ヨシュア記3章

きょうはヨシュア記3章から学びたいと思います。

 

 Ⅰ.主の契約の箱のうしろを進め(1-6

 

 まず1節から4節までをご覧ください。

「ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。三日たってから、つかさたちは宿営の中を巡り、民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」

 

エリコの町を偵察した斥候からの報告を受け、ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょにシティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、三日間そこに泊まりました。それは、彼らが約束の地へ進んで行くために、一つの困難に差しかかっていたからです。それはヨルダン川を渡るということでした。神からの約束が与えられたということは、それが棚ぼた式にもたらされるということではありません。その達成のためには、いくつかの困難を乗り越えて行かなければならないのです。神の約束があり、その約束の言葉にしたがって行動を起こし始めるや否や、このような大きな障害が立ちはだかるのです。こうした障害を乗り越えて行きながら、神の約束は実現していくのです。

 

彼らはどのようにこれを乗り越えて行ったのでしょうか。2節から4節までをご覧ください。ヨシュアはこのように民に命じていいました。

「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」

どういうことでしょうか。それは徹底的に主に信頼し、主に従うことによって乗り越えられるということです。イスラエルの民は、主の契約の箱を先頭にして、そのうしろを進まなければなりませんでした。普通、契約の箱はその隊列の中央に置かれていました。それは主がイスラエルの民の真ん中におられることを象徴していたからです。けれどもここでは契約の箱を先頭に立て、そのうしろを進まなければなりませんでした。それは主が彼らに行くべき道を示すためであり、その道を開かれるためでした。言い換えると、主ご自身が先頭に立って問題を解決してくださるということです。私たちの信じる神は、私たちに先だって行かれ、そこに生じるであろうあらゆる問題を解決してくださるのです。信仰生活の醍醐味は、まさにこの先だって行かれる主を体験するところにあります。感謝なことに、私たちが問題の渦中にあっても、既に主が先だって行かれ、その問題の解決に当たって下さっているのです。

 

ところで、4節を見ると、この契約の箱との間には、二千キュビトの距離を置かなければならないとあります。1キュビトは44.5センチですから、二千キュビトは約900メートルになります。いったいなぜこれほどの距離を置かなければならなかったのでしょうか。

ここで思い浮かべるのが、Ⅱサムエル記6章にある「ウザの事件」です。かつて、ダビデがエルサレムに契約の箱を運び入れようとした際、新しい車に乗せて進んでいましたが、車を引いていた牛がつまずいて契約の箱が落ちそうになりました。それで側にいたウザという人があわてて手で持ってそれを支えたところ、この行為が神の怒りに触れ、彼は神に打たれてその場で死んでしまったのです。私たちはこの箇所を読むたびに本当に不思議に思います。なぜウザが神に打たれなければならなかったのか、ウザはただ契約の箱が落ちないように支えただけでなかったのか、いったいどうしてそのことが神の怒りを招くことになったのか・・・。

それは、神がそれほど聖い方であって、たとえ善意によるものであってもそれに触れるようなことがあれば、死ななければならないことを示していました。神は人間が近づくことも、触れることもできないほど聖い方であって、この方の前にしゃしゃり出ることは許されないのです。私たちに求められているのはこの神の御前にへりくだり、絶対的に従うことなのです。

そして、この時の命令も同じことを意味していました。すなわち、肉なる者が前面に出てしまうと主が働きにくくなるのです。否、むしろ主の御業の妨げになってしまいます。それゆえに、二千キュビトの距離を置かなければならなかったのです。絶対に主の前に出て、主の働きを妨げてはならない、主が働いてくださることを信じて、そのはるか後方を進まなければならなかったのです。

 

ウオッチマン・二―は「神の前における二つの罪ということについて、次のように述べています。「第一に拒否の罪、すなわち、神様の命令に従わないで、それを拒否するという罪。そして、もう一つは出しゃばりの罪、すなわち神の命令がないのに、人間的な考えによって自分で進んで行こうとする罪である。この二つの罪が人間にはあるだけだ。」神様が命じているのにそれに従わないということがよくありますが、それだけでなく、命じていないのに自分から出しゃばって失敗するということもあります。私もどちらかというと、この点で失敗することが多いと感じます。神様の命令よりも自分の思いが優先してしまうのです。結局のところ、何もしなければよかったということがよくあるます。何もしなければいいということではありませんが、神が先を進んでおられると信じ、神が求めておられることは何か、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために自分自身を主にささげ、それが示されたなら大胆に進んで行く。そういう者でありたいと願わされます。

 

ところで、そのためにイスラエルの民はどのような備えが必要だったのでしょうか。5節と6節をご覧ください。

「ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。」

 

続いて、ヨシュアは民に言いました。「あなたがたの身をきよめなさい。」と。身をきよめるとはどういうことでしょうか。身をきよめるとは、神に全く献身するということです。なぜでしょうか?主が、あなたがたのうちで不思議を行われるからです。ここで「あなたがた」とはイスラエルの民のことを指しています。主が彼らのうちで不思議を行われるために彼らがしなければならなかったことは、彼らの身をきよめることでした。自分たちのものはすべて、自分たちのからだも心もすべて主のものであることを認め、そのすべてを主に捧げなければならなかったのです。すなわち、主の命令と指示に対しては、どんなことがあっても従っていくという覚悟です。

 

それは教会も同じではないでしょうか。主が御業を行ってくださるために、私たちも身をきよめなければなりません。自分の思いや、自分の考えがあるかもしれませんが、主のみこころを最優先にして、どんなことがあってもみこころに従っていくという覚悟が求められているのです。そのようなところに主が働いてくださらないわけがありません。そこには信じられない主の御業と栄光が現されるのです。

 

Ⅱ.ヨルダン渡河の目的(7-13

 

次に7節から13節までをご覧ください。

主はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』ヨシュアはイスラエル人に言った。「ここに近づき、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」

 

ヨシュアは祭司たちに、「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」と命じました。そこで祭司たちは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行きました。いったいなぜこのようなことを命じたのでしょうか。続く7節にはその理由が記されてあります。それは、イスラエル全体の前で、主がヨシュアを大いなる者とするためでした。それは、主がモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいることを、イスラエルの民が知るためだったのです。実際、ヨシュアがこれから行なうことは、かつてモーセが行なったことと同じようなものでした。つまり、神が紅海を分けるためにモーセを用いられたように、ヨルダン川をせき止めるためにヨシュアを用いられたということです。そして、かつてモーセが祈り紅海を分けたとき、「イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。(出エジプト14:31)」ように、今度はヨルダン川の水をせき止めるという神の奇跡をヨシュアが行うことによってヨシュアを大いなる者とし、イスラエルの民が彼に従うようにさせたのです。つまり、この出来事はカナンの地における次なる戦いのためにヨシュアのリーダーシップを確立させるためだったのです。おそらく、この時点ではまだ、十分なリーダーシップが発揮されていなかったのでしょう。イスラエルの初代指導者であったモーセがあまりにも偉大なリーダーであったがゆえに、その後継者であったヨシュアに対する民の尊敬は今一つだったのだと思います。ですから、この出来事を通して、モーセと同じ神が、その同じ霊をもってヨシュアにも働いていることを示し、ヨシュアを大いなる者にしようとしたのです。

 

しかし、イスラエルの民がヨルダン川を渡るという出来事には、もう一つの目的がありました。それは、彼らがカナンの地に入って行った後に直面するであろう次なる戦いのためであったということです。10節には、「ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。」とあります。そこにはカナン人をはじめとする七つの部族がすでに定住していました。したがって、彼らがその地を占領するためには、そうした部族と戦って勝利しなければならなかったのです。いったいどうしたら勝利することができるのでしょうか。そのためには、生ける神が彼らのうちにおられ、そうした部族を追い払われるという確信を持たなければなりませんでした。どうしたらその確信を持つことができるのでしょうか。この奇跡的な出来事を通してです。全地の契約の箱が、彼らの先頭に立ってヨルダン川を進んで行く時、その箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになるという出来事によって、生ける神が彼らのうちにおられ、彼らの前から敵を追い払ってくださるということを知ることができたのです。

 

これは私たちの信仰生活も同じです。私たちも主イエス・キリストの十字架の死による贖いと復活のいのちによって、約束の地に入れられました。しかし、それはすべてにおいて順風満帆で何の問題も起こらないかというとそうではなく、そこには新たなる戦いが起こってくるのです。しかし、その戦いのただ中に生ける主が共におられ、敵を必ず追い払ってくださいます。そうです、私たちの戦いは、すでに勝利が決定している戦いなのです。言うならば、クリスチャンの生涯とは、むしろこの戦いを心躍らせながら進んで行く生涯なのです。そこには圧倒的な勝利の主がともにいて戦ってくださるのです。そのことを知らなければなりません。まさにイスラエルのヨルダン渡河は、このことを知るためだったのです。

Ⅲ.せきとめられたヨルダン川(14-17

 

さて、その結果はどうなったでしょうか。14節から17節までをご覧ください。

「民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、・・ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」

 

箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれますが、上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられたので、イスラエルの民はすべて、そのかわいた地を通り、ヨルダン川を渡り終えました。これは「刈り入れの期間中」の出来事だとありますが、今の暦に直すと三月下旬から四月上旬にかけての時期です。その時期は大麦の収穫の時期で、ヘルモン山からの雪解け水がガリラヤ湖に入ってきて、そしてヨルダン川に流れるので、水かさが最も増します。しかし、どんなに水かさが増しても、主の圧倒的な力によって完全にせきとめられたので、イスラエルの民はヨルダン川の真ん中のかわいた地を通って、渡ることができたのです。

 

ところで、15節を見ると、「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき」とあります。そのとき、ヨルダン川の水は、上から流れ下る水はつったって、せきをなして立ち、塩の海のほうに流れる水は完全にせきとめられました。すなわち、ヨルダン川の水がせきとめられたのは、祭司たちの足の裏がそのヨルダン川の水の中にとどまったときであったということです。祭司たちはヨルダン川の水がせきとめられてから足を踏み入れたのではなく、水の中に足を踏み入れた結果、せきとめられたのです。このとき祭司たちはどんな気持ちだったでしょうか。もし水が引かなかったらどうなってしまうかと不安だったことでしょう。しかし、彼らは神の約束に従って水の中に足を踏み入れたので、水がせきとめられたのです。

これが信仰です。信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。目に見えるものを信じることは、信仰ではありません。信仰とは目に見えなくても、主が約束してくださったことを信じることです。そこに偉大な主の御業が現されるのです。私たちも信仰によって踏み出す者となりましょう。

Ⅰペテロ1章6~9節 「救いの喜び」

きょうは、ペテロの手紙第一1章6節から9節までのみことばから、「救いの喜び」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.救いの喜び(6)

 

まず6節をご覧ください。

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、」

 

この手紙は、キリストの弟子であったペテロから迫害によって国外に散らされていたクリスチャンを励ますために書かれました。彼らは迫害の中にあって苦しんでいましたが、ここには、「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます」とあります。どういうわけで、彼らは大いに喜ぶことができたのでしょうか。「そういうわけで」です。それは、その前のところで語られたことを受けてのことです。ペテロは3節から5節までのところでこのように語りました。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」

 

彼らはどうして喜ぶことができたのでしょうか。なぜなら、彼らは神の大きなあわれみによってすべての罪が赦され、永遠のいのちという、生ける望みを持つようにされたからです。また、朽ちることも汚れることもない資産を受け継ぐようにしてくださいました。それは天にたくわえられていて、やがて終わりのときに受けるように用意されているのです。そればかりではなく、今も神の御力によって守られています。私たちは日々いろいろな問題に悩まされていますが、そのような中にあっても平安でいられるのは、神の守りがあるからです。これを一言で言うならば、たましいの救いを得ているからです。「そういうわけで」です。そういうわけで、あなたがたは、大いに喜んでいるのです。

 

皆さん、救いの喜びとは、何か良いことがあったからうれしいとか、幸せだというのではありません。そのような感情的なものではないのです。良いことがあったから楽しいとかうれしいというのは自然な感情の表れですから悪くはありませんが、そのような喜びは一時的で、状況によって左右されるものです。ですから、一方で悪いことがあると逆に不幸に感じてしまうことがあるのです。それはちょうどジェットコースターに乗っているようで、上がったり、下がったりと、安定感がありません。

 

しかし、この救いの喜びは回りの状況に左右されない喜びです。良いことがあっても悪いことがあっても、決して奪われることがない喜びです。それは感情的なことではなく霊的なことなのです。イエス様を信じたことで私のすべての罪が赦されたということ、そして、やがて朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようになったということ、また、それまでの間ずっと神がともにいて守ってくださるということを知ることによってもたらされる喜びです。それが救いの喜びなのです。ですから、この生ける望みがどれほど大きいものであるかを理解すればするほど、大いに喜ぶことができるのです。

 

ですから、パウロはエペソ人への手紙の中でこう祈っているのです。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1:17-19)

 

神の召しによって与えられている望みがどのようなものであるか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、神の全能の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのようなものであるかを、あなたがたが知ることができるように、それをしっかりと見ることができるように、そのために心の目がはっきり開かれるようにと祈っているのです。人は何を見るかによってその結果が決まります。このようにすぐれた神の栄光、希望、力を見るなら、どのような患難、苦難が襲ってきてもびくともすることはありません。そのために神がどれほどあなたをあわれんでくださったかを知るなら、むしろ感謝と喜びがあふれるのです。

 

それは、クリスチャンには悲しみがないということではありません。ここには、「いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならないのですが、」とあります。クリスチャンにも悲しみはあります。苦しみもあります。たとえば、健康の問題があります。病気になったり、事故に遭ったりすることもあります。あるいは、人間関係の問題もあります。友人との関係、職場の人間関係、親子の関係、夫婦の関係でいろいろ悩むことがあります。人から誤解されたり、ありもしないことで悪口雑言を浴びせられることがあるのです。経済的な問題もあります。また、将来に対する不安もあるでしょう。すぐに解決する問題もあれば、ずっと引きずってしまう問題もあります。私たちにはいろいろな悩みや苦しみがあります。そうした試練の中で嘆き悲しみ、失望落胆し、心が折れそうになってしまうことがあるのです。しかし、その中でも神の恵みを味わうことができる。大いに喜ぶことができるのです。なぜ?なぜなら、私たちには終わりの時に現われるようにと用意されている救いをいただくことを知っているからです。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならないこともありますが、それはしばらくの間のことであって、いつまでも続くものではないのです。それは一時的なもの、しばらくの間のことでしかないのです。

 

パウロは福音のために誰よりも多くの苦難に会った人ですが、そのパウロは苦しみについて何と言っているかというと、「今の時の軽い患難」と言っています。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測りしれない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(Ⅱコリント4:17)

パウロはなぜこのように言ったのでしょうか。それは、やがて与えられる栄光が、測りしれない、重い永遠の栄光をもたらすことを知っていたからです。それと比べたら、いまの患難は軽いもので、一時的なものすぎないと感じたのです。

 

ですから、いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければなりませんが、後に来る栄光を思うと喜びがあります。終わりのときに用意されている救いをいただくことを思うと、どんな試練の中にあっても、大いに喜ぶことができるのです。

 

Ⅱ.信仰の試練(7)

 

では、いったい何のためにさまざまな試練があるのでしょうか。7節をご覧ください。「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」

 

私たちに試練がある目的の一つは、私たちの信仰を聖くするためです。ここには、「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」とあります。当時、金は金属の中で最も堅く、高価で、尊いものでした。そして、その純度を高めるために用いられたのが火です。火で精錬し、不純物を取り除き、もっと尊いものにしたのです。しかし、どんなに火で精錬した金でもやがて朽ちて行きますが、信仰は精錬されればされるほど、やがてイエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になるのです。その信仰の純粋さを高つために用いられたのが試練です。私たちはイエス・キリストを信じたからといってすぐに完全にされるのではありません。まだまだ不完全な者であり、いろいろな欠点や弱さがあります。いろいろな不純物があるのです。それを取り除かなければなりません。どのようにしてそれを取り除くことができるのでしょうか。それが試練なのです。試練の中で痛みを感じたり、苦しみや悲しみを味わわなければなりませんが、その苦しみを通して自分の弱さを知るようになるのです。それは健康の時には気付かないことです。健康の時には何でも自分でできると思っていました。しかし、試練を通して、苦しみに会ってはじめて、自分が本当に弱い者であることを痛感させられるのです。これまで持っていたプライドが砕かれて、謙遜にさせられるのです。不純な思いがきよめられ、神に信頼することを学ばされるのです。

 

ですから、詩篇の作者はこう言っています。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」(詩篇119篇67篇)

また、詩篇119篇71節にはこうあります。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

苦しみに会う前はそのことがわかりませんでした。苦しみにあって初めてそれがどういうことなのか、神のことばが本当だということを悟り、みことばに信頼するようになるのです。私たちは、苦しみを通して神のおきてを学ぶようになるのです。

 

2節には、「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」とあります。私たちが救われた目的、私たちが救いに選ばれた目的は何でしょうか。それは、イエス・キリストに従うようになることです。私たちは救われるだけでなく、キリストに従い、キリストに似た者となることを神は願っておられます。そのために用いられるのが試練なのです。ですから、試練は私たちを苦しめるのが目的なのではなく、私たちを訓練し、私たちがキリストのようになること、キリストに従うようになるために、神が私たちに与えた恵みなのです。スポーツのアスリートは激しいトレーニングを通して成長していきます。そこには痛みや苦しみが伴いますが、そうしたトレーニングを通して成長していくように、私たちも試練というトレーニングを通して大きく成長していくのです。

 

シンクロナイズドスイミングの井村雅代コーチは、限界を決めない練習を選手に科すことで有名です。それは半端なものではないくらい過酷な練習量で、朝早くから夜遅くまで続きます。なぜそんなに練習をさせるのかを、この前テレビで言っていましたが、それは、自分たちがこれだけ練習してきたんだというのが自信になり、本番で力をはっきりするためだ・・・と。これまで日本の先週は本番になると自分の力を出し切れなかったのは精神的な弱さから来ていたのであって、その弱さを克服するには練習以外にはないと、徹底的に練習をするのだそうです。まさに鬼の井村です。でもそれは選手たちか強くなるためであって、結果、この数年常にメダルを取り続けているのだそうです。

 

それは、私たちの信仰にも言えることで、そうした試練を通して、神は私たちをキリストのご性質へと変えてくださり、イエス・キリストの現われのときに、称賛と光栄と栄誉に至るのです。まさに、成長のための近道はないのです。

 

私たちに試練が与えられている第二の理由は、私たちの信仰をためすためです。この7節にある「試練」(ギドキミオン)という言葉は、6節の「試練」(ギペライモス)という言葉とは違う言葉が使われていて、「試験済みの」とか、「検証済みの」「最善のもの」という意味です。ですから、新改訳聖書では7節の「試練」に※印が付いていて、下の欄外の説明を見ると、別訳、「純粋さ」とあるのです。

口語訳ではここを、「こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、」と訳しています。それはその信仰が火で精錬されても朽ちていく金よりも尊いものであることが明らかにされるためのテストであるという意味です。

また、新共同訳聖書でも、「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが表れるときには、称賛と光栄と誉れをもたらすのです。」つまり、これは信仰のテストなのです。

 

物事が順調に進んでいるとき、何でも自分の思うとおりにいっているとき、人はだれでも簡単に、「はい、信じます」と言えますが、迫害や試練、苦しみに会った時はそうではありません。自分が本当に拠り所にしているものは何か、自分が頼っているものは何かが試され、明らかにされるのです。そして、本当に神の愛を知りイエス・キリストを信じている人は、どんな試練が来てもキリストから離れることはありません。離れることがあったとしても、必ず悔い改めて神の愛に立ち返ります。神の愛があまりにも大きいので、神が与えてくださった栄光があまりにもすばらしいので、そこから離れたくないからです。

 

この手紙の読者たちは激しい迫害によって小アジヤに散らされ、寄留していた人たちですが、それでも彼らは信仰に堅く立ちました。迫害や試練は彼らから信仰を奪うことはできませんでした。彼らから救いの喜びを奪うことはできなかったのです。彼らの財産を奪うことはできたかもしれません。彼らの肉体を傷つけ、心も傷つけられたかもしれない。でも、彼らから救いの喜びを、永遠のいのちの希望を、キリストにある神の愛を奪うことはできませんでした。なぜなら、彼らは本物の信仰を持っていたからです。その試練によって、彼らの信仰が本物であることが証明されたのです。

 

このように信仰の試練は、私たちが何に信頼しているのかを明らかにします。何に信頼しているのか、何を信じて生きているのかを明らかにするのです。明らかにしたうえで、信仰の純粋性を保ち、やがて称賛と光栄と栄誉をもたらすのです。皆さんはどうでしょうか。皆さんは何を拠り所にしているでしょうか。信仰の試練はそれを明らかにしてくれます。

ですから、私たちはこのさまざまな試練の中で、しばらく間、悲しまなければなりませんが、ただ悲しむというだけでなく、このことを自分自身の中で問いながら、本物の信仰を持っていると明らかにされるように、私たちの信仰がもっと純粋にされていくことを求めていこうではありませんか。

 

Ⅲ.キリストへの愛(8-9)

 

第三のことは、信仰の結果です。そのような信仰の結果、たましいの救いを得ているとどうなるのでしょうか。イエス様を愛するようになります。8節と9節をご覧ください。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」

 

皆さんは、イエス・キリストを愛しているでしょうか。いまは見ていないけれども、やがて称賛と光栄と栄誉に至ると信じて、栄に満ちた喜びに踊っているでしょうか。「イエス様の時代に生きていた人はいいですよ、イエス様を実際に見て信じることができたでしょう、でも、いまはイエス様を見ることができないのだから、信じろと言われても無理ですよ、愛せよと言われても、難しいなぁ」と思ってはいませんか。しかし、イエス様を愛すること、イエス様を信じることは、イエス様を見たからとか、見ないからといったことと全く関係ありません。イエス様への愛と信仰、それに伴う大きな喜びは、キリストによって与えられた信仰、救いを受けることによって得られるものだからです。

 

それはペテロのことを考えてもわかります。彼はイエス様の一番弟子として、直接イエス様を見て、イエス様のことばを聞いて、イエス様に直に触れました。誰よりもイエス様を信じ、イエス様を愛していたはずなのです。しかし、実際はそうではありませんでした。彼はイエス様が言われたとおり、イエス様が捕らえられたとき、鶏が鳴く前に三度もイエス様を否定しました。「あんな人なんて知らない」と。見ても信じることができませんでした。それなのに、この手紙の受取人たちは、イエス様を一度も見たことがありませんでしたが、イエス様のことを聞いて信じ、心からイエス様を愛するようになりました。ですから、見たか、見ないかは関係ないのです。見なくても信じることができます。見なくても、愛することができるのです。イエス・キリストを信じて生ける望み、永遠のいのちを受けたことを知っている人は心から愛することができるのです。

 

わが国で最初のキリスト教 信仰を理由に処刑が行われたのは、1597年2月5日に長崎で行われた「二十六聖人の殉教者」です。豊臣秀吉は、当時のキリシタンたちは本気で主を愛し、主に従っていたのを見て恐れ、キリシタンを弾圧したのです。京都と大阪で捕らえられた24人に、道中加えられた2人の、合わせて26人が磔(はりつけ)にされました。その中にルドビコ茨木という12歳の少年がいましたが、歴史家のルイス・フロイスによると、彼は、1月3日、京都で左耳の一部を切り落とされ、見せしめのため、粗末な牛車に乗せられ、町中を引き廻されましたが、「天使のような顔で喜び溢れ、後手に縛られ、耳を剃がれた時も傷痕の痛みをこらえ、また、流れる血にも驚かず静かに純心に『天にまします、めでたし』とその他の祈りを唱えていた。」(「第8章」)とあります。

また、この少年が牢にいた時、身分のある一人が彼に近付き、もしキリシタンをやめれば釈放してやろうと勧めると、彼は『貴方こそキリシタンになるべきです。救いのためには道は他にはありません』と言ったというのです。

そして、刑場に到着すると、一行は、十字架を見て歓喜したと言います。ルドビコ少年は喜々朗々とし、自分の十字架がどこにあるのかと尋ねました。そこには子供の背丈に合わせて十字架が準備されていましたが、十字架を示されると情熱をもってそこに走り寄った、と言います(「第16章」)。

少年は「十字架につけられた時、意外な喜びを見せ、『パライソ(天国)、パライソ、イエズス、マリア』と言いながら、信者未信者を問わず人々を驚かせました。そのことで、彼の心には聖霊の恵みが宿っていることがよく表れていたのです(「第18章」)。

いったい彼はどうしてそんなに喜び踊っていたのでしょうか。それは、信仰の結果である、たましいの救いを得ていたからです。

 

昨年中国を訪問した時も、そのような方々がたくさんいました。K市から車で1時間ほど行ったN市にある家の教会の指導者R先生は、信仰のゆえに何度も公安に捕らえられた経験がありますが、どんなに捕らえられても祈りとみことばという二つの翼があれば、どこまでも高く飛んでいけますと、喜び踊っていました。

 

いったいどうして彼らはそこまでしてイエス様に従うことができるのでしょうか。それは、イエス様を愛しているからです。イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない栄に満ちた喜びに踊っているからです。

 

皆さんはどうですか。イエス様を愛していますか。イエス様を信じていますか。イエス様を信じて罪の赦しと永遠のいのち、生ける望みが与えられたこと、そして、やがて朽ちることのない資産を受け継ぐことを見て、喜んでおられるでしょうか。

 

主イエスは、復活後四十日間この地上にとどまりました。なぜとどまったのでしょうか。それは、ご自分がよみがえられたことを証するためであったことは確かですが、それだけでなく、そのことによって、弟子たちが生けるキリストを信じるようになるためでした。イエスが見えなくなっても、弟子たちとともにおられることを弟子たちに体験させる必要があったのです。見える信仰から見えない信仰です。見ずに信じるものは幸いです。私たちもイエスを見てはいなくても信じています。見てはいなくても、愛しています。そして、栄えに満ちた喜びに踊っています。それは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければなりませんが、信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることを信じて、心から主を愛し、主に従う者とさせていただきましょう。

 

Ⅰペテロ1章1~5節 「生ける望み」

きょうからペテロの手紙に入ります。この手紙は、イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していた、選ばれた人々、すなわちクリスチャンに宛てて書かれた手紙です。なぜペテロはこの手紙を書いたのかというと、この頃はローマ皇帝ネロによる迫害が激しく多くのクリスチャンが小アジヤの各地に散らされていましたが、そうしたクリスチャンを励まし、そのような迫害の中にあっても堅く信仰に立ことができるようにするためです。いったいどうしたら試練の中にあっても信仰に堅く立ち続けることができるのでしょうか。それは、神が与えてくださった生ける望みに目を留めることによってです。

 

Ⅰ.生ける望み(3)

 

まず、3節をご覧ください。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」

 

1,2節のところであいさつを書き送ったペテロは、この手紙の本文の冒頭のところで、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。」と神をほめたたえています。なぜでしょうか。その第一の理由は、神は私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださったからです。

 

私たちの人生において望みがいかに重要であるかは誰もが知っていること

です。望みがなかったら生きていくことができません。人は望みによって生き、望みによって力を得、望みによって働いています。しかし、望みにもいろいろあります。ある人にとってそれはお金であったり、あるいは財産であったり、権力であったり、家族であったりします。しかし、それが神によるものでなければ、結局のところ、失望してしまうことになります。なぜなら、1章24節に、「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る」とあるように、人の運命はこのようなものだからです。それはあってないようなもの、いつまでも続くものではありません。ほんの少しの間あるように見えても、すぐに消えて無くなってしまうものなのです。ですから、このようなものに望みを置くならば、失望に終わることになってしまうのです。それはちょうど目隠しをしながら淵に向かって歩いているようなものです。しかし、神が与えたもう望みは、そのようなものではありません。神が与えたもう望みは生ける望みです。それは死んだ望みではなく、私たちにいのちを与える望みなのです。神はこの望みを持つようにしてくださいました。

 

いったいどのようにして神はこの生ける望みを持つようにしてくださったのでしょうか。ここには、そのために神がしてくださった三つのことが記されてあります。第一に、神はご自分の大きなあわれみによって、罪人である私を救ってくださったということです。「あわれみ」と何でしょうか。「あわれみ」とは、滅ぼされても当然の者が滅びないですむことを言います。私たちは罪の中に死んでいて、神の裁きを受けるのは当然の身でありながら、神の大きなあわれみのゆえに、救っていただきました。エペソ人への手紙2章4~5節には、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・」とあります。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。

 

アメリカでも日本でも有名な、AAという団体があります。アルコール依存症の人を助けるために作られた団体です(Alcoholics Anonimous,1935年創立)。この頭文字を取ってAAと名付けられました。創設者の男性はビルという男性で、彼自身がアルコール依存症でした。  彼は、絶望の底を歩いて、どうしてもアルコール依存から抜け出せない。依存から抜け出せない自分に絶望します。苦しんで、悩み続けて疲れ果ててしまったある日、自分の持っていた時計が壊れてしまうんですね。それはスイス製の高級時計で、自動巻きでした。日付が付いていて、防水加工。当時のあらゆる機能を持った複雑な時計で、修理してもらうために、アメリカの時計屋さんへ持って行きました。

数日後、彼は、その時計を受け取りに出向いていきますと、時計屋の主人が時計を手渡してこう言いました。

「ビル。君のこの時計は、大変複雑で精巧な品物だ。残念ながら、この時計はうちで直すことはできない。アメリカのどの時計屋に持って行っても、これは直せないよ。これを直す唯一の方法があるとすれば、製造元へ送り返すことだな。つまり、造った人なら、どうやって直すか分かるだろう」  そこで彼はその直せなかった時計をポケットに入れて店を出ます。歩きながら、店の主人の言葉が、自分の人生そのものだということに気が付きました。 「残念ながらこの時計はうちでは直せない。直すとしたら、製造元に送り返す以外にはない」それはまさに自分の人生だと感じ取った彼は、教会の門を叩くのです。  アルコール依存症という問題を解決するためではなく、自分はそもそも神さまによって創造されたにもかかわらず、どこかで神さまから外れて生きている自分の果てに、こういう問題が存在するのだということに彼は気が付いて、キリストを信じ、洗礼を受けて神の子どもとされるのです。それによって、ビルは生まれ変わりました。  ペテロは、それを神さまの「大きなあわれみのゆえに」と、言っています。神さまの大きな憐れみのゆえに、その言葉は、本当にペテロだけでなく、私たちもよくわかります。神さまが私という人間に、どういう計画をもっておられたのかはわかりませんが、でも、私の中に小さな信仰の種を植え付け、育ててくださり、この人物はその小さな種に応じる素直な信仰があるに違いないと、神さまがご覧になって、私を選び、私を神さまによって生まれ変わらせてくださったのです。であるとすれば、それは自分の発想や自分の努力ではなくして、神さまの大きな憐れみ以外の何ものでもないのです。

 

第二に、神は、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。生ける望みは、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによってもたらされたものです。どういうことでしょうか。確かにイエス様が私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださったという御業は大きな恵みですが、もしキリストが死んだだけであったとしたらどうでしょう。私たちは悲しみの中に沈んでいなければならなかったでしょう。死んでしまえばすべてが終わってしまうわけですから・・。しかし、神はその全能の力をもって、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。ここに希望があります。もし、私たちのいのちが無くなってしまったらどうなりますか。本当に空しくなってしまいます。結局のところ、この死の前には何の成す術もないわけですから。人類のすべてが死に飲み込まれてしまうのです。そして、この死に対しては、誰ひとり勝利した人はいません。だから、人々は死を必然的なものとして受け入れるしかないのです。仏教では死とは、決して避けられないものであり、諦めるしかないものだと説きます。しかし、キリスト教ではそのようには教えていません。キリストは死に勝利して、よみがえられました。死は決して終わりではないのです。最後に復活があります。このような来世観を持つ者にとっては、失望とか絶望はありません。人生でどんなことがあっても、どんな死に方をしたとしても、最後は復活があるのです。「終わりよければ、すべて良し」です。

 

フジテレビのトップニュース・キャスターだった、山川千秋さんは、突然のように、のどのがんのため亡くなりました。録画中のことでした。突然、声が消えました。精密検査の結果は、のどのがんでした。医者は、奥さんを呼んで、がんであることを告げました。すると奥さんは、ガツンと頭を叩かれたような衝撃を受け、突然、目の前が真っ暗になり、全身の力も抜けて、体がこなごなに打ち砕かれたような感じでした。それでもクリスチャンであった奥様は、そのことを聖アンナ病院に入院していた夫に告げました。この時山川氏、55歳でした。子どもたちは中学生と小学生でした。面会の時間の終わりが告げられるまで、一言の会話もなく、二人は重い沈黙の中に座っていました。ただ涙だけが、とめどもなくあふれて、落ちました。

それから、山川さんは悩むだけ悩み、苦しむだけ苦しみ、奥さんが通う教会の牧師を訪ねました。

「先生、私は死の準備がありません。どうか、私を救ってください。」

そのようにして山川さんは、イエス・キリストの十字架による罪のゆるしと、復活による永遠のいのちの救いを信じ、病床で洗礼を受けました。そのあと、あっという間に召されていきました。奥さんにあてた遺書には次のように書かれてありました。

「きよ子よ。私の妻になってくれて十数年、地上では短かったと、すまなく思います。しかし、私はほんとうにしあわせでした。私はあなたによって、二度、生まれ変わりました。この世にも、ほんとうの夫婦愛があることを、あなたは教えてくれた。私は、あなたにめぐり会えたことで、あなたに感謝します。このように計画された神に感謝します。私に、主に対する信仰をうえつけてくれたことで、あなたに感謝します。このように計画された主に、感謝します。

・・・・・

私は愛の中に生き、今、愛の中に死にます。そして、今、主の愛の中に新しく生き、あなたを待ちましょう。

ありがとう。再び、心からありがとう。二人の息子を残されて、これからのあなたの人生は、決して平たんではないことを知って、つらい思いでいますが、道は必ず開けます。二人の息子を信じ、たくましく生きてください。あなたなら、かならず、やっていけます。何よりも、あなたがた三人には、主イエス・キリストの衣があるではありませんか。」

55歳にして、突然、死を突き付けられるとき、ふつうなら、神をのろい、人生をのろい、運命をのろって、絶望と恐れを叫んでもおかしくないのに、山川さんの遺書には、感謝と励ましと愛にあふれています。希望の輝きがあります。それは、死は終わりではない、永遠のいのちのはじまりであるという希望から生まれてくるのではないでしょうか。

 

それだけではありません。イエス・キリストの復活は初穂であり、キリストを信じる者も、やがて同じように復活するという希望があります。やがて私たちもキリストが復活したようによみがえるのです。これが、私たちにとっての究極的な希望なのです。

 

第三のことは、神さまは私たちを新しく生まれさせて、この生ける望みを持つようにしてくださいました。キリスト教では死んでから生まれ変わるのではありません。生きているうちに新しく生まれ変わります。ヨハネの福音書3章には、イエス様とニコデモとの問答が記されてあります。その中でイエス様は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われました。老年になっていたニコデモはびっくりして、「人は老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」と言うと、イエス様はこう言われました。

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)

ニコデモは、新しく生まれるということがどういうことなのかよくわかりませんでした。しかし、やがてその会話を通して、それが神の御霊によって生まれることであることを知りました。人はお母さんのお腹から生まれることで肉体的な命を持ちますが、この命だけでは神の国を見ることはできません。神の国を見るためには、神の国で永遠に生きるためには、神のいのちを持たなければなりません。それは聖霊によって救い主イエス様を信じて心に受け入れ、新しく生まれることによって持つことができるのです。

 

あなたはこのいのちを持っておられるでしょうか。神はイエス・キリストを通して、私たちを新しく生まれさせ、この望み、生ける望みを持つようにしてくださいました。この望みこそ私たちに困難に耐える力を与え、どのような状況の中にあっても代わることのない希望です。パウロはこの希望について、ローマ人への手紙の中でこのように言っています。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)

失望に終わることのない希望、これが本当の希望です。この希望は、泥水をかき回すと茶褐色の濁った水になってもやがてきれいな水を湧き上がらせる泉のように、どんな試練の中にあっても、生ける望みを湧き上がらせることができるのです。

 

Ⅱ.朽ちることも汚れることもない資産(4)

 

そればかりではありません。4節をご覧ください。ここには、「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」とあります。

 

当時、財産を代表するものが三つありました。それは食べ物であり、着物であり、また金銀です。食べ物とは大麦とか小麦といった穀物のことですが、どんなにそれらを蓄えてもそれはやがて腐ってしまいます。またどんなに立派で高価な着物でも、虫に食われます。また金銀も泥棒に盗まれたり、錆が付いて使い物にならなくなってしまいます。ヤコブ書には、この錆びがあなたがたを訴えるとありましたね。この世のものはどんなに立派でも、やがて朽ちてしまい、消えて無くなってしまいます。この教会の建物も、建てたばかりの頃はピカピカに光っていましたが、あれから13年経った今では、あちこち補修が必要になってきました。形あるものはやがて消えて行くのです。そのようなものに望みを置いて生きることがどんなに空しいことかがわかると思います。

 

しかし、天にたくわえられてある資産は違います。天にたくわえられてある資産は、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産です。私たちはやがてそのような資産を受け継ぐのです。

 

これは、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、ビテニヤといった小アジヤに散って寄留していた人たちに宛てて書かれました。彼らは、間違いなく迫害の中にありました。彼らは地上の家や財産が奪われ、生活にも事欠くような状態だったでしょう。そんな彼らに宛ててペテロは、この地上の財産は消えてなくなるけれども、あなたがたに与えられている財産は決してなくならないもので、天にたくわえられている財産であることを示して、このすばらしい資産に目を留めるようにと言って励ましたのです。

 

この世界には喜びが沢山あります。幸せなことも沢山あります。それはそれですばらしいものですが、でも、それと、天国にたくわえられている資産、私たちが最終的に受け継ぐ資産とでは全く比べものになりません。それは次元が全く違う、栄光に満ちた資産なのです。このような資産を受け継ぐ者とされたのです。

 

Ⅲ.神の守り(5)

 

そればかりではありません。5節には、終わりのときに用意されている救いをいただくことができるように、それまでの間神がずっと守っていてくださると約束しておられます。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」

 

「終わりのとき」とはいつのことでしょうか?これが、Ⅰペテロの主題でもあります。「終わりのとき」とは、イエス様が再び来られる日のことです。これを神学的には、「再臨」と言います。クリスマスは「初臨」と言って、イエス様が人類を贖うために人となって来られました。その御姿があまりにも謙遜だったので、ほとんどの人がイエス様を神さまだとは認めませんでした。しかし、世の終わりに来られるイエス様は全く違います。ヨハネは黙示録の中で、「その頭と髪の毛は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙示録1:14-16)と記しています。それは裁き主としてのイエス様のお姿です。ヨハネは幻の中でそのイエス様の姿を見て、足もとに倒れ、死人のようになりました。それだけ、権威があって恐ろしかったということです。そうです。再臨のイエス様はこの世を裁くために来られるのです。世の終わりは、患難の時代であり、星が天から落ち、月も太陽も光を失います。疫病とか迫害で、多くの人が苦しさのあまり死のうとしても、死の方が逃げていくという恐ろしい時代です。そして、そのような時代が近づいていることを感じます。北朝鮮との戦争が起これば核戦争に発展するかもしれません。地震や津波による災害、原発事故など、人類はこれまでにない危険な時代を迎えているのです。まさに一寸先は闇です。

 

けれども、神に信頼し、イエス・キリストによって救われた者にとってはそれでも望みがあります。なぜなら、「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られて」いるからです。

 

ここの「守られている」という言葉は、戦争において、町の中にある要塞で守られている、という意味があります。どんなに敵からの激しい砲撃があっても守られている、ということです。そして、それはまず、「信仰」によって守られています。信仰は、非常に重要な要素です。天における資産も、新たに生まれたことも、イエス・キリストの死者からの復活も、みな信仰によって、もたらされました。神のみことばへの信仰がなければ、すべてが崩壊してしまいます。けれども、それだけではありません。ここには、「神の御力」によって守られているともあります。自分の信心深さによって、天にある資産を守っているのではなく、神の御力によって、私たちの信仰が保たれ、健全でいることができるのです。

 

イエス様は、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と言われました。私たちも、小アジヤの小さな教会に散って寄留して生きているような者ですが、そんな私たちにも同じように御声をかけてくださり、どんな試練や困難の中にあっても希望をもって歩んでいけるようにと励ましていてくださいます。この主の励ましの御声を聞いて、確かに私たちにも困難はありますが、そこにある大いなる救い、永遠のいのちの喜びと感謝、決して朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにされたということを信じ、希望をもって日々歩ませていただきたいと思います。

ヨシュア記2章

きょうはヨシュア記2章から学びたいと思います。

 

 Ⅰ.遊女ラハブ(1-14

 

 まず1節から7節までをご覧ください。

「ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家にはいり、そこに泊まった。エリコの王に、「今、イスラエル人のある者たちが、今夜この地を探るために、はいって来ました。」と告げる者があったので、エリコの王はラハブのところに人をやって言った。「あなたのところに来て、あなたの家にはいった者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてを探るために来たのだから。」ところが、この女はそのふたりの人をかくまって、こう言った。「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。その人たちがどこへ行ったのか存じません。急いで彼らのあとを追ってごらんなさい。追いつけるでしょう。」彼女はふたりを屋上に連れて行き、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に隠していたのである。彼らはその人たちのあとを追って、ヨルダン川の道を渡し場へ向かった。彼らがあとを追って出て行くと、門はすぐ閉じられた。」

 

「「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの紙、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)との主のみことばに励まされてヨシュアは、主が彼らに与えて所有させようとしている地を占領するために出て行きます。ヨシュアはまずシティムという所からふたりの者を斥候として遣わしてエリコを偵察させました。すると、彼らはラハブという名の遊女の家に入りそこに泊まりました。いったいなぜ彼らはラハブの家に入ったのでしょうか。おそらく、彼らがエリコの町に入ったということが発覚したため追いかけられて必至に逃げた先がこのラハブの家だったのでしょう。あるいは、そこならば彼らが入って行っても怪しまれないと思ったのかもしれません。

 

2節と3節を見ると、エリコの王に、「今、イスラエル人のある者たちが、この地を探るために、入ってきました」と告げる者があったので、エリコの王はラハブのところに人をやってこう言わせました。「あなたのところに来て、あなたの家に入った者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてをさぐるために来たのだから。」

すると、ラハブはそのふたりの人をかくまって、こう言いました。「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。その人たちがどこへ行ったのか存じません。急いで彼らのあとを追ってごらんなさい。追いつけるでしょう。」ラハブはなぜこのような嘘までついて彼らをかくまったのでしょうか。それは彼女がイスラエルの民について聞いていたからです。8節から14節までをご覧ください。

「ふたりの人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところに上って来て、その人たちに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。その人たちは、彼女に言った。「あなたがたが、私たちのこのことをしゃべらなければ、私たちはいのちにかけて誓おう。主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実と誠実を尽くそう。」

 

9節で彼女は、「私は知っています」、10節でも、「私たちは聞いているからです」と言っています。彼女が知っていたこと、聞いていたことはどんなことだったのでしょうか。それは、イスラエルの民がエジプトから出てきたとき、主が葦の海の水をからされるといった偉大な御業をなされたことや、エモリ人のふたりの王シホンとオグを打ち破ったことや、パレスチナの地を次々と制覇してきているということです。彼女はそれらのことを聞いたとき、このイスラエルの民の背後には偉大な神が共におられ、行く手を切り拓いておられるのだと直感したのです。そして、このイスラエルの民の信じる主(ヤハウェ)こそまことの神であり、この神に信頼するなら間違いないと信じたのです。9節から12節までのところには「主」という言葉が四回出ていますが、これはヘブル語で「ヤハウェ」となっています。すなわち、彼女はここで「ヤハウェ」という主の御名を呼ぶことによって、自分の信仰を告白しているのです。それゆえに彼女は、遊女という身分でありながらも、この信仰のゆえに救いを受けることができたのです。ここに大きな慰めを受けます。私たちが救われるのは、私たちが善人だからではなく、イエス・キリストを信じる信仰によるのです。この「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

それは私たちも同じです。私たちもこのラハブと同じように汚れた者であり、不道徳な者であるにもかかわらず、主の御名を呼び求めることによって、主イエスを救い主と信じて受け入れたことによって価なしに義と認められたのです。

 

Ⅱ.赤いひも(15-20

 

次に、15節から20節までをご覧ください。

「そこで、ラハブは綱で彼らを窓からつり降ろした。彼女の家は城壁の中に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいたからである。彼女は彼らに言った。「追っ手に出会わないように、あなたがたは山地のほうへ行き、追っ手が引き返すまで三日間、そこで身を隠していてください。それから帰って行かれたらよいでしょう。」その人たちは彼女に言った。「あなたが私たちに誓わせたこのあなたの誓いから、私たちは解かれる。私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。だが、もしあなたが私たちのこのことをしゃべるなら、あなたが私たちに誓わせたあなたの誓いから私たちは解かれる。」ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ。」

 

ラハブが、「私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、誓ってください。そして、私に確かな証拠をください。」(12というと、彼らは、「私たちのことをしゃべらなければ、主が自分たちにこの地を与えてくださるとき、彼女に真実と誠実を尽くそう」(14と約束しました。そのしるしこそ赤いひもです。ラハブが彼らを綱でつり降ろした窓に赤いひもを結びつけておき、その家に彼女の父と母、兄弟、また、父の家族を全部、集めておかなければならないというのです。そうすれば、彼らがエリコを占領した時に、そのしるしを見て、その家だけは滅ぼさないというのです。

 

かつて、これに似たような出来事がありました。そうです、過越の祭りです。出エジプト記1213節には、イスラエルがエジプトから出て行くとき、神はエジプトの初子という初子をみな滅ぼすと言われました。ただ家の門柱とかもいに小羊の血が塗られた家は神のさばきが過ぎ越していき、災いから免れたのです。ですから、この赤いひもは、過越しの小羊の血を表していたのです。それはまたイエス・キリストの贖いの血潮の象徴でもありました。ラハブは遊女という職業でしたが、この小羊の血によって救われたのです。私たちを神のさばきから救うのは、この小羊の血を信じる信仰によるのです。私たちがどのようなものであるかは、問われません。ただキリストの血を信じ、その血が塗られているかどうかが問われるのです。

 

ヘブル人への手紙1131節に、このラハブの信仰について次のように記されてあります。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」

すなわち、ラハブは信仰によって生きたのです。それゆえに彼女は遊女でありながらも、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れることができました。神のさばきから免れる唯一の道は、赤いひもを結び付けること、すなわち、神の小羊であられキリストの贖いを信じることなのです。

 

ここに、クリスチャンとはどのような者をいうのか、その姿が描かれています。それは、高潔な人であるとか、立派な人、教養のある人、美徳に満ちた人のことではありません。クリスチャンというのは、ただ信仰によって神の恵みと救いを受けている人のことなのです。

 

でもちょっと待ってください。新約聖書にはこのラハブのことについてもう一か所に引用されていて、そこには彼女が行いによって救われたと言われています。ヤコブの手紙225節です。「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。」

ここでは特に、人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないということの例として取り上げられているのです。いったいこれはどういうことでしょうか。これはちょうど今礼拝でヤコブの手紙を取り上げており、その中でもお話ししたように、彼女がその行いによって義と認められたということではなく、彼女は生きた、本当の信仰があったので、自分の命の危険を冒してもイスラエルの使者たちを招き入れ、招き入れただけでなく、別の道から送り出すことができたのです。その信仰にこうした行いが伴っていたということなのです。本物の信仰にはこうした行いが伴うのです。

 

つまり、私たちは神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるのです。そこには、その人がどんな人であるかとか、どんな仕事をしていたかとか、どんな性格の人か、どんなことをした人なのかといったことは全く関係ありません。ただ神の恵みの賜物であるイエスを、救い主として信じて受け入れたかどうかということだけが問われるのです。もしイエス様を信じるなら、たとえ彼女のように「遊女」という不名誉な肩書であっても、たとえ異邦人として神から遠く離れていた人であっても、だれでも救われ、神の祝福を受け継ぐ者とさせていただくことができるのです。そして、そのように救い主につながった本物の信仰には、そうした行いが伴ってくるのであって、その逆ではないのです。

 

Ⅲ.ラハブの信仰(21-24

 

さて、二人の斥候からそのような提示をされたラハブは、どのように応答したでしょうか。21節から終わりまでをご覧ください。

「ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ。彼らは去って山地のほうへ行き、追っ手が引き返すまで三日間、そこにとどまった。追っ手は彼らを道中くまなく捜したが、見つけることができなかった。ふたりの人は、帰途につき、山を下り、川を渡り、ヌンの子ヨシュアのところに来て、その身に起こったことを、ことごとく話した。それから、ヨシュアにこう言った。「主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました。そればかりか、あの地の住民はみな、私たちのことで震えおののいています。」

 

ラハブは、二人のことばに対して、「おことばどおりにいたしましょう。」と答えました。これは簡単なことのようですが難しいことです。皆さんがそのように言われたらラハブのように答えたでしょうか。そんなことしていったい何になるというのか、もっと他にすることはないのですか、たとえば、地下に隠れ家を作ってそこに隠れるとか、ありったけのお金を出して命拾いするとか、そういうことならわかりますが、つり降ろした窓に赤いひとを結ぶなんてそんな簡単なことではだめなのではありませんか、と言いたくなります。でも救いは単純です。救いはただ神が仰せになられたことに対して、「おことばどおりにします」と応答することです。よく聖書を学んでおられる方が、「私はまだバプテスマを受けられません」というような方がおられます。「どうしてですか」と聞くと、「まだ聖書を全部学んでいないからです、せめて新約聖書の半分くらいは読まないとだめでしょう」と言います。確かに聖書を学ぶことは大切ですが、全部学ばないと救われないということではありません。聖書が指し示しているイエス様が救い主であり、私たちのために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたということを信じるなら救われるのです。

 

ラハブのように応答した人が、聖書の他の箇所にも見られます。イエスの母マリヤです。彼女も主の使いから、「あなたはみごもって男の子を産みます」と告げられたとき、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と答えますが、それが神の聖霊によるとわかると、「どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」と言って、神のみことばを受け入れました。神の救いは自分の頭では理解できないことでも、神が言われることをそのまま受け入れることから始まります。そのような人は神から大いなる祝福を受けるようになるのです。

 

それはマリヤもそうですが、このラハブもイエス・キリストの系図の中に記されていることからもわかります。マタイの1章を見ると名誉なことに、イエス・キリストの系図の中に、彼女の名が連ねられていることがわかります(5節)。異邦人でありながら、しかも遊女という肩書にもかかわらず、神の恵みに信仰をもって応答したことによって、彼女は救い主の系図の中に組み込まれるまでに祝福されたのです。私たちも神の恵みを受けるにはあまりにも汚れた者ですが、主の恵みに信頼して、神の救いイエス・キリストを信じて受け入れ、この方と深く結びつけられることによって、神の恵みを受ける者とさせていただきましょう。

ヤコブ5章13~20節 「祈りの力」

きょうは、ヤコブの手紙の最後の箇所から、「祈りの力」と題してメッセージを取り次ぎたいと思います。

ヤコブは、前回のところで、苦難と忍耐について語りました。クリスチャンは世にあっては患難がありますが、主が来られる日が近いということを覚えて、忍耐するようにと勧めました。

今回のところには、そのように苦しみを耐え忍んで主の来臨を待ち望むにあたり、クリスチャンがしなければならないことは何かを教えています。それは祈りです。ここには「祈りなさい」という言葉が何度も繰り返して強調されています。私たちは、祈りを通して神に、私たちの苦しみを知っていただくのです。その時、神はその苦しみから私たちを引き上げてくださいます。きょうはこの祈りについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.祈りなさい(13)

 

まず13節をご覧ください。

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」

 

苦しんでいる人がいたら祈りなさい。喜んでいる人がいたら賛美しなさい。実にシンプルで分かりやすい勧めです。いったいなぜこのようなことを勧めているのでしょうか。頭ではわかっているようでも、実際には忘れているからです。私たちは苦しみに会うとパニックになり、泣いたり、騒いだり、落ち込んだり、つぶやいたりしますが、祈りません。また逆にうれしいことがあるとそのことを喜びますが、神に感謝したり、賛美したりしないのです。あたかもそれを自分の手で成し遂げたかのように思い込み、「オレもまんざらじゃないな」とうぬぼれてみたり、「こうしたからうまくいったんだ」と、むなしい誇りを抱いたりするのです。

ここでヤコブは、主の再臨を待ち望むクリスチャンは、逆境の中で苦しんでいる時も、順境の中で喜んでいる時にも、いつも神に祈るようにというのです。なぜなら、祈りは神に向かってなされるものだからです。「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ5:19)これが主の来臨を待ち望む者の姿なのです。

 

イエス様が祈っておられる姿を見て思わず引きつけられた弟子たちは、ある時イエス様に、「祈ることを教えてください」と言いました。このときイエスが教えてくださったのが、「主の祈り」です。その祈りは、「天にいます私たちの父よ」(マタイ6:9)という呼びかけで始まります。なぜでしょうか。祈りがこのように呼びかけから始まるということは、そこに神がおられることを前提にしているからです。私たちがどんな時でも祈らなければならない理由はそこにあります。それは神との会話であり、神への信仰そのものなのです。

 

皆さん、人はいったいなぜ祈るのでしょうか。太古の昔から、人はあれ狂う自然の驚異や疫病の猛威におびえ、ただひたすら祈り続けてきました。そして、科学や医学が発達し多くの不安を克服してきた今日でも、その祈りをやめようとしないのはどうしてなのでしょうか。それは人の心の奥底にこうした神への思いがあるからです。

 

ある教会の門のところに1通の手紙が届いたそうです。きちんとした鉛筆の字で、女の子らしい便箋に、こう書いてありました。「神様へ。わたしは受験生です。来週の日曜日から、高校入試がはじまります。いままで、わたしなりに高校に合格できるように勉強してきました。でも、合格できるか心配です。だから毎晩、『合格しますように』とお祈りしています。でも、わたしなんかの願いを神様が聞いてくださっているのかわからないので、教会にわたしの願いを持ってきました。」  そして、2つの高校の名前と受験日があって、最後に、「どの日も、わたしの持っている力をすべて出し切れますように」と書かれてありました。  それで、その教会では祈祷会でその手紙を紹介し、みんなで名前の知らないこの女の子のために祈りました。

私は、この女の子の手紙の中に、人間に共通する訴えのようなものを感じます。「わたしなりに勉強してきました・・・でも不安です」。私たちの「私なりに」が、人生の解決にはならないのです。最善を尽くしてもそこになおも不安は残り、なおも空しさが残り、もどうにもならない問題が山のようにあるのです。だから、人は祈るのです。

 

それからもう一つ、「果たして、私なんかの願いを、神さまが聞いてくださっているのかわからない・・」ということですが、おそらく人間は、いつもそう思ってきたのではないでしょうか。ですから、イエスさまが祈っておられる姿に、弟子たちは思わず引きつけられて、「主よ。祈ることを教えてください」と言ったのではないでしょうか。

 

幸い私たちは、聖書を通してこの神様がどのような方であるかを知りました。神様は天地を造られた創造主であり、罪によって神から離れた私たちのために救い主イエス・キリストを遣わしてくだった方であり、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださり、罪を贖ってくださいました。それゆえに、この救い主を信じる者を義と認めてくださり、ご自身の子としてくださると約束してくださいました。神様が父であるということは、私たちにとって何が最善であるのかを知っておられるということであり、私たちはこの神様に信頼して祈ることができるということなのです。それがこの「天にいます私たちの父よ」という呼びかけなのです。

 

私たちはもともと神に向かって祈る者であるはずなのに、どのように祈ったらいいかわからないと、いつしか祈ることを止めてしまいました。そうではなく、天にいます私たちの父よと、もっと単純に、もっと純粋に、天に神に向かって祈らなければなりません。こんなことを祈ったら変じゃないかな、これはご利益の祈りに違いない、こんな祈りを神さまが聞いてくださるはずがないという前に、これらすべてをひっくるめて神に向かわなければならないのです。それが祈りなのです。神様は、私たちがどのように祈るかということよりも、私たちにとって神様がどのような存在であるのかを知り、神様ご自身を求めることを願っておられるのです。ですから、私たちは「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しな」(エペソ5:19)ければなりません。苦しんでいる人がいれば、その人は祈ってください。喜んでいる人がいるなら、その人は賛美してください。私たちはいつでも、すべてのことについて、主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する者でありたいと思います。

 

Ⅱ.祈りの力(14-18)

 

第二のことは、信仰による祈りには力があるということです。14節から18節までをご覧ください。

「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」

 

ヤコブは祈りについて話を続けます。「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。」

 

初代教会は、苦しみのために祈り、またあらゆる時に感謝する教会でしたが、それと共に病気のために祈る教会でした。ユダヤ人は、病気になると医者の所へ行くよりも、教会の指導者のもとへ行きました。すると指導者はオリーブ油を塗って祈ったのです。このように初代教会は病気の人のために祈り、神の力をあかししたのです。

 

現代の教会はどうでしょうか。だれかが病気になったら、どれだけの人が教会の指導者たちのところへ行って祈ってもらうでしょう。教会で祈ってもらうよりも、どの病院に行ったらいいかを調べ、あたかも医者が神様であるかのように思い込んでいるところがあります。しかし、どんなに時代が進歩しても、私たちはまず神様が病気を癒してくださるように求めて祈らなければなりません。それは、病院に行ってはならないということではなく、たとえ病院で治療するにしても、それさえも神の恵みと導きによるものと信じて、感謝しなければならないのです。

 

ここには、病気のために祈ってもらうことについて、四つのことが勧められています。

第一に、あなたがたのうちに病気の人がいたら、その人は、教会の長老たちを招き、とあるように、まず招かなければならないということです。どういうことでしょうか。イエス様が病気の人をいやされた時、その多くの場合、彼らがイエス様のところに来て、いやしを求めました。ベテスダの池で38年間も病気で伏せていた人のように、イエス様の方から近づかれたというケースもありますが、その場合でもイエス様は彼に、「よくなりたいか」と尋ねられ、その人から「よくなりたい」という気持ちを引き出されました。つまり、この病気の人のための祈りは、その人の中に神様にいやしていただきたいという強い願いがあって、初めて成り立つということです。イエス様は、「求めなさい。そうすれば、与えられます。捜しなさい。そうすれば、見つかります。たたきなさい。そうすれば、開かれます。」(マタイ7:7)と言われましたが、病気のいやしのために、神に求めなければなりません。

 

第二のことは、ここに「長老たちを招き」とあるように、いやしのために祈ってもらう時には複数の長老たちに祈ってもらう必要があるということです。なぜでしょうか。それはいやしてくださるのは神様であって、長老たちではないからです。とかく私たちはいやしてくださる方よりも、いやしのために祈る人をあがめてしまう傾向がありますが、そのようにして神の栄光を奪う罪を犯すことがないように注意すべきです。

 

第三のことは、主の御名によって祈ることです。ここに、「主の御名によって・・祈ってもらいなさい」とあります。主の御名によって祈るとは、主ご自身がいやしてくださることを信じて祈ることです。主の御名には力があります。それは、この天と地を造られた創造主の御名であり、罪の中から人々を救い出すことができる救い主の御名なのです。

 

第四のことは、オリーブ油を塗って祈ってもらうということです。オリーブ油を塗っていやしてもらうとはどういうことでしょうか。オリーブ油に何か特別な力があるというわけではありません。確かに、旧約時代にはオリーブ油が病の治療にも使われていました。しかし、それはオリーブ油に何か特別ないやしをもたらす成分が含まれているということではなく、このオリーブ油が、ある特別な意味を表していたからなのです。それは何かというと、神の臨在です。ゼカリヤ書4章には神殿の燭台についての幻が記されてありますが、その燭台の油とは神の御霊の象徴でした。したがって、オリーブ油を塗って祈るとは、神の御霊がいやしてくださると信じて祈ることを表わしています。このようにオリーブ油を塗って祈ることで、主ご自身がいやしてくださると信じて祈るところに、主の御力が現されるのです。

 

それは言い換えるなら、「信仰による祈り」と言えます。このような信仰による祈りは、病む人を回復させます。そして、主はその人を立たせてくださいます。ですから、あなたがたのうちに病気の人がいるなら、その人は教会の長老たちを招き、オリーブ油を塗って祈ってもらわなければなりません。信仰による祈りは、病む人を回復させるからです。

 

さらに、ここには、「もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」とあります。病気のいやしの祈りのところで、どうして急に罪の話が挿入されているのでしょうか。それは、当時のユダヤ人は、病気は罪の結果であると考えていたからです。今日私たちは、必ずしも病気が罪の結果であるとは考えていません。しかし、病気と罪とが関わりを持っている場合があることは確かなことです。何らかの罪を犯しているために、それが肉体的な病となって現われるときがあるのです。たとえば、だれかが人を恨んだり憎んだりしているとそれが精神的な病となって現われ、さらに肉体的にも影響を及ぼすことがあります。そういう意味で、神との正しい関係は人間の存在と生活のあらゆる部分で健康を保つうえで重要な要素であることがわかります。

 

もちろんすべての病が罪に起因しているわけではありません。イエス様が、生まれつきの盲人をごらんになられて、彼がそうなったのはその人の罪のためでもなく、両親の罪でもなく、神の栄光が現われるためだ、と言われましたが、そのような病もあるのです。またアダムが罪を犯した結果、土地は呪われたものとなり、だれも病気から免れることはできないばかりか、最終的にはみな死ななければならなくなりました。そういう意味では、こうした病も含め、すべての不幸の原因は、この罪に由来していることがわかります。

 

それゆえ、私たちは、互いに罪を言い表し、互いのために祈らなければなりません。いやされるためです。ただ、ここにある「互いに罪を言い表す」というのは、互いに罪を告白し合うことではありません。罪を告白するのは、神に対してなされるものであって、人に対してなされるものではないからです。ですから、この「互いに罪を言い表す」というのは、自分の過ちを言い表して、と言い換えることができます。私たちはとかく、クリスチャン同士が集まると、自分の弱さを語りたがらないものです。今、こういった悩みがある、こういった苦しみがある、だから祈ってほしい、と言いにくいのです。いつもきちんとしていなければいけない、いつも模範的でなければいけないと思い込んで、気が張っているわけです。けれども、教会はそういうところではありません。何でも言っていいところだとは思いませんが、少なくても自分の弱さを分かち合い、互いのために祈り合い、主からのいやし受ける場なのです。肉体的な病も同じように、私たちは教会において祈ってもらい、そしていやしを受けます。あるいは自分の霊的な病についても祈ってもらったら、肉体の病もいやされる、という場合もあります。いずれにしても、互いに分かち合い、互いに祈り合い、互いにいたわり合って、主のいやしを受ける場なのです。なぜなら、義人の祈りは働くと大きな力があるからです。祈りは神の全能を人々にもたらす、神の無限の力なのです。その無限の神の力が、教会にあふれているのです。

 

ヤコブはここで、その祈りの模範としてエリヤという人物を例に取り上げています。エリヤについては、旧約聖書のⅠ列王記17,18章にあります。当時のイスラエルの王で邪悪な王であったアハブ王と王妃イゼベルが、イスラエルの民を真の神ではなく、偶像礼拝に導いたため、エリヤは雨が降らないように祈ると、神は刑罰として3年6カ月の間、地に雨が降らせませんでした。そして、今度は再び雨が降るようにと祈ると、神はエリヤの祈りに答えて雨を降らせ、地は再びその実を実らせたのです。

 

ここで重要なのは、エリヤは「私たちの同じような人でしたが」という点です。彼は超人ではありませんでした。私たちと同じような普通の人でした。私たちと同じように感情の面で弱さがあり、肉体的にも弱さも持っていた普通の人だったのです。実に彼はうつになり、落ち込んで、自殺願望まで抱いた人です。けれども、そんな彼でも祈ったら、雨が降らないようにすることができました。そして、降らないだけではなく、また降らせることもできました。なぜでしょうか。義人の祈りは働くと大きな力があるからです。この場合の「義人」とは、特別な人という意味での義人ではなく、キリストを信じて神の義とされた人、キリストという義にしっかりと拠り頼んでいる人、という意味です。自分自身に頼らず、キリストのみを自分の正しさとして、この方の知恵によって生きる人のことなのです。そういう人の祈りには力があるのです。

 

インディアンに伝道したデービット・ブレイナードは、そのような祈りの人でした。彼が祈りによって成し遂げたわざは、まことにすばらしいものでした。ブレイナードの伝記を書いたゴードン博士は次のように言っています。

「彼はインディアンのことばに通じていなかったが、ただひとり森の中へ奥深くはいって行き、終日そこで祈っていた。彼が祈っていたのはなぜか。彼はインディアンに接触することができなかったからである。すなわち、彼らのことばを理解できなかったのである。もし話そうとするなら、自分の思いを少しでも通訳してくれる人を捜さなければならなかった。そこで彼は、自分のこれからしようとすることがなんであっても、それを全く神の御力によってしなければならないことを知っていた。彼は、聖霊の力がまちがいなく彼の上に臨み、インディアンたちが彼の前に立つことができないまでになるようにと、終日を祈りに費やした。その結果どうだったか。あるとき彼は、立っていることさえ困難なひどい酔いどれを通訳にして説教した。それが彼のできる最善であった。しかし、その説教で、多くの者が回心したのである。彼の背後にある神の驚くべき力の表れであったという意外、私たちには説明しようがない。」

 

まさに、義人の祈りは働くと、大きな力があるということの現われではないでしょうか。そしてそれはエリヤやデービッド・ブレイナードに限ったことでなく、キリストを信じて、キリストに拠り頼んで生きるすべての人に同様に言えることなのです。私たちも平凡な、普通の人ですが、キリストに信頼して祈る者にさせていただこうではありませんか。

 

Ⅲ.忍耐の祈り(19-20)

 

第三のことは、祈りには忍耐が求められるということです。19節と20節をご覧ください。

「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」

 

ヤコブは最後に、真理から迷い出た者を連れ戻す働きについて語っています。そうした罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうことである、というのです。

 

「真理から迷い出た者」とは、もちろんイエス・キリストの真理から迷い出た者のことです。それは当然行いにも現われてきます。罪を犯し、罪の生活へとのめり込んでいくのです。このような人のために祈ることは、なかなか難しいことでもあります。まだ真理を知らない人のために祈り、そのために労することはそれほど苦になりませんが、ひとたびキリストを信じて真理に入れられたにもかかわらず、自分勝手な道に歩み、そこから迷い出た人がいれば、その人のために祈り、その人を連れ戻すという働きは並大抵のことではありません。それは身から出た錆であり、まさに自業自得なのです。そんな人のために自分の身を削るなどもってのほかです。

 

しかし、それは20節にあるように、罪人のたましいを死から救い出すことであり、多くの罪をおおうことなのです。Ⅰペテロ4章8節には、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とありますが、これが神の共同体である教会に求められていることなのです。これは罪を隠すことではありません。罪を犯した後で、それを悔い改めた人の、その罪を思い出さないということです。そのような愛の共同体があることは、何と幸いなことでしょうか。過去の罪が問われないのです。だれからも裁かれることなく、ただイエス様だけを愛して、キリストをあがめる生活に立ち戻れるということは、本当に大きな喜びです。教会は、キリストを知らない人々を救いに導くことも大切ですが、同様に、キリストを知って迷い出た人を回復させることも大切なことなのです。なぜなら、そのためにキリストは十字架につけられ、死んでよみがえられ、そして今も働き続けておられるからです。

 

あなたはどうでしょうか。あなたは神の真理から迷い出てはいませんか。自分では正しいと思っていても、いつしか神の真理から迷い出ていることがあります。しかし、もしあなたが自分の罪を告白して、悔い改め、神に立ち返るなら、神はあなたを赦し、すべての悪からきよめてくださいます。

 

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

 

これが、神の約束です。どうか、主に立ち返ってください。イエス・キリストは、あなたを赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださいます。あなたのたましいは死から救い出され、神のいのちに引き戻されるのです。そして、あなたと同じように、真理の道から迷い出た人がいるなら、私たちはそのために祈り、その人が迷いの道から引き戻されるように労していく者でありたいと願わされます。それが神の来臨を待ち望んでいる教会の姿なのです。互いに罪を言い表し、互いに真理に堅く立ち続けることができるように励まし合い、互いに罪をおおい、互いに祈り合いながら、神のみこころにかなった歩みを目指していきましょう。それが、ヤコブが私たちに強く言いたかったことだったのです。