創世記1章

 きょうからご一緒に創世記を学んでいきましょう。「創世記」というタイトルは、「始まり」という意味です。創世記は神以外のすべての始まりについて私たちに知らせてくれます。つまり、天地万物の始まり(1:1-25)、人の始まり(1:26-2:25)、人類の罪の始まり(3:1-7)、神の救いの始まり(3:8-24)、家族の始まり(4:1-15)、文明の始まり(4:16-9:29)、世界の諸国民と言語の始まり(11-12)、イスラエル民族の始まり(12-50)についてです。
 それでは、早速、聖書の第1ページから開いていきましょう。

 Ⅰ.天地万物の始まり(1-31)

 まず1~5節をご覧ください。
「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」

あなたは、この天地がどのようにして始まったのかを考えたことがありますか。いくら考えても答えが出ないので、いつしか考えることすらしなくなったという人も少なくないかと思います。宇宙と人間の起源が、水、火、土、空気、原始、アメーバのようなものから始まり、今日のような世界ができたと唱える進化論を、全く疑うことなく受け入れるようになってしまいました。しかし、本当に宇宙はそうしたものから進化してきたのでしょうか。もしそうであるなら、次の質問にどのように答えるのでしょうか。
①もしも、宇宙が「何か」から始まったのだとしたら、その「何か」はいったいどこから来たのでしょうか。
②もしそであるなら、物質の中から、人間のような感情や愛情といったものが生まれてくるでしょうか。
③もしも、進化論が事実であるとすれば、すべては偶然であり、私たちの人生や宇宙には何の意味もないことになります。
進化論は、一つの仮説にすぎず、すでに証明された事実ではありません。ではいったいこの宇宙はどのようにして始まったのでしょうか。

1-2節を見ると、「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」とあります。宇宙の初めは何もありませんでした。ただ神だけが存在し、神がこの天と地を創造されたのです。このことから、真の神とはどのような方であるかがわかります。それは永遠から永遠まで存在しておられ、この天と地を造られた創造主であられるということです。人間の手で造られたものは神ではありません。神は創造者であって、無から有を創造することができる方なのです。

その神が最初に造られたものは何でしょうか。3節には、神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」とあります。この光とは何の光のことでしょうか。というのは、14~16節の第四日の創造の記録に、太陽や月、そして星々が造られた、とあるからです。ですから、ここでいう光は、そのような星を光源とする物理的な光ではないことがわかります。それでは、この光とは何なのかと問われても、正直な話わかりません。いろいろな説明がなされています。それは「時間的な秩序だ」という人がいれば、それは「エネルギーのことだ」という人もいます。「太陽の光だが地球に到達するまでには時間がかかるのだ」という人もいます。「いのちの光だ」という人もいます。また、「神の御業を白日のもとにさらす光だ」という人もいます。どれもなるほどとは思いますが、聖書的な根拠に曖昧さが残ります。結局、この光が何であるかは分かりません。おそらくそれは太陽の光でも、人造の光でもなく、私たちの心の闇を照らす光のことでしょう。あるいは、そうした光のすべての源といってもいいかもしれません。私たちには、太陽の光や人造の光をもってしても照らすことができない闇があります。そのような闇に神が「光あれ」と仰せられたのです。この神の言葉が、闇の中に光をもたらしました。この光に照らされて歩む人はどんなに幸いなことでしょうか。

次に6~8節までをご覧ください。
「神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。」

神が第二日目に創造されたものは何でしょうか。それは「大空」です。神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別されました。これはどういうことかというと、水と水の間に空間が出来たということです。空の下に水があるだけではなく、空の上にも水がありました。もしかしたら、地球のオゾン層のように、地球のまわりに水の層があったのかもしれません。現在はその層は存在していません。なぜなら、ノアの時代にその水が地上に降ったからです。こうして、ただ光があるところから、空が造り出されました。

三日目には造られたものは何でしょうか。9~13節をご覧ください。
「神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第三日。」
神が三日目に造られたのは、海と地です。神は、水しかなかったところを海と陸とに分け、陸地に植物を生えさせました。ここに、「種を生じる草」とか、「種のある実」とあります。これは、植物に自己繁殖する能力を備えられたということです。また、「おのおのその種類にしたがって」とあります。植物はおのおのその種類にしたがって造られました。ひとつの種から、別の種に進化するということはありません。植物がなぜか魚になって、魚がいつのまにか陸に這い上がって、それがわにのような爬虫類となり、それが巡り巡って猿になり、猿が進化して人間になった、ということはないのです。植物や動物は、おのおのその種類にしたがって造られたのです。

四日目に造られたものは何でしょうか。14~19節をご覧ください。
「神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第四日。」

四日目に造られたのは太陽と月と星です。神は二つの大きな光る物を造られました。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さい方の光ものには夜をつかさどらせました。また星を造られました。神は第一日日に「光」を創造されましたが、その光が集められて保持しておく物として、こうした星を造られたのでしょう。

この大田原市は、環境省が行う「星空継続観察」において、過去に4度日本一に輝きました。自宅から見る星空は回りが明るすぎてそれほどきれいには見えませんが、車で20分ほど離れた「ふれあいの丘」から見る夜空は、恵まれた自然環境のもとでとてもきれいに見えます。しかし、「ふれあいの丘」まで行かなくとも、夜空に輝く星を見てどれほど感動したことでしょうか。それは単に夜空がきれいだからということではなく、果てしない宇宙の広がりを思うとき、神の創造の偉大さを感じるからです。ヨブ記26:7には、「神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。」とあります。何もそれは地球だけでなく、すべての星に言えることです。その星の数は何と、一つの銀河に数千億個もあると言われています。その銀河が数千億個もあるわけですから、宇宙には「数千億個×数千億個」の星が存在しているのです。まさに海の砂のようです。それだけの数の星が何もない空間に掛けられているということを考えると、宇宙の広がりに圧倒されます。このような宇宙が存在していることを思うとき、そこには神が存在しているとしか言いようがありません。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1)のです。

第五日目に造られたものは何でしょうか?20~23節までをご覧ください。
「神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」夕があり、朝があった。第五日。」

第五日目に造られたものは、魚類と鳥類でした。神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造されました。

第六日目はどうでしょうか。24~31節をご覧ください。
「神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」

第六日目に造られたのは何でしょうか。第六日目に造られたのは家畜や、はうもの、野の獣です。そして、人を造られました。神は六日間で天と地と、その中の生き物のすべてを創造されました。

このように見てくると、神の創造の御業に、何か特徴があることにお気づきでしょうか。そうです、神はその種類にしたがって、すべての生き物を創造されました。したがって、宇宙と人間の起源は、水、火、土、空気、原始、アメーバのようなものから始まったのではなく、神がその種類にしたがって創造されたのです。そして、その神の創造の目的は何だったのでしょうか。それは人間です。なぜなら、神は人を最初に造られたのではなく、すべてのものを造られた後で最後に造られたからです。もし最初に造られたとしたらどうでしょうか。生きていくことができなかったでしょう。しかし、神は人がちゃんと生きていくことができるように、人に必要なすべてのものを事前に備えてくださったのです。それはちょうど赤ちゃんが産まれる時に親が生まれてくる赤ちゃんが生命を維持していくために必要なすべての環境を整えるようなものです。神にとって人はそれだけ重要な、創造の目的なり、中心だったのです。

 Ⅱ.神のかたちに造られた人(26-27)

 では、神はどのように人を造られたのでしょうか。26節と27節をご覧ください。ここには、「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とあります。

 神は、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と仰せになられました。「われわれのかたち」とはどういうことでしょうか。神は霊ですから(ヨハネ4:24)、神はわれわれのように目や鼻や耳を、手や足といった肉体をもっておられるということではありません。神のかたちとは、神の性質や特徴のことを指しています。その特徴とは何でしょうか。それは「霊」です。神はわれわれが神と交わることができるように、霊を持つものとして造ってくださいました。これは他の動物には無いものです。人だけが神と交わることができるように、霊を与えてくださいました。これが人格の最も中心にあるもので、われわれはこの霊をもって神を慕い求め、神に祈り、神と交わるのです。これはいわば手を合わせる部分と言ってもいいでしょう。どうして人は手を合わせるのでしょうか。それが創造主なる真の神であるかどうかは別として、人はすべて、どの時代の人でも、何らかを神として拝むように造られたからです。

 娘がまだ小さいころ、青森の三内丸山遺跡を見学に行ったことがあります。三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡ですが、その集落の真ん中に櫓(やぐら)が組まれてありました。「いったい何のために櫓が組まれたのか」と思いガイドさんの説明を聞いていたら、それは神を祭るためであったというのです。ずっと昔の日本人も、その生活の中心は神を祭ることだったということを知った時、それは当然と言えば当然だと思いました。なぜなら、人はそのように創られたからです。人は単に肉体と精神を持っているだけでなく、その中心に霊魂を持つものとして造られ、この霊魂を通して神を仰ぎ、神と交わるように造られたのです。

 よく東京の超高層ビルの屋上に鳥居があるのを見ます。現代の建築の技術を結集してつくられた超高層ビルなのに、なぜその屋上に鳥居があるのか。それは、どんなに建築技術が進歩しても、それだけでは解決できないものがあるからです。それは人知を超えた神の存在です。人の思いを超えた神の守りがあるようにという祈りから置かれているのではないでしょうか。それは、人がそのようなものとして造られているからです。世界中のどの民族でも、またどの時代でも、みな神を恐れ、神を敬い、神に祈って生きてきました。木や石で作られたものを神として拝む気持ちもわかります。それは罪によって真の神がわからないために、自分で神を作って拝んでいるからです。しかし、それもまたわれわれが神のかたちに造られているということの証明でもあります。人は、造り主である神に向かい、神と交わり、神のいのちに満たされてこそ、真の幸福を味わうことができるのであって、それが満たされるまでは、どんなに物質的に満たされていても、真の満足を得ることはできないのです。

 Ⅲ.神の栄光と喜びのため(31)

 では、神はいったい何のために人を造られたのでしょうか。言い換えると、人はいったい何のために生きているのでしょうか。皆さんは考えたことがありますか。皆さんはいったい何のために生きているのでしょうか。この聖書の箇所にはそのことについて二つのことが教えられています。

 第一のことは、支配するためです。28節をご覧ください。
「神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
 神は人をご自身のかたちに創造すると、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」と言われました。神はこの地上のすべての生き物を支配するようにと、人を創造されました。詩篇8:5-6には、このことを別の表現で次のように言及されています。「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」
 これが神のかたちに造られた人類に対する神の命令です。人間は神の代理者として、被造物を管理するようにという使命がゆだねられたのです。それは、人は神に信頼された者であるということです。だから、人には考える力、この世界を形作る能力が与えられたのです。また、文化を創造することもできます。人は特別な被造物なのです。そして、特別な使命がゆだねられたのです。

 第二のことは、これが人の造られた主な目的ですが、それは、造り主である神を喜び、永遠に神をほめたたえることです。31節には、神はお造りになったすべてのものをご覧になられたとき、「それは非常に良かった」と言われました。「なぜこんなものを造ってしまったんだろう」と悲しみませんでした。「非常に良かった」と言って、喜んでくださったのです。それは言い換えると、われわれ人間は、このように喜んでくださる神のために生き、存在しているということです。もし、私たちが何のために生きているのかがわからなかったらどうでしょうか。人生はほんとうに空しいものになってしまいます。何のために生きているかがわからなければ、生きる力や喜びは生まれてこないのです。

 ある中学校の女子生徒が、担任の教師の所に行ってこう質問しました。「先生。私たちはいったい何のために勉強するのでしょうか。」この生徒は勉強していてもその意味がわからず、空しい思いを抱いて先生に質問したのです。しかし、その教師の答えはこうでした。「バカ!そんなことを考える暇があったら勉強しなさい!」でも、何のために勉強しているのかがわからなかったら、どこからその力が出てくるでしょう。どこからも出てきません。いったい何のために生きているのか、何のために勉強しているのかがわかって、初めて力が生まれてきます。人生の目的を知っているということは、私たちの人生にとって最も大切なことなのです。今、若い青少年が、人生の意味がわからなくて悩んでいます。その結果ひきこりや、不登校といった社会問題が起こっています。彼らにとって最も大切なことはどうしたらひきこもりから解放されるかということではなく、何のために生きているのか、その意味を知ることです。そのことがわかったらどれほど生きる喜びと希望、力が与えられることでしょう。

 あなたは何のために生きていますか?多くの人は「生きるために生きている」とか、「食うために生きている」というようなピントがズレたような答えをします。それだけこの問いに対して答えを持っている人は少ないのです。しかし、聖書はその問に対して明快な答えを与えてくれます。それは、神のためです。神の栄光のためです。永遠に神を喜ぶためです。なぜなら、人は神のかたちに創られたからです。このことがわかったら、私たちの人生がどんなに意味あるものとなるでしょう。

 ところで、神の栄光のために生きるとはどういうことでしょうか。それは神のために何か特別なことをすることではありません。神の喜びのために生きるとは、神に造られた者として神の御前に、神を信じて生きるということです。そうすれば、きっと神が自分に与えられた賜物を見い出すことでしょう。その賜物を用いて、心から神に仕えて生きることです。

 神はお造りになられたすべての者をご覧になられたとき、「非常に良かった」と言われました。神はあなたをご覧になられた時、何と言わるでしょう。「非常に良かった」と言って喜んでくださるような、そんな人生を歩ませていただきましょう。それこそ、私たちが造られた目的なのですから。