ヨハネの福音書11章38~46節 「信じるなら神の栄光を見る」

ヨハネの福音書11章を学んでおります。ベタニアのマルタとマリアの兄弟ラザロが死んで四日後に、イエスはヨルダンの川向うからベタニアにやって来られました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」というマルタに対してイエスは、「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われました。しかし、そのことばを信じることができなかったマルタは、「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」と答えると、イエスは、あの有名なみことばを語られました。25節です。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」しかし、そればかりではありません。26節にあるように、「また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」とも言われました。確かにイエスを信じる者は死んでも生きる永遠のいのちを持ちます。しかし、そればかりではなく、生きていてイエスを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはありません。もうすでに永遠のいのちを持っています。死んでも生きるのです。イエスを信じる者が「死」という絶望に苛(さいな)まれることはありません。どんな困難にも勝利することができるのです。死んだラザロもよみがえります。「あなたは、このことを信じますか。」と言われたのです。マルタは、「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」と言いましたが、それはイエスが期待していた信仰ではありませんでした。イエスは、今、この地上にあって神の国が来ていることを信じてほしかったのです。

 

それはマリアも同じでした。マリアがイエスに会うと、マルタが言った言葉と同じ言葉を言いました。32節、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」彼女もまたラザロの死を受け止めることができませんでした。「どうしてもっと早く来てくれなかったのですか。」「どうしてここにいてくださらなかったのですか。」「もしここにいてくださったなら、私の兄弟ラザロは死ななかったでしょうに。」そして、大声で泣きました。号泣したのです。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、

心の動揺を感じて、涙を流されました。英語では、゛Jesus wept.”です。たった2文字です。聖書の中で一番短い聖句となっています。イエスは涙を流された。なぜ涙を流されたのでしょうか。それは、イエスは私たちと同じ人間として来られたからです。私たちと同じ感情をもっておられました。ですから、マレアが泣いているのをご覧になられ、その弱さに同情されたのです。私たちの主イエスは、私たちの弱さに同情できない方ではないのです。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じようになられました。イエスは、あなたの痛み、あなたの悲しみ、あなたの苦しみ、あなたの涙を知り、あわれんでくださるのです。ですから、私たちに必要なことは、そのあわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことです。言い換えるなら、どんな時でもこのイエスに信頼するということです。信じるなら神の栄光を見るのです。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.その石を取りのけなさい(38-40)

 

まず、38~40節をご覧ください

「イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

 

イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、ラザロの墓に来られました。イエスは何に対しテ憤っておられたのかについては先週お話しした通りです。それは人類に死をもたらした罪の現実と、それを支配している悪魔に対する憤りです。当時、墓は洞穴になっていて、その入口に石が置かれていました。するとイエスは、「その石を取りのけなさい」(39)と言われました。「その石」とは墓をふさいでいた石です。いったい何をするというのでしょうか。死んだラザロの姉妹マルタは、「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」(39)と答えました。私たちも今週の土曜日に埋葬式を行いますが、当時の埋葬は、今日のように火葬にはせず、死体には香料や没薬を塗り、長い布で巻きつけて、洞穴の中に置きました。でもさすがに四日も経つと腐ってきます。ただ腐るというだけではありません。当時のユダヤ教のラビたちは、死者の魂は死後三日間は遺体の周りを漂っているが、四日になるとその遺体から完全に離れていくと教えていました。ですから、死んで四日になるというのは、その人が完全に死んでしまったということを言っているのです。死んで三日以内であれば蘇生する可能性もあるかもしれませんが、四日にもなるとそういうことはあり得ません。遺体の腐敗も進んでいるでしょう。もう無理です。その望みは完全に断たれてしまいました。しかし、イエスはその石を取りのけなさいと言われました。いったいなぜそのように言われたのでしょうか。

 

40節には、「イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」」とあります。確かに常識で考えれば、一度死んでしまった者が生き返るなどということがあろうはずがありません。終わりの日によみがえることはあるでしょう。でも実際に死んだ人がよみがえるなどということは考えられません。しかし、イエスは「信じるなら神の栄光を見る」と言われました。問題は、私たちが信じられないことです。マルタと同じように「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」と言ってしまいます。「無理ですよ」「お先真っ暗です」「もうどうしようもありません」と言ってしまうのです。でもそのような時こそイエスがやって来てこう言われます。「その石を取りのけなさい。」イエスがラザロの死後四日も経ってから来られたのはそのためでした。マルタがもうだめです、終わりです、と言うそのタイミングで来られたのです。もし私たちの中にまだ可能性があるかもしれない、他に何らかの道があるかもしれないという状況ではイエスは来られません。もうだめです。何もできません。絶望です。そういう時にこそ来てくださるのです。それはイエスが遅れているからではありません。そのような時だからこそ主の力が発揮され、主の栄光が現されるためです。私たちに求められているのは、信じてその石を取りのけることです。

 

先日、武藤兄姉を訪問しました。これまでお一人で寂しいこともありましたが、武藤兄が退院してとても安心しておられました。ところが、武藤兄もリハビリがあるので、車椅子の姉妹にはご主人を介護するのには限界があります。そんな時、東京にいた頃に所属していた教会の牧師先生が語ったことばを思い出しているとのことでした。それは「人の限界の時が、神が働かれる時である」という言葉です。自分にはもうできないという時こそ、神が働いてくださる時だというのです。まだ自分にはできると思っているうちには神は働かれませんが、もうだめだという時にこそ神が働かれるのです。あなたはそれを信じなければなりません。信じるなら神の栄光を見るのです。本気で信じていないのに、神の栄光を見せてくださいというのは全くのお門違いです。神の栄光を見たいなら、本気で信じなければなりません。あなたの問題をすべて神にゆだねなければならないのです。

武藤さんの家から帰ろうとしていたら、「先生、主人のためにも祈ってください」というので、ご主人のお部屋に行きました。ご主人は部屋を暗くして寝ておられましたが、奥様が、「ねぇ、ちょっと先生が来たから電気つけるわよ」と部屋を明るくしました。そして、「夫はあの、父、御子、御霊の、という頌栄がありますよね、あれが好きなんですよ。」と言われたので、「あっ、ちょうどヒムプレーヤーを持って来たので一緒に賛美しましょう。私は何でも弾けますから」と、ヒムプレーヤーの伴奏で一緒に新聖歌63番を賛美しました。ご主人は目をつぶり、涙を流しながら、父、御子、御霊の、おおみ神に、とこしえ、たえせず、御栄えあれ」と賛美しました。それを見ていた武藤姉も涙しました。私はそこに主の臨在を強く感じました。体も思うようにいかない中でも、主を見上げ、主を信じ、主の栄光をあがめるところに、必ず主が働かれることを確信しました。信じるなら、神の栄光を見るのです。信じて、その石を取りのけなければなりません。

 

私たちは「臭い物に蓋をする」ということわざがあるように、どちらかというと、臭いものには蓋をしようとする傾向があります。できるだけ臭い自分に蓋をして、匂いが外に漏れないように隠してしまうのです。でも主の栄光を見たいなら、臭いものに蓋をしてはなりません。逆に、その石を取りのけなければならないのです。たとえそれがたまらなく臭いようなものでも、他の人から見たら醜い問題でも、その蓋を取りのけてイエスに触れていただくようにしなければなりません。それが主にすべてをゆだねるということです。あなたの問題を主にゆだねてください。あなたを塞いでいるものは何ですか。その石を取りのけてください。そして、神の栄光を見させていただこうではありませんか。

 

Ⅱ.ラザロよ、出て来なさい(41-43)

 

次に、41~43節をご覧ください。

「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」」

 

そこで彼らが石を取りのけると、イエスはこう言われました。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。」これは祈りです。その祈りはまず「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します」という感謝の祈りでした。イエスの願いとはどんなことだったのでしょうか。ここには書かれていないのではっきりはわかりませんが、この文脈からするとラザロがよみがえることではないかと思います。そうだとすれば、イエスはここに来られる前からラザロのために、そしてマルタやマリアのために祈っていたということがわかります。そうです、何のアクションもないからといってイエスは何もしておられないのではありません。何もしていないようでも、いつもあなたのために祈っておられるのです。ローマ8:34には、「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」とあります。イエスは今も、神の右の座でとりなしていてくださるということを覚えていただきたいと思います。

 

そして、42節には「あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。」とあります。私たちもこのように祈りたいですね。「あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っております」私たちの願いは父のみこころにかなったものであり、もうすでに聞いていただいているという確信をもって祈らなければなりません。

 

そのように祈られると、イエスは大声で叫ばれました。「ラザロよ、出て来なさい。」なぜ大声で叫ばれたのでしょうか。マタイ12:19には、「彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者はなく」とあります。イエスは日ごろあまり大きな声を出されるということはありませんでしたが、ここでは大声で叫ばれました。それはあたかも天地創造の時に、神が「光よ、あれ」と仰せられた時のようです。それは無から一切のものを創造し、人にいのちを与えられた主の権威ある一言でした。つまり、イエスは人にいのちを与えることがおできになる方であることを印象付けるために、大声で叫ばれたのです。主はそのような権威を持っておられる方なのです。その声にすべてのものはひれ伏し、伏し拝み、服従します。それが私のようにかん高い声だったかどうかわかりませんが、どんな声であっても、その声にすべてのものが服従するのです。それはあなたが抱えている困難も、です。私たちは時として大きな困難に出会い絶望してしまうことがありますが、イエスが御声を発すると、すべてのものは服従するのです。イエスにはそのような権威を持っておられるということを覚えていただきたいのです。

 

Ⅲ.ほどいてやって、帰らせなさい(44)

 

第三に、44節をご覧ください。主イエスがそのように叫ばれるとどうなったでしょうか。「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」」

おもしろいですね。亜麻布でぐるぐる巻きに巻かれて死んでいた人が、墓から出て来ました。手足はもちろんのこと、ここには「彼の顔は布で包まれていた」とあります。全身が布で包まれていました。ほとんど身動きできないような状態だったでしょう。そういう人が墓から出てきたのです。開いた口がふさがらないとはこのことです。とても信じられません。ここに信じがたい光景が映し出されています。だいたいどうやって出てきたのでしょうか。全身が布で包まれているわけですから、普通に歩いて出てくることはできなかったでしょう。ピョンピョンと跳ねながら出て来たのでしょうか、あるいは、肘をついて這いつくばるようにして出てきたのでしょうか。わかりません。ただ確かなことは、死んだはずのラザロが墓から出てきたということです。

 

死んだ人が生き返ったという話は新約聖書に何回か出てきますが、あの会堂管理人ヤイロの娘の場合は、死んでからすぐのことでした。また、ナインの町のやもめの息子の時は、死んで埋葬のために墓に向かって行く途中でした。すなわち、死んですぐのことでした。しかし、このラザロの場合は死んで四日も経っていました。それは完全に死んだということを意味しています。イエスはそんなラザロを生き返らせたのです。そうです、イエスは死人をよみがえらせることができる方です。死んでいる人にいのちを与えることができる方なのです。

 

ヨハネの福音書の中には、イエスが神から遣わされたメシアであることを示すためのしるしが7回出てくるということを何度かお話してきました。それは証拠としての奇跡です。その最後のものが、このラザロのよみがえりです。ですから、このしるしはヨハネの福音書の中のクライマックスであり、最大のしるしであったと言えます。ヨハネはこの奇跡によって何を示そうとしていたのかというと、イエスは神から遣わされたメシアであるということ、そして、霊的に死んでいる人をもよみがえらせることができるということです。まさにこれこそヨハネが伝えたかったことであり、聖書の中心です。永遠の滅びから救われ、永遠のいのちを与えることができるということは、神の奇跡の中でも最大の奇跡なのです。イエスはそのように死んでいる人にいのちを与えることができるお方なのです。

 

皆さんは、クリスチャンになってからも神の奇跡を体験したいと願い、自分の人生に奇跡が起こったらどんなにすばらしいだろうと思うことがあるでしょう。こんなにお金が必要な時に、宝くじ一つにでも当ったらどんなにすばらしいものかと思うかもしれません。原因不明の病気にかかりどの医療機関に行ってもどうにもならないと医者から宣告されたけど、神が奇跡を起こして完全に癒してくれたらどんなにすばらしいことかと思います。愛する者が亡くなったとき、このラザロのようにキリストが直接現れて生き返らせてくれたらどんなにすごいだろうと思うでしょう。神の奇跡を期待して何度も叫びたくなる時があります。でも忘れてはならないことがあります。それは、人が永遠の滅びから救われるということ以上に大きな奇跡はないということです。霊的に死んでいた人がよみがえるということ以上に大きな奇跡はありません。これは最大の奇跡です。

 

先日、ある方がこう言われました。「先生、今関わっている人は本当にひどい人で、携帯の料金も払わないので自分が立て替えてあげたんですけれども、結局、支払うことができずブラックリストに載ってしまいました。仕事はやっているんですけれど、給料日になるとパーっとお酒を飲んで使ってしまうので、全然生活が成り立たないんです。こういう人でも救われますか」皆さん、どうですか。こういう人でも救われますか。救われます。なぜなら、イエスは死んでいた私たちを救いいのちを与えてくださるのですから。死んでいるということはもう何もできないということです。神に対して叫ぶこができません。しかし、神は、そんな状態からも救ってくださいました。それは一方的な神の恵みによるのです。エペソ書の中にはこうあります。

「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(エペソ2:1-8)

 

ここには、私たちは、自分の背きと罪の中に死んでいたとあります。でもあわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。それは神の恵みによるのです。そればりではありません。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。私たちはもう天上に座らせていただいたのです。いつ死んでも天国です。イエス・キリストによって神がともにいてくださるようにしてくださいました。これが永遠のいのちです。それは私たちから出たことではなく、神からの賜物です。すごいでしょ。あのウエスレーが「私たちにとって一番良いことは、神がともにおられることです」と言った言葉が響いてきます。この永遠のいのちを持つようにしてくださいました。これはものすごいことなのです。これよりも大きな奇跡はありません。イエスは、このラザロの生き返りを通して、ご自分が死んだ私たちを生き返らせることができるいのちの主であることを示してくださったのです。

 

しかし、それだけではありません。ラザロはイエスのことばを聞いて墓から出てきましたが、私たちもイエスのことばを聞いて墓から出てくる時が来る時がやって来ます。ラザロのよみがえりは、私たちもやがてよみがえるということの型でもあったのです。

ヨハネ5:25~29をご覧ください。ここには、「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」とあります。死んだ人が神の声を聞く時が来るとは、霊的に死んでいる人が神の声を聞くということです。それを聞いて、それを信じる者には、永遠のいのちを持ちます。死んでいた者がいのちを受けるのです。イエスが道であり、死んであり、いのちです。ですから、イエスを信じるなら、だれでもこのいのちを持つことができるのです。しかし、それだけではありません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受け、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出てきます。これはキリストが再臨される時に受けるよみがえりのことを言っています。その時、キリストを信じた者はみな墓からよみがえります。それはラザロがよみがえったように、再び死ななければならないからだによみがえるのではなく、決して死ぬことのない霊のからだ、栄光のからだによみがえります。それは、イエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた時のからだと同じです。もはや死ぬことはありません。イエスが死からよみがえられたのは、私たちもやがて終わりの日にこのからだによみがえるということを示すためでした。それは初穂だったのです。ラザロのよみがえりはそれとはちょっと違いますがこの型でした。私たちはやがてこの霊のからだによみがえります。イエスが死んだラザロをよみがえらせてくださったのは、私たちにそのことを示すためでもあったのです。イエスはそれがおできになられます。なぜなら、イエスは完全に死んだラザロをよみがえらせることができたからです。イエスは、死んだ者にいのちを与えることができます。そうです、イエスは霊的に死んだ私たちにいのちを与え、やがて滅びた肉体を朽ちることのない栄光のからだに変えてくださるのです。これほど大きな奇跡がほかにあるでしょうか。これは最高にして、最大の奇跡です。あなたは、この奇跡を経験したのです。感謝しましょう。

 

そればかりではありません。イエスはこのように命じられました。「ほどいてやって、帰らせなさい。」どういうことですか?なぜ、ほどいてやる必要があったのでしょうか。勿論、ラザロは全身が布でぐるぐる巻かれていたので自分でそれをほどくことができなかったでしょう。だれか他の人にほどいてもらう必要がありました。しかし、それだけではありませんでした。それを見ていた人が自分の手で触れて確かめることができるためだったのです。そのことによって彼らは、それが幻想ではなくイエスによって実際に行われた奇跡であることを確認することができました。確認して、神の栄光を見ることができたのです。

 

マリアのところに来ていて、この出来事を見たユダヤ人の多くが、イエスを信じました。しかし、何人かはこれを信じないばかりか、パリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えました。信じるなら、神の栄光を見ます。それがたとえ死であっても、必ず神の栄光を現すようになります。なぜなら、イエスは、私たちにとって最悪だと思える死であってもいのちを与えることができる方であり、そこから引き上げることがおできになられる方だからです。イエスは霊的に死んでいる私たちにいのちを与えてくださいました。その方は、私たちの現実の生活の中に起こるかいなる問題にも解決を与えてくださいます。私たちは時としてあまりにも大きな困難に出会うと、絶望してしまうことがありますが、そこにいのちの主がおられる限り、絶望の2文字はないということを覚え、ますます主に信頼していきたいと思います。信じるなら神の栄光を見るからです。