民数記4章

きょうは民数記4章から学びます。まず1節から20節までをお読みします。

1.ケハテ族の奉仕(1-20)

「1 はモーセとアロンに告げて仰せられた。2 「レビ人のうち、ケハテ族の人口調査を、その氏族ごとに、父祖の家ごとにせよ。3 それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。4 ケハテ族の会見の天幕での奉仕は、最も聖なるものにかかわることであって次のとおりである。5 宿営が進むときは、アロンとその子らは入って行って、仕切りの幕を降ろし、あかしの箱をそれでおおい、6 その上にじゅごんの皮のおおいを掛け、またその上に真っ青の布を延べ、かつぎ棒を通す。7 また、供えのパンの机の上に青色の布を延べ、その上に皿、ひしゃく、水差し、注ぎのささげ物のためのびんを載せ、またその上に常供のパンを置かなければならない。8 これらのものの上に緋色の撚り糸の布を延べ、じゅごんの皮のおおいでこれをおおい、かつぎ棒を通す。9 青色の布を取って、燭台とともしび皿、心切りばさみ、心取り皿およびそれに用いるすべての油のための器具をおおい、10 この燭台とそのすべての器具をじゅごんの皮のおおいの中に入れ、これをかつぎ台に載せる。11 また金の祭壇の上に青色の布を延べなければならない。それをじゅごんの皮のおおいでおおい、かつぎ棒を通す。12 聖所で務めに用いる用具をみな取り、青色の布の中に入れ、じゅごんの皮のおおいでそれをおおい、これをかつぎ台に載せ、13 祭壇から灰を除き、紫色の布をその上に延べる。14 その上に、祭壇で用いるすべての用器、すなわち火皿、肉刺し、十能、鉢、これら祭壇のすべての用具を載せ、じゅごんの皮のおおいをその上に延べ、かつぎ棒を通す。15 宿営が進むときは、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって、その後にケハテ族が入って来て、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。これらは会見の天幕で、ケハテ族のになうものである。16 祭司アロンの子エルアザルの責任は、ともしび用の油、かおりの高い香、常供の穀物のささげ物、そそぎの油についてであり、幕屋全体とその中にあるすべての聖なるものと、その用具についての責任である。」17 ついではモーセとアロンに告げて仰せられた。18 「あなたがたは、ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない。19 あなたがたは、彼らに次のようにし、彼らが最も聖なるものに近づくときにも、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが、入って行き、彼らにおのおのの奉仕と、そのになうものとを指定しなければならない。20 彼らが入って行って、一目でも聖なるものを見て死なないためである。」

ここにはレビ族たちの奉仕について書かれてあります。まずケハテ族です。レビ族の先祖はレビですが、レビには三つの種族がおりました。ゲルション、ケハテ、メラリです。彼らは祭司の家系をサポートする聖職者たちです。そのそれぞれの氏族の奉仕について記されてあるわけです。その最初がケハテです。まず3節には、仕事をすることが許されていたのは30歳から50歳までのすべての者とあります。イエス様も幼い頃から主にお仕えしておられましたが、メシヤとして公の生涯に入られたのはおおよそ30歳のころでした。またⅡサムエル5章4節を見ると、ダビデがイスラエルの王になったのも30歳の時であることがわかります。それが神によって定められた時であったのです。

では引退の年は何歳であったかというと、50歳です。50歳と聞いて、「若いなあ、まだまだできる」と思われる方も少なくないのではないでしょうか。なぜ50歳なのか?わかりません。しかし、この50という数字を考えると何となくわかるような気がします。これはヨベルの年として定められていた年数でもあります。それは大解放の年でした。職から解かれて自由になれる年、それが50歳だったのでしょう。しかし、50歳になったからといって引退というわけではなかったようです。民数記8章24~26節には、50歳になると奉仕の務めからは退きましたが、同族の者が任務を果たすのを助けることができました。つまり、現役は退いてもその後継者たちの育成はできたということです。ここには25歳から会見の天幕での奉仕ができたとありますが、これはインターンの期間、見習いの期間です。こうした後継者たちの育成に携わることができたのです。彼らのレビ人としてのキャリヤがこうした形で生かされたわけです。それで50歳という年が定められていたものと思われます。ちなみに、祭司には退職はなかったようです。生涯現役でした。ただその果たすべき役割が違うのです。私の知り合いの牧師に、バルナバ牧師がおられますが、これは聖書的であると言えるでしょう。いつまでも第一線で働くというのもいいですが、むしろそれは後継者にゆだねて、自分はバルナバとして若い牧師たちを支えていくという立場になるのが最もふさわしいのではないかと思います。そういう意味で、私は65歳まで第一線の牧師として主にバリバリ仕え、後はバルナバとして、後継者の育成において助けていれたらと願っているところです。

ところで、このケハテ族の奉仕はどんなことだったでしょうか。彼らの奉仕は、最も聖なるものにかかわることでした。まず宿営が進んで行く時に、モーセとその子らが幕屋に入って行き、仕切りの幕を卸し、それであかしの箱をおおいました。そのようにしておおわれた幕屋の道具を運ばなければなりませんでした。しかし、その前にはアロンとその子らによって、幕屋の器具がじゅごんの皮と真っ青の布によっておおわれました。

まず、あかしの箱が聖所と至聖所を仕切っていた幕によっておおわれました。この垂れ幕にはケルビムが織り込まれていましたが、それは青、紫、白、緋色の糸で織られていました。この四つの色の糸こそキリストご自身を表していたものです。キリストの神としての栄光の輝きです。その上にじゅごんの皮のおおいをかけました。これもキリストを表しています。これは人としてのキリストの姿です。じゅごんの皮はどす黒い色をしていて見た目にはあまりきれいではありませんが、人としてのイエスもそうでした。見た目ではあまりきれいではありませんが、しかし、その中身は神の栄光に満ちていました。そして、その上に真っ青の布を延べました。これは天国の象徴です。神の国です。神の国は一目ではみずぼらしいようでも、外側からは魅力を感じないかもしれませんが、中身すばらしいのです。中に入ると天国を味わうことができます。神を賛美し、祈り、神のことばにふれるとき、そこはさながら天国のすばらしさを味わうことができるのです。それが神の国、天国、です。そのように聖所の器具はじゅごんの皮と真っ青の布でおおわれました。

しかし、祭壇の器具だけは別の色の布が用いられました。13節を見ると、祭壇は青色の布ではなく紫色の布を使いました。なぜでしょうか。それは十字架を表していたからです。紫色と聞けば、私たちはすぐにピンときすね。それはイエス様が着せられた着物の色です。ヨハネ19章2節には、十字架につけられる時、イエス様は紫色の着物を着せられた、とあります。イエス様は私たちの罪のための供え物となって十字架で死んでくださいました。紫色の布はそれを表していたのです。

15節を見てください。このように、宿営が進むとき、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおいおわった後で、ケハテ族が入って来て、これらを運びました。彼らの奉仕は特に注意を要するものでした。聖所の用具に関することだったからです。なぜ、こんなに注意を要したのでしょうか。それは彼らが死なないためです。彼らが聖なるものに触れて死なないためなのです。もしそれらに触れたら死んでしまいます。

Ⅰ歴代誌13章9節、10節には、ウザが神の箱に触れて死んだことが書かれてあります。ダビデが神の箱をキルヤテ・エアリムから自分の町に運ぼうとしていたとき、牛がそれをひっくりかえそうとしたので、ウザが手を伸ばして、箱を押さえたのです。すると神の怒りが発せられ、ウザはその場で死んでしまいました。それほど神は聖なる方であり、私たちが勝手にふれることなどできない方なのです。ですから、この奉仕に当たる時には特に注意し、決して自分の思いつきで、勝手に行ってはなりませんでした。

このことから教えられることは、神の奉仕は決して自分の考えや自分の思いで行ってはならないということです。それは神の方法で行われなければならないのです。キリストを中心に行なわなければなりません。自分でよかれと思ってすることが、死を招いてしまうことにもなるからです。神の召しもないのに、あたかも召されたかのようにふるまうと大変なことになってしまいます。神の奉仕は、教会の奉仕は、いつもみことばに従って、キリスト中心に行われなければなりません。間違っても自分の思いで行ってはならないのです。

2. ゲルション族の奉仕(21-28)

次にゲルション族の奉仕について見ていきましょう。21節から28節までをご覧ください。

「21 ついではモーセに告げて仰せられた。22 「あなたはまた、ゲルション族の人口調査を、その父祖の家ごとに、その氏族ごとに行い、23 三十歳以上五十歳までの者で会見の天幕で務めを果たし、奉仕をすることのできる者をすべて登録しなければならない。24 ゲルション人諸氏族のなすべき奉仕とそのになうものに関しては次のとおりである。25 すなわち幕屋の幕、会見の天幕とそのおおい、その上に掛けるじゅごんの皮のおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕を運び、26 また庭の掛け幕、幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の門の入口の垂れ幕、それらのひも、およびそれらに用いるすべての用具を運び、これらに関係するすべての奉仕をしなければならない。27 彼らのになうものと奉仕にかかわるゲルション族のすべての奉仕は、アロンとその子らの命令によらなければならない。あなたがたは、彼らに、任務として、彼らがになうものをすべて割り当てなければならない。28 以上がゲルション諸氏族の会見の天幕においての奉仕であって、彼らの任務は祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある。」

ゲルション族の奉仕は25節と26節にありますが、幕屋の幕についての奉仕です。すなわち、幕屋の幕、会見の天幕とそのおおい、その上に掛けるじゅごんの皮のおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕を運び、また庭の掛け幕、幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の門の入口の垂れ幕、それらのひも、およびそれらに用いるすべての用具を運び、これらに関係するすべての奉仕です。これをアロンの子イタマルが監督しました。

ここでのポイントは、まずアロンとその子らによって聖所の器具がおおわれ、その後でそれがケハテ族によって運ばれ、その後で彼らが幕を取り卸したということです。ここには一つの順序、一つの流れがあります。また、この奉仕のために監督者が立てられました。アロンの子イタマルです。彼らは勝手に奉仕したのではなくアロンとその子らの命により、イタマルという監督の指導のもとに行われました。

3.メラリ族の奉仕(29-33)

次にメラリ族の奉仕です。29節から33節までをご覧ください。「29 メラリ族について、あなたはその氏族ごとに、父祖の家ごとに、彼らを登録しなければならない。30 三十歳以上五十歳までの者で、務めにつき、会見の天幕の奉仕をすることのできる者たちすべてを登録しなければならない。
31 会見の天幕での彼らのすべての奉仕で、彼らがになう任務があるものは次のとおりである。幕屋の板、その横木、その柱とその台座、32 庭の回りの柱と、その台座、釘、ひも、これらの用具と、その奉仕に使うすべての物である。あなたがたは彼らがになう任務のある用具を名ざして割り当てなければならない。33 これが会見の天幕でのすべての奉仕に関するメラリ諸氏族の奉仕であって、これは祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある。」

メラリ族もイタマルの監督の下で奉仕します。彼らの奉仕は、幕屋の板、横木、台座、釘などです。これはかなりの重労働でした。ですから44節を見るとわかりますが、彼らの人数が最も多かったのです。それだけ手がかかりました。釘1本、ひも1本の細かい作業も求められました。

このようにして神の幕屋の奉仕が行われたのです。まずアロンとその子らがもっとも重要な仕切りの幕をとりおろし、それで神の箱をおおい、また他の聖なる用具にもおおいをかけ、それをケハテ族に託します。そして、そしてアロンとその子らの命令によって、今度はゲルション族が幕をとりはずします。そして、幕が取り外されたところで、今度はメラリ族が板、横木、釘、などを取り外したのです。これらはすべて主の命令によって行われました。だれかが勝手に行えば、全体の作業に支障をきたしました。そこには互いのコンビネーションが求められます。

隣のセブンイレブンが新装オープンします。9月下旬に古い建物が取り壊されて以来、わずか2か月たらずで新しい建物が完成しました。私はそれをずっと見ていて感じたことは、その全体を統括している人がいて、その命に従って各部門が動いていたということです。もしその命に従わなかったら完成はもっと遅れたことでしょう。あるいは、作業がバラバラになって建て上げられなかったかもしれません。

これが神の奉仕です。この4章の至ところに「主の命によって」ということばがあるのにお気づきになられたでしょうか(37,41,45,49節)モーセを通して示された主の命令によって、それぞれの監督者たちが立てられ、その監督者たちの割り当てにしたがって、それぞれが奉仕してこそ神の家が建て上げられていくのです。

それは教会も同じです。教会の奉仕においても、このコンビネーションが求められます。神はおのおのに御霊の賜物を与えてくださいました。それは互いがいたわり合い、補い合い、助け合い、支え合って、キリストのからだを建て上げるためです。そこには分裂がなく、たがいにいたわりあうように、一つ一つの奉仕が割り当てられているのです。その調和が保たれる時、キリストのかだは力強く建て上げられていきますが、そうでないと、分裂してしまうことになるのです。エペソ4章1節から16節までのところには、このことについて言われています。

ですから、私たちはいつもこのことに敏感になり、自分に与えられている賜物が用いられ、その賜物がしっかりと組み合わされ、結び合わされることを求めていかなければなりません。その時キリストのからだである教会は成長して、愛のうちに建て上げられるのです。自分だけはという考えは許されません。

そして34節以降からは、30歳から50歳までのそれぞれの氏族の登録人数について書かれています。最後の節を読みます。「モーセを通して示された主の命令によって、彼は、おのおのその奉仕とそのになうものについて、彼らを登録した。主がモーセに命じたとおりに登録された者たちである。」モーセは主の命令にしたがって、これらのことを行ないました。
イスラエルが約束の地に向かって進んでいくために、神はイスラエルにこのような登録と割り当てを行いました。それは彼らが力強く前進していくためです。それは私たちも同じです。私たちもキリストの旗印を高くあげ、この世の旅路において敵に処理するために、十字架のキリストを見上げているでしょうか。神によって救われ、神の民とされた者として、神の命に従って、神に仕えておられるでしょうか。私たちは主によって前進し、主の命によって動く群れなのです。それは自分から出たものではありません。キリストのからだである教会の一員として登録され、互いに励まし、助け合い、結び合って、仕えていく群れなのです。私たちはそのために数えられているのです。それは神の恵みによるのです。あなたは神のイスラエルの宿営の中で自分に与えられた務めを全うしていくとき、群れ全体が生かされ、強められ、共に約束の地に向かって前進していくことができるのです。

民数記3章

きょうは民数記3章から学びます。まず1節から4節までをお読みします。

1.アロンの系図(1-4)

「1 がシナイ山でモーセと語られたときのアロンとモーセの系図は、次のとおりであった。2 アロンの子らの名は長子ナダブと、アビフと、エルアザルと、イタマルであった。3 これらはアロンの子らの名であって、彼らは油そそがれて祭司の職に任じられた祭司であった。4 しかしナダブとアビフは、シナイの荒野での前に異なった日をささげたとき、の前で死んだ。彼らには子どもがなかった。そこでエルアザルとイタマルは父アロンの生存中から祭司として仕えた。」

ここには、主がシナイ山でモーセに語られた時のアロンとモーセの系図が記されてあります。アロンの子らの名は長男がナダブで、次にアビフ、エルアザル、イタマルです。彼らは油注がれて祭司の職に任じられた祭司たちでした。モーセもアロンも皆レビ族の出身です。しかし、すべてが祭司なれるのではありません。祭司になれるのはアロンの家系だけです。その他のレビ族の人たちは、アロンの家系をアシストするために召されていました。

しかし、アダブとナビフは、シナイの荒野で異なった火をささげたので、主の前に死にました。これは、レビ記10章に出てきた内容です。彼らは異なった火をささげたので、主の前で息絶えました。この異なった火とは何かというと、彼らは大祭司しか入ることのできない至聖所に入っていけにえをささげたのです。レビ記16章1節には、「アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいてそのために死んで後、主はモーセに告げられた。主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。」とある。すなわち、この二人の息子は、大祭司である父親のアロンしかできないことを、自分たちの手でやろうとしたのです。彼らは、自分たちにもできると思いました。彼らは主がしてはならないと命じられたことを勝手に行ったのです。それゆえに、彼らは火で焼き尽くされてしまいました。そこでエルアザルとイタマルが祭司として仕えました。

2. レビ部族を近寄らせ(5-10)

次に5節から10節までを見ていきましょう。ここには、「5 はモーセに告げて仰せられた。6 「レビ部族を近寄らせ、彼らを祭司アロンにつき添わせ、彼に仕えさせよ。7 彼らは会見の天幕の前で、アロンの任務と全会衆の任務を果たして、幕屋の奉仕をしなければならない。8 彼らは会見の天幕のすべての用具を守り、またイスラエル人の務めを守って、幕屋の奉仕をしなければならない。9 あなたは、レビ人をアロンとその子らにあてがいなさい。彼らはイスラエル人の中から、正式にアロンにあてがわれた者たちである。10 あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らなければならない。ほかの人で近づく者は殺される。」とあります。

ここには他のレビ族の人たちの幕屋における奉仕について書かれてあります。彼らはアロンとその子らにあてがわれました。アロンとその子らの働きをサポートして、祭司たちがそれができるように助けたのです。聖所における奉仕はみな、アロンとその息子たちが行いましたが、それに付随する働きはレビ人たちが担ったのです。ですから、たとえレビ人といえども、聖所の中での奉仕をすることはできませんでした。それはアロンとその子たちだけに許されていたことであり、ほかの人で近づく者は殺されたのです。

3.レビ人はわたしのもの(11-13)

次に11節から13節です。「11 はモーセに告げて仰せられた。12 「わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである。13 初子はすべてわたしのものだからである。エジプトの国でわたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは、人間から始めて家畜に至るまでイスラエルのうちのすべての初子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしはである。」

ここには、レビ人を初子の代わりとして聖別することが語られています。神は、イスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、レビ人をとることにした、と言われました。なぜなら、初子はすべて神のものだからです。イスラエルがエジプトの奴隷として仕えていたとき神はそこから彼らを救い出そうとされたとき、エジプト中の初子という初子を殺されました。それを殺して聖別されたのです。ですから、初子は神のものなのです。その初子の代わりに、神はレビ人をとられたのであります。つまり、その初子を自分のものとしたければお金を払って買い取らなければならなかったのですが、その身代金がレビ人であったわけです。

4.レビ族の登録(14-26)

そこで主は、レビ族をその氏族ごとに登録するようにと命じられました。14節から26節までをご覧ください。

「14 はシナイの荒野でモーセに告げて仰せられた。15 「レビ族をその父祖の家ごとに、その氏族ごとに登録せよ。あなたは一か月以上のすべての男子を登録しなければならない。」16 そこでモーセはの命により、命じられたとおりに彼らを登録した。17 レビ族の名は次のとおりである。ゲルションと、ケハテと、メラリ。18 ゲルション族の氏族名は次のとおりである。リブニとシムイ。19 ケハテ族の諸氏族はそれぞれ、アムライとイツハル、ヘブロンとウジエル。20 メラリ族の諸氏族は、それぞれ、マフリとムシ。これらがその父祖の家によるレビ人の諸氏族である。21 リブニ族とシムイ族はゲルションに属し、これらがゲルション人の諸氏族であった。22 数を数えて登録された者は、一か月以上のこれらすべての男子で、登録された者は、七千五百人であった。23 ゲルション人諸氏族は、幕屋のうしろ、すなわち西側に宿営しなければならなかった。24 ゲルション人の、一族の長は、ラエルの子エルヤサフであった。25 会見の天幕でのゲルション族の任務は、幕屋すなわち天幕と、そのおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕、26 庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の回りを取り巻く庭の入口の垂れ幕、そのすべてに用いるひもについてである。」

そここで注目してほしいことは、一か月以上のすべての男子が登録されたということです。1章では荒野を進んで行くイスラエルは、20歳以上の男子が数えられましたが、レビ人は一ヶ月以上の男子が数えられています。なぜでしょうか?イスラエル人は軍務につくのですから、成人でなければその任務を行なうことはできませんが、レビ人は、神の働きに召された者だからです。もちろん、一歳にもならない赤ちゃんが、幕屋の奉仕をすることはできません。けれども、彼らは主が臨在しておられるその場所に小さい頃から置かれ、そこで親から神様のことをいろいろ教えてもらうことによって主に仕える備えがされていたのです。そのことがすでに主の前で奉仕として数えられているのです。

それは霊的には私たちのことを指しています。私たちはみなキリストによって贖われた神の民です。祭司であり、レビ人です。神の働きのために選ばれた者なのです。そのような者は生まれて一か月の時から神のもとに置かれているのです。生まれたばかりの霊的赤ん坊にとって幕屋で仕えるということはできないかもしれませんが、主のみそばのそばに置かれる必要があるのです。ただ主の愛と恵みの中に置かれ、そこから神のことを学び取っていかなければなりません。彼らにとって必要なことは奉仕をすることではなく、主の臨在に触れること、主のみことばを聞くという環境に身を置くことなのです。奉仕はその後でいいのです。それなのにすぐに奉仕をさせてしまうことがあります。しかし、みことばを聞くことが彼らにとっての奉仕なのです。もちろん、いつまでも聞くだけではいけません。聞いて、それを実行しなければなりません。しかし、初めは神の臨在に置かれるだけでいいのです。そこで神のことばを聞き、神の恵みに満たされること、後の働きに備えて、十分愛情をいただくだけでいいのです。

そして、レビ族はさらに氏族ごとに分けられ、おのおのの氏族ごとに数えられます。レビ族には三つの氏族がいます。ゲルション族とケハテ族とメラリ族です。まずゲルション族についてですが、

ゲルションの意味は「追放された者」です。人気グループに「EXILE」というグループがいますが、それがこのゲルションの意味です。ですから、ゲルションはEXILE、追放された者であります。その人数は7500人でした。彼らは幕屋のうしろ、すなわち、西側に宿営しました。彼らの天幕での任務は、幕屋すなわち天幕と、そのおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕、庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の入り口の垂れ幕、そのすべてに用いるひもについてでありました。

幕屋は主に三つのものによって成り立っていました。まず契約の箱と祭壇などの道具です。それから、それらを取り囲む板や、板をつなぐ棒などです。そしてもう一つはその上にかける幕です。ゲルション族の奉仕は、幕屋の幕を取り外し、それを運び、また取り付ける奉仕でした。これは地味な奉仕のようですが、天国における報いの大きい奉仕だと思います。これは霊的にはとりなしの祈りを表していると言ってもいいでしょう。幕によって覆うのです。それがとりなしの祈りです。ヤコブ5章19-20節には、「19 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということ、あなたがたは知っていなさい。」とあります。

またⅠペテロ4章7-8節にも、「7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とあります。愛は多くの罪を覆います。祈りによって心を備えなければなりません。主の再臨のために。

5.ケハテ族(27-32)

次に27節から32節までをご覧ください。ここにはケハテ族について書かれています。「27 アムラム族、イツハル族、ヘブロン族、ウジエル族はケハテに属し、これらがケハテ人の諸氏族であった。28 これらの一か月以上のすべての男子を数えると、八千六百人であった。彼らが聖所の任務を果たす者である。29 ケハテ諸氏族は、幕屋の南側に沿って宿営しなければならなかった。30 ケハテ諸氏族の、一族の長は、ウジエルの子エリツァファンであった。31 彼らの任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕と、それに関するすべての奉仕である。32 レビ人の長の長は祭司アロンの子エルアザルであって、聖所の任務を果たす者たちの監督であった。」

ケハテ族の人数は8600人であり、彼らは幕屋の南側に宿営しました。彼らの任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕と、それに関する奉仕でした。ケハテの意味は「集まり」です。モーセもアロンも、ミリヤムも、このケハテ族の出身でした。32節を見ると、レビ人の長の長は祭司アロンの子エルアザルであって、聖所の任務を果たす者たちの監督であった、とあります。ゲルションの長はエルヤサフ、ケハテの長はエリツァファンでした。けれども、その彼らを取りまとめる人がアロンの子エリアザルです。アロンの後継者です。彼は、聖所の任務を果たす者のところで監督しました。これらの用具は聖なるものであり、運搬にはとくに注意を要したからです。エルアザルの意味は「神は助ける」ですが、この聖所の任務には、特別な神の助けが求められたのでしょう。

6.メラリ族(33-39)

次はメラリ族です。33-39節をご覧ください。「33 マフリ族とムシ族はメラリに属し、これらがメラリの諸氏族であった。34 数を数えて登録された者は、一か月以上のすべての男子で、六千二百人であった。35 メラリ諸氏族の父の家の長は、アビハイルの子ツリエルであった。彼らは幕屋の北側に沿って宿営しなければならなかった。36 メラリ族に任じられた務めは、幕屋の板、その横木、その柱と台座、そのすべての用具およびそれに用いるすべてのもの、37 庭の回りの柱とその台座、その釘とそのひもについてである。38 幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺される。39 モーセとアロンがの命により、氏族ごとに登録した、すべての登録されたレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人であった。」

メラリ族については、人数が6200人で、北側に宿営しました。彼らに任じられた務めは、幕屋の板、その横木、その柱と台座など、そして、庭の回りの柱とその台座、その釘とひもについての奉仕でした。これは幕屋の屋台骨を支えるような奉仕です。いわば縁の下の力持ちのような働きです。そればかりではありません。ここには、釘1本、ひも1本のような小さな奉仕でした。これでも主にお仕えできるのです。いや、こうした小さな奉仕が重要なのです。イエス様は、「小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」

(ルカ16:10)と言われました。小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実なのです。そういう人に主は、大きな働きをゆだねられるのです。

7.幕屋の正面(38-39)

そして最後に幕屋の正面です。38-39節です。「38 幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺される。39 モーセとアロンがの命により、氏族ごとに登録した、すべての登録されたレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人であった。」

幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺されました。幕屋の東側というのは幕屋への入り口があった場所です。そこは聖所への通り道でもありました。ですから、聖なる神にもっとも近いところであり、仲介役のモーセ、そしてアロンしか近くに宿営することが許されませんでした。モーセとアロンが主の命により、氏族ごとに登録したレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人でした。

8.イスラエル人の初子の贖いの代金(40-51)

最後に40節から51節を見て終わりたいと思います。ここにはイスラエル人の初子が数えられています。「40 はモーセに仰せられた。「イスラエル人のすべての一か月以上の男子の初子を登録し、その名を数えよ。41 あなたは、わたしのために、わたし自身、のために、イスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取り、またイスラエル人の家畜のうちのすべての初子の代わりに、レビ人の家畜を取りなさい。」42 モーセはが彼に命じられたとおりに、イスラエル人のうちのすべての初子を登録した。43 その登録による、名を数えられたすべての一か月以上の男子の初子は、二万二千二百七十三人であった。44 はモーセに告げて仰せられた。45 「レビ人をイスラエル人のうちのすべての初子の代わりに、またレビ人の家畜を彼らの家畜の代わりに取れ。レビ人はわたしのものでなければならない。わたしはである。46 レビ人の数より二百七十三人超過しているイスラエル人の初子の贖いの代金として、47 ひとり当たり五シェケルを取りなさい。これを聖所のシェケルで取らなければならない。一シェケルは二十ゲラである。48 そして、この代金を、超過した者たちの贖いの代金として、アロンとその子らに渡しなさい。」49 こうしてモーセはレビ人によって贖われた者より超過した者たちから、贖いの代金を取った。50 すなわちイスラエル人の初子から、聖所のシェケルで千三百六十五シェケルの代金を取り、51 モーセは、の命により、この贖いの代金を、がモーセに命じられたように、アロンとその子らに渡した。」

イスラエル人の初子を数えたところ22,273人でした。レビ人の人数は22,000人でしたので、273人超過したことになります。レビ人はイスラエルの初子の代わりでしたので、そうすると、273人分は、いつものように贖い金を支払わなければなりませんでした。そこでモーセは贖い金を徴収して、そのお金をアロンに手渡しました。それが40節から51節までの話です。 その代価は、一人あたり5シェケルでした。それはレビ記27章6節で見てきたことです。生まれて1か月から5際までの男子は一人あたり5シェケルの価値と定められていました。それでその273人分を支払ったのです。こうしてレビ人が数えられたのです。

それにしてもなぜレビ人が、他のイスラエル部族から取られて数えられ、主のもっとも近くに宿営し、幕屋の奉仕にあずかることができたのでしょうか。創世記49章5-7節を見ると、彼らは必ずしも良い性格の持ち主ではありませんでした。ヤコブがこのレビとシメオンについて次のように預言しました。

「シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」

「散らす」というのは、相続地を持たないということです。ですから、彼らが約束の地に入ったとき、相続地を持てなかったのです。シメオンについてはヨシュア記19章を見るとわかるのですが、ユダ族の割り当て地の中に吸収されています。彼らはヤコブの預言のとおり、相続地を持つことができませんでした。イスラエルの中に散らされたのであります。なぜでしょうか?彼らのつるぎは暴虐の道具だったからです。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったので、神に呪われたのです。それは創世記34章の出来事を指しています。彼らの直属の妹ディナがシェケムの異教徒の長の息子シェケムに強姦されたので、レイプされて破廉恥な行為をされたので黙っていることができず、その復讐に虐殺したのです。シェケムがディナを嫁にもらいたいと申し出たとき、自分たちは割礼のない民に嫁がせることはできないと言い彼らが割礼を受け、痛みで苦しんでいたとき、皆殺しにしたのです。このことをヤコブは思い出して、彼らの将来は、暴虐であると預言したのです。このような性格の部族が、今、幕屋の奉仕の務めとして取られたのです。それはいったいどうしてなのでしょうか?

出エジプト記32章を開いてください。32章21節から29節です。アロンが罪を犯し、金の子牛の像を作ってどんちゃん騒ぎをし、敵の笑ものになっていた時、モーセは「だれでも、主につく者は、わたしのところに」と言いました。するとレビ族だけがつきました。それでモーセは彼らに、剣で兄弟たちを殺すように命じました。それでその日、三千人ほどが倒れたのです。剣で失敗したレビが、今度はつるぎで主に従ったのです。過去においた失敗はしたが、その過去にしがみつくことをせず、ただ主に従うことを選び取りました。

それは私たちも同じです。私たちも過去において失敗するようなことがあります。自分なんて神に仕える資格なんてないと落ち込むこともあるでしょう。こんな者が神の奉仕に立てるのかと悩むこともあるかもしれません。しかし、神はそんな者でも新しく造り替えてくださり、神の働きのために用いてくださるのです。パウロはピリピ3章13-14節のところで、「13 兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」と言っています。パウロも、かつてはイエス・キリストに敵対する者でした。イエスを信じる者をつかまえては投獄し、殺害していたのです。それはとても赦されないことでした。しかし、そんな者が神に捕えられたのです。神の福音を宣べ伝える器とされたのです。それで、彼はうしろのものにとらわれることをやめ、ひたむきに前に進んで行くことを学びました。それは私たちも同じです。私たちはクリスチャンを迫害するような者ではありませんでしたが、かつては神に敵対し、自分の思うままに生きていました。とても赦されるには値しないどうしようもない者だったのです。そんな者が神の働きに携わることが許されるのであれば、それはただ神の恵みによるのです。

彼らは確かにかつて神の呪いを受けるようなことをしました。それで相続地を受けることもできませんでした。しかし、神はそんなレビ人を新しく造り替え、たとえ相手から嫌われても、神のみこころに従うことによって、神の呪いを祝福に変えたのです。確かに過去を消すことはできません。自分の犯した罪の結果は刈り取らなければなりません。しかし、それで終わりではない。それでも悔い改めて神に向かうなら、神に従うなら、神はその人を新しく造り替え、ご自身の働きのために用いてくださるのです。呪いを祝福に変えてくださるのです。最も神の近くに置いてくださる。

1章ではイスラエル人が軍務につく者として数えられ、それがこの世との戦いにおけるクリスチャンの勝利を表しているとすれば、幕屋の奉仕に数えられたレビ人は、神の恵みによって奉仕をする者に変えられたクリスチャンの姿を表しているのです。ペテロは主であるイエスを三度も否みました。それは弟子としてふさわしい者ではありません。しかし、復活されたイエスはペテロにお姿を現されたとき、「わたしを愛しますか。」と三度聞かれて、「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられました。ペテロは失敗したときに、主にお仕えするように呼び出されたのです。私たちも、そのままでは主にお仕えすることなどできる者ではありません。主に反逆し、主に罪を犯し、神の呪いを受けてもおかしくないような者なのに、主はそんな私たちを赦してくださいました。呪いを祝福に変えてくださいました。だから、私たちはただ神の恵みによって神のご奉仕にあずかることができるのです。この恵みに感謝したいと思います。そして、たとえ自分がそれにふさわしくないと思っていても、主が呼び出されるなら、その召しに答えて主に仕えさせていただきたいと思うのでするそれがレビ人として呼び出されたクリスチャンの姿なのです。

民数記2章

きょうは民数記2章から学びたいと思います。まず1~2節をご覧ください。

1.旗じるしのもとに宿営しなければならない(1-2)

「1 はモーセとアロンに告げて仰せられた。2 「イスラエル人は、おのおのその旗のもと、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の回りに、距離をおいて宿営しなければならない。」

1章では20歳以上の者で、軍務につくことのできる者が登記されました。その数の総計は603,550人でした。それは、これから約束の地に向かって進む彼らにとって、戦いに備える必要があったからです。そのように軍隊が組織されてこそ、敵と戦っていくことができます。ですから、その最初は軍隊を整えることだったのです。きょうのところには、その配置について教えられています。ここには、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない、とあります。イスラエルの民は、自分の好きなところにどこでも良いから宿営するのではありませんでした。部族ごと、決められたところにテントを張ります。そして、そのしるしがこの旗でありました。旗しるしのもとに宿営することになっていました。この旗は、それぞれ幕屋の周りの東西南北の4方向に掲げられています。12部族は、それぞれの方角に3部族ずつ割り当てられ、それぞれに代表の部族がいました。

ここでの「旗」とは部隊としての「旗」(デゲル)で、旧約聖書の中には14回使われていますが、そのうち13回がこの民数記で使われています。これは「旗をかかげる」「際立たせる」「群れをなして集まる」という意味があります。イスラエルの民は自分の属する旗のもとに宿営したのです。全体としては、12部族が「会見の天幕」を中心にして互いに向き合い、互いに寄り添い合う形となっています。この「旗」は自分の持ち場を知って、そこで「共に生き」、「共に歩み」、「共に進み」、「共に敵と戦い」、「共に仕える」ことを意識させるシンボルでした。

それは新約聖書ではキリストご自身のことであり、キリストのことばを象徴しています。私たちはその旗じるしのもとに集められた者であり、「キリストの名」のもとに集まり、とどまらなければなりません。キリストは次のように言われました。

「4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せて集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:4-9)

イエスを離れては、私たちは何もすることができないのです。イエスにとどまってこそ、私たちは敵に勝利することができます。ですから、私たちはキリストにとどまることを学ばなければならないのです。

こうしてイスラエル人で軍務につく者の人数が数えられました。次に、彼らが宿営においてどこに位置するのか、その配置について書かれています。

2.東側に宿営する者(3-9)

では、それぞれの配置を見ていきましょう。まず東側に宿営する者です。3-16節までをご覧ください。

「3 前方、すなわち東側に宿営する者は、軍団ごとにユダの宿営の旗の者でなければならない。ユダ族の族長はアミナダブの子ナフションである。4 彼の軍団は、登録された者が、七万四千六百人である。5 その隣に宿営する者は、イッサカル部族であり、イッサカル族の族長はツアルの子ネタヌエルである。6 彼の軍団は、登録された者が、五万四千四百人である。7 ついでゼブルン部族がおり、ゼブルン族の族長はヘロンの子エリアブである。8 彼の軍団は、登録された者が、五万七千四百人である。9 ユダの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十八万六千四百人。彼らが先頭に進まなければならない。」

まず、東側から見ていきたいと思います。東側は宿営が前進していく方向です。そこにはユダ部族の旗が掲げられました。そして、この旗じるしのもとに右隣にイッサカル族が、左隣にゼブルン族が宿営しました。この三つの部族が幕屋の東に宿営したのです。その合計の人数は18万6400人です。後で他の方角の宿営地を見ますが、そのどれにもまさって、もっとも大きくなっています。9節後半をご覧ください。ここには、「彼らが先頭に進まなければならない。」とあります。これは、イスラエルが旅立つとき、東のユダ部族が先頭になって進んで行ったということです。いったいなぜでしょうか?それは、これがイエス・キリストを表していたからです。

創世記49章9~10節を開いてください。ここには、「9ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」とあります。シロとは犬の名前ではありません。シロとはメシヤのことです。これは王なるメシヤがユダ族から出て諸国の民を従わせるという預言なのです。メシヤなる方は、このユダ族から起こります。イエス・キリストは「ユダの獅子」なのです。このイエスが先頭に立って進んでくださるのでイスラエルは勝利することができるのです。

それは幕屋の構造を見てもわかります。幕屋の入り口はどの方向にあったでしょうか?東側です。東から入って西へ、至聖所、神の臨在へと至るのです。イエスは言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)イエスが門なのです。だれでもイエスを通って入るなら救われるのです。イエスこそ神に至る道であり、私たちを神と結びつけることのできる唯一の仲介者なのです。ですから、ユダ族が先頭に立って進まなければならなかったのです。

3.南側に宿営する者(10-17)

次に 10~17節 をご覧ください。ここには南側に宿営する者がどの部族であるかが記されてあります。

「10 南側にはルベンの宿営の旗の者が、軍団ごとにおり、ルベン族の族長はシェデウルの子エリツルである。11 彼の軍団は、登録された者が、四万六千五百人である。12 その隣に宿営する者はシメオン部族であり、シメオン族の族長はツリシャダイの子シェルミエルである。13 彼の軍団は、登録された者が、五万九千三百人である。14 ついでガド部族がおり、ガド族の族長はデウエルの子エルヤサフである。15 彼の軍団は、登録された者が、四万五千六百五十人である。16 ルベンの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十五万一千四百五十人。彼らは二番目に進まなければならない。17 次に会見の天幕、すなわちレビ人の宿営は、これらの宿営の中央にあって進まなければならない。彼らが宿営する場合と同じように、おのおの自分の場所について彼らの旗に従って進まなければならない。」

南側にはルベン族が宿営し、ルベン族の旗が掲げられます。その右隣にはガド族がおり、左隣にはシメオン族がいます。その総数は151,450人です。イスラエルが旅立つときは、ユダ族に続いて、二番目にこの軍団が出発しなければなりませんでした。

そして17節をご覧ください。ここには、次に会見の天幕、すなわちレビ人の宿営について記されてあります。彼らはこれらの宿営の中央にあって進まなければなりませんでした。彼らが宿営する場合と同じように、おのおの自分の場所について彼らの旗に従って進まなければならなかったのです。

レビ人の宿営、つまり幕屋の用具や付属品を運んでいる人たちは、三番目に進みます。これは、前方からも後方からも軍がおり、幕屋が敵から守られるためです。彼らが宿営する真ん中に幕屋があり、彼らが進んでいる真ん中にも幕屋があります。これはすばらしいことです。彼らの真ん中には常に主なる神が住んでおられたのです。また、彼らは常に主なる神を中心に生活を営んでいました。

4.西側に宿営する者(18-24)

次に18~24節までをご覧ください。

「18 西側にはエフライムの宿営の旗の者が、その軍団ごとにおり、エフライム族の族長はアミフデの子エリシャマである。19 彼の軍団は、登録された者が、四万五百人である。20 その隣にマナセ部族がおり、マナセ族の族長はペダツルの子ガムリエルである。21 彼の軍団は、登録された者が、三万二千二百人である。22 ついでベニヤミン部族がおり、ベニヤミン族の族長はギデオニの子アビダンである。23 彼の軍団は、登録された者が、三万五千四百人である。24 エフライムの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十万八千百人。彼らは三番目に進まなければならない。」

ここには西側に宿営した部族について書かれています。西側は東側の反対、それはちょうど幕屋の裏側になります。そこにエフライム族が宿営し、エフライム族の旗が掲げられます。そして幕屋に向かって右隣にマナセ族、左隣にベニヤミン族が宿営しました。マナセではなくエフライムが中心になっているのはおもしろいですね。マナセが兄でエフライムが弟です。それなのにマナセ、エフライムではなく、エフライム、マナセの順になっています。なぜでしょうか?それはヤコブの預言のとおりだからです(創世記48:13-14)。マナセが兄であったのも関わらず、ヤコブは腕を交差させて、エフライムに長子の祝福を行ないました。そして、弟が兄よりも強くなることを預言しました。はたして、そのとおりになったのです。

5.北側に宿営する者(25-32)

次に北側に宿営する者です。25-32節をご覧ください。

「25 北側にはダンの宿営の旗の者が、その軍団ごとにおり、ダン族の族長はアミシャダイの子アヒエゼルである。26 彼の軍団は、登録された者が、六万二千七百人である。27 その隣に宿営する者はアシェル部族であり、アシェル族の族長はオクランの子パグイエルである。28 彼の軍団は登録された者が、四万一千五百人である。29 ついでナフタリ部族がおり、ナフタリ族の族長はエナンの子アヒラである。30 彼の軍団は、登録された者が、五万三千四百人である。31 ダンの宿営に属する、登録された者の総数は、十五万七千六百人。彼らはその旗に従って最後に進まなければならない。32 以上がイスラエル人で、その父祖の家ごとに登録された者たちであり、全宿営の軍団ごとに登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。」

北側にはダン部族が宿営し、ダンの旗が掲げられました。その右隣にアシュル族が、左隣にナフタリ族がいました。

こうして、東西南北の4つの方角に整然とイスラエルが宿営している姿は、遠くから見たら、ほんとうにすばらしい光景であったでしょう。それにしても、なぜ神はこのような配置を取らせたのでしょうか。ここで各方角に宿営した部族の総人数に着目してください。9節を見ると、東側の総数は186,400人と一番多いことがわかります。そして、南と北がそれぞれ15万人強で、大体同じ人数です。同じ方角のレビ人の人数を数えて足すと、南も北も同じような人数になりです。そして、西がもっとも少ない135,400人です。ということは、これを上空から眺めると、つまり鳥の目で見ると、それは十字架のかたちになります。これは十字架のフォーメーションだったのです。十字架こそ荒野を旅するイスラエルにとって勝利の秘訣であったということです。もちろん、その時点ではそんなことに気付かなかったでしょうが、これはイエス・キリストご自身を指し示していたのです。

ここで民数記24章5~6節を開いてみたいと思います。イスラエルを呪うように預言するように雇われたバラムは、この神の宿営を見てこう言いました。「なんと美しいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。それは、延び広がる谷間のように、川辺の園のように、主が植えたアロエのように、水辺の杉の木のように。」(民数記24:5-6)バラムは、まじないによってイスラエルを呪うようにバラク王に雇われたのに、その美しいフォーメーションを見たとき、祝福してしまったのです。思わず・・・。十字架を見てだれも呪うことなどできません。それはかつて処刑の道具として用いられたおぞましいもので、呪われたものなのに、それが祝福のシンボルに変えられたのです。それは十字架こそ神が私たちを救うために用いられた神の愛の象徴だからです。よくアクセサリーで十字架のものが付けられています。十字架のネックレスとか、十字架のイヤリングとか・・。十字架は神と私たちのアクセスになってくりたのでアクセサリーになったのです。だれも十字架を呪うことはできません。だれでもイエスの十字架のもとに行くなら罪から救われ、永遠のいのちという祝福を受けるのです。

ところで、最後になぜイスラエルの12部族を4つの旗のもとに、4つのグループに分けたのかを考えて終わりたいと思います。その4つというのはユダ族、ルペン族、エフライム族、ダン族であるというのは、さきほど見ました。そして、それぞれこの4つの紋章を見ると、一つのことに気が付きます。それは、これが天的な存在であるケルビムを表しているということです。

まずユダ族ですが、ユダ族の旗じるしはライオン、獅子でした。それからルペン族は人間です。またエフライム族は雄牛です。そしてダン族は鷲ですね。聖書の他の箇所で、この四つの動物が出てくる箇所があります。それはエゼキエル1章と黙示録4章です。エゼキエル1章10節には、人間の顔、獅子の顔、牛の顔、鷲の顔をもった生き物が当時用します。これは黙示録4章7-8節を見ると、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を賛美している天使であることがわかります。そう、それはケルビムとか、セラフィムと呼ばれる天使たちのことであり、その類の生き物なのです。つまり、この4つの旗じるしをと通して、天国のイメージを表していたのではないかということです。

それからこの4つの生き物ですが、これは4つの福音書を表しているのではないかということです。その最初はマタイの福音書です。マタイの福音書はユダヤ人の王として来られたイエス・キリストを表しています。ですから、王としての系図が記されてあるのです。マタイの福音書はユダヤ人のために書かれたのです。動物の王といったら何でしょうか。百獣の王ライオンです。それはユダの紋章でした。ですから、ユダ族に対応するのがマタイの福音書です。

それからマルコの福音書は、しもべとしてのキリストが描かれています。しもべとして仕えるために来られたキリストの姿です。ですから、マルコの福音書には系図がないのです。エフライム族の紋章は雄牛でした。それはしもべの象徴です。ですから、エフライム族に対応するのがマルコの福音書なのです。

そして、ルカの福音書は人間としてのキリストの姿が描かれています。人の子としてのキリストです。ですから、系図はアダムまで遡って記録されています。ルペン族の紋章は何だったでしょうか。それは人間でした。ですから、これはルカの福音書に対応します。

そして、ヨハネの福音書は神としてのキリストが強調されています。それはダン族によって現されています。鷲のように空高く飛ぶことができる。それはまさに天的な存在を表していたのです。。イエスこそ神の子であるということです。

ですから、このイスラエルの宿営はイエス・キリストご自身と、その十字架が描かれていたのです。神の子として、人の子としてこの世に来られたイエス・キリストを受け入れるなら、私たちは救われ、圧倒的な神の臨在の中で勝利が与えられるということです。そのことが現されているのが福音書です。この福音を理解して、福音に生きるなら、私たちも勝利のうちに約束の地に行くことができるのです。

民数記1章

きょうから民数記の学びに入ります。「民数記」は英語で「Numbers」と言いますが、ヘブル語では『ベミドバル』、「荒野で」という意味です。これが「民数記」となっているのはイスラエルの民の人口調査に関する記述があることから、七十人訳聖書、これはヘブル語をギリシャ語に訳した聖書ですが、『アリスモイ』(数)と呼ばれたことから、民数記という名称がつけられました。しかし、元々は「荒野で」という名前で、エジプトから連れ出されたイスラエルが約束の地カナンに向かうその途上の荒野で、神がどんなことをしてくださったのかが記されたものです。この民数記は「不平不満の書」とか、「つぶやきの書」などとも言われていますが、それは彼らがこの荒野でつぶやいたことからつけられました。

Ⅰコリント10章はこの民数記の出来事が背景にありますが、その中でパウロはこう言っています。11節です。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです。」ですから、これは私たちへの教訓のために書かれたものなのです。私たちの信仰生活は天の御国に向かっての荒野の旅です。その旅路においては、かつてエジプトの奴隷の状態から連れ出されたことを忘れ、ちょくちょくつぶやくことがありますが、そのことによっていったいどういうことになったのか、結論から言うと、40年も荒野をさまようことになってしまったということです。そして、その時代の多くの人々は死に絶え、たった二人だけ、神に従ったヨシュアとカレブだけが新しい世代の人たちと約束に地に入ることができました。申命記1章2節を見ると、このホレブからカデシュ・バルネアまで、カデシュ・バルネアというのは荒野と約束の地の境にある地ですが、そこまではたった11日で行ける距離だったのです。にもかかわらず、彼らは40年も荒野をさまようことになってしまいました。なぜでしょうか?つぶやいたからです。彼らは神の単純な約束を信じることができなかったので、そのような結果になってしまったのです。具体的には12人の偵察隊を送ったとき敵は大きく強いので、そこに入って行くことはできないと言って嘆きました。不平不満を言って神につぶやいたのです。それで彼らは40年も荒野をさまよわなければなりませんでした。それは現代を生きる私たちクリスチャンに対する戒めでもあります。私たちの時代にも荒野があります。そこで神の約束のことばを信じるか、信じないかによって、その後の結果が決まります。信じるか、信じないかの差は大きいのです。民数記では、それが問われています。

民数記はモーセ五書の一つで、モーセによって書かれた四番目の書です。モーセによってずっと書かれているということは、それなりに流れがあるということです。まず創世記ですが、創世記のテーマは、神の民の選びと言えます。神は、罪に陥った人類を救うためにアブラハムを選ばれました。アブラハムから出る子を通して、人類を救おうと計画されたのです。それがイサクであり、ヤコブでした。ヤコブがイスラエルになりました。彼の12人の子どもたちを通してイスラエルの12部族を誕生させたのです。

創世記の次は出エジプト記です。出エジプト記のテーマは、神の民の贖いと言えるでしょう。神によって選ばれたイスラエルが飢饉に直面したとき、神はヨセフを通してイスラエルをエジプトに導かれました。しかし、新しいエジプトに新しい王が誕生したとき、彼らはエジプトの奴隷として仕えるようになりました。その奴隷の状態から救い出したのはモーセでした。神はモーセを通して430年も奴隷としてエジプトに捕えられていたイスラエルを解放したのです。

そして、前回まで次のレビ記を学びました。レビ記のテーマは何でしょうか。神の民の礼拝です。神によって贖われた神の民に求められていたことは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」ということでした。聖別することが求められていたのです。そのために彼らはいけにえをささげなければなりませんでした。神に近づくためには、神が定められた方法によらなければ近づくことはできなかったのです。それがいけにえであり、それは神の小羊であるイエス・キリストを象徴していたものでした。そして、その礼拝において聖なる者としての生き方とはどのようなものかが教えられました。

そして、その次が民数記です。民数記のテーマは、神の民の奉仕です。この場合の奉仕とは、戦いと言ってもいいでしょう。神の民として贖われ、聖なる者としてされた者が、実際に約束の地に向かって歩み出すのです。私たちの信仰生活には様々な戦いがあります。それは外敵との戦いだけでなく、自分の肉との戦いなどいろいろです。その戦いにどのように勝利して進んで行ったらいいのかを、この民数記から学ぶことができます。それでは本文を見ていきましょう。

1.人口調査(1-16)

まず1~16節までをご覧ください1節には、「人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。」とあります。これはイスラエルの民がエジプトを出て二年目の第二月の一日に、主がシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられたことです。エジプトを出てから1年間シナイ山に導きそこで十戒を与え、幕屋を建設されました。モーセはそのシナイ山のふもとの会見の天幕にいます。出エジプト記40章2節を見ると、イスラエルが会見の天幕である幕屋を建てられたのはエジプトを出て二年目の第一月の一日でした。したがって、ここに1ヶ月間の空白があることがわかります。この空白の1か月の期間に何があったのでしょうか。この期間にレビ記が入ります。神の幕屋が完成したとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました(出エジプト40:34)。主はその会見の天幕からモーセを呼び寄せ、彼に告げて仰せられました(レビ1:1)。その内容がレビ記なのです。私たちはレビ記を学ぶのに半年くらいかかりましたが、実際は1か月です。その1か月の間に神の民としてのあり方を学び、そして今いよいよ約束の地カナンに向けて出発していくのです。その旅の準備が12章まで語られます。その準備の最初のことは何だったでしょうか?2節から16節までをご覧ください。

「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。あなたとアロンはイスラエルにおいて、二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない。また部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が、あなたがたとともにいなければならない。あなたがたの助手となるはずの者の名は次のとおりである。ルベンからはシェデウルの子エリツル。シメオンからはツリシャダイの子ナフション。ユダからはアミナダブの子ナフション。イッサカルからはツアルの子ネタヌエル。ゼブルンからはへロンの子エリアブ。ヨセフの子のうちからは、エフライムからアミフデの子エリシャマ、マナセからペダツルの子ガムリエル。ベニヤミンからはギデオニの子アビダン。ダンからはアミシャダイの子アヒエゼル。アシェルからはオクランの子パグイエル。ガドからはデウエルの子エルヤサフ。ナフタリからはエナンの子アヒラ。」 これらの者が会衆から召し出された者で、その父祖の部族の長たちである。彼らがイスラエルの分団のかしらたちである。」

ここで神はモーセに、イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ、と命じました。なぜでしょうか?戦うためです。これは20歳以上の者で、すべての軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えるためだったのです。戦うためには軍隊を整えなければなりませんでした。神の軍隊の陣営を組織し、その戦いに備えなければならなかったのです。部族ごとにリーダーが立てられ、それぞれの人数が数えられたのです。

エペソ人への手紙6章を見ると、クリスチャンの生涯にも悪霊との戦いであると言われています。私たちがクリスチャンとなり教会から出てこの世の中で歩もうとすると、必ず戦いがあります。その戦いにおいて悪魔の策略に立ち向かうために神のすべての武具を身に着けなければならないのです。

そのために選ばれのが父祖の家のかしらたちです。部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が選ばれ、モーセやアロンたちとともにいなければなりませんでした。すなわち、彼らの助手となる人たちです。モーセとアロンたちがそのすべてを行なうのではなく、部族ごとにかしらを立てて、彼らの助手となりました。それが5節から15節までに記されている人たちです。この人たちの名前をよく見てみると、「エリ」とか「エル」という名前が多いことに気づきます。この「エリ」とか「エル」というのは「神」という意味で、彼らの名前は神の名が入った複合体であることがわかります。そこに彼らの信仰が表われていると思います。彼らは皆、神に信頼し、神のために仕える勇士になるようにという願いが込められていたのです。

2.神に数えられている民(17-46)

次に17節から46節までをご覧ください。ここに20歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記しました。なぜ登記する必要があったのでしょうか?彼らがどこの家の出身の者で、どこに属しているのかを明らかにするためでした。イスラエルの民の中で、自分の家系がわからないという人は一人もいませんでした。

これは私たちにも言えます。私たちが戦いに出ていくためには、まず自分がどこに所属しているのかを明らかにしなければなりません。そうでないと戦えません。私たちの家系は何でしょうか?私たちはどこに所属しているのでしょうか?私たちの家系は神の家族です。クリスチャンという家系に所属しています。自分がクリスチャンかどうかわからないというのは問題です。神によって罪が贖われて神の民、クリスチャンになっているということがわからなくては戦うことができません。戦うためにはまず、自分が神の民であるということ、クリスチャンであるということを明らかにしなければならないのです。どうやって明らかにすることができるのでしょうか?いつも教会に行っていればクリスチャンでしょうか。洗礼を受けていればクリスチャンなのでしょうか。そうではありません。私たちが救われてクリスチャンであるかどうかは、神の御霊が証してくださいます。ローマ8章16節を開いてください。ここには、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」とあります。クリスチャンの内には聖霊の内住があります。私たちが神の子どもであることは、その聖霊が証してくださいます。ですから、自分がクリスチャンであるかどうか確信のない人はどうか祈ってください。そうすれば、神の聖霊が証してくださいます。

神に仕えるためにはまずあなたが神の家族に登録されなければなりません。神の子どもであるということをはっきりさせなければならないのです。そうでなければ良い成果を上げることはできません。戦いに勝利することはできないのです。

それは同時に、あなたがどの家系に属しているのかをはっきりさせることでもあります。つまり、どの地域教会に属しているのかを明確にするということです。Ⅰコリント14章33節には、「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」とあります。この「平和の神」というのは「秩序の神」という意味です。神は混乱の神ではなく秩序の神です。一定の組織に加わっていることは自分を守ることにもなります。この荒野で敵から攻撃された時どこに属しているのかがわからなかったら、誰も助けてくれる人がいなかったとしたら、一緒に戦ってくれる人がいなかったとしたら、敗残兵となってしまいます。私はどこの教会にも入りたくない、だれの指示も受けない、私はイエスさまの指示だけ従うというのは聞こえがいいですが、自由気ままで無責任な態度なのです。アカンタビリティーということばがあいます。報告責任と訳される言葉ですが、どこかの群れに属していなければ、このアカンタビリティーを持つこともできません。クリスチャンは一匹狼では戦えないのです。どこかの群れに属していなければなりません。私たちが救われたのは戦いに勝利するためです。敗北感を味わうためではありません。孤独で、不安定で、満足のない歩みをするためではないのです。私たちが救われたのは、私たちが勝利するためなのです。そして、そのためには私たちは登記されなければなりません。私たちが神の子どもであるということ、また、私たちはどの地域教会に属しているのかを登記することによって、私たちの身分が明らかとなり、この世での戦いに勝利することができるのです。

次に19節から46節までをご覧ください。ここにはそれぞれの部族の人数が記されています。ルベン部族46,500人、シメオン部族59,300人、ガド部族45,650人です。そして、ユダ部族74,600人です。イッサカル部族は54,400人、ゼブルン部族57,400人です。エフライム部族40,500人、マナセ部族32,200人、ベニヤミン部族35,400人です。そして、ダンは部族62,700人、アシェル部族41,500人、ナフタリ部族53,400人です。この12部族で合計60万3550人です。ものすごい数です。女や子どもを含めれば、おそらく300万人を越えていたでしょう。いったいなぜ、このように細かに人数が記録されているのでしょうか。

その大きな一つの理由は、アブラハムに対する約束が成就したことの確認です。創世記15章5節で、神はアブラハムを外に連れ出し、天を見上げさせ、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。神は彼の子孫を空の星、海辺の砂のように数多く増し加えると約束されたのです(同22:17)その約束がどのように成就したのかを、この民数記で見ることができます。ヤコブがエジプトを下るときにはたった70人しかいませんでした。それから約215年の歳月が経た今、その群れは20歳以上の男子で60万人以上おり、女性やこどもを含めると300万人以上に増えたことがわかります。神はアブラハムとイサクとヤコブに約束されたことがそのようになったのです。 これを見るとき、私たちは励まされるのではないでしょうか。神は約束されたことを一つもたがわず成就してくださる真実な方なのです。

このように軍務につく者が登記されました。彼らは兵士として戦うために、まず自分たちが兵士であると数えられなければいけませんでした。主は、だれが兵士なのかを数えるようにと命じられたのです。主はだれが戦うのかを知っておられその者たちにご自分の力と知恵と資格を与え、彼らが戦うときに、主ご自身が戦ってくださったのです。神は数えておられます。私たちの中には数など気にするべきではない、大切なのは質だ!ということをよく聞きます。しかし、数えることも大切なのです。使徒の働きをみると、そこにはちゃんと数えられていることがわかります。最初の教会には3,000人が加えられました。すぐに5,000人の群れに成長していきました。数えることも大切なのです。しかし、それは自分たちの教会がどれだけ大きいかとか、どんなにすばらしい教会か、どんなに優れているのかを自慢するためではありません。プライドを助長するために数えるのではなく、あくまでも祈るためです。集会にだれが出席され、だれが休まれたのかを数えることによって、そのために祈っていくことができます。そのために数えるのです。教会にはいてもいなくてもいいような人は一人もいません。みんな誰かのケアを必要としています。そのために互いに祈り合っていかなければなりません。だれが来たかなんて関係ない、自分さえちゃんとしていればそれでいいというのは、あまりにも自分よがりの信仰と言えます。互いにいたわり合って、互いに助け合って、互いに支え合っていくために、私たちは祈り合わなければなりません。そのために数えるのです。

Ⅰ歴代誌21章1節をご覧ください。ここにはダビデが人口調査をしたことが書いてあります。彼はいったい何のために数えたのでしょうか。「ここに、サタンがイスラエルに逆らって、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。」とあります。これはサタンの誘惑によるものでした。サタンはダビデに人口を調査させ、主の力よりも自分の力、自分の軍事力に頼らせようとしたのです。自分がいかに強いのかを見せて、いかに優れているのか、自分たちの教会がどんなに立派なのかを誇ろうとして数えさせたのです。それは主のみこころを損なわせました。それによって疫病が蔓延し7万人のいのちが奪われたのです。

ですから、このような動機で数えるなら罪です。自分たちの教会がどんなにすぐれているかとか、立派であるかを誇るための人口調査は神のみこころではないのです。しかし、互いに祈り合うために、相手の状態を知りながら、神に助けを求めていくために数えることは大切なことなのです。だから、数を数える時にはその動機に注意しバランスをよく考えなければなりません。ここで神が人口を調査したのは、イスラエルが軍隊を組織として荒野での戦いを戦っていくためだったのです。

3.レビ族について(47-53)

最後に47節から終わりまでのところを見てください。ここにはレビ人についての説明されています。
「しかしレビ人は、彼らの中で、父祖の部族ごとには、登録されなかった。はモーセに告げて仰せられた。「レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録してはならない。また、その人口調査もしてはならない。あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これを管理し、幕屋の回りに宿営しなければならない。 幕屋が進むときはレビ人がそれを取りはずし、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。これに近づくほかの者は殺されなければならない。イスラエル人は、軍団ごとに、おのおの自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の回りに宿営しなければならない。怒りがイスラエル人の会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋の任務を果たさなければならない。」

レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録されませんでした。なぜなら、彼らの奉仕は神の幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理することだったからです。ですから、彼らは幕屋の回りに宿営しなければなりませんでした。それは、イスラエルの軍団が神の幕屋に近づくことがないためです。幕屋には主が住んでおられ、そこは聖なるところであったので、だれも近づいてはならなかったのです。ただレビ族だけは近づくことができました。彼らは神に一番近いところにいることができたのです。イスラエルは、このようにしてすべて主が命じられたとおりに行いました。彼らは約束の地カナンに向けて歩んでいくために軍隊を組織したのです。

それは、私たちの信仰の旅路も同じです。私たちも約束の地、天の御国に向かって進んで行くために、神が仰せられたように軍隊を組織して敵からの攻撃に備え、神のすべての武具をもって悪摩との戦いに勝利する者でありたいと思います。