きょうは民数記13章から学びます。これはイスラエルの歴史の中で最も悲しい出来事の一つが記されてあるところです。それは彼らが約束の地に入ることができなくなった原因となった出来事です。このことによってイスラエルは荒野を40年間もさまよわなければなりませんでした。それは彼らの不信仰が原因でした。いったいなぜ彼らは不信仰に陥ってしまったのでしょうか。きょうは13章からそのことについて確認していきたいと思います。
1. 約束の地への派遣(1-24)
まず1節から24節までを見ていきましょう。まず1節から16節までをお読みします。
「1 主はモーセに告げて仰せられた。2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」3 モーセは主の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。4 彼らの名は次のとおりであった。ルベン部族からはザクルの子シャムア。5 シメオン部族からはホリの子シャファテ。6 ユダ部族からはエフネの子カレブ。7 イッサカル部族からはヨセフの子イグアル。8 エフライム部族からはヌンの子ホセア。9 ベニヤミン部族からはラフの子パルティ。10 ゼブルン部族からはソディの子ガディエル。11 ヨセフ部族、すなわちマナセ部族からはスシの子ガディ。12 ダン部族からはゲマリの子アミエル。13 アシェル部族からはミカエルの子セトル。14 ナフタリ部族からはボフシの子ナフビ。15 ガド部族からはマキの子ゲウエル。16 以上は、モーセがその地を探らせるために遣わした者の名であった。そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。」
主はモーセに、人々を遣わして、主がイスラエル人に与えようとしているカナンの地を下がらせるようにと命じられました。いったいなぜ主はこのようなことを命じられたのでしょうか。ここで申命記1章19節から23節までをお開きください。
「19 私たちの神、主が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。
20 そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。21 見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。22 すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう」と言った。23 私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。」
このところを見ると、これは主がそのように命じたというよりも、イスラエルの民からの申し出であったことがわかります。彼らがパランの荒野のカデシュ・バルネアまで来たとき、主はモーセを通して「上れ。占領せよ。」と言ったのに、彼らは、その前に人を遣わして、その地を探らせてくださいと言ったのです。それでモーセは、そのことは彼にとっても良いことだと思われたので、各部族からひとりずつ、十二人を取って遣わしました。いったいなぜ彼らはその地を探らせようとしたのでしょうか。不安があったからです。自分たちに占領できるだろうか、自分たちの力で大丈夫かどうかと、その可能性を探ろうとしたのです。
それにしても、なぜ神はそのことを許されたのでしょうか。モーセはなぜそのことが良いことだと思われたのでしょうか。なぜなら、神の意図は別のところにあったからです。あとでヨシュアとカレブがこの偵察によって、ますます元気づいて、この地を占領しようと奮い立ちますが、神はそのために偵察することは良いことだと思われたのです。すなわち、その地をどのように占領すべきかを知るために、その準備として、先に人をやって偵察させようとしたのです。
それなのに、イスラエルの民の思惑は違っていました。彼らはその地を偵察して、自分たちの能力で彼らに勝利することができるかどうかを知ろうとして人を遣わしたかったのです。ですから、そこには大きな違いがあったことがわかります。
さて、彼らが遣わしたのは、イスラエル人のかしらたちでした。民数記1章にも、軍務につくことができる者たちが軍団ごとに数えられ、そのかしらたちが登録されていますが、ここに記録されているかしらたちとは異なる人たちです。それはおそらく、スパイ行為というかなり危険で、体力を使う特殊な任務であったため、比較的若い人が用いられたからではないかと思われます。
そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。ヨシュアは、モーセによって名づけられた名前でした。その前は「ホセア」という名前で、意味は「救い」です。そしてヨシュアは「ヤハウェは救い」あるいは「主は救い」となります。このギリシヤ語名が、「イエス」なのです。つまり、ヨシュアは、単に人々を救い出す人物ではなく、全人類を罪から救い出すところのイエス・キリストを、あらかじめ指し示す人物であったということです。
2. エシュコルの谷(17-24)
次に17節から24節までをご覧ください。
「17 モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブに入り、山地に行って、18 その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。19 また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか、彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。20 土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。21 そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。22 彼らは上って行ってネゲブに入り、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。23 彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが人ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。24 イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。」
モーセは、綿密にその土地と住民を調べてくるように指示しました。その地はどのような地形になっているか、そこに住んでいる民は強いか弱いか、あるいは多いか少ないか。その地質はどうなっているのか。また彼らが住んでいる町々は宿営の町なのか、それとも、外敵から守るための城壁があるのか。また、土壌はどうなっているか。作物を得るのに、適しているのかいないのか。肥えているか、やせているか、そして、みなを元気づけるために、そこのくだものを取ってきなさい、というものです。かなり綿密に調べるように命じました。
そこで彼らは上って行って、その地を偵察しました。偵察隊は、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブに至るまでの地をゆきめぐりました。レボ・ハマテというのは、ダマスコよりもさらにはるか北にあり、ユーフラテス川の近くまで来ています。神さまが約束された土地の北端になっている町です。カナンの地の領土の広がりについては、34章1~12節に詳しく語られていますが、それは現在のイスラエルのほぼ全領土と、レバノン、シリヤ南部までを含んでいます。かなり広い領域を偵察しました。おそらく、12人が皆一緒に行動したというよりは、それぞれが分担の地域に分かれて偵察したのでしょう。
またここにはネゲブからヘブロンへとさりげなく書かれてはいますが、そこは彼らにとっては重要な歴史的スポットでした。ネゲブは神がアブラハムに現れたところであり、ヘブロンには、アブラハム、サラ、イサク、リベカ、レア、ヤコブが葬られた墓所がありました。しかしそこにはアナクの子孫が住んでいました。彼らは巨人のように体が大きく、ちょうどダビデが対峙したゴリアテのようでした。
しかし、そこは乳と蜜の流れる地であり、豊かないのちをもたらす土地でした。彼らはエシュコルの谷までやって来たとき、そこで、ぶどう一房ついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかつぎました。これはイスラエル政府観光局のシンボルになっています。イスラエルに観光に行くと、必ず見るマークの一つです。それはこの地が豊かないのちをもたらす土地であることを表しています。
3.報告(25-33)
さて、その地の偵察から帰って来たスパイたちは、どんな報告をもたらしたでしょうか。最後に25節から33節を見てください。
「25 四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。26 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」」
四十日経って、彼らはその地の偵察から帰ってきました。これが後に、イスラエルが荒地で放浪する期間として定められた40年の根拠となります。彼らは偵察から帰ってくると、パランの荒野のカデシュ・バルネアにいたモーセとアロン、そしてイスラエルの全会衆のところに行き、その地で取ったくだものを見せて、自分たちが見たとおりのことを話しました。それは、その地は豊かな土地であるけれども、その地の住民は力強く、町々には城壁が張り巡らせてあり、そこにはアナクの子孫がいたということです。そればかりか、ネゲブの地方にはアマレク人が、山地にはヘテ人、エモリ人が住んでいるというものでした。
これは事実でした。彼らは自分たちが見たとおりのことを報告したのですからいいのですが、ここからが問題です。この調査をどのように受けとめ、そして、それにどのように対処していくかということです。31節をご覧ください。彼らはこの現実にこう結論しました。
「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
ここで彼らは、自分たちと敵とを比べました。これが問題です。彼らは神ご自身と敵を比較したのではなく、自分自身と敵を比較しました。このようにもし自分と敵とを比較すると、そこには恐れ以外の何ものも生じることはありません。そしてその結論はゆがめられたものなってしまいます。彼らは自分たちが探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらしました。そこには非常に大きく、力強い民がいて、とてもじゃないが、勝てる相手ではない。彼らに比べたら、自分たちはいなごのように小さく、何の力もない者であるかのようだと言ったのです。彼らは心に植え付けられた恐れによって、物事を誇大解釈してしまったのです。
それに対してヨシュアとカレブはどうだったでしょうか。彼らの見方は違いました。30節には、そのような恐れにさいなまれた他のスパイのことばをさえぎり、こう言いました。
「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
いったいこの違いは何でしょうか。同じものを見ても、その捉え方は全く違います。他のスパイたちは、そこには大きく、強い民がいるから上って行くことはできないと言ったのに対して、カレブは、「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。」と言ったのです。いったいこの違いは何なのか。
これは信仰によるか、そうでないかの違いです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1)目に見えるものを信じ、それによって判断することは信仰ではありません。信仰とは目に見えるものがどうであっても、神が言われることを聞き、それに従うことです。そのみことばに基づいて、目に見えないものに対処する、これが信仰なのです。単に主がおられることを信じ、遠くにある約束を信じているだけではなく、実際に自分の前に立ちはだかる現実に対して、神ご自身とそのみことばを当てはめるのです。カレブはそのことを行なったのです。これは無謀とは違います。無謀とは、神が語っていないのに自分で勝手にそう思い込むことです。自分で、むりやりに、「これを信じます。信じます!」と言い聞かせるのです。しかし、信仰は違います。信仰は無理に言い聞かせることではなく、神が仰せになられことを信じることなのです。たとえ目に見えないことでも、たとえ、人間的には難しいことであっても。
特に、このような能力を神から与えられた人たちがいます。それを「信仰の賜物」と言います。神が与えてくださった賜物によって、人には不可能と思えることでも信仰によって信じることができるような能力を、御霊によって与えられているのです。自然にそのように信じることができ、必ずこのことは起こると確信することができます。この賜物を受け取るには、「自分が」ではなく、「神が」という姿勢が必要です。自分ができるかどうか、ではなく、神が何をなしてくださっているのかに目を留めなければなりません。
私たちのうちには、このカレブのような人も、また10人のイスラエルのスパイのような人も存在します。信仰によって、戦いの中に入っていくことができるときもあれば、恐れ退くときもあります。御霊によって、「これはきっとできる。」と思って前に進むこともあれば、思いもよらなかなった攻撃や試練によって、「これ以上前に進んだら、自分がだめになってしまう。」と思って、退いてしまうときがあります。しかし、私たちが、乳と蜜の流れる地に入りたいと思うなら、信じなければなりません。信じて、前進するしかないのです。たとえ現実的には難しいかのようであっても、主がそのように言われるのなら、そのように前進しなければならないのです。
ヘブル書には、「私たちは恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブル10::39)」とあります。恐れ退いて、悲しみ、嘆き、さまよう人生ではなく、神が与えてくださった豊かないのちを受けるために、信じて前進していく者でありたいと思います。