申命記17章

 きょうは、申命記17章から学びます。これは1618節からの続きです。1618節には、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。」とありました。これは、イスラエルの民が約束の地に入った後に、神に対して、また人に対して罪を犯した時、どのようにその人をさばかなければならないかということです。そして、そのような時にはその町囲みにさばきつかさを置き、正しくさばかなければなりません。わいろをもらったり、人をかたよってみたりして、さばきをまげてはならないのです。それが神に属する聖なる民としての歩みなのであります。そのことが17章においても続けて語られています。

 

 1.主へのいけにえ(1

 

 まず1節をご覧ください。ここには、「悪性の欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものだからである。」とあります。これはどういうことかというと、1621節と22節で語られたことを受けてのことです。そこには主の祭壇について語られていました。主の祭壇のそばにはどんな偶像も立ててもならないということでした。また、その主の祭壇にささげるいけにえは、悪性の欠陥のある牛や羊をささげてはいけないということです。欠陥品や残り物を主にささげてはいけないということです。主へのいけにえは完全で、最高のものでなければなりません。なぜなら、主は私たちに最高で、完全ないけにえイエス・キリストを与えてくださったからです。最高の愛に対する最高の応答は、心からの最高のいけにえをささげることによってなされなければならないのです。

 

2.二人か三人の証言によって(2-7

 

 次に2節から7節までをご覧ください。ここには、イスラエル中で、男であれ、女であれ、主の前に悪を行って、主の契約を破るような者がいた場合、どうしたらよいかが教えられています。そして、そのような者がいれば、その悪事を行った男または女を町の広場に連れ出して、彼らを石で打たなければなりません。ここでの悪事は、具体的には偶像礼拝の罪です。3節を見るとわかります。主以外のほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象などを拝む者があったら、石打ちにしなければなりませんでした。

 

 ちょっと厳しすぎるのではないでしょうか。たとえそのようなことを行ったとしても、悔い改めるように何度か勧告し、少し様子を見てからでいいのではないですか。それなのに、そういう人がいると聞いたら有無を言わさずに石で打つというのは無情な感じがします。いったいなぜ主はそのように命じておられるのでしょうか。それは7節にあるように、彼らのうちから悪を除き去るためです。もしそのようにしなければ、それがイスラエルの民全体に広がっていってしまうからです。パウロはそれをパン種にたとえ、Ⅰコリント5913節で、不品行な者たちとは交際しないように、そのような者を教会から除きなさいと命じています。教会だから何でも許されるというのではありません。兄弟と呼ばれる者で、不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたら、そのような者とは付き合ってはいけないし、一緒に食事をしてもいけないのです。私たちはパン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしなければならないのです。(Ⅰコリント5:8

 

 しかし、その人が罪を行ったからといってすぐに取り除こうとしてはいけません。6節、7節には、「ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処せられなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。」とあります。これはどういうことでしょうか。これはよく確かめてということです。また、その人が悔い改めるように、その手順を踏んでということです。

 

 このことについて主イエスはマタイ18章で、「もし、あなたの兄弟が罪を犯したら・・」どうしたらよいかについてこう語っています。(マタイ18:15-20)もし、兄弟が罪を犯したら、その兄弟のところに行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れなかったら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。それでもなお、いうことを聞き入れなければ、教会に告げなさい。それでも聞き入れなければ、その人を異邦人か取税人のように扱いなさい。・・・と。なぜなら、教会にはキリストがおられるからです。その方のいうことを聞かないというのであれば、それは聖霊を拒むことであり、それは決して許されないことだからです。

 

 ですから、ふたりか三人の証言によってというのは、こうした手順を踏んでということであって、よく調べ、確認して、その人が悔い改めるようにと何度も勧告してのことです。そして、その目的はその罪を犯した兄弟をさばくことではなく、兄弟を得るためです。それでも悔い改めなければ、そのような者を取り除かなければなりません。悪を除き去らなければならないのです。

 

 3.主の選ぶ場所で(8-13

 

 次に8節から13節をご覧ください。ここには、「もし、町囲みのうちで争い事が起こり、それが流血事件、権利の訴訟、暴力事件で、あなたのさばきかねるものであれば、」どうしたらよいかが教えられています。そのような時には、「あなたの神、主の選ぶ場所に上り、レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ね」なければなりません。彼らは、あなたに判決のことばを告げてくれるからです。主の選ぶ場所とは、主を礼拝するために祭壇が置かれていたところです。それは主の幕屋なり、神殿がある所です。そこには祭司やさばきつかさがいて、正しい判決のことばを告げてくれるのです。

 

祭司やさばきつかさは、主によって立てられた人であり、神に仕えている人です。したがって、彼らが下した判決には、従わなければいけません。もし聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その人は死ななければなりません。そうすることによって、イスラエルから悪を除き去ることができました。そのようにしてイスラエルの民が神を恐れ、不遜なふるまいをすることがなくなったからです。

 

今の時代、この役割をゆだねられているのは私たち一人一人のクリスチャンであり、キリストの教会です。なぜなら、私たちはみな神に対する祭司とされたからです。ですから、私たちは教会で起こっているさまざまな事柄について、祈りとみことばによって正しく判断し、神のみこころに従って正しくさばかなければなりません。そうであれば、なおさらのこと、神のみこころをよく知るために聖書をよく学び、聖書から検証する必要があります。パウロはテサロニケの人々に、「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」(1テサロニケ5:21)と言いました。

 

4.イスラエルの王(14-20

 

 次に14節から20節までをご覧ください。14節と15節には、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。」とあります。

 

モーセは、イスラエルが、将来、自分たちの上に王を立たせたいと願うことを予見していました。Ⅰサムエル86節のところに、イスラエルの民がサムエルのところにやってきて、「私たちをさばく王を立ててください。」と言ったことが記されています。それまでイスラエルは、預言者から語られる神のことばと、祭司の務めによって与えられる、主のご臨在によって支配されていました。つまり、神が彼らの王となっている神政政治だったのです。しかし、周りの国々と同じように、自分たちを統治する王が欲しいと願い出るようになると預言していたのです。このことは神のみこころではありませんでしたが、神はイスラエルの上に王を立てることを許されました。

 

しかし、そのような時にはどうすべきかがここで語られています。一つのことは、同胞の中から王を立てなければならないということです。同胞でない外国人を、彼らの上に立てることは許されませんでした。

 

第二に、やがて立てられる王は、自分のために馬をふやしてはなりませんでした。どういうことでしょうか。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならなかったのです。これは軍事力を持ってはいけないということです。当時の世界では、軍事力として馬が用いられました。ですから、多くの馬を持つ者は勝利することができました。その馬を持ってはならないというのは、そうした人間的な力ではなく、神ご自身に信頼するようにという意味です。

 

第三に、多くの妻を持ってはなりませんでした。なぜなら、そうした妻の存在が偶像へと陥らせ、神から引き離されることになるからです。

 

そして第四のことは、自分のために金銀をふやしてはならないということです。なぜなら、多くの金銀を持つことによって心が高ぶり、自分を神だと錯覚するようになってしまうからです。その結果、神を神とせず、神に敵対することになってしまい、神のさばきを受けることになってしまうからです。

 

イスラエルの歴史の中でもとても豊かな王であったのはソロモンです。しかし、彼は神のあわれみによって王になったにもかかわらずそのことを忘れ、神の命令に聞き従わずに暴走し、最後は王国が分裂する原因を作ってしまいました。Ⅰ列王記1014節には、「一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。」とあります。それをソロモンが住む宮殿に使い、宮殿を金でいっぱいにしました。

そして同じくⅠ列王の1026節には、「ソロモンは戦車と騎兵を集めたが、戦車一千四百台、騎兵一万二千人が彼のもとに集まった。そこで、彼はこれらを戦車の町々に配置し、また、エルサレムの王のもとにも置いた。」とあります。また、同じⅠ列王記1029節には、「エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。同様に、ヘテ人のすべての王も、アラムの王たちも、彼らの仲買で輸入した。」とあります。

さらに、Ⅰ列王記11章に入ると、彼は多くの妻も持ちました。「ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、『あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。』と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」(11:1-3

ソロモンはここに書かれているように、多くの馬を持ってはならい、多くの妻を持ってはならない、そして多くの金銀を持ってはならないという神の命令に従わなかったので、彼自身が高ぶり、ほかの神々に心が寄せてしまい、神のさばきを招いてしまいました。

 

18節から20節までをご覧ください。ここには、逆に、王としてイスラエルの上に立てられた者がしなければならないことが記されてあります。それは、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない、ということです。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためです。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また神の命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためです。

 

イスラエルの上に立つ王は、神のおきての中に身を置き、神のしもべとして生きることによって、初めてイスラエルを治めることができました。だから、祭司たちから、主のみ教えを書き写し、それを読まなければならなかったのです。神のみおしえから学び、それに従って歩まなければなりませんでした。このように、イスラエルは民であっても、人々を治め、またさばく王であっても、神の律法によって、正しい判断を下さなければなりませんでした。イスラエルの民はどんなものよりも、神のことばを第一として、神のことばによってさばかれていく人々でなければならなかったのです。

 

それは私たちも同じです。私たちクリスチャンも信徒であっても、牧師であっても、あるいはこの世において上に立つ者であっても、だれであっても、神のことばの下に自分を置き、神のみことばに従って歩み、神のみことばによって物事を判断していく習慣を身につけなければならないのです。

申命記16章

今日は申命記16章から学びたいと思います。

 

1.過越しの祭り(1-8

 

まず1節から8節までをご覧ください。1節には、「アビブの月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、主が、夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである。主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主にささげなさい。」とあります。

 

ここには「アビブの月を守り」とあります。アビブの月とはユダヤ人の暦で、正月にあたる「ニサンの月」のことです。この月は大麦の収穫の始まりを祝う月でもありますが、もっと重要なのは、この月が主に過越しのいけにえをささげる月であるということです。それは彼らが約束の地に入って行っても守らなければならない祭りでした。それは、主が、夜のうちに、エジプトから彼らを連れ出されたからです。そうです、過越しの祭りとはイスラエルがエジプトの奴隷であったところから解放されたことを記念して行うものです。彼らは430年もの間エジプトの奴隷として仕えていましたが、主は彼らの叫びを聞かれ、モーセという人物を立てて、そこから救い出されました。それは一方的な神のみわざでした。そのことを覚えるためにこの祭りを世々限りなく行うようにと命じられているのです。

 

その日は、主が御名を住まわせる場所で、羊と牛を過越しのいけにえとして、主にささげなければなりませんでした。「主が御名を住まわせる場所」とは、エルサレムの神殿のことを指します。イスラエルの民はどこに住んでいても、成人男子は皆このエルサレムの神殿に集まり、そこで過越しのいけにえをささげなければなりませんでした。それといっしょに、パン種の入っていないパンを食べなければなりませんでした。それは、彼らが急いでエジプトの国を出たからです。それは、過越しのいけにえをささげてから七日間続きました。このため、種なしのパンの祝いと過越の祭りはしばしば一緒に祝われました。そのようにして、彼らはエジプトの国から出た日のことを、一生の間、覚えていなければなりませんでした。

 

この過越しの祭りと種なしパンの祭りは何を表していたのでしょうか。それは罪のないイエス・キリストが十字架で死なれたことを指し示していました。神の小羊であられたキリストが、過越しの日にほふられたことによって私たちの罪が贖われました。ですから、この過越しの祭りは、キリストが十字架で死なれたことによって成就したのです。クリスチャンはイスラエルに過越しのいけにえと種なしパンの祭りを行うように命じられているように、キリストが私たちの罪のために十字架でかかって死んでくださったことを覚えなければなりません。

主の晩餐はそのために行われるものです。キリストは最後の晩餐のとき、「これは、あなたがたのためのわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」と言われました。また、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」とも言われました。それは御子イエスの贖いを予め表していたものだったのです。ですから、キリストが来られ罪の贖いを成し遂げられた今、私たちがしなければならないことは、私たちのためにご自身をささげられたキリストの十字架の贖いを覚えることです。

 

そして、この過越しの祭りと種なしパンの祭りとともに、初穂の祭りも行われました。それは大麦の収穫を祝って行われるものですが、キリストの復活を指し示すものでした。キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったのです。

 

2.七週の祭り(9-12

 

次に、9節から12節までをご覧ください。ここには、七週の祭りについて語られています。9節と10節にはこうあります。

「七週間をかぞえなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え初めなければならない。あなたの神、主のために七週の祭りを行い、あなたの神、主が賜る祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。」

 

この七週の祭りについてはレビ記2315-22節に詳しく記されてありますが、これは初穂の祭りから50日目に小麦の収穫を祝って行われる祭りです。それは歴史的にはイスラエルがシナイ山で律法が与えられた日に対応しています。出エジプト19:1-13には、「エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。 ・・・」とあります。エジプトを出て50日目に、主はシナイ山で彼らと契約を結ばれ、律法を与えました。

 

それは使徒の働き2章を見るとわかりますが、ペンテコステでその成就を見ることができます。それは五旬節の日に起こった出来事でした。そしてこの日に、聖霊が弟子たちの上に降ったのです。このことによって教会が誕生しました。ですから、この七週の祭りは弟子たちの上に聖霊が降り教会が誕生したことによって成就したのです。ですから、これは教会が聖霊の降臨に感謝し、聖霊に満たされ、聖霊に導かれて生きることの重要性を覚える日なのです。

 

3.仮庵の祭り(13-17

 

そして次に、13節から17節までをご覧ください。13節、「あなたの打ち場とあなたの酒ぶねから、取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。」

 

ここには、仮庵の祭りについて教えられています。これはあなたの打ち場と酒ぶねから、取り入れが済んだとき、とあるように、収穫が終わる10月ごろに行われる祭りです。秋の祭りですね。この祭りも、同じように選ばれた場所、すなわち、エルサレムの神の宮に行って行われました。そして、家族や、レビ人、在留異国人、みなしご、やもめ、すべての人がとも喜ぶのです。これは、イスラエルの民が荒野で生活し、仮庵をもって過ごしていたことを思い出す祭りです。まず1日に「ラッパを吹き鳴らす祭り」が行われ、続いて10日に「大贖罪日」があり、そして、14日の日没から七日間、仮庵の祭りが行われました。そして、その8日目は「大いなる日」で、「シムハット・トーラー(トーラー歓喜祭)」と呼ばれる祭りが行われます。ちなみに、この最後の喜びの日に歌われたのがマイム・マイムです。ですから仮庵の゜祭りは、このラッパを吹きならす祭り、大贖罪日、仮庵の祭りの三つの祭りの最後を締めくくる祭りだったのです。

 

旧約聖書では、仮庵の祭りについてレビ記2334-44節に詳しく書かれています。それは、イスラエルがエジプトを出た後、40年間荒野でテント暮らしをしていたことを記念する祭りで、人は肉体という「仮庵」に7090年間住むだけの存在であり、主の恵みなしには生きていくことはできないということを覚える一週間としてお祝いしました。

 

しかし、そればかりではなく、この仮庵の祭りは、キリストが肉体を取って誕生してくださったことによってその成就の一部を見ることができます。ヨハネによる福音書114節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とありますが、この「住まわれた」というのは、「仮庵となられた」という言葉です。神はメシアであるイエスを地上に送って下さる事によって、神と人との和解をもたらしてくださいました。ですから、仮庵の祭りは和解の祭りでもあります。

 

しかし、そればかりでなく、これは来るべき千年王国を表すものでもありました。ヨハネの黙示録213節には 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、とあります。この「神の幕屋」とは仮庵のことです。終わりの時、艱難時代の後にキリストが統治される千年王国が来ますが、その時、全世界の人々がこの仮庵の祭りを祝うために、エルサレムに集まってくるのです。

 

ゼカリヤ書1416節には、「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上ってくる。」とあります。これは144節を見るとわかりますが、主がエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つときに起こることです。これは主の地上再臨を預言しているもので、その後にこの仮庵の祭りを祝うために集まってくるわけですから、これは、その後にもたらされる千年王国を指し示しているのです。つまり、仮庵の祭りは、主の再臨を指し示す重要な鍵となっているのです。それは、この最初の日にラッパを吹きならす祭りが行われることからもわかります。このラッパの音とは何かというと、世の終わりを告げるラッパの音です。キリストが再臨することを告げるラッパの音なのです。これはⅠテサロニケ4章に書いてあります。これは世の終わりに起こることなのです。

 

そして、大贖罪の日がやってきます。これはユダヤ人が自分たちが十字架につけて殺したイエスをメシヤとして信じ、悔い改める日のことです。そのとき主にある者は死んだ者も、生きている者もたちまちのうちに空中に引き上げられます。これを空中携挙と言います。そのときこの地上は七年間の艱難時代を迎えます。後半の3年半は特に激しい艱難が続くので大患難時代ともいわれますが、この艱難の中でユダヤ人たちは胸をたたいて自分たちの罪を悲しみ、悔い改めるわけです。

 

そして、その七年間の艱難時代が終わるとき、主は地上に再臨されオリーブ山に立たれるのです。そして、千年間続く平和な時代がやってきます。これが主の救いのみわざの完成でもあります。それを祝うのが仮庵の祭りであり、救いの完成のクライマックスともいえるでしょう。

 

ヨハネの福音書737,38節のところでイエス様は、「さて、祭りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われましたが、この祭りこそ仮庵の祭りであり、その祭りの大いなる日が「シムハット・トーラー(トーラー歓喜祭)」と呼ばれる祭りで、その時にイエス様はこのように言われたのです。それは後になってから受ける御霊のことを言われたのですが、それがこの千年王国で完成するのです。

 

このように見てくると、私たちが今置かれている時代がどのような時代なのかが見えてきます。すなわち、キリストによる罪の贖いが成し遂げられて、その主の再臨が限りなく近い時代であるということです。私たちはそのような時代に生かされているのです。であれば、このような時代に生かされている私たちは、キリストの十字架を通して成し遂げられた神の救いの恵みに感謝し、神の聖霊に導かれて生きること、そして、やがて来られるキリストの再臨を待ち望むということが、その生き方の特質でなければなりません。私たちには常に肉との闘いがありますが、そうした肉の欲求によってではなく、またそうした知恵や力、思いによってではなく、御霊に導かれて進まなければならないのです。最近の傾向としてはこの世が複雑になってくることに比例してどうしてもクリスチャンも自分の思いや考えに支配されやすい傾向があるのではないでしょうか。神のみことばが何と言っているか、神の御霊がどのように導いているかよりも、自分はどう思うのか、どう感じているのかが行動の基準になりやすいということです。また、主の再臨を待ち望む必要があります。主の再臨を待ち望むよりも今さえ良ければよいというような、目先のことに振り回されてしまうと、信仰から離れてしまうことになってしまいます。。

 

私たちはいつも自分ではなく神のみこころに従い、自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従う者でなければなりません。そのために必要なのがこの三つのことなのです。つまり、十字架と聖霊と再臨です。これは過去において主が私たちにどんなことをしてくださったのか、そして、今、主はどのように導いておられるのか、そして、将来において、どのような祝福をもたらしてくださるのかをしっかりと覚え、この神のみわざにとどまり続けなさいということでもあります。これが神によって罪贖われた神の民、聖なる国民のしるしでもあるのです。イスラエルが年に三度、過越しの祭りと、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、主の選ぶ場所で、御前に出たように、私たちにもそれが求められているのです。

 

4.公正なさばき(18-22

 

最後に18節から22節までを見て終わりたいと思います。「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。」

 

ここには、それぞれの部族においてさばきつかさとつかさたちを任命し、正しいさばきを行うようにと命じられています。当たり前のことなのに、いったいなぜわざわざここで命じられているのでしょうか。それは神が義なる方なので、彼らもまた正義を行うことが求められているのです。それが損なわれるような時があります。それはわいろを受ける時です。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめてしまう力があります。人をさばくときには、その人が貧しいとか、富んでいるとか、そのような見かけによって判断してはなりません。その人が人生でどんなに成功したかなどということは全く関係ありません。ただ神は何と言っているのか、それはどういう意味なのか、それをどのように適用していかなければならないのかということを考えて、正しく判断しなければなりません。しかし、わいろを受け取るとその判断を狂わしてしまうのです。

 

21,22節には、「あなたが築く、あなたの神、主の祭壇のそばに、どんな木のアシェラ像をも立ててはならない。あなたは、あなたの神、主の憎む石の柱を立ててはならない」とあります。なぜでしょうか。もちろん、神の戒めにそうあるからです。十戒の第一は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」と書いてあります。そして、この申命記に、この戒めの中心となることが教えられていました。それは、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたに神、主を愛しなさい。」(6:4-5)ということでした。もし主の祭壇のそばに、アシェラ像を始めとした偶像を置くことがあるとしたら、この神のみこころから離れてしまうことになるからです。私たちは離れやすいのです。まさに迷える子羊にすぎません。主を信じていますと言いながら、こうしたアシェラ像を平気でおいていることにも気づかないのです。そうなると私たちの信仰の中心となる軸を失うことになってしまいます。そういうことがないように、神以外のものを主の祭壇のそばに近づけてはならないのです。私たちは共に集まって主を礼拝し、キリストの十字架を仰いで、主に罪赦されたことを覚え、互いに赦し合い、愛し合わなければなりません。また、聖霊に満たされ、主の再臨を待ち望む、これらはすべて、主を神としてあがめている、その中心があるからなのです。私たちはこの信仰の中心軸を失うことなく、いつも主のみこころにかなった者となるように求めていきたいと思います。

 

ヘブル10章26~39節 「信仰によって生きる」

きょうは、へブル人への手紙10章26節から39節までの箇所から、「信仰によって生きる」というタイトルでお話します。このヘブル人への手紙の著者は、前回の10章19節から25節までのところで、これまで語ってきたことを受けて三つのことを勧めました。すなわち、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではないかということ、また、約束された方は真実な方ですから、動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではないかということ、そして、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではないかということです。それは一言でいうなら、信仰によって生きるということです。先ほど読んでいただいたみことばに「義人は信仰によって生きる」(38節)とありますが、イエスの血によって救われた者は、信仰によって生きることが求められています。きょうは、このことについて三つのことをお話します。

 

Ⅰ.主がその民をさばかれる(26-31)

 

まず26節から31節までをご覧ください。26節には、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」とあります。どういうことでしょうか。現代訳聖書には、「もし私たちが罪の赦しの福音を知ってから、故意に罪を犯し続けるなら、罪のためのいけにえはもはや残されていない」と訳されてあります。つまり、もし私たちがイエス様を信じた後で、故意に罪を犯し続けるようなことがあるなら、キリストの救いに預かることはできないということです。

 

この箇所からある人たちは、たとえ一度信仰をもってもその信仰から離れ、救いから落ちてしまうこともあると考えています。皆さん、一度信仰を持ったら、もう二度と信仰から離れることはないのでしょうか、それとも一度信仰を持っても、ここに書いてあるように、信仰から離れてしまうということがあるのでしょうか?

 

たとえば、ヨハネの福音書10章29節を見ると、そこにはこう書かれてあります。

「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」

それは、一度イエス様を信じて救われたのであれば、その人はどんなことがあっても救いから漏れることはないという意味です。神が救ってくださった人というのは、神が永遠の昔から救いの中に選んでいてくださった人ですから、どんなことがあっても見捨てられるようなことはないのです。一度救ってみたけれども、この人はどうもモノになりそうもないので捨ててしまいましょうというようなことは絶対にありません。

 

しかし一方で、私たち人間の側からすれば、もう救われたのだから何をしても構わないと、故意に罪を犯し続けるようなことがあれば、罪のためのいけにえは残されてはいないということ、つまり、救いを受けることはできないということも覚えておかなければなりません。確かに、神の側では一度救いに導かれた人はどんなことがあっても離すことはありませんが、人間の側から離れていくならば、そういうこともあり得るということです。

 

事実、あんなに信仰に熱心だった人がどうして信仰から離れてしまったのだろうかという場合がありますが、そういうことも起こってくるわけです。それはその人の信仰の理解や福音のとらえ方に問題があり、私たちの目では信仰を持っていたかのように見えても、神の目から見たら、実はそうではなかったということもあるからです。

 

Ⅰコリント15章2~4節にはこうあります。

「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、」

 

皆さん、どうしたら救われるのでしょうか。この福音のことばをしっかり保つことによってです。その福音のことばとは、イエス・キリストに関することです。すなわち、キリストは、聖書が示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたことです。これが福音のことばです。このことばをしっかり保っていればあなたは救われるのです。これ以外の何もあなたを救うことはできません。だから私たちはこのことばをしっかり保っていなければなりません。本当に救われている人は、このことばにとどまっている人なのです。自分の感情がどうであれ、自分の置かれている状況がどうであれ、自分のために救いを成し遂げてくださった救い主イエスに信頼し、そこに希望を置くのです。

 

ところで、このようなことを聞くと、自分は大丈夫だろうかと不安になる方もいるかもしれません。しかし、もしそのように受け止めておられる方がいるとしたら、そういう人はどうぞ安心してください。そのように受け止めることができるということ自体がむしろ救いについて真剣に考えているということであって、そこに生きているという証拠でもありますから、そういう人が救いに漏れるということは絶対にないと言えます。この「真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるなら」というのは、罪の赦しによる救いの体験をしたにもかかわらず平気で罪を犯し続けるなら、という意味です。私たちは弱い者ですから、救われてからもしばしば罪を犯すことがあります。しかし、ここで言われていることは、救われてから罪を犯したかどうかということではなく、ことさらに罪を犯し続けることです。つまり、罪を犯しても悔い改めようとせず、平気で罪を犯し続ける人のことなのです。そういう人のためのいけにえはもはや残されてはいません。そういう人は、恐ろしい神の裁きを受けるしかないのです。

 

28節と29節をご覧ください。

「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血をけがれたものとみなし、恵みの御霊を侮るものは、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」

 

これは申命記17章6節に書かれてあることですが、だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三人の証人の証言に基づいて死刑に処せられました。そこには何のあわれみもなかったのです。律法に背いて罪を犯し、二、三人の証言があれば有無を言わさず死刑に処せられました。であれば、まして、神の新しい契約を侮る者があれば、なおさらのこと恐ろしいさばきに服さなければならないのは当然のことです。なぜなら、それは神の御子を踏みつけ、自分をきよめるためのキリストの血を、拒むことになるからです。そしてそれは恵みの御霊を侮ることになるからです。

 

ここでは「御霊」を、「恵みを与えてくださる方」であると言っています。この御霊とは三位一体の第三位格の聖霊なる神のことです。キリスト教では神は三つにして唯一なる神であると信じています。それが聖書で教えている神です。ものみの塔では、この聖霊は単なる神の力であると説きます。ただのモノにすぎないというのです。しかし、聖書を見ると聖霊は人格を持っていることがわかります。たとえば、ヨハネの福音書16章13節を見ると、「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」とありますが、単なるモノであったら、「その方」というでしょうか。ものみの塔でさえ、「その者」と訳しています。「その者」とは「その物」ではなく、「その方」という人格を持った方としての表現です。その方は「助け主」とも言われています。

私たちは神の御子の大きな犠牲によって罪が赦され、救われた者であるとは言ってもまだヨチヨチ歩きで、すぐに躓いたり、罪を犯したりしがちです。そのことをご存知であられる神はこの聖霊様を送ってくださり、私たちが罪を犯さないように助けてくださったり、知らずに罪を犯してしまった時に、私たちの良心に働きかけて悔い改めに導いたりしてくださいます。あるいは、聖書を読む時に、何が神のみこころであるかを示してくださりその道に歩めるように助けてくださるのです。まさにこの方は恵みを与えてくださる方なのです。その中でも最大の恵みは、御子イエスの救いの中に導いてくださったということでしょう。その恵みの御霊の神を侮ることがあるとしたら、なおのさらのこと、重い処罰がもたらされるのは当然のことです。

 

多くの人は、神の厳しさについて誤解しています。それは、旧約の神は厳しい神だが、新約の神はそうではないというものです。新約聖書の神は優しい愛の神なのだから、人をさばくというようなことはないというのです。これは聖書を表面的に読んだ印象にすぎず、実際にはその反対です。これまで学んできたことを思い出してみるとわかるように、旧約聖書では人が神に近づくためにはやぎや羊、牛などの多くのいけにえをささげなければなりませんでしたが、それで完全に罪が赦されたかというとそうではなく、毎年、それを繰り返して行わなければならなりませんでした。いつも罪が思い出されたからです。けれども、神の御子のいけにえは完全なものでした。キリストは、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。もうこれ以上すぐれた解決法がない、永遠の、究極の、最終的な解決を与えてくださいました。しかも、これは私たちの行いや状態に関係なく神の真実に基づいた一方的な恵みによって与えられた契約でした。それを拒む者があるとしたら、それこそ永遠の滅びに入れられるのは当然のことなのです。旧約聖書にあるように、石を投げつけられて死ぬことは恐ろしいことですが、それよりも、もっと恐ろしいことは、死後の世界において永遠に死ぬことです。聖書ではこれを地獄と言っています。地獄とは永遠の滅びことなのです。ですから、新約のさばきの方が、旧約のそれよりももっとずっと厳しいさばきであると言えるのです。

 

ですから、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いを信じる信仰によって救われた私たちは、回りの状況に振り回されたり、動揺したりしないで、堅く信仰に立たなければなりません。約束された方は真実な方ですから、動揺しないで、しっかりと希望を告白はなければならないのです。では、しっかりと希望を告白することができるのでしょうか。

 

Ⅱ.いつまでも残る財産に目を留める(32-34)

 

32節から34節までをご覧ください。

「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。」

 

ここではそのために二つのことが勧められています。一つは32節にあるように、「思い起こす」ということ、そしてもう一つのことは、34節にあるように「知る」ということです。

まず「思い起こす」ということですが、何を思い起こすのでしょうか。それは苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころのことです。初代教会のクリスチャンの多くは、激しい迫害の中にあっても信仰を貫き通しました。ある人たちは、ローマの円形競技場で見世物としてはずかしめられたり、猛獣によって殺されたりしましたし、またある人たちは、罪をなすりつけられて財産を没収されたりもしたのです。しかし、彼らはそうした迫害の中でも信仰を守り抜きました。いったいなぜ彼らは守り抜くことができたのでしょうか。それはいつまでも残る財産を持っていることを知っていたからです。いつまでも残る財産とは、イエスを信じたことで後に天の御国で永遠の財産と報いのことです。彼らはその財産を受けること知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで耐え忍ぶことができたのです。

 

私たちの主イエスもそうでした。イエス様は十字架に付けられる前の晩、ゲッセマネの園で切に祈られました。それは汗が血のしずくのように地に滴り落ちたとあるように、激しい祈りの格闘でした。そして、こう祈られたのです。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。しかし、私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)

なぜキリストは十字架という苦難に向かうことができたのでしょうか。それは、その後にもたらされる栄光がどれほどすばらしいものであるかを知っていたからです。ですから、この杯を飲み干すことは苦しいことでしたが、それを耐え忍ぶことができたのです。

 

使徒パウロは、それを「重い永遠の栄光」と言っています。Ⅱコリント4章17、18節には次のようにあります。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

パウロが、この世の激しい迫害と患難を恐れずに、信仰によって生きることができたのは、彼が永遠の世界において受ける栄光と報いがどれほどすばらしいものであるかを知っていたからでした。それは一時的なものではなく、いつまでも続くものです。それに目を留めていたので、今の時の患難を軽いものとして受け止めることができ、乗り越えることができたのです。

 

リビングライフに書かれてあったコラムですが、ある韓国の牧師の運転手をしていた人は、テレビのニュースでしか見たことがないような大きな体つきで、腕には刺青と傷がありました。彼は神様の恵みによってクリスチャンになりましたが前科持ちであったため仕事に就くことが難しかったので、この牧師は彼に運転手として働いてみないかと提案したのです。牧師は、夏と冬ごとに青少年のリトトリートの講師としてあちこち回っていたため多くの時間をともに過ごすうちに、彼は神をとても愛するようになりました。

ある日、牧師は彼に証するように頼みました。悩んだ末、彼は学生たちの前で、今になってやっと意味のある人生とは何かがわかったと告白しました。集会が終わってから、一人の男子生徒が彼のもとにやって来て、暴力団と縁を切りたいが、なかなか難しいがどうしたらいいかと尋ねました。すると、彼はその学生にこう言いました。「ケジメはつけることになるだろうな。でも、その時はイエスのことを考えてみろ。イエスという新しい組に入る通過儀礼だと思えば、そう長い時間でもないだろうよ」

 

すごいですね。でもこれは的を得た答えではないでしょうか。確かにそれはかなりの苦しみが伴うことかもしれませんが、イエスによってもたらされる重い永遠の栄光に比べるなら、一時的なものでしかありません。永遠の価値のために一時的なものをあきらめることは、それほど難しいことではないのです。

 

17世紀から18世紀にかけてイギリスとアメリカで生きたウイリアム・ペン(William Penn, 1644-1718)”は、No  cross  no  crown ” と言いました。「十字架なくして、冠なし」です。意訳すれば、「艱難なくして、栄光なし」です。ウィリアム・ペンはキリスト教の一派であるクウェーカーに入信したことでイギリス国家から激しい迫害を受けると、約束されたこの世の栄光を捨てるという苦渋も、牢獄に繋がれるという苦難も甘んじて受け、 それを自分の十字架として背負って、この茨の道を歩んだのです。

やがてアメリカペンシルベニア州に渡り、そこで知事に就くと、歴史上初めて個人の信仰と良心が、国家の統制下に置くことができない不可侵の権利であると宣言する法律を制定しました。つまり信仰の自由を勝ち取ったのです。まさに、ペンは重い十字架を負うことによって、神から永遠の救いの冠を与えられただけではなく、後の人々からは民主主義の先駆者としての栄誉を与えられたのです。まさに、十字架なくして、冠なしです。

 

私たちの人生においては、初代教会のクリスチャンたちのような迫害や江戸時代にあったような迫害を受けるわけではありませんが、しかし、職場や学校において、また家庭において、いやあなたのすぐ近くにいる人があなたを侮辱したり、ありもしないことで悪口を浴びせたりして、あなたを苦しめるということがあるかもしれません。しかし、それはⅡテモテ3章12節に、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあるように、あなたがキリスト・イエスにあって敬虔に生きている証拠でもあり、やがて天の御国で大きな報いを受けるという保証でもあるわけですから、むしろそれは喜ばしいことなのです。あなたより前にいた信仰者たちも、そのようにして耐え忍びました。

 

Ⅲ.必要なのは忍耐(35-39)

 

ですから、第三のことは、信仰によって忍耐しましょう、ということです。35節から39節をご覧ください。まず35節と36節です。

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 

大切なのは、最初の確信を終わりまでしっかりと保つことです。3章

14にも、「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」とあります。これが信仰の戦いにおいて死守しなければならないものです。もしこの確信を保つことができないとどうなるかと、沖に流されていくボートのように、押し流されてしまうことになります。この確信を保つということは単純なことですが、実際には大変なことでもあります。というのは、私たちの人生には神に対して疑いを抱くような状況や出来事が多いからです。

 

たとえば、エジプトを出たイスラエルはどうだったでしょうか。すぐに水がない、食べ物がないと嘆きました。そして、カデシュ・バルネアという所に来たとき、約束の地を偵察すべくそこから12人のスパイを遣わすのですが、彼らが持ち帰った報告は、「だめだ。無理だ。その地の住民は大きくて、強い。自分たちが上って行こうものなら、たちまちに滅ぼされてしまう。」というものでした。それを聞いたイスラエルの民は、「なぜ神はこんなところに自分たちを連れてきたのだ」と言って不平を鳴らしたのです。彼らの心は常に迷い、神の道を悟ることができませんでした。そして、20歳以上の男子はヨシュアとカレブ以外はだれもその地に入ることができませんでした。

 

私たちの人生にも同じようなことが起こります。神がおられるならどうしてこのようなことが起こるのかというようなことがあるのです。けれども、たとえそのような状況になっても、最初の確信にとどまっていなければなりません。すなわち、この福音をしっかりと保っていなければならないのです。

 

いったいどうしたら信仰にとどまることができるのでしょうか。36節をご覧ください。ここには、「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」とあります。私はこのみことばが好きです。いつもこのみことばに教えられ、励まされています。

神の約束は棚ぼた式にもたらされるものではなく、忍耐することによって手に入れることができるものなのです。そして、神は私たちが忍耐することができるように、その力も与えてくださいます。それはⅠコリント10章13節にこのようにあるからです。

「あなたがたの試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせるせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 

何とすばらしい約束でしょうか。神は私たちが耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐えることができるように、試練とともに脱出の道を備えていてくださいます。そしてヤコブ書1章に書かれてあるとおり、試練によって生じる忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた完全な者になることができるのです。

 

あの3.11から5年が経ちました。津波と原発事故ですべてを失った福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰先生は、当初、その現実を受け止めることができず「くそ」とつぶやいていました。しかし、苦しい荒野での生活を乗り越え、やがて福島県いわき市につばさの教会を建てると、次第にこの震災から見えてきたものがあると言います。それは、神の恵みでした。教会は「ガリラヤから世界へ」というビジョンを掲げ、小さな田舎の教会でも世界宣教を担う教会になることを目指して祈ってきました。そしてある国に宣教師を遣わすことができたとき、「ああ、これでビジョンが実現した」と思ったそうです。しかし、それはビジョンの実現の始まりにすぎませんでした。本当の実現はこの震災を通してもたらされたというのです。なぜなら、原発から一番近い教会の牧師というだけで世界中の国々から招かれて主を証することができるようになったからです。フランスでは国営テレビが2時間のドキュメント番組を製作して放映しました。また、ドイツや他の国からも呼ばれてインタビューを受け、主を証することができました。世界中の人たちから祈られたのです。このような教会が他にあるだろうかと思うと、確かに震災によって多くの苦難はあったけれども、それはまさに神の絵巻物語であったというのです。

神は耐えられない試練に合わせるようなことはなさらない。むしろ、それを通してもっとすばらしい人生を、もっと豊かな人生へと導いてくださることがわかったというのです。すべては神の御手の中にあって、神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、すべてを働かせて益としてくださるのです。私たちに必要なのは忍耐することです。そうすれば、主があなたを助けてくださいます。

 

というのは、37節に、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」とあるように、たとえ苦しみが長引いたとしても、神の時がおそくなることはないからです。だから、恐れ退いてはなりません。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者だからです。たとえ試練があっても信仰によって前進するなら、必ずいのちを得ることができるのです。神とともに歩むなら、耐えられない試練はありません。主はおそくなることなく来られ、すべての涙をぬぐい、約束された永遠のいのちを与えてくださいます。そのことを信じなければなりません。義人は信仰によって生きるからです。

 

これは旧約聖書の預言者ハバククの言葉です。ハバククは、たとえ敵が押し寄せ、持っているものをすべて奪って行ったとしても、義人は信仰によって生きると宣言しました。神はどんな状況にあっても、信仰に立って生きる者を喜ばれます。信仰は苦難の中にあっても屈せず、天の希望を見上げさせます。クリスチャンの歩みを勝利させるのはこの世の力や権力ではありません。ただ主が与えてくださる信仰なのです。信仰によって生きるなら、どんな時にも勝利することができます。神は真実な方であって、約束されたことを必ず実現してくださる方だからです。ですから、信仰によって生きるなら、やがて大きな祝福を受けることになるのです。

 

あなたは何によって生きているでしょうか。何に目を留めていますか。いつまでも残るものを見ているでしょうか。どうかあなたの確信を投げ捨てないでください。最初の確信を終わりまでしっかりと保ちましょう。信仰によって生きる者にとりましょう。あなたがたが神のみこころを行って、約束したものを手に入れるために必要なのは忍耐なのです。

ヘブル10章19~25節 「新しい生ける道」

きょうはこのへブル人への手紙10章19節から25節までの箇所から、「新しい生ける道」というタイトルでお話しします。この箇所はヘブル人への手紙の中で最もすぐれた黄金の勧告と言われている箇所です。黄金の勧告とは、内容が深遠で、人生にとって この上なく有益な教訓のことです。聖書には黄金律と呼ばれているみことばがあります。それはキリストの山上の説教の一節で、マタイ7章12節のみことばです。

「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」

これはいつの時代でも、どのような状況でも変わりなく、人としての重要な生き方を示していることばなので「黄金律」と呼ばれているのです。。それと同じように、ここにはクリスチャンとしてどのように生きるべきなのか、その大切な勧めが三つのポイントで語られています。きょうはこの黄金の三つの勧告を学びたいと思います。

 

Ⅰ.全き信仰をもって神に近づきなさい(19-22)

 

第一のことは、全き信仰をもって神に近づきなさいということです。

19節から22節までをご覧ください。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」

 

19節は、「こういうわけですから・・」ということばで始まっています。ヘブル人への手紙全体を通して読むと、この10章19節が分岐点となって、流れが大きく変わっていることに気づきます。これまでは、神の御子キリストがいかにすぐれた方であるかについて説明されてきました。キリストは御使いよりもすぐれた方であり、すぐれた救いの道を備えられ、またアロンの祭司職よりも偉大な、メルキゼデクの祭司となられたことについて述べられてきました。そして、モーセを通して与えられた神との契約は、新しい契約によって取って代えられ、この契約が古い契約よりもすぐれていることが述べられてきたのです。このように、キリストがいかにすぐれた方であり、いかにすぐれた仲介者であるかを述べた後で、ここから、これを知った人たちがどのようにして応答していくのか、すなわち「勧め」の部分に入るのです。

 

その勧めとはどんなことかというと、「まことの聖所に入ることができる」というものです。まことの聖所にはいることができる、天国の神に近づき、神との親密で深い交わりの中に入ることができるということです。

 

それはイエスの血によってです。なぜなら、前回学んだように、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からです。(9:22)神に近づくことは、私たちの行ないによっては絶対に無理なのであって、ただ私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、その尊い血を注ぎ出してくださった神の御子イエス・キリストを信じることによってのみもたらされるものなのです。イエスが十字架で死なれたのは愛の模範を示すためではなく、血を注ぎ出すためだったのです。ですから、私たちは大胆に神に近づくことができるのです。

 

この「大胆に」という言葉は、英語では、We have boldnessとか、We have confidenceと訳されています。「確信を持っている」とか「自信をもっている」という意味です。つまり、私たちはまことの聖所に入ることができるという確信があるということです。なぜなら、イエスが十字架で血を流して死んでくださったからです。私たちがどのような人であるからとか、どのようなことをしたかということではなく、神の御子イエス・キリストの血が流されたので、その方の血の注ぎを受けているので、まことの聖所に入ることができるという確信があるということなのです。

 

20節ではそのことを別の形で表現しています。それは、「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」ということです。この「垂れ幕」というのは、聖所の中にある、聖所と至聖所を分けていた幕のことです。この幕が、イエスが十字架につけられていたときに、上から下に、真っ二つに引き裂かれました。この幕は厚さが10cm以上もあり、その両端を数頭の馬が反対方向に引っ張っても破れないほど丈夫なものであったと言われています。その幕が、イエスが十字架で死なれたときに、上から下に、真っ二つに裂けたのです。それはキリストが十字架の上でご自分のからだを引き裂いてくださったことによって神と人とを隔てていた壁が引き裂かれ、神の御許に行くことができるようになったということを表しています。このようにして、キリストはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの生ける新しい道を設けてくださったのです。ですから、このイエスを信じるならだれでも神の御許に行くことができるのです。イエスを信じるなら、だれでも救われるのです。

 

そればかりではありません。21節を見ると、「また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。」とあります。ここも英語ではWe have high priest になっていて、Haveという言葉が繰り返して使われています。持っているとか、あるという意味です。何を持っているのかというと、偉大な祭司です。もちろん、この偉大な祭司とはイエス・キリストのことですが、この祭司をもっているので、私たちは絶対にまことの聖所に入ることができるというのです。なぜなら、この祭司は神の家をつかさどっておられる偉大な方だからです。神の家をつかさどっているということは、神の家を支配しておられるという意味です。そういう方がついておられるのなら、神に近づくことができるというのはなおさらのことなのです。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎ受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」と勧められているのです。

 

この新改訳聖書では19節から22節までが幾つかの文章になっていますが、原文では19節から22節までが一つに文章になっています。つまり、私たちはイエスの血の注ぎを受けているのですから、イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのですから、また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司がいるのですから、私たちは、全き信仰をもって、神に近づこうでないかというのです。「神に近づく」というのは場所的、時間的なことというよりも、人格的なものです。神を深く知って、このお方のようになっていこうということなのです。これがキリスト教の本質なのです。

 

先日、さくらチャーチで行われているみんなのカフェにNさんというご婦人が初めて参加されました。この方は宗教に造詣が深く、いろいろなことを知っておられる方ですが、パットがアメリカから来たということで、「キリスト教とはどういう宗教ですか」と尋ねられました。するとパットはこう言いました。「私はキリスト教を宗教として考えていません。これは神との関係です。神がどのような方かを知って、この方のようにされていくこと、それがキリスト教です。」と。私は、それを聞いていて、なるほどと思いました。宗教を何かの形で考えることは間違っていて、神との関係として捉えなければわからないということです。だから、神に近づくことを求めていかなければなりません。どうしたらもっと神に近づくことができるのでしょうか。

 

ここには、「全き信仰をもって・・」とあります。皆さん、全き信仰とはどういう信仰なのでしょうか。それは強い信仰とか、弱い信仰ということではありません。たくさん信じるとか、ちょっとだけ信じるというようなことでもありません。全き信仰とは、神につながっている信仰のことなのです。

 

それは、たとえば電気のスイッチのことを考えたらわかると思います。どうしたら電球に明りがつくのでしょうか。電気のスイッチを入れればいいのです。それだけでいいのです。電気をつけるのに力を入れてステッチを押す必要はありません。力を入れてスイッチを押せば明るくつくとか、さわるように、撫でるように、優しく押すだけでは弱い明りしかつかないということはありません。強く押しても、弱く押しても明りの強さは同じです。大切なのはスイッチを入れることです。

 

それは信仰も同じで、強い信仰とか、弱い信仰というのがあるのではなく、あるのは神につながっているかどうかということです。神につながっていれば、神が働いてくださいます。すなわち、信じるということはこちらの側の信じ方ではなく、信仰の対象であるイエスとつながっているかどうか、結ばれているかどうかということなのです。イエス様を信頼して、イエス様を見上げていれば、信仰は確かなものとなっていきます。自分の知恵と力を尽くして信じる過信ではなく、半分だけ信じる半信でもなく、また、全く信じられないという不信でもなく、単純にイエスに信頼していであるべきです。イエス様にとつながっていればいいのです。そうすれば電気はつくのです。それが全き信仰です。

 

アフリカ伝道隊の総裁をしていたJ・B・B・フレンドという人は、信仰を持つことをバケツの水にたとえてはならないと言いました。日本では恵まれた信仰をバケツに水がいっぱいに満たされた状態にたとえることがありますが、信仰をそのようにとらえてはいけないというのです。そのようにとらえてしまうと、バケツの水を使って無くなったらやっとの思いで礼拝にやって来て満たされるといった誤ったイメージを抱きやすくなってしまいます。そうではなく、むしろ、信仰生活は水道管のパイプのようなもので、もしあなたがたっぷりと満たされた貯水池につながっているなら、あとは栓をひねるだけでいつでもザーと水が出てきます。信じればザーです。パイプが細いか太いかは関係ありません。信じればザーなのです。信仰とは栓をひねるだけのことなのです。

 

ただ注意しなければならないことは、パイプを詰まらせないようにしなければならないということです。それゆえに、ここに、「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあるのです。これは、パイプを詰まらせてはならないという意味です。いつもイエスさまと親しい交わりを保つようにしなければなりません。もしそのパイプに何か詰まっていればそれを取り除いて、いつも神のいのちが流れるようにしなければなりません。私たちの信仰生活では、よく詰まらせてしまうことがあります。トイレットペーハーを大量に使って詰まらせたり、異物を混入させて詰まってしまうことがあるように、あまりにも多くのことに心が奪われて神との関係を詰まらせてしまうことがあるのです。そういうことがないように、いつも主につながり、主と親しい交わりを保っているかどうかを確認しなければなりません。

 

とても評判の良いレストランにはある一つの共通点があるそうです。それはあまりいろいろなことに手を出さないということです。得意なメニュー集中するのだそうです。それを極めるために努力に努力を重ねます。それで「美味しい店」になれるのです。一方で、あまり美味しくないレストランというのは、とにかくメニューがいっぱいあります。全部やろうとすると、全部まずくなってしまうのです。

 

同じように、私たちはイエス様に集中しなければなりません。あれも、これもではなく、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないようにしなければなりません。そして、このイエスにしっかりとどまっていなければなりません。主イエスは言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)このような信仰をもって神に近づくなら、神はそのような人を受け入れ、多くの実を結ばせてくださいます。

 

Ⅱ.しっかり希望を告白する(23)

 

第二のことは、しっかりと希望を告白することです。23節をご一緒にお読みしましょう。

「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」

 

ここでは、希望を持つことが勧められています。私たちの信仰生活には失望することが何と多いことでしょうか。それは悪魔が何とかしてあなたから信仰を奪おうとしているからです。悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を探し求めながら、歩きまわっています。そのために一番効果的なのは、あなたから希望を奪い取ることです。そうすれば、信仰にとどまることができなくなってしまうからです。人は希望がなければ生きることがでません。この希望を奪うことによって、信仰から遠ざけようとするのです。ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しなければなりません。

 

いったいどうしたら希望を持ち続けることができるのでしょうか。ここには、「約束された方は真実な方ですから」とあります。皆さん、私たちの信じている神は真実な方です。どういう点で真実であるかというと、約束されたことを一つも違わず成就してくださるという点においてです。聖書の中には神の約束が沢山ありますが、それは、信じる人に実現する約束なのです。その神の約束は必ず実現するわけですから、それを信じて歩むことが大切です。その約束の中でも最大のものは、私たち信じる者たちが天国へ行くことができるということでしょう。これは必ず実現します。なぜなら、すでに見てきたように、そのためにイエスの血が流さたからです。だから私たちは必ず天国に行くことができるのです。

 

であれば、この地上においてどんなに厳しい状況にあっても、もうだめだと失望することがあっても、そういうことで動揺しないで、しっかりと希望を告白することができるのではないでしょうか。それが天国に向かって歩んでいる人の姿なのであります。

 

Ⅲ.愛と善行を促す(24-25)

 

第三のことは、愛と善行を促すように注意しましょうということです。24-25節をご覧ください。ここには、「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょ集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。

 

「愛と善行を促すように注意し合おうではないか」とはどういうことでしょうか。現代訳聖書では、「どのようにしたらほかの人を愛し、助けることができるかということについて、心を配ろうではないか」と訳されています。すなわち、キリストの恵みによって救われたクリスチャンは、愛という霊的な面と、ほかの人を助けるという具体的な両面が必要だということです。愛しているといってもそれが具体的な行動によって現されるものでなければ、本当に愛しているとは言えません。愛しているなら、それが必ず具体的な面で表されてくるはずだからです。

特に教会の中では「互いに重荷を負い合う」ということが強調されています。ガラテヤ6章2節には、「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」とあります。もしキリストによって救われ、あなたの中にキリストの愛が満ち溢れているなら、それは必ず互いに重荷を負い合うという具体的な形で現れてきます。もし現れてこないとしたら、その人は果たして本当にイエス様を愛しているのか、魂を愛しているのかということを吟味してみる必要があります。イエス様の愛によって救われているのなら、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合わなければなりません。特定の人にだけ重荷を負わせ、犠牲を強いるというようなことがあってはいけないのです。もちろん、皆が同じように愛を実行できるということではありませんが、自分のできる範囲で、心を配るということが求められているのです。

 

そのためには、いっしょに集まることをやめたりしないということが大切です。クリスチャンが一人で信仰生活をしていくと、どうしても独り善がりになり、偏った考え方に陥ってしまいがちです。ですから、どうしてもクリスチャンには交わりが必要で、その中で最も大切な交わりは教会の交わりであると言えるでしょう。なぜなら、教会は神の家族であるからです。家族であれば一緒に生活するわけで、一緒に生活していれば必ずぶつかり合うこともあります。しかし、そのようなぶつかり合いの中でこそ自分の信仰が鍛えられ、健全に成長していくものなのです。

 

このように見てきますと、イエスの血によってきよめられ、この新しい生ける道を歩むようになったクリスチャンに求められていることは、次の三つのことであることがわかります。すなわち、信仰と希望と愛です。どこかで聞いたことがありますね。信仰と希望と愛。パウロはⅠコリント

13章13節で、次のように言っています。

 

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」

 

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。それは自分自身から出てくるものではなく、イエスの血によって救われ、この新しい生ける道を歩むようになった者にもたらされるものです。全き信仰はイエス様を見上げ、イエスにとどまることによって与えられます。しっかりと希望を告白するためには、イエスを見続けることが必要です。そして、愛と善行に励むためには、イエス様と交わることが求められます。その結果として信仰と希望と愛が生まれてくるのです。

 

皆さんはどうですか。皆さんのために血を流し、救いの御業を成し遂げてくださった主イエスをしっかり見ているでしょうか。また、このイエスにとどまり、このイエスと交わりをもっておられますか。かの日は近づいています。イエス様が再び来られる日、救いが完成する日が近づいているのですから、私たちはますますそうしようではありませんか。それが新しい生ける道を歩むクリスチャンに求められていることなのです。

ヘブル9章15~28節 「成し遂げられた救いのみわざ」

きょうはヘブル書9章後半の箇所から、「成し遂げられた救いのみわざ」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.新しい契約の仲介者(15~22)

 

まず15~22節までをご覧ください。15節にはこうあります。

「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産を受けることができるためなのです。」

 

「こういうわけで」というのは、14節までのところで述べられてきたことを受けてということです。そこでは、キリストは、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました、とありました。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者となられました。

 

それは、いったい何のためでしょうか。このヘブル書の著者は、続いてこう述べています。「それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」

どういうことでしょうか?初めの契約とはモーセによって与えられた律法のことですが、その初めの契約のときの違反を贖うための死が実現するためであったというのです。その初めの契約ではどちらか一方がその契約に違反すればその契約は成立しませんでした。しかし、イエス・キリストが血を流して死んでくださったことによって、新しい契約が成立しました。ですから、イエスさまが新しい契約の仲介者です。そして、この死は新しい契約を成立させるというだけでなく、古い契約における要求をも満たすものだったのです。律法に違反すれば死ななければならなかったのですが、イエスさまが十字架で死んでくださったことによって、その律法の要求をも完全に満たしてくださったのです。ですから、もはや罪の咎めを受ける必要はありません。私たちに残されているのは、永遠の資産を受け継ぐ約束だけなのです。

 

この神の契約は、人間でいえば遺言のような意味と性格をもっています。そこで16節には、「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。」とあるのです。この契約は遺言と同じ性質をもっているということです。どういう点で同じなのかというと、まず遺言は遺言を書いた人の一方的な意思によって決まりますが、それと同じように、この神が与えてくださった契約も神の一方的な意思によって決まるという点です。この新しい契約においては、私たちの行いがどうであるかということは全く関係ないのです。たとえあなたの罪が緋のように赤くても、雪のようにしてくださいます。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくださるのです。なぜなら、神の御子イエス・キリストがあなたの身代わりとなって十字架でその刑罰を受けてくださったからです。だから、イエスさまを信じる人はどんな罪でも赦されるのです。私たちの状態とは関係なく、神がどうしたいのかということによって決まるのです。

 

もう一つの特徴は17節にあるように、「遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力は」ないということです。

これはどういうことかというと、キリストが十字架で死なれることによって、この神の救いの契約が効力を発したということです。それは初めの契約も同じでした。あの初めの契約では、人の罪はどのようにして赦されたのかというと、動物の犠牲によってでした。動物をほふって得られた血を至聖所に置かれた契約の箱のふたに振りかけることによって赦されるとあったのです。なぜなら、人のいのちは血にあるからです。ですから、血が注ぎ出されることがなければ罪の赦しはなかったのです。このことは何を表していたのかというと、それはやがて来るべき神の御子イエス・キリストが十字架で死なれることによって、はじめて罪が赦されるという効力があるということです。イエス・キリストが十字架に掛かって死なれたことによって、私たちの罪を取り除いてくださったということなのです。それは血が注ぎ出されることがなければ、罪の赦しはなかったからです。このゴールデンウイークの間、「サン・オブ・ゴッド」という映画でDVDで観ましたが、キリストが十字架に付けられた場面は実に凄惨でした。イエスさまの全身が血だらけでした。なぜキリストは血だらけにならなければならなかったのか、なぜ十字架にかからなければならなかったのか、それはここに書いてあるように、すべてのものは血によってきよめられからです。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはなかったからなのです。

 

このように言うと、中には「キリスト教って血生臭い宗教なんですね」とか、「何だってむごいことをするのでしょう」と思われる方がおられますが、実はその血生臭さこそ、私たちの罪の血生臭さであり、そのむごさこそ、私たちの罪のむごさであったということです。罪が赦されるためには、いのちの代価としての血が求められたからです。そうでなければ、私たち自身が死ななければなりませんでした。私たちが罪をもっていても死ななくても済むのは、キリストが私たちの代わりに死んでくださったからなのです。キリストが死んでくださったので、この神の契約は有効になりました。

 

ですから、この契約は遺言と同じなのです。実際に、15節の「契約」ということばと、16節の「遺言」、17節の「遺言」、20節の「契約」という言葉は、原語のギリシャ語ではどれも同じことばが用いられています。それはこのヘブル書の著者が、神の契約は遺言と同じであるということを強調したかったからです。それは神の真実において一方的な契約であり、イエスさまが十字架で死んでくださったことによって成立した契約であったということあって、私たちの行動とか、私たちの行いとは一切関係ないということです。たとえあなたがどんなに弱くとも、たとえ、あなたが神との契約を守ることができなくとも、あなたがイエスさまを信じるなら、あなたが十字架につけられたイエスさまを仰ぎ見るなら、あなたはすべての罪から救われるのです。

 

皆さん、これはすばらしい知らせではないでしょうか。だからこれが「福音」というのです。「福音」とは良い知らせ、グッド・ニュースです。なぜこれがグッド・ニュースなのかというと、これは神の真実にかけて結ばれた契約だからであって、私たちの行いとは全く関係ないからです。

 

先日、宣教師訓練センター後援会主催の聖会があり、そこで有賀喜一先生がお話をしてくださいましたが、有賀先生はそのお話の中でご自分がイエス様を信じたときの証をしてくださいました。先生が14歳のとき友人が亡くなりましたが、人は死んだらどこに行くのかわからなかったのでいろいろな人に尋ねるのです。「すみません。死んだらどこに行くのですか」返ってきた答えは「そんなの死んでみないとわからない」というものでした。死んでみないとわからないというのなら死んでみようと思い、遺書を書いて列車に飛び込むのです。けれども、当時の列車は車体が高く飛び込んだ先生の体の上を通り過ぎていったため死ぬことも叶いませんでした。自分は死に神からも見放されたかと思っていたとき、友人に誘われて教会に行くと、そこでスウーデンから来た宣教師がヨハネ伝3章からニコデモの話をしていました。

「人は、どうしたら神の国を見ることができるのか」

「人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできません」

「どうしたら新しく生まれることができましょう。」

「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」

こうしたイエス様とニコデモとの会話から、新しく生まれなければ、神の国に入ることはできないことを知らされるのです。一方では、死んでみないとわからないと言われ、一方では、新しく生まれるなら入ることができるとはっきり告げられ、その晩、有賀先生は自分の罪を告白してイエス・キリストを救い主として信じて救われたのです。

それまで、自分では良い人間だと思っていました。自分には罪など関係ないと思っていたのが、当時、教会の役員だった方に促されて罪を告白すると、本当に罪深い人間だということが示され、それを全部告白して、救われたのです。

 

皆さん、死ななくてもいいのです。死んだらどこに行くのかということは、死んでみないとわからないのではありません。死ななくてもわかります。皆さんの罪の身代わりとなって死んでくださった神の御子イエス・キリストを信じるだけでいいのです。信じる者は救われるのです。何という恵みでしょうか。これが、神がキリストによって与えてくださった救いの約束です。本来ならば、自分の罪のために、神の怒りとさばきを受けなければならなかったのに、神の一方的な恵みによって救われたのです。

 

Ⅱ.完全な救い(23~26)

 

では、そのような神の救いのみわざはどのようにして成し遂げられたのでしょうか。23節から26節までをご覧ください。

「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」

 

ここには、旧約聖書に出てくるあの地上の幕屋と天の幕屋との対比を通して、地上の幕屋が血によってきよめられたのは、罪ある人間が神に受け入れられ神に近づくことができるようにするためでしたが、それは天にある幕屋、天国のひな型であったということ言われています。そして、天国の神に近づくためには、動物のいけにえよりももっとすぐれたいけにえでなければならなかったということが言われているのですが、それはもちろんイエス・キリストのことであって、これまで説明してきたとおりです。それでは、このキリストの犠牲とはどのようなものだったのであったのかを、二つのことばをもって協調しています。それは26節にあるように、「ただ一度」ということと、「今の世の終わりに」という言葉です。

 

これはどういうことでしょうか。キリストはただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために来られました。旧約における大祭司は年に一度、動物のいけにえの血を携えて聖所に入りました。しかも、それを毎年繰り返して行っていましたが、キリストは、ただ一度だけ、ご自身をささげられました。つまり、これが神の私たち人間を救う最終解決であったということです。神は最初の人間アダムが罪を犯した瞬間から、人類を罪から救う永遠の計画をもっておられましたが、その完全な贖いがイエス・キリストを十字架につけることによって完了したということです。キリストが十字架につけられたとき「完了した」と言われましたが、何が完了したのかというと、この神の永遠の救いのみわざが完了したということです。これが神のファイナルアンサーでした。これ以上、他に何かしたり、何すを付け足したりする必要はありません。私たちの罪の贖いはキリストの十字架によってすべて完了したのです。それは完全な救いだったのです。

 

リビングライフのコラムにこんなことが書かれてありました。ある夏の日、一人の子どもが庭で遊んでいたら、突然、大きな蜂がやって来て、子どもの頭上をブンブン飛び回りました。逃げようとすればするほど、さらに襲いかかってくるので、蜂が怖くて、子どもは泣きながら母親のところに走って行って抱きつきました。子どもの驚いた表情を見た母親は、急いでスカートで子どものからだを覆い、両手で子どもの顔を隠しました。その瞬間、怒った蜂は今度はその母親の手を力いっぱい刺し、大きな蜂の毒針は、抜くことができないほど深く突き刺さってしまいました。針が抜けた蜂は、飛んでいくこともできず、母親の手の上をはいずり回っていました。母親は痛みをこらえながら、おびえている子どもに言いました。「もう怖がらなくていいのよ。お母さんがあなたの代わりに刺されたから、もう大丈夫。この蜂は私を刺したから、もうあなた指すことはできないわよ。」「蜂の一刺し」という言葉がありますが、蜂は一度指したら死んでしまうのです。もう刺すことはありません。

 

キリストも、ただ一度だけ、十字架で刺されて死なれました。だから、私たちはもう刺されることはありません。キリストは、すでに私たちのために罪を贖って死なれ、三日目によみがえられることによって死に勝利され、今、天国のまことの聖所で私たちのために、あなたのために働いておられるのです。

 

さくらでの伝道が始まって一か月が経ちましたが、あまり反応がないのでどうしたんだろうと思い、教会の回りの家を訪問することにしました。すると、驚いたことに、中には家の中にいるということがわかっているのに玄関にも出て来なかったり、いぶかしい顔で対応する人もいました。いったいどうしてだろうかと思いながらある方のお宅へ行ったところ、その方が、「きょうは五回目ですよ」というです。「えっ、何が・・」と尋ねると、「エホバの証人の方が何回も何回も回ってくるのです」と言われました。「オタクとは違うんですか」というので、「えっ、違いますよ。一番違うのは十字架があるかないかということです。伝統的なキリスト教には必ず十字架がありますが、エホバの証人の方には十字架がありません。それが一番大きな違いです。」というと、「ああ、そうなんですか。私はオタクも同じかと思っていました」と言われました。

エホバの証人の方が一生懸命に伝道しているのはすばらしいことだと思うのですが、なぜそこまでして伝道するのかというと、そうしないと救われないと思っているからです。自分が救われているかどうかがわからないのです。だから、救われるためにそうやって必至で伝道しているのです。

けれども、聖書はなんといっているでしょうか。キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られました。このイエスを信じる者は、だれでも救われるのです。神はキリストを通してその救いの御業を完成してくださいました。このイエスを信じるならだれでも救われます。これが、聖書が約束していることです。これは感謝なことではないでしょうか。そして、このすばらしい救いに預かったのなら、こんなにすばらしい恵みを受けたのであれば、その喜びがあふれてくるはずで、エホバの証人どころではない熱心さが生まれてくるはずです。

 

Ⅲ.キリストを待ち望んで(27~28)

 

であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。27~28節をご覧ください。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自分をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々のために来られるのです。」

 

これはとても厳粛な箇所です。このヘブル人への手紙の著者は、「ただ一度」という言葉を、人間にもあてはめています。人は、何度も死ぬわけではありません。死ぬのはたった一度だけです。そしてそれは確実にやってきます。すべての人は皆、死ぬのです。しかしそればかりでなく、死んだらそこでさばきを受けることが定まっているのです。日本人の中には死んだらまた他の人となって生まれ変わるとか、死んだら無になると考えている人がいますが、そうではありません。人は死ぬことと、死んだらそこで必ず神のさばきを受けるのです。このさばきというのは、キリストを信じた者は天国へ、信じなかった者は地獄へ行くという最後のさばきのことです。なぜそのようなことが言えるのかというと、これまで何度も語ってきたように、キリストを信じた者はキリストが十字架にかかってその人の罪の身代わりとして死んでくださったので、もうさばかれることがないからです。ヨハネの福音書3章16~18節にこう書かれてあります。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

 

御子を信じる者はさばかれません。なぜなら、御子が代わりにさばかれたからです。これこそ神が用意してくださった救いであります。神はこのすばらしい救いを私たちに提供してくださいました。あなたはこの救いを受け取られましたか。あなたの罪の救い主イエスを信じて救われていますか。信じる者は信じる者は救われるのです。

 

ところで、ここには、人は一度死ぬことと死後にさばきを受けるということだけでなく、キリストが再び来られるということも書かれてあります。キリストは多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいるすべての人々の救いのために来られるのです。

 

いったいなぜここにキリストが二度目に来られること、すなわち、キリストの再臨について語られているのでしょうか。それは、キリストによって罪赦された者がどのようにあるべきなのかを語るためです。すなわち、私たちは、今をどのようにとらえているかということであります。ここには、今は世の終わりの時であると言われています。この終わりの時をどのようにとらえ、どのように生きているかということによって私たちのきょうの生き方は変わってくるのです。

ペテロはこう言っています。「万物の終わりが近づいてきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(Ⅰペテロ4:7~10)

 

なぜ祈りのために、身を慎むのでしょうか。なぜ何よりも、互いに熱心に愛し合うのでしょうか。なぜつぶやかないで、互いに親切にもてなし合い、その賜物を用いて、互いに仕え合うのでしょうか。万物の終わりが近づいているからです。このように、キリストの再臨の望みが、きょうの私たちの生き方を変えるのです。

 

あるクリスチャンの方がガンと診断され、余命6か月と宣告されました。この人は人生を整理することにしました。それまで自分が神様に対して行った過ちを紙にすべて書き出しました。数日間、身動きもせず、祈りながらすべてを書き出したのです。そして、書き出した罪の項目を一つ一つ消去しながら、神様の御前で悔い改めました。人に間違ったことをしたなら、訪ねて行ってお金を返し、謝り、食事をするなどして、人生を整理したのです。しかし、6か月経っても体調が悪くならないので、別の病院に行って診察してもらうと、最初の病院が誤診したようだと言われました。そこで彼の友人が、それはひどいと言って、その病院を訴えるよう勧めましたが、その聖徒は顔を上げることができませんでした。それは、その6か月間、自分はとても幸せで、生きがいを感じたためです。ですから、その残りの人生もそのように生きたいと思ったからなのです。

 

神様は、私たちが霊的に目覚め、このような心境で生きることを望んでおられます。まるで来月にでもイエスさまが来られるかのように、来月私がこの世を去ってしまうかのように、悔い改め、赦し、愛しながら生きることを望んでおられるのです。

あなたは、今がどのような時であるかを意識していますか。今が終わりの時であることを知り、あなたのために救いの御業を成し遂げてくださった主の恵みに感謝し、そこにしっかりととどまりながら、キリストが再び来られることを待ち望んでいるでしょうか。もちろん、私たちがこの世で与えられている務めはいろいろありますが、それは「キリストが死なれたのは、昨日のように思う」といったルターのように、キリストの愛に駆り立てられてのことなのであって、キリストを日々待ち望みながらのことなのです。

 

この手紙の読者たちはユダヤ人クリスチャンで、日々激しい迫害の中に置かれていました。生きる希望もなかったでしょう。しかし、ここに希望があります。それはやがてキリストが再び来られ、その救いを完成してくださるという望みです。キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られます。そこに希望を置きながら、きょうという日を感謝して歩んでいきたいと思います。それが神の恵みによって救われた私たちに求められていることなのです。