい」と言うとすれば、あなたは人を差別しているのであって、悪い考えで人をさばく者になっているのです。

 

この描写は、決して誇張されたものではありませんでした。というのは、初期の礼拝式文書の中に次のような教訓があったからです。

「もしりっぱな着物をきた男か女が入って来たなら、その人がその地区の人であろうと他の地区からやって来た人であろうと、兄弟であり長老であるあなたは、その人にへつらってはならない。もしあなたが神のことばを語り、あるいは聞き、あるいは読んでいるなら、その人たちに座席を与えようとしてみことばの奉仕を中止してはならない。ただ静かにしているがよい。というのは、兄弟たちが多分接待してくれるからである。もし彼らに座席がないなら、兄弟姉妹の中の愛に富んだ人が立って、彼らに座席を提供するであろう。もし自分の地区か他の地区の貧しい男か女が入って来て座席がなければ、長老であるあなたは、たとえあなたが土間に座らなければならないとしても、心からその人のために座席を作ってやるべきだ。人の尊敬を得るためではなく、神から見られるためである。」

 

こういう教訓があったのです。そしてここでは礼拝指導者が、富んでいる人が入ってきた時に礼拝を中止して、特別席を設けるように指図することがないように注意するようにということが暗に示されています。

 

初代教会には、こうした社会的な問題があったことは否めません。主人が自分の奴隷の隣に座ったり、主人が礼拝に到着したら、その礼拝で自分の奴隷が礼拝の指導をしていたり、礼典の司式者であるということがあったからです。そういうことがあれば非常に具合が悪いということは、容易に想像することができたからです。単に生きている道具にすぎないと思われていた奴隷と主人とのギャップは、今では想像することができないほど大きかったに違いありません。さらに圧倒的に貧しく、賤しい人々で満ちていた当時の教会の中に富んだ人が回心者として加えられることは、大きな誘惑であったに違いありません。

 

けれども、たとえ現実的にそのような問題があったとしても、教会は一切の社会的差別が取り除かれたただ一つの場所でした。なぜなら、教会は栄光の主イエス・キリストが臨在しておられるところであり、この方の前には格付けや身分や名声といった一切の差別がないからです。この方を信じて生きる者にとって、そうしたものは一切色あせてしまうからです。自分の罪と汚れの大きさをみるならさばかれても致し方ないような者が救われたのでありますから、そこにあるのはただ神の恵みだけなのです。この神の卓越した栄光の前には、人の功績や価値の差別といったものは何もないのです。

 

にもかかわらず「自分たちの間で差別を設ける」ならば、その人は栄光の主イエス・キリストを信じているというよりも、この世の富に足を取られているのであり、二心のある人なのです。そういう人は、その歩む道のすべてに安定を欠いているのです。そのような人に求められていることは、栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持つことであり、このキリストの目とキリストの心を持つことです。私たちはいつでも、人を栄光の主イエス・キリストを通して見て、判断し、受け入れるべきなのです。

 

Ⅱ.神の選びからくる兄弟愛の実践(5-7)

 

第二のことは、この世の貧しい人たちを神が選んでくださったということです。5節から7節までをご覧ください。

「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。」

 

なぜ貧しい人を軽蔑してはいけないのでしょうか。それは、神がこの世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を相続する者とされたからです。

 

イエス様がナザレで最初の説教をした時、それは次のようなものでした。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目が開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19)

イエスが遣わされたのは、貧しい人々に福音を伝えるためでした。イエスは絶えず貧しい人々に特別な伝言をもたらしてきたのです。

 

また、イエスの山上の説教の第一番目の祝福は何だったかというと、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)というものでした。イエス様の目は絶えず貧しい人たちに注がれていたのです。それは、富んでいる人はどうでもいいということではなく、貧しければ貧しいほど、信仰による豊かさを求めるからです。しかし、富んでいれば神よりももっと富を求めるようになります。イエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です 。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)と言われましたが、それはそういう意味です。決して富んでいる人には救いが必要ないということではなく、富んでいる人が砕かれて、主の救いを求めることは難しいということです。

 

しかし一方で、それは神の計画であったともいえるのです。そのように神が弱い者たちや取るに足りない者たちを選んでくださることによって、有る者を無い者のようにしようされたのです。そのことをパウロはこう言っています。

「兄弟たち、あなた方の召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有る者をない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(Ⅰコリント1:26-28)

 

これは本当に不思議なことです。神はこの世の知恵ある者や力ある者ではなく、普通の人、いや無に等しいような者を選ばれたのです。

 

アブラハム・リンカーンは、「神はこんなにたくさん普通の人を造られたのだから、普通の人を愛しているに違いない。」と言いましたが、本当にごく普通の人を、いや無に等しい者をあえて選んでくださいました。それは、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者にするためです。

 

それなのに、こうした貧しい人たちをないがしろにするようなことがあるとしたら、それは全く神のみこころにかなったことではないと言えます。むしろ、あなたがたをしいたげるのは、そのように富んだ人たちなのです。イエス様のたとえ話の中に、七を七十倍するまで赦しなさいという教えがありました。1万タラントの借金を免除してもらったしもべが、自分に百デナリの借りのある人に対して首を絞め、「借金を返せ」と言い、その借金を返すまで、彼を牢屋にぶち込みました。(マタイ18:23-35)。当時はそういうことが実際にありました。そして、そのようなことをするのはこうした富んだ人たちなのに、どうしてあなたはそのような人たちにへつらい、貧しい人たちを軽蔑するようなことをするのか、とヤコブは言うのです。

 

Ⅲ.最高の律法(8-13)

 

ですから、第三のことは、そのように人をえこひいきすることは神の律法にかなっていないということです。8節から13節までをご覧ください。まず8節と9節をお読みします。

「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは実を犯しており、律方によって違反者として責められます。」

 

どういうことでしょうか。ヤコブはここで、旧約聖書の中から一つの神の律法を引用して、さらに話を勧めています。その律法とは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という律法です。これはレビ記19章18節のみことばですが、イエス様はこれを最高の律法と言われました。なぜなら、律法のすべては、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という戒めと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という戒めの二つの戒めに要約することができるからです。神を愛することと、隣人を愛するという二つのことが、律法の中心なのです。これが最高の律法です。それなのに、もし人をえこひいきするということがあれば、この律法に違反することになります。そうであれば、罪を犯していることになり、律法の違反者として責められることになるのです。なぜなら、律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、すべての戒めを破ったことになるからです。10節と11節をご覧ください。ここには、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、『姦淫してはならない』と言われた方は、『殺してはならない』とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。」とあります。

 

私たちは、どちらかというと、不品行とか殺人、嘘、不正といった罪は大きな罪のように感じますが、人をえこひいきすることはそんなに悪いことではないかのように思っています。しかし、神様の目ではどれも同じ罪であり、特に、この人をえこひいきすることは律法の中でも最高の律法に違反することなので、当然、罪に定められることになるのです。

 

最後に12節と13節をご覧ください。「自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」

 

どういうことでしょうか。貧しい人をさばいて、軽蔑するような態度は、後に、同じようにあわれみがないさばきによって、さばかれるようになるということです。イエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」(マタイ7:1)と言われました。「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも図られるからです。」(マタイ7:2)それと同じように、もし私たちが人をあわれむなら、やがてあわれみを受けることになります。しかし、これほどのあわれみを受けていながらあわれみを示すことがなければ、その人に対するさばきは、あわれみのないさばきとなって自分に返ってくるのです。

 

タスカーという聖書注解者はこう言っています。「義とされた罪人によって地上に示されるあわれみこそ、彼にとって、いつの日か最後の審判のとげがすでに抜き去られていることを知る、その確信の確かな土台である。」

 

このように、神のあわれみを受けた者として、人をえこひいきするのではなく、だれに対しても優しく、親切にしなければなりません。イエスは、ご自身が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うことを願っておられます(ヨハネ13:34)。神がえこひいきも偏愛もされないのなら、私たちも神と同じ高い水準の愛をもって人を愛するべきです。人を軽蔑することは、神のかたちに似せて造られた人を虐待し、神が愛されそのためにキリストが十字架で死なれた人を傷つけることになるのです。さまざまな形の人種差別や偏見は、何千年もの間、人類の疫病として存在してきましたが、このままではいけないのです。パウロは、ガラテヤ人への手紙3章28節で、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」と言っていますが、私たちはキリスト・イエスにあって一つとされたのですから、そうした偏見や差別を捨て、一つとなることを求めていかなければなりません。

 

先週、アメリカのトランプ大統領がイスラム教国の七か国からの渡航者を一時的に入国禁止にする大統領令に署名して世界中が大混乱しましたが、皆さんはこれをどのように受け止められたでしょうか。これは、テロリストをアメリカ国内に入国させいないようにするための措置ですが、すべてのイスラム教徒が過激派なわけではありませんし、イスラム教徒をそのような目で見ることは間違っています。また、難民をはじめすべての人を受け入れるようにと命じている聖書の教えにも反しています。そうした偏見や差別を捨てて、キリストが私たちを受け入れてくださったように、私たちも互いに愛し合い、受け入れ合わなければならないのです。

 

しかし、それはトランプ大統領だけの問題ではありません。それは、私たちの問題でもあるのです。アメリカではこれまで多くの難民や移民を受け入れてきた結果こうした問題と取り組まなければならない事情がありますが、日本ではそもそもこうした難民を受け入れて来なかったという事実があるのです。昨年、日本に難民申請があったのは7,586件ですが、難民認定者として認められたのはわずか27人にすぎませんでした。一昨年はわずか11人、その前の年は6人です。あまりにも少なすぎます。このような状況で、どうやってトランプ大統領を批判することができるでしょうか。私たちももっと真剣に考えなければなりません。隣人を愛することや、こうした人たちへの偏見を捨てて、受け入れることを・・。

 

1月26日に放送された「奇跡体験!アンビリバボー」は、1968年のメキシコ五輪・男子200メートルで銀メダルを獲得したオーストラリア人・ピーター・ノーマンにスポットをあてた番組でした。  このメキシコ五輪が開催された1968年は、アメリカ黒人が公民権の適用と人種差別の解消を求める抗議運動が継続し、ベトナム戦争の反対運動が起こっていた時代でした。

男子200メートルでは、2人のアメリカ黒人選手が金と銅メダルを獲得。そしてオーストラリア白人選手のピーター・ノーマンが銀メダリストとして表彰台に上がりました。すると、金メダリストのトミー・スミスと銅メダリストのジョン・カーロスが、アメリカの国歌が流れ星条旗が掲揚される間、壇上で頭を下げ、黒手袋をはめた拳を突き上げたのです。これはブラックパワーサリュートといって、黒人差別に抗議する行為ですが、これが波紋を呼び、トミーとジョンは、長い間アメリカスポーツ界から追放。黒手袋をはめた拳を突き上げませんでしたが、ピーター・ノーマンも、抗議運動に同調したということで批判され、地元のオーストラリアからも除け者扱いされ、4年後の1972年に開催されるミュンヘン五輪にあたってピーターは、予選会で3位の好成績を残したにもかかわらず代表にも選ばれませんでした。その後彼は、競技生活を引退し、引退後は体育の教師や肉屋などの職を転々としました。

結局ピーターは2006年、心臓発作でこの世を去りましたが、最後まで国から受けるべき謝罪は何一つとして受けないまま亡くなってしまったのです。ピーターの葬儀ではアメリカからトミーとジョンがやって来て棺を担ぎました。オーストラリアでは無視された存在になっていても、彼らは決してピーターのことを忘れず、2人はピーターの棺に付添ったのでした。

そして、2012年、オーストラリア政府は、ピーターに対し、「何度も予選を勝っていたにもかかわらず、1972年のミュンヘンオリンピックに代表として送らなかった国の過ちと、ピーターの人種間の平等を推し進めた力強い役割への認識に時間がかかった」と謝罪したのです。ピーター・ノーマンは、たった1人の人間でもどれほど世の中を変えることができるかを示した手本になったのです。

 

現代ではブラックパワーサリュート事件は存在しないかもしれませんが、しかし、私たちの心の中にはまだ人をえこひいきする壁が残っているのではないでしょうか。私たちはついつい人を見てしまう弱さがありますが、どんな人でも神に愛され、イエス・キリストにあって一つにされた者として、人をえこひいきすることなく、だれに対しても親切にし、心の優しい人になることを求めていきたいと思います。

申命記30章

 

 きょうは、申命記30章から学びます。

 

 Ⅰ.あなたを再び集める(1-10

 

 まず1節から5節までをご覧ください。

「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」

 

前章でモーセは、イスラエルの民と新たな契約を結びました。それは、ホレブで結ばれた契約とは別のものです。それは、彼らが約束の地に入って行ってから神の民としてどうあるべきなのかが示された新しい契約であり、その契約に従う者には祝福を与え、従わない者にはのろいをもたらすというものでした。しかもそれは彼らの行いによるのではない、神の真実とあわれみによってもたらされる恵みの契約です。そして、その祝福とのろいが彼らに臨み、彼らがすべての国に散らされた時、それらのことを心に留め、彼らの神、主に立ち返る時、どのようなことが起こるのかがここで語られています。3節から5節までを覧ください。

 

「あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」

 

主は何とあわれみに富んでおられる方でしょうか。たとえ神のみことばに従わずに罪を犯し、神のさばきとのろいを受けることがあっても、それで終わりではありません。その罪を悔い改め、主に立ち返り、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、主は彼らの繁栄を元どおりにし、彼らをあわれみ、すべての国々の民の中から、彼らを再び集めるというのです。そして、彼らが所有していた地に彼らを連れて行き、その地を所有させ、彼らを栄えさせ、その先祖たちよりもその数を多くさせるというのです。

 

私たちはまだこの預言の完全な成就を見てはいませんが、これまでのイスラエルの歴史の中でいくつかその成就を見ています。たとえば、イスラエルはB.C.587年にバビロンによって捕えられましたが、その70年後にカナンの地に帰還しています。また、A.D.70年にはローマによって滅ぼされ多くのユダヤ人が全世界に離散しましたが、1900年代になりシオニズム運動といって、全世界に散ら連れていたユダヤ人がイスラエルに帰還しました。そしてついに19485月に、イスラエル共和国が建国されたのです。1900年もの間国を失い流浪していた民族が再び国を興すといった話を聞いたことがありません。けれども、イスラエルはそれを成し遂げました。それはいにしえの昔、旧約聖書にこのように預言されていたからです。それが成就したのです。それはこの預言の成就の一部なのです。

 

それでは、ユダヤ人がみな主に立ち返ったのかと言えば、そうではありません。彼らはまだ、イエスを自分たちのメシヤであると信じておらず、神の救いを受け入れていないからです。しかし聖書を見ると、このイスラエルの民もやがてイエスをメシヤとして受け入れるようになるとあります。それはイエスが再臨される時であり、その時彼らは患難の中を通って、初めて自分たちが槍を突き刺した方がキリストであったことを知り、胸を打って悔い改めるのです。ですから、大患難の時には、イエスが言われたように、ユダヤ人がエルサレムやユダヤの地域に住んでいなければいけません。この時代に多くのユダヤ人がイスラエルに集まっていることはその預言に向かって大きく前進している証拠であるといえるのです。そして、彼らが悔い改めるとき、御霊が注がれて、彼らは新たに生まれることになります。このときに、まだ世界中に散らばっているユダヤ人たちが、いっせいにイスラエルへと帰還することになります。それが、ここ申命記30章に書かれてある預言の成就です。

 

6節から10節までをご覧ください。

「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。あなたの神、主は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される。あなたは、再び、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行なうようになる。あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。」

 

「心を包む皮を切り捨てる」というのは、心の割礼のことです。イスラエル人にとって割礼は、彼らが神の民であることのしるしでした。しかし、どんなに肉体に割礼を受けていても、神のみ教えに歩まなければ何の意味もありません。彼らが割礼を受けたのは彼らが神の民であって、神の教えに歩むためだったのです。しかし、彼らはその神との契約を守ることができませんでした。ですから、大事なことは新しい創造です。(ガラテヤ6:15)心に割礼を受けることです。イスラエルが神のみこころに歩めなかったのは心を包む皮を切り捨てられていなかったからです。そこで主は、その心を包む皮を切り捨てると言われたのです。その時彼らは、心を尽くし、精神を尽くして、彼らの神、主を愛し、それで彼らは生きるようになります。そして、イスラエルを迫害したイスラエルの敵にのろいを下されます。まさに、アブラハムを祝福する者は祝福され、のろう者はのろわれます。

 

一方、イスラエルはどうなるかというと、8節にあるように、再び、主の御声に聞き従い、主のすべての命令を行なうようになります。心に割礼を受けるからです。心に割礼を受けると、主の御声に聞き従うことができるようになるのです。大事なのは、自分の心が聖霊によって変えられているか、どうかなのです。

 「あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。」

 

こうして、イスラエルは、神との契約を破り、神の命じられたことに従わなかったことで神ののろいを受けますが、主はそんな彼らを再び栄えさせます。それは彼らが心に割礼を受けて、神に立ち返り、心を尽くして、精神を尽くして、主の御声に従うようになるからです。

 

それは、私たちも同じです。私たちも主の御声に従わないで罪を犯し、主のさばきとのろいを受けるようなことがありますが、悔い改めて、主に立ち返り、心を尽くして、主により頼むなら、主は再び私たちを回復させ、その祝福の中へと入れてくださるのです。失敗してもそれで終わりではありません。そのためには私たちは心に割礼を受けること、神の聖霊によって、かたくなな心を砕いていただきたいと思います。

 

Ⅱ.みことばは、あなたのごく近くにある(11-14


 次に、11節から14節までをご覧ください。

「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」

 

ここでモーセは、主の命令とおきてとを守ることについて、それは彼らにとって難しすぎることはないと断言しています。それは遠くかけ離れたものではないからです。それは天に上って取ってこなければ聞くことができないものではありません。また、海のかなたに渡って取って来なければ聞くことができないものでもないのです。それは、あなたのごく身近にあり、あなたの口に、あなたの心にあるのです。ですから、いつでも聞いて行うことができるのです。

 

パウロはローマ人への手紙106節から10節までのところでこの箇所を引用し、信仰による義について語っています。すなわち、私たちが救われるためには天に上らないといけないとか、海の中にはいらなければいけないとかということではなく、信仰のことばを受け入れるということ、すなわち、あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、救われるのです。なぜなら、人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。そのためにどこか遠く行くことも、天に上る必要もありません。神の救いのみことばはあなたのすぐ近くにあり、あなたの心にあるからです。

 

Ⅲ.あなたはいのちを選びなさい(15-20

 

最後に15節から20節までをご覧ください。

「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」

 

いのちか死か、幸いかわざわいか、どちらを選ぶのかという二者選択です。もし彼らが主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るなら祝福され、反対に、それに聞き従わず、ほかの神々を拝み、それに使えるなら、必ず滅びうせます。彼らが入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできません。だから、あなたはいのちを選びなさい、というのです。

 

どちらを選ぶのは大切なことです。それは、私たちの選択にゆだねられています。そして、私たちはいのちを選ばなければなりません。しかし、私たちはそれでものろいを選択してしまいます。いのちをえらばなければならないということをわかっていても、自分の欲に負けて誘惑されてしまうのです。ですから、私たちの肉の力ではこうした選択する力さえありません。私たちの心は罪に支配されているからです。しかし、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放してくれました。神はご自身の真理のみことばによって私たちを新しく産ませさせてくださいました。その御霊によって、肉に勝利することができます。そして、いのちを選ぶことができるのです。(ヤコブ1:18

 

ここでモーセは、「天と地とを、証人に立てる。」と言っています。確かにイスラエルが行なっていることを、天と地という二つの証人が見ている、ということです。私たちはいつも、見られています。神ご自身に、自分の心を見られています。この神の御前で、私たちは、「私と私の家とは、主に仕える」と宣言しましょう。その中で、神のみことばを行い、いのちを得る者でありたいと思います。

ヤコブの手紙1章13~18節 「誘惑に打ち勝つ」

きょうは、「誘惑に打ち勝つ」というタイトルでお話しします。この手紙は、主イエスの異父兄弟であるヤコブから、国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれて手紙です。ヤコブは彼らに、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びだと思いなさい。」と勧めました。なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じるということを知っているからです。そして、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となるからです。ですから、試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて義と認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるのです。 きょうのところでヤコブは、こうした試練に打ち勝つことから、私たちの内側から起こる誘惑の問題を取り上げ、その誘惑にどのようにしたら打ち勝つことができるのかを語っています。

Ⅰ.どのように誘惑されるのかを知る(13-16)

第一のことは、どのように誘惑されるのかを理解することです。すなわち、人は自分の欲に引かれて誘惑されて、罪を犯すのだということを知ることです。13節から16節までをご覧ください。

「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」

ここでヤコブは、試練から誘惑の問題に話題を変えています。なぜでしょうか。それは、外側からの困難がしばしば、内側からの葛藤を引き起こすからです。苦しみがあると内なる人が弱まり、罪を犯しやすくなります。そして罪を犯すと、平安と喜びが失われ、さらに堕落していくことになります。同じ試練でも、試練に耐えるなら、その人は成長を遂げた完全な人になりますが、試練に負けて罪を犯すと、神の平安を失ってしまうことになります。ですから、人はどのように誘惑され、罪を犯すのかをきちんと理解しておくことはとても重要なことなのです。

ヤコブはここで、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。」と言っています。なぜなら、神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもないからです。確かに神は人が試練に会うことを許されますが、その試練を誘惑にしてしまうのは、ほかでも私たち自身なのです。たとえば、学生にとって試験はある意味で試練だと思います。卒業試験や国家試験、進学試験、就職試験などさまざまな試験があり、それに合格しないと前に進んでいくことができないわけです。たとえ結果がどうであっても、そのように取り組んだ経験は自分にとって大きな財産となるでしょう。しかし、そんなにすばらしい機会でも、カンニングをしたり、他の悪い方法で成し遂げようとすれば、折角の貴重な機会も台無しになってしまいます。神は試練を与えることを許されますが、それを誘惑にしてしまうのは自分自身なのです。

最初の人アダムとエバも、神から与えられた試練の機会を誘惑にしてしまいました。神はアダムをエデンの園に置かれ、園の中央の木の実についてはそれを食べてはならないし、それに触れてもならないと仰せられました。それにもかかわらずアダムとエバは、悪魔の誘惑に負けて罪を犯し、取ってはならないと命じられた木から取って食べてしまいました。すると神はアダムに呼びかけて言われました。「あなたはどこにいるのか。」アダムは答えて言いました。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」何ということでしょう。人は本来神と交わり、神の栄光のために造られたのに、その神から隠れて、木と木の間に隠れてしまったのです。そこで神は言われました。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならないと命じておいた木から食べたのか。」 さあ、それに対してアダムは何と答えたでしょうか。彼はこのように言いました。

「あなたが私のそばにおいたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)

どうですか、皆さん、アダムは何と言っているんですか。アダムは、自分が園の中央にある木の実を取って食べたのは、あなたが私のそばに置いた女のせいだと、エバのせいにしたのです。エバを自分のそばに置いた神様、あなたが悪いんです、と言ったのです。それで神が、エバに「いったい何ということをしたのか」言うと、女は答えて言いました。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(創世記3:12)こういうのを何と言うんですか。責任転嫁、罪のなすり合いと言います。私たちもよく「どうしてあなたはこんなことをしたのですか」と責められると、無意識のうちに、「だってあの人がこんなことを言ったからです」とすぐに人のせいにするのは、今に始ったことじゃないのです。最初に人間が造られた時から、自分の罪を他人のせいにしようとする本能があったのです。

神は、アダムが自分の意志で神に従うことができるようにとエデンの園に善悪を知る木を置かれたのです。アダムがその置かれた目的をよく理解し、その試練を乗り越えたのであれば、彼は神と交わることができ、大きな喜びに浸ることができたはずです。しかし、彼はそれを自分の満足のために用いることによって罪を犯してしまいました。アダムが罪を犯したのは神のせいではなく、自分の問題でした。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれをも誘惑なさることもないからです。それゆえ私たちは神によって誘惑されたと言ってはならないのです。

それでは、人はどのように誘惑されるのでしょうか。14節と15節をご覧ください。ここには、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあります。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。そして、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。何ですか、「はらむ」とは?「はらむ」とは、胎内に子を宿すこと、妊娠することです。それを「子をはらむ」と言います。ここでヤコブは、人が罪を犯すまでのことを、母親が妊娠して赤ちゃんを産むことにたとえています。つまり、赤ちゃんがお母さんのお腹の中に宿り、胎内で成長してやがてオギャーと産声を上げるように、罪もある日突然パッとふって沸くかのように生まれるのではなく、まず欲望が心の中に宿り、それが妊娠することによって罪を生じるようになるというのです。その罪に生きることによって死を生み出すことになるのです。つまり、聖書で言うところの罪は、単に一つの行為として見るのではなく、誘惑の根源に「欲望」があり、その欲望を助長させることによって行動が生まれ、その結果出てくるのが「罪」であるというのです。ですから、罪は目に見える特定の行動となった時に始まるのではなく、欲望が心の中に宿ることによって、それがやがて罪という行為となって表れてくるというのです。ちょうど赤ちゃんが産まれる前にお腹に宿っているようにです。その赤ちゃんのいのちは、実際に生まれる約十カ月前に始まっているのです。

 

イエス様は山上の説教の中でこのように言われました。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:21-22)

また、こうも言われました。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5-27-28)

人を殺すとか、姦淫するという行為は、実際にそのような行為となって表れるずっと前から、心の中で兄弟に向かって腹を立て、「ばか者」と言った瞬間に、情欲を抱いて女を見た瞬間に始まっているというのです。

ですから、人が罪を犯すのは、神のせいではなく、自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。ここには、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」とあります。それはちょうど魚釣りのようです。私はあまり釣りをしないのでわかりませんが、魚はそれぞれ好みが違うそうです。同じ餌を付けたらどんな魚でもかかるかというとそうではなく、この魚にはこの餌をと、それぞれ好みが違うのです。たとえば、まぐろはいかが好物のようで、今年のマグロ漁はその好物のいがが少なくてあまり取れなかったそうです。しかし、それぞれの好みに合わせて餌を付けてやりますと、それまで安全な岩陰に隠れていた魚がおびき寄せられることになるのです。それは人間も同じで、人それぞれ好みがあって欲が違いますが、それぞれの欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

本来、欲望そのものは神が与えてくださった良いものですが、本来良いものであるはずの欲望がゆがめられて乱用される時、いろいろな問題が起こってくるのです。たとえば、アブラハム・マズローという学者は、人間には五段階の欲望があると言っています。それは生きていく上で必要な基本的な欲望であり、危険やリスクから逃れたいという安全の欲求、仲間や味方が欲しいという帰属の欲求、さらには、人から認められたい、尊敬されたいという心理的欲求、そして、もっと自分の可能性や能力を発揮したいという自己実現の欲求などです。そして、これらのものは必ずしも悪いものではありません。たとえば、お腹が空いたら食べるとか、のどが渇いたら飲む、メッセージを聞いていると眠くなるといったことは、人が生きていく上で必要なものであり、基本的なものとして神が与えてくださったものです。しかし、このように必要なものでも、必要以上に求めすぎると、逆に健康を損なったり、怠惰になったりするという問題が生じます。また、だれかにつながっていたいという思いも悪くはありませんが、それを必要以上に求めますと、いろいろな問題が起こってくるのです。要するに、本来良いものであるはずの欲望が罪によってゆがめられ必要以上に求めることによって、誘惑されるのです。そして、その欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むのです。これが罪のメカニズムです。

 

いいえ、私は大丈夫です、私はあまり食欲がありませんから。しかし、必要以上にだれかにつながっていたという思いが強かったり、人から認められたいとか、尊敬されたいという思いが強い場合もあります。ここには、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されます。」とあります。人それぞれ欲望のタイプが違うのです。それぞれ欲求に違いがありますが、共通して言えることは、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるということです。そして、その欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むということです。すべての罪はその人の心の中の欲望から始まるのであって、神によって誘惑されることは絶対にありません。ですから、だまされないようにしなければなりません。自分が罪を犯してしまったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけないのです。

Ⅱ.神の賜物を見つめる(17)

次に17節をご覧ください。

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」

13節のところでヤコブは、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。」と言いました。なぜなら、神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑されることもないからです。そしてここに、もう一つの理由が書かれてあります。それは、すべての良い贈り物、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るからです。

神の賜物は、贈る動機において不純なものはなく、贈り物そのものも完全です。たとえそれが試練であっても、それはクリスチャンの成長のためであり、クリスチャンの益のためなのです。ですから、神は良い方であり、良い物を賜ってくださいます。その確信を投げ捨ててはなりません。その良い賜物の中でも特に最高の賜物は、ご自身の御子です。神は御子イエス・キリストを私たちに与えてくださいました。このような神が私たちを悪に誘惑するというようなことがありましょうか。ありません。神は私たちに最善のものを与えてくださる方なのです。このことを忘れると、私たちはいとも簡単に誘惑に負けてしまうことになるのです。

ダビデ王はそのことを忘れたために罪を犯してしまいました。ダビデがバテ・シェバと姦淫した後に、預言者ナタンが来てこう言いました。

「イスラエルの神、主はこう仰せられる。「わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに私、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたのふところにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。」(Ⅱサムエル12:7-9)

ここでナタンがダビデに言っていることは、主はあなたにほんとうに多くの良いものを与えてくださったではありませんか。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすんで罪を犯したのかということです。それはダビデが神から与えられている賜物がどんなにすばらしいものであるのかを忘れていたからです。だから誘惑に負けてしまったのです。

私たちも、神から与えられている賜物がどんなにすばらしいものであるかを見失ってしまうと、簡単に誘惑に負け罪を犯すことになってしまいます。そういうことがないように、神はどんなにすばらしい方であるか、神はあなたのために何をしてくださったのか、神があなたに与えられてくださった賜物がどんなに完全で、すばらしいものであるかを、しっかり見なければなりません。

ヘブル人の手紙の著者はこう言っています。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)イエス様から目を離してしまうと、誘惑に陥ってしまいます。しかし、イエス様から目を離さないでいたら、どんな試練にあっても勝利することができます。

アブラハムはどうでしたか。彼は神の召命に従い、自分の生まれ故郷を出て神が示してくださった約束の地に出て行きました。75歳にもなった彼が新しい地に出て行くことは並大抵のことではなかったでしょう。けれども、アブラハムは神のことばを受けた時、すぐに従って出て行きました。それは、神によってもたらされる望みがどれほどすばらしいものであるかを見ていたからです。すなわち、天の故郷にあこがれていたからです。

しかし、彼らが約束の地に入ると、そこで一つの問題が起こりました。それはききんです。それで彼はどうしたかというと、神の約束よりも急に現実的になり、このままではだめだからエジプトに下って行くことにしました。エジプトに行けば何とかなるだろうと思ったからです。しかし、このままいけば自分は殺されるかもしれないと思った彼は、自分の妻を妹だと偽ってパロに差し出したのです。しかし、神が介入してくださり、それがアブラハムの妹ではなく妻であるということをパロに示してくださったので、アブラハムが罪を犯さないで済んだだけでなく、多くの所有物とともにエジプトを出ることができました。それにしても、そんなに信仰に熱心だったアブラハムが、どうして急にそんな愚かなことをしたのでしょうか。それは、神から目を離し、状況を見てしまったからです。

私たちもイエスから目を離した瞬間、私たちの中に迷いが生じ、自分の欲に引かれて、誘惑されてしまうことになります。そのようなことがないように、いつも神に目を留めておかなければなりません。神がどのような方であり、そのために神がどんなにすばらしい賜物を与えてくださったのかをよく考えることです。

「神は、あなたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です。」(Ⅱコリント9:8)

あなたは、どうでしょうか。神の恵みに目を留めていらっしゃるでしょうか。神は移り変わりや、移り行く影がない方であり、あなたに最高の贈り物、完全な賜物を与えてくださったことを認めて、感謝しているでしょうか。

Ⅲ. 御霊によって歩む(18)

最後に18節をご覧ください。誘惑に勝利できると主張してきたヤコブは、そのために誘惑がどのようにしてもたらされるのかを見極め、神が与えてくださる賜物がどれほど完全なものであるのかを見つめるようにと勧めてきましたが、ここではもう一つのことを勧めています。それは、神の御霊によて歩むということです。

「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば、被造物の初穂にするためです。」

神のみこころは、私たちが救われることです。神はそれを真理のみことばによって成し遂げてくださいました。真理のみことばによって私たちをお生みになりましたとはそのことです。私たちは、「血によってではなく、肉の欲求によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:13)それは、私たちを被造物の初穂とするためです。どういうことでしょうか。

初穂とは、穀物の収穫の初物のことです。古代社会では、それは神にささげられるものでした。それは神への感謝に満ちた供え物でした。それは神のものだからです。私たちが真理のことばによって新しく生まれたのであれば、私たちは神のものなのです。神のものであるということは、神に属している者であるということであって、神が働いてくださるということです。神が働いてくださるのであれば、どんな誘惑にあってもそれに打ち勝つことができます。私たちは生まれつきのままでは誘惑に打ち勝つことはできませんが、新しく生まれ変わるなら、それが可能になるのです。

スイスの避暑地に来ていた一人の婦人が、ある日散歩に出かけると、山腹に羊の囲いがあるのを見つけました。中をのぞいてみると、そこには羊飼いがいて、彼の周りには羊が群がっていました。しかし、たった一匹だけ離れた場所に横たわり、苦しんでいる羊がいました。よく見るとその羊は足が折れていたのです。婦人はこの羊をかわいそうに思い、羊飼いにどうしたのかと尋ねました。すると驚いたことに羊飼いの返事はこうでした。

「私がその足を折ったのですよ。」

それを聞いた婦人の顔には悲しみの色が浮かびました。「私の群れの羊の中で、こいつが一番言うことを聞かないんですよ。私の声に絶対に従いません。私が群れを導こうとしてもついて来ないのです。そして危ないがけや目がくらむような深いへりに迷い込むのです。そういうわけで私はこいつの足を折ることにしたのです。それは、こいつだけならまだしも、ほかの羊をも惑わすからです。でも大丈夫でしょう。こいつは完全な変化を遂げてほかの羊の模範になりますから。最初の日、私がえさを持っていくと、こいつは私にかみつきましたが、しばらく間引き離しておき、数日たって、またこいつのところへ行ってみると、今度はえさを食べるばかりでなく、私の手をなめ、服従のしぐさを見せました。折られた足ももうすぐすっかりよくなるでしょう。この羊が回復したら、どんな羊もこいつほど私になつく羊はいないでしょう。仲間を惑わす代わりに、こいつは言うことを聞かないやつの模範となり、案内役となって、他の羊を私が行こうとする道に従わせるでしょう。要するに、この始末に負えない羊の生活に、完全な変化がくるということです。

それは私たちも同じです。主は私たちの羊飼いです。私たちは主の民、その牧場の羊なのです。生まれつきのままでは誘惑に打ち勝つことはできませんが、真理のみことばによって新しく生まれ、完全な変化が与えられたので、この神の力によって誘惑に打ち勝つことができるようになったのです。生まれたままの姿、自分の肉によっては本当に無力で、肉の欲求に負けてしまうような愚かな者ですが、イエス・キリストにある、いのちの御霊によって、罪と死に追いやろうとする誘惑に勝利させていただこうではありませんか。

申命記29章

きょうは、申命記29章から学びます。モーセは28章で神の契約を守る者に与えられる祝福と、神の契約を破る者にもたらされる呪いがどのようなものなのかを語りました。しかも呪いに関する記述の方がずっと長いのです。祝福の6倍ものスペースを割いて語られました。聞いているだけで気が重くなりそうです。しかし、幸いなことは、神の呪いを受けても致し方ないような私たちのために、神の御子であるキリストが身代わりとなって呪いを受けてくださったということです。それゆえに、私たちはこの方にあって神の祝福の中に入れられました。ですから、私たちののろいを一身に受けてくださったイエス・キリストの贖いを受け入れ、へりくだって、神のみおしえに聞き従わなければなりません。 

 1.新たな契約(1-15 

「これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。モーセは、イスラエルのすべてを呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、パロと、そのすべての家臣たちと、その全土とに対して、主があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。あなたがたはパンも食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。それは、「わたしが、あなたがたの神、主である。」と、あなたがたが知るためであった。あなたがたが、この所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグが出て来て、私たちを迎えて戦ったが、私たちは彼らを打ち破った。私たちは、彼らの国を取り、これを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセ人の半部族とに、分け与えた。あなたがたは、この契約のことばを守り、行ないなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。」 

まず1節から8節までをご覧ください。モーセは今、ヨルダン川の東側にいます。そこでこれまでの過去を振り返りながら、イスラエルが約束の地に入って行った後にどうあるべきなのかをこくこくと語るのです。1節には、「これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。」とあります。ここでモーセは、かつてホレブで彼らと結ばれた契約とは別に、新たな契約を結ばせようとしています。それはあのホレブでの契約とは別の新しい契約というよりも、あのホレブで結ばれた契約に追加しての契約といった方がよいでしょう。彼らが約束の地に入ってからどうあるべきなのかを語り、その神の命令に従うようにと結ばれる契約なのです。 

まずモーセは2節と3節で、以前イスラエルがエジプトにいた時のことを思い起こさせています。そこで神がどのような力ある御業を成してくださったのかを確認したうえで、それにもかかわらず神に従わなかったイスラエルの不信仰を取り上げているのです。いったい何が問題だったのでしょうか。4節にその原因が記されてあります。それは、「主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。」ということです。彼らは見てはいても見えず、聞いてはいても聞こえなかったので、神の真理を悟ることができなかったのです。それは今日に至るまで、ずっと同じです。 

イエスはそのたとえの中で、「聞く耳のある者は、聞きなさい。」と言われました。それは聞いてはいても実際のところは聞いていないからです。聞き方が重要です。御霊によって聞き、御霊によってわきまえるのでなければ、神の真理のことばを本当に理解することはできません。

パウロはこう言いました。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2:14-15ですから、私たちは、自分たちのかたくなな心を、神さまによって砕いていただいて、へりくだり、神が教えられていることを知ることができるように祈らなければいけません。 

しかし、それにもかかわらず、神はそのような彼らを滅ぼすようなことはなさいませんでした。5節には、「私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが着ていた着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。」とあります。すなわち、ここで結ぶ契約は彼らの真実さのゆえに結ばれるものではなく、神の真実に基づいた恵みとあわれみによっ結ばれるものなのです。 

6節には、「あなたがたはパンを食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。」とあります。どういうことでしょうか。パンやぶどう酒は祝福の象徴ですが、そのようなものは彼らには必要なかったということです。なぜなら、神ご自身が彼らの祝福だからです。そのようなものは確かに神からの祝福であるのには違いありませんが、その祝福によって心が高ぶって、神などいらないということにもなりかねません。ですから、神は彼らにパンも強いぶどう酒も与えませんでしたが、そのことが返って、彼らが主を知ることにつながりました。その代わりにマナを与えられることによって、彼らは、人はパンによって生きているのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きていることを確信することができました。私たちはとかく自分の目に悪いことが起こったり、何か欠けたものがあるときに主により頼みます。このことが、主を知っていくことの訓練になるのです。 

また、イスラエルの民がこのヨルダン川の東側にやって来たとき、そこにはヘシュボンの王シホンやバシャンの王オグが出てきましたが、イスラエルの民は彼らを打ち破ることができました。そして彼らの国を取り、それを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセの半部族に、与えることができました。 

何という神の御業でしょう。彼らが神の契約を守り、行うなら、彼らは栄え、彼らが想像していた以上の祝福を受けることになるのです。そのことを前提に今、主はイスラエルと新しい契約を結ばれるのです。それは人の従順によってではなく、神の真実に基づいた契約です。 

それでは、その契約を見ていきましょう。9節から15節までをご覧ください。

「あなたがたは、この契約のことばを守り、行いなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている。すなわち、あなたがたの部族のかしらたち、長老たち、つかさたち、イスラエルのすべての人々、あなたがたの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者に至るまで。あなたが、あなたの神、主の契約と、あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるのろいの誓いとに、はいるためである。さきに主が、あなたに約束されたように、またあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられるためである。しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない。 きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。」 

ここには何度も「きょう」ということばが繰り返されています。きょう、いったい何が起こるのでしょうか。モーセはここで「きょう」と言って、契約が今、結ばれることを宣言しています。それはイスラエルの長老たち、つかさたちといった指導者たちだけでなく、イスラエルのすべての人々、彼らの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者に至るまで、すべての人を含んでいます。何の差別なく、全ての人がこの契約の中に含まれているのです。すべての人がこの契約を結ばなければなりません。神は決して呪うために契約を結ばれるのではありません。そうではなく、祝福するために契約を結ばれるのです。そのためには神の契約を守らなければなりません。 

この契約の中に入れられているという自覚を持っているかどうかというこがとても重要です。そうでなければここにある契約はただの絵に描いた餅でしかないからです。この契約の中に自分たちも入れられていると自覚しているから、そのような行動が生まれてまるわけです。 

それは私たちも同じで、私たちもこの契約の中に加えられた神の民であるという自覚がなければ、喜んで神のことばに従って生きていくことはできません。昔神はスラエルをエジプトの奴隷の中から救い出されたように、私たちをイエス・キリストの十字架の贖いによって罪の中から解放してくださったことを思うとき、感謝と喜びをもって心から神に仕えていきたいと思うようになります。 

2.のろいの誓いのことば(16-21 

次に16節から21節までをご覧ください。

「事実、あなたがたは、私たちがエジプトの地に住んでいたこと、また、私たちが異邦の民の中を通って来たことを知っている。また、あなたがたは、彼らのところにある忌むべきもの、木や石や銀や金の偶像を見た。万が一にも、あなたがたのうちに、きょう、その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々に行って、仕えるような、男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主は、その者の名を天の下から消し去ってしまう。主は、このみおしえの書にしるされている契約のすべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族からより分けて、わざわいを下される。」 

ここでモーセは、イスラエル人がエジプトに住んでいた過去と、今いるモアブの地までどのように導かれてきたのか、また、彼らの中にある憎むべき偶像を見たことを思い起こさせています。モーセは、個人であっても、家族であっても、部族であっても、その心が神から離れないように、また、そのような偶像に走ることによって毒草や、苦よもぎを生じる根を、イスラエルの中に生じないように、念を押して注意しています。というのは、このモーセの警告を聞いても、19節にあるように、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、そこに激しい神のさばきが降るからです。 

この19節の釈義は困難です。「潤ったものも渇いたものも」とは何を指しているのか、だれのことばなのかで意味が全く変わるからです。ほとんどの注解書は、これを前節で取り上げられている偶像崇拝者のことばとしてとらえていますが、そうすると前後の文脈の意味が全く通じなくなってしまいます。英語の聖書では、これを神が語られたことばとして解釈しているため、前後の文脈とも合致しとてもわかりやすい訳となっています。すなわち、「こののろいの誓いのことばを聞きながら『私は自分のかたくなな心に従っても大丈夫であろう。』」と自分自身を祝福する者があるなら、神は潤ったものも渇いたものと共に滅ぼし尽くす。」ということです。主はそのような者を決して赦そうとはなさいません。そのような者には激しい主の怒りとねたみが燃え上がり、この書に記されたすべてののろいがのしかかり、主はその者の名を天の下から消し去ってしまいます。 

3.わざわいを下される(22-29 

次に、22節から29節をご覧ください。

「後の世代、あなたがたの後に起こるあなたがたの子孫や、遠くの地から来る外国人は、この地の災害と主がこの地に起こされた病気を見て、言うであろう。・・その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、主が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである。すべての国々は言おう。「なぜ、主はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」人々は言おう。「それは、彼らの父祖の神、主が彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、彼らの知らぬ、また彼らに当てたのでもない、ほかの神々に行って仕え、それを拝んだからである。それで、主の怒りは、この地に向かって燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいが、この地にもたらされた。主は、怒りと、憤激と、激怒とをもって、彼らをこの地から根こぎにし、ほかの地に投げ捨てた。今日あるとおりに。」隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」

 

神との契約を守らない時、神は、その地にわざわいを下されます。後の時代、イスラエルの子孫や、遠くから来る外国人は、その地の災害と主がその地に起こされた病気を見て、こういうでしょう。「その全土は、・・・硫黄と塩によって焼土となり、種も蒔けず、目も出さず、草一本も生えなくなっており、主の怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである」と。また、すべての外国人はこういうでしょう。「なぜ、主はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」それは25節から28節にあるように、それは彼らの父祖の神が、彼らをエジプトの地から連れ出され、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、ほかの神々に行って仕え、それらを拝んだからである・・と。それで、主の怒りが、この地に向かって燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいが、この地にもたらされたからである・・と。 

このようにして見ると、神を捨て、偶像に走る者に対して、神がどれほどの大きな怒りで彼らをこの地から根こそぎにされるかがわかります。そして、それは当時のイスラエルに限らず、この書の契約の中に入れられている私たちも同じです。そして、私たちも自分ではどうすることもできない弱さを抱えた者であることを知ります。 

パウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24と嘆いていますが、それは私たちも同じです。しかし、私たちは、私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。というのは、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。神はご自身の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたからです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求がまっとうされるためです。 

何とすばらしい約束でしょうか。肉においては無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。私たちはイエス・キリストを信じ、キリストの御霊によって生きるとき、その律法の要求を完全に行うことができるからです。ですから、私たちはこのキリストにとどまり、キリストの恵みに信頼して、神のみこころに歩めるように祈り求めていきたいと思います。神は砕かれた、悔いた心をさげすまれません。神の前にへりくだって、キリストの十字架の恵みに歩ませていただきたいと思います。 

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」
 
まだ書き記されていないみことばは、隠されたみことばであり、それは、主のものですが、書き記されたみことば、すなわち、啓示されたみことばは、私たちと子孫のものであります。そのみことばに対して、私たちに責任があるのです。ですから、まだ明らかにされていないことは主にゆだね、既に現わされたことば、すなわち真理の書である聖書のみことばを学び、そのみことばに堅く立って生きる者でなければなりません。そのように歩む者を、神が豊かに祝福してくださるのです。

ヤコブの手紙1章5~11節 「知恵を求める」

きょうは、ヤコブの手紙1章5節から15節のところから、「知恵を求める」というタイトルでお話しします。このヤコブとはイエスさまの異父兄弟のヤコブです。彼は迫害で国外に散っていたユダヤ人クリスチャンを励ますためにこの手紙を書きました。どのように励ましたのかというと、前回の箇所で学んだように、さまざまな試練に会うときには、それをこの上もない喜びと思いなさい、と勧めることによってです。だれも試練を喜ぶ人はいません。それは普通の感情で言えば辛く悲しいものなのです。それなのになぜヤコブは試練を喜ぶように、しかも、この上もない喜びと思いなさいと言ったのでしょうか。それは、試練には目的があったからです。その一つは、試練がためされると忍耐が生じるということです。苦労は買ってでもしろ、と言われますが、なぜなぜ買ってまで苦労をするのかというと、この忍耐が養われるからです。しかし、試練によって信仰がためされている人は苦労を買う必要がありません。すでに与えられているからです。忍耐は試練によって養われるのです。もう一つの目的は、信仰によって生じた忍耐を働かせることによって、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた完全な人になるということでした。つまり、試練を通して信仰が成熟する、大人のクリスチャンになるということです。だから、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい、と言ったのです。

 

きょうのところには、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。」と勧められています。これは前回のところで語られた試練を喜ぶということと無関係ではありません。つまり、さまざまな試練にあうとき、それをこの上もない喜びと思うためには知恵が必要であるということです。知恵とは何でしょうか。知恵とは、与えられた情報や知識を自分の生活の中に具体的に適応する能力のことです。しかし、この知恵とは人間的な知恵のことではなく、神からの知恵のことです。というのは、ここでヤコブは「知恵に欠けた人がいるなら、神に願いなさい」と言っているからです。なぜ知恵なのでしょうか。試練の中において、問題解決のための力や恵み、救出を願わないで、どうして知恵を求めるようにと言っているのでしょうか。それは、成熟したキリスト者となるために、神が成長の機会として試練を与えておられることを理解し、それに適切に応答するためには知恵が必要だからです。

たとえば、先日私が乗っている車が故障しました。車屋さんで見てもらったどうもオルタネーターという発電機が古くなったのが原因で、それを交換すれば問題ないということでした。しかし、この前はセルモーターが故障して交換して、今回はオルタネーターが壊れたということは、他にも悪い箇所が出てくることが考えられるので、そちらの方が心配だということでした。そういえば、夏になるとオーバーヒートの赤いランプがつくんですよと言うと、それはエンジンが確実にやられているということでしょうね。となると、交換してもどのくらい乗られるかわかりません、と言われました。オルタネーターだけの問題ならそれを交換するだけで済みますが、交換してもまた別の箇所に問題が生じるとしたら修理代がもったいなくなります。私としてはできるだけ部品を交換して乗りたいと思っているので、「でもお金がないから部品を交換してもらえますか。乗れるだけ乗りますから。」と言おうかと思いましたが、もうちょっと様子を見てからにしようと、「もうちょっと待ってもらえますか。家内と相談してからご返事したいと思います。どうせこれから年末年始に入るので整備もできないと思いますし。」と言って帰宅してみると、つばの週にはエンジンから焼いているようなにおいがして、今にも車が爆発でもしそうな大きな音がでたので、「ああ、これは無理だ」とはっきりしたので、交換することにしました。

私たちの日々の生活の中にはこういうことがたくさんあります。いったいどうしたらいいかと悩むことが多いのです。車の部品を交換した方がいいのか、買い替えた方がいいのか、やるべきなのか、それともやめるべきことは何か、行くべきなのか、留まるべきか、話すべきか、黙っているべきか・・・本当に悩みます。そのような時に必要なのがこの知恵なのです。人は例外なくさまざまな試練に会います。ちょうど車のエンジンがかからないように仕事でもエンジンがかからない時があります。人間関係でもさまざまなトラブルが起こります。車のブレーキがきかないように自分自身のブレーキがきかないことがあります。感情のコントロールをすることが難しい時があるのです。また予期しない事が突如として起こったりします。そのような時、自分の知識や経験ではどうしたらいいかわからないことがあるのです。そのような時に必要なのが、この神の知恵なのです。きょうは、この知恵を求めることについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.神に願いなさい(5)

 

まず第一に、神に願いなさいということです。5節をご覧ください。

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」

今までは自分の知恵や知識、経験で大丈夫だったかもしれませんが、しかし、それがきかなくなったとき、どうしたらいいかわからないとき、いったいどうしたらいいのでしょうか。ここでヤコブは、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。」と言っています。なぜなら、その知恵は上から来るからです。ローマ16章27節には、神は知恵に満ちた方だとあります。

「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」

神はこの天と地を造られた創造者です。その知恵と力をもってすべてのものを造られました。そして、神は今も知恵と力をもって万物を保持しておられます。神の知恵は私たちの知恵よりも優れていて、私たちが思う以上、考える以上の最善の道を持っておられます。私たちが試練に会い、どうしたらいいかわからず、八方塞がりになったとき、神に知恵を与えてくださるように願わなければなりませな。そうすれば、与えてくださいます。

Ⅰコリント10章13節には、「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」とあります。神は耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。神は耐えることができるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださるのです。

1980年にアメリカの化学メーカー3M社から、糊付き付箋紙ポトスイット(Post-it) が販売されましたが、それがどのようにして発明されたかご存知ですか。それは失敗作から生まれた偶然の産物だったと言われています。この研究所に勤めていた研究員のスペンサーさんは、強力な接着剤を開発しようと研究していたのですがなかなかうまくいかず、失敗ばかりを繰り返していました。その研究の中でよくくっ付くけれどもすぐに剥がれてしまう奇妙な接着剤ができたのです。何かに使えそうだけれども何に使えるかがわからない、しかも、本来の目的であった強力な接着剤を作れないでいたのでとても苦しい状態でした。それから5年くらいした後、いつものように教会に行って聖歌隊として讃美歌のページをめくると、目印にしていたしおりがサッと落ちました。その瞬間彼の頭に「これだ!!」とひらめきました。よくくっつくがすぐに剥がれるものが役に立つものがここにあったと付箋紙を思い出したのです。今ではどこの家でも、どのオフィスでも使われて重宝していますが、このような失敗から新しい発見が生まれたのです。

それは試練も同じです。試練そのものは辛く悲しいように思われますが、そこから教えられることがたくさんあります。神は試練とともに脱出の道を備えておられるのです。ですから、試練に会ってもあきらめないで、その試練の目的は何か、神はそこから何を教えようとしているのかを求めなければなりません。そのためには知恵を求めることが大事なのです。

ヤコブはここで、「その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい」と言っています。神はだれにでも惜しげなく、とがめることなく与えてくださる方です。あの人は特別で、自分はそうではないとか、神はあの人の祈りは聞かれるが、私の祈りは聞いてくださらないということはありません。だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださいます。なぜなら、神は私たちに神の御子を与えてくださったからです。ローマ8章32節にはこうあります。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

ありません。最愛のひとり子を与えてくださったのであれば、どうして御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないわけがあるでしょう。子どもが魚をくださいというのに、ちょっと格好が似ているからと、魚の代わりに蛇を与えるような親がいるでしょうか。卵をくださいというのに、さそりを与えるような親がいるでしょうか。してみると、私たちは悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っています。であれば、なおのこと、天の父が、求める者たちに、どうして聖霊を、知恵を与えてくださらないことがあるでしょうか。ないです。求めるなら、与えられるのです。ですから、どうぞ神に求めてください。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:24)すばらしい約束ですね。求めるなら受けるのです。ですから、キリストの名によって父なる神に求めてください。そうすれば受けるのです。

皆さんはどうでしょうか。今どのような試練の中にあるでしょうか。どのような苦しみがあるでしょう。どうしたらいいかわからない、八方塞がりの状態ですか。そうであればどうぞ祈ってください。どうしたらいいのか、何が神のみこころなのか、祈ってください。そうすれば、きっと与えられます。自分でも思いもつかなかったような知恵が与えられます。それは意外とシンプルなことかもしれません。気付いていないことかもしれない。でも神はそんな気づきを与えてくださるでしょう。

Ⅱ.信じて願いなさい(6-8)

次に6節から8節までをご覧ください。

「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」

もし、知恵に欠けた人がいて、その人が神に願うなら、神はその知恵を与えてくださいます。しかし、そこには一つの条件があります。それは、少しも疑わずに、信じて願うということです。「信じます、お願いします」と言っておきながら、心の中で、「でも無理だよな、どう考えてもできるわけがない」と思っているとしたらそれは半信半疑ということであり、主から何かをいただけると思ってはなりません。信じるとは疑わないことです。そこには疑う余地がありません。

ヘブル11章6節をご覧ください。そこには、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければなりません。」とあります。ここで神に近づく者に求められていることは何でしょうか。それは、神がおられるということと、神を求める者には報いてくださるということを信じることです。そうでなければ神に近づくことはできません。ですから、神に近づく者には、信仰が求められているのです。

イエスさまはこう言われました。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:22)

ただ信じるのでなく、疑わずに信じることが大切です。そうすれば、山も動きます。私たちの人生にはいろいろな山があります。この問題はどうしても動かないと思える山があります。しかし、心の中で信じて疑わず、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになると主は言われました。

皆さん、私たちの祈りが聞かれるには、心の中で疑わずに信じることが重要です。「主よ、信じます。」これだけです。「主よ、信じます。でも、これは考えられないことです。」とか、「主よ、信じます。しかし、あまり期待はしていません。」というのでは、主も答えようがありません。どっちなの?信じているの、信じていないの、はっきりしてちょうだいと言われそうです。信じますと言った後で、「しかし」とか「もし」ということばがつくと、すぐに疑いが生じてきます。さっきまで信じていたのに、すぐに疑いが始まるのです。そういう人は何に似ているでしょうか。そういう人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。波は何に左右されるかというと、風ですね。風が吹くと揺れ動きます。強風になると大波になります。

私たちの心はどうでしょうか。私たちの心は何に左右されるでしょうか。状況です。状況が安定していると私たちの心も落ち着いていますが、状況が悪くなったとたんに、私たちの心も揺さぶられます。問題が大きくなればなるほど、私たちの心も大きく揺れるのです。私たちは目に見えることによって右往左往してしまうのです。しかし、信仰は見えるものではなく、見えないものに目を留めます。なぜなら、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)だからどんなに状況が悪くても信仰によって歩むなら、心が安定するのです。しかし、信じていても「でも」とか「もし」という疑いがあると、不安定な心になってしまいます。それは二心のある人で、そのような人の歩みは、当然不安定なものとなります。

あるとき、イエスさまのもとに、悪霊につかれた息子を連れて父親が助けを求めてやって来ました。この息子に霊がとりつくと、所かまわず彼を押し倒し、あわを吹いたり、歯ぎしりしたりするので、どうしたらいいかわからず弟子たちのところに連れて来たのですが、弟子たちにはこの霊を追い出すことができませんでした。すると、イエスは彼らの不信仰を嘆かれ、「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と尋ねると、父親は、「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も日の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言うと、イエスさまはこう言われました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)するとこの父親はすぐに、「信じます。不信仰な私をお助けください。」と言って、息子から悪霊を追い出していただきました。

私たちもすぐに疑って、「もしおできになるなら」と言ってしまう者ですが、「信じます。不信仰な私を助けてください。」と言って、少しも疑わないで信じる者でありたいと思います。油断すると人はすぐに不信仰に陥ってしまいます。それが人の性(さが)というか、生まれつきの性質なのです。状況が悪くなればなるほど、疑いしか出てきません。しかし、そのような時こそ信仰を働かせ、信じて願い求める者でありたいと思います。

Ⅲ.神に望みを置いて(9-11)

最後に9節から11節までを見て終わりたいと思います。

「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。」

ここには、貧しい境遇にある人は、自分の高い身分を誇るように、また、逆に、富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持つようにと勧められています。これはどういうことでしょうか。

この手紙は迫害によって国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らは迫害や試練によって家や財産を失い、貧しくなっていました。それは経済的な貧しさだけでなく、社会的にも身分が低くされることも含まれていました。しかし、そのような貧しさの中にいても、自分の価値を低くみる必要はありません。なぜなら、そのような人たちは、神によって高い身分にされているのですからです。すなわち、人の価値は家柄や社会的な地位や物質的な豊かさによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によってもたらされる霊的資源によって決まるのです。イエス様を信じて神の国に入れられているのであれば、神の子としての特権が与えられているのですから、最高の身分が与えられているということであって、それを誇ればいいのです。逆に、どんなに富んでいたとしても、この特権を受けていなければ永遠に失われた者なのであって、それは最も悲しいことであり、哀れです。なぜなら、富んでいる人は、草の花ようにすぐに過ぎ去ってしまうからです。太陽が熱風を伴って上ってくると、草を枯らしてしまうのです。すると、その鼻は落ち、美しい姿は滅びてしまいます。そのことを、イザヤはこう言っています。

「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:6-8)

皆さん、人は草です。その栄光は野の花のようなんです。すぐにしぼんでしまいます。すぐに枯れてしまう。どんなにきれいに咲き誇っていたとしても、やがて滅びてしまいます。それほどはかないものなのです。そんなはかないものでどんなに誇ったところで、それがいったい何になるというのでしょうか。やがてすぐに消え去ってしまいます。しかし、主のことばはとこしえに堅く立ちます。そこに目を留めることができなければ、人生はほんとうに空しいものなのです。

パウロはテモテにこのように書き送りました。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならないと実に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)

これが神の知恵です。このような正しい価値観は、神の知恵によらなければ持つことはできません。神様を信じるまでは物質的な豊かさこそ人生の豊かさであるかのように思い込んでいましたが、イエス・キリストを通して永遠のいのちがあることを知った時、人生の豊かさはそうした物やお金の豊かさにあるのではなく、ただ神に信頼し、神に望みを置くことによってもたらされる霊的資産いかんによってはかられるものであることがわかりました。それは神の知恵によるのです。ですから、この神の知恵を持つということが私たちの人生にとってどれほど重要であるかがおわかりかと思います。

この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは、試練によって貧しい境遇になったかもしれない。しかし、低くされるということは謙遜にされるということであり、謙遜にされることによって、人の価値が何なのかがはっきりわかるようになりました。ですから、試練は感謝なのです。試練に会うときは、それをこの上もない喜びだと思いなさいと言われているのです。そのためには、神の知恵が必要です。神の知恵によって、そのことにハッと気づかされるのですから・・。

 

あなたは何に信頼を置いていますか。あなたが信頼を置いているものは、本当に頼りになるものでしょうか。私たちが信頼しなければならないのは神ご自身です。見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠に続くからです。ここに望みを置いて歩んでまいりましょう。そのために、神の知恵が与えられるように、少しも疑わずに、信じて願い求めましょう。