Ⅱテモテ3章10~17節 「聖書は神のことば」

きょうは、Ⅱテモテ3章後半の箇所から、「聖書は神のことば」というタイトルでお話したいと思います。パウロは3章前半のところで、終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい、と勧めました。なぜなら、そのことを事前に知っているならたとえ困難な事態に直面しても落ち着いてそれに対処することができるからです。

そしてきょうの箇所には、そうした困難な時代の中でクリスチャンはどあるべきなのかについて教えています。困難な時代がやってくることを避けることはできませんが、しかし、そのような困難な状況の中にも堅く信仰に立つことができます。いったいどうしたらいいのでしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.良い模範を見ならう(10-12)

まず10節から12節までをご覧ください。

「しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついてきてくれました。何というひどい迫害にも私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」

終わりの日の困難な時代に私たちが信仰に堅く立つために必要な第一のことは、良い模範を見ならうということです。ここでパウロはテモテに対して、神のしもべとして歩んできた自分に、「よくついて来てくれました」と感謝しています。エペソの教会はパウロによって始められた教会です。最初のうちはキリストの愛に溢れ、宣教の情熱に燃えるすばらしい教会でしたが、パウロがエペソを去った後でだんだん雲行きが怪しくなってきました。狂暴な狼が入り込み、群れを荒らすようになったからです。聖書の教えとは違うことを主張したり、ああでもない、こうでもないと、自分を主張する人たちが出てきたのです。それは教会の中に癌のように広がり、ある人たちの信仰をくつがえしてしまうほどでしたが、しかし、テモテは、彼らとは違っていました。彼は、パウロの教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、そればかりか、アンテオケ、イコニオム、ルステラでパウロにふりかかった迫害や苦難にも、よくついて行きました。彼は最後までパウロの教えから離れることはありませんでした。その模範に見習ったのです。

皆さん、終わりの日にはこうした困難な時代がやってきますが、そうした中にあっても私たちは信仰に堅く立ち続けることができます。それは、信仰の良い模範を見習うことによってです。クリスチャンの歩む道は必ずしも孤独なものではありません。そこには信仰の先達者たちの良い模範が数多く残されているのです。たとえば、ヘブル12章1節にはこうあります。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

いったいどうしたら目の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けることができるのでしょうか。それは多くの証人たちが、雲のように私たちを取り囲んでいるからです。私たちだけでなく、私たちの先に生きた多くのクリスチャンたちも同じような経験をしながらも、忍耐をもって最後まで走り続けました。そのことを思うと励ましが与えられます。確かにテモテには困難がありましたが、しかしそうした中にあっても同じような困難を通ったパウロのそばにいて、パウロがどのように主に信頼しているのかを間近に見ながらその姿から学ぶことができたことは大きな恵みでした。

いったいテモテはパウロの何を見習ったのでしょうか。まずテモテが見習ったのはパウロの教えでした。パウロの教えは人から聞いたものではなく、主イエスから直接聞いたものでした。それはガラテヤ書1章11~20節のところで言われているとおりです。彼はクリスチャンを迫害するためにダマスコという町に向かっていた時、突然、天からまばゆいばかりの光を見ました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」それで彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、街に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」それで彼は目が見えませんでしたが、人々に手を引いてもらってダマスコに行き、そこで三日の間、目が見えず、また飲み食いもせず、神のみこころを待ち望みました。そこへアナニヤという弟子が現れて、彼がしなければならないことを告げるのです。それでパウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになり、ただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めました。ですから、パウロの教えはだれか他の人から聞いたことではなく、主ご自身から聞いた主の教えでした。テモテはその教えにとどまったのです。

いったいなぜ人は聖書が教えている主イエスの教えから外れてしまうのでしょうか。それは主イエスから聞いたことではなく、人から聞いたことや、だれか別の人が言ったことを鵜呑みにするからです。そうではなく、神のことばである聖書は何と言っているのかを聞かなければなりません。聖書は何と言っているのか、また、それはどういう意味なのか、そして、それは私の生活にとってどういうことなのか祈りながら適用しなければなりません。そうでなかったらいつまでも人の話に振り回されてしまい、それと違った考えや教えが入ってきてもどこが違うのかを判別することができず、惑わされてしまうことになります。

またテモテはパウロの教えばかりでなく、パウロの行動も見習いました。パウロの行動は、その教えと一致していました。彼は自分が語っているメッセージをその生涯で実証していたからです。主のために犠牲を惜しまずに伝道し、自らが華美で贅沢な暮らしを求めるようなことはしませんでした。自分が人から受ける以上のものを人に与えました。また、真理のためなら、自らのいのちを落とすことも厭いませんでした。彼は神と人に仕える僕だったのです。

またパウロの計画は、これは目的と言い換えたほうが良いかと思いますが、それはただ神の栄光を現すことでした。パウロはこう証しています。「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)パウロはこの地に福音が満たされ、救われる人たちが起こされることによって、神の栄光が現されることをひたすら願いました。彼の関心は自分が人から注目を浴びることではなく、自分の名声を得ることでもなく、ただ神の栄光が現されることでした。テモテはずっとパウロのそばにいてその姿を見ていました。パウロは自分に頼らないで、主に信頼していたのです。

そればかりでなく、パウロが反対する人たちがたくさんいる中でも、寛容な心をもって教えているのを見ていました。また迫害する人たちに対しても、神の愛をもって赦す姿、どんな困難な状況にあっても、じっと忍耐する姿をそばで見ていたのです。

パウロは11節でそのことを言っています。彼が福音のゆえに受けた迫害や苦難は、私たちの想像以上のものでした。ピシデヤのアンテオケではユダヤ人たちの激しいねたみによってその地方から追い出され、イコニオム、ルステラでも同様の迫害がありましたが、ルステラでは石打にされ、死んだと思われて捨てられたほどです。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。しかし、テモテが見たのはそれだけではありませんした。そうした激しい迫害や苦難にあっても、主はいっさいのことから救い出してくださったということも目の当たりにしていました。

ここでパウロは、主が迫害や苦難から救い出してくださったということを思い出しています。このように自分の過去を振り返る時、神がどのようなことをしてくださったのかを思い出すなら、今置かれている状況がどんなに苦しくても希望を持つことができます。この時パウロはローマの地下牢にいてこれを書いていましたが、この時には打ち首になることが決まっていました。そこにはもう何の希望もないかのようでしたが、そのような中にあっても彼は決してあきらめませんでした。主が必ず救ってくださるという希望を持っていたのです。どういうふうに救い出してくださるのかはわかりません。もしかしたらそれが延期になって事態が一変し、そこから奇跡的に逃れられるようになるのか、あるいは、かつてピリピの獄舎で経験したように、大地震が起こって救い出されるのか、どのようにして救い出されるのかはわかりませんが、神が必ず救い出してくださるという確信がありました。たとえそうでなくても、主は彼に最善のことをしてくださると信じていました。たとえ処刑されて命を失うようなことがあっても、それは主イエスのそばに行くということを意味しているので、それもまた喜ぶことができました。彼は迫害の中にあっても、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができたのです。

テモテはいつもパウロのそばにいて、そうしたパウロの姿をつぶさに見ながら、そこから学んでいました。彼にはそうした信仰の模範がありました。ですから、実際の困難な状況にあったとき、そのことを思い出して励まされ、忍耐することができたのです。

私たちも、時に困難に直面することがありますが、そのような時にはぜひこうした信仰の先達者たちの姿を思い出したいものです。そして、そこから励ましを受け、そうした困難の中にあっても目標に向かって前進していきたいと思うのです。

Ⅱ.神のことばにとどまる(13-15a)

困難な時代にあっても、私たちが信仰に堅く立つために必要な第二のことは、神のことばである聖書にとどまることです。13~15節前半までをご覧ください。ここには、「しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。」とあります。

終わりの日が近くなると、こうした「悪人」とか「詐欺師たち」と呼ばれる人たちが増えてきます。「悪人」とか「詐欺師たち」とは名ばかりのクリスチャンたちのことで、言っていることとやっていることが一致しない人たちのことです。口ではイエス様信じます!と言いながら、その主のことばに従って歩もうとしないのです。そういう人は信じているとは言っても行いによってそれを否定するので、信じていることにはならないのです。

主イエスはマタイの福音書の中で、「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う人者がみな天の御国に入るのではなく、無店におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)と言われました。終わりの日にはこういう人たちが多くなっていくのです。そして、こういう人たちはだましだまされながら、ますます悪に落ちて行くのです。

では、どうしたらいいのでしょうか。そのような現実の中でいったいどうやって信仰に堅く立ち続けることができるのでしょうか。聖書はこう言っています。14節です。「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」

いったいなぜこうした悪人や詐欺師たちにだまされるのでしょうか?それは、聖書を学ぼうとしないからです。聖書が何と言っているかということよりも、自分の考えや思いによって行動しようとするからです。ですから、そうした偽りの教えがやってきてもそれを正しく判別することができないので、その結果、振り回されてしまうのです。

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。勿論、この学んでというのは「聖書」のことです。「聖書」を学んで確信したところにとどまっていなければなりません。なぜなら、その聖書をだれから学んだのかをよく知っているからです。

テモテはだれから聖書を学んだのでしょうか。テモテの父親はギリシャ人で、母親はユダヤ人でした。でもテモテを信仰に育てたのは母親でした。なぜなら、ユダヤ人の誇りは、子供たちを幼い時から律法に基づいて教育し、訓練することだったからです。ユダヤ人は、律法が子供たちの魂にも精神にも深く印象づけられているので、自分の名前を忘れることはあっても律法は忘れないと言っています。そのようにテモテは幼い頃から母親から聖書を学んでいました。

テモテはそれを知らない人から聞いたのではありません。まして偽りの教師たちから聞いたのでもないのです。彼はそれを信頼できる人から学びました。ですから、それは信頼できる教えなのです。そしてそうした信頼できる教えは、必ず健全な信仰を生み出します。そしてそこにとどまっているなら、たとえ偽りの教えが入ってきても惑わされることはないのです。

Ⅲ.聖書の価値(15b-17)

では、テモテが幼いころから親しんできた聖書とはどのようなものなのでしょうか。15節の後半から17節までをご覧ください。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

ここでパウロは、聖書について四つの大切なことを語っています。第一に、聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるということです。これが、聖書が書かれた一番大きな目的です。聖書は単なる文学書や歴史書ではありません。聖書は、イエス・キリストによる救いを受けさせるために書かれたものなのです。

ヨハネの福音書20章31節には、「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」とあります。聖書が書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、そして、信じて、イエスの御名によっていのちを得るためなのです。ですから、どんなに聖書を読みその内容を知っていても、それによってイエスを信じなければ何の意味もありません。それは聖書読みの聖書知らずということになります。しかし、聖書は私たちがそれを読んで、イエスが神の子キリストであることを信じるために書かれたのです。この目的を理解してあなたが聖書を読むなら、あなたもキリスト・イエスを信じる信仰へと導かれ、永遠のいのちを得ることができるのです。

A.M.チャーギンは、「世界伝道における聖書」という本の中で、あるイギリスの小児科病院の看護婦長の話をしています。彼女の告白した話では、彼女は人生がくだらぬ、無意味なものだと思っていました。そして、彼女は人生の意味を見出すために、次から次に本を読みました。しかし、何の満足も得られなかったので、次に彼女は哲学書を苦労して読み始めました。しかし聖書を開こうとはしませんでした。彼女の友人が、ことこまかに、聖書がいかに偽りであって、真実性のないものであるのかを語っていたので、そう信じ込まされていたからです。しかし、ある日病室に訪問者がやって来て福音書の一冊を贈り物として残して行きました。その婦長はヨハネの福音書を読むようにと勧められていたので読んでみると、そこにはこう書かれてありました。「そこでピラトはイエスに行った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネの福音書18章37節)そして彼女は救い主を発見したのです。

この婦人は、聖書を読むまで真理がわかりませんでした。けれども、直ぐな心で聖書を読むなら、そこに驚くべきことが起こります。他のどんな本にもない救いの知恵がその中にあるからです。

第二のことは、聖書はすべて神の霊感によるものであるということです。ここには、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、」とあります。どういう意味でしょうか?それは、聖書は神の霊の息吹によって書かれたということです。聖書は40人の著者たちによって、約1600年の歳月をかけて書かれましたが、その内容をみると統一性があり、全体が見事に調和していることがわかります。バラバラではないのです。もしここにいる人たちがイエス・キリストというテーマで書いたとしたら、その内容はバラバラなものになってしまうでしょう。全く違う人たちが違った視点で書くからです。けれども、聖書は40人の著者たちによって書かれましたが、真の著者は神ご自身であって、神がそれぞれに聖霊によって語りかけ、聖霊は神の人を用いて神のみことばを書かせたので、そこには統一性や一貫性があるのです。それはちょうど法隆寺が聖徳太子によって立てられたのと同じです。実際には聖徳太子が建てたのではなく、宮大工職人によって建てられたものですが、それは聖徳太子の命によって建てられました。ですから、法隆寺は聖徳太子によって建てられたのです。同じように聖書も実際には40人もの人間によって書かれましたが、それを意図して書かせたのは神ご自身なのです。聖書が神のことばであるゆえんはここにあります。

いったい神はどのようにして彼らに書かせたのでしょうか。それは彼らが単なるインスピレーションやひらめきによって書いたというのではありません。またその人たちが意識を失って、手が勝手に動き出して書いたというのでもないのです。神が語られたことを、聖霊に動かされて人たちが書いたのです。そのことをⅡペテロ1章21節では、こう言っています。

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人とたちが、神からのことばを語ったのだからです。」

「預言」とは「聖書」のことです。聖書は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、神の聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。それゆえに聖書は神のことばであると言えるのです。しかも部分的にではありません。すべてです。聖書はすへて神の霊感による、神のことばなのです。

そして第三に、聖書は教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。聖書は、何が真理であり、何が悪であるかをしっかり教えてくれます。また、私たちの生活をまっすぐにし、正しいことを行う力を与えてくれるのです。

リック・ウォーレンの書いた「人生を変える力」という本の中に、南太平洋に浮かぶある島の人食い人種の話があります。その人はキリストを信じて聖書を読むようになりました。ある日、その人が大きなつぼのそばに座って聖書を読んでいると、ヘルメットをかぶった一人の文化人類学者が近寄って来て、「何をしているんだい」と尋ねました。その原住民が「聖書を読んでいるのです」と答えると、その文化人類学者は笑って言いました。「現代の文明人がその本を拒絶してきたことを知らないのかい?ウソのかたまり以外の何ものでもないさ。そんなものを読んで、自分の時間を無駄にしないほうがいい」すると、この人食い人種は、その文化人類学者の頭のてっぺんからつま先までゆっくり眺めた後で、こう言いました。「先生、もしこの本がなかったら、あなたは今頃このつぼの中ですよ。」神のみことばによって、その人食い人種の人生は見事に変えられたのです。このように聖書は、人を変える力があるのです。

もし本気で自分の人生を変えたいと願うなら、聖書に向かわなければなりません。聖書を読んで、そこから学び、ただ学ぶだけでなく暗記したり黙想して、それを自分の生活に適用しなければなりません。そうでなければ、信仰の成長を期待することはできないのです。

それは子供の成長と同じです。小さな子供はわがままで自己主張が強くて大変ですが、そういう子供を立派な大人に成長させたいと願うとき、いったい親はどうするでしょうか。まず何が正しくて、何が正しくないかを教えます。そして、それと違ったことをしたら「それは違う」と教えます。何度言っても聞かない時にはムチを使うかもしれませんね。そしてそれができるようにトレーニングします。同じように、神は私たちを子として扱っておられるので、私たちに教え、戒め、矯正し、義の訓練をされるのです。その道具が聖書なのです。生まれながらの人間は、自分のやり方を通そうとします。真理に従いたくないのです。自分の思うようにしたいのです。それを聖書では肉と言っています。肉は神のみこころに反します。しかし、聖書のことばに従うと成長し、霊的に成熟していくのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益なのです。

第四に、聖書は神の人が、すべての良い働きのためにふさわしく十分に整えます。Ⅰテモテ6章11節で、パウロはテモテを「神の人」と呼びましたが、ここではテモテに限らず、神のみことばを学び、それに従い、それによって支配された人たちを「神の人」と呼んでいます。そして神のことばは、そのような人たちがすべての良い働きのためにふさわしく十分に整えてくれるのです。聖書を学ぶ目的は、ただ聖書の教えを理解し、信仰を守るといった消極的なものだけでなく、みことばによって神の人が神のわざを行っていくという積極的な面で整えられるためでもあるのです。

有名なイギリスの説教者C・H・スポルジョンは、あるとき古くてボロボロになった聖書を手に入れました。普通に扱うと壊れてしまうので、彼は机の上にその聖書を置いて、慎重に1枚1枚開いて読まなければなりませんでした。毎日読んでいるうちに、ふと聖書の中に小さい穴があいているのに気が付きました。その穴は表紙から裏表紙までを貫いていました。それはシミという小さな虫の食った穴でした。シミという虫は銀色のむかでみたいなやつです。以来彼は、「神よ、どうぞ私をこのシミのようにしてください」と祈ったそうです。そして彼は、シミのように聖書の初めから終わりまで何度も何度も繰り返して読んだと言われています。そこに彼の奉仕の原動力の秘密を見るような気がします。

私たちも祈りましょう。「主よ、どうぞ私をシミのようにしてください。」と。聖書の最初から最後まで何度も読んで神の人に創り変えられ、良い働きのために備えられるようにと祈ろうではありませんか。

終わりの日が近くなると、偽りの教えがはびこり、困難な時代がやって来ますが、しかし、動じることはありません。永遠に変わることのない神のことばを握りしめ、そこに根を下ろすなら、どんな困難な中にも堅く立ち続けることができるのです。

Ⅱテモテ3章1~9節 「終わりの日には」

きょうは、「終わりの日には」というタイトルでお話をしたいと思います。パウロは、エペソの教会で牧会していたテモテを励ますために、困難に耐えるためにどうしたらよいかを語ってきました。そしてそのためにはまず、神が私たちに与えてくださったものがどのようなものかを思い出さなければなりません。神が与えってくださったものは、おくびょうの霊ではなく力と愛と慎みとの霊です。(1:7)このことを思い起こすなら力が与えられ奮い立つことができます。それから、イエス・キリストの恵みによって強くならなければなりません。それは兵士のようであり、またアスリートのようです。そして労苦して働く農夫のようです。確かに目の前には戦いがあり、労苦がありますが、その先にもたらされるのは勝利であり、栄光であり、収穫の分け前です。このことを知っていれば、困難の中にあっても強くなれるのです。

それからパウロは、ダビデの子孫であり、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい(2:7)と勧めました。私たちは決して孤独の戦いをしているわけではありません。そこにはいつもイエス様がおられ、イエス様の助けがあることを忘れてはなりません。

これらのことを人々に思い出さなければなりません。そして、聞いている人々を滅ぼすような無意味な話を避けなければなりません。そのような話は聞いている人々を滅ぼし、人々の信仰をくつがえしてしまいます。むしろ、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなければなりません。

そして今日の箇所では、特に終わりの日にはそうした俗悪な無駄話というか、信仰からそれていくような時代になることを警告しています。なぜなら、終わりの日にはどのようなことが起こるのかを前もって知っていると、それに備えることができるからです。

Ⅰ.困難な時代がやって来る(1)

まず1節をご覧ください。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。」

ここには、終わりの日には困難な時代がやって来る、とあります。いったい終わりの日とはいつのことなのでしょうか?ヘブル人への手紙1章1,2節にはこうあります。

「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」ここには、神の御子イエス・キリストがこの世に来られ、神のことばを語られた時を、終わり日と言っています。

また、ペテロはペンテコステの時に聖霊が下られたのを見て、驚き、あやしんでいた群集に、預言者ヨエルのことばを引用してこう言いました。使徒の働き2章16~21節です。「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』」

ですから、ヨエルが終わりの日に起こることとして預言したことは、ペンテコステにおいて成就したことがわかります。いや、もっと正確に言うなら、このペンテコステの時に成就しましたが、やがてもっと完全な形で成就するということです。ですから、終わりの日とはイエス様が最初にこの地上に来られた時に始まり、再び来られる時までのことを指しているということです。キリストが最初に来られた時は救い主として来られましたが、二度目に来られる時にはさばき主として来られます。そのときが終わりの時です。その時にはどんなに「時間よ、止まれ」と叫んでも、止まることはありません。終わりの時が来て、すべての人がさばかれるのです。

ですから、今は恵みの時、今は救いの日なのです。イエス様が最初に来て救いの御業を成し遂げられて天に昇られ、さばき主として再び来られるのを待っている時なのです。だれでもイエス・キリストを信じるなら救われます。救われて天の御国に入ることができるのです。過去においてどんなに大きな罪を犯した人でも、また、生まれた環境がどうであれ、もう自分なんか生きる価値もないと思えるような人でも、だれでも救われます。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

イエス・キリストを信じるなら、あなたも罪から救われて、新しい人生を始めることができるのです。今は恵みの時、今は救いの日です。ですから、この恵みの時にイエス・キリストを信じて救われてほしいと思います。やがて信じたくても信じることができない時がやってくるのですから。そして終わりの時がやって来ます。キリストが再びこの地上に来られるとき、彼を信じるすべての人は救われて永遠のいのちを頂き、そうでない人はさばかれます。永遠の滅びへと突き落とされるのです。そういうことがないように、あなたもイエスを信じて救われてください。今は、この終わりの日に限りなく近づいている時なのです。聖書の預言がことごとく成就し、主イエスがいつ来られてもおかしくないような、そういう時に生かされているのです。その恵みの時に、神の救いを受け入れていただきたいのです。

では、その終わりの日には、どんなことが起こるのでしょうか。ここには「困難な時代がやって来る」とあります。悲観的に聞こえるかもしれませんが、これが聖書の言っていることです。なぜ終わりが近づくと困難な時代になっていくのでしょうか。なぜなら、神はその後で新しい天と新しい地を創造されるからです。出産の前には産みの苦しみがあるように、新しい天と新しい地が創造される前にも苦しみがあります。それは産みの苦しみなのです。

この「困難」と訳された言葉は、マタイの福音書8章28節にある「狂暴」という言葉と同じ言葉です。イエスがガリラヤ湖の向こう岸のガダラ人の地に行くと、そこに悪霊につかれた人がふたり墓から出て来ました。彼らは墓場に住みついていました。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどでした。その「狂暴」と同じ言葉が使われているのです。ですから、世の終わりの時は、悪魔や悪霊が猛威を奮うときなのです。テモテへの手紙第一にもありましたね。後の時代には、ある人たちが惑わす霊と悪霊の教えとに心が奪われる・・と(4:1)。この時代は単に、悪いことが起こるというだけでなく、悪霊がはびこるのです。世界で起こっている事柄が、まさに悪魔的な様相を呈するのです。

パウロは、終わりの日にはこうした困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい、と言いました。なぜなら、そのような困難な時代がやって来るということを覚えているなら、それに備えることができるからです。パウロ自身も、彼の人生の終わりの日が、もう目の前に迫っていました。彼は何度も牢の中に入れられました。別に何か悪いことをしたからではありません。福音のために、良いことのために捕われていたわけです。この手紙を書いた時には打ち首になることが決まっていて、ローマの地下牢に閉じ込められていました。しかし、パウロの心は少しも萎えませんでした。むしろ希望を持っていました。そうした困難な中にあっても、牧会で苦しんでいたテモテを励ますことができたのです。なぜでしょうか?それは、終わりの日にはそうした困難な時代になるということをちゃんと知っていたからです。そして、そのような時代の中にあっても、イエス・キリストが再び来られ、彼を信じるすべての者たちに報いてくださると信じていたからです。ですからパウロは、そうした困難な時代にあっても勇気を失うことなく、苦難の中にあったテモテを励ますことができたのです。

皆さんはどうでしょうか。終わりの日には困難な時代がやって来ることを知っていましたか。日々突然襲って来る苦難に、「なんでこうなるの」と嘆いてはいないでしょうか。でも心配する必要はありません。焦らなくても大丈夫です。それはずっと前から聖書で言われていたことですから・・。「ああ来たな」と思ったら、これが聖書で言われていた患難かと思い、すべてを神様にゆだねて祈ればいいのです。そうすれば主が守り、患難に耐える力を与えてくださいます。

新聖歌247番の2番の歌詞にこうあります。

「来なば来たれ試みよ 襲いかかれ悪しき者

主に隠れし魂の などで揺らぐことやある

主の手にある魂を 揺り動かいものあらじ」

主の手にある魂を、揺り動かすものはありません。ですから、そういう困難は来るということを十分覚えながら、その時には岩なる主に隠れればいいわけです。主の手にある魂を、揺り動かす者は何もないのですから。

Ⅱ.そのときに人々は(2-8)

では、そのとき人々はどのようになるのでしょうか。それが2節から8節までに記されてあります。まず2節から5節までをお読みします。

「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」

ここでパウロは、そのとき人々はどうなっていくのかを具体的に18のリストを挙げて説明しています。その最初にリストアップされているのは、自分を愛する者です。世の終わりが近くなると、人々は自分を愛するようになります。ここでは特にイエス様を信じていない人のとこが言われているのではありません。イエス様を信じているはずのクリスチャンのことが言われているのです。そのクリスチャンが自己中心になり、神から離れて行くようになるというのです。

イエス様はマタイの福音書24章の中で世の終わりの兆しを語っておられますが、その最大のしるしは何かというと、多くの人たちの愛が冷たくなるということでした。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなるのです(マタイ24:12)。神に対する愛も、教会に対する愛も、兄弟姉妹たちに対する愛も、隣人に対する愛も冷えるのです。なぜでしょうか?不法がはびこるからです。聖書に教えられていることとは違うことを教えたり、聖書に反するようなことを言ったりすると、愛が冷え、自己中心になるのです。世の終わりが近くなると、そういう人たちが多くなるのです。今はそのような傾向が強くなっているのではないでしょうか。

では、このことについて聖書ではどのように教えているでしょうか?マルコの福音書8章34節を開いてください。ここでイエス様はこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ8:34)」

また、こうも言われました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』…『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」(マルコ12:30-31)

だれでもイエスについて行きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエスについて行かなければなりません。自分を愛するのではなく自分を捨てて、イエスについて行く、それがクリスチャンの信仰の土台です。そして、神を愛し、隣人を愛します。自分を愛するようにということは、聖書には書かれてありません。健全なセルフイメージを持つことは大切なことですが、それと自分を愛することは違います。自分を愛することができなければ神を愛することもできないし、隣人を愛することだってできないのだから、まずは自分を愛さなければならないと言う人がいますが、それはこの世の知恵が教えていることで、聖書が言っていることではないのです。聖書が言っていることは、あなたが神である主を愛せよ、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよということです。そうすれば、あなたに真の自由と平和がもらされるのです。なぜなら、真理はあなたがたを自由にするからです。真理のみことばに従うなら、その真理があなたを自由にするのです。

次に挙げられているのは、金を愛する者です。終わりの日が近くなると、人々は金を愛するようになるというのです。金を愛して何が悪いのか?世の中すべてが金じゃないですか?しかし、聖書はこう言っています。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:10)金を愛することがすべての悪の根であり、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通すことになります。必要であれば、必ず神が与えてくださいます。ですから、金を愛するのではなく、神を愛さなければなりません。お金を何に使うかによってその人の心がどこにあるか、何に関心があるのかがわかります。自己中心的になると神のために使ったり、人のために使ったりということがなくなり、自分のために使うようになります。なぜなら、だれもふたりの主人に仕えることはできないからです。神にも仕え、また富にも使えるということはできません。神を愛すれば、神に仕えるようになり、金を愛すれば、金に仕えるようになるのです。その結果、信仰から迷い出て、悲惨な結果を見に招くことになるのです。

第三のことは、大言壮語する者です。大言壮語とは何でしょうか。それは自慢することです。できそうにもないことや威勢のいいことを言って誇るのです。終わりの日が近くなると、多くの人がこのように大言壮語するようになります。

第四に、不遜な者です。不遜な者とはギリシャ語で「ヒュペレーファノス」という言葉ですが、これは自分を高く示すという意味です。自分を高くするので、そこには当然相手を見下す態度が生まれます。このような心があると、上から目線で言ったり、やったりするようになるのです。

ルカの福音書18章には、有名なパリサイ人の祈りが紹介されています。彼は、立って、心の中でこう祈りました。「神よ。私はわかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11-12)

このパリサイ人は、自分を高い所に置きました。そして、取税人をはじめとする罪人をいつも見下していました。それがこの祈りによく表われています。「ことにこの取税人のようでないことを感謝します」と、祈っています。これが傲慢な者、不遜な者の姿です。

次に、神を汚す者です。つまり、神を侮辱する者です。このような人は神を敬うことをしません。神を敬うのではなく自分を敬います。そうした自尊心は常に神への侮辱を生み出します。神よりも自分の方がもっと知っているとか、神を信じて何にもならないと豪語するのです。こうした思いはやがて人を軽蔑し、人を傷つける言動となって表われます。

次は、両親に従わない者です。終わりの日が近くなると、だんだんと両親にも従わなくなる人が増えてきます。両親のことより自分のことが大切だと思うからです。でも、モーセの十戒では何と言っているでしょうか?モーセの十戒の最初の四つの戒めは神との関係について、後半の六つの戒めは対人関係について言われていますが、その対人関係の最初に言われているのは両親に対する戒めです。そこには、「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト20:12)とあります。それが「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるため」なのです。なぜこのように言われているのでしょうか?なぜなら、あなたの両親は神の代理者として立てられているからです。目に見える親を愛することのできない人が、どうして目に見えない神を愛することができるでしょうか。きょうは奇しくも父の日ということですから、両親から離れて住んでいる方は、ぜひ両親に電話なり、メールなりで感謝を表したいものです。

次は、「感謝することを知らない者」です。終わりの日が近くなると感謝することを知らない人が増えてきます。皆さんは感謝していますか?ブツブツ文句ばっかり言ってはいないでしょうか?不平不満ばかり漏らしてはいないでしょうか?なぜ感謝することができないのでしょうか?それが当たり前だと思っているからです。でも、あなたが生きているのは決して当たり前のことではありません。生きたくても生きられない人がたくさんいます。だから、生きていること自体が奇跡であり、感謝であり、恵みなのです。そればかりか、神はあなたを罪から救ってくださいました。永遠の滅びから、永遠のいのちへと移してくださったのです。神はこんな者でも救ってくださったと思うと、本当に感謝ではないでしょうか。いや、私は自分で頑張って生きてきたんです!誰の世話にもなっていません!自分で一生懸命努力して生きてきたんです!そういう人は感謝することができません。それが当たり前だと思っていたり、自分の力でやって来たと思っている人は感謝ができないのです。そういう人は感謝することをしないばかりか、与えられてもまだ足りないと言って文句を言います。終わりの日が近くなると感謝することを知らない者が増えてきますが、そのような中でも私たちは神を覚え、神によって生かされていることを感謝したいと思います。

次に、汚れた者です。汚れた者とは何でしょうか?汚れた者という言葉はギリシャ語の「アノシオス」ということばですが、これは成文化された法律を破るということでよりも、成文化されていない法律を犯すということです。たとえば、ギリシャ人にとっては、死者を埋葬することを拒むことはアノシオスでした。また、兄弟が姉妹と、もしくは、息子が母親と結婚することもアノシオスであったそうです。つまり、律法の文言に書かれているかいないかということと関係なく、その人が生きていく上での基本的な倫理観や道徳観、マナーやモラルといった面で欠如している人のことを言うのです。

そして次は情け知らずの者です。これは家族や友人への愛情がなくなることです。人は自己中心的になると、もっとも親密なはずの家族のつながりも無くなってしまいます。自己中心的な喜びを追及するあまり、自分の人生がそうした基本的なつながりの上に建てられていることも認めようとしなくなるのです。

M兄から聞いたお話ですが、お借りしている畑の近くの小さな池にカモが親子で泳いでいるそうです。しかし、M兄が近づくと近くの茂みに隠れます。すると突然親カモ傷ついたふりをするのだそうです。M兄の関心を自分に向けさせて、子カモを守ろうとするのです。そしてM兄がそこから離れるとまた子カモのところに戻ります。カモでさえこんなに愛情があるのに人間はどうでしょう。そこに傷ついた人がいても知らんふりをするのです。カモ~ン!私たちはカモよりももっとすぐれたものじゃないですか。困った人や苦しんでいる人を見たら、深い同情心、あわれみの心をもって接したいものです。

次に、和解しない者です。これは「アスポンドス」というギリシャ語ですが、憎悪のあまり、争った相手を決して赦そうとしない態度のことです。この語は精神的な残酷さ、冷酷さを述べることばであって、無慈悲な冷酷さのゆえに、相手を分離しようとすることです。どこまでも執念深く、他の人と仲良くやろうとする心がありません。

次に、そしる者です。これは陰口をたたく者、中傷する者のことです。これはギリシャ語では「ディアボロス」という言葉ですが、英語の「devil」(悪魔)の語源になった語です。ですから、もし人を中傷する人がいれば、それは悪魔から来ているのです。終わりの日には、こうした中傷者が増えてきます。

次は、節制のない者です。節制がない者とは、欲望を抑えられない人のことです。人はその心の願望を叶えたい存在なのです。そしていつの間にか習慣や欲望の奴隷になってしまい、その人自身を滅ぼしてしまいます。銀貨30枚でイエスを裏切ってしまったイスカリオテのユダは、この欲望を抑えることができませんでした。彼は節制のない者でした。その結果、彼は自らそのつけを受けることになってしまいました。しかし、それはユダだけのことではなく、私たにも言えることです。

次は、粗暴な者です。粗暴な者とは野蛮な者、獣のように残忍な者のことです。このような人には人間としての同情心やあわれみの心はありません。犬でさえも、自分の主人を傷つけると申し訳なさそうな動作をしますが、粗暴な人にはこのような感情すらありません。

次に、善を好まない人です。善を好まないで悪を好みます。そんな人がいるのでしょうか。いるんです。このような人は、良いことが煩わしく感じます。光よりも闇を愛するのです。その方が安心するのです。このような人は精神的な味覚、感覚を失っているのです。そして、終わりの日には、このような人がだんだん増えてくるのです。

次は、裏切る者です。いつも近くにいて親しい友人だと思っていたら、ただのふりだったとか、自分に都合が悪くなるとすぐに見捨ててしまう人たちのことです。

向こうみずな者とは、無謀なことをする人のことです。その人は、わがままで分別がありません。一見情熱的に見えますが、それはただ自分がやりたいからやっているだけで、そういう人はもはや他の人の意見を聞く耳を持ちません。情熱的であることと無謀であることはまさに紙一重です。

次は、慢心する者です。慢心する者とは、うぬぼれる人、思い上がる人のことです。原語の「テトュフォーメノス」は、自負心で膨張する者という意味です。俺はこんなにすごいんだと、風船が膨張するように心が膨張するのです。

そして、神よりも快楽を愛する者です。趣味やレジャーが悪いというのではありません。それはリフレッシュするために、リラックスするために、神が与えてくださった祝福です。でも、それを神よりも大事にすれば問題が生じてきます。

ここにあるリストの最後は5節に書いてあることです。「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」です。どういうことでしょうか?イエスは主です!救い主です!と言いながら、それと矛盾するようなことをやっている人のことです。こういう人は、結局はイエス・キリストに従うのではなくて、自分の肉に従って生きています。宗教の形を気にしているだけで中身が伴わないのです。神のことばがどれだけ私たちの生活を変える力があることを理解することができませか。こういう人を避けなければなりません。

そればかりではありません。6節と7節にはこうあります。「こういう人々の中には、家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。」

どういうことでしょうか?「たぶらかす者たち」は、入り込む者たちです。彼らは、愚かな女たちがさまざまな情欲に引き回されていることを知っているので、そこに入り込み、自分の虜にします。大抵の場合、女性は家にいて、子育てと家事の平凡な日々の繰り返しにむなしさを感じています。いったい何のために生きているのかわからなくなったり、過去の罪責感などで悩んで落ち込むことがありますが、そんな時に「ピンポン」と玄関のチャイムが鳴るので行ってみると、優しそうな二人連れがニコニコしながら話しかけです。「聖書を学んでみませんか」「いいえ、私はいいです。」と一度は断るものの、何度か話をしているうちに、この人たち、「本当にいい人たちだわ、ちょっとくらいだったら聞いてみようかしたら」と思い始めます。すると、生きる目的とか、人生の意味など、これまで考えたこともないようなことを教えてくれるのでおもしろくなって、だんだんとのめり込んでいくのです。それがあからさまに間違っていたらすぐにおかしいと気づくのですが、そこにはちょっと真理が混ざっているので、それが聖書の教えとは違うということに気付かないのです。そして時間が経つうちに、聖書とは全く違うところに導かれてしまいます。だから、彼らはいつも学んではいても、いつになっても真理を知ることができません。パウロの時代にもそういう人たちがいました。彼らはいつも学んでいても、いつになっても真理を知ることができないのです。

8節をご覧ください。「また、こういう人たちは、ちょうどヤンネとヤンプレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。」

この「ヤンネとヤンブレ」とはだれのことなのかははっきりわかりません。彼らのことは聖書の他のところには出ていないからです。でも確かなことはモーセの時代に生きていた人物で、モーセに逆らった人たちであるということです。多くの人たちは、ユダヤ人の伝承から、出エジプト記7~9章に登場するエジプトの呪法師のことではないかと考えています。あるいは、出エジプト記12章38節に出てくるイスラエルの民と一緒に入り混じってエジプトを出てきた外国人の中にいた人物ではないかとも考えられています。彼らは後に荒野に導かれたとき、激しい欲望にかられ、「ああ肉が食べたい。エジプトで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。」と言って、モーセに激しくつぶやきました(民数記11:4-5)。確かなことはわかりませんが、彼らについてわかることは、彼らはだましごとにたけていて、人々を惑わしていたということです。彼らの知性は腐っていました。彼らは信仰の失格者です。

だから目を覚ましていなければなりません。敵である悪魔は、食い尽くすべき獲物を探し求めて歩き回っているからです。聖書は悲観的なことを教えているわけではありませんが、でも厳しい現実があるということを予め教えています。ですから、私たちはそのことを覚えて、そうした困難な時代に対処していかなければならないのです。

Ⅲ.しかし、これ以上は進むことはできない(9)

しかし、感謝なことに、聖書はそれだけで終わっていません。最後の9節には力強い約束が記されてあります。ご一緒に読んでみましょう。「でも、彼らはもうこれ以上進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたりの場合のように、すべての人にはっきりわかるからです。」

彼らとはだれのことでしょうか。このように知性の腐った人たちのことです。真理に逆らう人たちです。終わりの日にはそのような人たちがやって来て、狂暴な狼のように群れを荒らし回しますが、彼らはそれ以上進むことはできません。彼らの力もそこまでで、それ以上は進むことはできないのです。化けの皮がはがれるからです。それが真理の光に暴露されると、必然的にしぼみ、滅亡するからです。神の不動の礎は堅く置かれています。だから教会は決して揺り動かされることはありません。だからたとえどんな人が現れても、どんな困難な時代がやって来てもびくともすることはないのです。そのような時代にあっても、堅く立ち続けることができるのです。

ですから、私たちにとって必要なことは、この真理の上にしっかりと立ち続けていることです。そうすれば、どんなことがあっても揺り動かされることはありません。今は、終わりの日の終わりの時です。終わりの日が限りなく近づいています。このような時代には、ますます不法がはびこり、愛が冷えるでしょう。教会もそうした影響を受けることも少なくありません。けれども、私たちは神のものであり、神に属している者として、この神に従うのです。そうすれば、どんな時代にあっても神が守り、決して動かされることがないように支えていてくださいます。そのことを覚えて、終わりの日に困難な時代がやって来ても慌てることなく、堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かっていきましょう。敵である悪魔はもうそれ以上は進むことはできないからです。

ⅡTimothy2:20-26 “Being an Instrument for Noble Purposes”

Today, I will speak on “being an instrument for noble purposes.” In the first half of chapter two, Paul, in order to encourage Timothy who was pastoring the church at Ephesus, advised him to be strong in the grace that is in Jesus Christ. And, Paul advised him to remember Jesus Christ, raised from the dead, descended from David. The reason is that whatever problems Timothy was facing, the key to solving all of them is in Jesus Christ. By remembering who Jesus is, whatever we are suffering, we can endure it.

Last week, we saw that Paul said that quarreling about words is of no value, and only ruins those who listen, and he said to warn them before God because it destroys the faith of some. There were actually people in the church at Ephesus doing this–Hymanaeus and Philetus, whose teaching was spreading like gangrene (the Japanese translation says “like cancer”), and affecting the whole body.

In spite of this, God’s solid foundation stands firm. God’s solid foundation is the church. Even if there is such quarreling in God’s church, the church does not waver, because it is God’s, and God knows who are his. They will turn away from wickedness. So even those the church faces various problems andattacks, it does not waver. It most certainly cannot waver because it stands firm on God’s word.

If this is the case, how are we to be? That’s the subject for today. If the church is those who are in God, we do not waver from that firm foundation, and must become instruments useful to God. Just how can we become instruments like this?

I. Instruments for noble purposes (v. 20-21)

First look at verses 20 and 21.

In a large house there are articles not only of gold and silver, but also of wood and clay; some are for noble purposes and some for ignoble. If a man cleanses himself from the latter, he will be an instrument for noble purposes, made holy, useful to the Master and prepared to do any good work.

What does “in a large house” mean? The “large house” is the church. Like in a large house, where there are not only articles made of gold and silver articles, but wood and ceramic, in the church there are different kinds of containers. Some serve noble purposes, some are made for ignoble purposes. Containers made of gold and silver are not only used for eating, but also are used as decorations. My mother-in-law had some heirlooms, and when she died my wife inherited them–a glittering silver spoon, fork, and tray, not for everyday use, but for special guests and occasions. As particularly valuable items, they are treated specially.

What would happen if these were treated in the opposite way, as a garbage can or container for leftovers? What a shame to use them as a trash can or leftover container, inconspicuously placed on a backyard porch, in some corner of the kitchen, or hidden inside a built-in cabinet. An ignoble use, inside a cabinet mixed in among less worthy articles. In the same way, there are all kinds in the church, and not all are the same, some are used for noble purposes, some are used for ignoble ones.

What is the standard for determining which is which? It isn’t having such great talent or ability. It isn’t how a person serves the church. It is a matter of how much he turns away from wickedness and cleanses himself from it.

Look at verse 21. Here it is: “If a man cleanses himself from the latter, he will be an instrument for noble purposes, made holy, useful to the Master and prepared to do any good work. ”

Everyone, please imagine I have an expensive wine glass here. Would you drink from it if there were mold growing in the bottom of the glass? No matter how shiny a gold container is, if it is filled with trash it can’t be used. Before using it we’d check it to be sure it was clean. We would use a clean one. All the more so if we were to use it for a guest. Christians, God’s laborers, are the same. No matter how gifted or talented, if we are not holy we can’t be used by God. An instrument used by God, an instrument used for a noble purpose is one who has cleansed himself from the latter.

What is this “latter?” Hymenaeus and Philetus were written about before this. They had wandered from the truth, and destroyed the faith of some. In other words, instead of building others’ faith up, they caused people to turn from their faith. They were filthy instruments. You must turn from such wickedness, and become a noble instrument.

Isaiah prophesied about this. Isaiah 52:11: “Depart, depart, go out from there! Touch no unclean thing. Come out from it and be pure, you who carry the vessels of the LORD.”

The people of God, Israel, were saved by God’s unilateral grace. They put on the garments of righteousness. All that was expected of them was that they would keep from defiling them. They were called upon to “Go out, go out, depart from them.” You have been saved from Babylon, clothed in beautiful new garments, so you must brush off the dirt and shake off the shackles. And then get out, and avoid that which defiles. You must get out of there, and cleanse your body. That’s what is worthy of a vessel of God.

Proverbs 25:4 records the same thing. “Remove the dross from the silver, and out comes material for the silversmith.” Impurities. How do we get a good vessel? Remove the dross, the impurities. Do so, and we can become good instruments in our sleep. Now, what about removing the dross?

II. Becoming a holy instrument (v. 22)

Please look at verse 22.

“Flee the evil desires of youth, and pursue righteousness, faith, love and peace, along with those who call on the Lord out of a pure heart. ”

Here, Paul is teaching what to avoid, and what to seek in order to become a useful instrument to God. First, the things to avoid are the evil desires of youth. This not only means lusts of the flesh, including sexual desires, but includes sin that goes well beyond that. That’s what Barclay’s Commentary says.

“Impatience is included in the meaning. That is, to go faster and faster without knowing it, in such a hurry as to not notice when something good has become harmful.

Next, self-centeredness is included. That is, to not be able to suppress your own ideas when their expression is arrogant. And to not know how to accept the superior points of another’s ideas, be sympathetic to them, and understand them.

And there is the matter of liking to quarrel. To debate more, and do less. To spend the night in heated discussion, but to leave problems unsolved.

And, to be overly fond of novelty. To argue against a reason simply because it is an old reason, and to ardent about something for the simple reason it is new. ”

When young, these feelings more easily control us. But not only in our youth. It’s true no matter what our age. We are to flee from this wickedness. How can a young person flee from these?

It’s here in Psalms 119:9-11.

“How can a young man keep his way pure? By living according to your word. I seek you with all my heart; do not let me stray from your commands. I have hidden your word in my heart that I might not sin against you.

How can a young person keep his way pure? The author of the Psalms says it is by living according to God’s word. To seek God’s word with all our heart, and live in accordance with His commands. It’s important to fill our hearts to the brim with God’s word. Why? People talk of what is in their heart, and act according to what is in their heart. So what is in our heart is very important. If filled with God’s word, our behavior will change with it.And Paul not only advises us on the evil to flee from, but the good we should seek after. What are these good things? Four are listed. They are righteousness, faith, love and peace.

First is righteousness. What is righteousness? Righteousness is correctness. It’s not a matter of just being accepted as righteous, but as a Christian who has been accepted as righteous we must seek after righteousness. A Christian must always seek to do the right thing.

The second one is faith. Faith is to trust God. It is to listen to God’s word, to believe God, and to follow his direction. Through this our faith is strengthened, and we can grow. In many cases, the times when our faith is weak we are not listening to what God is saying. Or it seems like we are listening when we really aren’t. If we give priority to our own thoughts, we can’t obey God’s directions.

Jesus spoke of this in his parable of the sower. A certain person was sowing seed, some by the side of the road, some in rocky places, some among thorns, and some on good land. What happened to the seed sown by the side of the road? The birds came and ate it, so it couldn’t bear fruit. The seed sown in rocky places germinated, but without soil, it dried up in the daytime sun, unable to put down any roots. The seed sown among the thorns was covered by the thorn bushes when they grew, so that it, too, was unable to bear fruit. But as for the seed sown in good soil, some bore fruit a hundred-fold, some sixty-fold, some thirty-fold. The seed planted in good soil are people who hear the word of God, understand what it means, and by obeying and living it they bear fruit.

The next thing the Christian must seek after is love. What is love? I Corinthians 13 is well-known. “Love is patient, love is kind. It does not envy, it does not boast, it is not proud. It is not rude, it is not self-seeking, it is not easily angered, it keeps no record of wrongs. Love does not delight in envying but rejoices with the truth. It always protects, always trusts, always hopes, always perseveres.” (13:4-7)

We don’t have these qualities when we are born. They are God’s love, self-sacrificial love, giving love, agape love. God expressed this love to us by giving his own Son. A Christian knows God’s love, and accepts God’s love. But that is not sufficient, from then on he must become a person who lives in that love. A Christians must spend the rest of his life seeking after that love.

The fourth thing is peace. Peace is brought about by a right relationship with God, and a right relationship in respect to our interactions with others–a condition of accord and harmony. If we listen to God’s word and live in obedience to it, it will bring about peace, and if we don’t, it will generate confusion and not peace, conflict and not harmony.

Please look at Philippians 4: 8-9

Finally, brothers, whatever is true, whatever is noble, whatever is right, whatever is pure, whatever is lovely, whatever is admirable–if anything is excellent or praiseworthy–think about such things. Whatever your have learned or received or heard from me, or seen in me–put it into practice. And the God of peace will be with you.

How can the God of peace be with us? Whatever is true, whatever is noble, whatever is right, whatever is pure, whatever is lovely, whatever is admirable–if anything is excellent or praiseworthy–think about such things. And not just think about them, but we must put them into practice. And if the do, the God of peace will be with us.

Do you want to be an instrument for noble purposes? Do you want to be an instrument God can use? If that is your desire, you must flee from evil, and think about what’s is true, noble, right, lovely, all that is excellent. And put them into practice. If we do, the God of peace will be with us.

There is one more important thing to consider here: what it is to call upon the Lord with a pure heart. As a Christian we can’t seek after these on our own. It is with others who have a pure heart that we must do our seeking. That means the body of Christ, the family of God–the Church. A Christian must not go it alone, to separate himself from his companions, to become distant. It may seem easier to be without any friction with others, but throughout the Bible the stress is on doing it “together.” The joy, the power and the support can be found in that companionship.

The British missionary John Wesley put it this way. “A person must have friends. Otherwise, he must make them. No one is going to heaven alone.” What meaningful words, don’t you think? You can understand that by looking at the kanji for “person”–two leaning together and supporting each other. We live by supporting one another, and cannot live alone. The faith life of a Christian is the same; we must seek after righteousness, faith, love and peace along with others who call upon the Lord with a pure heart.

III. Don’t have anything to do with quarrels (v. 23-26)

Thirdly, one more thing that Christians in order to “be an instrument for noble purposes” (21) must be careful about is that they “don’t have anything to do with… quarrels.” (23) Please look at verse 23. Here it says, “Don’t have anything to do with foolish and stupid arguments, because you know they produce quarrels.” “Foolish and stupid arguments” (23) are arguments that have no content and are just an idea. However, such “foolish and stupid arguments…produce quarrels” (23) “It is of no value, and only ruins those who listen.” (14) In the Ephesian church such talk “spread like gangrene.” (17) However, “the Lord’s servant must not quarrel.” (24) Instead, the proper attitude of the Lord’s servant is to “be kind to everyone, able to teach, not resentful.” (24)

  1.  “Be kind to everyone” (24) The Lord’s servant is not to quarrel, but to “be kind to everyone.” (24) This is the attitude that Christians are to have. Most of the time when you quarrel both parties become emotional and excited and so from such a condition a good result will not be produced.  However, with a kind and calm attitude when you communicate with calm words, the other person’s feelings become quiet and at times the other person will listen.

Proverbs 15:1 says, “A gentle answer turns away wrath,

But a harsh word stirs up anger.”

We are not to do something bad to someone because they have done something bad to us. Even if the other person is emotional, we are to respond with a calm attitude and with soft words. Therefore, let’s not quarrel, but “be kind to everyone.” (24) This is the kind of church we are aiming to be.

  1. Be “able to teach.” (24) The Lord’s servant does not quarrel, but studies the Bible well and is “able to teach.”(24) “Be transformed by the renewing of your mind.  Then you will be able to test and approve what God’s will is-his good, pleasing and perfect will.” (Romans 12:2)  It may look like this will take time, but walk on the correct road. It is the most reliable and closest road.
  2. Not to be “resentful”. (24) We need to not be resentful especially towards those who cause you misery. This is a very difficult thing to do. God wants us not to be resentful. Jesus said “Love your enemies and pray for those who persecute you.”
  3. “Those who oppose him he must gently instruct.” (25) To instruct is to correct. However, that is not instructing with anger, but with gentleness. It is not by looking down on him, but with gentleness. He must correct with humility. If so, the cold heart that was frozen shut will by Christ’s warm love melt.

The reason why the Lord’s servant must take such an attitude is written in the last half of verse 25. “In the hope that God will grant them repentance leading them to a knowledge of the truth.” Also verse 26 says, “and that they will come to their senses and escape from the trap of the devil, who has taken them captive to do his will.”

In other words, they may be saved. God “wants all men to be saved and to come to a knowledge of the truth.” (I Tim. 2:4) This is God’s will. Therefore, we as much as possible should strive to not be resentful and have attitudes in accordance with the will of God. Paul too said in 2:10 “Therefore I endure everything for the sake of the elect, that they too may obtain the salvation that is in Christ Jesus, with eternal glory.” We are the same. We don’t know who will be saved so we too need to “endure everything for the sake of the elect, that they too may obtain the salvation that is in Christ Jesus, with eternal glory.” (2:10) We are the same we don’t know who the elect is, but there are such people . We “must be kind to everyone, able to teach, not resentful.” (24) Those who oppose us we “must gently instruct.” (25) It is God that “will grant them repentance,” (25), but it is the work of the servant of the Lord, us Christians, to lead them to repentance.

This is truly the kind of person that God uses as his instrument. The instrument that God uses is completely unrelated to how splendid, or gorgeous he is. It depends upon how holy he is.  “If a man cleanses himself” (21) and flees from unrighteousness, “he will be an instrument for noble purposes.” (21)

Are you an instrument that is used by God?  What do you need to flee from? Also what are you seeking after?  First let’s begin by making our instrument ready as “an instrument for noble purposes…useful to the Master and prepared to do any good work.” (21)

Ⅱテモテ2章20~26節 「尊いことに用いられる器」

きょうは、「尊いことに用いられる器」というタイトルでお話します。2章の前半の所でパウロは、エペソの教会で牧会していたテモテを励ますために、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい、と勧めました。また、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえられたイエス・キリストを、いつも思っていなさい、とも勧めました。なぜなら、テモテの問題がどのようなものであれ、すべての解決の鍵はイエス・キリストにあるからです。キリストがどのような方であるのかを思い出すなら、どのような苦しみの中にあったとしても、必ずそれに耐えることができるからです。

そしてパウロは先週のところで、何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前で厳しく命じるようにと言いました。そうした論争は人を建て上げるどころか、人を滅ぼすことになるからです。実際にエペソの教会にはそういう人たちがいました。ヒメナオとかピレトといった人たちです。彼らの話は癌のように広がっていました。癌がからだ全体を蝕んで滅ぼしてしまうように、そうした話はキリストのからだである教会を蝕んでいくことになるのです。

それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれています。神の不動の礎とは教会のことでした。たとえ神の教会にそういう話が起こっても、神の教会は決して揺り動かされることはありません。なぜなら、教会は神のものであり、神はご自身に属する者を知っておられるからです。そうした人たちは不義から離れます。だから教会はいろいろな問題や攻撃に遭うことがありますが、決して揺らぐことはないのです。決して揺らぐことがない神のことばの上に堅く立っているからです。教会は、神の不動の礎なのです。であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。それがきょうのテーマです。であれば私たちは、そうした不義から離れなければなりません。そして、神に用いられる器にならなければなりません。いったいどうしたらそのような器になることができるのでしょうか。

Ⅰ.尊いことに用いられる器(20-21)

まず20節と21節をご覧ください。

「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」

「大きな家」とは何でしょうか。それは教会のことです。大きな家には金や銀の器だけでなく、木や土の器など、あらゆる種類の器があるように、教会にもいろいろな器があります。いろいろな人たちがいるのです。また、尊いことのために用いられる器もあれば、卑しいことのために用いられる器もあります。たとえば、金や銀でできた高価な器は食べる時に使われるだけでなく、装飾品としても用いられます。それは高価なものだからです。食器という領域を超えているわけです。もちろん、食器としても使われますが、そうした飾り物としても使われるのです。

それとは違ってごみ箱とか残飯入れは卑しいことのために用いられます。だから大抵の場合は外のベランダとか、台所の隅の目立たないところに置かれるのです。家の中にはいろいろな器がありますが、ある物は尊いことのために、またある物は卑しいことに用いられるのです。それと同じように、教会にもあらゆる器がありますが、すべてが同じように用いられるかというとそうではなく、あるものは尊いことのために用いられ、ある物は卑しいことのために用いられるのです。

では、それを分ける基準は何でしょうか。どのような人が尊いことのために用いられ、どのような人が卑しいことのために用いられるのでしょうか。それはその人がどれだけ賜物や能力を持っているかということとは関係ありません。また、その人がどのような奉仕をしているかということとも関係ないのです。それは、その人がどれだけ汚れから離れて、自分自身をきよめるかということによって決まります。21節をご覧ください。ここには、「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」とあります。

皆さん、想像してみてください。たとえば、ここにとても高価なワイングラスがあるとしましょう。しかし、それがどんなに高価なグラスであっても、そのグラスの底にカビが生えていたらどうでしょう。それでも飲めるという人は少ないのではないでしょうか。また、どんなに豪華な器でも、ごみがいっぱい溜まっているとした使うことができません。使うためにはその器が汚れていないことが必要なのです。きれいでなければなりません。それが第一の条件です。ましてお客さんに出す時などはなおさらのことです。それは神の働き人であるクリスチャンも同じです。どんなに賜物があっても、どんな能力が高くても、聖くなければ神に用いられることはできません。神に用いられる尊い器とは、自分自身をきよめて、これらのことから離れなければならないのです。

「これらのこと」とは何でしょうか。その前にヒメナオとかピレトといった人たちのことが書かれてありました。彼らは真理からはずれてしまい、ある人々の信仰をくつがえすような、それを聞いている人たちを滅ぼすようなことを教えていました。すなわち、人々を建て上げるのではなく滅ぼすようなこと、人々が信仰から離れて不敬虔に深入りして、真理から離れていくようなことのことです。そうしたことは器を汚すことです。そうした不義から離れるなら、あなたは尊いことのために用いられる器になれるのです。

そのことを預言者イザヤはこう述べています。イザヤ書52章11節です。「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。の器をになう者たち。」神の民であったイスラエルは、神の一方的な恵みによって救われました。彼らは義の衣という美しい衣を着せていただいたのです。そんな彼らに求められていたことはどんなことかというと、汚れから去ることだったのです。それが「去れよ。去れよ。そこを出よ。」という呼びかけでした。あなたはバビロンから救われて美しい衣を着せられたのだから、そのちりを払い落とし、かせをふりほどかなければなりません。そして、そこを出て、汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめなければなりません。それが主の器をになう者たちなのです。

箴言25章4節にも、同じようなことが記されてあります。「銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。」かなかすとは不純物のことです。どうしたら良い器ができるのでしょうか。かなかす、不純物を除くことです。そうすれば、寝られて良い器ができるのです。では、かなかすを取り除くとはどういうことでしょうか。

Ⅱ.きよい器になるために(22)

22節をご覧ください。

「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」

パウロはここで、神に用いられるきよい器になるために、避けなければならないことと追い求めるべきことを教えています。まず避けなければならないことは何でしょうか。若い時の情欲です。若い時の情欲とは肉体的な欲望のことだけでなく、それをはるかに越えた汚れの全般を含みます。バークレーはその注解書でこう言っています。

それは、性急であるという意味も含んでいる。すなわち、徐々に速度を速めることを知らず、あまり急ぐと、益よりもむしろ害になることに気づかないことである。 次に、自己中心を含んでいる。すなわち、自分の意見を抑えることができないことと、その表現が傲慢なことである。そして、自分以外の者の意見にもある優れた点を認め、共感し、理解することを知らぬことである。またさらに論争を好むことである。したがって議論が多く実行は少なくなる。夜を徹して語り明かしても、ただ未解決の問題をまき散らすだけである。また新しがり家である。ただ古いという理由だけである物を批判し、反面、ただ新しいとの理由だけである物を熱望する。体験の価値を低く評価し、昔の人々が信じてきたことに旧式の烙印を押す。」

若い時にはこうした感情に支配されやいものです。しかし、それは若い時だけに限りません。いくつになっても同じです。そうした汚れを避けなければなりません。いったいどのようにして若い人はそれを避けることができるのでしょうか。

詩篇119篇9節~11節には、こうあります。

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。
あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。
よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます。私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。」

どのようにして若い人は自分の道をきよく保つことができるのでしょうか。ここで詩篇の作者は、それは神のことばに従ってそれを守ることだと言っています。神のことばを心に蓄え、神のことばに従ってそれを守ることです。神のことばが心に満ちることが大切だというのです。なぜでしょうか。人は心にあることを話し、心にあるように行動するからです。だからあなたの心が何で満たされているかということが重要なのです。あなたの心が神のことばで満たされているなら、そのような態度に変わっていくからです。

それからパウロはここで悪を避けるだけでなく、良いことを追い求めるようにと勧めています。その良いこととは何でしょうか。ここには4つのことが書かれています。それは義と信仰と愛と平和です。 まず義です。義と正しいということです。これはイエス・キリストを信じて罪から救われ、義と認められることではなく、義と認められたクリスチャンが追い求めなければならないことです。それは不正ではなく正義のことなのです。クリスチャンはいつも正義を求めなければなりません。

第二のことは、信仰です。信仰とは、神に信頼することです。神のみことばを聞いたら、神に信頼して、それに従わなければなりません。そうすることによって信仰が強められ、成長していくことができるからです。多くの場合、信仰が弱っている時というのは、神のことばをあまり聞いていない時です。あるいは聞いているようでも、実際には聞いていない場合がほとんどです。自分の思いや考えが優先して、神に従うことができないのです。

イエス様は種まきのたとえを語られました。ある人が種を蒔いたら、それぞれ道ばた、岩地、いばらの中、そして良い地に落ちました。道ばたに落ちた種はどうなったでしょうか。烏が来て食べてしまったので美を結ぶことができませんでした。岩地に蒔かれた種も、土がなかったのですぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて、根がないため枯れてしまいました。いばらの中に蒔かれた種も、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ぶことができませんでした。しかし、良い地に聞かれた種は、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びました。良い地に蒔かれた種、それはみことばを聞くと、それを悟り、そのみことばに従って生きる人のことです。神に信頼する人は、何倍もの実を結ぶのです。

次にクリスチャンが追い求めなければならないのは、愛です。愛とは何でしょうか。有名なⅠコリント13章にはこうあります。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(13:4-7)

私たちは、生まれながらにしてこのような性質を持っていません。これは神の愛、アガペーの愛であり、自己犠牲の愛、与える愛です。神はこの愛を、ご自身の御子を十字架につけて死なせることによって表してくださいました。ここに愛があるのです。だから教会には十字架があるのです。ローマ時代に処刑の道具だった十字架が、いったいなぜ教会に掲げられているのでしょうか。ここに愛があるからです。クリスチャンはこの神の愛を知り、この愛を受けました。でもそれで十分かというとそうではなく、今度はこの愛に生きる者でなければなりません。それはクリスチャンが生涯にわたって追い求めていかなければならないことなのです。

第四のことは、平和です。平和とは神との正しい関係によってもたらされたが、人との交わりにおいて保つべき一致であり、調和であり、ハーモニーのことです。神のことばを聞き、それに従って生きるなら、そこには必ず平和がもたらされます。そうでないと、そこには平和はなく、むしろ混乱や争いが生じるのです。

ピリピ4章8~9節を開いてください。ここにはこう書かれてあります。「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。どうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださるのでしょうか。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判のよいこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することに心を留めることによってです。ただ留めるだけでなく、それを実行しなければなりません。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

あなたは尊いことに用いられる器になりたいでしょうか。神に用いられる器になりたいですか。もしそのように願っておられるのなら、悪を避け、このようなものに心を留めなければなりません。そしてそれを実行しなければなりません。そうすれば、平和の神がともにいてくださるのです。

しかし、ここにはもう一つ大切なことが教えられています。それは、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、ということです。クリスチャンはこれらのものを決して一人で追い求めるのではありません。きよい心で主を求める人たちとともに、追い求めるのです。それはキリストの共同体であり、神の家族である教会とともにという意味です。クリスチャンは一人になることを求め、自分の仲間から遠ざかってはいけません。その方が何の摩擦も生じないので楽かもしれませんが、聖書では「共に」ということが強調されているのです。その喜び、その力、支えを、その交わりの中に見出さなければなりません。

イギリスの伝道者であったジョン・ウェスレーはこう言いました。「人は友人を持っていなければならない。さもなければ作らなければならない。だれも独りでは天国に行けないからである。」これは含蓄のあることばではないでしょうか。「人」という漢字を見てもわかるように、人は互いに支え合って生きているわけです。独りで生きることはできません。それはクリスチャンの信仰生活も同じで、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなければならないのです。

Ⅲ.争いを避ける(23-26)

第三に、クリスチャンが尊いことのために用いられるために注意しなければならないもう一つのことは、争いを避けなさいということです。23節をご覧ください。ここには、「愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたがたが知っているとおりです。」とあります。「愚かな思弁」とは、中身のないただ単なる観念的な話のことですが、このような話からは論争しか生れず、何の益にもたらされません。それはただ聞いている人々を滅ぼすだけなのです。エペソの教会には、このような話が癌のように広がっていました。しかし、主のしもべが争ってはいけません。主のしもべにとってふさわしい態度とは、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒することです。

第一に、すべての人に優しくしなければなりません。争うのではなく、優しくすることがクリスチャンの取るべき態度です。大抵の場合、言い争っている時はお互いに感情的になっているので、そのような状態からは良い結果は生まれてきません。でも優しくし、穏やかな態度で、穏やかなことばで接すると、相手の気持ちも穏やかになり、場合によっては、相手に聞く耳を持たせる場合もあります。

箴言15章1節には、「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。」とあります。売り言葉に買い言葉ではなく、たとえ相手が感情的になっても、穏やかな態度で、柔らかなことばで返すなら、相手の憤りを静めることもあるのです。ですから、争うのではなく、むしろ、すべての人に対して優しくしましょう。私たちが目指しているのは、そういう教会です。

次に、よく教えることです。言い争うのではなく、みことばからよく教え、よく学ぶのです。真理とは何なのか、神の御心は何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。それは時間がかかるように見えるかもしれませんが、確かな道に歩むための、いちばん確実で、一番近い道なのです。

そして次は、よく忍びです。よく忍耐することです。特に、自分につらく当たる人には忍耐が必要です。これは口で言うのは簡単ですが、実際の場面では本当に難しいことです。攻撃する人には仕返しをしたくなるからです。それが人間の自然な姿です。けれども神の子どもとされたクリスチャンは、「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」ではなく、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈らなければなりません。

もう一つのことは、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい、ということです。訓戒するというのは正すということです。しかし怒って正すのではなく、柔和な心で正さなければなりません。上から目線でではなく、柔和な心で、謙遜な心で正さなければなりません。そうすれば、氷のような冷たく堅く閉ざされた心も、キリストの愛の温かさで溶かされることでしょう。

なぜ、主のしもべはこのような態度を取らなければならないのでしょうか。25節の後半をご覧ください。ここにはこうあります。「もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」そして26節にも、「それで、悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることがあるでしょう。」とあります。つまり、その人が生きている間に救いに導かれるかもしれないからた゜というのです。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)だから、私たちもできるだけ忍耐し、神のみこころにかなった態度をとるようにと努めなければならないのです。

パウロは2章10節で、「ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。」と言いました。救われるようにと神に選ばれている人たちがいるのです。その人たちが救われるために、パウロが耐え忍びました。それは私たちも同じです。だれが救いに選ばれているかがわからないので、でも、確かにそのような人たちがいるのですから、その人たちがキリストにある救いにあずかり、とこしえの栄光を受けるようになるために忍耐しなければならないのです。すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒するのです。悔い改めの心を与えてくださるのは神ですが、その悔い改めの心に導くのは神のしもべである私たちクリスチャンの働きなのです。このような人こそ、神に用いられる器です。神に用いられる器は、それがどれほど高価で、華やかであるかということとではなく、それがどれだけきれいであるかにかかっています。自分自身をきよめて、不義から離れるなら、その人は尊いことに用いられる器になるのです。

あなたは神に用いられる器でしょうか。あなたが避けるべきことは何ですか。また、あなたが追い求めるものは何でしょうか。主人であるキリストにとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるために、まず器を整えることから始めていきたいと思います。