きょうは、「主の召しにふさわしく」という題でお話します。「召し」とは「ご飯」のことではありません。呼び招くことです。クリスチャンは主に呼び招かれた者です。ですから、その召しにふさしく生きる者でなければなりません。きょうは、その召しにふさわしい歩みとはどのような者なのかについて学びたいと思います。
Ⅰ.クリスチャン生活の基準(1-2)
まず1節と2節をご覧ください。「1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」
ここでパウロは、テサロニケの人たちにお願いし、勧告しています。これは3章13節のことばを受けての勧告です。3章13節には、「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」とあります。やがて主イエスが再び来られるのですから、その時に、私たちの神の御前で、聖く、責められるところがないように、しっかりとそれに備えておくようにということですが、そのための勧告であります。ここでは三つのことを勧めています。第一のことは聖くなること、第二のことは互いに愛し合うこと、そして第三のことは、互いに慰め合うことについてです。いったい何が慰めなのでしょうか。このことについては来週お話したいと思います。きょうは、最初のの二つの勧告を見ていきたいと思いますが、その前に、ここにはその前提が述べられています。それは、「あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」ということです。
ここには「歩む」という言葉が強調されています。この「歩む」というのは何かというとクリスチャンライフのことです。私たちの信仰はただ聖書を頭で学ぶだけのものではありません。その学んだことを実際の生活に適用し、神に従うということを通して実践するわけです。それがクリスチャンの歩みです。その歩みのポイントは何かというと、どのようにして神を喜ばすことができるかということです。以前はそうではありませんでした。以前は、どのようにして自分を喜ばすことができるかということでした。しかし、神によって救われてクリスチャンになってからは、どのようにしたら神を喜ばすことができるかを考えて歩むようになりました。なぜなら、私たちは神によって造られ、神によって救われた者だからです。ですから、その造り主であり救い主である神の喜びは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえて生きるようになりました。ローマ12章1節、2節にそうあります。神の喜びは何かが、クリスチャン生活の基準なのです。
皆さんは、よくリストバンドなどにW.W.J.D.と印字されたものを見かけたことがあるでしょうか。あれはWhat would JESUS do?の頭文字をとったものです。意味は、イエス様ならどうするか?です。それまではいつも自分のしたいことをしていました。しかし、イエス様によって救われた今は違います。自分がしたいことではなく、イエス様が私たちにしてほしいと願っておられることを考えて歩むようになりました。それがクリスチャンです。それがクリスチャンの行動の基準なのです。
それはすでにこのテサロニケの教会の人たちが歩んでいたことです。しかし、パウロはここで「ますますそのように歩んでください」と言っています。クリスチャンにとってもう十分だということはありません。これで十分だと言ったとたんにバックスライドし始めます。クリスチャンが前に進んでいる限りにおいては大丈夫なのですが、もう十分ですそこに立ち止まった瞬間にバックスライド(後退)するのです。ですから、へブル人への手紙6章1節にはこう勧められているのです。
「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」
皆さん、私たちは初歩の教えで満足するのではなく、常に成熟を目指して進む者でありたいと願わされます。もちろん、そうでないと救いから落ちるということではありません。それでも天国にはいけるので問題ないのですが、神のみこころは、私たちが成熟を目指して歩み続けることなのです。
テサロニケ4章に戻りまして、2節を見ると、「私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」とあります。1節にも「主イエスにあって、お願いし、また勧告します」とありました。どういうことかというと、これはパウロの個人的な意見ではないということです。これはパウロが主イエスから受けた命令なのです。それをパウロを通して語っているにすぎないのです。ですから、これを人の言葉として軽くあしらってはなりません。これは主イエスの勧告なのです。この天地万物を造られた創造主なる神の、王の王、主の主であられるイエスの言葉なのです。そう受け止めて、私たちは、ますますそのように歩む者でありたいと思います。
Ⅱ.神のみこころはきよくなること(3-8)
次に3節から8節までをご覧ください。「3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、6 また、このようなことで、兄弟たちを踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。」
私はよくクリスチャンの方から相談を受けることがあるのですが、その中で一番多い相談は、「神のみこころは何でしょうか」というものです。「神は私に何を望んでおられるのでしょうか」ということです。それが聖書に具体的に書いてある時は確信をもって「神のみこころは・・・です」と言うことができるのですが、時には微妙なケースもあります。微妙なケースというのは、聖書ではっきり言っていないことや、置かれた状況によってはどちらでもいい場合です。そういう時には返答に困ってしまう時があるのですが、ここには100パーセント、これは神のみこころだということが書かれてあります。それは何かというと、聖くなることです。ここには、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」とあります。
聖くなるとはどういうことでしょうか。この「聖い」と訳されている言葉はギリシャ語で「ハギオス」ということばですが、ある目的のために分けるという意味です。ここでは神の目的のために分けること、区別することを指しています。ですから、これを「聖別」とか、「聖化」とも言うのです。7節にも同じことばが使われていますが、ここでは「聖潔」と訳されています。聖潔の聖は、「清」ではなく「聖」ということばを使われています。これは単に清いということではなく、神のために区別されていることを示しているからです。Ⅰペテロ1:15-16には、「15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。16 それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」とあります。『』の部分はレビ記11章44節等からの引用ですが、神が私たちを召されたのは何のためか、それは私たちが神のようになるためです。それで、神は聖ですから、あなたがたも聖でなければならない、というのです。これが神のみこころなのです。
その具体的な一つのこととして、ここでは不品行を避けるということが語られています。不品行とは、性的な不道徳のことです。パウロが手紙を書き送っているテサロニケは異教の町で、異教的な習慣がはびこっていました。その一つは、妻の他にめかけがいたことのです。日本でも明治時代の前半までは、政治家や高級官僚、財界人と言われるようなクラスの経済人、大地主の多くは、こうしためかけがいたと言われています。それが普通の社会だったのです。ちゃんと働いて家族を養っていれば、めかけがいても問題ではないと思われていました。特にパウロはこの手紙をコリントという所で書いていましたが、コリントの町は性的不道徳がはびこっていた町で、教会の中でさえ、父の妻を妻とする者もいたほどで、そうしたコリントの人たちのふるまいを、「コリントのようにふるまう」と言われていたほどです。パウロはこのコリントの町にいて、テサロニケの人たちのことが心配だったのでしょう。異邦人の町ではこうしたことが当たり前のように行われているけれども、あなたがたの間ではそうであってはならない。神のみこころは、あなたがたが聖くなることであり、そうした異邦人の中にあっても情欲におぼれることなく、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保つようにと書き送ったのです。
いったいなぜ神はこのように望んでおられるのでしょうか。ここに二つの理由が述べられています。一つは、私たちのからだは神から受けた聖霊の宮であるからです。4節には、「各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、」とありますが、この「からだ」と訳されたことばは「器」のことです。Ⅰコリント6章19-20節には、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」とあります。私たちのからだは、神から受けた聖霊の宮なのです。大切な神の聖霊が住んでおられる器なのです。その器であるからだを不品行によって汚すようなことがあってはなりません。だから、不品行を避けなさい、と勧められているのです。
また、Ⅱコリント4章7節にもこの「器」ということばが使われていて、そこには、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」とあります。この宝とは、文脈からイエス・キリストのことであるのがわかります。あるいは、イエスの御霊である聖霊のことであると言ってもいいでしょう。その宝を、この土の器の中に入れているのです。この土の器とは何でしょうか。それはからだのことです。この土の器のように落としたらすぐに壊れて砕き散ってしまうような器の中に、計り知れない宝を入れているのです。その器を、いったい何のために使おうとしているのでしょうか。それを自分の快楽のためにではなく、神の栄光のために使いなさい、と言われているのです。これまでは自分のからだは自分のものだと思って、自分の目的のために使っていました。自分の快楽のためとか、願望のために使っていたのです。しかし、これからはそうであってはなりません。これからは神が喜ばれるように、神の栄光のために用いなさい、というのです。
もう一つの理由は6節にあります。それは、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりすることになるからです。踏みつけるということばは限度を超えるという意味ですが、神の家族としての一線を越えることになるのです。そのようなことで神の家族を破壊し、主にある兄弟姉妹を傷つけてはならないのです。神のみこころは、私たちが生くなることです。私たちが不品行を避け、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことなのです。
Ⅲ.互いに愛し合うこと(9-12)
主の召しにふさわしい第二のことは、互いに愛し合うことです。9節と10節をご覧ください。「9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。10 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。」
「兄弟愛」と訳されたことばギリシャ語でフィラデルティアという言葉ですが、これは主にある家族が兄弟姉妹として抱く愛のことです。ここでは、この愛については、何も書き送る必要がないと言われています。なぜでしょうか?なぜなら、彼らはこのことを神から教えられた人たちだからです。つまり、それをよく実践していた人たちであったということです。その具体的な例が10節にあります。実に彼らはマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行していました。彼らはマケドニヤ州全土にいる他のクリスチャンに対して、悩む者を慰め、貧しい人々に助けの手を差し伸べていたのです。後になってパウロはコリントの教会に宛てて、次のような手紙を書き送りました。Ⅱコリント8章1節から5節までを開いてみたいと思います。
「1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」(Ⅱコリント8:1-5)
このマケドニヤの諸教会というのは、テサロニケの教会を中心とした諸教会のことですが、彼らはエルサレムの教会を助けようと、迫害の苦しみの中にあっても、また、極度の貧しさの中にあっても、自ら進んで、力に応じて、いや力以上にささげました。彼らは自分たちが経済的に余裕のない者であったにもかかわらず、他者への支援を惜しみませんでした。なぜ彼らはそのようなことができたのでしょうか。それは主イエス・キリストの恵みを知っていたからです。すなわち、主は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました。それは、彼らがキリストの貧しさによって富む者となるためです。その恵みが満ちあふれる喜びとなって、あふれ出て、惜しみなく施す富となったのです。
「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:11)
「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら・・」神に深く愛された者だけが、兄弟姉妹を愛することができます。イエス様の足を涙でぬらし、それを髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油をぬった女もそうです。いったい彼女がなぜそこまでできたのか?それは彼女の多くの罪が赦されたからです。イエス様はこう言われました。「少ししか赦されない者は、少ししか愛せません。」(ルカ7:47)そうです、彼女の多くの罪は赦されたのでよけいに愛することができたのです。少ししか赦されない者は少ししか愛せません。私たちは主にどれだけ赦されたのか、どれだけ愛されたのかによって、互いに愛し合うことができるのです。それが互いに愛する原動力となります。ですから、私たちは互いの兄弟愛の足りなさを指摘する前に、もう一度、すべての愛の出発点であるこの神の愛から謙虚に学ばなければなりません。
それにしても、テサロニケの教会は受けるだけで満足する教会ではありませんでした。受けて、その満ちあふれる喜びが、惜しみなく施す富となってあふれ出ていたのです。そんなテサロニケの教会に対してパウロは、この兄弟愛については、もう何も書き送る必要はないと言いました。彼らに必要なのは、ますますそうであるようにということだったのです。私たちは時として自分のこととか、自分の教会のことにしか目がいかず、その枠の中での献金や奉仕で満足しがちですが、このマケドニヤの諸教会、テサロニケの教会のように、自分たちのことだけでなく、他者のことも顧みて、喜んでささげていく、そんな群れにさせていただきたいとものです。今日でも、まだ小さな群れであるにもかかわらず、海外宣教や対外援助に重荷を持って積極的にささげている教会の姿を見ることがありますが、そのような信仰の姿を見ると本当に励ましを受けます。私たちは、そのような教会になりたいと願っています。激しい戦いや極度の貧しさにもかかわらず、主に救われた喜びがあふれ出て、それが惜しみなく施す富となっていく教会、聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に願う教会、そんな教会になりたいのです。来週も錦秋湖のキャンプ場からキャンプラリーブリでお越しになられますが、最大級のおもてなしをさせていただきたいと思うのです。また、先日もウォーク・ウィズ・ジーザスが行われましたが、そんなささやかなおもてなしが、彼らのこころとからだをいやすために用いられたとしたら、どんなに幸いかと思うのです。何よりも、誰よりも、そうした交わりの恵みに預かりたいと願い、祈り、ささげ、労する人たちが一番大きな恵みを受けるのではないでしょうか。私はそう思うのです。そして、この愛のわざは、これで十分ということはありません。「どうか、さらにますますそうであってください」とあるように、ますますそうありたいと願います。
11節と12節には、「11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」とあります。互いに愛し合うことと、落ち着いた生活を志すこと、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働くことに、いったいどんな関係があるというのでしょうか?当時、このテサロニケの教会の中には、主の再臨について間違って理解している人たちがいました。確かに主はすぐにやって来ると言われましたが、だったら何をしたってむだだ、もう働く必要なんてないと、仕事を放棄している人たちがいたのです。しかしそれは極端な再臨の理解であり、不健全な信仰にほかなりません。落ち着いた生活を志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働いてこそ、主が来られるのを真剣に待ち望む者の姿なのです。
なぜなら、そのように自分の仕事に身を入れ、自分の手で働くことによって、外部の人々に対して良い証となるからです。また、自分にとっても乏しいことがなくなるからです。クリスチャンだと言いながら仕事が適当であったり、さぼりがちであったりしたら、まわりにいる人たちに対してあまりいい証にはなりません。クリスチャンだからといって学業をいい加減にしたり、さぼったりしていたら、それを見たまわりの人が「すばらしい」とか、「かっこいい」なんて言って、キリスト教の偉大さに心打たれることなどないでしょう。自分に与えられた仕事に身を入れ、人がやりたくないようなことでも熱心にやったりすることで、外部の人たちに対してもりっぱにふるまうことができるのです。
いったいなぜこんなことを書く必要があったのでしょうか。それはクリスチャンの中で互いに愛し合うということを間違って理解している人たちがいたからです。私たちの中にはどこか、この兄弟愛の意味をはき違えているところがあります。むやみに人を援助するだけでは、それが相手にとって本当の助けにはならないもあるのです。Ⅱテサロニケ3章8節には、テサロニケの教会に、人のパンをただで食べる人がいたことが指摘されていますが、ということは、教会内にそれを許している人たちがいたということです。もちろん、いろいろな事情があって働きたくても働けない人もいるでしょう。病気でからだが動かない人もおられます。そのような方々に対してはむしろ積極的に援助すべきです。しかし、そうでいない人たちに対しては、つまり、働けるのにそうしない人たちには、ただでパンをあげるということはふさわしくありません。それは決して兄弟愛でも何でもないのです。むしろ、その人をだめにしてしまいます。そのような人に必要なことは、自分の手で働くということです。そのことを教え、そのために援助すべきなのです。パウロは、健全な兄弟愛とは他の人を自立した生活へと導くことでもあるということを伝えたかったのです。
私たちはどうでしょうか。聖さにおいても、兄弟愛においても、神のみこころにかなった者となっているでしょうか。もしそうであるなら、さらにますますそうであるように求めていきましょう。もしそうでないなら、悔い改めて、神のみこころに歩めるように、ご聖霊の恵みに信頼したいと思います。あの姦淫の現場で捕えられ、イエス様のもとに連れて来られた女性に対して、主はこう言われました。「あなたを罪に定める人はいなかったのですか。わたしも、あなたを罪に定めない。今からは決して罪を犯してはなりません。」それは私たちに対する言葉でもあります。私たちも過去においては失敗や過ち、罪を犯して神のみこころにかなわない者であったかもしれません。兄弟愛についても、互いに愛し合うことよりも、人をさばくことがあったかもしれません。けれども、神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。その召しにふさわしく歩めるように、イエス様がいつも祈っていてくださいます。その祈りに答えて、神が喜ばれるような歩みを、歩もうではありませんか。ますますそのように歩もうではありませんか。私たちはそのために召されたのですから。