Ⅱテモテ4章6~8節 「走るべき道のりを走り終え」

きょうは、第二テモテ4章6~8節の箇所から、「走るべき道のりを走り終え」というタイトルでお話したいと思います。この手紙はパウロが書いた最後の手紙です。その最後のところでパウロがテモテに命じたことは、「みことばを宣べ伝えなさい」ということでした。「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」そのようにして、自分の務めを全うしなければなりません。

きょうの箇所には、パウロがそれをどのように果たしたのかを語っています。きょうはこのパウロの生き方を通して、私たちも自分に与えられた務めを十分に果たしたいと思います。

Ⅰ.私が世を去る時(6)

まず6節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。

「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」

ここでパウロは現在、過去、未来の三つの観点から自分の生涯を振り返っています。まず現在です。パウロは自分が今置かれている状況をよく理解していました。それは、もうすぐ打ち首にされるということです。そのことを彼は、「今や注ぎの供え物となります」と表現しています。

「注ぎの供え物」という表現はあまり聞かない言葉ですが、これは旧約聖書の中で自分を神様にささげるときに使われた表現です。その時には動物のいけにえとともに、ぶどう酒による注ぎの供え物を祭壇に注ぎました。それは神への香りのささげものです。パウロはもうすぐ死ぬことが決まっていましたが、それはこの注ぎの供え物だと言っているのです。どういうことでしょうか。

ローマ人への手紙12章1節にはこうあります。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ここには、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」とあります。なぜでしょうか?「そういうわけですから」です。つまり、人はみな生まれながらに罪人であり、神の御怒りを受けるべき者でしたが、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださったからです。神はこのキリストの上に私たちのすべての罪咎を負わせ十字架で死んでくださいました。そのことによって私たちのすべての罪を贖ってくださいました。だから、だれでもイエスを信じるなら救われるのです。それは私たちの行いによるのではありません。神からの賜物です。私たちは、この神の恵みのゆえに、信仰によって救われました。

「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23,24)

そういうわけだからです。そのようにあなたは神の一方的な恵みによって罪から救い出されたのですから、あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなければならないのです。

パウロはそのように生きました。そのことを彼はガラテヤ書2章20節でこう言っています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

彼は救い主イエス・キリストを信じたとき、古い自分に死に、キリストにあって生きると決めました。彼がこの世にあって生きているのは自分の喜びや満足のためではなく、自分を愛し、自分のために命までもお捨てになられた神の御子を信じる信仰によってでした。彼は自分のすべてを主に全くささげたのです。これ献身と言います。献身とはこのように神のために生かされていることを覚え、神にすべてをささげ、神のために生きることです。クリスチャンはみなそのように告白したはずです。献身こそ、私たちが神様に対してなすべき最も基本的な行為であり、最も大切な行為です。これがなかったら何も始まりませんし、何の変化も生まれてきません。私は神様によって贖われた者であり、神様のために生かされている者ですから、そのすべてはあなたのものであり、あなたにささげますという献身があるからこそ、私たちは神様のみこころにかなった歩みをすることができるのです。

アメリカの有名な伝道者D・L・ムーディは、ある時神の迫りを感じて、その献金皿が回ってきたとき、その上に、「D・L・ムーディ」と書いた紙切れを置いたと言われています。彼は、自分自身のすべてをささげたいという思いになったのでしょう。わたしのすべてをささげますと、そのように書いたのです。もう献金の皿の中に横になりたい気持ちだったのでしょう。私たちの献金袋は袋ですから、その中にもぐりこみたいという気持ちでしょうか。もぐりこむか、横になるかは別にしても、私たちのからだをささげるとはそういうことなのです。

パウロはそのように生きました。彼は自分の全生涯を神にささげたのです。そして今その生涯の最後の時を迎えようとしていました。そのように生きたパウロにとってふさわしい最後とはどのようなものだったのでしょうか。それは同じように注ぎの供え物となるということでした。彼にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益でした。彼の存在そのものが、香ばしい香としての神への注ぎの供え物だったのです。私たちもパウロのように、自分自身を神への注ぎの供え物としてささげ、神の栄光のために生き、また神の栄光のために死ぬ者でありたいと思います。

ところで、パウロは死をどのように受け止めていたのでしょうか。パウロはここで、「私が世を去る時はすでに来ました。」と言っています。この「去る」ということばは、農夫が一日の仕事を終えた牛やろばからくびきを外す時に使われた言葉です。一日の仕事を終えた牛さんに、「お疲れさん」と言ってそれから解放してあげる時に使われた言葉なのです。また、船が錨をあげて出航するときにも使われました。ともづなを「解く」という意味です。さらに、旅人がテントをたたんで次の目的地に向かう時にも使われました。テントのロープを緩めたり、解いたりする時に使われたのです。すなわち、パウロにとって世を去る時というのは、そうした労苦から解放され、主のみもとに凱旋すること、輝ける天の御国へ出発するときであると理解していたのです。

皆さんは「死」をどのように受け止めておられるでしょうか?一般的な日本人にとって死は悲しく不幸なものであり、忌むべきものです。なぜなら、すべてが終わってしまうからです。自分の存在が消えて無くなってしまうと思えばそれは悲しいことですが、パウロはそのようにはとらえていませんでした。パウロにとって死は肉体という地上のテントをたたんで、天にある家で永遠に住むために出発する時だったのです。だからそれは悲しいことではなく、むしろ喜びの時であり、感謝の時、希望の時だったのです。

皆さんはどうでしょうか。皆さんは死をどのように受け止めておられるでしょうか。これは100パーセント、だれもが経験することです。いわば私たちの生は死に向かって歩んでいるのです。その死に対する備えがなかったら、それほど恐ろしいことはないでしょう。なぜなら、私たちはそこで永遠を過ごすのですから・・・。そして、パウロはその死とは何なのかを、聖霊によってはっきり知っていました。それは永遠への入り口であるということを。救い主イエスを信じるものは、天国で永遠に過ごすのです。この地上のすべての労苦から解き放たれて自由になり、栄光の天の御国で神とともに永遠に生きるのです。それゆえに、死を恐れる必要はありません。たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れなくてもいいのです。

先日、Fさんが78歳のこの地上の生涯を終えて天に帰られました。召される2週間前に病室を訪問したとき、彼女は「死ぬのが怖い」と言われました。ずっと前から教会に来てはいましたがイエス様を信じるには至りませんでした。しかし、今年2月にお見舞いに行ったとき、「イエス様を信じてください」と勧めたら、「はい」と素直に信じて洗礼を受けました。あれから4か月、なかなかお会いすることができず久しぶりの再会となりましたが、そこでイエス様の約束の言葉を読みました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)Fさんはこの言葉を信じました。すると翌週訪問したとき「どうですか」と尋ねると、「苦しいですが、平安はあります。」とお答えになられました。苦しいですが、平安があります。それは死に勝利されたイエス・キリストが与えてくださる天国の確かな希望だったのです。イエスを信じる人には、この平安と希望が与えられるのです。あなたもイエス様を信じてください。そして、苦しみの中にもある確かな平安をいただいていただきたいと思います。

Ⅱ.走るべき道のりを走り終え(7)

次にパウロの過去を振り返ってみたいと思います。7節をご覧ください。ここにはパウロの過去がどのようなものであったかが要約されています。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」 彼は立派なボクサーのように信仰の戦いを勇敢に戦い、また、目標を目指して走るアスリートのように、走るべき道のりを走り終えました。

ピリピ3章13節と14節を見ると、そこにはこうあります。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えていません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」

これはテモテへの手紙が書かれる数年前に書かれたものですが、その時にはまだゴールしていませんでした。彼は、神の栄冠を目指して一心に走っていました。しかしここでは違います。ここでパウロは、「走るべき道のりを走り終えた」と言っています。また、信仰を守り通したとも言っています。これはただ単に自分の信仰を最後まで貫いたというよりも、ゆだねられた神のことばである福音を偽りの教師たちと戦って、最後までその真理を守り通したということです。

このようなパウロの確信は、何か凱歌のように私たちの胸に響いてきます。私たちもパウロのように凱歌の詩を歌いながら、永遠の御国に帰って行けるように、日ごとのわざに励もうではありませんか。信仰の生涯で最も難しいのはその終わり方です。始めることは易しいことですが、それを最後まで全うすることは並大抵のことではありません。いったいどうしたら最後まで信仰の戦いを戦い抜くことができるのでしょうか。

パウロは、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」と言いました。ここにその答えがあります。彼はキリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して走りました。彼は今自分を取り巻いている現実がどれほど困難なものであるのかを見ていませんでした。彼が見ていたのは、やがてもたらされる神の栄冠がどれほどすばらしいものであるのかを見て、それを目指して走ったのです。そういう期待感でいっぱいでした。だから今を乗り越えることができたのです。

これが現実の困難を乗り越える大きな鍵です。もし目の前の困難ばかりを見ていたら、その重圧に押しつぶされてしまうでしょう。しかし、その先にある栄光を見るなら、それがどんな困難であっても必ず耐えることができるのです

このことについてパウロはすでに2章でキリスト・イエスのりっぱな兵士のたとえをもって語りました。また、アスリートにもたらされる栄冠のたとえによっても語りました。そして、労苦した農夫にもたらされる収穫のたとえによっても語りました。「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある」( 詩篇30:5)のです。この喜びに目をとめるべきです。そうすれば、信仰の戦いを勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、最後まで信仰を守り通すことができるのです。

Ⅲ.義の栄冠(8)

では、やがてもたらされる栄光とはどのようなものなのでしょうか。8節をご覧ください。

「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」

ここでパウロは、「今からは、義の栄冠が私のために用意されているのです。」と言っています。彼は、義の栄冠を受けることを確信していました。義の栄冠とは何でしょうか?それは、イエス・キリストを信じる者すべてに与えられる永遠のいのちことです。パウロの生きた時代、運動競技の勝利者には月桂樹の冠やオリーブの花輪が与えられましたが、それと同じように、イエス・キリストを信じ、最後までその信仰を守り通した人には「義の冠」が与えられるのです。これは先週お話したキリストのさばきとは違います。キリストのさばきとは、イエス・キリストを信じた者がこの地上で成したことに対する評価のことでしたが、この「義の冠」は、イエス・キリストを信じるすべての人にもたらされる栄光です。ヤコブ1章12節には「いのちの冠」と表現されていますが、それと同じものです。また、Ⅰペテロ5章4節には「しぼむことのない栄光の冠」とありますが、それとも同じものです。これはパウロだけでなく、彼と同じようにイエスを信じ、全身全霊をもってイエスに従い、イエス・キリストの再臨を待ち望んでいるすべての人にもたらされる栄冠です。私たちはやがてこの栄冠を受けるのです。

これはテモテにとってどれほど大きな励ましであったことでしょう。しかし、それはテモテばかりでなく、パウロと同じように最後まで信仰を守り通したすべての人に約束されていることです。やがて将来においてこのような義の栄冠が与えられるという約束は、今を生きる私たちにとって大きな力になるのです。

織田信長や豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名、高山右近(1552~1615年)が年内にも、マザー・テレサらと並ぶカトリック教徒の崇敬の対象である「福者(ふくしゃ)」としてローマ法王庁から認定されることになりました。高山右近は12歳で洗礼を受け、高槻城主時代の領民のうち約7割がキリスト教徒だったとされます。秀吉の側近、黒田官兵衛らに入信を勧めるなど、布教活動にも熱心でした。しかし、秀吉からのキリスト教を棄てるようにとの命令を受けそれを拒否したことから地位や領地を失い国外追放となりましたが、それでも信仰を捨てませんでした。彼は、「信仰のため国を追われた殉教者」となったのです。それが評価されて福者として認定されることになったのですが、福者として認定されるかどうかは別にしても、彼にはそれにふさわしい義の冠が用意されていることでしょう。彼は走るべき道のりを走り終え、最後まで信仰を守り通したからです。

ベルギーのダミアン神父もそうでした。ダミアン神父は、ハワイのモロカイ島でハンセン病患者を救うためにその生涯をささげました。当時ハンセン病は不治の病で伝染性が強いとされていたので、患者は家族から引き離され、モロカイ島に送り込まれていました。絶望的な患者で満ちていたこの島は、悲惨な様相を呈していました。そこへダミアン神父が単身でやって来たのです。彼は患者の心の友となり、伝道者、医師、裁判官、測量士、葬儀屋、墓堀りとして働きました。16年間に千六百人もの人々を葬り、千個の棺を自分の手で作りました。初めは冷たい目で彼を見ていた人々も、次第にダミアンの愛と偉大さがわかってきて、彼のことばを聞くようになって行きました。晩年、彼もハンセン病になりました。1889年4月15日朝8時、ダミアンは48年のこの地上の生涯を終えて天に召されました。死に臨んだ彼のことばが記録されています。「何もかも、持てる限りを与え尽くした私は幸福者である。今は貧しくて死んでゆく。自分自身の物と名の付くものは何もない。ああ何と幸福なことであろう。」

皆さん、どう思いますか。この地上の生涯を終えるとき、「私は幸福者だ」と言える人は本当に幸いではないでしょうか。人がその人生の最期に語る言葉というのは、その人の生きざまをよく表していると思います。最後に何を語るのかは、その人がどのように生きてきたのかということと深い関係があるからです。ダミアン神父のように、そしてパウロのように、「何もかも、持てる限りを与え尽くした私は幸福者である」と言えるような、また、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と言えるような、そんな生涯を全うさせていただこうではありませんか。今からでも決して遅くはありません。あなたがイエス・キリストを信じて、走るべき信仰の道のりを走り終えるなら、あなたにも栄光の義の冠が用意されているのです。

Ⅱテモテ4章1~5節 「みことばを宣べ伝えなさい」

きょうは、テモテ第二の手紙4章前半の箇所から、「みことばを宣べ伝えなさい」というテーマでお話します。これはパウロから弟子のテモテに、いや信仰によるわが子テモテに宛てて書かれた手紙です。この時パウロはローマの地下牢に捕えられていて、もう打ち首になることが決まっていました。そんなパウロがエペソの教会の牧会で疲れ果てていたテモテを励ますためにこの手紙を書いたわけですが、その最後の部分となります。自分がこの世を去って行く前に、父親として息子に残しておきたかった言葉とはいったい何だったのでしょうか。最後のことばですからとても重みのある、重要な言葉です。聖霊に動かされて書いたパウロの最後の言葉に、ご一緒に耳を傾けていきたいと思います。

Ⅰ.みことばを宣べ伝えなさい(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。

「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」

パウロがその生涯の終わりに、どうしてもテモテに伝えたかったことは、みことばを宣べ伝えなさいということでした。「みことばを宣べ伝える」とは、神のことば、キリストの救いのメッセージを人々に宣言し、伝達することです。この「宣べ伝える」ということばは、王がその国民に何らかの布告を出したとき、それを宣言し、伝達することを表すのに用いられました。ですから、「私はこう思います」とか、「私はこのように感じます」といった自分の意見や考えを述べることではなく、神が言われることをそのまま脚色なしで伝えることなのです。

なぜ、みことばを宣べ伝えなければならないのでしょうか。なぜなら、人は神のみことばによって救いに導かれるからです。そのことをパウロはすでに3章15節でこのように語りました。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」聖書は、あなたがキリストを信じるように、その救いに導いてくれるのです。

このことをペテロはこう言っています。Ⅰペテロ1章23~25節です。開いてみましょう。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。「人はみな草の花のようで、その栄は、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」

あなたがたに伝えられた福音のことばがこれです。あなたが新しく生まれるのは、とこしえに変わることのない神のことばによってであるということです。このみことばによってあなたは救われるのです。だから、この救いのみことばを宣べ伝えなければなりません。

そればかりではありません。そのように救いに導かれた人が霊的に成長し、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためにでもあります。そのことをパウロは3章16~17節でこう言いました。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

また、使徒の働き20章32節にはこうあります。「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」

何があなたがたを育成するのでしょうか。何がすべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのでしょうか。神のことばです。神のみことばはあなたがたを育成し、すべての聖なる人々の中にあって御国を継がせることができます。これ以外に私たちクリスチャンを霊的に成長させることはできません。だから私たちは神のことばを熱心に聞かなければならないのです。

ところで、第二テモテ4章に戻っていただきまして、1節を見ると、ここに、「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。」とあります。どういうことでしょうか。何度も申し上げておりますように、この時パウロはローマの地下牢に捕えられていました。彼は自分がもうすぐこの世を去り、神の御前に出ることを知っていたのです。そして、キリストのさばきの座に出ることを知っていました。キリストのさばきの座とは何でしょうか?これは黙示録20章11節にある白い御座のさばき、すなわち、キリストを信じなかった者にくだされる最後の審判のことではありません。これは第二コリント5章10節にあるキリストのさばきの座のことです。ちょっと開いてみましょう。Ⅱコリント5章10節です。

「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」

ここに「キリストのさばきの座」という言葉が出てきます。私たちはみな、このキリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになります。それがいつなのかというと、キリストの現れの時です。これはイエス・キリストの再臨の日のことです。このとき、私たちクリスチャンがみなさばきを受けます。このさばきは、天国に行くのか、地獄に行くのかというさばきのことではありません。なぜなら、クリスチャンはみな天国に行くことが決まっているからです。イエス・キリストはこう言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

ですから、あなたがイエス・キリストを信じているのなら、絶対に地獄に行くことはありません。もう死からいのちに移っているのです。必ず天国に行きます。

ここで言われているさばきとはキリストのさばきのことです。キリストが再臨するとき、クリスチャンはみな天に引き上げらます。まずキリストにあって死んだ人たちです。彼らは墓から出て栄光のからだによみがえり、キリストのもとに引き上げられるのです。次にキリストを信じて生き残っている人たちが、たちまち彼らと一緒に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。それがいつなのかはわかりません。それがいつなのかはわかりませんが、キリストが再臨される時キリストにあって死んだ人たちと生き残っている人たちはみな天に引き上げられ、空中で主イエスと会うのです。そのことを、ここでは「生きている人と死んだ人とをとばかれる」と表現されているのです。私たちはみな、キリストが再臨されるとき、そのさばきの座で、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に報いを受けるのです。ですからこの「さばきの座」というのは、その人が天国にふさわしいのか、地獄にふさわしいのかというさばきのことではなく、天国にふさわしい人が、与えられたその命や人生をどのように使ったのかを評価される時のことなのです。

皆さんは美人コンテストを見たことがありますか。あの美人コンテストに参加している人はみな美人です。あれは、美人かどうかを決めるコンテストではありません。みんな美人ですが、その中からその人の持っている特技とか内面性をアピールして、美人にふさわしい人を決めているコンテストなのです。この「キリストのさばきの座」もよく似ています。そこに集まっているのは、みんな「義人」です。みんに義とされた人たちなのです。ただそのクリスチャンたちが、与えられた永遠の命を、この地上でどのように使ったかのかを評価されるのです。

パウロはこのことを第一コリント3章で建物のたとえを用いてこう言っています。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(Ⅰコリント3:10-15)

土台はキリストです。この土台であるキリストの上にどのように建てるかについては注意しなければなりません。もし、だれかがこの土台の上に、それぞれ金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするからです。どのように明らかになるのでしょうか。金、銀、宝石で建てるなら永遠に残りますが、木、草、わらなどで建てますと、それらは火によって燃えてしまいます。この材料の違いは、私たちが何かをする時の動機です。すなわち、神の栄光のためにしたのか、自分の名誉のためにしたのか。神を喜ばすためにしたのか、ただ自分が喜びたいからしたのか。その動機が問われているのです。クリスチャンとして神を信じてから天に帰るまで、この地上で何一つ神に喜ばれることをしたことがない人でも、イエス・キリストを信じたら必ず天国に行きます。アーメン。天使が大喜びであなたを天国に迎え入れてくれるでしょう。しかし、もし何もしなかったという人がいるとしたら、その人はちょうど家が火事になった時に 火の中をくぐるようにして助かるようなものです。家財道具はすべて焼け、着の身着のままに焼け出され、顔はすすだらけの状態になりです。でもその人は助かったのです。助かるのと助からないのでは雲泥のちがいです。天国と地獄はまったく違います。ですから、助かったということはそれだけでものすごい恵みなのです。どんな形でも天国に入ることができれば、その人は人生の成功者です。でも、そのようにして助け出されるよりも、無傷で助け出された方がいいに決まっています。ですから、金や銀、宝石といった火に燃えないもので家を建てる必要があるのです。

アメリカのリック・C・ハワードという人が「キリストの裁きの御座」という本を書きました。彼はこの本の最後の方に、ウィリアム・ブースという人が見た幻を紹介しています。ウィリアム・ブースという人は、イギリス人で、救世軍というクリスチャンの世界的な組織を建て上げた人です。救世軍は、世界の貧しい人々のために、あるいは身寄りのない子供たちのために、救いの手を伸ばそう、という主旨で始まった大きなグループです。彼は小さな時に、人と比べて、自分はかなり熱心なクリスチャンだと思っていました。毎週、日曜日の礼拝は欠かしたことがなく、毎朝聖書は読むし、祈るし、そして教会でもたくさんの奉仕をしているから、自分はもう十分に、立派なクリスチャンだと思っていたそうです。そんな時に、神は天国の幻を見せてくださいました。彼が天国に着くと、神の御座の回りで多くの人々が行進していく幻を見たそうです。神の軍隊のように、勝利の凱旋の行列のように、多くの人々が、目の前を通って行きました。その行進している人の顔を見たら、ほんとうに喜びと栄光に輝いていました。この人たちはずらしいクリスチャンだということが一目でわかり、この人たちと自分を比べた時に、もし自分が天国に着いたら、この義を行列にはふさわしくないと感じました。自分はこの人たちほど神を愛していないことに気がついたのです。がっかりしている時に、イエス様が彼のところにやって来て、こうおっしゃったそうです。

「地上に戻りなさい。私はおまえにもう一度チャンスを与えます。自分が、わたしの名にふさわしい者であることを証明してきなさい。おまえがわたしの聖霊を帯びていることを、行いによって、この世の人々に示してあげなさい。そして、わたしの代理者として、人々を救いに導きなさい。その勝利の戦いを済ませて、再び戻って来なさい。そうすれば、お前も、わたしが勝ち取ったこれらの者たちの行列の中に加えてあげよう。」

こうして彼は天国の幻から帰ってきました。そして、彼はその後、神のために一生懸命に働きました。

何度も言いますように、ただ、イエス様を信じるだけで救われます。救われて、天国に行くことができます。それは神の一方的な恵みなのです。そのために神は私たちには何の行いも要求されません。でも、「ただ自分が救われて良かった」「ああ自分の家族も救われて良かった。もうこれでいい。あとは天国に行くのを待とう」「罪も赦されたし、平安だし、問題もそんなにないし、あとは天国を楽しみにして待っていよう」といって座り込んでいるのではなく、やがてキリストが再臨され、そのさばきの座で正しくさばかれるその時に、神からの栄冠を受けるために、私たちはどうあるべきなのかを考え、そのように生きるべきだとチャレンジしているのです。そして、それにふさわしい生き方とはどのようなものなのでしょうか。それは、「みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えずお家ながら、責め、戒め、また勧めなさい。」ということです。

これはテモテに対してばかりでなく、その後に続くすべてのクリスチャンにも命じられていることです。私たちは、みことばを宣べ伝えなければなりません。時がよくても悪くても、寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなければならないのです。

皆さん、今はどんな時ですか?良い時ですか?それとも悪い時でしょうか?テモテの時代は悪い時でした。外からはローマ皇帝ネロによる激しい迫害がありました。また、教会の内部にも違ったことを教えて混乱を引き起こす人たちもいました。みことばを宣べ伝えたくてもそれを妨げるさまざまな障害があったのです。しかし、そういう時でも、いやむしろそういう時だからこそ、しっかりとみことばを宣べ伝えなければなりません。なぜなら、みことばによって人は救いに導かれ、キリストが現れるその時に、神から正しい評価を受けることになるからです。そのみことばを伝えなければ、いったい人はどのようにしてそのことを知ることができるでしょうか。信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。その知らせを宣べ伝える人がいなければ、だれも聞くことができません。だからみことばを宣べ伝えなければなりません。時が良くても悪くても、寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなければならないのです。

Ⅱ.真理から耳をそむける時代(3-4)

なぜ、みことばを宣べ伝えなければならないのでしょうか。もう一つの理由が3節と4節にあります。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」

なぜ、みことばを宣べ伝えなければならないのでしょうか?積極的な意味では、それによって人々が救いに導かれ、霊的に成長していき、やがてキリストの現れの時に、正しくさばかれる神の御前で、その報いを受けるためですが、消極的な意味では、人々が健全な教えに耳を貸そうとしないからです。そういう時代がやって来ます。いや、もうすでにそのような時代が来ているのです。

このことについてパウロは前の章で、終わりの時代には、人々がどうなっていくのかについて語りました。その時に人々は「自分を愛する者」になります。世の終わりが近くなると、人々はまず自分を愛するようになるのです。神を愛するよりも自分を、隣人を愛するよりも自分を愛するようになるのです。不法がはびこるので愛が冷えてくるからです。牧師、伝道者が健全な教えを語っても、そういう話は聞きたくありません。なぜなら、そこには自分を捨てることが求められるからです。イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)と言われました。だれでもイエスについて行きたいと思うなら、自分を捨てことが求められます。もちろん、イエス様を信じたらその愛と恵みの大きさに感動し、喜んで自分を捨て神の道に従いたいと願うものですが、しかし、本質的に自己中心的な私たちは、このようなことを嫌がる傾向があるのです。健全な聖書の教えに耳をかしたくありません。そして、自分に都合の良いことを言ってもらう牧師や教師を次々に捜し歩き、自分たちのために寄せ集めるのです。すると真理ではなく、空想話にそれていくようになります。

だから、みことばを宣べ伝えなければなりません。そうした時代になっていくからこそ、真理のことばである神のことばをまっすぐに説き明かさなければならないのです。人がどう考え、どのように思い、何を言っているかではなく、神のことばである聖書は何と言っているのかを聞かなければならないからです。

Ⅲ.自分の務めを十分に果たしなさい(5)

ですから、結論としてはこうです。5節をご一緒読みましょう。

「しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

「しかし、あなたは」とは、これまでパウロが語ってきたように、終わりの日が近くなると、人々は健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理からそれて、空想話にそれて行くようになりますが、しかし、あなたは、です。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たさなければなりません。テモテに与えられた務めとは何でしょうか?みことばを宣べ伝えることです。テモテに伝道者としての力があったかどうかはわかりません。彼が力強い牧会者であったかどうかもわかりません。ただわかることは、みことばを宣べ伝えることが、彼に与えられた務めであったということです。そのために彼は召されたのです。その務めを十分に果たさなければなりませんでした。

それは私たちも同じです。私たちも自分たちに与えられた務めを十分に果たさなければなりません。皆さんはどうでしょうか。皆さんに与えられている務めとは何でしょうか。皆さんは、その務めを十分に果たしておられるでしょうか?

私はここに一冊の記念誌を持ってきました。これは保守バプテスト同盟の山形福音伝道隊65周年を記念してまとめられたものです。現在山形には約20の保守バプテスト同盟の教会がありますが、その最初は1948年に山形で宣教を開始したジョセフ・G・ミーコ宣教師ご夫妻の働きによるものが大きいのです。先生は「いちご伝道」といって、いちごが実を結ぶとき、実を結ぶ前に次のところにつるを伸ばして実を結ぶように、開拓伝道を始めたら、同時に次のところの準備も始め、同時に実を結ばせようとして、その結果、多く教会を生み出して行ったのです。先生は持病で1948年から10年後に一時帰国し、再び来られたのは1973年でした。そして帰国した1979年までの16年間に、本当に多くの教会を生み出していったのです。私が実践している開拓伝道はこのいちご伝道がモデルになっています。それにしても、戦後の混乱期にあって、しかも持病を抱えながら伝道することはどれほどのご苦労があったことかと思います。

このミーコ先生と一緒に働いたジョー・グーデンという宣教師が、ミーコ先生についてこのように語っています。「私はあの日のことを決して忘れない。山形盆地、そこに教会が一つもない沢山の町々村々があった。小高い山からそれらの村々を見ながら、彼は32か所を指さしていた。私がもっと彼に近づいてよく見ると、彼の目には涙が浮かんでいた。彼の声は震えて、「私はあの一つ一つの所に教会でも、聖書研究会でも、あればと願っている。ジョー、私と一緒に働いてくれないか。あなたと私は人柄も才能も違う。私にはあなたが必要なのだ。お互いに助け合えばきっとよい成果がある。どうか私と一緒に働きに来てください。」そして、ジョー・グーデン宣教師は彼のもとに来たのでした。そして、ミーコ先生の宣教の情熱、一人の魂に対する愛、ねばり強さ、若者の心をとらえたい心、主のためなら何でも平気だという図太い神経、そして、彼の重荷を見たのでした。

ミーコ先生は天に召されるまで日本に残された、まだ福音の伝わっていない地のことを思っていました。もう痛みも絶頂に達していたとき、その痛みをおして、彼の伝道を背負っている日本の牧師たちと話し合うために来日しましたが、来るたびに、これが最後にかもしれないと思われた中で、最後の教訓を残して成田から去って行かれたのでした。ミーコ先生は、自分に与えられた務めを十分に果たしました。今ごろ天国で義の栄冠を受け、主イエスからこのような報いを受けておられるでしょう。

「よくやった。良い忠実なしもべただ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

それはミーコ先生だけではありません。キリストのみことばに従って自分の務めを十分に果たしたすべてのクリスチャンにもたらされる約束でもあるのです。ここには、「自分の務めを十分に果たしなさい」とあります。それは途中であきらめるなという意味です。あきらめないで、最後まで走り続けなければなりません。神があなたにゆだねられた使命を果たし終えるまで、最後まで走り続けなければならないのです。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」「しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」これがこの世を去る直前にパウロがテモテにどうしても伝えたかったことであり、二千年の時を越えて、今もなお私たちに語り続けている命令なのです。お祈りしましょう。