ヨシュア記22章

きょうは、ヨシュア記22章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

Ⅰ.同胞を捨てず(1-9)

 

「そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、彼らに言った。「あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに命じたことを、ことごとく守り、また私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。」今日まで、この長い間、あなたがたの同胞を捨てず、あなたがたの神、主の戒め、命令を守ってきた。今すでに、あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞に約束したように、彼らに安住を許された。今、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川の向こう側の所有地、あなたがたの天幕に引き返して行きなさい。ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行ない、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。ヨシュアは彼らを祝福して去らせたので、彼らは自分たちの天幕に行った。・マナセの半部族には、モーセがすでにバシャンに所有地を与えていたが、他の半部族には、ヨシュアはヨルダン川のこちら側、西のほうで、彼らの同胞といっしょに所有地を与えた。・・さらに、ヨシュアは彼らを天幕に送り返すとき、彼らを祝福して、次のように彼らに言った。「あなたがたは多くの財宝と、おびただしい数の家畜と、銀、金、青銅、鉄、および多くの衣服とを持って天幕に帰りなさい。敵からの分捕り物はあなたがたの同胞と分け合いなさい。」それでルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるシロでイスラエル人と別れ、モーセを通して示された主の命令によって、彼らが得た自分の所有地、ギルアデの地へ行くために帰って行った。」

 

前章のところで、ヨシュアはすべての部族に占領した土地の割り当てを行ない、また、のがれの町と、レビ人の町々を定め、すべての仕事を終えました。そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、彼らに言いました。それが2節から5節までに記されてある内容です。彼らはヨルダンの東側に相続地がすでに与えられていました。ですから、人間的に考えるなら、わざわざ戦いに出て行く必要はなかったわけです。しかし、モーセは、ヨルダン川を渡る前に、これら2部族と半部族に、妻子と家畜を残し、成年男子の勇士たちはともにヨルダン川を渡って戦いに参加するように命じました。そして、すべての戦いが終わり安住することができるようになったら、自分たちの所有地に戻りなさい、と言いました。彼らはその命令を最後まで守り通しました。そのことに対してヨシュアはここで、その働きの功績に対してねぎらいのことばを語っているのです。ヨシュアはヨルダンの東側の土地が割り当てられていた彼らが、モーセの命令を守り、わざわざ川を渡ってまで、同胞イスラエルを助けるために労を惜しまなかったことに対して、深く感謝しました。そして多くの財宝とともに彼らを祝福して去らせたので、彼らは自分たちの天幕へと帰って行きました。

 

パウロはピリピ人への手紙の中でテモテの働きについてこう言っています。

「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。」(ピリピ2:20-22)

自分のことを考えれば、人はばらばらになります。けれども、キリスト・イエスを求めるときに、自分を無にして、他の人々のことを考えることができるようになり、そこで思いを一つにすることができるようになるのです。私たちに求められているのは、このキリスト・イエスを求めることです。キリスト・イエスを求めることで一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしなければなりません。

 

Ⅱ.戦いの危機(10-20)

 

次に10節から20節までをご覧ください。ルベン人、ガド人、そしてマナセの半部族がヨルダンの東側の自分たちの領地に帰って行ったとき、ある一つの事件が起こります。まず、10節から12節までをご覧ください。

「ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは、大きくて、遠くから見える祭壇であった。イスラエル人はこういううわさを聞いた。「ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族が、カナンの地の国境、ヨルダン川のほとりの地、イスラエル人に属する側で、一つの祭壇を築いた。」イスラエル人がそれを聞いたとき、イスラエル人の全会衆は、シロに集まり、彼らといくさをするために上って行こうとした。

ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築きました。しかもそれは大きな祭壇で、遠くからも見えるものでした。いったいなぜ彼らはヨルダン川のほとりにそんなに大きな祭壇を築いたのでしょうか。またそのことがなぜイスラエル民族に戦いをもたらす程の重大な事だったのでしょうか。

 

13節から20節までをご覧ください。

「それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせた。これらはみな、イスラエルの分団の中で、父祖の家のかしらであった。彼らはギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに行き、彼らに告げて言った。「主の全会衆はこう言っている。『この反逆は何か。あなたがたはきょう、主に従うことをやめて、イスラエルの神に反逆し、自分のために祭壇を築いて、きょう、主に反逆している。』ペオルで犯した不義は、私たちにとって小さなことだろうか。私たちは今日まで、自分たちの身をきよめていない。そのために、神罰が主の会衆の上に下ったのだ。あなたがたは、きょう、主に従うことをやめようとしている。あなたがたは、きょう、主に反逆しようとしている。あす、主はイスラエルの全会衆に向かって怒られるだろう。もしもあなたがたの所有地がきよくないのなら、主の幕屋の立つ主の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。私たちの神、主の祭壇のほかに、自分たちのために祭壇を築いて、主に反逆してはならない。また私たちに反逆してはならない。ゼラフの子アカンが、聖絶のもののことで罪を犯し、イスラエルの全会衆の上に御怒りが下ったではないか。彼の不義によって死んだ者は彼ひとりではなかった。」

 

ここにはなぜ他のイスラエルの部族がそれを問題にしたのかが記されています。それはヨルダンの東側のイスラエル人たち、すなわち、ルベン族、ガド族、マナセの半部族が、シロにある幕屋の祭壇ではない祭壇をつくり、自分たちで勝手に、イスラエルの神ではない異なる神にささげものをしようとしていると思ったからです。イスラエル人たちは、自分たちの中に罪があれば、大変なことになることを知っていました。それは彼らだけの問題ではなく自分たちの問題でもあり、イスラエル全体に影響を及ぼすものであると理解していました。だから、彼らが主に背いて罪を犯すなら、彼らと戦わなければいけないと思ったのです。それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせました。

 

イスラエル人の偉大さは、そのことを聞いたとき、シロに集まって、ルベン族、ガド族、マナセの半部族と戦うために上って行こうとしましたがすぐに上って行ったのではなく、その事実関係を確かめることから始めたことです。彼らはまずその調査団をギレアデの地に派遣しました。その団長はピネハスという人物でしたが、彼は信仰的にも人格的にも大変優れた人物であって、常に神様のみこころを求めていた人でした。私たちは人のうわさ話によってすぐに翻弄されてしまいものですがこうして事実関係を調べ、事実関係をしっかりとつかむことは極めて重要なこととです。

 

そのピネハスを団長にイスラエルの10の部族からひとりずつ、全部で十人の族長とギルアデの地の彼らのところに出かけて行くと、彼らはルベン族、ガド族、マナセの半部族の人たちに、自分たちが危惧していたことを告げました。それはイスラエルの神に対して不信の罪を犯すことであり、主に反逆していることだと。なぜこのことが不信の罪を犯すことなのでしょうか。なぜなら、レビ記17章8節、9にこう書いてあるからです。

「イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、全焼か、または、ほかのいけにえをささげ、それを主にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られる。」

シロにおける主の幕屋の祭壇以外のところでいけにえをささげるなら、その人は断ち切られる、つまり神にさばかれる、ということです。神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝すべきであって、どこで礼拝するかは関係ありません。しかし、神は礼拝する時と場所を定めておられるのです。それを無視し自分の気持ちや感情で好き勝手に礼拝をささげることは、神が喜ばれることではありません。そのようなことは不信の罪を犯すことであり、主に反逆することなのです。そうなれば、彼らだけでなく、イスラエル全体に神罰が下ることになるというのです。

 

彼らはそのようなことをかつて経験していました。17節をご覧ください。ここに、「ペオルで犯した不義」とあります。なんですか、ペオルで犯した不義とは?これはイスラエルの民が荒野で放浪していた時に、モアブの地のペオルで、バアル礼拝を始めたことを指しています。(民数記25:1-9)彼らは偽りの預言者バラムの策略によってモアブの娘たちとみだらな行為をしたことで彼らが慕っていたバアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りガイスラエルに対して燃え上がり、偶像礼拝に陥った者たち2万4千人が神罰で死にました。それと同じことにならないように、主に反逆してはならないと言ったのです。

 

そればかりではありません。20節には、ゼラフの子アカンが、聖絶のもののことで罪を犯し(ヨシュア7:1)、イスラエルの全会衆の上に神の怒りが下ったことを示し、それが彼だけでなくイスラエル全体に影響を及ぼしたように、自分たちにも影響が及ぶことを懸念しています。

 

それなのに、ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、なぜこのように大きな祭壇を築いたのでしょうか。21節から29節までをご覧ください。ここで彼ららがなぜそのようにしたのか理由が記されてあります。

 

「すると、ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族は、イスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。「神の神、主。神の神、主は、これをご存じです。イスラエルもこれを知るように。もしこれが主への反逆や、不信の罪をもってなされたのなら、きょう、あなたは私たちを救わないでください。」私たちが祭壇を築いたことが、主に従うことをやめることであり、また、それはその上で全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげるためであり、あるいはまた、その上で和解のいけにえをささげるためであったのなら、主ご自身が私たちを責めてくださるように。しかし、事実、私たちがこのことをしたのは、次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに次のように言うかもしれないと思いました。「あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか。主はヨルダン川を、私たちとあなたがた、ルベン族、ガド族との間の境界とされた。あなたがたは主の中に分け前を持っていない。」こうして、あなたがたの子らが私たちの子らに、主を恐れることをやめさせるかもしれません。それで、私たちは言いました。「さあ、私たちは自分たちのために、祭壇を築こう。全焼のいけにえのためではなく、またほかのいけにえのためでもない。ただ私たちとあなたがたとの間、また私たちの後の世代との間の証拠とし、私たちが、全焼のいけにえとほかのいけにえと和解のいけにえをささげて、主の前で、主の奉仕をするためである。こうすれば、後になって、あなたがたの子らは私たちの子らに、『あなたがたは主の中に分け前を持っていない。』とは言わないであろう。」また私たちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫に、そのようなことが言われたとしても、そのとき、私たちはこう言うことができる。「私たちの先祖が造った主の祭壇の型を見よ。これは全焼のいけにえのためでもなく、またほかのいけにえのためでもなく、これは私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ。」私たちが、主の幕屋の前にある私たちの神、主の祭壇のほかに、全焼のいけにえや、穀物のささげ物や、他のいけにえをささげる祭壇を築いて、きょう、主に反逆し、主に従うことをやめるなど、絶対にそんなことはありません。」

 

彼らが大きな祭壇を築いたのは、あることを恐れたからです。それは、後になって、ヨルダン川の西側の子孫たちが東側の子孫たちに対して、「あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか」と言って、主を恐れることをやめさせるかもしれないと思ったからです。つまり、彼らが祭壇を築いたのは、ヨルダンの東側に住んでいるために、将来自分たちの子孫がイスラエルの同胞であることを忘れ去られ、除外されるかもしれないという恐れからであり、そういうことがないように、イスラエル民族の一員であるという連帯のしるしを示そうと思ったからだったのです。だから、この祭壇は自分たちがヨルダンの西側のイスラエル民族と一つであることの象徴であって、決してそこでシロの祭壇と同様の宗教儀式を行うためではありませんでした。東側の人たちにとっては自分たちが善意で良いことだと思ってしたことが、思いもかけず、西側の人々の誤解を受け、危うく戦いに発展するところでした。

 

私たちも、時として、全く善意でしたことが思わぬ悲劇をもたらすことがあります。善意や好意でよかれと思ってしたことが、かえって仇となり悪い結果を生じさせてしまう場合があるのです。その根底にはやはり彼らの中に少なからずうしろめたさがあったことは否めません。彼らが住んでいたヨルダンの東側は放牧地として最適の地でした。多くの家畜を飼っていた彼らにとって、その地は都合のよい場所であり、是が非でも手に入れたい場所でした。一方、ヨルダンの西側のカナンの地は、山間部が多く放牧には適していませんでした。そこで彼らはモーセに頼み込み、半ば奪い取るようにしてその地を受けたのです。つまり、彼らは自分たちの勝手な願い、肉的な願望によって、神に従うよりも、自分たちの願いを優先したことで、その後ろめたさが不安を呼び起こし、もしかしたら自分たちはイスラエルの選民からも除外されるのではないかという恐れを抱いていたのです。

 

私たちも自分の肉的な思いから自分を優先してしまい、その結果、不安と恐れにさいなまれることがありますが、忘れてならないことは、主なる神はそのような失敗をも益に変えてくださるということです。主の十字架の出来事がそのことを物語っています。神のひとり子が十字架で死なれるという出来事は、この人類の歴史の中で最悪の出来事でした。しかし、神はその最悪の出来事を通して、人類に救いをもたらしてくださいました。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださるのです。(ローマ8:28)

 

ですから、私たちは自らの罪のゆえに、また弱さのゆえに、時として間違った行動を起こし、誤った選択をし、そんな中で翻弄されて悩み苦しむことがありますが、この十字架のみもとに行く時に、神はそのすべてのことを働かせて益としてくださるのです。確かに、私たちの肉的な選択や人間的な決断は、苦しみをもたらすことがありますが、しかし、神はそれだけで終わらないで、やがて大きな祝福へと変えてくださるのです。だから、全く善意でしたことが思わぬ悲劇をもたらすことがあっても、神はそれさえも益に変えてくださると信じて、神に信頼して歩み続けることが大切なのです。

 

Ⅲ.神をほめたたえたイスラエル(30-34)

 

「祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。そしてエルアザルの子の祭司ピネハスは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族に言った。「きょう、私たちは、主が私たちの中におられるということを知った。あなたがたが主に対してこの罪を犯さなかったからである。あなたがたは、今、イスラエル人を、主の手から救い出したのだ。」こうして、エルアザルの子の祭司ピネハスと族長たちは、ギルアデのルベン族およびガド族から別れて、カナンの地のイスラエル人のところに帰り、このことを報告した。そこで、イスラエル人は、これに満足した。それでイスラエル人は、神をほめたたえ、ルベン族とガド族の住んでいる地に攻め上って、これを滅ぼそうとは、もはや言わなかった。それでルベン族とガド族は、その祭壇を「まことにこれは、私たちの間で、主が神であるという証拠だ。」と呼んだ。」

 

祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足しました。そして、彼らにこう言いました。

「きょう、私たちは、主が私たちの中におられるということを知った。あなたがたが主に対してこの罪を犯さなかったからである。あなたがたは、今、イスラエル人を、主の手から救い出したのだ。」(31)

主が私たちの中におられる、という言葉はいい言葉ですね。主を愛している者たちの間には、このような誤解や悲劇はよく起こります。意思伝達が上手くいかずに、そこに誤解が生じて互いに対峙したり、敵対したりすることさえあります。けれども、主がその中にいてくださり、主がその会話を導いてくださると信じて、愛と忍耐をもって和解することに努めていきたいものです。

 

こうして、ピネハスとその一行はカナンの地のイスラエル人のところに帰り、このことを報告しました。そこで、イスラエル人はこれに満足し、一つとなって神をほめたたえました。私たちのうちには、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派といった肉の思いがあるために、必ずこのような問題が生じますが、しかし、聖書に書かれてある方法で主にあって語るなら、悪魔に自分の思いをそそのかされることなく、必ず互いに理解し合うことができるだけでなく、そのことを通しても主に栄光を帰することができるのです。

Ⅱペテロ3章10~13節 「新しい天と新しい地」

ペテロの手紙からずっと学んできました。残すところ今回を含めて2回となりました。この第二の手紙でペテロは、教会の中に忍び込んで来た偽教師たちに気を付けるようにと警告してきました。彼らは、イエスが再びこの地上に戻ってくることを否定し、そのように信じている人たちをあざけっていました。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠ったときからこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」と。しかし、彼らは見落としていました。かつてノアの時代に当時の世界が洪水によって滅ぼされたということを。それはかつてだけのことではありません。二度あることは三度あるで、もう一度滅ぼされる時がやって来ます。それが主の日です。今度はかつて水によって滅ぼされるということはありません。今の天と地は、同じみことばによって、火によって焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者のさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。なぜなら、神は私たちに対して忍耐深く、ひとりも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからです。しかし、その日は必ずやって来ます。そして神は、この天と地に代わる新しい天と新しい地とを用意しておられます。そこに私たちを迎え入れようと再び戻ってこられるのです。これが、私たちの人生のゴールでもあります。きょうのところでペテロは、この新しい天と新しい地とをどのように待ち望んだらよいのかを語っています。

 

Ⅰ.主の日がやって来る(10)

 

まず10節をご覧ください。

「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」

 

主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。子供の頃と今とでは時間的な感覚が違うように、主と私たちとでは時間的な感覚が全く違います。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、私たちに対して忍耐深くあられます。私たちの、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めて救われることを望んでおられるのです。9節の「その約束」とは何でしょうか。それは、主が再び来られるという約束です。4節には、「キリストの来臨の約束」とあります。ここに出てくる「主の日」とは、その日のことを指して言われています。キリストは今から二千年前に私たちの罪を贖い、私たちを罪から救うために、旧約聖書の預言のとおりにこの世に来てくださいましたが、そのキリストは、やがて、再び来られると約束されました。使徒1:11には、こう書かれてあります。

「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)

これはイエス様が天に上って行かれた時、それを見ていた弟子たちにふたりの天使が語ったことばです。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、あなたがたが今見たときと同じ有様で、またおいでになります。あなたがたが見たときと同じ有様とはどのような有様ですか。10節には、「雲に包まれて、見えなくなられた」とあります。それと同じ有様で戻って来られるのです。

 

この「主の日」がやって来ることについては、旧約聖書にも何度も預言されていました。たとえば、イザヤ書13章9~12節にはこうあります。

「見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。」

主の日は来るのです。主が最初に来られた時は救いの喜びをもたらすためでしたが、再び来られる時は残酷な日です。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにされます。多くの人が死に絶えていくのです。その数があまりにも多いので、ここには純金よりもまれとし、オフィルよりも少なくするとあります。それほど大きな患難の時がやってくるのです。

 

それはイエス様ご自身も預言しておられたことです。マタイ24章29~30節には、世の終わりの前兆、その苦難に続いて、信じられないことが起こると言われたのです。

「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種類は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。」

何と太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。ペテロがここで言っていることと同じです。そんなことが起こるはずがないじゃないかと思う人もおられるでしょう。考えられないことです。有史以来、ノアの箱舟の話以外、そんな話を聞いたことがありません。でも必ず起こります。なぜなら、それはイエス様のお言葉だからです。イエス様は言われました。

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)

このような日が必ずやって来ます。最近の異常気象を見ても、何だか変だなと感じている方も少なくないでしょう。

 

核戦争や気候変動、環境破壊などによって人類が滅亡する日までの残り時間を象徴する「終末時計」というものがありますが、それによると残り2分半だそうです。これは、米国の科学誌「Bulletin of the Atomic Scientists」が1947年から発表している人類滅亡までの残り時間を象徴的に時計の針で表したものですが、時刻0時0分が人類滅亡のときとされています。その日が刻一刻と近づいています。これまでは、気候変動や一部の国々で核配備が相次いだ2015年に「終末まで残り3分」という数値が設定されていました。今年、「残り2分」にした理由は、世界規模でサイバー攻撃が横行していることや、北朝鮮による核実験、シリアやウクライナ情勢の悪化、世界各地でのナショナリズムの台頭、気候変動による地球温暖化など多岐にわたります。いずれにしも、一般の科学者たちも、その日が近づいていると感じているのです。しかし、その日は科学者たちが考えているものよりもはるかに恐ろしい日です。それは神のさばきがもたらされる日だからです。

 

いったいその日はどのようにしてやってくるのでしょうか。ここには、「盗人のようにやって来ます」とあります。みなさん、盗人はどのようにしてやって来ますか?盗人は予期しないときにやって来ます。来るということがわかっていたらちゃんと用心するでしょう。家中のドアというドアの鍵をしっかりかけて、夜中でも日中のように光るセンサーを取り付けたり、防犯ブザー、防犯カメラを取り付けたりして用心します。しかし、泥棒はいつやってくるかわかりません。突然やって来ます。まさかと思うようなときにやって来るのです。

 

イエス様を信じないに人にとってはまさにそのとおりです。まさかと思うような時に、突然襲いかかるのです。しかし、主を信じる私たちにとっては、盗人のように襲うことはありません。なぜなら、その日が突然やってくるということを知っているからです。いつも聖書を読んで、いつ来てもいいように、目を覚まして用心しているからです。パウロはそのことをⅠテサロニケ5章1~9節のところでこのように言っています。

「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」

 

主の日は、人々が「安全だ。平和だ。」と言っているそのようなときに、突如として襲いかかります。その日は、これまでにないほどの苦難の日です。しかし、キリストを信じた者にとっては救いの日です。なぜなら、キリストを信じないものには神のさばきが下りますが、キリストを信じた者はさばきに会うことがないからです。そのさばきが下る前に天に引き上げられるのです。そのさばきとは永遠の滅びのことではなく、この主の日に襲いかかるさばきのことです。神は、私たちがこの御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになりました。だから、このさばきに会うことはありません。その前に天に引き上げられます。これを空中携挙と言います。昔、古い世界が洪水で滅ぼされる前にエノクが天に引き上げられたように、私たちも天に引き上げられるのです。

 

どのように引き上げられるのかについてパウロは、Ⅰテサロニケ4章16~17節でこう言っています。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。そりからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに空中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。」

まずキリストにあって死んだ人が初めによみがえります。次に生き残っている私たちです。パウロは主が再臨する時まで生きていると思っていたのでしょう。ここで「次に、生き残っている私たち」と言っています。その私たちがたちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられて、空中で主と会うのです。そのとき、地上では大混乱が起こります。それは旧約聖書も、新約聖書も予め告げていた大患難です。

 

「レフト・ビハインド」という映画をご覧になられました。これは、この大患難の様子を描いたものです。ジャンボジェット機の機長をつとめるレイフォード・スティールが、フライト中に操縦室を出ると、そこにはおびえた様子の乗務員ハティーがいました。彼女は突如として機内に起こった異常を語ります。乗っていた多くの乗客が、身につけていたものを残して消えてしまったのです。しかもこの現象は、機内に限らず全世界で起こっていました。宇宙人よる誘拐説など諸説が入り混じる中、それは聖書の黙示録の予言が成就したのだと見抜いた人々もいました。その一人が、ブルース・バーンズという牧師です。彼は牧師でしたが携挙されませんでした。本当に信じていなかったんですね。しかし彼はこの事で自らの信仰を見つめ直し、人々にキリストを信じるよう説くようになりました。一方、妻と息子を携挙で失った機長はブルースと出会い、信仰に生きるようになります。やがて反抗的であった娘も回心し、それ以外でも様々な人々が集い、信仰に目覚めていくというストーリーです。機長らは来るべき患難時代(トリビュレーション)に備え、「トリビュレーション・フォース」を結成しますが、その患難時代を通らなければならないわけです。しかし、キリストを信じた者はその前に天に引き上げられるのでさばきに会うことがないのです。ですから、確かに今は恵みの時、救いの日です。この救いの扉が開かれている間に、救いの箱舟に入らなければなりません。やがて後ろの戸が閉じられる時がやってくるからです。

 

10節をもう一度ご覧ください。ここには、「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」とあります。

天とは大気圏を含む太陽や月、星などのすべてのもののを指しています。また、天の万象とは、すべての物質を構成しているもろもろの要素、素粒子、原子、分子、電子などのことです。新改訳聖書には米印があって、下の欄外注の説明に「諸原素」とありますが、そうした諸々の原素のことです。そのようなものが焼けてくずれ去るのです。古い世界は水で滅ぼされましたが、今の天と地は7節にあるように、火によって滅ぼされるためにとっておかれているのです。これはペテロが言っていることではなく、神のことばであり聖書が、繰り返して語っていることです。

 

たとえば、イザヤ書13章13節には、「それゆえ、私は天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。」とあります。

また、同じイザヤ書34章4節には、「天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」とあります。天の万象はそのように枯れ落ちます。

また黙示録20章11節には、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」とあります。この天地は滅びるのです。しかし、神のことばはとこしえまでも堅く立ちます。決して滅びることはありません。私たちが真に信頼すべきものは、この神のみことばではないでしょうか。この神のことばである聖書が語ることに耳を傾け、イエス・キリストを救い主として受け入れて、その日に備えておくこと、それが私たちに求められていることなのです。

 

Ⅱ.聖い生き方をする敬虔な人に(11-12)

 

では、この「主の日」にどのように備えておいたらいいのでしょうか。11節と12節をご覧ください。ここでペテロは、その主の日に対してどのように備えておけばよいかを述べています。まず11節です。

「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」

 

このように、これらのものはみな、くずれ落ちていきます。何も残りません。地と地のいろいろなわざは焼き尽くされてしまうのです。このようなものに執着した人生はどんなに空しいことでしょう。それは一時的な満足は与えても、永続する満足は与えてくれません。これさえあればと手に入れることができても、すぐに飽きてしまいます。車でも、家具でも、電化製品でも、楽しいのはそれを手に入れるまで、手に入れると、すぐに飽きてしまいます。こうしたものは真の満足は与えてくれません。これらのものはみな、崩れ落ちてしまいます。消え去ってしまいます。では、私たちは何を求めて生きていったらいいのでしょうか。それが聖い生き方をする敬虔な人です。

 

「聖い」ということばは、聖書では「分離された」とか「区別された」という意味があります。神のために分離された人のことです。これまでは自分のために生きていましたが、そうした自分のための生きていた生き方から神のために、神に喜ばれる生き方をすることです。ペテロは第一の手紙の中でもこのように勧めました。

「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」(Ⅰペテロ1:13-15)

「あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」これが聖い人です。以前は主を知りませんでした。本当の恵みとは何であるかがわからなかったんです。だからこの地上のものすべてでした。それを持つことが幸せだと思っていました。しかし、神の恵みを知り、何が最も大切なものであるかを悟り、すべてのものは過ぎ去っていくということを知って、私たちの関心事はこの地上の事ではなく、天の事柄に向けられるようになりました。いつもそこを見上げて歩むようになったのです。

 

ですから、私たちは以前の無知であったときのさまざまな欲望に従って生きるのではなく、あらゆる行いにおいて聖められ、神に喜ばれるような生き方を求めるようになったのです。これが敬虔な人です。敬虔な人というのは、イエス様が歩まれたように歩む人のことです。キリストは自分の栄誉を求めず、父なる神の栄光を求め、神に従って歩まれました。まさにキリストのご生涯は、神の栄光を求める生涯でした。同じように、ペテロはここで、イエス様が歩まれたように、イエス様のように生きていくことを勧めているのです。不思議なことに、イエス様から目を離すと、この地上のこと、毎日の生活のことでいっぱいになってしまいます。ですから、イエス様から目を離さないようにしなければなりません。キリストの心を心とし、キリストのことばを心に豊かに宿らせなければなりません。キリストから目を離さなければ、キリストのように変えられていき、聖い生き方をする敬虔な人になるのです。

 

12節をご覧ください。「そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、その日が来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。」

 

この解釈は難解です。ここには、「その日が来るのを早めなければなりません」とあります。どういう意味でしょうか。その日とは主の日のことであり、主が再び戻って来られる日のことです。それはだれも知りません。それは神だけが知っておられることであって、私たちの知り得る領域ではないからです。それなのに、その日を早めなければならないというのはどういうことなのでしょうか。おそらくペテロはここで、その日を熱心に待ち望むという意味で使っているのでしょう。その日は主を信じない者にとってはさばきの日ですが、主を信じる者らとってはいつまでも主とともにいるようになるという約束が実現するすばらしい日であるからです。

 

神の愛、神の恵みを知った人、キリストのすばらしさを知った人は、この神の国がどんなにすばらしいところであるかを知った人は、それを熱心に待ち望むようになります。イエス様に早く会いたいと思うようになるはずです。決して今の生活が苦しいからではなく、イエス様がすばらしい方なので、早くこの方と会いたいと思うからです。ちょうど、好きな人がいると、その人と会いたいと思うのと同じです。もうすぐY兄とN姉の結婚式がありますが、Y兄はもう待てないという感じです。早く結婚したくて・・。「あら、そんな時もあったわね」と過去を想起しているあなた、その気持ちが大切なのです。そういう相手がいれば、その人と会いたいと思うだけでなく、その人と会うのにふさわしい者になろうと努めるでしょう。できるだけ身を清めようとします。暴飲暴食を慎みます。それまでは豚のようにどんどん食べていたのに、結婚が決まったとたんに食べるのを控えたり、今まで適当に化粧していたのにエステに通ったりして、できるだけ身を整えます。それはキリストの花嫁として、キリストと結婚する私たちも同じです。早くその日が来てほしいと、熱心にそのことを待ち望むようになるのです。ただ熱心に待ち望むだけではなく、そのために喜んで身をきよめようとします。それが聖い生き方をする敬虔な人なのです。

 

キリストを知らない時はそうではありませんでした。いつも適当に、自分自身を汚してしていました。自分の手足を不義の器としてささげ、やりたい放題でした。しかし、イエス・キリストを知ったので、キリストが再び戻ってくるということを知ったので、これを不義のためではなく義のために、強制されてではなく喜んでささげるようになりました。以前のような不義の行いをやめて、神の義を行いたいと願うようになりました。そればかりか、神はすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるので、そのために、少しでもお役に立てるような生き方をしたいと願うようになりました。まだまだ失敗ばかりで、完全な者にはほど遠い者ですが、そのような者になりたいと願うようになったのです。なぜなら、イエス様を知ったからです。イエス様が再び来られる時にもたらされる栄光がどれほどすばらしいものであるかを知ったからです。だから、その日が来るのを待ち望み、それをただひたすら熱心に求めなければなりません。

 

Ⅲ.新しい天と新しい地(13)

 

最後に、13節をご覧ください。

「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」

 

今の天と地は滅びます。これらのものはみな、くずれ落ちるのです。これらのものは神が造られたもので、神はお造りになったすべてのものを見られたとき、「それは非常に良かった」と言われました。しかし、最初の人アダムとエバが罪を犯したことで、この自然界全体に罪の影響が及んでしまいました。それで神は、すべての悪を滅ぼすと言われたのです。

 

しかし、滅ぼすことが目的なのではありません。神はこの古い天と地に代わる新しい天と新しい地とを用意しておられます。これが神の約束です。この神の約束に従って、新しい天と新しい地を用意しておられるのです。それはどのようなところでしょうか。ここには、「正義の住む新しい天と新しい地」とあります。ここには正義が住みます。正義とは何ですか。正義とは神ご自身のことです。神は義なる方です。その神が住まわれるところ、それが新しい天と新しい地です。それは古い天と地のように滅びてしまうものではありません。それは永遠に続く世界です。そのような天と地を用意しておられる。これが永遠の神の約束です。

 

イザヤ書65章17節には、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。」とあります。

また、66章22節には、「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように。主の御告げ。あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」とあります。それはいつまでも続く世界なのです。

また黙示録21章1~5節には、この新しい天と新しい地についてこのように言われています。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」」

 

これが神の約束です。神は、罪によって汚れたこの天と地に代わる新しい天と新しい地をもたらされます。神は、このことを必ずしてくださいます。なぜなら、神は真実な方だからです。真実とは、約束したことを実行するということです。約束してもそれが反故にするとしたら、それは真実とは言えません。しかし、神は真実な方ですから、約束されたことをそのとおりにしてくださいます。ですから、この約束も必ずそのとおりになるのです。この神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地に住むようになるのです。

 

いったいどうしたらこの新しい天と新しい地に住むことができるのでしょうか。そのためには神の義であられるイエス様を信じて、新しく生まれなければなりません。自分でどんなにいい人間だと思っていても、どんなに努力しても、どんなに良いことをしても、完全になることはできないからです。神は全く聖い完全な方なので、私たちがどんなに自分ではいい人間だと思っていても、それだけでは入ることはできないのです。考えてみてください。もし、ここに透き通ったグラスがあり、透き通ったおいしい水があっても、ほんのわずか、塵のようなネズミの糞が入っていたら飲むことができますか。同じように、仮にあなたが99.9パーセント正しくても、残りの0.1パーセントがけがれていたら、神に受け入れられないのです。しかし、イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえってくださったので、あなたがこのイエス様を信じるなら神の子どもとさせていただくことができ、この新しい天と地に入れていただくことができるのです。

 

あなたはどうでしょうか。イエスを信じて義と認められましたか。すべての罪が赦されていますか。どうか神の義、神の救いであられるイエス・キリストを信じてください。そうすれば、あなたもすべての罪が赦され、神の御前に義と認めていただくことができるのです。

この天地は滅びます。これらのものはみな、消えて行きます。しかし、神は新しい天と新しい地を用意してくださいます。イエス・キリストを信じる者はみなこの新しい天と新しい地で神とともに永遠に住むようになるのです。これが、私たちが待ち望んでいる天の故郷です。ここからイエス・キリストがもうすぐ迎えに来られます。その時、あなたは天に引き上げられ、イエス様と会い、いつまでもいるようになるのです。イエス様がいつ来られてもいいように、そのためによく備えておきましょう。イエス様を信じ、イエス様が再び来られるのを熱心に待ち望みましょう。それが新しい天と新しい地を待ち望むクリスチャンの姿なのです。

ヨシュア記21章

きょうは、ヨシュア記21章から学びます。

Ⅰ.執り成すことの大切さ(1-7)

まず1~7節までをご覧ください。「21:1 レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの人々の部族の、一族のかしらたちのところに近寄って来て、21:2 カナンの地のシロで彼らに告げた。「【主】は、住む町と家畜の放牧地を私たちに与えるよう、モーセを通して命じられました。」21:3 イスラエルの子らは【主】の命により、自分たちの相続地から次の町々とその放牧地をレビ人に与えた。21:4 ケハテ人諸氏族のためにくじが引かれた。ユダ部族、シメオン部族、ベニヤミン部族から、くじによって十三の町がレビ人の祭司アロンの子らのものになった。21:5 エフライム部族の諸氏族、ダン部族、マナセの半部族から、くじによって十の町が、残りのケハテ族のものになった。21:6 イッサカル部族の諸氏族、アシェル部族、ナフタリ部族、バシャンのマナセの半部族から、くじによって十三の町がゲルション族のものになった。21:7 ルベン部族、ガド部族、ゼブルン部族から、十二の町がメラリ人の諸氏族のものになった。」

「そのとき」とは、ヨシュアが主の命令に従ってイスラエル人に「のがれの町」を定めるようにと命じたときのことです。そのとき、レビ人の一族のかしらたちが祭司エルアザルとヨシュアのところに来て、ある一つの願い事をしました。その願いというのは、自分たちの住む居住地と家畜を飼うための放牧地を与えてほしいということでした。この要求は民数記35章において、すでにモーセがレビ人たちに与えていた要求に基づくものでした。レビ人はかつてイスラエルが荒野を放浪していた時に、イスラエルの民が不信仰に陥り、金の子牛を作って偶像礼拝した時でもモーセの命令を守り、またモーセに従って決して偶像礼拝に走らなかった民です。その結果、神はこのレビ人を祝福し、祭司をはじめとした聖なる仕事に携わるように選ばれました。それ故レビ人は聖なる部族なのです。したがってこの部族は神から直接に養われるべく相続地を持っていませんでしたが、イスラエルの民への相続地の分割が終わった時に自分たちの居住地と放牧地を与えてほしいと申し出たのです。

このレビ族には大きく分けて、三つの部族がありました。ゲルション族、コハテ族、メラリ族です。これは彼らの父祖レビの三人の子供の名前に由来します。長男がゲルションであり、次男がコハテ、そして三男がメラリでした。これらの三つの氏族に対する領地の分割を見ていくと、6節にゲルション族は13の町を与えられ、コハテ族には23の町が(4-5)、そしてメラリ族には12の町が与えられました(7)。

ところで、レビの長男はゲルションなのに、このゲルションよりも次男のコハテ族の方が先に、しかも多くの領地が与えられていることに気づきます。ゲルションが13の町、メラリ族には12の町しか与えられなかったのに、コハテ族には23もの町が与えられているのです。いったいどうしてコハテ族の方が優遇されたのでしょうか。

その理由については、4節に少しだけ説明されています。それは、彼らがアロンの子孫であったからです。しかし、アロンの子孫であるからというだけで、なぜこのように優遇されたのでしょうか。実はアロンの弟モーセもまたコハテ族であるのに、そのモーセについては何も言及されておらず、ただアロンの子孫であることが強調されているのです。旧約聖書を見るとモーセこそイスラエルをエジプトから救い出し、約束の地に導いた偉大な預言者です。アロンはいつもそのモーセの陰に隠れていてあまり目立たない人物でした。それどころか、アロンは指導者として相応しくない優柔不断な面もありました。そうです、モーセがシナイ山に登り、なかなか降りて来なかった時に、待ちくたびれた民が偶像礼拝に走っていったのにそれを止められなかったばかりか、自分が先頭に立ってそれを導きました。アロンにはそうした弱さがあり目立たない人物であったのに、ここにはモーセのことについては何も触れられておらずただ祭司アロンの出身氏族であったことだけが述べられているのです。これはどういうことでしょうか。それはこのアロンが祭司であったがゆえです。アロンは決して偉大な人物ではありませんでしたが、祭司であったというこのただ1点において、コハテ族が優遇されたのです。いったいこのことはどんなことでしょうか。

そもそも祭司とは何でしょうか。旧約聖書には預言者という人物が出てきます。預言者は神の言葉を語り、民はその言葉を聞いて悔い改めるわけです。それに対して祭司はあまりぱっとしません。むしろ地味で、日常的な人物が祭司です。また祭司は預言者のように民の罪を指摘して悔い改めを迫るということはしません。むしろ神と民との間に立って犠牲をささげ、民のためにとりなして祈るのです。祭司は預言者のような激しさや厳しさはありませんが、にもかかわらず、罪深く弱い私たち人間にとっては、不可欠な仲保者としての役割を持つのです。

コハテ族はこの祭司職であったアロンの直系であったがゆえに、特別に重んじられたのです。そして、この祭司一族は単に居住地を多く受けたというだけでなく、イスラエル12部族によってささげられた生産物の十分の一の、そのまた十分の一を得ることが許されたのです。このアロンの一族は極一握りであったことを考えると、いかに彼らが優遇されていたかがわかります。それは、彼らが神と民との間に立って、それを執り成す務めがゆだねられていたからです。

このことから、執り成すという働きが、私たち人間にとっても、きわめて重要な意味を持っていることがわかります。Ⅰペテロ2章9節には、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」とあります。クリスチャンにはみな、この祭司の務めがゆだねられているのです。私たちをやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるために、神とこの世の人々を執り成すという務めです。とりわけ牧師には、この務めがゆだねられています。牧師には神の言葉を語るという預言者的な側面もありますが、基本的には、神の祭司としてとりなす者でなければなりません。カトリック教会や聖公会では牧師を司祭と呼ぶのは興味深いことだと思います。祭司としての務めを司る者という意味があるのでしょう。それは牧師も同じであり、すべてのクリスチャンにも言えることです。私たちはみな司祭(祭司)なのです。そのすばらしい務めをゆだねられた者として、これを全うしていかなければなりません。

聖書には、イエス・キリストのことが祭司と呼ばれています。へブル人への手紙の中には、「私たちの大祭司」とあります。イエス様は預言的な務めもされましたが、それ以上に大祭司として、私たちのすべての罪を負って十字架で死んでくださいました。ご自分の身も心もすべて犠牲にしてささげ、私たちのためにとりなしてくださったのです。そればかりか、この大祭司であられるイエス様は、今もなお天で私たちのためにとりなしておられます。そのとりなしのゆえに、私たちのすべての罪は赦され、立ち上がり、生きることができるのです。このことのゆえに、私たちも他者のためにとりなす者となっていきたいと思います。ただ口先だけでなく、行動をもって、人々のためにとりなしの業に励もうではありませんか。

Ⅱ.イスラエルの居住地とのがれの町(8-42)

次に、8~42節までをご覧ください。「21:8 イスラエルの子らは、【主】がモーセを通して命じられたとおりに、次の町々とその放牧地をくじによってレビ人に与えた。21:9 ユダ部族、シメオン部族からは次に名を挙げる町を与えた。21:10 これらは、レビ族に属するケハテ人諸氏族の一つ、アロンの子らのものになった。最初のくじが彼らに当たったからである。21:11 彼らにはユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとその周囲の放牧地を与えた。アルバはアナクの父である。21:12 しかし、この町の畑と村々はエフンネの子カレブに、その所有地として与えた。21:13 祭司アロンの子らに与えられたのは、殺人者の逃れの町ヘブロンとその放牧地、リブナとその放牧地、21:14 ヤティルとその放牧地、エシュテモアとその放牧地、21:15 ホロンとその放牧地、デビルとその放牧地、21:16 アインとその放牧地、ユタとその放牧地、ベテ・シェメシュとその放牧地。これら二部族から与えられた九つの町である。21:17 またベニヤミン部族の中からのギブオンとその放牧地、ゲバとその放牧地、21:18 アナトテとその放牧地、アルモンとその放牧地の四つの町である。21:19 アロンの子らである祭司たちの町は、全部で十三の町とその放牧地である。21:20 レビ人であるケハテ人諸氏族に属する、ケハテ人の残りには、エフライム部族から、くじによって次の町々が与えられた。21:21 彼らに与えられたのは、エフライムの山地にある殺人者の逃れの町シェケムとその放牧地、ゲゼルとその放牧地、21:22 キブツァイムとその放牧地、ベテ・ホロンとその放牧地の四つの町。21:23 またダン部族からエルテケとその放牧地、ギベトンとその放牧地、21:24 アヤロンとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の四つの町。21:25 またマナセの半部族からタアナクとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の二つの町。21:26 残りのケハテ族の諸氏族には、全部で十の町とその放牧地が与えられた。21:27 レビ人の諸氏族の一つゲルション族に与えられたのは、マナセの半部族から、殺人者の逃れの町バシャンのゴランとその放牧地、ベエシュテラとその放牧地の二つの町。21:28 またイッサカル部族からキシュヨンとその放牧地、ダベラテとその放牧地、21:29 ヤルムテとその放牧地、エン・ガニムとその放牧地の四つの町。21:30 またアシェル部族からミシュアルとその放牧地、アブドンとその放牧地、21:31 ヘルカテとその放牧地、レホブとその放牧地の四つの町。21:32 またナフタリ部族から、殺人者の逃れの町であるガリラヤのケデシュとその放牧地、ハモテ・ドルとその放牧地、カルタンとその放牧地の三つの町。21:33 ゲルション人の諸氏族の町は、全部で十三の町とその放牧地である。21:34 レビ人の残りのメラリ人諸氏族に与えられたのは、ゼブルン部族から、ヨクネアムとその放牧地、カルタとその放牧地、21:35 またディムナとその放牧地、ナハラルとその放牧地の四つの町。21:36 またルベン部族からベツェルとその放牧地、ヤハツとその放牧地、21:37 ケデモテとその放牧地、メファアテとその放牧地の四つの町。21:38 ガド部族から殺人者の逃れの町、ギルアデのラモテとその放牧地、マハナイムとその放牧地、21:39 ヘシュボンとその放牧地、ヤゼルとその放牧地、これら四つの町すべて。21:40 これらの町はすべて、レビ人の諸氏族の残りの、メラリ族の諸氏族のものであり、くじによって与えられた十二の町である。21:41 イスラエルの子らの所有地の中で、レビ人の町は全部で四十八の町とその放牧地である。21:42 これらの町はそれぞれその周囲に放牧地があった。これらの町はすべてそうであった。」

ここには、1~7節までの記述を受けて、レビ族に対する居住地と放牧地がくじによって与えられたことが列挙されています。彼らの町は一つのところに集まっておらず、それぞれの部族の相続地にまんべんなく散らばっていることがわかります。これを地図で見ると、のがれの町と同じように、イスラエルの土地全体に、広がっているのを見ることができます。また、20章において定められたあの6つののがれの町が、彼らの居住地に置かれていたこともわかります。このことは何を表しているのでしょうか。イスラエル全体に、レビ人たちの霊的奉仕の影響が、まんべんなく広がっていたということです。レビ人たちの霊的奉仕とは何でしょうか。それは、神に仕え、神と人との間の仲介者として、とりなしをすることです。言い換えるならば、彼らの役割は、人々にもう一度やりなおす機会を与えることであり、そのために励ましを与え立ち直らせていくことです。これは単に聖職者であるレビ人だけにゆだねられた務めではなく、私たちの教会にもゆだねられている務めでもあります。イエス・キリストはご自身のからだを通して贖いの御業を成し遂げられました。そしてこの世を罪から救い、この世のさまざまな束縛から解放し、また癒されました。教会はキリストの体としてこのキリストの贖いの御業を継承し、この地上において実現していくという役割が与えられているのです。罪を犯した者、失敗した者、悪魔の手にある者たちをもう一度引き上げて、やり直しさせていくという務めがゆだねられているのです。

Ⅲ.神の約束は一つもたがわずみな実現する(43-45)

最後に、43~45節をご覧ください。「21:43 【主】は、イスラエルの父祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられた。彼らはそれを占領し、そこに住んだ。21:44 【主】は、彼らの父祖たちに誓ったように、周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。すべての敵の中にも、一人として彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。【主】はすべての敵を彼らの手に渡された。21:45 【主】がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した。」

レビ族に対する居住地並びに放牧地の割り当てが成され、これを以って、イスラエルの12部族すべての相続地の割り当てが完了しました。それはかつて主がイスラエルの家に約束されたことであり、主はその約束したとおりのことをしてくださいました。主は、イスラエルに約束したすべての良いことを、一つもたがわずみな実現したのです。これだけを見ると、何もかもめでたし、めでたしであるかのようなイメージがありますが、この後の士師記を見ると、イスラエルのパレスチナの占領は必ずしもこれで終わったわけではなかったことがわかります。イスラエルのカナン人に対する戦いは継続して行われていて、戦いに次ぐ戦いの連続なのです。特に士師記3章を見ると、占領すべき地がまだたくさんあったことが明記されています。ということは、この箇所は、事実に反する記述をしているということなのでしょうか。

そうではありません。確かに、まだ占領すべき地はたくさん残っていましたが、神の側から見ればすべては完了していたということです。つまり、これは事実的描写ではなく、信仰的描写なのです。実際にはまだそうではなくとも、信仰的にはもうすでに完了していたのです。主なる神の側においては、この時点において一切合切その通りに成ったのです。このように、信仰とは実に、この神の側での完成を受け取り、その上で私たちが最大限の努力を成していくことであるということがわかります。時としてそのように努力していく時、事が成就するどころかむしろ逆の方向に進んでいくような場面に遭遇することがあります。神が約束を反故にされたのではないかと思えるような事態に対して、私たちはなぜこうなってしまったのか、主は確かにみことばを通して私に語ってくださったはずではないか、あれはただの思い違いであったのかと悩むことがあります。時にはそのことで不信仰に陥ってしまうことさえあります。実はこの時が肝心です。神は約束してくださったことを必ず実現されますが、時としてそれとはまったく逆の事態に遭遇することがあるのは、それが本当に神のみこころなのかどうかを吟味するためであり、むしろ、そのことをバネにして、さらに大きく飛躍するためでもあるのです。丁度、私たちがジャンプをする前に、一旦、屈むようなものであって、大きくジャンプをしようとすればするほど、身を低くしなければならないのと同じです。

ですから、そうした見せかけの困難に騙されてはならないのです。主が約束されたことは、決して変わることなく、事態がまったく違う方向へ向かって進んでいるように見える場合にも、必ず実現するのです。逆風はより素晴らしい成就に至るために通るべき試練なのです。

大切なのは、神はみことばを通して私たちにどんなことを約束してくださったかということであり、それは必ず実現すると信じることです。困難があるのは、神の御力は私たちが考えているよりもはるかに大きく、高く、広いということを示すためであり、私たちの信仰を取り扱ってくださるためであって、神の側ではもうすでにみな実現していることなのです。主がイスラエルに約束されたすべての良いことは一つもたがわず、みな実現したように、神があなたの人生に約束されたすべての良いことは、一つもたがわずみな実現するのです。私たちの目ではそれとは逆に進んでいる現実を見て落ち込むことがありますが、神の目をもって物事をとらえ、一つもたがわず、みな実現したことを信じて前進させていただきましょう。

Ⅱペテロ3章1~9節 「忍耐深くあられる神」

きょうは、Ⅱペテロ3章前半の箇所から「忍耐深くあられる神」というタイトルでお話します。2章のところでペテロは、教会に忍び込んでいた偽教師たちに気をつけるようにと、彼らの特徴について述べました。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定することさえ、自分たちの身にすみやかな滅びを招いていただけでなく、敬虔な人たち、これは主に従っていたクリスチャンたちのことですが、そういう人たちをも誘惑し、滅びと破滅に導いていました。彼らは理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるので、動物が滅ぼされるように滅ぼされるのです。ですからペテロは、こうした偽教師たちには気をつけるようにと警告したのです。

 

きょうの箇所でペテロは、その偽教師たちが否定していたキリストの再臨について教えています。聖書は至るところで、キリストが再び来られると約束しています。それは私たちクリスチャンの希望でもあります。なぜなら、キリストが再臨される時すべての悪がさばかれ、この地上に本当の平和が訪れるからです。その時、すべての悲しみ、嘆き、叫び、苦しみ、痛み、罪から解放され、本当の自由と平和、喜びがもたらされます。ですから、私たちの真の希望はキリストの再臨にあるのです。

 

しかし、それを否定する者たちがいました。そうです、あの偽教師たちです。彼らはキリストの再臨なんてあるはずがないじゃないかと言って、あからさまに否定していたのです。そこでペテロは彼らの間違いを明らかにするとともに、聖書の約束に堅く立ち続けるようにと読者を励ますのです。

 

Ⅰ.思い起こして(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語っ た、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。」

 

ここにペテロがこの手紙を書き送った目的が書かれてあります。それは、これら手紙によって記憶を呼びさまさせ、彼らの純真な心を奮い立たせることです。「純真な心」とは、誠実な心のことです。正直で、真実で、うそ偽りのない心のことであります。ペテロはこの2勝において、教会の中に偽教師たちが現れて選民をも惑わすようになると警告しました。そして、多くの者が彼らについて行き、その身に滅びを招くよなことをしていた現実を見て、惑わされないようにと警告しました。そのために必要なことは何でしょうか。ここにあるように、思い起させることです。記憶を呼びさまさせて、彼らの純真な心を奮い立たせることです。私たちが惑わされてしまう大きな原因の一つは、忘れてしまうことにあります。人間はすぐに忘れてしまいます。昨日何を食べたかも覚えていません。神の恵みを忘れてしまうことで簡単に偽りの教えに惑わされてしまいます。ですからペテロはここで、そのことを何回も何回も繰り返して伝えることで、彼らに思い起こさせようとしているのです。

 

ペテロは何を思い起こさせているでしょうか。2節をご覧ください。ここには、「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」とあります。「聖なる預言者たちが前もって語ったみことば」とは、旧約聖書のことです。神は、昔、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法で語られました。しかし、彼らは自分たちの考えを語ったのではなく神からのことばを語りました。それゆえに彼らは本物の預言者であり、聖なる預言者でした。

 

また、ここには「あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」とありますが、これは新約聖書のことを指しています。旧約聖書は罪に陥った人類を救うために神が救い主を遣わすという約束が預言されていますが、その預言のとおりに救い主が来られたことを証言したもの、それが新約聖書です。それはナザレのイエスによって実現しました。その救い主の良い知らせはまずイエスご自身によって宣べ伝えられました。イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われました。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

そして、多くの病人をいやされ、悪霊を追い出し、さまざまな問題で苦しんでいた人を解放してあげました。そして、旧約聖書の示すとおりに私たちの罪を負い、私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれました。しかし、三日目に神はこのイエスを死からよみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。この方こそ旧約聖書で約束されていた救い主、メシヤ、キリストであられるからです。神はこの方を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。それゆえ、このイエスを自分の罪からの救い主と信じるなら、だれでも救われるのです。これが良い知らせ、福音です。

 

そしてイエス様は12人の使徒たちを選び、全世界に行ってこの福音を宣べ伝えるようにと命じられました。その命令に従い、使徒たちは出て行ってイエス様が命じたすべてのことを教えました。彼らは自分たちの教えを語ったのではなく、イエス様が教えたことをそのまま教えました。つまり、このイエスが救い主であられるということ、そして、このイエスを信じる者は、だれでも罪の赦しが与えられるということです。そして、もう一つのこと、それは、このイエスは再び戻ってこられるということでした。それは旧約聖書にも書かれてあったことです。旧約聖書にも書いてあり、主イエスご自身も教えられ、使徒たちもそのように教えました。それは聖書の一貫した教えなのです。それなのに、彼らの中にはこのキリストの再臨を否定する者たちがいました。それでペテロは、聖なる預言者によって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令、つまり、聖書は再臨について何と教えているのかを思い起こさせるために、これらの手紙を書いたのです。

 

私たちも忘れてしまうことがあります。もう耳にたこができるほど何回も聞いているはずなのに、いざ人から指摘されると、「あれ、何だったけなぁ」と忘れてしまい、自分の思いに走ってしまうことがあるのです。ですから、私たちは「もう何度も聞いて知っている」と高を括るのではなく、神のことばである聖書は何と言っているのかということをいつも思い起こさなければなりません。

 

Ⅱ.あざける者ども(3-7)

 

次に3節から7節までをご覧ください。3,4節をお読みします。

「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけ り、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこに あるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

ペテロはまず第一に、次のことを知っておきなさいと言っています。それは、終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うことです。「キリストの再臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

どういうことでしょうか?「終わりの日」とは、世の終わりの日のことです。それはキリストがこの地上に来られた時に始まり、再び戻って来られるときまでのことです。その終わりの日が近くなると、キリストの再臨のことをあざける者どもがやって来て言うのです。「そんなのあるはずがないじゃないか。回りを見てごらん。何も変わりがない。ずっと昔から同じじゃないか。何もかわりゃしない。」しかも、それが彼らの中から、教会の中から起こってくるというのです。教会の中に滅びをもたらす異端がひそかに持ち込まれるのです。その一つがキリストの再臨を否定することです。キリストの再臨は聖書の教えであって、クリスチャンの希望です。キリストの再臨を知り、それを待ち望むことでクリスチャンは力が与えられます。どんなに苦しくても、もうすぐ主が戻ってこられると信じていることで慰めが与えられ、励まされるのです。パウロはテサロニケの教会に書き送った手紙の中でこの再臨について述べ、「こういうわけだから、このことばを互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)と言いました。クリスチャンにとっていったい何が慰めのことばなのでしょうか「このことば」です。主が再び戻って来られるということばです。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。」(Ⅰテサロニケ4:16-17)

これが私たちにとって慰めのことばです。もうすぐ主が来られます。そのとき、私たちは霊のからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。これまでのすべての苦しみから解き放たれ、永遠の栄光の中へと入れられるのです。このことばです。

 

しかし、このようなことを語ると、中には「何をたわごとを言って・・」とそれを否定する人たちが起こってくるのです。「そんなことあるはずないじゃないか、昔も今も変わらないし、ずっと同じだ。」と。「見てごらん。何も変わっていないじゃないか」

するとクリスチャンも日々の生活でいっぱいになっていますから、現実に心を奪われて、こうしたあざける者たちに惑われ「や~めた!」となってしまうのです。主のために生きるなんてバカバカしい。そして、だんだん真理から離れていくようになるのです。本当に私たちはこの「現実」という二文字に弱いですね。どんなに信仰を持っていても、現実という二文字の前に、簡単に主から離れてしまう弱さがあるのです。そして、主が戻ってこられることを期待しなくなると、霊的にだんだん弱くなってしまいます。霊的に眠った状態になるのです。何もしなくなります。ただ自分のことだけにとらわれ、この地上のことしか考えられなくなってしまうのです。これがサタンの常套手段なのです。

 

このように、終わりの日が近くなると、あざける者たちがやって来て、キリストが再臨するという教えをあからさまに否定し、人々の関心をこの地上のことだけに向けさせて、希望を奪っていくのです。

 

5節と6節をご覧ください。しかし、彼らがこのように言い張るのは、次のことを見落としているからです。すなわち、「天は古い昔からあり、地は神のことばによって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びましたが、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」どういうことでしょうか?

 

あざける者たちは、昔も、今も、何も変わっていない、創造の初めからずっと同じだと言っていますが、そうじゃない、というのです。彼らは見落としているのか、故意に忘れようとしているのかわかりませんが、ある事実を見落としています。それは、神によって造られた当時の世界は、洪水によって滅ぼされたということです。何のことを言っているんですか。そうです、ノアの箱舟のことです。神はノアの時代に、古い時代を洪水によって滅ぼされました。このことを忘れているというのです。いや、わざと忘れたかのようにして、それを認めようとしないのです。なぜなら、認めると都合が悪いからです。それを認めてしまうと、聖書が預言しているとおりに、将来においても同じように神のさばきがあるということを認めざるを得ないことになるからです。だったら最初から認めればいいのに、認めないで自分たちに都合がいいように主張するので、結局、こうした矛盾が生じ事実を隠すようなことになるのです。

 

つまり、ペテロはここで今の天地は最初のものとは同じでないと言っているのです。かつてノアの時代に当時の世界が洪水で滅びたように、今の天地も、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきの日まで、保たれているのです。昔の世界は水によって滅ぼされましたが、今の天地が水で滅ぼされることはありません。なぜなら、ノアの洪水の時に神は、ノアとその家族に、もはや洪水で滅ぼすことはしないと約束されたからです。その約束のしるしが虹です。神は虹の架け橋をかけて、もう水によっては、この地を滅ぼさないと約束されました。ですから、水によって滅ぼされることはありません。しかし、火によって滅ぼされます。今の天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

 

だから、あざける者どもはキリストの再臨はないと言っていますが、あるのです。その日には火によってすべての悪がさばかれることになります。しかし、神を信じる者たちはさばかれません。なぜなら、キリストが代わりにさばかれ、私たちの悪を取り除いてくださったからです。キリストを信じる者はさばかれることはありません。むしろ、キリストの贖いによって罪が聖められたので、神がとともにいてくださるようになったのです。これこそ私たちの希望であり、慰めです。この希望があるからこそ、私たちはこの地上にさまざまな問題や苦しみがあっても、耐える力が与えられるのです。

 

Ⅲ.忍耐深くあられる神(8-9)

 

ですから、第三に、この一事を見落としてはいけません。この一事とは何でしょうか。8節と9節をご覧ください。8節には、「すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」とあります。

どういうことですか。皆さんは、子供の頃と今とでは時間的な感覚が全然違うように思いませんか。子供の頃は一年がとても長く感じられました。このままずっと子供のままでいるんじゃないかと錯覚を覚えたほどです。しかし、大人になると一日があっという間に終わってしまいます。ついこの前新年が始まったばかりかと思ったら、もう3月でよ。6分の1が終わったんですよ。早いと思いませんか。二十歳の頃は四十のじっさんになるにはまだまだだと思っていたのに、いつの間にか四十なんてとっくり通り過ぎ、人生の4分の3を終えようとしているのです。本当にあっという間です。

 

大人と子供の物事を見る感覚や時間の感覚が全く違うように、私たちと神様との時間の感覚は違います。私たちにとって千年は永遠であるかのような長さですが、神様にとっては一日のように過ぎ去ります。詩篇90篇4節には、「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。」とあるとおりです。神にとって千年は夜回りのひとときにすきません。神は永遠ですから、時間的な枠がないのです。

 

いったいペテロはここで何を言いたいのでしょうか。そうです、キリストの再臨をあざ笑う者たちは、キリストは二千年も前から再び来ると言っているのに来たためしがないじゃないかと言っているが、私たちにとって千年のような時の長さも、神にとってはわずか一日のようでしかない、夜回りのひとときのようでしかないということです。つまり、神はある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではないということです。また、そのことを忘れてしまったのでもありません。神様には神様の時があるのです。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者3:11)とあるとおりです。

 

ではなぜ神はその約束を遅らせておられるのでしょうか?9節をご一緒にお読みしましょう。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

なるほど、主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではないのです。主がその約束を遅らせているのは私たちのためなのです。つまり、神は私たち人間がひとりも滅びることを願わず、すべての人が悔い改めて救われることを望んでおられるからなのです。そのために神は忍耐しておられるのです。

神はいつくしみ深く、あわれみ深い方、怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。(詩篇86:15)しかし、いつまでもというわけではありません。悪に対して正しいさばきを行われるときがやってきます。後ろの戸が閉じられる時が必ずやって来るのです。しかし、今は恵みの時、今は救いの日です。今はその戸が開かれています。神が忍耐して待っておられるからです。神は、ひとりも滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるからです。一部の人だけではありません。すべての人です。すべての人が救われることを望んでおられるのです。すごいですね。神の愛と忍耐は・・。

 

エゼキエル書33章10~11節をご覧ください。

「人の子よ。イスラエルの家に言え。あなたがたはこう言っている。『私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう。』と。彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」

悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。これが神の願いです。イスラエルの人々の中には、自分たちの背きの罪によって潰されそうになっている人々がいました。もう自分は滅びるしかないのだ、と絶望していました。そんな彼らに対して主は、「なぜ絶望しているのか。わたしは決して悪者の死を喜ばない」と言われました。かえって、悔い改めて、生きることを喜ぶと、言われるのです。だから、悔い改めて、悪の道から立ち返りなさい。イスラエルの家よ、なぜあなたがたは死のうとするのか。神が願っておられることは生きることです。悔い改めて、神に立ち返ることなのです。

 

そのために神は愛するひとり子をこの世に与えてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

神はあなたを愛しておられます。と同時に、神は義なる方でもあられます。罪に対してはさばきを下さなければなりません。神はその日を定めておられます。それが終わりの日です。主が再びこの地上に来られるときです。二千年前は私たちを救うために来てくださいましたが、再び来られる時は、この地上のすべての悪をさばくために来られます。その日がなぜ遅れているのでしょうか。それはあなたのためです。ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。かえって忍耐深くあられるからであって、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからなのです。この方を救い主として信じる者は、だれでも救われるのです。

 

あなたはどうですか。この神の救いを受け取られたでしょうか。そのような確信を持っておられますか。もしまだという方がおられたら、どうぞしっかりと受け取ってください。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じてください。そうすれば、あなたのすべての罪は赦されます。人生の土台がぐらぐらと揺れ動いている方がおられますか。その方はどうぞ神のことばにしっかりと立ってください。もしあなたの感情に立つなら、すぐに平安が奪われることになるでしょう。しかし、神のことばはいつまでも変わることがありません。このみことばの上にあなたの人生の土台をしっかりと置いてください。そして、キリストの恵みの中にとどまり続けましょう。もうすぐ主が戻ってこられるからです。確かに、今は恵の時、今は救いの日なのです。