Ⅰテサロニケ4章1~12節 「主の召しにふさわしく」

きょうは、「主の召しにふさわしく」という題でお話します。「召し」とは「ご飯」のことではありません。呼び招くことです。クリスチャンは主に呼び招かれた者です。ですから、その召しにふさしく生きる者でなければなりません。きょうは、その召しにふさわしい歩みとはどのような者なのかについて学びたいと思います。

Ⅰ.クリスチャン生活の基準(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。「1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」

ここでパウロは、テサロニケの人たちにお願いし、勧告しています。これは3章13節のことばを受けての勧告です。3章13節には、「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」とあります。やがて主イエスが再び来られるのですから、その時に、私たちの神の御前で、聖く、責められるところがないように、しっかりとそれに備えておくようにということですが、そのための勧告であります。ここでは三つのことを勧めています。第一のことは聖くなること、第二のことは互いに愛し合うこと、そして第三のことは、互いに慰め合うことについてです。いったい何が慰めなのでしょうか。このことについては来週お話したいと思います。きょうは、最初のの二つの勧告を見ていきたいと思いますが、その前に、ここにはその前提が述べられています。それは、「あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」ということです。

ここには「歩む」という言葉が強調されています。この「歩む」というのは何かというとクリスチャンライフのことです。私たちの信仰はただ聖書を頭で学ぶだけのものではありません。その学んだことを実際の生活に適用し、神に従うということを通して実践するわけです。それがクリスチャンの歩みです。その歩みのポイントは何かというと、どのようにして神を喜ばすことができるかということです。以前はそうではありませんでした。以前は、どのようにして自分を喜ばすことができるかということでした。しかし、神によって救われてクリスチャンになってからは、どのようにしたら神を喜ばすことができるかを考えて歩むようになりました。なぜなら、私たちは神によって造られ、神によって救われた者だからです。ですから、その造り主であり救い主である神の喜びは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえて生きるようになりました。ローマ12章1節、2節にそうあります。神の喜びは何かが、クリスチャン生活の基準なのです。

皆さんは、よくリストバンドなどにW.W.J.D.と印字されたものを見かけたことがあるでしょうか。あれはWhat would JESUS do?の頭文字をとったものです。意味は、イエス様ならどうするか?です。それまではいつも自分のしたいことをしていました。しかし、イエス様によって救われた今は違います。自分がしたいことではなく、イエス様が私たちにしてほしいと願っておられることを考えて歩むようになりました。それがクリスチャンです。それがクリスチャンの行動の基準なのです。

それはすでにこのテサロニケの教会の人たちが歩んでいたことです。しかし、パウロはここで「ますますそのように歩んでください」と言っています。クリスチャンにとってもう十分だということはありません。これで十分だと言ったとたんにバックスライドし始めます。クリスチャンが前に進んでいる限りにおいては大丈夫なのですが、もう十分ですそこに立ち止まった瞬間にバックスライド(後退)するのです。ですから、へブル人への手紙6章1節にはこう勧められているのです。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」

皆さん、私たちは初歩の教えで満足するのではなく、常に成熟を目指して進む者でありたいと願わされます。もちろん、そうでないと救いから落ちるということではありません。それでも天国にはいけるので問題ないのですが、神のみこころは、私たちが成熟を目指して歩み続けることなのです。

テサロニケ4章に戻りまして、2節を見ると、「私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」とあります。1節にも「主イエスにあって、お願いし、また勧告します」とありました。どういうことかというと、これはパウロの個人的な意見ではないということです。これはパウロが主イエスから受けた命令なのです。それをパウロを通して語っているにすぎないのです。ですから、これを人の言葉として軽くあしらってはなりません。これは主イエスの勧告なのです。この天地万物を造られた創造主なる神の、王の王、主の主であられるイエスの言葉なのです。そう受け止めて、私たちは、ますますそのように歩む者でありたいと思います。

Ⅱ.神のみこころはきよくなること(3-8)

次に3節から8節までをご覧ください。「3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、6 また、このようなことで、兄弟たちを踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。」

私はよくクリスチャンの方から相談を受けることがあるのですが、その中で一番多い相談は、「神のみこころは何でしょうか」というものです。「神は私に何を望んでおられるのでしょうか」ということです。それが聖書に具体的に書いてある時は確信をもって「神のみこころは・・・です」と言うことができるのですが、時には微妙なケースもあります。微妙なケースというのは、聖書ではっきり言っていないことや、置かれた状況によってはどちらでもいい場合です。そういう時には返答に困ってしまう時があるのですが、ここには100パーセント、これは神のみこころだということが書かれてあります。それは何かというと、聖くなることです。ここには、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」とあります。

聖くなるとはどういうことでしょうか。この「聖い」と訳されている言葉はギリシャ語で「ハギオス」ということばですが、ある目的のために分けるという意味です。ここでは神の目的のために分けること、区別することを指しています。ですから、これを「聖別」とか、「聖化」とも言うのです。7節にも同じことばが使われていますが、ここでは「聖潔」と訳されています。聖潔の聖は、「清」ではなく「聖」ということばを使われています。これは単に清いということではなく、神のために区別されていることを示しているからです。Ⅰペテロ1:15-16には、「15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。16 それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」とあります。『』の部分はレビ記11章44節等からの引用ですが、神が私たちを召されたのは何のためか、それは私たちが神のようになるためです。それで、神は聖ですから、あなたがたも聖でなければならない、というのです。これが神のみこころなのです。

その具体的な一つのこととして、ここでは不品行を避けるということが語られています。不品行とは、性的な不道徳のことです。パウロが手紙を書き送っているテサロニケは異教の町で、異教的な習慣がはびこっていました。その一つは、妻の他にめかけがいたことのです。日本でも明治時代の前半までは、政治家や高級官僚、財界人と言われるようなクラスの経済人、大地主の多くは、こうしためかけがいたと言われています。それが普通の社会だったのです。ちゃんと働いて家族を養っていれば、めかけがいても問題ではないと思われていました。特にパウロはこの手紙をコリントという所で書いていましたが、コリントの町は性的不道徳がはびこっていた町で、教会の中でさえ、父の妻を妻とする者もいたほどで、そうしたコリントの人たちのふるまいを、「コリントのようにふるまう」と言われていたほどです。パウロはこのコリントの町にいて、テサロニケの人たちのことが心配だったのでしょう。異邦人の町ではこうしたことが当たり前のように行われているけれども、あなたがたの間ではそうであってはならない。神のみこころは、あなたがたが聖くなることであり、そうした異邦人の中にあっても情欲におぼれることなく、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保つようにと書き送ったのです。

いったいなぜ神はこのように望んでおられるのでしょうか。ここに二つの理由が述べられています。一つは、私たちのからだは神から受けた聖霊の宮であるからです。4節には、「各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、」とありますが、この「からだ」と訳されたことばは「器」のことです。Ⅰコリント6章19-20節には、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」とあります。私たちのからだは、神から受けた聖霊の宮なのです。大切な神の聖霊が住んでおられる器なのです。その器であるからだを不品行によって汚すようなことがあってはなりません。だから、不品行を避けなさい、と勧められているのです。

また、Ⅱコリント4章7節にもこの「器」ということばが使われていて、そこには、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」とあります。この宝とは、文脈からイエス・キリストのことであるのがわかります。あるいは、イエスの御霊である聖霊のことであると言ってもいいでしょう。その宝を、この土の器の中に入れているのです。この土の器とは何でしょうか。それはからだのことです。この土の器のように落としたらすぐに壊れて砕き散ってしまうような器の中に、計り知れない宝を入れているのです。その器を、いったい何のために使おうとしているのでしょうか。それを自分の快楽のためにではなく、神の栄光のために使いなさい、と言われているのです。これまでは自分のからだは自分のものだと思って、自分の目的のために使っていました。自分の快楽のためとか、願望のために使っていたのです。しかし、これからはそうであってはなりません。これからは神が喜ばれるように、神の栄光のために用いなさい、というのです。

もう一つの理由は6節にあります。それは、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりすることになるからです。踏みつけるということばは限度を超えるという意味ですが、神の家族としての一線を越えることになるのです。そのようなことで神の家族を破壊し、主にある兄弟姉妹を傷つけてはならないのです。神のみこころは、私たちが生くなることです。私たちが不品行を避け、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことなのです。

Ⅲ.互いに愛し合うこと(9-12)

主の召しにふさわしい第二のことは、互いに愛し合うことです。9節と10節をご覧ください。「9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。10 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。」

「兄弟愛」と訳されたことばギリシャ語でフィラデルティアという言葉ですが、これは主にある家族が兄弟姉妹として抱く愛のことです。ここでは、この愛については、何も書き送る必要がないと言われています。なぜでしょうか?なぜなら、彼らはこのことを神から教えられた人たちだからです。つまり、それをよく実践していた人たちであったということです。その具体的な例が10節にあります。実に彼らはマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行していました。彼らはマケドニヤ州全土にいる他のクリスチャンに対して、悩む者を慰め、貧しい人々に助けの手を差し伸べていたのです。後になってパウロはコリントの教会に宛てて、次のような手紙を書き送りました。Ⅱコリント8章1節から5節までを開いてみたいと思います。

「1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」(Ⅱコリント8:1-5)

このマケドニヤの諸教会というのは、テサロニケの教会を中心とした諸教会のことですが、彼らはエルサレムの教会を助けようと、迫害の苦しみの中にあっても、また、極度の貧しさの中にあっても、自ら進んで、力に応じて、いや力以上にささげました。彼らは自分たちが経済的に余裕のない者であったにもかかわらず、他者への支援を惜しみませんでした。なぜ彼らはそのようなことができたのでしょうか。それは主イエス・キリストの恵みを知っていたからです。すなわち、主は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました。それは、彼らがキリストの貧しさによって富む者となるためです。その恵みが満ちあふれる喜びとなって、あふれ出て、惜しみなく施す富となったのです。

「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:11)

「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら・・」神に深く愛された者だけが、兄弟姉妹を愛することができます。イエス様の足を涙でぬらし、それを髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油をぬった女もそうです。いったい彼女がなぜそこまでできたのか?それは彼女の多くの罪が赦されたからです。イエス様はこう言われました。「少ししか赦されない者は、少ししか愛せません。」(ルカ7:47)そうです、彼女の多くの罪は赦されたのでよけいに愛することができたのです。少ししか赦されない者は少ししか愛せません。私たちは主にどれだけ赦されたのか、どれだけ愛されたのかによって、互いに愛し合うことができるのです。それが互いに愛する原動力となります。ですから、私たちは互いの兄弟愛の足りなさを指摘する前に、もう一度、すべての愛の出発点であるこの神の愛から謙虚に学ばなければなりません。

それにしても、テサロニケの教会は受けるだけで満足する教会ではありませんでした。受けて、その満ちあふれる喜びが、惜しみなく施す富となってあふれ出ていたのです。そんなテサロニケの教会に対してパウロは、この兄弟愛については、もう何も書き送る必要はないと言いました。彼らに必要なのは、ますますそうであるようにということだったのです。私たちは時として自分のこととか、自分の教会のことにしか目がいかず、その枠の中での献金や奉仕で満足しがちですが、このマケドニヤの諸教会、テサロニケの教会のように、自分たちのことだけでなく、他者のことも顧みて、喜んでささげていく、そんな群れにさせていただきたいとものです。今日でも、まだ小さな群れであるにもかかわらず、海外宣教や対外援助に重荷を持って積極的にささげている教会の姿を見ることがありますが、そのような信仰の姿を見ると本当に励ましを受けます。私たちは、そのような教会になりたいと願っています。激しい戦いや極度の貧しさにもかかわらず、主に救われた喜びがあふれ出て、それが惜しみなく施す富となっていく教会、聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に願う教会、そんな教会になりたいのです。来週も錦秋湖のキャンプ場からキャンプラリーブリでお越しになられますが、最大級のおもてなしをさせていただきたいと思うのです。また、先日もウォーク・ウィズ・ジーザスが行われましたが、そんなささやかなおもてなしが、彼らのこころとからだをいやすために用いられたとしたら、どんなに幸いかと思うのです。何よりも、誰よりも、そうした交わりの恵みに預かりたいと願い、祈り、ささげ、労する人たちが一番大きな恵みを受けるのではないでしょうか。私はそう思うのです。そして、この愛のわざは、これで十分ということはありません。「どうか、さらにますますそうであってください」とあるように、ますますそうありたいと願います。

11節と12節には、「11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」とあります。互いに愛し合うことと、落ち着いた生活を志すこと、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働くことに、いったいどんな関係があるというのでしょうか?当時、このテサロニケの教会の中には、主の再臨について間違って理解している人たちがいました。確かに主はすぐにやって来ると言われましたが、だったら何をしたってむだだ、もう働く必要なんてないと、仕事を放棄している人たちがいたのです。しかしそれは極端な再臨の理解であり、不健全な信仰にほかなりません。落ち着いた生活を志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働いてこそ、主が来られるのを真剣に待ち望む者の姿なのです。

なぜなら、そのように自分の仕事に身を入れ、自分の手で働くことによって、外部の人々に対して良い証となるからです。また、自分にとっても乏しいことがなくなるからです。クリスチャンだと言いながら仕事が適当であったり、さぼりがちであったりしたら、まわりにいる人たちに対してあまりいい証にはなりません。クリスチャンだからといって学業をいい加減にしたり、さぼったりしていたら、それを見たまわりの人が「すばらしい」とか、「かっこいい」なんて言って、キリスト教の偉大さに心打たれることなどないでしょう。自分に与えられた仕事に身を入れ、人がやりたくないようなことでも熱心にやったりすることで、外部の人たちに対してもりっぱにふるまうことができるのです。

いったいなぜこんなことを書く必要があったのでしょうか。それはクリスチャンの中で互いに愛し合うということを間違って理解している人たちがいたからです。私たちの中にはどこか、この兄弟愛の意味をはき違えているところがあります。むやみに人を援助するだけでは、それが相手にとって本当の助けにはならないもあるのです。Ⅱテサロニケ3章8節には、テサロニケの教会に、人のパンをただで食べる人がいたことが指摘されていますが、ということは、教会内にそれを許している人たちがいたということです。もちろん、いろいろな事情があって働きたくても働けない人もいるでしょう。病気でからだが動かない人もおられます。そのような方々に対してはむしろ積極的に援助すべきです。しかし、そうでいない人たちに対しては、つまり、働けるのにそうしない人たちには、ただでパンをあげるということはふさわしくありません。それは決して兄弟愛でも何でもないのです。むしろ、その人をだめにしてしまいます。そのような人に必要なことは、自分の手で働くということです。そのことを教え、そのために援助すべきなのです。パウロは、健全な兄弟愛とは他の人を自立した生活へと導くことでもあるということを伝えたかったのです。

私たちはどうでしょうか。聖さにおいても、兄弟愛においても、神のみこころにかなった者となっているでしょうか。もしそうであるなら、さらにますますそうであるように求めていきましょう。もしそうでないなら、悔い改めて、神のみこころに歩めるように、ご聖霊の恵みに信頼したいと思います。あの姦淫の現場で捕えられ、イエス様のもとに連れて来られた女性に対して、主はこう言われました。「あなたを罪に定める人はいなかったのですか。わたしも、あなたを罪に定めない。今からは決して罪を犯してはなりません。」それは私たちに対する言葉でもあります。私たちも過去においては失敗や過ち、罪を犯して神のみこころにかなわない者であったかもしれません。兄弟愛についても、互いに愛し合うことよりも、人をさばくことがあったかもしれません。けれども、神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。その召しにふさわしく歩めるように、イエス様がいつも祈っていてくださいます。その祈りに答えて、神が喜ばれるような歩みを、歩もうではありませんか。ますますそのように歩もうではありませんか。私たちはそのために召されたのですから。

民数記3章

きょうは民数記3章から学びます。まず1節から4節までをお読みします。

1.アロンの系図(1-4)

「1 がシナイ山でモーセと語られたときのアロンとモーセの系図は、次のとおりであった。2 アロンの子らの名は長子ナダブと、アビフと、エルアザルと、イタマルであった。3 これらはアロンの子らの名であって、彼らは油そそがれて祭司の職に任じられた祭司であった。4 しかしナダブとアビフは、シナイの荒野での前に異なった日をささげたとき、の前で死んだ。彼らには子どもがなかった。そこでエルアザルとイタマルは父アロンの生存中から祭司として仕えた。」

ここには、主がシナイ山でモーセに語られた時のアロンとモーセの系図が記されてあります。アロンの子らの名は長男がナダブで、次にアビフ、エルアザル、イタマルです。彼らは油注がれて祭司の職に任じられた祭司たちでした。モーセもアロンも皆レビ族の出身です。しかし、すべてが祭司なれるのではありません。祭司になれるのはアロンの家系だけです。その他のレビ族の人たちは、アロンの家系をアシストするために召されていました。

しかし、アダブとナビフは、シナイの荒野で異なった火をささげたので、主の前に死にました。これは、レビ記10章に出てきた内容です。彼らは異なった火をささげたので、主の前で息絶えました。この異なった火とは何かというと、彼らは大祭司しか入ることのできない至聖所に入っていけにえをささげたのです。レビ記16章1節には、「アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいてそのために死んで後、主はモーセに告げられた。主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。」とある。すなわち、この二人の息子は、大祭司である父親のアロンしかできないことを、自分たちの手でやろうとしたのです。彼らは、自分たちにもできると思いました。彼らは主がしてはならないと命じられたことを勝手に行ったのです。それゆえに、彼らは火で焼き尽くされてしまいました。そこでエルアザルとイタマルが祭司として仕えました。

2. レビ部族を近寄らせ(5-10)

次に5節から10節までを見ていきましょう。ここには、「5 はモーセに告げて仰せられた。6 「レビ部族を近寄らせ、彼らを祭司アロンにつき添わせ、彼に仕えさせよ。7 彼らは会見の天幕の前で、アロンの任務と全会衆の任務を果たして、幕屋の奉仕をしなければならない。8 彼らは会見の天幕のすべての用具を守り、またイスラエル人の務めを守って、幕屋の奉仕をしなければならない。9 あなたは、レビ人をアロンとその子らにあてがいなさい。彼らはイスラエル人の中から、正式にアロンにあてがわれた者たちである。10 あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らなければならない。ほかの人で近づく者は殺される。」とあります。

ここには他のレビ族の人たちの幕屋における奉仕について書かれてあります。彼らはアロンとその子らにあてがわれました。アロンとその子らの働きをサポートして、祭司たちがそれができるように助けたのです。聖所における奉仕はみな、アロンとその息子たちが行いましたが、それに付随する働きはレビ人たちが担ったのです。ですから、たとえレビ人といえども、聖所の中での奉仕をすることはできませんでした。それはアロンとその子たちだけに許されていたことであり、ほかの人で近づく者は殺されたのです。

3.レビ人はわたしのもの(11-13)

次に11節から13節です。「11 はモーセに告げて仰せられた。12 「わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである。13 初子はすべてわたしのものだからである。エジプトの国でわたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは、人間から始めて家畜に至るまでイスラエルのうちのすべての初子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしはである。」

ここには、レビ人を初子の代わりとして聖別することが語られています。神は、イスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、レビ人をとることにした、と言われました。なぜなら、初子はすべて神のものだからです。イスラエルがエジプトの奴隷として仕えていたとき神はそこから彼らを救い出そうとされたとき、エジプト中の初子という初子を殺されました。それを殺して聖別されたのです。ですから、初子は神のものなのです。その初子の代わりに、神はレビ人をとられたのであります。つまり、その初子を自分のものとしたければお金を払って買い取らなければならなかったのですが、その身代金がレビ人であったわけです。

4.レビ族の登録(14-26)

そこで主は、レビ族をその氏族ごとに登録するようにと命じられました。14節から26節までをご覧ください。

「14 はシナイの荒野でモーセに告げて仰せられた。15 「レビ族をその父祖の家ごとに、その氏族ごとに登録せよ。あなたは一か月以上のすべての男子を登録しなければならない。」16 そこでモーセはの命により、命じられたとおりに彼らを登録した。17 レビ族の名は次のとおりである。ゲルションと、ケハテと、メラリ。18 ゲルション族の氏族名は次のとおりである。リブニとシムイ。19 ケハテ族の諸氏族はそれぞれ、アムライとイツハル、ヘブロンとウジエル。20 メラリ族の諸氏族は、それぞれ、マフリとムシ。これらがその父祖の家によるレビ人の諸氏族である。21 リブニ族とシムイ族はゲルションに属し、これらがゲルション人の諸氏族であった。22 数を数えて登録された者は、一か月以上のこれらすべての男子で、登録された者は、七千五百人であった。23 ゲルション人諸氏族は、幕屋のうしろ、すなわち西側に宿営しなければならなかった。24 ゲルション人の、一族の長は、ラエルの子エルヤサフであった。25 会見の天幕でのゲルション族の任務は、幕屋すなわち天幕と、そのおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕、26 庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の回りを取り巻く庭の入口の垂れ幕、そのすべてに用いるひもについてである。」

そここで注目してほしいことは、一か月以上のすべての男子が登録されたということです。1章では荒野を進んで行くイスラエルは、20歳以上の男子が数えられましたが、レビ人は一ヶ月以上の男子が数えられています。なぜでしょうか?イスラエル人は軍務につくのですから、成人でなければその任務を行なうことはできませんが、レビ人は、神の働きに召された者だからです。もちろん、一歳にもならない赤ちゃんが、幕屋の奉仕をすることはできません。けれども、彼らは主が臨在しておられるその場所に小さい頃から置かれ、そこで親から神様のことをいろいろ教えてもらうことによって主に仕える備えがされていたのです。そのことがすでに主の前で奉仕として数えられているのです。

それは霊的には私たちのことを指しています。私たちはみなキリストによって贖われた神の民です。祭司であり、レビ人です。神の働きのために選ばれた者なのです。そのような者は生まれて一か月の時から神のもとに置かれているのです。生まれたばかりの霊的赤ん坊にとって幕屋で仕えるということはできないかもしれませんが、主のみそばのそばに置かれる必要があるのです。ただ主の愛と恵みの中に置かれ、そこから神のことを学び取っていかなければなりません。彼らにとって必要なことは奉仕をすることではなく、主の臨在に触れること、主のみことばを聞くという環境に身を置くことなのです。奉仕はその後でいいのです。それなのにすぐに奉仕をさせてしまうことがあります。しかし、みことばを聞くことが彼らにとっての奉仕なのです。もちろん、いつまでも聞くだけではいけません。聞いて、それを実行しなければなりません。しかし、初めは神の臨在に置かれるだけでいいのです。そこで神のことばを聞き、神の恵みに満たされること、後の働きに備えて、十分愛情をいただくだけでいいのです。

そして、レビ族はさらに氏族ごとに分けられ、おのおのの氏族ごとに数えられます。レビ族には三つの氏族がいます。ゲルション族とケハテ族とメラリ族です。まずゲルション族についてですが、

ゲルションの意味は「追放された者」です。人気グループに「EXILE」というグループがいますが、それがこのゲルションの意味です。ですから、ゲルションはEXILE、追放された者であります。その人数は7500人でした。彼らは幕屋のうしろ、すなわち、西側に宿営しました。彼らの天幕での任務は、幕屋すなわち天幕と、そのおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕、庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の入り口の垂れ幕、そのすべてに用いるひもについてでありました。

幕屋は主に三つのものによって成り立っていました。まず契約の箱と祭壇などの道具です。それから、それらを取り囲む板や、板をつなぐ棒などです。そしてもう一つはその上にかける幕です。ゲルション族の奉仕は、幕屋の幕を取り外し、それを運び、また取り付ける奉仕でした。これは地味な奉仕のようですが、天国における報いの大きい奉仕だと思います。これは霊的にはとりなしの祈りを表していると言ってもいいでしょう。幕によって覆うのです。それがとりなしの祈りです。ヤコブ5章19-20節には、「19 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということ、あなたがたは知っていなさい。」とあります。

またⅠペテロ4章7-8節にも、「7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とあります。愛は多くの罪を覆います。祈りによって心を備えなければなりません。主の再臨のために。

5.ケハテ族(27-32)

次に27節から32節までをご覧ください。ここにはケハテ族について書かれています。「27 アムラム族、イツハル族、ヘブロン族、ウジエル族はケハテに属し、これらがケハテ人の諸氏族であった。28 これらの一か月以上のすべての男子を数えると、八千六百人であった。彼らが聖所の任務を果たす者である。29 ケハテ諸氏族は、幕屋の南側に沿って宿営しなければならなかった。30 ケハテ諸氏族の、一族の長は、ウジエルの子エリツァファンであった。31 彼らの任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕と、それに関するすべての奉仕である。32 レビ人の長の長は祭司アロンの子エルアザルであって、聖所の任務を果たす者たちの監督であった。」

ケハテ族の人数は8600人であり、彼らは幕屋の南側に宿営しました。彼らの任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕と、それに関する奉仕でした。ケハテの意味は「集まり」です。モーセもアロンも、ミリヤムも、このケハテ族の出身でした。32節を見ると、レビ人の長の長は祭司アロンの子エルアザルであって、聖所の任務を果たす者たちの監督であった、とあります。ゲルションの長はエルヤサフ、ケハテの長はエリツァファンでした。けれども、その彼らを取りまとめる人がアロンの子エリアザルです。アロンの後継者です。彼は、聖所の任務を果たす者のところで監督しました。これらの用具は聖なるものであり、運搬にはとくに注意を要したからです。エルアザルの意味は「神は助ける」ですが、この聖所の任務には、特別な神の助けが求められたのでしょう。

6.メラリ族(33-39)

次はメラリ族です。33-39節をご覧ください。「33 マフリ族とムシ族はメラリに属し、これらがメラリの諸氏族であった。34 数を数えて登録された者は、一か月以上のすべての男子で、六千二百人であった。35 メラリ諸氏族の父の家の長は、アビハイルの子ツリエルであった。彼らは幕屋の北側に沿って宿営しなければならなかった。36 メラリ族に任じられた務めは、幕屋の板、その横木、その柱と台座、そのすべての用具およびそれに用いるすべてのもの、37 庭の回りの柱とその台座、その釘とそのひもについてである。38 幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺される。39 モーセとアロンがの命により、氏族ごとに登録した、すべての登録されたレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人であった。」

メラリ族については、人数が6200人で、北側に宿営しました。彼らに任じられた務めは、幕屋の板、その横木、その柱と台座など、そして、庭の回りの柱とその台座、その釘とひもについての奉仕でした。これは幕屋の屋台骨を支えるような奉仕です。いわば縁の下の力持ちのような働きです。そればかりではありません。ここには、釘1本、ひも1本のような小さな奉仕でした。これでも主にお仕えできるのです。いや、こうした小さな奉仕が重要なのです。イエス様は、「小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」

(ルカ16:10)と言われました。小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実なのです。そういう人に主は、大きな働きをゆだねられるのです。

7.幕屋の正面(38-39)

そして最後に幕屋の正面です。38-39節です。「38 幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺される。39 モーセとアロンがの命により、氏族ごとに登録した、すべての登録されたレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人であった。」

幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺されました。幕屋の東側というのは幕屋への入り口があった場所です。そこは聖所への通り道でもありました。ですから、聖なる神にもっとも近いところであり、仲介役のモーセ、そしてアロンしか近くに宿営することが許されませんでした。モーセとアロンが主の命により、氏族ごとに登録したレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人でした。

8.イスラエル人の初子の贖いの代金(40-51)

最後に40節から51節を見て終わりたいと思います。ここにはイスラエル人の初子が数えられています。「40 はモーセに仰せられた。「イスラエル人のすべての一か月以上の男子の初子を登録し、その名を数えよ。41 あなたは、わたしのために、わたし自身、のために、イスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取り、またイスラエル人の家畜のうちのすべての初子の代わりに、レビ人の家畜を取りなさい。」42 モーセはが彼に命じられたとおりに、イスラエル人のうちのすべての初子を登録した。43 その登録による、名を数えられたすべての一か月以上の男子の初子は、二万二千二百七十三人であった。44 はモーセに告げて仰せられた。45 「レビ人をイスラエル人のうちのすべての初子の代わりに、またレビ人の家畜を彼らの家畜の代わりに取れ。レビ人はわたしのものでなければならない。わたしはである。46 レビ人の数より二百七十三人超過しているイスラエル人の初子の贖いの代金として、47 ひとり当たり五シェケルを取りなさい。これを聖所のシェケルで取らなければならない。一シェケルは二十ゲラである。48 そして、この代金を、超過した者たちの贖いの代金として、アロンとその子らに渡しなさい。」49 こうしてモーセはレビ人によって贖われた者より超過した者たちから、贖いの代金を取った。50 すなわちイスラエル人の初子から、聖所のシェケルで千三百六十五シェケルの代金を取り、51 モーセは、の命により、この贖いの代金を、がモーセに命じられたように、アロンとその子らに渡した。」

イスラエル人の初子を数えたところ22,273人でした。レビ人の人数は22,000人でしたので、273人超過したことになります。レビ人はイスラエルの初子の代わりでしたので、そうすると、273人分は、いつものように贖い金を支払わなければなりませんでした。そこでモーセは贖い金を徴収して、そのお金をアロンに手渡しました。それが40節から51節までの話です。 その代価は、一人あたり5シェケルでした。それはレビ記27章6節で見てきたことです。生まれて1か月から5際までの男子は一人あたり5シェケルの価値と定められていました。それでその273人分を支払ったのです。こうしてレビ人が数えられたのです。

それにしてもなぜレビ人が、他のイスラエル部族から取られて数えられ、主のもっとも近くに宿営し、幕屋の奉仕にあずかることができたのでしょうか。創世記49章5-7節を見ると、彼らは必ずしも良い性格の持ち主ではありませんでした。ヤコブがこのレビとシメオンについて次のように預言しました。

「シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」

「散らす」というのは、相続地を持たないということです。ですから、彼らが約束の地に入ったとき、相続地を持てなかったのです。シメオンについてはヨシュア記19章を見るとわかるのですが、ユダ族の割り当て地の中に吸収されています。彼らはヤコブの預言のとおり、相続地を持つことができませんでした。イスラエルの中に散らされたのであります。なぜでしょうか?彼らのつるぎは暴虐の道具だったからです。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったので、神に呪われたのです。それは創世記34章の出来事を指しています。彼らの直属の妹ディナがシェケムの異教徒の長の息子シェケムに強姦されたので、レイプされて破廉恥な行為をされたので黙っていることができず、その復讐に虐殺したのです。シェケムがディナを嫁にもらいたいと申し出たとき、自分たちは割礼のない民に嫁がせることはできないと言い彼らが割礼を受け、痛みで苦しんでいたとき、皆殺しにしたのです。このことをヤコブは思い出して、彼らの将来は、暴虐であると預言したのです。このような性格の部族が、今、幕屋の奉仕の務めとして取られたのです。それはいったいどうしてなのでしょうか?

出エジプト記32章を開いてください。32章21節から29節です。アロンが罪を犯し、金の子牛の像を作ってどんちゃん騒ぎをし、敵の笑ものになっていた時、モーセは「だれでも、主につく者は、わたしのところに」と言いました。するとレビ族だけがつきました。それでモーセは彼らに、剣で兄弟たちを殺すように命じました。それでその日、三千人ほどが倒れたのです。剣で失敗したレビが、今度はつるぎで主に従ったのです。過去においた失敗はしたが、その過去にしがみつくことをせず、ただ主に従うことを選び取りました。

それは私たちも同じです。私たちも過去において失敗するようなことがあります。自分なんて神に仕える資格なんてないと落ち込むこともあるでしょう。こんな者が神の奉仕に立てるのかと悩むこともあるかもしれません。しかし、神はそんな者でも新しく造り替えてくださり、神の働きのために用いてくださるのです。パウロはピリピ3章13-14節のところで、「13 兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」と言っています。パウロも、かつてはイエス・キリストに敵対する者でした。イエスを信じる者をつかまえては投獄し、殺害していたのです。それはとても赦されないことでした。しかし、そんな者が神に捕えられたのです。神の福音を宣べ伝える器とされたのです。それで、彼はうしろのものにとらわれることをやめ、ひたむきに前に進んで行くことを学びました。それは私たちも同じです。私たちはクリスチャンを迫害するような者ではありませんでしたが、かつては神に敵対し、自分の思うままに生きていました。とても赦されるには値しないどうしようもない者だったのです。そんな者が神の働きに携わることが許されるのであれば、それはただ神の恵みによるのです。

彼らは確かにかつて神の呪いを受けるようなことをしました。それで相続地を受けることもできませんでした。しかし、神はそんなレビ人を新しく造り替え、たとえ相手から嫌われても、神のみこころに従うことによって、神の呪いを祝福に変えたのです。確かに過去を消すことはできません。自分の犯した罪の結果は刈り取らなければなりません。しかし、それで終わりではない。それでも悔い改めて神に向かうなら、神に従うなら、神はその人を新しく造り替え、ご自身の働きのために用いてくださるのです。呪いを祝福に変えてくださるのです。最も神の近くに置いてくださる。

1章ではイスラエル人が軍務につく者として数えられ、それがこの世との戦いにおけるクリスチャンの勝利を表しているとすれば、幕屋の奉仕に数えられたレビ人は、神の恵みによって奉仕をする者に変えられたクリスチャンの姿を表しているのです。ペテロは主であるイエスを三度も否みました。それは弟子としてふさわしい者ではありません。しかし、復活されたイエスはペテロにお姿を現されたとき、「わたしを愛しますか。」と三度聞かれて、「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられました。ペテロは失敗したときに、主にお仕えするように呼び出されたのです。私たちも、そのままでは主にお仕えすることなどできる者ではありません。主に反逆し、主に罪を犯し、神の呪いを受けてもおかしくないような者なのに、主はそんな私たちを赦してくださいました。呪いを祝福に変えてくださいました。だから、私たちはただ神の恵みによって神のご奉仕にあずかることができるのです。この恵みに感謝したいと思います。そして、たとえ自分がそれにふさわしくないと思っていても、主が呼び出されるなら、その召しに答えて主に仕えさせていただきたいと思うのでするそれがレビ人として呼び出されたクリスチャンの姿なのです。