きょうは、「祝福を受け継ぐ者」というタイトルでお話ししたいと思います。ペテロは、異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさいという勧めを、それぞれの立場の人たちに具体的に勧めてきました。きょうのところには、こうした具体的な勧めのまとめとして、どうすれば祝福を受け継ぐことができるのかを教えられています。
Ⅰ.心を一つにし(8)
まず8節をご覧ください。
「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。」
「最後に申します」の「最後に」とは、2章11節以降語られてきたことを受けてのことです。ペテロは、神の民とされたクリスチャンはこの地上でどのように生きていくべきかというテーマに対して、この地上にあっては旅人であり寄留者であるのだから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけ、異邦人の中にあっても、りっぱにふるまいなさい、と勧めました。そして、その具体的な内容が「従いなさい」ということだったのです。人の立てたすべての制度に、主のゆえに従うように。また、主人に対しては、尊敬の心を込めて服従するように。それは善良でやさしい主人に対してだけではありません。横暴な主人に対してもそうです。同じように、妻たちも、夫たちも、互いに服従しなければなりません。それはすべての人に言えることなのです。ですから2章17節には、「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」とあるのです。こうした内容を受けて、ペテロが最後に勧めていることが、これなのです。
ペテロはまず、「あなたがたはみな、心を一つにし」と言っています。心を一つにするとは、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにすることです。教会が主を愛し主に仕えるとき、それと同じ方向を向くことなのです。いったいどうしたら同じ方向を向くことができるでしょうか。ここには、そのために四つのことが挙げられています。それは同情し合うこと、兄弟愛を示すこと、あわれみ深くあること、そして謙遜であることです。自然に一つになることはありません。私たちはみなそれぞれに思いがあり、考えがありますから、その思いや考えに従っていたらいつまでたっても一つになることはできません。私たちが一つになるためには互いに同情し合い、互いに兄弟愛を示し、互いにあわれみ深く、互いに謙遜にならなければなりません。ここで「互いに」と言ったのは、私たちは一人では神の神のみこころを行うことはできないということです。一人で静かに神との交わりを持つことは大切です。しかし、神のみこころは、私たちが互いに愛し合うことなのです。そのためには他の兄弟姉妹との交わりは欠かせません。だから教会があるのです。神のみことばを実践する場として、神は教会を与えてくださいました。私たちは互いを必要としているのです。私たちは教会を通して共に主を礼拝し、共に祈り、共に交わり、共に仕えるのです。そこにはいろいろな性格の人やいろいろな考えの人がいますから、必ずしも自分の思うようにはいかずしばしば苦悩することもありますが、神はこの教会を通してご自分のみこころを成し遂げようとしておられるのです。そして、そのような問題を乗り越える力も与えておられます。それが御霊の一致です。
ピリピ人への手紙2章1~3節をご覧ください。
「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされているように、あなたがたは同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」
これは使徒パウロの言葉ですが、パウロはどうしたら心を合わせ、志を一つにすることができると言っているでしょうか?キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、です。これは自分の意志によってできることではありません。キリストにある励ましとキリストにある慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみがあるなら、です。だからパウロはここで、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者となりなさい。」と言っているのです。自分の考えに固執していたら、いつまでたっても一つになることはできません。ですから、私たちの一致は人間的なものではなく、キリストに従い、キリストの愛と慰めによってもたらされる御霊の一致なのです。そのとき初めて同じ方向を向くことができる。それがへりくだるということなのです。
ペテロはここで同じことを言っています。心を一つにするということは全体が一つにまとまるように体裁を整えるということではありません。それは互いに同情し合い、互いに愛し合い、互いに共感し合い、互いに尊敬し合うという御霊の一致によってもたらされるものなのです。相手に同情するとき、その人と心を一つにすることができます。兄弟姉妹として愛するときも同じです。人はだれでも完全ではありませんので、時として嫌だなぁと思うこともあれば、受け入れられないこともありますが、それでも神のみこころに従って同情し、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜であるなら、その人と一つになることができるのです。
「そんなことできません。私は嫌です。私にはできません。私は自分の信念に従って決めるのであって、決して人の言いなりにはなりません。」皆さん、どうですか?このような人の問題は、いつも自分が中心であることです。神のみこころがどうであっても自分の思いや考えに従っているかぎり、何の解決も生まれてきません。このような態度ではいつまでも心を一つにすることはできないばかりか、神からの祝福も失ってしまうことになります。それは、自分がどのような者であるのかという根本的な理解が欠如していることに起因しています。ですからペテロは2章9節と10節のところでこのように言っているのです。皆さんで読んでみましょう。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
ペテロがこのように語るのは、この御言葉に基づいているからなのです。すなわち、私たちはどのような者なのか、そうです、私たちは神の所有とされた民です。私たちの古い性質はキリストとともに十字架につけられました。もはや私たちが生きているのではなく、キリストが私たちのうちに生きているのです。いま私たちがこの世に生きているのは、私たちを愛し私たちのために命を捨ててくださった神の御子を信じる信仰によっているのです。これは、私たちは神の所有とされた民であるということです。神の民、神のしもべ、それがクリスチャンです。しもべは主人に従います。ですから、神のしもべであるクリスチャンは神に従うのです。それをしたくないと言うなら、それは園人の信仰の理解に問題があるのか、そもそも罪から救われるということがどういうことなのかを理解していないからなのです。私たちが神の所有とされた民であるのなら神に従うのが当然であって、私たちがどのように思うかとか、どのように考えているかは関係ないのです。私たちが神の御言葉に従って互いに同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜であるなら、心を一つにすることができる。それが神からの祝福を受け継ぐ者なのです。
Ⅱ.かえって祝福を与えなさい(9)
次に9節をご覧ください。ここには、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えるということは、パウロも言っています。ローマ人への手紙12章17節には、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」とあります。また、それはイエス様ご自身の教えでもありました。少し長いですが、マタイの福音書5章38~45節をお開きください。
「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、2ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」
「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」とか、「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」といったことは、なかなかできることではありません。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、というのは頭ではわかってもいざ実行に移そうとしたら簡単なことではありません。
アメリカにラインホルト・二―バーという神学者がいますが、彼はこれを現実の世界で実践することには無理があると言っています。そんなことをしたら家族は守れないし、国は滅びてしまいます。神の国が完成していない今の世界にあっては、これは理想論にすぎず現実的には不可能なことなのだから、その理想をそのまま現実の社会の中で実践することはできない、というのです。どうでしょうか?
それに対して、ハワード・ヨーダーという神学者は、聖書の教えは、私たちがそれをどのように受け入れるかということ以上に、イエス様と弟子たち、そして初代教会の人たちが、それをどのように受け止めていたのかをまず第一に考えるべきだ、と言いました。つまり、イエス様やペテロが、「悪に対して悪に報いず、侮辱に対して侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。」と言われたとき、それをどのように受け止めていたのかを考え、それを実際に受け止めるということです。それは理想論ではなくて、現実的なリアリティーをもったテーマとして、当時の初代教会の人たちがきちんと受け取っていたように受け止めるということです。確かにこの世の現実という問題はありますが、あくまでも私たちの現実に聖書を合わせるのではなく、聖書の教えに私たちの現実を合わせていかなければならない、というのです。
それを実践した人がいます。私の手元に「闇に輝くともしびを継いで」(Take the torch shining in the Dark)という本がありますが、これを読んでとても感動しました。これはスティーブン・メティカフ(Stephen A. Metcalf)というイギリス人宣教師が書いた本です。彼は1952年にOMFの宣教師としてイギリスから来日し38年間日本で宣教活動を続けられました。そして、1990年に母国に帰国されました。彼は青森を中心に5つ6つの教会を開拓されました。私も開拓伝道者のはしくれとして、開拓伝道の厳しさを知っている者ですが、東北地方の端のような所で教会を建て上げることは並大抵のことではなく、相当のご苦労があったかと思いますが、メティカフ先生は、それを実践されました。いったいどこからそんな宣教のスピリットを得ておられたのでしょうか。
それは、あの映画「炎のランナー」のモデルとなったエリック・リデルとの出会いによるのです。エリック・リデルは、1924年に行われたパリオリンピックで男子100メートル走の代表に選ばれていながら、その予選がどうしても日曜日の午前中にあたる、自分はどうしても神様を礼拝したいということで、代表を辞退しました。そして代わりに400メートルリレーのアンカーを走り、イギリスに金メダルをもたらすのです。彼は最下位でバトンを受け取って、なんとトップに躍り出て優勝したのです。これは実話です。
一躍ヒーローとなった彼は、すべての陸上競技を捨てて、ハドソン・テーラーとともに、中国の奥地に福音を伝えるために、宣教師となって生涯をささげるのです。しかし、太平洋戦争がはじまり、妊娠中の妻と二人の娘を母国に戻し、残務処理をするために一人残っていたところを日本軍につかまり、上海の日本軍の強制収容所に入れられました。しかし、エリック・リデルはその収容所でも聖書のクラスを開いていました。そこにいたのが当時14歳だったメティカフ少年だったのです。宣教師の子どもたちが学んでいた学校の生徒であったメティカフ少年も同じ収容所に入れられ、共に暮らすようになり、エリック・リデルが教えるその聖書のクラスで学んでいたのです。
そして「山上の垂訓」を学んでいたときに、少年たちから質問が出されました。「『汝の敵を愛せよ』とキリストは言っているが、そんなことは実際にできっこない。これは単なる理想なのではないか?」彼らにしてみたら、その時の敵とは自分たちを散々いじめていた日本兵でした。するとリデルは微笑みながらこのように言いました。「ぼくもそう思うところだったんだ。だけど、この言葉には続きがあることに気が付いたんだよ。『迫害する者のために祈りなさい。』ってね。・・イエスは愛せない者のために祈れと言われたんだ。だから君たちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、君たちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、君たちは神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りは君たちの姿勢を変えるんだ。」そういうリデル自身、毎朝早く起きて日本と日本人のために祈っていました。リデルは脳腫瘍で間もなく収容所で亡くなりますが、しかし、メティカフは、その墓前で、リデル先生が残した仕事をするために「宣教師になって日本へ行く」という決意をするのです。そしてハドソン・テーラー宣教団体に入り、やがてOMFの宣教師として来日、1953年から38年間、日本人のために伝道し、神様の愛を伝えたのです。彼の人生を変えた言葉、それは「祈るとき、君は神中心の人間になる。祈りは君の姿勢を変える」という言葉だったのです。
だから、不可能ではないのです。聖書の教えに自分の現実を合わせていくことができるのです。祈るなら神中心の人になることができる。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。私たちが神の言葉である聖書に自分を合わせていくのなら、私たちも神の人に変えられるのです。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えることができる。
いったいなぜクリスチャンは悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなければならないのか、ペテロはその理由を次のように言っています。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」どういうことでしょうか。これは三つの意味に捉えることができると思います。
一つは、私たちは祝福を受け継ぐように召されているということです。だから、どんなことがあっても祝福されるということです。たとえ敵が私たちに悪意をもって向かって来ようとも、たとえ敵が私たちを侮辱するようなことがあっても、神が私たちを守り、助けてくださいます。私たちは祝福を受け継ぐために召されているのだからです。私たちがすべきことは悪をもって悪に報いることではなく、侮辱をもって侮辱に報いることでもなく、かえって祝福を与えることです。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることなのです。
第二のことは、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えることによって、その祝福が倍になって返ってくるという解釈です。悪に対する報復は何も生み出しません。生み出すものがあるとしたら、それは悪意の増幅です。しかし、祝福を祈るとき、その祝福は悪を行う者に注がれ、それが自分自身への祝福となって跳ね返ってくるというのです。
しばらく前に「倍返し」という言葉が流行になりました。「やられたらやり返す。倍返しだ!」これはドラマ「半沢直樹」の名言というか、決めセリフで、2013年の流行語大賞になりました。なぜこのセリフが人気あったのかというと、スカッとするからでしょ。やられたらやり返す、いや、倍返しにしたら、どれほどスカッとすることか・・。しかし、実際にはできないのです。やられたらやられっぱなしです。ですから、あのドラマのように倍返ししている人を見ると、気持ちがスカッとするわけです。みんなそうなんだと思いますよ。でもそんなことをしたらどうなるのかもわかっている。だからできないわけです。だからいつも心がムズムズするのです。そして赦せないという気持ちでいっぱいになり、だんだん暗くなっていく。だからそこには何の解決もありません。悪に対して報復しても何も良いものは生まれてこないのです。ではどうしたらいいのでしょうか。かえって祝福を与えるのです。なぜなら、あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。そのように祝福を与えることによって、その祝福が倍になって返ってくる。祝福の倍返しです。
第三に、私たちには祝福するという使命が与えられているということです。召命という言葉を聞くとき、私たちは自分にはどのような召しが与えられているのかと悩むことがありますが、そのような思いはとかく、自己実現のような、自分自身の可能性を求めるものになりがちです。けれども、聖書は、何のために私たちを召してくださったのかを、はっきりと書いています。それは「祝福を受け継ぐため」、「祝福を与えるため」です。皆さん、私たちは何のために召されたのでしょうか。祝福を与えるためです。皆さんはどのように祝福を与えているでしょうか?神様から呼びかけられているのは、「ほら、あそこにいる人を、祝福しなさい」「ここにいる人を、祝福しなさい」ということであって、呪うことではありません。
それはアブラハムの生涯を見るとわかります。創世記12章1~3節には、「主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』」とあります。
いったいアブラハムは何のために召されたのでしょうか。それは祝福の基となるためです。地上のすべての民族は、彼によって祝福されるのです。そのために召されたのです。同じように、私たちもそのために召されました。地上のすべての民族はあなたを通して祝福されるように、あなたは召されたのです。それは正確に言うと、あなたの信じた救い主イエス・キリストを信じることによってという意味です。あなたは祝福するために召されたのであって、のろうためではありません。どうしたら悪をもって向かってくる相手を祝福することができるのでしょうか。たとえ相手が悪をもって向かってくるような人であっても、尊敬の心をもって従い、その人の上に神が働いてやがておとずれの日に神をほめたたえるように祈ることによって、祝福を与えることができるのです。私たちはそのために召されているのです。そのことを信じ、従う者でありたいと思います。
Ⅲ.すべてを神にゆだねて(10-12)
第三のことは、すべてを神にゆだねましょう、ということです。10節から12節までをご覧ください。ペテロは、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐだめに召されたのだからです。」ということを説明するために、旧約聖書の言葉を引用して、次のように言っています。
「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」
これは詩篇34篇からの引用です。ここで、その詩篇34篇を開いてみたいと思います。ペテロが引用しているのは詩篇34篇12~16節の部分です。冒頭に表題がありまして、そこには、「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気が狂ったかのようにふるまい、彼に追われて去ったとき」とあります。ダビデはサウル王の嫉妬と悪意によって殺されかけ王宮を追われ、国外での逃亡生活を余儀なくされました。その逃亡生活の中で、ダビデがペリシテ人の王アビメレクのもとに逃げ込むと、彼がサウル王のもとから逃げて来たことが分かり、アビメレクはダビデを殺そうとしました。そのときダビデはどうしたかというと、気が狂ったふりをしたのです。口からよだれを垂らして泡を吹き、気がくるっているかのように振る舞いました。(Ⅰサムエル21:13)サウル王に王宮を追われたことも屈辱であれば、追われた先で再びいのちを狙われ、その難を逃れるために気が狂ったふりをしなければならないことはもっと惨めです。しかし、そのような苦しみの中から助け出されたとき、彼はこのように主を賛美しました。6~10節です。
「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」
ダビデは自分のことを「悩む者」と呼んでいます。その悩む者が呼ばわったとき、主は聞いてくださいました。こうして主はすべての苦しみから彼を救ってくださった。彼は、主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出されるということを確信し、この主のすばらしさを味わい、これを見つめよ、と歌ったのです。若い獅子も乏しくなって飢えるが、主を尋ね求める者には、良いものに何一つ欠けることはない、と神を賛美したのです。つまり、どんなに周囲から非難されても、悪意を向けられても、呪われても、批判されても、神様は私を愛し、私を守ってくださるがゆえに、この主に身を避けると賛美したのです。
私たちの人生においても、ものすごい失望と屈辱を味わうような時があります。しかし、それでも、悪に悪をもって報いたり、侮辱に侮辱をもって報いたり、人間的な方法で打って出ないのは、神様が私を守ってくだるという確信があるからです。私たちはそのように召されているからです。どんなことがあっても神は私を助け、私を祝福してくださるということがわかっていれば、そうした失望や屈辱を味わうようなことがあっても、それを乗り越えることができる。いや、そうした相手さえもかえって祝福することができるのです。
ダビデは、この経験に基づいて、悪をなす者に対して悪をもって報いず、神にすべてをゆだねることを学びます。それが13~16節の言葉です。
「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。」
私たちは時に、悪口を言う者に対して、実際、直接に言い返した方が効果的のある場合もあります。しかし、多くの場合、それを行うとき、私たちの中にある怒りや苦々しさといった感情が入ってしまい、冷静に言えないものです。そしてかえって人間関係を悪くするのが落ちです。ですからダビデは、「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。」と言っているのです。言葉を慎むことを学び、「主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。」と言って、そのさばきを神にゆだねるようにと語るのです。ペテロがダビデを引用した狙いはここにあったのです。
私たちはその人生の中で、色々な人とぶつかります。すべての人が自分のことをよく思ってくれるのであれば良いのですが、そういう人はめったにいません。私たちのことをよく思っていない人がいれば、直接悪意をもって向かってくる人もいます。しかし、私たちはそんな人に対しても、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えることができます。なぜなら、私たちは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対することができるでしょうか。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)
私たちは神に深く愛されているのです。どんなことがあっても神はあなたを助け、あなたを守ってくださいます。なぜなら、あなたは祝福を受け継ぐために召されたのですから。それゆえ、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねましょう。神があなたがたのことを心配してくださいます。あの人が祝福されるなんて許せない、などといったケチをつけずに、かえってその人の祝福を祈りましょう。それが、あなたが祝福を受ける道なのです。