ヨシュア記14章

きょうはヨシュア記14章から学びたいと思います。

 Ⅰ.ヨセフの子孫マナセとエフライム(1-5)

 まず1節から5節までをご覧ください。
「イスラエル人がカナンの地で相続地の割り当てをした地は次のとおりである。その地を祭司エルアザルと、ヌンの子ヨシュアと、イスラエル人の諸部族の一族のかしらたちが、彼らに割り当て、主がモーセを通して命じたとおりに、九部族と半部族とにくじで相続地を割り当てた。モーセはすでに二部族と半部族とに、ヨルダン川の向こう側で相続地を与えており、またレビ人には、彼らの中で相続地を与えなかったからであり、ヨセフの子孫が、マナセとエフライムの二部族になっていたからである。彼らは、レビ族には、その住むための町々と彼らの所有になる家畜のための放牧地を除いては、その地で割り当て地を与えなかった。イスラエル人は、主がモーセに命じたとおりに行なって、その地を割り当てた。」

前回は、ヨルダン川の東側の相続地の分割について見ました。今回は、ヨルダン川のこちら側、すなわち、西側における土地の分割のことが記録されてあります。まず1節から5節まではその前置きです。この作業に携わったのは祭司エルアザルと、ヌンの子ヨシュアと、イスラエル人の部族の一族のかしらたちでした。祭司エルアザルはアロンの第三子です。彼がこの作業に関わることは、モーセの時代に主によって命じられていました。その彼と、ヨシュアと、イスラエルの部族のそれぞれの代表が集まってくじを引きました。くじを引くというのは意外な感じのする方もいるかもしれませんが、箴言16章33節に、「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」とあるように、これは主のみこころを伺う方法であり、この土地分割を決定する方法として主が前もって指定しておられたものでした。

ヨルダン川のこちら側の土地は、主がモーセに命じたとおりに、9つの部族と半部族とにくじで割り当てられました。イスラエルは12部族なのに、なぜ9つの部族と半部族なのでしょうか。その理由が3節にあります。
「モーセはすでに二部族と半部族とに、ヨルダン川の向こう側で相続地を与えており、またレビ人には、彼らの中で相続地を与えてなかったからであり、」
ここまで読むと納得したかのように感じますが、よく考えると、イスラエルの部族は全部で12部族であり、そのうちの2部族と半部族には既に相続地を与え、それにレビ族はイスラエルの各地に散って礼拝生活を助けるため、自分たちの相続地は持たないということであれば、残りは9部族と半部族ではなく、8部族と半部族になります。それなのにここに9部族と半部族とあるのはどういうことなのでしょうか?
その理由が4節にあります。それは、「ヨセフの子孫が、マナセとエフライムの二部族になっていたからである。」すなわち、ヨルダン川の向こう側が2部族半に与えられ、レビ族は特別な待遇となって相続地の分割から抜けた分を、ヨセフ族がマナセとエフライムの二つの部族に分かれて、相続地を受けたのです。なぜヨセフ族がこのような祝福を受けたのでしょうか。その経緯については創世記48章5節にあります。
「今、私がエジプトに来る前に、エジプトで生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子となる。」
この「あなたのふたりの子」の「あなた」とはヨセフのことです。ヤコブはその死を前にして、このヨセフの二人の息子であるマナセとエフライムに対して特別の祈りをささげ、二人の孫は単なる孫ではなく、自分の12人の子どもと同じように自分の子どもとなる、と宣言したのです。子どもであれば、親の相続を受けることになります。ですから、このヨセフの二人の息子は、他のヤコブの子どもと同じようにそれぞれ相続地を受けたのです。このことは、モーセがその死に際してこのヨセフ族に与えた特別の祝福を見てもわかります(申命記33:13~17)。語っていることがわかります。いったいなぜ神は、これほどまでにヨセフを祝福したのでしょうか。

それは、あのヨセフの極めて高尚な生涯を見ればわかります。ヨセフについては創世記37章から50章までのところに詳しく書かれてありますが、兄たちにねたまれてエジプトに売られ、そこで長い間奴隷として生活し、無実の罪で獄屋に入れられることがあっても兄たちを憎むことをせず、ついにはエジプトの第二の地位にまで上りつめることができたからです。それは、主が彼とともにいてくださったからです。ヨセフの生涯を見ると、彼には三つの優れた点があったことがわかります。第一に、彼はどんな苦難や悲運の中にあっても、決して神に呟かず、神を信頼し続け、そして神に従っていったということ、第二に、彼はどんな誘惑にも屈せず、しかも自らを陥れた人々を訴えたりしなかったということ、第三に、彼は自分を奴隷として売り飛ばし、ひどい目に遭わせた兄たちに対して、これを赦し、なおかつ救ったということです。ヨセフはそのような信仰のゆえに、彼ばかりではなく、彼の子孫までもがその祝福を受けることになったのです。彼の子孫は、イスラエル12部族のうち2部族を占めたばかりでなく、その内の一つであるエフライムは非常に強力な部族となって行き、やがて旧約聖書においては、「北王国イスラエル」のことを、「エフライム」と呼んでいる箇所があるほどに、北王国10部族の中でも、最も優れた部族となっていったのです。

このヨセフの生涯を見ると、そこにキリストの姿が重なって見えます。キリストもご自分の民をその罪から救うためにこの世に来てくださったのに十字架に付けられて死なれました。キリストは、十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。」と、自分を十字架につけた人たちのために祈られました。全く罪のない方が、私たちの罪の身代わりとなって自分のいのちをお捨てになられまたのです。それゆえ、神は、この方を高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになりました。

ということはどういうことかと言うと、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムが神から多くの祝福を受けたように、キリストを信じて、キリストの子とされた私たちクリスチャンも、キリストのゆえに多くの祝福を受ける者となったということです。私たちは、キリストのゆえに、すばらしい身分と特権が与えられているのです。であれば、私たちはさらにこの主をあがめ、主に従い、主を賛美しつつ、キリストから与えられる祝福を受け継ぐ者となり、その祝福を、私たちの子孫にまで及ぼしていく者でなければなりません。

 Ⅱ.信仰の目を持って見る(6-12)

次に6節から12節までをご覧ください。その地の割り当てにおいて、最初にヨシュアのところに近づいて来たのはユダ族です。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアにこのように言いました。6節から12節までの内容です。
「ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。 どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」

カレブとは、イスラエルがエジプトを出て、シナイ山から約束の地に向かって旅をし、その入り口に当たるカデシュ・バルネアで、カナンの地を偵察するためにモーセが遣わした12人のスパイの一人です。モーセは、イスラエルの12部族のかしらに、その地に入って偵察してくるように命じましたが、エフライム族のかしらがヨシュアで、ユダ族のかしらがこのカレブでした。カレブは今、その時のことを思い起こさせています。

当時、カレブは40歳でした。そしてそれから45年間という長い歳月をかけて、ヨシュアとともに民を指導してきました。このカレブの特徴は何かというと、8節にあるように、「主に従い通した」ということです。9節にもあります。彼はその生涯ずっと主に従い通しました。エジプトを出た時は40歳でした。あれから45年が経ち、今では85歳になりましたが、彼はその間ずっと主に従い通したのです。そのように言える人はそう多くはありません。ずっと長い信仰生活を送ったという人はいるでしょうが、カレブのように、主に従い通したと言える人はそれほど多くないのではないでしょうか。私たちも彼のような信仰者になりたいですね。

そんなカレブの要求は何でしたか。12節を見ると、彼はヨシュアに、「どうか今、主があの日に約束されたこの山脈を私たちに与えてください。」ということでした。ずっと長い間主に従い通してきたカレブの実績からいっても、この要求はむしろ当然のことであり、決して無理なものではありませんでした。しかし、このカレブの要求には一つだけ問題がありました。何でしょうか。そうです、そこにはまだアナク人がおり、城壁のある大きな町々がたくさんあったということです。まだイスラエルの領地になっていなかったのです。ですから、彼がその地の割り当てを願うということは、生易しいことではありませんでした。彼はその地を占領するために強力なアナク人を打ち破り、その土地を奪い取らなければならなかったのです。それは、自らに対する厳しい要求でもありました。

この問題に対して、カレブは何と言っているでしょうか。彼はこう言いました。12節の後半です。「主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」すごいですね、この時カレブは何歳でしたか?85歳です。でも、主が共にいてくだされば年齢なんて関係ない、必ず勝利することができると宣言しています。11節を見ると、「しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」と言っています。この時彼は何ですか?85歳です。普通なら、もう85です、そんな力はありません。若い時は良かったですよ、でも今はそんな力はありません・・、と言うでしょう。でもカレブは違います。今も壮健です。私の今の力は、あの時と同様です。まだまだ戦えます。問題ありません、そう言っているのです。強がりでしょうか?いいえ、違います。事実です。主がともにいてくだされば、主が約束されたように、彼らを追い払うことができます。私は弱くても、主は強いからです。これは事実です。こういうのを何というかというと、「信仰の目を持って見る」と言います。確かに人間的に見れば若くはありません。力もないでしょう。記憶力は著しく衰えました。何もいいところがありません。しかし、信仰の目をもって見るなら、今でも壮健なのです。主がそのようにしてくださいますから、主が戦ってくださいますから、まだまだ戦う力があるのです。私たちもこのカレブのような信仰の目をもって歩みたいですね。

カレブはこの時だけでなく、若い時から、いつもそうでした。あのカデシュ・バネアからスパイとして遣わされた時も、他の10人のスパイは、「カナンの地は乳と密の流れる大変すばらしい地です。しかしあそこには強力な軍隊がいて、とても上っていくことなんてできません。そんなことをしようものなら、たちまちのうちにやられてしまうでしょう。」とヨシュアに報告したのに対して、彼はそうではありませんでした。彼はヨシュアとともに立ち、こう言いました。「いやそうではない。我々には主なる神がついている。だから私たちが信仰と勇気を持って戦うなら、かならずそれを占領することができる。」
12人のスパイの内、10人の者たちは目の前の現実に対して、人間的な計算と考えの中でしか物事を捉えることができず、肉の思いで状況を判断しましたが、しかしヨシュアとカレブの2人は信仰の目を持って神の可能性を信じ、主によって道は開かれると確信し、その状況を判断したのです。その結果、主はこの信仰によって判断した2人を大いに祝福し、この2人が約束の地カナンに入ることを許し、信仰の目を持たなかった他の10人の者たちは、カナンの地に入ることができませんでした(民数記14:30)。

私たちは、現実的な消極主義者にならないで、信仰的な積極主義者にならなければなりません。神のみこころが何かを求め、それがみこころならば、人間的に見てたとえ不可能なことのように見えても、神の可能性に賭け、神のみこころを果たしていかなければなりません。現実を見るなら、確かにそれは困難であり不可能に思えるかもしれませんが、しかし、私たちの信じる神は全能の主、この天地宇宙を統べ治めておられる偉大な方なのです。私たちはこの主により頼み、さらに信仰の目をもって、積極的にありとあらゆる事柄に雄々しく立ち向かっていかなければなりません。

かつて、私が福島で牧会していた時、会堂建設に取り組んだことがあります。それは人間的に見たら全く不可能なことでした。まずその土地は市街化調整区域といって、建物が立てられない場所でした。悪いことに、福島県ではそれまで宗教法人が市街化調整区域に開発許可を得た例は一度もありませんでした。その時、私たちはまだ宗教法人すら持っていなかったのです。また、仮にそれが許可となっても建物を建てる費用がありませんでした。人間的に見たら全く不可能でした。しかし、主が私たちとともにいてくださったので、その一つ一つの壁を乗り越えさせてくださり、立派な会堂を建てることができました。どのようにしてできたのかを話したら、話しは尽きないでしょう。ですから、もし興味のある方がいましたらどうぞ個人的に聞いてください。時間が許す限りお話ししますから。しかし、このことを通して私が学んだ最も重要なことは、会堂はお金があれば立つのではなく、信仰によって立つということでした。それが神のみこころならば、神がともにいてくださるなら、必ず立つのです。私はそれまで多くの牧師の話を伺いながら、その教会は特別に神が働いておきな奇跡を受けたのであって、自分たちは無理だろうと考えていましたが、後で振り返ってみると、それらのどの教会よりも多くの神の奇跡を拝することができたと思います。それは、神がともにいてくださったからです。神がともにいてくださるなら不可能はないのです。

それと同じことが、これからの私たちの前にも置かれています。私たちは神から与えられている福音宣教のために、多くの教会を生み出したいと願っています。霊的に不毛なこの国で、牧師の墓場と言われているこの栃木県の中で、カレブじゃないですが、だんだん年をとってくるという現実の中で、いったいどうやってこれを成し遂げることができるのでしょうか。信仰によってです。カレブのように、主がともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう、と言ったように、私たちもそのように言うことができるのです。

一つの有名な逸話があります。アフリカの新興国に、アメリカから二人の靴製造会社の社員が調査のため派遣されました。この二人の社員は、そのアフリカの新興国を訪れた時に、国民がまだ靴を履いていないという現実に見て、本国に電報を送り、それぞれ違う報告をしました。一人の社員は、「この国の住民は靴を履かない。だから市場開拓は不可能だ」。しかしもう一人の社員はこう打電しました。「この国の住民は靴を履かない。だから大いに可能性あり。」と。

またかつて日本の伝道が非常に困難だと嘆いていた一人の牧師がいました。彼は韓国を訪れた時、韓国の牧師たちの前で、そのことを嘆いてこう言いました。「日本はこのような状況です。日本の伝道はとても難しいです。しかし韓国はいいですね。」
しかしそれに対して韓国の一人の牧師はこう言いました。「いいえ韓国では教会がもうどこへ行ってもあります。飽和状態です。私たちが見るならば、むしろ日本が羨ましい。日本では、いくらでもその可能性が広がっているのですから。」

私たちはどちらの人でしょうか。現実の困難さに戸惑い、不可能と見なし、「もうだめだ」と思ってしまうでしょうか。それとも、むしろ現実がそのような状況だからこそ神の助けを求めてこの現状を打ち破り、そこに確かな実現をもたらそうとする人でしょうか。カレブのように正しい信仰を確立し、神の偉大な御力に信頼して、みこころを行っていく者となろうではありませんか。

Ⅲ.主に従い通したカレブ(13-15)

最後に、その結果を見て終わりたいと思います。その結果どうなったでしょうか。13節から15節までをご覧ください。
「それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。ヘブロンの名は、以前はキルヤテ・アルバであった。アルバというのは、アナク人の中の最も偉大な人物であった。そして、その地に戦争はやんだ。」

ヘブロンは、かつてアブラハムが住んでいた場所であり、アブラハムが死んだサラを葬るために購入した土地があるところです。主がアブラハムに現われてくださったところです。たとえそこにアナク人が住んでいようとも、主ご自身が現われてくださった、そのところをカレブは欲していたのです。私たちは、目に見えることよりも、目に見えない、永遠に価値あるものに対して、どこまで情熱を持っているでしょうか。

それで、ヘブロンは、カレブの相続地となりました。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからです。ヘブロンの名は、以前はキルヤテ・アルバでした。「アルバ」というのは、アナク人の中の最も偉大な人物でしたが、敵がどんなに偉大な人物であったとしても、主の前にも風が吹けば飛んでいくもみがらにすぎません。主はどんな敵をも追い払ってくださいます。私たちも、主がともにいてくださることを信じ、主が約束したことを、信仰によって勝ち取っていきたいと思います。

Ⅰペテロ5章5~7節 「へりくだる者に与えられる恵み」

 きょうは、「へりくだる者に与えられる恵み」というタイトルでお話したいと思います。前回のところでペテロは、教会の長老たちに、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい」と命じました。それは、この手紙の受取人であった小アジヤにいたクリスチャンたちが、激しい迫害の中にあっても堅く信仰に立ち、神の恵みにとどまっているためです。その鍵は教会の指導者です。教会の指導者たちが、与えられた役割をしっかりと果たすことで教会が強められ群れの羊が守られ、どんな苦難の中にあっても堅く信仰に立ち続けることができます。そこで教会の長老たちに対して、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心からそれをするように、また、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範になりなさいと勧めたのです。

 きょうの箇所には、そうした長老たちの指導に対して、その指導を受ける信徒たちはどうあるべきなのか、その姿勢について教えられています。それは一言で言えば「へりくだる」ということです。

 Ⅰ.みな互いに謙遜を身に着けなさい(5)

 まず、5節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。
 「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」

 「同じように」というのは、長老たちが神の羊の群れを牧するにあたり、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、群れの模範となるように、同じように、「若い人たち」も、長老たちに従いなさい、というのです。「若い人たち」とは、年齢的に若いという意味もありますが、ここではむしろ、「長老たち」に従う者という意味での「若い人たち」のことです。つまり、一般信徒のことです。一般信徒に対して、長老たちに従うようにと勧められているのです。なぜでしょうか?なぜなら、長老たちは神によって立てられ、神の御心を行う者たちだからです。ですから、しもべが、たとい横暴な主人であっても従うように、たとい、長老たちが自分たちから見て正しくない、適切でないと思われるような指導をする場合でも、若い人たちは長老たちに従うべきなのです。

いったいどうしたらそのような態度をとることができるのでしょうか。その後のところでペテロはこう言っています。
「みな互いに謙遜を身につけなさい。」
ペテロはここで「みな互いに」と言っています。これは、長老であろうが、若い人であろうが関係なく、ということです。それは、すべての人に求められていることです。もちろん、若者も、長老たちもそうですが、同時に、若い者同士も互いに謙遜でなければならないという意味です。

この「謙遜を身に着ける」という言葉ですが、これは奴隷が仕事をするときに裾などをまくり上げる動作を意味します。つまり、謙遜という姿が板についているようにという意味です。もしかしたらペテロは、最後の晩餐の席で、イエスさまが弟子たちの足を洗われた姿を思い出していたのかもしれません。イエスさまは、夕食の席から立ち上がると、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。そして、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、腰にまとっておられた手ぬぐいで、ふかれました。イエスさまが着ておられたのは、謙遜という衣でした。この衣を着るように、この衣を身に着けるようにというのです。

なぜでしょうか?その後のところに理由が記されてあります。それは、「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」この言葉は、箴言3章34節のみことばの引用です。そこには、「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」(箴言3:34)とあります。高ぶるとは、自分自身を他の誰よりも重要と考えることです。高ぶる人は自分に信頼しますが、謙遜な人は神に信頼します。高ぶる人は自分に栄光を帰しますが、謙遜な人は神に栄光をお返しします。ですから、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお授けになられるのです。ちょうど、水が高い所から低い所に流れるように、神の恵みは低い所に注がれるのです。そして、高ぶる者には敵対されるのです。

ルカ18章10~14節には、自分を義人だと自認し、他の人を見下している者たちに対して、イエスさまはこのようなたとえを話されました。
 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:10~14)

このたとえの中でパリサイ人は、取税人と自分を比較しました。確かに、彼の生き方は立派でした。彼は取税人のようにゆする者ではなく、不正な者、姦淫をする者ではありませんでした。彼は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、ちゃんとその十分の一をささげていました。しかし、彼が取税人を見たとき、心が高ぶってしまいました。彼は取税人と自分を比較し、「自分はほかの人々のようにゆする者ではない。ことにこの取税人のようではない」と言った途端、彼の心は傲慢でいっぱいに満たされてしまいました。
一方、取税人は、まともなことは何一つしていませんでした。それに彼の祈りも、非常に乏しい。13節には、彼は「遠く離れて立ち」とあります。それが遠慮からなのか、後ろめたさからなのかわかりませんが、神さまから非常に遠い所に立ちました。そして、目を天に向けることができない程、罪深さを感じていたのでしょう。「胸をたたいて」罪を悔いました。ですから、心が砕かれて、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と言うしかなかったのです。しかし、神さまは、そんな彼を義と認めてくださったのです。

神殿で誇らしげに祈ったパリサイ人は神さまに受け入れてもらえず、しかし、神から遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、胸をたたいて、神の御前にひざまずいたあの取税人の祈りは聞き入れられました。彼は義と認められました。義と認められて家に帰ったのはパリサイ人ではありませんでした。顔を上げることもできない罪深い男、胸をたたいて悔い改めるしかなかった罪人、しかし、真実にひざまずいて、赦しを請うたこの男だったのです。なぜでしょうか?なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお授けになるのです。

ですから、ペテロがここで「みな互いに謙遜を身に着けなさい」と言ったのは、謙遜であるということが単に人間関係における問題だからではなく、それが神様との関係における問題だからです。そもそも神様は、高ぶりを嫌われます。それが長老であろうが、若い人であろうが関係ありません。高ぶりそのものに敵対されるのです。なぜでしょうか?なぜなら、高ぶりこそ罪の本質だからです。

いったいどうして人類に罪が入って来たのでしょうか。それは高ぶったからです。イザヤ書14章12~15節を開いてください。ここには、サタンの起源について言及されています。
「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」(イザヤ14:12~15)

サタンもかつては良い天使でした。「暁の子、明けの明星」とあるように、非常に輝いた存在だったのです。それなのになぜよみに落とされ、穴の底に落とされてしまったのか。高ぶってしまったからです。私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てある会合の山、これは天の御座のことですが、そこに座ろうとしました。すなわち、いと高き方のようになろうとしたのです。それゆえ、神は彼をよみに落とし、穴の底に落とされたのです。これがサタンの高ぶりであり、神のようになりたいという欲望が彼を滅ぼしました。サタンがエバに、「これを食べれば、神のように賢くなる」と惑わしたのも、そのためです。そのため、私たちの中に「神のようになりたい」という性質があるのです。神のようになりたい、つまり神から独立して、自分の判断で、自分の知恵と自分の思いで生きていきたいと思いが働くのです。イエス様を信じていない人は、自分を信じて、自分で生きていくことは当然のことであると思っていますが、それはそのまま悪魔から来ている考えなのです。高ぶりこそ罪の本質であり、このような傾向から逃れることは、たとえ罪赦されたクリスチャンであってもなかなか困難なことです。

ある若い牧師が、地域のキリスト教団体から、その年の最も謙遜な牧師として表彰されました。教会員もみんな感謝して表彰式に行きました。その式で彼は、最も謙遜な牧師として、謙遜がいかに大切であるかをスピーチしました。
 ところが次の週、教会員がその表彰状をその団体の本部に返しに来たというのです。その理由は、なんとその牧師はいただいた表彰状を額に入れ、それを教会のロビーに飾ろうとしたからでした。「先生、止めてください。これは返上した方がいいです」と、返しに来たというのです。もちろん、これはジョークだと思いますが、でも、同時に真理を突いていると思います。へりくだるというのは、それほど難しいことなのです。

18世紀イギリスのリバイバル運動を指導したジョン・ウェスレー(1703~1791)は、「キリスト者の完全」という書物の中でこう言っています。
「もしあなたが完全に罪から解放されていると信じるなら、まず高ぶりの罪に警戒しなさい。この罪だけは、あらゆる欲から解放された心の人も捉えることができることを私は知っている。」それほど、この高慢の罪から解放されるということは難しいことなのです。

皆さん、なぜ長老たちに従うことができないのでしょうか。なぜ互いに従うことができないのでしょうか。高ぶっているからです。これが罪の本質であって、このことが解決するなら、どのような問題も解決することができるでしょう。なぜなら、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお与えになられるからです。

Ⅱ.力強い神の御手の下にへりくだりなさい(6)

であれば、私たちにとって大切なことは、長老たちに従うかどうかということではなく、神に従うということです。ですから、6節にこうあるのです。ご一緒に読みましょう。
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

ペテロは、人間同士が互いにへりくだる必要を述べた後で、本当の問題は神との関係であることを示され、神の御前にへりくだることの必要性を説いています。被造物にすぎない人間が創造主である神の御前でへりくだることは当然のことです。そのことをペテロは、次のことばをもって表しています。すなわち、「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」ということです。

神は力強い御手をもってこの世のすべてを支配しておられます。それに比べて私たちは何とちっぽけな者でしょうか。だから、この力強い御手の下にへりくだらなければなりません。「へりくだる」というのは、神の主権の中に自分をゆだねることです。いろいろ、自分に不利なことが起こったとき、「なぜ私をこのような目に合わせるのですか」と神に訴えるようなことをせず、また、神が立てておられないのに、ある重要な位置に自分を置くようなことをしないで、自分の弱さ、足らなさ、小ささを徹底的に認めて、偉大な神の御手に自分の人生のすべてをおゆだねすることなのです。

それは、神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。私たちが徹底的にへりくだる時、神は不思議なことをなさいます。ちょうど良い時に、高くしてくださるのです。たとえば、ヨセフはどうでしたか?彼は17歳の時、お兄さんたちに売られてエジプトの奴隷となりました。エジプトで囚人となったこともあります。しかし、彼が30歳になった時、神は彼を高くしてくださいました。エジプトの宰相となったのです。それはカナンに住んでいた家族がききんで苦しんでいた時でした。それでイスラエル人はみなエジプトに下ることができました。神はちょうどよい時に彼を高くしてくださったのです。

それは私たちの主イエスのご生涯を見てもわかります。主は最後まで神に従順でした。主は自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるすべてのものが、ひざをかがめて、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。イエスさまは、父なる神の下にへりくだられたので、ちょうど良い時に、神はキリストを高くあげてくださいました。

それは私たちも同じです。私たちも神の力強い御手の下にへりくだるなら、神は本当に不思議なことをなさいます。私たちを地の低いところから、天の高みまで引き上げてくださるのです。それは、この世においても起こることですし、次の世においても同じです。力強い神の御手の下にへりくだるなら、ちょうど良い時に、神が最善と思われる形で、私たちを高くしてくださるのです。

Ⅲ.思い煩いを神にゆだねて(7)

では、どうしたら神の御手の下にへりくだることができるのでしょうか?7節をご覧ください。ここもご一緒に読みましょう。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

この7節は、6節の続きです。6節でペテロは、「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい」と言いましたが、どのようにへりくだったらいいのでしょうか。ここには、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」とあります。これは命令形ではなく、現在分詞といって、どのようにして神の力強い御手の下にへりくだったらよいかが説明されているのです。それは、あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねて、です。神の前での謙遜は、私たちの思い煩いを神にゆだねるという姿勢に表れるとペテロは言うのです。

 この「思い煩い」(メリムナ)と訳されているギリシャ語は、「別々の方向に引っ張ること」を意味します。希望は私たちを一つの方向に引っ張りますが、恐れは私たちを反対の方向に引っ張ります。それで私たちは引き裂かれてしまうのです。それは絞め殺すことを表わしています。皆さんも思い煩うことがあるかと思いますが、それがどんなにか人を絞め殺すかをご存知だと思います。思い煩いは頭痛、肩こり、めまい、背中の痛みなど、肉体の障害を引き起こすだけでなく、思考力や消化力にも影響を及ぼします。その上、思い煩ったからといって何も良いものを生み出しません。イエス様も「あなたがたのうちでだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(マタイ6:27)と言われました。思い煩ったからといって、自分では何もすることができません。ではどうしたらいいのでしょうか。

ペテロはここで、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」と言っています。私たちの思い煩いを自分で何とかしようとするのではなく、その思い煩いのいっさいを、神にゆだねなさいというのです。「ゆだねる」という言葉は、投げ捨てて忘れてしまうことを意味します。石を遠くに投げてしまうように、思い煩いを遠くに投げ捨てなければなりません。どこかに投げ捨てて、忘れなければなりません。では、どこに投げるのかというと、神に向かってです。神に向かってあなたの思い煩いを投げ切るのです。これが祈りです。「神さま、私には無理ですから、あなたにすべてを任せます。あなたが解決してください。よろしくお願いします。」と、神に祈り、祈ったらもう忘れるのです。それが「ゆだねる」ということです。

このことをパウロはピリピ人への手紙の中でこのように言っています。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6)これはあなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさいということです。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)

 それなのに、私たちはなぜいつまでも思い煩っているのでしょうか。それは、神様にゆだねると言いながら、本当の意味でゆだねていないからです。思い煩いという石を投げ切ったようでもそれに紐をつけて、何度も何度も引っ張るようなことをしているのです。ですから、ゆだねているようでも、すぐにまた思い煩ってしまうのです。

 実は、へりくだることとゆだねることには関係があります。本当にへりくだってないとゆだねることができません。高ぶっている人は、自分の心配事を決して他人にゆだねません。自分で何とかしようとするからです。本当にへりくだっている人だけが、へりくだった自分の弱さを認める人だけが、ゆだねることができます。ですから、あなたが神に自分をゆだねたいと思うなら、あなたは、神の下にへりくだらなければなりません。それは逆もまた真なりで、あなたが神の下にへりくだるためには、あなたがあなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなければなりません。これは相関関係があるのです。

 いったいなぜあなたの思い煩いのすべてを、神にゆだねなければならないのでしょうか。ここにはその理由が次のように述べられています。それは、「神があなたがたのことを心配してくださるからです。」私たちが自分の思い煩いを、いっさい神にゆだねるなら、神があなたがたのことを心配してくださいます。ここでペテロが「神があなたがたのことを心配してくださる」の「心配する」(メロー)は、「あなたがたの思い煩いを」の「思い煩う」(メリムナ)とは違う言葉で、「ケアする」とか、「面倒をみる」という意味があります。本当に神様は私たちのことを心配してくださるのか、信じられないという人もいるかもしれませんが、ここではそのように約束しておられるのです。エレベーターで重い荷物を3階まで運ばなければならない時、その荷物をしっかりと抱えたまま立っている人は少ないでしょう。荷物は下に下ろしてよいのです。エレベーターがどんなに重い荷物でも運んでくれるからです。ましてエレベーターよりも遥かに強力な永遠の神の右の手が私たちの下にあって支えてくださっています。思い煩うという荷物も一緒に運んでいただきましょう。

 ですから、へりくだるとは、特別な思いや取り組みではありません。私たちのありのままの姿を神の前で見つめ、その弱さ、足らなさ、いや罪深い姿をも主の御前にさらけ出して、「神さま、どうかよろしくお願いします」と、神様におゆだねするという心の営みです。

 星野富広さんの詩の中に、「あけび」という詩があります。
「あけびを見ろよ。
木の枝にぶら下がり、
体を二つに割って
鳥がつつきにくるのを動きもしないで
待っている
誰に教えられたのか
あんなにも気持ちよく自分を投げ出せる
あけびを見ろよ

星野さんは実がざっくり二つに割れたあけびが、図々しいくらい、気持ちよく、自分を投げ出している様を見て、私たちもそのくらい開き直って、「神さま、頼みます!」と、自分を神様に投げ出すくらいがいいんじゃないか、と言っているのです。

そうです。私たちもあけびになればいいんです。何でも、構わないから、ど~んと来るがいい。それがどんな重荷でも、ぜ~んぶ、イエスさまにゆだねます・・。それでいいんです、と語り掛けているような気がします。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 あなたは、重荷をまだ自分で背負っていませんか。あなたの重荷はどんなものでしょうか。それがどんなものであっても、その思い煩いを、いっさい神にゆだねるなら、神があなたのことを心配してくださいます。そう信じて、この神の力強い御手の下にへりくだりましょう。

Ⅰペテロ5章1~4節 「神の羊の群れを牧しなさい」

 ペテロの手紙第一5章に入ります。きょうのテーマは、「神の羊の群れを、牧しなさい」です。2節に、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」とあります。「牧する」という言葉は一般ではあまり聞かない言葉ですが、辞書を見ると、家畜を飼ってふやすとか、人民をやしないおさめること、とあります。キリスト教用語辞典では、「牧会をする。聖書で神を羊の牧者、民を羊にたとえているところから来た表現。」とあります。ですから、これは羊飼いが羊を飼うように神の民であるクリスチャンを導くことです。

 私は時々、「神父さん」と呼ばれることがありますが、私は神父ではなく牧師です。皆さんは、神父と牧師がどのように違うかをご存知でしょうか?神父はカトリックと東方教会の聖職者のことで、牧師はプロテスタントにおける教職者のことです。どうしてこのような違いがあるのかというと、たとえばカトリックではローマ教皇をトップに司教、司祭、助祭といった序列があるのに対して、プロテスタントではそうした序列はなく、羊を飼うという働き以外は他の信徒と同じ立場にあるという考え方を持っているからです。

ペテロはここで、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」と言っています。いったいなぜ彼はこのように勧めているのでしょうか。これまでペテロは迫害で苦しみ小アジヤ地方に散らされていたクリスチャンたちに、そのような迫害の中にあっても励まされ、堅く信仰に立ち、神の恵みの中にしっかりととどまっているように励ましてきました。そして、これから一段と厳しい迫害が迫っているという中で、そのような試練の中にあっても彼らが堅く信仰に立ち続けるためには、教会の長老をはじめとしたリーダーたちが、自分たちに与えられた役割をしっかりと果たすことで教会が強められることが必要だったからです。教会はリーダーで決まると言っても過言ではありません。その牧師なり、長老がどのような考えで、どのように群れを導くのかによって、教会がしっかりと立ち続けもし、倒れたりもする。ですから、教会の牧師、長老の責任はとても重大であることがわかります。私も牧師のひとりとして、身が引き締まるような思いです。

しかし、これは教会だけのことではありません。国のリーダーや学校の教師、会社のリーダー、家庭の親に至るまで、すべての領域で言えることです。すべてはリーダーで決まるのです。勿論、良い牧師は良い信徒によって育てられ、良い教師は良い生徒によって育てられるという側面もありますから、互いがその役割と責任をしっかり果たすことが大切ですが、いかなる組織においても指導者の役割と責任はとても大きいことは確かです。
ですから、ここでは教会の牧師、長老に対して勧められていますが、それぞれ自分の置かれている立場に置き換えて考えていただけたらと思います。

 Ⅰ.神の羊の群れを牧しなさい(1-2a)

 まず牧者の務めについて見ていきたいと思います。1節と2節の前半をご覧ください。
 「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」

 ペテロの勧めの対象は、「あなたがたのうちにいる長老たち」です。ペテロの時代は、今で言うところの牧師とか、長老、監督といった制度ははっきりしていませんでした。同じ人がある時は牧師、ある時は長老、ある時は監督というように使い分けられていたようです。ここで「長老」と言われているのはユダヤ教の名残が強いかと思われます。ユダヤ教では民の指導者を「長老」と呼ばれていました。モーセは姑のイテロの助言を受けてイスラエルの民の上に五十人の長、百人の長、千人の長を立てた時、それは、「神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々」出エジプト18:21)でした。それは民をさばくことができる判断力のある人で、群れを治めることができる能力のある人のことです。今でいえば牧師、役員のような立場の人でしょう。パウロは、第一次伝道旅行で小アジヤの各地で伝道した時、教会を開拓すると、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりととどまるように勧め、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、彼らをその信じていた主にゆだねた(使徒14:22~23)とありますから、その小アジヤの諸教会ごとに長老が立てられていたものと思われます。

ペテロはここで自分のことを、「同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者」と言っています。彼は自分を、他の人よりも上にいる者だとか、偉い者であるかのようには考えていませんでした。自分は他の長老たちと同じ立場にあり、そのひとりであると受け止めていたのです。それは彼の中に、これから語る勧めは、彼らだけでなく自分自身にも当てはまることだという思いがあったからでしょう。

また彼は、苦難の証人、やがて現われる栄光にあずかる者とも言っています。それは、彼がキリストの十字架の苦難の目撃者であるということと、キリストが再び来られることによって現われる世で、その栄光にあずかる者であるという確信があったからです。

そのペテロから長老たちに勧められていることはどんなことでしょうか。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」(2節)ということです。
先ほども申し上げましたが、牧するとは、羊飼いが羊の世話をするときに用いる言葉です。ダビデは詩篇23篇でこう言いました。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:1~6)

つまり、牧するとは羊を守り、導き、養うことです。まず羊が健康でいられるようにちゃんと食べ、ちゃんと飲むことができるように、神の御言葉をもって養います。また、羊が病気になれば介抱するように、病めるたましいを慰め、癒されるように祈ります。そして、狼やライオンといった猛獣から守るように、絶えず教会の中に入り込んでくる異端的な教えや偽りの教えかどうか、またその行動はどうか見張り、そういったものから守ります。そのようにして、神の羊のたましいのケアをするのです。それは必ずしも楽な仕事ではありませんでした。はっきり言って、辛いなぁと思うことの連続でしょう。その神の羊を牧しなさいというのです。

その背景には、かつてペテロがイエス様を否定した出来事があったものと思われます。どんなことがあっても、私はあなたについて行きますと豪語したペテロでしたが、彼のそんな決意は脆くも崩れてしまい、イエス様が預言したように鶏が鳴く前に三度も否定したのです。
そんなペテロに対して、復活されたイエス様は特別に目をかけ、彼を回復されました。ガリラヤ湖畔で三度目に弟子たちにご自分を表されたイエス様は、ペテロにこのように言われました。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(ヨハネ21:15)
すると、すかさず彼が、「はい。主よ。私があなたを愛することを、あなたはご存知です。」(ヨハネ21:15)と言うと、主はこう言われました。
「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15)
このことを三度も繰り返して言われました。繰り返して言われました。なぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。それは、この羊を飼うということは、イエス様の愛への応答であるからです。ペテロはイエス様にこのように応えながら、自分の頭の中ではイエス様にそのようにと言われた時、自分の罪が赦されたということ、そしてそのようにして愛してくださったイエス様を、今度は自分が愛するのだということ、それは主の羊を飼うということによって表していくことなのだということをはっきりと理解したのです。つまり、キリストを愛するその延長にキリストの羊を飼うことがあったのです。
私たちは自分の力で人を愛するなんてできません。しかし、キリストが私を愛してくださったので、私も愛することができるのです。ですから、ここでペテロが神の羊の群れを牧しなさいと言ったのは、自分の罪深さを感じ、そんな自分を愛してくださった主イエスの愛の応答として、主にゆだねられた神の羊を飼うようにということだったのです。
それはここに、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」と言っていることからもわかります。それは、神の羊の群れであり、神があなたに送ってくださった群れなのです。それは、神様のものであり、イエス様のものなのです。もう少し丁寧に言うと、私たち一人ひとりは、イエス様が愛しておられるイエス様の羊であるということです。

イエス様は、「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(ルカ15:4)と言われました。また、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言われました。   

ここに私たちの存在感があります。私たちはほんとうに弱く、欠けだらけなものですが、そのような私たちを、主は「わたしの羊」と言って見つけるまで捜し出してくださる、いや、いのちさえも投げ出してくださるのです。私たち一人ひとりはそれほどまでに愛されているのです。大切にされているのです。その人に何ができるかとか、どれだけ奉仕しているかとか、どれだけ献金したかといったことと全く関係なく、私たちの存在そのものを大切にしておられるのです。そんな大切な一人ひとりの羊を牧するということはあまりにも大きな責任であり、あまりにも大きな労苦です。しかし、主は「わたしの羊を、牧しなさい」と言われました。それはイエス様の羊、神の羊なのです。そういう意味では、私たちはほんとうに無力な者ですが、イエス様が私の罪を赦してくださった、その愛の大きさに応えて、神から託されている神の羊の群れを、牧していきたいと思うのです。

Ⅱ.群れの模範となりなさい(2b-3)

ではいったいどのように牧したらいいのでしょうか。第二のことは、牧者の心構えです。2節の後半から3節をご覧ください。
「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」

ここでペテロは、神の羊の群れを牧する羊飼いとしての心構えを三つ上げています。第一に、義務感からでなく、自発的にしなさいということです。2節に、「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし」とあります。強制されて牧会するということがあるのでしょうか。人と接する仕事をしている人であればだれもが感じたことだと思いますが、人を動かすことは簡単なことではありません。人を動かすのは山を動かすよりも難しいと言われています。人はそれぞれ自分の考えをもっていて、どちらかというとそうでない考え方をなかなか受け入れられない傾向にあるので、そういう人を導くということは並大抵のことではありません。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神がその人のうちに働いて、その人の中に神の思いが与えられてくださり、そのような人さえも変えてくださるのです。しかし、そこには相当の忍耐と労苦が求められます。時には、「なんで自分がこんなことをしていなければならないのか」とか、「できるならやりたくない」という思いが沸いてくることもあります。

私はある時、あまりにも辛くてある老姉妹にぽつりと愚痴ったことがあります。
「なんで私が牧師になったかわからないんですよ。もっと違う道もあったんじゃないかと思うこともあります。」
すると、その老姉妹がこう言われたんです。
「あら、先生、牧師さんってすばらしいじゃないですか。人のお仕事じゃなくて神様のお仕事をしているんですから。」
それを聞いてはっとさせられたというか、私はそれまで何を考えていたんだろうと恥ずかしくなりました。別に牧師じゃなくても辛いことはたくさんあるのに、ついつい不平や不満を言っていた自分を情けなく感じたのでした。むしろ、神の羊を牧するというのは光栄なことであり、ほんとうにすばらしいことを求めることなのです。なぜなら、それは人に仕えるのではなく、神に仕えることですから。それは神がお許しにならなければできないことです。また、私には妻や家族の支えがあり、このようにすばらしい教会員の方々の祈りがあり、何よりも私のためにご自分のいのちを捨てられたイエス様の大きな愛があるのですから、これほどすばらしい務めはありません。

それなのに、そのように思うことがあるとしたら、それは自分自身が傲慢であること以外の何ものでもありません。それは牧会に限らずすべての奉仕に言えることです。コリント第二の手紙9章7節で、パウロはこのように言っています。
「ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)
主は、強いられてするものを喜ばれません。ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を、義務感からでなく、自発的に、自らささげる人を、仕える人を愛してくださいます。それこそ、神が私たちのために喜んでひとり子さえも与えてくださった大きな愛への応答なのです。

第二のことは、その後に記されてありますが、卑しい利得を求める心からでなく、心を込めてそれをしなさいということです。
牧師や長老が、その働きにふさわしい報酬を得ることは当然ですが、しかし、牧師が報酬を目的として働くとしたら、牧師でなくなってしまいます。まして、不当な方法で利得を追求するようなことがあるとしたらとんでもないことです。昔、預言者エゼキエルはそのような指導者を糾弾しました。エゼキエル書34章2~6節を開いてください。
「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。」(エゼキエル34:2~6)
これはイスラエルの牧者だけでなく、私たちにも言えることです。このような牧者になることのないように自戒し、心を込めてこれをするように努めていきたいと思います。

第三のことは、群れの模範者になるということです。3節に、「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」とあります。
先ほど説明したとおり、私たちが牧しているのは、あくまでも「その割り当てられている人たち」です。神の恵みによって、自分に割り当てられている人たちがいるのであって、恣意的に人々を自分の下に集めるのではありません。もしそのようなことがあるとしたら、そこに自分の言いなりにさせるという支配が入り込んでくることになります。神のみこころではなく、自分の目的を達成するための手段として群れを利用することになってしまいます。ですから、そういうことがないように、ペテロはここで、その人たちを支配するのではなく、群れの模範者となりなさいと勧めているのです。

イエス様は、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られると、世にいるご自分の者たちを、最後まで愛されました。夕食の間のことですが、夕食の席から立ち上がられると、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれました。それから、たらいを水に入れ、弟子たちの足を洗われたのです。
「何をなさるんですか」とペテロが言うと、
「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになる。」と言われると、ペテロは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着かれました。いったいなぜイエス様はこんなことをしたのでしょうか。イエス様はこのように言われました。
「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:13-15)
そうです、イエス様は模範を示されたのです。彼らに、互いに足を洗うべきですと説教したのではなく、自らの彼らの足を洗うことで、その模範を示されたのです。ある人は、これを読んで、「イエス様が弟子たちの足を洗われたのは、弟子たちの中にものすごく足の臭い奴がいて、イエス様もさすがに食事をする気にならなかったんだよ。だから、しょうがなく足を洗い始めたのさ。でも一人だけ洗ったらその人を傷つけてしまうから、みんなの足を洗ったんじゃないか」と言う人がいますが、そういうことではありません。イエス様は模範を示されたのです。

パウロは若き伝道者テモテに、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(Ⅰテモテ4:12)と言っていますが、それは外側の行動ではなく、内側の心の在り方です。あまりにも模範を意識しすぎると、くたびれてきますし、偽善的にもなりかねません。ですから、真実にキリストを見習う生活をコツコツと続けるだけでいいのです。

Ⅲ.しぼむことのない栄光の冠を受ける(4)

 最後に、神の羊の群れを牧する者にもたらされる結果を見て終わりたいと思います。4節をご覧ください。ここには、「そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」とあります。

「そうすれば」というのは、そのように神の羊の群れを牧するならば、ということです。そうすれば、どのような結果がもたらされるのでしょうか。大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄冠を受けることになります。「大牧者」とは、勿論、イエス様のことです。私たちはこの大牧者の下にある小牧者にすぎません。ほんとうの牧者は、私たちの主イエス・キリストです。この大牧者であられるイエス様が戻ってこられるときに、私たちはしぼむことのない栄光の冠を受けるのです。この「栄光の冠」とは何でしょうか?聖書には、義の冠とか、いのちの冠といった冠が出てきますが、それらは救いとの関係で受ける冠のことです。しかし、この「栄光の冠」というのは、キリストのさばきの御座において受ける冠、報いのことです。イエス・キリストを信じる者にはみないのちの冠が与えられます。しかし、クリスチャンのそれぞれの業に応じて報いを受けます。それが栄光の冠です。いのちの冠が与えられるだけでものすごい栄光なのに、さらにその働きに応じて「栄光の冠」が与えられるとすれば、それは二重の栄光です。

この大牧者であられるキリストが戻って来られます。そのとき、あなたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。ですから、私たちは自分たちに与えられた役割をしっかりと果たしていきましょう。

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。あなたに託されている神の羊の群れとはだれですか。それは神の教会の中の羊の群れかもしれないし、家庭や職場など、教会の外にいる群れかもしれません。しかし、それはあなたが牧するように、神があなたに送っておられる神の羊の群れなのです。その羊の群れを牧しなさい。卑しい利得を求める心からでなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、心を込めてそれをしなさい。その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。

ヨシュア記13章

きょうはヨシュア記13章から学びたいと思います。

 Ⅰ.まだ占領すべき地がたくさん残っている(1-7)

 まず1節から7節までをご覧ください。
「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。その残っている地は次のとおりである。ペリシテ人の全地域、ゲシュル人の全土、エジプトの東のシホルから、北方のカナン人のものとみなされているエクロンの国境まで、ペリシテ人の五人の領主、ガザ人、アシュドデ人、アシュケロン人、ガテ人、エクロン人の地、それに南のアビム人の地、カナン人の全土、シドン人のメアラからエモリ人の国境のアフェクまでの地。また、ヘルモン山のふもとのバアル・ガドから、レボ・ハマテまでのゲバル人の地、およびレバノンの東側全部。レバノンからミスレフォテ・マイムまでの山地のすべての住民、すなわちシドン人の全部。わたしは彼らをイスラエル人の前から追い払おう。わたしが命じたとおりに、ただあなたはその地をイスラエルに相続地としてくじで分けよ。今、あなたはこの地を、九つの部族と、マナセの半部族とに、相続地として割り当てよ。」

ヨシュアは、モーセの後継者としてカナン征服という神の使命のために走り抜いてきましたが、そのヨシュアも、年を重ねて老人になりました。モーセの従者として40年、そしてモーセの後継者としてイスラエルの民を導いて20年、エジプトを出た時は30歳くらいの若者だったヨシュアも、すでに90歳を越える老人になっていました。それほど主に仕えてきたのですからもう十分でしょう。ゆっくり休ませてあげるのかと思いきや、主はこの老人ヨシュアにこう仰せられました。
「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」
まだまだ占領すべき地がたくさん残っているので、もっと戦い続けなければならない。休んではならない。もっと働き続けなければならないと言われたのです。

その残っている地は2節から7節までにあるように、南は海岸地域のペリシテ人が住んでいるガザ人、アシュドデ人、アシュケロン人、ガテ人、エクロン人の地等、北はヘルモン山のふもとのバアル・ガドから、レボ・ハマテまでのゲバル人の地、およびレバノンの東側全部。レバノンからミスレフォテ・マイムまでの山地のすべての住民、すなわちシドン人の全部です。こうやってみると、まだかなりの地が残っていることがわかります。その地を占領し、主が彼らに命じたとおりに、その地を九つの部族と、マナセの半部族とに、相続地として割り当てるようにと言われたのです。

人間的に考えるならば、何とも酷なように感じるかもしれませんが、実は、年を重ねても、神の使命のために働き続けるようにという神の言葉の中にこそ、神の深い愛が溢れているのです。一体、人間にとって、また老人にとって、幸福とは何でしょうか?至れり尽くせりの世話をし、働かないで休息のみを与えることが果たして幸せと言えるのでしょうか。そうではない。老年期は素晴らしい可能性に満ちた時代でもあります。

上智大学のアルフォンス・デーケンという教授が「第三の人生」という本を書いておられますが、デーケン教授はその本の中でこのように言っています。それは人間が一生涯で発揮する力は、その持っている力のたかだか10%程度にすぎず、残りの90%は眠ったままで使われずにほとんどの人がその一生を終えていきますが、この老年期こそその90%の部分に手がつけられ、大いなる可能性が開花する時です。というのは、若い時にはどうしても自分の意識的な働き、自我が全面的に出てしまうためこの力を発揮することができにくいが、老人になると、体力が失われ、自分の限界に気づくようになるので、そうした無意識の部分が開発されやすくなるのです。しかも若い時には、どうしても自分の願望や欲望に振り回されて、ほんとうに大切な事柄に集中できない傾向がありますが、老年期においては、大切な事柄に集中して取り組むことができるゆとりが生まれるのです。更に、若い時にはどうしても自分の力により頼みがちになるために、ほんとうの意味で神に信頼することができにくいが、しかし、自分の力の限界をわきまえるようになる老年期には、真実な神への信頼や、ゆだねることが可能になるのです。かくして老年期に近づくほど、残された90%へのチャレンジの道が開かれてくるのです。

聖書を見ると、確かに神はご自身の御心を遂行するにあたり、度々老人を召し出されていることがわかります。たとえば、モーセはイスラエルをエジプトから救い出し、約束の地へ彼らを導くように召されたのは80歳の時でした。また、アブラハムは75歳の時に、約束の地へ出で行くようにとの召しを受けました。聖書においては、神は老人に大きな使命を与え、そのために用いておられるのです。そして、その召しを受けた老人たちは驚くべき力を発揮して、その使命を遂行してきました。

このように、老年期は大きな可能性を秘めた時期でもあるのです。ですから、年を重ねて老人になったと悲観的に捉えるのではなく、年を重ねて老人になった今こそ、今までできなかったことができる大きな可能性を秘めた輝ける季節が到来したと信じて、その使命に向かって前進していかなければなりません。

私たちが神から約束されているものはたくさんあります。私たちは、御霊に導かれ、信仰によって、まだ肉の思いや行ないが支配している部分を殺し、支配するように召されています。神が約束してくださっているものを、実際に自分のものにするには、信仰によって踏み出さなければなりません。神が約束されているものを、信仰によって相続していかなければならないのです。ヨシュアは年を重ねて老人になりましたが、彼には占領すべき地がたくさん残されていました。私たちも占領すべき地がまだまだ残されています。何歳になっても、その神が約束された残された地を、信仰によって相続していきましょう。

 Ⅱ.モーセが与えた相続地(8-14)

次に8節から14節までをご覧ください。8節には、「マナセの他の半部族とともにルベン人とガド人とは、ヨルダン川の向こう側、東のほうで、モーセが彼らに与えた相続地を取っていた。主のしもべモーセが彼らに与えたとおりである。」とあるように、ここには、ヨルダン川の向こう側、東のほうで、モーセがマナセの半部族とともにルベン人とガド人に与えた相続地について記されてあります。モーセは、ヨルダン川の向こう側にいたエモリ人の王シホンと、またゴラン高原であるバシャンのオグの王国を打ち、彼らを追い払い、そこを彼らの28相続地として与えました。しかし、13節をご覧いただくとわかりますが、ゲシュル人とマアカ人とを追い払いませんでした。それでどうなったかというと、彼らはイスラエルの中に住むようになったのです。

Ⅱサムエル13章37~38節をお開きください。そこには、ダビデの息子アブシャロムが王の怒りを買った時、ゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げたことが記されてあります。なぜゲシュルに逃げたのか?ダビデの妻の一人がゲシュル人だったからです。また、Ⅱサムエル20章14~15節には、ダビデに謀反を起こしたシェバも、マアカ人の住むところに逃げていたことがわかります。
このように、イスラエルにとって、この時彼らを追い払わなかったことが、後で悩みの種になっていることがわかります。イスラエルは相続地が与えられたのに、主の命令に従ってすべての敵を追い払うことをせず、一部の住民をそこに住むことを許したことで、自らに悩みを招くことをしたのです。

それは、自分の肉を追い払わないで、そのままにしておくことで、信仰に死を招くことの型でもあります。聖書には、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24,25)とあります。また、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりがそのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3章8節)ともあります。自分の肉は改善してよくなるものではないので、殺してしまいなさい、と命令されています。ぼろ雑巾はいくら洗濯しても、真っ白にはならないので捨てるほかないように、神は私たちの肉という「ぼろ雑巾」を洗って下さるのではなく、キリストの十字架によってきっぱりと捨て去らせ、まったく新しい心、新しい霊を与えて下さるのです。この肉が対処されていないと、ある時は喜んで「ハレルヤ」と叫び、舞い上がっていても、翌日になると、些細なことで苛立ったり、気がくじかれたりして、喜べなくなってしまうことがあります。エルサレムに入城したイエス様を迎えた群衆も、始めは「ホサナ。ホサナ。」と叫んでイエス様を大歓迎しましたが、数日後には、一変して「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫んでしまいました。これがみじめな人間の肉の姿なのです。キリストはこのような「肉」を殺し、「新しいいのち」に生かすために十字架にかかって死んで下さいました。ですから、私たちは信仰によって肉を捨て去り、キリストのいちの、聖霊の恵みに生かされていかなければなりません。信仰に妥協は禁物です。多少残しておいても、さほど問題ではないという思いが、後で大きな問題へと発展していくのです。

ところで、14節には、「ただレビの部族だけには、相続地が与えられなかった。主が約束されたとおり、イスラエルの神、主への火によるささげ物、それが彼らの相続地であった。」とあります。このことは、33節にも言及があります。このレビ人の相続地については21章に詳しく記されてありますが、彼らには相続地はなく、住むべき町々と、家畜のために放牧地とが与えられました。なぜでしょうか。主が約束されたとおり、イスラエルの神、主への火によるささげ物、それが彼らの相続地であったからです。つまり、彼らは他のイスラエル人が携えてくるいけにえの分け前を受け取ることによって、生活が支えられていたということです。33節には、「主が彼らの相続地」であったとあります。つまり、神そのものが彼らの受け継ぐべき相続地であったというのです。どういうことでしょうか。レビ人は他のイスラエル人のように見える形での相続地よりも、神ご自身によってもたらされる圧倒的な主の臨在、主の栄光を受けるということです。それは、主への礼拝の奉仕に専念できるということです。この世の仕事ではなく、主の仕事に直接携わり、主に集中して生きることかできる。しかも、この世の生活もちゃんと保証されているのです。これほどすばらしい相続はありません。レビ族はそのすばらしい相続を受けるのです。

一体、レビ族とはどういう部族なのでしょうか。出エジプト記32章を開いてください。あの40年の荒野の時代に、イスラエルの民はしばしば不信仰に陥りました。真実な神をないがしろにし、偶像崇拝に陥る時もありました。この主エジプト記32章には、その時の出来事が記されてあります。モーセが神に祈るためにシナイ山に上って行ったとき、イスラエルの民はモーセがなかなか戻って来ないのに嫌気がさし、先だって行く神を造ってくれと、金の子牛を造って拝んだのです。それを見たモーセは怒りを燃やし、宿営の入口に立って、こう言いました。「だれでも、主につく者は、私のところに」、するとこのレビ族がみな、彼のところに集まったのです。そして、宿営の中を行き巡り、偶像崇拝をしている者を殺したのです。レビ族は、モーセのことばどおりに行いました。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れたのです(出エジプト記32:26~28)。つまり、この時レビ族だけは主に対する忠実さを失わず、モーセの教えを守り、その指導に従って、堕落していった人々を粛正していったのです。これがレビ族です。そしてこの時、モーセはこれを非常に喜び、彼らは以後神の祝福を得、祭司を始めとする聖務に関わる務めにあずかる群れとして、引き上げていったのです。イスラエル12部族の中で、このレビ族はその信仰のゆえに、神に直接仕えるという仕事を専門にするようになったのです。

ゆえにこのレビ族は「聖なる部族」なのです。彼らは神に直接仕える仕事に与ったため、他の部族のように生産活動というものをしませんでした。それに対して、残りの十一の部族は生産活動を行い、それによって得た農産物、あるいは家畜の十分の一を神に献げました。そしてその十一部族の献げ物によってレビ族は養われていったのです。とすると、単純な計算によって考えると、レビ族は他の部族よりも豊かであったということになります。他の部族は一割を神に献げ、残りの九割で生活しました。しかし、レビ族は一の十一部族分、すなわち十一分が与えられていたことになります。しかし、その領地の分配ということにおいては、彼らは何の割り当て地も受けませんでした。

いったいなぜレビ族には相続地が与えられなかったのか。それは主が彼らの相続地であったからです。つまり、神がすべてを与え、満たしてくださるからです。この世の物によって養われるのではなく、主なる神の御手によってのみ養われなければならないという意味です。ですから、神の業に直接携わる者は、神からのみ養われるという姿勢が求められるのであって、この世の仕事に心を動かされたり、手を染めるようなことがあってはならないのです。ただ神様を仰ぎ求め、神様からその糧を得ていくべきなのです。確かに、パウロは生活の糧が得られなかった時にテントメーカーとして働きましたが、それは必ずしも正しいことであったというよりも、そのような必要があったからです。パウロがそのようにしたのは、あくまでも献金について理解していなかった人をつまずかせることがないようにという配慮からだったのです。働き人がその報酬を得るのは当然のことなのです(Ⅰコリント9:10)。神の業に携わる人に求められるのは、レビ人がその務めに専念したように、もっぱら神の働きに集中することです。

であれば、イスラエルの残りの十一の部族の心構えも大切です。レビ族以外の部族は収穫の十分の一を捧げて、レビ族の生活を豊かに支えました。従って同じように信徒は喜んで十分の一を捧げ、聖職にある人々を支えていかなければなりません。このルベン、マナセなどの十一部族が十分の一を献げてレビ族を養ったように、真剣に主に献げていかなければなりません。なぜなら、その献げるということは、単にお金や物を献げるというだけでなく、自分自身を主に献げるという行為だからです。つまり、自分自身を主に差し出す「献身」ということなのです。だとしたら、私たちは喜んで精一杯の献げ物、できれば十分の一の献げ物を持って主に御前に出て行きたいものです。そして喜んで主の前に献身しようではありませんか。

Ⅲ.ルベンの半部族、ガド族、マナセの半部族に与えられた相続地(15-33)

次に、15節から23節までをご覧ください。ここには、モーセがルベンの半部族に与えた相続地について言及されています。彼らは、ちょうど死海の東側、モーセが最後に上ったネボ山があるところに割り当てられました。

ところで、22節には、「イスラエル人は、これらを殺したほか、ベオルの子、占い師のバラムをも剣で殺した。」とあります。ここでわざわざ、ベオルの子、占い師のバラムのことについて言及されています。この占い師バラムとは何者かというと、民数記22章に登場しますが、イスラエルを呪うためにモアブの王であったバラクから雇われた人物です。しかし、彼はイスラエルを呪うどころかイスラエルを祝福してしまいました。そこまではよかったのですが、ついつい金に目がくらみ、モアブの王バラクに助言して、イスラエルの宿営にモアブの娘を起こり込ませてしまいました。その結果、イスラエルの民はモアブの娘たちとみだらなことをし、娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、彼らを招いたので、イスラエルの民は娘たちの神々バアル・ペオルを慕い、それを拝んでしまいました(民数記25:1-2)。それで主の燃える怒りが彼らに臨み、そのバアル・ペオルを拝んだイスラエルの民の2万4千人が神罰で死んだのです。ほんとうに恐ろしい事件でした。その事件を招いたのがこのバラムだったのです。彼は、金によって盲目になってしまいました。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」(Ⅰテモテ6:10)とパウロは言いましたが、こうした貪りは、神の厳しいさばきを招くことになるのです。

23節には、「ルベン人の地域は、ヨルダン川とその地域であった。これはルベン族の諸氏族の相続地であり、その町々と村々であった。」とあります。ご存知のように、ルベンはヤコブの最初の子どもです。長子は二倍の分け前を受け取ることになっていすが、彼はヤコブのそばめビルハと寝たために、その祝福を失ってしまいました。創世記49章4節には、父ヤコブが死ぬ前に子どもたちを祝福した際、ヤコブはルベンに対して、「あなたは他をしのぐことはない。」(創世49:4)と預言しましたが、そのとおりに、ルベン族ではなく、ヨセフ族がマナセとエフライムの二部族によって、二倍の分け前を受けました。

次に、24節から28節までをご覧ください。ここには、ガド族に与えられた相続地について記されてあります。彼らに与えられた地域は、ヤゼルとギルアデのすべての町々、アモン人の地の半分で、ラバに面するアロエルまでの地、ヘシュボンからラマテ・ハツミバドとベトニムデまで、マナハイムからデビルの国境まで。谷の中ではベテ・ハラムと、ベテ・ニムラと、スコテと、ツァフォン。ヘシュボンの王の王国の残りの地、ヨルダン川とその地域でヨルダン川の向こう側、東のほうで、キネレテ湖の端まででした。巻末の地図「12部族に分割されたカナン」を見ていただくと一目瞭然です。

次に、29節から33節までをご覧ください。ここには、マナセの半部族に与えられた相続地について記されてあります。マナセの半部族は、ガド族のさらに北の地域、バシャンの土地を得ました

最後に、32節と33節をご覧ください。ここには、モーセがヨルダンの向こう側、東のほうのモアブの草原で、彼らに与えた相続地の総括が述べられています。

このように、ヨシュアが割り当てをする前に、すでにモーセによってルベン人、ガド人、そしてマナセの半部族に、割り当て地が与えられていました。なぜ彼らにだけ与えられていたのでしょうか。思い出してください。そこは肥沃な地で、家畜を放牧するのに適していたので、彼らはぜひともそこが欲しいとモーセに要求したからです。すなわち、それは主によって命じられたからではなく、彼らの欲望から出た一方的な要求だったのです。
そのような人間の思いから出たことは、結局、その身に滅びを招くことになります。これらの地域はモアブ人やアモン人、アラム人などの外敵に常にさらされることになり、ついにはアッシリヤによって最も先に滅ぼされてしまうことになります。そして完全に異邦人化されてしまうのです。どんなに人間の目で見た目には良くても、神の判断を待たないと、破滅にもっとも近いところになってしまうということでしょう。アブラハムの甥のロトもそうでした。彼が選択した地は人の目にとても潤っていたかのように見えたソドムとゴモラの近くでしたが、そこはやがて神によって滅ぼされてしまいました。

私たちはこのことから教訓を学びます。それが人の目でどんなに肥沃で潤っているような地でも、神が導いてくださるところでなければ、それは空しいということです。
「測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」(詩篇16:6)
この信仰によって、ますます主に拠り頼み、主が与えてくださる地を、心から待ち望むものでありたいと思います。

Ⅰペテロ4章12~19節 「火のような試練が来るとき」

 きょうは、第一ペテロ4章後半の箇所から、「火のような試練が来るとき」というテーマでお話します。聖書には、たびたび試練を「火」と表現されています。たとえば、この第一ペテロ1章7節には、「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く」とあります。信仰の試練を火で精錬されると表現しています。きょうの箇所にも、「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、」とあります。そんな火のような試練が来たら、だれも喜べるものではありません。辛く、悲しく、苦しいでしょう。そんな火のような試練が来るとき、私たちはどのように対処したらいいのでしょうか。

きょうは、このことについてみことばからご一緒に考えたいと思います。キーとなることばは、「喜んでいなさい」(13)「神をあがめなさい」(16)、「真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」(19)という三つの言葉です。

 Ⅰ.喜んでいなさい(12-14)

 まず、12節から13節の前半までをご覧ください。
 「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。」

 ペテロは、10節で賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」と語り、11節で「アーメン」と言って一区切りをつけると、ここから再びキリスト者の苦難をテーマに取り上げて語り出します。ペテロはこれまでずっと迫害で苦しんでいたクリスチャンを励ますために語ってきましたが、ここから一層力を入れてそれを語ります。というのは、彼らにそれまで以上の迫害が迫っていたからです。彼らにはこれまでもローマ帝国やユダヤ人からの迫害がありましたが、それに加えて、時のローマ皇帝ネロがクリスチャンをターゲットに激しい迫害を始めたというニュースを聞いたからです。それはこれまでのものとは比較にならないほどの激しいものでした。ここではそれを「燃えさかる火の試練」と表現しています。そのような燃えさかる火の試練が来たときどうしたら良いのでしょうか?ペテロはこう言っています。そのような「燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、喜んでいなさい。」と言っています。それを何か特別なケースとして考えるのではなく、むしろそれは想定内のこととして受け止めて、気持ちを落ち着かせるようにというのです。なぜでしょうか。なぜなら、キリストの苦しみにあずかれるのだからです。

ペテロは、試練や苦しみを経験する恵みの一つは、それを通してキリストが受けられた苦しみの何分の一かを経験する事ができることだと言います。主の思い、主の心は私たち人間には、なかなか分かりにくいものです。しかし、私たちが苦しみを経験することによってキリストの心を体験的に理解できるようになるとしたら、それはすばらしいことではないでしょうか。

そればかりではありません。ここには、「それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」とあります。キリストの栄光が現われる時とはいつでしょうか。そうです、キリストが再び来られるときです。そのとき、主は、これまでの全てのことを正しくさばかれ、報いをもたらされます。この地上において不正があり、曲がったことが行われ、義が踏みにじられることがあっても、キリストの栄光が現われる時、キリストはそれらの全て正しくさばかれ、それに正しく報いてくださいます。ですからそれはクリスチャンにとっては喜びの時なのです。改訂版では、「キリスとの栄光が現われるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」と訳されています。イエス様も、「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:12)と言われました。

ですから、別にやせ我慢しているのではありません。クリスチャンにとって試練や苦しみにあずかることはキリストを体験的に知ることができるばかりか、キリストの栄光の現われのときに、大きな報いがもたらされるのですから、むしろそれは喜びなのです。だから、もし私たちに燃えさかる火の試練が襲って来るようなことがあっても、それを何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しんだり、こうやっていつも貧乏くじばかり引くんだよなと悲しんだりしないで、それは想定内ですと、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるので感謝ですと受け止め、喜びおどる者でありたいと思います。

 次に14節をご覧ください。ペテロはここでクリスチャンが苦難に会うことが喜びであるもう一つの理由を述べています。それは、そのようにクリスチャンがキリストの名のために非難を受けるようなことがあるとしたら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるということです。どういうことでしょうか。

 元々、キリストを信じる者には栄光の御霊、神の御霊が宿っておられます。しかし、クリスチャンがキリストの名のために、すなわち信仰のゆえに非難を受けるようなことがあるとしたら、それこそ、神の御霊、栄光の御霊が特別に働いてくださる時だというのです。これはほんとうに慰めではないでしょうか。というのは、試練の中にいる人というのは孤独になりがちだからです。そのような時、決して私はひとりじゃない、神様が共におられるということを確信することができるとしたら、どれほど大きな励ましが与えられることでしょう。

 マーガレット・F・パワーズというアメリカ人女性が書いた「あしあと」という詩は、そのことを私たちに思い起こさせてくれます。
「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」
(「あしあと」マーガレット・F・パワーズ)

 自分が辛く、苦しい時、神にも見捨てられたのではないかと感じることがありますが、そうではありません。むしろ逆です。そのような苦しみの中にある時こそ、栄光の御霊、神の御霊が、私たちの上にとどまってくださるのです。

 Mary Ann Birdという女性が、〝The Whisper Test〞という本を書きました。彼女は普通の子どもとは違い、口蓋裂という、生まれながらに唇が裂けている病気で生まれてきました。今は手術方法が確立されていますが、当時はまだ上手に手術ができない時代でした。それで彼女が学校に行き始めると、その裂けた唇と、食い込んだ、変形した歯で、上手に話ができませんでした。すると「君はどうしたの?」と友だちから聞かれるのです。生まれつきの病気だと説明するよりも、事故でそうなってしまったと答えた方が簡単だったので、「思わず転んだ時に下にガラスがあって、唇を切ってしまった」と答えていました。それはとても辛い経験でした。
ところが彼女が2年生の時に、レオナルドという女性の先生が担任になるのです。その先生は背が低くとっても陽気な先生でした。その先生がある時クラスの子どもたちに「聞き取りテスト」をしました。それは生徒が一人ずつ教室のドアのところに行って片方の耳を塞ぎ、先生がもう片方の耳元でささやいたことを言い当てるのです。「ささやく」ことを英語でWhisperというので、Whisper Testというのです。
彼女の番がやってきました。彼女は、聞き耳を立てて聞いていました。すると、その先生はこうささやきました。“I wish you were my little girl”意味は、あなたが先生の娘だったらよかったのに、という意味です。先生のこのささやいた言葉が彼女の人生を変えるんです。それは彼女が小学校2年生の時でしたが、彼女の人生にとって忘れられない言葉となりました。
そして彼女はそのことばを振り返ってこう言うのです。「それは、神さまがこの先生を通して私におっしゃったことばだ」と。神さまがこの先生を通して私におっしゃったことばが、「あなたはわたしの愛する子だ」。ということだったのです。
孤独と悲しみの中に打ちひしがれていた彼女にとって、そのことばはどれほど大きな励ましと希望を与えてくれたことでしょう。

私たちも同じです。キリストを信じる信仰のゆえに非難を受けたり、苦難に会うとき、何とも言いようのない孤独を感じることがありますが、しかし、そのような時こそ、神の御霊があなたにこうささやくのです。「あなたはわたしの愛する子です」と。それはほんとうに大きな慰めではないでしょうか。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の神、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

Ⅱ.神をあがめなさい(15-18)

第二のことは、そのようにキリスト者として苦しみを受けるなら、恥じることはない、かえって、この名のゆえに神をあがめなさい、ということです。15節から18節までをご覧ください。
「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」

人殺しや泥棒、その他、悪を行う者、他人に干渉する者が、苦しみを受けることは、当然のことなので、そのようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、それは幸いなことなのです。それを恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなければなりません。なぜでしょうか?17節にはこうあります。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」どういうことでしょうか。

このことばは、少し唐突な感じがしないわけでもありません。というのは、ここでペテロは、あくまでも、神の御心に従って正しいことを行い、それによって苦しみを受けるようなことがあるなら、そのことのゆえに神をあがめなさいと勧めているのに、その理由が、「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」とあるからです。その前の文章につながっていないように感じます。しかし、よくみるとこれは不自然ではありません。というのは、ここでは、キリストを信じる群れである神の教会と、福音に従わない者たちの終わりがどうなのかを比較されているからです。それを際立たせているのです。まず神の家である教会です。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうと言って、18節の結論に結び付けているのです。

この17節を、新改訳の改訂版はわかりやすく訳しています。改訂版ではここを、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。」と訳しています。第三版では、どちらかというと神のさばきが教会から始まるということに強調点が置かれているのに対して、改訂版では、福音に従わない者たちの終わりがどうなるのかということに強調点が置かれています。ここで言わんとしていることは、後者のことです。

そして、ペテロはその結論を18節でこう言っています。
「義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」
これは箴言11章31節からの引用です。「もし正しい人者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」どうにもなりません。正しい者、すなわち、神の恵みにより、キリスト・イエスを信じて義と認められた者がかろうじて救われるとしたら、そうでない者が救われるはずがないというのです。

これまで私たちは3章19節の「キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」とか、4章6節の「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、」というみことばからの解釈をめぐり、福音を信じないで死んだ人も救われるチャンスがあるのかという、いわゆるセカンドチャンス論について見てきましたが、この箇所をみると、そうした考え方が一掃されます。なぜなら、福音を信じた、いわゆる正しい人でさえかろうじて救われるのであれば、そうでない人たちが救われるということがあるでしょうか。ありません。それは一方的な神の恵みであり、神の奇蹟的なみわざなのです。私たちはみな、地獄に行ってしかるべきなのに、そんな私たちを神はあわれんでくださいました。神はそんな私たちを救うために、御子イエス・キリストを送ってくださいました。私たちはかろうじて救われたのです。

私の父は74歳の時に亡くなりました。その少し前にすでにクリスチャンになっていた母とどうやったら父がイエス様を信じるだろうかと話し合っていましたが、母は、「だめだぞい」というのです。「とうちゃんは何言ってもわがんねがら」と。でも私は何とか父にも信じてほしいと思い、ある日、テープレコーダーとカセットテープを持って家に行き、父に聞いてもらいました。それは本田弘慈先生の「マルコの福音書」からのメッセージテープでした。息子の話はあまり聞きたくないだろうから、他の牧師の話だったら聞いてくれるかもしれないと思って、持って行ったのです。その日、父はいつものようにこたつに座っていました。「いいがい、よく聞いてね。」とテープを流すと、あまりにもいい話なのかすぐに深い眠りに落ちました。一応、一つの話を全部聞いてから父に、「どうだった。とうちゃんもイエス様信じる?」と聞くと、父が突然目を開けて、「うん、信じる」と言ったのです。ずっと寝ていたのにあり得ないと思い、「うそでしょ」と言うと、「ん、ホントだ」と言うのです。じゃ、いっしょに祈ろうと言ったら、素直にイエス様を信じますと祈ったのです。もしかすると、母に何か言われていたのかもしれません。末息子の私の言うことだから、聞いてやろうと思ったのかもしれない。どうして信じると告白したのかわかりません。しかし、それまで何度言っても信じなかった父が、その日に限って信じると信仰を告白したのです。
その週のことです。母から、父が動けないから来てほしいと電話があったので家に行き、父をおんぶして車に乗せて病院に行くと、そのまま入院することになりました。そして、その二日後に父は息を引き取ったのです。そのとき私はわかりました。なぜ父が信じると言ったのか。それはもうすぐ死ぬことを悟っていたからかもしれません。イエス様のことをそんなに知らなかったのに、ただイエス様を信じただけで救われたのです。これがキリスト教の救いです。信じるだけで救われる。何か特別なことをしたわけでもなく、真剣に学んだわけでもない。半分いつも寝ているような人だったのに、罪から救われたのです。これが聖書の言う救いです。これはどんなに知識があっても、どんなに立派なことをしても得られるものではありません。ただ幼子のように救い主イエス・キリストを信じなければなりません。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9-10)
だから、今でもよく思います。父はかろうじて救われたと。今ごろ天国にぶら下がっているんじゃないかと思います。しかし、それは父だけのことではありません。私たちもそうです。私たちもかろうじて救われたのです。私たちは救われるに値するような者ではなかったのに、神のあわれみによってかろうじて救っていただきました。であれば、神の福音に従わない人たちの終わりはどうなることでしょう。神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなることでしょう。どうにもなりません。

だとしたら、私たちはこのように神の救いを受けた者として、キリスト者として苦しみを受けることがあるとしても、それを恥じたりすることなく、かえって、この名のゆえに神をあがめなければならないのです。

Ⅲ.真実な創造者に自分のたましいをお任せしなさい(19)

ですから、結論は何かというと、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさいということです。19節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。
「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」

これが、ペテロがここで言いたかったことです。神のみこころを行ってなお苦しみに会う時、私たちがすべきことは、自分のたましいを、創造者である神にお任せすることです。ここでペテロが、「真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」と言っているのは興味深いです。ここではさばきのことが言及されているのですから、「公平にさばかれる方」(1:17)とか、あるいは、「正しくさばかれる方」(2:23)と表現した方が自然なのに、「真実であられる創造者」と呼んだのはどうしてなのでしょうか。それは、創造者であられる神が、創造されたすべてのものに対して真実を尽くされる方であるということに、私たちの目を留めさせるためです。つまり、神は救い主イエス・キリストを信じ、彼により頼む者のために、その真実をもって、守り、保ってくださるということです。この方に自分のたましいをお任せする以外に、ほんとうの平安は生まれません。この創造主なる神を信じ、ゆだねきるなら、たましいに深い平安がもたらされるのです。

私たちの主イエスも、あらゆる苦しみと辱めの中で、「正しくさばかれる方にお任せになりました。」(2:23)ご自身が最後の息を引き取られるときには、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。(ルカ23:46)」と言われました。私たちのたましいの平安は、この真実であられる創造者に、自分のたましいをお任せすることができるかどうかにかかっているのです。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたはいま、どんな試練に会っておられますか。それがどのような試練であっても、真実な神は、あなたがたを、耐えられない試練に会わせるようなことはなさいません。耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。そのことを信じましょう。そして、たとえあなたの前に燃えさかる火の試練が襲ってきても、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむのではなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、いっそう喜び、この名のゆえに、かえって、神をあがめ、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしましょう。かろうじてであれ、何であれ、私たちは救われたのです。この救い主に自分のたましいをお任せすること、そこに真の平安があるのです。これこそ、火のような試練が来ても、それを乗り越える道なのです。

Ⅰペテロ4章7~11節 「万物の終わりに備えて」

 きょうは、「万物の終わりに備えて」というタイトルでお話ししたいと思います。7節には、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。」とあります。

万物の終わりとはすべての物の終わりのこと、つまり、この世の終わりのことです。そんなことあるはずないじゃないかと言う方もおられるかもしれませんが、聖書は万物には始まりがあったことともに、その終わりもあることを教えています。たとえば、イエス様は弟子たちがエルサレムの神殿をさし示したとき、「まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石が崩されずに、積まれたままで残ることはありません。」(マタイ24:2)と言われました。それは、ローマ帝国によって神殿が破壊されるということとを預言して言われたことですが、それと同時にこの世の終わりに起こることを指して語られたことでした。そして、この世の終わりにはどんなことが起こるのかというその兆候を語りながら、「だから、目を覚ましていなさい。」(マタイ24:42)と言われたのです。

また、ペテロもⅡペテロ3章10節で、「主の日は、盗人のようにやって来ます。」と語り、その時どんなことが起こるのかを預言してこう言っています。
「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(Ⅱペテロ3:10-13)

ですから、万物の終わりは必ずやって来るのです。問題は、その万物の終わりにどのように備えたらよいかということです。ペテロはここで、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。」と言っています。万物の終わりが近づいている今、私たちがすべきことはどこかに逃げたり、避難することではなく、祈りのために、心を整え、身を慎むことです。祈りのために心を整え、身を慎むとはどういうことでしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 Ⅰ.互いに熱く愛し合う(8)

 それはまず互いに愛し合うことです。8節をご覧ください。
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

ここでペテロは、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい」と言っています。「何よりもまず」とあるのは、何よりも優先して、ということです。万物の終わりが近づいているいま、クリスチャンが他の何よりも優先してしなければならないことは互いに愛し合うことです。ただ愛し合うというのではありません。ここには「熱心に」とあります。「熱心に」とは、「心を込めて」とか「深く」という意味です。なぜクリスチャンでは、何よりもまず、互いに深く愛し合わなければならないのでしょうか?なぜなら、愛は多くの罪をおおうからです。これはどういうことでしょうか。この言葉を一番よく表現しているのはヨハネの福音書8章に見られるイエス様の態度ではないかと思います。

ここには、皆さんもよくご存じの姦淫の現場で捕らえられたひとりの女性のことが記されてあります。律法学者やパリサイ人たちは、律法によれば、こういう御名は石打ちにすべきだとあるが、イエスよ、あなたはどうされるか?と問うと、イエスは、彼らが問い続けてやめなかったので、何やら地面に書いておられれましたが身を起こしてこう言われました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
すると、年長者たちから始めて、ひとりひとりその場を去って行きました。さすがに彼らも良心の呵責を感じたからです。
そしてイエス様は、その卑しめられた女性に言われました。「あなたを罪に定める者はなかったのですか。」(ヨハネ8:10)
女が「いません。」と言うと、イエス様は言われました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)
イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めなさい」と言われました。律法学者やパリサイ人たちはこの女の罪を暴き出そうとしました。けれども、イエス様は彼女の罪を暴き出そうとしたのではなくおおいました。それは決して彼女の罪などどうでもいいとか、それを許容したということではありません。罪を悔い改めた彼女に対して、神の深いあわれみを示したのです。いったいこの女が悔い改めたかどうかを、どうやって知ることができるでしょうか?それは、この女性が律法学者やパリサイ人たちがその場を立ち去っても、ずっとそのままそこにいたことからわかります。自分を訴えた者たちがみんなその場を立ち去ったのであれば、彼女もそっと立ち去ることができたはずです。それなのに彼女はずっとそこにとどまっていました。なぜでしょうか?逃げたからと言って、彼女の本当の問題、黒い雲に覆われたような罪の問題の解決にはならないと思ったからです。それよりも、殺されても仕方ないような自分の人生に解決を与えることができる主に、自分の罪の問題を解決していただきたいと思ったのです。その点で律法学者やパリサイたちとこの女性との間には大きな違いがありました。律法学者とパリサイ人たちは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われたとき良心の呵責を感じたかもしれませんが、その罪の解決のためにイエス様のもとに来ようとはしませんでした。一方、この女性は自分の罪を嫌と言うほど自覚していただけでなく、その問題の解決のためにイエス様のもとに来ました。もうさばかれても致し方ないような者をさばくのではなく赦してくださるイエス様の前に、自分の罪を悔い改めたのです。ですからイエス様は、「わたしもあなたを罪に定めなさい。」と言われたのです。イエス様は彼女の罪をいい加減に扱ったのではなく、彼女が自分の罪を悔い改めその解決を真剣に求めていたので、罪の赦しを宣言されたのです。

このことは、私たちがいかに罪を赦すという心が必要であるかを教えています。時に、罪に対しては厳しい態度で臨まなければならないこともあります。ほんの小さなパン種がパン全体をふくらませるように、ほんの小さな罪が神の教会全体に影響を及ぼすことがあるからです。けれども、罪を悔い改めた人に対しては罪を赦すこと、おおうことが必要なのです。なぜなら、罪を責める目的はその人が立ち直ることにあるからです。しばしば、「不正を暴かなければいけない」という正義感に燃えて、その罪を暴き出したがる人がいますが、愛は多くの罪をおおうのです。これが神の愛、イエス様の愛です。神は、罪深い私たちを赦すためにそのひとり子をこの世に送ってくださいました。そして、私たちの罪の身代わりとして十字架につけてくださったのです。私たちをさばいたのではなくおおってくださいました。これはすばらしい知らせではないでしょうか。これが福音です。ヨハネはこのように言いました。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)
  
神が罪人である私たちをあるがままに愛してくださったということ、そして、そのためにご自身の御子をこの世に送ってくださったという事実は、私たちにどれほど大きな喜びと力を与えてくれることでしょうか。だから、ヨハネはこう言うのです。
「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのだから、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:11)
 
万物の終わりが近づいている今、私たちに求められている第一のことは、何よりもまず、互いに熱心に愛し合うことです。愛は多くの罪をおおうからです。

Ⅱ.互いに親切にもてなし合う(9)

第二のことは、互いに親切にもてなし合うことです。9節をご覧ください。
「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」

もてなすこと、接待することが、万物の終わりに近づいているいま、祈りのために心を慎み、身を慎むことの具体的なこととして勧められていることに、意外な感じを持たれる方もおられるかと思います。しかし、当時は今のようにホテルや旅館といった宿泊施設が整っていたわけではなかったので、旅人をもてなすことがなければ、巡回して福音を宣べ伝える伝道の働きをすることは困難でした。また、教会もはじめの約二百年の間は建物らしきものを持っていなかったので、礼拝やその他の集会のためには自分の家を開放してくれる人が必要でした。ですから、聖書には旅人をもてなすこと、互いに親切にもてなし合うことを繰り返して語られているのです。パウロは、Ⅰテモテ3章2節で、「監督はこういう人でなければなりません。」と教会のリーダーたちが、このよくもてなす人でなければならないと語っています。それはクリスチャンにとってとても大切な愛のわざであったのです。

しかし、旅人をもてなすことはそんなに楽なことではありません。我が家には国内外を問わず実に多くの来客があります。また、教会の二階に住んでいるので、教会の集会で下がいっぱいの時は二階のダイニングキッチンで集会が持たれます。それは私たちにとってほんとうに感謝なことですが、かなりの負担が強いられるのも事実です。まずそのために家中を掃除しなければなりません。またお食事でもてなすために買い物をしたり、お料理を作ったりと、多くの労苦が伴うのです。すると、ついつい「ああ、もっと広い会堂があったら良かったのに」とか、「もうこんなにまでしてやる必要があるのだろうか」といったつぶやきが出てくるものです。ペテロは、そうした思いを知ってか知らずかわかりませんが、ここで、「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」と言っているのです。

私は、昨年の夏に中国の家の教会を訪問しました。上海空港に着くなり家の教会のリーダーが、「今晩、田舎の家の教会の集会があるので、これからまっすぐ行ってみましょう」と私たちを連れて行ってくれました。そこはK市の郊外にある農村地帯でした。行ってみると1階がガレージのような造りの家でしたが、そこに食卓を囲んで座れるようになっており、テーブルにはたくさんのお料理が作って置かれていました。「さあ、どうぞ食べてください」と、そこに私たち夫婦とその家のご主人夫婦、それに家の教会のリーダーたちが座り、その他の方々はみな外で自由に食べていました。その日の夕食は、その家の持ち主を中心として、いえの教会の人たちがみんなで準備されたとのことでした。お手洗いに行くといくつかのパイプを継ぎ合わせてあり、見るからに貧しい家であることがわかれましたが、私たちのために盛大なおもてなしをしてくれたのには、とても心が熱くなりました。
夕食の後で集会をするというので、ここでするのかなぁと思っていたら、歩いて2~3分離れたところでするというのでそちらへ移動すると、そこは古い農家の納屋のようなところでした。100人くらい入るスペースに椅子が並べてあり、私たちは一番前に案内されて座ると、集会は2時間くらい続きました。その間、その家の持ち主であるというおばあちゃんが、私たちのために何度も何度もお茶を注いでくれるのです。せっかくいれていただいたものを飲まないと申し訳ないと思い少しずつ飲んでいると、まだグラスには4分の3くらい残っているのに、またやって来て注いでくれるのです。ニコニコしながら・・。
 あとで同行したOさんに、どうしてこんなに親切にしてくれるのかと尋ねると、Oさんが言われました。「それは当たり前ですよ。中国人は兄弟姉妹には親切にするのです。兄弟姉妹は家族であり、仲間ですから。そういう人たちには親切にするのです。」まさにここで言われていることを文字通り実践しているかのようでした。

万物の終わりが近づいているいま、私たちに求められているのは、このおもてなしです。それは来客に対してのおもてなしということだけでなく、私たちの生き様そのものでもあります。教会に来られる方々を温かく迎えたり、親切にもてなしたりということも含むのです。互いに親切にもてなし合うこと、それは互いに熱心に愛し合うということの具体的な一つの表れでもあるのです。

Ⅲ.互いに仕え合う(10-11)

第三のことは、互いに仕え合うことです。10節と11節をご覧ください。
「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」

互いに愛し合うこと、互いにもてなし合うことに続いて、ペテロは、互いに賜物を用いて仕え合いなさい、と勧めています。「賜物」とは、神の恵みによって与えられたものです。何らかの価値があってとか、何らかの報酬としてということでもなく、何の価値もなく、何かの報いとしてでもなく、ただで与えられたものです。ここには、「それぞれが賜物を受けているのですから」とあるように、それは、クリスチャンのすべての人に与えられているものです。クリスチャンであるなら例外なく皆、何らかの賜物を与えられているのです。賜物が与えられていないという人はいません。みんな与えられています。その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい、というのです。それは自分の賜物のすばらしさを自慢するためではなく、他の人の益のため、そして、キリストのからだである教会を建て上げるためです。ちょうど家を建てるのに、ハンマーやのこぎりや釘といった違った道具が必要なように、それぞれの違う賜物が用いられ、神の教会が建て上げられていくのです。

そのためには、さまざまな恵みのよい管理者として、その賜物をもって互いに仕え合うことが必要です。ここには、「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」とあります。これは二つの賜物が取り上げられているというよりも、教会の二つの重要な働き、すなわち宣教と実際的な奉仕について述べられていると言えるでしょう。「語る人があれば、神のことばとしてふさわしく語り」というのは、神のことばを語る人は、神のことばを語る人らしく神の権威をもって、しかも自分の意見や考えを述べるのではなく、神のみこころのみを伝えるという決意をもって語るべきであるということです。また、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさいというのは、自分の力によってではなく、神から与えられている力によってしなければならないということです。それは自分の力によってではなく、神から与えられたものとしての自覚をもって、惜しむことなく、また、へりくだって仕えることなのです。

具体的な賜物の種類については、Ⅰコリント12章、エペソ4章、ローマ12章に書かれてありますが、その内容は千差万別です。この三つの箇所を照らし合わせてみると、少なくとも18種類以上の賜物があることがわかります。それはまた別の機会に学びたいと思いますが、ここでは特にその最終的な目的は何かということをみたいと思うのです。11節の後半のところをご覧ください。ここには、「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン」とあります。

これが最終的な目的です。神がそれぞれに賜物を与えてくださったのは、神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合うためですが、それはどうしてなのかというと、そのことによって、イエス・キリストを通して神があがめられるためなのです。説教は説教者の力を見せるためではなく、人々を神の御前に連れて行くためになされるものです。奉仕はそれを与える人に感謝や尊敬をもたらすためではなく、人々の心を神に向けさせるためになされるべきなのです。

有名な音楽家、ヨハン・セバスチャン・バッハが、宗教改革者マルチン・ルターに書き送った手紙が残っています。その中でバッハは、「音楽の唯一の目的は、神の栄光が現され、人々の魂が新たにされることでなければならない」と書いています。少なくともバッハはそう思ったのです。彼は自分の音楽を作る目的は「神の栄光を現すことだ」と言ったのです。ですから、彼が書いた楽譜の最後の所に、いつも彼は「S・D・G」とサインしたのです。これはある言葉の頭文字です。それは「SOLI DEO GLORIA」、つまり「神にのみ栄光あれ」という意味です。彼は、新しい曲を作る毎に、この曲が神の栄光を現すものであるように、そしてこの曲を聞く人の魂が新たにされるように、という願いを込めて、曲を作っていったのです。

あなたはどうでしょうか?神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合っているでしょうか。その賜物にふさわしく奉仕していますか。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。私には賜物が一つもありませんという人はいません。それぞれが賜物を受けているのですから、その賜物を用いて、互いに仕え合わなければなりません。私たちすべてのクリスチャンが自分自身のために生きることを止め、神のために生きるようになるなら、新しい神の恵みと栄光が教会をおおうことでしょう。すべてのことが神の栄光のために用いられるように、私の小さな奉仕を心から主に捧げたいと思います。そして、このように賛美しましょう。「栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」これが万物の終わりが近づいているいま、私たちに求められていることなのです。