ヨハネの福音書15章1~6節「イエスはまことのぶどうの木」

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ヨハネの福音書15章に入ります。この章も4回に分けて学びたいと思います。今回はその最初の箇所ですが、「イエスはまことのぶどうの木」というタイトルでお話しします。

 

最後の晩餐の席でイエスは、心を騒がせてはなりませんと言われました。なぜなら、イエスが去って行かれるのは彼らのために場所を備えに行かれるからです。その場所を用意したら、また来て、彼らを迎えてくださいます。また、イエスが父のもとに行かれることで、父はもう一人の助け主を遣わしてくださいます。その方は真理の御霊です。その方が来ると、彼らにすべてのことを教え、イエスが彼らに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。そのことによってイエスは、彼らに平安を残してくださるのです。イエスが与える平安は、世が与えるものとは違います。だから、心を騒がせてはなりません。恐れてはならないのです。

 

そう言われたイエスは、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」と言われました。14章の最後です。どこに行くんですか。ゲッセマネの園です。十字架に向かう前にイエスは、弟子たちと祈りの時を持とうとされたのです。そのゲッセマネの園に向かう途中で、イエスが弟子たちに語られた内容が今日の箇所です。

 

イエスはここで有名なぶどうの木のたとえ話をされました。5節、「わたしはぶどうの木です、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(5)

このたとえ話を通して、イエスが弟子たちに伝えたかったことはどういうことだったのでしょうか。きょうはこのたとえ話から、三つのことをお話ししたいと思います。第一に、イエスはまことのぶどうの木であるということ。第二に、神は、私たちが多くの実を結ぶために刈り込みをされるということ。そして第三のことは、だからイエスにとどまりなさい、ということです。

 

Ⅰ.わたしはまことのぶどうの木です(1)

 

まず、1節をご覧ください。ここには、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」とあります。

「わたしは~です」という言い方は、ヨハネの福音書の中に7回使われています。それは、イエスご自身があの出エジプト記3:14で神が語られた「わたしは、『わたしはある』という者である」方であることを示しています。

①「わたしはいのちのパンです。」(6:35/51)

②「わたしは世の光です。(8:12/9:5)

③「わたしは羊たちの門です。」(10:7/9)

④「わたしは良い牧者です。」(10:11/14)

⑤「わたしはよみがえりです。いのちです。(11:25)

⑥「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(14:6)

⑦「わたしはまことのぶどうの木です。」(15:1/5)

ですからイエスはヨハネ8:58でこのように言われたのです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

イエスはアブラハムが生まれる前から存在しておられた方、イスラエルの主なる神ご自身なのです。

 

そのイエスがここでは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」と言われました。どういう意味でしょうか。旧約聖書には、このぶどうの木は、イスラエルの民の象徴として使われています。たとえば、詩篇80篇にはこうあります。「あなたは、エジプトからぶどうの木を引き抜き、異邦の民を追い出してそれを植えられました。その木のために、あなたが地を整えられたので、それは深く根を張り、地の全面に広がりました。」(詩篇80:8-9)

つまり、神がイスラエルの民をエジプトから救い出し、約束の地に置いてくださったということです。彼らはもともとエジプトの奴隷でしたが、神の恵みとあわれみによってその中から救い出され、約束の地に導かれ、そこにぶどうの木のように植えられたのです。それで彼らは深く根を張り、全地に増え広がることができました。しかしそのようにして豊かになると神の恵みを忘れこの世と妥協し、神から離れてしまいました。甘いはずのぶどうが、酸いぶどうになってしまったのです。

 

そのことを嘆いた神は、預言者イザヤを通して、このように歌いました。「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。 彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。 今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。」(イザヤ5:1-5)

そのぶどう畑に対する哀歌、嘆きの歌です。ぶどう畑の主人であられた神は、愛する者のために良いぶどうを植え、やぐらを建て、ぶどうの踏み場を掘り、酒ぶねですね、そこまでしたのに、できたのは酸いぶどうでした。いったいどうして悪いぶどうが出来てしまったのか。

 

このように、旧約聖書では、神が良いぶどうの木として植えたはずのイスラエルが、その期待とは裏腹に悪いぶどうの木になってしまったということを前提に、ここではそれとは対照的に、良いぶどうの木としてのイエスご自身の姿が描かれているのです。

イエスは、「わたしはまことのぶどうの木です。」と言われました。「まことの」とは、「真実な」とか「偽りが無い」、「本物の」という意味です。イスラエルは神に従わない不真実で、偽物の、悪いぶどうの木でしたが、イエスはそうではありません。イエスはまことのぶどうの木です。イエスは父なる神に従い、実に十字架の死にまでも従われました。この方こそまことのぶどうの木なのです。

 

Ⅱ.刈り込みをなさる神(2-3)

 

次に、2~3節をご覧ください。「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」

イエスは、「わたしはまことのぶどうの木」と言われると、それに続いて「わたしの父は農夫です」と言われました。「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」「わたしの枝」とは、キリストを信じた人たちのこと、クリスチャンのことです。ぶどうの枝において大切なことは何ですか。それは、実を結ぶかどうかということです。すべての枝が実を結ぶわけではありません。実を結ぶ枝があれば、結ばない枝もあります。

 

主イエスは、そのことを種まきのたとえで話されました。ある人が種を蒔いたらそれが四種類の土地に落ちましたが、そのすべてが実を結んだわけではありません。実を結んだのは良い地に落ちた種だけでした。他の土地に落ちた種は実を結びませんでした。

道ばたに落ちた種は、人々に踏み固められてカチカチになっていたので張ることができず、すぐに烏がやって来て食べてしまいました。

次は土の薄い岩地です。岩地に落ちた種はすぐに芽を出しましたが、深く根を張っていなかったので、太陽が昇るとすぐに枯れてしまいました。こういうのを「ノリの信仰」と言います。最初のうちはノリが良かったのですが、試練が来るとシュンと萎んでしまったのです。

次は「いばらの中に落ちた種」です。この場合はこの世の心づかいや、富の惑わしや、色々な欲望が入り込んで種が塞がれてしまうので実を結びません。

最後は「良い地」です。良い地に落ちた種は育って実を結び、30倍、60倍、100倍になりました。

 

実を結んだのは「良い地」に落ちた種でした。違いは何でしょうか。どういう地に落ちたかということです。種は同じです。しかし、それがどのような地に落ちたかによって結果は全く違ったものとなりました。種とは神のことばです。四種類の土地とは、人の心の態度を表しています。つまり、人が同じように神のことばを聞いても、その人の心の態度によって全く違った結果を人生にもたらすようになるということです。

 

たとえば、このヨハネの福音書2章に、イエスが過越の祭りでエルサレムにいる間、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じたということがかかれてありますが、イエスご自身は、彼らに自分をお任せになりませんでした(2:23-24)。なぜでしょうか。それは、イエスがすべての人の心を知っておられたからです。つまり、奇跡やしるしを見て信じたという人を、イエスは信用されなかったのです。彼らはただ自分たちのご利益しか求めていませんでした。彼らが求めていたのはイエスご自身ではなく、自分たちの欲望が満たされることだったのです。どんなにイエスを求めているようでも、イエスご自身ではなく自分を求めているのであれば、それはイエスを信じているのではなく、自分のためにイエスを利用しているにすぎません。それは本物の信仰ではありません。いわばノリの信仰というか、優先順位が確立されていない信仰です。そのような信仰は、もし自分の思惑と違うと、結局のところ離れてしまうことになります。

 

そのことがよく表われているのが、6章にある5000人の給食の奇跡です。イエスは5つのパンと2匹の魚で、男だけで5000人の空腹を満たされました。人々は食べて満足すると、イエスがいないことに気付きました。それで舟に乗り込んでイエスを捜しにカペナウムに向かうと、湖の反対側でイエスを見つけました。「先生、いつおいでになられたんですか。だめでしょ、勝手に行ったりしては。どこに行かれるのかちゃんと教えてください。」

すると、イエスは何と言われましたか。イエスはあの有名なことばを語られました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。」(6:26-27)

彼らがイエスについて来たのはしるしを見たからではなく、パンを食べて満足したからです。パンを食べて満足しているうちはついて来ますが、その教えに冷めるとついて来なくなります。岩地に落ちた種のようですね。実際、その後でイエスが、ご自身がまことのパンであると言われると、「そんなの関係ね」と言って、「弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。」(6:66)のです。あんなにたくさんの人がついて来たのに、彼らが求めていたのは違うものだったのです。彼らは実を結びませんでした。

 

このように、枝には実を結ぶ枝と、結ばない枝があります。イエスの枝で実を結ばないものはどうなるんですか。ここには、「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多くの実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」とあります。

実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除きます。農夫は、枝が実を結ぶことを願っているのです。それで、実を結ばない枝があればそれをすべて取り除き、また実を結ぶものは、もっと多くの実を結ぶようにと、刈り込みをなさるのです。剪定ですね。皆さん、剪定ってご存知ですか。私は、福島で生まれ育ったので、家の周りにはリンゴ畑とか、桃畑がたくさんありました。そして見ていると、冬になると農家の方が刈り込みをしているんですね。枝を切っているわけです。それは剪定作業というのですが、どうして枝を切るのかを尋ねたことがあります。すると、これをしないと余分な枝に栄養が行ってしまい、貧弱な実しかできないということを教えてくれました。それをすることによって必要な枝に栄養分が行き渡り、良い実を結ばせるのです。

それは、私たちも同じです。キリストの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多くの実を結ぶように、刈り込みをなさるのです。どのように刈り込みをなさるのかというと、たとえば、試練や苦しみといったことを通してです。信仰を持ったらすべてがバラ色になるわけではありません。むしろ、いろいろな試練や苦しみが起こってきます。しかし、その試練の中で、あるいはその試練を通して神は、私たちが多くの実を結ぶようにしてくださるのです。これこそ、神が私たちの成長のために神が用いられる方法なのです。ですから、私たちは、自分の生活の上に試練や苦難が襲ってきたら、だれかを憎んだり、自暴自棄になったりしないで、むしろ主が自分に多くの実を結ぶためにこれを与えられたのだと知って、感謝しなければなりません。

 

昔、アメリカのマサチューセッツ州ボストン郊外の精神病院の地下室に、アニーと呼ばれる少女が入れられていました。当時、精神障害者は決して直らない、人目にさらしてはならない、と考えられていました。少女はこの小さな部屋で一生を過ごす運命にあったのです。しかし、その病院で働く一人の掃除婦がその少女を可哀想に想い、食事を運ぶ度に゛I Love you″と声をかけ続けたのです。すると、その結果その少女は心を開き、病も徐々に回復し、やがて学校を卒業し教師の資格を取りました。そして、ある家庭に家庭教師として遣わされました。その家庭には見えない、聞けない、話せないという三重苦の少女がいました。そうです、これがヘレン・ケラーとアン・サリバン先生との出会いです。一人の名もない掃除婦の励ましがなかったらアニーは教師になれなかったでしょう。そして、ヘレン・ケラーのその後の大きな働きもなかったはずです。私たちも、神の励ましを聞くべきです。「わたしの目に、あなたは高価で尊い。あなたを愛している。」と。今の試練は、神が私たちを愛し私たちが多くの実を結ぶために、神が私たちに与えてくださった恵みなのです。

 

3節をご覧ください。ここには、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」とあります。

わたしの枝で実を結ばないものは、父がすべて取り除き、実を結ぶものは、もっと多くの実を結ぶために刈り込みをされると聞いて、弟子たちは不安になったのでしょう。自分たちも取り除かれるのではないか、と。そんな彼らにイエスは、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」と言われました。どういうことですか。

「すでにきよい」とは、すでに救われているということです。11人の弟子たちはすでに救われていました。主イエスが弟子たちの足を洗おうとした時、ペテロが「決して洗わないでください」と言うと、イエスは彼に「もし洗わなければあなたはわたしと何の関係もありません」と言われました。「じゃ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と言うと、イエスは彼に何と言われましたか。「水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。」と言われました。彼らは全身がきよめられていました。でも皆がそうではありません。皆がそうではないというのはイスカリオテのユダのことを念頭に言われたことですが、他の弟子たちはきよめられていました。確かに救われていたのです。

 

彼らは何によってきよめられたのですか。ここには「わたしがあなたがたに話したことばによってきよいのです」とあります。イエスが彼らに話したことばによって、すでにきよめられていました。そうです、私たちをきよめることができるのは主イエスのことばです。私たちの努力とか、良い行いによってではなく、ただイエス・キリストが話されたことばによってきよくしていただくことができるのです。

 

Ⅰペテロ1:23には、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」とあります。私たちが新しく生まれるのは、神のことばによります。神のことばは私たちを救い、私たちをきよめることができます。神は、ご自身のみことばによって、私たちの刈り込みをされるのです。

 

へブル4:12に、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」とあります。神のことばは、私たちの思いやはかりごとを見分けることができます。ですから、聖書のことばを読んだり、礼拝に来て聖書のみことばを聞く時に心が刺されることがあるのです。「どうして牧師は自分のことを知っているのか。」と言う人がいますが、別にだれかから聞いたわけではありません。その人のことを話しているわけもないのです。神のことばが生きていて、力があります。それがあなたの心を照らすので心が刺されるのです。ですから、心に罪が示されたならそれを悔い改め、きよめていただかなければなりません。神はそのようにして刈り込みをなされ、私たちを主と同じ姿に変えてくださいます。多くの実を結ぶようにしてくださるのです。

 

Ⅲ.わたしにとどまりなさい(4-6)

 

ですから第三のことは、わたしにとどまりなさい、ということです。4~6節までをご覧ください。

「4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。」

 

イエスはここで、「わたしにとどまりなさい」と言っておられます。「とどまる」とは、つながっていることです。この「とどまる」という言葉が、この後10節までのところに10回も使われています。それは、このことがとても大切なことであるということです。どうしてこれが大切なのでしょうか。なぜなら、枝がぶどうの木にとどまっていなければ、枝だけで実を結ぶことはできないからです。枝は、木から流れてくる栄養分によってどんどん育ち、実を結びます。その栄養分こそキリストのいのちなのです。ですから、キリストから離れては何もすることができないのです。つまり、私たちが実を結ぶためにしなければならないことは、一生懸命に地中から栄養分を吸い上げようとしたり、幹に働きかけてもっと栄養分を供給してくれるようにすることではなく、木であるキリストにしっかりと結びついていることなのです。そうすれば、豊かな実を結ぶことができます。私たちが実を結ぼうと努力する必要さえありません。ある人は実を結ぼうと一生懸命努力しますがそうした必要は全くないわけで、木であるキリストに堅くつながり、キリストのいのちに生かされているだけでいいのです。そういう人は多くの実を結ぶのです。5節をご一緒にもう一度読みましょう。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

 

昔アメリカのケンタッキー州に、小さなレストランを経営する老夫婦がいました。ところが、彼らの店から少し離れた所にフリーウエイが出来たことでお客が激減してしまいました。普通なら絶望的になるところですが、キリストを信じ、キリストに堅くつながっていた彼らは自慢の料理のノウハウを他のレストランに売り込むことで、新しいビジネスチャンスを見出しました。それがケンタッキーフライドチキンの誕生です。カーネルサンダースは、キリストにつながって、ピンチをチャンスに変えたのです。これは、このコロナウイルスで苦しんでいる私たちにも言えることかもしれません。大切なのは何をするかではなく、何につながっているかです。キリストにつながっているなら、その人は多くの実を結ぶのです。

 

ところで、この実とは何ですか。具体的にどんな実を意味しているのでしょうか。すぐにピンとくるのが御霊の実ではないかと思います。ガラテヤ5:22-23には、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあります。御霊の実は、御霊の賜物と違い、すべてのクリスチャンに与えられているものです。クリスチャンでも、愛のない人、喜びのない人、平安がない人、寛容でない人、親切でない人、善意でない人、誠実でない人、柔和でない人、自制心のない人がいるとしたら、そういう人は、キリストに結びついていないということになります。なぜなら、キリストにとどまっている人は、こうした実を結ぶようになるからです。それまでは神に敵対していた人でも、キリストを信じ、キリストにとどまることによって神を愛し、隣人を愛し、信仰の仲間を愛するようになります。もしそうでないとしたら、キリストにとどまっているかどうかをもう一度点検することから始めなければなりません。

 

しかし、ここで言われている実とは御霊の実だけでありません。聖書を見ると「聖潔に至る実」ということばが出てきます。ローマ6:22です。「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。」「聖潔に至る実」とは何ですか。神に喜ばれる、神のみこころにかなった生活のことです。以前は罪の奴隷として、自分の欲の赴くままに生きていました。しかし今は、その罪から解放されて神の奴隷となりました。ですから、神に喜ばれる生き方を求めるようになったのです。それが「聖潔に至る実」です。

 

そればかりではありません。へブル13:15には「それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」とあります。「それなら」とは、イエスが民をきよめてくださるために十字架で血を流して死んでくださったのなら、ということです。イエスが私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださったのだから、私たちはその救ってくださった方を通して、賛美のいけにえ、つまり、御名をたたえる唇の果実を、絶えずささげようではないかと勧められているのです。この「唇の果実」とは賛美と感謝、礼拝のことです。キリストによって救われた者は、キリストに感謝と賛美をささげるようというのです。つまりこれは礼拝の生活を大切にするということです。

 

それから、ピリピ1:11には「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。」とあります。ここに「義の実に満たされて」とあります。義の実とは何ですか。義の実とは正しい行いのことです。私たちが救われたのは正しい行いをするためです。正しい行いをしたら救われるのではなく、救われたので正しい行いをするということです。それが救われた目的でもあるのです。エペソ2: 10には、「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」とあります。信仰によって救われた私たちが良い行いに歩むようにと、その良い行いさえも神はあらかじめ用意してくださいました。それは、私たちがイエス・キリストによって与えられるこの義の実に満たされることによって、神の栄光と誉れが現されるためです。

 

それからもう一つあります。それは「救霊」の実です。ローマ1:13にはこうあります。「兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。」ここに「いくらかの実を得ようと」とあります。これは前後の文脈を見るとかりますが、福音宣教を通して与えられる救霊の実のことです。

 

つまり、キリストを信じ、キリストにとどまり、キリストのいのちに生かされている人は、神を愛し、神に喜ばれる生き方をしたいと望むようになり、正しい行いを心掛け、キリストへの感謝と賛美すること、つまり神を礼拝することを大切にし、救霊の実を得たいと願い、そのことを通して神の栄光が現されることを求めるようになるということです。そうでないとどこかおかしいのです。人がキリストにとどまり、キリストもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結ぶのですから。「わかりました、今日から頑張ります。」というのではありません。私たちは自分の力では何もすることができません。枝にはその力がないのです。枝にとって大切なことは「とどまる」ことです。キリストにとどまること。そして、キリストから力を受けることです。その人は多くの実を結びます。そして、私たちが多くの実を結ぶことによって、神が栄光をお受けになられるのです。

 

あなたはどうですか。実を結んでいますか。もし結んでいないとしたらその原因はどこにありますか。キリストにとどまっていないことです。キリストにとどまっていなければ実を結ぶことはできません。そのような枝は投げ捨てられてしまいます。しかし、キリストにとどまるなら、多くの実を結びます。見せかけや一時的なものではなく、あの良い地に落ちた種のように、キリストにとどまり続けてください。そうすれば、あなたも多くの実を結びますから。

 

イギリスの政治家で、4度にわたり首相を務めたウイリアム・グッドストンは、イギリス国教会の信徒で、キリスト教の精神を政治に反映させることを目指した名首相ですが、彼は首相に乞われる時、一つの条件が満たされれば引き受けても良いと言いました。その条件とは何か。それは「どんなに忙しくても、日曜日に教会の礼拝を守ること」でした。彼のイギリス史上、稀に見る政治的実績の数々は、神から来る知恵や力を根源としていたのです。

 

私たちもキリストにとどまるなら、多くの実を結びます。キリストにとどまって、神から来る知恵と力、いのちを源泉として、この人生の荒波をともに乗り越えてまいりましょう。

ヨハネの福音書14章27~31節「イエスが与える平安」

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ヨハネの福音書14章から学んでいます。きょうはその4回目、最後の箇所となりますが、「平安」というテーマでお話しします。ただの「平安」ではありません。「イエスが与える平安」です。これは今、私たちが最も必要としているものではないでしょうか。オンラインでこれを聞いておられる方もどうぞ聖書を開き、みことばに注目していただけたらと思います。

Ⅰ.わたしの平安を与えます(27)

まず、27節をご覧ください。イエスはこのように言われました。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」

弟子たちは、イエスがこの世を去って父のみもとに行かれることを聞いて、それがどういうことなのかわらず、心を騒がせていました。そんな弟子たちに対してイエスは、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1)と言われました。なぜなら、父の家には住む所がたくさんあるからです。その場所を備えたら、また来て、彼らを迎えてくださいます。イエスがいるところに、彼らもいるようにするためです。

そればかりではありません。イエスが父のもとに行くことによって、彼らはイエスのわざを行うばかりか、さらに大きなわざを行うようになります(12)。それは彼らが偉大であるからではなく、彼らの祈りを通してイエスが答えてくださるからです(13)。彼らがイエスの名によって求めることは何でも、イエスはしてくださいます。イエスの名によって祈るとは、イエスのみこころにかなった祈りをするということですが、そのような祈りは必ず聞かれるのです。それによって父が栄光をお受けになられるからです。そればかりではありません。イエスが父のもとに行くことで、父はもう一人の助け主を与えてくださいます。その方は真理の御霊です。その方がいつまでも彼らとともにいて、助けてくださいます。だから、心を騒がせてはならないのです。

そして、今日のところでイエスは、さらにすばらしい約束を与えてくださいました。それは、わたしはあなたがたにわたしの平安を与えるということです。27節をご一緒に読みたいと思います。

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」

イエス様は彼らに、「わたしの平安を与えます」と言われました。イエスが与えてくださる平安は、世が与えるものとは違います。世が与える平安とはどういうものでしょうか。広辞苑で「平安」という言葉を調べてみると、無事で穏やかなこと、安穏(あんのん)。とあります。安穏とは、心静かに落ち着いているということです。特に問題もなく、心穏やかに過ごせたらどんなに幸せなことでしょう。だれもがそのような暮らしを求めています。家庭でも、学校でも、職場でも、また近所の人たちも、みんなと仲良く、楽しく、平和に過ごしたいと願っています。ですから、この世で言う平安とは、問題が起こらないこと、争いがないことです。

確かに、問題がければ心は穏やかでしょう。しかし、問題のない人なんていません。みんな問題を抱えながら生きています。そうした問題の中で不安になり、心を騒がせるのです。じゃ、どうやって平安を持とうとしているのかというと、そうした不安を解消するために、たとえばカラオケに行って思い切り歌うとか、食べて、飲んで、騒いで、忘れようとしたり、女性であれば気晴らしにとショッピングをするという人もいるでしよう。中には、ひたすら寝て忘れますという人もいます。少し余裕がある人なら、旅行に行って楽しもうという人もいるでしょう。あるいは、占いに行って運勢を見てもらう人もいます。また、環境を変えたら解決するのではないかと、場所を変えたり、仕事を変えたりする人もいます。でも、どうでしょうか。場所を変え、環境を変えても、また別の問題が起こって来ます。結局、外側をどんなに変えたとしても、自分の内側が変わらなければ、ほんとうの解決はありません。

イエス様はここで「わたしはあなたがたに平安を与えます。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。わたしが与える平安は、世が与えるのとは違います。」と言われました。イエス様が与える平安は世が与えるのとは違います。世が与える平安は、表面的で一時的なものです。しかし、そうしたものは、状況が変わるとまたすぐに不安になってしまいます。それは状況によって左右されるような一時的なものでしかないのです。しかし、イエスが与える平安は違います。イエスが与える平安は上から来る平安です。それはどんな状況でも奪われることのない平安なのです。

ある時「平安」というテーマの絵画展が開かれました。応募作品には、のどかな田園風景の絵や、母親の腕に抱かれて眠る子供の絵などがありました。しかし、その中で最優秀作品に選ばれたのは、荒れ狂う嵐の中、大きな岩の割れ目に設けた巣の中で、雨風をしのいでいる鳥の親子の絵でした。一羽の親鳥がしっかりと雛鳥を抱えているのです。そして雛鳥は外の激しい嵐にもかかわらず、暖かいお母さんの懐に抱かれて平安に眠っていたのです。  これこそ本当の平安です。本当の平安とは環境や状況にかかわりなく、どんな時にも心が穏やかでいられることなのです。

これがイエスの平安です。イエス様はどんな状況でもパニックになることはありませんでした。ああ困ったなぁ、何でこんなことが起こったんだろう、想定外のことが起こってしまった・・というようなことは一度もありませんでした。

たとえば、ある日弟子たちと舟に乗ってガリラヤ湖を渡っていたとき、突然、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入って来て、舟は水でいっぱいになったことがありました。弟子たちの中にはかつて漁師だった者たちもいましたが、そんな彼らでも死んでしまうのではないかと思うほど焦りましたが、イエスはいうと、とも(船尾)の方で枕をして眠っていました。「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか。」というと、イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風はやみ、すっかり凪になりました。そんな嵐の中でもイエスは平安だったのです。なぜでしょう。それは父なる神に全く信頼していたからです。信頼があると平安があります。問題は信頼がないことです。だから、この時イエスは弟子たちにこう言われたのです。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」(マルコ4:40)

赤ちゃんの顔を見てください。いつもすやすやと寝ています。赤ちゃんが不安な顔をしているのを見たことがありますか。「明日は何を食べよう」「どうやって生きていったらよいだろうか」そんなことを考えて悩んでいる赤ちゃんはいません。なぜなら、母親の腕に抱かれているからです。母親の腕に抱かれていると平安があります。全く信頼しきっているからです。自分では何もすることができないので母親にゆだねるしかないのです。このような全き信頼の中には不安はありません。

第二次世界大戦中、多くのユダヤ人をナチスから助けたオランダ人のクリスチャン、コーリー・テンブーン女史は、ユダヤ人をかくまったとしてナチスの手で強制収容所に送られましたが、奇蹟的に生き残りました。それから三十年以上にわたり、世界各国を回り、どんな痛みを抱える人の心にもイエス・キリストによって平和が訪れることを語りましたが、その彼女がこのような言葉を残しています。

「心配したからといって、明日の悲しみが無くなるわけではありません。心配は今日を生きる力を私から奪ってしまいます。」「心配とは、恐れの回りに渦巻く無力な考えにすぎません」

まさにその通りです。心配したからといって、明日の悲しみが無くなるわけではありません。それは、今日を生きる力を奪ってしまいます。私たちに必要なのは心配することではなく、信頼することなのです。

ですから、もしあなたが平安を持ちたいと思うなら、イエスに信頼することです。イエスは、「わたしはあなたがたに平安を与えます。」と言われました。その平安を受け取ればいいのです。平安は、お金で買うことはできません。どんなにお金があっても心の平安を買うことはできないのです。むしろお金に余裕があればあるほど、時間に余裕があればあるほど、いつも自分のことばかり考えて落ち込んでしまうというケースが多いのです。忙しい人は考える余裕もないので、平安はなくてもあまり不安になることはありません。あるいは、不安な時に「平安になれ、平安になれ」とどんなに自分に言い聞かせても、平安になるどころか、余計不安になってしまいます。

しかし、イエスは、わたしはあなたがたにわたしの平安を与えると言われました。それはイエスによって与えられるものなのです。イエスからのプレゼントです。その平安をイエス様から受け取るだけでいいのです。

いったいどうしてイエスは平安を与えることができるのでしょうか。それは、イエス様が私たちの罪の身代わりになって十字架で死んでくださったからです。ですから、この方を信じるとき私たちのすべての罪が赦され、神との平和を持つことができるのです。神との平和があると、私たちの心には神の平安が与えられます。ローマ5:1を開いてください。ここには、「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。

以前は、神との平和がありませんでした。むしろ、神に敵対していました。神を信じないというだけでなく神を無視し、自分勝手に生きることで神に敵対していました。神を認めないし認めたくもありませんでした。しかし、そんな私たちのために神がひとり子をこの世に与えてくださり、十字架で死んでくださることによって私たちの罪を赦してくださったということを知り、その神の愛を信じて受け入れたことで私たちのすべての罪が赦され、神の前に義と認められました。ですから、今はこのキリストによって神との平和を持つことができるようになったのです。神との平和が与えられました。

勿論、現実的には日々いろいろな問題が起こります。信仰をもっても不安になることがあるのです。どうしよう、こうしようと思い悩み、もがけばもがくほど深い淵に落ちてしまうようなことがあります。そのような時は大抵主を忘れている時です。主を忘れて自分の力で一生懸命になっていると不安になってしまいます。どうしたらいいのでしょうか。祈ることです。祈ると心に神の平安が与えられます。なぜなら、祈ると私たちの心と私たちの思いが神に向くからです。神は今まで本当に良くしてくだった。辛い時も苦しい時もいつもそばにいて助け、導いてくださった。この神が今回も必ず祈りを聞いて救ってくださる。このようにして、私たちは神に信頼することを思い起こすことができるのです。

ピリピ4:6~7をご覧ください。パウロはこう言っています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

祈りは、あなたの今の心の思いを神に知っていただくことです。神はあなたのことをすべて知っておられますがあなたが神を忘れているので、あなたの思いが神に向き神に信頼するために祈らなければなりません。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

今から約3000年前、イスラエルの国に、ダビデという王がいました。彼は、王になるまでの間、信仰のゆえに迫害され、命を狙われ、ある時は飢え渇き、耐えられないような苦しみを経験しました。そのダビデが聖書の中で次のように歌っています。

「5 私のたましいよ、黙ってただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。6 神こそわが岩わが救いわがやぐら。私は揺るがされることがない。7 私の救いと栄光はただ神にある。私の力の岩と避け所は神のうちにある。8 民よ、どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」(詩篇62:5-8)

現代でも、ダビデが信頼した神、ダビデの祈りに応えて彼を助けて下さった生ける真の神を信頼する者は、どのような苦しみの中にあっても、揺るぐことのない平安を持つことができるのです。

あなたはどうですか。何かの事で心を騒がせてはいませんか。恐れてはいないでしょうか。イエス・キリストを信じて、神との平和を持ってください。そうすれば、神の平安があなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。私たちはいつも問題に右往左往し、すぐに不安になってしまうような者ですが、でも信頼する何かを持っていれば、いろいろなことで心が揺れ動くことがあったとしても、この方に拠り頼むことでどんな状況にあっても安定した心、平安を持つことができるのです。

だから、心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。心を騒がせれば騒がせるほどもっと不安になります。恐れれば恐れるほど、恐れがどんどん膨れ上がってしまいます。どうすればいいんですか。それを止めることです。心を騒がせたり、恐れたりするのではなく、神を信じ、またイエスを信じればよいのです。そうすれば、あなたの心に神の平安、イエスの平安が与えられます。

Ⅱ.父のもとに行かれたイエス(28-29)

次に、28節と29節をご覧ください。

「28 『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。29 今わたしは、それが起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったとき、あなたがたが信じるためです。」

弟子たちは、イエスが去って行くが、また彼らのところに戻ってくるということを聞きました。そのとき、彼らはどのように反応したでしょうか。心を騒がせました。イエスがどこかへ行かれるのかわからなかったので不安になったからです。しかし、それは悲しいことではなく、むしろ、喜ぶべきことでした。彼らが本当にイエスを愛していたのなら、イエスが父のもとへ行くことを喜ぶはずなのです。なぜなら、イエスがこの世を去って行くことは、十字架につけられるということだからです。そればかりか、イエスはその死からよみがえられ、天に昇られると、約束の聖霊が注いでくださいます。ですから、それは悲しむべきことではなくむしろ喜ぶべきことなのです。

イエスは、十字架の向こうにあるものを見て、苦しみをもろともせず、喜んで十字架に向かわれました。へブル12:2に「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」とあります。十字架の向こうにあるものとは何ですか。それは、私とあなたが救われることです。そして三日目によみがえられて、父のみもとに行かれます。それがなかったら、約束の聖霊が降ることはありません。この方は「もう一人の助け主」と呼ばれた方です。イエスのように私たちのそばにいて、いやうちにいて慰め、励まし、助けてくださる方です。本当に忘れっぽい私たちがいつもイエス様のことばを思い起こすことができるように助けてくださいます。神はイエスの名によってこの方を遣わしてくださると約束してくださいました。それはイエスが父のもとに行くことによって成就するのです。であれば、それは悲しいことではなく、むしろ喜ばしいことではないでしょうか。

「父はわたしよりも偉大な方だからです。」どういうことでしょうか。キリスト教の異端は、この箇所を使ってイエスは神よりも劣ると教えますが、そういうことではありません。イエスと父とは一つです。全く等しいお方であり、本質において全く同じです。神ご自身です。ですから、イエスは「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)と言われたのであり、「わたしを見た人は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と言われたのです。ではなぜイエスは、父はわたしよりも偉大な方ですと言われたのでしょうか。それは、イエスが人として来られたからです。その立場からそのように言われたのです。イエスは神と等しい方であり、神ご自身であられる方なのに、ご自分を空しくして、しもべの姿をとられ、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまでも従われました。そのことを通して救いのみわざを成し遂げてくださったのです。そういう意味でイエスは、父はわたしよりも偉大な方だと言われたのです。

イエスはこのことを、事前に弟子たちに話しました。そのこととは何ですか。十字架で死なれることです。また三日目によみがえられること、そして、天に昇って行かれることです。それに伴って約束の聖霊が遣わされるということです。イエスはこのことを前もって何回も語られました。なぜでしょうか。それが起こったとき、彼らが信じるためです。弟子たちはイエス様から何回聞いても、何のことを言っているのかさっぱりわかりませんでした。というか、ほとんど理解できませんでした。なぜイエスは十字架で死ななければならないのか、神の神殿を三日で建てるとはどういうことか、しばらくの間見えなくなるが、また見るようになるとはいったいどういうことか、さっぱりわかりませんでした。でもいいんです。その時にわからなくても。あとでわかるようになりますから。そしてそれが起こったとき彼らは信じるようになります。12:16には、「これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。」とあります。「これらのこと」とは何ですか。ここでは、群衆が大声で「ホサナ。祝福あれ、主の御名よって来られる方に。イスラエルの王に。」(12:13)と叫んだことです。また、イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入場されたことです(12:15)。これらのことは、このヨハネを含め弟子たちにはどういうことなのか初めはわかりませんでした。弟子たちも当時の群衆たちと同じように、イエスがすぐにでもローマの圧政から自分たちを救い出してくれるものと思っていたからです。ですから、そうでないということがわかると、手のひらを返したかのようにというか、イエスが十字架に付けられるために捕らえられるとすぐに逃げ出してしまったのです。自分たちも捕らえられるのではないかと恐れたからです。弟子たちにも、これらのことがどういうことなのか分かりませんでした。彼らにそれらのことが分かったのは、イエスが栄光を受けられた後のことでした。イエスが十字架で死なれ、三日目によみがえられ、天に昇り、神の右の座に着かれ、約束の聖霊を遣わされた時にはっきりわかったのです。何のためでしょうか。そのことが起こったとき、彼らが信じるためです。事実、ペンテコステの時に約束の聖霊が降ったとき、彼らははっきりわかりました。そして彼らは聖霊に満たされ、大胆にキリストを証ししたのです。全部イエスが言われた通りだったので、彼らは信じました。

それは、私たちへの教訓でもあります。これから先に起こることを、イエスは前もって語られました。それは必ず成就します。このコロナウイルスの問題もその一つです。まずエゼキエル36:24には、「わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。」とあります。離散した民がパレスチナに戻ってくるという預言です。これは、全世界からユダヤ人がパレスチナに帰還し、1948年にパレスチナ共和国が建国されたことで成就したことがわかります。

そればかりではありません。マタイ24:6-7には、「また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。」とあります。これは第一世界大戦、第二次世界大戦で成就したと言えるでしょう。勿論、これからもさらにもっと大きな世界戦争が起こるでしょう。これはその序章にすぎません。

さらに、イエスは、「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。」(マタイ24:4-5)と言われました。これは説明がいらないでしょう。韓国の文鮮明はじめ、多くの偽キリストが現れました。終末が近づくと、人々の社会不安が増しますが、その不安に乗じて、自分を救い主と自称する偽キリストは、今後さらに多く現われてくるでしょう。

さらにルカ21:10には、「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」とあります。世の終わりが近くなると、大きな地震、方々に飢饉や疫病が起こるのです。このコロナウイルスはこの一つと考えられますが、これがすべてというわけではありません。これはその一つにすぎません。これからますますそのような飢饉や疫病が起こり、困難な時代になっていくのです。

そんなこと信じたくないし、信じられません。しかし、これらのことは必ず起こることです。なぜなら、それは前もってイエスが私たちに話されたことだからです。何のために前もって語られたのでしょうか。それが起こったとき、信じるためです。確かにそれは恐ろしいことではありますが、主を信じている者たちクリスチャンには希望でもあります。イエスを信じて聖霊が与えられると、この世の常識だけでなく聖書の預言に目が開かれ、それに備えて生きることができるようになるからです。それが私たちの平安の土台でもあります。私たちはある日突然災害が起こったかのように驚き怪しむのではなく、それがいつ起こっても大丈夫なように前もって語られたイエスの約束のことばを信じ、そのことばに信頼して生きる者でありたいと思うのです。

Ⅲ.悪魔に勝利されたイエス(30-31)

第三に、30節と31節をご覧ください。「30 わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。31 それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」

イエスは弟子たちに、「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。」と言われました。もう何度も話したのに彼らが理解できないからではありません。彼らが理解できないのは知っていました。彼らが理解できるようになるのは聖霊が降られてからです。その時聖霊がすべてのことを思い起こさせてくださるので、彼らも理解できるようになります。では、なぜイエスは「あなたがたに多くを話しません」言われたのでしょうか。時間がなかったからです。もうすぐこの世を支配する者がやって来ます。この世を支配する者とは、悪魔、サタンのことです。具体的には、ここではイエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダのことです。イエスは、悪魔、サタンのことを「この世を支配する者」と言われました(ヨハネ12:31)。パウロは、Ⅱコリント4:4で、「この世の神」とも言っています。へブル2:14には、「死の力を持つ者」と言われています。悪魔はこの世の神であり、この世を支配する者です。勿論、万物を支配しておられるのは天地万物を創造されたまことの神です。この方がすべてを支配しておられます。ですから、悪魔はイエスに何もすることができません。悪魔はイエスを十字架につけて勝ち誇ったつもりでしたが、それはかかとにかみついたにすぎませんでした。というのは、イエスは三日目によみがえられたからです。それは創世記3:15にあるように、悪魔の頭を踏み砕くことでした。決定的な勝利です。イエスは私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれましたが、三日目によみがえられて、死の壁を打ち破られたのです。ですから、悪魔はイエスに何もすることができません。それは同時に、私たちはもう心を騒がせたり、恐れたりする必要がないことを示しています。

私たちは、どうして心を騒がせたり、恐れたりするのでしょうか。それは、その背後にこの悪魔の働きがあるからです。この世の多くの人々は悪魔の存在を信じていないので、悪魔の思うままに操られていますが、悪魔は確かに私たちの背後にあって私たちを支配し、操っています。それに気付かないと、私たちが心を騒がせたり恐れたりするのはあまりにも忙しくしているからだと思い込んでしまいます。しかし、現に悪魔は、私たちの心から平安を奪おうとして躍起になっています。イエスはその悪魔に完全に勝利されました。ですから、悪魔はキリストに対して何もすることができません。そして、このキリストを信じた私たちにも何もすることができません。私たちは、この勝利されたイエス・キリストのゆえに、悪魔を恐れる必要は全くないのです。私たちは二度と罪の奴隷になることも、死の恐怖につながれることもありません。キリストは、死と、罪と、悪魔の力に勝利されたからです。その方があなたとともにおられます。聖霊を通して、あなたの内に住んでおられます。だから、あなたは心を騒がしてはならないのです。恐れてはなりません。問題は、あなたはこのイエス・キリストを信じて、神との平和を持っているかどうかです。あなたがイエスを信じているなら、イエスはあなたに平安を与えてくださいます。

この平安が与えられるとき、私たちは肉体の癒しはさることながら、霊的にも健康が与えられ、心は満ち足りて豊かになり、どんなことにも動揺することなく、いつも落ち着いて、あらゆる人に対して心が開かれ、柔和で、穏やかに、しかも確信を持った生き方をすることができます。たとえ病気がいやされなくても心は健康であり、貧しい生活の中にあっても、心は豊かであって、思い煩うことはありません。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができるのです。というのは、あなたの罪は赦され、永遠のいのちが与えられているからです。キリストが聖霊を通していつも、いつまでもともにいてくださいます。

主イエスがくださる平安とは、このようなものです。この世の平安は、何かが起こるとすぐに心が波立ち、いら立つものですが、主イエスがくださる平安は、あたかも動くことのない海の深海に錨を下ろしている鉛のように、たとえ波風が吹き荒れても、びくともしません。あなたがこの平安を自分のものとしたいのなら、この平安を私たちにくださるお方、主イエス・キリストを、自分の罪からの救い主として信じることです。その時、主はあなたを罪から解放し、ご自身との深い交わりの中に入れてくださいます。

また、神の平安を持っていても、問題が起こると、私たちの心は騒ぐでしょう。それは、あなたの眼がイエス様ではなく問題にいってしまうからです。ですから、どうぞ祈ってください。そうすると、あなたは神に信頼するようになります。そして、神がこの問題も必ず解決してくださり、良い方向に変えてくださると確信することができ、その心が神の平安で満たされるでしょう。神の平安がありますように。シャローム。

Ⅰサムエル記18章

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今回は、サムエル記第一18章から学びます。

 

Ⅰ.ヨナタンの信仰(1-4)

 

まず、1~4節までをご覧ください。

「1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛した。2 サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。3 ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。4 ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。」

 

ヨナタンは、サウルの息子です。ダビデがペリシテ人を討ち破り、そのことをサウルに報告したとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びつきました。ダビデの行動を見て、またその言葉を聞いて、感動したのでしょう。

その日サウルは、ダビデを召しかかえ、家に帰らせませんでした。親衛隊として仕えさせ、王宮に住まわせることにしたのです。この時から、ダビデはサウルの側近として生活するようになりました。

 

息子ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、彼はダビデと契約を結びまた。何の契約でしょうか。友人としての契約です。ここに彼がダビデを愛したとあるのは、勿論恋愛感情のことではありません。言ったことは必ず成し遂げるという契約に基づいた関係のことです。その証拠として、彼は自分が来ていた上着を脱いでダビデに渡しました。そればかりか、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えました。このように、自分の上着やよろいかぶと、剣、弓、帯を与える行為は、自分の将来の王位をダビデに引き渡したことを意味しています。昔、ヤコブが息子ヨセフに長服を与えましたが、それと似ています。それはヤコブがヨセフに長子の権利を与えることを意味していましたが、ここでも、ヨナタンがダビデに自分の武具を引き渡したということは、父サウルから受け継ぐべき王位を彼に明け渡したことを意味しているのです。

 

ヨナタンはダビデよりも年長でした。しかし彼は、ダビデの成功や人気をねたむどころか、ともに喜ぶことができる人でした。言い換えれば、彼は主がダビデの人生を通して行っておられることを喜ぶことができたということです。バプテスマのヨハネはイエス様に対して、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言いましたが、それと同じです。

あなたの中に、他の人を通して神が行っていることを喜ぶ心があるでしょう。これこそ真にへりくだった人の心です。神は、それぞれに賜物を与えてくださいました。その与えられた賜物を互いに認め合い、互いに尊重し合い、互いに喜び合う者でありたいと思います。

 

Ⅱ.サウルの妬み(5-16)

 

次に、5~16節をご覧ください。まず11節までをお読みします。

「5 ダビデは、サウルが遣わすところどこへでも出て行き、勝利を収めた。サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての兵たちにも、サウルの家来たちにも喜ばれた。6 皆が戻り、ダビデがあのペリシテ人を討ち取って帰って来たとき、女たちは、イスラエルのすべての町から、タンバリンや三弦の琴をもって、喜びつつ、歌い踊りながら出て来て、サウル王を迎えた。7 女たちは、笑いながら歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」8 サウルは、このことばを聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。「ダビデには万と言い、私には千と言う。あれにないのは王位だけだ。」9 その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった。10その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデはいつものように竪琴を手にして弾いたが、サウルの手には槍があった。11 サウルは槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろうと思ったのである。ダビデはサウルの攻撃から二度も身をかわした。」

 

ダビデは、サウルが遣わすところどこへでも出て行き、勝利を収めました。それでサウルは彼を戦士たちの長としました。そのことは、すべての兵たちにも、サウルの家来たちにも喜ばれることでした。

しかし、そうでない人物が一人だけいました。サウルです。最初はサウルも、ダビデのような勇士が与えられたことを喜んでいましたが、残念ながら、彼はダビデを妬み、自分の王位を脅かす人物として敵視するようになります。

そのきっかけとなったのが、女たちの歌です。ダビデがゴリヤテを討ち取ってかえって来たとき、女たちは、すべての町から、タンバリンや三弦の琴をもって、喜びながら踊りながらサウルを迎えた時、このように歌ったからです。笑いながら・・。

「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」

それでサウルは激しく怒り、不機嫌になりました。ダビデに万と言い、自分には千と言ったからです。つまり、自分よりもダビデを上に置いたと感じたのです。ダビデにないものがあるとしたら、それは王位だけです。その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになりました。これが罪人の特徴でもあります。信仰の目でみれば、私たちには上下などありません。私たちはみなキリストのからだであり、互いに補い合い、助け合います。だれが上で、だれが下かという差はありません。ところが、サウルは自分のことしか考えていませんでした。彼はダビデに王位が奪われるのではないかと疑心暗鬼になったのです。そして、その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼が家の中で狂いわめくと、ダビデはいつものように竪琴を手にして弾きましたが、サウルは槍でダビデを殺そうとしました。彼が高ぶりや妬みという自分の肉の問題を処理していなかったので、悪い霊の影響をまともに受けてしまったのです。

 

妬みは私たちから平常心を奪います。妬みが起こってくるのは、私たちが神のわざよりも自分の成功に関心があるからです。伝道者の書4:4には、「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」とあります。主に用いられている人に対して妬みを起こすことがないように祈りましょう。また、一人一人がその賜物にふさわしく用いられるように祈りましょう。

 

12節から16節までをご覧ください。

「12 サウルはダビデを恐れた。それは、主がダビデとともにおられ、サウルを離れ去られたからである。13 サウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは兵の先に立って行動した。14 主が彼とともにおられたので、ダビデは、行くところどこででも勝利を収めた。15 彼が大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。16 イスラエルもユダも、皆がダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動したからである。」

 

サウルはダビデを恐れました。それは、主が自分から離れ去り、ダビデとともにおられることを感じたからです。それで彼はダビデを千人隊長に任じ、戦場に送り出すことで、敵の手で彼を殺そうと企みました。しかし、主が彼とともにおられたので、ダビデは、行く先々で勝利を収めました。それでサウルはますます彼を恐れましたが、イスラエルもユダも、皆ダビデを愛しました。それは彼自らが先頭に立って行動したからです。自分を犠牲にすることを決して厭わなかったのです。ここに真のリーダーの姿が描かれています。真のリーダーとは、後ろの方であぐらをかいて座っている人ではなく、民の先頭に立って仕える人です。イエス様も、「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)と言われました。私たちも自分のいのちを与える覚悟で仕える者でありたいと思います。

 

Ⅲ.陽の皮百(17-30)

 

次に、17節から30節までをご覧ください。19節まで見てください。

「17 サウルはダビデに言った。「これは、私の上の娘メラブだ。これをおまえの妻として与えよう。ただ、私のために勇敢にふるまい、主の戦いを戦ってくれ。」サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人に手を下させよう、と思ったのである。18 ダビデはサウルに言った。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるとは。」19 ところが、サウルの娘メラブをダビデに与えるというときになって、彼女はメホラ人のアデリエルに妻として与えられた。」

 

サウルは槍でダビデを殺そうとしましたが、失敗に終わりました。それで千人隊長に任じ、戦場に送ることで自然に討ち取られるように計りました。しかし、主がダビデとともにおられたので彼はどこででも勝利を収め、むしろ、民の尊敬と信頼を勝ち取ることになりました。そこでサウルが次に考えたことは、ダビデをペリシテ人と戦わせ、彼らの手によって葬り去ることでした。

 

サウルはダビデに、もし、ペリシテ人との戦いで勇敢にふるまい、勝利した暁には、自分の娘メラブを妻として与えると言いました。この約束はすでにペリシテ人ゴリヤテに勝利した時に実行されていなければならないものでしたが、不誠実なサウルはそれを実行せず、ここでさらに新たな条件を加えたのです。それがこの戦いです。

 

ダビデは、謙虚に王の申し出を受け入れましたが、その娘メラブをダビデに与えるときになって、サウルは何とそのメラブをメホラ人アデリエルに妻として与えてしまったのです。これはダビデにとって大いなる侮辱でした。いやそれ以上に、神に対する侮辱でした。彼が公に誓った約束をいとも簡単に破ったからです。彼は他人には厳しく、自分には甘いという弱さがありました。それは私たちも同じです。他人には厳しくても、自分には甘いという面があります。それは神に信頼を置いているのではなく、利己的に歩んでいるからです。まことに主を恐れ、主に信頼する人は幸いです。いつも主を恐れて歩ませていただきましょう。

 

次に、20~30節をご覧ください。

「20 サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。そのことがサウルに告げられた。そのことは、サウルの目には良いことに思えた。21 サウルは、「ミカルを彼にやろう。ミカルは彼にとって罠となり、ペリシテ人の手が彼に下るだろう」と思った。そして、サウルはもう一度ダビデに言った。「今日こそ、おまえは婿になるのだ。」22 サウルは家来たちに命じた。「ダビデにひそかにこう告げなさい。『ご覧ください。王はあなたが気に入り、家来たちもみな、あなたを愛しています。今、王の婿になってください。』」23 サウルの家来たちは、このことばをダビデの耳に入れた。ダビデは言った。「王の婿になるのがたやすいことに見えるのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」24 サウルの家来たちは、ダビデがこのように言っています、と言ってサウルに報告した。25 サウルは言った。「ダビデにこう言うがよい。王は花嫁料を望んではいない。ただ王の敵に復讐するため、ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいると。」サウルは、ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた。26 サウルの家来たちはこのことばをダビデに告げた。王の婿になることは、ダビデの目には良いことに思えた。そこで、期限が過ぎる前に、27 ダビデは立って、部下と出て行き、ペリシテ人二百人を討って、その陽の皮を持ち帰った。こうしてダビデは、王の婿になるために、王に対して約束を果たした。サウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。28 サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また知った。29 サウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはずっと、ダビデの敵となった。30 ペリシテ人の首長たちが出陣して来たが、彼らが出て来るたびに、ダビデはサウルの家来たちのすべてにまさる戦果をあげ、彼の名は大いに尊ばれた。」

 

サウルのもう一人の娘ミカルはダビデを愛していました。そのことがサウルに告げられると、それは良いことだと思いました。ミカルを利用してダビデを殺そうと思ったのです。そこでサウルは家来たちに命じて、そのことをひそかにダビデに伝えました。なぜひそかに告げたのでしょうか。メラブの一件があったので、受け入れられないと思ったのでしょう。

 

案の定、サウルの家来たちがそのことをダビデに告げたとき、彼は「王の婿になるのがたやすいことに見えるのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」(23)と言いました。自分は貧しく、身分が低い者なので、花嫁料が支払えないと断ったのです。

 

その報告を聞いたサウルは、さらにダビデに伝言を届けました。それは、花嫁料は望まないがが、その代わりにペリシテ人の陽の皮を百持ってくるようにということでした。「陽の皮」とは、男性の性器の先端部分の包皮のことです。イスラエル人は生後すぐに割礼するのでら陽皮はありませんが、ペリシテ人は異邦の民なのでみな陽皮がありました。その陽の皮を持ってくるとは、彼らを打ち倒しその証拠として割礼と同じ処置を行い、それを持ってくるということです。もしダビデがそのような屈辱的なことをするなら、ペリシテ人は総力を挙げてダビデを殺そうとするでしょう。それがサウルの狙いだったのです。

 

王の婿になれるのであればと、ダビデは期限が過ぎる前に部下とともに出て行き、ペリシテ人200人を討って、その陽の皮を持ち帰りました。要求された100の陽の皮でしたが、彼はその倍の200をサウルに与えたのです。それでサウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えました。

 

この出来事を見たサウルは、ますますダビデを恐れました。なぜなら、主がダビデとともにおられることが明らかとなったからです。また、娘ミカルがダビデを愛していることを見たからです。

 

このことからわかることは、人は神がその人に与えた計画が成就するまでは、決して死なないということです。ダビデには、イスラエルの王になるという預言、神ことばが与えられていました。その預言が実現するまでは、決して死ぬことはありません。これはダビデだけでなく、私たちも同じです。すべてのクリスチャンには、神からの使命と計画が与えられています。それが成就するまでは、決して死ぬことはありません。今、世界中がコロナウイルスで不安と混乱の中にありますが、このことを知り、すべてを計画しておられる神にゆだねることができれば、どんなに平安なことでしょう。すべてを支配しておられる主の御手にゆだね、主の御手の中で平安をいただきましょう。

ヨハネの福音書14章18~26節「あなたがたを捨てて孤児にはしない」

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ヨハネの福音書14章からお話ししていますが、きょうはその3回目となります。最後の晩餐の席でイエスが弟子たちにこの世を去って父のみもとに行くと言われると、何のことを言っているのかわからなかった弟子たちは不安になりました。そんな彼らにイエスは、こう言われました。

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(14:1)

なぜなら、父の家には住む所がたくさんあるからです。そこに場所を用意したら、また来て、彼らを迎えに来てくださるからです。天の御国が用意されていることがわかればどんなことがあっても安心です。この御国の視点が与えられているということはどんなに感謝なことでしょう。不安の中にあっても平安が与えられます。

そればかりではありません。前回のところには、さらに3つのことが約束されていました。それは、キリストを信じる者は、キリストが行うわざを行い、さらに大きなわざを行うということでした(14:12)。また、主はご自身の名によって求めることは、何でもそれをしてくださいます(4:13)。そして、第三のことは、主を信じる者には助け主を与えてくださいます(4:16)。その方は真理の御霊です。この方が彼らとともにいて、いや彼のうちにいて助けてくださいます。だから恐れることはありません。心を騒がせてはならないのです。

 

きょうの箇所はその続きです。きょうは、「あなたがたを捨てて孤児にはしません」と言われたイエスのことばから、三つのことをお話しします。第一に、私たちを捨てて孤児にはしないとはどういうことでしょうか。再び戻って来られるということです。その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。第二のことは、そのような神との交わりの中に入れられる人はどのような人かということです。それは、キリストを愛する人です。キリストを愛する人は、キリストのことばを守ります。

そして第三のことは、そのために聖霊が助けてくださるということです。どのように助けてくださるんですか?父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 

Ⅰ.あなたがたを捨てて孤児にはしません(18-20)

 

まず18節から20節までをご覧ください。

「18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」

 

イエスは、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と言われました。なぜなら、再び彼らのところに戻って来られるからです。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見るようになります。どういうことでしょうか。これは、イエスが十字架で死なれることで世はイエスを見なくなりますが、三日目にイエスが死からよみがえられることを彼らが見るようになるということです。しかしそればかりではなく、その後、イエスが天に昇って行かれてから約束の聖霊をお遣わしになることによって、もう一度彼らのところに戻ってくるということです。それが20節に書かれてあります。

「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」

「その日」とはいつですか?「その日」とは、その後で起こるペンテコステの日のことです。ユダヤ教の祭りで「五旬節」の日のことです。ギリシャ語で「ペンテコステ」と言います。それはちょうど過越の祭りから50日目、つまり、イエスが十字架で死なれてから50日目に行われた祭りの時でした。弟子たちが同じ場所に集まっていたとき、天から突然、激しい風が吹いて来たかのような響きが起こったかと思ったら、炎のような分かれた舌が現れ、一人ひとりの上にとどまると、皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のことばで話し始めたのです。いったい何が起こったのか。約束の聖霊が降られたのです。

 

それは、預言者ヨエルによって預言されていたことでした。「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」(ヨエル2:28)この預言が成就したのです。ヨエルは、B.C.830年頃の預言者ですが、当時エルサレムを襲ったいなごによる災害を通して、終わりの日に起こる恐ろしい幻を語りました。その日、畑に多くの種を持って出ても、彼らは少ししか収穫することができません。いなごが食い尽くすからです。ぶどう畑を作り、耕しても、そのぶどう酒を飲むことも、集めることもできません。虫がそれを食べるからです。ではどうすれば良いのか。きよめと断食の集会を開かなければならない。つまり、神の前に悔い改めなければなりません。もし、彼らが心を尽くし、断食と、涙と、嘆きをもって、主に立ち返るなら、主は彼らをあわれみ、祝福してくださると語ったのです。どのように?まず物質的な祝福をもたらされます。

「23 シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、義のわざとして、初めの雨を与え、かつてのように、あなたがたに大雨を降らせ、初めの雨と後の雨を降らせてくださる。24 打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。25 「いなご、あるいは、バッタ、その若虫、噛みいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が食い尽くした年々に対して、わたしはあなたがたに償う。26 あなたがたは食べて満ち足り、あなたがたの神、主の名をほめたたえる。主があなたがたに不思議なことをするのだ。わたしの民は永遠に恥を見ることがない。」(ヨエル2:23-26)

そればかりではありません。その後、霊的にも祝福してくださいます。それがこれです。「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」

「その後」とは、物質的に祝福してくださった後ということです。その後、主はすべての人に「わたしの霊」を注ぐと言われました。今、世界中がコロナウイルスで混乱していますが、その真の解決はここにあるのではないかと思います。つまり、主の御前に悔い改めるということです。神から離れ、神を神とも思わず自分が神にでもなったかのようにわがもの顔に振舞っている罪を悔い改め、神に立ち返ることです。そうすれば、神がこの地を癒し、霊的にも物質的に祝福をもたらしてくださいます。

ところでここには、「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」とあります。聖霊が注がれると、息子娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見るのです。聖霊が注がれると、神のみこころがはっきりと示されるのです。曖昧にではありません。それまでは、神のみこころがわかりませんでした。ぼんやりしていました。しかし、その日聖霊が注がれると、はっきり見えるようになります。それがペンテコステに起こった出来事でした。ヨエルは、その日のことを預言しましたが、それがそのとおりに起こったのです。つまり、主が弟子たちに「あなたがたのところに戻って来ます」と言われたのは、この聖霊を通してのことだったのです。

「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」どのようにしてわかるのでしょうか?聖霊を通してです。弟子たちには、イエスが言っていることがどういうことなのかよくわかりませんでした。なぜ十字架につけられて死なければならないのか、なぜ父のもとに行かなければならないのか、もう一人の助け主を遣わしてくださるとはどういうことなのかさっぱりわかりませんでした。チンプンカンプンでした。しかし、その日には分かります。すべてがわかる。イエスが言われたこと、教えられたことがどういうことなのか、イエスがここで、「あなたがたを捨てて孤児とはしません」と言われた意味がわかるようになるのです。

もしイエスがどこに行ってしまったままであったら、いったいこれまでの自分の人生は何だったのかとなってしまいます。まさに孤児です。人はだれかに見捨てられるということほど辛いことはありません。皆さんは観ていないと思いますが、今、毎週日曜日の夜、NHKで「レ・ミゼラブル」を放映しています。私は毎週日曜日の奉仕を終えて帰宅してから、目をこすりながら観ていますが、そこに出てくる少女コゼットは、別に見捨てられたわけではありませんが母親は生きるために通りがかりの宿屋に彼女を預けざるをえませんでした。別に見捨てたわけではなく街に行って働いてお金を貯めたら娘を迎えに来ようと思っていたのです。しかし、母親の夢はかないませんでした。彼女はそこで死んでしまったからです。コゼットはもう二度と母親に会うことはできませんでした。孤児として孤独に生きなければならなかったのです。そんな彼女を引き取ったのがジャン・バルジャンでした。でも、それまで彼女はどれほど孤独だったでしょうか。そんな孤独の人生を生きなければなりませんでした。

 

弟子たちもそうです。もしキリストが彼らのもとを去って行くというだけだったら、彼らも孤独だったでしょう。しかし、主は彼らを捨てて孤児にするようなことは決してなさいません。やがて彼らのもとに戻って来られるからです。聖霊を通して。その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。十字架で死なれることによって、しばらくの間彼らはイエスを見ることができなくなりますが、「その日」には見るようになります。まず三日目によみがえられることによって、そして、約束の聖霊が降られ、その聖霊に満たされることによってです。その日には、イエスが父のうちに、彼らがイエスのうちに、そしてイエスが彼らのうちにいることが、分かるようになるのです。

 

Ⅱ.イエスを愛する人(21-24)

 

次に、21節から24節までをご覧ください。まず21節をお読みします。

「21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」

 

この節は、前の節とどのような関係があるのかわかりづらいように思うかもしれませんが、実は全部つながっています。イエスは、前の節で「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」と言われましたが、その交わりの中に入れていただけるのはどのような人であるかということです。ここには、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」とあります。それは、キリストの戒めを保ち、それを守る人です。キリストの戒めを保ち、それを守る人は、キリストを愛する人です。そういう人は父に愛され、またキリストにも愛され、キリストご自身を現してくださいます。あなたはどうですか?キリストを愛しておられますか?

 

では、キリストを愛しているかどうかをどうやったらわかるのでしょうか。それはキリストの戒めを守っているかどうかです。キリストの戒めを守る人は、キリストを愛している人です。キリストを愛している人はキリストのことばに従います。しかし、そうでない人は従うことができません。従いたくないのです。キリストのことばよりも、自分の思うように生きていきたいと思っているからです。どんなに表面的に愛しているようでももしそのことばに従っていないとしたら、それは愛しているとは言えません。なぜなら、愛するとは従うことであり、従うことが愛しているということだからです。それがキリストを愛していることの証明となるのです。キリストが言われることがどういうことなのか分からなくても従わなければなりません。なぜなら、主のことばは完全ですから、今はわからなくても後でわかるようになるからです。

 

そのように主を愛する人に、主はご自身を現してくださいます。弟子たちはイエスを愛していたので、イエスに従いました。ですから、イエスが復活された後、彼らにご自身を現してくださったのです。しかし、信じない人たちには現わしてくださいませんでした。当時のユダヤ人指導者たちには現れませんでした。ただイエスを愛しイエスに従った人たちにだけに現われてくださったのです。

それは私たちも同じです。私たちもイエスを愛しています。イエスを見たことはないけれども愛しており、見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに踊っています。アーメンですか?それは、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。もしかすると、様々な試練の中で悲しまなければならないことがあるかもしれませんが、むしろそれは私たちの益のためであり、私たちが多くの実を結ぶために刈り込みをしてくださっているのです。そう信じているからこそ忍耐して、信仰に堅く立つことができるのです。そういう人にはご自身を現わしてくださいます。

 

どのようにしてイエスは私たちに現れてくださるのでしょうか。別に、夢や幻によって現れるというわけではありません。もちろん、そのようにして現れてくださることもあるでしょう。しかし、主がご自身を現わされるのは、神のことば、聖書のことばを通してなのです。なぜなら、イエスはみことばを通してご自身を現わしてくださったからです。ですから聖書を読み、祈っている中で、「ああ、主がここにおられる」という実感を持つことができます。また、こうして聖書のことばを聞いている中でご自身を現わしてくださいます。だから、礼拝は特別の時間なのです。わずか45分のメッセージですが、その時間に皆さんは主の臨在を感じ心が満たされるのです。同じ時間テレビを観ていても同じように満たされることはありません。かえって不安になったり、落ち込んだりしますが、こうやって聖書のみことばを聞いたり、家で聖書を読み、祈っている中でそれを体験することができるのです。

私たちはどちらかというと何かをすることによって主がご自身を現わしてくださるのではないかと考えがちですが、そうではなく、主はみことばを通してご自身を現わしてくださいます。キリストを愛している人は、キリストの言葉を守ります。そういう人は父に愛され、イエスご自身を現わしてくださるのです。ですから、神秘的に考える必要はありません。聖書を読んで祈ってください。そして、聖書の言葉に従ってください。そうすれば、主はあなたにも必ずご自身を現わしてくださいますから。

 

22節をご覧ください。すると、イスカリオテでないほうのユダがイエスに言いました。「主よ。私たちにはご自身を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」(22)

イエスの弟子たちの中に、ユダという名前の人がもう一人いました。もう一人というのは、イスカリオテのユダではないもう一人のいうことです。これはヤコブの子ユダのことです(ルカ6:16)。彼は自分たちにはご自身を現わされるのに、どうして世にはご自分を現さないのかとイエスに尋ねました。どうして彼はこのように尋ねたのでしょうか。それは、その前の節でイエスが自分を愛する者にご自身を現われてくださると言われたからです。もし王であるのならみんなにわかるように自分から現した方がいいんじゃないですか、ということです。そうすれば、皆があなたを認めるようになるし、すんなりと王になることができます。つまり、彼のメシア観がずれていたのです。彼が期待していたのは自分たちをローマから救ってくださる政治的な王でした。何もこれは彼だけではありません。当時の一般的なユダヤ人たちのメシア観でもありました。当時の人々は、メシアはすべての人に分かるような形でご自身を現してくださると考えていました。

しかし、イエスが来られたのはそのためではありませんでした。イエスが来られたのは、失われた人を捜して救うためでした。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)しかし、彼にはそのことがわかりませんでした。

 

いったいどうしてこのようなずれが生じていたのでしょうか。関心事が違っていたからです。彼らの関心は自分の目の前にある問題から救ってもらうことでしたが、イエスの関心はそうした問題も含めたすべての問題の根源である罪から救うことでした。このようなずれは当時の人々だけでなく現代の私たちにもよくあることです。私たちもイエスを信じていますが、私たちの思いとイエスが求めておられることがずれていることがあります。きっとそうであるに違いないと思いながら、実際のところかなりずれているということがあるのです。つまり、聖書が何と教えているかということよりも、自分はどう思うのか、他の人たちは何と言っているかが判断の基準になっていることが多いのです。もちろん、私たちはそうしたことにも耳を傾けますが。しかしそれ以上に聖書は何と言っているのか、神のみこころは何なのかということを、みことばそのものから受け止めなければなりません。そうでないと、風に吹き飛ばされるもみ殻のように、どこかに吹き飛ばされてしまうことになります。

 

そこで主は、ご自分が語られたことの真意を繰り返して語られました。23節と24節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「23イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」

これは、15節と21節で語られたことの繰り返しです。主が同じことを繰り返して言われる時は、それがとても重要な教えであるということです。15節と21節では「わたしの戒めを守る人は」とありますが、ここでは「わたしのことばを守る人」と言い換えられています。これは同じことと考えて差し支えないでしょう。では、「わたしの戒め」とか、「わたしのことば」とは具体的に何を指しているのでしょうか。それは、広い意味では聖書全体を指していると言えます。聖書は神のことば、キリストのことばですから。しかし、このヨハネが言うところの「キリストの戒め」とは、この文脈から考えると13章34節でイエスが教えられたことではないかと思います。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34)

神を愛するとは、具体的には兄弟姉妹を愛することです。神を愛していると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することなどできないからです。神を愛するという人は、兄弟をも愛すべきです。つまり、この愛に生きるということ、これがイエスの新しい戒めであり、聖書が教えていることです。

 

あるとき、律法の専門家がイエスのところに来て、こう尋ねました。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」するとイエスは彼に言われました。「37『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38 これが、重要な第一の戒めです。39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」」(マタイ22:37-40)

律法の中で、一番大切な戒めは何ですか。それは、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛することです。二番目に重要なのは何ですか。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」ということです。この二つの戒めに律法と預言者、つまり、聖書全体がかかっているのです。つまり、この分厚い聖書を要約すると、この二つの戒めにかかっていると言われたのです。神を愛し、隣人を愛することです。神を愛し、隣人を愛するなら、あなたは神のみことばに従っていると言えます。あなたが、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛するなら、また、あなたの隣人をあなた自身のように愛するなら、あなたは、聖書のみことばに従っていると言えるのです。これがイエスを愛するということなのです。

 

そのような人には、どんな祝福が約束されていますか。23節の後半を見てください。ここには、「そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」とあります。すばらしい約束です。そうすれば、父はその人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人とともに住みます。しかしこのところをよく見ると、ここには、「わたしたちは」とあります。「わたし」ではなく「わたしたち」です。複数形で書かれてあります。どういうことでしょうか?そうです、これは三位一体の神を表しているのです。父と子と聖霊の三位一体の神がその人のところに来て、その人とともに住んでくださいます。どのように?聖霊によってです。

 

しかし、イエスを愛さない人は、イエスのことばに従いません。弟子たちはどうでしたか。弟子たちはイエスを愛していたのでイエスに従いました。しかし、ユダヤ人たちはそうではありませんでした。ユダヤ人たちは、自分たちは神を信じていると言いました。自分たちは聖書の教師であり、聖書のことを何でも知っていると主張していましたが、実際にはその聖書の中心であるイエスを拒みました。イエスがなさった奇跡を歓迎しましたが、イエスが父と一つであると言われると、それを認めなかったばかりかイエスを憎み、十字架に掛けて殺してしまいました。彼らはイエスを愛しませんでした。イエスのことばに従わなかったのです。

 

皆さん、私たちは、信じない者にならないで信じる者になりましょう。愛さない者にならないで愛する者になりましょう。従わない者にならないで従う者となりましょう。いったいどうしたらできるのでしょうか。

 

Ⅲ.聖霊が助けてくださる(25-26)

 

それが第三のことです。すなわち、聖霊の助けによってということです。25節と26節をご覧ください。「25 これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

 

イエスは弟子たちと一緒にいる時、これらのことを何度も話されました。十字架のことも話しました。復活のことも話しました。でも霊的に鈍感な弟子たちは何回聞いてもよくわかりませんでした。その時はわかったような気がしても、次の瞬間にはすっかり忘れてしまったのです。右の耳から入ってすぐに左の耳から抜けて行くような感じです。何もそれは弟子たちだけではありません。私たちも同じです。すぐに忘れてしまいます。ちなみに皆さんは昨日の夜何を食べたか覚えていますか。ほとんど覚えていません。ひどいのになると、今食べたものさえ覚えていないことがあります。先日もありました。夕食の時、皿の上にあったものが何だったのか忘れてしまったことが・・。皿を指さして「あれっ、これって何だっけ」と聞きました。危ないですね。すぐに忘れてしまいます。だとしたら1か月前のこと、2か月前のことになるともうお手上げです。全く覚えていません。私はよく家内に、「あなたは35年前も同じことを言った」とか言われますが、35年前も前のことを覚えているのは奇跡です。昨日言ったことを忘れていて35年前のことを覚えているんですからすごいことです。私たちは本当に忘れっぽいです。何回聞いても忘れてしまいます。しかし、神はそんな私たちにすべてのことを教え、また思い起こすことができるように、聖霊を遣わしてくださいました。この方は、「助け主、すなわち、父がイエスの名によってお遣わしになる聖霊」とあります。本当にすぐに忘れてしまうような私たちが、イエスが教えてくださったことを思い起こすことができるように助けてくださるのです。

 

これを書いたのは弟子のヨハネです。彼は90歳を過ぎてからこれを書いたと言われています。もうよぼよぼのおじいちゃんですよ。でも記憶力は衰えていませんでした。彼は90歳になっても30年以上も前のことを思い出しながら書きました。イエスが初めからなされたこと、話されたこと、それらを全部思い出して書きました。でもそれは彼の記憶力が良かったからではありません。聖霊が特別に彼に働いて思い起こさせてくださったのです。彼の記憶力はだめです。全くだめというわけではなかったでしょうが、若い時のように覚えていることはできなかったでしょう。今話したことさえ「あれっ、何だっけ」となってしまいます。でも、聖霊が思い起こさせてくだったので書くことができました。

 

それはヨハネだけではありません。私たちも同じです。私たちも信仰を持つまでは聖書を読んでもチンプンカンプンでした。今もチンプンカンプンの時がありますが、それでも聖書のお話しを聞くとわかるようになりました。頭がいいからではありません。聖霊が助けてくださるからです。聖書は聖霊によって書かれたものですから、聖霊によらないと理解することができません。そして、私たちがイエス様を信じた瞬間、聖霊が私たちの内に住んでくださったので、罪について、義について、さばきについてわかるようになりました。この聖霊がすべてのことを教えてくださるのです。

 

ですから、日々の生活の中で困った時には祈ってください。聖霊があなたにすべてのことを教え、すべてのことを思い起こさせてくださいます。あなたは今、心が騒いでいますか。イエス様は何と言われましたか。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)

あなたの心は疲れていますか。イエス様のことばを思い出してください。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

あなたの心は渇いていませんか。イエスはこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)

このように、聖霊は私たちに神のことばを思い起こさせてくださいます。そしてあなたを慰め、あなたを励まし、あなたを助け、あなたを導いてくださいます。聖霊はあなたと共に、いや、あなたのうちにおられます。この助け主であられる聖霊によって、イエスのことばを思い出し、イエスのことばに従いましょう。イエスを愛する人はイエスに従います。主はそのような人にご自身を現わしてくださるのです。

ヨハネ14章12~17節「イエスを信じる者に与えられる約束」

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ヨハネの福音書14章からお話ししています。ここを4回に分けてお話ししたいと思いますが、今回はその2回目です。きょうは12節から17節までのところから、主イエスを信じる者に与えられる3つの約束について学びたいと思います。すなわち、第一に、イエスを信じる者はイエスが行うわざを行い、さらに大きなわざを行うということです。第二に、イエスは、イエスを信じる者の祈りに応えてくださるということです。そして第三のことは、イエスを信じる者には、もう一人の助け主、聖霊が与えられるということです。

 

Ⅰ.イエスが行うわざを行う(12)

 

まず、12節をご覧ください。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」

 

十字架につけられる前夜、もうすぐ彼らのもとを去って行くとイエスが言われると、どこに行くのかわからなかった弟子たちは不安になりました。そんな彼らにイエスは、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1)と言われました。なぜなら、父の家には住む所がたくさんあるからです。その場所を用意したら、また来て、彼らを迎えてくださいます。だから、何も恐れる必要はありません。イエスは、ルカ12:32でこのように言われました。「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」まさにこれです。イエスを信じた者には御国が与えられているのです。ですから、どんなに小さな者であっても恐れることはありません。この世を越えた天国の視点で物事を見たら、神の平安が心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。何とすばらしい約束でしょうか。これほど大きな慰めはありません。それは永遠に変わることのない神の約束です。このような主のみことばに信頼して歩めることは、ほんとうに感謝なことです。

 

それだけではありません。きょうの箇所には、イエスが父のもとに行かれることによってさらに三つのことを与えてくださると約束しています。その一つがこれです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしのわざを行い、さらに大きなわざを行います。」どういうことでしょうか。

 

まず、ここにも「まことに、まことに」とあります。これはこれまで何回かお話ししてきたように、主イエスが大切なことを語られる時に使われた言葉です。何が大切なのかというと、ここではイエスを信じる者は、イエスのわざを行うとあります。イエスのわざとは何でしょうか。それは、イエスが成された奇跡の御業のことです。ここで奇跡と言っているのは、病気が癒されたり、悪霊が追い出されたり、死人が生き返ったりといったことだけでなく、神に背を向けていた人たちが、神を信じるようになることも含まれています。イエスが成された御業は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書に記録されてありますが、それは人にはできない神の奇跡的なわざでした。このヨハネの福音書には、イエスが神の子、救い主、メシアである証拠としての奇跡が7つ記されてあります。

 

まず2章には、カナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという奇跡を行いました。ユダヤの結婚式ではぶどう酒はお祝いの象徴であり、喜びの象徴でした。そのぶどう酒がなくなるということは絶対にあってはならないことでしたが、そのぶどう酒がなくなってしまいました。そのときイエスは、水をぶどう酒に変えたのです。

4章には、王室の役人の息子が病気で死にかかっていましたが、「あなたの息子は治る」と言われると、その通りになりました。

5章には、ベテスダの池の回りで38年も病気で伏せていた人に、「起きて床を取り上げて歩きなさい」と言われると、彼は瞬間的に癒され、床を取り上げて歩き出すことができました。

6章には、5000人の給食の奇跡について記されてあります。5のパンと2匹の魚で、男だけで5000人の空腹を満たされました。しかも余ったパンくずを集めてみると、何と大かご12個にもなりました。

5番目の奇跡は、ガリラヤ湖の水の上を歩くという奇跡です。やはり6章にあります。弟子たちが舟でガリラヤ湖を渡っていたとき強風にあおられて進むことができないでいると、イエスが湖の上を歩いて弟子たちに近づかれたのです。しかも舟に近づかれると、イエスはそばを通り過ぎるおつもりであったとか。

さらに、9章に入ると、生まれつきの盲人の目を見えるようにされました。その方法がとてもユニークでした。地面につばきをして泥を作ると、それを盲人の目に塗り、「シロアムの池で洗いなさい」と言われました。盲人がそのとおりにすると、彼は見えるようになったのです。

そして、もう一つ、7番目の奇跡は、死んだラザロを生き返らせることでした。ラザロは死んでもう4日も経っていました。4日も経っていたというのは、完全に死んでいたということです。しかし、イエスはその死んでいたラザロを生き返らせました。

どれ一つとっても、それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。イエスはその神の子、メシア、救い主であるということを示すために、これらの御業を行われたのです。その御業を、今度はイエスを信じる者が行うようになるというのです。

 

それが実際に起こります。たとえば、使徒の働き3章を見ると、ペテロとヨハネが生まれつき足の不自由な人を癒したことが記されてあります。午後3時の祈りの時間に、彼らが宮に上って行くと、そこに生まれつき足の不自由な人が運ばれて来ました。この人は、宮に入ると、人々から施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる門に置いてもらっていましたが、そこにペテロとヨハネが通りかかったのです。彼は何かもらえるのではないかと思って、施しを求めました。すると、ペテロは彼を見てこう言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3:6)

すると、彼の足とくるぶしがたちまち強くなり、躍り上がって立ち上がり、歩き出したのです。いったいなぜペテロはこのようなことをすることができたのでしょうか。ここに、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い」とある通りです。彼は自分の力とか、敬虔さとかによって歩けるようにしたのではありません。彼は、十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストの御名によって、その名を信じる信仰のゆえに、この人を強くし、立たせることができたのです(使徒3:12~16)。イエスを信じる者は、イエスが行うわざを行うのです。

 

しかし、そればかりではありません。ここには、さらに大きなわざを行うとあります。どういうことでしょうか。イエスを信じる者は、イエスが行うわざよりもさらに大きなわざを行うようになります。この「さらに大きなわざ」とは質的なことではなく、その影響力の及ぶ範囲のことを示しています。それはイエスの復活後、弟子たちの働きが、地上でイエスがなされた働きよりも広範囲に及ぶようになることを意味しているのです。なぜなら、イエスの地上生涯の活動範囲はパレスチナに限られていましたが、また、宣教の対象もユダヤ人に限られていましたが、イエスを信じる者はその救いの福音を異邦人世界にまで、全世界にまでもたらし、これまでイエスを知らなかった多くの人々にまで宣べ伝えていくようになるからです。今日世界中に福音が宣べ伝えられ、多くの人々が主イエスを信じるようになったのも、また、こうして私たちもイエスを信じるように導かれたのも、この主の約束の成就にほかなりません。

 

いったいどうしてこのようなことになるのでしょうか。その理由を、主はその後のところでこのように言っておられます。12節後半、「わたしが父のもとに行くからです」。どういうことですか。イエスが父のもとに行くとなぜこのようなことが起こるのでしょうか。それは聖霊が降られるからです。聖霊が降り、彼らにそれを行う力を与えてくださるからなのです。使徒1:8をご覧ください。ここには、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」とあります。

主イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを40日間使徒たちに示されると、彼らが見ている前で天に昇って行かれました。その直前に語られたのがこのことばです。それは、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けるということでした。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、及び地の果てまで、わたしの証人となります。

 

それから10日後、すなわち、イエスが十字架で死なれてから50日目に、このことばの通り聖霊が降りました。それはユダヤ教の五旬節の日、ギリシャ語ではペンテコステと言いますが、その日に起こりました。彼らが同じ場所に集まっていたとき、天から突然、激しい風が吹いて来たかのような響きが起こると、彼らが座っていた家全体に響き渡ったのです。また、炎のような分かれた舌が現れ、一人ひとりの上にとどまると、皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のことばで話し始めました。いったい何が起こったのか。そこにいた人たちが驚き怪しんでいると、ペテロが立ち上がって説教しました。するとその日何と3000人の人が救われたのです。3000人ですよ。たった1回の説教で3000人もの人々が救われました。

さらに、先ほど紹介した生まれつき歩くことができなかった人が癒されたのを見た人たちが、ペテロの言葉を聞くと多くの人々がイエスを信じました。その数、男だけで5000人です。すると、徐々にエルサレムの教会に対する締め付けが厳しくなって行きました。そして、激しい迫害が起こると、使徒たち以外の者はみなユダヤとサマリアの諸地方に散らされて行ったのです。しかし、弟子たちはそこでも福音を宣べ伝えたので、福音はさらに広がって行きました。そして、使徒パウロが救われると、彼によって福音はマケドニア、ギリシャ、ローマへと、すなわち、ヨーロッパへと拡がって行きました。そして、やがて地の果てにまで及んだのです。

 

いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。聖霊が降られたからです。聖霊が降り彼らに臨んだので、彼らは力を受けました。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、及び地の果てまで、キリストの証人となったのです。聖霊によって、この約束が実現しました。その聖霊はどのようにして降ったのでしょうか。イエスが父のもとに行くことによってです。イエスが父のもとに行かれたので、父は約束の聖霊を遣わしてくださいました。全部イエス様が言われたわれたとおりでした。

 

弟子たちはイエスが去って行くということで不安になっていましたが、イエスが去って行くことは彼らにとって良いことだったのです。なぜなら、イエスが去って行くことでイエスは彼らのために場所を用意してくださり、その用意が出来たらまた来て、彼らを迎えてくださるからです。イエスがいるところに、彼らもいるようにするためです。そればかりではありません。イエスが父のもとに行くことで彼らの働きがストップしてしまうどころか、ますます大きくなって行のです。約束の聖霊が遣わされるからです。この方は16節に「もう一人の助け主」と言われていますが、この方の力によって爆発的な働きをするようになります。

 

ですから、私たちは心を騒がせてはなりません。私たちがすべきことは、信じることです。神を信じ、またイエスを信じなければなりません。信じるとは、信頼することです。それは単に頭で受け入れるということ以上のことです。それは人格的に、個人的にイエス様に信頼を寄せることです。イエスは「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。このことばに信頼しなければなりません。

ローマ8:28にはこうあります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」信じますか。すべてのことがともに働いて益となるのです。すべてのことです。今起こっているコロナウイルスの問題も、今あなたの生活に起こっている問題もすべてです。それは決して悲しいことではなく、そのこともまた主が支配しておられ、あなたのために働いて益となるということを信じなければならなりません。イエスを信じる者は、イエスが行うわざを行い、さらに大きなわざを行うようになるのです。

 

Ⅱ.イエスは祈りに応えてくださる(13-14)

 

第二に、イエスは、イエスを信じる者の祈りに応えてくださいます。13節と14節をご覧ください。「13またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」

 

イエスはここで、「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます」と言われました。どういうことでしょうか。イエスが私たちの祈りに応えてくださるということです。しかも「何でも」です。すごいですね。何でもです。ただ一つだけ条件があります。それは、「わたしの名によって求めるなら」(13)ということです。このことは、14節にも繰り返して言われています。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。どういうことでしょうか。

 

ある人は、私たちは父なる神に対して信用のない罪人なので神はその祈りを聞いてくださらないが、イエスは神の子であり全く罪のない方なので、父なる神に対して完全な信用があるので、この方の名で祈るなら聞き入れていただけると考えていますが、そういうことではありません。イエスの名によって求めるとは、イエスのみこころに従って求めるということです。「名は体を表す」ということわざがあるように、名はその人の性格とか人格、その人自身を表す言葉だからです。すなわち、私たちの願いがイエス・キリストにふさわしい願いなのかどうか、イエス・キリストが望んでおられること、神が望んでおられることと一致しているのかどうかということです。もしそれが一致しているなら、どんなことでも聞いてくださいます。

 

Ⅰヨハネ5:14には、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」とあります。神に対して私たちが抱いている確信は何ですか。それは、何事でも神のみこころにしたがって祈るなら、神は聞いてくださるということです。これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 

イスラエルの歴史において栄華を極めたのはソロモンという王でした。ソロモンはダビデの子です。イスラエルは、ダビデ王の時代に統一王国となりました。そして、その子ソロモンの時代に繁栄を迎えたわけですが、そのソロモンが王になったとき、神は彼に言われました。「あなたに何を与えようか。願え。」(Ⅰ列王記3:5)このように言われたらあなたなら何と答えるでしょうか。ソロモンは善悪を判断し、聞き分ける心をください、と言いました。それは、神のみこころにかなう願いだったので、神はその願いを聞いてくださったばかりか、彼が願わなかったことまで、すなわち、富とか誉も与えてくださいました。彼は自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、敵のいのちさえも願わず、むしろ自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、神は彼に知恵と判断力とともに、すべてのものを与えてくださったのです。これが「わたしの名によって求める」ということです。私たちがキリストの名によって求めるなら、キリストは何でもそれをしてくださいます。

 

どうして私たちがみこころにかなった願いをするなら、神は何でも聞いてくださるのでしょうか。13節後半にその理由が述べられています。それは、「父が子によって栄光をお受けになるためです。」神はすべての必要を満たすことができる方です。ですから、その祈りを御子が聞いてくださるとしたら、父がどれほど栄光に富んでおられる方であるかがわかります。そのことによって父は栄光をお受けになるのです。

 

ですから、私たちもキリストの名によって求めましょう。それがかなえられることで、父なる神が栄光をお受けになられるからです。あなたの願いは何ですか。それは神のみこころにかなったものでしょうか。それは神の栄光を求めたものでしょうか。人々の益になることでしょうか。もしあなたが神のみこころにかなった願いをするなら、神はどんなことでも聞いてくださるのです。

 

今、コロナウイルスで世界中が不安と混乱の中にありますが、アラスカの5歳の女の子がこのように祈りました。

愛するパパ神様 そこにいますよね? 「聞いている」ってママが言ったもの。わたしまだ小さいけど、今日はすみません、愛やオモチャのおねだりよりもっと大事なお願いをします。

今日はコロナウイルスの犠牲者のために祈ります。亡くなった人たちと残された人たちです。どうぞパパ神様。見守ってください。親を亡くした子供たちや、子どもを亡くしたお年寄りや家族1人2人亡くしたすべての人たちを、どうぞみんなを抱きしめてしっかり守ってください。

世界中の苦しんでいる人たちのために祈ります。みんなひとりぼっちで怖いのです。パパ神様 みんなを治してください。全てはじきによくなるって教えてあげてください。みんな、家で待ってる愛する人のもとに帰って、ハグをして、もう泣かないで済むように。

おうちのない人や、家族を養うお金のない人のために祈ります。どうぞ希望をなくさないよう祝福してあげてください。

命を救うために毎日できる全てをやって命の危険を冒しているお医者さんや、患者さんがよくなるのを助けるために休まずに働く看護師さんたちや、介助に全力を尽くす医療スタッフのために祈ります。パパ神様 皆さん 食べて休息をとるように促してください。

また、私たちが家の中にいて安全なように、日夜働いているお巡りさんのために祈ります。家にいる私たちのために外で働くので力をあげてください。この闘いで皆さんはスーパーヒーローです。皆さんを祝福してください。ヒーローになるのは大変なんです。パパ神様 この悪夢を止めるために一つになり互いに助け合うように導いてください。そうすれば皆、普通の生活に戻れます。そうすれば遠くにいた人もやっと家に戻り、家族と一緒になれます。

パパ神様 どうぞ世界を癒して、世界を救うために闘うすべての人を守ってください 希望は捨てません。あなたのみ名ですべてが良くなると信じていますから。アーメン。

 

何と純粋な祈りでしょうか。5歳の女の子です。彼女は神様をパパ神様と呼んで、愛にあふれた、思いやりのあるお祈りをしました。どうしてこんな祈りができるのでしょうか。神様は自分の祈りを聞いてくださると信じているからです。イエス様が、子どものようにならなければ、天の御国に入ることはできないと言われた意味が、分かるような気がします。

 

兵庫県尼崎市に、大橋秀夫という牧師先生がおられますが、今回のコロナウイルスの問題にあって、次のように祈られました。

今朝の祈り、愛する主よ。今朝も平安を感謝します。先日、世界の主にある兄弟姉妹たちと共にあなたが教えてくださった祈りを、共に捧げました。その時以来、言葉の一つ一つに込められている意味の深さを感じされられています。

まさに、御心が天で行われているように、地でも行われますように。私たちを試みにあわせず、悪より救い出してください。主よ、これが私の毎日の祈りとなりました。今日も祈ります。御心が天で行われているように、地でも行われますように。私たちを試みにあわせず、悪より救い出してください!

人は何と弱く、命は何と儚(はかな)いものでしょう。もしも、あなたを知ることがなかったら、私たちの一生は束の間に過ぎなかったのですね。

主よ。もう一度あなたに感謝を捧げます。アーメン。

 

これは、主が教えてくださった主の祈りです。これこそ、主の御名によって祈るということです。御心が天で行われるように、地でも行われますように。私たちを試みにあわせず、悪より救い出してください!「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」

私たちは、この約束を握りしめこのコロナウイルスの問題のために祈ろうではありませんか。それが私たちクリスチャンに与えられている使命です。キリストの名によって求めるなら、キリストは何でもしてくださいます。父が子によって栄光をお受けになるためです。これこそ、神に対する私たちの確信なのです。

 

Ⅲ.もう一人の助け主を与えてくださる(15-17)

 

第三のことは、もう一人の助け主を与えてくださるということです。15節から17節までをご覧ください。「15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」

 

私たちが主イエスの名によって求めるなら、主は何でもかなえてくださいます。ただし、そのために私たちに求められていることがあります。それは何ですか。それは、主イエスに対する愛です。ここには、「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」とあります。それを可能にするのはイエスに対する愛なのです。そして、イエスを愛する人は、イエスのことば、イエスの戒めを守ります。イエスを愛していると言いながら、そのことばを守らないとしたら、その愛とはいったいどのようなものなのか首をかしげたくなります。イエスを愛する者は、イエスの戒めを守るはずだからです。そうすれば、自ずと主のみこころにかなった祈りができるようになるでしょう。それは自分の名誉ではなく、ただ主の栄光を求める思いになるからです。

 

では、どうやって主イエスの戒めを守ることができるのでしょうか。16節にはこうあります。「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」

ここには、主イエスが父にお願いすると、父はもう一人の助け主を与えてくださるとあります。「助け主」とは、ギリシャ語で「パラクレートス」と言います。意味は、助けるためにそばに呼ばれた者とか、寄り添う者、慰める者、励ます者、助言してくれる者、弁護者です。Ⅰヨハネ2:1には、「とりなしてくださる方」と訳されています。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」この「とりなしてくださる方」がバラクレートスです。これはイエス様について語られていますが、その同じ語が、この「助け主」である聖霊について用いられているのです。ですから、ここでは「もう一人の助け主」と言われているのです。「もう一人の」という言葉はギリシャ語で「アッロス」という語ですが、これは「全く同じ性質の」という意味です。別々の存在ですが、イエスと全く同じ性質を持った方のことです。その方が来て、助けてくださいます。

 

私たちの人生には、「どうしたら良いか」わからなくて悩むことがよくあります。しかし、そんな時「これが道だ。これに歩め」と言って導いてくださる方がいたら、どれほど大きな助けでしょう。その方が「もう一人の助け主」です。この方は「真理の御霊」です。この方は先ほどお話ししたように、イエスが父のもとに行くことによって父なる神によって遣わされる方です。先ほどのところでは、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けますと、力の面が強調されていましたが、ここではそばにいて助けてくださる方、励ましてくださる方、導いてくださる方であることが強調されています。昔イスラエルの民がエジプトを出て荒野に導かれたとき、どこに向かって進んでいったら良いかわからなかったとき、昼は雲の柱、夜は火の柱となって彼らを導いてくださったのは、この聖霊でした。私たちの人生も荒野です。どこに向かって進んで行ったら良いかわからない時がありますが、この方がいつも私たちともにいて助けてくださいます。いや、私たちのうちにいて導いてくださいます。

 

この時弟子たちは、イエスが父もとに行かれると聞いて不安になり、心を騒がせていました。しかし、そのことはむしろ彼らにとって良いことでした。なぜなら、イエスが去って行くことで「もう一人の助け主」が遣わされ、その方がいつも彼らとともにいるようにしてくださるからです。そればかりか、彼らのうちに住んでくださいます。イエスは、大宣教命令の中で「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われましたが、これはこの御霊、聖霊によって可能となったのです。

 

私たちの神は「インマヌエル」の神です。「インマヌエル」、神ともにいまし、です。私たちの神は、いつまでもともにおられる方です。イエスを信じる人の心には、いつも聖霊が住んでくださり、神のみこころに歩めるように助けてくださるのです。私たちは本当に弱く、神の戒めを守ることもできないような者ですが、この聖霊が助けてくださり、イエスを愛することができるように励ましてくださるのです。そして、私たちにもこのような使命が与えられています。

 

昨日の朝、英語礼拝部の姉妹から電話がありました。2,3日前から体がだるく、起きるとめまいと吐き気がするので立っていることができないということでした。熱はないし、咳もしないので、コロナではないと思うけど、ただ事ではない感じがするので病院に行きたいがどこへ行ったらいいかわからないし、職場の担当者に電話したところ「ああ、今すぐに通訳者をみつけることはできない」と言われて困っているということでした。そこで、病院に電話し症状を伝えると、病院でもかなり警戒していて、受け付けると言うまで15分もかかりましたが、「診察するので来てください」と言われたので行くことになりました。でもこのような時期ですから、私たちも悩みました。もし私たちが感染でもしたらと思うと、二の足を踏んだのです。しかし、彼女の苦しみを聞いたとき、「私は何のために存在しているんだろう」と心が探られる思いでした。私がここにいるのは本当に助けを必要としている人に寄り添うためではないか、それなのに、それを恐れている自分が情けなく思ったのです。

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」(Ⅰヨハネ4:18)

結局、家内が病院に行きいろいろと検査をしたところ、コロナではなく耳の奥に胆石のような石が出来ていることが原因であることがわかりました。しばらく投薬とリハビリを続けて治療することになりましたが、家内が一日中彼女に寄り添ってあげたことがよほどうれしかったのか、帰り際に涙を流しながら「ありがとう!」と言ったそうです。私にも後で、「今日は一日中自分のためにケアしてくれてありがとう。心から感謝します」とメールが来ましたが、彼女にとってどれほどの慰めだったかと思うのです。こういう時に、実際に役に立つのは家内ですが・・・。

 

寄り添ってくれる人がいるということは、本当に慰めです。そして、神はもう一人の助け主を送り、その方がいつまでも、私たちとともにいてくださるようにしてくださいました。イエスが地上から去って行かれることは、弟子たちにとって悲しいことであり、心を騒がせる事でした。しかし、たとえ主が去って行かれても恐れることはありません。イエスはあなたのために場所を備えに行かれたのですから。そして、イエスが去って行くことで、神はもうひとりの助け主を送ってくださいました。それは真理の御霊です。この方はいつまでも、あなたとともにいてくださいます。そしてイエスがおられた時のようなわざを、いや、さらに大きなわざを行うことができるようにしてくださいました。また、イエスの名によって求めるならば、何でも与えてくださいます。ですから、大切なことは、何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただくことです。そうすれば、あなたのすべての考えにまさる神の平安が、心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。あなたに求められているのは、この方に信頼することです。神を信じ、またわたしを信じなさい。そう言われたイエスに信頼することなのです。

 

あなたはどうですか。恐れていることがありますか。それは健康のことですか、家族のことですか、仕事のことですか、人との関係のことですか、あるいは、この先どうなるかということでしょうか。それがどんなことであっても、キリスト・イエスにある神の愛からあなたを引き離すものは何もありません。あなたがイエスの名によって祈るなら、神は何でも聞いてくださいます。私たちの神は死んだ神ではありません。死から復活し、今も生きておられる神です。この方は、あなたの祈りに応えてくださいます。この方に信頼して祈りましょう。あなたのうちにはもう一人の助け主、神の聖霊がいつもともにいて助けてくださるのですから。

出エジプト記25章

出エジプト記25章から学びます。主なる神とイスラエルの民が血による契約を交わすと、イスラエルの民は、主との親しい交わりを持つことが出来ました。そして、主はモーセを呼ばれたので、モーセは神の山に登りました。モーセはそこに40日40夜とどまり、主のことばを受けました。それがきょうの箇所です。

1.幕屋のための奉納物(1-9)

まず、1節から9節までをご覧ください。

「1 主はモーセに告げられた。2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。3 彼らから受け取る奉納物は次のものである。金、銀、青銅、4 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、5 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、6 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、7 エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。9 幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。」

まず、主がモーセに語られたのは、主への奉納物を携えで来るようにということでした。それで幕屋を作るためです。このような記事に関心のある人は、おそらく大工さんとか、土木作業とか建築関係に携わっている方ぐらいで、それ以外の人はあまり関心がないかもしれませんが、ここにも大切なことが教えられています。それは、主がどのようにイスラエルの民の中に住まわれるかということです。その方法が幕屋でした。幕屋が作られることによって、主が臨在される方法に変化がもたらされました。創世記3章では、アダムとエバが罪を犯して以降、人は神から遠く離れてしまいましたが、この幕屋が建設されることによって、神が彼らの中に住むことになったからです。新約の時代に生きている私たちにとって、幕屋は不要です。なぜなら、イエス・キリストがご自分の肉体を取ってこの地上に来てくださったからです。ヨハネ1:14には、「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」とありますが、この「住まわれた」ということばは、「幕屋を張られた」ということばと同じです。つまり、イエスが幕屋となられたのです。それによって私たちにインマヌエル、神ともにいまし、という神の臨在がもたらされました。つまり、この幕屋とはイエス・キリスト表すものであったのです。ですから、この幕屋のことを学べば、イエスがどのような方であるかがよくわかります。神とお会いするにはどうしたらいいのか、神に近づくにはどうしたらいいのかがわかるのです。

まず1節と2節をご覧ください。ここには、「1 主はモーセに告げられた。2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」とあります。

主はこの幕屋の建設のために、モーセを通してイスラエルに奉納物を携え来るようにと言われました。幕屋の建設のために携われるというのは大きな特権です。彼らは奉納物をささげることによってそれに携わることができました。しかし、荒野を旅していた彼らが、どのようにしてそれらの奉納物をささげることができたのでしょうか。12:35を見てください。ここには「イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。」とあります。イスラエルの民がエジプトを出てくる時、エジプトに銀の飾りや、金の飾り、そして衣服を求めましたが、それらのものはこのためだったのです。そのために主はモーセを通して、それらのものをエジプトに求めるようにと言われたのです。

これらの奉納物はどのようにしてささげなければならなかったのでしょうか。2節には、「あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」とあります。それは進んで献げる心のある人からでなければなりませんでした。義務感とか、何か奪い取られるといった気持ちからではなく、心から進んでささげられるものの中から、献げられなければならなかったのです。

パウロは献金についてⅡコリント9:6-7でこのように言っています。「6 私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。7 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」

これが、聖書が教えている献金の心構えです。献金とは、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにささげられなければなりません。他の人と比較する必要などないのです。あの人はどれだけささげているとか、この人はあまりささげていないとか、みんなもっと献金すべきだなどというのは間違っています。それはいやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに、喜んでささげられるものだからです。実際、イスラエルの民は心から進んでささげました。35:5、21、22、29を見ると、彼らは心から進んでささげたことがわかります。その結果、36:5~7にあるように、その献げものはあり余るほどになりました。心から進んで献げれば、あり余るほどになります。「5 モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」6 それでモーセは命じて、宿営中に告げ知らせた。「男も女も、聖所の奉納物のためにこれ以上の仕事を行わないように。」こうして民は持って来るのをやめた。7 手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。」すばらしいですね。彼らは喜んでささげたのであり余るほどになり、ついにはモーセが「もう持って来ないでください」と言うほどだったのです。

さて、3節から7節までをご覧ください。ここには、彼らから受け取る奉納物の種類について記されてあります。それは、「金、銀、青銅、 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石」です。全部で15種類の建築資材です。亜麻布はエジプトの名産で、祭司の衣装に用いられました。やぎの毛は、天幕の材料として最適です。赤くなめした雄羊の皮は、幕屋のおおいとして使用されました。じゅごんというのは、海に住む哺乳動物です。紅海に住んでいました。アカシヤ材は、シナイ半島にある唯一の木です。根が地ちゅう深くに張ります。ともしび用の油とはオリーブ油のことです。

あなたには、どのような賜物が与えられているでしょうか。誰にでも少なくとも一つの賜物は与えられています。それを自分から進んで献げる人は幸いです。あなたに与えられている賜物が、主の働きにどのように用いられるかを考えましょう。

8節と9節をご覧ください。ここには、この幕屋を作る目的が記されてあります。それは、「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」ということです。これはすごいことですね。全能の神が彼らの中に住まれるのです。アブラハム・イサク・ヤコブには、「エル・シャダイ」、「全能の神」としてご自身を現わしてくださった神が、またモーセの時代には、「ヤハウェ」、「わたしはあるというものである」という自存の神として現われてくだった主が、彼らのただ中に住んでくださるというのです。神ご自身がともにおられます。ここに神の栄光が現されるのです。イエス・キリストの中に神はご自身の栄光を現されるのです。

Ⅱ.契約の箱(10-22)

次に、10~22節までをご覧ください。

「アカシヤ材の箱を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半、高さを一キュビト半とする。11 それに純金をかぶせる。その内側と外側にかぶせ、その周りに金の飾り縁を作る。12 箱のために金の環を四つ鋳造し、その四隅の基部に取り付ける。一方の側に二つの環を、もう一方の側にもう二つの環を取り付ける。13 また、アカシヤ材で棒を作り、それに金をかぶせる。14 その箱を棒で担ぐために、その棒を箱の両側の環に通す。15 その棒は箱の環に差し込んだままにする。外してはならない。16 その箱に、わたしが与えるさとしの板を納める。17 また、純金で『宥めの蓋』を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半とする。18 二つの金のケルビムを作る。槌で打って、『宥めの蓋』の両端に作る。19 一つを一方の端に、もう一つを他方の端に作る。『宥めの蓋』の一部として、ケルビムをその両端に作る。20 ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『宥めの蓋』の方を向くようにする。21 その『宥めの蓋』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしの板を納める。22 わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。」

この神の幕屋は、どのようにして作れば良いのでしょうか。ここには、幕屋建設のための具体的な指示が記されてあります。まずは契約の箱です。10節に「アカシヤ材の箱」とありますが、これが契約の箱です。その長さは2キュビト半で、幅は1キュビト半、高さは1キュビト半でした。1キュビトは約44㎝ですから、長さは110㎝、幅66㎝、高さは44㎝となります。不思議なことに、神はこの幕屋を建設するにあたり外側からではなく内側にあるもの、いわゆる家具とか調度品といったものから作られました。普通、家を建てる時にはまず建物本体から作り、その後で家具とか調度品とかを作りますが、神はまず内側のものから作られたのです。それは、これが幕屋の中心であり、最も重要なものだったからです。重要なものから始まり、そこから外側へと広がっていったのです。

契約の箱は、アカシヤ材で作らなければなりませんでした。なぜアカシヤ材が用いられたのかというと、アカシヤ材は腐食しにくい木材であったからです。つまり、それはイエス・キリストを象徴していました。イエスは腐食しにくい、つまり清廉潔白な(完全)人間でした。イエスは罪深い人間のような生身の身体をもって生まれてきましたが、彼には全く罪がありませんでした。このイエスの人間性を示すものとしてアカシヤが用いられたのです。それに純金をかぶせました。それは、その内側と外側とにかぶせなければなりませんでした。その回りには金の飾り縁を作ります。なぜ純金がかぶせられたのでしょうか。それは、この純金が神性を表していたからです。ですから、純金で覆われたアカシヤ材で作られた箱は、人として来られた神の御子イエス・キリストのことを象徴していたのです。

それにしても、契約の箱の内側と外側に純金がかぶせられていたら、どれほど豪華に輝いていたことでしょう。今日の価値にすれば何十億にも相当する豪華な飾りです。いったいなぜこれほど輝くようにしたのでしょうか。なぜなら、それはキリストの栄光、神の栄光の表れであったからです。

外側はみすぼらしい作りです。それはヤギの皮が用いられました。ヤギの皮ですよ。黒っぽい、何とも質素なふるまいです。けれども、その幕屋の内側は栄光の輝きです。それはまさにキリストのご性質そのものでした。イザヤ書53章には、キリストの姿を預言して「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」(53:2)とありますが、キリストは見た目には何の輝きもないかのように見えました。しかしその内側は神の栄光に輝いていました。私たちも、このような人になりたいですね。外側はともかくその内側が神の栄光で輝いているという人に。

12節をご覧ください。「箱のために金の環を四つ鋳造し、その四隅の基部に取り付ける。一方の側に二つの環を、もう一方の側にもう二つの環を取り付ける。」この箱の四隅には、金の環が取り付けられました。持ち運びすることできるようにするためです。そこに棒を通して担いだのです。誤って人が触れないようにするためです。契約の箱に触れてしまったために悲劇が起こったことを、聖書は告げています。ダビデが、契約の箱を自分の町に運ぼうとした時、それを新しい車に乗せて運びましたが、牛がよろめいて傾いたのでウザが手を伸ばして神の箱をつかむと、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はその場で打たれて死んでしまいました(Ⅱサムエル6:6-7)。棒はアカシヤ材で作られ、それに金がかぶせられました。そして、その棒は箱の両側に通し、差し込んだままにしておかなければなりませんでした。外してはならなかったのです。

その箱に、神が与えるさとしの板を納めました。「さとし」とは十戒のことです。二枚の石の板に刻まれた十戒が収められたのです。なぜ十戒が収められる箱がこんなに豪華でなければならなかったのでしょうか。それは、この神のことばこそ神ご自身を表していたからです。神は霊ですから、神を見ることはできませんが、神はことばを通してご自身を現わしてくださいました。そうです、そのことばとは、イエス・キリストのことだったのです。ヨハネ1:1には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。勿論、このことばとはイエス・キリストのことです。神の御子イエス・キリストもご自身をことばとして表されました。ことばは神であった。これが神の本質です。私たちは、このことばによって神と交わることができます。ですから、神のことばこそ信仰の中心であり、本質なのです。神のことばを通して、神の栄光を見ることができるのです。

次に17節から22節までをご覧ください。ここには「宥めの蓋」を作るようにとあります。新改訳第三版では「贖いのふた」とあります。これは、契約の箱の上に乗せるふたのことです。大きさは、契約の箱のサイズと同じです。違うのは何かというと、その作り方です。契約の箱はアカシヤ材が用いられ、そのアカシヤ材の内と外に純金が塗られましたが、この宥めの蓋は、すべて純金で作られました。なぜなら、22節にあるように、そこで神が会見されるからです。いわば、ここが最も神聖な場所なのです。

このふたは「宥めの蓋」と呼ばれました。この「宥め」ということばは、ギリシャ語で「ヒラステーリオン」という言葉ですが、これは「宥めの供え物」を意味しています。Iヨハネ2:2には、「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」とありますが、この「宥めのささげ物」のことです。これは神の怒りを宥めるためる蓋でした。いったい神は何に対して怒っておられたのでしょうか。それは人間の罪に対してです。その怒りをなだめるもの、それが「宥めの蓋」だったのです。それはイエス・キリストの十字架の血にほかなりません。ですから、これはイエス・キリストの十字架の贖いを表していたのです。私たちの罪に対する神の怒りがなだめられ、私たちが神に近づき、神にお会いする方法は、このイエス・キリストの十字架以外にはありません。

私たちは、自分の力では神に近づくことはできません。ですから、神のさとしの板がどこに置かれたかをご覧ください。それは箱の中でした。なぜ箱の中に置かれたのでしようか。それは私たちの力では守れないからです。ですから、私たちの目に見えないように、その箱に蓋がされたのです。その蓋こそキリストなのです。この戒めを完全に守られたイエス・キリストがその十戒の上を覆うようになって、私たちの罪とその罰をすべて引き受けて代わりに死んでくださったのです。死んでくださったというのは、血を流してくださったということです。これは血による契約です。血の注ぎかけがなければ罪の赦しはありません。キリストは、十字架で血を流してくださったので、この方を信じる者はだれでも救われるようにされたのです。

このキリストのおかげで、私たちは神にお会いし、神の前に立つことができるようになりました。他に何の条件もありません。たくさんささげなければならないとか、奉仕をしなければならないとか、そういった条件は何一つありません。ただ私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、血を流してくださったイエス・キリストを信じるだけで救われるのです。神にお会いすることができるようになりました。ですから、主は22節で「わたしはそこであなたと会見し」と言っておられるのです。「そこ」とはどこですか。宥めの蓋の上です。血が注がれるその場所のことです。イエスが血を流してくださったそのところで会見すると言われたのです。これが福音です。救いはイエス・キリストです。イエス・キリスト以外に救われる道は他にありません(使徒4:12,Iテモテ2:4-5,ヨハネ14:6)。

ですから、この蓋は純金で作られたのです。また、その両端には二つの金のケルビムが置かれました。ケルビムは神の御使いです。ケルブとは、ヘブル語で単数形ですが、複数形になると「イム」を後ろにつけるので「ケルビム」となります。ケルビムは、神の御座の周りにいる御使いです。エデンの園からアダムとエバが追放されたとき、そこでいのちの木を守っていたのは、このケルビムでした。エゼキエル書1章にも不思議な生き物が出てきますが、彼らもケルビムでした。そして黙示録4章にも4人の生き物が出てきますが、彼らもケルビムであると考えられます。おそらくこのケルビムは神の御座にいて、しこの宥めの蓋を見守っていたのでしょう。神は、この二人のケルビムの間におられて、そこで会見し、そこから語られたからです。

ここに神の福音が余すところなく表されています。幕屋が重要であることの意味はここにあるのです。なぜなら、ここに神にお会いするにはどうしたらいいのか、どうしたら救われるのかがはっきりと示されているからです。

しかし、このように神の一方的な恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって救われたにもかかわらず、信仰をもって歩んでいるうちに、再び過去の考えに戻ってしまうことがあります。すなわち、自分の力によって神に近づこうとすることがあるのです。神の祝福を受けるためにはもっと奉仕しなければならないとか、もっと献金しなければならない、もっと良い人でなければならないと、行いを強調してしまうことがあるのです。しかし、救いは一方的な主の恵みによります。キリストが私たちのために十字架で死んでくださり、神の怒りを宥めてくださったということを信じるだけで救われるのです。そこで神にお会いすることができるのです。

Ⅲ.臨在のパンを置く机と純金の燭台(23-40)
次に、23~30節までをご覧ください。

「23 また、アカシヤ材で机を作り、その長さを二キュビト、幅を一キュビト、高さを一キュビト半とする。24 これに純金をかぶせ、その周りに金の飾り縁を作り、25 その周りに一手幅の枠を作り、その枠の周りに金の飾り縁を作る。26 その机のために金の環を四つ作り、四本の脚のところの四隅にその環を取り付ける。27 環は枠の脇に付け、そこに机を担ぐ棒を入れる。28 アカシヤ材で机を担ぐための棒を作り、これに金をかぶせる。29 また、注ぎのささげ物を注ぐための皿、ひしゃく、瓶、水差しを作る。これらを純金で作る。30 机の上には臨在のパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。」

ここには、机を作る規定が記されてあります。この机は、30節には「臨在のパンを置き」とありますが、パンを置くための机でした。第三版には、「供えのパンの机」とあります。供えのパンとは、神の前に供えたパンという意味です。これは、パン種が入っていない丸くて薄いパンですが、全部で12個置かれてありました。それはイスラエル12部族を表していました。それはイスラエル12部族が、常に神の御前に覚えられているということです。それと、29節にあるように、注ぎのささげ物、これはぶどう酒のことですが、それを注ぐための皿とひしゃく、瓶や水差しが置かれました。

この机も、アカシヤ材で作られ、その上に純金がかぶせられました。また、持ち運びできるように、金の環とかつぐ棒が作られました。サイズは、長さ2キュビト、幅1キュビト、高さ1キュビト半ですから、契約の箱よりも少し小さめでした。

この神の臨在のパンの机も、キリストを指し示していました。イエスは、「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)と言われました。イエスがいのちのパンです。イエスのもとに来るものは決して飢えることがなく、渇くことがありません。このイエスが、私たちの霊の糧となってくださるので、イエスのもとに来るなら、決して飢えることはないのです。それはキリストの臨在を体験することができるからです。これが臨在のパンの机と呼ばれているのは、そういう意味です。これは同時に聖餐を表していました。イエスは、「これはあなたがたのための、わたしのからだです。」(Iコリント11:23)と言われました。聖餐はキリストの裂かれた肉、流された血をいただくときですが、それはキリストの臨在を体験する時でもあります。神の恵みを味わうとき、それが聖餐であり、それがこの供えのパンが置かれていたことの意味なのです。

31~40節をご覧ください。それからこの机の真向かいには燭台が置かれていました。

「31 また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作る。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁があるようにする。32 六本の枝がその脇の部分から、すなわち燭台の三本の枝が一方の脇から、燭台のもう三本の枝がもう一方の脇から出る。33 一方の枝に、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある三つのがくを、また、もう一方の枝に、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある三つのがくを付ける。燭台から出る六本の枝はみな、そのようにする。34 燭台そのものには、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある四つのがくを付ける。35 それから出る一対の枝の下に一つの節、それから出る次の一対の枝の下に一つの節、それから出るその次の一対の枝の下に一つの節。このように六つの枝が燭台から出ていることになる。36 それらの節と枝とは燭台と一体にし、その全体は一つの純金を打って作る。37 また、ともしび皿を七つ作る。ともしび皿は、その前方を照らすように上にあげる。38 その芯切りばさみも芯取り皿も純金である。39 純金一タラントで、燭台とこれらのすべての器具を作る。40 よく注意して、山であなたに示された型どおりに作らなければならない。」

燭台はどのように作られたでしょうか。31節には「また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作る。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁があるようにする。」とあります。これも純金で作られていました。契約の箱や供えのパンの机もそうでしたが、純金で作られているということは、キリストの神性を表していたということです。しかし、この燭台は槌で打って作られなければなりませんでした。槌とはハンマーのことです。ハンマーで打って作られました。金を溶かして、何か鋳物のような型にはめて作るのではなく、ハンマーでたたいて作らなければならなかったのです。このようにハンマーでたたいてということばを聞くと、皆さんの中には「ああ」と思う人がいるのではないでしょうか。そうです。このハンマーとは、イエス・キリストを十字架に釘付けしたあの時のハンマーのことです。ですから、そのハンマーで打ってというのは、キリストの十字架を表していたのです。ただハンマーに打たれて死んだだけでは意味がありません。イエスはその死からよみがえられました。ですから、この一連のことは、キリストの神性を表していたのです。それには、台座と支柱、がくと節、花弁がなければなりませんでした。がくとは花びらの外側にあるもので、節とは茎の中で、葉や芽が出る部分のことです。花弁とは花びらのことです。

32節をご覧ください。その燭台から左右3本ずつ枝が出ていました。一方の枝には、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある3つのがくを、また、もう一方の枝にも、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある3つのがくを付けました。そして、支柱と6つの枝の上に7つのともしび皿が載せられてありました。それらの節と枝とは燭台と一体にして、その全体を一つの純金で作らなければなりませんでした。その重さは1タラントです。約30㎏になります。純金30㎏というのは相当の価格です。

この燭台が指し示していたものとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。キリストは、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)言われました。暗やみの中の灯のように、イエス様が灯となって、私たちの進むべき道を照らしてくださいます。イエス様が私たちの光です。イエス様に従えば、決して道に迷うことなく、また空しくなることもなく、真実に生きることができるのです。私たちはその光を受けた者です。この世の光として、その光を輝かせなければなりません。

いったいどうしたら輝かすことができるのでしょうか?36節をご覧ください。この燭台は、支柱から出た6つの枝の節と枝と一体にして作らなければなりませんでした。それは、キリストと一つに結ばれていることを表しています。

イエス様はこう言われました。「5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」

つまり、キリストにとどまっていなければならないということです。キリストにとどまることによって、私たちはキリストと一つになることができます。そして、キリストのいのちにあずかることができるのです。キリストのように、キリストの光をこの世で輝かすことができるのです。しかし、そのためには二つのことが求められています。一つは、この燭台が槌で打って作られたように、キリストとともに打たれることを恐れてはならないということです。私たちはキリストの救いに与ったばかりでなく、その苦しみをも賜わりました(ピリピ1:29)。その苦しみこそ、私たちをご自身のように作り上げてくれる重要な要素なのです。

もう一つのことは、37節に「また、ともしび皿を七つ作る。ともしび皿は、その前方を照らすように上にあげる。」とあるように、油を絶やしてはならないということです。油とは何ですか。聖霊のことです。いつも聖霊に満たされ、その油によって、前方を照らさなければなりません。もし、その油の供給が弱い時には、芯切りばさみで芯を切ることも必要です。いつも主の前に悔い改め、聖霊の油を注いでいただき、前方を照らす者でありたいと思います。

ヨハネの福音書14章1~11節「心を騒がせてはなりません」

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 ヨハネの福音書14章に入ります。きょうのタイトルは、「心を騒がせてはなりません」です。今もそうですが、私たちの人生には心を騒がせることばかりです。そんな中にあってどうしたら心騒がせずにいられるのでしょうか。主からのメッセージをご一緒に聞きましょう。

 

 Ⅰ.心を騒がしてはなりません(1-3)

 

まず、1節から3節までをご覧ください。

「1あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

 

最後の晩餐の席で、イスカリオテのユダはイエスからパン切れを受け取ると、すぐにその場を出て行きました。するとイエスは、「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。」(13:31)と言われました。なぜユダが出て行ったことが人の子にとっての栄光なのでしょうか。それは前回のところでお話ししたように、イエスが十字架で死なれるからです。それは最初の人アダムとエバが罪を犯した時から、全人類を救うために神が計画しておられたことでした。それが今、成し遂げられようとしていたのです。それは父なる神にとっても同じです。イエスが十字架で死なれることによって、神がどのような方であるかがはっきりと示されることになります。つまり、十字架によって神の愛と神の恵みが、すべての人に明らかになります。ですから、十字架は人の子が栄光を受け、神もまた人の子によって栄光を受けられる時なのです。

 

しかし、イエスがそのように言いますと、イエスは不思議なことを言われました。それは、13:33にあるように、イエスはもう少しの間彼らとともにいますが、その後いなくなり、彼らがイエスを捜しても見つけることができないということでした。彼らはそこに来ることができないからです。いったいそれはどういうことか。シモン・ペテロは弟子たちを代表してイエスに尋ねました。「主よ、どこにおいでになるのですか」、「なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」するとイエスは彼にこう言われました。38節です。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

ペテロはイエスのためにいのちも捨てると言いましたが、そんなことできません。なぜなら、ペテロはイエスを裏切るようになるのですから。鶏が鳴く前に、彼は三度イエスを知らないと言うと預言されました。

これを聞いた弟子たちはますます不安になったことでしょう。これまで三年半の間ずっとイエスを信じてついて来たのに、いったいこれから先どうなってしまうのかと思うと心配でたまらなかったことと思います。

 

どんな人でも先が全く見えないと不安を感じるものです。この先どうなるのかが分かっていたら、だれも悩んだり、苦しんだりはしません。先が見えないからこそ不安になるのです。このような時、人はいろいろな方法で解決を模索します。ある人は、自暴自棄になりお酒などによって不安を紛らわそうとします。またある人は、考えても何の解決も見えないのだからできるだけ考えないようにしようとします。またある人は、それでも自分の力で何とか解決しようと必死になってもがきます。しかし、そこには何の解決もありません。なぜなら、そのようにして一時的に問題から逃れたとしても、依然としてそこに問題が残り続けるからです。ではどうしたら良いのでしょうか。どうしたら真の解決を得られるのでしょうか。神に信頼することです。神に信頼して、すべてを神にゆだねることなのです。なぜなら、神はすべてを支配しておられるお方だからです。その神を信じ、その神に避け所を求め、神によって解決を求めることです。そうすれば、問題それ自体と取り組んでも、自分の知恵や力によってではなく、全地全能の神の知恵と力によって解決をすることができるのです。

 

イエス様は、弟子たちが先行き不透明な中で不安に陥っていたとき、彼らにこのように言われました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1)

ここでイエスが言われた「心を騒がしてはなりません」という言葉は、このヨハネの福音書の中で何回も使われてきた言葉です。たとえば、11:33には、「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、」とありますが、この「心を騒がせて」がそれです。不思議なことに、ここで心を騒がせていたのはだれかというと、イエス様ご自身でした。愛する姉妹マルタとマリアの兄弟ラザロが死んで、彼らが泣いているのをご覧になられたイエスは、霊に憤りを感じ、心を騒がせました。この言葉は「タラッセッソー」というギリシャ語ですが、「悩ます」という意味の言葉です。イエスは死を支配している悪霊と対決しようとして心を騒がせたのです。また、13:21でもこの言葉が使われています。「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。」とあります。ここでも心を騒がせたのはイエス様でした。イエス様は、ご自分を裏切る者がいることを語られると、心を騒がせられたのです。3年余り自分のすぐそばにいてずっと親しく交わってきた者たちの中に自分を裏切る者がいるということは、どんな悲しかったことでしょう。そして何よりもそのことを悔い改めず、その結果永遠に滅びてしまうことを思うと、心を騒がせずにはいられなかったのです。

 

ここで「あなたがたは心を騒がせてはなりません」と言われたのは、イエス様ご自身です。それなのに、なぜイエス自身が心を騒がせたのでしょうか。そこに悪魔との戦いがあったからです。ラザロが死んだときは、死を支配している悪魔との戦いがありましたし、イスカリオテ・ユダの裏切りの背後にも、実は悪魔の働きがありました。確かにすべてのことが神のご支配にありますが、そうしたことの中には悪魔の働きがあるのです。ですから、私たちが心を騒がせる時というのは、そこに悪魔の力が働いている時なのです。どんな人でも悪魔が支配しているこの世にあっては、心を騒がせることで満ちているのです。

 

では、そのようなとき、私たちはどうしたら良いのでしょうか。ここには、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」とあります。自分が当面している問題の背後に悪魔の力を感じ、その悪魔と対決しなければならないとき、それを自分ひとりでしなければならないとしたら、不安で、心細くて、どうしようもないでしょう。しかし、この悪魔との戦いにおいて、主が私たちに代わって戦ってくださると信じ、この主に信頼し、主に身を寄せるなら、主が平安を与えてくださるのです。しかし、残念ながら、私たちがどんなにイエス様を信じているとは言っても、いざ現実の生活において問題に直面すると、そうした信仰はすぐにどこかへ吹っ飛んで行ってしまうのです。つまり、イエスを信じていない人と全く変わらない状態になってしまうのです。確かに、イエス様を信じて罪から救われ永遠のいのちが与えられていますが、この世にあっては不安と恐れに苛まれながら生きることになるのです。この時の弟子たちはそうでした。彼らもイエスを信じていました。しかし、そんな彼らに対してイエスは、「心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。それは、私たちが心を騒がせるような時、このことを一層はっきりと自覚する必要があったからです。自分ではイエス様を信じ、イエス様に信頼していると思っていても、実のところそうでないことがあるということを。日ごろイエス様に信頼している人でも、もう一度この原点に立ち返るとき、心の中から不安が消えていきます。これこそあらゆる問題の解決の原点なのです。

 

では、どうして神を信じ、またイエスを信じるなら不安や恐れが消え去るのでしょうか。ここが大切なポイントです。その理由が2節にあります。「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。」

「わたしの父の家」とは神の国、天国のことです。イエス様は、「わたしの父の家には住むところがたくさんあります。」と言われました。そこに彼らのために場所を用意するために行かれると言われたのです。つまり、私たちが生きているこの世にあっては、そこは悪魔が支配している所である以上、心を騒がせなければならないことがたくさんありますが、それをこの世という視点で見るのではなく、この世を越えた視点、天国という視点で、また現在という時間を越えた永遠という視点で見るなら、今まで問題だと思っていたことが、全く問題ではなくなってしまうということです。不思議ですね。あれほどイライラしていた気持ちが、いざ天を見上げたとたんスーっと静まっていくのを感じることがあります。これが、イエスが教えてくださった解決です。天の御国を見よ・・・と。

 

お花の師匠さんから聞いたことですが、花を生けるときは、まず、天を決めるということです。天を決めてから、上下左右に、様々なバランスをとっていく、ということでした。これは、私たちの人生においても言えることではないでしょうか。まず天を決めるのです。そこから上下左右、様々なバランスをとってゆくなら、人生のすべてが神の平安で満たされるのです。

 

イエス様は、山上の説教の中でこのように言われました。「25ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:25-34)

イエス様は、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」と言われました。まず天を決める、まず神の国とその義とを第一に求める。これが真の解決です。

 

時として、私たちの心を騒がせる問題は、住宅の悩みから来ることがあります。住む場所が狭かったり、物を置くスペースが足りなかったり、家中が物で溢れている、自分の居場所がないなどです。ある住宅メーカーのアンケートによると、現在の住まいで不満に思う点の1位は何だったかというと、男女ともにこれでした。「収納が足りない」38%です。2位以下は「庭・ベランダが活用できていない」31%、「狭い」30%、「キッチンの使い勝手が悪い」29%、「間取りが暮らしに合わない」27%となっています(SUVACOユーザ調査概要)。しかし、天国には、住む所がたくさんあります。その場所を備えるために、イエス様は父のもとに行くと言われたのです。そこはどのような所でしょうか?そこは、何か功績があった人や、特別に主と教会のために尽くした人だけが入ることができる場所ではありません。そこは、今この世のことで心を騒がしているような信仰の弱い者でも、ひとたび主の十字架の血によって罪を贖っていただいた者であれば、だれでも入ることができる所です。そのことを知ったらどうでしょう。本当に平安が与えられるのではないでしょうか。それこそ、この世の平安ではありません。神の平安、天から与えられる平安です。

 

そして主は、さらにこう言われました。3節、「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

天国は、イエス様が私たちのために用意してくださる所であり、イエス様がともにおられる所です。どんなに天国が光り輝く所であり、快適な暮らしであったとしても、主がともにおられるのでなければ、私たちのたましいは、決して満足を得ることはできません。なぜなら、私たちのたましいは、場所や環境によって満足するものではなく、主イエスご自身がともにおられることによって与えられるものだからです。

 

イエス様は、この天国に行って、場所を用意したら、また来て、あなたがたを迎えてくださいます。これは、主がもう一度来られる再臨の時か、もしくは、私たちのこの世での人生が終わる時かのいずれかの時のことです。いずれにせよ、主は私たちをこの天の御国に導いてくださるために、もう一度来てくださいます。ですから、この世にあってどんな患難があっても恐れることはありません。心を騒がせてはならないのです。心を騒がせるようなことが起こったから、神を信じ、またイエスに信頼すればいいのです。これは、今、世界中の人たちが聞かなければならない聖書のみことばであり、神からのメッセージです。

 

Ⅱ.わたしが道であり、いのちであり、真理なのです(4-6)

 

次に、4節から6節までをご覧ください。

「4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 

イエスは、ご自分がどこに行かれるのかを、すでに繰り返して、弟子たちに語って来られました。ですから、弟子たちはそのことを知っていたはずですが、これを聞いた弟子の一人のトマスは、イエスにこう言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

 

霊的な真理を語られたイエスに、トマスは「これからどこに行けばいいのかわからない」と言いました。ことばが噛み合っていません。トマスという名前を聞くと、皆さんがすぐに思い浮かぶのは、疑い深い人ということではないでしょうか。ヨハネ20章を見ると、イエスが復活したとき彼は、イエスが復活したということを他の弟子たちから聞いても信じることができませんでした。そしてこう言いました。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません。」(20:25)

随分現実的というか、疑い深い人ですね。そういうタイプの人がいます、というか、ほとんどの人がそうです。見ないと信じることができません。見ても信じない人もいます。ですから、トマスは私たちそのものなのです。イエス様が天国の話をしても、その意味を理解することができません。「主よ、どこに行ったらいいのですか。その道を教えてください。できれば地図に書いてもらえますか・・」。どちらかというと彼は、この世のことには長けていましたが、霊的なことには疎かったのです。

 

そこで、イエスはその道が何であるのかをはっきりと示されました。6節です。ご一緒に読みましょう。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

私たちはしばしば救いについて誤解し、どの宗教も結局最後に到達するのは同じ神様なのだから、何を信じても同じだと考えがちですが、そうではありません。イエスは、そのような考えをきっぱりと否定されました。そしてはっきりと、ご自分が道であり、真理であり、いのちであり、ご自分を通してでなければ、だれも父のもとに行くことはできないと言われたのです。このようなことを言うと、特に断定的な言い方を極端に嫌う日本人には、なんと排他的なんだろうと思われるかもしれませんが、イエスはこのようにはっきりと言われました。なぜイエスはこのように言われたのでしょうか。それは、ほんとうにイエスこそ道であり、真理であり、いのちであられる方だからです。

 

古来多くの人々が道について語ったり、示したりしてきました。また、真理について教えてきました。いのちに至る方法について説いてもきました。しかし、それらのものはすべて人間によって定められた道であり、真理であり、いのちにすぎません。しかし、イエスの場合はそうではなく、ご自身が道そのものであり、真理そのものであり、いのちそのものなのです。だから、このように宣言することができたのです。イエスが父なる神のみともに至る唯一の道であられるのは、イエスご自身が真理そのものであり、いのちそのものであられるからです。もっと別の言い方をするならば、イエス・キリストは神であられるということです。ですから、天地万物を造られた神のみもとに行こうと思うなら、この神が定めた方法でなければ行くことはできないのです。その方法とは何ですか?その方法とは、イエス・キリストです。神はご自身の御子イエスをこの世に遣わされ、この方によってご自分のところに来る道を用意されました。それが十字架と復活だったのです。

 

「御名を掲げて」という賛美は、このことを歌った賛美です。1989年、アメリカのリック・ファウンズによって書かれました。ファウンズは、朝の祈りの時に聖書を読みながらこの曲を作曲したと言われています。

御名をかかげて あなたをたたえます 救いのために あなたは来られた 救いの道を与えに 天よりくだり 来られた 十字架により いのちあがない よみがえられた

 

キリストは、私たちを罪から救うために天から来られました。それは十字架による罪の贖いと、三日目によみがえられることによって完成されました。これが、私たちが救われるために神が計画しておられたことだったのです。ですから、使徒たちはこのように宣言したのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)私たちが救われるべき名は、すなわち、私たちが天国に入れていただくためには、この御名を信じなければならないのです。

 

あなたはこの御名を信じましたか。信じて、罪を赦していただきましたか。神の子どもとされましたか。イエスが道であり、真理であり、いのちなのです。この方以外には、だれによっても救いはありません。このイエスの御名を信じて、天の御国に入れていただきましょう。そうすれば、あなたも天国の視点で物事を見ることができるようになり、すべての不安と恐れは消え去るのです。

 

Ⅲ.わたしを見た人は、父を見たのです(7-11)

 

最後に、7節から11節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。

「7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

 

今度は別の弟子のピリポです。イエス様が、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」と言われると、その父を見せてくださいと言いました。そうすれば、満足しますと。おそらく、ピリポが想定したのは、かつてモーセが見たような神の栄光のことでしょう。神は霊ですから、肉眼で見ることはできません。ならば神の臨在の象徴である神の栄光を見せてくださいと言ったのです。そうすれば、満足します。そうすれば、確かに神がおられることを信じることができます。

 

私がイエス様を信じたのは18歳の時でした。今の妻に誘われて教会に導かれましたが、最初はなかなか信じることができませんでした。だって信仰って一生もんでしょう。そんな大切なことをそう簡単には決断できないと思ったのです。私にも将来がありました。前途が希望に満ちていました。その将来を輝かしいものとするために絶対に道を誤りたくないと思ったのです。ですから、当時通っていた教会の牧師に「イエス様を信じてください」と言われても、なかなか信じることができませんでした。でも教会に行き始めて半年くらい過ぎた頃、私はどちらの道に進むのかを決めなければならないと思いました。すなわち、イエス様を信じるのか、信じないのかということです。それで、ある晩布団に入った時ピリポのように祈りました。「主よ。私に父を見せてください。そうすれば満足します。」実際にこの眼で見たら信じられるのではないかと思ったのです。するとどうでしょう。障子越しに月の明かりが部屋の中を照らしました。まさにイエス様が現れるような雰囲気でした。私は心の中で祈り続けました。「イエス様、イエス様、今です。どうぞ来てください。ここに現われてください。」しかし、何分待っても現れませんでした。結局、残ったのは寝不足だけでした。よく考えてみたら、神は霊ですから、私たちが思っているような形で現れることはないのです。大切は見て信じるのではなく、見ないで信じることです。幸い、神はこんな肉にすぎない私に聖霊を通して信仰を与えてくださいました。そして、イエス様を信じますと告白した時から、実にたくさん、いろいろな時にご自身の栄光を見させてくださいました。特に、聖書のみことばを学ぶとき、そこにはっきりとご自身を現わしてくださいました。神は見ることができませんが、神を信じる者にご自身を見せてくださるのです。ですから、見ないと信じないというではなく、見ないでも信じる人は幸いです。見ないで信じる人に、主はご自身を見せてくださるからです。

 

そんなピリポに対して、主は何と言われましたか。9節から11節をご覧ください。

「イエスは彼に言われた。「9ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。10わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。11わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」

イエス様はピリポの質問に驚かれました。こんなに長い間、彼らと一緒にいたのに、イエスを知らなかったからです。彼らはイエスとともに長い間生活し、イエスの教えを聞き、イエスの奇跡を見、イエスの人格に触れました。それなのに彼らはイエスを知らなかったのです。もし知っていたのなら、「私たちに父を見せてください」とは言わなかったでしょう。なぜなら、イエスを見た者は、父を見たのだからです。

 

ヘブル書1:3には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」とあります。イエスは神の栄光の輝きであり、また神の本質の完全な現われなのです。ですから、この方を見た者は、父を見たのと同じなのです。

 

あなたがたは、神が分からないと言っているけれども、すごく簡単でしょう。なぜなら、あなたが見ているこのわたしが、神を現わしているのだから。ほら、わたしを見てごらん。ここに神がいるんですよ、そうおっしゃっているのです。私たちは、自分の経験をとおして、自分なりの勝手な神概念を持っていますが、でも本当にあなたが神を見たいと思うなら、イエスを見なければなりません。なぜなら、イエスこそ神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れだからです。イエスを見るなら、神がどのような方かを、はっきり見ることができます。

 

最後にイエスは、「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」と言われました。

トマスやピリポのような人は、今でもたくさんいます。懐疑的で、自分の目で見なければ信じないという人たちです。でも、イエスを見る人は、父を見るのです。イエスこそ、道であり、真理であり、いのちです。天国に至る唯一の道なのです。この方を信じるなら、何を恐れたり、心配したりする必要があるでしょうか。この方は私たちを天の御国に導いてくださいます。私たちが信頼すべきお方、それは私たちの救い主イエス・キリストです。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われる主イエスに信頼し、先が見えないこの不透明な時代にあっても、天から与えられる希望と平安をもって歩ませていただこうではありませんか。

Ⅰサムエル記17章41~58節

今回は、サムエル記第一17章後半から学びます。イスラエルの陣営に炒り麦とパン、そしてチーズを届けるように父エッサイから依頼されたダビデは、戦地でペリシテ人の巨人ゴリヤテが、イスラエル人を脅しているのを見ました。それを見たイスラエルの人々は、脅えて戦う意欲を失っていましたが、ダビデは「この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神をそしるとは。」と言って、信仰によって立ち向かいました。

 

Ⅰ.石投げを手にして(31-40)

 

まず、31~40節までをご覧ください。

「31 ダビデが言ったことは人々の耳に入り、サウルに告げられた。それで、サウルはダビデを呼び寄せた。32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。」33 サウルはダビデに言った。「おまえは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。おまえはまだ若いし、あれは若いときから戦士だったのだから。」34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」37 そして、ダビデは言った。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主がおまえとともにいてくださるように。」38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである。39 ダビデは、そのよろいの上にサウルの剣を帯びた。慣れていなかったので、ためしに歩いてみた。ダビデはサウルに言った。「これらのものを着けては、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれを脱いだ。40 そして自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行った。」

 

ダビデが言ったことはサウルの耳に入り、彼はサウルに呼び寄せられました。そこでダビデが言ったことは、自分が出て行って、あのペリシテ人と戦うということでした。当然、サウルはダビデのことばを受け入れることはできませんでした。なぜなら、ダビデはまだ若く、戦いの経験もなかったからです。一方、ゴリヤテは若い時から戦士でした。いわゆる百戦錬磨です。そんな相手にどうやって戦うというのでしょう。無理だ、できない、というのがサウルの反応でした。

 

それに対してダビデはこう言いました。34節から36節までです。「34しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」

そして、こう言いました。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」(37)

何という信仰でしょうか。彼はすでに主にあって戦ってきました。その戦いは、父の羊の群れを守るために、獅子や熊と戦いうというものでしたが、相手が獅子でも熊でも自分に襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、その口から羊を救い出しました。けれども、今回の戦いは、生ける神の陣をそしった無割礼のペリシテ人ゴリヤテとの戦いです。主が助けてくださらないわけがありません。獅子や熊の爪から救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも必ず救い出してくださいます。

ほんとうに、見上げた信仰です。ダビデは敵の大きさとか、強さなどを全く見ませんでした。彼が見たのは、これまでずっと自分を支え、救い出してくださった、真実な力ある主ご自身でした。人を見たら罠にかかります。しかし、主に信頼するものは守られます。

 

イエス様を乗せ舟でガリラヤ湖を渡っていた弟子たちが、突然、激しい嵐にあい、湖で転覆しそうなとき、彼らがパニックを起こしたのはなぜでしょうか。それは彼らが嵐の大きさに目を奪われてしまい、そこに嵐を静めることのできるお方がいることを見なかったからです。私たちの神、主は、どんな嵐をも静める力を持っておられる方です。この方が私たちともにおられるのです。であれば、何を恐れる必要があるでしょうか。私たちが見なければならないのは目の前の嵐ではなく、その嵐を静めることができる神ご自身なのです。

 

ダビデの話を聞いて納得したサウルは、ダビデを代表戦士として戦場に送ることに同意しました。ダビデの熱意に並々ならぬものを感じたのでしょう。それでサウルは自分のよろいかぶとと剣を与えました。しかし、武具に慣れていなかったダビデは、ためしに歩いてみましたが、まともに歩くことができなかったので、「これらのものを着けては、歩くことができません。」と言って、脱ぎました。そして自分の杖を手に取り、川から5つの滑らかな石を選び、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、ゴリヤテに近づいて行くことにしました。ここに教訓があります。つまり、借物では、戦うことができないということです。それがどんなに立派な武具でも人のもので戦うことはできないのです。自分の武器で戦わなければなりません。人にはみなそれぞれに合った戦い方があります。そのやり方で戦わなければ実力を発揮することができないのです。また、それが仮にどんなに質素なものであっても、自分の武器こそが最高に用いられます。むしろ武器が貧弱であればあるほど、勝利した時に神の御名が称えられることになります。あなたの武器は何ですか。主の御名の栄光のために、自分の武器を取り、信仰をもって戦おうではありませんか。

 

Ⅱ.万軍の主の御名によって(41-47)

 

次に、41節から47節までをご覧ください。

「41 そのペリシテ人は盾持ちを前に立て、ダビデの方にじりじりと進んで来た。42 ペリシテ人は、ダビデに目を留めて彼を見つめ、彼を蔑んだ。ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったからである。43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬か。杖を持って向かって来るとは。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪った。44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。46 今日、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」

 

ペリシテ人ゴリヤテが盾持ちを前に立て、ダビデの方に近づいて来ると、ダビデに目を留め、彼を見つめて、蔑みました。ゴリヤテにとっては拍子抜けでした。紅顔の美少年が、しかも羊の番の格好でやってきたからです。そんなダビデにゴリヤテが言いました。「おれは犬か。」当時、「犬」ということばは人を侮辱することばとしても使われました。そして、自分の神々によってダビデをのろいました。自分たちの神々とは、ダゴンの神のことです。ダゴンとは、魚の下半身に人間の上半身をもった姿をしている神で、「魚の偶像」だとも「穀物の神」だともいわれており、豊穣の神としてペリシテ人に拝まれていました。その神々の名によってのろったのです。

 

一方、ダビデはどうだったでしょうか。彼はゴリヤテに、「45おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。46 今日、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(45-47)と言いました。ゴリヤテは、剣と槍と投げ槍をもって向かってくるが、ダビデの武器は、万軍の主の御名でした。彼は、この戦いが主の戦いであることを認識していたのです。つまり、これがペリシテ人の偶像とイスラエルの神との戦いであるということです。そして、主は必ず勝利を与えてくださいます。その結果、ゴリヤテの体は頭と胴体が切り離され、ペリシテ人の軍勢の屍は、空の鳥、地の獣の餌食となります。そして、すべての国は、イスラエルに神がおられるということを知ることになります。

 

詩篇20:7には、「ある者は戦車をある者は馬を求める。しかし私たちは私たちの神、主の御名を呼び求める。」とあります。まさにダビデの戦いがこれでした。彼は戦車や馬ではなく、主の御名を呼び求めました。万軍の主の御名によって戦ったのです。私たちに求められているのはこれでしょう。科学が進歩すると、あたかもそれがすべてであるかのように思われがちな現代にあって、実はそうしたものが逆に社会を混乱させていることも事実です。昭和、平成、令和と時代が進んでくる中で、どんなにITが進歩してきても、かえって社会がおかしくなってきたということを多くの人が感じているのではないでしょうか。ある者は戦車を、ある者は馬を求めますが、しかし私たちが求めるのは、私たちの神、主の御名なのです。これに勝る武具はありません。

 

パウロはエペソ人への手紙で、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(6:12)と言っています。ダビデは自分の戦いが、剣や盾のような物質的なものによる戦いなのではなく、霊の戦いであることを認識していました。私たちの戦いも同じです。血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものなのです。このことに気付いているかどうかです。自分がいま直面している問題が、物理的、肉体的なものではなく、霊的なものであることに気付き、それに対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取らなければなりません。それが真理であり、正義、平和の福音、信仰、救い、御霊の剣である神のことば、そして祈りなのです。すなわち、万軍の主の御名による戦いなのです。

 

Ⅲ.ダビデの勝利(48-58)

 

その結果、どうなったでしょうか。48節から58節までをご覧ください。

「48 そのとき、そのペリシテ人はダビデの方に近づき始めた。ダビデは、すばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。49 ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。50 ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人に勝ち、このペリシテ人を撃って、彼を殺した。ダビデの手に剣はなかったが。51 ダビデは走って行ってペリシテ人の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、自分たちの勇士が死んだのを見て逃げた。52 イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガイの谷間に至るまで、そしてエクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムの道に、ガテとエクロンに至るまで、刺し殺されて倒れていた。53 イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。54 ダビデは、あのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰った。しかし、武具は自分の天幕に置いた。55 サウルは、ダビデがあのペリシテ人に向かって出て行くのを見たとき、軍の長アブネルに言った。「アブネル、あの若者はだれの息子か。」アブネルは言った。「王様、お誓いしますが、私は存じません。」56 そこで、王は命じた。「あなたは、あの少年がだれの息子かを調べなさい。」57 ダビデがペリシテ人を討ち取って帰って来たとき、アブネルは彼をサウルの前に連れて来た。ダビデはペリシテ人の首を手にしていた。58 サウルは彼に言った。「若者よ、おまえはだれの息子か。」ダビデは言った。「あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの息子です。」

 

ペリシテ人ゴリヤテがダビデの方に近づいて来ると、ダビデはすばやく戦場を走って行き、ゴリヤテに立ち向かいました。彼は手を袋の中に入れ、石を一つ取り出すと、それを石投げの中に入れ、それを放って、ゴリヤテの額に命中させました。すると石は額に食い込み、ゴリヤテはうつぶせに地面に倒れました。完全武装していたゴリヤテも、顔だけは隠すことができませんでした。ダビデはゴリヤテのところに走って行くと、彼の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねました。ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人ゴリヤテに勝ったのです。ペリシテ人たちは、自分たちの勇士が死んだのを見ると逃げ出しましたが、追って来たイスラエル人に打たれたので倒れ、空の鳥や野の獣のえじきとなりました。ダビデは、ゴリヤテの首を取ってエルサレムに持ち帰りましたが、武具は自分の天幕に置きました。

 

サウルは、将軍アブネルにダビデのことを尋ねています。それは、あのペリシテ人を倒した者には自分の娘を与え、その父の家には税を課さないと約束していたからです。彼は自分の将来の婿がどのような人物なのかを知ろうとしたのでしょう。しかし、アブネルはダビデについて詳しいことを知りませんでした。そこでアブネルがサウルの前に連れて来ると、ダビデはペリシテ人の首を手にしていました。

 

サウルはダビデに、「若者よ、おまえはだれの息子か」と尋ねました。だれの息子かって、もう何度も彼のそばで竪琴を弾いては、彼にわざわいをもたらす霊を静め、穏やかにしてきたではありませんか。それなのに、お前はだれの息子かと聞くのは変です。実のことろ、彼はダビデを音楽療法士として知ってはいましたが、さほどの関心を示していなかったのです。

 

新約聖書を見ると、イエス様も同じであったことがわかります。ナザレ人たちがイエスにつまずいたのは、彼らがあまりにもイエスの近くにいたからです。サウルはダビデがあまりにも近くにいたので、その賜物と人物を見抜くことができませんでした。私たちも主のみわざがあまりにも近くで行われているために、その祝福が見えなくなっていることがあります。そういうことがないように、いつも自分のそばで働いておられる主の恵みを数えて感謝しようではありませんか。

ヨハネの福音書20章1~18節 「なぜ泣いているのですか」

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イースターおめでとうございます。私たちは今日、特別の日を迎えました。イエス・キリストがよみがえられた日です。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られました。葬られたというのは、完全に死んだということです。しかし、キリストは聖書に書いてあるとおりに三日目に墓からよみがえられました。そして、それが事実であることを示すために、12人の弟子たちをはじめ、多くの人たちに現われてくださったのです。これが、最も大切なこととして聖書が私たちに教えていること、良い知らせ、福音です。今朝は、この復活のキリストについて、ヨハネの福音書から一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.見て、信じた(1-10)

 

まず、1節から10節までをご覧ください。1,2節をお読みします。

「1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」」

 

「週の初めの日」とは日曜日のことです。朝早くまだ薄暗いうちに、マグダラのマリアはイエスが葬られていた墓に行きました。他の福音書を見ると、他に2人の女たちが一緒であったことがわかります。彼女たちは、イエスが十字架につけられたときもずっと十字架のそばにいました。そして、イエスのからだが十字架につけられた場所の近くの墓に納められるのを確認すると、安息日が明けるのを待って墓に向かって行きました。いったいなぜ彼女たちは墓に行ったのでしょうか。マルコ16:1には、「イエスに油を塗りに行こうと思い」とあります。イエスが十字架で死なれた直後、イエスの身体には香料が塗られましたが、十分ではないと思ったのでしょう。その女たちの中で、ヨハネはマグダラのマリアにスポットを当てています。なぜ彼女にスポットを当てたのかはわかりません。おそらく、彼女はキリストと出会い、その人生が大きく変えられたからだと思います。

 

彼女は、かつて悲惨な人生を歩んでいました。ルカ8:2を見ると、彼女は七つの悪霊につかれていました。一つや二つではありません。七つです。尋常ではありません。そのため彼女は、非常に苦しい日々を過ごしていました。その彼女がイエス様によって悪霊を追い出してもらったのです。どれほどうれしかったことでしょう。彼女は悪霊から解放されるとイエスに従い、イエスに仕えました。彼女はだれよりもイエスを愛していました。というのは、だれよりも多く赦されたと感じていたからです。ルカの福音書7章には、イエスがパリサイ人シモンの家に招かれ食事をしたときのことが記されてあります。そこに一人の罪深い女が香油の入った石膏の壺を持ってイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐいました。そして、その足に口づけして香油を塗ったのです。その罪深い女とはこのマグダラのマリアでした。パリサイ人シモンはそれを見て、心の中でこう思っていました。「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるかを知っているはずだ。この女は罪深いのだから。」(ルカ7:39)すると、イエスはあの有名なたとえ話を語りました。500デナリを借りている人と50デナリを借りている人がいてどちらも返すことができなかったので、金貸しが二人とも借金を帳消しにしてやると、この二人のうちどちらが金貸しをより多く愛するようになるかという話でした。「より多く帳消しにしてもらった方だと思います」とシモンが答えると、イエスは彼に、「あなたの判断は正しい」と言われました。そして、彼女がこのようなことをしたのは、彼女の多くの罪が赦されたからだ、と言われたのです。なぜなら、多く赦された者は多く愛しますが、少ししか赦されない者は少ししか愛さないからです。すなわち、彼女は多く赦されたので、多く愛したのです。彼女は他の女たちと一緒に十字架でのイエスの死を最後まで見届けました。自分の愛する主が死んでしまったことで、彼女の心は悲しみで一杯でした。ですから彼女は、安息日が終わるやいなや墓に向かって行ったです。

 

墓に行ってみると、墓を塞いでいた大きな石が取りのけられているのを見ました。すると彼女は中を確認することもしないで、走って、シモン・ペテロとイエスが愛されたもう一人の弟子、これはこの福音書を書いているヨハネのことですが、彼らのところに行って、「だれかが墓から主を取って行きました」と告げました。彼女の頭の中にはイエスが復活したという考えはこれっぽっちもありませんでした。ふっかつの「ふ」の字もなかったのです。

 

3節から8節までをご覧ください。

「3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。」

 

そこで、ペテロともう一人の弟子のヨハネは外に出て、急いで墓に行きました。二人は一緒に走りましたが、ヨハネの方がペテロよりも速かったので先に墓に着きました。ヨハネの方が若かったからでしょう。この時ヨハネは20代、ペテロは30代後半ぐらいだったと思われます。30代も後半になると。息が切れて早く走ることができなくなります。思っているように走れないのです。それで、ヨハネの方が先に着きました。ヨハネは墓に着くと身をかがめて中を見ましたが、中には入りませんでした。なぜでしょう。ヨハネはそういう性格だったからです。そういう人がいます。石橋をたたいて渡るような人です。世の中にはいろいろな人がいます。石橋をたたいて渡る人、石橋をたたいても渡らない人、石橋をたたかずともさっさと渡る人です。ヨハネは石橋をたたいて渡る人でした。慎重に行動するタイプだったのです。だから、亜麻布が置いてあるのが見えましたが、中には入らなかったのです。

 

一方ペテロはというと、石橋をたたかずとも渡る人でした。彼はヨハネよりも遅れて墓に着きましたが、墓に着くなりさっさと中に入って行きました。慎重なタイプの人と突進するタイプの人がいるとしたら、彼は突進するタイプの人でした。私みたいな人間です。ペテロを見ていると自分を見ているような気がします。闘牛のように突進していきます。彼が中に入って行くとどうでしょう。そこには亜麻布が置いてありましたが、不思議なことに、イエスの頭を包んでいた布とイエスのからだを包んでいた布が、離れたところに置いてありました。しかも、きちんと丸めてです。いったいこれはどういうことか。このような番組がありますね。様々なミステリー事件の真相を、手がかりをもとに解明していく推理バラエティーです。「誰が?」「なぜ?」「どのように犯行を行ったのか?」という情報を基に、事件の解決に挑戦していくのです。ここでは、墓の中に入ってみるとイエスのからだがなく、そこにあったのは亜麻布だけ。しかも、その亜麻布は頭を包んでいた布と、からだを包んでいた布が離れたところにあった。しかも、それぞれの布はちゃんと丸めてありました。いったいこれはどういうことか?もし誰かがイエスのからだを盗んで行ったとしたら、こんな手のこんだことをするでしょうか。しません。からだに巻かれていた布は、香料や没薬が染み付いてベトベトになっていたはずです。それをわざわざほどいて、しかも丁寧に丸めて置いておくようなことをする人はいません。ただそのまま運べば良かったのですから。しかし、イエスの頭を包んでいた布とからだを包んでいた布とは、離れたところに別々に置いてありました。そこにあるはずのイエスのからだだけが消えて無くなっていたのです。いったいこれはどういうことでしょうか?

 

8節をご覧ください。そのとき、先に墓に着いていたヨハネも中に入りました。そして、見て、信じました。いったい何を信じたのでしょうか。ヨハネはその状況をつぶさに見て、イエスがよみがえられたと信じたのです。確かにそこにイエスのからだがありませんでした。マグダラのマリアは、だれかが墓から主を取って行ったと言うけれども、現場の状況から見てあり得ないことです。だって、イエスの頭を包んでいた布とからだを包んでいた布が別々に、離れたところに置いてあったんですから。しかも、丁寧に丸めて。もしマリアが言うようにだれかがイエスのからだを盗んで行ったとしたら、そんな手の込んだことはしないでしょう。しかも、墓を見守っていた番兵たちもいないのです。墓を塞いでいた大きな石は脇に転がしてありました。これらの物的証拠を検証すれば、導かれる結論は一つしかありません。それは、イエスはよみがえられたということです。ヨハネは、それを見て、信じたのです。ただ感情的にそう思ったのではなく、一つ一つの証拠を見て、そのように判断したのです。

 

皆さん、私たちが何かを見るという時、いろいろな見方があります。たとえば、ただ何となく見るということがあります。その場合は、ぼんやり見ています。そのように見ながら、「あ、ここにマイクがある」「ここに講壇がある」と認識しているのです。しかし、もう一つの見方があります。それはじっと見るとか、注意深く見るということです。それがどんなものなのかを観察するわけです。ヨハネが見たのはこれでした。彼はただぼんやりと見たのではなく、注意深く見ました。マグダラのマリアは、イエスのからだが無いのを見てだれかが取って行ったと思いましたが、ヨハネはその状況を注意深く見て、そうではないと判断したのです。そして、イエスはよみがえられたと結論付けたのです。でも確かなことはまだわかりません。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書のことばを、まだ理解していなかったからです。

 

Ⅱ.なぜ泣いているのですか(11-16)

 

一方、マリアはどうだったでしょうか。11節から16節までをご覧ください。

「11一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。」

ペテロとヨハネは、自分たちのところに帰って行きました。彼らはイエスがよみがえらなければならないという聖書のことばを、まだ理解していませんでした。一方、マグダラのマリアは墓の外にたたずんで泣いていました。彼女がどれだけイエスを思っていたのか、愛していたのかがわかります。愛する方が亡くなり、そのからだがないのです。いったいどこに行ってしまったのか。帰ろうにも帰れません。帰りたくない。そして泣きながら、からだをかがめて墓の中を覗き込んだのです。すると、イエスのからだが置かれてあった場所に、白い衣を着た二人の御使いが座っていました。一人は頭のところに、もう一人は足のところに。彼らはマリアに言いました。「女の方、なぜ泣いているのですか。」普通だったらその光景に驚いて「これは夢か幻か、あなたはだれですか。これは現実ですか」とか言ってもおかしくなかったでしょうが、彼女にとって天使なんてどうでも良いことでした。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわかりません。」(13)と、主のからだが無いという状況にただうろたえるばかりでした。

 

そのときです。彼女がこう言ってうしろを振り向くと、そこにイエスが立っているのを見ました。しかし、彼女にはそれがイエスであることがわかりませんでした。もしかすると、朝早かったので寝ぼけていたのかもしれません。あるいは、入口の方が明るくて、立っている人が黒く見えたのかもしれません。いや、涙で目が曇っていてはっきり見えなかったのでしょう。ただ一つはっきりと言えることは、彼女の悲しみは、そこにいる人がだれであるのかがわからないほどのものであったということです。

 

それで、イエスは彼女に言われました。15節です。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」イエスは決してマリアが泣いている理由がわからなかったわけではありません。イエスはマリアの気持ちを全部ご存知の上でこのように言われたのです。

 

マリアは、イエスのからだがだれかに盗まれたと思っていました。それで悲しんでいたのです。しかし、今は悲しむ時ではありません。今は喜ぶ時です。なぜなら、その主イエスがここにいるからです。主はよみがえりました。それなのに、なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。彼女が捜していたのは死んだイエスのからだでした。しかし、イエスはよみがえられたのです。よみがえられて、今、あなたの目の前に立っています。なぜ泣いているのですか。彼女はイエスが目の前に立っているにもかかわらず、イエスが復活したことを認めることができず、そこにいるのは園の管理人だと思っていたのでずっと泣いていたのです。そして、その人にこう言いました。

「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのかを教えてください。私が引き取ります。」

おじさん、頼みます。教えてください。あなたじゃないんですか、主のおからだを運び去ったのは・・。彼女の目は涙で曇っていたので、はっきり見ることができませんでした。

 

しかし、そんな彼女の目が開かれる時がやって来ます。それは、イエスが彼女の名前を呼ばれた時です。16節、「イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、へブル語で「ラボに。」、すなわち「先生」とイエスに言った。」

 

イエスは彼女の名前を呼ばれました。ヨハネ10:3には、「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」とあります。良い牧者は羊たちの名前を呼んで連れ出しますが、羊たちはその声を知っているのです。

先日、久しぶりに下の娘が家に戻りました。いつも忙しくてなかなか戻って来ないのですが、久しぶりに3~4日ゆっくりしていきました。しかし、今回は一人ではありませんでした。チワワという愛犬を連れて来たのです。名前は「ラブ」です。それがなかなかかわいいのです。でも「ラブ」なんて呼びたくなかったので、「チワ」と呼んだら全然反応してくれないのです。「チワ、こっちおいで。頼むから」と言っても来ない。でも娘が「ラブ」と呼ぶと、しっぽをふって喜んでついて行きます。どこまでも。トイレに行く時にもリビングから出ないようにドアを閉めると、「クーン、クーン」と泣くのです。娘を愛しているのです。そっちの主人よりも、こっちの主人の方がいいよ、と言っても見向きもしません。娘の話ではうるさい人は嫌いだそうで、かえって脅えるというのです。だから、静かに「チワちゃん」で呼んでみましたが、やはりだめでした。チワワは、主人の声を知っていたのです。同じように、羊たちは、牧者の声を聞き分けます。イエス様が「マリア」と呼ばれると、彼女はそれがイエス様だとすぐにわかりました。それで、「ラボニ」、すなわち「先生」と言ったのです。イエス様がマリアの名前を呼ばれたとき、マリアの心の眼が開かれたのです。当時、「マリア」という名前の人はたくさんいました。この朝イエスの墓に一緒に行ったのも、もう一人のマリアと一緒でした。ヤコブの母マリアですね。ですから、当時マリアという名前の人はたくさんいましたが、マグダラのマリアは「マリア」と呼ばれたとき、彼女はそれがイエス様だとすぐに気付いたのです。

 

イエス様はマリアの名前を呼ばれたように、あなたの名前も呼んでくださいます。私は時々イエス様が自分の名前を呼ばれる時のことを想像することがあります。「トミオ→」「トミオ↑」「トミオ↓」「トミオ 」イントネーションによって受け止め方も全然違いますね。きっとマリアを呼ばれた時は、優しく呼ばれたことでしょう。「マリア」。主は、私たちの名前も優しく呼んでくださいます。それによってどれほど慰められることでしょうか。どれほど勇気づけられることか。イザヤ42:1~5にこうあります。

「1 だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。3 わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」(イザヤ43:1-5a)

あなたを創造され、あなたを形造られた主があなたの名前を呼び、「恐れるな」と言ってくださいます。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」と言ってくださる。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言ってくださるのです。私たちの人生には悲しみで涙するようなことがどれほどあるでしょう。しかし、私たちの救い主イエス・キリストは死からよみがえられ、あなたの名前を呼んでくださるのです。この主の御声を聞きながら歩めることはどんなに感謝なことでしょうか。

 

Ⅲ.すがりついてはいけません(17-18)

 

最後に、17節と18節を見て終わります。

「17イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。」

 

マリアは、自分の名前を呼ばれるとそれがイエスであることがわかり、うれしくて、うれしくて、イエス様にすがりつこうとしました。するとイエスは言われました。「わたしにすがりついてはいけません」触れると汚れてしまうからではありません。事実、この後でイエス様は疑い深いトマスにご自身を現されたとき、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」(27)と言っています。ですから、触れることが問題ではなかったのです。では何が問題だったのかというと、イエスがまだ父のもとに上っていなかったということです。父のもとに上って行かないと、神との和解が成立しないからです。天に上り、父なる神の右の座に着かれることによって、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれ、よみがえられたことが本当であることが証明されるのです。どうしてそれで召命されるのかというと、イエスが約束された聖霊が来られるからです。約束の聖霊が遣わされることによって、確かにイエスは罪の赦しのために十字架で死なれ、その死の中からよみがえられたということがわかるのです。つまり、イエスは確かに救いの御業を完成したことがわかるのです。ですから、イエス様は17節でこう言われたのです。

「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

 

このようにして、マグダラのマリアは、復活の最初の目撃者として弟子たちのところに遣わされました。イエス様が復活して最初にご自身を現されたのは、このマグダラのマリアだったのです。それは一番弟子のペテロでも、イエスに愛された弟子のヨハネでもなく、ましてや、イエス様を十字架につけた祭司長や律法学者たちでもなく、たった一人の罪深い女性、マグダラのマリアにご自身を現されたのです。イエスに敵対する者は、復活したイエスを見ることができませんでしたが、ただイエス様を心から愛する者にご自身を現されたのです。主の復活を見たのは、主を愛する者だけだったのです。

 

ヨハネ14:18~21を開いてください。ここには、「18わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」」とあります。イエス様は、ご自身を愛する者にご自身を現してくださるのです。

 

マグダラのマリアは、イエスを失い、深い悲しみの中に沈んでいました。しかし、イエスが彼女に現われてくださいました。そのことがわかったとき、彼女の悲しみは飛び上がるほどの喜びに変えられました。当の本人は、イエス様が目の前にいるにもかかわらず、それがイエス様だとわかりませんでした。涙で心の目が曇っていたからです。しかし、イエス様に名前を呼ばれたとき、それがイエス様だとはっきりわかりました。

 

皆さんはどうですか。マリアが深い悲しみで涙していたように、不安や悲しみに押しつぶされてはいないでしょうか。でも、イエス様はよみがえられました。そして、こう言われます。

「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」

主は、あなたの名前を呼ばれます。イエス様は復活して、あなたのうしろに立っておられるのです。あなたがこの復活の主イエスを信じ、主があなたとともにおられることを信じるなら、確かに不安や恐れはあるでしょうが、主がその涙をすっかり拭ってくださいます。なぜなら、キリストは死からよみがえられたからです。主はあなたを捨てて、孤児とはしません。もはやあなたは1人ではありません。復活したイエス・キリストがいつまでもあなたとともにおられます。このことがわかれば、どのような問題も、どのような困難も、どのような悲しみも必ず乗り越えることができます。

今、国中が、いや全世界がコロナウイルスの脅威にさらされています。現状を見れば恐れ以外の何ものでもないでしょう。しかし、復活された主を見るなら、そこに希望を見いだすことができます。なぜなら、そこに真の解決があるからです。いずれ、この感染症も終息するでしょう。しかし、それは最終的な解決と希望ではありません。なぜなら、もっと困難な時代を迎えることになるからです。しかし、クリスチャンにとってどんなに困難な時代がやって来ても、恐れる必要はありません。最終的な希望がどこにあるのかを知っているからです。それはキリストの再臨です。イエス様は、ルカ21:28でこう言われました。

「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」

「これらのこと」とは、終末に起こるしるしのことです。これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなければなりません。あなたがたの贖いが近づいているのですから。ですから、これらのことは、クリスチャンにとっては贖いが近づいているしるしなのです。それは救いの完成の時であり、クリスチャンにとっての希望の時です。その時が近づいているのです。最終的な希望がどこにあるのかを聖書から教えられ今を生きることができるというのは、何と幸いなことでしょうか。そこに希望を持つことができるからです。キリストはそのためによみがえられました。永遠のいのちが与えられている私たちは、この困難の先にある再臨の希望を確信して生きることができるのです。

沖縄にある「オリブ山病院」の理事長で、読谷(よみたん)バプテスト伝道所の牧師である田頭真一(たがみ・しんいち)先生は、このように言っておられます。「最大の問題は新型コロナウイルスで死ぬことではなく、イエス・キリストを知らずして死ぬことです。最大の希望は感染が終息することではなく、再臨のイエス・キリストをお迎えすることなのです。」アーメン。

「なぜ泣いているのですか」「だれを捜しているのですか」主はよみがえられました。あなたの名を呼んでおられます。その御声を聞き、主があなたと共におられることを信じてください。あなたもこの希望に生きることができますように。

出エジプト記24章

出エジプト記24章から学びます。エジプトから救い出されたイスラエルの民に対して主は、「もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(19:5-6)と言われました。その神の声、神のことばとは何か。それが20章から23章まで語られた十戒めとそれに付加された定めです。神との契約における次のステップは何でしょうか。それは、イスラエルの民の応答です。もしそれに同意すれば、彼らは神との契約関係に入ることになります。

 

Ⅰ.遠く離れて伏し拝め(1-3)

 

まず、1節から3節までをご覧ください。  「1 主はモーセに言われた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のもとへ上って来て、遠く離れて伏し拝め。2 モーセだけが主のもとに近づけ。ほかの者は近づいてはならない。民はモーセと一緒に上って来てはならない。」3 モーセは来て、主のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「主の言われたことはすべて行います。」  主はモーセに、彼とアロン、それにナダブとアビフ、それにイスラエルの長老70人と、主のもとに上って来て、遠く離れて伏し拝むようにと言われました。アロンはモーセの兄で、大祭司でした。ナダブとアビフはアロンの息子たちです。彼らも祭司でした。また、イスラエルの長老70人というのは、イスラエルをさばくために立てられたリーダーたちです。モーセ1人では250万人から300万人とも言われるイスラエルの民を治めるのは困難なので、神はモーセとともに民を治めるリーダーたちを立てられたのです。それがモーセの姑イテロによって与えられた助言でした。彼らを連れて主のところに上り、遠く離れて伏し拝むようにと言われたのです。

 

なぜ遠く離れて伏し拝まなければならなかったのでしょうか。それは、主は聖なる方であり、人間はだれ一人として近づくことができなかったからです。もし近づこうものなら、罪と汚れのためにたちまちに殺されてしまうことになります。19章には主が民全体の目の前でシナイ山に降りて来るという出来事が記されてありますが、その山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければなりませんでした(19:12)。そして、主が山から降りて来られた時、シナイ山全山に煙が立ち上り、激しく震えました。主は、それほど聖い方であり、だれも近づくことができない方なのです。

 

しかし、モーセだけは近づくことができました。神はモーセに、「主のもとに近づけ」と命じられました。ほかの者は近づくことはできません。ただモーセだけが近づくことを許されたのです。それで、モーセは、主のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げました。

すると、民はみな声を一つにして答えました。「主の言われたことはすべて行います。」彼らとしては、本気でそう思ったのでしょう。しかし、それはあまりにも浅はかで、軽いものでした。主が言われたことをすべて行うなどできるはずがありません。洗礼式の中で誓約を行いますが、その中には「あなたは、聖霊の恵みに信頼し、キリストのしもべとして、ふさわしく生きることを願いますか。」とか、「あなたは、自分の最善を尽くして、教会の礼拝を守り、教会員としての務めを果たし、あかしの生活をすることを願いますか」とあります。そこで「行いますか」ではなく「願いますか」とあるのは、それを完全に行うことはできないからです。できないけれども、そのように願うのです。

しかし、イスラエルの民は「主が言われたことをすべて行います」と答えました。彼らは自分たちの弱さや限界を理解していませんでした。もし律法が要求していることを正しく理解していないと、形式的な信仰に陥ってしまうことになります。イエス様の時代になって、イエス様が律法学者やパリサイ人たちを激しく糾弾されたのはそのためです。彼らは自分では神の律法を行っているつもりでしたが、それは中身のない形だけのものでした。そうした律法学者やパリサイ人たちの形式的な信仰の芽は、すでにこの時点で存在していたと言えます。メシアとして来られたイエス様は、こうした彼らの律法の解釈を正そうとされました。

 

こうした形式的な信仰は、私たちにも見られることがあります。しかし、主が求めておられることはこうした形式的な律法主義ではなく、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛することです。私たちは神の聖さを知り、そこに自分の限界を悟りながら、主の恵みに拠り頼んで、心から主を愛する者でありたいと思います。それは、私たちの内側に真実な信仰と愛の実質が伴うことなのです。

 

2.契約の血(4-8)

 

次に4節から8節までをご覧ください。

「4 モーセは主のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げた。6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。 」」 それで、モーセは主のことばをことごとく書き記しました。そして翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの12の部族にしたがって12の石の柱を立てました。祭壇は、主の臨在の象徴であり、12の石の柱は、イスラエル12部族を象徴していました。 それはこの12部族が主と契約を締結した記念のしるしであるばかりか、主が彼らとともにいてくださるということの象徴でもありました。

 

それからモーセはイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げました。そしてその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけました。どういうことでしょうか。これは血によって結ばれる契約であるということです。アブラハムが神と契約を結んだ時にも、血が流されました(創世記15:9-21)。

 

そして契約の書を取り、民に読んで聞かせると、彼らは「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」と言ったので、モーセは鉢にとったもう半分の血を、民に振りかけました。これは、主が彼らと結ばれる契約の血です。この血によって契約は結ばれ、効力を持ちます。祭壇に注がれた血は主に対するものであり、民に注がれた血は、民が神と結ばれたことを意味するものでした。これはどういうことかというと、神との契約の土台となるのは、いけにえの血であるということです。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。

この血は、キリストが十字架で流された血潮を予表していました。私たちはキリストの流された血の振りかけを受けたことによって、罪の赦しという神との契約を結ぶことができたのです。そのことを、へブル9:15-22でこのように説明してあります。

「15 キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。16 遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。17 遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間には、決して効力を持ちません。18 ですから、初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。19 モーセは、律法にしたがってすべての戒めを民全体に語った後、水と緋色の羊の毛とヒソプとともに、子牛と雄やぎの血を取って、契約の書自体にも民全体にも振りかけ、20 「これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である」と言いました。21 また彼は、幕屋と、礼拝に用いるすべての用具にも同様に血を振りかけました。22 律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」

初めの契約とは、このシナイ契約のことです。初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。モーセは、律法にしたがってすべての戒めを語った後で、子牛や雄やぎの血を取って、それを祭壇と契約の書に、そして民全体に振りかけたのです。それはキリストによってもたらされる新しい契約を指し示していたのです。

 

主イエスは同じ表現を用いて、最後の晩餐の席でこう言われました。「26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイ26:26-28)

この杯は何を表していたのでしょうか。それは、多くの人のために、罪の赦しのために流される、主の契約の血です。この血の注ぎがなければ、罪の赦しはありません。しかし、主イエスがそのいけにえとなって死んでくださったことによって、その流された血の注ぎかけを受けたことで、私の罪は赦されたのです。

 

クリスチャンとは、このキリストの血による契約にサインをした人のことを言います。そのサインとは、キリストの血の注ぎかけを受けるということ、すなわち、キリストの十字架の贖いを信じるということです。あなたが信仰によってキリストの十字架の贖いを信じるなら、罪の赦しという神との契約を結ぶのです。

 

Ⅲ.神との平和(9-11)

 

9節から11節までをご覧ください。

「それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は登って行った。10 彼らはイスラエルの神を見た。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようであった。11 神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、 食べたり飲んだりした。」

 

それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老70人は登って行きました。何のためでしょうか。神と共に食事をし、交わりを持つためです。ここには、「彼らはイスラエルの神を見た」とあります。神を見たとは言っても、神の姿を見たわけではありません。彼らが見たのは、神の臨在に伴う神の栄光でした。それは宝石のように輝いていました。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようでした。神は聖なる方なので、だれも近づくことができません。まして、神を見るなどもってのほかです。神を見たなら死ぬというのが、イスラエル人の一般的な認識でした。しかし、神は彼らに手を下されませんでした。彼らは特別の恵みをいただいたのです。なぜなら、彼らの罪は赦され、聖められたからです。そればかりではありません。彼らは神を見て、食べたり飲んだりしました。親しい交わりを持つことができました。これは和解のいけにえ、交わりのいけにえを共に食べたということです。

 

これは、主の晩餐を表していました。主の晩餐は、主との新しい契約に入れていただいた者が、キリストの死を記念し、その再臨を覚えるために、私たちに与えられたものです。それは罪が赦された者が、主との親しい交わりを持つことを表しています。私たちはキリストの十字架の贖いによって、父なる神と交わることができるようになりました。それはキリストの血による新しい契約です。神との交わりを与えてくださった主に感謝しましょう。

 

Ⅳ.主のみことばを聞くために(12-18)

 

最後に、12節から18節までをご覧ください。

「12 主はモーセに言われた。 「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。わたしはあなたに石の板を授ける。 それは、彼らを教えるために、 わたしが書き記したおしえと命令である。 」13 そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。14 彼は長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに戻って来るまで、私たちのために、ここにとどまりなさい。 見よ、 アロンとフルがあなたがたと一緒にいる。訴え事のある者はだれでも彼らのところに行きなさい。」15 モーセが山に登ると、雲が山をおおった。16 主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。17 主の栄光の現れは、 イスラエルの子らの目には、 山の頂を焼き尽くす火のようであった。18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。」

 

主はモーセに、「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。」と言われました。それは、神から石の板を受けるためです。それは、主がイスラエルの民を教えるために、主ご自身が下記記された教えと命令です。

 

そこで、モーセとその従者ヨシュアが立ち上がり、モーセが神の山に登りました。ヨシュアは一緒に行きましたが頂上までではなく、途中で待機していました。モーセは、自分がいなくなった後をアロンとフルに任せました。彼らは、アマレクとの戦いの時に、モーセの両手を支えた人たちです(出17:12)。

モーセが山に登ると、どのようになったでしょうか。まず雲が山をおおいました。主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は6日間、山をおおいました。そして7日目に、主はモーセを呼ばれました。山のふもとにいたイスラエルの民の眼には、主の栄光の現れは、山の上の頂を焼き尽くす火のようでした。モーセは雲の中に入って行き、そこで40日40夜、いました。その間彼は、断食していたことがわかります。申命記9:9には、「私が石の板、すなわち、主があなたがたと結んだ契約の板を受け取るために山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。」とあるからです。それはモーセにとっても、決して楽な時間ではなかったでしょう。どうしてこれほどの時間がかかったのでしょうか。そこで主がご自身の教えを語られるからです。彼は主なる神との交わりの中で、神の声を聞き、それを民に伝えなければなりませんでした。その神の御声を聞かなければならなかったのです。

 

神の御声を聞くということは、楽なことではありません。時間がかかります。時にはこの時のモーセのように断食して聞くということもあるかもしれません。ですから、主のみことばを聞くためには、私たちも聖別して、忍耐をもって聞かなければならないのです。しかし、そのようにして主の御声を聞くなら、そこに主の栄光が現れるでしょう。主との交わりの中でこそ主の栄光を受け、真に輝いて生きることができるのです。あなたは、どのように主のみことばと取り組んでいますか。毎日の忙しい生活の中であなたの手と足を止め、山の中に入って行き、そこで主の御声を聞く時をしっかりと持ってください。