ヤコブ5章7~12節 「苦難と忍耐について」

きょうは、「苦難と忍耐について」というタイトルでお話しします。7節には、「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。」とあります。「こういうわけですから」というのは、ヤコブがこれまで語って来たことを受けてのことです。ヤコブは5章前半で、富の惑わしについて語りました。1節には、「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」とあります。なぜなら、金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

 

一方で、そうした金持ちたちに搾取され、苦しんでいる人たちがいました。神がおられるならどうしてこのようなことを許されるのか、という思いの中で忍耐を余儀なくされる人たちがいたのです。しかし、そのような状態がいつまでも続くわけではありません。やがて、終わりの日がやって来ます。その時には、神は正しくさばいてくださいます。いつまでも悪がはびこっているわけではありません。不正をして富を得、それをもってぜいたくに暮らし、快楽に身をゆだね、自分の心を太らせた貪欲な者たちに対しては、必ず神の正しいさばきが下されるのです。「こういうわけですから」、主が来られるまで耐え忍びなさい、と勧めているのです。

いったいどのようにして忍耐したらよいのでしようか。きょうはこのことについて三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.農夫のように(7-8)

 

まず7節と8節をご覧ください。

「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」

 

耐え忍ぶことについてヤコブは、農夫のたとえを使って説明しています。どういうことかと言うと、農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待つように、あなたがたもそのように耐え忍びなさいということです。農夫は、種を蒔いて一夜明けたらすぐに刈り取るというわけにはいきません。収穫には時間がかかります。しかも、自分の力で天候を決めようとしてもできません。実に長い忍耐を強いられます。私のように忍耐のない者には農夫の仕事は務まりませんね。

 

「秋の雨」と「春の雨」は、イスラエルの二つの雨季のことです。「秋の雨」はだいたい十月下旬から十一月上旬に降る雨のことです。この雨がないと蒔かれた種は発芽しないと言われています。春の雨とは三月と四月に降る雨のことで、この雨が降らないと、穂は十分に生長しません。秋の雨と春の雨があって、四月からの大麦や小麦の収穫を迎えることができるのです。農夫は、それまでじっと待たなければなりません。同じようにクリスチャンも、キリストが再臨されるまでじっと耐え忍んで待たなければならないのです。

 

それは、4章13節にある人たちとは非常に対照的です。そこには、「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人の姿が描かれていました。彼らは、自分で考え、自分で計画を立て、自分の力で何でも成し遂げようとしますが、農夫は自分にできることをしたら、あとはただじっとその時を待つだけです。これが、主を待ち望む者の姿、クリスチャンの姿なのです。

 

ところで、8節を見ると、ここにはただ耐え忍びなさいとあるだけでなく、「心を強くしなさい」とあります。どういうことでしょうか。私たちが、耐え忍ぶときに陥りやすい弱さの一つは、意気消沈することです。この世はクリスチャンにとってますます住みにくいところになっています。この世の関心は自分のことだけなので、神に対しては全く無関心だからです。主イエスは、世の終わりの最も大きなしるしは、人々の愛が冷たくなることだと言われました(マタイ24:12)。それはクリスチャンにとって大きなプレッシャーです。そのプレッシャーに耐えるのがつらくて、苦しくて、がっかりしてしまうことがあるのです。ですから、ヤコブはここで、「心を強くしなさい」と言っているのです。

 

いったいどうしたら心を強くすることができるのでしょうか。ここには、「主が来られるのが近いからです」とあります。主の来臨が近いということを知るとき、私たちの心は強くなります。それはちょうどマラソン競争と同じで、42.195キロの長いマラソンコースを走り抜き、もうすぐゴールだということがわかると不思議な力が沸いてきます。これまで苦しいこと、辛いこともあったけど、それが報われる時がやって来る。その希望で心が強くされるのです。同じように、主の日が近いという希望があるなら、心に励ましを受けます。

 

パウロも、ペテロも、ヨハネもそうですが、彼らは皆、自分たちが生きている間に主が戻って来ることを期待していました。それは、この手紙を書いているヤコブも同じです。主が来られるのは近いのです。それは何千年も後の、いつになるかわからないずっと遠い先のことではなく、もうすぐ起こることなのです。今にも戻ってくるという希望です。そしてその希望こそが、私たちの心を強くしてくれるのです。ですから、主の来臨を待ち望むことはとても重要なことなのです。

 

第一コリント16章21節に、「マラナ・タ」という言葉がありますが、これは、「主よ、来てください」という祈りです。ある人は、この祈りこそ祈りの中の祈りであり、すべての祈りの源泉としての祈りである、と言いました。その祈りにすべての祈りが要約されるからです。なぜなら、この祈りの中にこそ、主を待ち望ませる力があるからです。それは信じる者たちに、望みを与えるのです。

 

私は最近、韓国のコ・ヒョンウォンという宣教師が作詞・作曲した賛美「マラナタ/主が来られる日まで」を聞いて、ものすごい感動を覚えました。

マラナタ 主イエスよ!早く来てください。

地の果ての全ての民 主を賛美させたまえ。

マラナタ 主イエスよ!早く来てください。

世の民が主に戻って 踊り崇めさせたもう。

 

わが主の来られる道を備えよう

十字架を持って、地の果てまで行こう

わが主の栄光、地をおおう時、

われ地の果てで主を迎えよう。

☆マラナタ、マラナタ

アーメン主イエスよ!来てください。(×2)

 

主が来られる日までこの道を歩む 険しい道 十字架を背負い この道の果てで 愛する主に会える 栄光のわが主 我を迎える 主の来られる日まで 立ち上がり 進み行く 主の栄光あふれる日 立ち上がり 賛美せよ ☆愛するわが主 救いの神 栄光のわが主 王なる主イエス
すばらしい賛美です。この賛美には、どんな困難があっても、この信仰の道を進ませる力があります。その力は栄光の主が来られることによってもたらされる希望です。この希望があるからこそ、私たちはこの信仰の道を進み行くことができるのです。この道の果てで愛する主に会える。その時、栄光の主が私たちを迎えてくださいます。それは私たちにとって躍り上がる喜びの時です。これは希望ではないでしょうか。この希望があるから、この希望が近づいているから、あなたがたも耐え忍びなさいというのです。

 

Ⅱ.互いにつぶやき合わない(9)

 

第二のことは、互いにつぶやき合わないということです。9節をご覧ください。「兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」

 

これは主が来られるのをどのようにして待つべきなのか、そのあり方です。いったいどのようにして主の来臨を待ち望んだらいいのでしょうか。互いにつぶやき合わないということです。「つぶやく」とは、ぶつぶつということ、つまり不平不満を言うことです。例えば、現状などに満足できなくて不愉快に思い、その思いを述べることです。そのように不平を言ってはいけません。なぜなら、それは神のみこころにかなわいないことだからです。よってこのような態度を取り続けるならば、神にさばかれることになります。

 

パウロはこのことを第一コリント10章5節でこのように言っています。「にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。」(1コリント10:5)

彼らとは、旧約聖書時代のイスラエルの民のことです。彼らは神に対して、また、神が立てた指導者モーセに対してつぶやきました。すると、彼らはどうなったでしょうか?「彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」(1コリント10:10)「滅ぼす者」とは神ご自身のことです。神が立てた指導者に対してつぶやくことは神に対してつぶやくことであり、それで彼らは神によって滅ぼされてしまいました。

そして、続けて、パウロはこう語っています。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(1コリント10:11)  旧約時代のイスラエルの民に起こったことは、戒めであり、万物の終わりが近づいている時代に生きる、私たちへの教訓だったのです。だから、つぶやかないようにしよう。不平を言わないようにしましょう。それは、神のみこころにかなわないことなのです。

 

ヤコブはそのことを、ここでも主の来臨との関係で語っています。「見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」つまり、互いにつぶやかないということは、万物の終わりが近づいている今だからこそ、特に注意しなければならないことなのです。

 

そのことをパウロは、エペソ人への手紙の中で次のように言っています。「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:15-16)

世の終わりが近づいている今は悪い時代だからこそ、よくよく注意しなければなりません。私たちの人生には思うようにいかないことや嫌なことがたびたび起こるためすぐにつぶやいたり、不平不満を言いたくなりますが、それは決して賢い人のようではありません。賢い人とはどのような人なのかというと、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いる人です。愚かにならないで、主のみこころは何であるかをよく悟り、御霊に満たされ、詩と賛美と霊の歌とにより、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美します。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝するのです。不平を言いたくなることについては、公平に、すべてを知り、最終的なさばきをなす事ができる方にゆだねなければなりません。さばきの主が戸口まで来ているからです。それを見なければなりません。そのさばきに先だって、勝手に不平不満を言うべきではなく、そのさばきを主にゆだね、忍耐して、主が来られるのを待たなければならないのです。

 

Ⅲ.預言者たちの模範(10-11)

 

第三ことは、預言者たちの模範です。10節と11節をご覧ください。

「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」

 

私たちがこれから経験しなければならないこと、あるいは今経験していることが、すでに他の人が経験済みであるということは、どんな場合でも大きな慰めとなります。ですから、ここでヤコブは、苦しみの中において耐え忍ぶことを学ぶために、預言者たちを模範にしなさいと言っているのです。預言者は、自分が生きている時代の人々に、神のことばを語るために立ち上がった人たちですが、その立場のゆえに、迫害に会い苦しみました。その預言者たちを模範にしなさい、というのです。

 

その中でも、苦難と忍耐についての最も典型的な模範はヨブです。このヨブの忍耐のことについては、当時の人々もよく聞いていました。ヨブは非常に忍耐強い人でした。

 

彼はウツの地で一番の大金持ちで、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。そんな彼が、ある日、彼の多くのしもべと家畜が一瞬にして殺され、また台風が襲い彼の10人の息子と娘までも失ってしまいました。そればかりか、彼の身体を足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物が打ったのです。彼は唾も自由に飲み込めなくなりました。人々は彼につばを吐きかけ、友人たちまでも彼を冷やかしました。ヨブは、彼の顔が赤くなるまで神様に向かい涙を流しながら、主が私を打たれたことによって私の望みを木のように抜き去られたのだと、自分の苦しみを告白しました。

それでもヨブは、罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。(ヨブ1:20-22, 2:10)。むしろ自分の無知、自分の不足さを悟り、悔い改めたのです(ヨブ42:1-6)。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:5)と、偉大なる信仰の告白をしました。

その結果どうなったでしょうか。ヨブは最後まで信仰の聖さを守ったので、主はヨブの所有物をすべて二倍にされました(42:10)。主はヨブの前の半生よりもあとの半生をもって祝福されました(42:12)。

 

このようにヨブは、失敗してもみくちゃにされながらも、耐え忍びました。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方ですから、不完全な私たちをも、その忍耐のゆえに報いてくださいます。あわれみ深い主に期待して、忍耐するのです。

 

私たちは、ヨブのような迫害を受け、極度の貧しさの中にいる訳ではありませんが、この複雑な社会の中で、豊かで安定した社会の中で、信仰のゆえに、これまでにない形でストレスに悩まされることがあります。しかし、そのような中でも私たちは、主がもうすぐ近くまで来ているということを見なければなりません。その時主はヨブになさったように、私たちにも報いてくださいます。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。この希望のゆえに、私たちは試練と困難を耐え忍ぶことができるのです。ですから、私たちも主が来られる時まで耐え忍びましょう。多くの苦難と困難にあっても、心を強くして、ひたすら主を待ち望みたいと思います。

ヤコブ5章1~6節 「いま持っているもので満足しなさい」

ヤコブの手紙の最後の章に入ります。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(2:26)と、行いの伴った生きた信仰とはどのようなものなのかを具体的な例をあげて語ってきたヤコブは、この最後のところで富の問題を取り上げています。

 

1節には、「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」とあります。必ずしも、お金持ちが悪いというのではありません。聖書では、お金そのものは悪であるとか、裕福であることが罪であるとは教えていません。聖書で問題にしているのは金持ちになりたがること、つまり、お金に貪欲であることです。神よりもお金を愛すること、お金が神になってしまうことなのです。なぜなら、そこには多くの誘惑とわながあるからです。Ⅰテモテ6章9~10節にはこうあります。

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」

金を追い求めたために、信仰から迷い出ることがあります。ヤコブはこの欲についてはたびたび語ってきました。欲そのものは問題ではありませんが、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。その大きな誘惑の一つがお金なのです。お金に貪欲になると信仰から迷い出て、悲惨な結果を招くことになってしまいます。ですから、金銭を愛するのではなく、神を愛し、神によって与えられているもので満足しなければなりません。

 

どうしたら満足することができるのでしょうか。きょうはこの富に対してどうあるべきなのかを、聖書から見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.天に宝をたくわえる(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。

「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」

 

「あなたがた」とは、この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちのことです。彼らの中には神を愛していると言いながら、実際にはそうでない人たちもいました。彼らが愛していたのは神ではなくお金でした。彼らは口先では神を信じていますと言っても、その行いはそれを否定するものでした。貪欲によってお金を愛することが、彼らの心を支配していたからです。そのように彼らに向かってヤコブは、「あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」と厳しく警告しています。

 

なぜ泣き叫ばなければならないのでしょうか。それは、彼らにどんなに富があっても、やがて神の前に立つとき、彼らが頼りとしていたその富が、神のさばきから彼らを救うことはできないからです。この地上の富は一時的なものであり、いつまでも続くものではありません。それなのに、神ではなく富を頼りとして生きるなら、やがて終わりの日に、そのような者に迫りくる悲惨な結果がどのようなものであるかを見たら、泣き叫ぶしかありません。

 

2節と3節をご覧ください。

「あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀はさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。」

 

ここには、彼らが頼りとしていたものがどのようなものであったかが述べられています。当時、財産を代表するものが三つありました。それは食べ物、着物、そして金銀です。食べ物というのは大麦や小麦などの穀物のことですが、それらは収穫すると倉にたくわえられました。しかし、たとえ何年分もたくわえてもそれを使わなかったら、それはやがて腐ってしまいます。そうなればすべてが無駄になってしまいます。どんなに蓄えても神の前に富まないと腐ってしまうことになります。

 

着物はどうでしょうか。着物も、当時は大切な財産の一つでした。それは商売の取引としても使われました。また、親から子に相続される価値ある物でもありました。けれども、どんなに価値があるからといっても、それをただしまっておくだけなら意味がありません。やがて虫に食われて使い物にならなくなってしまうからです。何の値打ちもなくなってしまいます。

 

もう一つは金銀です。金銀は虫に食われることはありませんが、別の問題がありました。それはさびです。今のように純金であればさびることはありませんが、当時の金銀は混合物だったので使わずにおけばさびることがありました。

 

そればかりか、ここではそのさびが、あなたがたを責める証言となるとあります。どういうことでしょうか。証言というと、すぐに思い浮かべるのが裁判です。裁判で証人が立たせられると、その証人がいろいろと証言するわけですが、ここではそのさびが証言するというのです。どのように証言するのでしょうか?「私がさびです。私が、この人が愛した元金銀です。この人はずっと私を愛していました。でも、長年使わずにいたのでこんなにさびてしまったのです。この人が私を無駄にしました。今ではもう何の役にも立ちません。こんなにさびてしまいました。全部この人のせいです。」と言って、あなたを責めるのです。

 

そればかりではありません。ここには、そのさびが「あなたがたの肉を火のように食い尽くします。」とあります。火のように食い尽くすというのは、神のさばきを表しています。さびが火のようにあなたをさばくのです。そのように金銀を自分のためにたくわえることは、終わりの日のさばきのために財宝をたくわえることになるのです。

 

いったい何が問題なのでしょうか。前にも申し上げたように、金銀をたくわえることが問題なのではありません。金持ちであることが罪なのではないのです。問題は、あなたがそれをどこにたくわえているのか、何のためにたくわえたのかということです。というのは、そのことによってあなたの心がどこにあったのかがわかるからです。

 

イエス様は、あなたの宝のあるところに、あなたの心もあると言われました。マタイの福音書6章19~21節です。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

 

もしあなたが、自分の宝を地上にたくわえるのなら、あなたの心は地上にあります。しかし、もしあなたの宝を天にたくわえるなら、あなたの心は天にあります。あなたの心のあるところにあなたの宝もあるからです。それによって、あなたが何を頼りに生きているかが明らかにされます。天に宝をたくわえるなら、その人は神を第一にしていることが証明されるので永遠のいのちを受けますが、地上に宝をたくわえるなら、やがて虫とさびできず物となり、また盗人が穴をあけて盗みます。その最後はさびがあなたを食い尽くすことになるのです。だから、自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。自分の宝は天にたくわえなさい、というのです。

 

あなたの宝はどこにありますか。何のために使っているでしょうか。どうか、この地上にではなく、天に宝をたくわえてください。

 

聖書を見ると、そのような人を何人か見ることができます。たとえば、アブラハムはそうでした。創世記14章を見ると、彼はソドムとゴモラが滅ぼされ、ロトとその財産、それにまた、女たちや人々も奪われると、自分のしもべ318人を招集して敵を追跡し、それを打ち破って奪い返したとあります。

するとシャレムの王メルキゼデクが、パンとぶどう酒を持って来て、彼を祝福しました。するとアブラハムはどうしたかというと、戦利品の十分の一を彼にささげたのです。アブラハムはなぜメルキデゼクに自分の戦利品の十分の一をささげたのでしょうか。それは彼が神に信頼していたからです。このメルキデゼクは受肉前のキリストでした。アブラハムは神に十分の一をささげることによって、自分が何により頼んでいるのかを明らかにしたのです。すなわち、彼はこの地上のものではなく、神に信頼して生きていたのです。その証拠に、この後すぐに、ソドムの王が彼に、「人々は私に帰し、財産はあなたが取ってください。」(創世記14:21)と言ったとき、アブラハムはこう言いました。「私は天と地とを造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何も取らない。それは、あなたが、『アブラハムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」(同14:22-23)

アブラハムは、徹底的に神により頼みました。この地上のものにではなく天に、神により頼んで生きていたのです。天に宝をたくわえていたのです。それは彼が、神がどのような方であり、神の恵みを知っていたからです。

 

私たちもキリストによって神の恵みを受けました。自分の罪のために滅ぼされても致し方ないような者だったのに、神はあわれんでくださり、こんな者を救ってくださいました。このような者にとって、神の恵みに対するもっともふさわしい応答は、自分を神にささげることであり、神により頼んで生きること、自分の宝を天にたくわえることなのです。

 

Ⅱ.不正な金持ちたち(4-5)

 

第二に、4節と5節をご覧ください。ここには、「見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」とあります。

 

当時、穀物の収穫の時には、労働者を日雇いで雇いました。そうした労働者たちは、もし賃金が未払いにされるとその日の食べ物にありつくことができなかったので、生きていくことができませんでした。ですから、旧約聖書には、こうした賃金の未払いについて厳しく規定されていたのです。たとえば、申命記24章14節には、「貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。」とあります。また、レビ記19章13節にも、「あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。」とあります。こうした律法の規定は、このような貧しい人たちへの配慮から命じられていたのです。

 

それなのに、そうした神の定めを無視し、支払うべきものを支払わず、貧しい者たちから搾取して、ぜいたくに暮らし、快楽にふけり、自分の心を太らせていた不正な金持ちたちがいました。前にも申し上げましたが、聖書は富そのものを非難していません。金持ちであることが問題なのではありません。問題は、その富を不正に手に入れていたことです。

 

まず4節には「未払い賃金」とあります。この金持ちたちは不正な方法によってお金を集めました。それから5節には、「ぜいたくに暮らし、快楽にふけり」とあります。全く利己的なお金の使い方です。そして6節の前半には、「正しい人を罪に定めて殺しました」とあります。彼らは貧しい人、弱い人、正しい人をしいたげることによって、キリストを再び十字架につけて殺すような罪を犯し、同じ神の民であるクリスチャンを傷つけるようなことをしていたのです。

 

ここには、そうした労働者への未払いの賃金が、叫び声をあげている、とあります。この叫び声は、あまりにも恐ろしい搾取に対する困窮者から出てきた叫び声です。それは万軍の主の耳に届いています。何を隠そう、それは万軍の主を敵に回すことなのです。万軍の主がそうした不正に対して戦われます。5節に、「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」とありますが、それはちょうど、豚肉のために飼われている豚が、屠殺される日のためにたくさんのえさを食べているようなものなのです。

 

この不正な金持ちたちの問題点は何だったのでしょうか。勿論、それは彼らがそうした賃金を不正に手に入れ、自分たちの懐を肥やしていたことですが、その問題の根本には「自分のために」という利己的な思いがあったことです。イエス様はこのような金持ちは愚かな金持ちであると、たとえを話されました。ルカの福音書12章16~21節です。

「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして、言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

この金持ちの問題は、自分のことしか考えられなかったことです。彼の畑が豊作だったとき、彼は「どうしよう」と考え、「こうしよう」と決断しました。そこには神が入る余地がありませんでした。いつも「私」が中心なのです。「私はどうしよう」、「私はこうしよう」、「私は、あの倉を取りこわして、私は、私の穀物や私の財産をみなそこにしまっておこう。」と、「私が」とか「私の」という言葉がくり返されているのです。これが貪欲ということです。人が貪欲になっていくと、自分の思いや意志が優先して、神のことが入って来なくなるのです。本来であれば、「神さま感謝します。こんなに多くの穀物を与えてくださり、豊かになりました。神さま、これをどのように用いたらよいでしょうか。これらすべてはあなたのものです。あなたが与えてくださったものですから、あなたが良いと思うように用いてください。」と祈るところなのに、彼は「ああ、安心した。この先もう何年分もためられたから、さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しもう。」と言いました。彼は自分のためにたくわえましたが、神の前に富む者ではありませんでした。それゆえに神は、彼を「愚か者」と言われたのです。

 

しかし、それはこの愚かな金持ちだけのことでしょうか。それは私たちにも言えることです。私たちは、この金持ちのようにあからさまな快楽にふけるようなことはしないかもしれません。けれども、自分のことだけを考える利己的な思いがあるのは否めません。他者に対して、触りさわりのない言葉を話しますが、しかしそれ以上のことには関わりたくないという心の貧しさがあります。人に優しくしてふるまっているようでも、心の底では自分が満足すればそれでいいというような思いがあるのです。それゆえに、神が見えない、周りの人々が見えないということがあるのです。そういう状態に陥っていることがあるのです。マザーテレサが来日した時に、日本は精神的貧困状態に陥っていると言いましたが、それはまさに自分の心を太らせている私たちのことでもあるのです。

 

Ⅲ.だから、悔い改めて(6)

 

では、いったいどうしたらいいのでしょうか。6節をご覧ください。

「あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」

 

「正しい人」とは、貧しい人のことです。イエス・キリストを信じて罪が赦され、神の前に義と認められた人のことです。彼らは神を信じていない人たち、つまり、身勝手で、貪欲で、不正な方法によってお金を集めていた金持ちたちによって、ひどい仕打ちを受けていました。それなのに、彼らは金持ちたちに抵抗しませんでした。なぜでしょうか。それは、彼らがキリストを信じていたので、正しくさばかれる方にすべてをゆだねていたからです。

 

神は愛である方であると同時に、義なる方でもあられます。不正や不義をいつまでも放置されるような方ではありません。私たちは時々、「神さまがおられるなら、どうしてあんなことを許されるのか」と思うことがありますが、それは神さまがただ忍耐しておられるだけなのです。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。しかし、それがいつまでも続くわけではありません。やがて、終わりの時がやって来ます。その時には、そのような悪を正しくさばいてくださいます。いつまでも悪がはびこっていることはありません。不正をして富を得て、それをもってぜいたくに暮らし、快楽に身をゆだね、自分の心を太らせた貪欲な者たちに対して、必ず神の正しいさばきが下されるのです。そのことを知っているので何の抵抗もしないのです。

 

しかし、神のみこころは一人も滅びないで、すべての人が救われて真理を知るようになることです。そのために、神はひとり子をこの世に遣わしてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神の御子を信じる者は、ひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持ちます。だれでもキリストを信じるなら救われて、神の子どもとされるのです。これが福音です。そして、このようにして神の子とされた者は、富についても正しく理解することができます。信仰がなかった時は、お金がすべてでした。お金があれば幸せになれると思っていました。そのために生きていたのです。けれども、イエス様を信じてからは、もっと大切なものがあることを知りました。それは何でしょうか。それは神です。永遠のいのちです。お金よりも大切なものがあると知ったとき、生きるのが本当に楽になりました。お金に支配された生き方から、お金を支配する生き方に、それを神の喜びと栄光のために用いることの喜びを知ったのです。

 

星野富広さんが、「いのちよりも大切なもの」という詩を書かれました。

いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった

いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが 嬉しかった

 

皆さん、いのちよりも大切なものとは何でしょうか。星野さんはそれを知るまでは生きるのが苦しかったと言っています。いのちよりも大切なものがあると知ったとき、生きているのが嬉しかったというのです。いのちよりも大切なものって何でしょうか。星野さんご本人は、この問いには答えないようにしているそうですが、それは答えなくてもわかります。それは永遠のいのちです。このいのちは、アッシジのフランチェスコが「平和の祈り」の中で、「自分のいのちをささげて死ぬことによって、永遠のいのちを得ることができるからです。」と言っているように、自分をささげることによってもたらされるものです。このいのちが与えられたら、もはやお金とか、富とか、財産とかに縛られることはなくなります。それよりも大切なものがあることを知っているからです。

 

ヘブル13章5節にはこうあります。

「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

そのような人は、いま持っているもので満足することができます。なぜなら、主があなたとともにおられるからです。この天地を創られた主が共におられる。私たちの必要のすべてをご存知であられ、それを満たすことのできる方が共におられる、もうそれだけで十分です。

 

皆さん、私たちが不幸だと感じるのは足りないと思うからです。物でも、愛情でも、これで十分だと思えるなら満足することができます。でも、どんなに高価なものを持っていても、どんなに多くのものを持っていても、十分だと思えなければ不幸だと感じます。それで満足することができなければ、少なくても満足している人の方が幸せなのではないでしょうか。だから、聖書は、「いま持っているもので満足しなさい。」と言うのです。なぜなら、私たちには永遠のいのちが与えられているのですから。なぜなら、私たちにはすべてを満たすことができる神がともにおられるのですから。この神がともにおられるのなら、私たちは何も足りないものはありません。私たちはいのちよりも大切なものを持っているのですから。

 

あなたはどうでしょうか。このいのちを持っておられるでしょうか。そして、この地上のことばかり考えてはいませんか。あれが足りない、これが足りないと、足りないものを見て嘆いていないでしょうか。「いま持っているもので満足しなさい。」神はあなたに永遠のいのちを与えてくださいました。あなたにとって必要なものをすべて与えてくださいます。大切なのは、あなたがこのいのちを得ておられるかどうかです。どうか、あなたの貪欲を悔い改めて、神に立ち返ってください。そうすれば、主はあなたをゆるしてくださいます。そしてあなたに、いのちよりも大切なもの、永遠のいのちを与えてくださいます。それがあれば、あなたは本当に満足することができます。

 

箴言30章7~9節でアグルという人が、次のように言いました。

「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不真実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

 

これは本当に生きる知恵ではないでしょうか。アグルが願った二つのこととは、不真実と偽りを遠ざけてほしいということと、貧しさも富も与えず、ただ、自分に与えられた分の食物で養ってほしいということでした。なぜなら、自分が食べ飽きて、神を否み、「主とはだれだ。」と言うことがないためです。また、自分が貧しくなって、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないためです。だから、貧しさも富も与えないでくださいと願ったのです。定められた分の食物で私を養ってください、と祈ったのです。

 

おもしろいですね。私たちにはそれぞれ、「定められた分の食物」があるのです。ですから、それで満足すべきです。なぜなら、私たちには永遠のいのちが与えられているからです。私たちにとって最も大切なのは、この神のいのちに生きることです。いま、持っているもので満足しなさい。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(Ⅰテモテ6:6)なのです。

Ⅰコリント15章1~11節 「最もたいせつなこと」

イースターを迎えました。主の復活を喜び、心から主の御をほめたたえます。私たちは今朝、使徒パウロがコリントの教会に書き送った手紙の中から、「最もたいせつなもの」と題してお話ししたいと思います。

 

世の中には大切なものがたくさんあります。それは人それぞれ違うでしょう。ある人はお金だ、健康だ、仕事だという人がいれば、思いやりだとか、愛だ、いのちだという人もいます。あるいは人と人の絆だという人もいるでしょう。確かにこの世で生きていくためには、これらのものも大切です。しかし、きょうのところでパウロは、最もたいせつなことを私たちに伝えています。それは福音のことばです。きょうは、この「最もたいせつなこと」についてご一緒に考えてみたいと思います。

 

Ⅰ.この福音によって救われる(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」

 

12章から14章にかけて御霊の賜物について語ってきたパウロは、この15章に入ると、「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。」と言って、「福音」について語り始めます。「福音」とは何でしょうか。

「福音」とは「良い知らせ」という意味です。福音を国語辞書で調べると「喜ばしい知らせ」「イエス・キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ」とあります。和英辞典を見てみると「Good News」とあります。この福音という言葉は聖書の最も大切なことを的確に表している言葉だと思います。私たちはテレビやラジオ、新聞で様々なニュースを見たり、聞いたりします。それは「どこで」「誰が」「何をしたか」という情報です。実は聖書で最も大切なこととして書かれているのは、「教え」ではなく、「情報」、ニュース、知らせなのです。

 

パウロはここで、「兄弟たち。私は今、この福音を知らせましょう。」と言っています。これは特に、荘厳な面持ちで大事なことを伝える時に伝える言葉です。なぜ大事なのかというと、2節にあるように、この福音のことばをしっかり保っていれば救われるからです。この福音のことばをあなたが素直に受け入れ、この福音のことばに立って生きるなら、あなたは救われるのです。この救いとは罪からの救いのことです。私たちはよく病気が癒されたとか、貧乏から解放された、問題が解決したことを指して「救われた」と言うことがありますが、聖書でいう救いは、そうしたさまざまな問題や困難からの救いだけでなく、それらの問題の根本的な原因である罪からの救いのことを意味しています。罪が赦されるとどうなりますか。罪が赦されると神に受け入れられ、神の御国、天国で永遠に神とともに生きることができるようになります。私たちの人生はこの世だけのものではありません。やがてこの世での生を終え、神の前に立たされる時がやってきます。その時、神が約束してくださったように神の国を相続するようになるのです。この世の中には大切なものがたくさんありますが、この福音はそうしたものの中でも最もたいせつなものであるのは、この世だけではなく永遠にかかわるものだからなのです。

 

ある時、「日本人百人に聞く」というアンケートがありました。その最初の質問は、「あなたは死後の世界はあると思いますか。ないと思いますか。」というものでした。すると、「ある」と答えた人と、「ない」と答えた人と、「よく分からない」と答えた人が、ちょうど三分の一ずつでした。

そして、死後の世界が「ある」と答えた人にさらに、「あなたの考える死後の世界は、明るいですか。暗いですか。」と質問すると、その答えは、「明るい」と答えた人と、「暗い」と答えた人と、「よく分からない」と答えた人が、やっぱり三分の一ずつでした。

もしみなさんに同じ質問をしたら何と答えるでしょうか。死後の世界はあると思いますかという質問には、全員が、「ある」とお答えになると思います。そして、「それは明るいですか、暗いですか」という問いには、「明るい」と答えるのではないでしょうか。なぜなら、この福音のことばをしっかりと保っているからです。どうかこの福音を受け入れ、このことばに立ってください。この福音によって救われるからです。

 

Ⅱ.最もたいせつなこと(3-5)

 

第二に、この福音とはどのようなものなのでしょうか。次に3節から5節までをご覧ください。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」

 

パウロは、この福音の内容を最も大切なこととして、次の四つのことにまとめています。

第一に、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」、第二に、「葬られたこと」、つまり、本当に死なれたということです。キリストは十字架につけられた時、単に気絶したということではなく、本当に死んで葬られたということです。第三に、「聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」、そして第四に、「ケパに現われ、それから十二弟子に現われたこと」です。これが、最も大切なこととして、パウロが伝えたかったことです。

 

これを見ると、最もたいせつなことは、イエス・キリストの教えやイエスがなされた奇跡の数々ではなく、イエス・キリストの十字架の死と、葬りと復活の事実であり、それを見た人たちがいるという証拠です。それが福音の中心です。

 

近代になって、ある人々は実に軽々しく主イエスの復活の事実を否定するようになりました。復活抜きのキリスト教を打ちたてようとしたのです。イエス様が復活したかどうかなんてどうでもいいじゃないか、第一、そんなこと確かめようがないし、仮に確かめることができたとしても、それがいったいどうなるというのか。大切なのは、そこから意味をくみ取ることだよ。イエスが復活したということが、自分にどんなことを教えているのかを見い出すことだ、というのです。しかしその結果残ったのは、もはやキリスト教とは言えない代物となってしまいました。主イエスの復活の事実に裏付けられない復活の教えには意味がないのです。そういうことがあったことにしておこう。そう仮定しておこう。そう信じておこう、ということではないのです。この事実の上に私たちの信仰も、希望もその確かさがあるのです。だからパウロは続けて6節から8節までのところでこう言っているのです。

「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」(6-8)

 

どういうことでしょうか。これはキリストの復活が事実であったということです。まずケパに現われ、十二弟子に現われたというのは、彼らは生前のイエスをよく知っていた人たちですから、よみがえったイエスと出会った時、その二人は同一人物であるということを確認することができました。他の人がよみがえって、「私がイエス」だと言ったわけではなく、本当にあの方が死んでよみがえられたのだと確認することができたのです。

 

それから「五百人以上の兄弟たちに同時に現われた」とは、キリストがよみがえられたことは幻覚でも何でもない、はっきりとした事実ですよ、という意味です。もし一人や二人であったら、キリストがよみがえったと言っても、ただの思い込みじゃないのと言われても仕方ありません。でも五百人以上の人たちに同時に現われたということになれば話は別です。それは紛れもない事実であると言えるからです。

 

またヤコブに現われ、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださったというのは、まさに神の恵みであるということです。ご存知のように、このヤコブとはイエスの実の兄弟のヤコブのことですが、彼はイエスが十字架に付けられるまでイエスをメシヤとは信じていませんでした。しかし、この復活のキリストに出会うことによって、「ああ、本当にお兄さんのイエスはメシヤだったんだ」と信じることができました。またパウロが自分のことを「月足らずで生まれた者と同様な私」、「未熟児のような私」と言っているのは、彼が以前教会を迫害していた者だからです。そんな者にもキリストは現われてくださいました。ですから、それは紛れもない事実なのです。

 

しかもここで大切なのは、これらのことが他の誰でもない「私たちの罪のため」であったということです。いやもっと言うならば、ほかならぬこの私のためであったということです。キリストは、聖書が示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、私たちのために葬られ、私たちのために三日目によみがえられ、私たちのために現われてくださいました。そう信じて受け入れるなら、あなたは救われるからです。その中でも最も中心的なことは、主イエス・キリストが死からよみがえられたということでした。なぜなら、キリストの復活は、私たちの人生にとって最大の問題である死に対して最終的な解決を与えるものだからです。ですから、キリストが復活したという事実は、私たちにとって大きな出来事なのです。

 

ハイデルベルク信仰問答書には次のようにあります。

〔問45〕キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。   第1に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ。  第2に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。  第3に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。

 

これはどういうことかというと、キリストの復活は私たちに過去において、現在において、また未来において、益をもたらしてくれるということです。過去においてとは、主イエスが成し遂げられた十字架の死と復活という贖いの御業によって、すでに主イエスを信じる者たちが義と認められているということであり、現在においてとは、主イエスによって義と認められた私たちが今すでに主イエス・キリストにあって永遠のいのちの祝福の中に生かされているということ、そして未来においてとは、キリストの復活がやがて私たちも復活するという保証であり、初穂であるということです。

 

ここにおいて主イエスのよみがえりは私たちを明日へと生かしめる希望となり、力となるということがわかります。希望とは何か遠い先の事柄ではなく、むしろ確かな約束に基づいた、日々を生きる力、日常的で具体的な力なのです。その力に生きることができるところに、復活の最大の益があると言えるのです。

 

これが、教会が「最もたいせつなこととして」ずっと昔から受け継いできたことです。パウロは3節で、「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって」と言っていますが、この「伝える」とか、「受ける」という言葉は、誰かの思いつきで、突然どこからか降ってきた教えというのでもなく、教会がずっと昔から繰り返して受け継いできた教えであるということです。それは最もたいせつなことであり、キリストが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたという事実なのです。

 

Ⅲ.神の恵みによって(8-11)

 

それにしても、これほどにパウロが主イエスの復活の事実にこだわるのはなぜなのでしょうか。そこにはパウロ自身の深い経験があったことが分かります。8節から11節までをご覧ください。

「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです」。

 

パウロはここで復活の主イエスが「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました」と言っています。主イエスの十字架と復活の場面にはパウロは出てこないのに、これはどういうことなのでしょうか。そこで私たちが思い至るのは、使徒の働き9章にある、あのダマスコ途上での主イエスとの出会いの経験です。かつてクリスチャンを迫害し、死にまで追い詰めることを生きがいとしていたパウロに、主イエスは出会ってくださり、それによって彼の人生はまったく変えられ、キリストを宣べ伝える者へとされていったのです。ですからパウロにとってはキリストの復活は事実であるばかりでなく、まさに彼にとっての人生の原点でもあり、生きる目的でもあったのです。だからこそ彼にとっては復活の事実はないがしろにできないばかりか、それを伝えることこそが彼の生きがいとなっていったのです。

 

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」かつてクリスチャンを迫害し、死にまで追い込んでいったパウロ、自分こそは律法を完璧に守り、その行いによって自分の救いを獲得していた者でしたが、彼をそのような人生に駆り立てていった一つの動機はやはり死への恐れだったのです。それを遠ざけ、振り払うかのように懸命になって生きていました。しかしその人生には本当の平安はなく、本当の確かさもなく、また本当の希望もありませんでした。しかし、そんな人生の途上で主イエス・キリストに出会い、その十字架と復活の福音を自らが聞き、受け入れたとき、彼の人生は全く新しくされ、そしてその福音に生きる者となりました。その時、彼は、死を乗り越えることができたのです。そしてそこで彼が言い得た言葉が、「私は神の恵みによって今の私になった」というこの言葉だったのです。

 

「恵み」とは、それを受けるに値しない者に、神が一方的に与えてくださる賜物です。それにふさわしいから与えられるものは、恵みではありません。それは「報酬」と言います。でもそれを受ける理由などどこにもないのに、神が与えてくださるもの、それが恵みです。パウロは、この神の恵みによって、今の私になりました。それまで彼は、クリスチャンを捕らえては迫害してきました。一撃のように神に打たれて死んでも、文句の言えないようなことをしてきたのです。そのような者に対して、いったい神は何をしてくださったのか。そんな自分を赦してくださいました。それだけでなく、自分を福音の宣教者として選んでくださった。これは、神の恵み以外の何ものでもない、と言ったのです。

 

私は自分の人生を振り返ってみると、そこには多くの罪があり、多くの失敗もあり、穴があったら入りたいくらいですが、それでもなお、神は私を信仰者として、建て上げてくださっていることを思うとき、それはまさに神の恵み以外の何ものでもありません。本当に私の人生を私の人生として生かすもの、私のいのちを私のいのちとして輝かせるもの、死の恐れを超えて、永遠のいのちの希望に生かすもの、それがこの神の恵みであり、神の恵みによってもたらされた復活の信仰なのです。

 

南北戦争で北軍の将軍にまで上り詰め、文学的にも秀でた才能を発揮したルー・ウォーレスとう人がいました。彼はよく知られた無神論者でした。彼は二年間に渡り、ヨーロッパやアメリカの主要な図書館で、キリスト教を破滅に追いやるための資料を求めて研究しました。ウォーレスは「キリスト教撲滅論」という本の第二章を書いている時、 突然ひざまずき「私の主、私の神よ」と言ってイエスに泣き叫んだのです。議論の余地のない明白な証拠によって、ウォーレスはイエス・キリストが神の子であることを否定できなくなりました。後に彼は『ベン・ハー』という小説を書き、この小説はやがて映画化され、アカデミー賞11部門を受賞しました。この記録は「ロード・オブ・ザ・リング」と並ぶ記録として映画史に輝いています。

 

またイギリスのオックスフォード大学教授であったC.S.ルイスは、宗教を否定する不可知論者でした。しかし彼も、イエスが神であるという反論しがたい証拠を研究した後、イエスを自分の神、救い主として受け入れました。 その後ルイスはキリストを証言する多くの本を書きました。最近映画化された「ナルニア国物語」もその中のひとつです。「ナルニア国物語」の主要登場人物の一人にアスランというライオンが登場しますが、このアスランは実はキリストを表しています。聖書の中にはキリストがライオンに例えられている箇所があり、ルイスはアスランをライオンに設定したといいます。

 

他にも数え切れないほど多くの人が、聖書が最も大切なこととして伝えているこの福音を信じて救われ、人生が変えられました。あなたはこの福音、良い知らせ、グッドニュースを聞いてどのようにお感じになりますか?このニュースがもし事実ではないなら、聖書もキリスト教も土台が無くなり、価値のないものとなります。しかしもしこれが事実であるなら、あなたの人生にも大きな影響を与えるものでしょう。

 

たとえあなたが、どんな過去を背負っていようとも、どんな傷を残していようとも、どんなに拭い切れない罪責を負っていようとも、主イエスはそのあなたのすべての罪を背負って死なれ、そして復活してくださいました。すべては主イエスの死とよみがえりによって解決されたのです。復活の主イエスのお体には釘の後、槍の後が残っていました。このことの意味深さを繰り返し思います。確かに今、私たちにも過去の傷は残っていても、しかしそれはもはや私を苦しめ、責めるものでなく、主イエスによるまったき赦しと慈しみと恵みの傷跡なのであって、それ故に私たちもまたパウロと共にこういうことができるのです。「神の恵みによって、私は今の私になりました」。この最も大切な福音を信じ、心を高く挙げて、復活の主イエスの御名を賛美いたしましょう。

マタイ27章45~56節 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」

キリスト教では、イエス・キリストが最後にエルサレムに入城した日から復活の前日までの一週間を受難週と呼んでいます。そしてキリストが十字架につけられたのは金曜日で、その日の午後3時頃に息を引き取られました。罪も汚れも無い神の子キリストが、全人類の罪を負って十字架に付けられて死なれたのです。その直前、キリストは「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫ばれました。訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。

この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)と言われました。そして、ローマ兵が酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプにつけて、それをイエスの口もとに差し出すと、イエスはその酸いぶどう酒を受けられ、「完了した」(ヨハネ19:30)と言われ、最後に「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って、息を引き取られたのです。

これが、キリストが十字架に付けられた日の出来事です。イエスは十字架上で七つのことばを発せられましたが、その中で第四番目に発せられたのがこの言葉なのです。この言葉は永遠の神秘と言われ、理解するのが最も難しいと言われていいます。なぜなら、キリストが神の子、救い主であられるのなら、どうしてこのように叫ばなければならなかったのかがわからないからです。私はこれまで多くの求道者の方から尋ねられることがあります。それは、「キリストが神ならば、どうしてこのように叫ばなければならなかったのか。」ということです。そんなこと最初からわかっていたはずではないか、それなのにこのように叫んだということは、キリストがただの人間だったということ示しているのではないか、というのです。それなのに、このように叫ばなければならなかったというところに、この言葉の神秘があるのです。いったいキリストはどうしてこのように叫ばれたのでしょうか。きょうはこの言葉の意味をご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.罪を犯さなかったイエス

まず、第一に、主がこのように叫ばれたのは、ご自分の罪のためではなかったということです。46節を見ると、主がこのように叫ばれたのは、午後3時ごろであったとあります。それは十字架につけられてから6時間が経過した頃のことです。この時の肉体的な苦しみは相当のものだったでしょう。手足を引き伸ばされて釘で打ち付けられ、そこに全身の重みがかかっていたのですから、激しい苦痛が伴っていたことでしょう。特に釘が神経に当たっていたら、その痛みは耐えがたいものだったはずです。釘が入っていた回りの肉がはれて腐り始め、脳が充血して激しい頭痛を引き起こします。発熱のためにのども渇きます。それが直射日光の下にさらされていたのであればなおさらのことです。体力が奪われ、肉体の苦痛は極度に達していたにちがいありません。それにもまして苦しめていたのは、精神的・霊的苦しみです。人々から侮辱され、あざけられるというだけでなく、神にも見捨てられたという思いの中で、言葉には言い尽くせない苦痛を受けておられたのです。

ところで、このことばは詩篇22篇1節から引用です。詩篇22篇はダビデの賛歌とありますが、ダビデが自分の人生において、神に見捨てられたのではないかと思えるような状況の中で歌った詩なのです。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私を御救いにならないのですか。私のうめきのことばも。」(詩篇22:1)

ダビデは、自分の人生における困難の中で、そうした苦しみを体験していたのです。そのような苦しみの中で彼は、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ばずにはいられなかったのです。それは神にも見捨てられたのではないかと思えるような激しい苦しみが伴う経験でした。しかし、ダビデがこのように歌ったのは自分の置かれた状況における困難や苦しみばかりでなく、同時にやがて来られるメシヤの姿を預言していたのです。

この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」が、ヘブル語なのか、アラム語なのかは、意見が分かれているところですが、しかしそれがヘブル語であっても、アラム語であったとしても、イエスがこうした極限の苦しみの中から叫ばれたものであるのは事実です。

いったいなぜイエスはこのように叫ばれたのでしょうか。それはこの十字架の刑が人々から裏切られるということ以上に、神に見捨てられるという経験だったからです。それはまさに地獄の経験でした。よく私たちは「地獄を味わった」ということを耳にすることがありますが、この時イエスは本当に地獄を味わったのです。なぜなら、神に見捨てられ、神から話されることこそ地獄だからです。イエスはこれまで永遠の昔からずっと父なる神と一緒でした。ひと時も離れたことがなく、常に親しい交わりを保っておられました。その主が一時的であっても父なる神から離されること、それは地獄の苦しみだったのです。ですから、この叫びは地獄の叫びと言っても過言ではありません。いったいなぜこのように叫ばなければならなかったのか。

一つだけはっきりしていることは、それはイエスご自身の罪のためではなかったということです。主は全く罪のない方であり、ご自分の罪のために見捨てられることはないからです。それはイエスを十字架に引き渡したローマの総督ピラトの言葉からもわかります。ユダヤ教の祭司長がイエス様をローマの総督ピラトの下に連れて行ったとき、彼の判決はこうでした。

「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」(ヨハネ19:4)

またこうも言いました。

「この人は、死罪にあたることは、何一つしていません。」(ルカ23:15)また、ピラトは三度目に彼らにこう言いました。

「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死にあたる罪は、何も見つかりません。」(ルカ23:22)

そしてついにピラトは、「この人の血については、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」(マタイ27:24)とさじを投げ出してしまいました。

しかし、最終的に彼はイエスを十字架に付けたのは、群衆を恐れたからです。群衆が暴動でも起こしたら自分の立場が危うくなると、群衆の要求通りにイエスを十字架につけたのでした。濡れ衣を着せられたこの時のイエスは、どんなお気持ちだったでしょう。

またイエス様といっしょに十字架につけられた犯罪人の一人でさえも、「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(ルカ23:41)とイエス様の無罪を主張しています。

さらにヘブル人への手紙4章15節には、主は罪を犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです、とあります。

ですから、キリストが神に見捨てられたのはご自分の罪のためではなかったことは明らかです。ではいったいなぜ主は十字架につけられなければならなかったのでしょうか。

 

Ⅱ.私たちのために死なれたイエス

 

それは私たちの罪のためでした。全く罪のない方が、私たち人間のために、全人類のために死なれたのです。というのは、神は罪を処罰される方だからです。罪とは、的外れのことです。神によって造られた人間は、本来神を信じ、神のことばに従って生きるはずなのに、自分勝手に生きるようになりました。それが罪です。確かに悪い行いもそうですが、それはこの罪の結果なのです。神を神としないことから、さまざまな問題が生じるようになってしまいました。聖書はこう言っています。

「何が原因で、あなたがたに戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」(ヤコブ4:1-2)

つまり、自分の思うとおりにならないと我慢することができず、争ったり、戦ったりするのです。ですから、自己中心こそが罪の本質なのです。そしてそれを言い換えるなら、このように言えるのではないでしょうか。すなわち、罪とは、神を見捨てることであると・・・。神ではなく、自分が中心となることで、神を見捨てるようになってしまったのです。もしそうであれば、そのような人は、神に捨てられることになります。なぜなら、神は罪を放置されることはないからです。必ずその罪に対して報いをなさいます。その報いこそ、神から捨てられるということなのです。それこそ神によって造られた人間にとって最も不幸なことなのです。人の一生はこの地上のいのちだけではありません。やがて肉体が滅びる時、その人のたましいは神のみもとに行くようになります。その時神から捨てられた人は永遠の滅び、聖書ではこれを地獄と言っていますが、入らなければなりません。

するとどういうことになるでしょうか。すると、人間はみな神に見捨てられなければならないということになります。なぜなら、聖書には、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)とあるからです。そして、「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるからです。私たちはだれ一人として完全な者はおらず、したがって、生まれながらのままであればだれ一人として神のみもとに行くことはできないからです。しかし、神は私たちが滅びることがないように救い主をこの世に送り、罪の処理をしてくださいました。それがキリストの十字架上での死だったのです。主が十字架に付けられたのはご自分の罪のためではなく、私たちの罪のためであり、私たちの罪を負い、私たちが受けるべき罪の代価を身代わりとなって受けるためだったのです。それは私たちが神に見捨てられることがないように、代わりに神に見捨てられるためだったのです。

かつて、ある裁判官が一人の重罪人を裁いたことがありました。犯罪人が法廷に立って裁判官を見ると、それは自分の双子の兄でした。裁判官も、自分の弟が犯人であることを知りました。犯人は心から赦されることを兄に懇願しましたが、裁判官である兄は厳しく罪を裁き、すぐに彼を投獄するように命令したのです。そして翌朝には、彼は死刑にされることになりました。一方、その犯人は獄中で、翌日の死のことを考えて悶々とした眠れぬ一夜を明かしました。ところが、夜中に急に裁判官が官服のままで、獄にやって来て、その犯人である弟に驚くべきことを告げたのです。  「私は裁判官である以上、法律に違反することはできないので、お前を刑に処した。今、私がここに来たのは、兄としてお前を救うためだ。急いで、お前の服と私の官服とを取り替えて、ここから出て行きなさい。門にいる看守はお前を出してくれるだろう。お前は、遠方に行って、今後、心を入れ替えて新しい生活をしなさい。二度とこのような罪を犯してはいけない。さあ、早く行きなさい!」そして、その裁判官は翌朝、弟の身代わりになって死刑を執行されたのです。二日の後、このことが全市に知れ渡り、人々の大きな感動を呼んだということです。

 

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ5:6-8)。

「神は、罪を知らない方を、私たちの身代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ1:4-5)

Ⅲ.絶対に見捨てられない私たち

ということは、どのようなことが言えるでしょうか。イエスがあなたの身代わりとなって神に見捨てられたので、あなたは絶対に見捨てられることはないということです。主が私たちの代わりに罪とされたのは、私たちが罪の刑罰を受けないためであり、私たちが神から見捨てられないためでした。私たちが罪から解放されて、永遠の死から救われるためでした。ペテロはそのことを次のように言っています。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

したがって、主イエスを信じて救われている者は、もはや罪に定められることはありません。つまり、絶対に神に見捨てられることはないのです。パウロは、この真理を次のように宣言しています。少し長いですが引用したいと思います。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:31-39)

主はご自身を信じる者のいと近くにいて、いつも励まし、慰め、救ってくださいます。目に見えないということは、主がおられないということではありません。神がともにおられるかどうかということは、人間の感情に依存するものではないのです。主はいつもともにおられます。それは主があなたの代わりに、神に見捨てられたものとなってくださったからです。それゆえに、この方を信じる者は、決して神に見捨てられることはないのです。

私たちは人生において、「どうして」と叫ばずにはいられないことがあります。どうしてこのような苦しみに会わなければならないのか、どうしてこのような悲しみ、困難、患難を受けなければならないのかという時があります。神に見捨てられたのではないかと思うような時があるのです。しかし、主が私たちのために、すでにその「どうして」という問いを発してくださり、その解答を与えてくださいました。あらゆる「どうして」という解答が与えられているのです。それゆえに、どのようなことがあっても、神はあなたを見捨てることはありません。

 

旧約聖書に登場するヨブは、まさにこの「どうして」を経験した人でした。彼は東の人々の中で一番の富豪でした。彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。家族も愛し自分の息子たちや娘たちのために祝宴を開き、彼らといっしょに飲み食いをするのを常にしていました。

しかし、そんな彼にある日悲劇が襲います。シェバ人が襲って来て彼の家畜を奪うと、若い者たちを剣の刃で打ち殺してしまいました。そればかりではありません。ヨブがこの知らせを受けている時別のしもべがやって来て、彼の息子や娘たちが一緒に食事をしていたとき荒野の方から大型の台風がやって来たかと思うと彼らがいた建物が崩壊し、全員が死んでしまったというのです。その知らせを聞いた彼は上着を引き裂いて、頭をそり、地に触れ費して主を礼拝しました。ヨブはそれでも罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。

けれども、ヨブに襲った試練はそれだけではありませんでした。何と彼のからだの全体に、足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打たれたのです。唾も自由に飲み込めなくなりました。人々は彼につばを吐きかけ、友人たちまでも彼を冷やかしました。ヨブは、顔が赤くなるまで神様に向かい涙を流しながら、主が私を打たれたことによって私の望みを木のように抜き去られたのだと、自分の苦しみを告白せざるを得ませんでした。

それでもヨブは、罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。むしろ自分の無知、自分の不足さを悟り、悔い改めたのです。そして、彼はこう祈りました。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:5)その結果どうなったでしょうか。神はヨブの所有物をすべて二倍にされました(42:10)。主はヨブの前の半生よりもあとの半生をもって祝福されました(42:12)。

あなたがたの会った試練は、みな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。その脱出の道こそ、イエスの十字架でした。イエスがあなたに代わって死んでくださったので、あなたは救われたのです。あなたがこのイエスを救い主と信じるなら、あなたは神に見捨てられることはありません。人生の暗やみの中で、全く孤独を感じるときでも、あなたがいやされる唯一の道は、キリストのように叫ぶことです。その叫びは、暗黒を貫いて必ず神にまで届きます。暗黒はいつまでも続くものではありません。決して長く続くものではないのです。それは、栄光の光への入口であるということを覚えていただきたいと思います。キリストがその暗やみを取り除いてくださったからです。

最後に、アメリカの有名な大衆伝道者D.L.ムーディー(1837-1899)の実話をもってこの話を結びたいと思います。1849年にゴールドラッシュがカリフォルニアに起こり、ある人が東部のニュー・イングランドを旅立って、西へ西へと黄金に引かれて行きました。妻と息子を残して。そこで彼は、金を掘り当てたので、家族呼び寄せることにしました。妻は大いに喜んで、ニューヨークから息子を連れて、サンフランシスコ行きの客船に乗ったのです。沖に出て間もなく、「火事だ。火事だ」とだれかが叫ぶ声がしました。船には火薬庫があり、船長はもし火がそこについたらひとたまりもなく、沈んでしまうことを知っていました。救命ボートがおろされました。小さかったので、少人数しか乗れませんでした。すぐに一杯になりました。そして最後のボートがおろされました。この母親は是非乗せてほしいと、懇願しました。しかし、船長は「もうひとりも乗せられない。乗せたらボートが沈む」と言って、どうしても許しませんでした。それで母親はさらに熱心に頼みました。船員は、「それではひとりだけ乗せてもよい」と許しました。すると母親は息子を押し退けて、船に飛び乗ったでしょうか。そうではありませんでした。母親は息子を抱きしめて、ボートに乗せると、最後の別れのことばをかけました。

「おまえ、お父さんに会ったら、こう言っておくれ。私がおまえの代わりに死んだのよ」と。

主イエスは、私たちに代わって、神に見捨てられ、死んでくださいました。だから私たちは決して見捨てられることはないのです。罪なきお方が、私たちの代わりに罪とされたことによって、キリストは神に見捨てられましたが、そのことによって、私たちはもはや、どのようなことがあっても見捨てられることはなくなったのです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、というこのイエス様の叫びは、この事実を私たちに教えていたのです。あなたもこの主イエスの叫びにご自分の身を置いて、この永遠の約束を受け取っていただきたいと思います。

ヨシュア記1章

きょうからヨシュア記に入ります。きょうは、ヨシュア記1章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

 Ⅰ.モーセの従者、ヌンの子ヨシュア(1-9

 

 まず1節から8節までをご覧ください。

「さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

 

私たちは、これまでモーセ五書から学んできました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そして申命記です。これらはみな、モーセによって書かれたものであり、イスラエル人の信仰生活の土台となる書物です。そのモーセが死に、今新しくイスラエルの指導者が立てられます。それがヨシュアです。ここには、「モーセの従者、ヌンの子ヨシュア」とあります。彼は偉大な先達者モーセの後継者であるということです。すぐれた人物の後に続く、いうならば「二番煎じ」です。ここには、「主のしもべモーセは死んだ」ということが繰り返して書かれてあります。どういうことでしょうか。先達者が偉大な人物であればあるほどその後を継ぐ者のプレッシャーは大きいものです。しかし、そのモーセは死にました。ヨシュアにはモーセとは違う、彼自身に与えられた使命を実現してくことが求められていたのです。

 

ではその使命とは何でしょうか。それはイスラエルの民を約束の地に導き入れることでした。モーセは偉大な指導者でしたが、彼らを約束の地に導き入れることはできませんでした。ヨシュアにはその使命が与えられていたのです。そしてそれはまた、律法ではなく福音によって約束を受けることの象徴でもありました。モーセは律法の代表者でしたが、そのモーセは死んだのです。モーセはイスラエルの民を約束の地に導くことができませんでした。約束の地に導くことができたのはヨシュアです。ヨシュアとはギリシャ語で「イエス」です。そうです、約束の地に導くのは律法ではなくイエスご自身であり、イエスを通してなされた神の御業を信じる信仰によってなのです。

 

そのヨシュアに対して主が語られたことは、「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ということでした。

 

ここで重要なことは、「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」ということばです。また、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ということばです。この「与えようとしている」とか「与えている」という言葉は、完了形になっています。つまり、これは確かに未来の事柄ではありますが、神にとっては確実に与えられているということです。もう既に完了しているのです。信仰の内に既にそのことが完了していることを表わすために、未来のことであっても完了形で書かれているのです。神の約束が与えられたなら、それはもう実現しているも同然のことなのです。

 

それと同時に、2節には、「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り」とあります。これは、神の約束の実現の前には、ヨルダン川を渡らなければならないということが示されています。つまり、神の約束が与えられたからといって、何の苦労もなく自然に、いつの間にか成就されるということではないのです。むしろその約束の実現の前には困難と試練が横たわっており、それを乗り越える信仰が求められるのです。すなわち、このヨルダン川を渡った時に初めて約束のものを得ることができるということです。ヨルダン川を渡らずして、ヨシュアはあのカナンの地に入ることはできませんでした。ヨルダン川という試練と困難を経て、足の裏で踏むという信仰の決断を経てこそ、彼はカナンの地に入って行くことができたのです。これは霊的法則なのです。ですから、私たちはすばらしい主の約束の実現のために、ヨルダン川を渡ることを臆してはならないのです。私たちの前にふさがるそのヨルダン川を信仰と勇気をもって渡って行くならば、大きな神の祝福を受けることができるのです。

 

5節をご覧ください。ここには、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」とあります。ここには、神がともにいるという約束が語られています。信仰を持ってヨルダン川を渡って行こうとしても、やはりそこには恐れが生じます。しかし、この戦いは信仰の戦いであって、自分の力で敵に立ち向かっていくものではありません。主はモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいると約束してくださいました。主がともにおられるなら、だれひとりとして彼の前に立ちはだかる者はいません。主の圧倒的な力で勝利することができるのです。

 

それゆえ、主はこう言われるのです。「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(6-9

 

ここで主はヨシュアに、「強くあれ。雄々しくあれ。」と同じことを三度繰り返しています。なぜでしょうか。ある聖書学者はこう分析しています。ヨシュアは年齢が若く、したがってモーセほどの実力を持っていなかったので、イスラエルの民が自分に従ってくれるかどうか非常に恐れていた。それで主はこれを三度も語って励ます必要があったのだ、と。もちろん、それも一理あると思います。しかし、ヨシュアのこれから先に起こることを考えると、主がそのように言われたのも納得できます。つまり、主は、これからのヨシュアの生涯が戦いの連続であるということをご存知でしたので、「強くあれ。雄々しくあれ。」と何度も繰り返して語る必要があったのです。確かに荒野においてヨシュアはモーセとともに戦いました。しかしそのモーセは死んだのです。モーセが死んだ今、自分一人で戦わなければならない時に、頼るべきものは主なる神だけです。神に聞き従いつつ、自分自身が先頭に立って様々な困難と闘っていかなければならないのです。そんなヨシュアにとって、「わたしはあなたとともにいる」という約束の言葉はどれほど力強かったことかと思います。確かにヨシュアの生涯は戦いの連続でした。しかし、共にいましたもう主の導きの中で、勝利を勝ち取ることができたのです。

 

これは私たちの信仰の生涯も同じです。それは戦いの連続であり、激しい戦いを通らなければならないことがあります。しかし、主はそのような時にも共にいて、勝利を取ってくださいます。それが私たちの信仰なのです。主イエスの十字架は、私たちの罪の赦しのためです。しかしそれ以上に、十字架は悪魔に対する勝利の力であり、悪魔の罠をも勝利に転換させる大いなる力なのです。この十字架の勝利の信仰のゆえに、どんな戦いにも勝利することができるのです。一時的には敗北と見えるようなことがあったとしても、私たちにはやがて必ず勝利するのです。なぜなら、十字架においてすでに主が勝利をとっておられるからであり、その勝利の陣営に私たちはいるからです。

 

私たちクリスチャンは信仰をいただいたからといって、戦いが全くなくなるというわけではありません。困難がなくなる訳ではないのです。この世に住む以上、常に戦いの連続であり、そのような人生を歩まざるを得ません。しかし感謝なことは、私たちは勝利が確実な戦いを戦っているということです。小手先の所ではもしかすると敗北しているように見えるかもしれません。小さな所では破れていることもあります。。しかし大局的には、最も重要な所では、もう既に私たちは勝利しているのです。

 

アラン・レッドパスという霊的指導者はこのように言いました。「クリスチャンは勝利に向かって努力するのではなく、勝利によって働き続ける者なのです。」

そうです。私たちは勝利のために、勝利に向かって懸命に戦う者ではなく、もう既に与えられている勝利をもって、勝利の中を戦い続けていくものなのです。それゆえに、その勝利の信仰をいただいて、大胆に信仰と勇気をもって人生を歩んでいきたいものです。

 

Ⅱ.全員で戦う(10-15

 

 次に10節から15節までをご覧ください。

「そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。』と言いなさい。ヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、こう言った。「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主は、あなたがたに安住の地を与え、あなたがたにこの地を与える。』と言ったことばを思い出しなさい。あなたがたの妻子と家畜とは、モーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側の地に、とどまらなければならない。しかし、あなたがたのうちの勇士は、みな編隊を組んで、あなたがたの同族よりも先に渡って、彼らを助けなければならない。主が、あなたがたと同様、あなたがたの同族にも安住の地を与え、彼らもまた、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側、日の上る方にある、あなたがたの所有地に帰って、それを所有することができる。」

 

ヨシュアは民のつかさたちに、「糧食の準備をするように」と命じました。それはもう三日のうちに、ヨルダン川を渡って、神が所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしていたからです。

これは、ある意味で、それ以前彼らがイスラエルの荒野で天からのマナとうずらを食べたという出来事と対照的に語られています。以前は、一方的な神の恩寵によって、上から与えられる食べ物によって彼らは生きてきました。しかし、これからは自分の手によって食物を得るようにと命じられているのです。つまり、父なる神に対するある種の甘えや、依存心から脱却して、自分自身の手によって、食べ物を獲得していきないというのです。

 

いったいどのように糧食の準備をしたらいいのでしょうか。12節から15節までのところには、その一つについて語られています。すなわち、全員で戦うということです。ここでヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、戦いに参加するようにと命じています。覚えていますか、ヨルダン川の東岸、エモリ人が住んでいたところは、すでにモーセによって占領していました。そこに、ルベン族、ガド族、そしてマナセの半部族が、ここを所有地にしたいと願い出ました。モーセは初め怒りましたが、彼らのうち成年男子が、イスラエルとともにヨルダン川を渡り、ともに戦うと申し出たので、モーセはそれを許し、彼らにその地を相続させたのです。それで今、彼らが約束したように、彼らに民の先頭に立って戦うようにと命じられているのです。

 

これらの諸部族は、すでにヨルダン川の東側を所有し定住していたので、わざわざヨルダン川を渡って戦う必要はありませんでした。確かにかつて東側を所有するにあたり勢い余ってそのように宣言をしたかもしれませんが、今では戦いに参加するという意欲は失われていたのでしょう。そんな彼らに対して、彼らも立ち上がって戦いに参加するようにと命じられているのです。なぜなら、一つでも欠けることがあれば戦いに勝つことができないからです。彼らが一つとなって戦うところに意味があります。そこに神の力が発揮されるからです。その中には、全面的に参加する者もいれば、部分的参加する者もいたでしょう。また最前線で戦う者もいれば、後方で支援する者もいたに違いありません。しかし、それがどのような形であっても、各々が皆同じように戦略的には尊い存在なのです。そうした仲間が一つとなって戦うことによって、神の力が溢れるのです。

 

Ⅲ.ただ強く、雄々しく(16-18

 

次に16節から18節までをご覧ください。

「彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。」あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。」

 

ここでは、イスラエルの民がヨシュアにあることを求めています。それは、自分たちはモーセに従ったようにヨシュアにも従うので、ただ強く、雄々しくあってほしいということです。これは指導者に対する条件です。つまり、敵との戦いのために、指導者は強く、雄々しくなければならないということです。指導者にとって誠実であることは重要なことですが、それにもまさって強さ、雄々しさが必要なのです。やさしく親切で、思いやりがあることは大切ですが、それにもまさって強く、雄々しくあることが求められているのです。特に戦いにあっては、その指導者の強さが勝敗を決定するといっても過言ではありません。

 

いったいこのヨシュアの強さはどこから来たのでしょうか。第一にそれは、天性のものではなく天来のものであり、肉によるものではなく霊によるものでした。ヨシュアが強く雄々しかったのは、神の霊が彼に注がれ、神の霊が彼の内側に宿っていたからです。

 

ヨシュアが強かった第二の理由は、彼は明確な召命観を持っていたことです。私はよく牧師に必要なのは何ですかと尋ねられることがありますが、それに対して迷うことなく、「神からの召命です」と答えます。神が自分を選び、この務めに任じてくださった。自分の願いからではなく、神が目的をもって自分を用いようと召してくださったという召命があれば、どんな問題も乗り越えることができるからです。ヨシュアはこの召命を持っていたので、強く雄々しくあることができました。自分がこの務めに資格があるかないかとか、適任であるかどうかということは関係ありません。それよりも、自分がその目的のために召されているのかどうか、神がそのことを自分にせよと命じているのかどうかが重要なのです。それは牧師に限ったことではありません。どんな小さな働きのように見えるものであっても、主の働きに求められているのは、主からの召命意識なのです。たとえ自分に力がなくとも、弱さや欠点を持っていようとも、私たちは強くなることができるのです。

 

ヨシュアが強くあることができた第三の理由は、彼が神の約束の言葉に信頼していたからです。彼には神の約束の言葉が与えられていたので、いかなることがあっても失望しませんでした。主なる神は約束されたことを守られる方であると信じていたからです。それゆえに神はヨシュアに、7,8節で、律法を守り行うこと、これを離れて右にも左にもそれてはならないということ、この律法の書を口から離さず、昼も夜も口ずさまなければならない、と命じられたのです。そうです、ヨシュアの強さはこの神のことばに信頼することからくる確信だったのです。それは私たちも同じです。私たちも神のみことばに信頼し、主が約束してくださったことは必ず実現すると信じ切るなら、主の強さと確信がもたらされるのです。

 

私たちもヨシュアのように神の強さをいただくために、神の霊を宿し、神からの召命を確認しながら、神の約束に信頼するものでありたいと思います。そして、ヨシュアが主の力によってイスラエルを約束の地へと導いていったように、信仰によって前進していきたいと思います。