ヤコブ5章1~6節 「いま持っているもので満足しなさい」

ヤコブの手紙の最後の章に入ります。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(2:26)と、行いの伴った生きた信仰とはどのようなものなのかを具体的な例をあげて語ってきたヤコブは、この最後のところで富の問題を取り上げています。

 

1節には、「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」とあります。必ずしも、お金持ちが悪いというのではありません。聖書では、お金そのものは悪であるとか、裕福であることが罪であるとは教えていません。聖書で問題にしているのは金持ちになりたがること、つまり、お金に貪欲であることです。神よりもお金を愛すること、お金が神になってしまうことなのです。なぜなら、そこには多くの誘惑とわながあるからです。Ⅰテモテ6章9~10節にはこうあります。

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」

金を追い求めたために、信仰から迷い出ることがあります。ヤコブはこの欲についてはたびたび語ってきました。欲そのものは問題ではありませんが、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。その大きな誘惑の一つがお金なのです。お金に貪欲になると信仰から迷い出て、悲惨な結果を招くことになってしまいます。ですから、金銭を愛するのではなく、神を愛し、神によって与えられているもので満足しなければなりません。

 

どうしたら満足することができるのでしょうか。きょうはこの富に対してどうあるべきなのかを、聖書から見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.天に宝をたくわえる(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。

「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」

 

「あなたがた」とは、この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちのことです。彼らの中には神を愛していると言いながら、実際にはそうでない人たちもいました。彼らが愛していたのは神ではなくお金でした。彼らは口先では神を信じていますと言っても、その行いはそれを否定するものでした。貪欲によってお金を愛することが、彼らの心を支配していたからです。そのように彼らに向かってヤコブは、「あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」と厳しく警告しています。

 

なぜ泣き叫ばなければならないのでしょうか。それは、彼らにどんなに富があっても、やがて神の前に立つとき、彼らが頼りとしていたその富が、神のさばきから彼らを救うことはできないからです。この地上の富は一時的なものであり、いつまでも続くものではありません。それなのに、神ではなく富を頼りとして生きるなら、やがて終わりの日に、そのような者に迫りくる悲惨な結果がどのようなものであるかを見たら、泣き叫ぶしかありません。

 

2節と3節をご覧ください。

「あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀はさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。」

 

ここには、彼らが頼りとしていたものがどのようなものであったかが述べられています。当時、財産を代表するものが三つありました。それは食べ物、着物、そして金銀です。食べ物というのは大麦や小麦などの穀物のことですが、それらは収穫すると倉にたくわえられました。しかし、たとえ何年分もたくわえてもそれを使わなかったら、それはやがて腐ってしまいます。そうなればすべてが無駄になってしまいます。どんなに蓄えても神の前に富まないと腐ってしまうことになります。

 

着物はどうでしょうか。着物も、当時は大切な財産の一つでした。それは商売の取引としても使われました。また、親から子に相続される価値ある物でもありました。けれども、どんなに価値があるからといっても、それをただしまっておくだけなら意味がありません。やがて虫に食われて使い物にならなくなってしまうからです。何の値打ちもなくなってしまいます。

 

もう一つは金銀です。金銀は虫に食われることはありませんが、別の問題がありました。それはさびです。今のように純金であればさびることはありませんが、当時の金銀は混合物だったので使わずにおけばさびることがありました。

 

そればかりか、ここではそのさびが、あなたがたを責める証言となるとあります。どういうことでしょうか。証言というと、すぐに思い浮かべるのが裁判です。裁判で証人が立たせられると、その証人がいろいろと証言するわけですが、ここではそのさびが証言するというのです。どのように証言するのでしょうか?「私がさびです。私が、この人が愛した元金銀です。この人はずっと私を愛していました。でも、長年使わずにいたのでこんなにさびてしまったのです。この人が私を無駄にしました。今ではもう何の役にも立ちません。こんなにさびてしまいました。全部この人のせいです。」と言って、あなたを責めるのです。

 

そればかりではありません。ここには、そのさびが「あなたがたの肉を火のように食い尽くします。」とあります。火のように食い尽くすというのは、神のさばきを表しています。さびが火のようにあなたをさばくのです。そのように金銀を自分のためにたくわえることは、終わりの日のさばきのために財宝をたくわえることになるのです。

 

いったい何が問題なのでしょうか。前にも申し上げたように、金銀をたくわえることが問題なのではありません。金持ちであることが罪なのではないのです。問題は、あなたがそれをどこにたくわえているのか、何のためにたくわえたのかということです。というのは、そのことによってあなたの心がどこにあったのかがわかるからです。

 

イエス様は、あなたの宝のあるところに、あなたの心もあると言われました。マタイの福音書6章19~21節です。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

 

もしあなたが、自分の宝を地上にたくわえるのなら、あなたの心は地上にあります。しかし、もしあなたの宝を天にたくわえるなら、あなたの心は天にあります。あなたの心のあるところにあなたの宝もあるからです。それによって、あなたが何を頼りに生きているかが明らかにされます。天に宝をたくわえるなら、その人は神を第一にしていることが証明されるので永遠のいのちを受けますが、地上に宝をたくわえるなら、やがて虫とさびできず物となり、また盗人が穴をあけて盗みます。その最後はさびがあなたを食い尽くすことになるのです。だから、自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。自分の宝は天にたくわえなさい、というのです。

 

あなたの宝はどこにありますか。何のために使っているでしょうか。どうか、この地上にではなく、天に宝をたくわえてください。

 

聖書を見ると、そのような人を何人か見ることができます。たとえば、アブラハムはそうでした。創世記14章を見ると、彼はソドムとゴモラが滅ぼされ、ロトとその財産、それにまた、女たちや人々も奪われると、自分のしもべ318人を招集して敵を追跡し、それを打ち破って奪い返したとあります。

するとシャレムの王メルキゼデクが、パンとぶどう酒を持って来て、彼を祝福しました。するとアブラハムはどうしたかというと、戦利品の十分の一を彼にささげたのです。アブラハムはなぜメルキデゼクに自分の戦利品の十分の一をささげたのでしょうか。それは彼が神に信頼していたからです。このメルキデゼクは受肉前のキリストでした。アブラハムは神に十分の一をささげることによって、自分が何により頼んでいるのかを明らかにしたのです。すなわち、彼はこの地上のものではなく、神に信頼して生きていたのです。その証拠に、この後すぐに、ソドムの王が彼に、「人々は私に帰し、財産はあなたが取ってください。」(創世記14:21)と言ったとき、アブラハムはこう言いました。「私は天と地とを造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何も取らない。それは、あなたが、『アブラハムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」(同14:22-23)

アブラハムは、徹底的に神により頼みました。この地上のものにではなく天に、神により頼んで生きていたのです。天に宝をたくわえていたのです。それは彼が、神がどのような方であり、神の恵みを知っていたからです。

 

私たちもキリストによって神の恵みを受けました。自分の罪のために滅ぼされても致し方ないような者だったのに、神はあわれんでくださり、こんな者を救ってくださいました。このような者にとって、神の恵みに対するもっともふさわしい応答は、自分を神にささげることであり、神により頼んで生きること、自分の宝を天にたくわえることなのです。

 

Ⅱ.不正な金持ちたち(4-5)

 

第二に、4節と5節をご覧ください。ここには、「見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」とあります。

 

当時、穀物の収穫の時には、労働者を日雇いで雇いました。そうした労働者たちは、もし賃金が未払いにされるとその日の食べ物にありつくことができなかったので、生きていくことができませんでした。ですから、旧約聖書には、こうした賃金の未払いについて厳しく規定されていたのです。たとえば、申命記24章14節には、「貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。」とあります。また、レビ記19章13節にも、「あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。」とあります。こうした律法の規定は、このような貧しい人たちへの配慮から命じられていたのです。

 

それなのに、そうした神の定めを無視し、支払うべきものを支払わず、貧しい者たちから搾取して、ぜいたくに暮らし、快楽にふけり、自分の心を太らせていた不正な金持ちたちがいました。前にも申し上げましたが、聖書は富そのものを非難していません。金持ちであることが問題なのではありません。問題は、その富を不正に手に入れていたことです。

 

まず4節には「未払い賃金」とあります。この金持ちたちは不正な方法によってお金を集めました。それから5節には、「ぜいたくに暮らし、快楽にふけり」とあります。全く利己的なお金の使い方です。そして6節の前半には、「正しい人を罪に定めて殺しました」とあります。彼らは貧しい人、弱い人、正しい人をしいたげることによって、キリストを再び十字架につけて殺すような罪を犯し、同じ神の民であるクリスチャンを傷つけるようなことをしていたのです。

 

ここには、そうした労働者への未払いの賃金が、叫び声をあげている、とあります。この叫び声は、あまりにも恐ろしい搾取に対する困窮者から出てきた叫び声です。それは万軍の主の耳に届いています。何を隠そう、それは万軍の主を敵に回すことなのです。万軍の主がそうした不正に対して戦われます。5節に、「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」とありますが、それはちょうど、豚肉のために飼われている豚が、屠殺される日のためにたくさんのえさを食べているようなものなのです。

 

この不正な金持ちたちの問題点は何だったのでしょうか。勿論、それは彼らがそうした賃金を不正に手に入れ、自分たちの懐を肥やしていたことですが、その問題の根本には「自分のために」という利己的な思いがあったことです。イエス様はこのような金持ちは愚かな金持ちであると、たとえを話されました。ルカの福音書12章16~21節です。

「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして、言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

この金持ちの問題は、自分のことしか考えられなかったことです。彼の畑が豊作だったとき、彼は「どうしよう」と考え、「こうしよう」と決断しました。そこには神が入る余地がありませんでした。いつも「私」が中心なのです。「私はどうしよう」、「私はこうしよう」、「私は、あの倉を取りこわして、私は、私の穀物や私の財産をみなそこにしまっておこう。」と、「私が」とか「私の」という言葉がくり返されているのです。これが貪欲ということです。人が貪欲になっていくと、自分の思いや意志が優先して、神のことが入って来なくなるのです。本来であれば、「神さま感謝します。こんなに多くの穀物を与えてくださり、豊かになりました。神さま、これをどのように用いたらよいでしょうか。これらすべてはあなたのものです。あなたが与えてくださったものですから、あなたが良いと思うように用いてください。」と祈るところなのに、彼は「ああ、安心した。この先もう何年分もためられたから、さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しもう。」と言いました。彼は自分のためにたくわえましたが、神の前に富む者ではありませんでした。それゆえに神は、彼を「愚か者」と言われたのです。

 

しかし、それはこの愚かな金持ちだけのことでしょうか。それは私たちにも言えることです。私たちは、この金持ちのようにあからさまな快楽にふけるようなことはしないかもしれません。けれども、自分のことだけを考える利己的な思いがあるのは否めません。他者に対して、触りさわりのない言葉を話しますが、しかしそれ以上のことには関わりたくないという心の貧しさがあります。人に優しくしてふるまっているようでも、心の底では自分が満足すればそれでいいというような思いがあるのです。それゆえに、神が見えない、周りの人々が見えないということがあるのです。そういう状態に陥っていることがあるのです。マザーテレサが来日した時に、日本は精神的貧困状態に陥っていると言いましたが、それはまさに自分の心を太らせている私たちのことでもあるのです。

 

Ⅲ.だから、悔い改めて(6)

 

では、いったいどうしたらいいのでしょうか。6節をご覧ください。

「あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」

 

「正しい人」とは、貧しい人のことです。イエス・キリストを信じて罪が赦され、神の前に義と認められた人のことです。彼らは神を信じていない人たち、つまり、身勝手で、貪欲で、不正な方法によってお金を集めていた金持ちたちによって、ひどい仕打ちを受けていました。それなのに、彼らは金持ちたちに抵抗しませんでした。なぜでしょうか。それは、彼らがキリストを信じていたので、正しくさばかれる方にすべてをゆだねていたからです。

 

神は愛である方であると同時に、義なる方でもあられます。不正や不義をいつまでも放置されるような方ではありません。私たちは時々、「神さまがおられるなら、どうしてあんなことを許されるのか」と思うことがありますが、それは神さまがただ忍耐しておられるだけなのです。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。しかし、それがいつまでも続くわけではありません。やがて、終わりの時がやって来ます。その時には、そのような悪を正しくさばいてくださいます。いつまでも悪がはびこっていることはありません。不正をして富を得て、それをもってぜいたくに暮らし、快楽に身をゆだね、自分の心を太らせた貪欲な者たちに対して、必ず神の正しいさばきが下されるのです。そのことを知っているので何の抵抗もしないのです。

 

しかし、神のみこころは一人も滅びないで、すべての人が救われて真理を知るようになることです。そのために、神はひとり子をこの世に遣わしてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神の御子を信じる者は、ひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持ちます。だれでもキリストを信じるなら救われて、神の子どもとされるのです。これが福音です。そして、このようにして神の子とされた者は、富についても正しく理解することができます。信仰がなかった時は、お金がすべてでした。お金があれば幸せになれると思っていました。そのために生きていたのです。けれども、イエス様を信じてからは、もっと大切なものがあることを知りました。それは何でしょうか。それは神です。永遠のいのちです。お金よりも大切なものがあると知ったとき、生きるのが本当に楽になりました。お金に支配された生き方から、お金を支配する生き方に、それを神の喜びと栄光のために用いることの喜びを知ったのです。

 

星野富広さんが、「いのちよりも大切なもの」という詩を書かれました。

いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった

いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが 嬉しかった

 

皆さん、いのちよりも大切なものとは何でしょうか。星野さんはそれを知るまでは生きるのが苦しかったと言っています。いのちよりも大切なものがあると知ったとき、生きているのが嬉しかったというのです。いのちよりも大切なものって何でしょうか。星野さんご本人は、この問いには答えないようにしているそうですが、それは答えなくてもわかります。それは永遠のいのちです。このいのちは、アッシジのフランチェスコが「平和の祈り」の中で、「自分のいのちをささげて死ぬことによって、永遠のいのちを得ることができるからです。」と言っているように、自分をささげることによってもたらされるものです。このいのちが与えられたら、もはやお金とか、富とか、財産とかに縛られることはなくなります。それよりも大切なものがあることを知っているからです。

 

ヘブル13章5節にはこうあります。

「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

そのような人は、いま持っているもので満足することができます。なぜなら、主があなたとともにおられるからです。この天地を創られた主が共におられる。私たちの必要のすべてをご存知であられ、それを満たすことのできる方が共におられる、もうそれだけで十分です。

 

皆さん、私たちが不幸だと感じるのは足りないと思うからです。物でも、愛情でも、これで十分だと思えるなら満足することができます。でも、どんなに高価なものを持っていても、どんなに多くのものを持っていても、十分だと思えなければ不幸だと感じます。それで満足することができなければ、少なくても満足している人の方が幸せなのではないでしょうか。だから、聖書は、「いま持っているもので満足しなさい。」と言うのです。なぜなら、私たちには永遠のいのちが与えられているのですから。なぜなら、私たちにはすべてを満たすことができる神がともにおられるのですから。この神がともにおられるのなら、私たちは何も足りないものはありません。私たちはいのちよりも大切なものを持っているのですから。

 

あなたはどうでしょうか。このいのちを持っておられるでしょうか。そして、この地上のことばかり考えてはいませんか。あれが足りない、これが足りないと、足りないものを見て嘆いていないでしょうか。「いま持っているもので満足しなさい。」神はあなたに永遠のいのちを与えてくださいました。あなたにとって必要なものをすべて与えてくださいます。大切なのは、あなたがこのいのちを得ておられるかどうかです。どうか、あなたの貪欲を悔い改めて、神に立ち返ってください。そうすれば、主はあなたをゆるしてくださいます。そしてあなたに、いのちよりも大切なもの、永遠のいのちを与えてくださいます。それがあれば、あなたは本当に満足することができます。

 

箴言30章7~9節でアグルという人が、次のように言いました。

「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不真実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

 

これは本当に生きる知恵ではないでしょうか。アグルが願った二つのこととは、不真実と偽りを遠ざけてほしいということと、貧しさも富も与えず、ただ、自分に与えられた分の食物で養ってほしいということでした。なぜなら、自分が食べ飽きて、神を否み、「主とはだれだ。」と言うことがないためです。また、自分が貧しくなって、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないためです。だから、貧しさも富も与えないでくださいと願ったのです。定められた分の食物で私を養ってください、と祈ったのです。

 

おもしろいですね。私たちにはそれぞれ、「定められた分の食物」があるのです。ですから、それで満足すべきです。なぜなら、私たちには永遠のいのちが与えられているからです。私たちにとって最も大切なのは、この神のいのちに生きることです。いま、持っているもので満足しなさい。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(Ⅰテモテ6:6)なのです。

Ⅰコリント15章1~11節 「最もたいせつなこと」

イースターを迎えました。主の復活を喜び、心から主の御をほめたたえます。私たちは今朝、使徒パウロがコリントの教会に書き送った手紙の中から、「最もたいせつなもの」と題してお話ししたいと思います。

 

世の中には大切なものがたくさんあります。それは人それぞれ違うでしょう。ある人はお金だ、健康だ、仕事だという人がいれば、思いやりだとか、愛だ、いのちだという人もいます。あるいは人と人の絆だという人もいるでしょう。確かにこの世で生きていくためには、これらのものも大切です。しかし、きょうのところでパウロは、最もたいせつなことを私たちに伝えています。それは福音のことばです。きょうは、この「最もたいせつなこと」についてご一緒に考えてみたいと思います。

 

Ⅰ.この福音によって救われる(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」

 

12章から14章にかけて御霊の賜物について語ってきたパウロは、この15章に入ると、「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。」と言って、「福音」について語り始めます。「福音」とは何でしょうか。

「福音」とは「良い知らせ」という意味です。福音を国語辞書で調べると「喜ばしい知らせ」「イエス・キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ」とあります。和英辞典を見てみると「Good News」とあります。この福音という言葉は聖書の最も大切なことを的確に表している言葉だと思います。私たちはテレビやラジオ、新聞で様々なニュースを見たり、聞いたりします。それは「どこで」「誰が」「何をしたか」という情報です。実は聖書で最も大切なこととして書かれているのは、「教え」ではなく、「情報」、ニュース、知らせなのです。

 

パウロはここで、「兄弟たち。私は今、この福音を知らせましょう。」と言っています。これは特に、荘厳な面持ちで大事なことを伝える時に伝える言葉です。なぜ大事なのかというと、2節にあるように、この福音のことばをしっかり保っていれば救われるからです。この福音のことばをあなたが素直に受け入れ、この福音のことばに立って生きるなら、あなたは救われるのです。この救いとは罪からの救いのことです。私たちはよく病気が癒されたとか、貧乏から解放された、問題が解決したことを指して「救われた」と言うことがありますが、聖書でいう救いは、そうしたさまざまな問題や困難からの救いだけでなく、それらの問題の根本的な原因である罪からの救いのことを意味しています。罪が赦されるとどうなりますか。罪が赦されると神に受け入れられ、神の御国、天国で永遠に神とともに生きることができるようになります。私たちの人生はこの世だけのものではありません。やがてこの世での生を終え、神の前に立たされる時がやってきます。その時、神が約束してくださったように神の国を相続するようになるのです。この世の中には大切なものがたくさんありますが、この福音はそうしたものの中でも最もたいせつなものであるのは、この世だけではなく永遠にかかわるものだからなのです。

 

ある時、「日本人百人に聞く」というアンケートがありました。その最初の質問は、「あなたは死後の世界はあると思いますか。ないと思いますか。」というものでした。すると、「ある」と答えた人と、「ない」と答えた人と、「よく分からない」と答えた人が、ちょうど三分の一ずつでした。

そして、死後の世界が「ある」と答えた人にさらに、「あなたの考える死後の世界は、明るいですか。暗いですか。」と質問すると、その答えは、「明るい」と答えた人と、「暗い」と答えた人と、「よく分からない」と答えた人が、やっぱり三分の一ずつでした。

もしみなさんに同じ質問をしたら何と答えるでしょうか。死後の世界はあると思いますかという質問には、全員が、「ある」とお答えになると思います。そして、「それは明るいですか、暗いですか」という問いには、「明るい」と答えるのではないでしょうか。なぜなら、この福音のことばをしっかりと保っているからです。どうかこの福音を受け入れ、このことばに立ってください。この福音によって救われるからです。

 

Ⅱ.最もたいせつなこと(3-5)

 

第二に、この福音とはどのようなものなのでしょうか。次に3節から5節までをご覧ください。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」

 

パウロは、この福音の内容を最も大切なこととして、次の四つのことにまとめています。

第一に、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」、第二に、「葬られたこと」、つまり、本当に死なれたということです。キリストは十字架につけられた時、単に気絶したということではなく、本当に死んで葬られたということです。第三に、「聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」、そして第四に、「ケパに現われ、それから十二弟子に現われたこと」です。これが、最も大切なこととして、パウロが伝えたかったことです。

 

これを見ると、最もたいせつなことは、イエス・キリストの教えやイエスがなされた奇跡の数々ではなく、イエス・キリストの十字架の死と、葬りと復活の事実であり、それを見た人たちがいるという証拠です。それが福音の中心です。

 

近代になって、ある人々は実に軽々しく主イエスの復活の事実を否定するようになりました。復活抜きのキリスト教を打ちたてようとしたのです。イエス様が復活したかどうかなんてどうでもいいじゃないか、第一、そんなこと確かめようがないし、仮に確かめることができたとしても、それがいったいどうなるというのか。大切なのは、そこから意味をくみ取ることだよ。イエスが復活したということが、自分にどんなことを教えているのかを見い出すことだ、というのです。しかしその結果残ったのは、もはやキリスト教とは言えない代物となってしまいました。主イエスの復活の事実に裏付けられない復活の教えには意味がないのです。そういうことがあったことにしておこう。そう仮定しておこう。そう信じておこう、ということではないのです。この事実の上に私たちの信仰も、希望もその確かさがあるのです。だからパウロは続けて6節から8節までのところでこう言っているのです。

「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」(6-8)

 

どういうことでしょうか。これはキリストの復活が事実であったということです。まずケパに現われ、十二弟子に現われたというのは、彼らは生前のイエスをよく知っていた人たちですから、よみがえったイエスと出会った時、その二人は同一人物であるということを確認することができました。他の人がよみがえって、「私がイエス」だと言ったわけではなく、本当にあの方が死んでよみがえられたのだと確認することができたのです。

 

それから「五百人以上の兄弟たちに同時に現われた」とは、キリストがよみがえられたことは幻覚でも何でもない、はっきりとした事実ですよ、という意味です。もし一人や二人であったら、キリストがよみがえったと言っても、ただの思い込みじゃないのと言われても仕方ありません。でも五百人以上の人たちに同時に現われたということになれば話は別です。それは紛れもない事実であると言えるからです。

 

またヤコブに現われ、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださったというのは、まさに神の恵みであるということです。ご存知のように、このヤコブとはイエスの実の兄弟のヤコブのことですが、彼はイエスが十字架に付けられるまでイエスをメシヤとは信じていませんでした。しかし、この復活のキリストに出会うことによって、「ああ、本当にお兄さんのイエスはメシヤだったんだ」と信じることができました。またパウロが自分のことを「月足らずで生まれた者と同様な私」、「未熟児のような私」と言っているのは、彼が以前教会を迫害していた者だからです。そんな者にもキリストは現われてくださいました。ですから、それは紛れもない事実なのです。

 

しかもここで大切なのは、これらのことが他の誰でもない「私たちの罪のため」であったということです。いやもっと言うならば、ほかならぬこの私のためであったということです。キリストは、聖書が示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、私たちのために葬られ、私たちのために三日目によみがえられ、私たちのために現われてくださいました。そう信じて受け入れるなら、あなたは救われるからです。その中でも最も中心的なことは、主イエス・キリストが死からよみがえられたということでした。なぜなら、キリストの復活は、私たちの人生にとって最大の問題である死に対して最終的な解決を与えるものだからです。ですから、キリストが復活したという事実は、私たちにとって大きな出来事なのです。

 

ハイデルベルク信仰問答書には次のようにあります。

〔問45〕キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。   第1に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ。  第2に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。  第3に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。

 

これはどういうことかというと、キリストの復活は私たちに過去において、現在において、また未来において、益をもたらしてくれるということです。過去においてとは、主イエスが成し遂げられた十字架の死と復活という贖いの御業によって、すでに主イエスを信じる者たちが義と認められているということであり、現在においてとは、主イエスによって義と認められた私たちが今すでに主イエス・キリストにあって永遠のいのちの祝福の中に生かされているということ、そして未来においてとは、キリストの復活がやがて私たちも復活するという保証であり、初穂であるということです。

 

ここにおいて主イエスのよみがえりは私たちを明日へと生かしめる希望となり、力となるということがわかります。希望とは何か遠い先の事柄ではなく、むしろ確かな約束に基づいた、日々を生きる力、日常的で具体的な力なのです。その力に生きることができるところに、復活の最大の益があると言えるのです。

 

これが、教会が「最もたいせつなこととして」ずっと昔から受け継いできたことです。パウロは3節で、「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって」と言っていますが、この「伝える」とか、「受ける」という言葉は、誰かの思いつきで、突然どこからか降ってきた教えというのでもなく、教会がずっと昔から繰り返して受け継いできた教えであるということです。それは最もたいせつなことであり、キリストが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたという事実なのです。

 

Ⅲ.神の恵みによって(8-11)

 

それにしても、これほどにパウロが主イエスの復活の事実にこだわるのはなぜなのでしょうか。そこにはパウロ自身の深い経験があったことが分かります。8節から11節までをご覧ください。

「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです」。

 

パウロはここで復活の主イエスが「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました」と言っています。主イエスの十字架と復活の場面にはパウロは出てこないのに、これはどういうことなのでしょうか。そこで私たちが思い至るのは、使徒の働き9章にある、あのダマスコ途上での主イエスとの出会いの経験です。かつてクリスチャンを迫害し、死にまで追い詰めることを生きがいとしていたパウロに、主イエスは出会ってくださり、それによって彼の人生はまったく変えられ、キリストを宣べ伝える者へとされていったのです。ですからパウロにとってはキリストの復活は事実であるばかりでなく、まさに彼にとっての人生の原点でもあり、生きる目的でもあったのです。だからこそ彼にとっては復活の事実はないがしろにできないばかりか、それを伝えることこそが彼の生きがいとなっていったのです。

 

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」かつてクリスチャンを迫害し、死にまで追い込んでいったパウロ、自分こそは律法を完璧に守り、その行いによって自分の救いを獲得していた者でしたが、彼をそのような人生に駆り立てていった一つの動機はやはり死への恐れだったのです。それを遠ざけ、振り払うかのように懸命になって生きていました。しかしその人生には本当の平安はなく、本当の確かさもなく、また本当の希望もありませんでした。しかし、そんな人生の途上で主イエス・キリストに出会い、その十字架と復活の福音を自らが聞き、受け入れたとき、彼の人生は全く新しくされ、そしてその福音に生きる者となりました。その時、彼は、死を乗り越えることができたのです。そしてそこで彼が言い得た言葉が、「私は神の恵みによって今の私になった」というこの言葉だったのです。

 

「恵み」とは、それを受けるに値しない者に、神が一方的に与えてくださる賜物です。それにふさわしいから与えられるものは、恵みではありません。それは「報酬」と言います。でもそれを受ける理由などどこにもないのに、神が与えてくださるもの、それが恵みです。パウロは、この神の恵みによって、今の私になりました。それまで彼は、クリスチャンを捕らえては迫害してきました。一撃のように神に打たれて死んでも、文句の言えないようなことをしてきたのです。そのような者に対して、いったい神は何をしてくださったのか。そんな自分を赦してくださいました。それだけでなく、自分を福音の宣教者として選んでくださった。これは、神の恵み以外の何ものでもない、と言ったのです。

 

私は自分の人生を振り返ってみると、そこには多くの罪があり、多くの失敗もあり、穴があったら入りたいくらいですが、それでもなお、神は私を信仰者として、建て上げてくださっていることを思うとき、それはまさに神の恵み以外の何ものでもありません。本当に私の人生を私の人生として生かすもの、私のいのちを私のいのちとして輝かせるもの、死の恐れを超えて、永遠のいのちの希望に生かすもの、それがこの神の恵みであり、神の恵みによってもたらされた復活の信仰なのです。

 

南北戦争で北軍の将軍にまで上り詰め、文学的にも秀でた才能を発揮したルー・ウォーレスとう人がいました。彼はよく知られた無神論者でした。彼は二年間に渡り、ヨーロッパやアメリカの主要な図書館で、キリスト教を破滅に追いやるための資料を求めて研究しました。ウォーレスは「キリスト教撲滅論」という本の第二章を書いている時、 突然ひざまずき「私の主、私の神よ」と言ってイエスに泣き叫んだのです。議論の余地のない明白な証拠によって、ウォーレスはイエス・キリストが神の子であることを否定できなくなりました。後に彼は『ベン・ハー』という小説を書き、この小説はやがて映画化され、アカデミー賞11部門を受賞しました。この記録は「ロード・オブ・ザ・リング」と並ぶ記録として映画史に輝いています。

 

またイギリスのオックスフォード大学教授であったC.S.ルイスは、宗教を否定する不可知論者でした。しかし彼も、イエスが神であるという反論しがたい証拠を研究した後、イエスを自分の神、救い主として受け入れました。 その後ルイスはキリストを証言する多くの本を書きました。最近映画化された「ナルニア国物語」もその中のひとつです。「ナルニア国物語」の主要登場人物の一人にアスランというライオンが登場しますが、このアスランは実はキリストを表しています。聖書の中にはキリストがライオンに例えられている箇所があり、ルイスはアスランをライオンに設定したといいます。

 

他にも数え切れないほど多くの人が、聖書が最も大切なこととして伝えているこの福音を信じて救われ、人生が変えられました。あなたはこの福音、良い知らせ、グッドニュースを聞いてどのようにお感じになりますか?このニュースがもし事実ではないなら、聖書もキリスト教も土台が無くなり、価値のないものとなります。しかしもしこれが事実であるなら、あなたの人生にも大きな影響を与えるものでしょう。

 

たとえあなたが、どんな過去を背負っていようとも、どんな傷を残していようとも、どんなに拭い切れない罪責を負っていようとも、主イエスはそのあなたのすべての罪を背負って死なれ、そして復活してくださいました。すべては主イエスの死とよみがえりによって解決されたのです。復活の主イエスのお体には釘の後、槍の後が残っていました。このことの意味深さを繰り返し思います。確かに今、私たちにも過去の傷は残っていても、しかしそれはもはや私を苦しめ、責めるものでなく、主イエスによるまったき赦しと慈しみと恵みの傷跡なのであって、それ故に私たちもまたパウロと共にこういうことができるのです。「神の恵みによって、私は今の私になりました」。この最も大切な福音を信じ、心を高く挙げて、復活の主イエスの御名を賛美いたしましょう。