ヘブル1章4~14節 「御使いにまさるキリスト」

 きょうは、ヘブル人への手紙1章4節から14節のみとばから、「御使いよりもまさるキリスト」というタイトルでお話します。前回はこの手紙の冒頭のところで、神は語られる方であるということを学びました。神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分の分け、また、いろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には御子によって語られました。御子であられるイエス・キリストを見れば、父なる神がどのような方であるかがわかります。キリストを見た者は父を見たのです。なぜなら、御子は神の栄光の輝きだからです。神は、御子によってすべてのものを現してくださいました。ではその御子とはどのような方しょうか。前回はそれを御子の七つの特質をあげてお話しました。きょうのところではそのことを御使いと比較して語られます。御使いと比較することによって、キリストがどれほどすぐれた方であるのかを際立たせようとしているのです。 

   Ⅰ.御使いにまさるキリスト(4) 

 まず4節をご覧ください。「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」 

    御使いとは天使のことです。皆さん、天使は実在しているのでしょうか?天使というと、一般に真っ白い服を着た人に羽がついた人やキューピットに羽がついたイメージがあって、どこかおとぎ話や空想話のようにとらえられがちですが、これは確かに実在しているものです。それは神によって造られた被造物の一つで、決しておとぎ話とは違うのです。コロサイ人への手紙を見ると、キリストは目に見えるもの、見えないもの、王座も主権も権威も、すべて造られたとありますが、その目に見えない被造物の一つが天使なのです。聖書には旧約聖書に108回、新約聖書に165回言及されています。確かに、御使いは実在しているのです。 

 それにしても、なぜここで御使いのことが取り上げられているのでしょうか。それは、この手紙の受取人がユダヤ人クリスチャンであったからです。ユダヤ人は御使いを重んじていました。ユダヤ人は律法をとても大切にしていましたが、それはこの御使いを通して与えられたと信じていたのです。たとえば、パウロはガラテヤ人への手紙3章19節でこのように言っています。「では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られる時まで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。」彼は、律法は御使いたちを通して仲介者の手で定められたものだと考えていました。また、ステパノも使徒の働き7章53節で、「あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことがありません。」と言って、律法が御使いたちによって定められたものであると信じていました。それが、ユダヤ人が信じていたことなのです。ですから、ユダヤ人は、御使いを特別な位置に置いていたのです。そのため、中には御使いは神と自分たちの仲介者だと思う人たちもいました。 

 実際に、御使いは人間よりも優れているので、超自然的なことができます。たとえば、使徒の働き12章を見ると、ペテロがヘロデ王によって捕えられ、牢に閉じ込められていたことが記録されていますが、その牢から解放されたのは御使いたちの働きによるものでした。ペテロは牢獄で二本の鎖につながれ、ふたりの兵士の間に寝ており、戸口には番兵たちが監視していたので、もうどうやっても逃げることなどできない状態でしたが、その夜、主の使いが現れて、牢を光で照らすと、ペテロの脇腹をたたいたのです。すると、鎖が彼の手から落ちました。そして主の使いの後について第一の衛所、第二の衛所と行くと、門がひとりでに開いて外に出ることができ、助け出されました。勿論、それは聖徒たちの祈りに対する紙の答えではありますが、そのために用いられたのはこの御使いたちでした。御使いは、そのような超自然的なことができる存在なのです。 

 するとどういうことが言えるでしょうか。こうした御使いをあたかも神でもあるかのように思い、礼拝の対象としてしまうという危険性があるということです。これは私たち日本人にもいえることです。何か崇高なもの、常識を超えた不思議な存在、自分にご利益をもたらすような対象があると、すぐに手を合わせてしまう傾向があるのです。実際に、コロサイの教会には御使いを礼拝する者たちがいました。さらに、神の御子イエス・キリストも神の御子ではなくこうした御使いの一人であると教える異端も出てきました。今でもそのような異端がいます。たとえば、エホバの証人と言われるグループはその一つです。彼らはキリストを神の御子ではなく、天使長ミカエルだと主張しているのです。それはキリストを被造物の存在にまで引き下げることであり、当時のコロサイの教会にいた異端者たちと同じような過ちを犯していることになります。

 そこで、この手紙の著者はキリストがどのような方であるかを明らかにするためにキリストを御使いと比較し、キリストがどれほど偉大な方であるかを語るのです。 

 Ⅱ.神の御子キリスト(5~13) 

 ではキリストはどれほど偉大な方なのでしょうか。まず5節をご覧ください。ここには、「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」」とあります。 

 これは詩篇2篇(7節)からの引用です。キリストが御使いよりもすぐれている一つの理由は、キリストが神の御子であられるということです。神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」どの御使いに対しても神がこのように言われたことはありません。ただキリストに対してのみ、「あなたは、わたしの子」と呼びました。このように呼ばれる方はただ一人、神の御子イエス・キリストだけなのです。 

 ところで、この「きょう、わたしがあなたを生んだ」ということばは誤解される危険性があることばです。やっぱりキリストは神によって造られたものではないかと思われるからです。こういう箇所をみると、エホバの証人の方は「ほら見ろ。やっぱりキリストは神によって造られた存在じゃないか」と反論してきます。しかし、この「生んだ」ということばは造られたという意味ではなく、むしろその逆で、「第一のものになられた」ということです。つまり、キリストは万物の創造者であり、支配者であるということを表しているのです。万物の創造者であり支配者であるということは、被造物であるどころか、それは造り主なる神であるということでもあります。

パウロはこのことをコロサイ書1章15~18節でこう言っています。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」

 

御子は見えない神のかたちであり、神ご自身です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られました。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。このように、御子が万物の創造者であるということは、この方が造り主なる神であるということです。この世界を創造された方こそ神だからです。それじゃ、「生まれた」とはどういうことなのでしょうか。それは第一のものになられたという意味です。すべてのものが、この方によって支配されているということなのです。キリストはそれを死から復活することで証明されました。

 5節をご覧ください。「またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」とあります。これはⅡサムエル記7章14節のみことばの引用ですが、このみことばによってもキリストは神の御子であることが強調されています。これはダビデが神の家を建てたいと願っていたとき、神が預言者ナタンを通して彼に語られたことばですが、Ⅱサムエルには「その王座をとこしえまでも堅く建てる。」とあるように、これはこの世の王国のことではなく神の国のことを指して語られていました。それゆえ、この子とはソロモンのことではなくその子孫であるイエス・キリストのことだったのです。神はこのダビデの子孫から生まれるキリストを「わたしの子」と呼びました。このことからもわかるように、キリストは神の御子なのです。

 神は、かつてどの御使いに対してこのように言われたでしょう。このように呼んだ御使いは他にはいません。ただ神の御子イエス・キリストだけがこのように言われたのです。ということは、キリストは御使いとは比べものにならないほど偉大な方であるということです。

 次に、6節をご覧ください。ここには、「さらに、長子をこの世界にお送りになられるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」とあります。これは詩篇97篇(7節)からの引用ですが、長子をこの世界にお送りになるとき、神は、「神の御使いはみな、彼を拝め。」と言われました。つまり、キリストは礼拝の対象であるということです。神の御使いはそうではありません。神の御使いは、彼を拝まなければなりません。御子と御使いがどれほど違うかは、このことばからもはっきりわかります。

 それでは御使いは何のために存在しているのでしょうか。7節にはこうあります。「また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」どういうことでしょうか。これは詩篇104篇(4節)からの引用ですが、御使いは風のように、また炎のように、仕える存在にすぎないということです。御使いは神の目的を実行するために、神に仕える存在なのです。

 しかし、御子は違います。8節と9節をご覧ください。ここで、御子については、こう言われています。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」これは詩篇45篇6~7節の引用ですが、おもしろいことに、ここで神は御子を「神よ」と呼びかけています。9節にも、「それゆえ、神よ。あなたの神は、・・・・」と、「神」と「あなたの神」の二人の神が出ているのです。これはどういうことかというと、イエス・キリストが神であることです。それをもっとも明瞭に表したのがこの箇所なのです。

 聖書はまことの神は唯一であると教えています。その神がキリストを神と呼んでおられるのです。つまり、聖書はその唯一なる神は、父と子と聖霊という三つの神であるというのです。これを神学用語で「三位一体」と言います。三つにして一つであるという意味です。これが、聖書が教えている神なのであって、これ以外の神はありません。キリストは神ではないというとしたら、それは聖書で言っている神ではないことになるのです。

そのことは、ヨハネの福音書1章1節から3節までを見てもわかります。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」「ことば」とは神の御子イエス・キリストのことです。そのことばは神とともにおられたひとり子の紙であるとはっきり言われています。

 また、パウロもこう言っています。テトス2章13節、「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」

 かつてパウロはクリスチャンを迫害する者でした。神は唯一であって、それ以外に神がいるはずがない。そういうことを言う奴がいるなら、そういう奴をひっ捕まえて懲らしめてやらなければならないと躍起になっていました。そしてダマスコという町に向かっていたとき、そこで復活の主イエスと出会いました。「主よ、あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言われたのです。まさに目からうろこでした。これまで迫害していたイエスが神の子、キリスト、救い主であるとは・・。それで彼はイエスを救い主として信じて受け入れ、今度はキリストこそ救い主であると宣言するようになりました。このテトスのみことばは、その宣言の一つです。パウロはキリストこそ私たちの救い主であり、大いなる神であると告白したのです。

 ですから、その御座は代々限りなく続きます。また、その御国の杖はまっすぐです。杖がまっすぐであるということは、正義を行うということです。そのさばきは公平で、公正です。この世の中には不公平なことがあまりにも横行していますが、キリストの杖は真っ直ぐなのです。キリストは義なる神であって、この義を愛し、不正を憎まれるのです。それゆえに、神は、神である御子に、あふれるばかりの喜びの油を注がれました。この油とは勿論、聖霊の油のことです。キリストは神の聖霊を無現に注がれた方なのです

 ところで、皆さんはイエス・キリストという名前の意味をご存知ですか。「イエス」とはヘブル語で「ヨシュア」で、意味は「神は救い(神は救う)」です。そして、「キリスト」はヘブル語で「メシヤ」で、意味は油注がれた人という意味です。旧約聖書で油注がれた人は三人いました。王と祭司と預言者です。ですから、他国に支配されていたイスラエルでは「油注がれた人」とは自分たちを その状態から解放する救い主を意味していました。ですから、イエス・キリストという名前は救い主イエスという意味で、イエスをそう呼ぶだけで 一種の信仰宣言となっているのです。イエスこそキリスト、救い主、神の油を無限に注がれた方なのです。

 そして、10節から12節までを見ても、キリストの卓越性が示されています。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」

 造られたものはやがて必ず滅んでいきます。それがエントロピーの法則です。進化していくのではなく、退化していくのです。滅んでいきます。それがこの自然の法則なのです。キリストは天地万物の創造主であり、すべてのものはこの方によって造られましたが、その造られた物はやがて滅んでいくのです。私たちはこのことをよく理解していなければなりません。なぜなら、私たちの心は、いつもこの世の物に執着する傾向があるからです。だから持っていないと不安になるのです。でも持ち物はすべて失われていきます。それは滅んでいくものなのです。私たちの肉体でさえいつまでも続くものではありません。それは必ず滅びるものなのです。それは大切なものですが、絶対的なものではないのです。そうした物に捕われていると、ちょっとしたことで平安を失ってしまうことになります。だから、こうした物に執着するのではなく、いつまでも続くものに信頼しなければなりません。いつまでも続くものとは何でしょうか。それが神です。いつまでも続くものは信仰と希望と愛です。その中でも一番大いなるものは愛です、とⅠコリント13章に記されてありますが、神こそいつまでも変わることなく続く方なのです。神は、いつまでもながらえます。すべてのものは着物のように古びますが、しかし、神はいつまでも変わることなく、その年は尽きることがありません。

ヘブル13章8節を開いてください。ご一緒に読みたいと思います。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。この方こそ、私たちが信頼するに値する方です。このような方に信頼して歩めるということは何と幸いなことでしょう。今の世の中を見ると、目まぐるしく変化する時代です。タイプライターなんて使っている人などだれもいません。ワープロも一昔前の話です。今はパソコンの時代であって、スマホの時代です。スマホの時代なんて言っても、私には何のことかよくわかりませんが・・・。よくわからないで言っています。スマホとかタブレットとか何のことだかよくわかりません。考えるだけでも疲れます。でも今はこういう時代なのです。この先今度はどんなものが登場するかわかりません。科学技術は日々進歩し、私たちの住むこの社会は目まぐるしく変化していますが、だからといって、それが必ずしも幸福をもたらすかというとそうでもありません。本当に人間らしい生き方というのは別のところにあるのではないでしょうか。それはいつまでも変わることのない神、イエス・キリストに信頼して生きるということの中にあるのです。なぜなら、イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じだからです。

 Ⅲ.神の御座に着かれたキリスト(13~14)

ですから、結論は13節と14節になります。「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」

 これは詩篇110篇からの引用ですが、キリストが御使いたちよりもはるかにすぐれているということは、彼が神の右の座に着かれたということからもわかります。神の右の座に着くというのは、神の権威の座に着くということです。すなわち、キリストは神ご自身であられるということなのです。キリストは私たちの罪を贖うためにこの世に来られました。そして、私たちの罪を赦すために身代わりとして十字架にかかってくださいました。そして、三日目によみがえり、その救いの御業を成し遂げてくださいました。キリストは死んだだけでなく、よみがえられたのです。それによって、この方こそまことの救い主であることを示されたのです。そして、その罪の贖いを成し遂げられて、天に昇り、神の右の座に着かれました。イエス・キリストは主の主、王の王であって、すべてを支配しておられる全能の神なのです。

 神は、かつてどの御使いに向かって、このように言われたでしょうか。このように言われた御使いはいません。御使いは、ただ仕える霊であって、救いの相続者となる人々、これは私たちのことですが、私たちに仕えるために遣わされている存在なのです。しかし、キリストは違います。キリストは神の御子であって、御使いからも、すべての人からも礼拝を受けるにふさわしい方なのです。

 このように、イエスが神の御子であられ、いかに偉大な方であるかを知ることができたかと思います。私たちは、イエス・キリスト以外のすばらしいものを見てそれがなんとなくすぐれていると思い、このイエスから目を離してしまうことがありますが、そこからは何の助けも、何の慰めも、何の解決も得ることはできません。あなたに真の喜びと希望を与えることができるのは、この天地万物を創造された造り主、それらすべてを支配しておられるまことの神イエス・キリストだけなのです。この方はいつまでもながらえられる方で、決して滅びることがありません。この方はその全能の御手をもって、きのうもきょうも、いつまでも変わることなく、今もあなたのいのちをも守っていてくださいます。この方に目を留めなければなりません。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)このイエスに信仰の始まりがあり、その過程があり、その完成があります。ですから、このイエスをあおぎ見続けていけばよいのです。真の望みはこのイエスを仰ぎ見ることから生まれます。このイエスを見たら、私たちの中から恐れや不安が消えます。霊的貧弱さ、未熟さから解放されます。イエスをすみずみまでじっくりと見続けるなら、あなたの中にある不平不満、憎しみ、ねたみ、敵意、復讐心、うらみ、つらみ、心の闇から解放されるのです。

クリスチャンとなったあの有名なウェスタン歌手、ベバリ・シェアは、「キリストには変えられません」という賛美歌を書きました。

「キリストにはかえられません。いかに美しいものも このお方で心の満たされてある今は 世の楽しみよ去れ 世のほまれよ行け キリストにはかえられません。世の何ものも」

 彼は、彼の心がキリストで満たされたとき、世の何ものも 彼の心を奪うものはないと告白したのです。そうです。ほんものの心で満たされた心はただ喜びはずむだけなのです。

 あるアフリカの青年が、クリスチャンになりました。その青年がある集会でこんな証をしました。「みなさん、私の心はキリストさまでいっぱいでゴムマリのようです。どんなに私を人がたたきつけても、私は強くたたきつけられればたたきつけられるほど、高く喜んではね上がるだけです。もし悪魔が思い切り私をたたきつけたら、私は高く高く天に上って、もう再び地上に帰らないだけです。」これがキリストによって心が満たされた人の思いではないでしょうか。もう何も思い悩む必要はありません。どんな困難も、苦しみも、病も、このキリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできないからです。キリストを見るなら、あなたの心はこのような喜びに満たされるのです。

 ですから、どうぞ、心を開いて、キリストを迎え入れてください。キリストこそ、心底からあなたの心をゴムマリのようにふくらんだ、満たされた心にしてくださいます。健康で力強い心にしてくださるのです。なぜなら、キリストにこそ、あなたの心を満足させるすべてのものがかくされているからです。キリストは、造られた御使いとは違って、造り主であり、神の力が満ちています。キリストはいつまでも変わることなく、あなたを守ってくださいます。キリストにこそ、罪の赦しがあり、死からの解放があります。キリストにこそまことのいのち、永遠のいのちがあるのです。この方はまことの神だからです。どうか、この方から目を離さないでください。キリストのことば、その生涯、そしてその十字架と復活をよく見て、味わってください。この方はあなたの人生にも、大きな助けを与えることができるのです。