ヘブル2章10~18節 「人となられたイエス・キリスト」

  きょうは、2章10節から18節のみことばから、「人となられたイエス・キリスト」というタイトルでお話したいと思います。前回は、特に2章9節のみことばから、御使いよりも、しばらくの間、低くなられたイエスについてお話しました。ユダヤ人は、御使いは人間よりも高い地位にあると理解していたので、イエスが人となられたということはその御使いよりも低くされたことを意味していました。いったいなぜ、キリストは、御使いよりも、低くされなければならなかったのでしょうか。それは私たちを罪から救うためでした。9節には、イエスは苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになられました、とあります。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものだったのです。イエスが人となられ、十字架で死んでくださったことによって、すべての人の罪が贖われたのです。ですから、このイエスを信じる者は、だれでも救われるのです。これが福音です。 

そして、10節のところを見ると、それは万物の存在の目的であり、また原因である方として、ふさわしいことであったとあります。万物の存在の目的であり、また原因である方というのは父なる神のことです。それは父なる神にとってふさわしいことでした。なぜなら、神は万物の存在の目的であり、また原因でもあられるからです。すべてのものはこの方によって造られました。ですから、神は万物の存在の目的であり、原因であられる方なのです。すべてはこの神の栄光のために存在しているのです。それは人間も例外ではありません。私たち人間も神によって造られました。ですから、私たちは神の喜びと栄光のために生きているのです。このことがわからないと何をしても喜びがありません。いくら頑張って、真面目に生きたとしても、たとえすべての物を手に入れたとしても虚しいのです。心はいつもカラカラに渇いて平安がありません。

ですから、昔の聖人パスカルはこう言いました。「私の心には、本当の神以外には満たすことかのできない、真空がある。」また中世の偉大な神学者であり、哲学者であったアウグスティヌスもこう言いました。「神よ。私の心には、あなたの中で休むときまで揺れ動いています。」人はまことの神の出会い、神の救いを受け、神の栄光と喜びのために生きることがなければ虚しいのです。そのために神はご自分の御子を十字架につけてくださいました。その苦しみを通して、救いの道が開かれたのです。ですから、イエスが救いの創始者です。イエスが道であり、真理であり、いのちです。イエスを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。私たちは、ただこのイエスを救い主と信じるだけで救われるのです。

では、この神の恵みによって、いったい何がもたらされたのでしょうか。きょうは、このことについて三つのポイントでお話します。 

 Ⅰ.兄弟と呼んでくださる(10-13) 

 第一に、そのことによって神の家族の一員に加えられました。11節から13節までをご覧ください。

「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。」

 「聖とする方」とはイエスさまのことです。また、「聖とされる者たち」とは、私たちのことです。「すべて元は一つです」というのは、父なる神のことを示しています。ですから、これは、「聖めてくださるイエスも、聖められる私たち」も、皆一人の父である神を持っています。」という意味です。それで、主イエスは私たちを兄弟と呼ぶことを恥じとしないで、私たちとともに神を賛美しようというのです。これはものすごいことではないでしょうか。私たちがイエスを救い主と信じたことで、イエスさまが私たちのことを兄弟と呼んでくださるのです。また、それを恥じとなさいません。 

先日、ノーベル賞の発表があり、ノーベル医学生理学賞に山梨県韮崎市出身の大村智さんが選ばれました。大村さんは5人兄弟の2番目の子供さんですが、メディヤはその喜びを伝えるために、早速実家のある韮崎市に生き、お姉さんの山田敦子さんにインタビューしました。すると山田さんはその喜びをこう言いました。「昨夜は、自宅で夕飯の支度をしていたら、テレビを見ていた夫が『智さんがノーベル賞を受賞したよ』といったので『えー』と台所から飛んできて見入りました。智には、おめでとう、よくやったねと言いたいです。弟は、小学生のころは、やんちゃなところがあり、近所の友達と、けんかしていたこともありました。ただ、いつも思うのは、弟が、ひとりで、ここまできたのではなく、周りの人に恵まれたことが、最高に幸せだったのではないかと思います。これからも、皆さんに感謝しながらがんばってほしい。」大村さんがノーベル賞を受賞したことで、お姉さんはそのノーベル賞を受賞した大村さんのお姉さんと呼ばれるようになったのです。別にお姉さんが何かしたわけではありませんが、大村さんのお姉さんということで、その栄誉の一員に加えられたわけです。それは私たちも同じで、私たちは神の子イエス・キリストを信じたことでイエスさまを長男とするその兄弟に、ノーベル賞どころかこの天地万物を造られた神の御子の兄弟、神の家族の一員に加えられたのです。 

信じられません。全くおこがましい限りです。私たちはしばしば自分たちがイエスさまを信じていることさえ恥じたりすることがありますが、そんな私たちを、イエスさまは「兄弟」と呼んでくださるのです。そして、それを恥とはなさいません。何という恵みでしょうか。造り主と造られた者ではレベルが違います。また、救い主と救われる者とでは立場が違います。聖とする方と聖とされる者とでは全く質が違います。それなのに、主は私たちをご自身と同じ「兄弟」と呼んでくださるのです。それは恵みではないでしょうか。 

 Ⅱ.死の恐怖から解放してくださった(14-16) 

 第二のことは、そのようにイエスさまが人となって来られ、十字架にかかって死んでくださったことによって、死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださったということです。14節と15節をご覧ください。

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

 十字架の苦しみと復活によって、なんとすばらしい結果がもたらされたことでしょう。それによって死が滅ぼされました。人にはいろいろな恐れがありますが、その中でも最も恐ろしいのは死ではないでしょうか。死は人からすべてのものを奪ってしまいます。家族を奪い、友人を奪い、これまで積み上げてきた地位や名誉や財産のすべてを奪います。しかもそれは何の予告もなしに、ある日突然やってくるのです。だれもそれから逃れることはできません。私たちの人生にはいろいろな問題がありますが、この死の問題こそ究極の問題であり、最大の問題です。そして、この死の問題に明確な解決を持っていなければ、何のために生きているのか、その生の意味さえも見えてこないわけです。結局のところ、死んでしまえばすべてが終わりなのですから。泡となって消えてしまいます。ですから、いつも死に怯えていなければならないのです。 

 しかし、神はこの死の問題に解決を与えてくださいました。神の御子が私たちと同じように肉体を持った人となって来られることによって、その死によって、悪魔という死の力を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださったのです。ここにキリストが私たちと同じ肉体をもって生まれた理由があるのです。それは、キリストが十字架で死なれ、そして三日目によみがえることによって、悪魔が握っていた死の力を完全に打ち破るためだったのです。ですから、クリスチャンにとっては、死はもはやのろいではなく、天国への入り口になりました。クリスチャンといえども造られた者にすぎませんから、肉体の死を免れることはできませんが、その死の意味が全く変わりました。もはや罪の刑罰という意味での死は取り除かれ、天の御国で永遠に主とともに生きる時に変えられたのです。もはや死ぬことは少しもこわくはないのです。一般的には「死」ということばさえ忌み嫌われ、考えたくもないし、会話にもしたくないことですが、クリスチャンにとっては、むしろそれは天国でイエスにお会いできるという喜びの時となったのです。これはものすごいことではないでしょうか。

今年8月1日に全日本リバイバルミッションの滝元明先生が召天しました。85歳でした。その葬儀が8月14日に、凱旋式・リバイバル感謝聖会として新城市文化会館で行われましたが、その中で、1993年に行われた甲子園ミッションで滝元先生が語られたメッセージが上映されました。先生はそのメッセージの中で、こう言われました。「私は19歳で教会に行き2回目で信じました。洗礼の時に、伝道者になって世界中に行きたいと祈り、神様はその祈りを聞いてくださり、痔(じ)も癒やされました。他の宗教でも癒やしはあります。しかし、罪の赦しはキリスト教だけです。神様はあなたの家庭を祝福し、あなたを千代まで祝福すると言います」「イエス様を信じる者は永遠の命を与えられます。それまで死ぬことが怖かったですが、この言葉で怖くなくなりました。私の父も母もイエス様を信じて天国に帰りました。このキリストを信じましょう」すばらしいですね。死はもはや滅ぼされました。確かに肉体は滅んでも、そのたましいは主のもとにあげられ、そこで永遠に主とともに生きているのです。 

大沢バイブルチャーチの関根辰雄先生が、聖書学校を出て最初に赴任した足利の教会の隣に、お寺が管理している墓地がありました。そしてその墓地の中に、一際目立った大きなお墓があったそうです。それはその町の名士であったらしい人のお墓のようでしたが、その墓標にはこう辞世が記されてありました。辞世というのはこの世を去る時に読む詩のことですね。 

「行く先の知れぬ旅路や 衣替え」 

さあ、これから衣を着替えて新しい旅に出かけようというのに、どこに行くのかがわからないのです。行く先の知らない旅に出ることほど不安なことはありません。おそらくこの方は家族のために尽くし、社会のために貢献し、その人なりに生きられたのでしょう。でもその人生の終わりが来たとき、どこに行くのかがわからないとしたら、それこそ虚しいのではないでしょうか。関根先生はしばらくそこに立ち止ってじっと眺めていましたが、何とも寂しく、はかなさを感じたそうです。 

しかし、そのお墓のすぐ近くにもう一つの墓碑があったそうです。それはどうやらクリスチャンの墓のようで、そこにはこう記されてありました。 

「我らの国籍は天にあり」 

ハレルヤ!!!自分は死んで終わりではない。よみがえるのだ。私のたましいは、私を造られた主のもとに帰るのであって、消えて、無くなのではない。私の国籍は天にあるのだ。そのように告白して歩める人は、どんなに幸いなことでしょう。それは、死に完全に勝利した人の姿です。イエス・キリストを信じる者は、死んでも生きるのです。死はもはやキリストにある者を縛ることはできません。キリストが死んで、三日目によみがえられたことによって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれていた人々を解放してくださったからです。あなたも天から恵みを頂いて、このような人生の最後を飾ってください。 

Ⅲ.あわれみ深い大祭司となるため(16-18) 

キリストはなぜ人となって来られたのでしょうか。第三に、それはあわれみ深い大祭司となられるためです。17節と18節をご覧ください。

「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」

 大祭司とは、民に代わって、神にとりなしをする人のことです。イエスは、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、すべての点で私たちと同じようになられました。それは私たちの罪のために、なだめがなされるためです。大祭司は、年に一度、至聖所と呼ばれる所に入って、契約の箱の贖いの蓋の上に、血をふりかけて、イスラエルの民の罪のなだめを行ないました。神が人の罪に対して怒っておられるからです。その怒りがなだめられるように、そこで動物のいけにえの血が振り注がれたのです。イエスがそのなだめの供え物となられました。御子イエスが私たちの罪のために、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったので、私たちに対する神の怒りは完全に取り除かれたのです。ですから、もう神は怒っておられません。あたなが自分の罪を悔い改め、神の御子を救い主と信じたことで、あなたは神の子とされたからです。もうあなたは神の怒りの対象ではなく、愛の対象へと変えられたのです。いったいなぜイエスが人となって生まれなければならなかったのでしょうか。このなだめがなされるためでした。そのためにイエスは、私たちと同じように、罪深い肉と同じ姿にならなければならなかったのです。 

ではキリストはどのような大祭司なのでしょうか。ここには、あわれみ深い、忠実な大祭司とあります。キリストは、あわれみ深い、忠実な大祭司となられるために、すべての点で私たちと同じようにならなければならなかったのです。それは、キリストが私たちと同じように肉体に弱さを持っておられたことを意味しています。私たちと同じように肉体の疲れや痛みを経験されました。また、心の苦しみ、叫び、悲しみも経験されました。イエスさまがベタニヤ村のマルタとマリヤの家に行ったとき、弟ラザロが死に、マリヤと人々が泣いているのをご覧になったとき、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、涙を流されたとあります(ヨハネ10:35)。イエスさまは、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じようになられたのです。 

ですから、私たちが受けている誘惑、または試練といったものを、イエスさまが知らないものは何一つありません。私たちが日々の生活の中で、「このことは、だれにもわかってもらえない。」という苦しみがあるでしょう。けれども、主はそのすべてを知っておられます。なぜなら、人となられたときに、その試みのすべてを経験されたからです。ですから、すべてのことを知っておられるイエスさまに、力をいただくため、大胆に神の恵みに御座に近づくことができるのです。 

私たちが日々の生活の中でいろいろな苦しみに遭い、その重圧に押しつぶされてしまいそうになるとき、自分だけが苦しい目に遭っているわけではないということを知ることは大切なことです。自分だけが特別に苦しい目に遭っていると思うと、耐えがたさを感じるでしょう。しかし、それが自分だけでなく、イエスさまも同じように試みを受けて苦しまれたということがわかるとき、心に励ましを受けます。なぜなら、この方は私たちと同じようになられたので、同じような試みにある人を助けることができるからです。 

昨日スーパーキッズがあって、2階でお母さんたちのバイブルスタディーがありましたが、その中に先天性の脳の病気を抱えたお子さんを持つお母さんが参加されました。この方の赤ちゃんは3歳になりますが、生まれてからほとんど成長できず、立つことも、話すこともできないでいましたが、1か月前に気管支炎にかかり病院に入院してから体調が悪化し、眠ろうとするとパニックになるので眠ることもできず、もうどうしたらいいかわからないで苦しんでおられました。自ら命を断とうとさえ思ったほどです。ところがそこに、同じような苦しみを経験された人がいて、涙ながらにそのこと話してくれると、その方はこれまで抱えていた肩の荷が降ろされたというか、とても慰められたかのようでした。それは「私だけじゃないんだ」「みんな同じような苦しみを通っているんだ」ということがわかったからです。

このように、自分だけじゃないということがわかるとき、心に大きな慰めを受けるのです。イエスさまは私たちと同じようになられたので、私たちの弱さを十分理解することがおできになるのです。 

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないような試練に遭われることはなさいません。試練とともに脱出の道を備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13) 

私たちは、自分だけが特別に苦しい目に遭っていると思うと耐えがたさを感じるかもしれません。しかし、私たちの大祭司であられるイエスさまも、私たちと同じ苦しみを体験されたのです。その方がいま、私たちの大祭司として、天でとりなしていてくださいます。ただ天にいて、下界を「どれどれ」と眺めているのではありません。すべての点で私たちと同じようになられ、同じ試みに遭われ、同じ苦しみをなめられたそのお方が、今、天において私たち一人一人のために、その名を挙げてとりなしの祈りをしてくださっているのです。なんと驚くべき恵みでしょうか。もし御使いを助けるのであれば、わざわざ肉体を取られることはなかったでしょう。しかし主は御使いを助けるためではなく、アブラハムの子孫、これは私たちクリスチャンのことですが、私たちを助けるために来られたので、私たちと同じようになられたのです。それは私たちが経験するすべての苦しみを理解することができ、またそのように試みられている人たちを助けるためです。 

人間の大祭司なら落ち度もあり、失敗もあるでしょう。しかし、神の大祭司はあわれみ深い方です。また忠実なお方です。忠実ということは、本当に信頼できるということです。このようなお方が私たちのすぐそばにいて、私たちを助けてくださることを思うと、本当に励まされるのではないでしょうか。私たちにどのような問題があっても、この方はどんな問題でも、すべての問題に解決を与えることができる方なのです。こんなすばらしい救い主がほかにいるでしょうか。 

 ですから、使徒の働き4章12節にはこうあるのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

 あなたが助けを求める方はこの方です。この方以外には、だれによっても救いはありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていないからです。あなたは、この方に信頼していますか。この方を信じて救われていますか。もしまだでしたら、今日信じていただきたいと思います。信じて救われ、死の恐怖から解放されてください。そして、どのような苦しみからも救い出し、助けることができるキリストの力を体験してください。もう既に信じている方は、どうかこの確信にしっかりと留まってください。押し流されませんように。この方から目を離さないで、この方に信頼して歩み続けてください。そうであれば、どのような問題があっても勝利ある歩みをしていくことができるからです。キリストが人となってこの世に来てくださったのは、あなたを十分理解し、あなたを助け、あなたを救うためだったのです。

ヘブル2章1~9節 「こんなにすばらしい救い」

 きょうは、2章1~9節のみことばから、「こんなにすばらしい救い」というタイトルでお話します。こんなにすばらしい救いです。どんなにすばらしい救いでしょう。ご一緒に見ていきましょう。まず1節をご覧ください。 

 Ⅰ.押し流されないように(1) 

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」 

この2章は、「ですから」ということばで始まっています。「ですから」というのは、1章で語られた内容を受けてということです。1章ではどんなことが語られたでしょうか。1章では、神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には御子によって語られた、とありました。神は、お語りになられる方です。そのようにしてご自身を現してくださいました。ではどのようにお語りになられたのでしょうか。神は、むかし預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には、御子によって、語ってくださいました。御子は、神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れです。ですから、御子を見た者は父を見たのです。神がどのような方であるかは、御子を見ればわかります。御子は万物の相続者であり、創造者であられます。そしてその力あるみことばによって今も万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い方の右の座に着かれました。この方は王の王、主の主であられるのです。他の何ものにも比べることができないほど偉大な神なのです。では神の御使いはどうでしょうか。御使いは霊的な存在で超自然的なことができますが、それらはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために、これは私たちクリスチャンのことですが、遣わされたものにすぎません。しかし、御子は、その御使いに拝まれる対象なのです。全く比べものになりません。「ですから」です。「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」 

この手紙の受取人はヘブル人でしたね。ヘブル人というのはユダヤ人のことです。ヘブル人、ユダヤ人、イスラエル人はほとんど同じ意味です。ユダヤ人というのはユダヤ教を信じていますが、そのユダヤ教から回心してクリスチャンになった人たちです。彼らはユダヤ人でしたがキリストの福音を聞いて、イエスこそ約束のメシヤとして信じました。ところが、彼らがイエスを信じているということでユダヤ人たちから迫害を受けると、自分たちが信じているイエスさまから離れ、ユダヤ教に逆戻りする人たちがいたのです。折角、過去の古いしきたりから解放されたというのに、再びそこに逆戻りしたのです。それは船が潮の流れに流された状態と同じです。とても危険なのです。 

2013年9月、イタリアの豪華客船コスタ・コンコルディア(Costa Concordia)が座礁して沈没、多くの尊い命が奪われる事故が起こったことは記憶に新しいかと思います。あの事故はどうして起こったのかというと、船がコースを外れて運航し浅瀬に乗り上げてしまったことが原因でした。。船長が乗客を喜ばせようとして無理に陸地に近づこうとしてコースを外れ、岩礁にぶつかつてしまったのです。まさにこの手紙の受取人もそのような危険がありました。それでパウロはそういうことがないように、聞いたことをしっかりと心に留めて、押し流されないようにしなければならない、と警告したのです。彼らは確かに聞いてはいましたが、実際には聞いていませんでした。それはただ頭だけのことであって、心に結び付けられていなかったのです。キリストのことばを表面的に聞いていても、それが心の深い部分に留まっていませんでした。

イエスさまは、「だから、聞き方に注意しなさい。」と言われました。「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」(ルカ8:18)

みことばを聞いても、聞いていないことがよくあります。みことばを聞いても、「ああそれは知っている」とか、「ああそれは何回も聞いた」いうレベルにとどまったり、心に結びつけるところまでいかないことがあるのです。でも不思議なことに、みことばは何回聞いてもその時その時に教えられることが違います。ですから、聞いたみことばを自分にあてはめ、植え付けるようにして聞く事が大切です。表面的に「分かった」というところにとどまらないで、本当にイエスさまと深い部分において触れ合っていくことが大切ではないでしょうか。 

Ⅱ.こんなにすばらしい救い(2-4) 

次に、2~4節までをご覧ください。

「もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」 

「御使いたちを通して語られたみことば」とは、モーセの律法、旧約聖書のことです。モーセの律法は、神から御使いたちに与えられ、それがモーセに伝えられました。そのみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順に対して当然の処罰がもたらされたのであれば、御子によって与えられたこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうして処罰をのがれることができるでしょうか、できませんよ、というのです。「違反」とは、「これこれをしてはいけない」というルールを破ることです。また、「不従順」とは、「これこれのことをしなければならない」という決まりをやらないことです。この御使いを通して語られた律法でさえ、それに違反したり、それに不従順であれば、当然の処罰を受けたのです。であれば、ましてや神の御子によって伝えられた救いをないがしろにすれば、神の処罰を免れることは当然のことです。なぜなら、これはすばらしい救いだからです。 

聖書は、私たちが救われるために神が用意してくださったものを「福音」と呼んでいます。それは「良い知らせ」という意味ですが、イエス・キリストに関することです。神の御子イエス・キリストが、私たちの救いのために何をしてくださったのかということであります。神は、初め私たちを罪から救うためにご自身の律法を与えてくださいました。それはさきほど申し上げたように、これをすれば救われるとか、これをしなければ救われないというものですが、残念ながらこの律法の基準を満たすことができる人はひとりもいませんでした。むしろ、律法を守ろうとすればするほど、自分がいかに罪深い者であるのかを知るのでした。そうです、神の律法が与えられた目的は私たちを救うことではなく、私たちに罪の意識を植え付けることだったのです。すべての人が罪人であるということを明らかにすることでした。ではいったいだれが私たちを救ってくれるのでしょうか。イエス・キリストです。神は、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされた神の義、救いの道を用意してくださいました。それがイエス・キリストです。このキリストを信じる者は、だれでも神の前に義と認められるということ、すなわち救われるということ、それが福音です。では、イエス・キリストとはどのような方でしょうか。この方はどのようにして私たちを救ってくださったのでしょうか。 

キリストは神の御子であられます。この方は、天地万物を造られた創造主です。それなのに、私たちをその罪から救うために天から下って来られました。そして、私たちのすべての違反、不従順、罪を背負って、身代わりに十字架で死んでくださいました。罪の支払う報酬は死であるとあるように、本来なら私たちが死ななければならなかったのに、キリストが身代わりに死んでくださったのです。そして、三日目によみがえられました。それは私たちが義と認められるためです。もし死んだままであったらキリストは私たちと同じ人間だということであり、私たちを救うことはできないからです。しかし、キリストはよみがえられました。ですから、この方を信じる者は、だれでも救われるのです。これが福音です。 

どうですか、ほんとうにすばらしい救いではないでしょうか。この神がしてくださったことを受け入れるだけでいいのです。そうすれば、あなたも救われます。あなたの努力や行いによるのではありません。難行苦行をしなければならないというのではないのです。ただこの神の救いのみわざを信じて受け入れるだけでいいのです。自分の努力によっては全く救われるはずのない者が救われるのであれば、これは恵み以外の何ものでもありません。だからここには、「こんなにすばらしい救い」と言われているのです。こんなにすばらしい救いはどこにもありません。それなのに、これを無視することがあるとしたら、あるいは、これをないがしろにして過去の生活に、律法主義に逆戻りするようなことがあるとしたら、どうやって神の処罰を逃れることができるでしょう。そこには永遠の滅びしか残っていないのです。 

これは尾山令仁先生が書かれた本にあったお話ですが、先生が1958年に石川県の金沢市にある北陸学院というミッション・スクールの夏期学校に講師として行ったとき、ある教会の夕拝で説教されました。その中にこのような経験をされたご婦人がいました。それはその時よりもさらに15年ほども前のことですが、その方は、ある冬の日、玄関で赤ん坊が泣く声で目が覚めました。その朝は大雪で、軒近くまで雪が積もっており、その玄関の軒先に赤ん坊が置かれていました。すぐに玄関をあけ、その赤ん坊を抱いた時、その赤ん坊がだれの子であるかはすぐに見当がつきました。ちょっと前に近所の奥さんが赤ん坊を置いて家出をしたと聞いていたので、おそらくその人の子供だろうと思いました。きっと育てることができなかったので、ここに置いて行ったのだろうと思い、であれば、自分が育てなければならないと、この時決心しました。しかし、自分が産んだ子供ではありませんから、お乳が出ないわけです。そこで、人工栄養で育てるしかないと粉ミルクを買おうとしましたが、それが結構お金がかかり、ちょっとした内職程度ではミルク代をかせぐことができないわけです。そこでやむなく男たちに交じって道路工事の仕事をすることにしました。

ところが、ある日のこと、仕事をしていると、人がやって来て、その子がトラックにはねられた、と知らせに来てくれました。取るものも取りあえず病院に飛んでいくと、幸いにして一命を取り止めることができました。しかし、だんだんよくなってくると、欲が出るもので、その子のからだのいたるところにできた傷を何とか直してやりたいと思うようになりました。その子が女の子であれば、なおさらのことです。病院のお医者さんに相談すると、「それは難しいですよ」ということでしたが、とうとう意を決して、自分の皮膚を取って、その子に移植しました。無事手術も終わり、日ましによくなり、そのうちにその女の子の傷跡はすっかりなくなってしまいました。しかし、母親のおなかには、大きな傷跡が残ってしまったのです。そして、その子が中学生になり、ミッション・スクールの北陸学院の生徒になったころ、母親と一緒に風呂屋へ行くことを嫌がるようになったのです。母親には、その理由がすぐにわかりました。一緒に風呂屋へ行くと、小さな子供たちが母親の近くに来て、「あのおばちゃんおなかの所おかしいよ」と言っては、じろじろと眺めるものですから、中学生になったその子にとってはとても恥ずかしく、耐えられない苦痛だったのです。

そこで、ある日のこと、その母親は、その子にこう言いました。「今日は、あなたにお話ししたいことがあります。そこにお座んなさい。」すると母親は、自分の醜いおなかのことを話す前に、その子が自分のおなかを痛めて産んだ子ではないことを話しました。さすがに拾った子供だとは言えなかったので、ある人からもらったのだと言いました。そして、「このことはほかの人から聞くよりも私から話しておいた方がいいと思ったから、私から話したの。あなたはどう思う。」と言うと、彼女は少しも動じることなく、「産みの親は産みの親、育ての親は育ての親と言うでしょ。別にどうってことないわ」というので、「それじゃ、あなたにこのこともお話しておくわ」と、自分の醜いおなかのわけを話しました。するとそれをじっと聞いていた娘さんは、「お母さん、ごめんなさい、私はお母さんのおなかのことが恥ずかしくて、一緒にお風呂に行かなかったの。」と言って、その場に泣き崩れてしまいました。そのことがあってから、この娘さんは、学校で聖書の時間や礼拝の時に聞いたイエスさまのことがよくわかるようになりました。イエスさまが自分のために身代わりとして十字架にかかってくださり、私を罪から救ってくださったということがよくわかり、周りにいる人たちにこの福音をよく伝えたそうです。 

私たちが救われた福音とは、実にこのようなものです。いや、これ以上のものです。この娘さんは母親の身代わりによって癒されたのです。それなのに、その母親の愛の行為を恥ずかしいと思ったりすることがあれば、それはほんとうに悲しいことではないでしょうか。同じように、神が私たちを愛してくださったその大きな愛によって私たちが罪から救われたのに、その救いをないがしろにするとしたら、すなわち、その救いの道から離れたり、以前の生活に逆戻りするようなことがあるとしたら、神はどれほど悲しまれることでしょう。この福音こそ、私たちを罪から救い出し、新しく生まれ変わらせることができるのです。ですから、この福音に、あなたが聞いたこの福音の真理に堅く立ち、ますますしっかりと心に留めて、この世の流れに押し流されないようにしなければなりません。それが生まれ変わったクリスチャンの生き方なのです。 

Ⅲ.すべての人のために死なれたイエス(5-9) 

ところで、いったいなぜ神は私たちのためにこんなにすばらしい救いを与えてくださったのでしょうか。それは、神は私たちを愛しておられるからです。5節から9節までをご覧ください。

「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」 

 どういうことでしょうか。5節にある「後の世」とは千年王国のことです。神は、この後の世を御使いたちに従わせることをなさらず、私たち人間の手にゆだねられました。神の御子イエス・キリストを信じる者を、キリストとともに共同相続人として、千年王国を支配する者としてくださったのです。何ゆえに神は、このような特権を与えてくださったのでしょうか。この手紙の著者は、ダビデが語ったことばを引用して、驚きをもってこう語っています。6節、

「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。」

「これ」というのは人間のことです。人間が何者だというので、神はこんなちっぽけな人間に目を留めておられるのでしょうか。それは人を特別な存在としてお造りになられたからです。創世記1章26節、27節を見ると、神が人を造られたとき、神のかたちに、神に似せて造られたとあります。神のかたちに造られたということは、神の霊を持つものとして造られたということです。神は人を霊を持ち、神と交わりを持つ者として造られました。そのように造られたものは人間だけです。この世界には多くの被造物が存在していますが、神に似せて造られたのは人間だけなのです。いや、神が造られた被造物のすべては人間が生きていくために造られたのです。そういう意味で、人は特別な存在なのです。ですから神は、その造られたすべてのものを人間が支配するようにしたのです。つまり、人間にはこの世を支配するという特権がゆだねられたのです。 

それなのに、8節にあるように、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見ていません。実際にこの世を支配しているのは人間ではなく悪魔です。悪魔とか天使という言葉を聞くとどこかおとぎ話のような感じがするかもしれませんが、悪魔は実際に存在しているのです。存在しているだけでなく、実際にこの世を支配しているのです。そして、私たちにいろいろと戦いを挑み、悪い影響を及ぼしているのです。Ⅰヨハネ5章19節には、「私たちは神からのものであり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」とあります。この世全体は悪い者の支配下にあるのです。悪霊崇拝やオカルト(魔術)といったものから、クリスチャンの成長を妨げてしまうようなさまざまな思考パターン、習慣、罪深い行動、怒り、怒り、憎しみ、極度の落ち込みなど、いろいろな形で表われています。私たちはそうしたものに捕われながらなかなか克服することができず、絶望的な日々を送っているのではないでしょうか。それは悪魔がこの世を支配しているからです。悪魔は惑わす霊であり、偽りの父です。その結果、全世界が悪い者の支配下にあるのです。 

 エペソ2章1、2節には、次のようにあります。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順らの子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」この「不従順らの子らの中に働いている霊」とは悪霊のことです。悪魔、悪霊は、空中の権威を持つ支配者として、今も不従順らの子らの中で働いているのです。私たちはキリストを信じるまでこの悪魔の支配の中で生きていました。本来であれば人間がすべてのものを支配するはずだったのに、最初の人アダムが罪を犯したことで、罪の奴隷となりました。そしてこの悪魔の支配下の中で生きることになってしまったのです。その結果、何とも不自由な生き方を余儀なくされてしまいました。パウロはそんな自分の姿をこのように嘆いてこう言っています。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。」(ローマ7:24)

罪に捕われた自分の姿を、このように告白せざるを得なかったのです。それは私たちも同じです。私たちもこうしたさまざまなものに捕われながら、本当に不自由な生き方をしているのではないでしょうか 

いったいだれが、この死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。パウロは続くローマ人への手紙7章25 節からのところでこう言っています。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。というのは、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはないからです。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」神はどのようにして私たちをこの罪から解放してくださったのでしょうか。イエス・キリストによってです。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それが9節にあることです。ご一緒に読んでみたいと思います。

「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」

「御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエス」とは、イエスが人となってこの世に来られたことを意味しています。キリストは神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れ、神ご自身であられたのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そればかりか、キリストは自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それが御使いよりも、しばらくの間、低くされたということです。 

 でも、神が人になるなんて信じられません。そんなことあり得ないからです。当時のユダヤ人もそのように考えていました。遠い地平線を見ると天と地が一つに重なってみえても実際にはどこまでも重なることがないように、神と人間が重なることはありません。どこまでいっても神は神であり人間は人間です。神が人になったり、人が神になったりするなんてあり得ない、と考えていたのです。けれども神は、そうした人間の考えを超えて働いてくださいました。どこまでも交わることのないはずの神が、人となってくださったのです。しかも、十字架にかかって死んでくださいました。なぜでしょうか。9節の最後のところにこうあります。「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」 

それはすべての人のためでした。ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人も、また私たち日本人も、すべての人です。すべての人種、すべての民族のためです。それはあなたも例外ではありません。キリストはあなたのために十字架で死んでくださいました。それはあなたの罪を贖い、本来あなたに与えられていた支配権をサタンから奪い取り、やがてキリストとの共同相続人となって、後の世を支配するようになるためです。最初の人アダムは罪を犯したので、神から与えられたこの祝福を失ってしまいましたが、最後のアダム(キリスト)はその失った支配権をサタンから奪い取るために、人類の代表として死を味わわれたのです。キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。キリストを受け入れるまで私たちは罪の奴隷でしたが、キリストが十字架で死なれたことによって、私たちに対する罪の力は破られたのであります。ですから、悪魔は私たちに対して、いささかの力も持っていないのです。あなたはキリストにあって自由とされたのです。ガラテヤ5章1節にこうあります。 

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」 

もうあなたを縛るものはありません。敵である悪魔は完全に打ち破られました。キリストが十字架であなたの罪の身代わりとなって死んでくださったので、あなたに対する罪の力は破られたのです。あなたは救い主イエスを信じたことで神の子としての特権を受けたのです。あの最初の人に与えられた支配権を回復したのです。やがてもたらされる千年王国でそれは明らかにされるでしょう。あなたはキリストとともに千年間王となって御国を治めるようになるのです。 

ですから、あなたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなければなりません。ということは、私たちはその自由を失って、またと奴隷のくびきを負うこともあり得るということです。それは、この1節でパウロが警告していることでもあります。ですから、聞いたことを、ますますしっかりと心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。あなたは、こんなにすばらしい救いを受けたのですから・・・。キリストは、あなたを救うために天から下って来られ、十字架で死んでくださいました。ここに私たちの唯一の希望があるのです。

ヘブル1章4~14節 「御使いにまさるキリスト」

 きょうは、ヘブル人への手紙1章4節から14節のみとばから、「御使いよりもまさるキリスト」というタイトルでお話します。前回はこの手紙の冒頭のところで、神は語られる方であるということを学びました。神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分の分け、また、いろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には御子によって語られました。御子であられるイエス・キリストを見れば、父なる神がどのような方であるかがわかります。キリストを見た者は父を見たのです。なぜなら、御子は神の栄光の輝きだからです。神は、御子によってすべてのものを現してくださいました。ではその御子とはどのような方しょうか。前回はそれを御子の七つの特質をあげてお話しました。きょうのところではそのことを御使いと比較して語られます。御使いと比較することによって、キリストがどれほどすぐれた方であるのかを際立たせようとしているのです。 

   Ⅰ.御使いにまさるキリスト(4) 

 まず4節をご覧ください。「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」 

    御使いとは天使のことです。皆さん、天使は実在しているのでしょうか?天使というと、一般に真っ白い服を着た人に羽がついた人やキューピットに羽がついたイメージがあって、どこかおとぎ話や空想話のようにとらえられがちですが、これは確かに実在しているものです。それは神によって造られた被造物の一つで、決しておとぎ話とは違うのです。コロサイ人への手紙を見ると、キリストは目に見えるもの、見えないもの、王座も主権も権威も、すべて造られたとありますが、その目に見えない被造物の一つが天使なのです。聖書には旧約聖書に108回、新約聖書に165回言及されています。確かに、御使いは実在しているのです。 

 それにしても、なぜここで御使いのことが取り上げられているのでしょうか。それは、この手紙の受取人がユダヤ人クリスチャンであったからです。ユダヤ人は御使いを重んじていました。ユダヤ人は律法をとても大切にしていましたが、それはこの御使いを通して与えられたと信じていたのです。たとえば、パウロはガラテヤ人への手紙3章19節でこのように言っています。「では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られる時まで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。」彼は、律法は御使いたちを通して仲介者の手で定められたものだと考えていました。また、ステパノも使徒の働き7章53節で、「あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことがありません。」と言って、律法が御使いたちによって定められたものであると信じていました。それが、ユダヤ人が信じていたことなのです。ですから、ユダヤ人は、御使いを特別な位置に置いていたのです。そのため、中には御使いは神と自分たちの仲介者だと思う人たちもいました。 

 実際に、御使いは人間よりも優れているので、超自然的なことができます。たとえば、使徒の働き12章を見ると、ペテロがヘロデ王によって捕えられ、牢に閉じ込められていたことが記録されていますが、その牢から解放されたのは御使いたちの働きによるものでした。ペテロは牢獄で二本の鎖につながれ、ふたりの兵士の間に寝ており、戸口には番兵たちが監視していたので、もうどうやっても逃げることなどできない状態でしたが、その夜、主の使いが現れて、牢を光で照らすと、ペテロの脇腹をたたいたのです。すると、鎖が彼の手から落ちました。そして主の使いの後について第一の衛所、第二の衛所と行くと、門がひとりでに開いて外に出ることができ、助け出されました。勿論、それは聖徒たちの祈りに対する紙の答えではありますが、そのために用いられたのはこの御使いたちでした。御使いは、そのような超自然的なことができる存在なのです。 

 するとどういうことが言えるでしょうか。こうした御使いをあたかも神でもあるかのように思い、礼拝の対象としてしまうという危険性があるということです。これは私たち日本人にもいえることです。何か崇高なもの、常識を超えた不思議な存在、自分にご利益をもたらすような対象があると、すぐに手を合わせてしまう傾向があるのです。実際に、コロサイの教会には御使いを礼拝する者たちがいました。さらに、神の御子イエス・キリストも神の御子ではなくこうした御使いの一人であると教える異端も出てきました。今でもそのような異端がいます。たとえば、エホバの証人と言われるグループはその一つです。彼らはキリストを神の御子ではなく、天使長ミカエルだと主張しているのです。それはキリストを被造物の存在にまで引き下げることであり、当時のコロサイの教会にいた異端者たちと同じような過ちを犯していることになります。

 そこで、この手紙の著者はキリストがどのような方であるかを明らかにするためにキリストを御使いと比較し、キリストがどれほど偉大な方であるかを語るのです。 

 Ⅱ.神の御子キリスト(5~13) 

 ではキリストはどれほど偉大な方なのでしょうか。まず5節をご覧ください。ここには、「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」」とあります。 

 これは詩篇2篇(7節)からの引用です。キリストが御使いよりもすぐれている一つの理由は、キリストが神の御子であられるということです。神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」どの御使いに対しても神がこのように言われたことはありません。ただキリストに対してのみ、「あなたは、わたしの子」と呼びました。このように呼ばれる方はただ一人、神の御子イエス・キリストだけなのです。 

 ところで、この「きょう、わたしがあなたを生んだ」ということばは誤解される危険性があることばです。やっぱりキリストは神によって造られたものではないかと思われるからです。こういう箇所をみると、エホバの証人の方は「ほら見ろ。やっぱりキリストは神によって造られた存在じゃないか」と反論してきます。しかし、この「生んだ」ということばは造られたという意味ではなく、むしろその逆で、「第一のものになられた」ということです。つまり、キリストは万物の創造者であり、支配者であるということを表しているのです。万物の創造者であり支配者であるということは、被造物であるどころか、それは造り主なる神であるということでもあります。

パウロはこのことをコロサイ書1章15~18節でこう言っています。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」

 

御子は見えない神のかたちであり、神ご自身です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られました。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。このように、御子が万物の創造者であるということは、この方が造り主なる神であるということです。この世界を創造された方こそ神だからです。それじゃ、「生まれた」とはどういうことなのでしょうか。それは第一のものになられたという意味です。すべてのものが、この方によって支配されているということなのです。キリストはそれを死から復活することで証明されました。

 5節をご覧ください。「またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」とあります。これはⅡサムエル記7章14節のみことばの引用ですが、このみことばによってもキリストは神の御子であることが強調されています。これはダビデが神の家を建てたいと願っていたとき、神が預言者ナタンを通して彼に語られたことばですが、Ⅱサムエルには「その王座をとこしえまでも堅く建てる。」とあるように、これはこの世の王国のことではなく神の国のことを指して語られていました。それゆえ、この子とはソロモンのことではなくその子孫であるイエス・キリストのことだったのです。神はこのダビデの子孫から生まれるキリストを「わたしの子」と呼びました。このことからもわかるように、キリストは神の御子なのです。

 神は、かつてどの御使いに対してこのように言われたでしょう。このように呼んだ御使いは他にはいません。ただ神の御子イエス・キリストだけがこのように言われたのです。ということは、キリストは御使いとは比べものにならないほど偉大な方であるということです。

 次に、6節をご覧ください。ここには、「さらに、長子をこの世界にお送りになられるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」とあります。これは詩篇97篇(7節)からの引用ですが、長子をこの世界にお送りになるとき、神は、「神の御使いはみな、彼を拝め。」と言われました。つまり、キリストは礼拝の対象であるということです。神の御使いはそうではありません。神の御使いは、彼を拝まなければなりません。御子と御使いがどれほど違うかは、このことばからもはっきりわかります。

 それでは御使いは何のために存在しているのでしょうか。7節にはこうあります。「また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」どういうことでしょうか。これは詩篇104篇(4節)からの引用ですが、御使いは風のように、また炎のように、仕える存在にすぎないということです。御使いは神の目的を実行するために、神に仕える存在なのです。

 しかし、御子は違います。8節と9節をご覧ください。ここで、御子については、こう言われています。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」これは詩篇45篇6~7節の引用ですが、おもしろいことに、ここで神は御子を「神よ」と呼びかけています。9節にも、「それゆえ、神よ。あなたの神は、・・・・」と、「神」と「あなたの神」の二人の神が出ているのです。これはどういうことかというと、イエス・キリストが神であることです。それをもっとも明瞭に表したのがこの箇所なのです。

 聖書はまことの神は唯一であると教えています。その神がキリストを神と呼んでおられるのです。つまり、聖書はその唯一なる神は、父と子と聖霊という三つの神であるというのです。これを神学用語で「三位一体」と言います。三つにして一つであるという意味です。これが、聖書が教えている神なのであって、これ以外の神はありません。キリストは神ではないというとしたら、それは聖書で言っている神ではないことになるのです。

そのことは、ヨハネの福音書1章1節から3節までを見てもわかります。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」「ことば」とは神の御子イエス・キリストのことです。そのことばは神とともにおられたひとり子の紙であるとはっきり言われています。

 また、パウロもこう言っています。テトス2章13節、「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」

 かつてパウロはクリスチャンを迫害する者でした。神は唯一であって、それ以外に神がいるはずがない。そういうことを言う奴がいるなら、そういう奴をひっ捕まえて懲らしめてやらなければならないと躍起になっていました。そしてダマスコという町に向かっていたとき、そこで復活の主イエスと出会いました。「主よ、あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言われたのです。まさに目からうろこでした。これまで迫害していたイエスが神の子、キリスト、救い主であるとは・・。それで彼はイエスを救い主として信じて受け入れ、今度はキリストこそ救い主であると宣言するようになりました。このテトスのみことばは、その宣言の一つです。パウロはキリストこそ私たちの救い主であり、大いなる神であると告白したのです。

 ですから、その御座は代々限りなく続きます。また、その御国の杖はまっすぐです。杖がまっすぐであるということは、正義を行うということです。そのさばきは公平で、公正です。この世の中には不公平なことがあまりにも横行していますが、キリストの杖は真っ直ぐなのです。キリストは義なる神であって、この義を愛し、不正を憎まれるのです。それゆえに、神は、神である御子に、あふれるばかりの喜びの油を注がれました。この油とは勿論、聖霊の油のことです。キリストは神の聖霊を無現に注がれた方なのです

 ところで、皆さんはイエス・キリストという名前の意味をご存知ですか。「イエス」とはヘブル語で「ヨシュア」で、意味は「神は救い(神は救う)」です。そして、「キリスト」はヘブル語で「メシヤ」で、意味は油注がれた人という意味です。旧約聖書で油注がれた人は三人いました。王と祭司と預言者です。ですから、他国に支配されていたイスラエルでは「油注がれた人」とは自分たちを その状態から解放する救い主を意味していました。ですから、イエス・キリストという名前は救い主イエスという意味で、イエスをそう呼ぶだけで 一種の信仰宣言となっているのです。イエスこそキリスト、救い主、神の油を無限に注がれた方なのです。

 そして、10節から12節までを見ても、キリストの卓越性が示されています。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」

 造られたものはやがて必ず滅んでいきます。それがエントロピーの法則です。進化していくのではなく、退化していくのです。滅んでいきます。それがこの自然の法則なのです。キリストは天地万物の創造主であり、すべてのものはこの方によって造られましたが、その造られた物はやがて滅んでいくのです。私たちはこのことをよく理解していなければなりません。なぜなら、私たちの心は、いつもこの世の物に執着する傾向があるからです。だから持っていないと不安になるのです。でも持ち物はすべて失われていきます。それは滅んでいくものなのです。私たちの肉体でさえいつまでも続くものではありません。それは必ず滅びるものなのです。それは大切なものですが、絶対的なものではないのです。そうした物に捕われていると、ちょっとしたことで平安を失ってしまうことになります。だから、こうした物に執着するのではなく、いつまでも続くものに信頼しなければなりません。いつまでも続くものとは何でしょうか。それが神です。いつまでも続くものは信仰と希望と愛です。その中でも一番大いなるものは愛です、とⅠコリント13章に記されてありますが、神こそいつまでも変わることなく続く方なのです。神は、いつまでもながらえます。すべてのものは着物のように古びますが、しかし、神はいつまでも変わることなく、その年は尽きることがありません。

ヘブル13章8節を開いてください。ご一緒に読みたいと思います。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。この方こそ、私たちが信頼するに値する方です。このような方に信頼して歩めるということは何と幸いなことでしょう。今の世の中を見ると、目まぐるしく変化する時代です。タイプライターなんて使っている人などだれもいません。ワープロも一昔前の話です。今はパソコンの時代であって、スマホの時代です。スマホの時代なんて言っても、私には何のことかよくわかりませんが・・・。よくわからないで言っています。スマホとかタブレットとか何のことだかよくわかりません。考えるだけでも疲れます。でも今はこういう時代なのです。この先今度はどんなものが登場するかわかりません。科学技術は日々進歩し、私たちの住むこの社会は目まぐるしく変化していますが、だからといって、それが必ずしも幸福をもたらすかというとそうでもありません。本当に人間らしい生き方というのは別のところにあるのではないでしょうか。それはいつまでも変わることのない神、イエス・キリストに信頼して生きるということの中にあるのです。なぜなら、イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じだからです。

 Ⅲ.神の御座に着かれたキリスト(13~14)

ですから、結論は13節と14節になります。「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」

 これは詩篇110篇からの引用ですが、キリストが御使いたちよりもはるかにすぐれているということは、彼が神の右の座に着かれたということからもわかります。神の右の座に着くというのは、神の権威の座に着くということです。すなわち、キリストは神ご自身であられるということなのです。キリストは私たちの罪を贖うためにこの世に来られました。そして、私たちの罪を赦すために身代わりとして十字架にかかってくださいました。そして、三日目によみがえり、その救いの御業を成し遂げてくださいました。キリストは死んだだけでなく、よみがえられたのです。それによって、この方こそまことの救い主であることを示されたのです。そして、その罪の贖いを成し遂げられて、天に昇り、神の右の座に着かれました。イエス・キリストは主の主、王の王であって、すべてを支配しておられる全能の神なのです。

 神は、かつてどの御使いに向かって、このように言われたでしょうか。このように言われた御使いはいません。御使いは、ただ仕える霊であって、救いの相続者となる人々、これは私たちのことですが、私たちに仕えるために遣わされている存在なのです。しかし、キリストは違います。キリストは神の御子であって、御使いからも、すべての人からも礼拝を受けるにふさわしい方なのです。

 このように、イエスが神の御子であられ、いかに偉大な方であるかを知ることができたかと思います。私たちは、イエス・キリスト以外のすばらしいものを見てそれがなんとなくすぐれていると思い、このイエスから目を離してしまうことがありますが、そこからは何の助けも、何の慰めも、何の解決も得ることはできません。あなたに真の喜びと希望を与えることができるのは、この天地万物を創造された造り主、それらすべてを支配しておられるまことの神イエス・キリストだけなのです。この方はいつまでもながらえられる方で、決して滅びることがありません。この方はその全能の御手をもって、きのうもきょうも、いつまでも変わることなく、今もあなたのいのちをも守っていてくださいます。この方に目を留めなければなりません。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)このイエスに信仰の始まりがあり、その過程があり、その完成があります。ですから、このイエスをあおぎ見続けていけばよいのです。真の望みはこのイエスを仰ぎ見ることから生まれます。このイエスを見たら、私たちの中から恐れや不安が消えます。霊的貧弱さ、未熟さから解放されます。イエスをすみずみまでじっくりと見続けるなら、あなたの中にある不平不満、憎しみ、ねたみ、敵意、復讐心、うらみ、つらみ、心の闇から解放されるのです。

クリスチャンとなったあの有名なウェスタン歌手、ベバリ・シェアは、「キリストには変えられません」という賛美歌を書きました。

「キリストにはかえられません。いかに美しいものも このお方で心の満たされてある今は 世の楽しみよ去れ 世のほまれよ行け キリストにはかえられません。世の何ものも」

 彼は、彼の心がキリストで満たされたとき、世の何ものも 彼の心を奪うものはないと告白したのです。そうです。ほんものの心で満たされた心はただ喜びはずむだけなのです。

 あるアフリカの青年が、クリスチャンになりました。その青年がある集会でこんな証をしました。「みなさん、私の心はキリストさまでいっぱいでゴムマリのようです。どんなに私を人がたたきつけても、私は強くたたきつけられればたたきつけられるほど、高く喜んではね上がるだけです。もし悪魔が思い切り私をたたきつけたら、私は高く高く天に上って、もう再び地上に帰らないだけです。」これがキリストによって心が満たされた人の思いではないでしょうか。もう何も思い悩む必要はありません。どんな困難も、苦しみも、病も、このキリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできないからです。キリストを見るなら、あなたの心はこのような喜びに満たされるのです。

 ですから、どうぞ、心を開いて、キリストを迎え入れてください。キリストこそ、心底からあなたの心をゴムマリのようにふくらんだ、満たされた心にしてくださいます。健康で力強い心にしてくださるのです。なぜなら、キリストにこそ、あなたの心を満足させるすべてのものがかくされているからです。キリストは、造られた御使いとは違って、造り主であり、神の力が満ちています。キリストはいつまでも変わることなく、あなたを守ってくださいます。キリストにこそ、罪の赦しがあり、死からの解放があります。キリストにこそまことのいのち、永遠のいのちがあるのです。この方はまことの神だからです。どうか、この方から目を離さないでください。キリストのことば、その生涯、そしてその十字架と復活をよく見て、味わってください。この方はあなたの人生にも、大きな助けを与えることができるのです。

ヘブル人1章1~3節 「神の御子イエス・キリスト」

 きょうからヘブル人への手紙に入ります。この手紙はだれによって書かれたのかはわかりません。通常の手紙ですと、手紙の冒頭のところに、だれによって書き送られたのかが明記されていますが、この手紙にはそれがないからです。ある人は、これはパウロによって書かれたに違いないと言い、また、ある人はおそらくアポロによって書かれたものでしょうと言いますが、実際にはだれによって書かれたのかははっきりわからないのです。でもわからないからこそ、なお一層のことこの手紙が聖霊に動かされた人たちによって書かれた手紙であるということがクローズアップされているのではないでしょうか。そうです、この手紙の著者は聖霊なる神ご自身なのです 

 では受取人はだれでしょうか。これも書かれてありませんが、この手紙のタイトルを見ると「ヘブル人への手紙」とあるので、これはユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙であることがわかります。いったいなぜ書かれたのでしょうか?彼らはユダヤ教からキリスト教に回心した人たちでした。そこには相当の迫害や困難があったであろうということは容易に想像することができます。そうした苦難や困難に遭うことで、中には過去の生活に逆戻りする人たちもいたのです。そこで、そうした人たちを励ますために、そして、この信仰にしっかりととどまっているためにこの手紙が書かれました。 

 そうした人たちにとって、いったい何が励ましになったのでしょうか。それは主イエス・キリストご自身です。キリストがどのような方なのかを知り、この方をしっかりと見つめることが、そうした困難を乗り越える力となったのです。それゆえ、この手紙の著者はこう勧めるのです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないようなしなさい。」(ヘブル12:2)それは、私たちにも言えることではないでしょうか。私たちも日々の生活の中で多くの問題に直面して苦しむことがありますが、そのような時でもキリストがどれほどすばらしい方であるのかを思い出し、この方を見つめるなら、大きな励ましを受けるのです。きょうは、この方がどれほど偉大な方であるのかをご一緒に見ていきたいと思います。 

Ⅰ.神は、預言者たちを通して語られた(1)

 

 まず1節をご覧ください。「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、」 

 この手紙は、いきなり「神は、」で始まります。「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました」皆さん、まことの神は語られる方です。しかし、偶像はそうではありません。偶像は口があっても語ることができません。偶像は目があっても見ることができず、口があっても語ることができず、耳があっても聞くことができません。鼻があっても嗅ぐこともできないのです。詩篇115篇2~8節にはこうあります。

「2 なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。3 私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。5 口があっても語れず、目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」 

偶像は語ることができませんが、まことの神は語ることができる方です。目を造られた方は見ることができるように、口を造られた方は語ることができるのです。神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法によって語られました。 

いったいなぜ神は語られたのでしょうか。それはご自身を現しすためです。もし神が語ってくださらなければ、どうやって神を知ることができるでしょう。もし神を知ることができなければ、どうやって神を信じることができるでしょうか。人間の知恵によっては神を知ることはできません。この世の宗教はそれを物語っているのではないでしょうか。この世の宗教は自分の知恵や力でがんばって神を知ろうしますが、どんなにがんばっても知ることはできません。自分の努力や、難行、苦行によって悟りを開こうとしても、開くことはできません。ただ神の側から近づいてくださらなければ、神が語ってくださらなければ、神を知ることはできないのです。だから、神は語ってくださったのです。 

いったい神はどのようにして語られたのでしょうか。ここには、「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して語られました。」とあります。「預言者たち」というのは、神のみこころを代弁して語る人たちのことです。神はご自分の語りたいことを、ある人たちを選んで語られました。それが預言者と言われる人たちのことです。預言とは遠い未来のことを予言する「予言」だけでなく、そのことも含んだ神のことば全体を預かり、それを語る人たちのことです。

また、「多くの部分に分け」というのは、部分的に、断片的に、段階的という意味です。神は、むかし先祖たちにご自分のみこころを、段階的に、断片的に語られました。それが旧約聖書です。旧約聖書は創世記からマラキ書まで全部で39巻ありますが、それは1,400年という歳月をかけ、いろいろな人たちによって語られたことがまとめられました。その中には農夫や漁師、羊飼いといった無学だと言われていた人々もいれば、学者や法律家のような学識者たちもいました。このように、旧約聖書は、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法によって語られたのです。ですから、ペテロはⅡペテロ1章21節でこう言っています。

「なぜなら、聖書は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

 聖書は、決して人間の意志の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものなのです。それゆえに聖書は神のことばであり、私たちがよって立つべき唯一の道しるべであると言えるのです。あなたはそのようにうけとめておられたでしょうか。 

 しかし、神は預言者たちを通してそのすべてを語ったのかというとそうではありません。それは部分的であり、また断片的なものであり、神の啓示のすべてではありませんでした。それは正しいものですが、それで完結していたのではありません。その完成のためにはある方の到来を待たなければなりませんでした。それが神の御子イエス・キリストです。 

 Ⅱ.神は御子によって語られた(2a) 

 そのことが2節の冒頭のところに述べられています。ここには、「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」とあります。神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して語られましたが、この終わりの時には、御子によって語られました。御子とは神の御子イエス・キリストのことです。神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して語られましたが、この終わりの時には御子によって語られたのです。「終わりの時」というのは、救い主イエスが到来した時から始まった時代のことです。ですから、今はこの終わりの時でもあります。この終わりの時には御子によって語られました。どういうことでしょうか?つまり、神は初めご自分のみこころを部分的、断片的に見せてくださいましたが、この終わりの時には御子によってはっきりと示してくださったということです。

神の救いの計画は、最初の人アダムとエバが罪を犯した直後にすでに示されていました。創世記3章15節を見ると、神である主は蛇にこう仰せられました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

神は、女の子孫から出てくる方によって、敵である悪魔の頭を完全に踏み砕くと言われたのです。これが何を意味しているのはその時にははっきりわかりませんでした。しかし、やがて女子孫から生まれた神の御子イエス・キリストが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、このみことばが成就したことがわかったのです。おまえは彼のかかとにかみつくということが十字架の預言であり、彼はおまえの頭を踏み砕くというのが復活の預言です。こうしてキリストは敵である悪魔に完全に勝利すると言われたこのことばが実現したのです。 

神はこれをもっと具体的に展開していきます。創世記12章に入ると、そのために神はアブラハムという一人の人物を選びこう告げるのです。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなる者としよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:1~3)

つまり、神はアブラハムの子孫から救い主を起こすと約束されたのです。地上のすべての民族は、彼によって祝福されるのです。 

そして、それはさらにダビデ王の子孫としてお生まれになる方だと告げられました。また、その方はユダヤのベツレヘムでお生まれになるとも語られました。そのようにしてお生まれになられた方こそ救い主がイエス・キリストだったのです。ですから、神は、むかし預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には御子によって完全に語られたのです。御子は完全な神のかたちであり、神のことばの完全な現れだったのです。それゆえ、弟子のヨハネはこう証言しました。「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)イエスを見た者は、父を見たのです。イエスは見えない神かたちであり、神の栄光の現れです。イエスを見た者は目で見ることができなかい神を見たことと同じことなのです。 

 ですから、真の神がどのような方であるのかを知るには、このイエス・キリストがどのような方であるのかを知らなければなりません。キリストがどのような方であるのかを知れば、神がどのような方であるかがわかるのです。なぜなら、神は、御子によって私たちに語られたからです。 

 では、キリストはどのような方なのでしょうか。ある人は、キリストは偉大な教師だと言います。確かにそうです。けれども、キリストはそれだけにとどまりません。それ以上の方です。ある人は、いや、キリストは立派な道徳家だと言います。宗教家の一人だとも言います。そういう面もあるでしょう。けれども、キリストはそれ以上の方なのです。 

 Ⅲ.御子は神の栄光の輝き(2b-3) 

 ですから第三に、このキリストはどのような方なのかを見ていきたいと思います。2節後半から3節をご覧ください。ここには、「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」

ここには、キリストがどのような方であるのか、その7つの特質が教えられています。

 第一に、キリストは、万物の相続者であります。ここには、「神は、御子を万物の相続者とし」とあります。子であれば親の財産を相続する特権にあずかっています。キリストは神の御子なので、父なる神の財産を相続する権利を持っておられるのです。

5節には、こうあります。「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」これは詩篇2篇7節からの引用ですが、この「あなた」というのは、イエスさまにことです。イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた時、天が開け、神の御霊が鳩のように下り、天からこう告げる声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)イエスは神の子であり、父なる神のすべてのものを相続する権利が与えられているのです。 

そして、そればかりではなく、このキリストを信じて神の子とされたクリスチャンもまた神の子とせられ、キリストとの共同相続人になったと言われています。ローマ人の手紙8章16~17節にはこうあります。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」 

皆さん、私たちはキリストを信じたことで神の子としての特権をいただき、キリストとともに神の財産を相続する者とされたのです。すごい特権ではないでしょうか。私たちは以前まことの神を知りませんでした。ですから、普通に何でも拝んでいたわけです。八百万の神と言って、日本には八百万の神がいて、いくつもの神を掛け持ちで拝んでいました。きょうはこっちの神かと思ったら、明日はあっちの神です。自分にご利益を与えてくれるものなら何でも構わなかったのです。「鰯(いわし)の頭も信心から」ということわざがありますが、つまらないものでも、信仰の対象となれば有り難いと思われるような存在だと、何でも拝んでいたのです。私たちはかつて、そうやって生きていたのです。しかし、神のことばである聖書によってイエスが神の御子、キリスト、救い主であると信じた瞬間に、私たちは神の子とされました。そして神の子としての特権が与えられたのです。神の民でなかった者が神の子とされ、キリストとともに万物を相続する者となったのです。 

第二に、キリストは万物の創造者です。ここに、「また御子によって世界を造られました」とあります。皆さん、この世界は御子によって造られました。聖書の一番初めの創世記1章1節には、「初めに、神が天と地を創造した。」とあります。これはとても有名なみことばで、このみことばを読んだだけで聖書の神を信じたという方も少なくありませんが、この神とはイエス・キリストのことだったのです。いやもっと正確に言うなら、イエス・キリストを含む三位一体の神であったということです。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神です。この三位一体の神がこの世界を造られたのです。 

それはヨハネの福音書1章1~3節を見てもわかります。「初めに、ことばかあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」キリストは万物の創造者です。すべてのものは、この方によって造られたのです。 

第三に、キリストは神の栄光の輝き、神ご自身であるということです。どういうことでしょうか。キリストは神であるということです。

ある時、イエスがペテロとヨハネとヤコブの3人の弟子を連れて非常に高い山に上られた時、彼らの目の前で御姿が変わったという出来事がありました。御顔は太陽のように輝き、その衣は光のようになりました(マタイ17:1~2)。ペテロはそれを見て何を思ったのか、黙っていることができず、イエスさまにこう言ったのです。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、よろしければ、私が、ここに三つの幕屋を作ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(マタイ17:4)

そのとき、モーセとエリヤが現れて何やらイエスと話し合っているのを見て、彼はここに三つの幕屋を作ると言ったのでした。けれどもそれは彼の間違いでした。このとき彼はイエスさまをモーセやエリヤと同じレベルにまで引き下げてしまったのです。確かにモーセもエリヤも旧約聖書の偉大な聖徒たちでした。モーセは律法の代表であり、エリヤは預言者の代表です。しかし、彼らがどんなに偉大な信仰者であっても所詮人間の域を出ることはできず、イエスさまと比べものにはならないのです。イエスは神ご自身であり、神の栄光そのものであられる方だからです。 

私たちも同じ失敗をしてしまうことがあります。イエスさまをこの歴史上の偉人たちの一人のように考えてしまうことがあるのです。アブラハム・リンカーやジョージ・ワシントンのようなレベルにまで引き下げてしまう危険性があるのです。しかし、キリストは彼らとは全く比較にならないお方です。次元が違います。キリストは神ご自身であり、神の栄光の輝きそのものだからです。 

第四に、キリストは神の本質の完全な現れです。どういうことでしょうか?これは、キリストは神ご自身であるということです。キリストは神の御子であると同時に、父なる神と等しい方なのです。

ヨハネの福音書10章30節をご覧ください、ここには、「わたしと父とは一つです」とあります。イエスを見れば、父なる神がどのような方であるかがわかります。なぜなら、イエスは神の本質の完全な現れであるからです。 

第五に、キリストは万物を保っておられます。キリストは万物を造られただけでなく、それを保っておられる方です。どのようにしてでしょうか。その力あるみことばによってです。皆さん、キリストのことばには力があります。キリストが、「光よ、あれ」と言うと、光が出来ました。嵐に向かって、「黙れ、静まれ。」と命じると、風はやみ、大なぎになります。汚れた霊に向かって、「この人から出て行け」と命じると、出て行きました。また、会堂管理者ヤイロの娘が死んだとき、「タリタ・クミ」、少女よ、あなたに言う起きなさいという意味ですが、そのように言うと、少女は生き返られました。キリストがことばを発せられると、すべてのものはそれに服従するのです。この権威あるみことばを聞いた当時の人たちはこう言いました。「いったいこの方はどういう方なのだろう」

その答えは何か、その答えはこうです。この方は神の御子キリストです。この方は神なので、すべてのものはこの方のみことばに従うのです。キリストはその力あるみことばによって、万物を保っておられるのです。 

第六のことは、キリストは罪のきよめを成し遂げられた方であるということです。どういうことでしょうか。キリストがこの世に来られたのは、私たちの罪の身代わりとして十字架で死ぬためであり、キリストはその御業を成し遂げられたということです。 

皆さん、人はどうしたら罪が赦されるのでしょうか。聖書には、血を流すことがなければ罪の赦しはないと教えられています。それで旧約聖書の時代には自分の罪の身代わりとして、多くの動物がほふられました。祭司がその動物のいけにえの血を携えて至聖所の神の臨在のもとに行き、それを契約の箱のふたに注ぎかけることによって、赦されるとされました。それでイスラエルの民はたくさんの動物のいけにえをほふり、その血を取って神にささげたのです。 

けれども、そこには問題がありました。それはどんなに動物の血をささげても、また罪が思い出されるということです。人間は不完全な者なのでいつも罪を犯してしまうため、何度も何度も繰り返して動物のいけにえをほふらなければならなかったのです。それは完全なものではなく不完全なものでした。本体ではなく影にすぎませんでした。ではその本体とは何でしょうか?それはイエス・キリストです。動物のいけにえは神の完全ないけにえであるイエス・キリストを指し示すものでした。神は私たちの罪を赦すために動物の血ではなく神ご自身の血、神のひとり子を十字架につけることによってその救いの御業を完成してくださったのです。神はひとり子キリストをこの世に送り、私たちの身代わりに罪として十字架につけてくださることによって、私たちが支払わなければならない罪の代価を支払ってくださったのです。そのことによって私たちの罪を贖ってくださいました。それは私たちの過去の罪だけではありません。現在の罪も、これから未来に犯すであろう罪のすべてを、十字架の上で贖ってくださったのです。ですから、あなたがこのイエスをあなたの罪の救い主と信じた瞬間に、あなたのすべての罪は赦され、あなたは神のみとに大胆に近づくことができるのです。 

それはキリストが十字架で息を引き取る直前こう発せられたことばからもわかります。キリストは十字架で最後にこう言われました。「テテレスタイ」。意味は、「完了した」です。あなたの罪のきよめは完了しました。あなたの罪は赦されました。キリストがあなたの身代わりとなって十字架で死んでくださり、罪のきよめを成し遂げてくださったからです。このイエスを信じる者は誰でも救われるのです。 

第七番目のことは、キリストはすぐれて高いところの大能者の右の座に着かれました。どういうことでしょうか。座ったというのは仕事が終わったということです。キリストは罪のきよめを成し遂げて、神の右の座、神の権威の座に着かれました。このキリスト以外に、あなたを救うことができるものはありません。このキリスト以外に他のいかなるものも付け加えてはいけないのです。この方を信じることによってのみ、私たちは救われるのです。キリストは神の御子であられ、王の王、主の主であられる方なのです。 

あなたは、この神の御子イエス・キリストを見ているでしょうか?もし見ているなら、あなたの生き方が変わるはずです。あなたの人生にはいろいろな問題が起こるかもしれませんが、もはや何も恐れる必要はなくなるのです。私たちはいつもいろいろなことを思い煩って心配します。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、いつも心配がつきません。でも大切なことはあなたが心配することではなく、イエス・キリストがどのような方であるのかをよく知り、この方に信頼して、すべてをゆだねることです。そうすれば、人の考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守っていただけるはずです。

あなたは何を見ているでしょうか。この栄光の神の御子イエス・キリストを見てください。この方は万物の相続者であり、創造者であり、栄光の輝き、神の本質の完全なあらわれです。万物の保持者であり、罪のきよめを成し遂げられた方であり、万物の主権者であられます。この方をよく見てください。この方はあなたとともにおられます。そして、この方は決してあなたを見離さず、見捨てることはなさいません。そのように約束してくださいましたから。このイエスを見て、このイエスを神の御子と認め、いつもこの方のことを思い、この方にすべてをゆだねたいと思います。そうすれば、あなたは何も心配することなく、日々安心して過ごすことができるでしょう。この神の御子イエスを、きょう聖霊によって見させていただきましょう。神の祝福があなたに豊に注がれますように祈ります。