マタイ27章45~56節 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」

キリスト教では、イエス・キリストが最後にエルサレムに入城した日から復活の前日までの一週間を受難週と呼んでいます。そしてキリストが十字架につけられたのは金曜日で、その日の午後3時頃に息を引き取られました。罪も汚れも無い神の子キリストが、全人類の罪を負って十字架に付けられて死なれたのです。その直前、キリストは「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫ばれました。訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。

この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)と言われました。そして、ローマ兵が酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプにつけて、それをイエスの口もとに差し出すと、イエスはその酸いぶどう酒を受けられ、「完了した」(ヨハネ19:30)と言われ、最後に「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って、息を引き取られたのです。

これが、キリストが十字架に付けられた日の出来事です。イエスは十字架上で七つのことばを発せられましたが、その中で第四番目に発せられたのがこの言葉なのです。この言葉は永遠の神秘と言われ、理解するのが最も難しいと言われていいます。なぜなら、キリストが神の子、救い主であられるのなら、どうしてこのように叫ばなければならなかったのかがわからないからです。私はこれまで多くの求道者の方から尋ねられることがあります。それは、「キリストが神ならば、どうしてこのように叫ばなければならなかったのか。」ということです。そんなこと最初からわかっていたはずではないか、それなのにこのように叫んだということは、キリストがただの人間だったということ示しているのではないか、というのです。それなのに、このように叫ばなければならなかったというところに、この言葉の神秘があるのです。いったいキリストはどうしてこのように叫ばれたのでしょうか。きょうはこの言葉の意味をご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.罪を犯さなかったイエス

まず、第一に、主がこのように叫ばれたのは、ご自分の罪のためではなかったということです。46節を見ると、主がこのように叫ばれたのは、午後3時ごろであったとあります。それは十字架につけられてから6時間が経過した頃のことです。この時の肉体的な苦しみは相当のものだったでしょう。手足を引き伸ばされて釘で打ち付けられ、そこに全身の重みがかかっていたのですから、激しい苦痛が伴っていたことでしょう。特に釘が神経に当たっていたら、その痛みは耐えがたいものだったはずです。釘が入っていた回りの肉がはれて腐り始め、脳が充血して激しい頭痛を引き起こします。発熱のためにのども渇きます。それが直射日光の下にさらされていたのであればなおさらのことです。体力が奪われ、肉体の苦痛は極度に達していたにちがいありません。それにもまして苦しめていたのは、精神的・霊的苦しみです。人々から侮辱され、あざけられるというだけでなく、神にも見捨てられたという思いの中で、言葉には言い尽くせない苦痛を受けておられたのです。

ところで、このことばは詩篇22篇1節から引用です。詩篇22篇はダビデの賛歌とありますが、ダビデが自分の人生において、神に見捨てられたのではないかと思えるような状況の中で歌った詩なのです。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私を御救いにならないのですか。私のうめきのことばも。」(詩篇22:1)

ダビデは、自分の人生における困難の中で、そうした苦しみを体験していたのです。そのような苦しみの中で彼は、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ばずにはいられなかったのです。それは神にも見捨てられたのではないかと思えるような激しい苦しみが伴う経験でした。しかし、ダビデがこのように歌ったのは自分の置かれた状況における困難や苦しみばかりでなく、同時にやがて来られるメシヤの姿を預言していたのです。

この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」が、ヘブル語なのか、アラム語なのかは、意見が分かれているところですが、しかしそれがヘブル語であっても、アラム語であったとしても、イエスがこうした極限の苦しみの中から叫ばれたものであるのは事実です。

いったいなぜイエスはこのように叫ばれたのでしょうか。それはこの十字架の刑が人々から裏切られるということ以上に、神に見捨てられるという経験だったからです。それはまさに地獄の経験でした。よく私たちは「地獄を味わった」ということを耳にすることがありますが、この時イエスは本当に地獄を味わったのです。なぜなら、神に見捨てられ、神から話されることこそ地獄だからです。イエスはこれまで永遠の昔からずっと父なる神と一緒でした。ひと時も離れたことがなく、常に親しい交わりを保っておられました。その主が一時的であっても父なる神から離されること、それは地獄の苦しみだったのです。ですから、この叫びは地獄の叫びと言っても過言ではありません。いったいなぜこのように叫ばなければならなかったのか。

一つだけはっきりしていることは、それはイエスご自身の罪のためではなかったということです。主は全く罪のない方であり、ご自分の罪のために見捨てられることはないからです。それはイエスを十字架に引き渡したローマの総督ピラトの言葉からもわかります。ユダヤ教の祭司長がイエス様をローマの総督ピラトの下に連れて行ったとき、彼の判決はこうでした。

「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」(ヨハネ19:4)

またこうも言いました。

「この人は、死罪にあたることは、何一つしていません。」(ルカ23:15)また、ピラトは三度目に彼らにこう言いました。

「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死にあたる罪は、何も見つかりません。」(ルカ23:22)

そしてついにピラトは、「この人の血については、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」(マタイ27:24)とさじを投げ出してしまいました。

しかし、最終的に彼はイエスを十字架に付けたのは、群衆を恐れたからです。群衆が暴動でも起こしたら自分の立場が危うくなると、群衆の要求通りにイエスを十字架につけたのでした。濡れ衣を着せられたこの時のイエスは、どんなお気持ちだったでしょう。

またイエス様といっしょに十字架につけられた犯罪人の一人でさえも、「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(ルカ23:41)とイエス様の無罪を主張しています。

さらにヘブル人への手紙4章15節には、主は罪を犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです、とあります。

ですから、キリストが神に見捨てられたのはご自分の罪のためではなかったことは明らかです。ではいったいなぜ主は十字架につけられなければならなかったのでしょうか。

 

Ⅱ.私たちのために死なれたイエス

 

それは私たちの罪のためでした。全く罪のない方が、私たち人間のために、全人類のために死なれたのです。というのは、神は罪を処罰される方だからです。罪とは、的外れのことです。神によって造られた人間は、本来神を信じ、神のことばに従って生きるはずなのに、自分勝手に生きるようになりました。それが罪です。確かに悪い行いもそうですが、それはこの罪の結果なのです。神を神としないことから、さまざまな問題が生じるようになってしまいました。聖書はこう言っています。

「何が原因で、あなたがたに戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」(ヤコブ4:1-2)

つまり、自分の思うとおりにならないと我慢することができず、争ったり、戦ったりするのです。ですから、自己中心こそが罪の本質なのです。そしてそれを言い換えるなら、このように言えるのではないでしょうか。すなわち、罪とは、神を見捨てることであると・・・。神ではなく、自分が中心となることで、神を見捨てるようになってしまったのです。もしそうであれば、そのような人は、神に捨てられることになります。なぜなら、神は罪を放置されることはないからです。必ずその罪に対して報いをなさいます。その報いこそ、神から捨てられるということなのです。それこそ神によって造られた人間にとって最も不幸なことなのです。人の一生はこの地上のいのちだけではありません。やがて肉体が滅びる時、その人のたましいは神のみもとに行くようになります。その時神から捨てられた人は永遠の滅び、聖書ではこれを地獄と言っていますが、入らなければなりません。

するとどういうことになるでしょうか。すると、人間はみな神に見捨てられなければならないということになります。なぜなら、聖書には、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)とあるからです。そして、「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるからです。私たちはだれ一人として完全な者はおらず、したがって、生まれながらのままであればだれ一人として神のみもとに行くことはできないからです。しかし、神は私たちが滅びることがないように救い主をこの世に送り、罪の処理をしてくださいました。それがキリストの十字架上での死だったのです。主が十字架に付けられたのはご自分の罪のためではなく、私たちの罪のためであり、私たちの罪を負い、私たちが受けるべき罪の代価を身代わりとなって受けるためだったのです。それは私たちが神に見捨てられることがないように、代わりに神に見捨てられるためだったのです。

かつて、ある裁判官が一人の重罪人を裁いたことがありました。犯罪人が法廷に立って裁判官を見ると、それは自分の双子の兄でした。裁判官も、自分の弟が犯人であることを知りました。犯人は心から赦されることを兄に懇願しましたが、裁判官である兄は厳しく罪を裁き、すぐに彼を投獄するように命令したのです。そして翌朝には、彼は死刑にされることになりました。一方、その犯人は獄中で、翌日の死のことを考えて悶々とした眠れぬ一夜を明かしました。ところが、夜中に急に裁判官が官服のままで、獄にやって来て、その犯人である弟に驚くべきことを告げたのです。  「私は裁判官である以上、法律に違反することはできないので、お前を刑に処した。今、私がここに来たのは、兄としてお前を救うためだ。急いで、お前の服と私の官服とを取り替えて、ここから出て行きなさい。門にいる看守はお前を出してくれるだろう。お前は、遠方に行って、今後、心を入れ替えて新しい生活をしなさい。二度とこのような罪を犯してはいけない。さあ、早く行きなさい!」そして、その裁判官は翌朝、弟の身代わりになって死刑を執行されたのです。二日の後、このことが全市に知れ渡り、人々の大きな感動を呼んだということです。

 

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ5:6-8)。

「神は、罪を知らない方を、私たちの身代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ1:4-5)

Ⅲ.絶対に見捨てられない私たち

ということは、どのようなことが言えるでしょうか。イエスがあなたの身代わりとなって神に見捨てられたので、あなたは絶対に見捨てられることはないということです。主が私たちの代わりに罪とされたのは、私たちが罪の刑罰を受けないためであり、私たちが神から見捨てられないためでした。私たちが罪から解放されて、永遠の死から救われるためでした。ペテロはそのことを次のように言っています。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

したがって、主イエスを信じて救われている者は、もはや罪に定められることはありません。つまり、絶対に神に見捨てられることはないのです。パウロは、この真理を次のように宣言しています。少し長いですが引用したいと思います。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:31-39)

主はご自身を信じる者のいと近くにいて、いつも励まし、慰め、救ってくださいます。目に見えないということは、主がおられないということではありません。神がともにおられるかどうかということは、人間の感情に依存するものではないのです。主はいつもともにおられます。それは主があなたの代わりに、神に見捨てられたものとなってくださったからです。それゆえに、この方を信じる者は、決して神に見捨てられることはないのです。

私たちは人生において、「どうして」と叫ばずにはいられないことがあります。どうしてこのような苦しみに会わなければならないのか、どうしてこのような悲しみ、困難、患難を受けなければならないのかという時があります。神に見捨てられたのではないかと思うような時があるのです。しかし、主が私たちのために、すでにその「どうして」という問いを発してくださり、その解答を与えてくださいました。あらゆる「どうして」という解答が与えられているのです。それゆえに、どのようなことがあっても、神はあなたを見捨てることはありません。

 

旧約聖書に登場するヨブは、まさにこの「どうして」を経験した人でした。彼は東の人々の中で一番の富豪でした。彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。家族も愛し自分の息子たちや娘たちのために祝宴を開き、彼らといっしょに飲み食いをするのを常にしていました。

しかし、そんな彼にある日悲劇が襲います。シェバ人が襲って来て彼の家畜を奪うと、若い者たちを剣の刃で打ち殺してしまいました。そればかりではありません。ヨブがこの知らせを受けている時別のしもべがやって来て、彼の息子や娘たちが一緒に食事をしていたとき荒野の方から大型の台風がやって来たかと思うと彼らがいた建物が崩壊し、全員が死んでしまったというのです。その知らせを聞いた彼は上着を引き裂いて、頭をそり、地に触れ費して主を礼拝しました。ヨブはそれでも罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。

けれども、ヨブに襲った試練はそれだけではありませんでした。何と彼のからだの全体に、足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打たれたのです。唾も自由に飲み込めなくなりました。人々は彼につばを吐きかけ、友人たちまでも彼を冷やかしました。ヨブは、顔が赤くなるまで神様に向かい涙を流しながら、主が私を打たれたことによって私の望みを木のように抜き去られたのだと、自分の苦しみを告白せざるを得ませんでした。

それでもヨブは、罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。むしろ自分の無知、自分の不足さを悟り、悔い改めたのです。そして、彼はこう祈りました。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:5)その結果どうなったでしょうか。神はヨブの所有物をすべて二倍にされました(42:10)。主はヨブの前の半生よりもあとの半生をもって祝福されました(42:12)。

あなたがたの会った試練は、みな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。その脱出の道こそ、イエスの十字架でした。イエスがあなたに代わって死んでくださったので、あなたは救われたのです。あなたがこのイエスを救い主と信じるなら、あなたは神に見捨てられることはありません。人生の暗やみの中で、全く孤独を感じるときでも、あなたがいやされる唯一の道は、キリストのように叫ぶことです。その叫びは、暗黒を貫いて必ず神にまで届きます。暗黒はいつまでも続くものではありません。決して長く続くものではないのです。それは、栄光の光への入口であるということを覚えていただきたいと思います。キリストがその暗やみを取り除いてくださったからです。

最後に、アメリカの有名な大衆伝道者D.L.ムーディー(1837-1899)の実話をもってこの話を結びたいと思います。1849年にゴールドラッシュがカリフォルニアに起こり、ある人が東部のニュー・イングランドを旅立って、西へ西へと黄金に引かれて行きました。妻と息子を残して。そこで彼は、金を掘り当てたので、家族呼び寄せることにしました。妻は大いに喜んで、ニューヨークから息子を連れて、サンフランシスコ行きの客船に乗ったのです。沖に出て間もなく、「火事だ。火事だ」とだれかが叫ぶ声がしました。船には火薬庫があり、船長はもし火がそこについたらひとたまりもなく、沈んでしまうことを知っていました。救命ボートがおろされました。小さかったので、少人数しか乗れませんでした。すぐに一杯になりました。そして最後のボートがおろされました。この母親は是非乗せてほしいと、懇願しました。しかし、船長は「もうひとりも乗せられない。乗せたらボートが沈む」と言って、どうしても許しませんでした。それで母親はさらに熱心に頼みました。船員は、「それではひとりだけ乗せてもよい」と許しました。すると母親は息子を押し退けて、船に飛び乗ったでしょうか。そうではありませんでした。母親は息子を抱きしめて、ボートに乗せると、最後の別れのことばをかけました。

「おまえ、お父さんに会ったら、こう言っておくれ。私がおまえの代わりに死んだのよ」と。

主イエスは、私たちに代わって、神に見捨てられ、死んでくださいました。だから私たちは決して見捨てられることはないのです。罪なきお方が、私たちの代わりに罪とされたことによって、キリストは神に見捨てられましたが、そのことによって、私たちはもはや、どのようなことがあっても見捨てられることはなくなったのです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、というこのイエス様の叫びは、この事実を私たちに教えていたのです。あなたもこの主イエスの叫びにご自分の身を置いて、この永遠の約束を受け取っていただきたいと思います。