きょうは、2章10節から18節のみことばから、「人となられたイエス・キリスト」というタイトルでお話したいと思います。前回は、特に2章9節のみことばから、御使いよりも、しばらくの間、低くなられたイエスについてお話しました。ユダヤ人は、御使いは人間よりも高い地位にあると理解していたので、イエスが人となられたということはその御使いよりも低くされたことを意味していました。いったいなぜ、キリストは、御使いよりも、低くされなければならなかったのでしょうか。それは私たちを罪から救うためでした。9節には、イエスは苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになられました、とあります。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものだったのです。イエスが人となられ、十字架で死んでくださったことによって、すべての人の罪が贖われたのです。ですから、このイエスを信じる者は、だれでも救われるのです。これが福音です。
そして、10節のところを見ると、それは万物の存在の目的であり、また原因である方として、ふさわしいことであったとあります。万物の存在の目的であり、また原因である方というのは父なる神のことです。それは父なる神にとってふさわしいことでした。なぜなら、神は万物の存在の目的であり、また原因でもあられるからです。すべてのものはこの方によって造られました。ですから、神は万物の存在の目的であり、原因であられる方なのです。すべてはこの神の栄光のために存在しているのです。それは人間も例外ではありません。私たち人間も神によって造られました。ですから、私たちは神の喜びと栄光のために生きているのです。このことがわからないと何をしても喜びがありません。いくら頑張って、真面目に生きたとしても、たとえすべての物を手に入れたとしても虚しいのです。心はいつもカラカラに渇いて平安がありません。
ですから、昔の聖人パスカルはこう言いました。「私の心には、本当の神以外には満たすことかのできない、真空がある。」また中世の偉大な神学者であり、哲学者であったアウグスティヌスもこう言いました。「神よ。私の心には、あなたの中で休むときまで揺れ動いています。」人はまことの神の出会い、神の救いを受け、神の栄光と喜びのために生きることがなければ虚しいのです。そのために神はご自分の御子を十字架につけてくださいました。その苦しみを通して、救いの道が開かれたのです。ですから、イエスが救いの創始者です。イエスが道であり、真理であり、いのちです。イエスを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。私たちは、ただこのイエスを救い主と信じるだけで救われるのです。
では、この神の恵みによって、いったい何がもたらされたのでしょうか。きょうは、このことについて三つのポイントでお話します。
Ⅰ.兄弟と呼んでくださる(10-13)
第一に、そのことによって神の家族の一員に加えられました。11節から13節までをご覧ください。
「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。」
「聖とする方」とはイエスさまのことです。また、「聖とされる者たち」とは、私たちのことです。「すべて元は一つです」というのは、父なる神のことを示しています。ですから、これは、「聖めてくださるイエスも、聖められる私たち」も、皆一人の父である神を持っています。」という意味です。それで、主イエスは私たちを兄弟と呼ぶことを恥じとしないで、私たちとともに神を賛美しようというのです。これはものすごいことではないでしょうか。私たちがイエスを救い主と信じたことで、イエスさまが私たちのことを兄弟と呼んでくださるのです。また、それを恥じとなさいません。
先日、ノーベル賞の発表があり、ノーベル医学生理学賞に山梨県韮崎市出身の大村智さんが選ばれました。大村さんは5人兄弟の2番目の子供さんですが、メディヤはその喜びを伝えるために、早速実家のある韮崎市に生き、お姉さんの山田敦子さんにインタビューしました。すると山田さんはその喜びをこう言いました。「昨夜は、自宅で夕飯の支度をしていたら、テレビを見ていた夫が『智さんがノーベル賞を受賞したよ』といったので『えー』と台所から飛んできて見入りました。智には、おめでとう、よくやったねと言いたいです。弟は、小学生のころは、やんちゃなところがあり、近所の友達と、けんかしていたこともありました。ただ、いつも思うのは、弟が、ひとりで、ここまできたのではなく、周りの人に恵まれたことが、最高に幸せだったのではないかと思います。これからも、皆さんに感謝しながらがんばってほしい。」大村さんがノーベル賞を受賞したことで、お姉さんはそのノーベル賞を受賞した大村さんのお姉さんと呼ばれるようになったのです。別にお姉さんが何かしたわけではありませんが、大村さんのお姉さんということで、その栄誉の一員に加えられたわけです。それは私たちも同じで、私たちは神の子イエス・キリストを信じたことでイエスさまを長男とするその兄弟に、ノーベル賞どころかこの天地万物を造られた神の御子の兄弟、神の家族の一員に加えられたのです。
信じられません。全くおこがましい限りです。私たちはしばしば自分たちがイエスさまを信じていることさえ恥じたりすることがありますが、そんな私たちを、イエスさまは「兄弟」と呼んでくださるのです。そして、それを恥とはなさいません。何という恵みでしょうか。造り主と造られた者ではレベルが違います。また、救い主と救われる者とでは立場が違います。聖とする方と聖とされる者とでは全く質が違います。それなのに、主は私たちをご自身と同じ「兄弟」と呼んでくださるのです。それは恵みではないでしょうか。
Ⅱ.死の恐怖から解放してくださった(14-16)
第二のことは、そのようにイエスさまが人となって来られ、十字架にかかって死んでくださったことによって、死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださったということです。14節と15節をご覧ください。
「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
十字架の苦しみと復活によって、なんとすばらしい結果がもたらされたことでしょう。それによって死が滅ぼされました。人にはいろいろな恐れがありますが、その中でも最も恐ろしいのは死ではないでしょうか。死は人からすべてのものを奪ってしまいます。家族を奪い、友人を奪い、これまで積み上げてきた地位や名誉や財産のすべてを奪います。しかもそれは何の予告もなしに、ある日突然やってくるのです。だれもそれから逃れることはできません。私たちの人生にはいろいろな問題がありますが、この死の問題こそ究極の問題であり、最大の問題です。そして、この死の問題に明確な解決を持っていなければ、何のために生きているのか、その生の意味さえも見えてこないわけです。結局のところ、死んでしまえばすべてが終わりなのですから。泡となって消えてしまいます。ですから、いつも死に怯えていなければならないのです。
しかし、神はこの死の問題に解決を与えてくださいました。神の御子が私たちと同じように肉体を持った人となって来られることによって、その死によって、悪魔という死の力を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださったのです。ここにキリストが私たちと同じ肉体をもって生まれた理由があるのです。それは、キリストが十字架で死なれ、そして三日目によみがえることによって、悪魔が握っていた死の力を完全に打ち破るためだったのです。ですから、クリスチャンにとっては、死はもはやのろいではなく、天国への入り口になりました。クリスチャンといえども造られた者にすぎませんから、肉体の死を免れることはできませんが、その死の意味が全く変わりました。もはや罪の刑罰という意味での死は取り除かれ、天の御国で永遠に主とともに生きる時に変えられたのです。もはや死ぬことは少しもこわくはないのです。一般的には「死」ということばさえ忌み嫌われ、考えたくもないし、会話にもしたくないことですが、クリスチャンにとっては、むしろそれは天国でイエスにお会いできるという喜びの時となったのです。これはものすごいことではないでしょうか。
今年8月1日に全日本リバイバルミッションの滝元明先生が召天しました。85歳でした。その葬儀が8月14日に、凱旋式・リバイバル感謝聖会として新城市文化会館で行われましたが、その中で、1993年に行われた甲子園ミッションで滝元先生が語られたメッセージが上映されました。先生はそのメッセージの中で、こう言われました。「私は19歳で教会に行き2回目で信じました。洗礼の時に、伝道者になって世界中に行きたいと祈り、神様はその祈りを聞いてくださり、痔(じ)も癒やされました。他の宗教でも癒やしはあります。しかし、罪の赦しはキリスト教だけです。神様はあなたの家庭を祝福し、あなたを千代まで祝福すると言います」「イエス様を信じる者は永遠の命を与えられます。それまで死ぬことが怖かったですが、この言葉で怖くなくなりました。私の父も母もイエス様を信じて天国に帰りました。このキリストを信じましょう」すばらしいですね。死はもはや滅ぼされました。確かに肉体は滅んでも、そのたましいは主のもとにあげられ、そこで永遠に主とともに生きているのです。
大沢バイブルチャーチの関根辰雄先生が、聖書学校を出て最初に赴任した足利の教会の隣に、お寺が管理している墓地がありました。そしてその墓地の中に、一際目立った大きなお墓があったそうです。それはその町の名士であったらしい人のお墓のようでしたが、その墓標にはこう辞世が記されてありました。辞世というのはこの世を去る時に読む詩のことですね。
「行く先の知れぬ旅路や 衣替え」
さあ、これから衣を着替えて新しい旅に出かけようというのに、どこに行くのかがわからないのです。行く先の知らない旅に出ることほど不安なことはありません。おそらくこの方は家族のために尽くし、社会のために貢献し、その人なりに生きられたのでしょう。でもその人生の終わりが来たとき、どこに行くのかがわからないとしたら、それこそ虚しいのではないでしょうか。関根先生はしばらくそこに立ち止ってじっと眺めていましたが、何とも寂しく、はかなさを感じたそうです。
しかし、そのお墓のすぐ近くにもう一つの墓碑があったそうです。それはどうやらクリスチャンの墓のようで、そこにはこう記されてありました。
「我らの国籍は天にあり」
ハレルヤ!!!自分は死んで終わりではない。よみがえるのだ。私のたましいは、私を造られた主のもとに帰るのであって、消えて、無くなのではない。私の国籍は天にあるのだ。そのように告白して歩める人は、どんなに幸いなことでしょう。それは、死に完全に勝利した人の姿です。イエス・キリストを信じる者は、死んでも生きるのです。死はもはやキリストにある者を縛ることはできません。キリストが死んで、三日目によみがえられたことによって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれていた人々を解放してくださったからです。あなたも天から恵みを頂いて、このような人生の最後を飾ってください。
Ⅲ.あわれみ深い大祭司となるため(16-18)
キリストはなぜ人となって来られたのでしょうか。第三に、それはあわれみ深い大祭司となられるためです。17節と18節をご覧ください。
「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
大祭司とは、民に代わって、神にとりなしをする人のことです。イエスは、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、すべての点で私たちと同じようになられました。それは私たちの罪のために、なだめがなされるためです。大祭司は、年に一度、至聖所と呼ばれる所に入って、契約の箱の贖いの蓋の上に、血をふりかけて、イスラエルの民の罪のなだめを行ないました。神が人の罪に対して怒っておられるからです。その怒りがなだめられるように、そこで動物のいけにえの血が振り注がれたのです。イエスがそのなだめの供え物となられました。御子イエスが私たちの罪のために、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったので、私たちに対する神の怒りは完全に取り除かれたのです。ですから、もう神は怒っておられません。あたなが自分の罪を悔い改め、神の御子を救い主と信じたことで、あなたは神の子とされたからです。もうあなたは神の怒りの対象ではなく、愛の対象へと変えられたのです。いったいなぜイエスが人となって生まれなければならなかったのでしょうか。このなだめがなされるためでした。そのためにイエスは、私たちと同じように、罪深い肉と同じ姿にならなければならなかったのです。
ではキリストはどのような大祭司なのでしょうか。ここには、あわれみ深い、忠実な大祭司とあります。キリストは、あわれみ深い、忠実な大祭司となられるために、すべての点で私たちと同じようにならなければならなかったのです。それは、キリストが私たちと同じように肉体に弱さを持っておられたことを意味しています。私たちと同じように肉体の疲れや痛みを経験されました。また、心の苦しみ、叫び、悲しみも経験されました。イエスさまがベタニヤ村のマルタとマリヤの家に行ったとき、弟ラザロが死に、マリヤと人々が泣いているのをご覧になったとき、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、涙を流されたとあります(ヨハネ10:35)。イエスさまは、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じようになられたのです。
ですから、私たちが受けている誘惑、または試練といったものを、イエスさまが知らないものは何一つありません。私たちが日々の生活の中で、「このことは、だれにもわかってもらえない。」という苦しみがあるでしょう。けれども、主はそのすべてを知っておられます。なぜなら、人となられたときに、その試みのすべてを経験されたからです。ですから、すべてのことを知っておられるイエスさまに、力をいただくため、大胆に神の恵みに御座に近づくことができるのです。
私たちが日々の生活の中でいろいろな苦しみに遭い、その重圧に押しつぶされてしまいそうになるとき、自分だけが苦しい目に遭っているわけではないということを知ることは大切なことです。自分だけが特別に苦しい目に遭っていると思うと、耐えがたさを感じるでしょう。しかし、それが自分だけでなく、イエスさまも同じように試みを受けて苦しまれたということがわかるとき、心に励ましを受けます。なぜなら、この方は私たちと同じようになられたので、同じような試みにある人を助けることができるからです。
昨日スーパーキッズがあって、2階でお母さんたちのバイブルスタディーがありましたが、その中に先天性の脳の病気を抱えたお子さんを持つお母さんが参加されました。この方の赤ちゃんは3歳になりますが、生まれてからほとんど成長できず、立つことも、話すこともできないでいましたが、1か月前に気管支炎にかかり病院に入院してから体調が悪化し、眠ろうとするとパニックになるので眠ることもできず、もうどうしたらいいかわからないで苦しんでおられました。自ら命を断とうとさえ思ったほどです。ところがそこに、同じような苦しみを経験された人がいて、涙ながらにそのこと話してくれると、その方はこれまで抱えていた肩の荷が降ろされたというか、とても慰められたかのようでした。それは「私だけじゃないんだ」「みんな同じような苦しみを通っているんだ」ということがわかったからです。
このように、自分だけじゃないということがわかるとき、心に大きな慰めを受けるのです。イエスさまは私たちと同じようになられたので、私たちの弱さを十分理解することがおできになるのです。
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないような試練に遭われることはなさいません。試練とともに脱出の道を備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)
私たちは、自分だけが特別に苦しい目に遭っていると思うと耐えがたさを感じるかもしれません。しかし、私たちの大祭司であられるイエスさまも、私たちと同じ苦しみを体験されたのです。その方がいま、私たちの大祭司として、天でとりなしていてくださいます。ただ天にいて、下界を「どれどれ」と眺めているのではありません。すべての点で私たちと同じようになられ、同じ試みに遭われ、同じ苦しみをなめられたそのお方が、今、天において私たち一人一人のために、その名を挙げてとりなしの祈りをしてくださっているのです。なんと驚くべき恵みでしょうか。もし御使いを助けるのであれば、わざわざ肉体を取られることはなかったでしょう。しかし主は御使いを助けるためではなく、アブラハムの子孫、これは私たちクリスチャンのことですが、私たちを助けるために来られたので、私たちと同じようになられたのです。それは私たちが経験するすべての苦しみを理解することができ、またそのように試みられている人たちを助けるためです。
人間の大祭司なら落ち度もあり、失敗もあるでしょう。しかし、神の大祭司はあわれみ深い方です。また忠実なお方です。忠実ということは、本当に信頼できるということです。このようなお方が私たちのすぐそばにいて、私たちを助けてくださることを思うと、本当に励まされるのではないでしょうか。私たちにどのような問題があっても、この方はどんな問題でも、すべての問題に解決を与えることができる方なのです。こんなすばらしい救い主がほかにいるでしょうか。
ですから、使徒の働き4章12節にはこうあるのです。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
あなたが助けを求める方はこの方です。この方以外には、だれによっても救いはありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていないからです。あなたは、この方に信頼していますか。この方を信じて救われていますか。もしまだでしたら、今日信じていただきたいと思います。信じて救われ、死の恐怖から解放されてください。そして、どのような苦しみからも救い出し、助けることができるキリストの力を体験してください。もう既に信じている方は、どうかこの確信にしっかりと留まってください。押し流されませんように。この方から目を離さないで、この方に信頼して歩み続けてください。そうであれば、どのような問題があっても勝利ある歩みをしていくことができるからです。キリストが人となってこの世に来てくださったのは、あなたを十分理解し、あなたを助け、あなたを救うためだったのです。