申命記18章

きょうは、申命記18章から学びます。まず1節から8節までをご覧ください。

 

1.主ご自身が、彼らの相続地(1-8)

 

「レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。祭司たちが民から、牛でも羊でも、いけにえをささげる者から、受けるべきものは次のとおりである。その人は、肩と両方の頬と胃とを祭司に与える。あなたの穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物も彼に与えなければならない。彼とその子孫が、いつまでも、主の御名によって奉仕に立つために、あなたの神、主が、あなたの全部族の中から、彼を選ばれたのである。もし、ひとりのレビ人が、自分の住んでいたイスラエルのうちのどの町囲みのうちからでも出て、主の選ぶ場所に行きたいなら、望むままに行くことができる。彼は、その所で主の前に仕えている自分の同族レビ人と全く同じように、彼の神、主の御名によって奉仕することができる。彼の分け前は、相続財産を売った分は別として、彼らが食べる分け前と同じである。」

 

ここには、イスラエルの民が約束の地に着いてから、祭司たちの生活に対してどのように責任を果たさなければならないか、そして、祭司とレビ族は、イスラエルといっしょに相続地の割り当てを受けてはならない、とあります。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはなりませんでした。なぜでしょうか。 それは主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地であったからです。これはどういうことでしょうか。

 

詩篇16章5節と6節のところで、ダビデは「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。 」と告白しています。信仰者にとっての最高の分け前は、この地上的な分け前ではなく、永遠の分け前である主ご自身です。その神とのかかわりの中でいのちを掘り起こすべく務めがゆだねられているということはすばらしい特権なのです。そうした彼らの生活がちゃんと守られ支えられるように、イスラエルのそれぞれの部族から十分の一のささげものを受けて養われていました。さらに祭司はレビ人によってささげられた十分の一のものをもって養われていたのです。神の国とその義を第一にするなら、それに加えて、すべてのものが与えられます。

 

そればかりではありません。3節を見ると、祭司は、いけにえの肉の上質の部分、またぶどう酒や油の初物、羊の毛の初物など、上等な部分が割り当てられたことがわかります。最も良いものを受けたのです。

 

いったいなぜ彼らはそれだけ手厚く支えられたのでしょうか。それは、彼とその子孫が、いつまでも主の御名によって奉仕に立つことができるためでした。つまり、彼らの奉仕によって神のことばと福音宣教の働きが続けられていくためです。神のことばこそが最高の宝であり、このみことばに仕えるために全部族が一体となって彼らの生活を支えたのです。

 

2.忌みきらうべきならわしをまねてはならない(9-13)

 

次に9節から13節までをご覧ください。

 

「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。」

 

イスラエルの民はこれから約束の地に入って行きますが、彼らがその地に入って行くとき、その地の住民の忌みきらうべきならわしをまねてはいけません。そこにはもう、これまでイスラエルを導いてきたモーセはいません。彼らが拠り頼むべき神のことばを聞くことができなくなるときそれをどのようにして補うのかというと、その地の住民が拠り所としている占い師やまじない、呪術に伺いを立てることによってです。それは私たちも同じで、私たちも霊的にダウンしていると、神のことばではなく、人のことばや人のアドバイス、人の考え、また占いのようなものに頼りたくなってしまいます。けれども、そうであってはいけません、主に対して全き者でなければならないのです。なぜでしょうか。それは、これらのことを行う者をみな、主が忌みきらわれるからです。私たちは、私たちの中からこれらのものを追い払わなければなりません。

 

3.私のようなひとりの預言者(14-22)

 

次に14節から22節をご覧ください。前の箇所では、彼らが約束の地に入って行くとき、その地の住民たちの忌みきらうべきならわしをまねてはならないと言いましたが、ここには、それではモーセがいなくなってしまたらどのようにして神のことばを聞くことができるかが書かれてあります。それは15節にあるように、「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる」ので、彼に聞き従わなければならないということです。「私のようなひとりの預言者」とは、いったいだれのことでしょうか。

 

イスラエルの歴史においてモーセの次のイスラエルの指導者、モーセの後継者はヨシュアでした。神はヨシュアをとおしてご自身のみことばを語り、イスラエルの民を導かれました。そしてその後士師たちの時代にも預言者としての働きをした者があり、最後の士師であったサムエルの時代には預言者学校のようなものがありました。そして王国時代にも預言者たちが存在し、その活動を活発化していきます。その代表がエリヤとエリシャでした。王も祭司もだれも神の律法を教えない暗黒の中で、神はエリヤとエリシャを立てて、神のことばを人々に語らせたのです。そうすることで、神に背くイスラエルを霊的に改革し、彼らを滅びから救おうとされたのです。

 

ですから、モーセのようなひとりの預言者とは、歴史的に言えばモーセの後継者であるヨシュアのことのように考えられますが、ここではヨシュア以上の、いや、ヨシュアが指し示していた完全な預言者のこと、そうです、それはイエス・キリストのことでした。というのは、確かにヨシュアはモーセの後継者でしたが、モーセのような預言者ではなかったからです。ヨシュアは他の預言者同様、夢や幻で神のみこころを知りましたが、モーセはそれとは違い直接神と語りました。あるとき、モーセの姉のミリヤムが彼をねたんで彼を訴えましたが、そのとき主は彼女とアロンとモーセを、ご自分の前に連れて来られて、こう言われました。

「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」(民数12:6-8)

ですから、モーセのような預言者はほかにはいないのです。そのような預言者とは、究極の預言者であり、預言者の完成である第二のモーセとしてのイエス・キリストを指し示していたのです。

 

このモーセのようなひとりの預言者は、後の時代、特に自分たちの背信によって自分たちが滅びた後には、メシヤ的大預言者として考えられるようになりました。ですから、人々は自分たちを滅びから救い出してくれるひとりの預言者の劇的な出現を待ち望むようになっていたのです。それでイエス様が来られたときに、しばしば「あの預言者」と呼ばれるようになったのです。(ヨハネ1:21,6:14,7:40)つまりイエス・キリストこそ預言者の中の真の預言者であり、預言者たちが預言した「預言」そのもの、すなわち、神のことばそのものであったのです。

 

ヨハネによる福音書1章1節には、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と証言されています。イエスこそ神のことばであり、神そのものだったのです。また、ヨハネ1章17節には、「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」とあります。モーセが律法を与えましたが、神の恵みとまことはイエス・キリストによって実現しました。イエス様は神を見たとか、神からことばを受けたというだけでなく、神そのものであり、神のことばをもっておられた方だったのです。イエスを見た者は父を見たのです。(ヨハネ14:9)私は今、多くのことばをもって神を説明していますが、でも、直接、神が来られたら、そんな無駄なことは必要ありません。神が直接語り、見せて、教えてくださるからです。それが神の子イエス・キリストだったのです。

 

モーセの時代にはモーセという預言者が立てられ、その預言者のことばを通して人々は神のことばを聞きました。それは、神がシナイ山に現れた時のように、雷鳴とともに神が現れたら、人々は恐怖に打たれて神のことばを聞くことができなかったからです。それで神は預言者なる人物を立ててご自身のことばを語らせましたが、その立てられた人が必ずしも忠実にみことばを語ったかというとそうではなく、その結果、滅びを招いてしまうことがありました。ですから、神は最終的に直接この世に来られ、私たちの間に住まわれて、ご自身のことばを語ってくださいました。私たちはこの生ける神のみことばであられるイエス様によっていのちを得ることができます。だからこの方のことばを聞かなければならないのです。

 

ここには、神に遣わされていないのに、自分が預言者だと自称している者も出る、とあります。そのような預言者は死ななければなりません。いったいどうやってそれを見分けるかができるのでしょうか。それは、その預言者が主の名によって語ってもそのことが起こらず実現しないなら、それは主が語られたことばではないということです。

 

その点、イエス様のことばはことごとく成就しました。イエス様が言われたことばは、何一つ実現しないで、地面に落ちることはありませんでした。このことばこそ、私たちが聞かなければならないことばなのです。モーセのような預言者、それは来るべきメシヤ、イエス・キリストことだったのです。

 

申命記17章

 きょうは、申命記17章から学びます。これは1618節からの続きです。1618節には、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。」とありました。これは、イスラエルの民が約束の地に入った後に、神に対して、また人に対して罪を犯した時、どのようにその人をさばかなければならないかということです。そして、そのような時にはその町囲みにさばきつかさを置き、正しくさばかなければなりません。わいろをもらったり、人をかたよってみたりして、さばきをまげてはならないのです。それが神に属する聖なる民としての歩みなのであります。そのことが17章においても続けて語られています。

 

 1.主へのいけにえ(1

 

 まず1節をご覧ください。ここには、「悪性の欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものだからである。」とあります。これはどういうことかというと、1621節と22節で語られたことを受けてのことです。そこには主の祭壇について語られていました。主の祭壇のそばにはどんな偶像も立ててもならないということでした。また、その主の祭壇にささげるいけにえは、悪性の欠陥のある牛や羊をささげてはいけないということです。欠陥品や残り物を主にささげてはいけないということです。主へのいけにえは完全で、最高のものでなければなりません。なぜなら、主は私たちに最高で、完全ないけにえイエス・キリストを与えてくださったからです。最高の愛に対する最高の応答は、心からの最高のいけにえをささげることによってなされなければならないのです。

 

2.二人か三人の証言によって(2-7

 

 次に2節から7節までをご覧ください。ここには、イスラエル中で、男であれ、女であれ、主の前に悪を行って、主の契約を破るような者がいた場合、どうしたらよいかが教えられています。そして、そのような者がいれば、その悪事を行った男または女を町の広場に連れ出して、彼らを石で打たなければなりません。ここでの悪事は、具体的には偶像礼拝の罪です。3節を見るとわかります。主以外のほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象などを拝む者があったら、石打ちにしなければなりませんでした。

 

 ちょっと厳しすぎるのではないでしょうか。たとえそのようなことを行ったとしても、悔い改めるように何度か勧告し、少し様子を見てからでいいのではないですか。それなのに、そういう人がいると聞いたら有無を言わさずに石で打つというのは無情な感じがします。いったいなぜ主はそのように命じておられるのでしょうか。それは7節にあるように、彼らのうちから悪を除き去るためです。もしそのようにしなければ、それがイスラエルの民全体に広がっていってしまうからです。パウロはそれをパン種にたとえ、Ⅰコリント5913節で、不品行な者たちとは交際しないように、そのような者を教会から除きなさいと命じています。教会だから何でも許されるというのではありません。兄弟と呼ばれる者で、不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたら、そのような者とは付き合ってはいけないし、一緒に食事をしてもいけないのです。私たちはパン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしなければならないのです。(Ⅰコリント5:8

 

 しかし、その人が罪を行ったからといってすぐに取り除こうとしてはいけません。6節、7節には、「ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処せられなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。」とあります。これはどういうことでしょうか。これはよく確かめてということです。また、その人が悔い改めるように、その手順を踏んでということです。

 

 このことについて主イエスはマタイ18章で、「もし、あなたの兄弟が罪を犯したら・・」どうしたらよいかについてこう語っています。(マタイ18:15-20)もし、兄弟が罪を犯したら、その兄弟のところに行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れなかったら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。それでもなお、いうことを聞き入れなければ、教会に告げなさい。それでも聞き入れなければ、その人を異邦人か取税人のように扱いなさい。・・・と。なぜなら、教会にはキリストがおられるからです。その方のいうことを聞かないというのであれば、それは聖霊を拒むことであり、それは決して許されないことだからです。

 

 ですから、ふたりか三人の証言によってというのは、こうした手順を踏んでということであって、よく調べ、確認して、その人が悔い改めるようにと何度も勧告してのことです。そして、その目的はその罪を犯した兄弟をさばくことではなく、兄弟を得るためです。それでも悔い改めなければ、そのような者を取り除かなければなりません。悪を除き去らなければならないのです。

 

 3.主の選ぶ場所で(8-13

 

 次に8節から13節をご覧ください。ここには、「もし、町囲みのうちで争い事が起こり、それが流血事件、権利の訴訟、暴力事件で、あなたのさばきかねるものであれば、」どうしたらよいかが教えられています。そのような時には、「あなたの神、主の選ぶ場所に上り、レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ね」なければなりません。彼らは、あなたに判決のことばを告げてくれるからです。主の選ぶ場所とは、主を礼拝するために祭壇が置かれていたところです。それは主の幕屋なり、神殿がある所です。そこには祭司やさばきつかさがいて、正しい判決のことばを告げてくれるのです。

 

祭司やさばきつかさは、主によって立てられた人であり、神に仕えている人です。したがって、彼らが下した判決には、従わなければいけません。もし聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その人は死ななければなりません。そうすることによって、イスラエルから悪を除き去ることができました。そのようにしてイスラエルの民が神を恐れ、不遜なふるまいをすることがなくなったからです。

 

今の時代、この役割をゆだねられているのは私たち一人一人のクリスチャンであり、キリストの教会です。なぜなら、私たちはみな神に対する祭司とされたからです。ですから、私たちは教会で起こっているさまざまな事柄について、祈りとみことばによって正しく判断し、神のみこころに従って正しくさばかなければなりません。そうであれば、なおさらのこと、神のみこころをよく知るために聖書をよく学び、聖書から検証する必要があります。パウロはテサロニケの人々に、「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」(1テサロニケ5:21)と言いました。

 

4.イスラエルの王(14-20

 

 次に14節から20節までをご覧ください。14節と15節には、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。」とあります。

 

モーセは、イスラエルが、将来、自分たちの上に王を立たせたいと願うことを予見していました。Ⅰサムエル86節のところに、イスラエルの民がサムエルのところにやってきて、「私たちをさばく王を立ててください。」と言ったことが記されています。それまでイスラエルは、預言者から語られる神のことばと、祭司の務めによって与えられる、主のご臨在によって支配されていました。つまり、神が彼らの王となっている神政政治だったのです。しかし、周りの国々と同じように、自分たちを統治する王が欲しいと願い出るようになると預言していたのです。このことは神のみこころではありませんでしたが、神はイスラエルの上に王を立てることを許されました。

 

しかし、そのような時にはどうすべきかがここで語られています。一つのことは、同胞の中から王を立てなければならないということです。同胞でない外国人を、彼らの上に立てることは許されませんでした。

 

第二に、やがて立てられる王は、自分のために馬をふやしてはなりませんでした。どういうことでしょうか。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならなかったのです。これは軍事力を持ってはいけないということです。当時の世界では、軍事力として馬が用いられました。ですから、多くの馬を持つ者は勝利することができました。その馬を持ってはならないというのは、そうした人間的な力ではなく、神ご自身に信頼するようにという意味です。

 

第三に、多くの妻を持ってはなりませんでした。なぜなら、そうした妻の存在が偶像へと陥らせ、神から引き離されることになるからです。

 

そして第四のことは、自分のために金銀をふやしてはならないということです。なぜなら、多くの金銀を持つことによって心が高ぶり、自分を神だと錯覚するようになってしまうからです。その結果、神を神とせず、神に敵対することになってしまい、神のさばきを受けることになってしまうからです。

 

イスラエルの歴史の中でもとても豊かな王であったのはソロモンです。しかし、彼は神のあわれみによって王になったにもかかわらずそのことを忘れ、神の命令に聞き従わずに暴走し、最後は王国が分裂する原因を作ってしまいました。Ⅰ列王記1014節には、「一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。」とあります。それをソロモンが住む宮殿に使い、宮殿を金でいっぱいにしました。

そして同じくⅠ列王の1026節には、「ソロモンは戦車と騎兵を集めたが、戦車一千四百台、騎兵一万二千人が彼のもとに集まった。そこで、彼はこれらを戦車の町々に配置し、また、エルサレムの王のもとにも置いた。」とあります。また、同じⅠ列王記1029節には、「エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。同様に、ヘテ人のすべての王も、アラムの王たちも、彼らの仲買で輸入した。」とあります。

さらに、Ⅰ列王記11章に入ると、彼は多くの妻も持ちました。「ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、『あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。』と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」(11:1-3

ソロモンはここに書かれているように、多くの馬を持ってはならい、多くの妻を持ってはならない、そして多くの金銀を持ってはならないという神の命令に従わなかったので、彼自身が高ぶり、ほかの神々に心が寄せてしまい、神のさばきを招いてしまいました。

 

18節から20節までをご覧ください。ここには、逆に、王としてイスラエルの上に立てられた者がしなければならないことが記されてあります。それは、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない、ということです。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためです。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また神の命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためです。

 

イスラエルの上に立つ王は、神のおきての中に身を置き、神のしもべとして生きることによって、初めてイスラエルを治めることができました。だから、祭司たちから、主のみ教えを書き写し、それを読まなければならなかったのです。神のみおしえから学び、それに従って歩まなければなりませんでした。このように、イスラエルは民であっても、人々を治め、またさばく王であっても、神の律法によって、正しい判断を下さなければなりませんでした。イスラエルの民はどんなものよりも、神のことばを第一として、神のことばによってさばかれていく人々でなければならなかったのです。

 

それは私たちも同じです。私たちクリスチャンも信徒であっても、牧師であっても、あるいはこの世において上に立つ者であっても、だれであっても、神のことばの下に自分を置き、神のみことばに従って歩み、神のみことばによって物事を判断していく習慣を身につけなければならないのです。

申命記16章

今日は申命記16章から学びたいと思います。

 

1.過越しの祭り(1-8

 

まず1節から8節までをご覧ください。1節には、「アビブの月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、主が、夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである。主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主にささげなさい。」とあります。

 

ここには「アビブの月を守り」とあります。アビブの月とはユダヤ人の暦で、正月にあたる「ニサンの月」のことです。この月は大麦の収穫の始まりを祝う月でもありますが、もっと重要なのは、この月が主に過越しのいけにえをささげる月であるということです。それは彼らが約束の地に入って行っても守らなければならない祭りでした。それは、主が、夜のうちに、エジプトから彼らを連れ出されたからです。そうです、過越しの祭りとはイスラエルがエジプトの奴隷であったところから解放されたことを記念して行うものです。彼らは430年もの間エジプトの奴隷として仕えていましたが、主は彼らの叫びを聞かれ、モーセという人物を立てて、そこから救い出されました。それは一方的な神のみわざでした。そのことを覚えるためにこの祭りを世々限りなく行うようにと命じられているのです。

 

その日は、主が御名を住まわせる場所で、羊と牛を過越しのいけにえとして、主にささげなければなりませんでした。「主が御名を住まわせる場所」とは、エルサレムの神殿のことを指します。イスラエルの民はどこに住んでいても、成人男子は皆このエルサレムの神殿に集まり、そこで過越しのいけにえをささげなければなりませんでした。それといっしょに、パン種の入っていないパンを食べなければなりませんでした。それは、彼らが急いでエジプトの国を出たからです。それは、過越しのいけにえをささげてから七日間続きました。このため、種なしのパンの祝いと過越の祭りはしばしば一緒に祝われました。そのようにして、彼らはエジプトの国から出た日のことを、一生の間、覚えていなければなりませんでした。

 

この過越しの祭りと種なしパンの祭りは何を表していたのでしょうか。それは罪のないイエス・キリストが十字架で死なれたことを指し示していました。神の小羊であられたキリストが、過越しの日にほふられたことによって私たちの罪が贖われました。ですから、この過越しの祭りは、キリストが十字架で死なれたことによって成就したのです。クリスチャンはイスラエルに過越しのいけにえと種なしパンの祭りを行うように命じられているように、キリストが私たちの罪のために十字架でかかって死んでくださったことを覚えなければなりません。

主の晩餐はそのために行われるものです。キリストは最後の晩餐のとき、「これは、あなたがたのためのわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」と言われました。また、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」とも言われました。それは御子イエスの贖いを予め表していたものだったのです。ですから、キリストが来られ罪の贖いを成し遂げられた今、私たちがしなければならないことは、私たちのためにご自身をささげられたキリストの十字架の贖いを覚えることです。

 

そして、この過越しの祭りと種なしパンの祭りとともに、初穂の祭りも行われました。それは大麦の収穫を祝って行われるものですが、キリストの復活を指し示すものでした。キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったのです。

 

2.七週の祭り(9-12

 

次に、9節から12節までをご覧ください。ここには、七週の祭りについて語られています。9節と10節にはこうあります。

「七週間をかぞえなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え初めなければならない。あなたの神、主のために七週の祭りを行い、あなたの神、主が賜る祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。」

 

この七週の祭りについてはレビ記2315-22節に詳しく記されてありますが、これは初穂の祭りから50日目に小麦の収穫を祝って行われる祭りです。それは歴史的にはイスラエルがシナイ山で律法が与えられた日に対応しています。出エジプト19:1-13には、「エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。 ・・・」とあります。エジプトを出て50日目に、主はシナイ山で彼らと契約を結ばれ、律法を与えました。

 

それは使徒の働き2章を見るとわかりますが、ペンテコステでその成就を見ることができます。それは五旬節の日に起こった出来事でした。そしてこの日に、聖霊が弟子たちの上に降ったのです。このことによって教会が誕生しました。ですから、この七週の祭りは弟子たちの上に聖霊が降り教会が誕生したことによって成就したのです。ですから、これは教会が聖霊の降臨に感謝し、聖霊に満たされ、聖霊に導かれて生きることの重要性を覚える日なのです。

 

3.仮庵の祭り(13-17

 

そして次に、13節から17節までをご覧ください。13節、「あなたの打ち場とあなたの酒ぶねから、取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。」

 

ここには、仮庵の祭りについて教えられています。これはあなたの打ち場と酒ぶねから、取り入れが済んだとき、とあるように、収穫が終わる10月ごろに行われる祭りです。秋の祭りですね。この祭りも、同じように選ばれた場所、すなわち、エルサレムの神の宮に行って行われました。そして、家族や、レビ人、在留異国人、みなしご、やもめ、すべての人がとも喜ぶのです。これは、イスラエルの民が荒野で生活し、仮庵をもって過ごしていたことを思い出す祭りです。まず1日に「ラッパを吹き鳴らす祭り」が行われ、続いて10日に「大贖罪日」があり、そして、14日の日没から七日間、仮庵の祭りが行われました。そして、その8日目は「大いなる日」で、「シムハット・トーラー(トーラー歓喜祭)」と呼ばれる祭りが行われます。ちなみに、この最後の喜びの日に歌われたのがマイム・マイムです。ですから仮庵の゜祭りは、このラッパを吹きならす祭り、大贖罪日、仮庵の祭りの三つの祭りの最後を締めくくる祭りだったのです。

 

旧約聖書では、仮庵の祭りについてレビ記2334-44節に詳しく書かれています。それは、イスラエルがエジプトを出た後、40年間荒野でテント暮らしをしていたことを記念する祭りで、人は肉体という「仮庵」に7090年間住むだけの存在であり、主の恵みなしには生きていくことはできないということを覚える一週間としてお祝いしました。

 

しかし、そればかりではなく、この仮庵の祭りは、キリストが肉体を取って誕生してくださったことによってその成就の一部を見ることができます。ヨハネによる福音書114節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とありますが、この「住まわれた」というのは、「仮庵となられた」という言葉です。神はメシアであるイエスを地上に送って下さる事によって、神と人との和解をもたらしてくださいました。ですから、仮庵の祭りは和解の祭りでもあります。

 

しかし、そればかりでなく、これは来るべき千年王国を表すものでもありました。ヨハネの黙示録213節には 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、とあります。この「神の幕屋」とは仮庵のことです。終わりの時、艱難時代の後にキリストが統治される千年王国が来ますが、その時、全世界の人々がこの仮庵の祭りを祝うために、エルサレムに集まってくるのです。

 

ゼカリヤ書1416節には、「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上ってくる。」とあります。これは144節を見るとわかりますが、主がエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つときに起こることです。これは主の地上再臨を預言しているもので、その後にこの仮庵の祭りを祝うために集まってくるわけですから、これは、その後にもたらされる千年王国を指し示しているのです。つまり、仮庵の祭りは、主の再臨を指し示す重要な鍵となっているのです。それは、この最初の日にラッパを吹きならす祭りが行われることからもわかります。このラッパの音とは何かというと、世の終わりを告げるラッパの音です。キリストが再臨することを告げるラッパの音なのです。これはⅠテサロニケ4章に書いてあります。これは世の終わりに起こることなのです。

 

そして、大贖罪の日がやってきます。これはユダヤ人が自分たちが十字架につけて殺したイエスをメシヤとして信じ、悔い改める日のことです。そのとき主にある者は死んだ者も、生きている者もたちまちのうちに空中に引き上げられます。これを空中携挙と言います。そのときこの地上は七年間の艱難時代を迎えます。後半の3年半は特に激しい艱難が続くので大患難時代ともいわれますが、この艱難の中でユダヤ人たちは胸をたたいて自分たちの罪を悲しみ、悔い改めるわけです。

 

そして、その七年間の艱難時代が終わるとき、主は地上に再臨されオリーブ山に立たれるのです。そして、千年間続く平和な時代がやってきます。これが主の救いのみわざの完成でもあります。それを祝うのが仮庵の祭りであり、救いの完成のクライマックスともいえるでしょう。

 

ヨハネの福音書737,38節のところでイエス様は、「さて、祭りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われましたが、この祭りこそ仮庵の祭りであり、その祭りの大いなる日が「シムハット・トーラー(トーラー歓喜祭)」と呼ばれる祭りで、その時にイエス様はこのように言われたのです。それは後になってから受ける御霊のことを言われたのですが、それがこの千年王国で完成するのです。

 

このように見てくると、私たちが今置かれている時代がどのような時代なのかが見えてきます。すなわち、キリストによる罪の贖いが成し遂げられて、その主の再臨が限りなく近い時代であるということです。私たちはそのような時代に生かされているのです。であれば、このような時代に生かされている私たちは、キリストの十字架を通して成し遂げられた神の救いの恵みに感謝し、神の聖霊に導かれて生きること、そして、やがて来られるキリストの再臨を待ち望むということが、その生き方の特質でなければなりません。私たちには常に肉との闘いがありますが、そうした肉の欲求によってではなく、またそうした知恵や力、思いによってではなく、御霊に導かれて進まなければならないのです。最近の傾向としてはこの世が複雑になってくることに比例してどうしてもクリスチャンも自分の思いや考えに支配されやすい傾向があるのではないでしょうか。神のみことばが何と言っているか、神の御霊がどのように導いているかよりも、自分はどう思うのか、どう感じているのかが行動の基準になりやすいということです。また、主の再臨を待ち望む必要があります。主の再臨を待ち望むよりも今さえ良ければよいというような、目先のことに振り回されてしまうと、信仰から離れてしまうことになってしまいます。。

 

私たちはいつも自分ではなく神のみこころに従い、自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従う者でなければなりません。そのために必要なのがこの三つのことなのです。つまり、十字架と聖霊と再臨です。これは過去において主が私たちにどんなことをしてくださったのか、そして、今、主はどのように導いておられるのか、そして、将来において、どのような祝福をもたらしてくださるのかをしっかりと覚え、この神のみわざにとどまり続けなさいということでもあります。これが神によって罪贖われた神の民、聖なる国民のしるしでもあるのです。イスラエルが年に三度、過越しの祭りと、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、主の選ぶ場所で、御前に出たように、私たちにもそれが求められているのです。

 

4.公正なさばき(18-22

 

最後に18節から22節までを見て終わりたいと思います。「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。」

 

ここには、それぞれの部族においてさばきつかさとつかさたちを任命し、正しいさばきを行うようにと命じられています。当たり前のことなのに、いったいなぜわざわざここで命じられているのでしょうか。それは神が義なる方なので、彼らもまた正義を行うことが求められているのです。それが損なわれるような時があります。それはわいろを受ける時です。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめてしまう力があります。人をさばくときには、その人が貧しいとか、富んでいるとか、そのような見かけによって判断してはなりません。その人が人生でどんなに成功したかなどということは全く関係ありません。ただ神は何と言っているのか、それはどういう意味なのか、それをどのように適用していかなければならないのかということを考えて、正しく判断しなければなりません。しかし、わいろを受け取るとその判断を狂わしてしまうのです。

 

21,22節には、「あなたが築く、あなたの神、主の祭壇のそばに、どんな木のアシェラ像をも立ててはならない。あなたは、あなたの神、主の憎む石の柱を立ててはならない」とあります。なぜでしょうか。もちろん、神の戒めにそうあるからです。十戒の第一は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」と書いてあります。そして、この申命記に、この戒めの中心となることが教えられていました。それは、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたに神、主を愛しなさい。」(6:4-5)ということでした。もし主の祭壇のそばに、アシェラ像を始めとした偶像を置くことがあるとしたら、この神のみこころから離れてしまうことになるからです。私たちは離れやすいのです。まさに迷える子羊にすぎません。主を信じていますと言いながら、こうしたアシェラ像を平気でおいていることにも気づかないのです。そうなると私たちの信仰の中心となる軸を失うことになってしまいます。そういうことがないように、神以外のものを主の祭壇のそばに近づけてはならないのです。私たちは共に集まって主を礼拝し、キリストの十字架を仰いで、主に罪赦されたことを覚え、互いに赦し合い、愛し合わなければなりません。また、聖霊に満たされ、主の再臨を待ち望む、これらはすべて、主を神としてあがめている、その中心があるからなのです。私たちはこの信仰の中心軸を失うことなく、いつも主のみこころにかなった者となるように求めていきたいと思います。

 

ヘブル10章26~39節 「信仰によって生きる」

きょうは、へブル人への手紙10章26節から39節までの箇所から、「信仰によって生きる」というタイトルでお話します。このヘブル人への手紙の著者は、前回の10章19節から25節までのところで、これまで語ってきたことを受けて三つのことを勧めました。すなわち、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではないかということ、また、約束された方は真実な方ですから、動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではないかということ、そして、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではないかということです。それは一言でいうなら、信仰によって生きるということです。先ほど読んでいただいたみことばに「義人は信仰によって生きる」(38節)とありますが、イエスの血によって救われた者は、信仰によって生きることが求められています。きょうは、このことについて三つのことをお話します。

 

Ⅰ.主がその民をさばかれる(26-31)

 

まず26節から31節までをご覧ください。26節には、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」とあります。どういうことでしょうか。現代訳聖書には、「もし私たちが罪の赦しの福音を知ってから、故意に罪を犯し続けるなら、罪のためのいけにえはもはや残されていない」と訳されてあります。つまり、もし私たちがイエス様を信じた後で、故意に罪を犯し続けるようなことがあるなら、キリストの救いに預かることはできないということです。

 

この箇所からある人たちは、たとえ一度信仰をもってもその信仰から離れ、救いから落ちてしまうこともあると考えています。皆さん、一度信仰を持ったら、もう二度と信仰から離れることはないのでしょうか、それとも一度信仰を持っても、ここに書いてあるように、信仰から離れてしまうということがあるのでしょうか?

 

たとえば、ヨハネの福音書10章29節を見ると、そこにはこう書かれてあります。

「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」

それは、一度イエス様を信じて救われたのであれば、その人はどんなことがあっても救いから漏れることはないという意味です。神が救ってくださった人というのは、神が永遠の昔から救いの中に選んでいてくださった人ですから、どんなことがあっても見捨てられるようなことはないのです。一度救ってみたけれども、この人はどうもモノになりそうもないので捨ててしまいましょうというようなことは絶対にありません。

 

しかし一方で、私たち人間の側からすれば、もう救われたのだから何をしても構わないと、故意に罪を犯し続けるようなことがあれば、罪のためのいけにえは残されてはいないということ、つまり、救いを受けることはできないということも覚えておかなければなりません。確かに、神の側では一度救いに導かれた人はどんなことがあっても離すことはありませんが、人間の側から離れていくならば、そういうこともあり得るということです。

 

事実、あんなに信仰に熱心だった人がどうして信仰から離れてしまったのだろうかという場合がありますが、そういうことも起こってくるわけです。それはその人の信仰の理解や福音のとらえ方に問題があり、私たちの目では信仰を持っていたかのように見えても、神の目から見たら、実はそうではなかったということもあるからです。

 

Ⅰコリント15章2~4節にはこうあります。

「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、」

 

皆さん、どうしたら救われるのでしょうか。この福音のことばをしっかり保つことによってです。その福音のことばとは、イエス・キリストに関することです。すなわち、キリストは、聖書が示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたことです。これが福音のことばです。このことばをしっかり保っていればあなたは救われるのです。これ以外の何もあなたを救うことはできません。だから私たちはこのことばをしっかり保っていなければなりません。本当に救われている人は、このことばにとどまっている人なのです。自分の感情がどうであれ、自分の置かれている状況がどうであれ、自分のために救いを成し遂げてくださった救い主イエスに信頼し、そこに希望を置くのです。

 

ところで、このようなことを聞くと、自分は大丈夫だろうかと不安になる方もいるかもしれません。しかし、もしそのように受け止めておられる方がいるとしたら、そういう人はどうぞ安心してください。そのように受け止めることができるということ自体がむしろ救いについて真剣に考えているということであって、そこに生きているという証拠でもありますから、そういう人が救いに漏れるということは絶対にないと言えます。この「真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるなら」というのは、罪の赦しによる救いの体験をしたにもかかわらず平気で罪を犯し続けるなら、という意味です。私たちは弱い者ですから、救われてからもしばしば罪を犯すことがあります。しかし、ここで言われていることは、救われてから罪を犯したかどうかということではなく、ことさらに罪を犯し続けることです。つまり、罪を犯しても悔い改めようとせず、平気で罪を犯し続ける人のことなのです。そういう人のためのいけにえはもはや残されてはいません。そういう人は、恐ろしい神の裁きを受けるしかないのです。

 

28節と29節をご覧ください。

「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血をけがれたものとみなし、恵みの御霊を侮るものは、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」

 

これは申命記17章6節に書かれてあることですが、だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三人の証人の証言に基づいて死刑に処せられました。そこには何のあわれみもなかったのです。律法に背いて罪を犯し、二、三人の証言があれば有無を言わさず死刑に処せられました。であれば、まして、神の新しい契約を侮る者があれば、なおさらのこと恐ろしいさばきに服さなければならないのは当然のことです。なぜなら、それは神の御子を踏みつけ、自分をきよめるためのキリストの血を、拒むことになるからです。そしてそれは恵みの御霊を侮ることになるからです。

 

ここでは「御霊」を、「恵みを与えてくださる方」であると言っています。この御霊とは三位一体の第三位格の聖霊なる神のことです。キリスト教では神は三つにして唯一なる神であると信じています。それが聖書で教えている神です。ものみの塔では、この聖霊は単なる神の力であると説きます。ただのモノにすぎないというのです。しかし、聖書を見ると聖霊は人格を持っていることがわかります。たとえば、ヨハネの福音書16章13節を見ると、「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」とありますが、単なるモノであったら、「その方」というでしょうか。ものみの塔でさえ、「その者」と訳しています。「その者」とは「その物」ではなく、「その方」という人格を持った方としての表現です。その方は「助け主」とも言われています。

私たちは神の御子の大きな犠牲によって罪が赦され、救われた者であるとは言ってもまだヨチヨチ歩きで、すぐに躓いたり、罪を犯したりしがちです。そのことをご存知であられる神はこの聖霊様を送ってくださり、私たちが罪を犯さないように助けてくださったり、知らずに罪を犯してしまった時に、私たちの良心に働きかけて悔い改めに導いたりしてくださいます。あるいは、聖書を読む時に、何が神のみこころであるかを示してくださりその道に歩めるように助けてくださるのです。まさにこの方は恵みを与えてくださる方なのです。その中でも最大の恵みは、御子イエスの救いの中に導いてくださったということでしょう。その恵みの御霊の神を侮ることがあるとしたら、なおのさらのこと、重い処罰がもたらされるのは当然のことです。

 

多くの人は、神の厳しさについて誤解しています。それは、旧約の神は厳しい神だが、新約の神はそうではないというものです。新約聖書の神は優しい愛の神なのだから、人をさばくというようなことはないというのです。これは聖書を表面的に読んだ印象にすぎず、実際にはその反対です。これまで学んできたことを思い出してみるとわかるように、旧約聖書では人が神に近づくためにはやぎや羊、牛などの多くのいけにえをささげなければなりませんでしたが、それで完全に罪が赦されたかというとそうではなく、毎年、それを繰り返して行わなければならなりませんでした。いつも罪が思い出されたからです。けれども、神の御子のいけにえは完全なものでした。キリストは、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。もうこれ以上すぐれた解決法がない、永遠の、究極の、最終的な解決を与えてくださいました。しかも、これは私たちの行いや状態に関係なく神の真実に基づいた一方的な恵みによって与えられた契約でした。それを拒む者があるとしたら、それこそ永遠の滅びに入れられるのは当然のことなのです。旧約聖書にあるように、石を投げつけられて死ぬことは恐ろしいことですが、それよりも、もっと恐ろしいことは、死後の世界において永遠に死ぬことです。聖書ではこれを地獄と言っています。地獄とは永遠の滅びことなのです。ですから、新約のさばきの方が、旧約のそれよりももっとずっと厳しいさばきであると言えるのです。

 

ですから、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いを信じる信仰によって救われた私たちは、回りの状況に振り回されたり、動揺したりしないで、堅く信仰に立たなければなりません。約束された方は真実な方ですから、動揺しないで、しっかりと希望を告白はなければならないのです。では、しっかりと希望を告白することができるのでしょうか。

 

Ⅱ.いつまでも残る財産に目を留める(32-34)

 

32節から34節までをご覧ください。

「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。」

 

ここではそのために二つのことが勧められています。一つは32節にあるように、「思い起こす」ということ、そしてもう一つのことは、34節にあるように「知る」ということです。

まず「思い起こす」ということですが、何を思い起こすのでしょうか。それは苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころのことです。初代教会のクリスチャンの多くは、激しい迫害の中にあっても信仰を貫き通しました。ある人たちは、ローマの円形競技場で見世物としてはずかしめられたり、猛獣によって殺されたりしましたし、またある人たちは、罪をなすりつけられて財産を没収されたりもしたのです。しかし、彼らはそうした迫害の中でも信仰を守り抜きました。いったいなぜ彼らは守り抜くことができたのでしょうか。それはいつまでも残る財産を持っていることを知っていたからです。いつまでも残る財産とは、イエスを信じたことで後に天の御国で永遠の財産と報いのことです。彼らはその財産を受けること知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで耐え忍ぶことができたのです。

 

私たちの主イエスもそうでした。イエス様は十字架に付けられる前の晩、ゲッセマネの園で切に祈られました。それは汗が血のしずくのように地に滴り落ちたとあるように、激しい祈りの格闘でした。そして、こう祈られたのです。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。しかし、私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)

なぜキリストは十字架という苦難に向かうことができたのでしょうか。それは、その後にもたらされる栄光がどれほどすばらしいものであるかを知っていたからです。ですから、この杯を飲み干すことは苦しいことでしたが、それを耐え忍ぶことができたのです。

 

使徒パウロは、それを「重い永遠の栄光」と言っています。Ⅱコリント4章17、18節には次のようにあります。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

パウロが、この世の激しい迫害と患難を恐れずに、信仰によって生きることができたのは、彼が永遠の世界において受ける栄光と報いがどれほどすばらしいものであるかを知っていたからでした。それは一時的なものではなく、いつまでも続くものです。それに目を留めていたので、今の時の患難を軽いものとして受け止めることができ、乗り越えることができたのです。

 

リビングライフに書かれてあったコラムですが、ある韓国の牧師の運転手をしていた人は、テレビのニュースでしか見たことがないような大きな体つきで、腕には刺青と傷がありました。彼は神様の恵みによってクリスチャンになりましたが前科持ちであったため仕事に就くことが難しかったので、この牧師は彼に運転手として働いてみないかと提案したのです。牧師は、夏と冬ごとに青少年のリトトリートの講師としてあちこち回っていたため多くの時間をともに過ごすうちに、彼は神をとても愛するようになりました。

ある日、牧師は彼に証するように頼みました。悩んだ末、彼は学生たちの前で、今になってやっと意味のある人生とは何かがわかったと告白しました。集会が終わってから、一人の男子生徒が彼のもとにやって来て、暴力団と縁を切りたいが、なかなか難しいがどうしたらいいかと尋ねました。すると、彼はその学生にこう言いました。「ケジメはつけることになるだろうな。でも、その時はイエスのことを考えてみろ。イエスという新しい組に入る通過儀礼だと思えば、そう長い時間でもないだろうよ」

 

すごいですね。でもこれは的を得た答えではないでしょうか。確かにそれはかなりの苦しみが伴うことかもしれませんが、イエスによってもたらされる重い永遠の栄光に比べるなら、一時的なものでしかありません。永遠の価値のために一時的なものをあきらめることは、それほど難しいことではないのです。

 

17世紀から18世紀にかけてイギリスとアメリカで生きたウイリアム・ペン(William Penn, 1644-1718)”は、No  cross  no  crown ” と言いました。「十字架なくして、冠なし」です。意訳すれば、「艱難なくして、栄光なし」です。ウィリアム・ペンはキリスト教の一派であるクウェーカーに入信したことでイギリス国家から激しい迫害を受けると、約束されたこの世の栄光を捨てるという苦渋も、牢獄に繋がれるという苦難も甘んじて受け、 それを自分の十字架として背負って、この茨の道を歩んだのです。

やがてアメリカペンシルベニア州に渡り、そこで知事に就くと、歴史上初めて個人の信仰と良心が、国家の統制下に置くことができない不可侵の権利であると宣言する法律を制定しました。つまり信仰の自由を勝ち取ったのです。まさに、ペンは重い十字架を負うことによって、神から永遠の救いの冠を与えられただけではなく、後の人々からは民主主義の先駆者としての栄誉を与えられたのです。まさに、十字架なくして、冠なしです。

 

私たちの人生においては、初代教会のクリスチャンたちのような迫害や江戸時代にあったような迫害を受けるわけではありませんが、しかし、職場や学校において、また家庭において、いやあなたのすぐ近くにいる人があなたを侮辱したり、ありもしないことで悪口を浴びせたりして、あなたを苦しめるということがあるかもしれません。しかし、それはⅡテモテ3章12節に、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあるように、あなたがキリスト・イエスにあって敬虔に生きている証拠でもあり、やがて天の御国で大きな報いを受けるという保証でもあるわけですから、むしろそれは喜ばしいことなのです。あなたより前にいた信仰者たちも、そのようにして耐え忍びました。

 

Ⅲ.必要なのは忍耐(35-39)

 

ですから、第三のことは、信仰によって忍耐しましょう、ということです。35節から39節をご覧ください。まず35節と36節です。

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 

大切なのは、最初の確信を終わりまでしっかりと保つことです。3章

14にも、「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」とあります。これが信仰の戦いにおいて死守しなければならないものです。もしこの確信を保つことができないとどうなるかと、沖に流されていくボートのように、押し流されてしまうことになります。この確信を保つということは単純なことですが、実際には大変なことでもあります。というのは、私たちの人生には神に対して疑いを抱くような状況や出来事が多いからです。

 

たとえば、エジプトを出たイスラエルはどうだったでしょうか。すぐに水がない、食べ物がないと嘆きました。そして、カデシュ・バルネアという所に来たとき、約束の地を偵察すべくそこから12人のスパイを遣わすのですが、彼らが持ち帰った報告は、「だめだ。無理だ。その地の住民は大きくて、強い。自分たちが上って行こうものなら、たちまちに滅ぼされてしまう。」というものでした。それを聞いたイスラエルの民は、「なぜ神はこんなところに自分たちを連れてきたのだ」と言って不平を鳴らしたのです。彼らの心は常に迷い、神の道を悟ることができませんでした。そして、20歳以上の男子はヨシュアとカレブ以外はだれもその地に入ることができませんでした。

 

私たちの人生にも同じようなことが起こります。神がおられるならどうしてこのようなことが起こるのかというようなことがあるのです。けれども、たとえそのような状況になっても、最初の確信にとどまっていなければなりません。すなわち、この福音をしっかりと保っていなければならないのです。

 

いったいどうしたら信仰にとどまることができるのでしょうか。36節をご覧ください。ここには、「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」とあります。私はこのみことばが好きです。いつもこのみことばに教えられ、励まされています。

神の約束は棚ぼた式にもたらされるものではなく、忍耐することによって手に入れることができるものなのです。そして、神は私たちが忍耐することができるように、その力も与えてくださいます。それはⅠコリント10章13節にこのようにあるからです。

「あなたがたの試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせるせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 

何とすばらしい約束でしょうか。神は私たちが耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐えることができるように、試練とともに脱出の道を備えていてくださいます。そしてヤコブ書1章に書かれてあるとおり、試練によって生じる忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた完全な者になることができるのです。

 

あの3.11から5年が経ちました。津波と原発事故ですべてを失った福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰先生は、当初、その現実を受け止めることができず「くそ」とつぶやいていました。しかし、苦しい荒野での生活を乗り越え、やがて福島県いわき市につばさの教会を建てると、次第にこの震災から見えてきたものがあると言います。それは、神の恵みでした。教会は「ガリラヤから世界へ」というビジョンを掲げ、小さな田舎の教会でも世界宣教を担う教会になることを目指して祈ってきました。そしてある国に宣教師を遣わすことができたとき、「ああ、これでビジョンが実現した」と思ったそうです。しかし、それはビジョンの実現の始まりにすぎませんでした。本当の実現はこの震災を通してもたらされたというのです。なぜなら、原発から一番近い教会の牧師というだけで世界中の国々から招かれて主を証することができるようになったからです。フランスでは国営テレビが2時間のドキュメント番組を製作して放映しました。また、ドイツや他の国からも呼ばれてインタビューを受け、主を証することができました。世界中の人たちから祈られたのです。このような教会が他にあるだろうかと思うと、確かに震災によって多くの苦難はあったけれども、それはまさに神の絵巻物語であったというのです。

神は耐えられない試練に合わせるようなことはなさらない。むしろ、それを通してもっとすばらしい人生を、もっと豊かな人生へと導いてくださることがわかったというのです。すべては神の御手の中にあって、神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、すべてを働かせて益としてくださるのです。私たちに必要なのは忍耐することです。そうすれば、主があなたを助けてくださいます。

 

というのは、37節に、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」とあるように、たとえ苦しみが長引いたとしても、神の時がおそくなることはないからです。だから、恐れ退いてはなりません。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者だからです。たとえ試練があっても信仰によって前進するなら、必ずいのちを得ることができるのです。神とともに歩むなら、耐えられない試練はありません。主はおそくなることなく来られ、すべての涙をぬぐい、約束された永遠のいのちを与えてくださいます。そのことを信じなければなりません。義人は信仰によって生きるからです。

 

これは旧約聖書の預言者ハバククの言葉です。ハバククは、たとえ敵が押し寄せ、持っているものをすべて奪って行ったとしても、義人は信仰によって生きると宣言しました。神はどんな状況にあっても、信仰に立って生きる者を喜ばれます。信仰は苦難の中にあっても屈せず、天の希望を見上げさせます。クリスチャンの歩みを勝利させるのはこの世の力や権力ではありません。ただ主が与えてくださる信仰なのです。信仰によって生きるなら、どんな時にも勝利することができます。神は真実な方であって、約束されたことを必ず実現してくださる方だからです。ですから、信仰によって生きるなら、やがて大きな祝福を受けることになるのです。

 

あなたは何によって生きているでしょうか。何に目を留めていますか。いつまでも残るものを見ているでしょうか。どうかあなたの確信を投げ捨てないでください。最初の確信を終わりまでしっかりと保ちましょう。信仰によって生きる者にとりましょう。あなたがたが神のみこころを行って、約束したものを手に入れるために必要なのは忍耐なのです。

ヘブル10章19~25節 「新しい生ける道」

きょうはこのへブル人への手紙10章19節から25節までの箇所から、「新しい生ける道」というタイトルでお話しします。この箇所はヘブル人への手紙の中で最もすぐれた黄金の勧告と言われている箇所です。黄金の勧告とは、内容が深遠で、人生にとって この上なく有益な教訓のことです。聖書には黄金律と呼ばれているみことばがあります。それはキリストの山上の説教の一節で、マタイ7章12節のみことばです。

「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」

これはいつの時代でも、どのような状況でも変わりなく、人としての重要な生き方を示していることばなので「黄金律」と呼ばれているのです。。それと同じように、ここにはクリスチャンとしてどのように生きるべきなのか、その大切な勧めが三つのポイントで語られています。きょうはこの黄金の三つの勧告を学びたいと思います。

 

Ⅰ.全き信仰をもって神に近づきなさい(19-22)

 

第一のことは、全き信仰をもって神に近づきなさいということです。

19節から22節までをご覧ください。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」

 

19節は、「こういうわけですから・・」ということばで始まっています。ヘブル人への手紙全体を通して読むと、この10章19節が分岐点となって、流れが大きく変わっていることに気づきます。これまでは、神の御子キリストがいかにすぐれた方であるかについて説明されてきました。キリストは御使いよりもすぐれた方であり、すぐれた救いの道を備えられ、またアロンの祭司職よりも偉大な、メルキゼデクの祭司となられたことについて述べられてきました。そして、モーセを通して与えられた神との契約は、新しい契約によって取って代えられ、この契約が古い契約よりもすぐれていることが述べられてきたのです。このように、キリストがいかにすぐれた方であり、いかにすぐれた仲介者であるかを述べた後で、ここから、これを知った人たちがどのようにして応答していくのか、すなわち「勧め」の部分に入るのです。

 

その勧めとはどんなことかというと、「まことの聖所に入ることができる」というものです。まことの聖所にはいることができる、天国の神に近づき、神との親密で深い交わりの中に入ることができるということです。

 

それはイエスの血によってです。なぜなら、前回学んだように、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からです。(9:22)神に近づくことは、私たちの行ないによっては絶対に無理なのであって、ただ私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、その尊い血を注ぎ出してくださった神の御子イエス・キリストを信じることによってのみもたらされるものなのです。イエスが十字架で死なれたのは愛の模範を示すためではなく、血を注ぎ出すためだったのです。ですから、私たちは大胆に神に近づくことができるのです。

 

この「大胆に」という言葉は、英語では、We have boldnessとか、We have confidenceと訳されています。「確信を持っている」とか「自信をもっている」という意味です。つまり、私たちはまことの聖所に入ることができるという確信があるということです。なぜなら、イエスが十字架で血を流して死んでくださったからです。私たちがどのような人であるからとか、どのようなことをしたかということではなく、神の御子イエス・キリストの血が流されたので、その方の血の注ぎを受けているので、まことの聖所に入ることができるという確信があるということなのです。

 

20節ではそのことを別の形で表現しています。それは、「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」ということです。この「垂れ幕」というのは、聖所の中にある、聖所と至聖所を分けていた幕のことです。この幕が、イエスが十字架につけられていたときに、上から下に、真っ二つに引き裂かれました。この幕は厚さが10cm以上もあり、その両端を数頭の馬が反対方向に引っ張っても破れないほど丈夫なものであったと言われています。その幕が、イエスが十字架で死なれたときに、上から下に、真っ二つに裂けたのです。それはキリストが十字架の上でご自分のからだを引き裂いてくださったことによって神と人とを隔てていた壁が引き裂かれ、神の御許に行くことができるようになったということを表しています。このようにして、キリストはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの生ける新しい道を設けてくださったのです。ですから、このイエスを信じるならだれでも神の御許に行くことができるのです。イエスを信じるなら、だれでも救われるのです。

 

そればかりではありません。21節を見ると、「また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。」とあります。ここも英語ではWe have high priest になっていて、Haveという言葉が繰り返して使われています。持っているとか、あるという意味です。何を持っているのかというと、偉大な祭司です。もちろん、この偉大な祭司とはイエス・キリストのことですが、この祭司をもっているので、私たちは絶対にまことの聖所に入ることができるというのです。なぜなら、この祭司は神の家をつかさどっておられる偉大な方だからです。神の家をつかさどっているということは、神の家を支配しておられるという意味です。そういう方がついておられるのなら、神に近づくことができるというのはなおさらのことなのです。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎ受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」と勧められているのです。

 

この新改訳聖書では19節から22節までが幾つかの文章になっていますが、原文では19節から22節までが一つに文章になっています。つまり、私たちはイエスの血の注ぎを受けているのですから、イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのですから、また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司がいるのですから、私たちは、全き信仰をもって、神に近づこうでないかというのです。「神に近づく」というのは場所的、時間的なことというよりも、人格的なものです。神を深く知って、このお方のようになっていこうということなのです。これがキリスト教の本質なのです。

 

先日、さくらチャーチで行われているみんなのカフェにNさんというご婦人が初めて参加されました。この方は宗教に造詣が深く、いろいろなことを知っておられる方ですが、パットがアメリカから来たということで、「キリスト教とはどういう宗教ですか」と尋ねられました。するとパットはこう言いました。「私はキリスト教を宗教として考えていません。これは神との関係です。神がどのような方かを知って、この方のようにされていくこと、それがキリスト教です。」と。私は、それを聞いていて、なるほどと思いました。宗教を何かの形で考えることは間違っていて、神との関係として捉えなければわからないということです。だから、神に近づくことを求めていかなければなりません。どうしたらもっと神に近づくことができるのでしょうか。

 

ここには、「全き信仰をもって・・」とあります。皆さん、全き信仰とはどういう信仰なのでしょうか。それは強い信仰とか、弱い信仰ということではありません。たくさん信じるとか、ちょっとだけ信じるというようなことでもありません。全き信仰とは、神につながっている信仰のことなのです。

 

それは、たとえば電気のスイッチのことを考えたらわかると思います。どうしたら電球に明りがつくのでしょうか。電気のスイッチを入れればいいのです。それだけでいいのです。電気をつけるのに力を入れてステッチを押す必要はありません。力を入れてスイッチを押せば明るくつくとか、さわるように、撫でるように、優しく押すだけでは弱い明りしかつかないということはありません。強く押しても、弱く押しても明りの強さは同じです。大切なのはスイッチを入れることです。

 

それは信仰も同じで、強い信仰とか、弱い信仰というのがあるのではなく、あるのは神につながっているかどうかということです。神につながっていれば、神が働いてくださいます。すなわち、信じるということはこちらの側の信じ方ではなく、信仰の対象であるイエスとつながっているかどうか、結ばれているかどうかということなのです。イエス様を信頼して、イエス様を見上げていれば、信仰は確かなものとなっていきます。自分の知恵と力を尽くして信じる過信ではなく、半分だけ信じる半信でもなく、また、全く信じられないという不信でもなく、単純にイエスに信頼していであるべきです。イエス様にとつながっていればいいのです。そうすれば電気はつくのです。それが全き信仰です。

 

アフリカ伝道隊の総裁をしていたJ・B・B・フレンドという人は、信仰を持つことをバケツの水にたとえてはならないと言いました。日本では恵まれた信仰をバケツに水がいっぱいに満たされた状態にたとえることがありますが、信仰をそのようにとらえてはいけないというのです。そのようにとらえてしまうと、バケツの水を使って無くなったらやっとの思いで礼拝にやって来て満たされるといった誤ったイメージを抱きやすくなってしまいます。そうではなく、むしろ、信仰生活は水道管のパイプのようなもので、もしあなたがたっぷりと満たされた貯水池につながっているなら、あとは栓をひねるだけでいつでもザーと水が出てきます。信じればザーです。パイプが細いか太いかは関係ありません。信じればザーなのです。信仰とは栓をひねるだけのことなのです。

 

ただ注意しなければならないことは、パイプを詰まらせないようにしなければならないということです。それゆえに、ここに、「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあるのです。これは、パイプを詰まらせてはならないという意味です。いつもイエスさまと親しい交わりを保つようにしなければなりません。もしそのパイプに何か詰まっていればそれを取り除いて、いつも神のいのちが流れるようにしなければなりません。私たちの信仰生活では、よく詰まらせてしまうことがあります。トイレットペーハーを大量に使って詰まらせたり、異物を混入させて詰まってしまうことがあるように、あまりにも多くのことに心が奪われて神との関係を詰まらせてしまうことがあるのです。そういうことがないように、いつも主につながり、主と親しい交わりを保っているかどうかを確認しなければなりません。

 

とても評判の良いレストランにはある一つの共通点があるそうです。それはあまりいろいろなことに手を出さないということです。得意なメニュー集中するのだそうです。それを極めるために努力に努力を重ねます。それで「美味しい店」になれるのです。一方で、あまり美味しくないレストランというのは、とにかくメニューがいっぱいあります。全部やろうとすると、全部まずくなってしまうのです。

 

同じように、私たちはイエス様に集中しなければなりません。あれも、これもではなく、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないようにしなければなりません。そして、このイエスにしっかりとどまっていなければなりません。主イエスは言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)このような信仰をもって神に近づくなら、神はそのような人を受け入れ、多くの実を結ばせてくださいます。

 

Ⅱ.しっかり希望を告白する(23)

 

第二のことは、しっかりと希望を告白することです。23節をご一緒にお読みしましょう。

「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」

 

ここでは、希望を持つことが勧められています。私たちの信仰生活には失望することが何と多いことでしょうか。それは悪魔が何とかしてあなたから信仰を奪おうとしているからです。悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を探し求めながら、歩きまわっています。そのために一番効果的なのは、あなたから希望を奪い取ることです。そうすれば、信仰にとどまることができなくなってしまうからです。人は希望がなければ生きることがでません。この希望を奪うことによって、信仰から遠ざけようとするのです。ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しなければなりません。

 

いったいどうしたら希望を持ち続けることができるのでしょうか。ここには、「約束された方は真実な方ですから」とあります。皆さん、私たちの信じている神は真実な方です。どういう点で真実であるかというと、約束されたことを一つも違わず成就してくださるという点においてです。聖書の中には神の約束が沢山ありますが、それは、信じる人に実現する約束なのです。その神の約束は必ず実現するわけですから、それを信じて歩むことが大切です。その約束の中でも最大のものは、私たち信じる者たちが天国へ行くことができるということでしょう。これは必ず実現します。なぜなら、すでに見てきたように、そのためにイエスの血が流さたからです。だから私たちは必ず天国に行くことができるのです。

 

であれば、この地上においてどんなに厳しい状況にあっても、もうだめだと失望することがあっても、そういうことで動揺しないで、しっかりと希望を告白することができるのではないでしょうか。それが天国に向かって歩んでいる人の姿なのであります。

 

Ⅲ.愛と善行を促す(24-25)

 

第三のことは、愛と善行を促すように注意しましょうということです。24-25節をご覧ください。ここには、「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょ集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。

 

「愛と善行を促すように注意し合おうではないか」とはどういうことでしょうか。現代訳聖書では、「どのようにしたらほかの人を愛し、助けることができるかということについて、心を配ろうではないか」と訳されています。すなわち、キリストの恵みによって救われたクリスチャンは、愛という霊的な面と、ほかの人を助けるという具体的な両面が必要だということです。愛しているといってもそれが具体的な行動によって現されるものでなければ、本当に愛しているとは言えません。愛しているなら、それが必ず具体的な面で表されてくるはずだからです。

特に教会の中では「互いに重荷を負い合う」ということが強調されています。ガラテヤ6章2節には、「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」とあります。もしキリストによって救われ、あなたの中にキリストの愛が満ち溢れているなら、それは必ず互いに重荷を負い合うという具体的な形で現れてきます。もし現れてこないとしたら、その人は果たして本当にイエス様を愛しているのか、魂を愛しているのかということを吟味してみる必要があります。イエス様の愛によって救われているのなら、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合わなければなりません。特定の人にだけ重荷を負わせ、犠牲を強いるというようなことがあってはいけないのです。もちろん、皆が同じように愛を実行できるということではありませんが、自分のできる範囲で、心を配るということが求められているのです。

 

そのためには、いっしょに集まることをやめたりしないということが大切です。クリスチャンが一人で信仰生活をしていくと、どうしても独り善がりになり、偏った考え方に陥ってしまいがちです。ですから、どうしてもクリスチャンには交わりが必要で、その中で最も大切な交わりは教会の交わりであると言えるでしょう。なぜなら、教会は神の家族であるからです。家族であれば一緒に生活するわけで、一緒に生活していれば必ずぶつかり合うこともあります。しかし、そのようなぶつかり合いの中でこそ自分の信仰が鍛えられ、健全に成長していくものなのです。

 

このように見てきますと、イエスの血によってきよめられ、この新しい生ける道を歩むようになったクリスチャンに求められていることは、次の三つのことであることがわかります。すなわち、信仰と希望と愛です。どこかで聞いたことがありますね。信仰と希望と愛。パウロはⅠコリント

13章13節で、次のように言っています。

 

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」

 

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。それは自分自身から出てくるものではなく、イエスの血によって救われ、この新しい生ける道を歩むようになった者にもたらされるものです。全き信仰はイエス様を見上げ、イエスにとどまることによって与えられます。しっかりと希望を告白するためには、イエスを見続けることが必要です。そして、愛と善行に励むためには、イエス様と交わることが求められます。その結果として信仰と希望と愛が生まれてくるのです。

 

皆さんはどうですか。皆さんのために血を流し、救いの御業を成し遂げてくださった主イエスをしっかり見ているでしょうか。また、このイエスにとどまり、このイエスと交わりをもっておられますか。かの日は近づいています。イエス様が再び来られる日、救いが完成する日が近づいているのですから、私たちはますますそうしようではありませんか。それが新しい生ける道を歩むクリスチャンに求められていることなのです。

ヘブル9章15~28節 「成し遂げられた救いのみわざ」

きょうはヘブル書9章後半の箇所から、「成し遂げられた救いのみわざ」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.新しい契約の仲介者(15~22)

 

まず15~22節までをご覧ください。15節にはこうあります。

「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産を受けることができるためなのです。」

 

「こういうわけで」というのは、14節までのところで述べられてきたことを受けてということです。そこでは、キリストは、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました、とありました。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者となられました。

 

それは、いったい何のためでしょうか。このヘブル書の著者は、続いてこう述べています。「それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」

どういうことでしょうか?初めの契約とはモーセによって与えられた律法のことですが、その初めの契約のときの違反を贖うための死が実現するためであったというのです。その初めの契約ではどちらか一方がその契約に違反すればその契約は成立しませんでした。しかし、イエス・キリストが血を流して死んでくださったことによって、新しい契約が成立しました。ですから、イエスさまが新しい契約の仲介者です。そして、この死は新しい契約を成立させるというだけでなく、古い契約における要求をも満たすものだったのです。律法に違反すれば死ななければならなかったのですが、イエスさまが十字架で死んでくださったことによって、その律法の要求をも完全に満たしてくださったのです。ですから、もはや罪の咎めを受ける必要はありません。私たちに残されているのは、永遠の資産を受け継ぐ約束だけなのです。

 

この神の契約は、人間でいえば遺言のような意味と性格をもっています。そこで16節には、「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。」とあるのです。この契約は遺言と同じ性質をもっているということです。どういう点で同じなのかというと、まず遺言は遺言を書いた人の一方的な意思によって決まりますが、それと同じように、この神が与えてくださった契約も神の一方的な意思によって決まるという点です。この新しい契約においては、私たちの行いがどうであるかということは全く関係ないのです。たとえあなたの罪が緋のように赤くても、雪のようにしてくださいます。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくださるのです。なぜなら、神の御子イエス・キリストがあなたの身代わりとなって十字架でその刑罰を受けてくださったからです。だから、イエスさまを信じる人はどんな罪でも赦されるのです。私たちの状態とは関係なく、神がどうしたいのかということによって決まるのです。

 

もう一つの特徴は17節にあるように、「遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力は」ないということです。

これはどういうことかというと、キリストが十字架で死なれることによって、この神の救いの契約が効力を発したということです。それは初めの契約も同じでした。あの初めの契約では、人の罪はどのようにして赦されたのかというと、動物の犠牲によってでした。動物をほふって得られた血を至聖所に置かれた契約の箱のふたに振りかけることによって赦されるとあったのです。なぜなら、人のいのちは血にあるからです。ですから、血が注ぎ出されることがなければ罪の赦しはなかったのです。このことは何を表していたのかというと、それはやがて来るべき神の御子イエス・キリストが十字架で死なれることによって、はじめて罪が赦されるという効力があるということです。イエス・キリストが十字架に掛かって死なれたことによって、私たちの罪を取り除いてくださったということなのです。それは血が注ぎ出されることがなければ、罪の赦しはなかったからです。このゴールデンウイークの間、「サン・オブ・ゴッド」という映画でDVDで観ましたが、キリストが十字架に付けられた場面は実に凄惨でした。イエスさまの全身が血だらけでした。なぜキリストは血だらけにならなければならなかったのか、なぜ十字架にかからなければならなかったのか、それはここに書いてあるように、すべてのものは血によってきよめられからです。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはなかったからなのです。

 

このように言うと、中には「キリスト教って血生臭い宗教なんですね」とか、「何だってむごいことをするのでしょう」と思われる方がおられますが、実はその血生臭さこそ、私たちの罪の血生臭さであり、そのむごさこそ、私たちの罪のむごさであったということです。罪が赦されるためには、いのちの代価としての血が求められたからです。そうでなければ、私たち自身が死ななければなりませんでした。私たちが罪をもっていても死ななくても済むのは、キリストが私たちの代わりに死んでくださったからなのです。キリストが死んでくださったので、この神の契約は有効になりました。

 

ですから、この契約は遺言と同じなのです。実際に、15節の「契約」ということばと、16節の「遺言」、17節の「遺言」、20節の「契約」という言葉は、原語のギリシャ語ではどれも同じことばが用いられています。それはこのヘブル書の著者が、神の契約は遺言と同じであるということを強調したかったからです。それは神の真実において一方的な契約であり、イエスさまが十字架で死んでくださったことによって成立した契約であったということあって、私たちの行動とか、私たちの行いとは一切関係ないということです。たとえあなたがどんなに弱くとも、たとえ、あなたが神との契約を守ることができなくとも、あなたがイエスさまを信じるなら、あなたが十字架につけられたイエスさまを仰ぎ見るなら、あなたはすべての罪から救われるのです。

 

皆さん、これはすばらしい知らせではないでしょうか。だからこれが「福音」というのです。「福音」とは良い知らせ、グッド・ニュースです。なぜこれがグッド・ニュースなのかというと、これは神の真実にかけて結ばれた契約だからであって、私たちの行いとは全く関係ないからです。

 

先日、宣教師訓練センター後援会主催の聖会があり、そこで有賀喜一先生がお話をしてくださいましたが、有賀先生はそのお話の中でご自分がイエス様を信じたときの証をしてくださいました。先生が14歳のとき友人が亡くなりましたが、人は死んだらどこに行くのかわからなかったのでいろいろな人に尋ねるのです。「すみません。死んだらどこに行くのですか」返ってきた答えは「そんなの死んでみないとわからない」というものでした。死んでみないとわからないというのなら死んでみようと思い、遺書を書いて列車に飛び込むのです。けれども、当時の列車は車体が高く飛び込んだ先生の体の上を通り過ぎていったため死ぬことも叶いませんでした。自分は死に神からも見放されたかと思っていたとき、友人に誘われて教会に行くと、そこでスウーデンから来た宣教師がヨハネ伝3章からニコデモの話をしていました。

「人は、どうしたら神の国を見ることができるのか」

「人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできません」

「どうしたら新しく生まれることができましょう。」

「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」

こうしたイエス様とニコデモとの会話から、新しく生まれなければ、神の国に入ることはできないことを知らされるのです。一方では、死んでみないとわからないと言われ、一方では、新しく生まれるなら入ることができるとはっきり告げられ、その晩、有賀先生は自分の罪を告白してイエス・キリストを救い主として信じて救われたのです。

それまで、自分では良い人間だと思っていました。自分には罪など関係ないと思っていたのが、当時、教会の役員だった方に促されて罪を告白すると、本当に罪深い人間だということが示され、それを全部告白して、救われたのです。

 

皆さん、死ななくてもいいのです。死んだらどこに行くのかということは、死んでみないとわからないのではありません。死ななくてもわかります。皆さんの罪の身代わりとなって死んでくださった神の御子イエス・キリストを信じるだけでいいのです。信じる者は救われるのです。何という恵みでしょうか。これが、神がキリストによって与えてくださった救いの約束です。本来ならば、自分の罪のために、神の怒りとさばきを受けなければならなかったのに、神の一方的な恵みによって救われたのです。

 

Ⅱ.完全な救い(23~26)

 

では、そのような神の救いのみわざはどのようにして成し遂げられたのでしょうか。23節から26節までをご覧ください。

「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」

 

ここには、旧約聖書に出てくるあの地上の幕屋と天の幕屋との対比を通して、地上の幕屋が血によってきよめられたのは、罪ある人間が神に受け入れられ神に近づくことができるようにするためでしたが、それは天にある幕屋、天国のひな型であったということ言われています。そして、天国の神に近づくためには、動物のいけにえよりももっとすぐれたいけにえでなければならなかったということが言われているのですが、それはもちろんイエス・キリストのことであって、これまで説明してきたとおりです。それでは、このキリストの犠牲とはどのようなものだったのであったのかを、二つのことばをもって協調しています。それは26節にあるように、「ただ一度」ということと、「今の世の終わりに」という言葉です。

 

これはどういうことでしょうか。キリストはただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために来られました。旧約における大祭司は年に一度、動物のいけにえの血を携えて聖所に入りました。しかも、それを毎年繰り返して行っていましたが、キリストは、ただ一度だけ、ご自身をささげられました。つまり、これが神の私たち人間を救う最終解決であったということです。神は最初の人間アダムが罪を犯した瞬間から、人類を罪から救う永遠の計画をもっておられましたが、その完全な贖いがイエス・キリストを十字架につけることによって完了したということです。キリストが十字架につけられたとき「完了した」と言われましたが、何が完了したのかというと、この神の永遠の救いのみわざが完了したということです。これが神のファイナルアンサーでした。これ以上、他に何かしたり、何すを付け足したりする必要はありません。私たちの罪の贖いはキリストの十字架によってすべて完了したのです。それは完全な救いだったのです。

 

リビングライフのコラムにこんなことが書かれてありました。ある夏の日、一人の子どもが庭で遊んでいたら、突然、大きな蜂がやって来て、子どもの頭上をブンブン飛び回りました。逃げようとすればするほど、さらに襲いかかってくるので、蜂が怖くて、子どもは泣きながら母親のところに走って行って抱きつきました。子どもの驚いた表情を見た母親は、急いでスカートで子どものからだを覆い、両手で子どもの顔を隠しました。その瞬間、怒った蜂は今度はその母親の手を力いっぱい刺し、大きな蜂の毒針は、抜くことができないほど深く突き刺さってしまいました。針が抜けた蜂は、飛んでいくこともできず、母親の手の上をはいずり回っていました。母親は痛みをこらえながら、おびえている子どもに言いました。「もう怖がらなくていいのよ。お母さんがあなたの代わりに刺されたから、もう大丈夫。この蜂は私を刺したから、もうあなた指すことはできないわよ。」「蜂の一刺し」という言葉がありますが、蜂は一度指したら死んでしまうのです。もう刺すことはありません。

 

キリストも、ただ一度だけ、十字架で刺されて死なれました。だから、私たちはもう刺されることはありません。キリストは、すでに私たちのために罪を贖って死なれ、三日目によみがえられることによって死に勝利され、今、天国のまことの聖所で私たちのために、あなたのために働いておられるのです。

 

さくらでの伝道が始まって一か月が経ちましたが、あまり反応がないのでどうしたんだろうと思い、教会の回りの家を訪問することにしました。すると、驚いたことに、中には家の中にいるということがわかっているのに玄関にも出て来なかったり、いぶかしい顔で対応する人もいました。いったいどうしてだろうかと思いながらある方のお宅へ行ったところ、その方が、「きょうは五回目ですよ」というです。「えっ、何が・・」と尋ねると、「エホバの証人の方が何回も何回も回ってくるのです」と言われました。「オタクとは違うんですか」というので、「えっ、違いますよ。一番違うのは十字架があるかないかということです。伝統的なキリスト教には必ず十字架がありますが、エホバの証人の方には十字架がありません。それが一番大きな違いです。」というと、「ああ、そうなんですか。私はオタクも同じかと思っていました」と言われました。

エホバの証人の方が一生懸命に伝道しているのはすばらしいことだと思うのですが、なぜそこまでして伝道するのかというと、そうしないと救われないと思っているからです。自分が救われているかどうかがわからないのです。だから、救われるためにそうやって必至で伝道しているのです。

けれども、聖書はなんといっているでしょうか。キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られました。このイエスを信じる者は、だれでも救われるのです。神はキリストを通してその救いの御業を完成してくださいました。このイエスを信じるならだれでも救われます。これが、聖書が約束していることです。これは感謝なことではないでしょうか。そして、このすばらしい救いに預かったのなら、こんなにすばらしい恵みを受けたのであれば、その喜びがあふれてくるはずで、エホバの証人どころではない熱心さが生まれてくるはずです。

 

Ⅲ.キリストを待ち望んで(27~28)

 

であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。27~28節をご覧ください。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自分をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々のために来られるのです。」

 

これはとても厳粛な箇所です。このヘブル人への手紙の著者は、「ただ一度」という言葉を、人間にもあてはめています。人は、何度も死ぬわけではありません。死ぬのはたった一度だけです。そしてそれは確実にやってきます。すべての人は皆、死ぬのです。しかしそればかりでなく、死んだらそこでさばきを受けることが定まっているのです。日本人の中には死んだらまた他の人となって生まれ変わるとか、死んだら無になると考えている人がいますが、そうではありません。人は死ぬことと、死んだらそこで必ず神のさばきを受けるのです。このさばきというのは、キリストを信じた者は天国へ、信じなかった者は地獄へ行くという最後のさばきのことです。なぜそのようなことが言えるのかというと、これまで何度も語ってきたように、キリストを信じた者はキリストが十字架にかかってその人の罪の身代わりとして死んでくださったので、もうさばかれることがないからです。ヨハネの福音書3章16~18節にこう書かれてあります。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

 

御子を信じる者はさばかれません。なぜなら、御子が代わりにさばかれたからです。これこそ神が用意してくださった救いであります。神はこのすばらしい救いを私たちに提供してくださいました。あなたはこの救いを受け取られましたか。あなたの罪の救い主イエスを信じて救われていますか。信じる者は信じる者は救われるのです。

 

ところで、ここには、人は一度死ぬことと死後にさばきを受けるということだけでなく、キリストが再び来られるということも書かれてあります。キリストは多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいるすべての人々の救いのために来られるのです。

 

いったいなぜここにキリストが二度目に来られること、すなわち、キリストの再臨について語られているのでしょうか。それは、キリストによって罪赦された者がどのようにあるべきなのかを語るためです。すなわち、私たちは、今をどのようにとらえているかということであります。ここには、今は世の終わりの時であると言われています。この終わりの時をどのようにとらえ、どのように生きているかということによって私たちのきょうの生き方は変わってくるのです。

ペテロはこう言っています。「万物の終わりが近づいてきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(Ⅰペテロ4:7~10)

 

なぜ祈りのために、身を慎むのでしょうか。なぜ何よりも、互いに熱心に愛し合うのでしょうか。なぜつぶやかないで、互いに親切にもてなし合い、その賜物を用いて、互いに仕え合うのでしょうか。万物の終わりが近づいているからです。このように、キリストの再臨の望みが、きょうの私たちの生き方を変えるのです。

 

あるクリスチャンの方がガンと診断され、余命6か月と宣告されました。この人は人生を整理することにしました。それまで自分が神様に対して行った過ちを紙にすべて書き出しました。数日間、身動きもせず、祈りながらすべてを書き出したのです。そして、書き出した罪の項目を一つ一つ消去しながら、神様の御前で悔い改めました。人に間違ったことをしたなら、訪ねて行ってお金を返し、謝り、食事をするなどして、人生を整理したのです。しかし、6か月経っても体調が悪くならないので、別の病院に行って診察してもらうと、最初の病院が誤診したようだと言われました。そこで彼の友人が、それはひどいと言って、その病院を訴えるよう勧めましたが、その聖徒は顔を上げることができませんでした。それは、その6か月間、自分はとても幸せで、生きがいを感じたためです。ですから、その残りの人生もそのように生きたいと思ったからなのです。

 

神様は、私たちが霊的に目覚め、このような心境で生きることを望んでおられます。まるで来月にでもイエスさまが来られるかのように、来月私がこの世を去ってしまうかのように、悔い改め、赦し、愛しながら生きることを望んでおられるのです。

あなたは、今がどのような時であるかを意識していますか。今が終わりの時であることを知り、あなたのために救いの御業を成し遂げてくださった主の恵みに感謝し、そこにしっかりととどまりながら、キリストが再び来られることを待ち望んでいるでしょうか。もちろん、私たちがこの世で与えられている務めはいろいろありますが、それは「キリストが死なれたのは、昨日のように思う」といったルターのように、キリストの愛に駆り立てられてのことなのであって、キリストを日々待ち望みながらのことなのです。

 

この手紙の読者たちはユダヤ人クリスチャンで、日々激しい迫害の中に置かれていました。生きる希望もなかったでしょう。しかし、ここに希望があります。それはやがてキリストが再び来られ、その救いを完成してくださるという望みです。キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られます。そこに希望を置きながら、きょうという日を感謝して歩んでいきたいと思います。それが神の恵みによって救われた私たちに求められていることなのです。

ヘブル9章1~14節 「永遠の救い」

きょうはヘブル書9章前半の箇所から、「永遠の救い」というタイトルでお話ししたいと思います。この手紙の著者は8章において、初めの契約と新しい契約がどのように違うのかについて述べました。すなわち、初めの契約、これはイスラエルがエジプトから導かれた後にシナイ山で結ばれた十戒のことですが、その契約には欠点があったのです。どういう点で欠けがあったのかというと、それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまうという点においてです。しかし、神の契約を守ることができる人などだれもいないわけですから、結局のところ、あの初めの契約で救われることはできる人は一人もいなかったわけです。じゃいったい何のためにそんな契約を与えたのでしょうか。それは私たちが罪人であるということを自覚させ、本当に救いを求めるように導くためでした。その本当の救いとはイエス・キリストによって与えられた新しい契約です。この新しい契約の特徴は、たとえ私たちが神との契約を守ることができなくとも、イエス・キリストを信じることによってそのすべての罪が赦され、救われるということでした。私たちの行いとは全く関係がなく、神の一方的な恵みによって救われるからです。私たちの罪がたとえ緋のように赤くても、雪のように白くしてくださる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくだるのです。キリストの血によって・・。これが福音、良い知らせです。神はこの新しい契約を私たちに与えてくださいました。きょうのところには、そのことがもう少し詳しく説明されています。

 

Ⅰ.初めの契約(1-10)

 

まず1節から10節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれるところです。」

 

前回見たように、キリストは私たちの罪の贖いを成し遂げて天の神の御座の右に着座されました。そこで何をしておられるのかというと、仕えておられるということでしたね。これは礼拝の務めをするということで、祭司として、私たちが神に礼拝をささげられるように仕えておられるということでした。

 

ではその聖所とはどういう所なのでしょうか。2節を見ると、その前部の所、そこは聖所と呼ばれていた所ですが、そこには燭台と机と供えのパンがありました。これらはすべてイエス様ご自身を表していたものです。イエス様は言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)ですから、これは「世の光」であるキリストを表していたのです。また、供えのパンですが、これもキリストを象徴していました。キリストは、「わたしがいのちのパンです。わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときでも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)と言われました。また、「このパンを食べる者は永遠に生きます。」(ヨハネ6:58)とも言われました。ですから、この聖所の細部に至るまで、イエス様のことが表されていたわけです。

 

そして、3節を見ると、幕屋の中は垂れ幕で仕切られていました。奥の部分は至聖所と呼ばれていましたが、そこには金の香壇と、全面が金で覆われた契約の箱がありました。中には、マナの入ったつぼと、芽を出したアロンの杖、十戒を記した二枚の石の板が収められていました。また、箱の上には、栄光に輝くケルビムがその翼で箱を覆うようにしていました。そこは幕屋の中でももっともきよい場所でした。なぜなら、そこには神が臨在しておられたからです。あまりにもきよい場所なので、祭司といえどもふだんは入ることができず、ただ大祭司だけが、一年に一度だけ、入ることができました。なんのためでしょう。7節には、「そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」とあります。そうです、イスラエルの罪と、自分の罪を赦してもらうためです。そのために、動物のいけにえの血を携えて入ったのです。なぜなら、この9章22節を見るとわかりますが、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないからです。ですから、大祭司はこの至聖所に入って行ったわけですが、それはいのちがけのことだったのです。なぜなら、大祭司に少しでも穢れあれば、その場で打たれて死んでしまうこともあったからです。だから、大祭司は着物のすそに鈴のついた特別の服を着ました。歩くと鈴がなるのです。もし神に打たれて死んでしまったら鈴の音は聞こえなくなります。その時には他の祭司たちがロープで引きずり出しました。それほどの慎重さをもって、またいのちがけで、大祭司は至聖所に入って行ったわけですが、罪の贖いをして帰ってくると、「神はあなたの罪を赦された」と宣言するのです。イスラエルの民はこのときをどれほど喜び、待ち望んでいたことでしょう。それゆえ、この日にはイスラエル中から人々がエルサレムに上ってきたのです。

 

それはイスラエルの民にとってばかりでなく、私たちにとっても同じではないでしょうか。主に罪が赦されるということ、そして、主が共にいてくださるというほどの幸いはありません。ダビデは詩篇32篇1,2節でこう言っています。

「幸いなことよ。そのそむきの罪を赦され、罪を覆われた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。」

ダビデはバテ・シェバという女性と姦淫を行ったとき、それをずっと黙っていたときには、一日中、うめいて、骨々が疲れ果てたといっています。それは、主の御手が昼も夜も彼の上に重くのしかかり、彼の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。しかし、彼がそのそむきの罪を主に告白して赦しを請うたとき、主は彼を赦してくださいました。それがいかに幸いであるかを、彼はこのように歌ったのでした。そして、彼は続けてこうも言っています。

「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼するものには、恵みが、その人を取り囲む。」(詩篇32:10)

だから、主に罪赦され、神がともにいるという経験は、何にもまさって幸いなことなのです。

 

しかし、この幕屋での行為は、彼らの罪の赦しにおいて完全なものではありませんでした。なぜなら、それらは彼らの良心を完全にきよめることができなかったからです。また罪が思い出されたからです。せっかく赦されたと思ったのにまた罪を犯してしまうことによって、良心の呵責がなくなってしまうことがなかったのです。それは後に来るものの比喩であって、本当の罪の赦しは得られなかったのです。では本当の罪の赦しはいったいどのようにして得られるのでしょうか。

 

Ⅱ.永遠の贖い(11-12)

 

ですから、次に11節と12節をご覧ください。

「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い換えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではないく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

 

旧約時代、祭司たちは初めの契約の律法に従っていけにえを捧げ、動物の血を流し、神の前に出て、民のために罪の赦しを請いました。神はそのつど、祭司や大祭司を通して罪の赦しを宣言してきたのです。しかしそれはあくまでもひな型にすぎませんでした。完全なものではなかったのです。どんなやっても罪が思い出されました。彼らの良心を完全にきよめることができなかったのです。本当の罪の赦しのためには、イエス・キリストを待たなければなりませんでした。やぎと子牛との血によってではなく、まことの神の子であるイエス・キリストが十字架にかかって流された血を携えて、天にあるまことの聖所に入り、罪の贖いをする必要がありました。その血によって、私たちは神の前に完全な罪の赦しときよめを受けることができるのでした。それは何度も何度も罪が思い出されるような不完全なものではなく、もう二度と思い出されることがない永遠の贖いです。詩篇 103:12には、「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く 離される。」とあります。私たちのそむきの罪を遠く離されるのです。東から西が遠く離れているようにというのは、もう決して交わることがないという意味です。そのような完全な罪の赦しが与えられるのです。なんという幸いでしょうか。これが本物の救いです。それゆえ本物の救いを知っている私たちは本物の贖いによって赦され、本物できよめられたのです。なぜこれが本物だといえるのでしょうか。なぜなら、イエス様は十字架につけられて死なれただけでなく三日目によみがえり、天において本物の幕屋で今もとりなしていてくださるからです。

 

ある村での出来事です。一そうの漁船が沖合で嵐に会いました。ようやく岸の近くまで戻ってきたのですが、そこには岩が多く、とうとう岩礁に乗り上げてしまいました。それを知った村人たちが驚いてやってきました。彼らは船の人を助けようとしましたが、波が高くてとても危険でした。しかしだからといってそのまま見殺しにすることもできません。そこで屈強な者たちが集められ、危険を承知で船を出しました。そして死闘を繰り返すようにして、荒波を越え、漁船の所へ行きました。ところが救命用に用意した船には一度にはたくさんの人が乗れませんでした。そこで何回かに分けて運ぶことにしたのですが、一回行き、二回行き、三回目行きましたが、それでも全員乗り切れず最後に一人だけ残ってしまいました。

そうこうしているうちに嵐はいっそう激しくなっていき、もはや助けに行ったとしても、とても無事に戻って来られそうもありませんでした。ところがその時、一人の勇気ある若者が「ぼくが行く」と言いました。もちろん止められました。それでも行くと、振り切ると、今度は母親が止めました。彼の父親がやはり嵐で遭難しており、その母親に残されたのは彼を含めた二人の息子たちだけだったからです。しかし彼はなお「行く」と言い張りました。というのも、実は最後に残ったたった一人というのは、彼のお兄さんだったからです。彼は言いました。「兄さんは他の人を先にやっておいて自分はあとに残ったんだ。ぼくが行かないで誰が行くんですか」

こうして彼は人々を振り切るようにして船を出しました。そしてお兄さんを無事に救出して帰って来たそうです。

 

イエス様は私たちを兄弟と呼ぶことを恥となさいませんでした。私たちを弟、妹のように思ってくださいます。そして、ちょうどいのちがけで兄を助けに行った弟のように、いのちがけで私たちを救ってくださったのです。十字架の上で。イエス様の愛は何と驚くべきものでしょう。イエス様はご自分のいのちをかけて救ってくださるのです。

 

しかも聖所でのイエス様の救いは実に見事です。12節には、「ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」とあります。毎日、毎日、何回も繰り返して、いつまでも続けられなければならない旧約時代の贖いと違い、たった一度だけで、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。イエス様の贖いのわざは完全です。ですから、どんな人でも救うことができるのです。どんな汚れた人でも、どんなに皮膚の色が違っても、その人にどんな過去、背景があったとしても、どんな人でも救うことができるのです。イエス様は確信をもって、たった一度だけ、永遠の救いをしてくださいました。

 

毎年秋になるとプロ野球の日本シリーズが行われ、日本中のファンを楽しませてくれますが、1994年10月8日に行われた巨人と中日のリーグ優勝をかけた戦いは、いまでも語り継がれている名勝負です。この試合に勝った方が日本シリーズに行くということで、だれもが注目していたゲームでした。その大切な試合のセーブを任せられたのは桑田投手です。彼は7回からマウンドに立つと魂がこもった投球をして、最後のバッターも三振に抑え、見事に巨人を優勝に導くのです。最大で13.5も引き離れていたペナントレースを見事に逆転して優勝するのです。この年に流行語になった言葉が「メイクドラマ」です。ドラマみたいなホントの話、ドラマを作るという意味で「メイクドラマ」と呼ばれたのでした。

これは野球の好きな人ならだれでも知っている名場面ですが、しかし、イエス様がなさったセーブはそんなものではありません。それは完全なみわざであり、永遠の救いだったのです。イエスの血によってあなたは、完全な救いを得ることができるのです。

 

Ⅲ.生ける神に仕える者(13-14)

 

ではイエス様はいったい何のためにそのようなみわざをなさったのでしょうか。13節と14節にこうあります。

「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰をけがれた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよめいものにするとしたら、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

 

イエス様がそのようなみわざをなさったのは、私たちをきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とするためでした。

皆さん、死んだ行いとはどういう行いのことでしょうか。死んだ行いとは、命のない行い、命を生み出さない行いのこと、つまり、自己中心な行いのことです。それは、霊的に死んだ状態から出て来て、さらなる死の状態へと導き、やがては永遠の滅びへと至らせるのです。生ごみや臭いモノにたかるハエって どんなに追い払ってもすぐまた戻ってくるように、自己中心や自分の欲に従う生き方は霊的に死んだ状態で腐っているので、どんなに追い払っても戻ってくるのです。それを完全に追い払うにはどうすればいいのかというと、その元を取り除いて綺麗にすればいいわけです。それがイエス・キリストの血によるみわざでした。

 

主イエスが来られて、十字架の上で永遠の贖いを成し遂げられたのは、まさにそのためだったのです。そのようにして私たちを生きた行いへと向かわせ、いのちの実を結ばせるためだったのです。

 

もう一度13節を見てください。ここには、「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば」とあります。動物の血は、それが人々にかけられることによって、彼らの肉体、つまり、外側をきよいものにすることがでたのであれば、私たちのためにささげられた御子イエスの血は、どんなにか私たちの心をきよめて生ける神様に仕える者とすることができるというのです。

 

私たちが日々、主の十字架を仰ぎ見る理由がここにあります。私たちはそこで流された御子の血によって自分の罪が赦されていることを覚えます。しかし、それが十字架の意味のすべてではありません。私たちはその御子の血を自分自身のうちに受けているのです。つまり、十字架で裂かれたキリストのからだと流された血を、パンとぶどう酒を通して食することで、私たちはこの方と一つにされているのです。それはこの信仰に生きるためです。つまり、そのことによって私たちは主と一つにされ、自分を中心として生きていた以前の古い自分が、キリストとともに十字架で死に、また、キリストの復活のいのちにあずかることで、私たちは神の子どもとして新しく生まれ変わるのです。ですから、信仰者はみなキリストのいのちを宿す者であり、彼のうちにあって、彼によって生かされるのです。それは御霊なる主の働きによるものです。

 

ガラ手や人への手紙5章16~18節には、こうあります。「 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」

 

御霊によって歩むなら、私たちは自分の肉の欲を満たそうとする死んだ行いから解放されます。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。そのどちらかしかありません。主イエスは、この御霊によって、十字架の杯を取り除けてほしいというご自分の願いを退け、父なる神様の御心としての十字架の道を進んで行かれました。そのようにして、主は生ける神様に仕えられたのです。

 

同じように、私たちも神の御霊によって生ける神に仕えることができるのです。私たちは御子の血によって、犯した罪に対する赦しを受けているだけでなく、御子のいのちをうちに宿すことで、罪の力から解放され、生ける神様に仕える者とされるのです。もう二度とあなたにハエがたかることはありません。

 

皆さんの心はどうでしょうか。このイエスの血によって聖められているでしょうか。このイエスのいのちをいただいて、罪の束縛から解放され、神に仕える者とされているでしょうか。

 

箴言にこういうことばがあります。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)私たちはよっぽど気を付けていないと、そう、力の限り心を見張っていないと、自分知らないうちに自分の思いにどっぷりと浸かってしまうことがあるのです。「ああ、めんどうくさい」とか、「あの人ってさあ、・・・だよね」といった悪いことでないにしても、他の人のことを話題にしてしまうことがあります。そういうのは神様が喜ばれることではなく、自分の肉の思いから出ていることですから、注意が必要です。そうでないと、ほら、ハエがたかりますから・・・。「信仰からでていないことは、みな罪です。」(ローマ14:23)愛から出ていないことは、みな罪であって、死んだ行いでしかないのです。ですから、そういうことがないように、私たちは力の限り、見張って、私たちの心を見守らなければなりません。

 

英国にジョン・ウェスレーという伝道者がいました。彼は広く伝道し、多くの書物を書き、すぐれた学者でもありましたが、そのウェスレーが死に臨んだ時、彼はこう言ったそうです。「私は天国に入る何の資格もない」

その場にいた弟子たちはみんなびっくりしました。ウェスレー先生ともあろう人が、不信仰になってしまったのだろうか、先生を信頼してついてきたのに、土壇場になってこんなことを言って、と思ったかもしれません。

しかしその時、ウェスレーは続いてこう言いました。「イエス様が私のために死んでくださったので、私は天国に入れる。」と。

 

これだけの学者であっても、自分の力では天国に入る資格はありません。天国に入るためには、御子イエスを信じなければなりません。信じて、罪を赦してもらわなければならないのです。また、このイエスの血によって神の御霊をいただき、死んだ行いから離れ、生ける神に仕える者とされるのです。

 

あなたは御子イエスの血によって罪が赦されていますか。その御子のいのちを宿すことによって、罪の力から解放され、生ける神に仕えておられるでしょうか。力あるイエスの血を受けてください。そして、あなたも罪から救われ、生ける神に仕える者となってください。お祈りします。

申命記15章

今日は申命記15章から学びたいと思います。イスラエルの民はエジプトを出て約40年間荒野をさまよいましたが、ようやく約束の地の入り口まで導かれました。ここからヨルダン川を渡って約束の地に入ります。そこでモーセは、イスラエルが約束に地に入るにあたり、そこでどうあるべきかをくどいと思われるくらい何回も語るわけですが、5章から11章までにはその原則的なことを、つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでしたが、12章からはその具体的なことが教えられています。この15章では、貧しい人、負債のある人、また奴隷に対して、どうあるべきかが語られます。

 

1.負債のある人に対して(1-11

 

まず1節から11節までをご覧ください。ここには、負債のある人たちに対してどうあるべきかが語られています。そして1節には、「七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。」とあります。どのように免除したらいいのでしょうか。2節には、「貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。」とあります。これは主の命令です。外国人に対しては取り立てることはできますが、同胞であるイスラエル人に対しては、貸しているものを免除しなければなりません。なぜでしょうか。4節をご覧ください。なぜなら、そうすることによって、イスラエルの民の中に貧しい者がなくなるからです。こうすることによって、自分が損をするどころか、主が彼らを豊かに祝福してくださいるのです。

 

これはいったいどういうことでしょうか。これを新約聖書の光に照らしてみると、罪の赦しについて語られていることがわかります。負債を負っているということが、罪を犯したことにおいて語られているからです。もちろん、新約聖書においても、貧しい人に対する施しが勧められていますが、もっと中心的に教えられているのは、罪を犯すことにともなう負債なのです。兄弟があなたに対して罪を犯したなら、あなたはその兄弟の罪を赦してあげなければならないということです。そうすれば、あなたは祝福を受けるのです。

 

マタイ72135節には、もし兄弟が自分に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきかが教えられていますが、主は、七を七十倍するまで赦しなさい、と言われました。もし、心から兄弟を赦さなければ、天の父は、その人を獄吏に引き渡すと言っています。それは、自分自身の罪が主に赦していただいたのにもかかわらず、同じように負債のある兄弟を赦してやらなかったからです。すなわち、このように教えられている背景にあるのは、神の深いあわれみなのです。神があなたを赦してくださったのだから、あなたがたも互いに赦し合わなければならないのです。それができないとしたら、その人は自分がいかに罪深いのかを知らないのであって、その罪を赦していただいたという恵みさえもわからないのです。赦していただいたからこそ、互いに赦し合うことができるのであって、それができないということは、本当の意味で赦されてはいないのです。主が赦してくださったように、互いに赦し合うとき、主は、必ずその人を祝福してくださるのです。それがどのくらいの祝福なのかは、5節と6節に期されてあります。彼らがそのように兄弟の負債を免除するなら、彼らは多くの国々に貸すが、借りることはありません。また彼らは多くの国々を支配しますが、支配されることはないのです。

 

7節から11節までをご覧ください。ここには、貧しい兄弟に対して、心を閉ざしてはならない。またその手を閉じてはならないとあります。心に邪念を抱き、第七年目が来た、すなわち、免除の年が来たと言って、貧しい兄弟に物惜しみして、何も与えないというようなことがないように気を付けなければなりません。進んでその手を開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならないのです。心に未練をもってはなりません。このことのために、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからです。別にそれはお金だけのことではありません。私たちの生き方そのものなのです。このみことばに従って、私たちが心を開き、手を開いて、惜しみなく与えるなら、主は必ず祝福してくださるのです。

 

今回のさくらの会堂建設を通して、私はそのことをとても強く示されました。昨年の夏にアメリカに行ったとき、ある結婚してまだ23年しか経っていない若い夫婦の家に泊めてもらいました。彼らとは以前から知っていましたが、それほど親しくしているわけではありませんでした。しかし、私たちが教会を訪問したとき、私たちのためにその家を開放してくれただけでなく、あとで、結構多額の献金をしてくれました。こんなに献金して大丈夫だろうかと心配したほどです。

すると、私たちが帰国してから彼からメールがあり、こんなことが書いてありました。私たちのためにささげることができたことを感謝しています。そして、主は本当に忠実な方です。あの後で会社の上司からオフィスに来るようにと言われたので行ってみると、「君はよく仕事をしていて、成績もいいので、ボーナスをあげる」と言われました。それが何と私たちに献金した額とちょうど同じ額だったのです。彼はそれを聞いて、本当に主はすばらしいとほめたたえましたが、そうした彼らの生き方を、主が祝福してくださったのでした。

 

それから1月末にどうして足りない時に、私たちは祈っていました。このままでは会堂も立ちませんから、主よ、私たちをあわれんでください。必要を満たしてくださいと祈っていたのです。すると、ある方からメールがあって、彼のために、わざわざ本を送ってくれてありがとう。実は、少し前に兄弟がなくなってその遺産を相続したことで自分の借金を全部支払うことができました。残りはさくらの会堂のためにささげますと言って、送ってくださったのです。それが、私たちが必要と祈っていた金額とちょうど同じだったのです。うそみたいなホントの話です。

「あれっ」私たちは彼のために何をしたかなぁと振り返ってみたら、私たちがアメリカに行ったとき、彼の妻のお母さんが日本人で、どのように伝道したらいいかわからないので教えてほしいと言われたので、三浦綾子さんの本を読むといいと思うとアドバイスしました。そして帰国後、私は彼のことを思い出し、アマゾンで三浦綾子さんの本を3冊注文して送ったのでした。まさか、そんなことで献金してくれるなんて思ってもいませんでした。でも、その手を開き、その心を開いて、貧しい人に施すなら、神は豊かなに祝福してくださるのです。

実は、これには続きがありまして、献堂式のニュースレターを送ったところ、そのお母さんが行っているかどうかはっきりわかりませんが、二人の孫がローリングヒルズ日本人教会に行くようになったととても喜んでいました。これは奇跡だ!、これは奇跡だ!・・と。そうです、それは奇跡です。それは彼が心を開いて惜しみなく施したので、主はそのような彼の祈りに答えてくださったのです。

ですから、これはお金だけのことではないのです。私たちの信仰、私たちの生き方が問われているのです。私たちの心を開き、その手を開いて、惜しみなく施すなら、惜しみなく赦すなら、主は必ず祝福してくださるのです。それは主が私たちを赦し、ご自身の尊いいのちを与えてくださったからです。

 

2.ヘブル人の奴隷の解放(12-18

 

次に12節から18節までをご覧ください。ここには、ヘブル人の奴隷を解放するように命じられています。12節には、「もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。」とあります。しかも、「彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。」(13-14なぜでしょうか?その理由が15節に書いてあります。それは、彼らがエジプトの地で奴隷であったことを彼らが思い出し、そうした状態から解放されたことを覚えるためです。これはいったいどういうことでしょうか。

 

この奴隷であったとか贖い出されたということも、新約聖書においては罪との関係で語られていることがわかります。最初の人が悪魔の誘惑に陥って罪を犯して以来、人は悪魔の奴隷となってしまったということ、そしてその罪の支配下の中にいると、聖書では教えています。罪を犯さなければならないという、罪の奴隷となっているのです。しかし、キリストが十字架につけられ、よみがえられたゆえに、キリストに結びつけられた私たちも、罪に対して死に、キリストに対して生きる者とされました。ですから、もはや罪に従う必要はなくなり、罪から自由にされたのです。ですから、私たちは、罪を赦された者だけではなく、罪の力からも解放された者なのです。

 

 私たちが聖なる民として生きるときに、このことはとても重要なことです。私たちは互いに赦し合わなければなりません。罪の赦しがなければならないのです。また、罪の力に支配されることなく、御霊によって支配されていなければなりません。霊的に、罪の負い目を持っていたり、罪の支配下にあってはならないのです。確かに罪を犯さずには生きていくことはできませんが、だからといって罪を犯そうというのではなく、御霊の力によって、罪から自由にされていなければならないのです。それが神の民の特徴であり、この世とは異なる、この世とは分離された、クリスチャンの姿でもあるのです。

 

3.牛と羊の初子について(19-23

 

次に19節から終わりまでをご覧ください。こうして、奴隷を解放しなければいけないという教えに続いて、牛と羊の初子はどうしたらよいかが教えられています。19節と20節には、「あなたの牛の群れや羊の群れに生まれた雄の初子はみな、あなたの神、主にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。主が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、主の前で、それを食べなければならない。」とあります。これはどういうことでしょうか。

 

神は常に、「初めのもの」をご自分にささげるようにと命じておられます。アベルは、初子の子羊を主にささげ、それが受け入れられました。そして出エジプト記で、ここにあるように、家畜の初子は、主のものであると宣言されています。レビ人は、これら初子の代わりに取られたものであると、民数記には書かれています。収穫も初物を主におささげします。なぜ初めのものかというと、それはもっとも大切なもの、優先されるものだからです。彼らが主を自分たちの神としているかどうかの指標は、彼らのものの中で初めのものを主におささげしているかどうかで測られます。口ではどんなに、「私は主を愛しています」と言っても、残りものを主にささげるのであれば、その言葉には真実さがありません。なぜなら、第一のものを第一にしていないからです。

 

私の家はもともとキリスト教ではなく仏教なはずですが、どういうわけか、給料を初めてもらったときに母は、「いいがい。初物は神にささげんだよ。」と言いました。別にささげても、ささげなくてもどうでもいいんじゃないかと思いましたが、言われるままにしました。それは、神を神として敬うことの表れだったんだなぁと、あとで思うようになりました。だから、初物を神にささげるという行為は、自分の最も大事なものを主にささげることでもあるのです。それが命じられているのです。なぜでしょうか。

 

なぜなら、主は最も大切なものを私たちにおささげになったからです。それはご自分のひとり子イエス・キリストです。キリストは、コロサイ書1章15節から読みますと、万物の前におられた初めの方であり、この方によってすべてが造られ、この方のためにすべての物が造られました。また、死者の復活においても、この方が初めであり、すべてのことにおいて「初め」の方、長子であられる方なのです。その方をささげてくださいました。キリストは神にとって初物なのです。

 

だからここに、牛の初子を働かせたり、羊の初子の毛を刈ってはならないと命じられているのです。また、この初子をもって礼拝し、家族とともに食べなさいと命じられているのです。この初物こそまさに神の御子イエス・キリストだからです。このお方をないがしろにせず、礼拝の対象にしていきなさい、という意味なのです。私たちがこの方を教会のかしらとし、この方と交わりを持つことが、もっとも大切なことなのです。余ったものではだめです。自分の思いや、自分の考えを最初にありきではだめなのです。まず神の御子をもって礼拝し、この方を仰がなければなりません。これが、私たちが神の民、聖なる国民であるゆえんです。キリストを礼拝しているのか、そうでないかによって、人が聖なるものかそうでないかが区別されます。ですから、私たちの間に、罪の赦しがあり、罪の力からの解放があり、そして主イエス・キリストが礼拝されている、中心になっていることが、教会の姿であり、聖なる民であると言うことができるのです。

 

21節をご覧ください。初物に欠陥があってはなりませんでした。これは、神に受け入れられるささげものは完全でなければいけないという意味です。すなわち、神の御子イエス・キリストだけが、罪の供え物として完全な方なのです。私たちはこの方にあって罪の赦しをいただき、互いに赦し合うことができます。この方にあって罪の奴隷から解放されました。この方にあって、自ら進んでしもべとなることができます。この方だけが神の初物であり、完全な神のいけにえなのです。私たちはこのイエス・キリストにあって、イエス・キリストを中心として生きるとき、神に喜ばれた歩みがまっとうできるのです。

ヘブル8章1~13節 「新しい契約」

きょうは、ヘブル人への手紙8章から学びます。タイトルは、「新しい契約」です。聖書では「契約」ということをとても重んじています。私たちの持っている聖書も「旧約聖書」と「新約聖書」という神との契約から成り立っています。しかし、きょうの箇所に出てくる「初めの契約」とか「古い契約」というのは旧約聖書のことではありませんから、注意が必要です。きょうの箇所に出てくる「古い契約」とは9節に、「それは、わたしが彼らの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。」とあるように、彼らがエジプトから導き出された後にあのシナイ山で結んだ契約のことであり、律法のことです。それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまう性質を持っていますが、新しい契約はそのようなものとは違います。新しい契約は、たとえ私たちが神との契約を守ることができなくとも、イエス・キリストを信じることによって、そのすべての罪が赦され、救われるというものです。これが福音です。良い知らせです。なぜこれが良い知らせなのかというと、私たちの行いとは全く関係なく神の一方的な恵みによって救われるからです。ですから、この新しい契約というのは、私たちと神様との根本的な関係の変革を意味するとても重要な内容なのです。きょうは、この新しい契約について三つのポイントでお話したいと思います。

まずこの契約の仲介者であられるイエス・キリストについてです。第二のことは、古い契約とはどのようなものかということ、そして第三のことは、では新しい契約とはどのようなものかについてです。

 

Ⅰ.さらにすぐれた契約の仲介者(1-6)

 

まず1節から6節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。」

 

「以上述べたこと」とは7章で語られていたことで、イエス・キリストはメルキデゼクに等しい大祭司であるということです。どういう点で等しかったのでしょうか。まず、「メルキデゼク」という名前の意味ですが、これは「義の王」という意味でした。義、救い与えることができる方、救い主という意味です。そして、彼はサレムの王でしたね。サレムというのはエルサレムのことで、それは「平和の神」という意味でした。だから、メルキデゼクは義なる方であり、私たちに救いをもたらすことができる方です。そして、その結果として、私たちの心に真の平和を与えることができる方です。そればかりではありません。彼には母もなく、系図もありませんでした。その生涯の初めもなく、いのちの終わりもありませんでした。本当はメルキデゼクには母もいて、系図もあって、その生涯の初めも、終わりもありました。でもそれを書く必要がなかったのです。なぜなら、このメルキデゼクという人物はイエス・キリストのひな型だったからです。イエス・キリストがどういう方であるのかを表していたからです。一般の祭司ならイスラエル12部族の中のレビ族から選ばれましたがイエスはユダ族の出身ですから、キリストはそうした一般の祭司とは次元の違うもっとすぐれた祭司なのです。また、キリストは死んで終わりませんでした。キリストは死んで三日目によみがえりました。そして、天に昇られ、神の右の座に着座されたのです。ですから、今も生きて、私たちのためにとりなしていてくださるのです。キリストは永遠に生きておられる神の祭司なのであります。

 

これが7章で語られていた要点です。すなわち、私たちの大祭司であられるキリストは天におられる大能者の右の座に着座された方であり、人間が設けたのではない、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方なのです。主が設けられた真実の幕屋とは天国のことです。皆さん、これが天国の姿です。天国では大能者である神の右の座に神の子であるキリストが座って仕えておられるというのです。この「仕えておられる」という言葉は「レイトゥールゴス」というギリシャ語で、「礼拝の務めをする」という意味です。10章11節には「礼拝の務めをなし」と訳されています。昔、イスラエルの祭司たちが幕屋である聖所で礼拝の務めをしていたように、キリストは天国で大祭司としてまことの礼拝の務めをしておられるのです。私たちは時々、天国ってどういうところかなぁとか、天国に行ったら何をするんだろうと想像することがありますが、ここにはっきりと天国がどういう所なのか、そこでどんなことをするのかが書かれてあります。つまり、天国は礼拝が行われているのです。しかも私たちが毎週日曜日に行っているような1時間そこそこの礼拝ではなく、いつも、いつまでも、ずっと続く礼拝です。いくらすばらしい礼拝でもそんなに長かったら疲れるんじゃないですか?と思う人もおられるかもしれませんが、天国での礼拝は疲れるどころかもっと喜びと平安に満ち溢れます。なぜなら、そこに神がおられるからです。神に造られた人間にとって最もすばらしいこと神とともにいるときです。天国では永遠に神が共におられます。だから疲れることも、たゆむこともないのです。人間のすることは、必ず初めがあって終わりがあり、いくらすばらしい行事でも長すぎれば疲れてしまいますが、この天における礼拝はそういうものではありません。それは、私たちがこの地上でもよく体験していることでもあります。一人で主の前に祈っているときや、何千、何万人の人たちと賛美する時に、もう何もいらないと思うような思いになることがあります。

 

私は数年前にアメリカコロラド州にあるコロラドスプリングにある大きな教会に行ったとき、そこには五千人くらいでしょうか、もっといたかもしれません。大勢人たちが声を合わせて賛美している中にいたとき、震えるほど感動したのを覚えています。たった五千人でもそうなのですから、万の幾万倍もの人たちが一緒に礼拝したら、それはどんなにすばらしい礼拝かと思います。もうそこから離れたいと思えないくらいの感動で心が満たされるのではないでしょうか。でもそれはこの天国の礼拝の前味にすぎません。天国ではもっとすばらしい礼拝がいつもささげられているのです。

 

使徒ヨハネはこの天国の様子を神の聖霊によって啓示が与えられ、このように語っています。黙示録5章11~14節です。

「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」

そこでは、天と地と、地の下と、海の上のすべての被造物が、神と、小羊、これはキリストのことですが、「賛美と栄光と力がとこしえにあるように。」というと、四つの生き物がアーメン、アーメンと何度も言い、長老たちはひれ伏して拝んでいました。そこにはあらゆる国々の、あらゆる時代の、万の幾万倍というクリスチャンたちが声を合わせて主を賛美しているのです。もう感動で震えることでしょう。そこから離れたいなんて思うこともないのです。そのためにキリストは大祭司として、とりなしの祈りをささげておられるのです。これが天国です。

 

そのことから教えられることは、礼拝ということがどんなに大切であるかということです。私たちは礼拝をどれだけ重要なものと位置づけているでしょうか。もちろん、それは日曜日に持たれている礼拝ばかりでなく、個人礼拝ともいうべき毎日のディヴーションを含めてのことです。そして何よりも私たちが毎日、この主を礼拝するという姿勢で生きることの重要性です。礼拝というのは何よりも神中心であり、神をあがめるわけですから、毎日の生活において、私たちがどれだけ神を意識して生活しているかが問われていると言うことができるでしょう。

 

このように言うと、中には、「牧師はいいですよ。毎日神様のことだけを考えて生活しているわけですから。でも我々のように毎日この世にどっぷりと浸かっているものにとって、神様のことを考えていたら仕事になりませんよ。」と言う方がおられます。本当にそうでしょうか。逆です。もしあなたが神の前にひれ伏し、神を礼拝するなら、神から恵みを受けることができるのです。それなのに、もし信仰というものをこのように二元論的に捉えてしまうなら、せっかくのすばらしい神の恵みや力を体験することができなくなってしまいます。ただ頭だけの、ただ知識だけの信仰にとどまってしまうわけです。しかし、私たちはみなこの地上においては世俗的なものの中に生きていますが、その生きる力は決してこの世のものから来るのではなく、永遠の神の国、つまり、この天国から来るのです。もう一度言います。私たちの生きる力はこの世のものから来るのではなく、永遠の神の国、天国から来るのです。ですから、神の国とその義とを第一にしなければなりません。そうすれば、それに加えてすべてのものは与えられます。この神の力によらないで、自分の力、自分の考え、自分の思いで生きるなら、あなたはいつまでも失敗したり、敗北したりするでしょう。しかし、そのようにならないようにいつも祈っていて下さる方がいます。それが主イエス・キリストです。キリストは永遠に祭司の務めをしておられるからです。ですから、この方を無視して、勝利ある人生を歩もうと思ったら、それは全く意味のないことであり、何の力もありません。イエス様を通して神を礼拝することによって、私たちには計り知れない神の恵みと力が与えられるのです。それが6節で言われていることです。

 

あなたは何を拠りどころとして生きておられますか。天の神を仰ぎ、この神を礼拝して、神の力を求めておられますか。それとも、この地上のものに振り回されてはいないでしょうか。「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。」とみことばにあります。この神を礼拝し、この神から力をいただいて、日々歩ませていただきたいものです。

 

Ⅱ.初めの契約(7-9)

 

次に、7節から9節をご覧ください。ここにはなぜイエス・キリストなのかということが述べられています。そしてそれは、あの初めの契約に欠けがあったからです。もし欠けがなかったら後のものは必要なかったのです。あの初めの契約とは何でしょうか。それは先ほども述べたように、イスラエルがエジプトから解放された後にシナイ山で与えられた律法のことです。あの律法には欠けがあったんです。どういう点で欠けがあったのかというと、それを守らなければ契約は成立しないということです。なぜなら、それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまうという性質のものだったからです。でもどうでしょう。彼らはそれを守ることができたかというとそうではなく、どんなに守ろうと努力しても守ることができませんでした。それは彼らが罪人であったからです。それは彼らだけではありません。私たちもそうです。人はみな罪人であり、神の律法を守り行うことなどできないのです。それはローマ3章10節以下のところにこのように書かれてあるとおりです。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10-12)

 

それならば、なぜ神は彼らとそんな契約を結ばれたのでしょうか。それは、このような律法を与えることによって、自分たちはそれを守ることができない罪人であるということを悟らせるためでした。つまり罪を自覚させるためだったのです。このことがわからないと救いがわかりません。神の恵みがどういうものかがわかりません。ですから、神は最初からそのことをご存じで、預言者を通して新しい契約を結ぶということを語っておられたのです。それが8節と9節のことばです。ここに引用されているのは旧約聖書にあるエレミヤの預言です。ここで主は預言者エレミヤを通して、主がイスラエルと新しい契約を結ぶ日が来ると言われました。それはかつて彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだあのシナイ契約のようなものではありません。そのような契約を結んでも、彼らは守ることができないので何の意味もないからです。ただ自分は神の律法を守ることができないという罪責感に悩むだけです。でも必要なのは、その罪が赦されることです。ではどうしたら罪が赦されるのでしょうか。そのために神が与えてくださったのが新しい契約です。

 

Ⅲ.新しい契約(10-13)

 

10節から13節をご覧ください。ここには、この新しい契約がどのようなものなのかが三つの点で説明されています。

 

第一に、それは神の律法が私たちの心に書き記されるということです。10節にはこうあります。「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。」彼らの心に律法を書きつけるとはどういうことでしょうか。モーセが神の律法をイスラエルの民に語ったとき、その教えは石の板に書きしるされました。イスラエル人はこの石の板に刻まれた神のみことばを自分の行いによって守ろうとしましたが、それを守ろうとすればするほど守れない自分にジレンマを抱えていました。

 

しかし、新しい契約は違います。新しい契約は、私たちがキリストを信じることによって、私たちの罪がキリストの血によって聖められ、神の御霊が注がれるというものです。イエス・キリストを信じることで、神ご自身の聖霊が私たちの内に入ってくださるのです。それでこの聖霊が私たちのうちにとどまっておられ、聖霊が私たちに語りかけてくださるのです。そして、この聖霊によって神のみことばを悟り、それを行うことができるようになるのです。これが神の律法を彼らの心に書きつけるということです。ですから、人はこの新しい心が与えられることによって救われるのです。それは救い主イエスを信じる信仰によってなのです。

 

昨日、さくらでオープン記念のコンサートが行われました。ものすごい感動でした。何が感動したかって、蜷川さんの全身から溢れる魂の演奏にです。いったいどこからそんな力が出てくるんだろうと思っていたら、ご自身が救われた時の証をしてくださいました。高校の音楽科、音大を出てフランスへ留学したのですが、自分がどんなに一生懸命に演奏しても全然先生に認めてもらえないのです。どうしてだろうと悩んでいた時、ある方から一枚のトラクトをもらうのです。そこにはイエス・キリストが私のために十字架にかかって死なれたこと、三日目によみがえられたこと、そして天に昇り神の右の座に着かれ、今も生きてとりなしておられることが書かれてありました。そして、教会に行って話をきくうちに、自分から音楽を取ったら何があるんだろう、いったい何のために音楽をしているんだろうと考えていくうちに、それは自分のために十字架に死んでくださり、自分の罪を取り除いてくださった神様のためだということがわかるんですね。それが、彼女が演奏をする目的であり土台になったのです。それが昨日の演奏に表われていたんですね。昨日は20~30人の新来者がおられましたがが、本当にみんな感動していました。その中にコリーナ矢板というところの山奥から来られた方かせおられましたが、「もうお話を聞いていてとても感動しました。私、一人なんです。親戚もだれもいなくて孤独なんです。いるのは2匹のねこちゃんだけで、チラシを見てきょうは楽しみにしていたのですが、ほんとうに良かったです。」と言われ、きょうの礼拝にも来ますと言って、帰って行かれました。

 

これが私たちの信仰です。これまでは石の上に刻まれた律法に捉われて生きてきたのですが、イエス様を信じたら、イエス様を信じて聖霊が与えられたら、この神の聖霊の恵みと力によって生きるようになったのです。それは心の奥底からあふれ出る喜びです。

 

第二に、新しい契約はすべての人が神を知るようになるということです。11節には、「また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、「主を知れ」ということは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。」

とあります。どういう意味でしょうか。彼らは自分の隣人に、また、それぞれその同胞に、「主を知れ」と言って、教えることは無くなるということです。なぜなら、どんな人でも、神を知るようになるからです。

 

私は牧師として、こうして毎週みことばを語らせていただいておりますが、人々に神を知ってもらうということは本当に難しいことだなぁと感じることがあります。神についての知識をただ伝えるだけであれば、それほど難しくないかもしれませんが、本当に神を知るということは知識ではないからです。それはたとえば、毎週礼拝に出席し、信仰生活に熱心に励んでいるような人でも、ちょっとした生活上の問題や何らかの躓きによって信仰から離れてしまったり、「神がいるなら、なんで自分がこんな苦しい目に遭わなければならないのか」と言ってつぶやいたり、嘆いたりすることからもわかります。本当に神を知っているなら、そのようなことはないからです。もちろんそれは人間の弱さから来ているのは確かですが、根本的な原因は神をどれだけ知っているかということなのです。

 

しかし、神が人に新しい心を与えてくださると、小さい者から大きい者まで、みんな神を知るようになります。そして神がその人の心を新しくしてくださり、神のみこころに歩み、自分で何かを一生懸命にしようとするよりも、神の御業を期待するようになるのです。

 

新しい契約の第三の特徴は、罪を拭い去ってくださるということです。12節には、「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」とあります。完全な罪の赦しの宣言です。罪を思い出さない、と主は言われます。皆さんの中で、過去の罪で思い悩んでいる方はいますか。主はその罪を赦してくださいます。赦してくださるというだけではありません。ここには、彼らの罪を思い出さない、とあります。なぜでしょうか。なぜなら、キリストが十字架につけられとき、あなたのすべての罪を身代わりとなって負ってくださったからです。その十字架の死によって、信じる人々の罪を赦してくださいました。あなたがイエス様をあなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたの過去罪も、現在の罪も、未来の罪もすべて赦されているのです。初めの契約ではそうではありませんでした。いつも罪が思い出されました。年に一度、贖罪の日があって、たくさんの動物がいけにえとしてささげられ、その動物の犠牲によって罪が赦されました。しかし、またすぐに罪を犯してしまうのです。ですから、いつも罪が思い出されました。そして、毎年、毎年、罪が赦されるための動物がいけにえとしてささげられていたのです。

 

しかし、キリストはあなたの身代わりとして十字架で死んでくださいました。やぎや羊の血が人々の罪を聖めることができるなら、まして神の子であるキリストの血はどんなにか人々の罪を聖めることができることでしょう。そうです。あなたがイエス様を救い主と信じるなら、その罪はもう二度と思い出されないのです。

 

しばらく前に「私の頭の中の消しゴム」という韓国の映画が放映されました。これは若年性アルツハイマーにかかった女性とその夫の話です。年をとってから物忘れをするというのはよくあることですが、若くして物忘れがひどくなる病気は大変辛いものがあります。ご主人のことさえも忘れてしまうのです。「あれっ、あなただれだっけ」となる。その時彼女がこうつぶやくのです。「私の頭の中には、消しゴムがあるんだって・・。」

この映画の基調は「赦し」だそうです。自分を捨てた母親を赦せないで苦しんでいた夫にこの若い妻が赦しのメッセージを語るのです。この作品を製作した監督はクリスチャンで、この映画を通して、赦しの大切さを伝えたかったのでしょう。そして、イエス様はそれをしてくださいました。イエス様が十字架にかかって死んでくださることによって、十字架で、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られることによって、私たちの罪を全部忘れてくださったのです。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

神様はそのひとり子をこの世に送り、十字架につけることによって、その約束を完璧に行ってくださいました。それほどに私たちを愛してくださったのです。あなたがイエス様を信じるなら、あなたがたとえ神との契約を守れないようなものでも、守れなくてすぐに罪を犯してしまうような弱い者でも、神はあなたを赦してくださるのです。これが新しい契約、神の福音です。新しい契約の大きな特徴はここにあります。最初に言いましたが、古い契約はいわば双務契約だと言いましたが、新しい契約は双務契約ではなく、神の愛と真実に基づく一方的な祝福の約束なのです。これは遺言と同じで、一方的なもので、双方の合意に基づくものではありません。しかも、それを受ける人にとって不利になるものは無効ですから、有利になるものだけが有効となります。キリストは十字架で死なれることによって有利どころかすばらしい祝福の約束、罪からの救いを与えてくださいました。それはキリストが十字架で流された血によって署名捺印された遺言状なのです。だから信じる人はその遺言状の通りに救われ、罪が赦され、永遠のいのちを得ることができるのです。

 

ですから、もう律法を守らなければというあの古い契約に戻らないようにしましょう。また天国に行くためにもっと善いことをして、天国への階段を上っていこうなどという考えを捨てて、神の恵みによって用意されたキリストの十字架の死と復活を通して成し遂げられたキリストの救いを受け入れ、今も生きておられるキリストの恵みによって生きる者でありたいと思います。

 

皆さんはどうですか。この神の恵みから離れ、いつしか律法という古い契約に戻っていることはないでしょうか。自分の思い、自分の考えが優先されて、そこに逆戻りしていることはないでしょうか。キリストの十字架以外にあなたを救うことができるものは何もないのです。

申命記14章

今日は申命記14章から学び思います。申命記は英語でDEUTERONOMYと言いますが、「二度語る」という意味です。神はモーセを通して、これから約束の地に入るイスラエルに対して彼らが守るべき教えと定めを二度語るのです。いいえ、何度でも繰り返して語っています。それはなぜでしょうか。私たちはすぐに忘れやすい存在だからですね。だから、忘れないように、こうして何度もなんども語っているわけです。そしてその中心は何だったかというと、6章4-5節にあったように、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神であると主を愛しなさい、ということでした。それが11章まで語られて、12章からは、それを妨げる要因にどんなものがあるのかを具体的に語っています。12章はついて、主が選ばれた場所で礼拝をささげるようにと勧められていました。主が選ばれし場所には主の御名が置かれているからです。ですから、主を愛し、主を礼拝する者は、主の御名が置かれている場所に集まって共に主を礼拝することが求めてられているのです。人数が問題なのではありません。主は、二人でも、三人でも、私の名によって集まるところに私はいると言われました。二人でも、三人でも、主の名が置かれた所、当時、それは主の幕屋でしたが、そこで礼拝をささげなければなりませんでした。

そして前回の13章には、彼らは、自分たちのうちから他の神々に仕えるようにそそのかす者があったらどうしたらよいかということが教えられていました。そして、そのような者がいたら、必ず処罰しなければならないということが教えられていました。それがたとえあなたの兄弟、しまい

娘、愛妻、無二の親友であってもです。あるいは、その町の者全員がそうなってもです。その場合はその町とそこにいるすべてのものを剣の刃で聖絶しなければならないとありました。なぜなら、彼らは主によってエジプトの奴隷の状態から救われた者であり、主に従うこと、主を愛することが、彼らの祝福だからです。そうでなければ祝福はないからです。だから、自分たちにとってどうかということてはなく、主にとってどうか、主にとって良いことで、正しいとこであるならば、その主の教えに従って生きなければならない、ということが語られてきたのです。ですから、きょうの14章も、主を愛するという戒めの中で、語られている命令なのです。

 

1.死人のために自分の身に傷つけてはならない(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」

 

死人のために自分の身に傷をつけたり、額をそり上げたりというようなことが、異教的な風習として行われていたようです。自分の息子、娘の死を前に悲しみをこらえきれない親の気持ちはわかります。それで命を絶つ人もいるくらいです。ですから、死者のために体を傷つけるという気持ちがわからないわけではありませんが、そのようにしてはいけません。なぜなら、彼らは、主の聖なる民とされたからです。主は彼らを地の面のすべての国々の民のうちから、彼らを選んでご自分の宝の民とされました。その神に従わなければならないからです。悲しみは悲しみとしてしっかりと受け止めつつ、死もいのちも支配しておられる全能の神にゆだねなければならないのです。

 

2.忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない(3-20)

 

次に3節から20節までをごらんください。

「あなたは忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない。あなたがたが食べることのできる獣は、牛、羊、やぎ、鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊。および、ひづめが分かれ、完全に二つに割れているもので、反芻するものは、すべて食べることができる。反芻するもの、または、ひづめの分かれたもののうち、らくだ、野うさぎ、岩だぬきは、食べてはならない。これらは反芻するが、ひづめが分かれていない。それは、あなたがたには汚れたものである。豚もそうである。ひづめは分かれているが、反芻しないから、あなたがたには汚れたものである。その肉を食べてはならない。またその死体にも触れてはならない。すべて水の中にいるもののうち、次のものをあなたがたは食べることができる。すべて、ひれとうろこのあるものは食べることができる。ひれとうろこのないものは何も食べてはならない。それは、あなたがたには汚れたものである。すべて、きよい鳥は食べることができる。食べてならないものは、はげわし、はげたか、黒はげたか、黒とび、はやぶさ、とびの類、烏の類全部、だちょう、よたか、かもめ、たかの類、ふくろう、みみずく、白ふくろう、ペリカン、野がん、う、こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもり。羽があって群生するものは、すべてあなたがたには汚れたものである。羽のあるきよいものはどれも食べることができる。あなたがたは自然に死んだものを、いっさい食べてはならない。あなたの町囲みのうちにいる在留異国人にそれを与えて、彼がそれを食べるのはよい。あるいは、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。」

 

ここには食べることができるものとそうでないものの区別が記されてあります。食べて良いものはどのようなものでしょうか。牛、羊、やぎ、死か、かもしか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊、およびひづめが分かれて、反芻するものです。つまり、足の裏がふくらんでいるもので、例えば、犬や猫は足の裏がふくらんでいますが、ひづめがないため食べることはできません。また、反芻しない動物とは、肉食動物のことです。反芻するのは、草食動物だけです。しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているものでも、次のものは、食べてはいけないとされていました。すなわち、らくだです。これは反芻しますが、そのひづめが分かれていないので、汚れたものとされていました。また、岩だぬき、野うさぎ、豚です。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものですが、反芻しないので、汚れたものとされました。

 

それでは、ここで言わんとしていることはどういうことなのでしょうか。というのは、イエスさまは、すべての動物はきよい、と言われたからです。また、神はペテロに、「神がきよいと言われたものを、きよくないから食べないと言ってはならない」と言われました。イエスは律法の目的であり、それを成就された方ですから、私たちはイエス様のことばに従わなければなりません。つまり、神がきよいとされたものをきよくないと言ってはならないということです。それは水の中にいるものも、空を飛ぶものも同じです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 

このように地上の動物の中で食べてよいものと汚れているもの、また、水の中の生き物の中で食べてよいものと汚れたもの、空中を飛ぶものの中で食べてよいものと汚れているものの区別を見ると、なぜ神がそのように言われたかがわかります。それは衛生的な理由もありますが、それ以上にもっと大切な霊的な意味があったからです。それはこの3つに分類された動物について、汚れた動物の共通点を探してみるとわかります。

 

第一に、地上の動物は肉食が汚れているとされている点でん。そして、空の鳥では猛禽類(肉食)が、汚れています。なぜでしょうか?人のいのちは血にあるからです。ですから、神は初めに人を創造されたとき、人も含め、この地上のすべての動物は草食動物だったのです。つまり、神は、どの動物も肉を食べないように創造されたのです。実は、イエスさまが再臨されてからの千年王国においても、熊やライオンが草を食べると預言されています(イザヤ11:6-7)。だから、これが理想の状態なのですが、人が肉を食べるようになったのはノアの洪水後のことです。しかし、そこには一つだけ条件がついていて、それは、「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」(創世9:4)ということでした。これは、律法において定められたことですが、たとえ動物を食べるときにも、いのちを尊重しなければならないということです。したがって、神は生き物のいのちをとても大切にされており、ご自分のかたちに造られた人のいのちは、何ものにもまさって尊いものであるということです。

 

ですから、イスラエル人が肉食動物を食べないのは、神が人間や生き物を大切にしているように、自分たちもいのちを大切にしていることの現われなのです。もっと広い意味でいえば人を大切にするということでもあるでしょう。神を畏れかしこんで、人を自分よりも優れたものとみなし、慎み深く生きることでもあります。高ぶったり、無慈悲になったり、そしったり、陰口を言ったりするというのは、それは相手を傷をつけることであり、いわば「血を流す」ことでもあるのです。私たちの社会ではそうしたことが日常茶判事に起こっていますが、でもクリスチャンの間ではそうであってはなりません。そのように相手を食い物にし、相手の心を突き刺すような価値観を持ってはいけません。それを汚れたものとみなし、忌み嫌わなければならないのです。

 

第二のことは、これらの動物はすべて地上に、あるいは水に、直接、接していることです。どういうことかというと、地上の動物で、ひづめが割れているものがきよいとされたのは、足が直接、地面に接していないものです。それに対して、足の裏のふくらみで歩くものは、地面に接しているので汚れているとされました。同様に、水の中の生き物でうろこやひれがないものは、直接水に接するので汚れているとされました。あるいは、水底に接しているものもそうです。四つ足の這うものは、もちろん地面に接していますが、はね足のある者は、基本的に地の上ではねているだけで、這うことはないので、汚れてはいません。つまり、汚れているかどうかは、地に属しているかどうかで区別されているのです。

 

コロサイ人への手紙3章には、こうあります。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。…ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。」(3:1-2,5)不品行、汚れ、情欲は地に属するものです。そうではなく、クリスチャンは天にあるものを求めなければなりません。

 

また、ヤコブはこう言っています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。…しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3:14-17)

 

ねたみや敵対心は地に属しているが、純真、平和、寛容、温順は上からの知恵です。ですから、私たちは、何が汚れているかを見分け、そこから袂(たもと)を断つという決断を、常に行なっていかなければならないのです。パウロは、こう言っています。

 

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:14~18)

 

あなたはどこに属していますか。この地上でしょうか、それとも天でしょうか?私たちは、神の一方的な恵みによってこの世から救い出された者、神の民、聖なる者です。ですから、この世に属するものではなく神に属するものとして、自らを聖別しなければなりません。彼らの中から出て行かなければならないのです。食べてよいきよい動物と汚れた動物の区別の規定が意味していたのは、まさにこのことだったのです。

 

また、ここに「子やぎを、その母の乳で煮てはならない」とあります。これはどういう意味でしょうか。肉と乳製品を一緒に食べてはならないということです。だからユダヤ人はハンバーガーを食べますが、チーズバーガーは食べません。肉と乳製品が一緒だからです。厳格なユダヤ教徒の家では肉料理用の鍋と、乳製品用の料理用の鍋が分けられているそうです。厳格なユダヤ人だとそこまでいつちゃんうんですね。

 

しかし、これはそういう意味ではありません。これは、子やぎをその母の乳で煮て食べると多産になるという異教的な習慣があって、そうした異教の習慣と関わりを持つことがないようにという意味です。実際に、イシュタロテとか、アシュタロテ、バアルといった偶像崇拝においてはこのようなことが行われていました。こうした異教的な習慣ではなく、ただ神の教えと守り、神を愛し、心を尽くして、神に従わなければならないことが言われているのです。

 

3.十分の一をささげる(22-29)

 

最後に22節から29節までを見て終わりたいと思います。

「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、主の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」

 

ここには、収穫の十分の一を毎年主にささげるようにと勧められています。なぜでしょうか。それは、彼らが、いつも、彼らの神、主を恐れることを学ぶためです。私たちは自分の大切だと思っていることに時間とお金を費やします。その中で主こそ私たちを罪から救い出してくださった方であり、私たちにとって第一のお方であることを認め、この方を敬い、この方に従っていくことのしるしとして十分の一をささげるのです。ですから、これは決して義務でも、義理でもなく、神がなしてくださったことへの感謝の表われであり、この方によって生かされていることを示す信仰の表明なのです。もしそれが遠くて持っていくことが大変であれば、それをお金に代えてささげることができました。

 

いったいなぜイスラエルに、このようなことが求められていたのでしょうか。それは主への感謝というのはもちろんですが、そのことを通して主と交わりを持つためです。主は何も欠けたところがなく、私たちのささげ物を必要とされていません。神が、これらのささげ物を通して望まれているのは、私たちの「交わり」なのです。つまり、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい、と言われた、あの命令に従い、神を愛することを求めておられるのです。ささげものはそのための手段にすぎません。その本質は神ご自身を喜ぶことです。私たちはとかく、自分の信仰を霊的、精神的なものだから、このようなささげものは特に必要ではないと考えがちですが、その信仰が本物であれば、喜んで自分を神にささげるようになるのです。時間も、お金もすべてを。私たちはよく霊的な事柄について口で語ることができても、実際の生活の中で、たとえば自分の収入や時間を主におささげしていなければ、それはただ表面的な信仰にすぎないと言えます。このように自分の生活に密着したところにまで、主がおられることを認め、このような実際の事柄について、自分をささげることによって、その信仰が本当に主に喜ばれる生きたものとなるのです。ある意味でこれは神との深い交わりの表われでもあるのです。

 

またここには、あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない、とあります。彼らには相続地の割り当てがなかったからです。彼らは主への奉仕に専念するために、その収入となるべき相続地が与えられていませんでした。ですから、他のイスラエル人たちが支えなければならなかったのです。これは新約聖書にも貫かれている教えであり、福音の働きに専念している者たちを、その他の人たちが支えるべきであることが命じられていますが、神の群れがこのみことばに聞き従うなら、どれだけ祝福されるでしょう。そして、教会は10組のクリスチャンがいればこれはそれほど難しいことではないはずです。

 

三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。とあります。それは彼らのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、彼らの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるためです。神は、貧しい者、小さい者にあわれみを施すことを求めておられます。イエス様は、「この小さい者にしたのは、わたしにしたのである。」と言われました。また、「あなたがたも、この子どものようでなければ、神の国に入ることはてきません。」と言われました。この社会の中で貧しい者たち、小さい者たち、弱い者たちを心から受け入れ、彼らのために何ができめかを考えて取り組まなければなりません。なぜなら、そうするなら、「あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」