申命記33章

きょうは、申命記33章から学びます。

 

 Ⅰ.モーセの祝福(1-5

 

 まず1節から5節までをご覧ください。

「これは神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばである。彼は言った。「主はシナイから来られ、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、メリバテ・カデシュから近づかれた。その右の手からは、彼らにいなずまがきらめいていた。まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。モーセは、みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。民のかしらたちが、イスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。」

 

 モーセは、イスラエルの全会衆に聞こえるように、神のことばを歌によって語りました。その後、主は彼にネボ山に登るようにと命じられました。そこから約束の地カナンを見るためです。彼は約束の地を見ることはできましたが、そこに入ることはできませんでした。イスラエルの民をそこに導くのは彼の後継者ヨシュアでした。モーセではなくヨシュア、すなわち、律法ではなくキリストを信じる信仰によって入ることができるのです。それでモーセは、その死を前にして、イスラエル人を祝福しました。

 

1節には、「これは神の人モーセが」とありますが、これはモーセ五書において、初めて使われた用語です。詩篇90篇にも、「神の人モーセの祈り」とありますが、モーセ五書においては初めてです。それは、モーセが死ぬ前にイスラエルの子孫を祝福したというこの出来事が、彼の死後、モーセではない他の人によって書かれたであろうことを表しています。それは2節で「彼は言った。」という言葉からもわかります。

 

モーセの祝福の序論にあたる2節には、主なる神が、かつてシナイ山で現われたことから始まっています。その時主は、稲妻と角笛の音と黒雲とで、彼らに現れてくださいました。

3節には、イスラエルの民を愛し、その民に神のみことばを語られる主の姿が描かれています。彼らは主の足元に集められ、主が語られる御告げを聞きました。

5節には、主なる神がエシュルン、すなわち、イスラエルの王となられたとあります。これはイスラエルにとって最も大きな祝福です。主は王となって彼らを治めてくださいます。神が治めておられる国は完全な国であり、そこに住む民に平和と喜びがもたらされます。イスラエルはその国民となったのです。しかし、それは同時に、彼らがこの王に従順であることが求められます。あなたは、この王の支配を喜び、敬い、崇めておられるでしょうか。

16世紀のドミニカ修道会に所属していたブラザー・ローレンスはこう言いました。「食事をする時でも、心を神に向けなさい。少しずつでも神を覚えることが、神の前には十分美しいのですあなたは神に向かって叫ぶ必要はない。私たちが思っているよりも、神は近くにおられる。」

主イエスが言われたように、まさに、神の国はあなたがたのただ中にあるのです。私たちは神が支配しておられる国に存在し、生きているのです。

 

Ⅱ.12部族への祝福(6-25

 

次に6節から25節までをご覧ください。ここから、イスラエル12部族への祝福のことばが語れていきます。まず6節をご覧ください。

「ルベンは生きて、死なないように。その人数は少なくても。」

まず長男ルベンに対する祝福のことばです。ルベン族は、死海の東側あたりに割り当て地を持ちますが、その人口が少なくなると言われています。それはかつてルベンが父のそばめビルハと関係を持ち、父の寝床を汚したことに起因していると思われます。(創世記35:22,49:4)それは、実際の歴史の中でも、そのとおりになりました。しかし、ここに生きて、死なないように、とあるように、なくなることはありませんでした。

 

次に、7節をご覧ください。ユダについてはこのように言われています。

「ユダについては、こう言った。「主よ。ユダの声を聞き、その民に、彼を連れ返してください。彼は自分の手で戦っています。あなたが彼を、敵から助けてください。」

ユダに関する祝福は、神が戦いを勝利に導き、彼を連れ返してくださるということです。このユダ族からダビデ王が出ました。彼は戦って勝利したので、イスラエルは国として統一され、強い国となりました。

 

8節から11節までには、レビ族について語られています。

「レビについて言った。「あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。彼は、自分の父と母とについて、『私は、彼らを顧みない。』と言いました。また彼は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました。彼らは、あなたの定めをヤコブに教え、あなたのみおしえをイスラエルに教えます。彼らはあなたの御前で、かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を、あなたの祭壇にささげます。主よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼の敵の腰を打ち、彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください。」

トンミムとウリムとは、大祭司が胸当てのところに入れておく、主のみこころを知るための道具です。レビ人から祭司が出ました。そしてモーセ自身もレビ人です。モーセは、メリバにて、イスラエルのために岩を打って水を出しました。イスラエルが金の子牛をおがんで、乱れていたときに、彼らを殺したのは、レビ人でした。レビ人は、たとえ肉親であっても、主の怒りを静めるために、主に忠誠を尽くしたのです。レビ族の役割は、神との契約と神のみことばを守るように教えることで、神の栄光を現すことでした。その手のわざに恵みを施してくださいと、モーセは祈っています。

 

次に、ベニヤミンに対する祝福のことばです。12節をご覧ください。

「ベニヤミンについて言った。「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。」

ベニヤミンに対する祝福は、「主に愛されている者」として、戦いの中にあっても安らかに主のそばに住まい、あたかも父が息子をかばうように、神の肩の間に、安全に住むことができるようにということでした。

 

次に、13節から17節までのところに、ヨセフに対する祝福のことばが続きます。

「ヨセフについて言った。「主の祝福が、彼の地にあるように。天の賜物の露、下に横たわる大いなる水の賜物、太陽がもたらす賜物、月が生み出す賜物、昔の山々からの最上のもの、太古の丘からの賜物、地とそれを満たすものの賜物、柴の中におられた方の恵み、これらがヨセフの頭の上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭の頂の上にあるように。彼の牛の初子には威厳があり、その角は野牛の角。これをもって地の果て果てまで、国々の民をことごとく突き倒して行く。このような者がエフライムに幾万、このような者がマナセに幾千もいる」

ヨセフに対する祝福では、主の祝福が、彼の地にあるようにと、農耕の祝福が語られています。

このヨセフから、エフライムとマナセの二部族が出てきましたが、彼らは、ベニヤミン族の北部にその土地の割り当てが与えられました。その肥沃な土地のゆえに、モーセは主の祝福を「賜物」として描いています。それは「最上のもの」です。ここに7回も繰り返されています。モーセは、神が最も良い産物で、ヨセフを満たしてくださるようにと祈っているのです。また、ヨセフが、その兄弟たちから選び出された者として、頭の頂の上にあるようにと祈っています。

17節の、「牛の初子には威厳があり」とか、「その角は野牛の角」というのは、軍事的にも強いことを表わしています。彼らはこの威厳と角をもって国々の民をことごとく突き倒していきます。士師記に登場するのギデオンは、このマナセ部族の出身です。

 

次はゼブルン族とイッサカル族です。18節と19節をご覧ください。

「ゼブルンについて言った。「ゼブルンよ。喜べ。あなたは外に出て行って。イッサカルよ。あなたは天幕の中にいて。彼らは民を山に招き、そこで義のいけにえをささげよう。彼らが海の富と、砂に隠されている宝とを、吸い取るからである。」

ゼブルンとイッサカルは、ヤコブとレアの間に生まれた息子たちです。ここには、このゼブルンとイッサカルへの祝福が一緒に出ています。なぜ、この二つの部族は、一つとして扱われているのでしょうか。それは、この二つの部族が内と外において、すなわち日常生活において、あらゆる面で楽しみを享受する部族であるからです。

19節の「山」とは、特定の山を指すのではなく、ささげものと礼拝をささげる場所のことを意味しています。ですから、「そこで義のいけにえをささげよう」というのは、儀式的な礼拝ではなく、霊とまことをもってささげる霊的な礼拝のことです。つまり、彼らは霊的な祝福された信仰生活を送るようになるという意味です。そのような部族には、物質的な祝福が伴います。彼らは「海の富と、砂に隠されている宝」、つまり、海を通してもたらされる貿易を通して、富がたくわえられるようになるのです。

 

次に20節と21節をご覧ください。

「ガドについて言った。「ガドを大きくする方は、ほむべきかな。ガドは雌獅子のように伏し、腕や頭の頂をかき裂く。彼は自分のために最良の地を見つけた。そこには、指導者の分が割り当てられていたからだ。彼は民の先頭に立ち、主の正義と主の公正をイスラエルのために行なった。」

「ガドは雌獅子のように」攻撃的で勇敢に戦う部族です。その特徴は、「腕や頭の頂をかき裂く。」というところにあります。彼らにはヨルダン川の東側の最も良い地を相続地として与えられました。モーセが初めて手にした土地の割り当てをもらったのです。(民数記32:1-5)しかし、自分たちに相続地が割り当てられても、神の義に徹し、他の部族たちに協力して、誠実にカナンの地の征服に参加しました。

 

22節をご覧ください。ダンにいては次のように祝福されています。

「ダンについて言った。「ダンは獅子の子、バシャンからおどり出る。」

ダン族は、えさに飛びつく獅子の子にたとえられています。これは将来、強い力を発揮する獅子のようになることを表わしています。ダン族には、ペリシテ人が住む今のガザ地域北部に割り当てが与えられましたが、そこだけでは不十分で、北部のほうにも行き、そこも自分たちの土地としました。「バシャン」というのは、そのことです。それは、現在のゴラン高原の地域にあたります。

 

23節をご覧ください。ナフタリについては次のように祝福されています。

「ナフタリについて言った。「ナフタリは恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」

ナフタリ族はガリラヤ地方の一部とその西南部を所有しました。そこは肥沃な地で、農産物がたくさんとれるところです。まさにここにあるとおり、恵みに満ち足り、主の祝福に満たされています。

 

次は、アシュルに対する祝福です。24節と25節をご覧ください。

「アシェルについて言った。「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」

「アシュル」という名前は、幸いなとか、祝福されたという意味です。この部族はイスラエルの中で、最も祝福された、最も幸福な部族になります。「その足を、油の中に浸すようになれ。」というのは、油を足に注ぐのではなく、油の中に足を浸すようになるということで、かなりのオリーブ油が産出されることを表わしています。また、「あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり」というのは、彼らの砦が堅固なものであることを表わしています。どんな敵も彼らを打ち破ることができません。

 

Ⅲ.しあわせなイスラエル(26-29

 

最後に、26節から29節までを見て終わりたいと思います。

「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、「根絶やしにせよ。」と命じた。こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」

 

先にも述べた通り、エシュルンとはイスラエルのことを指しています。モーセはここで、イスラエル全体を祝福しています。彼はイスラエルの神を賛美すると、神がどれほど偉大な方であるかを、「神はあなたを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。」と言っています。これは、やがて主が雲に乗って再び来られ、ご自分の民を救ってくださることの預言です。このような神は他におられません。この方に並ぶ者はほかにはありません。

また、神は永遠なる方です。永遠の腕がいつも彼らの下にあります。どんなに自分がだめでも、この永遠の腕が下にあります。その永遠なる腕が彼らの下にあって彼らを敵から守ってくださるというのは、どんなに大きな慰めかと思います。

その結果イスラエルは安らかに住まい、その泉は、穀物と新しいぶどう酒の地を潤します。また天からの露も尽きることはありません。いつまでも豊かな収穫を享受することができるのです。

 

何という祝福でしょうか。そのような祝福を享受するイスラエルを、モーセは「しあわせなイスラエルよ」と言っています。だれが彼らのような祝福を受けることができるでしょう。神は彼らを助ける盾であり、助け手であられます。それは彼らが神との契約の中にあり、神の民とされているからです。そして、神の祝福の計画はイエス・キリストを通して明らかになりました。イエス・キリストを信じて神の子とされた者に、神はこのイスラエルに約束された祝福を注いでくださるのです。

 

私たちは神の子として、このしあわせを受けているということに、どれだけ深く気付いているでしょうか。私たちの下にある永遠の腕の中にすべてをゆだね、そこに深い安心感と満足をいただいて、いつも主をあがめる生活ができるように祈ります。

ヤコブ4章7~10節 「ですから、神に従いなさい」 

きょうはヤコブの手紙4章7節から10節までのみことばから、「ですから、神に従いなさい」というタイトルでお話します。

行いの伴った生きた信仰について語ったヤコブは、その具体的な例として舌を制御することについて述べました。舌は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。これを制御することはだれにもできませんが、それは心にあることを話すのですから、そのためには、いつも心が神の平和で満たされていなければなりません。

それでは、どうして私たちの間に戦いや争いがあるのでしょうか。それは外側の問題ではなく、内側の問題です。私たちのからだの中で戦う欲望が原因であって、私たちは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをしたり、うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。

ですから、私たちは私たちの心をしっかりと見張っていなければなりません。いつも神に従い、神の平和と神の知恵に満たされていなければならないのです。

きょうは、この神に従うことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.神に従いなさい(7)

 

まず7節をご覧ください。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

 

「ですから」というのは、ヤコブがこれまで語ってきたことを受けてということです。これまでヤコブはどんなことを語ってきたのでしょうか。6節には、「しかし、神は」とあります。私たちはすぐに神ではなく世を愛してしまうような愚かな者であるにもかかわらず、しかし、神は、そのような者をも愛して恵みを注いでくださいます。「ですから」です。

 

ですから、そのように神の恵みによって救われたクリスチャンはどうしなければならないのでしようか。「ですから、神に従いなさい」なのです。この手紙はユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙です。ユダヤ人クリスチャンとは、もともとユダヤ人であった彼らが、神の恵みを受けてクリスチャンになった人たちのことです。ユダヤ人というのは、旧約聖書を信じていますが、その中に書かれてある約束のメシアがイエス・キリストであるとなかなか受け入れることができない人たちです。しかし、そんな彼らでも、中にはイエスを信じて救われた人たちがいました。それがユダヤ人クリスチャンです。

 

そんなユダヤ人クリスチャンにとって、神に従うことは、すべての祝福の原点でした。彼らの先祖は昔エジプトで四百年の間、奴隷として捕らえられていいました。しかし、神はモーセという人物を立てて、彼らをエジプトの地から救い出してくださいました。

しかし、彼らがカデシュ・バルネアというところまで来たとき、約束の地まではほんの目と鼻の先というところまで来たのに、「上って行け」という神のことばに従わないでその地の住人を恐れ、上って行きませんでした。その結果、彼らは40年間も荒野をさまようことになってしまったのです。そして、多くの人たちが荒野で滅び、約束の地に入ることができませんでした。20歳以上の男子では、ただヨシュアとカレブの二人しか入ることができなかったのです。

 

いったい何が問題だったのでしょうか。神に従わなかったことです。ですから、約束の地に入ろうとしていたユダヤ人に、モーセが繰り返し、繰り返し語ったことは、神に従いなさい、神を愛しなさいということだったのです。神に従うことが、その地で彼らが幸せに生きるための絶対条件であり、神が約束してくださったすべての祝福を受ける道であったのです。

 

ヤコブはここで、イエスを信じて救われたクリスチャンに対して、神に従いなさい、と命じました。神に従うことが、神の恵みを受ける道であり、この世で彼らがすべての祝福にあずかる条件なのです。イエスは、こう言われました。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、これらのものはすべて与えられるのです。

 

しかし、残念ながら、生まれながらの人間は、神に従うことができません。生まれながらの人間は肉の性質を持っているので、神に従いたくないからです。肉の性質というのは、自分中心という性質のことです。人はみな生まれながらに自己中心であって、いつも自分を中心に考え、自分の利益を求め、自分の欲望を満足させたいという傾向があるのです。ですから、神に従うよりも自分の思いを通したいのです。しかし、神に救われた者、神の恵みを受け者は、自分に死に、神のために生きるようになりました。自分ではなく、神のために、神を愛し、神の栄光のために生きるようになったのです。

 

それでは、神のために行春とはどういうことでしょうか。神を愛するとはどういうことなのでしょうか。それは、神に従うということです。Ⅰヨハネ5章3節には、このようにこうあります。

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」

ここには、神を愛するとはどういうことなのかがはっきりと示されています。それは、神の命令を守ることです。神を愛している人は、神の命令を守ります。それは重荷とはなりません。神を愛していると言いながら、神の命令に従いたくないということはないのです。

 

また、ヨハネの福音書14章15節にはこうあります。

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」

これはイエスのことばです。イエスを愛する者はイエスの命令、イエスの戒めを守ります。では、その戒めとは何でしょうか。それは互いに愛し合うことです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:24)

これがイエス様の戒めです。それなのに戦いや争いがあるのはどうしてでしょうか。それは、神に従っているのではなく、自分の欲望に従っているからです。何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょうか。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、すぐに人殺しをするのです。自分の思うようにならないと、すぐに敵対心を持ち、憎んだり、争ったりするのです。あなたがたの肉が問題だと、ヤコブは行っているのです。

しかし、神を愛する者は、神に従います。自分の思うとおりにいかなくても、自分のほしいものが手に入らなくても卑屈になりません。神の命令に従って、人を愛し、人を赦し、人を受け入れます。愛は寛容であり、愛は親切です。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、人をした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを耐え忍びます。

「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」(箴言10:12)のです。

 

ところで、ここには神に従いなさいということだけでなく、悪魔に立ち向かいなさい。ともあります。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。どういうことでしょうか。神に従うことを悪魔が妨げているということです。ですから、神に従って、そして悪魔に立ち向かわなければなりません。

 

悪魔とは何者でしょうか。悪魔は元々神に仕える天使長でしたが、彼は高ぶって、自分も神のようになりたいと神に反逆し、天から落とされよみの穴の底に落とされました。(イザヤ14:12-15)そして最初の人アダムとエバはその悪魔にだまされ罪を犯したので、神から離れてしまいました。それ以来、人類はずっとこの罪の支配下に置かれるようになりました。ですから、すべての人は生まれながらに罪の性質を持っているのです。だれからも教えられなくても悪いことをします。それはそのような性質を持っているからです。ですから、人間は生まれながら罪の奴隷なのであって、いつでも罪に従うというか、悪魔に誘惑されて罪を犯してしまうのです。

 

しかし、神は、ひとり子イエス・キリストをこの世に送り、私たちの罪の代わりに十字架につけてくださり、その罪から救ってくださいました。罪の奴隷から解放してくださったのです。キリストを信じた人は悪魔の支配から神の支配に、暗やみから光へ移されたのです。ですから、クリスチャンは神に従うことができるようになったのです。

 

しかし、以前の主人であった悪魔は、クリスチャンが新しい主人である神に従うことを憎み、神に従わないようにあの手この手を尽くして誘惑し、以前の罪の生活に引き戻そうと躍起なっているのです。たとえば、悪魔は私たちのさまざまな欲に働きかけて誘惑します。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢などはそうです。「もっといい生活がしたい。」「あれもほしい、これもほしい」と私たちの中にある欲に働きかけて誘惑してくるのです。誘惑そのものは罪ではありませんが、誘惑に負けると罪になります。

 

あるいは、悪魔は私たちの人生に起こるさまざまな試練を用いて誘惑することもあります。病気とか、事故とか、経済的な問題を通して不安を与え、人間関係の問題を通して脅してきたりするのです。「なぜ私ばかりこんなに苦しまなければならないの、神がおられるなら、こんなことが起こるはずがない・・・」と、神の愛に疑いを抱かせ、信仰を捨てるように誘惑するのです。

 

あるいは、悪魔はこうした問題ばかりでなく、逆に良いことを通しても

誘惑してくることがあります。たとえば、家族を愛することは大切なことです。一生懸命に働くことも、たまに趣味を楽しむことも良いことです。しかし、それがどんなに良いことであっても神よりも愛するなら、それが罠となって神から離れてしまう原因になってしまうことがあるのです。イスラエルの民が神から離れたのは、これが一番大きな要因でした。彼らはパンがないとか水がないことによっても神を疑い、神から離れることがありましたが、それよりも、彼らが豊かになった時かれらは高ぶって神を忘れ、神から離れてしまいました。

 

このように、悪魔は、私たちが神に従わないようにと、あの手この手をもって誘惑してきます。ですから、私たちはこの悪魔に立ち向かっていかなければなりません。そのためには、神に従うことが求められます。神に従って、そして、悪魔に立ち向かわなければならないのです。私たちの力では、悪魔に立ち向かうことができません。神に従い、神の力をいただき、そして悪魔に立ち向かわなければなりません。

 

神はそのために神の武具を与えてくださいました。それはエペソ6章にありますが、中でも悪魔に立ち向かっていくために、御霊の与えてくださる剣である神のことばを与えてくださいました。神のことばは、御霊の与える剣です。この剣を持って悪魔に立ち向かっていくなら、悪魔は逃げ去るのです。

 

あなたは、この武具を受け取っておられるでしょうか。私たちは強そうでも弱い者です。すぐに否定的になったり、躓いたりします。ですから、この神のみことばを心にたくわえ、みことばによって強められて、悪魔に立ち向かっていかなければなりません。

 

Ⅱ.神に近づきなさい(8)

 

第二のことは、神に近づきなさいということです。8節をご覧ください。

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」

 

神の恵みによって救われた者は、神に近づかなければなりません。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。どういうことでしょうか。それは、神との親しい交わり中に入れられるということです。悪魔はさまざまな方法で誘惑してくると申し上げましたが、その誘惑に負けて罪を犯すと、神から遠く離れてしまいます。神から離れるとこの世に妥協し、自分勝手な生き方に逆戻りしてしまいます。それは一見楽しそうに見えるかもしれませんが、実は心はみじめで、空しくなるのです。

 

あの放蕩息子のことを思い出してください。彼は父親に財産を分けてもらうと、遠い国に旅立ち、そこで放蕩して湯水のように財産を使い果たしてしましました。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こると、彼は食べるにも困り果ててしまいました。それである人のところに身を寄せると、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせました。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでした。それは彼にとって屈辱的で、最悪な状態でした。豚の食べるいなご豆とは、豚の食べるえさのことです。そんな家畜のえさで腹を満たしたいというのですから、しかもユダヤ人にとって豚は汚れた動物とされていたので食べることはしませんでしたが、その豚の世話をして、そのえさを食べたいと思うほどであったというのは、彼がどれほど落ちぶれてしまったかをよく表しています。父親のところにいればそんなことはなかったのに、そんな父の下を離れ、自分勝手に生きようとした結果がこうでした。これは私たち人間の姿を表しています。神から離れた人間は、この放蕩息子のようにみじめでしかないのです。人間にとってもっとも幸せなのは、神とともにいることです。なぜなら、人間はそのように造られているからです。神は人をご自身のかたちに造られました。このかたちこそ霊魂のことであり、神に祈り、神と交わる部分です。ですから、神とともにあるとき、私たちは真の喜びと生きがいを感じるのです。

 

あの放蕩息子は、最悪の状態に落ちたとき、そのことを思い出しました。そのとき、彼はこう考えるのです。

「父のところには、パンの有り余っている雇人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」そうだ、父のところに帰ろう。そしてこう言おう。

「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」(ルカ15:18)

これは彼にとって大きな方向転換でした。これまで自分に向かっていた方向を、父に向けました。これを悔い改めると言います。彼はへりくだり、悔い改めて、父のもとに向かいました。

するとどうでしょう。家まではまだ遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思って走り寄り、何度も口づけして、喜んで彼を迎え入れました。そして彼に一番良い着物を持って来て着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせ、肥えた子牛をひいてきてほふり、祝ったのです。

 

父親から離れ、自分勝手に生きていた彼には何の喜びも祝福もありませんでした。しかし、彼が向きを変えて父のもとに立ち返った時、父親は彼に近づいてくれました。神に近づくなら、神はあなたに近づいてくださるのです。神はあなたの罪を赦し、あなたを祝福してくださいます。ですから、まだイエス様を信じていない人がいたら、どうか悔い改めて、神に立ち返ってください。神の救い、イエス・キリストをあなたの救い主として信じてください。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。あなたのすべて罪は赦されるのです。だれでも、一つや二つ、過去のことで思い悩むことがあります。忘れようとしても忘れられないことがあります。しかし、それがどんなに暗い過去であっても、神は雪のように白くしてくださいます。あなたの罪の全部を赦してくださるのです。

 

また、もうイエス様を信じたのに罪を犯し、神から離れておられる方がおられるでしょうか。そういう方がおられましたら、どうか主のもとに立ち返ってください。神に近づいてください。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。神はあなたを責めるようなことはされません。あの放蕩息子の父親のように、両手を広げて受け入れてくださいます。あなたが返ってくるのを待っておられるのです。

 

ところで、ここには「手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」ともあります。どういうことでしょうか。旧約聖書によると、神に近づくことができたのは、神に仕えた祭司だけでした。彼らはきよめの儀式に従って手を洗い、動物のいけにえをささげてからでないと、神に近づくことができませんでした。なぜなら、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないからです。ですから、動物をささげて、動物の血を取り、その血によって身をきよめてから、神に近づいたのです。これは、やがてもたらされる完全ないけにえ、イエス・キリストの十字架の贖いのひな型でした。

 

しかし、ここでヤコブが「手を洗いなさい」と言っているのはそのことを言っているのではなく、イエスを信じた後に行っている罪の行いのことです。この手紙は、ユダヤ人だった彼らがイエス・キリスト、神の恵みを信じてクリスチャンになっていた人ユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らは悔い改めてキリストを信じていたのです。それなのに、彼らの行いは神のみこころにかなったものではありませんでした。行いが伴った信仰ではなかったのです。

 

私たちは、イエスを信じてからも罪を犯します。罪を犯さずには生きていけないと言ってもいいでしょう。ここでは、そうした罪を悔い改めるようにと言われているのです。その場合この「手」は、私たちの行いを表しています。キリストを信じて救われた者であるなら、そこには当然良い行いが伴うはずなのにそうでないなら、それを洗いきよめなければなりません。

 

また、ここには「心を清くしなさい」ともあります。心を清くするとは内側を清くするということです。私たちの思い、私たちの動機、私たちの考えといった内側をきよめなければなりません。すなわち、キリストを信じて罪がきよめられ、神に近づく者とされた私たちは、神のみこころにかなった心と行いを持つように、絶えずきよめられなければならないということです。それによって、神に近づくことができるからです。

 

Ⅲ.神の御前にへりくだりなさい(9-10)

 

第三のことは、神の御前にへりくだりなさいということです。9節と10節をご覧ください。

「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたを高くしてくださいます。」

 

これは、どういう意味でしょうか。Ⅰテサロニケの手紙には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)とあります。このみことばに照らし合わせてみると、ここでヤコブが言っていることは正反対のように感じます。なぜなら、ヤコブはいつも喜んでいなさいではなく、その喜びを憂いに変えなさいとか、笑いを悲しみに変えなさいと言っているからです。

 

前にも申し上げましたが、ヤコブの教えはイエスの教え、特に山上の説教がベースになっています。ここではそのイエスの教えが背景にあります。イエスは山上の説教で開口一番こう言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(マタイ5:3-4)

 

イエス様はここで、心の貧しい者は幸いです、と言われました。心の貧しい人とはどういう人でしょうか。それは、神の前に心がへりくだった人です。自分はどうしようもない罪人であり、自分では自分を救うことができないと認めている人、つまり霊的破産状態にあると認めている人です。このような人は神に向かいます。「神さま、助けてください。」「このようなみじめな私を救ってください」と祈らずにはいられません。そのような人は幸いです。なぜなら、天の御国はそのような人たちのものだからです。そのような人こそ神から恵みを受けるのです。

 

イエスは、ルカの福音書18章で、祈るために宮に上ったふたりの人の話をされました。パリサイ人と律法学者です。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをしました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11-12)

それに対して、取税人はどのように祈ったでしょうか。彼は遠く離れて立ち、目を天に向けてようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人をあわれんでください。」(ルカ18:13)

いったい、このふたりのうちどちらが、義と認められて家に帰って行ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人でした。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 

心の貧しい人とは、このように自分の罪を悲しみ、嘆き、神の前にへりくだって、神に救いを求める人です。ですから、ヤコブはここでが、「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」と言っているのは、自分の罪を悲しみ、神の前に心が砕かれて、神に赦しと救いを求めるようにということだったのです。

 

ダビデは偉大な王でしたが、彼の最も偉大だったのはどういう点だったかというと、神の前にへりくだることができたという点です。彼はウリヤの妻バデ・シェバと姦淫を行ったとき、神の前に出てこう祈りました。

「幸いなことよ。そのそむきを許され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。私は黙っていたときは、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申し上げました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。すると、あなたは私のとがめを赦されました。」(詩篇32:1-5)

彼は偉大なイスラエルの王という立場にあっても、主の前にへりくだり、自分の罪を告白して、赦しを請いました。彼は自分の罪に苦しみ、悲しんで、泣いたのです。それゆえ、主は彼の咎を赦し、彼を本当の意味で偉大な王としました。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 

あなたはダビデのように主の前にへりくだっているでしょうか。「神さま、こんな罪深い私をあわれんでください。」と、胸をたたいて、打ちひしがれているでしょうか。主の御前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたを高くしてくださいます。

 

神に従いなさい。神に近づきなさい。神の前でへりくだりなさい。これが神の恵みを受けたクリスチャンの姿です。私たちはいつもこのことを忘れることなく、ただへりくだって神のみこころに歩ませていただきたいと願います。