民数記13章

きょうは民数記13章から学びます。これはイスラエルの歴史の中で最も悲しい出来事の一つが記されてあるところです。それは彼らが約束の地に入ることができなくなった原因となった出来事です。このことによってイスラエルは荒野を40年間もさまよわなければなりませんでした。それは彼らの不信仰が原因でした。いったいなぜ彼らは不信仰に陥ってしまったのでしょうか。きょうは13章からそのことについて確認していきたいと思います。

1.  約束の地への派遣(1-24)

まず1節から24節までを見ていきましょう。まず1節から16節までをお読みします。

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」3 モーセはの命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。4 彼らの名は次のとおりであった。ルベン部族からはザクルの子シャムア。5 シメオン部族からはホリの子シャファテ。6 ユダ部族からはエフネの子カレブ。7 イッサカル部族からはヨセフの子イグアル。8 エフライム部族からはヌンの子ホセア。9 ベニヤミン部族からはラフの子パルティ。10 ゼブルン部族からはソディの子ガディエル。11 ヨセフ部族、すなわちマナセ部族からはスシの子ガディ。12 ダン部族からはゲマリの子アミエル。13 アシェル部族からはミカエルの子セトル。14 ナフタリ部族からはボフシの子ナフビ。15 ガド部族からはマキの子ゲウエル。16 以上は、モーセがその地を探らせるために遣わした者の名であった。そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。」

主はモーセに、人々を遣わして、主がイスラエル人に与えようとしているカナンの地を下がらせるようにと命じられました。いったいなぜ主はこのようなことを命じられたのでしょうか。ここで申命記1章19節から23節までをお開きください。

「19 私たちの神、が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。
20 そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。21 見よ。あなたの神、は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。22 すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう」と言った。23 私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。」

このところを見ると、これは主がそのように命じたというよりも、イスラエルの民からの申し出であったことがわかります。彼らがパランの荒野のカデシュ・バルネアまで来たとき、主はモーセを通して「上れ。占領せよ。」と言ったのに、彼らは、その前に人を遣わして、その地を探らせてくださいと言ったのです。それでモーセは、そのことは彼にとっても良いことだと思われたので、各部族からひとりずつ、十二人を取って遣わしました。いったいなぜ彼らはその地を探らせようとしたのでしょうか。不安があったからです。自分たちに占領できるだろうか、自分たちの力で大丈夫かどうかと、その可能性を探ろうとしたのです。

それにしても、なぜ神はそのことを許されたのでしょうか。モーセはなぜそのことが良いことだと思われたのでしょうか。なぜなら、神の意図は別のところにあったからです。あとでヨシュアとカレブがこの偵察によって、ますます元気づいて、この地を占領しようと奮い立ちますが、神はそのために偵察することは良いことだと思われたのです。すなわち、その地をどのように占領すべきかを知るために、その準備として、先に人をやって偵察させようとしたのです。

それなのに、イスラエルの民の思惑は違っていました。彼らはその地を偵察して、自分たちの能力で彼らに勝利することができるかどうかを知ろうとして人を遣わしたかったのです。ですから、そこには大きな違いがあったことがわかります。

さて、彼らが遣わしたのは、イスラエル人のかしらたちでした。民数記1章にも、軍務につくことができる者たちが軍団ごとに数えられ、そのかしらたちが登録されていますが、ここに記録されているかしらたちとは異なる人たちです。それはおそらく、スパイ行為というかなり危険で、体力を使う特殊な任務であったため、比較的若い人が用いられたからではないかと思われます。

そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。ヨシュアは、モーセによって名づけられた名前でした。その前は「ホセア」という名前で、意味は「救い」です。そしてヨシュアは「ヤハウェは救い」あるいは「主は救い」となります。このギリシヤ語名が、「イエス」なのです。つまり、ヨシュアは、単に人々を救い出す人物ではなく、全人類を罪から救い出すところのイエス・キリストを、あらかじめ指し示す人物であったということです。

2.  エシュコルの谷(17-24)

次に17節から24節までをご覧ください。

「17 モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブに入り、山地に行って、18 その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。19 また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか、彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。20 土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。21 そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。22 彼らは上って行ってネゲブに入り、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。23 彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが人ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。24 イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。」

モーセは、綿密にその土地と住民を調べてくるように指示しました。その地はどのような地形になっているか、そこに住んでいる民は強いか弱いか、あるいは多いか少ないか。その地質はどうなっているのか。また彼らが住んでいる町々は宿営の町なのか、それとも、外敵から守るための城壁があるのか。また、土壌はどうなっているか。作物を得るのに、適しているのかいないのか。肥えているか、やせているか、そして、みなを元気づけるために、そこのくだものを取ってきなさい、というものです。かなり綿密に調べるように命じました。

そこで彼らは上って行って、その地を偵察しました。偵察隊は、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブに至るまでの地をゆきめぐりました。レボ・ハマテというのは、ダマスコよりもさらにはるか北にあり、ユーフラテス川の近くまで来ています。神さまが約束された土地の北端になっている町です。カナンの地の領土の広がりについては、34章1~12節に詳しく語られていますが、それは現在のイスラエルのほぼ全領土と、レバノン、シリヤ南部までを含んでいます。かなり広い領域を偵察しました。おそらく、12人が皆一緒に行動したというよりは、それぞれが分担の地域に分かれて偵察したのでしょう。

またここにはネゲブからヘブロンへとさりげなく書かれてはいますが、そこは彼らにとっては重要な歴史的スポットでした。ネゲブは神がアブラハムに現れたところであり、ヘブロンには、アブラハム、サラ、イサク、リベカ、レア、ヤコブが葬られた墓所がありました。しかしそこにはアナクの子孫が住んでいました。彼らは巨人のように体が大きく、ちょうどダビデが対峙したゴリアテのようでした。

しかし、そこは乳と蜜の流れる地であり、豊かないのちをもたらす土地でした。彼らはエシュコルの谷までやって来たとき、そこで、ぶどう一房ついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかつぎました。これはイスラエル政府観光局のシンボルになっています。イスラエルに観光に行くと、必ず見るマークの一つです。それはこの地が豊かないのちをもたらす土地であることを表しています。

3.報告(25-33)

さて、その地の偵察から帰って来たスパイたちは、どんな報告をもたらしたでしょうか。最後に25節から33節を見てください。

「25 四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。26 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」」

四十日経って、彼らはその地の偵察から帰ってきました。これが後に、イスラエルが荒地で放浪する期間として定められた40年の根拠となります。彼らは偵察から帰ってくると、パランの荒野のカデシュ・バルネアにいたモーセとアロン、そしてイスラエルの全会衆のところに行き、その地で取ったくだものを見せて、自分たちが見たとおりのことを話しました。それは、その地は豊かな土地であるけれども、その地の住民は力強く、町々には城壁が張り巡らせてあり、そこにはアナクの子孫がいたということです。そればかりか、ネゲブの地方にはアマレク人が、山地にはヘテ人、エモリ人が住んでいるというものでした。

これは事実でした。彼らは自分たちが見たとおりのことを報告したのですからいいのですが、ここからが問題です。この調査をどのように受けとめ、そして、それにどのように対処していくかということです。31節をご覧ください。彼らはこの現実にこう結論しました。

「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」

ここで彼らは、自分たちと敵とを比べました。これが問題です。彼らは神ご自身と敵を比較したのではなく、自分自身と敵を比較しました。このようにもし自分と敵とを比較すると、そこには恐れ以外の何ものも生じることはありません。そしてその結論はゆがめられたものなってしまいます。彼らは自分たちが探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらしました。そこには非常に大きく、力強い民がいて、とてもじゃないが、勝てる相手ではない。彼らに比べたら、自分たちはいなごのように小さく、何の力もない者であるかのようだと言ったのです。彼らは心に植え付けられた恐れによって、物事を誇大解釈してしまったのです。

それに対してヨシュアとカレブはどうだったでしょうか。彼らの見方は違いました。30節には、そのような恐れにさいなまれた他のスパイのことばをさえぎり、こう言いました。

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

いったいこの違いは何でしょうか。同じものを見ても、その捉え方は全く違います。他のスパイたちは、そこには大きく、強い民がいるから上って行くことはできないと言ったのに対して、カレブは、「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。」と言ったのです。いったいこの違いは何なのか。

これは信仰によるか、そうでないかの違いです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1)目に見えるものを信じ、それによって判断することは信仰ではありません。信仰とは目に見えるものがどうであっても、神が言われることを聞き、それに従うことです。そのみことばに基づいて、目に見えないものに対処する、これが信仰なのです。単に主がおられることを信じ、遠くにある約束を信じているだけではなく、実際に自分の前に立ちはだかる現実に対して、神ご自身とそのみことばを当てはめるのです。カレブはそのことを行なったのです。これは無謀とは違います。無謀とは、神が語っていないのに自分で勝手にそう思い込むことです。自分で、むりやりに、「これを信じます。信じます!」と言い聞かせるのです。しかし、信仰は違います。信仰は無理に言い聞かせることではなく、神が仰せになられことを信じることなのです。たとえ目に見えないことでも、たとえ、人間的には難しいことであっても。

特に、このような能力を神から与えられた人たちがいます。それを「信仰の賜物」と言います。神が与えてくださった賜物によって、人には不可能と思えることでも信仰によって信じることができるような能力を、御霊によって与えられているのです。自然にそのように信じることができ、必ずこのことは起こると確信することができます。この賜物を受け取るには、「自分が」ではなく、「神が」という姿勢が必要です。自分ができるかどうか、ではなく、神が何をなしてくださっているのかに目を留めなければなりません。

私たちのうちには、このカレブのような人も、また10人のイスラエルのスパイのような人も存在します。信仰によって、戦いの中に入っていくことができるときもあれば、恐れ退くときもあります。御霊によって、「これはきっとできる。」と思って前に進むこともあれば、思いもよらなかなった攻撃や試練によって、「これ以上前に進んだら、自分がだめになってしまう。」と思って、退いてしまうときがあります。しかし、私たちが、乳と蜜の流れる地に入りたいと思うなら、信じなければなりません。信じて、前進するしかないのです。たとえ現実的には難しいかのようであっても、主がそのように言われるのなら、そのように前進しなければならないのです。

ヘブル書には、「私たちは恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブル10::39)」とあります。恐れ退いて、悲しみ、嘆き、さまよう人生ではなく、神が与えてくださった豊かないのちを受けるために、信じて前進していく者でありたいと思います。

Ⅰテモテ3章1~13「監督、執事にふさわしい人」

きょうは、Ⅰテモテ3章から「監督、執事にふさわしい人」というタイトルでお話します。1章で語ったことを受けてパウロは、教会においてクリスチャンはどうあるべきなのかを、2章から述べています。まず初めに、すべての人のために祈りなさい、ということでした。なぜなら、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからです。そして次にパウロは、男女の役割について教えました。男は怒ったり言い争ったりすることなく、きよい手をあげて祈るように、また、女はつつましい身なりで、静かにしているようにということでした。

その流れの中できょうのところでは、教会を治める人たちについて語られます。監督、長老、牧師、執事にふさしい人はどのような人であるかということです。それは、教会の秩序が保たれるために最も重要なポイントだと言えるでしょう。しかし、それは教会のリーダーだけに求められていることではなく、私たちクリスチャンすべてに求められていることでもあります。なぜなら、神は私たちすべてのクリスチャンがそのような働きをすることを願っておられるからです。これはすべてのクリスチャンに対する神のみこころであり、とりわけ、教会のリーダーたちに求められていることなのです。

Ⅰ.監督にふさわしい人(1-7)

それではまず、1節から7節までをご覧ください。1節をお読みします。

「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です。」

「監督」とは文字通り「監督をする」という意味で、教会の監督をする人のことです。教会の牧師、教師、長老、伝道者など、教会の指導をする人たちのことです。いわば神の家の管理者のことです。どの集まりや組織にもその群れ全体をまとめるリーダーの存在がありますが、それが立つか倒れるかはほとんどの場合そのリーダーの腕にかかっていると言っても過言ではありません。ですから、それだけ責任が重いのです。しかし、ここには、「それはすばらしい仕事をもとめることである」ということばは真実です、とあります。それは牧師、教師だけでなく、すべてのクリスチャンに求められていることだからです。すべての人が監督になるわけではありませんが、そのような仕事を求めることはすばらしいことなのです。

では、監督にふさわしい人とはどのような人でしょうか。2節から7節までをご覧ください。

「2 ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、3 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。5 ―自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう―6 また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。」

ここには、監督の資質として15の項目があげられています。まず「非難されるところがない」ということです。これは罪を犯したことがない完璧な人ということではありません。この言葉は元来「捕まえられない、取り上げられない」という意味で、まずいことをしてしっぽをつまれるようなことをしていない人という意味です。一般的に見ても非難されない、とがめられるようなことをしていない人ということです。

次は、「ひとりの妻の夫であり」ということです。当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、当時は、当たり前ではありませんでした。パウロの時代、一夫多妻制というか、妻の他に妾(めかけ)をもっていることが当たり前のことだったのです。男は、最低妾を3人は持てと言われていました。一人は話し相手のために、もうひとりは性的欲求を満たすため、そしてもうひとりは子どもを生んで育てるためにです。そうした背景にあってパウロは明確に一人でなければならないと言ったのです。これは当時としては画期的なことだったのです。

これは監督や牧師は必ずしも結婚していなければならないということではありません。独身でも問題ではありませんでした。しかし、妻を持つなら一人でなければならなかったのです。

自分を制しとは、正気であるとか、酒に酔っていないということですが、感情面で安定していることです。教会にはいろいろな問題が起こりますが、そうした問題があっても動揺したり、押しつぶされたりしないで、主にあって心の平安をいただき、常にバランスをもって対処することが求められたのです。

慎み深くとは、思慮深くとか、分別があるということです。この点に欠けると、教会はとんでもない方向に行ってしまうことがあります。みことばによって絶えず主から知恵をいただき、判断と決断をしていかなければなりません。

品位がありとは、ふるまいや態度においてたしなみがあり、礼儀正しいということです。坂東真理子さんが書いた「女性の品格」という本の中には、たとえば、約束をきちんと守るとか、長い人間関係を大切にする。敬語はきちんと使う。乱暴な言葉・ネガティブな言葉を使わない。流行に飛びつかない。姿勢は正しくする。良い客になる。値段でモノを買わない。思い出の品を大事にする。もてはやされている人に摺り寄らない。利害関係の無い人にも丁寧に接する。怒りをすぐ顔に出さない。不遇な人にも礼を尽くす。聞き上手になる。プライバシーを詮索しない。友人知人の悪口を言わない。といったことが挙げられています。こうしたことは全て、社会人として守るべきマナーですが、特に、教会の牧師、監督に求められることでした。

次は、よくもてなすということです。これは、お客さんをよくもてなすこと、お客さんだけでなく外国の人々や他の人々を率先して受け入れ、親切にして、愛を示すことです。人をもてなすには時間もお金も労力もかかりますが、だからこそ、そこには人々に対する敬愛の情がよく表れるのです。監督は、ことばだけで人を治めることはできません。もてなしの態度に現れるような思いやりが求められるのです。私たちも、外国の方々や新しく来られた方々を温かく歓迎し、心からもてなす教会になりたいと思います。

次は、教える能力があるということです。これだけが唯一、技術的に求められていることです。他はすべて人格的なことや性質的なことに関することですが、これだけが技術的なことに関することです。なぜなら、監督や牧師は、これがないとやっていけないからです。もちろん、教える能力があっても他の面で欠けていると問題になりますが、しかし、他の面でどんなに優れていても教える能力がないと治めることはではないのです。監督は真理のみことばをまっすぐに説き明かす者でなければならないからです。

そして、次は酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲であるということです。この五つのことは一つのまとまりとして考えることができます。同じような内容が別の表現で語られています。「酒飲み」とは「酒におぼれる」という意味で、習慣的な飲酒を指しています。酒は気ちがい水と言って、人を気ちがいにする水だと言われていますが、酒が原因で起こる悲劇は後を絶ちません。酒は理性や分別を失わせてしまうのです。酒飲みの指導者が本当に良い政治をした例があるでしょうか。箴言には、マサの王レムエルの母が、自分の息子に次のように教えました。箴言31章4,5節です。

「4 レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ」とは、君子の言うことではない。5 酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。」

それは賢明な戒めでしょう。神の家の管理者は酒飲みではなく、御霊に満たされることが求めなければならないからです。

暴力をふるわずとは、説明がいらないでしょう。殴る、蹴る、乱暴を働くという意味です。このようなことは神の家の牧者としてふさわしいことではありません。

温和でとは、思いやりがあり、優しく、柔和であることです。性格が落ち着いているということです。これは監督だけでなく、すべてのクリスチャンに求められている徳性でもあります。

争わずとは、文字通りけんか好きではない、論争好きではないということです。

そして金銭に無欲であるということです。これは、金銭を愛さないということです。なぜなら、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(6:10)これは牧師や監督だけでなく、すべてのクリスチャンに言えることですが、クリスチャンは金銭のことについては割り切って主にゆだねるべきなのです。

そしてここには、「自分の家庭をよく治め」とあります。またここには、十分な威厳をもって子どもを従わせているという条件が付け加えられています。なぜこのような条件があげられているのでしょうか。それは、これが監督者としての管理能力や指導力をチェックするポイントになるからです。「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」とあるとおりです。本当に厳しい条件です。私は牧師になって31年になりますが、いつもこのことで悩みました。時には、神の教会のために自分の家庭を犠牲にすることがあるからです。本当に家族には申し訳なかったと思います。しかし、何よりも優先しなければならないことは自分自身の家族です。自分の家庭を治めることを知らない人がどうして神の教会の世話をすることができるでしょう。できないのです。そういう意味では、私などは牧師としては失格者で、穴があったら入りたいくらいです。もちろん、神様が一番ですが、次は自分の家庭です。そして、教会であり、仕事でありというのがクリスチャンの優先順序です。もちろん、時には仕事が優先したり、教会が優先したりすることもありますが、基本的には家庭は教会や仕事よりも優先されなければならないことなのです。社会の最小単位である家庭を治めることができなければ、多種多様な人々で占められた神の家族である教会を治めることはできないからです。

そしてここには、「信者になったばかりの人ではいけません」とあります。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。「信者になったばかり」とは、まだ信仰生活の知識や経験が少ないということです。指導者にとって、知識や経験がどんなに重要であるかは言うまでもありません。経験がないと、自分のやっていることについて見えなくなり、自己満足に陥りやすくなり、高慢になりやくなるからです。その結果、悪魔と同じさばきを受けることになります。暁の子、明けの明星である天使の長が堕落したのは、このことが原因でした。彼は、「神のようになろう」と高ぶって、自分の領域を守りませんでした。その結果、神は彼をよみに落とされ、穴の底に落とされたのです。信者になったばかりの人が、教会において治める働きをすることは、霊的にも自分自身が高められることだと勘違いして高ぶってしまうことになりかねないのです。しかし、パウロのように主を知れば知るほど自分の足りなさ、罪深さ、至らなさを知るようになれば、すべてにおいて神の恵みとあわれみを求めるようになります。彼は神を知れば知るほど、「わたしは罪人のかしらです」と告白するようになりました。それこそが教会の監督者に求められていることなのです。

これは、若い人が牧会者なることはできないということではありません。テモテ自身も若かったし、古くは旧約の預言者エレミヤも若くして神の召しを受けました。肉の年齢のことではなく、信仰の経験のことを言っているのです。

牧師、監督に求められている最後の条件は、教会外の人々にも評判の良い人でなければならないということです。これは、監督になる人は、その地域においても評判が良くなければならないということです。もし評判が悪い人だと、「そしりを受け、悪魔のわなに陥る」ことになりかねないからです。これはどういうことかというと、世間の人々は、教会に無関心なようでも案外よく見ておられるということです。そして牧師や伝道者、あるいは信者にちょっとでもまずいことがあると、それを大げさに取りざたにするのです。しかし、いつでも悪いことだけを取りざたにしているわけではありません。良いことをすると「やっぱりクリスチャンは違うな」とか、「あの人はクリスチャンだから」と言われることも少なくありません。ですから、クリスチャンは地域社会から遊離するのではなく、かえって正しい評判を得て人々に良い影響を与えるように努めなければならないのです。

以上が、監督の資質、あるいは条件です。ここに挙げられた条件をよく見ると、そのほとんどが人格的なことに関することであって霊的、信仰的なことではないのがわかります。たとえば、「よく聖書を読み、祈る人」とか、「神を第一にしている人」といったことは挙げられていないのです。それはいったいどうしてでしょうか。おそらくそれは当然のこととして考えられていたからでしょう。そうした前提の上で、このようなことが求められていたのであって、そうしたことがどうでもいいということではないのです。おそらく、これはエペソの教会で問題になっていた点に焦点を絞っていたからかもしれません。霊的であればこうしたことはどうでもいいということではなく、教会の指導者たる者はこうしたことも含めてしっかりしていることが求められていたのです。それは、聖書に正しく従っていればその人の人柄や実際の生活の中にきわめて現実的に現れてくるものなのです。

Ⅱ.執事としてふさわしい人(8-12)

次に、執事の資質について見ていきたいと思います。8節から12節までをご覧ください。まず8節から10節までをお読みします。

「8 執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、9 きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。10 まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。」

8節からは執事の資格について述べられています。「執事」とは原語では「ディアコヌス」で、意味は、「仕える者」とか、「給仕する者」です。いわゆるしもべを指すことばです。奴隷のように仕える人たちのことなのです。新約聖書では、使徒の働き6章に最初に出てきます。そこにはギリシャ語を使うユダヤ人たちとヘブル語を使うユダヤ人たちとの間に起こった毎日の配給に関する問題を処理するために、七人の弟子たちが選ばれました。この七人の弟子たちのことです。彼らは、使徒たちはもっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことができるように、いわば教会の実務にあたったのです。つまり、執事というのは、監督、長老、牧師といった教会の指導者がその第一の務めである祈りとみことばに励むことができるように、補助的な働きをして彼らを助けたのです。一般に考えられている名誉職とは違います。しもべのように仕える人、それが執事です。こうした執事も神の教会の管理に携わるわけですので、パウロはここでこうした執事の資格を述べているのです。使徒の働きでは彼らの資格として、「信仰と聖霊とに満ちた人たち」が選ばれましたが、ここではもっと具体的に語られています。

それはまず謹厳で、二枚舌を使わず、大酒のみでなく、不正な利をむさぼらないということです。謹厳とは何でしょうか。謹厳とは尊敬と信頼に値するということです。つまり、誠実で、まじめであるということです。誠実で、真面目で、信頼に値する人こそ執事にふさわしい人です。

二枚舌を使わずとは、相手によって言うことを変えないということです。こっちの人にはこう言って、あっちの人にはこう言ってと、人によって言い方を変えることを二枚舌と言います。舌が二枚あるわけです。これは執事としてふさわしくありません。なぜなら、互いの間の信頼を損なわせ、混乱を生じさせることになるからです。信徒とじかに接することが多い立場として、執事には慎重な舌の使い方が求められるのです。

次に、大酒のみでなく、とあります。この点については監督と同じです。しかし、監督は「酒飲みでなく」とあったのに対して、執事には「大酒飲みでなく」とあることから、ある人は、監督には一切お酒を飲むことが禁じられているが執事はちょっとなら飲んでもいいと解釈する人がいますが、そういうことではありません。お酒を飲むのは酔うためであって、そこには放蕩があります。そのことによって引き起こす悲劇は後を絶ちません。そのようなものをいったい何のために飲む必要があるのでしょうか。これはお酒の量の問題ではなく、お酒によってもたらされる悲劇に対する忠告なのです。そのようなお酒をいったい何のために飲まなければならないのでしょうか。健康のために、少量のぶどう酒を飲むというのならわかりますが、あるいは、美味しいお料理のために調味料として使うというのならわかりますが、それ以外、酔うこと以外お酒を飲む目的がわかりません。飲んではならないということではありませんが、飲む必要がありません。

次に、不正の利をむさぼらずとあります。これはお金にクリーンな人であるという意味です。執事の仕事には金銭を取り扱うこともあったため、欲とむさぼりに気を付けるということは非常に大切なことでした。

そして、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。きよい奥義とは、神が啓示してくださったキリスト教の正しい真理のことです。つまり、正しい聖書の教えのことです。執事の働きはどちらかというと経済的なことや物質的な面といった実務的なことが中心ですが、そうした実務的な働きにあっても、それが正しい聖書の教理と信仰に立ってなされなければなりません。ですから、最初の執事たちが選ばれた時の第一の条件は、「信仰と聖霊に満ちた人」だったのです。これは立派な霊的な奉仕なのです。

12節をご覧ください。ここには、「執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」とあります。執事にも結婚生活と家庭生活の健全さが求められているのです。執事も神の家の管理に携わるので、本質的には監督に求められていることと同じだからです。

さて、11節をご覧ください。ここには、「執事の妻も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」とあります。この「婦人執事」ということばには※がついていて、下の欄外の説明を見ると、「執事の妻」とあります。これは「婦人執事」のことなのか、「執事の妻」のことなのかはっきりわからないのです。というのは、原語ではただの「女」とか「妻」となっているからです。新改訳聖書が「婦人執事」と訳したのは、前後の文脈で執事のことが述べられているので、おそらくこれは婦人執事のことだろうと考えてのことです。しかし、2章で語られてきたことの流れからみると、そうかなぁと疑問を感じます。というのは、2章のところでパウロは、女は静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい、とあるからです。女が教えたり男を支配したりすることは許しません、とあるからです。その女性が監督、執事といった教会の指導者たちの中に出てくるというのはちょっと合わないような気がするのは私だけでしょうか。そういう意味では「執事の妻」と訳した方が全体的な流れにも合致するように感じます。英語の聖書も、wives(RSV)とかtheir wives(NIV)と、執事の妻として訳しています。ですから、たとえこれが「婦人執事」であったとしても、すでに2章で学んだように、男性執事をサポートする立場としての婦人執事であり、執事である夫や教会の指導者に仕えるふさわしい助け手としてであることを忘れてはなりません。アメリカの教会には「decons」(執事たち)と呼ばれる人たちと「deaconess」(婦人執事たち)という人たちがいる教会があると聞いていますが、それはとても聖書的ではないかと思います。なぜなら、あくまでも執事は男性であっても、その執事や教会の指導者たちを助ける働きが必要だからです。それを婦人執事と呼ぶか、執事の妻たちと呼ぶか、婦人たちと呼ぶかは違いますが、そのような助け手が必要なのは確かなのです。

では、そのような人たちに求められていることはどんなことでしょうか?ここには、「威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」とあります。それは執事に求められていることと同じことです。なぜなら、悪口は人間関係を損ない、お互いの信頼関係を台無しにしてしまうからです。また女性の場合は、特に感情的になると自分を制することができなくなって互いに気まずくなってしまうことがあるからです。また、忠実でない気まぐれな奉仕も、教会員に不安を与えてしまう恐れがあるからです。

しかし、もしこうした婦人たちの「女らしさ」という賜物がきよめられ、用いられることによって、男性には及びもつかないほどの信仰の美しさが加えられ、それが教会形成においても多大な貢献をなすことができるということを思うとき、こうした女性の働きが必要不可欠なものであるというだけでなく、そうした働きが補い合って、すばらしいキリストのからだである教会が立て上げられていくことがわかります。女性の人たちが目指す姿がここに描かれているのです。

Ⅲ.執事の務めをりっぱに果たした人は・・(13)

最後に13節を見て終わりたいと思います。ここには、こうした務めをりっぱに果たした人には、どのような祝福がもたらされるかが約束されています。

「というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。」

「良い地位を占め」とは、教会の中でも信頼され、尊敬される人になるということです。また「信仰について強い確信を持つことができる」とは、こうした執事の働きを通して信仰とは何か、福音とは何かということをますます知ることができるようになり、さらに大胆に信仰に歩めるようになるということです。そうした祝福が約束されているのです。これはやってみないとわからないことです。やってみるとその大変さに打ちのめされそうになることもありますが、それと同時にこうした霊的な祝福も味わうことができるというのは、本当にすばらしい特権ではないでしょうか。

ですから、このような仕事を求めることは、すばらしい仕事を求めることなのです。それはすべてのクリスチャンに求められていることでもあります。すべてのクリスチャンがこうした仕事につけるようにと、祈り求めていかなければなりません。格別に、そのような仕事が与えられた人は、その与えられた任務を嫌々ながら、しぶしぶと、適当にやってはいけないのです。尊い主の御用としてりっぱに勤め上げ、神に喜ばれるように忠実に果たしていかなければなりません。

ところで、このように監督、執事、婦人執事の資質を学んできますと、ある一つの疑問が生じてきます。それは、いったいこのような資格に適合する人などいるのだろうかということです。残念ながら、答えはノーです。だれもいません。聖書の要求を満たすりっぱな人など一人もいないのです。また、クリスチャンになったからといってこのような人間になれるわけでもありません。むしろ、あのイザヤが神から預言者としての召命を受けた時のように、「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」(イザヤ6:5)と絶望せざるを得ない者なのです。しかし、そうした現実にもかかわらず、このような資格が求められているというのはそういう人でないとだめだということではなく、それは第一に祈りのためであり、第二に牧師、監督、執事、そしてすべてのクリスチャンにとって、これが真の努力目標であり、成長の目標であるということなのです。

ではいったいどうしたらこの目標に達することができるのでしょうか。Ⅱコリント3章18節にはこうあります。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

皆さん、これは御霊なる主の働きによるのです。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに帰られていくのです。それはまさに、御霊なる主の働きなのです。ですから、今の自分を見たら「だめだ~」となりますが、御霊なる主に信頼し、みことばに聞き従って日々歩んでいくなら、主がそのような卑しい私たちを、主と同じ姿に変えてくださるのです。

よくこんな広告を目にすることがあります。「タクシー運転手募集!第一種免許証可、第二種免許証取得を目指します」ご存じのようにタクシーを運転するには第二種運転免許が必要ですが、第一種免許があればいいですよという広告です。なぜなら、実際に働いている中で第二種免許の資格取得を目指すからです。

これは私たちの信仰にも言えることです。私たちにはそんな資格などありませんが、しかし、私たちの主なる神は、ご自分の召し出される人にその資格を取得させないはずがありません。必ずそのようにしてくださるのです。なぜなら、私たちの資格は神からのものだからです。ですから、この神に信頼し、そのような者となれるように、神のふところに飛び込んでいきたいと思うのです。そして信仰について強い確信を持ち、さらに大胆に信仰に歩ませていだたきましょう。