士師記3章

士師記3章を学びます。

Ⅰ.主が残しておかれた異邦の民(1-6)

まず1~6節までをご覧ください。「1 次が、【主】が残しておかれた異邦の民である。主がそうされたのは、カナンでの戦いを全く知らないすべてのイスラエルを試みるためであり、2 ただ、イスラエルの次世代の者、特にまだ戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためであった。3 すなわち、ペリシテ人の五人の領主たち、またすべてのカナン人、シドン人、そしてヒビ人である。ヒビ人は、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテにまで及ぶレバノンの山地に住んでいた。4 これは、彼らによってイスラエルを試み、【主】がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうかを知るためであった。5 イスラエル人は、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただ中に住み、6 彼らの娘を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えた。」

1節には「次が、主が残しておられた異邦の民である」とあります。ヨシュアの死後、イスラエルの民は神が約束された地を聖絶しなければなりませんでしたが、彼はその地の住民を追い払うことができませんでした。ここには、それは「主が残しておられた異邦の民」とあります。確かにイスラエルはその地の住民を追い払うことができませんでしたが、それは同時に主がなされたことでもありました。いったいなぜ主はその地に異邦の民を残しておられたのでしょうか。ここには、「主がそうされたのは、カナンでの戦いを全く知らなかったすべてのイスラエルを試すためであり、ただ、イスラエルの次世代の者、特にまだ戦いを知らない者たちに、戦を教え、知らせるためであった」(1-2)とあります。そのために主は、その地に異邦の民を残し、彼らによってイスラエルを試み、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、彼らが聞き従うかどうかを知ろうとされたのです。

結果はどうだったでしょうか。5節、6節をご覧ください。残念ながら、彼らはこの信仰のテストに合格できませんでした。彼らはその地に住んでいたカナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただ中に住み、彼らの娘を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えてしまいました。つまり彼らはその地の住民と同化してしまったのです。モーセを通して与えられた神の命令は、その地の住民と縁を結んではならないということでしたが(申命記7:3)、彼らはその命令に背いてしまったのです。なぜでしょうか。イスラエルの民にとっては、戦って町を手に入れるよりはその地の住民と結婚し、平和的に暮らした方がずっと得策のように思われたからです。しかし、その結果、イスラエルの民は、主の目に悪であることを行い、彼らの神、主を忘れて、もろもろのバアルやアシェラに仕えるようになってしまいました。

ローマ人への手紙12章2節には、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」とあります。神の民であるクリスチャンはこの世にあっても、この世と調子を合わせてはいけません。唯一まことの神を知り、その神の愛と聖さに生きる者であるならば、その光を輝かせなければならないのです。しかし、イスラエルの民は、その神の選びとその責任を忘れてしまいました。イスラエルの民の課題は、私たちの課題でもあります。聖書の真理を世に伝え、神の恵みの福音を語り伝える信仰的な戦いを意識できなければ、結局はこの世に流されてしまうことになります。神は戦いを教え、知らせようとされていることを忘れてはいけません。主がともにおられることを覚え、信仰の戦いに勝利させていただきましょう。

Ⅱ.最初の士師オテニエル(7-11)

次に、7~11節をご覧ください。「7 こうしてイスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを行い、彼らの神、【主】を忘れて、もろもろのバアルやアシェラに仕えた。8 【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡されたので、イスラエルの子らは八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。9 イスラエルの子らが【主】に叫び求めたとき、【主】はイスラエルの子らのために一人の救助者を起こして、彼らを救われた。それはカレブの同族ケナズの子オテニエルである。10 【主】の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。彼が戦いに出て行くと、【主】はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡されたので、彼の手はクシャン・リシュアタイムを抑えた。11 国は四十年の間、穏やかであった。こうして、ケナズの子オテニエルは死んだ。」

「こうして」とは、イスラエルの子らがその地の住民と婚姻関係を結んだことによって、彼らがバアルやアシェラに仕えるようになって、ということです。するとどうなりましたか?主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に渡されたので、彼らは8年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えることを余儀なくされました。アラム・ナハライムはメソポタミアのことであり、現在のシリヤの北部に位置します。つまり、ずっと北に位置していた王がイスラエルまでやって来て、彼らを支配したのです。

前回の学びの中で、士師記の中には背信→さばき→助けを求める叫び→さばきつかさによる救い、という図式が繰り返されると申し上げましたが、ここでもそれが繰り返されています。彼らは主の目に悪であることを行ったので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、敵の攻撃などによって困難な状況に陥ることになりました。

その時、イスラエルはどうしましたか?9節をご覧ください。イスラエルの子らは主に叫び求めました。それで主は、イスラエルのために一人の救助者を起こして彼らを救われます。それがオテニエルです。彼が最初の士師です。オテニエルはどんな人物だったでしょうか?彼はユダ族の出で、カレブの弟ケナズの子でした。すなわち、カレブの甥にあたります。彼については1章11節で紹介されてあります。カレブがキルヤテ・セフェルに攻め入った際その地をなかなか攻略することができなかったとき、「キルヤテ・セフェルを打って、これを攻め取る者に、私の娘アクサを妻として与えよう。」と言うと、このオテニエルが手を挙げ、それを攻め取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えました(1:13)。ですから彼はとても勇敢な者であったことがわかります。

しかし、それは彼が勇敢だったというよりも、主の霊が彼の上にあったからです。10節には、「主の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。」とあります。彼には主の霊が望んでいました。ですから、彼は勝利することができたのです。主は、このオテニエルを最初の士師としてイスラエルを救うために遣わされたのです。オテニエルがイスラエルをさばいていた40年間、イスラエルは穏やかでした。しかし、オテニエルが死ぬと状況は一変します。

Ⅲ.エフデとシャムガル(12―31)

12~14節をご覧ください。「12 イスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを重ねて行った。そこで【主】はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。彼らが【主】の目に悪であることを行ったからである。13 エグロンはアンモン人とアマレク人を彼のもとに集め、イスラエルを攻めて打ち破った。彼らはなつめ椰子の町を占領した。14 こうして、イスラエルの子らは十八年の間、モアブの王エグロンに仕えた。」

オテニエルが死ぬと、イスラエルはどうなりましたか?彼らは主の目に悪であることを重ねて行うようになりました。あの図式の「背信」に当たります。そこで主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせます。

エグロンはアモン人とアマレク人を彼のもとに集めると、イスラエルを攻めて打ち破り、彼らはなつめやしの町を占領しました。「なつめやしの町」とはエリコのことです。モアブはヨルダン川の東側に住んでいる民ですが、ヨルダン川の西側にまでやって来て、エリコを占拠していたのです。こうして、イスラエルの子らは18年の間、モアブの王エグロンに仕えました。するとイスラエルの民はどうしたでしょうか。

彼らは再び主に叫び求めます。15~25節をご覧ください。「15 イスラエルの子らが【主】に叫び求めたとき、【主】は彼らのために、一人の救助者を起こされた。ベニヤミン人ゲラの子で、左利きのエフデである。イスラエルの子らは、彼の手に託してモアブの王エグロンに貢ぎ物を送った。16 エフデは長さ約一キュビトの両刃の剣を作り、それを衣の下、右ももの上に帯で締め、17 モアブの王エグロンに貢ぎ物を携えて行った。エグロンはたいへん太った男であった。18 貢ぎ物を献げ終わると、エフデは貢ぎ物を運んで来た者たちを見送り、19 彼自身はギルガルのそばの石切り場のところから引き返して来て、こう言った。「王様、私はあなたに秘密のお知らせがあります。」すると王は「今は、言うな」と言ったので、そばに立っていた者たちはみな、彼のところから出て行った。20 エフデが王のところに行くと、王は、屋上にある彼専用の涼しい部屋に一人で座していた。エフデが「あなたに神のお告げがあります」と言うと、王はその座から立ち上がった。21 このとき、エフデは左手を伸ばし、右ももから剣を取り出して、王の腹を刺した。22 柄も刃と一緒に入ってしまった。彼が剣を王の腹から抜かなかったので、脂肪が刃をふさいでしまった。エフデは小窓から出た。23 エフデは廊下へ出て行き、屋上の部屋の戸を閉じた。このようにして、彼はかんぬきをかけた。

24 彼が出て行くと、王のしもべたちがやって来た。彼らが見ると、屋上の部屋にかんぬきがかけられていたので、彼らは「王はきっと涼み部屋で用をたしておられるのだろう」と思った。25 しかし、いつまで待っても、王が屋上の部屋の戸を一向に開けようとしないので、しもべたちは鍵を取って戸を開けた。すると、なんと、彼らの主人は床に倒れて死んでいた。」

彼らが主に叫び求めると、主は彼らのために一人の救助者を起こされました。誰ですか?エフデです。彼は2番目の士師です。エフデにはどんな特徴がありましたか?彼はベニヤミン人ゲラの子でしたが、左利きでした。なぜここに、わざわざ左利きであったと強調されているのでしようか。左利きでも右利きでもどうでもいいじゃないか。その理由は後で明らかにされます。ここには、イスラエルの子らは、そのエフデの手に託してモアブの王エグロンに貢ぎ物を送ったとあります。

するとエフデはどうしましたか?彼は長さ約1キュビト(約44.5センチ)の両刃の剣を作り、それを衣の下、右ももの上に帯で結びました。そしてモアブの王エグロンのもとに貢ぎ物を携えて行きました。なぜ彼は右ももの上に両刃の剣を結んだのでしょうか?エグロンを討つためです。彼に貢ぎ物を献げようと近づいた時、その剣で突き刺そうと考えていたのです。

エフデは用意周到な男でした。彼は貢ぎ物を献げ終わると、一緒に来た者たちを見送り、ギルガルの石切り場のところから引き返してエグロンのもとに戻って来て、こう言いました。「王様、私はあなたに秘密のお知らせあります」エフデは実に巧妙でした。彼はエグロンに「私はあなたに秘密のお知らせがあります」と言うことによって、そこにいた人たちを出て行かせ、エグロンと1対1になる状況を作り出したのですから。エグロンは「今は、言うな」と言いました。誰にもしられたくないと思ったのでしょう。彼はそこにいた者たちをみな彼のところから追い出すと、エフデを自分のもとに引き寄せます。

この時彼は屋上にある彼専用の涼しい部屋に一人で座っていました。その時エフデが「あなたに神のお告げがあります」と告げたので、エグロンはその場から立ち上がりました。その秘密の話を聞こうとエフデに近づいたのです。エフデはこの時を待っていました。エグロンが立って自分のそばに来たとき、例の両刃の剣を取って突き刺そうと計画していたのです。そのところをブスッです。彼はエグロンを剣で刺しました。

21節をご覧ください。彼はどのようにエグロンを刺しましたか?ここには「エフデは左手を伸ばし、右のももから剣を取り出して、王の腹を刺した」とあります。ここがミソです。右利きであれば逆です。右手を伸ばし、左のももから剣を取り出します。でもエフデは左手を伸ばし、右ももから剣を取り出して、王の腹を指しました。左利きだったからです。エフデがなぜ左利きであることが記録されていたのかがわかりますね。もし右利きだったら相手も警戒したでしょうが、左利きだったので相手は全く警戒しませんでした。それが有利に働いたのです。主はモアブの王エグロンからイスラエルを救い出すために、そのようなエフデを用いられたのです。今でこそ左利きでもあまり問題ではありませんが、昔は左利きの人は字を書く時などは右手で書くようにさせられたこともありました。その方が何かと便利だからです。また、昔は左利きの人を「ギッチョ」と差別用語で呼ぶこともありました。しかし、神はこうした人とは違うような特徴や恥ずかしいと思うような性質を、ご自分の栄光のために用いられるのです。

23節をご覧ください。エフデはエグロンを刺すと小窓から廊下に出て、王のいる屋上の部屋の戸を閉じ、かんぬきで締めました。時間かせぎをするためです。案の定、彼が出て行くと、王のしもべたちがやって来ますが、王のいる屋上の部屋にかんぬきがかけられているのを見ると、王は涼み部屋で用をたしていると思い、戸をあけませんでした。しかし、いつまで待っても出て来ないので、しもべたちが鍵を取って戸を開けると、王は床に倒れて死んでいました。

26~30節をご覧ください。「26 エフデは、しもべたちが手間取っている間に逃れ、石切り場のところを通って、セイラに逃れた。27 到着すると、彼はエフライムの山地で角笛を吹き鳴らした。イスラエルの子らは、彼と一緒に山地から下って行った。彼がその先頭に立った。28 エフデは彼らに言った。「私の後について来なさい。【主】はあなたがたの敵モアブ人を、あなたがたの手に渡されたから。」そこで彼らはエフデの後について下り、モアブへ通じるヨルダン川の渡し場を攻め取って、一人もそこを渡らせなかった。29 このとき彼らは約一万人のモアブ人を討ち取った。そのモアブ人はみな、頑強で、力のある者たちだったが、一人として逃れた者はいなかった。30 こうして、モアブはその日イスラエルの手に下り、国は八十年の間、穏やかであった。」

エフデはしもべたちが手間取っている間に、石切り場のところを通って、セイラに逃れました。そしてセイラに到着すると、エフライムの山地で角笛を吹き鳴らし、イスラエルを招集しました。何のためでしょうか。28節にあるように、モアブに通じるヨルダン川の渡し場を攻め取って、彼らを打つためです。ヨルダン川の西側にもたくさんのモアブ人がいました。彼らが自分たちの国に戻ろうとするのをエフデは阻止しようとしたのです。そのようにしてイスラエル人は約1万人のモアブ人を討ち取りました。モアブ人はみな、頑強で、力のある者たちでしたが、一人として逃れた者はいませんでした。

このようにして、モアブはその日イスラエルの手に下り、イスラエルはエフデのもとで80年間、穏やかに過ごすことができました。これは士師の中で最も長く続いた平和の期間です。

最後に31節をご覧ください。ここに、3番目の士師が登場します。それは「シャムガル」です。「31 エフデの後にアナトの子シャムガルが起こり、牛を追う棒でペリシテ人六百人を打ち殺した。彼もまた、イスラエルを救った。」

エフデの後にアナトの子シャムガルが起こり、ペリシテ人600人を討ち殺しました。彼はどのようにペリシテ人を討ち殺しましたか?牛を追う棒によって、です。これは、牛が畑を耕しているときに余計な動作をしないように突いて正すための棒です。片方の先はとがっていて、もう一方はのみのようになっていました。シャムガルは、おそらくは農作業をしていた普通の人だったのでしょう。そのシャムガルが、牛を追う棒でペリシテ人600人を撃ち殺したのです。

これはどういうことかというと、牛を追っているような普通の人でも用いられるということです。伝道とか牧会というと、神学校を出た人でないとできないと思っている方がいますが、そうではありません。主はその置かれたところで、その人が持っているもので仕えることができるように用いてくださるのです。

Ⅰヨハネ3章11~24節「互いに愛し合うこと」

きょうは、「互いに愛し合うこと」というタイトルでお話しします。ヨハネは前回の箇所で、神から生まれた者と悪魔から生まれた者について述べました。神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。この罪を犯さないというのは全く罪を犯さないということではなく継続して罪を犯さないということ、つまり罪にとどまらないということでした。クリスチャンでも罪を犯すことがあります。でも罪を楽しみ、そこにとどまっていることはありません。罪を犯す者は神から生まれた者ではなく、悪魔から生まれた者です。このことによって神の子どもと悪魔の子どもを区別することができます。もちろん、ここで言われている「義」とは人の目に正しいということではなく、神の目で正しいということです。ですからイエス・キリストを救い主として信じなければ、だれも義と認められることはありません。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ3:23-24)とあるとおりです。救い主を信じ受け入れることによって義と認められます。そしてそのように認められた者は、義を行う者へと変えられていくのです。神の種がその人のうちにとどまっているからです。もしそうでないとしたら、神の子どもではありません。

 

しかし、神の子どもか悪魔の子どもかの区別は、それだけによるのではありません。10節の終わりにはそれを区別するもう一つのポイントが記されてあります。それは兄弟を愛しているかどうかということです。ここには、「兄弟を愛さない者もそうです。」とあります。「そうです」とは、神の子どもではなく悪魔の子どもであるということです。兄弟を愛さない者は神の子どもでなく悪魔の子どもです。つまり、クリスチャンではないということです。なぜヨハネはそこまで言い切るのでしょうか。きょうは、この「互いに愛し合うこと」について三つのポイントお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.互いに愛し合うべきであること(11-15)

 

まず、第一のことは、互いに愛し合うべきことは、私たちが初めから聞いている命令であるということです。11節から15節までをご覧ください。

「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはなりません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。」

 

「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。」「使信」とは「教え」とか「命令」のことです。それが、私たちが初めから聞いている神の教えであり、神の命令です。イエス様はこのように言われました。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:34-35)

 

ですから、これは何も新しい教えではないのです。これはイエス様ご自身が教えられたことであり、私たちが初めから聞いていることです。イエス様はここで、私たちが互いに愛し合うなら、それによって私たちがキリストの弟子であることを、すべての人が認めるようになると言われました。クリスチャンが互いに愛し合うことが最高の証だというのです。逆に、クリスチャン同士がいがみ合ったり、言い争ったり、憎み合ったり、嫉みあったりするなら、それは最悪の証であると言えます。だれもイエスが救い主であることを認めないでしょう。それはキリストの栄光を傷つけることになります。ノンクリスチャンを愛するよりもクリスチャン同士が互いに愛し合うことの方がもっと効果的な証になるのです。クリスチャン同士が互いに愛し合うことが一番の証です。だからといってノンクリスチャンを蔑ろにしてもいいとか、あしざまにしてもいいということではありません。ノンクリスチャンに対しても愛をもって仕えていくことは当然のことですが、それよりももっと効果的な証があると言っているのです。それはクリスチャンが互いに愛し合うことです。クリスチャンが互いに愛し合うなら、ノンクリスチャンはそれを見てあこがれさえ抱くようになります。「そんな愛など見たことがない、世の中はみんな自分勝手で自分のことしか考えられないのに、血のつながりもない、全く生まれも育ちも、背景も異なる者同士が、しかも年齢や性別も違う者同士が、お互いにお互いのことを喜び、お互いに献身的に仕え合って、こんなにも熱く愛し合うことができるのはどうしてなのだろう」と思うようになるのです。そんな愛など見たことも、聞いたことも、感じたこともありません。このような愛の共同体にぜひとも自分も加えてほしいものだと願うようになるのです。それなのに、兄弟を憎むということがあるとしたら、それは何を物語っているかというと、その人は永遠のいのちにとどまっていないということ、すなわち、神の愛を知らないし、神の救いを経験してもいないということです。つまり、神の子どもではないということなのです。

 

ヨハネはここでその一つの事例を取り上げてそのことを説明しています。それはカインです。12節をご覧ください。「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」

カインについては皆さんもよくご存知だと思います。ここでヨハネは、「カインのようになってはいけません」と言っています。なぜでしょうか。なぜなら彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺したからです。彼は弟アベルを殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。彼のどのような行いが悪かったのでしょうか。

 

創世記4章を見ると、カインは地を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となりました。そして、しばらく時が過ぎて、主へのささげ物を持って来たとき、カインは大地の実りを主へのささげ物として持ってきましたが、アベルは、自分の羊の初子の中から、しかも肥えたものを持ってきました。すると神はアベルとそのささげ物に目を留めましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。いったい何が問題だったのでしょうか。この箇所だけを見ると、カインはいかにも適当にささげ物をもって来たかのような印象がありますが、そういうことではありません。問題は、それが神の定めた方法によるものであったかどうかということです。すなわち、弟アベルは神が定めた方法で、神が求めた物をささげたのに対して、カインはそうではなかったのです。カインは神が求めた方法ではなく、自分の考えで、自分の方法によってささげたので、神に受け入れられなかったのです。神が定めた方法とは動物の犠牲をささげることでした。なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからです。いのちとして宥めを行うのは血であるからです。(レビ17:11)カインはそのことを両親のアダムとエバから聞いていたのに守りませんでした。そして自分の考えによってささげ物をささげたのです。一方、アベルはどうだったかというと、彼は神が定めた方法でささげました。なぜ彼はそのようにしたのでしょうか。

 

へブル人への手紙の著者はこう言っています。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証されました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証してくださったからです。」(へブル11:4)つまり、アベルは信仰によってささげたのです。ささげ物をささげるということは礼拝するということです。どのように礼拝すればいいのでしょうか。神が定めた方法があります。神が定めた方法でなければ神に受け入れられません。このことは後に私たちの罪の身代わりとして神にささげられた神の小羊イエス・キリストを指し示すものでした。イエス・キリストを通してでなければだれも神のみもとに行くことはできません。どんなに自分の方法で神に受け入れられようと思っても、それは受け入れられないのです。それはこのカインのようです。

 

カインは自分のささげ物が受け入れられなかったことで、弟のアベルをねたみました。自分のささげ物が受け入れられないのに、なぜあいつがささげた物が受け入れられたのか、自分はこんなに不幸なのに、なぜあいつがあんなに祝福されているのか、自分にはこんなに力があってこんなこともできるのに、なぜあいつが注目されなければならないのか、そう言ってねたんだのです。これが悪い者から出た者のモデルです。カインは悪い者から出た者の典型でした。そして、私たちもカインのように兄弟を殺すなら、カインと同じように悪い者から出た者、つまり、神の子どもと呼ばれる資格はないということを覚えておかなければなりません。

 

兄弟を殺すとはどういうことでしょうか。私たちはカインのように人を殺す者ではありません。しかし、人を殺すとは文字通り人を殺すことだけではないのです。イエス様はマタイの福音書5章で、「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に「ばか者」と言う者は最高法院でさばかれます。「愚か者」と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:22)と言われました。兄弟に対して怒ったり、「ばか者」と言ったり、「愚か者」というようなことがあるとしたら、それは人を殺していることと同じです。もしあなたがだれか他の兄弟姉妹のことを悪く言うなら、それは人を殺していることと同じことなのです。実際にそれを聞いた人はそのような目でその人を見るようになるでしょう。あなたが悪く言ったとおりに、その人は悪く見るようになります。「あっ、知らなかった。あの人がそんなに悪い人だったなんて・・・」「この人がこんなにひどい人だったなんて・・」そう思い込んでしまいます。事実を確認すればただのうわさ話にすぎないことも、それを真に受けてしまうことで、そのようなフィルターでその人を見てしまうようになります。それは人を殺すことと等しい行為です。恐ろしいですね。注意したいです。

 

いったいなぜカインはそのようなことをしたのでしょうか。悪い者から出たからです。悪い者とは悪魔のことです。悪魔から出たので兄弟を愛することができなかったのです。しかし、神から出た者は兄弟を愛します。14節をご覧ください。ここには、「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。」とあります。いったいどのようにして私たちは死からいのちに移されたことを知ることができるのでしょうか。それは兄弟を愛することによってです。兄弟を愛する者は神から生まれた者ですが、兄弟を憎む者はみな、人殺しです。それによって、私たちは神の子どもなのか、それとも悪魔の子どもなのかを判別することができます。皆さん、クリスチャンであることのしるしとは何でしょうか。クリスチャンであるしるしは十字架のネックレスを首にぶら下げていることではありません。あるいは、車に魚のマークを貼ることでもないのです。皆さん、なぜ多くのクリスチャンが車に魚のシールを貼っているかご存知ですか。それはクリスチャンの信仰を表しているからです。魚はギリシャ語で「イクスース」と言いますが、その魚のそれぞれの文字が、「イエス・キリストは私たちの救い主です」という意味を表わすことばの頭文字になっているからです。それはすばらしい信仰の告白ですが、しかし、それをただ車に貼っているからクリスチャンだというわけではありません。あいるは、いつも教会に通うことがクリスチャンだと言うことを保証するのでもありません。クリスチャンのしるしは、その人が神によって生まれた神の子どもであるというしるしは、兄弟姉妹を愛し合しているかどうかです。その愛こそクリスチャンであることのしるしなのです。そこに永遠のいのちがあります。そこで永遠のいのちを満喫することができるのです。

 

詩篇133篇1~3節を開いてください。そこにはこうあります。

「見よ。なんという幸せ なんという楽しさであろう。兄弟たちが一つになって ともに住むことは。それは、頭に注がれた貴い油のようだ。それは、ひげに、アロンのひげに流れて 衣の端にまで滴る。それはまた ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」

主はどこにとこしえのいのちの祝福を命じられたのでしょうか。それは兄弟が一つとなって住むことの中に、です。兄弟姉妹が互いに愛し合うという交わりの中に、です。そこで永遠のいのちの祝福を味わうことができます。クリスチャン同士が互いに愛し合わなければ、永遠のいのちを味わうことかできません。だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることがないからです。それは生ける屍であり、生きているようでも死んでいる冷たい存在でしかありません。

 

互いに愛し合うべきことは、私たちが初めから聞いている使信です。それが、神が私たちに命じていることです。だから私たちは互いに愛し合うのです。自分の感情では受け入れることができない相手であっても、神がそのように命じておられるのでそれに従うのです。それによって私たちが神によって生まれた者であることがわかります。死からいのちに移ったことを知るのです。神から生まれた者として神の命令に従う、それが神の子どもとされたクリスチャンの基本的な姿なのです。

 

Ⅱ.それによって愛がわかった(16-18)

 

第二のことは、なぜ互いに愛し合うのか、その理由です。それは私たちが神から生まれた者であり、死からいのちに移った者として当然のことですが、ここにはいやいやながらではなく、強いられてでもなく、自ら進んで愛し合う根拠が記されてあります。それはキリストの愛です。16節から18節までをご覧ください。16節をご一緒に読みましょう。

「キリストは私たちのために、ご自身のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」

 

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それは私たちが罪のうちに滅びることがないためです。私たちのすべての罪を赦すために、キリストはご自分のいのちを捨ててくださった。それほどまでに私たちは愛されているのです。ですから、私たちも互いに愛し合うべきです。兄弟のためにいのちを捨てるべきなのです。兄弟姉妹を愛せないというのは、どんなに私たちが愛されているのかを知らないか、それとも忘れているからです。「どうしてもあの人を赦すことができない」というのは、自分がイエス様によって赦されたということを知らないからです。私のような者が赦されたということを知るなら、もう言葉にならないくらいうれしくて、人を赦せないという思いはどこかへ吹っ飛んでしまうでしょう。私たちが主にどれほど愛されているかを知るなら、もはや兄弟姉妹を愛せないとか、赦せないということはありません。主があなたに対してどれほどあわれんでくださったのか、どれほど忍耐してくださったのかを思うとき、あなたも兄弟姉妹に対してあわれみを示さずにはいられなくなります。キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。いや、捨てずにはいられなくなります。

 

17節を見てください。それなのに、兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。いません。神の愛はとどまっていません。そんなに神のあわれみを受けていながら、兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすことがあるとしたら、それは神の愛からかけ離れたことなのです。

 

皆さんは、「シティ・オブ・ジョイ」という映画を観たことがありますか。この映画はインドのカルカッタにあった「シティ・オブ・ジョイ」という無料診断所を舞台に繰り広がれる話です。あるときこの街にイギリス人の医師でマックスという人が、一人の少女の命を救えなかったことから自分の無力さに打ちのめされ、空虚な心を埋めるかのようにやって来ます。ある日彼は暴漢に襲われた時、ハザリという貧しいインド人に助けられ、この「シティ・オぶ・ジョイ」に運ばれてきます。マックスはパスポートを無くしたことからこの診療所「喜びの街」を手伝うことになりますが、その町のボスが診療所の家賃を値上げしたことで暴動が起こります。そうした街の腐敗に耐えられず、そこから逃げようとするマックスに対して、もう一人の診療所の医師ジョアンナはこう告げるのです。

「人が生きてくくというのは大変なことよ、みんな生まれた瞬間から希望と絶望の間であがいているの。人生には三つの選択肢しかないわ。傍観するか、逃げるか、それともその中に飛び込むか。最悪の選択肢は逃げる傍観者だわ。」  人生には三つの選択肢しかありません。それは、傍観するか、逃げるか、それともその中に飛び込むかです。最悪の選択肢は逃げる傍観者です。あなたには三つの選択肢しかないのです。傍観するか、逃げるか、それとも飛び込むかです。困った人を見て「ああ、かわいそうだすね」「何と不幸なことでしょう」とただ眺めているか、そのようなことに関わるのはごめんですと、そこから逃げ去るか、どんなに傷つけられても、どんなに犠牲を払っても、その中に飛び込むかです。関わることは時間的に、労力的に、経済的に犠牲が伴うことですが、それが愛するということなのです。

 

あの良きサマリア人はそうした。強盗に襲われ傷ついた人を見たとき、かわいそうに思い、彼に近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き解放しました。翌日、彼は宿屋の主人に二枚のデナリ硬貨を差し出し、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」(ルカ10:35)と言いました。

一方、神に仕える祭司がそこを通りかかったとき、彼を見ると反対側を通り過ぎて行きました。同じく、レビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。

この三人のうちでだれが、強盗に襲われた人の隣人になったでしょうか。その人にあわれみ深い行いをした人です。イエスは言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

 

愛について語ることは簡単です。でも実際に愛することは簡単なことではありません。そこには自己犠牲が伴うからです。でも私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。ことばや口先で愛することも大切です。ここには、「ことばや口先だけで愛することをせず」とありますから、ことばや口先で愛することも大切であることがわかります。

「あなたはちっとも愛していると言ってくれないんだから・・」

「何、言ってんだ。結婚してどのくらい経つと思っているの。言わなくたってわか

るだろう。」

これはだめです。言わないとわからない時があります。愛をもって真理を語ることも必要なんです。でも、それだけではいけません。ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛さなければなりません。ただの傍観者であったり、それを見てあわれみの心を閉ざしたり、そこから逃げるのでもなく、どんなに傷ついても、どんなに犠牲を払っても、その中に飛び込んで行かなければならない時があるのです。私たちにはそれができます。なぜなら、愛を知ったから。キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです。いや、捨てずにはいられなくなります。こんなどうしようもない者が愛されたということが分かったので、兄弟姉妹を愛せずにはいられないのです。

 

Ⅲ.互いに愛し合うことによって(19-24)

 

第三に、その結果です。互いに愛することによってどうなるのでしょうか。19節から24節までをご覧ください。まず19節と21節に注目してください。

「そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で心安らかでいられます。たとえ自分の心が責められたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存知だからです。愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。」

 

「そうすることによって」とは、互いに愛し合うことによってということです。互いに愛し合うことによって、私たちは自分が真理に属していることを知ります。真理とは何でしょうか。真理とはイエス・キリストです。イエス様は、「わたしは道です。真理です。いのちです。」と言われました。ですから、互いに愛し合うことによって、私たちが真理に属していることを知るというのは、イエス様に属しているということ、つまり、クリスチャンであるということを知るということです。自分はクリスチャンであるという確証を得るのです。イエス様を信じていても、本当に救われているかどうか、本当に天国に行けるのかどうか、クリスチャンなのかどうかわかりませんという方がおられますか。そういう方は兄弟姉妹を愛してください。それによって、自分が真理に属しているということを知り、神の御前で安らかでいられることができます。救いの確信を得られるのです。

 

たとえ自分の心が責めたとしても、です。私たちは自分の心が責められる時があります。神のみこころに従わなかった時や、自分の思いや感情で行動した時、言わなくてもいいようなことを言って人を傷つけてしまった時、「ああ、本当に自分はだめな人間だな、なぜこんなことをしてしまったんだろう、」と自分を責めることがあります。これでもクリスチャンなのかとがっかりすることがあります。しかし、たとえ自分の心が責めても、安らかでいられます。なぜなら、神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存知であられるからです。どういうことですか?私たちは時として大きな罪を犯し、そのことを自分でも信じられないことがありますが、神にとっては全然不思議なことではありません。なぜなら、神はあなたのすべてをご存知であられるからです。

 

詩篇139篇1~3節には、「主よ、あなたは私を探り 知っておられます。あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ、 遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられます。」とあります。神は、私たちのすべてを知っておられます。私たちは、自分で自分を知っていると思っていますが、実際のところは知らなければならないことも虫っていません。ですから罪を犯したりするとびっくりするのです。「なんで私がこんなことをしちゃったのか・・。」「考えられない・・・」でもそう思うのはあなただけであって、神はそう思っていません。なぜなら、神はあなたのすべてをご存知であられるからです。だから、たとえあなたの心があなたを責めても、全然心配いりません。神が弁護してくださいます。私たちが互いに愛し合うことによって真理に属しているということを神が証明してくれるので、全く心配いらないのです。21節、そのように、自分の心が責めないから、私たちは神の御前に確信を持つことができます。「私は全然責められません。何をしても平気です。自分の心が自分を責めるなどという経験をしたことがありません」それはここで言っていることではありません。それはただ鈍感であるだけです。ここで言っていることは、そうした良心が痛むようなことがあっても真理に属しているという確信のゆえに、平安でいられるということです。なぜ?「そうすることによって」です。互いに愛し合うことによって、そのような者でも真理に属しているということを知ることができるからです。

 

それだけではありません。22節をご覧ください。「そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」どういうことでしょうか?神の子どもとされたということです。子どもであれば、求めるものは何でも受けます。子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような親はいません。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。いません。自分の子どもには良いものを与えます。同じように、天の父はご自分に求める者たちに良いものを与えてくださいます。聖霊を与えてくださいます。それは私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。では、神の命令とは何でしょうか。神が喜ばれることとは何でしょう。

 

23節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。「私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」

皆さん、神の命令とは何でしょうか。それは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることです。そして、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うことです。これが神の命令です。ただ互いに愛し合うのではありません。まず御子イエス・キリストの御名を信じることです。誤解しないでください。私たちの罪が赦されるのはただイエス様の十字架の血によってです。その神の御子イエス・キリストの名を信じること、すなわち、キリストを救い主として心に受け入れ、その口で告白することによってのみ救われます。私たちの行いによるのではありません。しかし、そのようにイエス・キリストの御名を信じた者は互いに愛し合いなさいという具体的な行いを通して、自分が神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまるということ、すなわち、救われているという確信を持つことができるのです。なぜなら、それは神が私たちに与えてくださった御霊が証してくださるからです。まさに、Ⅰペテロ4章7節に「愛は多くの罪を負おうからです。」とあるとおりです。

 

ですから皆さん、私たちも互いに愛し合いましょう。それによって私たちは真理に属していることを知ることができます。たとえ自分の心が自分を責めるようなことがあっても、神の御前に心安らかでいられます。まず私たちを愛し、私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださったキリストの愛を受け入れましょう。こんな私のために神がどれほどの愛を注いでくださったのかを知り、その御子イエス・キリストの名を信じましょう。そして、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合いましょう。それによって私たちは神に属していることを知り、救いの確信を得ることができるのです。まさに愛は多くの罪を負おうからです。

士師記2章

士師記2章を学びます。まず1節から5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ボキム(1-5)

 

「さて、主の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。「わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」主の使いがこれらのことばをイスラエル人全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。それで、その場所の名をボキムと呼んだ。彼らはその場所で主にいけにえをささげた。」

 

前回の箇所には、イスラエルの民が神の命令に反してその地の住民を完全に追い払わなかったので、多くの未占領地を残す結果となったことが記されてありました。その結果どうなったのかが今回の箇所に記されてあります。 1節から3節までのところに、主の使いがギルガルからボキムに上って来て、神のみことばを伝えます。ギルガルはヨシュアがヨルダン川を渡って、エリコに行く前に宿営していたところです。そこを他の土地を占領するときの戦いの拠点にしました。そこからボキムに上って来てこう言ったのです。

「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。「わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」

つまり、神がイスラエルの民をエジプトから上らせ、彼らの先祖に誓ったカナンの地に導き入れる時、イスラエルの民に命じた約束を彼らが守らなかったので、神が彼らの前から彼らを追い払わないだけでなく、彼らはイスラエルの敵となり、彼らの神々はイスラエルにとって罠となるということです。神がイスラエルに命じた命令とは申命記7章1~4節にあるように、主がその地の住民をイスラエルに渡すとき、イスラエルは彼らを必ず聖絶しなければならないということでした。彼らと何の契約も結んではなりませんでした。彼らにあわれみさえも示してはなりませんでした。それなのに彼らは神の声に聞き従わず、その地の住民を聖絶しませんでした。それゆえ神は彼らを追い払わず、彼らはイスラエルの敵となって彼らを苦しめることになるというのです。

 

4節と5節を見てください。主の使いがこれらのことばを語ったとき、イスラエルの民はみな声をあげて泣きました。それでその場所の名は「ボキム」と呼ばれるようになりました。意味は「泣く者たち」です。そこでイスラエルの民は、神にいけにえを献げました。このようなことになったのは、イスラエルの民が神のみことばを完全に守らなかったからです。イスラエルの民が妥協して神の命令に従わず、偶像崇拝をするカナン人を完全に追い払わなかったからなのです。

 

このようなことは、私たちにもあるのではないでしょうか。どこか割り引いて神のことばを聞いてしまうため、自分の首を絞めるようなことがあるのです。それは神が悪いのではありません。私たちが悪いのです。神がこのようにしなさいという命令してもそこまでしなくてもとか、そんなに熱心になる必要はない、信仰はほどほどがいいとか言って、徹底して従うことを嫌うのです。むしろ、そこまで従おうとする人たちはバランスを崩しているとか言って非難することもあります。しかしそれはこの時のイスラエルのようにカナン人が敵となり、彼らの神々が自分たちにとって罠となる結果となり、声をあげて泣くことになるのです。幸いな人とは詩篇1篇にあるように、「主のおしえを喜びと死、昼も夜もその教えを口ずさむ人です。その人は水路のそばに植えられた木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄えるのです。

 

Ⅱ.主を知らない別の世代(6-15)

 

次に6節から15節までをご覧ください。まず10節までをお読みします。

「ヨシュアが民を送り出したので、イスラエル人はそれぞれ地を自分の相続地として占領するために出て行った。民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った。ヨシュアが葬られた記録です。その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあそれで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。とに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」

 

この箇所は、ヨシュア記24章28~31節までの繰り返しとなっています。それでこの箇所はヨシュア記と士師記を直接結び付ける役割をしているのではないかと考えられています。その中心的なことは、ヨシュアが生きていた時と死んでからとでは、イスラエルの民はどのように変わったかということです。6,7節には、ヨシュアが生きていた時のイスラエルの様子が描かれています。ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの子らはそれぞれ自分の相続する土地を占領しようと出て行きました。彼らはヨシュアが生きていた間、また、主がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、主に仕えました。ところが、主のしもべヨシュアが死ぬと、10節にあるように、「彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない」別の世代が起こりました。つまりヨシュアが生きていたときは、みな主に仕えましたが、ヨシュアが死ぬと、そこには「主を知らず、主のわざも知らない」世代が起こったのです。この「知る」ということは抽象的な概念ではなく、出エジプトや、荒野での奇跡、ヨルダン渡河、さらにはエリコやアイといった町々を攻略した神の奇跡を体験したということ、つまり、彼らをエジプトから救ってくださった神が今も生きて働いているということを信じる信仰を持っているということです。なぜ彼らは主を知らず、主のわざも知らなかったのでしょうか。それはイスラエルの民がその子孫に信仰教育と歴史教育をきちんと行わなかったからです。

 

このことは信仰の継承について大切なことを私たちに教えています。先日、国際ギデオン協会の田村兄弟が来られ、西那須野教会の初期の頃のことを証してくださいました。初めは5人しかいなかったそうです。そうした中で福本先生が牧師として赴任して来られた時、これからは農業の時代だから農業を研修する施設を作らなければならないと、全県に農業研修の施設を作ろうをされました。その一つがアジア学院でした。ただ農業研修の施設を作ったのではありません。それを通して地域に福音を宣べ伝えていくというビジョンがありました。そのビジョンが教会の力となりました。ですからみんなでよく祈りました。ところが、あれから何十年と経って行く中でそうしたビジョンが無くなり、信仰が形骸化してきたと言います。それはこの時のイスラエルのように主を知らない、主のわざを知らない世代が起こったからです。そういう世代になっても心から主を愛する人となるように教会は次世代のこどもたちにしっかりと信仰を継承していかなければなりません。

 

その結果、彼らはどのようになっていったでしょうか。11節から15節までをご覧ください。

「それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。」

 

読んで字のごとくです。すると、イスラエルの子らは主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えました。彼らは、自分たちをエジプトの地から導き出された父祖の神、主を捨てて、ほかの神々を拝み、それらに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡されました。彼らがどこへ行っても、主の手は彼らにわざわいをもたらしたのです。

バアルとは、カナン人が当時拝んでいた主体となる神でした。農耕を行なっていたので、その天候などすべてを左右する神であったと考えられています。そしてアシュタロテはバアルの妻であり、女神です。豊穣の神と考えられていました。アシュタロテについては、バビロンのイシュタル、ギリシヤのビーナスも同じ起源であるとされています。カナン人のバアルとアシュタロテ信仰は、それがみだらな性的行為と密接に関わっていただけでなく、自分の子供たちを火の中にくぐらせたり、建物の柱の中に入れたりして、いけにえとしてささげていました。主を忘れたイスラエルの子らは、こうしたバアルやアシュタロテに仕え、主の目の前に悪であることを行い、主の怒りをかい、彼らがどこへ行っても、わざわいを受けることになってしまいました。

 

イスラエルは初め、周囲の住民を追い払うことをせず、いわば、殺さないで共存しました。その結果、他の神々に仕え、それらを拝み、神の怒りを招くことになってしまいました。私たちも肉をそのままにしておくと、結果的にその肉に仕えることになり、神の怒りを受けることになってしまいます。ですからパウロは、「地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)と言ったのです。それらを殺さなければなりません。妥協してはならないのです。学校や職場で未信者と一緒にいるうちに、神を忘れて自堕落な生活に陥ってしまったということはないでしょうか。そうした未信者と一緒にいることも大切ですが、しかし、主を忘れてもろもろのバアルやアシュタロテに仕えるようなことがあるとしたら、この時のイスラエルのようにわざわいを招くことを肝に銘じておかなければなりません。

 

Ⅲ.信仰の試練(16-23)

 

次に16節から23節までをご覧ください。

「そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行なわなかった。主が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかそれで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもまた、ヨシュアが死んだときに残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」の神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。」

 

「そのとき」とは、イスラエルが主の命令に背いて、主の目に悪であることを行ったために、主の怒りが燃え上がり、彼らを略奪する者の手に渡されたので、彼らは大いに苦しんだとき、です。そのとき、主はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われました。ここでわかることは、神がイスラエルをさばかれるのは神が契約に不忠実な方であるとか、愛がないからではなく、どこまでも罪を憎まれるからです。にもかかわらず神は、罪と背信のイスラエルを滅ぼすことをせず、さばきつかさを起こして、彼らを救われました。具体的には3章から16章にかけて、14人の士師が出てきますが、そのたびに主はイスラエルを救い出されます。ところが、19節を見てください。そのさばきつかさが死ぬと、彼らは元に戻ってしまいます。そして、先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝むということが繰り返されます。イスラエルはそうした頑なな生き方から離れませんでした。それゆえ、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、彼らの前から異邦の民を追い払わないと言われたのです。その結果、彼らはまた苦しみ、叫び、助けを求めます。実に、背信→さばき→助けを求める叫び→さばきつかさによる救い、という図式が繰り返されるのです。それはなぜでしょうか。22節には、「試みるためである」とあります。これは「彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」どういうことでしょうか。

 

これは、3章1節にもあるように、イスラエルを試みるためでした。つまり、そのように異邦の民を残しておくことによって、カナンでの戦いを全く知らないイスラエルの民がどのようにそれを乗り越えるのかをテストするためだったのです。神はしばしばこのように私たちの信仰を試すことがあります。創世記22章1節には、神はアブラハムを試練にあわせられました。自分のひとり子イサクを主にささげなさいと命じました。考えられないことです。いったいなぜ神はそんなことを言われたのでしょうか。それは彼を試みるためでした。信仰の試練です。その命令に対して彼がどのように従うのかを試したのです。アブラハムはそのテストに合格しました。荒野の民もマナによって信仰を試されました(出16:4,申8:16)。このように私たちの信仰もしばしば試される時があるのです。神が起こされたさばきつかさは「家庭教師」のようなもので、イスラエルはその家庭教師に助けられている間だけ成績があがる不良学生のようなものでした。

 

私たちにもこうした異邦の民が残しておかれることがあります。しかし、それは私たちを倒すためではなく、反対に私たちの信仰を強くするためです。そのような試練の中で主はどのような方なのか、どのように偉大な方なのかを知り、この方にますますより頼む者となるためなのです。ヤコブ1章2~4節にはこうあります。

「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところがない、成熟した、完全な者となります。」

また、へブル12章7~11節にもこうあります。

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練をしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。・・・・すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

 

いったいどうやって私たちは主を知ることができるのでしょうか。残された異邦の民を通してです。その試練の中で主がどのような方なのかを知り、この方に心からより頼むことができるようになるのです。主を知らない別の世代が起こります。どんな世代が起こっても、彼らが主を知るようになるのはこの試練を通してであるということを覚え、試練が来るときには、それをこの上もない喜びと思って受け止めましょう。

Ⅰヨハネ3章1~10節 「何とすばらしい愛」

ヨハネの手紙第一3章に入ります。ヨハネはこれまで「神は光である」というテーマで語ってきました。3章から新しいテーマに入ります。それは「愛」です。「神は愛である」というテーマです。これが4章まで続き、最後の5章で「神はいのちである」と伝えて、この手紙を閉じます。ヨハネはこの手紙を通してこの手紙の受取人であるクリスチャンたちに、神がどのような方かを知ってほしかったのです。この「知る」というのは単に知識として知るということではなく体験的に深く知ることです。言い換えるならば、神と深く交わるということです。神について頭で知ることはできますが、頭で知ることと体験することは違います。ヨハネが願っていたのはこの体験することでした。神と向き合い、神と語り合い、神と交わり、神を体験することで、この神がどんなにすばらしい方であるかを知ってほしかったのです。

 

それでヨハネはまず「神は光です」と言い、神が光であるというのはどういうことなのかを語りました。そしてこの3章からは神は愛ですと、神がどのように私たちを愛してくださったのかを語り、その愛に生きるとはどういうことなのかを語るのです。

 

Ⅰ.私たちは神の子どもです(1)

 

まず1節をご覧ください。

「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」

 

ここのポイントは「考えなさい」ということです。人は何を見るか、何を考えるかによってその行動が決まります。だから「考える」というのはとても重要なことです。ここで私たちが考えなければならないのはどんなことでしょうか。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったか、注いでくださったかということです。

ヨハネの福音書1章12節には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。この方とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストを信じる人たちに、神の子どもとされる特権が与えられました。これは特権なのです。考えてみてください。神の子どもとされるというのは神の家族に加えられるということです。父なる神の家族に加えていただける。神の家族に養子として迎えていただけるのです。それまではどこの馬の骨ともわからないような者が、神の子どもとされたのです。何とも不遇な人生を送ってきた者が、王の王、主の主であられる方の子どもとされたのです。これはすごいことではないでしょうか。よく孤児院に捨てられた子どもが大金持ちの家に養子として引き取られたという話を聞くことがありますが、神は大金持ちどころかこの天地万物を創られた方です。この方を自分の父と呼ぶことができるのです。すごいことです。

 

ですからここには、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」とあるのです。この愛を考えてほしい、見てほしい、知ってほしい。そうすればあなたの生活は変わりますから。イエス様を信じたのにちっとも変わらないとしたらどこかおかしいのです。それは本当の意味でこの愛を知っていないか、あるいは知っているつもりでもただ知識として知っているだけで、本当の意味では知っていないかのどちらかです。神の愛を知るなら必ず変えられるはずです。では御父の愛とはどのような愛なのでしょうか。どんなにすばらしい愛を与えてくださったのでしょうか。

 

まずエペソ1章3~5節を開いてください。ここには、「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基の置かれる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」とあります。

神は世界の置かれる前から、私たちを救いに選んでいてくださいました。私たちは生まれる前から、いや世界が置かれる前から、神の子どもとなるように神によって見出され、神によって選ばれ、神によって愛されていたのです。ただそれを知らなかっただけです。でもイエス様がこの世に来てくださりそのことを示してくださったので、知ることができました。私の好きなみことばの一つに申命記33章27節のみことばがあります。それは、「永遠の腕が下に」というみことばです。私たちの下にはいつも永遠の腕があります。私たちが赤ちゃんであった時にはいつもお母さんの腕がありました。少し大きくなって体重が重くなるとお母さんには持てないので、お父さんの腕に抱っこされました。両親の腕に抱き抱えられるとき私たちは平安があります。少しずつ大人になるにつれそうした母の腕や父の腕に抱えられるが少なくなりました。今度は自分の力で生きていきなさいと、いつまでも甘えていないで自分の足で立って歩きなさいと、突っぱねられるようになりました。それはそれで大切なことですが時に不安を覚えることもあります。しかしそのようなとき、永遠の腕が下にあるということはなんと心強いことでしょうか。人生の嵐の中にも、いつも神様の腕があります。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」(エレミヤ31:3)あなたはこの永遠の愛をもって愛されているのです。

 

この愛についてヨハネは4章10節でこのように言っています。ちょっと先取りして読んでみたいと思います。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」いったいどこに愛があるのでしょうか。ここにあります。神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物として御子を遣わされたことの中にあります。神はそのためにご自身のひとり子を与えてくださいました。神は、私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つために、実に、そのひとり子を与えてくださいました。それほどまでに愛してくださいました。ひとり子と言えば自分の命よりも大切な存在です。その大切なひとり子を与えるほどに愛してくださったのです。あなたはそれほどまでに愛されているのです。

 

しかも、ローマ5章8節にこうあります。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

神はどのようにしてご自身の愛を明らかにしてくださったのでしょうか。私たちがまだ罪人であったとき、私たちのために死んでくださったことによってです。罪人のために死ぬ人がいるでしょうか。いません。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいないでしょう。善良な人、情け深い人のためにならあるいはいるかもしれません。であれば、罪人のために死ぬ人などどこにもいません。しかし、キリストは私たちが罪人であったときに私たちのために死んでくださいました。罪人であったときにとは、私たちが最低の状態、最悪の状態であったときにということです。あなたは、こんな汚れた者が愛される資格はないと思うかもしれません。しかし、神は私たちが聖いから愛してくださったのではありません。正しいから愛してくださったのではないのです。罪に汚れ、愛される資格などないにもかかわらず愛してくださいました。これが神の愛なのです。

 

皆さん、神の愛は途切れることがありません。永遠の愛をもって愛してくださいました。私たちは生まれるずっと前からこの永遠の愛で愛されていました。私たちがどんなに神に背き、どんなに罪に堕ちても、神はなおも愛し続けてくださいました。私たちが自分勝手に生きていた時でも、神はずっと寄り添ってくださいました。ヨハネはこの愛を考えなさい、と言うのです。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさいと。原文ではここは「見よ、何という神の愛。」となっています。私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを見なさい、考えなさいというのです。なぜなら、もしあなたがこの愛を見たら、あなたの生き方や考え方というものが根本的に変えられるからです。私たちの生き方や考え方というのは、この事実から出てくるものなのです。

 

この世はこの愛を知りません。しかし、私たちは知りました。イエス・キリストがこの世に来てくださり、十字架で死んでくださることによってその愛を示してくださいました。それは永遠の愛でした。あなたが何者であれ、過去にどんなことをしたかとか、今、何をしているか、またこれから先どんなことをするかということと関係なく、この愛はいつもあなたに注がれているのです。なぜなら、神の愛は永遠だからです。だからこれは人知を超えた愛なのです。これ以上の愛はありません。どうかこの愛を知ってください。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えてください。そうすれば、あなたの生き方は必ず変わるのです。

 

Ⅱ.キリストに似た者となります(2)

 

第二のことは、神の子どもとされた私たちは、やがてキリストに似た者となるということです。2節をご覧ください。

「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」

 

私たちは今すでに神の子どもです。そのように見えないかもしれませんが、イエス様を信じる人はみな例外なく神の子どもなのです。隣の人を見てください。とても神の子どものように見えないかもしれませが、イエス様を信じたのであれば間違いなく神の子どもとされています。そして神の子どもとされた私たちは、やがてキリストに似た者になっていきます。ここには神の子どもとされた者は、やがてどのようになるかが示されています。「やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者となることは知っています。」

 

今はそのように見えなくても、やがて必ずキリストに似た者となります。なぜなら、あなたは神によって生まれたからです。神によって生まれたのであれば、やがて必ず神のようになるのです。それはちょうど生まれたばかりの赤ちゃんのようです。生まれたばかりの赤ちゃんは確かにかわいいですが、顔はしわくちゃで、お世辞にもイケメンだとか、美人だとは言えません。でもそんな赤ちゃんが大人になると、驚くほどのイケメンになったり、美人になったりします。その時はわかりませんが、後で明らかになります。それは霊的にも同じで、クリスチャンになっても今はしみだらけ、傷だらけで、全然神の子のようには見えないかもしれませんが、いつか必ずにキリストに似た者となるのです。ヨハネはここでそのことを「知っている」と言っています。わかっています。必ずそうなるのです。

 

なぜそのように言えるのでしょうか。なぜならそのとき、私たちはキリストをありのままに見るからです。その時とはキリストが現れる時、すなわち、キリストの再臨の時です。その時イエス様を信じている人は空中に一挙に引き上げられ空中で主と会うようになります。そして、そこで顔と顔とを合わせて主を見るようになるのです。すごいでしょう。でももっとすごいのは、その時イエス様の姿をみた時です。その時私たちの姿がイエス様の姿と同じ姿であるのを見るのです。まさに「おったまげ~」です。その時私たちは一瞬のうちに朽ちないからだ、栄光のからだに変えられるのです。

Ⅰコリント15章52~53節には次のように書かれてあります。

「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。」(Ⅰコリント15:52-53)

終わりのラッパが鳴り響くとき、キリストが天から下ってこられます。そのときクリスチャンはたちまちのうちに空中に引き挙げられ、空中で主と会うのです。まずキリストにあって死んだ人たちが、次にキリストにあって生き残っている者たちです。一挙に引き上げられ空中で主と会うのです。そのようにして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。これがクリスチャンの希望です。だから私たちは堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励むことができるのです。自分たちの労苦が主にあって無駄ではないことを知っているからです。クリスチャンは死んで終わりではありません。やがてキリストが現れるときに、この栄光のからだによみがえります。この肉体は塵に帰りますが、霊のからだ、栄光のからだによみがえるのです。そういう希望があるのです。

 

Ⅰコリント13章12節には、「今、私たちは鏡にぼんやりと映るものを見ていますが、そのときには顔と顔とを合わせて見るようになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知るようになります。」とあります。「そのとき」というのが、キリストが現れるときのことです。そのときに私たちは一挙に空中に引き上げられ、顔と顔とを合わせて主を見るようになるのです。その時には完全に主を知るようになります。今は一部分しか見ていません。それはちょうど鏡に映るのをぼんやりと見ているようなものです。おぼろげながらにしか見ることができません。それでも十分感動していますが、でもその日には顔と顔とを合わせて見るようになるので、イエス様がどんなにすばらしい方であるかをはっきりと見ます。そのとき私たちは主と同じ姿に変えられているのを見るのです。ピリピ3章21節にはこうあります。

「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3:21)

 

でもそれは私たちが携挙される時だけでなく、この地上に生かされている間もそうです。私たちがこの地上にいる間も、少しずつ、徐々にではありますが、着実にキリストの似姿に変えられていくのです。これを聖化と言います。聖なる姿に変えられるので「聖化」と言うのです。それは御霊なる主の働きによるのです。Ⅱコリント3章18節にはこうあります。

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を写しつつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

主の御霊が私たちを、栄光から栄光へとキリストと同じ姿に変えてくださいます。きのうよりも今日、今日よりも明日へと、キリストの姿に変えられていくのです。そしてキリストが現れるとき、完全に変えられます。すばらしいではありませんか。ですから日々神のみことばを読み、主の御霊に身をゆだねて歩んでいこうではありませんか。

 

パウロはローマ8章28~29節で次のように言っています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。その益とは何でしょうか。29節には、それは御子と同じ姿に変えてくださることであると言われています。私たちの人生に起こるすべての出来事には辛いことがあれば苦しいこともありますが、神はそうしたすべてのことを働かせて益としてくださるのです。そうしたすべての出来事を働かせて、私たちをご自身の姿に変えてくださるのです。益としてくださるとはそういうことです。

 

ですから、もし皆さんが今、試練に直面しているとしたら期待してください。皆さんはそのことを通してイエス様の姿に変えられているのでから。もし皆さんの人生に問題があるなら感謝しましょう。なぜなら、主はその問題を用いて私たちをご自身の栄光の姿に変えてくださるのですから。皆さんの中で病気の方がおられますか。そのような方は祈りましょう。その病気が癒されるようにというだけでなく、そうした苦しみに耐えることができるように、そしてその苦しみを通して、主と同じ姿に変えられていくことができるようにと。

 

ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に、祈りの詩が刻まれています。これは「病者の祈り」として有名な詩です。

大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに

慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった

 

より偉大なことができるように健康を求めたのに より良きことができるようにと、病弱を与えられた

 

幸せになろうとして富を求めたのに 賢明であるようにと、貧困を授かった        世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに 神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった

 

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに あらゆることを喜べるようにと、命を授かった

 

求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞きとどけられた

 

神の意にそぐわぬ者であるにかかわらず 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

 

私はあらゆる人の中でも、最も豊かに祝福されたのだ

「病者の祈り」作者不明

 

皆さん、私たちも祈ろうではありませんか。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞きとどけられたのです。神はすべてのことを働かせて益としてくださいました。人間的にすべてが不幸であるかのような出来事を通して、神は私たちをご自身の姿に、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださるのです。

 

Ⅲ.キリストに望みを置いている者(3-10)

 

第三のことは、キリストにこの望みをおいている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。3節から10節をご覧ください。3節をお読みします。

「キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」

 

「この望み」とは何でしょうか。それはこれまで語ってきたように、キリストに似た者となるという望みです。すなわち、再臨の希望です。今はどうであれ、イエス・キリストが戻って来られるときには、すべてが希望に変わります。この希望を抱く者はみなキリストが清い方であるように、自分を清くするのです。具体的には4節以降に書かれてあるように、罪を犯すことがないということです。4節には、「罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。」とあります。6節には、「キリストにとどまる者はだれでも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。」とあります。どういうことでしょうか。

 

それは、クリスチャンは罪を犯すことがないというではありません。私たちは確かに罪を赦されましたがまだ罪の性質が残っていて、罪を犯さないで生きることはできないのです。ですから1章8節のところでヨハネは、「もし自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。」と言ったのです。大切なのは罪を犯さないということではなく、罪を犯さずには生きてはいけない存在であることを認め、神の前にその罪を悔い改めることです。それこそ神と交わりを持つ土台であり、光の中を歩むクリスチャンの根本的な生き方なのです。では、ここでヨハネが言っている罪を犯さないとはどういうことなのでしょうか。

 

この「罪を犯さなない」ということばですが、これは現在完了形で書かれてあります。現在完了形というのは継続を表しています。つまり、この「罪を犯している者」とは継続的に罪を犯している者のことを意味しているのです。それが習慣となっていて、罪を犯しても何とも思わないことです。痛くも痒くもありません。どうしてかというと救われていないからです。それは神から生まれた者ではないという証拠なのです。9節には、「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」とあります。神から生まれた者は罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているので、罪を犯すことができないのです。「神の種」とは、神のいのちのこと、聖霊のことです。クリスチャンはイエス・キリストを信じて神のいのちをいただきました。クリスチャンのうちには神の聖霊が住んでおられるのです。だから罪を犯すことができないのです。これは全く罪を犯さないということではなく、意識的に、常習的に罪を犯すことができないという意味です。罪を犯したり、少しでも神のみこころに反したりすると、良心が痛むからです。うちに住んでおられる聖霊が悲しまれるのです。クリスチャンも罪を犯すことはありますが、罪を犯すと「どうして自分はこんなことをしちゃったんだろう」と後悔したり、「ああ、私はほんとうに駄目な人間だなぁ」と落ち込んだりします。それは神から生まれた者だからです。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことがない、できないのです。

 

日本ケズィック・コンベンションの産みの親である、故ポーロ・リース師が箱根のケズィック・コンベンションでこんな話をされました。18世紀にフランス革命が起こり、王と王妃が処刑されました。ところが人々は、王子に対して別の取り扱いをしました。彼らは幼い王子を有名な悪党に預け、あらゆる手段を用いて王子の品性を破壊しようとしました。しかし歴史はこの王子について興味深いことを伝えています。悪党が王子に悪事をさせようとするたびに、彼はこう答えたと言います。「ぼくにはできない。ぼくは王となるために生まれたのだから。」

 

神から生まれた者は神の子どもです。神の王子です。神の王子たる者がどうして罪の内を歩むことができるでしょうか。10節前半はこれまで述べてきたことの要約です。「このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。」「このこと」とは何ですか。自分を清くするか、それとも反対に罪を犯すか、罪のうちに歩むかということです。そのことによって、神の子どもなのか、それとも悪魔の子どもなのかがはっきりわかります。つまりその人が神によって新しく生まれた者なのかどうかがはっきりわかるのです。その具体的な表れが兄弟を愛するということですが、そのことについては次回お話ししたいと思います。

 

私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったでしょう。私たちはこの愛によって新しく生まれました。私たちのうちにはこの神の種、神のいのちである聖霊がとどまっています。だから私たちは罪を犯すのではなく、この望みに希望を置き、キリストが清い方であるように、自分を清く保つのです。すべては、この事実から出ています。この事実が私たちの歩みを変えるのです。どうかこのこと考えてください。ここに目を留めてください。あなたが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったのかを。「見よ、何という愛」。この愛を見るとき、あなたも確実に変えられていくのです。

Ⅰヨハネ2章18~29節 「キリストにとどまりなさい」

きょうは、「キリストのうちにとどまりなさい」というテーマでお話しします。ヨハネは1章5節で「神は光であり、神には全く闇がない」と語り、この神を信じ、神の光の中を歩む者とはどのような者なのかを示しました。それは第一に自分の罪を悔い改め、御子イエスの血によって罪をきよめていただくことでした(1:9)。もし自分に罪がないと言うなら、その人は自分を欺いているのであって、その人のうちには真理はありません。しかし、もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。これが光を歩む者の土台、ベースです。

 

第二のことは兄弟を愛するということでした(2:10)。もし私たちが神を知っているというなら神の命令を守るはずです。その命令とは何でしょうか。その命令とは兄弟を愛するということです。目に見える兄弟を愛することができなくて、どうして目に見える神を愛することができるでしょうか。自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。

 

そして第三のことは、前回の箇所で学びましたが、世を愛してはならないということでした(2:15)。もし世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。なぜなら、だれも二人の主人に仕えることはできないからです。神を愛する者は、神に心を傾けなければならないのです。

 

そしてきょうのところには、光の中を歩むクリスチャンが警戒しなければならないことが教えられています。それは「反キリスト」です。世の終わりが近くなると選民を惑わそうと多くの反キリストが現れますが、そのような者に惑わされないように気を付けなければなりません。どうすればいいのでしょうか。キリストのうちにとどまっているということです。きょうはこのことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.今は終わりの時(18-21)

 

まず18節から21節までをご覧ください。18節をお読みします。

「幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。」

 

ヨハネはここで「幼子たち」と呼びかけています。前回のところでヨハネは、この手紙の読者たちにそれぞれの霊的段階に分けて、「子どもたちよ」「父たちよ」「若者たちよ」と呼びかけましたが、ここでは「幼子たち」と呼びかけています。これは霊的に幼いというよりも、すべてのクリスチャンに対して語られていると理解して良いでしょう。この時ヨハネは100歳近くに達していたと思われますが、そんな長老ヨハネからすべてのクリスチャンに向けて家族のような親しみを込めて語りかけられているのです。

 

その内容は何というと、今は終わりの時であり、多くの反キリストが現れているということでした。それによって今が終わりの時であることがわかります。イエス様はマタイの福音書24章の中で、世の終わりの前兆、しるしについて預言されましたが、その中の一つにこの反キリストが現れることを上げました。4節、5節です。

「そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしこそキリストだ」と言って、多くの人を惑わします。」(マタイ24:4-5)

世の終わりには多くの反キリストが現れます。これが世の終わりの前兆の一つなのです。そしてヨハネの時代にはすでにこの反キリストが現れていました。それはどういうことかというと、今がその終わりの時であるということです。

 

でもちょっと待ってください。イエス様がこのように言われたのは今から二千年前ですよね。でもまだ世の終わりは来ていないじゃないですか。世の終わりだと言うのであれば、もうとっくの昔に来ているはずじゃないですか。それっておかしくないですか?いい質問ですね。でもそのように言われるのは、この「終わりの時」とは何かをよく理解していないからです。一口に「時」と言ってもいろいろな時があります。まず個人的な「時」があります。今年は就職の時だという人がいれば、昨日は結婚式がありましたが、結婚の時だという人もいますし、マイホームを建てる時だという人もいます。また会社や政治の世界にも時があります。多くの人はそうした自分の時に心が奪われ、もう一つの大切な時があることを忘れています。それは神の時です。神の計画全体の中で今がどのような時なのかということを見失ってはなりません。神は天地万物を創造された時からキリストが再臨され新しい天と新しい地を創造される時までの計画を持っておられ、その時を進めておられるのです。

 

では、その神の計画全体の中で「今」はどのような時なのでしょうか。ヨハネはここで「今は終わりの時です」と告げています。「終わり」とは「最後」という意味です。すなわち、今は神のご計画全体の中で最終段階にさしかかっている時なのです。新約聖書では、この「終わりの時」を二つの意味で用いています。第一に、キリストが生まれてから再臨されるまでの全期間という意味です。キリストが初めに来られた時から、この終わりの時はすでに始まっているということです。もう一つの理解は、そうした中でも特にキリストの再臨がごく近い時を指しているということです。この場合キリストがいつ来られても不思議ではありません。ここでヨハネが用いているのはこの第二の意味においてです。ヨハネがこのように言ってからすでに二千年が経とうとしています。そういう意味では、時は刻一刻と世の終わりが近づいていることは確かなことだと言えます。いったいどうしてそのように言えるのでしょうか。

 

ヨハネはここでその理由を次のように述べています。それは、多くの反キリストが現れているからです。「反キリスト」とは何でしょうか。「反キリスト」とはギリシャ語で「アンティ・クリストス」と言いますが、意味はキリストに反抗する者、キリストに取って代わる者です。聖書ではこの「反キリスト」という言葉が、三つの種類で用いられています。第一に、終わりの時に現れる一人の反キリストのことです。この反キリストについてはダニエル書9章27節、11章31節、12章11節に言及されていますが、世の終わりに現れてエルサレムの神殿を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据えると言われています。イエス様もマタイ24章15節で、この「荒らす忌むべきもの」について言及しました。

 

第二に、これは反キリストの霊のです。Ⅰヨハネ4章3節を見ると、ここに「イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。」これは一人の反キリストのことではなく、ありとあらゆるところに活発に働いている反キリストの霊です。古くはイスラエルが奴隷であった時のエジプトの王ファラオに、あるいは、紀元前5世紀にペルシャの王アハシュエロスに仕えていたハマンもそうです。彼は、ペルシャにいた全ユダヤ人の抹殺を計画しました。あるいは近代では皆さんもご存知でしょう第二次世界大戦の時に600万人ものユダヤ人を虐殺したアドルフ・ヒトラーもその一人です。彼らはイエスを告白しないばかりか、キリストに反抗し、神が選ばれし民の虐殺を試みました。なぜこのようなことをしたのでしょうか。それは反キリストの霊が働いていたからです。

 

しかし、ここで言われている「反キリスト」というのはこれら二つの意味とは違います。ここで言われている「反キリスト」とは、偽預言者たち、偽教師たちのことです。それはここに「多くの反キリスト」と複数形で書かれてあることからもわかります。具体的にはイエス・キリストの神性を否定する者たちのことです。イエス・キリストは神と等しい方ではない。イエス・キリストは神に造られた存在であって、神に劣る存在だと教えていた者たちです。前回もお話ししたように当時はグノーシス主義という教えがはびこっていました。その教えの特徴は「霊肉二元論」でした。つまり、霊は善で、肉体は悪であるという考えです。このような考えに立ちますと、肉体を持っておられたイエスが神であるはずがないということになります。そこでイエスはもともと人間だったがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた時にキリストの霊が下り神のようになったが、十字架につけられる直前にその霊がキリストから離れて行ったので、その結果、人間イエスだけが十字架の苦しみを受けたにすぎないというようなまやかしを吹聴していたのです。

 

初代教会は常に戦いの中にありました。コリントの教会は道徳的な問題があり、ガラテヤの教会は救いの問題がりました。また、テサロニケの教会はキリストの再臨の問題が論争の中心でした。ペテロの第一の手紙では苦難の問題が強く打ち出されていました。そして今ヨハネが取り扱っているのはエペソの教会を中心とする小アジアの教会が抱えていたキリスト論でした。そしてそれは真理の根幹にかかわる大きな問題でした。

 

そしてそれは彼らばかりでなく、現代の私たちの教会も抱えている戦いでもあります。なぜなら、今は終わりの時だからです。多くの反キリストが現れて、神の民を惑わそうとしているのです。ですから、私たちは今がどのような時(時代)なのかを見分け、これにきちんと対処していかなければなりません。クリスチャンはただ熱心でまじめであればそれでよいのではありません。今がどのような時であるのかを見分け、真理であられるキリストにしっかりととどまっていなければならないのです。それによってキリストが約束してくださったもの、永遠のいのちを受け継ぐことができるからです。

 

Ⅱ.反キリストの特徴(19-25)

 

では、この「反キリスト」とはどのような者たちなのでしょうか。19節から25節までのところに、この反キリストについて二つの特徴が述べられています。一つは、反キリストは教会を去って行った者たちであるということです。19節をご覧ください。

「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。」

 

「私たちの中から」とは「教会の中から」という意味です。反キリストの特徴は教会から出て行った者たちであるということです。もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったら出て行くことはなかったでしょう。とどまっていたはずです。しかし、彼らが出て行ったのは、私たちの仲間ではなかったということが明らかにされるためでした。

 

でも誤解しないでください。ここで言われている「私たち」すなわち「教会」とはこのような一個一個の教会(地域教会)のことではなく、キリストのからだとしての教会、つまり、普遍的な教会ことです。もしこれが地域教会のことであったとしたら、私たちはほとんど反キリストになってしまいます。信仰を持ってからずっと同じ教会にとどまっているという人は少ないからです。しかし、ここで言っているのはそういうことではなく、キリスト教は間違っているとキリスト教信仰に反抗し、どのキリストの教会にも属さない人たちのことです。信仰告白の異なる者がどうして神の家族であり得ましょう。たとえどんなに人間的に親しくてもそれで神の家族になるわけではありません。キリスト教信仰において一致しなければ、結局、教会を去って行くことになります。それは彼らが私たちの仲間ではなかったことが明らかにされるためです。世の終わりにはこのようにして光と闇とが明らかにされていくのです。

 

第二の特徴は、22節と23節に記されてあります。それは、イエスがキリストであることを否定する者たちであるということです。

「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。だれでも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父を持っているのです。」

イエス・キリストは100%まことの神であり、100%まことの人であられましたが、ヨハネはここで特にキリストの神性を否定する者、キリストは神ではないと主張する者こそ反キリストであると強調しています。

 

キリスト教の三大異端として知られているエホバの証人、モルモン教、統一協会などにはいずれもこの二つの特徴がみられます。彼らはもともと教会の中にいましたが教会を出て、自分たちの独自のグループを作りました。その特徴はイエスがキリストであるということを否定していることです。

たとえば、エホバの証人は、正式には「ものみの塔聖書冊子協会」と言いますが、1884年にアメリカのチャールズ・ラッセルという人によって始められました。彼はもともと長老派の教会に通っていたクリスチャンです。9歳の時に母親を亡くすと自宅近くの組合教会に行くようになりますが、そこで聖書の教えと自分の考えが合わないため納得できないと、教会を出て独自の教理を作りました。

たとえば地獄の教理です。神が人をさばくなんてありえない、とても恐ろしいことだと、地獄の教理を否定したのです。また、イエス・キリストが神である考えられないと、三位一体の教えも否定しました。ではイエスとは何なのか。イエスはエホバなる神が創造された天使長ミカエルです。この天使長のミカエルが人間イエスになって万物を創造したというのです。つまり、イエスはエホバによって創造された被造物にすぎないというのです。彼らもイエスを信じていると言います。しかし、彼らが信じているイエスとは神としてではなく、天使長ミカエルが人間になったイエスが十字架で死なれたことを信じているのです。それは聖書の教えを逸脱しているのですが、反対に彼らは既成の教会こそ間違っていると、攻撃してくるのです。

 

モルモン教も同じです。モルモン教は正式には「末日聖徒イエス・キリスト教会」と言いますが、名前だけでは一般のキリスト教会と区別ができないほど非常に紛らわしいですね。私がまだ教会に行き始めた頃、郵便局で二人のアメリカ人に声をかけられました。彼らは自分たちがクリスチャンだというので、私はうれしくなって「そうですか、私もそうです。」と言うと、「今度ぜひ教会に来てください」と誘われたので、「わかりました。ぜひ行きたいと思います」と案内の記された名刺をいただいたのですが、帰ってから家内に話したら、「それは教会じゃない。モルモンです」と言われ、「そうか、危なかったな。行かなくてよかった」と思いました。もしあの時ホイホイと着いて行ったら、今ごろモルモン教の伝道師になっていたかもしれません。

 

このモルモン教の創設者はジョセフ・スミスという人ですが、彼もまたクリスチャンホームで育ちました。しかし、彼が14歳の時に神から啓示を受けたと言います。「すべての既成の教会は間違っているし、どの教会に行ってもならない」というものでした。それで彼は教会を出て、自分たちの独自のグループを作りました。それがモルモン教会です。彼は独自に与えられた啓示を「モルモン経」としてまとめ、聖書と同等の権威あるもの、いや聖書よりももっと正確に神の御旨を知ることができるものと主張しました。その教えの特徴は神論にあります。聖書は、神はただおひとりで、とこしえからとこしえまで神であり、全知全能で遍在されると教えていますが、モルモン教では、これとは違い、神は、かつて「ある地球」に住み、他の神の支配下にあって、死を免れない人間であった、と教えています。 生死を味わった人間として、神は進歩することができ、完全な者へと達し、そのあと自らの努力で神へと昇栄した、というのです。わけがわからないですね。ですから、モルモン教の教理によると、人もまた信仰の研鑽を積み、地上でモルモン教会の戒め、儀式に対して従順であることによって神々となることができる、と言います。イエス・キリストについては、天父エローヒムが生み出した旧約聖書のエホバであり万物を創造したと教えます。いずれにせよ、モルモン教でもイエスは神によって創られた神だと主張しています。

もちろん、このような教理ですから、正統派の教会にとどまることはできず、1830年4月6日、ジョセフ・スミスが24歳のとき、ニューヨーク州でモルモン教会を設立することになります。彼は神ご自身がモルモン教会を「地上における唯一まことの生ける教会」と指定したと宣言しました。モルモン教会だけが唯一まことの教会だと主張し、既成の教会を否定したのです。

 

また、統一協会もそうです。統一協会は、正式には「世界キリスト教統一神霊協会」と言います。「協会」は「教会」ではなく「協会」です。創設者の文鮮明も初めは熱心なクリスチャンでした。でもクリスチャンホームで育てば自動的にクリスチャンになるというのではなく、中には異端的な教えをもってカルトを作るような者も現れます。彼も初めは長老派の教会に属し、日曜学校でも教えていました。しかし16歳の時にイエス・キリストが彼の目の前に現れ、「わたしが果たせなかった神の御旨を、あなたが代わりに担ってもらいたい」と懇願したので、最初は恐れ多いと断るも、何度も何度も懇願されたので、「わかりました。私があなたのやり残した仕事を担いましょう。」と引き受けることにしました。1954年のことです。

その教えの特徴は、キリストを否定するところにあります。イエス・キリストは祭司ザカリヤとマリヤの間に誕生した不倫の子どもだと言います。イエスは創造目的を完成した人間にすぎず、だれでも努力によってその域まで達することができる。したがって、イエスは創造目的を完成した人間として神性を持っていましたが、神ご自身ではないし、神にはなりえません。イエス・キリストの十字架の贖いは不完全だったので、神が再臨のキリストを地上に送り、地上に天の御国建設の使命を託したというのです。その再臨のメシヤ、キリストこそ文鮮明だというのです。

 

何ともデタラメな教理ですが、こういう教えを信じる人たちもいるんですね。彼らに共通していることは、彼らは教会を去って行った者たちであるということと、イエスがキリストであることを否定する者たちであるということです。でも世の終わりが近くなると彼らだけでなく、こうした惑わす者たちがたくさん現れるようになります。「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすのです。ですから、私たちは惑わされることがないように気を付けなければなりません。どうしたらいいのでしょうか。

 

Ⅲ.キリストにとどまりなさい(26-29)

 

ですから、第三のことは「キリストのうちにとどまりなさい」ということです。26節から29節までをご覧ください。

「私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありません。あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。」

 

ヨハネはこの惑わす者たちについて、書いてきました。それは彼らがこうした反キリストの教え、偽りの教えに惑わされることなく、真理にとどまることによってです。24節には、「あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。」とあります。「もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。」

 

このヨハネの手紙におけるキーワードの一つは、この「とどまる」ということです。イエスがキリストであることを否定しないために必要なことは、私たちが初めから聞いていることにとどまることです。初めから聞いていることとは何でしょうか。それは「真理」です。20節と21節をご覧ください。ここには27節と同じことが書かれてあります。つまり、私たちには「聖なる方からの注ぎの油」があるので、みな真理を知っているのです。

 

ここに「知っている」ということばが繰り返して出てきます。この「知っている」ということばはこれまで出てきた「知る」ということばとは違うギリシャ語が使われています。これまで出てきた「知る」ということばはギリシャ語で「ギノスコー」ということばでしたね。それは表面的にではなく深く知るということでした。知的な面だけでなく体験的に知るということです。しかし、ここで使われている「知っている」ということばはギリシャ語で「オイラー」という語で、これは直感的に知るという意味です。パッと見ただけでわかります。瞬間的に物事の本質を判別することができるという意味です。ですから、異端的な教えを聞くとそれが間違っているということが直感的にわかるのです。何が、どのように違うのかを説明することはできないかもしれませんが、何か違うということが直感的にわかるのです。ピンときます。なぜでしょうか?20節にあるようにも私たちには「聖なる方からの注ぎの油」があるからです。この「注ぎの油」については27節にも繰り返して書かれてあります。「聖なる方からの注ぎの油」とは何でしょうか。それは聖霊のことです。すなわち、私たちには聖霊が注がれているので、聖霊が私たちに真理を教えてくれるのです。ヨハネの福音書には、この方は「真理の御霊」と言われています。「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。」(ヨハネ16:13)この注ぎの油が、すべてについてあなたに教えてくれるのです。ですから、エホバの証人の教えを知らなくても、モルモン教の教えがわからなくても、統一協会の教えを知らなくても、ピンときます。それが違うということが直感的にわかるのです。ちょっと聞いただけで、「あっ、違う」とパッとわかる。「ちょ」「ピン」「パッ」です。

 

ですから、キリスト教の三大異端について詳しく学ばなくてもいいし、学ぶ必要もありません。私たちに必要なのは真理にとどまることです。本物に触れることです。本物を知れば、すぐに偽物を見分けることができます。銀行の行員さんは手で触っただけで偽札がわかると言います。なぜなら、いつも本物に触れているからです。ですから本物を知れば偽物がわかります。私たちは聖なる方からの注ぎの油があるので、真理を知っています。大切なのは、この真理にとどまることです。私たちの問題はこの真理から離れてしまうことです。自分の置かれた状況に振り回されたり、人のことばに影響されて、真理から離れてしまうのです。

 

信仰の父と称されているアブラハムでさえ神が約束した地に入ることができたのに、そこにききんがあったとき、エジプトに下って行ってしまいました。それは神のみこころではありませんでした。神のみこころはそこにとどまっていることでた。それなのに彼はとどまっていることができませんでした。かぜでしょうか。神ではなく問題を見たからです。自分の生活が脅かされるのではないかと心配して、神に信頼することができなかったからです。彼にとって必要なのは神のことばに信頼し、そこにとどまっていることだったのです。

 

それは私たちにも言えることです。私たちも真理を信じています。しかし、自分の予期せぬことが起こったり、どうしようもない問題の渦に巻き込まれたりするとき、神のことばにとどまることができず、そこから離れてしまうことがあります。私たちは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなければなりません。もしそこにとどまっているなら、私たちも御子と御父のうちにとどまることができます。これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。

 

イエス様はこのことをぶどうの木と枝の関係にたとえて、こう言われました。

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:4-5)

 

さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。世の終わりが近くなると多くの反キリストが現れて、私たちの信仰を惑わし、私たちは揺れに揺れますが、しかし、終えし得られたとおり、御子のうちに、キリストのうちにとどまりましょう。これこそ終わりの時に生きる私たちクリスチャンの歩みなのです。

士師記1章

今回から士師記の学びに入ります。まず1節をご覧ください。
「さて、ヨシュアの死後、イスラエル人は主に伺って言った。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなければならないでしょうか。」」
士師記は「ヨシュアの死後」から始まります。そして士師記の最後、21章25節には、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」とありますが、ヨシュアが死んでから最初にイスラエルの王となったサウロに油を注いだ最後の士師サムエルが没するまでの約300年間(B.C.1381-1050)、イスラエルの民がどのような歩みをしていたのかの歴史が記されてあります。

「士師」とは、「さばきつかさ」のことです。それは一言でいえばイスラエルの指導者のことです。イスラエルが敵によって苦しめられているとき、軍事的指導者として戦い、また行政的にも司法的にも指導的役割を果たしました。

全体の内容は大きく分けると三つに分けられます。第一のパートは1章から2章にかけて、ヨシュア死後のイスラエル人とカナン人の敵対関係について、第二のパートは、3章から16章にかけて士師による苦難からの解放の様子について、そして第三のパートは、17章から21章にかけて、イスラエルの民の霊的状態、すなわち、イスラエルの民はおのおの自分の目に正しいと見えることを行ったため、社会は無秩序でめちゃくちゃな状態となっていたということです。

それでは、早速1章を見ていきたいと思います。まず1節から21節までをご覧ください。まず7節までをお読みします。

Ⅰ.アドニ・ベゼク(1-21)

「さて、ヨシュアの死後、イスラエル人は主に伺って言った。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなければならないでしょうか。」すると、主は仰せられた。「ユダが上って行かなければならない。見よ。わたしは、その地を彼の手に渡した。」そこで、ユダは自分の兄弟シメオンに言った。「私に割り当てられた地に私といっしょに上ってください。カナン人と戦うのです。私も、あなたに割り当てられた地にあなたといっしょに行きます。」そこでシメオンは彼といっしょに行った。ユダが上って行ったとき、主はカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らはベゼクで一万人を打った。彼らはベゼクでアドニ・ベゼクに出会ったとき、彼と戦ってカナン人とペリジ人を打った。ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らはあとを追って彼を捕え、その手足の親指を切り取った。すると、アドニ・ベゼクは言った。「私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」それから、彼らはアドニ・ベゼクをエルサレムに連れて行ったが、彼はそこで死んだ。」

ヨシュアの死後、イスラエル人は主に尋ねました。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦うべきでしょうか。」
なぜイスラエル人はこのように主に尋ねたのでしょうか。イスラエル人はカナン人と戦って勝利し、既にヨシュアによってその地の割り当て地が与えられていたはずです。しかし、それでもまだ完全に占領していたというわけではなく、まだ占領すべき地が残っていたからです。ヨシュア記13章1節には、主がヨシュアにこう言ったとあります。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」神の約束にしたがって、確かにヨシュアはその地を自分たちのものにすることができましたが、それでもなお占領すべき地は残っていたのです。ですから、ヨシュアが死んだ後も彼らは戦い続けなければなりませんでした。

すると、主は仰せられた。「ユダが上って行かなければならない。」ユダ族はカレブによって導かれた最も勇敢な部族です。ですから、上って行ってその地の住民と戦うのに最もふさわしい部族だったのでしょう。それでユダは兄弟シメオンと一緒に上って行きました。シメオン族はユダ族に吸収されるかのように、ユダ族の中に割り当て地を受けていたので、ユダとしては兄弟の中でも特に親しみを感じていたのでしょう。兄弟の中の兄弟という感覚があったに違いありません。

それで彼らが上って行くと、ベゼクでアドニ・ベゼクと戦い、カナン人とペリジ人を討ちました。ベゼクとは、マナセ族の領地のちょうど真ん中ぐらいにある町です。すなわちユダとシメオンは北上してこの町の王アドニ・ベゼグと戦ったのです。そして、そこに住んでいたカナン人とペリジ人を討ちました。

ところが、その時アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らは後を追って捕らえ、その両手両足の親指を切り落としました。これは何とも残虐な行為のようですが、相手を戦うことができないよう状態にしたということです。手の親指がなければ剣を持って戦うことができないし、足の親指がなければ、体全体のバランスをとることができず、立って歩くこともできません。結局彼はエルサレムに連れて行かれて死にました。

その時彼が言ったことばに注目してください。7節です。彼は「神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」と言いました。かつて自分が行なった罪深い行為の報いを受けていると思ったのです。かつて70人の王たちにした報いを受けて、自分の同じようにされていると思ったのです。確かに神は人の悪を憎まれます。そしてその悪に対して正しく報いを与えられます。しかし、もし彼が「神が愛と憐れみの満ちた方」だということを知っていたら、同じ状況になっても違うことを言ったのではないでしょうか。「神様、私は罪人です、私の罪を許して下さい。私の両手両足の親指が失われた事は自業自得です。でも、私の人生はあなたのものですし、あなたが始められたのですから、たとえ人が私の親指を奪い去っても、あなたの愛と計画を持ち去ることは出来ないでしょう。あなたはきっと私の人生を癒して生き返らせて下さいます。どうか私を助けて下さい。」その時、彼の指は回復しなかったとしても彼の霊的な手足は回復して、失意から希望に変えられたに違いありません。私たちも自業自得というようなことがよくありますが、それでも神は愛と憐みに満ちた方であると信じて、この神の前にへりくだり、神のあわれみを受ける者でありたいと思います。

次に8節から15節までをご覧ください。
「また、ユダ族はエルサレムを攻めて、これを取り、剣の刃でこれを打ち破り、町に火をつけた。その後、ユダ族は山地やネゲブや低地に住んでいるカナン人と戦うために下って行った。ユダはヘブロンに住んでいるカナン人を攻めた。ヘブロンの名は以前はキルヤテ・アルバであった。彼らはシェシャイとアヒマンとタルマイを打ち破った。ユダはそこから進んでデビルの住民を攻めた。デビルの名は以前はキルヤテ・セフェルであった。そのときカレブは言った。「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」ケナズの子で、カレブの弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、「何がほしいのか。」と尋ねた。アクサは彼に言った。「どうか私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこでカレブは、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。」

その後、ユダ族はエルサレムを攻めてこれを取りました。そこにはエブス人という強力な敵がいましたが、そこも攻め取りました。その後彼らは南下して、山地やネゲブやシェフェラに住んでいたカナン人を攻めました。ネゲブとは砂漠地帯、シェフェラとは山地と平地の間の丘陵地帯、すなわち、低地のことです。ですからこれは、ユダ族が山地と低地と砂漠地帯一体で戦いを繰り広げたということです。そしてヘブロンに住んでいたカナン人も攻めました。ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバと言います。ヨシュア記14章15節には、このアルバという人物はアナク人の中で最も偉大な人物であったとあります。そのアルバの三人の息子シェシャイとアヒマンとタルマイが住んでいましたが、それも攻めて討ちました。

しかし、そんなカレブでしたが、かなり厳しい戦いを強いられたことがありました。それはキルヤテ・セフェルとの戦いです。それでカレブは「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」(12)と言って、自分の娘を褒美として与えてまでもこの地を攻め取ろうとしました。そのとき手を上げたのが、ケナズの子オテニエルでした。彼はこのキルヤテ・セフェルを攻め取ったので、カレブは彼に自分の娘のアクサを妻として与えました。

彼女が嫁ぐとき、彼女は夫に畑を求めるようにしきりに促すも、彼女が求めたものは湧き水でした。それでカレブは彼女に、上の泉と下の泉を与えました。どうして彼女は畑ではなく湧き水を求めたのでしょうか。それは15節にあるように、そこがネゲブの地、すなわち、砂漠地帯だったからです。どんなに畑を求めてもその畑を耕して収穫を得るためには水が必要です。それでアクサは湧き水を求めたのです。カレブは、娘のこの要求を非常に喜び、上の泉だけでなく下の泉も与えました。この泉とはため池のことです。ため池は、降水量が少なく、流域の大きな河川に恵まれない地域などでは農業用水を確保するために水を貯え取水ができるよう、人工的に造成されました。、カレブはこの泉を与えたのです。

これは私たちの信仰生活においてとても重要なことを教えていると思います。すなわち、私たちには土地が必要ですが、収穫のためにはより根源的なものが必要であるということです。ではより根源的なものとは何でしょうか。それが泉なのです。とかく私たちは表面的なものに関心が向き、それを求めがちですがもっと重要なのはより本質的なもの、より根源的なものです。それは、祈りとみことばであり、そこから湧き出てくる神のいのち、聖霊の満たしです。私たちがまず求めなければならないものはこの神の国とその義であって、そうすれば、それに加えてすべてのものが与えられ、神の御業があらわされるようになります。そうでないと、私たちの信仰は極めて表面的で、薄っぺらなものになってしまうでしょう。そして人間としての本来の在り方というものを失ってしまうことになってしまうことになります。そのようにならないように、私たちはいつも私たちの中に祈りの祭壇を築き、神のいのちに満ち溢れることを求めていかなければなりません。

次に16節から21節までをご覧ください。
「モーセの義兄弟であるケニ人の子孫は、ユダ族といっしょに、なつめやしの町からアラデの南にあるユダの荒野に上って行って、民とともに住んだ。ユダは兄弟シメオンといっしょに行って、ツェファテに住んでいたカナン人を打ち、それを聖絶し、その町にホルマという名をつけた。ついで、ユダはガザとその地域、アシュケロンとその地域、エクロンとその地域を攻め取った。主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。彼らはモーセが約束したとおり、ヘブロンをカレブに与えたので、カレブはその所からアナクの三人の息子を追い払った。ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住んでいる。」

モーセは、ミデヤンの祭司イテロのところに住み、そこでチッポラを妻としました。ですからモーセにはイテロの息子たちである義兄弟がいたのです。それがケニ人です。そのケニ人の子孫がユダ族といっしょになつめやしの町からアラドの南にある荒野に上って行き、そこの民とともに住みました。「なつめやしの町」とはエリコのことです。エリコから南にあるユダの荒野に上って行きました。彼らにとって荒野の方が住みやすかったのでしょう。

ユダ族の快進撃は続きます。今度は兄弟シメオンと一緒に行って、ツェファテに住んでいたカナン人を討ち、そこを聖絶しました。さらにアシュケロンとその地域、エクロンとその地域も攻め取りました。このアシュケロン、エクロンは海岸地域です。後にペリシテ人が住むようになる土地です。ですから、彼らはかなり広範囲にわたって攻め取ったことがわかります。どうしてこのように広範囲にわたって攻め取ることができたのでしょうか。それは主がともにおられたからです。主がともにおられたので、ユダは山地を占領することができました。しかし、平地の住民は追い出すことができませんでした。鉄の戦車を持っていたからです。けれども、それは理由になりません。主がともにおられるのであれば、たとえ敵が鉄の戦車を持っていても何の問題もないからです。それなのに追い出すことができなかったのは、神の約束よりもその置かれた状況を見て恐れたからです。主ご自身よりも鉄の戦車の方が大きくなってしまったのです。主ご自身がともにおられその敵と戦われるのですから、彼らにとって必要だったのはただ主に聞き従うことだったのです。それなのに彼らは敵の戦車を見て恐れてしまいました。ユダは完全に聞き従わなかったのです。

このようなことが私たちにもあります。主に従ってはいるけれども中途半端な従い方をしてしまうということが・・・。私たちは、自分で克服できる問題には信仰をもって対処しますが、克服できないと思うことに対しては逃げてしまうことがあるのです。ちょうど「鉄の戦車があるから」という言い訳をしてしまうのです。けれども、このように信仰において妥協があると、最終的に肉が共存し、自分自身を苦しめてしまうことになってしまいます。

21節をご覧ください。それはベニヤミン族も同じでした。ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住むようになりました。エルサレムも、谷にいた住民のように、地形的に敵が入り込めないようになっており、自然の要塞となっていました。けれども、それでエブス人を倒すことができないという言い訳にはなりません。彼らには全能の主がついておられたのですから。実際に後にダビデがエブス人と戦うようになりますが、その時まで何百年も本当は攻略することができたのに攻略せず、戦いを先延ばしにしていただけなのです。私たちは逃げることはできません。ただ前進して戦うのみです。主がともにおられるなら、主が勝利を与えてくださいます。それを信じて前進するかどうかです。鉄の戦車を見ておびえてはなりません。難攻不落の要塞を見てあきらめてはならないのです。主が戦ってくださることを信じて、主の命令に従って前進しなければならないのです。

Ⅱ.ヨセフの一族によるべテル奪回(22-26)

次に22節から26節までご覧ください。ここにはヨセフ一族によるベテロの奪回のことが記されてあります。
「ヨセフの一族もまた、ベテルに上って行った。主は彼らとともにおられた。ヨセフの一族はベテルを探った。この町の名は以前はルズであった。見張りの者は、ひとりの人がその町から出て来るのを見て、その者に言った。「この町の出入口を教えてくれないか。私たちは、あなたにまことを尽くすから。」彼が町の出入口を教えたので、彼らは剣の刃でこの町を打った。しかし、その者とその氏族の者全部は自由にしてやった。そこで、その者はヘテ人の地に行って、一つの町を建て、その名をルズと呼んだ。これが今日までその名である。」

「ヨセフの一族」とは、マナセ族とエフライム族のことです。彼らはベテルに上って行きました。ベテルはエルサレムの北19キロに位置し、ベツレヘムとエフライムの境にある町です。以前は、ルズと呼ばれていました。しかし、ヤコブが兄エサウのもとから逃れてハランに住む叔父ラバンのもとへ向かう途中ここで天からのはしごの夢を見たことで、ここをベテル、「神の家」と呼ぶようになりました。かつてアブラハムもネゲブに向かう途中でこのベテルに滞在して、祭壇を築きました。そういう意味ではとても霊的に重要な町です。

ヨセフ一族はこのベテルを攻略するにあたりその町を探るも、なかなか攻略の糸口が見つかりませんでした。そこで彼らはその町から出てきた人を見て、「この町に入るところを教えてほしい。」と言います。「そうすれば私たちも、あなたに誠意を尽くすから。」と。かつてイスラエルがエリコを攻略した際にラハブにしたようにです。するとその人は町の出入り口を教えてくれたので、彼らは剣の刃でこの町を討ちました。しかし、教えてくれたその人とその氏族の者はみな約束したとおり自由にしてやりました。自由になったその人はどうしたかというと、ヒッタイト人の地に行って町を建て、その町をルズと呼びました。このヒタイト人とはヘテ人のことで、北シリア,アナトリア一帯を領有していたと言われています。(アマルナ文書)

Ⅲ.カナン人を追い払い得なかった村落のリスト(27-36)

最後に27節から36節までを見て終わりたいと思います。 ここにはマナセ、エフライム、ゼブルン、アシェル、ナフタリ、ダンといったカナンの中部と北部に定住した部族がカナン人を追い払わなかった村落のリストが記されてあります。

まずマナセ部族です。27節と28節をご覧ください。「マナセはベテ・シェアンとそれに属する村落、タナクとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、イブレアムの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落は占領しなかった。それで、カナン人はその土地に住みとおした。イスラエルは、強くなってから、カナン人を苦役に服させたが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。」

エフライムも同じです。29節です。「エフライムはゲゼルの住民カナン人を追い払わなかった。それで、カナン人はゲゼルで彼らの中に住んだ。」
マナセとエフライムはカナン人を苦役に服させましたが、完全に追い払うことをしませんでした。苦役に服させるのと追い払うのでは大きな違いがあります。私たちは、肉を十字架につけて殺してしまわなければいけません。それなのに、その肉をそのままにして表面的に対処しようとすると、それが共存して逆にそれによって悩まされることになってしまうのです。彼らはいつもこうした弱さがありました。ヨシュア記17章16節にも、かつてヨシュアがマナセとエフライムに「戦いなさい」と鼓舞したのに、彼らはヨシュアにこういう言い訳をしました。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。(ヨシュア17:16)」
鉄の戦車が問題なのではありません。問題はだれとともに戦うのかということです。主が共に戦ってくださるのであれば何の問題でもありません。しかし、彼らは自分たちにできるかできないかを計算することで、信仰によって踏み出すことをしませんでした。

次はゼプルンです。30節には、彼らはキテロンの住民とナハロルの住民を追い払わなかったので、カナン人は彼らのただ中に住み、苦役に服しました。

次はアシェルです31,32節をご覧ください。彼らもアッコの住民やシドンの住民などを追い払わなかったので、その土地の住民の中に住みました。ここではカナン人が彼らの中に住んだのではなく、彼らがカナン人の中に住んだとあります。霊と肉が逆転しています。追い払うことをしないと支配していると思っていても、逆に支配されるようになってしまいます。

次はナフタリです。33節です。彼らもベテ・シェメェシュの住民やベテ・アナトの住民を追い払わなかったので、その土地に住むカナン人の中に住みました。

最後はダン族です。34節から36節です。「エモリ人はダン族を山地のほうに圧迫した。エモリ人は、なにせ、彼らの谷に降りて来ることを許さなかった。こうして、エモリ人はハル・へレスと、アヤロンと、シャアルビムに住みとおした。しかし、ヨセフの一族が勢力を得るようになると、彼らは苦役に服した。エモリ人の国境はアクラビムの坂から、セラを経て、上のほうに及んだ。」
ダン族がもっとも状況がひどいです。彼らは自分たちの割り当て地に住むことさえできませんでした。追い払うのではなく、追い払われてしまいました。ヨセフの一族とはエフライム族のことです。彼らが強くなったとき、エモリ人を苦役に服させました。

モーセ(申命記7章)とヨシュア(ヨシュア記23章)の警告を聞き入れなかった結果が、この士師記の種々のエピソードにつながっていきます。どんなに自分の目で良いと思えることでもそれが神の命令にかなったものでなければ、神に従うべきです。「十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい」(ヨシュア23:11)とヨシュアは警告したが、真に、私たちは自らの霊性を守る歩みが求められています。そのことに私たちが気づかされ、この世の倫理、この世の考え方に流されず、それらを超えた聖書の教えに立つことができるように、祈り歩ませていただきましょう。

Ⅰヨハネ2章12~17節 「世を愛してはならない」

 ヨハネの手紙から学んでおります。1章のところでヨハネは光の中を歩む人とはどういう人なのかについて述べました。それは自分が罪人であることを認め、その罪を悔い改める人です。そうすれば光であられる神と交わりを保ち、光の中を歩むことができます。御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださるからです。

 そして前回のところでは、光の中を歩む人のもう一つの特徴を述べました。それは兄弟を愛するということです。自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいるのであって、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかがわかりません。闇が目を見えなくしているからです。しかし、自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。

 きょうのところには、光の中を歩む人のもう一つの姿が描かれています。それは御父を愛するということです。言い換えると、世を愛さないということです。もしだれかが世を愛するなら、その人のうちに御父の愛はありません。きょうはこの「世を愛してはならない」ということについてお話ししたいと思います。

 Ⅰ.子どもたち、若者たち、父たち(12-14)

 まず12節から14節までをご覧ください。
「子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが、御父を知るようになったからです。父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」

ヨハネは1節で、「私の子どもたち」と呼びかけて、彼らが罪を犯さないようにと勧めましたが、ここでもまた「子どもたち」と呼んでいます。しかし、ここでは「子どもたち」だけでなく、「父たち」、「若者たち」という呼びかけもなされています。どういうことでしょうか。おそらくこれは、神の家族の構成というか、クリスチャンの霊的成長段階を表しているのではないかと思われます。つまり、神の家族には信仰的に子どものような人がいれば、若者のような人、そして父のような人がいるということです。それは単に年齢的にそうであるということではなく、霊的成長の段階においてそうであるということです。この世では幼児、青年、成人、そして老人という四つのステージに分けられますが、クリスチャンの成長段階は子供たち、若者たち、父たちの三つの段階に分けられるということです。

まず子供たちとはどういう人たちのことでしょうか。12節をご覧ください。ここには、「子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」とあります。14節には、「幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。」とあります。「子ども」と訳されている原語のギリシャ語では「テクニオン」と言う言葉で、これは、いわゆる「子ども」のことです。これに対して、「幼子たち」とは「ダイギオン」ということばが使われています。これは「小さな幼子」を意味しています。ですから、ここでは生まれたばかりの小さな幼子とちょっと成長した子どもを一つのカテゴリーに入れているのです。

この子どもたちに言われていることはどんなことでしょうか。それはイエスの血によってあなたの罪が赦されたということです。もう罪責感に悩むことはありません。あなたのすべての罪は赦されて神の子どもとされました。それは14節でも言われています。ここには、「幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。」とあります。「御父を知った」というのは、神がどのような方であるかを知ったということ、つまり、神は愛であるということを知ったということです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」(ヨハネ3:16)つまり、あなたの罪は赦されたという信仰の基本的事実を知ったということです。

これが信仰の出発点です。すべてのクリスチャンの土台であります。しかもここに「イエスの名によって」とあるように、それは自分の努力や決心によってではなく、イエスの御名を信じることによって一方的に与えられた恵みです。イエス様が十字架にかかって死なれ、三日目に死からよみがえってくださったことによって救いの御業は完成しました。この救いは、主イエスの御名を信じるすべての人にもたらされたのです。これがすべてのクリスチャンの土台です。御霊によって新しく生まれたクリスチャンはこの事実を知り、ここに立っていなければなりません。

しかし、罪赦されたクリスチャンはいつまでもそれだけにとどまっていてはいけません。そこから霊的にステップアップしていかなければならないのです。それが次の「若者たち」という段階です。13節をご覧ください。ここには「父たち」とありますが、その前にその後にある「若者たち」を見ていきましょう。子どもは急に父になるわけではなく若者という成長段階を通って父になっていくからです。この「若者たち」に言われていることはどのようなことでしょうか。ここには、「若者たち。私があなたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。14節にも同じことが繰り返して語られています。14節には、「若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」ほとんど同じ内容です。

「若い者たち」とは、「悪い者に打ち勝った」人たちです。それは霊の戦いにおいて勝利した人たちのことを指しています。すなわち、敵である悪魔の誘惑や攻撃に勝利した人たちのことです。頼もしいですね。血気盛んというか、力強さを感じます。人間の成長段階においても20代、30代の若者は力があります。あまり肉体的な疲れを感じません。まさかユンケルとかリポビタンDといった栄養剤を飲んでいないでしょう。集中力があります。それは信仰的にも同じで、彼らは霊の戦いにおいて悪い者に打ち勝つことができます。どのようにして打ち勝ったのでしょうか?14節には、「あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。それは神のことばにとどまることによってです。「とどまる」という言葉は、この手紙におけるキーワードの一つです。神のみことばがその人にとどまることによって、悪魔に打ち勝つことができるのです。逆にみことばにとどまっていなければ、敗北してしまうことになります。神のことばにとどまらない若者は無鉄砲のように、ただ勢いがあるだけでどこに飛んで行くかわかりません。しかし、神のことばにとどまるなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

次は「父たち」です。13節をご覧ください。「父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたが知るようになったからです。」これと同じことが14節にも繰り返して語られています。父たちの特質は何でしょうか。「初めからおられる方」を知っているということです。「初めからおられる方」とはだれのことですか。そうです、イエス・キリストのことです。ヨハネの福音書1章1~3節にはこうあります。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」

イエス・キリストこそ初めからおられた神です。父たちとは、この方を知るようになった人たちです。どういうことでしょうか?この「知る」ということばは原語のギリシャ語では「ギノスコー」ということばで、これはただ知識的に知るということではなく、体験的に知るという意味があります。つまり、この人たちはイエスを体験的に知ったことでこの方と深く交わり、その結果イエスのように変えられた人たちであるということです。これがクリスチャンの目標でもあります。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られました。良い行いをすることによって救われるのではなく、良い行いをするために救われたのです。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いさえもあらかじめ備えてくださいました。それはイエス様に似ることによって、イエス様のようになることによってもたらされます。ですから霊的に成熟している人たちを見てください。だれの目にも魅力的です。輝いています。理想的ですね。何があっても動じません。そこには平安があります。いつも内なる喜びにあふれているのです。

先日、東京バプテスト教会の阿久津恵美さんが二人のご友人と一緒にさくらの教会を訪ねてくださいました。阿久津さんは大田原のご出身の方ですが東京に行ってから教会に行くようになりクリスチャンになられました。大田原の出身の方がどうやって信仰に導かれたのかとても興味があり、大田原に向かう車の中で尋ねました。「ところで、阿久津さんはどうやってクリスチャンになられたのですか?」すると彼女はこう答えられました。
「私はキリスト教の幼稚園に通っていたので小さい時からキリスト教には抵抗はなかったんですが、上京して就職した職場がかなり殺伐としていて人間関係も最悪だったんです。しかしその中に一人だけいつもにこにこしていて平安そうな同僚がいたんです。だからその人に、「あなたはどうしてそんなに平安でいられるの」と尋ねたら、その人はクリスチャンで毎週教会に行っているということでした。それで違う教会でしたが日曜日に教会に行ってみたんですが、皆さんとても温かく迎えてくださいました。でもあまり伝道してくれなかったので結局クリスチャンになるまで10年くらいかかっちゃったんですが、イエス様を信じることができて感謝です。」

イエス様のような人はだれの目にも明らかです。いろいろな困難や苦しみがあっても動じません。だれもがそのようになりたいと思うような魅力をもっています。それが霊的大人です。ここでは「父たち」と呼ばれています。言い換えると、そのような人はイエス様だけで十分ですという人です。イエス様が自分のすべてなのです。前回のところにも、「神のうちにとどまっているという人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。」とありましたが、そういう人は、イエス様が歩まれたように歩みます。イエス様ならどうするかということを考えて歩むのです。若い時はそうではありませんでした。あれもこれもといろいろなことに関心がありました。しかし霊的に成熟してくるとだんだん一つに絞られていきます。イエス・キリストだけで十分ですとなるのです。

使徒パウロは、Ⅰコリント2章2節でこう言っています。「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」(Ⅰコリント2:2)
彼は十字架につけられたイエス・キリストで十分でした。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及しますが、彼は十字架につけられたイエス・キリストで十分でした。なぜなら、キリストは神の力、神の知恵であられるからです。かつてパウロはあれもこれもといろいろ追い求めていましたが、神のお取り扱いを受けると彼の関心一つのことに絞られました。それが初めからおられる方を知るということだったのです。

皆さんはどうでしょうか。皆さんは今どの段階におられるでしょうか。皆さんが子どもであることはすばらしいことです。イエス様を信じて罪赦されたということは最高の祝福です。それはすべてのクリスチャンが知らなければならないことであり、すべてのクリスチャンの土台です。でもそこにとどまっていてはなりません。私たちはさらに成長することができます。若者として勝利を味わうことができます。みことばによって霊の戦いに勝利することができるのです。しかし、そこで止まっていてもいけないのです。さらに進んですばらしい霊的高嶺に達することができます。それは初めからおられた方を知るということ、イエス・キリストのようになることです。それを目指して進まなければなりません。

Ⅱ.世を愛してはならない(15-16)

では、イエス様だけを愛し、イエス様だけを求めて生きるためにはどうしたらいいのでしょうか。15節と16節をご覧ください。「あなたは世をも世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものです。」

これは子どもたちだけでなく、若者たちにも、父たちにも、すべての人に対して語られていることです。それは世も世にあるものも、愛してはならないということです。どういうことでしょうか?これは「社会から孤立して生きなさい」ということではありません。また、「自分の趣味や楽しみはすべて捨てなければならない」ということでもないのです。また、社会から離れれば離れるほど自分がきよくされると思い込んで、「私は新聞など読みません。新聞などという世のものに触れると心が汚れますから。」とか、「テレビも見ません。見るのはNHKと『ライフライン』だけです」というのでもありません。ここで言われている「世」とは、神によって造られながら神を認めようとせず、神に敵対して悪魔の支配下にある領域のことです。つまり、「御父から出たものではなく、この世から出たもの」です。それはどういうものかというと、16節にあるように、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」といったものです。悪魔はこのようなものをもって人を神から引き離そうと誘惑してきます。

「肉の欲」とは何でしょうか。「肉の欲」とは、人間の持って生まれた肉の性質、堕落した罪深い性質のことです。ガラテヤ5章19~21節には、「肉のわざは明らかです。すなわち、みだらな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。」とあります。
詳訳聖書には、この「肉の欲」とは「官能的な満足に対する渇望」とあります。この世の不品行や姦淫とかいわゆる性的不道徳な欲望のことだと言われています。一般に、欲それ自体は問題ではありません。性欲にせよ食欲にせよ、ほんらい神様が人間に与えられたよいものです。しかし、これらの欲は神様がお許しになったルールのなかでのみ人間を幸福にするのであって、それを超えて脱すると肉の欲となってしまいます。

「目の欲」とは何でしょうか。目の欲とは、外側から目を通して入ってくる誘惑のことです。ものの外観に惑わされ、真の価値を見失ってしまうことです。井戸垣彰先生は、「目の欲は肉の欲が働く入口である。」(「新聖書講解シリーズ」P157)と言っています。「肉の欲」はしばしば目から入ってくるからです。たとえば、エバが食べてはならないという木の実を取って食べたのは、悪魔に誘惑されて、それを見たからです。それを見ると、その木は食べるのによさそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかったのです。それで彼女はその見を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べました。また、ダビデがバテシェバと姦淫を行った時も、自分の部下であるウリヤの妻バテシェバを見て、その美しさに魅了されたのが原因でした。

人は何を見るかによって思いが形成され、それが行動に現れていきます。ですからイエス様も、情欲をいだいて女を見るものは、姦淫を犯したと言われたのです。それは心で犯す罪のことです。ですから、何を見るかということはとても重要なことなのです。あなたは何を見ているでしょうか。目の前にどんなものを置いていますか。気を付けたいですね。目の欲は私たちの回りにあふれています。そして目の欲は飽くことを知りません。それが私たちの肉をあおるのです。ですから、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)とあるように、目に注意しましょう。いつも良いものを見るようにしたいものです。そして、御霊に満たされ、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22-23)とあるように、御霊の実を身につけたいと思います。
                     
次は「暮らし向きの自慢」です。「暮らし向きの自慢」とは、英語では「Pride of life」とあります。それは自分の生活を誇ることです。たとえば自分がどんな豪邸に住んでいるかとか、どんな高級車に乗っているか、どれだけ貯金があるか、ブラントもののバッグを持っているかといったことです。あるいは、自分がどんなに賢い人間かを誇ることもそうです。大邸宅に住むこと自体が罪ではないし、ベンツやBMWといった高級車に乗ることも罪ではありません。貯金をすることも、ブランドもののバッグやスーツを持っていることも、それ自体では罪ではありません。しかし、そのようなものを持っているから自分を偉いと思うならば、そうした虚栄心やおごりがあるとしたらそれは世を愛しているのであって、御父から出たものではありません。

いったいなぜこの世にあるものを愛してはならないのでしょうか。15節と16節をもう一度ご覧ください。ここにその理由が記されてあります。それは、「もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。」それは「御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」すなわち、もしこの世を愛するなら、そこには、御父を愛する愛はありません。愛の性質上、人は二つのものを同時に愛することはできません。一方を愛して他方を憎むか、一方を重んじて他方を軽んじることになるからです。イエス様はこのことをマタイの福音書6章24節でこのように言われました。
「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」

多くの人が悩むのは、同時に二人の主人に仕えようとするからです。しかし同時に二人の主人に仕えることはできません。神にも仕え、富にも仕えることはできないのです。神に仕えるのか、富に仕えるのか、二つに一つであって、その中間などは絶対にないのです。両方を大事にし、両方に仕えようとするなら、間違いなく神以外のものに支配され、飲み込まれてしまうことになってしまうでしょう。

Ⅲ.世と世の欲は過ぎ去る(17)

ではどうしたらいいのでしょうか。17節をご覧ください。「世と世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」

どうして世と世の欲を愛してはならないのでしょうか。ここにもう一つの理由が述べられています。それは過ぎ去ってしまうものだからです。いつまでも続くものではありません。永続しないものに愛を注いで何になるでしょう。何にもなりません。すべては水の泡です。この世に重きを置くなら、残念ながら最後は消えて無くなってしまいます。

しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。それは岩の上に家を建てた人のようです。イエス様はマタイの福音書7章のところでこう言われました。
「ですから、わたしのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」(マタイ7:24-27)

あなたは何の上に土台を据えていますか。岩の上ですか、それとも砂の上ですか。この世に土台を据えるなら、それは見え目では良いかもしれませんが、人生に洪水が押し寄せたると、倒れてしまうことになります。しかし神のみこころを行うならば、永遠の神の国に土台を据えて生きるなら、どんな嵐が襲って来てもびくともすることはありません。岩の上に建てられているからです。これこそ神を愛する者、神のみこころを行う者です。

私たちの信仰生活の目標はイエス様のようになることです。しかしその過程にはそれを妨げるものが何と多いことでしょう。様々な誘惑があります。悪魔は、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といったものをもって誘惑してきます。だからヨハネは、私たちが罪を犯さないためにどうしたらいいのかを教えているのです。それはイエス・キリストです。私たちには御父の前で弁護してくださる義なるイエス・キリストがおられるのです。この方が助けてくださいます。
「あなたがたの経験した試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

イエス様も私たちと同じ試練を経験なさいました。四十日四十夜、断食した後で荒野に上って行かれました。すると試みる者がやって来て、イエス様を誘惑しました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」(マタイ4:3)
これは肉の欲です。空腹を覚えているときそんなことを言われたら、どの石もパンのように見えるでしょう。でもイエス様は答えて言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」(マタイ4:4)
大切なのは神のみことばが何と言っているかであって、自分の肉の欲を満たすことではないと言って退けました。

すると再び悪魔がやって来て、今度はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の頂に立たせて言いました。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。神はあなたのために御使いを送り、その両手であなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たらないようにするでしょう。」(マタイ4:6)
これは暮らし向きの自慢です。もしそうなれば英雄になれるでしょう。自分がどんなにすごい者なのかを誇ることができます。でもそんな悪魔の誘惑に対してイエス様はキッパリと言いました。「あなたの神である主を試みてはならない」と書いてある。」(マタイ4:7)

すると今度はイエス様を高い山に連れて生き、この世のすべての王国と栄華を見せて言いました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」(マタイ4:8)
これも大きな誘惑ですね。人は目に見えるものに弱いからです。私はいつも教会の隣の土地を見ていて、「ここが教会の駐車場になったらいいなぁ」と思っていますが、そんな時、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを上げようと言われたら、心がグラグラするのではないかと思います。グリグラですよ。しかし、イエス様はこう言われました。「下がれ。サタン。あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい。」(マタイ4:10)
すると悪魔はイエス様を離れて行きました。イエス様はここにある肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といった悪魔の誘惑に勝利しました。なぜでしょうか。御父を愛しておられたからです。御父から出ておられたからです。神から出た者は、神のみこころを行います。

そして、このイエス様が、いつも私たちとともにいてくださいます。それは私たちの模範のためでした。イエス様は私たちが受ける試練や誘惑を前もって経験され、それをよく知っておられました。この方があなたとともにいて助けてくださいます。あなたは決して一人ではありません。主がいつも共にいて助けてくださることをどうぞ忘れないでください。そして、この主にあって悪魔の誘惑に勝利させていただきましょう。世と世にあるものを愛するのではなく、あなたのためにいのちを捨てるほど愛してくださった主を愛しましょう。そのようにして少しずつでもイエス様のような者に変えられていくことを求めていきたいと思います。

Ⅰヨハネ2章1~11節 「兄弟を愛する」

 前々回からヨハネの手紙から学んでおります。ヨハネがこの手紙を書いたのは、この手紙の読者が、御父および御子イエス・キリストとの交わりに入ってほしかったからです。ここにいのちがあります。このいのちの交わりに入れられるなら、喜びにあふれるようになります。当時は多くの反キリストが現れていた闇の時代でした。そうした闇の中にあってもいのちであられる神との交わりを持つなら希望と力が与えられます。喜びに満ちあふれた人生を歩むことができるのです。

 それでは、キリストとの交わりに入れられた人の歩みとはどのようなものでしょうか。ヨハネは続いてこう言いました。1章5節、「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には全く闇がないということです。」したがって、6節にあるように、「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」つまり、神と交わりを持っていると言うのなら、光の中を歩むはずだというのです。とは言っても、私たちは弱い者であり、自分でこうすると決断してもすぐにその意思はどこかへ行ってしまい、気づいたら闇の中を歩んでいることがあります。光の中を歩むにはふさわしい者ではありません。

 大丈夫です、神はそのことを重々承知のうえで、私たちを助けてくださいますから。それはイエス・キリストの血です。御子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。ですから、自分には罪がないと言うのではなく、自分にはそうした弱さや罪があるということを認めて、その罪を悔い改めなければなりません。もし私たちが罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。そうです、光の中を歩む人というのは自分が罪人であることを認めて、その罪を悔い改める人のことなのです。そうすれば神の愛と赦しという光が差し込んできます。そうすれば光であられる神との交わりを保ち、光の中を歩むことができるのです。

 きょうの箇所には、この光の中を歩む者のもう一つの姿が描かれています。それは兄弟を愛するということです。

 Ⅰ.義なるイエス・キリスト(1-2)

 まず1節と2節をご覧ください。
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」

 ここに、ヨハネがこの手紙を書いたもう一つの目的が書かれてあります。それは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。罪を犯した後で告白して赦されることは恵みですが、そうなる前に、罪に打ち勝って正しく行動できるのはもっとすばらしいことです。

 しかし現実的に罪を犯さないで生きるというのは難しいことです。三浦綾子さんは、その著「孤独のとなり」の中で「わたしたち人間は罪を犯さずには生きていけない存在だということである。」と言っておられますが、罪を犯さずに生きていくことはできないのです。正しく歩もうとすればするほど、自分の愛のなさ、心の醜さ、冷たい言葉などに心を痛めます。ですから、罪を犯さないというのは無理なのです。

しかしここに慰めがあります。私たちが罪を犯してうなだれる時、「それでもお前はクリスチャンか」と悪魔が責め立てるような時、その背後にある神の約束のみことばにより頼むからです。ここには、「しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」とあります。
これは人間社会と全く逆です。人間の社会では、それまでは立派な人間として評価されていた人でも、ひとたび罪を犯したらすぐに放り出されてしまいます。先日も5人組の若者人気グループの一人が罪を犯したら、そのとたんすべてのテレビ局が彼をシャットアウトしました。社会的な影響を考えるとやむを得ないことだと思いますが、これがこの社会の現実なのです。しかし聖書が告げる弁護者は違います。その方は「義なるイエス・キリスト」です。キリストは、もしだれかが罪を犯したなら御父の前でとりなしてくださいます。この「とりなしてくださる方」という言葉は、新改訳第三版では「弁護してくださる方」と訳されています。ヨハネの福音書14章6節では「助け主」とも訳されています。人は罪を犯した時こそ助けが必要です。その助け主こそ、弁護してくださる方、義なるイエス・キリストなのです。

 キリストはどのように助けてくださるのでしょうか。キリストが私たちを弁護してくださるのは、人間の弁護士のように無理に無罪を勝ち取ろうと主張したり、情状酌量を訴えたりすることによってではありません。その罪に対する神の審判は正しく、私たちは死刑を宣告されても致し方ないような者ですが、キリストはそんな私たちの罪のために宥めのささげ物となってくださるのです。

ここでは裁判のイメージで語られています。私たちが罪を犯して落ち込んでいる時に、私たちを訴える者がやって来て、「おい、おまえ。それでもクリスチャンか。」と言うわけです。「もうクリスチャンなんてやめた方がいいんじゃないか。そもそも神様はお前なんか愛していない。おまえがやったことは決して赦されないんだぞ」と訴えてくるのです。そして、裁判官である神様に向かい、「神様、これはどうしようもない人間です。クリスチャンとは名ばかりで、見込みがありません。もう面倒見てもしょうがないです。罰を与えてください。ギャフンと言わせてください。」と訴えるのです。そう言われたらどうですか。もっともです。もう神様に顔向けなんてできません。しかし、私たちの弁護者であられるキリストが、裁判官である神にこう弁論してくださるのです。
「父よ、確かにこの人は罪を犯しました。しかし、私がこの人の代わりに十字架にかかって、この人が受けるべき刑罰のすべてを引き受けました。この人の罪はわたしが流した血によってきよめられました。だからこの人には罪はありません。この人は無罪です。だれもこの人を罪人として訴えることはできません。」
それで裁判官である神様は、私たちに無罪を宣告されるのです。それは私たちが何かをしたからではなく、この方が私たちの罪のために、いや、私たちの罪だけでなく、全世界の罪のための宥めのささげ物となってくださったからです。

「宥めのささげ物」ということばはあまり聞かない言葉ですが、これは次の三つのことを意味しています。第一に、人間の罪に対して、神は怒っておられるということ。第二に、その神の怒りをだれかが代わりに受けてくれたということ。そして第三に、その結果完全な罪の赦しがもたらされたということです。キリストの十字架は、私たちの罪に対する神の怒りを完全になだめてくれました。イエス・キリストが十字架にかかってくれたことで、私たちの罪に対する神のすさまじい怒りが完全になだめられたのです。キリストが私たちを弁護してくださるというのは、神ご自身が宥めのそなえ物となってくださったという事実に基づいているのです。ですから、赦されない罪などありません。この方が弁護してくださるからです。神はこの義なるイエス・キリストのゆえに私たちを完全に赦してくださるのです。それは私たちばかりでなく、彼を信じるすべての人に対して効力があります。また、それは私たちの過去の罪ばかりでなく、これからも犯すであろう罪も含めて、すべての罪に対しても言えることなのです。なぜなら、へブル7章24節、25節にこのようにあるからです。
「イエスは永遠に存在されるので、変わることのない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」

すばらしい約束ではありませんか。イエス様は永遠に存在しておられます。代わることのない祭司です。その祭司の務めこそ「とりなし」です。イエス様は永遠の祭司として、私たちのために父なる神にとりなしてくださるのです。何とすばらしい約束でしょうか。これこそ光の中を歩む者の土台です。私たちは汚れた者で、罪を犯さずには生きて生けないような者ですが、キリストがそんな私たちのために宥めのそなえ物となってくださり、私たちの罪を完全に赦し、今も父なる神にとりなしてくださるので、私たちも光の中を歩むことができるのです。

Ⅱ.イエスが歩まれたように(3-6)

次に3節から6節までをご覧ください。ここには、光の中を歩むとはどういうことなのかが具体的に語られています。
「もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。」

光の中を歩むとはどういうことでしょうか。それは、神の命令を守るということです。「もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。」しかし、「神を知っていると言いながら、その命令を守っていなければ、それは偽りであり、その人のうちには真理はありません。」というのは、私たちが神を知っている(4)とか、神のうちにいる(5)、神にとどまっている(6)というのは、神の命令を守る(4)とか、みことばを守る(5)、イエスが歩まれたように歩む(6)ということによって現れるからです。私たちが神を知り、神が私たちを愛してくださっていることを知っているならば、私たちは神が言われていることに喜んで聞き従うはずだからです。けれども神を知っていなければ、神のみことばは苦痛以外の何物でもありません。自分の願いどおりに生きることが楽しく自由なことのように思われ、そこに幸せや真の人間らしさがあるかのように思えるからです。実際には罪の奴隷として欲望のままに、欲望に引きずられて生きているのにすぎないのですが、そのようには思えません。なぜ?神を知らいからです。

しかしそのような人でも、神を知るなら変化が起こります。神の命令と神のことばがその人の内で喜びとなり、道しるべとなり、善悪の判断の基準となります。神のみことばに従って正しく歩みたいという願いが起こされ、その願いは生活全体を支配するようになるのです。この「知る」ということばは、ギリシャ語で「ギノスコー」と言いますが、これは単に頭で知る以上のことです。それし体験として、人格的に知ることを意味しています。そのように神を知るなら、確実に変わるのです。

そして、5節にあるように、私たちが神の命令を守ることで、その人のうちに神の愛が全うされます。「全うされる」というのは下の注釈にもあるように、「完全に実現している」ということです。神が私たちを愛してくださった愛は、私たちがみことばに聞き従うことで全うされるのです。すなわち、その目的に達するということです。言い換えるなら、もし私たちの一部分、たとえば知識とか感情といった部分が変わっただけなら、神の愛は途中で止まっているということです。完成していません。しかし神の命令を守る時、確かに「私は神のうちにいる」という確信を持つことができます。神の子として生まれ変わり、神との交わりの中に入れられているという確証を得ることができるのです。

では神の命令とは何でしょうか。それは7節以降に書かれてありますが、その前に6節のことばに注目してください。ここには、5節で言われていた「神のみことばを守っている」ことはイエスが歩まれたように歩むことであると言われています。神を信じ、キリストとの交わりの中に入れられた者は、当然その模範にならうはずだというのです。またそうすることがその人にとっても喜びであるはずです。往年の名バッターで、後に巨人軍の監督としてV9を達成した川上哲治氏は、巨人軍の監督に就任した時、巨人軍の創立者である正力正太郎氏と一体になってやっていくという大方針を打ち立てました。そして実際に困った時や壁にぶつかった時、「正力さんならどう対処されるだろうか」と考えて決断を下したと言います。同じように、クリスチャンは、キリストならどのようにされるのかを考えて歩むのです。

しばらく前に、W.W.J.D.というイニシャルが入ったブレスレッドとか、グッズが流行りましたが、これは「What Would Jesus Do?」の略で「イエス様ならどうする?」という意味です。イエス様ならどうするかということをいつも考えて行動するということです。これはすばらしい言動の基準だと思います。それは神のうちにとどまっている人のしるしだからです。

14世紀にカトリックの修道僧トマス・ア・ケンピスという人が「キリストに倣いて」という本を書きました。この書はカトリック教会において最も偉大なディヴーションの手引書の一つと言われていますが、多くのプロテスタント教会でも高く評価されています。それはイエス様ならどのように考え、どのように発言さし、どのように行動するのか、ということを考えて生活することを勧めているからです。もちろん、私たちはトマス・ア・ケンピスのように修道院で生活することはできませんが、その置かれた環境の中で、イエス様ならどのように行動されるのかを考え、イエス様が歩まれたように歩まなければなりません。それが神の命令を守るということなのです。

Ⅲ.兄弟を愛する(7-11)

では、イエス様はどのように歩まれたのでしょうか。神の命令を守るとは具体的にどういうことなのでしょうか。7節から11節までをご覧ください。
「愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。」
 
ここには、それは新しい命令ではなく、彼らが初めから持っていた古い命令だと言われています。それは彼らがすでに聞いているみことばです。それは兄弟を愛しなさいという命令です。これは新しい命令ではなく、彼らがすでに聞いていた命令です。ある時、一人の律法学者が、イエス様のところにやって来てこう尋ねました。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」するとイエスは彼らに言われました。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)これが、重要な第一の戒めです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めも、それと同じように重要です。」(マタイ22:39)「この二つの戒めに律法と預言書の全体がかかっているのです。」(マタイ22:40)
つまり、神の命令の中で一番重要なのは神を愛し、隣人を愛することだと言うのです。律法全体と預言書、すなわち、聖書全体がこの二つの戒めにかかっているのです。

また、ヨハネ13章34節で、イエス様はこう言われました。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

ヨハネはこの古い命令を、新しい意味内容を持った命令として書き送っています。なぜでしょうか。なぜなら、この命令はキリストにおいて真理であり、光の中を歩む私たちにおいても真理だからです。まさに、兄弟愛はこの光の中を歩むクリスチャンにとってふさわしい歩みなのです。ここで「兄弟」と言われているのは特に同じ神の家族であるクリスチャンのことを指しています。兄弟愛はクリスチャン相互の間から始まってさらにその輪を広げていくことになるからです。

一方、9節にあるように、「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。」これは、2章4節で語られたことと同じように、外に現れた実際の生活を点検することによって自分の内側を見つめるようにという招きです。その人が光の中にいるということは、兄弟を愛しているという外側の行動によって確認できるのであって、自分ではどんなに光の中にいると思っていても、実際には兄弟を憎んでいるとしたら、それは今もなお闇の中にいることになるのです。この「憎んでいる」というのは広い意味で冷たい心、無関心、軽蔑なども含んでいます。積極的に兄弟を憎むということはなくても、同じ神の家族であるクリスチャンに対して無関心であったり、冷たい心であれば、それは兄弟を憎んでいることと同じなのです。「愛」の反対語は「憎しみ」ではなく「無関心」だと言われますが、世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。

ガラテヤ5章14節には、「律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。」とあります。兄弟愛こそすべての律法の要約であると聖書は言っています。だからこの兄弟愛の中には私たちの隠れた内なる本質が現わされていると言えるでしょう。

ではどうしたら兄弟を愛することができるのでしょうか。私たちは生まれつき自分さえ良ければいいという自己中心的な性質を持っています。そのような者がどうやって兄弟を愛することができるのでしょうか。それは「神を知る」ことによって、「神のうちにいる」ことによって、そして「神にとどまっている」ことによってです。

「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきなのです。」(Ⅰヨハネ3:16)つまり、「キリストが私のためにいのちを捨ててくださった」ということを心底、体験しているならば、できるというのです。

三浦綾子さんが書いた小説「塩狩峠」は、明治時代に北海道の塩狩峠で実際に起きた鉄道事故に基づいて書かれた小説です。険しい峠を機関車がゆっくりと進んでいた時、突然最後尾の客車の連結が外れ、暴走し始めました。その時、主人公の永野信夫は自分の身を挺して列車を止め、大勢の乗客の命を救いました。彼はどうしてそのようなことができたのでしょうか。それは彼がキリストを信じ、その愛に生かされていたからです。クリスチャンであった彼は、この聖書のみことばにささえられながら生きていたと言われています。
「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持ってていません。」(ヨハネ15:13)
それはイエス・キリストのいのちを捨てるほどの大きな愛でした。彼はその愛に生かされていたのです。もちろん、この愛に生かされていれば誰でもあのようなことができるわけではありません。しかし、少なくても、そのように生きたいと願う動機となるのは確かでしょう。

聖書に「良きサマリヤ人」の話があります。強盗に襲われた人を助けてくれたのは神に仕えていた祭司でも、レビ人でもありませんでした。それはユダヤ人が蔑視していた一人のサマリヤ人でした。彼がこの傷つき、苦しんでいる人の隣人になったのです。兄弟は神をどれだけ知っているかということではなく、このサマリヤ人と同じようにする人です。そのような人こそ強盗に襲われた人の隣人になったのであり、互いに愛し合いなさいという神のみことばに生きる人なのです。

神が光であるならその神と交わる時、私たちも光となります。その歩みとは自分の罪を告白し、キリストの十字架によって罪をきよめられて歩むことであり、きょうのところで見たように、自分の兄弟を愛することです。傷つき、苦しんでいる人を見た時、あるいは、困っている人を見た時、実際に助けを与える人です。そのような人こそ隣人となるのです。

私たちもこの神との交わりに入れていただきましょう。そして、神が光の中におられるように、共に光の中を歩ませていただこうではありませんか。

ヨシュア記24章

 いよいよヨシュア記の最後の学びとなります。まず1節から13節までをご覧ください。

 Ⅰ.神の恵みを思い起こして(1-13)

「ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、そのかしらたち、さばきつかさたち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。」あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルとの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。ついで、わたしは、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、それを所有させた。ヤコブと彼の子らはエジプトに下った。それからわたしは、モーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがその真中で行なったとおりである。その後、あなたがたを連れ出した。わたしが、あなたがたの先祖たちをエジプトから連れ出し、あなたがたが海に来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵とをもってあなたがたの先祖たちのあとを追い、葦の海まで来た。あなたがたが主に叫び求めたので、主はあなたがたとエジプト人との間に暗やみを置き、海に彼らを襲いかからせ、彼らをおおわれた。あなたがたは、わたしがエジプトで行なったことをその目で見てから、長い間、荒野に住んだ。それからわたしはヨルダン川の向こう側に住んでいたエモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。ここから荒野の生活から、ヨルダン川東岸を北上していく話に入ります。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡したので、あなたがたはその地を占領した。わたしが、あなたがたの前から彼らを根絶やしにしたからである。それから、モアブの王ツィポルの子バラクが立って、イスラエルと戦い、ベオルの子バラムに人をやって彼を呼び寄せ、あなたがたをのろわせようとした。わたしはバラムに聞こうとしなかった。彼は、かえって、あなたがたを祝福し、わたしはあなたがたを彼の手から救い出した。あなたがたはヨルダン川を渡ってエリコに来た。エリコの者たちや、エモリ人、ペリジ人、カナン人、ヘテ人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人があなたがたと戦ったが、わたしは彼らを、あなたがたの手に渡した。わたしは、あなたがたの前にくまばちを送ったので、くまばちがエモリ人のふたりの王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった。わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。」

ここでもヨシュアは決別の言葉を再び語っています。しかし前章とは異なり、全イスラエルをシェケムに集めて語っています。シェケムは、いろいろな意味で、霊的に重要な場所です。前章の最後のところに、「あなたがたの神、主があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。」(23:14)とありますが、主が、この地を子孫に与えるとアブラハムに約束されたのは、このシュケムの町でした(創世記12:7)。それでアブラハムはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈ったのです。また、アブラハムの孫ヤコブが兄エサウから逃れ叔父のラバンのもとに行ったとき、その帰路の途中でエサウに会いましたが、その祈りと葛藤の中で主に拠りすがりすべての障壁を乗り越えた時、ここに祭壇を築きました(創世記33:20)。

このように霊的に非常に重要な場所でヨシュアがイスラエルの民に語った最初のことは、イスラエルの歴史の回顧でした。いったいなぜヨシュアはイスラエルの過去を回顧したのでしょうか。2節からの内容を見てわかることは、そこに神の恵みが想起されているということです。ヨシュアは過去の歴史を語ることを通して、神がいかに素晴らしいことをしてくださったか、いかに慈しみに満ち、恵み深くあられたかを思い起こさせたのです。

まず2節から4節までのところにはアブラハムの選びを取り上げています。ここで注目すべきことは、アブラハムは、父の家にいたときに、ほかの神々に仕えていたということです。信仰の父であるアブラハムも、私たちと同じように偶像礼拝者だったのに、そこから一方的に選び出されました。また5節から7節までにはイスラエルの民がエジプトから救われたことが、また8節から10節までにはヨルダンの東側における戦いでの勝利が、そして11節から13節までには、ヨルダンのこちら側、すなわち、カナンにおける戦いと征服の記録が語られています。これらのことに共通して言えることは何でしょうか。これらすべてのことは神の恵みによるものであったということです。

13節には、「わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。」とあります。それは決して彼らが何もしなかったということでありませんが、しかしそれ以上にこうしたイスラエルの民の努力や勝利も、実は神の恵みによるのであって、神の支えと助けなくしては、成し遂げられなかったということであり、そのことを常に思い起こし、肝に銘じるようにと語っているのです。

実にイスラエル民族の偉大さは、神の恵みを常に思い起こして感謝し、それを記念し、祝祭化して、心に深く刻みつけていったという点です。私たちも常に神の恵みを思い起こし、感謝をささげようではありませんか。そしてここにこそ神の大きな祝福が注がれるということを覚えなければなりません。

Ⅱ.決断と選択(14-28)

次に14節から28節までをご覧ください。まず14~18節をお読みします。
「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。すると、民は答えて言った。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。主はまた、すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです。」

ヨシュアはイスラエルの民に対して神の恵みを思い起こさせると、続いて、この民に向かってこの主に従うかどうかの決断と選択を迫ります。人生は出会いで決まると言われますが、しかし同時に、決断と選択によって決定されるとも言えます。その典型が結婚です。人はだれと結婚するかによって人生が大きく左右され、決定的な影響を受けることになります。

しかし人間にとって結婚以上に重要な選択があります。それはいかなる神を信じるかという信仰の問題です。だから宗教は嫌いなんですと、自分が無宗教であることをことさら強調する人がいますが、そういう人は実は自分という神を信じていることに気付いていません。自分の考えや思いに従って生きているのです。自分が神となっているだけのことなのです。ですから無宗教というのはあり得ません。そしてどの宗教を信じるかによってその人の生涯のみならず、死後の在り方や永遠の生き方さえも決定されてしまうのです。ここでヨシュアはイスラエルの民に、この重要な選択と決断を迫りました。あなたがたは真実な神、主に仕えるのか、それとも偶像の神々に仕えるのか、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい、と言っています。信仰の選択に妥協はありません。それぞれの責任による選択と決断を迫り、ヨシュア自らは、「私と私の家とは主に仕える。」と宣言するのです。

これに対して16節以下のところに、イスラエルの民の応答が記されてあります。民は答えて言いました。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。」と。なぜなら、「主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。」また、主は「すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです。」

主がこれだけのことをしてくださったのに、なぜ主を捨てることができるでしょうか、そんなことはできません。この方が自分たちの神ですからと、宣言しました。こうした信仰の宣言と決断はとても重要なことです。ややもすると私たちはどっちつかずにいた方が融通が利くというか、家族との間に波風を立たせずに済ませることができるので曖昧にしがちになりますが、このように決断することによって自分が依って立っているものが何であるのかが明確になり、それまで以上に主に仕えることができるようになるわけです。

しかし、それに対するヨシュアの答えは以外なものでした。19節をご覧ください。「すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。」どういうことでしょうか?ヨシュアは選択を迫り、民が主に仕えると表明するや、今度はあなたがたにはできないと否定するのです。

ヨシュアが民にこのように言ったのは、イスラエルの民が自分の意思や自分の力に頼って信仰の決断をしたことを見抜いていたからです。自分の肉の力に頼っていたのでは主に従うことはできません。必ず失敗します。ヨシュアはそれを見て取ったのです。そしてヨシュアの予想とおり、ヨシュアの死後、士師記の時代に入るやいなや、イスラエルの民は何度も何度も主に背き、偶像に仕えることになります。神を捨てたイスラエルは神の刑罰を受け、異邦の民の侵略を受け、苦しみの中に落ち込み、やがて悔い改めて神に立ち返るということを繰り返すのです。なぜそのようなことになるのでしょうか。ここでこんなにも強く決心したにもかかわずそんなに簡単に手のひらを返すようなことになるとは考えられません。実はそれほど私たちの意思はそれほど弱いのです。何かあるとすぐに躓いてしまうほどもろいものなのです。

十字架を目前にしてイエス様は弟子たちに、「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。」と言うと、ペテロは勢い込んで、「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26:33)と言いました。しかしイエス様は彼に、「今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」と預言されると、そのとおりになりました。ペテロはどんなにかショックだったかと思いますが、人間の意思の力はそれほどにもろいのなのです。彼はそのことに気付いていなかっただけです。人はつい簡単に約束しては決断します。このようにしようと堅く心に誓いますが、そのたびに裏切ってしまうのです。それほどに人間の肉の力は弱いのです。ヨシュアはそのことを重々知っていました。だから彼はここで、「あなたがたはできない。」と言ったのです。それではどうしたらいいのでしょうか。

使徒パウロはこう言っています。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:1-11)
パウロには深い悩みがありました。それは、自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっていることです。自分がしたいと思う事ができないのです。それは自分の中に住んでいる罪のためです。いったいどうしたらいいのか、だれがこの死のからだから自分を救ってくれるのでしょうか。パウロはそのように嘆きつつ、そこに真の解決を見出すのです。それがいのちの御霊の原理です。確かに自分の内に罪と死の法則があって、自分の力ではそれにどうすることもできませんが、イエス・キリストを信じたことで与えられた主の御霊、キリストにある命の御霊の原理が働いているので、このいのちの御霊の原理によって勝利することができると言ったのです。

このキリストにあるいのちの御霊の原理は、キリストを信じた時に私たちに与えられた法則です。私たちの内に聖霊なる主が臨まれると、御霊の力が肉の力に対抗して、やがていのちの御霊の原理が優位を占めるようになります。これが信仰生活だとパウロは発見したのです。つまり、もし人が救われてクリスチャンになったなら、内なる罪と死の法則がすべて消滅し、そこから完全に解放されるというのではなく、そのところに新しくいのちの御霊の法則が働き始めて、御霊の力によって勝利することができるのです。

私たちはキリストを信じたとき、キリストとともに十字架につけられ、もはや私が生きているのでなく、キリストが私のうちに生きているのですと告白ましたが、罪の力に敗北し、悪魔に誘惑されて罪を犯してしまうことがあります。それは決して意思が弱いからではなく、むしろ意思の力に頼りすぎているからです。もし自分の意思を過信するなら、それはパウロがここで嘆いたように、いつも敗北感を味わいながら生きることになるでしょう。しかし、内なる御霊の法則を聞き、御霊の働きにゆだねるなら、御霊自らがその力を発揮して、勝利へと導いてくださるのです。

ヨシュア記に戻りましょう。ヨシュアが、「あなたがたは主に仕えることはできない。」と言うと、民はヨシュアに言いました。「いいえ。私たちは主に仕えます。」
それでヨシュアは民に言いました。「主を選んで、主に仕えることの証人はあなたがたです。」すると彼らは「私たちが証人です。」と言いました。それでヨシュアは、だったら「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」と勧めました。そうでないと、主を主とすることができないからです。人はだれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を軽んじて他方を軽んじることになるからです。(マタイ6:24)ですからまず自分たちの中から偶像を取り除かなければなりません。偶像を取り除き主に心を傾けることによって、主に仕えることができるからです。
すると民はヨシュアに言いました。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」

こうしてヨシュアはその日、民と契約を結び、シェケムで彼らのために掟と定めを置きました。そして、イスラエルが主に聞き従うと言ったことばを石に書き記、主の聖所にある樫の木の下にそれを立てました。それは彼らが主を礼拝しに来たときに、確かに自分が主に聞き従うといったことを彼らが思い出すためです。私たちも自分の意思によってはすぐ神との契約さえも破ってしまうような弱い者ですが、このような契約を御霊によって心に刻み、いつも心から主に従う者でありたいと思います。

Ⅲ.ヨシュアの死 (29-33)

最後に29節から33節までを見て終わります。
「これらのことの後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・セラフに葬った。イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。アロンの子エルアザルは死んだ。人々は彼を、彼の子ピネハスに与えられていたエフライムの山地にあるギブアに葬った。」

これらの出来事の後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死にました。ここには簡単にヨシュアが百十歳で死んだとありますが、これはヨシュアが果たすべきことのすべてをなし終えた後で召されたということです。それはヨシュアの生涯が、神のしもべとして神の御旨のために、一切を捧げ尽くした生涯であったことを意味しています。彼は自らの使命、目的を明確に自覚し、そのために自分を徹底的に捧げたのです。彼に与えられた使命はこのヨシュア記の冒頭に記されてあります(1:1-9)。彼はこれを自らの生きる目的、使命として受け取り、その使命の達成のために生きたのです。私たちも、ヨシュアのごとく人生に明確な使命、明確な目的を持ち、それに向かって前進していくものでありたいと思います。

31節には、「イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。」とあります。どういうことでしょうか。ヨシュアが生きている間、また主のわざを見た長老たちが生きている間は、イスラエルは主に従っていましたが、この世代がいなくなると彼らは他の神々に心を寄せるようになっていきます。私たちはこのような弱さを持っています。指導者がいれば主に従うことができますが、いなくなったら、主から離れていってしまうのです。そうならないためにはどうしたらいいのでしょうか。自分自身が主を体験することです。主のわざを見て、主のみことばの真実、力、知恵、満たしなど、自分自身で体験するのです。そうすれば、たとえ指導者がいなくなっても、主に従うことができるようになります。

32節をご覧ください。ここには、「イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。」とあります。ここに突然イスラエルの父祖ヤコブの息子、ヨセフの遺骨がこのシェケムの地に葬られたことが語られています。なぜここに何百年も前に死んだヨセフの遺骸の葬りのことが記されているのでしょうか。

これを解く重要な聖書の記述は創世記50章24、25節にあります。
「ヨセフは兄弟たちに言った。「私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたがたを顧みて、あなたがたをこの地から、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださいます。そのとき、あなたがたはこの遺骸をここから携え上ってください。」と言った。」
つまり、このヨシュア記24章32節のメッセージは、このヨセフの預言の成就であり、そのことを銘記するようにということを伝えたかったのです。
イスラエルのカナン征服は、もとよりヨシュア一人の力によるものではありませんでした。それは既に数百年も前に、神がヨセフに約束されていたことであり、それ故にエジプトの苦難の中にあっても、それはイスラエル民族にとって希望であり続けました。そしてそれが時至りモーセに受け継がれ、ヨシュアに受け継がれて、その偉大な救済の御業は、イスラエルの歴史の中で着々と進められ、遂に成就し実現したのです。このことを忘れてはならないというのです。

それは罪が贖われ、約束の地に向かっている私たちクリスチャンにとっても言えることです。私たちはまさに今イスラエルの民がモーセやヨシュアに導かれてカナンの地に向かって進んでいるように、神の約束の地に向かって進んでいるものです。時には目の前の困難のゆえに、本当にそれが実現するのだろうかと疑ってみたり、それよりもこの世での生活が満たされていればそれでいいのではないかという思いにかられることがありますが、神が約束してくださったことは必ず成就するのです。私たちはこのイスラエルの歴史を通して、その中に働かれた神の御業を見ながら、ますます熱心に御国を待ち望まなければなりません。イエス・キリストによってなされた贖いに感謝して、主の大いなる使命のために、全力で進んでいこうではありませんか。

最後はアロンの子エルアザルの死をもって、この書が閉じます。なぜ最後がエルアザルの死で終わっているのでしょうか。ヨシュア記を読むと、随所に「祭司エルアザルとヌンの子ヨシュア」という表現が出てくるが、それはヨシュアの勝利の陰に、陰の功労者として祭司エルアザルの存在があったことを強調したかったからと思われます。彼は表面にはあまり出てこない、きわめて地味な人物でしたが、しかし彼の祈りを通してヨシュアの働きが支えられました。この陰での祈りなしには、カナン征服の偉業は成し遂げられなかったのです。すべての目に見える業の陰にあって、しかし目に見えない祈りの力が、イスラエルをカナンに導いたことを忘れてはなりません。

それは主の教会にも言えることです。ある面で牧師はヨシュアのように民の前面に立って導くような者かもしれませんが、その働きを成功に導くのは主ご自身であられます。その主の助けと支えを願って陰でとりなしてくださる信徒の方々の祈りがあってこそ、それが主の大いなる力を引き出し、偉大な御業となって現われてくるのです。もしかすると祭司エルアザルのように地味で、陰での働きに徹するような存在かもしれませんが、こうした存在があってこそ主の御業が前進していくということを忘れてはなりません。イスラエルのカナン征服という偉大な御業は指導者ヨシュアとこのような陰での祈りというパートナーシップがあってこそ実現した御業だったのです。

Ⅰヨハネ1章5~10節 「光の中を歩む」

 ヨハネの手紙第一から学んでおりますが、今回はその二回目のメッセージです。前回のところでヨハネは、どうしても伝えたいことがあると言いました。それは永遠のいのちであるイエス・キリストが現れたということです。なぜなら、このキリストにこそいのちがあるからです。ヨハネはこれを自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の手でさわりました。人は何を見るかによってその結果が決まります。この方をじっと見続けるならそこにいのちがあふれてきます。

 ヨハネがこの手紙を書いた当時はまさに闇でした。なぜなら、多くの反キリストが現れていたからです。そのような時代にあっても惑わされることなく、信仰に堅く立ち続けるためにはどうしたらいいのでしょうか。それはイエス・キリストを見ることです。イエス様をじっと見て、イエス様との交わりに入れられるなら、そうした闇の中にあっても希望と力が与えられ、喜びに満ちあふれた人生を歩むことができるのです。

 きょうの箇所でヨハネはもう一つの真理を伝えています。それは、神は光であられるということです。神は光であって全く闇がありません。ですから、この光の中を歩むなら、決して闇の中を歩むことはありません。きょうはこの「光の中を歩む」ことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 Ⅰ.もし光の中を歩んでいるなら(5-6)

 まず、5節と6節をご覧ください。
「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」

 ヨハネがキリストから聞いて彼らに伝えたかったことは、神は光であって、神には全く闇がないということでした。光と闇が交わることはありません。どんな闇でも光が差し込めば消え去ります。ですから、神には全く闇がないのです。ヨハネの福音書には、このことについて次のように記されてあります。
「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)
キリストが光であるとはどういうことでしょうか。それは、キリストはいのちであり、道を照らすともしびであり、生きる希望であるということです。しかしここでキリストは光であったというのは闇に対する光のことであり、それは汚れに対するきよさを表しています。ですから神は光であって、私たち人間のような「闇」、すなわち罪や汚れなどは一つもないということです。それなのにもし私たちが神と交わりがあると言いながら闇の中を歩んでいるとしたらどうでしょうか。私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいないということになります。

ここでヨハネは、「もし・・・と言いながら」と言っていますが、このような言い方は続く8節と10節にも出てきます。「もし、罪はないと言うなら」と、「もし、罪は犯していないと言うなら」です。どういうことでしょうか。ここでヨハネはこの手紙の読者たちに、この真理を自分の生活に適用して点検するようにと勧めているのです。私たちが言っていることと、行なっていることが異なるということがしばしば起こります。ここでは、「私は、神さまとの交わりを持っています」と言いながら、交わりを持っているとは思えない行動をしていることがあるということです。神は光ですから、神と交わりを持っているなら、私たちもまた光の中を歩んでいるはずですが、そうでなはなく悪を行なっていることがあります。もしそうであるなら、もし神と交わりがあると言っても、それは真実ではない、偽りであると言うのです。

 私たちクリスチャンは、とかくこのような過ちに陥ります。自分は神との交わりがあると言いながら、神との交わりから外れているようなことをしていることがあるのです。確かに、毎週日曜日には教会に行き、クリスチャンらしい宗教的なことを行なっているかもしれませんが、家庭や職場ではそれとかけ離れたことをしていることが意外とあります。
私はこうして毎週講壇から神のみことばを語りますが、講壇で語っていることと実際の生活にギャップを感じることがあります。講壇では「さばいてはなりません。さばかれないためです」と言いながら平気で人をさばいてみたり、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」と言いながら、自分ほどいい人間はいないと思ってしまいます。「同じように、夫たちよ。妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに生活しなさい」と言っておきながら、妻のことをいたわることはほとんどありません。「うちの夫は講壇にいる時が一番すばらしい。そこから降りてきてほしくない」と言った牧師の奥様がおられたそうですが、わかるような気がします。言っていることとやっていることが一致しないことがあるからです。言っていることはすばらしいですが、やっていることはどうもいまいちだということがよくあるのです。もちろん、神のみこころに歩みたいと願いそのようにしたいと努めていますが、闇の中を歩んでいることがあります。もしそういうことがあるなら、神と交わりがあるとは言っても、それは偽りであって、真理を行っていないというのです。

とても心に刺さることばですが、ここで間違えないでいただきたいことは、だからだめだと言っているのではないということです。ヨハネはこの手紙の中で、クリスチャンが永遠のいのちであられる神との交わりを持ってほしいのです。もしあなたが神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるとしたら神との交わりは断絶し、神の臨在を感じることができなくなるばかりか、自分のたましいはカラカラに乾ききり、礼拝は儀式的なものとなってしまうでしょう。私たちはイエス様を信じて永遠のいのちをいただいていますが、その主と交わりそこに喜びが全うされるためには、この罪の問題が処理されなければならないのです。いったいどうすればいいのでしょうか。

Ⅱ.御子イエスの血がきよめてくださる(7)

7節をご覧ください。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」

ここには、もし私たちが光の中を歩んでいるなら、光であられる神と交わりを持っているということになります。すなわち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださっているということです。この「きよめる」ということばですが、これは現在進行形で書かれています。すなわち、今もきよめられ続けているということを表しています。御子イエスの血は私たちがイエスを信じた時にすべての罪からきよめてくださったというだけでなく、今も日々の生活においてきよめられているということです。絶えず、その血によってきよめられていることによって、聖なる神と私たちが一つとなることができるのです。

これはすばらしい約束ではないでしょうか。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。心の中に染み付いている頑固な汚れも、自分ではどうしようもないという悪しき習慣からも、すべての罪から私たちをきよめてくださるのです。イエスの血がきよめることができない罪などありません。ですから私たちはこのイエスの血によって神と一つになることができるのです。

「きよめる」というと私たち日本人には、禊(みそぎ)とかお祓いをしてもらうというイメージがありますが、ここで言われている「きよめる」というのは、単に汚れを取り除くというだけでなく、神様の前に出ることができるように変えらることを意味しています。神様の目から見て聖なる者としていただくことです。たとえば、この手紙を書いたヨハネは以前「雷の子」とあだ名が付けられるほど短気な者でしたが、のちに「愛の人」と呼ばれるほどに変えられました。私たちも光の中を歩み、神様と交わりを持つことによって、そのような者に変えられていくのです。つまり、キリスト信じて救われた時だけでなく、救われた後も、年を老いてからも、いつでも、私たち十字架のもとに行くなら、御子イエスの血が、あなたをすべての罪からきよめ、キリストのように変えてくださるということです。

私たちは神様の光に照らされる時、自分の罪や汚れ、自分の弱さや愚かさに気付かされて落ち込むことがあります。このように礼拝に出て神様の語りかけを聞く時、「そういう生き方はよくないなぁ」とか「あの考えは間違っていた」ということが示されて打ちのめされそうになることがあります。私たちは罪赦されて神様との交わりの中に入れられましたが、実際には罪を犯さずには生きていけないからです。いや、クリスチャンになってからの方が罪について敏感になりました。それまでは何でもないように思っていたことが、それが大きな罪であったことに気づかされるからです。そのような時、私たちはどうしたらいいのでしょうか。そのまま落ち込んで、「私はやっぱり駄目な人間なんだ」と自分を責め続ければよいのでしょうか。あるいは、「私は罪人で駄目な者なんです」とうなだれながら生きていったらいいのでしょうか。そうではありません。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。この御子の血にお頼りすればいいのです。そして罪をきよめていただき、この神との交わりに入れていただけばいいのです。

Ⅲ.罪を認め、悔い改める(8-10)

では、そのためにどうしたらいいのでしょうか。8節から10節までをご覧ください。「もし自分に罪がないというなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

神が備えてくださったキリストの十字架の血は私たちの罪に対して無限の力を持っていることがわかりました。では私たちはこのキリストの無限の血に対してどのような態度をとるべきでしょうか。ここには絶対にとってはならない態度と、逆に取るべき態度が教えられています。まず、絶対にとってはならない態度は何かというと、8節に「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」とあるように、「自分には罪はない」という態度です。いったいだれがこんなことを言っていたのでしょうか。ここには「私たち」とありますから、当時のクリスチャンの中にそういう考え方をもっている人たちがいたようです。当時のクリスチャンの中に、グノーシス主義と呼ばれる誤った教えによってこのような考え方を持っている人たちがいました。このグノーシス主義の特徴は霊肉の二元論にあり、肉体はたましいを宿す単なる器にすぎず、その肉体がどんなことをしてもたましいは何の影響も受けることはないと考えていたので、何をしても自分には罪がないと、自分の肉欲のままに生きていたのです。

しかしこうしたグノーシスのような考えは、私たちも持ちやすのではないでしょうか。私たちはイエス様を信じて罪が取り除かれたのだから、私には罪はないと思っていますが、これは、間違っています。確かに、立場的にはキリストにあって正しい者とみなされましたが、罪の性質は持ったままなのです。それなのに自分はクリスチャンになったのだから、ある程度正しさは身に付いたのではないかと考えるとしたら、それは間違いです。

ここでヨハネは、もし自分に罪がないと言うなら、その人は自分自身を欺いていると言っています。本当の自分の姿から目をそらしているからです。聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:23)と言っています。また、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ6:23)と言っています。すべての人は生まれながらに罪を持っているのに罪がないと言うのなら、その人は自分自身を欺いているのであって、その人のうちに真理はありません。

しかし、私たちにはこのように自分を美化する心があるため、悪いのは他人だと決め込み、自分を被害者の立場に置こうとする思いが働くのです。
最初の人アダムとエバがそうでした。彼らは取ってはならないと命じられた園の中央にある木の実をとって食べ、そのことを神から咎められた時、何と言いましたか。
「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)
悪いのは私ではない、悪いのはあの女で。あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って食べたので、私は食べたのです。悪いのは自分ではない、あの女であり、突き詰めれば、あの女を私のそばにおいたあなたが悪いんです、と言ったのです。
それに対してエバはどうだったでしょうか。神がエバに「あなたは何ということをしたのか」と言われると、エバもこう言いました。
「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」(創世記3:13)
同じです。彼女も自分には罪がないと言いました。蛇が私を惑わしたので、それで私は食べたんですと、蛇のせいにしました。
これが人間の姿です。私たちの中には罪があっても、それを認めようとしない性質があるのです。自分には罪はないと言ってうそぶくのです。

しかしこのように考えるなら、きよめられる必要がなくなってしまいます。あの祈るために宮に上って行ったパリサイ人がそうでした。彼は心の中でこんな祈りをしました。
「神よ。私がほかの人のように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないことを、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。」(ルカ18:11)
このように祈れる人はそれほど多くはいません。でもこのパリサイ人は大胆にもこのように祈りました。なぜ彼はこのように祈れたのでしょうか。聖書にはこのように書かれてあります。
「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちには、イエスはこのようなたとえを話された。」(ルカ18:9)
そうです、彼は、自分は正しい人であり、間違ったことはしていない。自分には罪がないと思っていたからです。そういう人にはきよめが必要ないというか、きよめられる必要さえ感じません。
一方、取税人はどうだったでしょうか。彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)
この二人のうち、いったいどちらが義と認められて家に帰ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人の方でした。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
同じように、自分に罪がないと言うなら、きよめられることはありません。その人は自分を欺いているのであって、真理はその人のうちにはないからです。私たちはそのようにならないために、まず自分の罪を認めなければなりません。

次に、キリストの血に対して私たちが取るべき態度とはどのようなものでしょうか。9節と10節をご覧ください。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

新改訳聖書第三版には、「もし私たちが自分の罪を言い表すなら」とあります。個人的にはこちらの方が好きです。「言い表すなら」も「告白するなら」も、どちらも同じです。この言葉は原語のギリシャ語は「ホモロゲオー」という言葉で、「同じことを言う」という意味です。それは、神が語られることと同じことを言うことを意味しています。そうでなかったらそれを認めて告白しなければなりません。それが悔い改めです。そうすれば神はその罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。つまり、罪の悔い改めを通して、神の光が注がれるのです。罪を悔い改めることは、神の愛と赦しの光が差し込んでくる窓なのです。あなたの心の窓を閉ざすなら神の愛の光は差し込んできません。しかし自分の罪を認め、神に向かって心を開くとき、罪を赦しくださる神の光が差し込んで来るのです。

私たちが罪を犯すとき、その罪にどのように向かい、どのように対処するかはとても重要です。もし自分には罪かせないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。しかし、もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるのです。

ダビデはバテ・シェバと姦淫の罪を犯したとき黙って自分の心の奥に隠しました。するとそれがバレないようにと今度は彼女の夫を戦いの最前線に立たせて戦死させました。これでバレないだろうと思っていましたが逆に彼の骨は疲れきり、一日中うめきました。昼も夜も 御手が彼の上にのしかかり、骨の髄さえ、夏の日照りで乾ききりました。
しかし、彼が自分の罪を神に告白したとき、神は彼の罪のとがめを赦してくださいました。そのときダビデはこう言って賛美しました。
「幸いなことよ その背きを赦され 罪を赦され 罪を覆われた人は、幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」(詩篇32:1-2)

私たちも同じです。私たちもイエス様を信じて罪赦された者ですが、それは罪がないということではありません。日々罪を犯すような者ですが、もし私たちがその罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。神様は決して「またやったのか。愚か者めが」とは言われません。むしろその罪を認めて神の前に悔い改めるなら、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。

あなたはどうでしょうか。悔い改めていない罪はありませんか。きょう主の御前に自分の罪を認めて、悔い改めましょう。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるという神のみことば約束に信頼しましょう。そのような人こそ光であられる神と交わりを持ち、光の中を歩んでいる人です。この光の中を歩むことで、神のいのちと喜びに満ちあふれた日々を送らせていただきましょう。