ヘブル9章1~14節 「永遠の救い」

きょうはヘブル書9章前半の箇所から、「永遠の救い」というタイトルでお話ししたいと思います。この手紙の著者は8章において、初めの契約と新しい契約がどのように違うのかについて述べました。すなわち、初めの契約、これはイスラエルがエジプトから導かれた後にシナイ山で結ばれた十戒のことですが、その契約には欠点があったのです。どういう点で欠けがあったのかというと、それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまうという点においてです。しかし、神の契約を守ることができる人などだれもいないわけですから、結局のところ、あの初めの契約で救われることはできる人は一人もいなかったわけです。じゃいったい何のためにそんな契約を与えたのでしょうか。それは私たちが罪人であるということを自覚させ、本当に救いを求めるように導くためでした。その本当の救いとはイエス・キリストによって与えられた新しい契約です。この新しい契約の特徴は、たとえ私たちが神との契約を守ることができなくとも、イエス・キリストを信じることによってそのすべての罪が赦され、救われるということでした。私たちの行いとは全く関係がなく、神の一方的な恵みによって救われるからです。私たちの罪がたとえ緋のように赤くても、雪のように白くしてくださる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくだるのです。キリストの血によって・・。これが福音、良い知らせです。神はこの新しい契約を私たちに与えてくださいました。きょうのところには、そのことがもう少し詳しく説明されています。

 

Ⅰ.初めの契約(1-10)

 

まず1節から10節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれるところです。」

 

前回見たように、キリストは私たちの罪の贖いを成し遂げて天の神の御座の右に着座されました。そこで何をしておられるのかというと、仕えておられるということでしたね。これは礼拝の務めをするということで、祭司として、私たちが神に礼拝をささげられるように仕えておられるということでした。

 

ではその聖所とはどういう所なのでしょうか。2節を見ると、その前部の所、そこは聖所と呼ばれていた所ですが、そこには燭台と机と供えのパンがありました。これらはすべてイエス様ご自身を表していたものです。イエス様は言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)ですから、これは「世の光」であるキリストを表していたのです。また、供えのパンですが、これもキリストを象徴していました。キリストは、「わたしがいのちのパンです。わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときでも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)と言われました。また、「このパンを食べる者は永遠に生きます。」(ヨハネ6:58)とも言われました。ですから、この聖所の細部に至るまで、イエス様のことが表されていたわけです。

 

そして、3節を見ると、幕屋の中は垂れ幕で仕切られていました。奥の部分は至聖所と呼ばれていましたが、そこには金の香壇と、全面が金で覆われた契約の箱がありました。中には、マナの入ったつぼと、芽を出したアロンの杖、十戒を記した二枚の石の板が収められていました。また、箱の上には、栄光に輝くケルビムがその翼で箱を覆うようにしていました。そこは幕屋の中でももっともきよい場所でした。なぜなら、そこには神が臨在しておられたからです。あまりにもきよい場所なので、祭司といえどもふだんは入ることができず、ただ大祭司だけが、一年に一度だけ、入ることができました。なんのためでしょう。7節には、「そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」とあります。そうです、イスラエルの罪と、自分の罪を赦してもらうためです。そのために、動物のいけにえの血を携えて入ったのです。なぜなら、この9章22節を見るとわかりますが、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないからです。ですから、大祭司はこの至聖所に入って行ったわけですが、それはいのちがけのことだったのです。なぜなら、大祭司に少しでも穢れあれば、その場で打たれて死んでしまうこともあったからです。だから、大祭司は着物のすそに鈴のついた特別の服を着ました。歩くと鈴がなるのです。もし神に打たれて死んでしまったら鈴の音は聞こえなくなります。その時には他の祭司たちがロープで引きずり出しました。それほどの慎重さをもって、またいのちがけで、大祭司は至聖所に入って行ったわけですが、罪の贖いをして帰ってくると、「神はあなたの罪を赦された」と宣言するのです。イスラエルの民はこのときをどれほど喜び、待ち望んでいたことでしょう。それゆえ、この日にはイスラエル中から人々がエルサレムに上ってきたのです。

 

それはイスラエルの民にとってばかりでなく、私たちにとっても同じではないでしょうか。主に罪が赦されるということ、そして、主が共にいてくださるというほどの幸いはありません。ダビデは詩篇32篇1,2節でこう言っています。

「幸いなことよ。そのそむきの罪を赦され、罪を覆われた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。」

ダビデはバテ・シェバという女性と姦淫を行ったとき、それをずっと黙っていたときには、一日中、うめいて、骨々が疲れ果てたといっています。それは、主の御手が昼も夜も彼の上に重くのしかかり、彼の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。しかし、彼がそのそむきの罪を主に告白して赦しを請うたとき、主は彼を赦してくださいました。それがいかに幸いであるかを、彼はこのように歌ったのでした。そして、彼は続けてこうも言っています。

「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼するものには、恵みが、その人を取り囲む。」(詩篇32:10)

だから、主に罪赦され、神がともにいるという経験は、何にもまさって幸いなことなのです。

 

しかし、この幕屋での行為は、彼らの罪の赦しにおいて完全なものではありませんでした。なぜなら、それらは彼らの良心を完全にきよめることができなかったからです。また罪が思い出されたからです。せっかく赦されたと思ったのにまた罪を犯してしまうことによって、良心の呵責がなくなってしまうことがなかったのです。それは後に来るものの比喩であって、本当の罪の赦しは得られなかったのです。では本当の罪の赦しはいったいどのようにして得られるのでしょうか。

 

Ⅱ.永遠の贖い(11-12)

 

ですから、次に11節と12節をご覧ください。

「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い換えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではないく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

 

旧約時代、祭司たちは初めの契約の律法に従っていけにえを捧げ、動物の血を流し、神の前に出て、民のために罪の赦しを請いました。神はそのつど、祭司や大祭司を通して罪の赦しを宣言してきたのです。しかしそれはあくまでもひな型にすぎませんでした。完全なものではなかったのです。どんなやっても罪が思い出されました。彼らの良心を完全にきよめることができなかったのです。本当の罪の赦しのためには、イエス・キリストを待たなければなりませんでした。やぎと子牛との血によってではなく、まことの神の子であるイエス・キリストが十字架にかかって流された血を携えて、天にあるまことの聖所に入り、罪の贖いをする必要がありました。その血によって、私たちは神の前に完全な罪の赦しときよめを受けることができるのでした。それは何度も何度も罪が思い出されるような不完全なものではなく、もう二度と思い出されることがない永遠の贖いです。詩篇 103:12には、「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く 離される。」とあります。私たちのそむきの罪を遠く離されるのです。東から西が遠く離れているようにというのは、もう決して交わることがないという意味です。そのような完全な罪の赦しが与えられるのです。なんという幸いでしょうか。これが本物の救いです。それゆえ本物の救いを知っている私たちは本物の贖いによって赦され、本物できよめられたのです。なぜこれが本物だといえるのでしょうか。なぜなら、イエス様は十字架につけられて死なれただけでなく三日目によみがえり、天において本物の幕屋で今もとりなしていてくださるからです。

 

ある村での出来事です。一そうの漁船が沖合で嵐に会いました。ようやく岸の近くまで戻ってきたのですが、そこには岩が多く、とうとう岩礁に乗り上げてしまいました。それを知った村人たちが驚いてやってきました。彼らは船の人を助けようとしましたが、波が高くてとても危険でした。しかしだからといってそのまま見殺しにすることもできません。そこで屈強な者たちが集められ、危険を承知で船を出しました。そして死闘を繰り返すようにして、荒波を越え、漁船の所へ行きました。ところが救命用に用意した船には一度にはたくさんの人が乗れませんでした。そこで何回かに分けて運ぶことにしたのですが、一回行き、二回行き、三回目行きましたが、それでも全員乗り切れず最後に一人だけ残ってしまいました。

そうこうしているうちに嵐はいっそう激しくなっていき、もはや助けに行ったとしても、とても無事に戻って来られそうもありませんでした。ところがその時、一人の勇気ある若者が「ぼくが行く」と言いました。もちろん止められました。それでも行くと、振り切ると、今度は母親が止めました。彼の父親がやはり嵐で遭難しており、その母親に残されたのは彼を含めた二人の息子たちだけだったからです。しかし彼はなお「行く」と言い張りました。というのも、実は最後に残ったたった一人というのは、彼のお兄さんだったからです。彼は言いました。「兄さんは他の人を先にやっておいて自分はあとに残ったんだ。ぼくが行かないで誰が行くんですか」

こうして彼は人々を振り切るようにして船を出しました。そしてお兄さんを無事に救出して帰って来たそうです。

 

イエス様は私たちを兄弟と呼ぶことを恥となさいませんでした。私たちを弟、妹のように思ってくださいます。そして、ちょうどいのちがけで兄を助けに行った弟のように、いのちがけで私たちを救ってくださったのです。十字架の上で。イエス様の愛は何と驚くべきものでしょう。イエス様はご自分のいのちをかけて救ってくださるのです。

 

しかも聖所でのイエス様の救いは実に見事です。12節には、「ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」とあります。毎日、毎日、何回も繰り返して、いつまでも続けられなければならない旧約時代の贖いと違い、たった一度だけで、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。イエス様の贖いのわざは完全です。ですから、どんな人でも救うことができるのです。どんな汚れた人でも、どんなに皮膚の色が違っても、その人にどんな過去、背景があったとしても、どんな人でも救うことができるのです。イエス様は確信をもって、たった一度だけ、永遠の救いをしてくださいました。

 

毎年秋になるとプロ野球の日本シリーズが行われ、日本中のファンを楽しませてくれますが、1994年10月8日に行われた巨人と中日のリーグ優勝をかけた戦いは、いまでも語り継がれている名勝負です。この試合に勝った方が日本シリーズに行くということで、だれもが注目していたゲームでした。その大切な試合のセーブを任せられたのは桑田投手です。彼は7回からマウンドに立つと魂がこもった投球をして、最後のバッターも三振に抑え、見事に巨人を優勝に導くのです。最大で13.5も引き離れていたペナントレースを見事に逆転して優勝するのです。この年に流行語になった言葉が「メイクドラマ」です。ドラマみたいなホントの話、ドラマを作るという意味で「メイクドラマ」と呼ばれたのでした。

これは野球の好きな人ならだれでも知っている名場面ですが、しかし、イエス様がなさったセーブはそんなものではありません。それは完全なみわざであり、永遠の救いだったのです。イエスの血によってあなたは、完全な救いを得ることができるのです。

 

Ⅲ.生ける神に仕える者(13-14)

 

ではイエス様はいったい何のためにそのようなみわざをなさったのでしょうか。13節と14節にこうあります。

「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰をけがれた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよめいものにするとしたら、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

 

イエス様がそのようなみわざをなさったのは、私たちをきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とするためでした。

皆さん、死んだ行いとはどういう行いのことでしょうか。死んだ行いとは、命のない行い、命を生み出さない行いのこと、つまり、自己中心な行いのことです。それは、霊的に死んだ状態から出て来て、さらなる死の状態へと導き、やがては永遠の滅びへと至らせるのです。生ごみや臭いモノにたかるハエって どんなに追い払ってもすぐまた戻ってくるように、自己中心や自分の欲に従う生き方は霊的に死んだ状態で腐っているので、どんなに追い払っても戻ってくるのです。それを完全に追い払うにはどうすればいいのかというと、その元を取り除いて綺麗にすればいいわけです。それがイエス・キリストの血によるみわざでした。

 

主イエスが来られて、十字架の上で永遠の贖いを成し遂げられたのは、まさにそのためだったのです。そのようにして私たちを生きた行いへと向かわせ、いのちの実を結ばせるためだったのです。

 

もう一度13節を見てください。ここには、「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば」とあります。動物の血は、それが人々にかけられることによって、彼らの肉体、つまり、外側をきよいものにすることがでたのであれば、私たちのためにささげられた御子イエスの血は、どんなにか私たちの心をきよめて生ける神様に仕える者とすることができるというのです。

 

私たちが日々、主の十字架を仰ぎ見る理由がここにあります。私たちはそこで流された御子の血によって自分の罪が赦されていることを覚えます。しかし、それが十字架の意味のすべてではありません。私たちはその御子の血を自分自身のうちに受けているのです。つまり、十字架で裂かれたキリストのからだと流された血を、パンとぶどう酒を通して食することで、私たちはこの方と一つにされているのです。それはこの信仰に生きるためです。つまり、そのことによって私たちは主と一つにされ、自分を中心として生きていた以前の古い自分が、キリストとともに十字架で死に、また、キリストの復活のいのちにあずかることで、私たちは神の子どもとして新しく生まれ変わるのです。ですから、信仰者はみなキリストのいのちを宿す者であり、彼のうちにあって、彼によって生かされるのです。それは御霊なる主の働きによるものです。

 

ガラ手や人への手紙5章16~18節には、こうあります。「 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」

 

御霊によって歩むなら、私たちは自分の肉の欲を満たそうとする死んだ行いから解放されます。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。そのどちらかしかありません。主イエスは、この御霊によって、十字架の杯を取り除けてほしいというご自分の願いを退け、父なる神様の御心としての十字架の道を進んで行かれました。そのようにして、主は生ける神様に仕えられたのです。

 

同じように、私たちも神の御霊によって生ける神に仕えることができるのです。私たちは御子の血によって、犯した罪に対する赦しを受けているだけでなく、御子のいのちをうちに宿すことで、罪の力から解放され、生ける神様に仕える者とされるのです。もう二度とあなたにハエがたかることはありません。

 

皆さんの心はどうでしょうか。このイエスの血によって聖められているでしょうか。このイエスのいのちをいただいて、罪の束縛から解放され、神に仕える者とされているでしょうか。

 

箴言にこういうことばがあります。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)私たちはよっぽど気を付けていないと、そう、力の限り心を見張っていないと、自分知らないうちに自分の思いにどっぷりと浸かってしまうことがあるのです。「ああ、めんどうくさい」とか、「あの人ってさあ、・・・だよね」といった悪いことでないにしても、他の人のことを話題にしてしまうことがあります。そういうのは神様が喜ばれることではなく、自分の肉の思いから出ていることですから、注意が必要です。そうでないと、ほら、ハエがたかりますから・・・。「信仰からでていないことは、みな罪です。」(ローマ14:23)愛から出ていないことは、みな罪であって、死んだ行いでしかないのです。ですから、そういうことがないように、私たちは力の限り、見張って、私たちの心を見守らなければなりません。

 

英国にジョン・ウェスレーという伝道者がいました。彼は広く伝道し、多くの書物を書き、すぐれた学者でもありましたが、そのウェスレーが死に臨んだ時、彼はこう言ったそうです。「私は天国に入る何の資格もない」

その場にいた弟子たちはみんなびっくりしました。ウェスレー先生ともあろう人が、不信仰になってしまったのだろうか、先生を信頼してついてきたのに、土壇場になってこんなことを言って、と思ったかもしれません。

しかしその時、ウェスレーは続いてこう言いました。「イエス様が私のために死んでくださったので、私は天国に入れる。」と。

 

これだけの学者であっても、自分の力では天国に入る資格はありません。天国に入るためには、御子イエスを信じなければなりません。信じて、罪を赦してもらわなければならないのです。また、このイエスの血によって神の御霊をいただき、死んだ行いから離れ、生ける神に仕える者とされるのです。

 

あなたは御子イエスの血によって罪が赦されていますか。その御子のいのちを宿すことによって、罪の力から解放され、生ける神に仕えておられるでしょうか。力あるイエスの血を受けてください。そして、あなたも罪から救われ、生ける神に仕える者となってください。お祈りします。

申命記15章

今日は申命記15章から学びたいと思います。イスラエルの民はエジプトを出て約40年間荒野をさまよいましたが、ようやく約束の地の入り口まで導かれました。ここからヨルダン川を渡って約束の地に入ります。そこでモーセは、イスラエルが約束に地に入るにあたり、そこでどうあるべきかをくどいと思われるくらい何回も語るわけですが、5章から11章までにはその原則的なことを、つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでしたが、12章からはその具体的なことが教えられています。この15章では、貧しい人、負債のある人、また奴隷に対して、どうあるべきかが語られます。

 

1.負債のある人に対して(1-11

 

まず1節から11節までをご覧ください。ここには、負債のある人たちに対してどうあるべきかが語られています。そして1節には、「七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。」とあります。どのように免除したらいいのでしょうか。2節には、「貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。」とあります。これは主の命令です。外国人に対しては取り立てることはできますが、同胞であるイスラエル人に対しては、貸しているものを免除しなければなりません。なぜでしょうか。4節をご覧ください。なぜなら、そうすることによって、イスラエルの民の中に貧しい者がなくなるからです。こうすることによって、自分が損をするどころか、主が彼らを豊かに祝福してくださいるのです。

 

これはいったいどういうことでしょうか。これを新約聖書の光に照らしてみると、罪の赦しについて語られていることがわかります。負債を負っているということが、罪を犯したことにおいて語られているからです。もちろん、新約聖書においても、貧しい人に対する施しが勧められていますが、もっと中心的に教えられているのは、罪を犯すことにともなう負債なのです。兄弟があなたに対して罪を犯したなら、あなたはその兄弟の罪を赦してあげなければならないということです。そうすれば、あなたは祝福を受けるのです。

 

マタイ72135節には、もし兄弟が自分に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきかが教えられていますが、主は、七を七十倍するまで赦しなさい、と言われました。もし、心から兄弟を赦さなければ、天の父は、その人を獄吏に引き渡すと言っています。それは、自分自身の罪が主に赦していただいたのにもかかわらず、同じように負債のある兄弟を赦してやらなかったからです。すなわち、このように教えられている背景にあるのは、神の深いあわれみなのです。神があなたを赦してくださったのだから、あなたがたも互いに赦し合わなければならないのです。それができないとしたら、その人は自分がいかに罪深いのかを知らないのであって、その罪を赦していただいたという恵みさえもわからないのです。赦していただいたからこそ、互いに赦し合うことができるのであって、それができないということは、本当の意味で赦されてはいないのです。主が赦してくださったように、互いに赦し合うとき、主は、必ずその人を祝福してくださるのです。それがどのくらいの祝福なのかは、5節と6節に期されてあります。彼らがそのように兄弟の負債を免除するなら、彼らは多くの国々に貸すが、借りることはありません。また彼らは多くの国々を支配しますが、支配されることはないのです。

 

7節から11節までをご覧ください。ここには、貧しい兄弟に対して、心を閉ざしてはならない。またその手を閉じてはならないとあります。心に邪念を抱き、第七年目が来た、すなわち、免除の年が来たと言って、貧しい兄弟に物惜しみして、何も与えないというようなことがないように気を付けなければなりません。進んでその手を開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならないのです。心に未練をもってはなりません。このことのために、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからです。別にそれはお金だけのことではありません。私たちの生き方そのものなのです。このみことばに従って、私たちが心を開き、手を開いて、惜しみなく与えるなら、主は必ず祝福してくださるのです。

 

今回のさくらの会堂建設を通して、私はそのことをとても強く示されました。昨年の夏にアメリカに行ったとき、ある結婚してまだ23年しか経っていない若い夫婦の家に泊めてもらいました。彼らとは以前から知っていましたが、それほど親しくしているわけではありませんでした。しかし、私たちが教会を訪問したとき、私たちのためにその家を開放してくれただけでなく、あとで、結構多額の献金をしてくれました。こんなに献金して大丈夫だろうかと心配したほどです。

すると、私たちが帰国してから彼からメールがあり、こんなことが書いてありました。私たちのためにささげることができたことを感謝しています。そして、主は本当に忠実な方です。あの後で会社の上司からオフィスに来るようにと言われたので行ってみると、「君はよく仕事をしていて、成績もいいので、ボーナスをあげる」と言われました。それが何と私たちに献金した額とちょうど同じ額だったのです。彼はそれを聞いて、本当に主はすばらしいとほめたたえましたが、そうした彼らの生き方を、主が祝福してくださったのでした。

 

それから1月末にどうして足りない時に、私たちは祈っていました。このままでは会堂も立ちませんから、主よ、私たちをあわれんでください。必要を満たしてくださいと祈っていたのです。すると、ある方からメールがあって、彼のために、わざわざ本を送ってくれてありがとう。実は、少し前に兄弟がなくなってその遺産を相続したことで自分の借金を全部支払うことができました。残りはさくらの会堂のためにささげますと言って、送ってくださったのです。それが、私たちが必要と祈っていた金額とちょうど同じだったのです。うそみたいなホントの話です。

「あれっ」私たちは彼のために何をしたかなぁと振り返ってみたら、私たちがアメリカに行ったとき、彼の妻のお母さんが日本人で、どのように伝道したらいいかわからないので教えてほしいと言われたので、三浦綾子さんの本を読むといいと思うとアドバイスしました。そして帰国後、私は彼のことを思い出し、アマゾンで三浦綾子さんの本を3冊注文して送ったのでした。まさか、そんなことで献金してくれるなんて思ってもいませんでした。でも、その手を開き、その心を開いて、貧しい人に施すなら、神は豊かなに祝福してくださるのです。

実は、これには続きがありまして、献堂式のニュースレターを送ったところ、そのお母さんが行っているかどうかはっきりわかりませんが、二人の孫がローリングヒルズ日本人教会に行くようになったととても喜んでいました。これは奇跡だ!、これは奇跡だ!・・と。そうです、それは奇跡です。それは彼が心を開いて惜しみなく施したので、主はそのような彼の祈りに答えてくださったのです。

ですから、これはお金だけのことではないのです。私たちの信仰、私たちの生き方が問われているのです。私たちの心を開き、その手を開いて、惜しみなく施すなら、惜しみなく赦すなら、主は必ず祝福してくださるのです。それは主が私たちを赦し、ご自身の尊いいのちを与えてくださったからです。

 

2.ヘブル人の奴隷の解放(12-18

 

次に12節から18節までをご覧ください。ここには、ヘブル人の奴隷を解放するように命じられています。12節には、「もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。」とあります。しかも、「彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。」(13-14なぜでしょうか?その理由が15節に書いてあります。それは、彼らがエジプトの地で奴隷であったことを彼らが思い出し、そうした状態から解放されたことを覚えるためです。これはいったいどういうことでしょうか。

 

この奴隷であったとか贖い出されたということも、新約聖書においては罪との関係で語られていることがわかります。最初の人が悪魔の誘惑に陥って罪を犯して以来、人は悪魔の奴隷となってしまったということ、そしてその罪の支配下の中にいると、聖書では教えています。罪を犯さなければならないという、罪の奴隷となっているのです。しかし、キリストが十字架につけられ、よみがえられたゆえに、キリストに結びつけられた私たちも、罪に対して死に、キリストに対して生きる者とされました。ですから、もはや罪に従う必要はなくなり、罪から自由にされたのです。ですから、私たちは、罪を赦された者だけではなく、罪の力からも解放された者なのです。

 

 私たちが聖なる民として生きるときに、このことはとても重要なことです。私たちは互いに赦し合わなければなりません。罪の赦しがなければならないのです。また、罪の力に支配されることなく、御霊によって支配されていなければなりません。霊的に、罪の負い目を持っていたり、罪の支配下にあってはならないのです。確かに罪を犯さずには生きていくことはできませんが、だからといって罪を犯そうというのではなく、御霊の力によって、罪から自由にされていなければならないのです。それが神の民の特徴であり、この世とは異なる、この世とは分離された、クリスチャンの姿でもあるのです。

 

3.牛と羊の初子について(19-23

 

次に19節から終わりまでをご覧ください。こうして、奴隷を解放しなければいけないという教えに続いて、牛と羊の初子はどうしたらよいかが教えられています。19節と20節には、「あなたの牛の群れや羊の群れに生まれた雄の初子はみな、あなたの神、主にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。主が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、主の前で、それを食べなければならない。」とあります。これはどういうことでしょうか。

 

神は常に、「初めのもの」をご自分にささげるようにと命じておられます。アベルは、初子の子羊を主にささげ、それが受け入れられました。そして出エジプト記で、ここにあるように、家畜の初子は、主のものであると宣言されています。レビ人は、これら初子の代わりに取られたものであると、民数記には書かれています。収穫も初物を主におささげします。なぜ初めのものかというと、それはもっとも大切なもの、優先されるものだからです。彼らが主を自分たちの神としているかどうかの指標は、彼らのものの中で初めのものを主におささげしているかどうかで測られます。口ではどんなに、「私は主を愛しています」と言っても、残りものを主にささげるのであれば、その言葉には真実さがありません。なぜなら、第一のものを第一にしていないからです。

 

私の家はもともとキリスト教ではなく仏教なはずですが、どういうわけか、給料を初めてもらったときに母は、「いいがい。初物は神にささげんだよ。」と言いました。別にささげても、ささげなくてもどうでもいいんじゃないかと思いましたが、言われるままにしました。それは、神を神として敬うことの表れだったんだなぁと、あとで思うようになりました。だから、初物を神にささげるという行為は、自分の最も大事なものを主にささげることでもあるのです。それが命じられているのです。なぜでしょうか。

 

なぜなら、主は最も大切なものを私たちにおささげになったからです。それはご自分のひとり子イエス・キリストです。キリストは、コロサイ書1章15節から読みますと、万物の前におられた初めの方であり、この方によってすべてが造られ、この方のためにすべての物が造られました。また、死者の復活においても、この方が初めであり、すべてのことにおいて「初め」の方、長子であられる方なのです。その方をささげてくださいました。キリストは神にとって初物なのです。

 

だからここに、牛の初子を働かせたり、羊の初子の毛を刈ってはならないと命じられているのです。また、この初子をもって礼拝し、家族とともに食べなさいと命じられているのです。この初物こそまさに神の御子イエス・キリストだからです。このお方をないがしろにせず、礼拝の対象にしていきなさい、という意味なのです。私たちがこの方を教会のかしらとし、この方と交わりを持つことが、もっとも大切なことなのです。余ったものではだめです。自分の思いや、自分の考えを最初にありきではだめなのです。まず神の御子をもって礼拝し、この方を仰がなければなりません。これが、私たちが神の民、聖なる国民であるゆえんです。キリストを礼拝しているのか、そうでないかによって、人が聖なるものかそうでないかが区別されます。ですから、私たちの間に、罪の赦しがあり、罪の力からの解放があり、そして主イエス・キリストが礼拝されている、中心になっていることが、教会の姿であり、聖なる民であると言うことができるのです。

 

21節をご覧ください。初物に欠陥があってはなりませんでした。これは、神に受け入れられるささげものは完全でなければいけないという意味です。すなわち、神の御子イエス・キリストだけが、罪の供え物として完全な方なのです。私たちはこの方にあって罪の赦しをいただき、互いに赦し合うことができます。この方にあって罪の奴隷から解放されました。この方にあって、自ら進んでしもべとなることができます。この方だけが神の初物であり、完全な神のいけにえなのです。私たちはこのイエス・キリストにあって、イエス・キリストを中心として生きるとき、神に喜ばれた歩みがまっとうできるのです。

ヘブル8章1~13節 「新しい契約」

きょうは、ヘブル人への手紙8章から学びます。タイトルは、「新しい契約」です。聖書では「契約」ということをとても重んじています。私たちの持っている聖書も「旧約聖書」と「新約聖書」という神との契約から成り立っています。しかし、きょうの箇所に出てくる「初めの契約」とか「古い契約」というのは旧約聖書のことではありませんから、注意が必要です。きょうの箇所に出てくる「古い契約」とは9節に、「それは、わたしが彼らの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。」とあるように、彼らがエジプトから導き出された後にあのシナイ山で結んだ契約のことであり、律法のことです。それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまう性質を持っていますが、新しい契約はそのようなものとは違います。新しい契約は、たとえ私たちが神との契約を守ることができなくとも、イエス・キリストを信じることによって、そのすべての罪が赦され、救われるというものです。これが福音です。良い知らせです。なぜこれが良い知らせなのかというと、私たちの行いとは全く関係なく神の一方的な恵みによって救われるからです。ですから、この新しい契約というのは、私たちと神様との根本的な関係の変革を意味するとても重要な内容なのです。きょうは、この新しい契約について三つのポイントでお話したいと思います。

まずこの契約の仲介者であられるイエス・キリストについてです。第二のことは、古い契約とはどのようなものかということ、そして第三のことは、では新しい契約とはどのようなものかについてです。

 

Ⅰ.さらにすぐれた契約の仲介者(1-6)

 

まず1節から6節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。」

 

「以上述べたこと」とは7章で語られていたことで、イエス・キリストはメルキデゼクに等しい大祭司であるということです。どういう点で等しかったのでしょうか。まず、「メルキデゼク」という名前の意味ですが、これは「義の王」という意味でした。義、救い与えることができる方、救い主という意味です。そして、彼はサレムの王でしたね。サレムというのはエルサレムのことで、それは「平和の神」という意味でした。だから、メルキデゼクは義なる方であり、私たちに救いをもたらすことができる方です。そして、その結果として、私たちの心に真の平和を与えることができる方です。そればかりではありません。彼には母もなく、系図もありませんでした。その生涯の初めもなく、いのちの終わりもありませんでした。本当はメルキデゼクには母もいて、系図もあって、その生涯の初めも、終わりもありました。でもそれを書く必要がなかったのです。なぜなら、このメルキデゼクという人物はイエス・キリストのひな型だったからです。イエス・キリストがどういう方であるのかを表していたからです。一般の祭司ならイスラエル12部族の中のレビ族から選ばれましたがイエスはユダ族の出身ですから、キリストはそうした一般の祭司とは次元の違うもっとすぐれた祭司なのです。また、キリストは死んで終わりませんでした。キリストは死んで三日目によみがえりました。そして、天に昇られ、神の右の座に着座されたのです。ですから、今も生きて、私たちのためにとりなしていてくださるのです。キリストは永遠に生きておられる神の祭司なのであります。

 

これが7章で語られていた要点です。すなわち、私たちの大祭司であられるキリストは天におられる大能者の右の座に着座された方であり、人間が設けたのではない、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方なのです。主が設けられた真実の幕屋とは天国のことです。皆さん、これが天国の姿です。天国では大能者である神の右の座に神の子であるキリストが座って仕えておられるというのです。この「仕えておられる」という言葉は「レイトゥールゴス」というギリシャ語で、「礼拝の務めをする」という意味です。10章11節には「礼拝の務めをなし」と訳されています。昔、イスラエルの祭司たちが幕屋である聖所で礼拝の務めをしていたように、キリストは天国で大祭司としてまことの礼拝の務めをしておられるのです。私たちは時々、天国ってどういうところかなぁとか、天国に行ったら何をするんだろうと想像することがありますが、ここにはっきりと天国がどういう所なのか、そこでどんなことをするのかが書かれてあります。つまり、天国は礼拝が行われているのです。しかも私たちが毎週日曜日に行っているような1時間そこそこの礼拝ではなく、いつも、いつまでも、ずっと続く礼拝です。いくらすばらしい礼拝でもそんなに長かったら疲れるんじゃないですか?と思う人もおられるかもしれませんが、天国での礼拝は疲れるどころかもっと喜びと平安に満ち溢れます。なぜなら、そこに神がおられるからです。神に造られた人間にとって最もすばらしいこと神とともにいるときです。天国では永遠に神が共におられます。だから疲れることも、たゆむこともないのです。人間のすることは、必ず初めがあって終わりがあり、いくらすばらしい行事でも長すぎれば疲れてしまいますが、この天における礼拝はそういうものではありません。それは、私たちがこの地上でもよく体験していることでもあります。一人で主の前に祈っているときや、何千、何万人の人たちと賛美する時に、もう何もいらないと思うような思いになることがあります。

 

私は数年前にアメリカコロラド州にあるコロラドスプリングにある大きな教会に行ったとき、そこには五千人くらいでしょうか、もっといたかもしれません。大勢人たちが声を合わせて賛美している中にいたとき、震えるほど感動したのを覚えています。たった五千人でもそうなのですから、万の幾万倍もの人たちが一緒に礼拝したら、それはどんなにすばらしい礼拝かと思います。もうそこから離れたいと思えないくらいの感動で心が満たされるのではないでしょうか。でもそれはこの天国の礼拝の前味にすぎません。天国ではもっとすばらしい礼拝がいつもささげられているのです。

 

使徒ヨハネはこの天国の様子を神の聖霊によって啓示が与えられ、このように語っています。黙示録5章11~14節です。

「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」

そこでは、天と地と、地の下と、海の上のすべての被造物が、神と、小羊、これはキリストのことですが、「賛美と栄光と力がとこしえにあるように。」というと、四つの生き物がアーメン、アーメンと何度も言い、長老たちはひれ伏して拝んでいました。そこにはあらゆる国々の、あらゆる時代の、万の幾万倍というクリスチャンたちが声を合わせて主を賛美しているのです。もう感動で震えることでしょう。そこから離れたいなんて思うこともないのです。そのためにキリストは大祭司として、とりなしの祈りをささげておられるのです。これが天国です。

 

そのことから教えられることは、礼拝ということがどんなに大切であるかということです。私たちは礼拝をどれだけ重要なものと位置づけているでしょうか。もちろん、それは日曜日に持たれている礼拝ばかりでなく、個人礼拝ともいうべき毎日のディヴーションを含めてのことです。そして何よりも私たちが毎日、この主を礼拝するという姿勢で生きることの重要性です。礼拝というのは何よりも神中心であり、神をあがめるわけですから、毎日の生活において、私たちがどれだけ神を意識して生活しているかが問われていると言うことができるでしょう。

 

このように言うと、中には、「牧師はいいですよ。毎日神様のことだけを考えて生活しているわけですから。でも我々のように毎日この世にどっぷりと浸かっているものにとって、神様のことを考えていたら仕事になりませんよ。」と言う方がおられます。本当にそうでしょうか。逆です。もしあなたが神の前にひれ伏し、神を礼拝するなら、神から恵みを受けることができるのです。それなのに、もし信仰というものをこのように二元論的に捉えてしまうなら、せっかくのすばらしい神の恵みや力を体験することができなくなってしまいます。ただ頭だけの、ただ知識だけの信仰にとどまってしまうわけです。しかし、私たちはみなこの地上においては世俗的なものの中に生きていますが、その生きる力は決してこの世のものから来るのではなく、永遠の神の国、つまり、この天国から来るのです。もう一度言います。私たちの生きる力はこの世のものから来るのではなく、永遠の神の国、天国から来るのです。ですから、神の国とその義とを第一にしなければなりません。そうすれば、それに加えてすべてのものは与えられます。この神の力によらないで、自分の力、自分の考え、自分の思いで生きるなら、あなたはいつまでも失敗したり、敗北したりするでしょう。しかし、そのようにならないようにいつも祈っていて下さる方がいます。それが主イエス・キリストです。キリストは永遠に祭司の務めをしておられるからです。ですから、この方を無視して、勝利ある人生を歩もうと思ったら、それは全く意味のないことであり、何の力もありません。イエス様を通して神を礼拝することによって、私たちには計り知れない神の恵みと力が与えられるのです。それが6節で言われていることです。

 

あなたは何を拠りどころとして生きておられますか。天の神を仰ぎ、この神を礼拝して、神の力を求めておられますか。それとも、この地上のものに振り回されてはいないでしょうか。「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。」とみことばにあります。この神を礼拝し、この神から力をいただいて、日々歩ませていただきたいものです。

 

Ⅱ.初めの契約(7-9)

 

次に、7節から9節をご覧ください。ここにはなぜイエス・キリストなのかということが述べられています。そしてそれは、あの初めの契約に欠けがあったからです。もし欠けがなかったら後のものは必要なかったのです。あの初めの契約とは何でしょうか。それは先ほども述べたように、イスラエルがエジプトから解放された後にシナイ山で与えられた律法のことです。あの律法には欠けがあったんです。どういう点で欠けがあったのかというと、それを守らなければ契約は成立しないということです。なぜなら、それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまうという性質のものだったからです。でもどうでしょう。彼らはそれを守ることができたかというとそうではなく、どんなに守ろうと努力しても守ることができませんでした。それは彼らが罪人であったからです。それは彼らだけではありません。私たちもそうです。人はみな罪人であり、神の律法を守り行うことなどできないのです。それはローマ3章10節以下のところにこのように書かれてあるとおりです。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10-12)

 

それならば、なぜ神は彼らとそんな契約を結ばれたのでしょうか。それは、このような律法を与えることによって、自分たちはそれを守ることができない罪人であるということを悟らせるためでした。つまり罪を自覚させるためだったのです。このことがわからないと救いがわかりません。神の恵みがどういうものかがわかりません。ですから、神は最初からそのことをご存じで、預言者を通して新しい契約を結ぶということを語っておられたのです。それが8節と9節のことばです。ここに引用されているのは旧約聖書にあるエレミヤの預言です。ここで主は預言者エレミヤを通して、主がイスラエルと新しい契約を結ぶ日が来ると言われました。それはかつて彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだあのシナイ契約のようなものではありません。そのような契約を結んでも、彼らは守ることができないので何の意味もないからです。ただ自分は神の律法を守ることができないという罪責感に悩むだけです。でも必要なのは、その罪が赦されることです。ではどうしたら罪が赦されるのでしょうか。そのために神が与えてくださったのが新しい契約です。

 

Ⅲ.新しい契約(10-13)

 

10節から13節をご覧ください。ここには、この新しい契約がどのようなものなのかが三つの点で説明されています。

 

第一に、それは神の律法が私たちの心に書き記されるということです。10節にはこうあります。「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。」彼らの心に律法を書きつけるとはどういうことでしょうか。モーセが神の律法をイスラエルの民に語ったとき、その教えは石の板に書きしるされました。イスラエル人はこの石の板に刻まれた神のみことばを自分の行いによって守ろうとしましたが、それを守ろうとすればするほど守れない自分にジレンマを抱えていました。

 

しかし、新しい契約は違います。新しい契約は、私たちがキリストを信じることによって、私たちの罪がキリストの血によって聖められ、神の御霊が注がれるというものです。イエス・キリストを信じることで、神ご自身の聖霊が私たちの内に入ってくださるのです。それでこの聖霊が私たちのうちにとどまっておられ、聖霊が私たちに語りかけてくださるのです。そして、この聖霊によって神のみことばを悟り、それを行うことができるようになるのです。これが神の律法を彼らの心に書きつけるということです。ですから、人はこの新しい心が与えられることによって救われるのです。それは救い主イエスを信じる信仰によってなのです。

 

昨日、さくらでオープン記念のコンサートが行われました。ものすごい感動でした。何が感動したかって、蜷川さんの全身から溢れる魂の演奏にです。いったいどこからそんな力が出てくるんだろうと思っていたら、ご自身が救われた時の証をしてくださいました。高校の音楽科、音大を出てフランスへ留学したのですが、自分がどんなに一生懸命に演奏しても全然先生に認めてもらえないのです。どうしてだろうと悩んでいた時、ある方から一枚のトラクトをもらうのです。そこにはイエス・キリストが私のために十字架にかかって死なれたこと、三日目によみがえられたこと、そして天に昇り神の右の座に着かれ、今も生きてとりなしておられることが書かれてありました。そして、教会に行って話をきくうちに、自分から音楽を取ったら何があるんだろう、いったい何のために音楽をしているんだろうと考えていくうちに、それは自分のために十字架に死んでくださり、自分の罪を取り除いてくださった神様のためだということがわかるんですね。それが、彼女が演奏をする目的であり土台になったのです。それが昨日の演奏に表われていたんですね。昨日は20~30人の新来者がおられましたがが、本当にみんな感動していました。その中にコリーナ矢板というところの山奥から来られた方かせおられましたが、「もうお話を聞いていてとても感動しました。私、一人なんです。親戚もだれもいなくて孤独なんです。いるのは2匹のねこちゃんだけで、チラシを見てきょうは楽しみにしていたのですが、ほんとうに良かったです。」と言われ、きょうの礼拝にも来ますと言って、帰って行かれました。

 

これが私たちの信仰です。これまでは石の上に刻まれた律法に捉われて生きてきたのですが、イエス様を信じたら、イエス様を信じて聖霊が与えられたら、この神の聖霊の恵みと力によって生きるようになったのです。それは心の奥底からあふれ出る喜びです。

 

第二に、新しい契約はすべての人が神を知るようになるということです。11節には、「また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、「主を知れ」ということは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。」

とあります。どういう意味でしょうか。彼らは自分の隣人に、また、それぞれその同胞に、「主を知れ」と言って、教えることは無くなるということです。なぜなら、どんな人でも、神を知るようになるからです。

 

私は牧師として、こうして毎週みことばを語らせていただいておりますが、人々に神を知ってもらうということは本当に難しいことだなぁと感じることがあります。神についての知識をただ伝えるだけであれば、それほど難しくないかもしれませんが、本当に神を知るということは知識ではないからです。それはたとえば、毎週礼拝に出席し、信仰生活に熱心に励んでいるような人でも、ちょっとした生活上の問題や何らかの躓きによって信仰から離れてしまったり、「神がいるなら、なんで自分がこんな苦しい目に遭わなければならないのか」と言ってつぶやいたり、嘆いたりすることからもわかります。本当に神を知っているなら、そのようなことはないからです。もちろんそれは人間の弱さから来ているのは確かですが、根本的な原因は神をどれだけ知っているかということなのです。

 

しかし、神が人に新しい心を与えてくださると、小さい者から大きい者まで、みんな神を知るようになります。そして神がその人の心を新しくしてくださり、神のみこころに歩み、自分で何かを一生懸命にしようとするよりも、神の御業を期待するようになるのです。

 

新しい契約の第三の特徴は、罪を拭い去ってくださるということです。12節には、「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」とあります。完全な罪の赦しの宣言です。罪を思い出さない、と主は言われます。皆さんの中で、過去の罪で思い悩んでいる方はいますか。主はその罪を赦してくださいます。赦してくださるというだけではありません。ここには、彼らの罪を思い出さない、とあります。なぜでしょうか。なぜなら、キリストが十字架につけられとき、あなたのすべての罪を身代わりとなって負ってくださったからです。その十字架の死によって、信じる人々の罪を赦してくださいました。あなたがイエス様をあなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたの過去罪も、現在の罪も、未来の罪もすべて赦されているのです。初めの契約ではそうではありませんでした。いつも罪が思い出されました。年に一度、贖罪の日があって、たくさんの動物がいけにえとしてささげられ、その動物の犠牲によって罪が赦されました。しかし、またすぐに罪を犯してしまうのです。ですから、いつも罪が思い出されました。そして、毎年、毎年、罪が赦されるための動物がいけにえとしてささげられていたのです。

 

しかし、キリストはあなたの身代わりとして十字架で死んでくださいました。やぎや羊の血が人々の罪を聖めることができるなら、まして神の子であるキリストの血はどんなにか人々の罪を聖めることができることでしょう。そうです。あなたがイエス様を救い主と信じるなら、その罪はもう二度と思い出されないのです。

 

しばらく前に「私の頭の中の消しゴム」という韓国の映画が放映されました。これは若年性アルツハイマーにかかった女性とその夫の話です。年をとってから物忘れをするというのはよくあることですが、若くして物忘れがひどくなる病気は大変辛いものがあります。ご主人のことさえも忘れてしまうのです。「あれっ、あなただれだっけ」となる。その時彼女がこうつぶやくのです。「私の頭の中には、消しゴムがあるんだって・・。」

この映画の基調は「赦し」だそうです。自分を捨てた母親を赦せないで苦しんでいた夫にこの若い妻が赦しのメッセージを語るのです。この作品を製作した監督はクリスチャンで、この映画を通して、赦しの大切さを伝えたかったのでしょう。そして、イエス様はそれをしてくださいました。イエス様が十字架にかかって死んでくださることによって、十字架で、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られることによって、私たちの罪を全部忘れてくださったのです。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

神様はそのひとり子をこの世に送り、十字架につけることによって、その約束を完璧に行ってくださいました。それほどに私たちを愛してくださったのです。あなたがイエス様を信じるなら、あなたがたとえ神との契約を守れないようなものでも、守れなくてすぐに罪を犯してしまうような弱い者でも、神はあなたを赦してくださるのです。これが新しい契約、神の福音です。新しい契約の大きな特徴はここにあります。最初に言いましたが、古い契約はいわば双務契約だと言いましたが、新しい契約は双務契約ではなく、神の愛と真実に基づく一方的な祝福の約束なのです。これは遺言と同じで、一方的なもので、双方の合意に基づくものではありません。しかも、それを受ける人にとって不利になるものは無効ですから、有利になるものだけが有効となります。キリストは十字架で死なれることによって有利どころかすばらしい祝福の約束、罪からの救いを与えてくださいました。それはキリストが十字架で流された血によって署名捺印された遺言状なのです。だから信じる人はその遺言状の通りに救われ、罪が赦され、永遠のいのちを得ることができるのです。

 

ですから、もう律法を守らなければというあの古い契約に戻らないようにしましょう。また天国に行くためにもっと善いことをして、天国への階段を上っていこうなどという考えを捨てて、神の恵みによって用意されたキリストの十字架の死と復活を通して成し遂げられたキリストの救いを受け入れ、今も生きておられるキリストの恵みによって生きる者でありたいと思います。

 

皆さんはどうですか。この神の恵みから離れ、いつしか律法という古い契約に戻っていることはないでしょうか。自分の思い、自分の考えが優先されて、そこに逆戻りしていることはないでしょうか。キリストの十字架以外にあなたを救うことができるものは何もないのです。