Ⅰヨハネ1章5~10節 「光の中を歩む」

 ヨハネの手紙第一から学んでおりますが、今回はその二回目のメッセージです。前回のところでヨハネは、どうしても伝えたいことがあると言いました。それは永遠のいのちであるイエス・キリストが現れたということです。なぜなら、このキリストにこそいのちがあるからです。ヨハネはこれを自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の手でさわりました。人は何を見るかによってその結果が決まります。この方をじっと見続けるならそこにいのちがあふれてきます。

 ヨハネがこの手紙を書いた当時はまさに闇でした。なぜなら、多くの反キリストが現れていたからです。そのような時代にあっても惑わされることなく、信仰に堅く立ち続けるためにはどうしたらいいのでしょうか。それはイエス・キリストを見ることです。イエス様をじっと見て、イエス様との交わりに入れられるなら、そうした闇の中にあっても希望と力が与えられ、喜びに満ちあふれた人生を歩むことができるのです。

 きょうの箇所でヨハネはもう一つの真理を伝えています。それは、神は光であられるということです。神は光であって全く闇がありません。ですから、この光の中を歩むなら、決して闇の中を歩むことはありません。きょうはこの「光の中を歩む」ことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 Ⅰ.もし光の中を歩んでいるなら(5-6)

 まず、5節と6節をご覧ください。
「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」

 ヨハネがキリストから聞いて彼らに伝えたかったことは、神は光であって、神には全く闇がないということでした。光と闇が交わることはありません。どんな闇でも光が差し込めば消え去ります。ですから、神には全く闇がないのです。ヨハネの福音書には、このことについて次のように記されてあります。
「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)
キリストが光であるとはどういうことでしょうか。それは、キリストはいのちであり、道を照らすともしびであり、生きる希望であるということです。しかしここでキリストは光であったというのは闇に対する光のことであり、それは汚れに対するきよさを表しています。ですから神は光であって、私たち人間のような「闇」、すなわち罪や汚れなどは一つもないということです。それなのにもし私たちが神と交わりがあると言いながら闇の中を歩んでいるとしたらどうでしょうか。私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいないということになります。

ここでヨハネは、「もし・・・と言いながら」と言っていますが、このような言い方は続く8節と10節にも出てきます。「もし、罪はないと言うなら」と、「もし、罪は犯していないと言うなら」です。どういうことでしょうか。ここでヨハネはこの手紙の読者たちに、この真理を自分の生活に適用して点検するようにと勧めているのです。私たちが言っていることと、行なっていることが異なるということがしばしば起こります。ここでは、「私は、神さまとの交わりを持っています」と言いながら、交わりを持っているとは思えない行動をしていることがあるということです。神は光ですから、神と交わりを持っているなら、私たちもまた光の中を歩んでいるはずですが、そうでなはなく悪を行なっていることがあります。もしそうであるなら、もし神と交わりがあると言っても、それは真実ではない、偽りであると言うのです。

 私たちクリスチャンは、とかくこのような過ちに陥ります。自分は神との交わりがあると言いながら、神との交わりから外れているようなことをしていることがあるのです。確かに、毎週日曜日には教会に行き、クリスチャンらしい宗教的なことを行なっているかもしれませんが、家庭や職場ではそれとかけ離れたことをしていることが意外とあります。
私はこうして毎週講壇から神のみことばを語りますが、講壇で語っていることと実際の生活にギャップを感じることがあります。講壇では「さばいてはなりません。さばかれないためです」と言いながら平気で人をさばいてみたり、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」と言いながら、自分ほどいい人間はいないと思ってしまいます。「同じように、夫たちよ。妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに生活しなさい」と言っておきながら、妻のことをいたわることはほとんどありません。「うちの夫は講壇にいる時が一番すばらしい。そこから降りてきてほしくない」と言った牧師の奥様がおられたそうですが、わかるような気がします。言っていることとやっていることが一致しないことがあるからです。言っていることはすばらしいですが、やっていることはどうもいまいちだということがよくあるのです。もちろん、神のみこころに歩みたいと願いそのようにしたいと努めていますが、闇の中を歩んでいることがあります。もしそういうことがあるなら、神と交わりがあるとは言っても、それは偽りであって、真理を行っていないというのです。

とても心に刺さることばですが、ここで間違えないでいただきたいことは、だからだめだと言っているのではないということです。ヨハネはこの手紙の中で、クリスチャンが永遠のいのちであられる神との交わりを持ってほしいのです。もしあなたが神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるとしたら神との交わりは断絶し、神の臨在を感じることができなくなるばかりか、自分のたましいはカラカラに乾ききり、礼拝は儀式的なものとなってしまうでしょう。私たちはイエス様を信じて永遠のいのちをいただいていますが、その主と交わりそこに喜びが全うされるためには、この罪の問題が処理されなければならないのです。いったいどうすればいいのでしょうか。

Ⅱ.御子イエスの血がきよめてくださる(7)

7節をご覧ください。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」

ここには、もし私たちが光の中を歩んでいるなら、光であられる神と交わりを持っているということになります。すなわち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださっているということです。この「きよめる」ということばですが、これは現在進行形で書かれています。すなわち、今もきよめられ続けているということを表しています。御子イエスの血は私たちがイエスを信じた時にすべての罪からきよめてくださったというだけでなく、今も日々の生活においてきよめられているということです。絶えず、その血によってきよめられていることによって、聖なる神と私たちが一つとなることができるのです。

これはすばらしい約束ではないでしょうか。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。心の中に染み付いている頑固な汚れも、自分ではどうしようもないという悪しき習慣からも、すべての罪から私たちをきよめてくださるのです。イエスの血がきよめることができない罪などありません。ですから私たちはこのイエスの血によって神と一つになることができるのです。

「きよめる」というと私たち日本人には、禊(みそぎ)とかお祓いをしてもらうというイメージがありますが、ここで言われている「きよめる」というのは、単に汚れを取り除くというだけでなく、神様の前に出ることができるように変えらることを意味しています。神様の目から見て聖なる者としていただくことです。たとえば、この手紙を書いたヨハネは以前「雷の子」とあだ名が付けられるほど短気な者でしたが、のちに「愛の人」と呼ばれるほどに変えられました。私たちも光の中を歩み、神様と交わりを持つことによって、そのような者に変えられていくのです。つまり、キリスト信じて救われた時だけでなく、救われた後も、年を老いてからも、いつでも、私たち十字架のもとに行くなら、御子イエスの血が、あなたをすべての罪からきよめ、キリストのように変えてくださるということです。

私たちは神様の光に照らされる時、自分の罪や汚れ、自分の弱さや愚かさに気付かされて落ち込むことがあります。このように礼拝に出て神様の語りかけを聞く時、「そういう生き方はよくないなぁ」とか「あの考えは間違っていた」ということが示されて打ちのめされそうになることがあります。私たちは罪赦されて神様との交わりの中に入れられましたが、実際には罪を犯さずには生きていけないからです。いや、クリスチャンになってからの方が罪について敏感になりました。それまでは何でもないように思っていたことが、それが大きな罪であったことに気づかされるからです。そのような時、私たちはどうしたらいいのでしょうか。そのまま落ち込んで、「私はやっぱり駄目な人間なんだ」と自分を責め続ければよいのでしょうか。あるいは、「私は罪人で駄目な者なんです」とうなだれながら生きていったらいいのでしょうか。そうではありません。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。この御子の血にお頼りすればいいのです。そして罪をきよめていただき、この神との交わりに入れていただけばいいのです。

Ⅲ.罪を認め、悔い改める(8-10)

では、そのためにどうしたらいいのでしょうか。8節から10節までをご覧ください。「もし自分に罪がないというなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

神が備えてくださったキリストの十字架の血は私たちの罪に対して無限の力を持っていることがわかりました。では私たちはこのキリストの無限の血に対してどのような態度をとるべきでしょうか。ここには絶対にとってはならない態度と、逆に取るべき態度が教えられています。まず、絶対にとってはならない態度は何かというと、8節に「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」とあるように、「自分には罪はない」という態度です。いったいだれがこんなことを言っていたのでしょうか。ここには「私たち」とありますから、当時のクリスチャンの中にそういう考え方をもっている人たちがいたようです。当時のクリスチャンの中に、グノーシス主義と呼ばれる誤った教えによってこのような考え方を持っている人たちがいました。このグノーシス主義の特徴は霊肉の二元論にあり、肉体はたましいを宿す単なる器にすぎず、その肉体がどんなことをしてもたましいは何の影響も受けることはないと考えていたので、何をしても自分には罪がないと、自分の肉欲のままに生きていたのです。

しかしこうしたグノーシスのような考えは、私たちも持ちやすのではないでしょうか。私たちはイエス様を信じて罪が取り除かれたのだから、私には罪はないと思っていますが、これは、間違っています。確かに、立場的にはキリストにあって正しい者とみなされましたが、罪の性質は持ったままなのです。それなのに自分はクリスチャンになったのだから、ある程度正しさは身に付いたのではないかと考えるとしたら、それは間違いです。

ここでヨハネは、もし自分に罪がないと言うなら、その人は自分自身を欺いていると言っています。本当の自分の姿から目をそらしているからです。聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:23)と言っています。また、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ6:23)と言っています。すべての人は生まれながらに罪を持っているのに罪がないと言うのなら、その人は自分自身を欺いているのであって、その人のうちに真理はありません。

しかし、私たちにはこのように自分を美化する心があるため、悪いのは他人だと決め込み、自分を被害者の立場に置こうとする思いが働くのです。
最初の人アダムとエバがそうでした。彼らは取ってはならないと命じられた園の中央にある木の実をとって食べ、そのことを神から咎められた時、何と言いましたか。
「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)
悪いのは私ではない、悪いのはあの女で。あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って食べたので、私は食べたのです。悪いのは自分ではない、あの女であり、突き詰めれば、あの女を私のそばにおいたあなたが悪いんです、と言ったのです。
それに対してエバはどうだったでしょうか。神がエバに「あなたは何ということをしたのか」と言われると、エバもこう言いました。
「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」(創世記3:13)
同じです。彼女も自分には罪がないと言いました。蛇が私を惑わしたので、それで私は食べたんですと、蛇のせいにしました。
これが人間の姿です。私たちの中には罪があっても、それを認めようとしない性質があるのです。自分には罪はないと言ってうそぶくのです。

しかしこのように考えるなら、きよめられる必要がなくなってしまいます。あの祈るために宮に上って行ったパリサイ人がそうでした。彼は心の中でこんな祈りをしました。
「神よ。私がほかの人のように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないことを、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。」(ルカ18:11)
このように祈れる人はそれほど多くはいません。でもこのパリサイ人は大胆にもこのように祈りました。なぜ彼はこのように祈れたのでしょうか。聖書にはこのように書かれてあります。
「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちには、イエスはこのようなたとえを話された。」(ルカ18:9)
そうです、彼は、自分は正しい人であり、間違ったことはしていない。自分には罪がないと思っていたからです。そういう人にはきよめが必要ないというか、きよめられる必要さえ感じません。
一方、取税人はどうだったでしょうか。彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)
この二人のうち、いったいどちらが義と認められて家に帰ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人の方でした。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
同じように、自分に罪がないと言うなら、きよめられることはありません。その人は自分を欺いているのであって、真理はその人のうちにはないからです。私たちはそのようにならないために、まず自分の罪を認めなければなりません。

次に、キリストの血に対して私たちが取るべき態度とはどのようなものでしょうか。9節と10節をご覧ください。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

新改訳聖書第三版には、「もし私たちが自分の罪を言い表すなら」とあります。個人的にはこちらの方が好きです。「言い表すなら」も「告白するなら」も、どちらも同じです。この言葉は原語のギリシャ語は「ホモロゲオー」という言葉で、「同じことを言う」という意味です。それは、神が語られることと同じことを言うことを意味しています。そうでなかったらそれを認めて告白しなければなりません。それが悔い改めです。そうすれば神はその罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。つまり、罪の悔い改めを通して、神の光が注がれるのです。罪を悔い改めることは、神の愛と赦しの光が差し込んでくる窓なのです。あなたの心の窓を閉ざすなら神の愛の光は差し込んできません。しかし自分の罪を認め、神に向かって心を開くとき、罪を赦しくださる神の光が差し込んで来るのです。

私たちが罪を犯すとき、その罪にどのように向かい、どのように対処するかはとても重要です。もし自分には罪かせないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。しかし、もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるのです。

ダビデはバテ・シェバと姦淫の罪を犯したとき黙って自分の心の奥に隠しました。するとそれがバレないようにと今度は彼女の夫を戦いの最前線に立たせて戦死させました。これでバレないだろうと思っていましたが逆に彼の骨は疲れきり、一日中うめきました。昼も夜も 御手が彼の上にのしかかり、骨の髄さえ、夏の日照りで乾ききりました。
しかし、彼が自分の罪を神に告白したとき、神は彼の罪のとがめを赦してくださいました。そのときダビデはこう言って賛美しました。
「幸いなことよ その背きを赦され 罪を赦され 罪を覆われた人は、幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」(詩篇32:1-2)

私たちも同じです。私たちもイエス様を信じて罪赦された者ですが、それは罪がないということではありません。日々罪を犯すような者ですが、もし私たちがその罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。神様は決して「またやったのか。愚か者めが」とは言われません。むしろその罪を認めて神の前に悔い改めるなら、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。

あなたはどうでしょうか。悔い改めていない罪はありませんか。きょう主の御前に自分の罪を認めて、悔い改めましょう。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるという神のみことば約束に信頼しましょう。そのような人こそ光であられる神と交わりを持ち、光の中を歩んでいる人です。この光の中を歩むことで、神のいのちと喜びに満ちあふれた日々を送らせていただきましょう。

Ⅰヨハネ1章1~4節 「永遠のいのちを伝えます」

これからしばらくの間、ヨハネの手紙を通して、私たちがイエス・キリストの恵みと豊かな愛によって支えられ、生かされていることを深く覚えさせていただきたいと思います。今回はその第一回目となりますが、「永遠のいのちを伝えます」というタイトルでお話しします。

 

最近の統計によると、日本人の平均寿命は男子が80.98歳、女子が87.14歳で、共に香港に次いで世界第二位だそうです。ところが、アフリカのシオラネオレでは、ちょっとデータが古くて2012年のものですが、男女の平均が45.33歳です。ほかにもアフリカには平均寿命が45歳から55歳までの国がいくつもあります。アフリカでは私の歳でもう亡くなっている人たちがたくさんおられるのです。世界中の人々の命がみな神から与えられたかけがえのないものであることを思うと、人々はその命を本当に正しく使っているのかと疑問が生じてきます。

 

しかし、聖書はこの肉体的いのちと同時に、もっと大切ないのちがあることを私たちに伝えています。それは「永遠のいのち」です。この手紙を書いたヨハネは、2節でこう言っています。

「このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」

ヨハネが読者に伝えたかったのは、この「永遠のいのち」でした。この「永遠のいのち」とは、もちろんイエス・キリストのことです。イエス・キリストこそ永遠のいのちそのものであり、私たちに与えられる「永遠のいのち」の源であります。きょうは、この「永遠のいのち」について三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.いのちのことば(1-2)

 

まず、この永遠のいのちは実際に存在していたものであるということです。1節と2節をご覧ください。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」

 

ヨハネはなぜこの手紙を書いたのか、ここにその目的が明らかにされています。それは1節の終わりにありますが、「いのちのことば」を伝えたかったからです。「いのちのことば」とは何でしょうか?この「ことば」と訳された語は、原語のギリシャ語では「ロゴス」といいます。これは単に口から出す言葉と言う意味ではなく、宇宙全体に秩序を与えて動かしている真理そのものを意味しています。ちょっとわかりづらい表現ですが、ユダヤ人にとって「ことば」とは、天地を創造する神の知恵と力を表すものでした。ですからこれは、神を啓示するために、神の人格として現れた方であるという意味です。

 

ドイツの宣教師でギュツラフという人がいましたが、彼が日本人に訳させた最初の日本語訳聖書では、この「ロゴス」という言葉を「賢いもの」と訳しました。ですから、ヨハネの福音書1章1節の「初めにことばがあった」という文章をこのように訳したのです。「初めに、賢いもの、ござる」

また、宮城県気仙沼付近の方言であるケセン語で聖書を翻訳した山浦玄嗣(はるつぐ)先生は、ここを「初めにあったのは、神さまの思いだった」と訳しています。これが一番分かりやすいかもしれませんね。初めにあったのは神さまの思いでした。その神の思い、神のいのちが現れた。それがイエス・キリストです。

 

では、その神の思い、神のいのちであるキリストとはどのようなお方なのでしょうか。1節には「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことば」とあります。どういうことでしょうか。初めからあったものとは、神が天地を創造される前からすでに存在していたもの、永遠なる方であるという意味です。ヨハネは、このいのちのことばを聞きました。また、実際に自分の目で見ました。そして、自分の手でじかにふれたのです。つまり、ヨハネはこれを机上の空論のような抽象的なものではなく、実際的で、現実的な出来事だった言っているのです。

 

そんなの嘘だと言われる方もおられるかもしれませんが、ヨハネは確かにいのちのことばを実際に見て、聞いて、触れたのです。というのは、このいのちが実際に現れたからです。そうです、このいのちこそ、初めから御父とともにあり、人となって現れた方、私たちの主イエス・キリストです。

 

ヨハネは、このキリストの弟子として歩みました。12弟子の中で、いつもイエス様のそばに3人の弟子がいましたが、その一人がこのヨハネでした。ですから、いつも間近でイエス様の教えを聞きました。間近でイエス様の姿を見ていました。それはまさに、手で触れられる距離感だったでしょう。別にこうやって触ったわけではなかったでしょうが、実際に触れることもあったかもしれません。そのように、きわめて親しい交わりを持っていたのです。そして、この世界でいちばん大切なものを教えていただいたのです。

 

もちろん、ヨハネは最初から、自分の目の前にいるイエス様を、「いのちのことば」だとは思っていなかったでしょう。最初は預言者の一人ぐらいにしか思っていなかったかもしれません。自分たちをローマ帝国の圧政から解放してくれる英雄の一人ぐらいにしか思っていなかったのではないかと思います。けれども、主イエスの生きざまは、一般の預言者や英雄のそれではありませんでした。イエス様は社会で疎外されている人々をこよなく愛し、一方、ユダヤ教の指導者たちに対してはその偽善を激しく責めました。そしてその信念を貫いて、最後は十字架に架けられて処刑されました。そこにはこの世の成功も栄誉もありませんでした。しかしこの世でいちばん大切なものを貫き通されました。その生きざま、死にざまを、ヨハネは最も間近で見たのです。触れたのです。そして、その十字架の死から復活したイエスと出会ったのです。復活された主イエスを見て、聞いて、触れて、実際に確かめることで、この方こそいのちのことば、永遠のいのちであると確信したのです。ヨハネにとってそれは単にあこがれや空想の産物といったものではなく、本当に神が人となって現われてくださり、人間の手でじかにさわることができる存在だったのです。

 

いったいヨハネはなぜこんなことを言っているのでしょうか。それはヨハネがこの手紙を書いた当時、そうではない教えがはびこっていたからです。つまり、あなたがたが見たと言っているイエスは肉体を持っていたかのように見えたかもしれないけれどもそれは幻覚であって、実際には霊にすぎなかったという教えです。こういう教えを何というかというと「二元論」と言います。「二元論」は、肉体は悪であり霊こそが善であると教えます。だから、悪である肉体を痛めつけることによって霊を高めることができると考えて禁欲主義に陥ったり、逆に、大切なのは霊なのだから肉体はどうでもいいと快楽主義に走ったりしていたのです。人は何をどう考えるかによってその結果である行動が決まります。もしもこのような考え方に立つなら、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださったということはまったく無意味なものとなってしまい、そこには何の希望も、喜びも見出されないことになります。ただ目先の、現実だけを追い求める生活となってしまうからです。しかし、キリストは実在された方であり、実際に目で見て、耳で聞いて、手でふれることができました。この方が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことで私たちの罪は完全に贖われました。それゆえ、この方を信じる者に聖書が約束しているように永遠のいのちが与えられました。神との交わりが与えられたのです。このイエス・キリストをじっと見るとき、そこにいのちがあふれてきます。そして、この方が語られる一つ一つのことばが私たちを生かしてくれるのです。

 

ヨハネは、このいのちを「じっと見つめ」と言っていますが、この「じっと見つめ」と訳されている言葉と同じ言葉がヨハネの福音書1章14節にも使われています。そこには、こう書かれてあります。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

ヨハネはここで、イエス様をじっと見つめていると、神のひとり子としての栄光が見えてくる、と言っています。そして、この方は恵みとまことに満ちておられるお方なのだということが見えてくる、と言いました。皆さんはこの方をじっと見つめていらっしゃるでしょうか。別のものを見ているということはありませんか?

 

先週シモン先生の牧師就任式があり、その中でもお話しをされていただいたのですが、いったいなぜシモン先生は牧師になられたのでしょうか。それは「あなたはわたしを愛しますか」と言われる主に、「はい、愛します」と答えたからです。その先にあるのが「わたしの羊を飼いなさい」とイエス様が言われたことでした。つまり、牧師になるというのはイエス様を愛することを、そのような形で応答することなのです。イエス様を愛するということの延長に牧するということがあるのであって、そうでなかったら、牧師を続けるということは難しいのです。

私は牧師になって35年になりますが、そういうことの連続だったと思います。開拓して10年くらい経った時50~60人くらいの群れに成長しましたが、その時初めて壁に直面しました。一人の姉妹が何人かの兄姉を引き連れて教会を出て行かれたんですね。初めての経験でした。寝ても覚めてもそのことが頭をよぎり、離れませんでした。「いったいどうしたらいいんだろう」と悩みました。それまでは牧師は転職だろうと思っていたのに、どうして牧師になんてなってしまったんだろうと思うようらなり、だんだん落ち込むようになりました。「もう牧師を辞めよう」と思いました。辞めるなら早い方がいいと、毎日求人広告を眺めたりしていました。

そんなとき、ある牧師に相談したら、その牧師がこう言われたのです。「日本の教会はどこも小さくて、人が減りはしないかといつも心配しているんです。でも、先生の所はいいじゃないですか。最初からゼロなんですから。失うものは何もないでしょ。これから増えるだけですよ。」何とも慰められているのか励まされているのかわからないような言葉でしたが、考えてみたら「確かに・・」と思いました。ゼロから始まったんだから、失うものは何もない。そう思うと不安とか恐れがなくなりました。

 

そのような時に聖書を読んでいたら、旧約聖書のエレミヤ書の御言葉が私の心を捉えました。エレミヤ30章18~19節に、こう書かれてあります。

「主はこう言われる。見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。彼らから、感謝の歌と、喜びの笑う声が湧き上がる。わたしは人を増やして、減らすことはない。わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる。」

これは昔、イスラエルがバビロンに捕囚となって連れて行かれた時に、神様が苦難の中にいる民に対して預言者エレミヤを通して約束してくださった言葉です。私にはこのことばが、「神様がこの教会を建て直してくださる」という約束として響いてきました。神様が建て上げてくださる。これは主の教会であり、主が建て上げてくださるということがわかったとき、少しずつイエス様にゆだねることができるようになりました。

 

ですから、教会創立20周年の年、私たちがこの大田原市で開拓伝道をすることになったとき、私の牧会スタイルというか、牧会理念が全く変わりました。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

この方をじっと見つめていれば、恵みとまことに満たされます。私が、何を、どうするかということではなく、いのちそのものであられるイエス様が恵みを与えてくださいます。私に求められているのはこのいのちのことばを語ることでしかないのです。それを聞く人がイエス様をじっと見て、そこからいのちを受け取ることができるようにみことばを語るだけでいいんだと示されたのです。

 

だから、私のメッセージは以前とは全く違うメッセージになりました。いのちのことばである聖書そのものを、恵みとまことに満ちておられるイエス様をそのまま語るというスタイルになったのです。

 

皆さん、イエス様をじっと見つめるなら、そこに神のいのちがあふれます。そして、恵みとまことに満ちておられるイエス様のいのちを味わうことができるのです。イエス様が語られることばによって人は生かされるのです。イエス様のもとに重荷を下ろし、憩い、赦しをいただくことで、安心して生きることができます。そして、イエス様に信頼することで、すべてをゆだねて歩むことができるのです。

 

あなたが見ているものは何ですか。このいのちのことば、永遠のいのちから目を離さないでください。この方をじっと見つめてください。そうすれば、あなたの人生も恵みとまことにあふれるようになります。ヨハネが伝えたかったのはこの永遠のいのちだったのです。

 

Ⅱ.イエス・キリストとの交わり(3)

 

次に3節をご覧ください。ヨハネがこの「永遠のいのち」であるイエス・キリストを伝えるのはなぜでしょうか。その目的がここに記されてあります。

「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」

 

ヨハネがキリストを伝えるのは、「あなたがた」、すなわちキリストを直接見たことのない読者もまた、「私たちの交わり」に入ってもらいたいからです。「私たちの交わり」とは何でしょうか?それは御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 

「交わり」とは何でしょうか。教会に来ると、よく「交わり」という言葉を耳にします。みなさんもこの言葉をよく使うのではないでしょうか。「礼拝後、皆さんとお交わりしてお帰りください」とか、「クリスチャンは交わりの中で成長するので互いに交わることは大切です」とかとよく言います。しかし、この場合の交わりとは一緒に食事をしたり、お話しをしたり、時間を共にすることを念頭に言われており、人との交流を指して言われている場合がほとんどです。

 

しかし、聖書が教えている交わりとは、私たちが普段使っている意味と少し違います。ここに出てくる「交わり」という言葉は、原語のギリシャ語で「コイノニア」と言いますが、これは、「何か共通のものを所有すること、分かち合うこと」です。つまり、ヨハネが「御父また御子イエス・キリストとの交わり」と言っているのは、御父および御子と共通のものを所有すること、分かち合うことを意味しているのです。では、何を共有するのでしょうか。それはイエス・キリストのいのちです。このいのちを共有する神との交わりに入れていただくことで、この交わりが広がって、今度は横のクリスチャン同士の共有関係へと発展していくわけです。そのクリスチャン同士の交わりはキリストのいのち、神の恵みの分かち合いにとどまらず、実際に持ち物を分かち合ったり、喜びや悲しみを分かち合っていくという具体的な行為になって現われていきます。ヨハネは、あなたがたもこの交わりに入ってもらいたいと言っているのです。

 

皆さん、この世は「交わりの世界」だと言っても過言ではありません。私たちは生まれるとすぐ両親との交わりが始まります。自分を育ててくれる存在との出会いが、人生の最初の出会いとなるわけですね。それから幼稚園とか、小学校とか、中学校、高校へと進んでいく中で、先生や友人たちとの出会いがあり、仕事や家庭を持つことで、それがだんだんと社会との交流へと広がっていくわけです。そして、交流が広がれば広がるほど自分とは考え方の違う人がいるんだなぁということに気づかされ、そのような違いが見えてくることで、人間関係って煩わしいなあと思わされることもあったり、逆に、「あの人に出会って良かった」と思う出会いもあったりするわけです。

 

マルチン・ブーマーという人は、「人生は出会いで決まる」と言いましたが、私たちの人生は、こうした様々な人たちとの出会いや交流によって方向付けられていくのです。ですから、だれと出会い、どんな交わりを持つかによって、私たちの人生は大きく左右されることになるわけです。そしてその究極の出会いと交わりがイエス・キリストなのです。

 

ヨハネは晩年エペソで過ごしていた時にこの手紙を書いたと言われています。彼は人生の終わりを間近にして自分の人生を振り返りながら、「私の人生にもいろいろな人との出会いがあったなぁ。交流もあった。しかし、その中で、私の人生を大きく変えた出会いがあった。それがイエス・キリストとの出会いだった。」と言っているのです。

 

この出会いは、決してあなたを失望させることはありません。私たちはこの方との出会いと交わりを通して父なる神を知り、神との交わりの中へと入れていただきました。そして、この方との交わりを通して愛とは何であるかを知り、その愛によって神様に愛されているということがわかったのです。その結果、こんな者でもこの愛をもって人を愛することができるようになったのです。これはすごいことじゃないですか。それまでは自分のことしか考えられなかったのに、自分だけ良ければいいと、自分を中心に世界が動いていたのに、キリストと出会い、キリストとの交わりを通して、神の愛に生きることができるようになったのですから。

 

私は自他共に認める自己中心的な人間で、よく家内から、「あなたほど自己中心な人はいない」と言われるのですが、イエス様と出会って、その交わりの中に生かされることによって、少しずつですが変えられてきたと思うのです。「友よ歌おう」という賛美歌がありますが、その中に、「歌い続けよう、主の愛を」という歌があります。

主イエスの深い愛にふれて 私にも愛が生まれ、

主イエスを信じた時に 私にも歌が生まれた。

いつまでも歌い続けよう 主の愛の広さ深さを

十字架でいのちを捨てた その愛の大きさを

イエス様との交わりによって私たちの人生は大きく変えられます。イエス様と交われば交わるほどイエス様のように変えられて行くのです。その交わりの中にあなたも入ってもらいたいと、ヨハネはこのいのちを私たちに伝えているのです。

 

Ⅲ.喜びが満ちあふれるため(4)

 

いったいなぜヨハネはこれらのことを書き送るのでしょうか。第三に、それは私たちの喜びが満ちあふれるためです。4節に、「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」とあります。

 

ヨハネにとっての最高の喜びは、私たち一人ひとりが御父および御子イエス・キリストとの交わりに生きる姿を見ることでした。この「喜びが満ちあふれるためです」と訳された言葉は、第三版では「喜びが全きものとなるためです」と訳されてあります。これは、当時のユダヤ教のラビたちにとっては、この世の終わりに全てのものが新しくされる時の完成の喜びを表すものでした。それはこの地上では成し得ない喜び、至極の喜びでした。ヨハネは、あなたがたが私たちと同じように御父および御子イエス・キリストとの交わりを持って生きる姿を見ることが、私たちにとってこの上もない喜びであると言っているのです。

 

皆さんにとって喜びは何でしょうか。大学入試や就職試験に合格することですか。それも喜びですね。いい人と結婚することが決まったら最高の喜びでしょう。念願の夢がかなってマイホームを新築することになったらどんなにうれしいことでしょうか。これまで自分を悩ませていた病気から解放されたら、家族の願いが叶い、それぞれが自分の願っていた道に進むことができたとしたら、それも大きな喜びです。教会も広い土地が与えられて立派な会堂が建ったらどれほどうれしいことでしょうか。しかし、それよりももっと大きな喜びがあります。それはこの地上にいながらも、さながら天国を味わう喜びです。それが御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 

イエス様は、伝道に遣わされた72人の弟子たちが喜んで帰って来て、「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもさえも私たちに服従します。」と報告すると、このように言われました。

「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしはみました。確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を与えました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。しかし、霊でもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に下記記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:18-20)

イエス様は、弟子たちが喜ばなければならないのは彼らが悪霊を追い出す力が与えられていることではなく、彼らの名前が天に書き記されていることだと言ったのです。言い換えるならこれは、彼らが救われて神との交わりの中に生きていることです。それを喜びなさいと言われたのです。

 

皆さんは何を喜んでいらっしゃいますか。私たちが喜ばなければならないのはこのことです。あなたがたがこの救いの中に入れられ、御父また御子イエス・キリストとの交わりの中に生かされることです。それを見ることはどんなに喜ばしいことでしょう。それは究極の喜び、全き喜びなのです。先日のイースターには3人の方がバプテスマを受けましたが、ヨハネがここにいたらどんなに喜んだことでしょう。もう飛び上がって喜んだに違いありません。また、そのように救われた人がキリストとの交わりの中に入れられ健全に成長しているのを見たら、どれほどの喜びでしょう。本当に喜びに満ちあふれ、神様をほめたたえたことでしょう。私たちもこのことを喜ぶ者でありたいと思います。そして、このために生きる者でありたいと願わされます。これはヨハネだけでなく、私たちにとっても大きな喜びなのです。ヨハネがこの永遠のいのちを伝えたように、私たちもこの永遠のいのち、イエス・キリストを伝える者でありたいと思います。

ヨシュア記23章

きょうは、ヨシュア記23章から学びます。まず1節から5節までをお読みします。

 

Ⅰ.あなたがたのために戦ったのは主である(1-5)

 

「主が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。ヨシュアは全イスラエル、その長老たちや、かしらたちや、さばきつかさたち、およびつかさたちを呼び寄せて彼らに言った。「私は年を重ねて、老人になった。あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。見よ。私は、ヨルダン川から日の入るほうの大海まで、これらの残っている国々と、すでに私が断ち滅ぼしたすべての国々とを、相続地として、くじによってあなたがたの部族に分け与えた。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたの前から彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う。あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。」

 

前回までのところで見てきたように、カナンにおけるイスラエルの戦いは終結し、イスラエルはその割り当てに従って安息が与えられました。それから多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていました。そこで彼は全イスラエルを呼び寄せて、その長老たち、かしらたち、さばきつかさたちに語ります。いうならば、これはヨシュアの遺言です。高齢になり自分の死が近いことを悟ったヨシュアはイスラエルの民を集めて、これからのイスラエルの状況を予測しながら、主の深い御旨を語ったのです。

 

その内容とは、まず、彼らのために戦われたのは、彼らの神、主であるということでした(3)。主なる神がイスラエルに対していかに良いことをしてくださったか、いかに恵み深くあられたかと言うことです。新聖歌172番には、「数えてみよ主の恵み」という賛美がありますが、まさにヨシュアはこのところでまず、主が成してくださった数々の良きことを思い起こすようにと語っているのです。

 

カナンの地を占領するために、ヨシュアは実に多くの労苦を強いられてきました。時には死に直面したこともありました。明日の命はもうないかもしれないと、眠れない夜を過ごしたこともありました。そのような戦いが続く中で、ヨシュアはイスラエルの民を率いて敵を打ち破り、ついにカナンの地を勝ち取ることができました。にもかかわらず、ヨシュアはここで自分たちがどれほど苦労したか、また自分たちの功績がいかに大きかったかということを全く語らず、むしろ、それらを成してくださったのは、「あなたがたの神、主である」と語ったのです。1節の初めの言葉もそうですね。「主が周囲のすべての敵からイスラエル守って安息を与えられた」とあります。主がどれほどすばらしいことをしてくださったかということです。主語はいつでも「主」です。主が良い事を始めてくださり、主がそれを完成させてくださいました。自分たちは、主がしなさいと命じることに従っただけです。

 

ここにヨシュアの徹底した謙遜さをみます。彼は神の前で決して自分自身の功績を数え上げず、それらは全て主の業であると、主に栄光を帰したのです。それゆえに彼は主と共にあって大胆に事をなすことができたのです。私たちもこのことを忘れてはなりません。私たちのために戦われたのは主であって、主が数々の良き業を成してくださったことを覚え、主に感謝するものでありたいと思います。

 

Ⅱ.十分気を付けて(6-13)

 

次に6~13節をご覧ください。

「あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行ない、そこから右にも左にもそれてはならない。あなたがたは、これらの国民、あなたがたの中に残っているこれらの国民と交わってはならない。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがらなければならない。主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたがたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった。あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中にはいって行き、彼らもあなたがたの中にはいって来るなら、交わって、縁を結んで、互いに行き来するような中になるならば、あなたがたの神、主は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、主があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。」

 

ここには、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならないとあります。モーセの書とは創世記から申命記までのモーセが書いた書ですが、ここでは特にモーセによって語られた律法のことです。ヨシュアは、モーセを通して主がお命じになったことをことごとく行いました。これからもこのモーセによって語られた神の命令を守り行わなければなりません。ここには、「断固として」とか、「右にも左にも外れず」とあります。徹底的にそれに従わなければなりません。どうしてでしょうか。

 

7節には、その理由として次のように記されてあります。「これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。」ヨシュアが懸念していたこと、ことは、そこに残された異邦の民がいて、その民と交わってしまうのではないか、ということでした。なぜそれが問題だったのでしょうか。そのことによってイスラエルの民が彼らの神々の名を口にするようになり、それらを拝んだり、仕えたりするようになるからです。

 

ここに「これらの異邦の民と交わらないようにするためである」とありますが、この「交わる」という言葉は「共有する」とか、「一つになる」という意味です。単に接触するということではありません。もし、この世は汚れているからこの世と接触してはならないと命じられているとしたら、私たちはこの世から出て行かなければなりません。けれども、神はそのようなことを命じられているのではありません。キリスト者は、この世の中に生きる者ですが、この世のものではないということです。ヨハネは、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。」(Ⅰヨハネ2:15)と言いました。またパウロは、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」(Ⅱコリント6:14)と言いました。ですから、私たちはこの世にいて、この世との関わりの中で生きてはいますが、この世と一つとなってはならないのです。私たちはこの世のものではなく、神のものだからです。その神にすがり、神の命令を守り行わなければなりません。なぜでしょうか。

 

9節から11節にこうあります。「主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたがたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった。あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。」

主は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われました。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかったのです。この主が絶対的な勝利の秘訣です。だから彼らは自分自身に十分気を付けて、彼らの神、主を愛さなければなりません。

ここには、「あなたがたは一人で千人を追うことができる。」とありますが、これは決して大げさな表現ではありません。私たちはもうすぐ士師記を学びますが、そこにはギデオンという士師が出てきます。彼はたった三百人の戦士で、十三万五千人のミデヤン人を打ち破ることができました。ですから、人数や強さは、主にあって問題ではなりません。問題は、何にすがるのか、だれと共に歩むのかということです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)」主がともにおられるなら、必ず勝利がもたらされます。それは彼らのこれまでの歩みを見てきてもわかるでしょう。主がともにおられるなら、私たちは一人で千人を追うことができるのです。

 

ですから、もしも、堕落して、これらの異邦の民の生き残っている民と親しく交わり、彼らと婚姻関係に入るようなことがあるとしたら、それが罠となり、落とし穴となり、彼らの脇腹にむちとなり、目のとげとなり、やがて主がお与えになったこの良い地から滅び失せることになるのです。後にバビロンがイスラエルを攻めたときに、このことばが実現しました。エルサレムは破壊され、バビロンへの捕囚の民となりました。

 

Ⅲ.主が約束されたことは一つもたがわずみな実現した (14-16)

 

最後に14節から16節までをご覧ください。

「見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。あなたがたの神、主があなたがたについて約束したすべての良いことが、あなたがたに実現したように、主はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、主が、あなたがたに与えたこの良い地から、あなたがたを根絶やしにする。主があなたがたに命じたあなたがたの神、主の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。」

 

14節には「見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」とあります。ヨシュアが「見よ」と民に呼びかけた時、民は一斉にヨシュアに注目したに違いありません。そのような民に向かってヨシュアは、「きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」と語ります。これはヨシュアが自らの死が間近に迫っていることを自覚していたことを示しています。人が最後に語ることばはその人が本当に言いたかったことで、最も重要なことばであると言えます。その最後の最後にヨシュアが語ったこととはどんなことだったのでしょうか。

 

ヨシュアはまず、「あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。」と言っています。これから語る言葉を絶対に忘れるな、その重要さを肝に銘じよということです。その内容とはどのようなものでしょうか。「あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。」と言うことでした。ここで繰り返し、「一つもたがわず」と語ることを通して神の約束の完全性、確実性を強調しています。自分たちが信じる神は、約束されたすべてのことを完全に果たしてくださった。その内一つも欠けることなく、一つもたがわず、みな実現してくださった。これはすばらしい証しです。主が言われたことはすべて実現し、何一つ実現しなかったものはなかったというのですから。私たちにもたくさん、神からの約束が与えられていますが、神は何一つ、そのようになさらないことはありません。すべて実現してくださいます。

 

しかし、ヨシュアが肝に銘じておくようにと言われる内容は、神が約束された良いことが彼らに実現したように、主はまた、すべての悪いことを彼らにもたらし、ついには主が彼らにお与えになられた地から彼らを根絶やしにされるということでした。すなわち、「主があなたがたに命じたあなたがたの神、主の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。」ということです。どういうことでしょうか。

 

ヨシュアは人間にとっていかなる時が一番危険であるかを知っていました。つまり、神の約束が完全に成就したかのように思われる時こそ、最も危険な時でもあるということです。だから彼は残る民に警告を発することを忘れませんでした。

 

私たちにとって最大の危機とは、困難に直面した時ではありません。どんなに苦しく辛い時があっても、それは決定的な危機ではないのです。なぜなら、そのような困難に直面する時、私たちはそれを乗り越えようと苦しみの中でもがき祈るため、神の助けによってそれを乗り越えることができるからです。私たちの人生における最大の危機は、むしろその困難が去り、問題が解決して、すべてが順調にいっていると思われる時なのです。

 

イスラエルの民は長年の夢を見事に果たし、約束の地を獲得することができました。これからさらにどんな素晴らしいことが起こるかと人々は期待していたことでしょう。民はまさに絶頂期にあり、成功と喜びに酔いしれていたわけですが、実はそのような時こそ最も危険な時でもあります。ヨシュアはそのことを感じてここで警告したのです。「勝って甲の緒をしめよ」ということわざがあります。勝利したと思える時こそ決して有頂天にならず、しっかりと緒をしめなければなりません。悪魔は知恵があり、どのような時が一番つけ込みやすいのか、いつ攻撃すればよいのかをよく知っているのです。そして、このように勝利に酔いしれている時こそ、彼らにとっての最も大きなチャンスであるということを知っているのです。

 

ですから、私たちは誘惑に陥らないように祈っていなければなりません。神に従うことこそが、悪魔の策略を打ち破る最も友好的な手段であることを覚え、順境の時、成功の中にあると木こそ主を覚え、主を第一とし、悪魔に立ち向かっていかなければなりません。これこそ私たちの人生における危機を乗り越え、真に成功に導かれていくために必要なことなのです。

 

もしあなたが今、失敗と挫折の中にいるなら主を賛美しましょう。主はあなたの内に働かれ、そのご計画を遂行されることによって、やがてあなたは困難を克服して、素晴らしい祝福にあずかることでしょう。しかし、もしあなたが今、成功と勝利の中にあるならば、そのことを感謝するとともに、ますます主に撚り頼み、主を第一として歩みましょう。そのときあなたは神に喜ばれる者として、神の祝福された人生を歩んでいくことができるのです。

Ⅱペテロ3章14~18節 「キリストの恵みと知識において成長しなさい」

これまでペテロの手紙から学んできましたが、きょうはその最後の勧めとなります。ペテロはこの手紙の最初のところで、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安がますます豊かにされると言いました。また、主イエスの、神としての御力は、いのちと平安に関するすべてのことを私たちに与えてくれると言いましたが、終わりのところでもそのことを繰り返して語り、この手紙を閉じます。それは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい、ということです。

 

Ⅰ.しみも傷もない者として御前に出られるように(14-16)

 

まず14節から16節までをご覧ください。14節をお読みします。

「ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。」

 

「ですから」とは、この前のところで勧められてきたことを受けてのことです。ペテロはこの前のところでどんなことを勧めてきたのでしょうか。彼は、主の日、すなわち終わりの日にどんなことが起こるのかを述べました。10節では、主の日は、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます、とあります。しかし13節、神はそれに代わる新しい天と新しい地を用意しておられます。それは正義の住む新しい天と地です。そこは神ご身がともに住んでおられるところで、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。以前のものが、もはや過ぎ去ったからです。イエス・キリストの血によって罪赦され、義と認められた人はみな、この新しい天と新しい地に住むようになるのです。私たちは、神の約束に従って、この正義の住む新しい天と新しい地に住むようになるのです。私たちは今これを待ち望んでいます。「ですから」です。つまり、ここでペテロは、どのような態度で主の来臨を待ち望むべきなのかを教えているのです。

 

そのふさわしい態度としての第一のことは、「しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい」ということです。

「しみ」とは、汚れがないこと、聖いということです。また、「傷」とは、非難されるところがないという意味です。きよい生活を追い求めることは主の再臨を待ち望むクリスチャンにとってふさわしい態度です。この言葉は2章13節でも使われていました。そこでは偽教師たちに対して、彼らはしみや傷のような者だと言われていました。彼らは貪欲であり、好色であり、高ぶっていました。大きなことを言って誇るのです。神の前に汚れたことを平気で言っていたばかりか、そのようなことをして神の民を惑わし、破滅に導いていました。しかし、イエス・キリストを信じて新しく生まれたのであれば、イエス様がいつ戻って来てもいいように備えていなければなりません。どのように備えたらいいのでしょうか。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」とあるように、私たちを召してくださった聖なる方にならって、私たちも、あらゆる行いにおいて聖なる者でなければなりません。

 

ではそのためにどうしたらいいのでしょうか。ペテロは第一の手紙2章1,2節でこのように勧めました。

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

そのためにはまず捨てなければならないものがありました。何ですか?すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口です。そして、純粋なみことばの乳を慕い求めなければなりません。それによって成長し、救いを得るためです。そうすれば、キリストのような聖い人に変えられていきます。

 

クリスチャンは、そのようにしみや傷のない者として御前に出られるように励まなければなりません。旧約聖書には神に受け入れられるいけにえについて記されてありますが、それはしみや傷のないものでした。同じように、私たちも神へのささげとしてしみや傷のないものでなければなりません。これこそ深い平安をもって御前に出られる秘訣なのです。

 

どのようにしてキリストの来臨を待ち望んだらいいのでしょうか。第二のことは、主の忍耐は救いであると考えることです。15節の前半のところに、「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」とあります。どういうことでしょうか。このことについては、すでに3章前半のところで述べました。主の再臨の約束を聞いても、ある人たちはなかなか信じられませんでした。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」(3:4)と言ってあざける者たちがいたのです。しかし、彼らは見落としていました。当時の世界が水によって、洪水に覆われて滅びたように、いつまでも同じままであるということはありません。主の御前では一日は千年のようであり、千年は一日のようです。時間的な感覚が全く違うだけです。私たちも小さい頃は一日が長く感じられましたが、年をとればとるほど、一日があっという間に過ぎ去って行きます。ですから、主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。それは、ひとりも滅びることがないように、すべての人が救われて真理を知るようになるために、主が忍耐しておられるからなのです。ペテロはそのことをここで繰り返して語っているのです。

 

考えてみると、私たちも救われるまでには随分時間がかかったのではないでしょうか。すぐに信じたという人もいるでしょうが、中にはかなり葛藤しながら、激しい抵抗を繰り返して、やっと信じることができたという人もいます。いろいろなパターンがあります。それでも主は私たちが救われるために忍耐してくださいました。私たちが悔い改めて、主に立ち返ることができるように忍耐して待っていてくださいました。だから私たちは救われて、今こうして主を賛美し礼拝することができるのです。もし10を数えるまで決断しなければ救われないと言われたら、信じられなかったかもしれません。私たちが救われたのは主のあわれみと忍耐によるのです。このことを覚えておくようにというのです。なぜなら、このことを覚えることで、私たちも主と同じ思いを持つことができるからです。すなわち、主がまだ再臨しておられないのは忍耐しておられるからであって、主はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。このように主の忍耐は人々の救いのためであることを覚え、私たちも忍耐をもって福音宣教に励まなければなりません。

 

15節の後半と16節をご覧ください。この主の再臨を確証するものとしてペテロは、パウロの手紙を示し、パウロもこのことを語っていると述べています。「このこと」とは何でしょうか。主の再臨のことです。今ペテロが書き送っている人たちはポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビデニヤといった小アジヤ地方の教会の人たちですが、ここはかつてパウロが伝道した地でもありました。主が再臨するということはそのパウロも語っていたことであり正しい教えなのです。それなのに、中には聖書の教えを曲解して、自分自身に滅びを招くような人たちがいました。どういう人たちですか。16節には「無知な、心の定まらない人たち」とあります。「無知」とは、聖書の知識が無い人のことで、「心の定まらない人」とは、知識はあっても心の迷いやすい人、霊的に不安定な人のことを指しています。彼らは聖書の文脈を無視して、自分たちに都合がいいように解釈していました。ペテロはここで、「その中には理解しにくいところがあります」と言っています。聖書の中には確かに理解しにくいところもあります。たとえば、前回お話しした携挙の教えなどはそうでしょう。イエス様が来臨される時、イエス様を信じている人は死んだ人も生きている人も一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになるという約束です。これはなかなか信じにくいことです。しかし、聖書はそのように約束しておられます。なぜなら、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)

これが神の約束です。現実的には考えられないことですが、神はこのように約束してくださいました。それなのに彼らはそんなことが起こるはずがないと言って否定し、自分自身に滅びを招くようなことをしていたのです。

 

また、パウロが神の恵みと、信仰による義を強調するために、「罪が増し加わるところに、恵みがあふれる」(ローマ5:20-21)と言いましたが、彼らはその言葉も曲解して、「ああ、パウロはもっと罪を犯すべきだと言っている」と非難したり、「何をしても許されるんだからもっと罪を犯してもいいんだ」と、それを口実にして好きな勝手なことをしいる者たちもいました。とんでもないことです。

 

確かに聖書は理解しにくいところはありますが、そうした箇所を曲解して、自分自身に滅びを招くようなことがないように注意すべきです。このようにして主を待ち望まなければなりません。

 

Ⅱ.自分自身の堅実さを失わないように(17)

 

第二のことは、自分自身の堅実さを失わないように、よく気をつけなさいということです。17節をご覧ください。

「ですから。愛する者たち。あなたがたは前もってわかっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。」

ペテロはここで、こうした不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失うことがないようによく気をつけなさいと、警告しています。自分自身の堅実さを失わないようにとはどういうことでしょうか。ペテロはここで、救いを失わないようにと言っているのではありません。本当に救われたのであれば救いを失うことはありません。ヨハネの福音書10章28節には次のようにあります。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」

ですから、イエス様を信じて永遠のいのちを与えられた者は、決してそれを失うことはないのです。では堅実さを失うことがないようにとはどういうことでしょうか。それは、信仰に堅く立たなくなってしまうことがないようにということです。悪い曲がった教えを聞くとだんだんそうなってしまいます。ちょうど私たちの健康と同じです。いつもジャンクフードばかり食べていると体は維持しているようでも、体の中は確実に蝕まれていきます。不健康になって体全体が弱くなってしまうのです。それは霊的にも言えることで、曲がった教えを聞き続けていると、やがて不健康になっていきます。主を求めているようでも的がはずれていたり、信仰が弱くなってしまうことがあるのです。自分では主に従っているようでも実際には自分のため、自分の欲望に従って生きているということがあるのです。信仰が形骸化し、救いの確信を失ってしまうこともあります。罪が赦されているということさえ忘れてしまう。救われているはずなのに、救われていないような生き方をしていることがあるのです。

 

だからペテロは偽預言者に気をつけるようにと警告したのです。私たちが人に惑わされないために何が必要でしょうか。真理のことばである神のみことばを聞き、そこにしっかりと立ち続けることです。神のことばが私たちを救い、私たちを成長させます。だから神のことばにしっかりととどまり続けなければなりません。神のことばにとどまることによって、聖なる生き方をする敬虔な人になることができるからです。いつ主が戻って来てもいいように、平安のうちに御前に出ることができるのです。

 

Ⅲ.主イエスの恵みと知識において成長しなさい(18)

 

最後に、18節をご覧ください。

「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。」

 

この手紙におけるペテロの最後の勧めは、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」ということでした。これが、ペテロが伝えたかったメッセージです。彼はもうすぐこの世を去って主のみもとに行くことを知っていました。そんな彼が心配していたことは自分のことではなく、彼が去って行った後で教会の中に凶暴な狼が入り込み、人々を惑わすことでした。どうしたらそうした者たちに惑わされないで、信仰に堅く立ち続けることができるのでしょうか。それはイエス・キリストの恵みと知識において成長することによってです。

 

ペテロはまずイエス・キリストの恵みにおいて成長しなさいと言っています。恵みにおいて成長するとはどういうことでしょうか。恵みとは、受けるに値しない者がただ受けることです。神は恵み深い方ですから、すべてのものをただで私たちに与えてくださいました。何を与えてくださったでしょうか。

 

まず神は私たちすべての人に自然の恵みを与えてくださいました。神は良い人にも悪い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます。もし太陽が上らなかったらどうなるでしょうか。もし雨が降らなかったらどうなるでしょう。植物は成長せずやがて枯れてしまいます。それは植物だけでなく動物も、私たち人間にも言えることです。生きていくことさえできなくなります。いのちあるものはすべて自然の恵みを受けて生きているのであって、これがなかったら生きていくことはできません。

 

そればかりでなく、神は特別な恵みを与えてくださいました。それが救いの恵みです。罪のゆえに神にさばかれても仕方ないような私たちが、そのさばきを受けないようにとご自分の御子をこの世に遣わし、この方が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、この方を信じる者はだれもさばかれることがないようにしてくださいました。これが聖書の言う救いです。私たちの人生にはいろいろな救いがありますね。金魚すくいからどじょうすくい、エビすくいやカニすくいまでいろいろあります。病気が癒されること、貧乏からの解放、人間関係のトラブルの解決など、本当にいろいろな問題がありますが、聖書のいう救いとは、それらすべての苦しみの根源である罪からの救いです。それは私たちが何かをしたからではありません。私たちがいい人だからでもないのです。真面目に生きたからでもないのです。神が私たちを愛し、私たちの罪のためにご自身の御子を遣わし、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださることによって、その救いの御業を成し遂げてくださいました。私たちはその神の御業を信じるだけで救われました。これが恵みです。私たちは罪の中に死んでいたのですから、自分では何もすることができません。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪の中に死んでいた私たちを、キリストともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。

 

ですから、あなたが過去の罪を帳消しにするために何かをしなければならないということはありません。あなたの過去の罪が、いや過去の罪だけでなく現在の罪も、またこれから犯すであろう罪もすべて赦されるのは、神がしてくださったこの贖いの御業を信じることによってなのです。イエス・キリストをあなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたは救われるのです。

 

これは恵みではないでしょうか。この神の恵みがすべての人に提供されています。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)

この救いはすべての人に提供されています。しかし、それはすべての人が自動的に救われるということではありません。クリスチャンホームに育ったから救われるとか、教会に行ったことがあるから救われるというのでもはないのです。教会と何らかの関係を持っていれば救われるというのでもありません。イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じる人だけが救われます。ですから、イエス様を救い主として信じた人はみな罪が赦されたのです。

 

しかし、神の恵みはこれだけではありません。神の恵みは、このように信じて救われた者が、霊的に成長していく上でももたらされます。救われるのは神の恵みによりますが、霊的に成長するのも神の恵みによるのです。それはちょうど畑の中に種が蒔かれるようなものです。畑の中に蒔かれた種は自然の恵みの中で成長していくように、私たちもキリストの中にいるなら霊的に成長し続け、多くの実を結ぶことができるのです。

 

イエス様はこのことをぶどうの木のたとえで説明してくださいました。ヨハネ15:4~5をご覧ください。

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

 

キリストを離れては何もすることができません。恵みを離れては成長することはできないのです。しかし、キリストにとどまるなら多くの実を結びます。この方は恵みとまことに満ちた方です。あなたが実を結ぶことができるようにと、神がこの方に接ぎ木してくださいました。ですから、この方から離れては実を結ぶことはできないのです。実を結ぶためにはこの方にとどまっていなければなりません。「私は信じます」と言ってもこの方から離れてしまうと、せっかく実を結ぶことができるように神が接ぎ木してくださったのに、実を結ぶことができなくなってしまいます。実を結ぶ方法はたった一つ、それはキリストにとどまっていることです。私はよく質問を受けることがあります。それは、「こんな私でも成長しますか」です。答えはYes!です。あなたがキリストにとどまるなら、キリストがあなたを成長させてくださるからです。

 

私たちがキリストを信じた時神の子とされ、神の性質が種となって与えられました。種は成長していきます。ですから、私たちもキリストにとどまるなら霊的に成長していきます。私たちの性質がキリストの性質に変えられていくのです。

 

私たち夫婦は、よく「似てますね」と言われることがあります。えっ、ウソでしょ。顔は似てないし、性格も行動も全然違います。私がうさぎなら家内は亀です。こんな二人ですからどう見ても似てるはずがないのですが、「似てますね」と言われることがあるのです。何が似ているのかなぁと冷静に考えてみてもやはり似てないのです。それでも似ているところがあるとしたら考え方ではないかと思います。いつも一緒にいて同じ価値観を共有し、同じ目標に向かって歩んでいるうちに、いつの間にか似た者同士になっていくのです。

これはイエス様との関係においても同じです。いつもキリストにとどまり、キリストと交わることで、キリストに似た者に造り変えられていくのです。これがクリスチャンの門表です。

 

そして霊的に成長していくと行いも少しずつ聖められていきます。悪から離れ、道徳的にきよくされ、謙遜にされていきます。神の恵みを知れば知るほど自分の罪深さを知るからです。それまでは自分ほどいい人はいないと思っていたのに、自分ほど謙遜な人はいないと高ぶっていたのに、神の恵みを知れば知るほど神の前にへりくだるようになり、他の人を自分よりもすぐれた者と思うようになります。その結果、人間関係も平和になっていきます。

 

さらに恵みによって忍耐力も身についていきます。キリストを知るまではすぐに怒っていました。自分の気に入らないことがあるとすぐに雷のように怒っていたのに、キリストを知れば知るほどだんだんキリストの性質に変えられていくので柔和になっていきます。試練が来てもそれを耐え忍ぶようになるのです。また恵みによって今まで許せなかった人も許すことができるようになるのです。

 

このように、キリストにとどまるなら霊的に成長し、キリストの性質へとだんだん変えられていきます。すべては神の恵みです。私たちは神の恵みによって救われ、恵みによって成長し、神の恵みによって変えられていくのです。

 

ペテロはこの神について何と言ったかを思い出してください。Ⅰペテロ5章10節で、彼はこう言いました。

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招いてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」

みなさん、神はどのような方ですか?神はあらゆる恵みに満ちた方です。すなわち、あなたがたをキリストにあって選び、その永遠の栄光の中に招き入れてくださった方です。その神が、しばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。不動の者としてくださるというのは、霊的大人にしてくださるということです。神は私たちをどのように霊的大人にしてくださるのでしょうか。しばらくの苦しみを通った後です。試練を通してです。苦難を通され、その後で回復させられることによって、私たちの信仰が強くされていきます。その結果、信仰に堅く立つことができるようになるのです。試練が来ると揺らぎそうになりますが、自分がどこに属しているかがはっきりわかるので、もっと神に信頼するようになります。問題が起こらないと、私たちは自分でやれると思ってしまいます。でも問題が来ると自分ではどうしようもないということがわかるので、しっかりと信仰に立とうとします。試練は私たちを弱くするのではなく、逆に私たちを強くします。そして恵みによって不動の者としてくださいます。あらゆる恵みに満ちた神がそのようにしてくださいます。これが聖書の約束です。台風が来ると木がしっかりと根を張るように、私たちの人生に試練が来ると、しっかりとキリストに根を張ることができるようになるのです。

 

先日、中国からOさんのお母さんとお友達が来て一緒に食事をしました。その中で中国の教会の話題となったとき、最近の指導者の体制によって中国の家の教会が厳しい統制に敷かれますねと言うと、彼らは口をそろえて言いました。「いいえ、それは感謝なことです。そのような苦難が私たちの信仰を強くします。もし家の教会が分散しても、私たちはもっと神様に祈ります。そして、いつそうなってもいいように準備しています。」

まさにこのみことばを生きているのです。問題があるから不平不満を言うのではなく、その問題が自分たちを強めると信じて、神に感謝しているのです。同じ問題でも一方ではつぶやき、一方では感謝する。この違いはどこから来るのでしょうか。神のみことばへの信頼です。彼らはただ単純にみことばを信じ、それを自分の生活の中に適用しているのです。

そういえば、2年前に私たちが家の教会を訪れた時、どの家の集会も2時間位の内容でしたが、そのうちの1時間半は、一人15分くらいのみことばの証でした。それが6人で1時間半です。あとは賛美と祈りが30分、全体で2時間の集会でした。次から次にみことばを証する人がいます。「事前にだれが証するか決まっているのですか」と聞くと、全然決まっていないと言います。みんな単純にみことばを生きているだけです。

たとえば、このときもOさんのお母さんはご病気で、1月に入院して退院したばかりなので日本に来るかどうか悩んだそうですが、このみことばが与えられたので全く心配していないと言いました。

「そういうわけで、肉体にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」(Ⅱコリント5:9)

すごい信仰です。自分のいのちも、健康も、すべて主にゆだねきっています。もしそれで死ぬようなことがあったとしてもそれもまた益だというのですから。ですから、あらゆる恵みに満ちた神が、私たちをしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださるとみことばにあるので、そのように受け止め、心配しません。すべてを神にゆだねるのです。

 

皆さん、私たちの神は恵みの神です。あらゆる恵みに満ちた方です。この恵みに満ちた神が、私たちをしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。この神の恵みにおいて成長させていただきましょう。あなたを救いに導いてくださった神は、恵みをもって成長させ、堅く立たせ、不動の者としてくださいます。

 

ペテロはここでもう一つのことを言っています。それは恵みだけでなく知識においても成長もしなさいということです。知識において成長するはどういうことでしょうか。もちろん、知識とは神のことばである聖書の知識のことです。だれか有名な先生の本を通してキリストの知識を得るのではありません。そんなことをしたら、その人が考えるキリスト像になってしまい、聖書そのものが教えるキリスト像ではなくなってしまいます。ですから、キリストについての正しい知識を聖書から得なければなりません。

 

どうやったら得ることができるのでしょうか。聖書の言う「知る」というのは、個人的にそれを深く体験することです。頭だけで知る知識ではなく、心の中で個人的な体験としてイエス・キリストを知ることです。先ほどお話しした中国のクリスチャンたちのように、みことばに生きることです。与えられたみことばを、祈りを通して自分の生活にどのように適用できるのかを思いめぐらし、それを実践するのです。そのようにして神との交わりが深められていきますと体験としてキリストを知ることができます。そしてこのようにしてキリストを知れば知るほど、霊的に健全に成長していくことができます。

 

ペテロは、キリストの恵みと知識において成長しなさい、と言いました。霊的に成長することが、私たちが偽りの教えや道徳的に堕落することから守ってくれます。そうでないと倒れてしまいます。それはちょうど自転車のようです。自転車は前に進んでいる時は倒れませんが、止まったら倒れてしまいます。これは霊的にも同じことで、私たちはキリストの恵みと知識において成長し続けなければなりません。そうでないと倒れてしまいます。ずっとそこに立っていることができなくなるばかりか、後退することになってしまうからです。キリストにとどまり、キリストのことばに聞き従うなら、確実に成長していきます。なぜなら、これは神の恵みによるからです。あなたの努力によってできなく、神の恵みによって神が成長させてくださいます。

 

あなたは成長していますか。成長したいと願っていますか。どこか自分の中でブレーキをかけていることはないでしょうか。自分はこのままでいいと、開き直っていませんか。そこに立ち止まっていると結局倒れてしまいます。あなたに求められていることは成長することなのです。キリストの恵みと知識において成長しなさい。

 

この手紙を書いたペテロも結構失敗しました。しかし、神の恵みにとどまることによって神の赦しを体験し、最後までキリストに従い通すことができました。私たちも神の恵みによって成長させていただきましょう。そして、このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまであるように祈りましょう。