ヨハネの福音書12章12~19節「ろばの子に乗って来られた主イエス」

今年最後の主日礼拝を迎えました。この1年も主が一人一人と共におられ、みことばをもって励ましてくださったと信じて感謝します。きょう、主が私たちに与えてくださった御言葉は、ヨハネの福音書12章12~19節のみことばです。きょうはこの箇所から、「ろばの子に乗って来られた主イエス」という題でお話ししたいと思います。

 

ヨハネの福音書は、12章から後半部分に入ります。ここから主イエスの最後の一週間が始まります。主イエスは、過越の祭りの六日前にベタニアに来られました。そこでベタニアのマリアからの驚くべき愛、純粋で非常に高価なナルドの香油を受け、それを自分の髪の毛で拭うという行為を受けると、いよいよエルサレムに入場して行きます。十字架に掛けられて死なれるためです。ここにはその様子が記録されてあります。そして、それによると、イエスは何とろばの子に乗って入場されました。なぜ、ろばの子に乗って入られたのでしょうか。それは、イエスは平和の王として来られたからです。

 

Ⅰ.群衆たちの叫び(12-13)

 

まず、12~13節をご覧ください。

「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。『ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。』」

 

「その翌日」とは、1節から11節までの出来事の翌日のことです。イエス様は過越の祭りの六日前にベタニアに来られました。そこでマリアからの心からの礼拝を受けられました。その翌日のことです。祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行きました。

 

この祭りとは過越の祭りです。イスラエルには三つの大きな祭りがありました。それは、過越の祭りと七週の祭り(ペンテコステ)、それと仮庵の祭りです。その中でもこの過越の祭りは最も重要な祭りで、盛大に祝われました。それは、神がイスラエルをエジプトの奴隷の中から救い出してくださったことを記念して行われる祭りでした。イスラエルはモーセの時代、400年もの間、エジプトの奴隷でした。彼らはその苦しみの中で主に助けを求めると、主は助けを送ってくれました。それがモーセです。神はモーセを遣わして、彼らをエジプトの奴隷の中から救い出されました。同じように神は救い主を遣わして、罪の奴隷であった私たちを救い出されます。ですから、キリストが十字架にお掛かりになられるのも、この過越の祭りの時でなければならないのです。それは神が予め定めておられたことでした。それはちょうど神がモーセを通してイスラエルをエジプトの奴隷から救い出したように、キリストを通して私たちを罪の奴隷から救い出されるためです。それが過越の祭りでした。その祭りが近づいていたのです。

 

この祭りには大勢の人々が集まっていました。当時のユダヤ人の歴史家でヨセフスという人の記録によると、250万人以上の人々がこの祭りに集まっていたとあります。それほど大勢の群衆が、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て来たのです。

 

「なつめ椰子の枝」は「しゅろの木の枝」のことです。英語では「Palm」と言うことから、この日はPalm Sundayと呼ばれています。旧約聖書では、この「しゅろ」は喜びの日、祝いの日、あるいは勝利の日に用いられました。たとえば、レビ記23:40には、仮庵の祭りの時に、このなつめ椰子の木を取って、主の前で喜び楽しむとあります。モーセの時代、彼らはエジプトの奴隷でしたが、神が彼らを救い出してくださり、約束の地に導き入れてくださいました。そしてダビデの時代にその王国が建てられると、その子ソロモンによって確立され、繁栄していきました。しかし、彼らが繁栄すると自分たちを奴隷の中から救い出してくださった主を忘れてしまいました。その結果、イスラエルは様々な国に支配されるようになります。紀元前722年には北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、紀元前586年には、南王国ユダがバビロンに滅ぼされ捕囚として連れて行かれます。その後、旧約聖書は預言者マラキを最後に400年間沈黙の時代を迎えますが、その400年の間にもペルシャ、ギリシャ、エジプト、シリアといった国々に支配されます。その中でも特筆すべきく出来事は、紀元前200年にシリアの王アンティオコスⅣエピファネスが、エルサレムの神殿に豚をささげ、また、ゼウスの偶像でエルサレムの神殿を汚したという出来事です。その時に立ちあがったのがハスモン家の祭司ユダ・マカベアという祭司でしたが、彼は神殿を奪い返すことに成功するのですと、人々はこのなつめ椰市の枝、しゅろの木の枝を手に取って彼を迎えました。つまり、ここで群衆がなつめ椰子の枝を持ってイエスを迎えに出て来たというのは、イエスがあのハスモン家の祭司ユダ・マカベアのように、当時ユダヤを支配していたローマ帝国から独立を勝ち取るための政治的な王として迎えたということだったのです。彼らはラザロのことも聞いていましたから、死人をもよみがえらせることができるこのお方なら、ローマ帝国にも打ち勝つことができるはずだと思ったのです。

 

それは彼らの叫びにも表れています。13節後半から14節をご覧ください。彼らはこう叫びました。

「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

これは詩篇118:25~27の引用です。「ホザナ」とは、「主よ、今、私たちを救ってください」という意味です。苦しいんです。助けてください。ローマの支配から解放してください。神様、私たちをあわれんでください。この苦しみから解放してください。あなたならおできになります。あのシリアから救い出したマカベアのように、ローマ帝国の圧政から救ってください。そう叫んだのです。そして、「イスラエルの王に」と言って、喜んで迎えました。

 

しかし、熱狂的に叫べば良いというわけではありません。18節には、彼らがイエスを出迎えた理由が記されてあります。それは、「イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。」からです。「このしるし」とは何ですか。それはイエスがラザロを死人の中からよみがえらせたという奇跡です。その時イエスと一緒にいた群衆がそのことを証し続けていたので、祭りのためにエルサレムに集まっていた群衆はこのように叫んだのです。死人が生き返ったというのは大きなインパクトがありますから、すぐに祭りに来ていた大勢の人たちに広まりました。しかし、それは単なる好奇心でしかありませんでした。みんなが集まっているから自分も行ってみよう。なんか楽しそうだし・・。いわゆる「ノリの信仰」です。イエスのことばに聞こうとするのではなくその流れに乗ろうというものです。群衆心理とも呼ばれます。何か自分のためになることがあるんじゃないかと、ただご利益を求めるだけです。死人がよみがえったなんてすごいじゃないか。いったいこの人はどういう人なんだろう。そうした好奇心から集まっていただけでした。こうした好奇心が全く悪いわけではありません。そこから少しずつ神について知り、本物の信仰に至ればいいわけですから。しかし、この段階では本物ではありませんでした。ですから、自分たちが期待していたメシアではないということがわかると、彼らはどうなりますか。手のひらを返したかのような態度を取るようになるのです。このわずか五日後のことですよ。イエスが捕らえられると、それまで「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫んでいたこの群衆が、今度は、「十字架につけろ。十字架につけろ」と狂ったように叫ぶのです。同じ群衆です。何ということでしょうか。でもイエス様は、人々の心というものがどのようなものであるかをよく知っておられたので、最初からそのような人々に自分をゆだねるということはしませんでした。2章で見たように、イエスのなされた多くのしるしを見て、その名を信じた人たちに、自分をお任せにならなかったのです(2:24)。感情はすぐに冷めてしまいます。だから感情ではなく、イエスのことばに聞かなければなりません。イエスのことばを聞いて、イエスがどのような方であり、何を求めておられるのかを知らなければならないのです。

 

Ⅱ.ろばの子に乗って来られた主イエス(14-15)

 

第二のことは、イエスはろばの子に乗って来られたということです。14~15節です。「イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。『恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。』」

 

イエスはろばの子を見つけ、それに乗ってエルサレムに入場されました。それは遡ること、およそ500年前に書かれたゼカリヤ書の預言にこうあるからです。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」(ゼカリヤ書9:9)この預言が成就するためでした。

 

先日、テレビを見ていたら、北朝鮮の金正恩総書記が、軍事施設を視察する際に妻と白馬に乗っているのを見ました。そうなんです、王であれば白馬に乗って勇ましく登場しまが、イエス様は馬ではなく、ろばに乗って来られました。しかも、雌ろばの子のろばにです。「ろば」は英語で「donkey」と言いますが、「愚か者」とか「まぬけ」という意味があります。千本松牧場に行くとこの「ろば」を見ることができます。その顔をじっと見ると、実に情けない顔をしています。私はろばの顔を見ながら、それが自分のようであるのを感じて、とても親近感を感じます。ろばは当時荷物の運搬のために用いられました。このろばの子に乗って来られたのです。どうして馬ではなくろばだったのでしょうか。それはイエスが平和をもたらすために来られたことを示すためでした。当時馬は戦争の象徴でした。戦う時はみんな馬に乗って行きます。だれもろばになんて乗って行きません。そんな、のろいろばに乗って行ったら、たちまち敵に打ち負かされてしまいます。だから、戦いに行く時には馬に乗って行くのです。それに対してろばは平和の象徴でした。イエスは戦いのために来られたのではなく、平和の王として来られました。だからろばなのです。これはどういうことでしょうか?

 

それは、イエス様が2000年前に来られた時は、私たちと神様との間に平和をもたらすために来られたということです。私たちは生まれながら自分の罪のゆえに神に対して敵対していました。神を知らないというだけでなく、神を全く無視していました。いや神にいてほしくなかったのです。なぜなら、神がいると都合が悪いからです。自分の好きなように生きることができません。だから神を認めたくなかったのです。そのようにして神に敵対していたのです。神が私たちに敵対していたのではありません。敵対していたのは私たちの方です。しかし神は私たちをあわれみ、私たちを愛し、私たちに救いの手を差し伸べられました。それがイエス・キリストです。私たちに和解の方法を備えてくださいました。それが十字架と復活です。神のひとり子が人となって来られ、私たちの罪のために十字架で死んでくださり、その死の中からよみがえられました。このキリストを信じる者はだれでも救われます。罪が赦されるのです。これが、私たちの罪が赦される唯一の方法であり、神との平和を持つために神が永遠の昔から持っておられた計画でした。ローマ4:25~5:1にこうあります。

「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

イエスが十字架に掛けられたのは私たちの罪のためでした。そして、よみがえられたのは、私たちが義と認められるためでした。ですから、このイエスを信じる信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っているのです。このようにイエスが2000年前に最初に来られたのは、神と私たちの間に平和をもたらすためでした。ですから、イエスは平和の象徴であるろばの子に乗って来られたです、それはゼカリヤによって預言されたとおりでした。

 

しかし、イエス様が再び来られる時にはそうではありません。再び来られる時には栄光の主として白い馬に乗って来られると黙示録19:11にあります。

「また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。」

黙示録は同じヨハネが書いたものですが、将来のことを預言しています。そしてここには、白い馬に乗って来られ、義をもってさばき、戦いをされる、とあります。2000年前に来られた時は柔和な方として、平和の王として、私たちと神との和解のために来られましたが、しかし再び戻って来られる時にはそうではありません。罪をさばくために戻って来られるのです。どうして神がおられるのにこんな悲惨なことが起こるのか、どうして神がおられるのに悪が栄えるのか、あんな悪いことをしている者を、どうして神はさばきをなさらないのかと思うことがあるでしょう。しかし、神はさばきをなさらないのではなく、さばきを遅らせておられるのです。そして最後に正しくおさばきになります。それぞれ各々の行いに応じてさばきをされます。それが終わりの時に起こるのです。だれも隠すことはできません。私たちは自分の行いに応じてさばきを受けることになります。しかし、感謝なことに、イエス・キリストを信じた者はさばきに会うことがありません。良いことをした評価は受けます。しかし、さばかれることはありません。なぜなら、あなたの罪はすべて十字架の上に置かれ、キリストが代わりにさばきを受けてくださったからです。これが神の恵みです。何が恵みかって、これが恵みです。あっと驚くべき恵み、アメージング・グレースです。

 

あの有名なアメージング・グレースを書いたジョン・ニュートンは、かつて奴隷船の船長でした。ある日、奴隷たちを積んで英国に戻る途中、大嵐の中で船が転覆しそうになったとき、彼は神に祈りました。すると、神は彼を助け、無事にイギリスに帰港することができたのです。それから数年経って、彼はその時の経験を思い起こし、何という恵みだろう。こんな自分を救ってくださったと、この讃美歌を書いたのです。

 

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

 

だから、今は恵みの時、今は救いの日なのです。信じる者はだれでも罪から救われます。ヨハネ3:17にこうあります。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

さらにこうあります。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(3:18)

私たちはさばかれません。御子を信じているからです。代わりに御子がさばかれました。御子イエスが身代わりに死んでくださったのです。でも御子を信じない者はさばかれます。それは神のひとり子の名を信じなかったからです。ここには、「すでにさばかれている」とあります。これは有罪が確定しているということです。信じなければその有罪のとおりになります。でも信じるならキリストがすべての罪の身代わりとなって死んでくださったので、さばかれることはありません。神との平和を持つことができるのです。

 

あなたはどうでしょうか。あなたの罪は赦されているでしょうか。心に罪の責めを感じることはないでしょうか。神の前にさばかれるのではないかという恐れや不安はないでしょうか。きょうは2019年の最後の主の日の礼拝です。私たちの罪の精算をして新しい年を迎えたいですね。その罪の精算とは、私たちの罪を悔い改め、その罪のために十字架で身代わりとなってくださった主に感謝し、主に信頼することではないでしょうか。そうすれば、主はすべての罪からあなたを清めてくださいます。主はあなたをさばきたいのではありません。救いたいのです。あなたを罪から救いたいのです。主イエスはさばくためではなく救うために来られました。ですから、イエスはろばの子に乗って来られたのです。この平和の王であるキリストを信じる時なら、すべての罪が赦され、神との平和を持つことができるのです。

 

Ⅲ.イエスを平和の王として迎えよう(16-19)

 

ですから、第三のことは、このイエスを平和の王として迎えましょう、ということです。16~19節をご覧ください。

「これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」」

 

「これらのこと」とは何でしょうか。それは、群衆が大声で「ホサナ。祝福あれ、主の御名よって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫んだことです。また、イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入場されたことです。これらのことは、このヨハネを含め、初め弟子たちにもわかりませんでした。弟子たちも群衆たちと同じように、イエスがすぐにローマの圧政から自分たちを救い出してくれるものと思っていたのです。ですから、この後でイエスが捕らえられると、彼らはすぐに逃げ出してしまいます。十字架につけられると自分たちも捕らえられるのではないかと恐れて、部屋に閉じこもってしまいました。彼らもこれらのことがどういうことなのか分かりませんでした。彼らがそれらのことが分かったのは、イエスが栄光を受けられた後でした。

 

イエスが栄光を受けられたのはいつでしょうか。それはイエスが十字架で死なれ、復活した後、弟子たちの見ている前で天に昇り、神の右の座に着かれた時です。それまでは分かりませんでした。なぜその時に分かったのでしょうか。なぜなら、その時聖霊が降ったからです。聖霊が降ったので、イエスが彼らに教えたすべてのことを思い出させてくださったのです。それは真理の御霊で、この御霊が来ると、すべての真理に導いてくれます。これを書いたヨハネも、この時の様子を見ていました。イエスがろばの子に乗って来るのを見て、「なんでだろう」と思っていました。また、大勢の群衆が「ホザナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と言うのも聞いていました。でもよく理解していませんでした。それがどういうことなのか分からなかったのです。しかし、イエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえり、天に昇って行かれてから、約束の聖霊が降った時、それがあのゼカリヤ書9:9の預言の成就だったということ、また、群衆が「ホサナ」と叫んだのも詩篇118篇の預言の成就だったんだということが分かったのです。それが預言の成就だったんだ、ということを思い出したのです。

 

今日でも多くのユダヤ人は、旧約聖書に書かれてあるメシアの預言が、イエス・キリストによって成就したということを知りません。いや、認めようとしないのです。それはユダヤ人ばかりでなく私たち日本人も同じです。そのことを受け入れようとしません。それは、聖書に次のようにある通りです。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」(Ⅰコリント2:14)

生まれながらの人間は、神の真理を理解することができません。なぜなら、それは神の御霊に属することだからです。御霊に属することは御霊によって判断しなければなりません。ですから、どんなに知的に優れていても、霊的には全く盲目であるということがあるのです。ピントがずれています。しかし、これは決して他人事ではなく、私たちにも言えることで、私たちもピントがズレていないかどうかを検証しなければなりません。

 

19節をご覧ください。ここには、もう一種類の人たちのことが記されてあります。パリサイ人たちです。「それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」

このパリサイ人とはユダヤ教の宗教指導者たちのことです。彼らはすでにイエスを殺す計画を立てていました。しかし、祭りの間はいけない。多くの群衆がイエスを政治的なメシアとして期待していたので、そこで殺そうものなら大騒ぎになるからです。そうなれば、ローマ軍が攻めて来てエルサレムを滅ぼしてしまうことになります。そうなると自分たちの立場が危うくなります。それで祭りが終わった後でイエスを殺すつもりでした。しかし、あまりにも大勢の人が熱狂的にイエスを歓迎するので、彼らは互いにこう言いました。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」

彼らのイライラ感、焦り、怒り、ねたみが見えます。結局、彼らのこうしたねたみによってイエスは十字架につけられるわけです。その敵意が彼らの中でますます大きくなっていきました。

 

でも彼らは、イエスを訴える口実を何一つ見つけることができませんでした。それもそうです。イエス様は全く罪の無い方なのですから。言葉にも、行いにも、罪の無い完全な神の子でした。その方が私たちを神と和解させるために、平和の王として来てくださいました。ろばの子に乗って。それは、私たちに神との平和をもたらすためでした。神と私たちとの間にある壁はどんなものをもってしても壊すことができませんが、しかし、キリストはその隔ての壁を打ち破ることができます。そして、神との平和を持つことができるように、平和の王として、ろばの子に乗って来てくださったのです。そして私たちの罪を負い十字架で死なれ、三日目によみがえられました。この方を信じる者はだれでも罪が赦され、神との平和を持つことができるのです。

 

あなたはどうでしょうか。あなたの罪は赦されましたか。キリストを信じて受け入れましたか。キリストを信じたのであればあなたのすべての罪は赦され、神との平和を持つことができます。そして神との平和が与えられると、今度は周りの人との間にも平和を持つことができます。神との平和がないと、自分の内に平和がないので、いつもイライラすることになり、いつもだれかのせいにしたり、だれかをさばくようになるので、周りの人とも平和がないんです。これは罪の問題なんです。でも神によって罪が赦されると心に平安が与えられます。神の愛が注がれ、赦す心が与えられ、喜びで満たされ、感謝の心に満ち溢れるようになります。平和を作り出す人は幸いです。あなたもその平和を持つことかできます。そのためにイエス様が来てくださいました。この方に心を開き、この方を信じて、神との平和を持ってください。また、キリストをあなたの心の王座に迎え入れ、キリストの平和があなたを支配しますように。そうすれば、「ああ、キリストは本当にすばらしい」とキリストの御名があがめられるようになるでしょう。あなたの心に、神の平和が豊かにありますように。

2019年12月22日クリスマス礼拝メッセージ 

Merry Christmas!私たちのために生まれてくださった救い主イエス・キリストの御降誕をお祝いし、心から主を賛美します。今年のクリスマス礼拝はEnglish Worshipの皆さんと一緒にささげることができることを感謝します。きょうは、使徒ヨハネが語るクリスマスからお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.人となって来られたキリスト(14a)

 

ヨハネが語るクリスマス、それは、人となって来られた神です。14節をご覧ください。ここには、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。

「ことば」とはイエス・キリストのことです。この方は初めからおられました。この「初め」とは永遠のはじめのことです。キリストは、永遠の初めから神とともにおられました。そうです、この方は神であられました。神とともにおられた神です。そして、すべてのものは、この方によって造られました。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもありません。創世記1:1には、「はじめに神が天と地を創造された。」とありますが、この「神」は、イエス・キリストのことだったのです。正確には、イエス・キリストと父なる神、そして聖霊なる神の三位一体の神でした。ですから、あの「神」という語が複数形で表されているのです。キリストは、永遠から永遠まで神とともに存在しておられた神なのです。その方が人となって、私たちの間に住まわれました。

 

この「人」と訳されている言葉は、原語のギリシャ語では「サルクス」という語です。これは欄外の説明にもあるように、直訳すると「肉」です。ことばが肉体を取って私たちの間に住まわれました。これを神学用語で「受肉」と言います。神は霊ですから、私たちの肉眼で見ることはできませんが、その神が私たちと同じ肉体を取ってくださったので、神がどのような方なのかを見せてくださったのです。当時の人々は「肉」は弱いものであり、すぐに朽ち果てていくものだと考えていました。ですから、神が肉体を取られるということは考えられないことでした。けれども、ことばであられた神が肉体を取って生まれてくださいました。これがクリスマスです。神の栄光に満ちておられたひとり子の神が人として生まれてくださり、実に飼い葉桶にまで下ってくださいました。限りなく高いところにおられた神が、最も低い所に生まれてくださったのです。これは奇跡です。いったいなぜ神が人となられたのでしょうか。

 

Ⅱ.恵みとまことに満ちておられたキリスト(14b)

 

14節の後半をご覧ください。ここには、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。それはこの方の栄光を見るためです。神のひとり子としての栄光です。その栄光を見るなら、この方がどんなに恵みとまことに満ちておられるかがわかるでしょう。

 

当時、これを書いた使徒ヨハネは、長い信仰生活の体験として「私たちはこの方の栄光を見た」と言っているのです。クリスマスの出来事を巡る大事な言葉は、この「見る」ということです。福音書の中では、「見る」という言葉は大切に用いられています。たとえば、2000年前のクリスマス、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの番をしていたとき、主の使いが彼らに現れてこう言いました。

「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

Then the angel said to them, “Do not be afraid, for behold, I bring you good tidings of great joy which will be to all people.

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

“For there is born to you this day in the city of David a Savior, who is Christ the Lord.

あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」(ルカ2:10-12)

“And this will be the sign to you: You will find a Babe wrapped in swaddling cloths, lying in a manger.”

 

また、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていたシメオンは、幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言いました。「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」(ルカ2:29-30)

“Lord, now You are letting Your servant depart in peace, According to Your word; For my eyes have seen Your salvation

 

時折、「神がいるなら、見せてくれ」と言う人がいます。乱暴な言い方ですね。私はこういう方に対しては、できるだけ答えないようにしています。ただの水掛け論に終わってしまうからです。しかし、ここにおられる皆さんには、ぜひ、覚えていてほしいのです。それは、神は見ることができないお方ですが、見ることが出来るということです。どういうことですか?神を見ることはできませんが、イエス・キリストは見ることはできるということです。イエス・キリストを見ることは、神を見ることだからです。聖書を読み、この歴史の中を歩まれたキリストを知ることは、神を知ること、神を見ることと同じことなのです。永遠にして無限、また、常に変わることのない霊でいます神を、私たちの肉眼をもって見ることは出来ませんが、この主イエス・キリストを見たら、「あなたは神を見た」と言えるのだと、ヨハネは語っているのです。

 

クリスマスの恵み、クリスマスの幸いは何かというと、それはこの神を見ることができるということです。ヨハネが主イエスの身近にいて、キリストにおいて見た神の恵みがどんなにすばらしいものであるかを述べています。それは、16節の「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」という言葉です。これは、使徒ヨハネが自分の信仰の生涯を振り返っての感謝の言葉です。信仰をもって歩む者の旅路は決して平穏なものではありません。今日、初めて教会に来られた方がおられるかもしれません。あるいは求道中だという方もおられるでしょう。それがどのような方でも覚えおいていただきたいことは、キリストを信じるということは、この世的な意味で幸福になることではありません。苦しいことが続くこともあります。経済的に悩むことも、病気で不安になることや家族や職場の人間関係で人知れず悩むこともあります。愛する人との別れも経験することがあるでしょう。しばしば涙の谷を歩むようなこともあるのです。

 

しかし、キリストを信じる者の生涯は「恵みの上にさらに恵みを受ける」生涯なのです。「恵みの上にさらに恵みを受ける」とはどういうことでしょうか。それは、一つの恵みを受けたらそれでおしまいということではなく、その代わりにまた新しい恵みを受けるということです。哀歌3:22には、「神のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」

Through the Lord’s mercies we are not consumed, Because His compassions fail not.

とあります。1つの恵みの上に、さらに新しい恵みが積み上げられ、次々に恵みが積み上げられ、増し加えられるのです。ちょうど泉から水が湧き出て来るように尽きることがありません。

 

また、それは、その時その時に最も適切な恵みが与えられるということでもあります。ヨハネは、これがキリストを信じた者の祝福なのだと言っています。長い信仰の歩みを経て、ヨハネは深い感謝と喜びをもってこのように語っているのです。あの恵み、この恵みと数え上げるだけでなく、イエス・キリストそのものをいただいた。キリストに繋がれ、神の恵み一切をいただいている。この恵みの中に生かされているのだと告白しているのです。

 

17節には、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」とあります。律法とは、神の「教え」、「戒め」のことです。神はモーセを通して神の民イスラエルにこの律法を与えてくださいました。それは、その命令を守る者には祝福が与えるというものです。もし彼らが主の御声に聞き従い、神の契約を守るなら、神の宝となるのです。ですから、律法そのものは神からの啓示でありすばらしいものですが、問題はだれもこれを行うことができないということです。

 

アウグスチヌスは、この律法の役割をこう言いました。「律法は命じたが、いやさなかった。律法は我々の弱さを示したが、その弱さを取り除くことはしなかった。ただこの律法は恵みと真理を携えて到着する医者のために準備をした」。律法の役割は、人の罪を指摘し、その罪を人間の力では取り除くことが出来ないという人間の弱さを明らかにすることです。今日の医療の言葉で言えば診察と検査です。あなたの悪いところはここですよ、ここにポリープがありますね、と検査して悪いところをはっきり示すのが旧約律法の役割です。しかし、いやすことはできません。

 

しかし、恵みとまことはイエス・キリストによって実現しました。イエス・キリストは、私たちの罪と弱さを取り除く医者として来られました。だから、イエス様はこう言われのです。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」(ルカ5:31-32)

Jesus answered and said to them, “Those who are well have no need of a physician, but those who are sick. “I have not come to call the righteous, but sinners, to repentance.”

主イエスは、律法によって明らかになった人間の罪を取り除く医者としてこの世に来られたのです。罪人を愛する神の愛が明らかになり、キリストご自身が罪人の身代わりとなって罪の贖いを完成して下さいました。このキリストにこそ、神の愛、神の恵み、神のまこと(真理)が形をとって現されたのです。自分の罪を自覚して、主イエスのもとに来るなら、その人はいやされ、罪赦され、神との交わりが回復され、永遠のいのちを持つことができるのです。

 

皆さんは、「ハドソン川の奇跡」という映画をご覧になられたでしょうか。これは実話に基づいた映画です。

今から10年ほど前の2009年1月15日、3時26分に、ニューヨークのラガーディア空港を飛び立った、USエアウェイズ1549便は、離陸直後に、ガンの群れに遭遇し、両方のエンジンに、同時に鳥が巻き込まれるという、極めてまれなバードストライクによって、二つともエンジンが停止し、飛行高度を維持することが出来なくなりました。

機長のサレンバーガーさんは、空港への着陸を目指しましたが、高度と速度が低すぎるため、それは不可能と判断しました。そこで機長は、市街地への墜落を防ぐため、とっさの判断でハドソン川への緊急着水を決行したのです。しかし、着水時に、機体が少しでも傾いていれば、飛行機は水面に衝突して分解してしまいます。無事に着水することは高度の操縦技術を必要とする、極めて難しい仕事でした。トラブル発生から僅か3分後、飛行機は、ニューヨークのマンハッタンとニュージャージー州の間を流れるハドソン川へ、時速270kmというスピードで滑るような着水をしました。そして、スムーズな着水によって、機体の損傷は最小限に抑えられ、乗員乗客155人全員が、脱出シューターや両方の主翼の上に避難することができたのです。全員の救助を、未届けたかのように、事故機は、着水から1時間後に、水没しました。人々は、これを、「ハドソン川の奇跡」、と呼んで、称賛しました。

 

この事故は、クリスマスの出来事を思い起こさせてくれます。この飛行機は、通常、一万メートルの高度で飛行する予定でした。地上からは目に見えない程の高い空を飛ぶべき飛行機が、最も低いハドソン川に着水したのです。そして、乗員乗客155人全員の命を救い、冷たい川底に沈んでいきました。それは、限りなく高いところにおられた神のひとり子が、最も低い所にお生まれになって、全ての人を救うために十字架にその命を献げてくださったのと重なって見えます。私にはこの飛行機が、主イエスを象徴しているように思えるのです。川に着水すれば、いずれ沈んでしまうことは分かっています。しかし、乗客の命を救うためには、それしか方法がありませんでした。だから、敢えて、ハドソン川に着水したのです。そして、その僅か一時間後に、飛行機は川底に沈んでいきました。この飛行機と主イエスの姿とが、重なって見えます。私たちは、神様が操縦する御子イエスという飛行機に乗って命を救われたのです。しかし、御子イエスは、そのために冷たい川底に沈んでいかなければなりませんでした。

 

この飛行機を操縦していた、サレンバーガー機長は、操縦歴42年の大ベテランでしたが、このように言っています。「それまで、私は、42年間も、操縦技術を学んで来た。様々な、厳しい訓練を受けて来た。どんな時にも、備えられるように、経験を積んできた。その様な、42年間の厳しい訓練と、様々な経験を通して、私は大きな貯金を蓄えてきた。その貯金が、この時に一気に引き出されたのだ。」

今までコツコツと積み上げてきた経験と技術が、この時一気に発揮されて、このような奇跡を生んだのです。

 

クリスマスもそのような時です。人間は神様から与えられたたった一つの約束さえも守ることができず、罪を犯してしまいました。そのため、神様との麗しい関係が崩れ、神様の許を離れてしまいました。しかし、あわれみ深い神様は、人間が罪を犯して離れていったその瞬間から、ずっと人間との関係を回復することを願っておられたのです。そして、様々な事を通して、人間をご自身の許に呼び戻そうとされました。様々な歴史的な出来事を通して、神様のご支配を解らせようとされました。あるいは、自然の力を通してご自身の御力を示され、人間に語り掛けられました。そして、何度も預言者を遣わして御言葉を伝えました。でも人間は、神様に立ち帰ろうとしませんでした。それで、とうとう最後に、神様は最愛のひとり子をこの世に送られたのです。それは、私たちに代ってそのひとり子を十字架につけることによって立ち帰ろうとしない私たちを救うためでした。神様が歴史の初めからひたすらに願われ、計画された、救いの御業が、一気に爆発するかのように実現した愛の奇跡。それがクリスマスなのです。

 

サレンバーガー機長の42年の経験と技術が一気に引き出されて、ハドソン川の奇跡が生まれました。もちろん、サレンバーガー機長と神様とでは全く次元が異なりますが、しかし、歴史が始まって以来の、神様のひたすらな願いと熱い思いが一気に実現したのが、この飼い葉桶の奇跡とも言うべきクリスマスの出来事なのです。まさにこの時に、神の救いの出来事が私たちにもたらされたのです。

 

Ⅲ.わたしを見た人は父を見た(18)

 

18節をご覧ください。ここには、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」とあります。主イエス・キリストの決定的なすばらしさは、神ご自身を見せてくれたことです。文字通り「見える神」となられました。神は私たちの肉眼で見ることはできませんが、そんな私たちでも神を知ることができるように、神はご自身のひとり子をこの世に送られ、神がどのような方であるのかを私たちにはっきりと示してくださいました。

 

ですから、もし「神がいるなら見せてくれ」という人がいるなら、私たちはこう言うことができます。「この人を見よ」と。この人を見れば、神がどのような方であるかがわかります・・と。

新聖歌99番に「馬槽の中に」という賛美がありますが、これはそのような賛美です。

  1. 馬槽(まぶね) の中に 産声(うぶごえ) 上げ 大工(たくみ)の家に 人となりて 貧しき憂(うれ)い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ

In a lowly manger born, Humble life begun in scorn; Under Joseph’s watchful eye, Jesus grew as you and I; Knew the suff’ring of the weak. Knew the patience of the meek, Hungered as but poor folk can; This is he. Behold the man!

 

  1. 食(しょく)する 暇(ひま)も うち忘れて 虐(しいた)げられし 人を 訪(たず)ね 友なき者の 友となりて 心砕きし この人を見よ

Visiting the lone and lost, Steadying the tempest tossed, Giving of himself in love, Calling minds to things above. Sinners gladly hear his call; Publicans before him fall, For in him new life began; This is he. Behold the man!

 

  1. すべてのものを 与えしすえ 死のほか何も 報いられで 十字架の上に 上げられつつ 敵を赦しし この人を見よ
  2. この人を見よ この人にぞ こよなき愛は 現われたる この人を見よ この人こそ 人となりたる 活(い)ける神なれ

Then to rescue you and me,Jesus died upon the tree. See in him God’s love revealed; By his Passion we are healed. Now he lives in glory bright, Lives again in Pow’r and might; Come and take the path he trod, Son of Mary, Son of God.

 

この人を見れば、神がどのような方であるかがわかります。この方は神を見せてくださいました。いや、この方こそ私たちの信じている神ご自身であられます。なぜなら、この方は父のふところにおられたひとり子の神なので、完全に神を説き明かすことができたからです。

 

「父のふところにおられるひとり子の神」とは、イエス・キリストが父なる神と不断の親しい交わりを持っておられる方であるということを表しています。父なる神といつも一緒にいて親しく交わっておられたので、父なる神がどのような方なのかを完全に知ることができました。ですから、このひとり子の神イエス・キリストは、神を完全に神を説き明かすことができたのです。

 

弟子の一人ピリポはイエス様にこう言いました。

「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(ヨハネ14:8)

Philip said to Him, “Lord, show us the Father, and it is sufficient for us.”

 

すると、主イエスはこのように言われました。

「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ14:9) Jesus said to him, “Have I been with you so long, and yet you have not known Me, Philip? He who has seen Me has seen the Father; so how can you say, ‘Show us the Father’?

 

私たちも、神を見ることができたらと思うことがあります。しかし主イエスは、「わたしを見た人は、父を見たのです。」と言われました。キリストを見れば、神を見ることができます。キリストを見るということは神を見るということ、キリストを知るということは神を知るということなのです。このキリストが私たちの間に住んでくださいました。この主イエスにおいて見る神の姿は、私たちに寄り添ってくださる神です。主イエスは私たちに寄り添いながら、父なる神との交わりの中に導き入れてくださるのです。

 

那須の井筒姉のご主人が、一昨日、老衰のため召されました。ちょうど、私がお見舞いに行っていた時で、奥様と三番目の娘さんと談話室でお話ししていたとき看護師が来られ、ご主人の容態が急変したと告げたのです。私たちは急いで部屋に行ってみると、もう呼吸が止まっているかのようでした。私はご主人の上に手を置き、耳元で、「『主の御名を呼び求める者は、みな救われます。』どうぞ主イエスを信じてください」と祈り、ご主人のたましいを主の御手にゆだねました。その祈りが届いたかどうかはわかりませんが、一つだけ確かなことは、そのことで井筒姉がどれほど癒されたかということです。

 

昨年10月に自宅で転倒して股関節を脱臼して入院しましたが回復し、退院することができましたが、今年の9月に、心臓に水が溜まっているということで再入院されました。その間、教会は井筒姉とご主人のためにずっと祈ってきました。特にこの1か月間は容態が悪くなってきており、寝ているということが多かったのですが、不思議なことに、教会の礼拝や祈祷会で祈った後で病院に行くと、決まってご主人が目を開けておられました。

二週間ほど前にお見舞いに伺った時、井筒さんがそのことに触れてこうおっしゃられました。「いや、本当に不思議ですね。礼拝や祈祷会でお祈りしていただいて病院に来ると、ちゃんと目を開けているんです。いつもは閉じたままなんですけど、祈った後に来るといつも開けているんです。神様は本当にいらっしゃるんですね。」

「神様って本当にいらっしゃるんですね」

井筒姉が初めて教会に来られたのは2007年3月に教会で行ったごずるコンサートでした。それから礼拝にも来られるようになり信仰に導かれ、その年の11月に洗礼の恵みに与りました。ですから、あれからもう12年も経っているんです。それは神はおられるという信仰が、確信に変えられる経験でした。神は霊ですから、私たちの目には見ることができませんが、イエス・キリストを通してはっきりと見せてくださいました。神は、御子イエス・キリストをこの世に送り、十字架と復活の御業を通して救いの道を用意してくださいました。その名を信じる信仰によって、私たちは神をはっきりと見ることができるのです。

 

この父なる神とひとり子イエスとの深い愛の交わりの中に、あなたも招かれています。「さあ、この交わりの中に入りなさい」と呼びかけてくださっているのです。この呼びかけに応答するなら、あなたもクリスマスの本当の喜び、神を見る幸いを味わうことができるのです。

Ⅰサムエル10章

サムエル記第一10章から学びます。

Ⅰ.サウルの油注ぎと3つのしるし(1-9)

まず、1~9節までをご覧ください。

「サムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とするため、あなたに油を注がれたのではありませんか。今日、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、二人の人に会うでしょう。彼らはあなたに、『捜し歩いておられた雌ろばは見つかりました。あなたの父上は、雌ろばのことはどうでもよくなり、息子のためにどうしたらよいのだろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます』と言うでしょう。そこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで行くと、そこで、神のもとに行こうとベテルに上って行く三人の人に会います。一人は子やぎを三匹持ち、一人は円形パンを三つ持ち、一人はぶどう酒の皮袋を一つ持っています。彼らはあなたにあいさつをして、あなたにパンを二つくれます。彼らの手から受け取りなさい。それから、ペリシテ人の守備隊がいるギブア・エロヒムに着きます。その町に入るとき、琴、タンバリン、笛、竪琴を鳴らす者を先頭に、預言をしながら高き所から下って来る預言者の一団に出会います。主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。これらのしるしがあなたに起こったら、自分の力でできることをしなさい。神があなたとともにおられるのですから。私より先にギルガルに下って行きなさい。私も全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げるために、あなたのところへ下って行きます。私があなたのところに着くまで、そこで七日間待たなければなりません。それからあなたがなすべきことを教えます。」サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。これらすべてのしるしは、その日のうちに起こった。」

サムエルは、サウルが君主に任じられていることを伝えるために、彼の頭に油を注ぎました。この油注ぎは、物や人を聖別するために行われたものですが、神が王を任命されるときだけでなく、祭司、預言者を任命する時にも行なわれました。ここでは、サウルを神に聖別された王として立てるために、油注ぎが行われました。へブル語の「メシア」という言葉は、「油注がれた者」という意味ですが、人類の救い主として登場するイエス・キリストこそ、究極的な意味で神から油注ぎを受けたお方です。

サムエルはサウルに油を注ぎ、彼に口づけして、彼が神から王として立てられていることを証明するために、三つのことが起こると預言しました。第一に、サウルがサムエルのもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばでふたりの人に会い、彼らが、雌ろばが見つかったことを告げます(2)。また、サウルの父親がサウルのことを心配していることも告げます。

第二に、そこからなお進んで行き、タボルの樫の木のところまで行くと、そこで、神のもとに行こうとベテルに上って行く3人の人に出会います。彼らのうちの1人は子やぎを3匹持ち、もう1人は円形のパンを三つ、もう1人はぶどう酒の皮袋を3つ持っていますが、彼らはサウルにパンを2個くれるので、それを彼らの手から受け取りなさい、ということでした(3-4)。

そして第三に、サウルがギブア・エロヒムに到着すると、そこに琴、タンバリン、笛、竪琴を鳴らす者を先頭に預言をしながら高き所から下って来る預言者の一団に出会いますが、そのときサウルの上に主の霊が激しく下り、彼も彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられるというのです(5-6)。

これが、神がサウルとともにおられるしるしです。これらのしるしが起こったら、自分の力でできることをしなければなりません。「自分の力でできることをしなさい」は、新改訳第三版では「手当たりしだいに何でもしなさい」と訳されています。つまり、時に応じてなんでもしなさい、ということです。サムエルはサウルに、自分より先にギルガルに下って行くように命じました。しかし、彼はそこで七日間待たなければなりません。サムエルが全焼のいけにえを献げるために彼のところへ下って行くからです。それまでの間待たなければなりませんでした。サムエルがそこに着く時、サウルがなすべきことを教えるからです(8)。その結果どうなったでしょうか。サウルがサムエルから去って行こうとしたとき、神はサウルに新しい心を与えられました。これらすべてのしるしが、その日のうちに起こったのです(9)。

ここで問題なのは、6節に、「主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。」とありますが、サウルは新しく生まれ変わったのかということです。つまり、彼は救われていたのか、ということです。この箇所を見ると、「主の霊が彼の上に激しく下り」とあるので、彼は聖霊を受けたかのように見えますが、これが新訳聖書で教えている新生の体験と同じかどうかは疑問があります。というのは、彼は王権が確立されていくにつれて傲慢になり、ギルガルでサムエルが到着するまでそこで七日間待たなければなりませんでしたがその命令に従わず、サムエルに代わって全焼のいけにえをささげてしまうからです。確かに、聖霊を受けて新しく生まれるという体験をしても罪を犯します。しかし、16:14には、「主の霊はサウルを離れ去り、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。」とあるように、彼には主からの、わざわいの霊が送られていることを考えると、本当に彼が救われていたのかどうかは疑問があります。確かに救われていても罪を犯します。しかし、救われていれば、その人のすべき第一の反応はその罪を悔い改めることです。そして、そこから学ぶことは何であるのかを求めることです。

けれども、サウルは罪を悔い改めませんでした。結局、彼はダビデに嫉妬し、堕落の道を辿り、最終的に、ペリシテとの戦いの中で致命傷を負い、敵に追い詰められ、一緒にいた護衛兵に殺してくれるよう頼みますがためらわれ、自らの剣で自殺しました(Ⅰサムエル31:4)。彼の問題は何だったのでしょうか。それは、悔い改めなかったということです。彼の問題は、「した」からでなく「しなかった」からなのです。彼は二度にわたって神の命令に背きましたが、問題はそのように神に背いたことではなく、それを悔改めなかったことです。悔い改めるなら、神はすべての悪から清めてくださいます。
「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:8-9)つまり、サウルは元々救われていなかったのです。
 

このことについて、久保有政師がご自身の著書「レムナント」の中で次のように言っています。少し長いですが、引用したいと思います。  「多くの人は、「もし、私が天国に入れないとしたら、それは私が悪いことをしたからだ」とか「罪を犯したからだ」と思っていないでしょうか。しかし、この考え方は聖書の教えるところではありません。もしあなたが、不幸にも死後天国に入れないとしたら、それはあなたが何かを「した」かたではありません。むしろ、あなたがあることを「しなかった」からなのです。

これがダビデと決定的に違う点でした。ダビデも人生の中で罪を犯しました。ダビデの犯した罪は深刻で重いものでした。彼は人の妻を横取りし、姦淫したうえ、彼女の夫を戦闘の最前線に出して故意に死なせたのですから(Ⅱサムエル11章)。しかしダビデの罪は赦され、サウルの罪は赦されませんでした。それは、ダビデが心から悔改めたのに対し、サウルは悔改めなかったからです。彼は自分の罪が発覚したとき、預言者サムエルに「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で、私の面目を立ててください。どうか私と一緒に帰って、あなたの神、主を礼拝させてください」(Ⅰサムエル15:30)と言いました。しかし、それは表面的なことで、真実なものではありませんでした。というのは、そのすぐあとに「私の面目を立ててください」と言っているからです。自己保身をはかりました。「罪を犯しました」というのはタテマエで、「面目を立ててください」がホンネでした。ですから、神はこうした態度を、悔改めととしてお受けにならなかったのです。神はサウルを、王位から退けられました。サウルの晩年は、悲惨さを感じさせるものでした。一方、ダビデは、自分の罪を指摘されたとき、「私は主に対して罪を犯しました」(Ⅱサムエル12:13)と言い、自分のしたことが「主に対する」重大な罪であったということを表明しました。ダビデは自分の面目を保つことを求めず、神の懲らしめに身をまかせました。やがてダビデの家庭と王位には、様々の災いがふりかかりました。しばらくして、息子と家臣がダビデに反逆し、ダビデは王座とエルサレムを去らなければならなくなりました。そのとき、ベニヤミン人のある男がダビデに近寄ってきて、嘲笑とのろいの言葉を浴びせました。さらに、ダビデや家来たちに石を投げつけました。もしダビデが、家来に命じれば、家来はその男を捕らえて黙らせたり、斬り捨てることもできたでしょう。しかしダビデはそうせず、むしろ、その男ののろいの言葉を甘んじて受けてこう言いました。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私の命をねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほおって起きなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」(Ⅱサムエル16:11~12)。これは彼が真に悔い改めていたことを示すものです。ダビデのなした真実な悔改めは、神に知られるところとなり、神はダビデの罪を赦し、彼を再び王座に戻し、誉れと幸福をお与えになりました
サウルとダビデ――この二人の違いは、どこにあったのでしょうか。サウルもダビデも罪を犯しました。しかし、サウルは悔い改めなかったのに対しして、ダビデは悔い改めました。ですから、ダビデは赦され、サウルは神から退けられたのです。サウルが退けられたのは、彼が何かを「した」からではなく、悔改めを「しなかった」からなのです。

ですから、問題は罪の大小ではありません。そこに真の悔い改めがあったかどうかです。確かに、サウルは神に選ばれ、聖霊の油注ぎを受けたにも関わらず、悔い改めることをしませんでした。それが問題だったのです。つまり、彼は表面的には聖霊を受けていたかのように見えますが、実際には神から離れていたのです。彼は最初から救われていなかったのです。もし、自分の罪を悔い改めて主イエスを信じたなら、どんな罪でも神は赦していただけます。サウルは主の霊によって新しい人に変えられましたが、それは新約聖書が教えている新しく生まれるという体験ではなかったのです。

Ⅱ.サウルも預言者の一人なのか(10-16)

次に10~16節をご覧ください。

「彼らがそこからギブアに行くと、見よ、預言者の一団が彼の方にやって来た。すると、神の霊が彼の上に激しく下り、彼も彼らの間で預言した。以前からサウルを知っている人たちはみな、彼が預言者たちと一緒に預言しているのを見た。民は互いに言った。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルも預言者の一人なのか。」そこにいた一人も、これに応じて、「彼らの父はだれだろう」と言った。こういうわけで、「サウルも預言者の一人なのか」ということが、語りぐさになった。サウルは預言を終えて、高き所に帰って来た。サウルのおじは、彼とそのしもべに言った。「どこに行っていたのか。」サウルは言った。「雌ろばを捜しにです。どこにもいないと分かったので、サムエルのところに行って来ました。」サウルのおじは言った。「サムエルはあなたがたに何と言ったか、私に話してくれ。」サウルはおじに言った。「雌ろばは見つかっていると、はっきり私たちに知らせてくれました。」しかし、サムエルが語った王位のことについては、おじに話さなかった。」

サムエルが預言した三つの預言は、その日のうちに起こりました。その中でも三番目の預言が最も重要だったので、そのことについてここで詳細に語られています。つまり、彼らがそこからギブアに行くと、そこで預言者の一団が出会ったということです。彼らがサウルの方にやって来ると、神の霊が彼の上の激しく下り、彼も彼らの間で預言しました。以前からサウルのことを知っている人たちは、彼が預言者たちと一緒に預言しているのを見て、びっくりしました。そして、互いにこう言いました。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルも預言者の一人なのか。」

サウルが預言を終えて帰宅すると、サウルのおじが彼とそのしもべたちに、「どこに行っていたのか」と尋ねました。サウルが、雌ろばを捜しに行っていたがどこにもいなかったので、サムエルのところに行って来た」と答えると、おじはサムエルが彼に何を言ったのかと聞きました。しかし、彼はただ雌ろばのことを告げただけで、自分が王として油を注がれたことについては話しませんでした。彼は、事態の進展を神とサムエルにゆだね、自分は状況が開かれるのを待とうと思ったのでしょう。なかなかの慎重さが伺えます。

しかし、サウルの変化を過大評価することはできません。なぜなら、先ほども述べたように、それは永遠に続く霊的変化ではなく、一時的で、表面的な変化にすぎなかったからです。使徒パウロも劇的な変化をしました。彼は以前サウルと同じ名前でしたし、ともにベニヤミンの出身でしたが、両者の変化の内容は全く違うものでした。パウロはキリストを信じて霊的に生まれ変わりましたが、サウロはそうではありませんでした。サウルも劇的に変えられましたがそれは聖霊による新生の体験ではなく、表面的で、一時的な変化にすぎませんでした。

Ⅲ.サウルの選出(17-27)

最後に17節から27節までを見て終わります。まず24節までをご覧ください。

「サムエルはミツパで、民を主のもとに呼び集め、イスラエル人に言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『イスラエルをエジプトから連れ上り、あなたがたを、エジプトの手と、あなたがたを圧迫していたすべての王国の手から救い出したのは、このわたしだ。』しかし、あなたがたは今日、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください』と言った。今、部族ごと、分団ごとに、主の前に出なさい。」サムエルは、イスラエルの全部族を近づかせた。すると、ベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。 そして、ベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づかせた。すると、マテリの氏族がくじで取り分けられた。そして、キシュの息子サウルがくじで取り分けられた。人々はサウルを捜したが、見つからなかった。人々はさらに、主に「あの人はもう、ここに来ているのですか」と尋ねた。【主】は「見よ、彼は荷物の間に隠れている」と言われた。彼らは走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。サムエルは民全体に言った。「主がお選びになったこの人を見なさい。民全体のうちに、彼のような者はいない。」民はみな、大声で叫んで、「王様万歳」と言った。

サウルがイスラエルの王として立てられていることを公にするため、サムエルはイスラエルの民をミツパに集め、王を選出するための行事を行います。彼はまず、王を選出する前にイスラエルの神がどのような方であるかを確認します。すなわち、イスラエルの神はイスラエルの民をエジプトから救い出してくださった方であるということです。さらに彼は、イスラエルに王を立てるということは、この神を退ける行為であることを伝えます。その上で、くじによって王を選ぶ作業に入ります。するとベニヤミン部族が取り分けられ、マテリ氏族が取り分けられ、そして、キシュの子サウルが取り分けられました。そこでサウルを捜しましたが、見つかりませんでした。彼は荷物の間に隠れていたのです。なぜ彼は荷物の間に隠れたのでしょうか。

このサウルの態度は、一見、謙遜であるかのように見えますが、後になってわかるように、これは謙遜ではなく自信のなさの現われでした。自信のなさと傲慢さとは表裏一体です。荷物の間からサウルを連れて来ると、彼は民のだれよりも肩から上だけ高く、威風堂々としていました。それでイスラエルの民は非常に喜び、「王様万歳」と叫んで、彼を王として受け入れました。なぜ彼らはそんなに喜んだのでしょうか。それはただ、サウルの体格が良く、堂々としていたからです。

しかし、後にダビデが次の王として選ばれますが、ダビデはサウルとは違いそれほど背が高くありませんでした。しかし、その時主が言われたことはこうでした。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(16:7)私たちもうわべではなく心を見て判断する者となりましょう。

25-27節をご覧ください。ここには、「サムエルは民に王権の定めについて語り、それを文書に記して主の前に納めた。それから、サムエルは民をみな、それぞれ自分の家へ帰した。サウルもギブアの自分の家へ帰って行った。神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。しかし、よこしまな者たちは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかし彼は黙っていた。」とあります。

「神に心動かされた勇者たち」とは、その時代の真の信仰者たちです。彼らはサウルに傾倒していたというよりも、今サウルを盛り立てることが自分に与えられた主のみこころであると確信して、彼について行きました。

一方、「よこしまな者たち」とはは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って彼を軽蔑した者たちです。彼らはサウルに贈り物を持って来ませんでした。彼らは主のみこころを理解せず、いつも自分中心に判断し、動いていたからです。私たちは、よこしまな者にならないで、主に心動かされる者となり、主のみこころが実現するためにへりくだって仕える者となろうではありませんか。

出エジプト記19章

Ⅰ.神との契約(1-9)

 

「エジプトの地を出たイスラエルの子らは、第三の新月の日にシナイの荒野に入った。彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山を前に宿営した。モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

エジプトを出たイスラエルの民は、約束の地を目指して旅を続けてきましたが、レフィディムから次の宿営地であるシナイの荒野に入りました。それは、第三の新月の日でした。つまり、3月1日のことです。イスラエルがエジプトを出たのは第一の月の14日でしたから、ここまで来るのに約1か月半かかったことになります。休みながらの移動だったので、相当な時間を要したのでしょう。シナイの荒野に入ると、彼らは山を前に宿営しました。この山とはシナイ山です。かつてモーセはこの山で神から召命を受けました。あれから1年後、モーセは再び神の山に戻ってきたのです。

モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んでこう言われました。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。」

主は、ご自身がイスラエルの民をエジプトから解放するために何をしたのか、また、どのようにここまで導いて来られたのかを語られました。「鷲の翼に乗せて」とは、追って来る敵の手からすみやかに救出したという意味です。また、「わたしのもとに連れて来た」とは、このシナイ山に来たことを指しています。なぜ主は彼らにこのように過去のことを回顧させているのでしょうか。それは、これがこれから民と契約を結ぶ前提となるからです。

5節、6節をご覧ください。ここでは、その契約の内容が語られています。それは、「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」ということです。どういうことでしょうか。もし、神の声に聞き従い、神の契約を守るなら、あらゆる民族の中にあって、彼らは神の宝の民となるというのです。つまり、神が所有される特別な宝となるということです。これは特別な祝福です。というのは、全世界は主のものであり、それゆえに主は、ご自分のみこころのままに人を祝福したり、罰したりすることができるわけですが、イスラエルの民は、その神の特別な宝となるのです。つまり、神の特別な所有財産となるのです。これ以上の特権はありません。

そればかりではありません。ここには、「全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」とあります。祭司とは、神と人を仲介する人のことです。イスラエルの民を見て、神がどのような方であるのかを人々が知るようになり、また人々のためにイスラエルが神に執り成しをするのです。これはアブラハムと結ばれた契約の延長でもあります。かつて神はアブラハムにこう仰せられました。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)。それは彼らの自己満足のためではなく、すべての国々の中で光となるためであり、他の民族がこの方が主であると認めるためでした。けれどもイスラエルは自分を求めるだけで、この使命を失ってしまいました。

そればかりではありません。ここには、「聖なる国民となる」とも言われました。「聖」とは、分離するという意味があります。つまり、諸国の中から分離された国民となるということです。これまでは他の国民のように自分の欲望と満足のために生きてきましたが、これからは神の民として、真の神を信じ、その神の教えと戒めに従って歩む聖なる国民となるのです。

モーセは、神から告げられたことを民の長老たちに示すと、彼らはどのように応答したでしょうか。8節には「民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主の言われたことをすべて行います。」それでモーセは民のことばを携えて主のもとに帰った。」とあります。民はモーセが語ることばに同意し、自分たちは、主が仰せられたことを、すべて行います、と言いました。すばらしいですね。主が仰せになられたことをすべて行うことは不可能なことですが、それでも彼らはそのようにしたいと応答しました。

それで、モーセは、民のことばを携えて主のもとに戻りました。すると主はモーセに言われました。「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたをいつまでも信じるためである。」(9)

主は濃い雲の中にあって、モーセに現われました。それは主がモーセに語られるとき、イスラエルの民がそれを聞いて、彼らがモーセを信じるためです。つまり、モーセが本当に神と語っていることを彼らが知り、モーセのリーダーシップを認めるためです。モーセはここで仲介的な役割を果たしています。民の言葉を神に告げ、主のみことばを民に告げています。同じような役割をイスラエルの民にも与えられていました。それは、神の愛と義を諸国民に示し、また、神と諸国民の間に立って、両者をとりなす役割です。しかし、後の歴史が示しているように、彼らはその使命を果たすことができませんでした。彼らの信仰があまりにも表面的であったというか、みことばに深く根差していなかったからです。確かに彼らは、「私たちは主の言われたことをすべて行います」と応答しましたが、それがどういうことなのかを深く考えることができなかったのです。

イエスは種まきのたとえ話の中で、岩地に蒔かれた種は、土が深くなかったので、すぐに芽を出したが、しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまったと話されました。この時のイスラエルはまさに岩地に蒔かれた種のようでした。神のことばを聞いて「私たちは主の言われたことをすべて行います。」と応答しましたが、それがどういうことなのかを深く考えることをしませんでした。

私たちも同じです。主はご自身を信じる者にすばらしい約束を与えておられますが、その約束を受けるためには、「もし、あなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、」とあるように、神の声に聞き従い、神との契約を守ることが求めてられています。そのためには、神のことばが何と言っているのかを良く聞き、ご聖霊の助けと力を仰ぎながら、神に全く信頼しなければなりません。私たちの表面的な感情や力だけでは、主の御声に聞き従うことはできないのです。神のことばに深く根差しながら、イエス・キリストの救いの恵みに感謝して、神の声に聞き従う者でありたいと思います。

Ⅱ. イスラエルの民の聖別(10-15)

モーセが民のことばを主に告げると、主は何と言われたでしょうか。10~15節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたは民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせよ。彼らに三日目のために準備させよ。三日目に、主が民全体の目の前でシナイ山に降りて行くからである。あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。」 モーセは山から民のところに下りて行って、民を聖別した。彼らは自分たちの衣服を洗った。モーセは民に言った。「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない。」」

モーセが民のことばを主に告げると、主はモーセに、民のところに行き、きょうとあす彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせるようにと言いました。三日目に、主が民全体の前でシナイ山に降りて来られるからです。彼らは二日間かけて自らをきよめなければなりませんでした。具体的には、衣服を洗うということです。自分の衣服を洗うことが、どうしてきよめることと関係があったのでしょうか。主はきよめるということがどういうことなのかを教えるために、外側のきよめという目に見える形を通して示されたのです。神が聖なる方であるから、彼らにも聖であることを求められました。その聖であるということがどういうことであるのかを理解させるために、外側のきよめを命じたのです。イエスは、外側からのものは厠に流されるだけで、人を汚すのは内側から出てくるもの、嘘、偽り、好色、殺人といった類のものであると言われました。ただキリストの血によって、また神のみことばによって私たちの心はきよめられるのです。

次に主は、周囲に境を設けるようにと言われました。12~13節です。「あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。」

シナイ山の周囲に境を設ける必要がありました。なぜなら、そこには聖なる主が下りてこられるからです。山に触れる者があれば、その人は石で打ち殺されなければなりませんでした。主はそれほど聖なる方であられるからです。人間も動物も、その境を越えることは許されませんでした。汚れたものが聖なる地に足を踏み入れることは、そのまま死を意味したのです。では、いつ山に登ることができたのでしょうか。このように二日間身を聖め、角笛が長く鳴り響くのを待たなければなりませんでした。

新約の時代に生きている私たちは、別の方法で神に近づくことができます。それはイエス・キリストによってです。イエスは私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。この十字架の血が私たちをきよめることができます。だれでも、神に近づきたいと思うなら、この血のきよめを受けなければなりません。へブル7:24-25には、「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とあります。これが、私たちが神に近づくことができる唯一の方法です。これ以外の方法で神に近づくことはできません。そのようにすることは、「境」を越えることであり、神の裁きを身に招くことになります。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)主イエスだけが、罪と死の問題から私たちを解放してくださるお方であり、このイエスによってのみ、すなわち、イエスを信じることによってのみ、神に近づくことができるのです。

モーセは、山から民のところに下って行って、民を聖別し、彼らの衣服を洗いました。そしてこう言いました。「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない。」ここにはもう一つのことが付け加えられています。それは、「女に近づいてはならない」ということです。これはどういうことでしょうか。これは、必ずしも不品行のことではありません。自分の妻との性的な関係を控えなさい、という意味です。夫婦の肉体関係が罪であるとか汚れているということではありません。衣服を洗って身を聖めるように、外側の行ないによって、内側の聖さを示す必要があったのです。

Ⅲ.神の顕現(16-25)

次に16~25節をご覧ください。

「三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がいよいよ高くなる中、モーセは語り、神は声を出して彼に答えられた。主はシナイ山の頂に降りて来られた。主がモーセを山の頂に呼ばれたので、モーセは登って行った。主はモーセに言われた。「下って行って、民に警告せよ。彼らが見ようとして主の方に押し破って来て、多くの者が滅びることのないように。主に近づく祭司たちも自分自身を聖別しなければならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」モーセは主に言った。「民はシナイ山に登ることができません。あなたご自身が私たちに警告して、『山の周りに境を設け、それを聖なるものとせよ』と言われたからです。」主は彼に言われた。「下りて行け。そして、あなた自身はアロンと一緒に上れ。しかし、祭司たちと民は、主のところに上ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」

三日目の朝になると、山の上に雷鳴と稲妻と厚い雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がりました。神の臨在に触れたからです。モーセは、神に会わせようと、彼らを宿営から連れ出し、山のふもとに立たせました。するとシナイ山は全山が煙っていました。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからです。煙はかまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えました。ものすごい光景ですね。そして、主がモーセを山の頂に呼ばれたので、モーセが登って行くと、主は、「まず、下って行って、彼らが主を見ようとして主の方に近寄って来て、滅びることがないように警告するように」と言われました。それは祭司たちも例外ではありませんでした。主に近づく祭司たちも、自分自身を聖めなければなりませんでした。主は限りなく聖なるお方なので、この方に近づこうとするなら、主が怒りを発して、滅ばされてしまうからです。

ヘブル12:18~24には、これがどういうことなのかが記されています。

「あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。」

これは、この時のことを述べています。それは、シナイ山が揺れ動くほど恐ろしいものでした。だれも主の山に近づくことなどできませんでした。近づこうものなら、たちまちのうちに滅ぼされてしまうことになります。主はあまりにも聖なる方なので、だれも近づくことができなかったのです。

しかし、私たちには、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。どうやって?イエスの血の注ぎかけによってです。私たちが近づいているのは、地上のシナイ山ではなく、天のエルサレム、「生ける神の都」です。そこでは無数の御使いたちの大宴会が開かれています。これはただ神の恵み、イエスの血の注ぎかけによるのです。つまり、恵みの時代に生きている私たちクリスチャンは、恐れることなく大胆に、恵みの座に近づくことができるのです。これらのことを可能にするのは、すべて、新しい契約の仲介者である主イエスが、ご自身の血を御座にお注ぎになったからです。
私たちは、どのように神に近づいているでしょうか。旧約時代のイスラエルの民のように、自分が何か悪いことをしたのでは神は受け入れてくださらないのではないかと、びくびくしながら近づいてはいないでしょうか?もし、そうであれば、それは神がキリストによって成してくださった神の恵みに対する信仰が薄くなっているからです。私たちが近づいているのは、黒雲と煙が立ち上がっているシナイ山ではなく、シオンの山です。主が、私たちが神に近づくことができるためのすべてのことを、ご自分の血とその肉体によって成し遂げてくださったのです。だから、良心をきよめられて、大胆に神に近づくことができるのです。

神が聖なる方であることを知ることはとても大事です。しかし聖なる方に近づくためにその尊いひとり子の血が流されたことを忘れないでください。この方によって、私たちは大胆に神に近づくことができるのです。これ以外に、私たちが神に近づく方法はありません。天の下で、私たちが救われるべき御名は、人間に与えられていないからです。まだこの神に近づいていない方は、どうかこの神の救い、イエス・キリストを信じてください。キリストが十字架で流された血潮を信じて、すべての罪をきよめていただき、大胆に神に近づこうではありませんか。

Ⅰサムエル記9章

サムエル記第一9章から学びます。

 

Ⅰ.キシュの子サウル(1-10)

 

まず、1~10節までをご覧ください。1-2節をお読みします。

「ベニヤミン人で、その名をキシュという人がいた。キシュはアビエルの子で、アビエルはツェロルの子、ツェロルはベコラテの子、ベコラテはベニヤミン人アフィアハの子であった。彼は有力者であった。キシュには一人の息子がいて、その名をサウルといった。彼は美しい若者で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。」

 

いよいよ、初代イスラエルの王となる人物が選ばれます。それはサウルです。ここには、サウルがどのような人物であったかが描かれています。

彼はまずベニヤミン人で、キシュという人の一人息子でした。そして彼は、美しい若者であったとあります。その美しさは、イスラエル人の中で彼よりも美しい者はいなかったと称されているほどです。それは彼の背の高さを見てもわかります。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かったのです。女の人たちが一番結婚したいと思う理想の男性、というところでしょうか。神は、イスラエルの民が王として望んでおられるような人物を用意されたのです。

 

3~10節までをご覧ください。

「あるとき、サウルの父キシュの雌ろば数頭がいなくなったので、キシュは息子サウルに言った。「しもべを一人連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。」サウルはエフライムの山地を巡り、シャリシャの地を巡り歩いたが、それらは見つからなかった。さらに、シャアリムの地を巡り歩いたが、いなかった。ベニヤミン人の地を巡り歩いても、見つからなかった。二人がツフの地にやって来たとき、サウルは一緒にいたしもべに言った。「さあ、もう帰ろう。父が雌ろばのことはさておき、私たちのほうを心配し始めるといけないから。」すると、しもべは言った。「ご覧ください。この町には神の人がいます。この人は敬われている人です。この人の言うことはみな、必ず実現します。今そこへ参りましょう。私たちが行く道を教えてくれるかもしれません。」サウルはしもべに言った。「もし行くとすると、その人に何を持って行こうか。私たちの袋には、パンもなくなったし、神の人に持って行く贈り物もない。何かあるか。」しもべは再びサウルに答えた。「ご覧ください。私の手に四分の一シェケルの銀があります。これを神の人に差し上げたら、私たちの行く道を教えてくださるでしょう。」昔イスラエルでは、神のみこころを求めに行く人は「さあ、予見者のところへ行こう」とよく言っていた。今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである。サウルはしもべに言った。「それはよい。さあ、行こう。」こうして、彼らは神の人のいる町へ行った。」

 

あるとき、サウルの父キシュの雌ろば数頭がいなくなったので、キシュは息子のサウルに、若い者一人を連れて捜しに行くようにと言いました。それで彼はエフライムの山地からベニヤミンの地を巡り歩きましたが、見つかりませんでした。そして、彼らがツフの地に来たとき、サウルは一緒にいた若い者に、「もう帰ろう。父親が自分たちのことを心配するといけないから」と、言いました。

 

するとそのしもべが言いました。「ご覧ください。この町には神の人がいます。この人は敬われている人です。この人の言うことはみな、必ず実現します。今そこへ参りましょう。私たちが行く道を教えてくれるかもしれません。」(6)

 

「神の人」とはとはもちろんサムエルのことです。当時サムエルは、全イスラエルに神の預言者として認められていました。彼のもとに行けば、自分たちが行くべき道が示されるかもしれないと思ったのです。サウルは、その神の人のところに行くとしたら何かみやげを持って行かなければならないが、果たして何を持っていったら良いだろうかと心配します。するとそのしもべは、自分が持っていた銀4分の1シェケルを差し出しました。当時は、預言者という言葉の代わりに、「予見者」と言う言葉が使われていました。予見者は、助言を求めてやって来る人たちからの捧げ物によって生計を立てていたのです。サウルは、「それは良い」と言い、彼らは神の人がいる町へと行きました。

 

道に迷った時、あなたはだれに助けを求めますか。サウルと若者は、神の人サムエルを訪ねました。これは賢明な判断でした。私たちも人生の方向性が分からなくなったとき、神に尋ね求めましょう。聖書を開き、霊的指導者からみことばを通しての助言を聞きましょう。人にではなく、神に向かうようにしたいものです。

 

Ⅱ.神の不思議な導き(11-21)

 

11~14節をご覧ください。

「彼らがその町への坂道を上って行くと、水を汲みに出て来た娘たちに出会った。彼らは「予見者はここにおられますか」と尋ねた。すると娘たちは答えて言った。「はい。この先におられます。さあ、急いでください。今日、町に来られました。今日、高き所で民のためにいけにえをお献げになりますから。町に入ると、あの方が見つかるでしょう。あの方が食事のために高き所に上られる前に。民は、あの方が来られるまで食事をしません。あの方がいけにえを祝福して、その後で、招かれた者たちが食事をすることになっているからです。今、上って行ってください。あの方は、すぐに見つかるでしょう。」彼らが町へ上って行き、町に入りかかったとき、ちょうどサムエルが、高き所に上ろうとして彼らの方に向かって出て来た。」

 

彼らがその町への坂道を上って行くと、水を汲みに出て来た娘たちに出会ったので、彼らはその娘たちに「予見者はここにおられますか」と尋ねました。すると、娘たちは、この先にいると教えてくれました。その日サムエルは、高きところでいけにえをささげるためにその町に来ていたのです。いけにえをささげた後、サムエルは招かれた者たちと食事をすることになっていたので、いますぐ上って行くようにと教えてくれました。すると、「彼らが町へ上って行き、町に入りかかったとき、ちょうどサムエルが、高き所に上ろうとして彼らの方に向かって出て来た。」のです。何というタイミングでしょう。サウルたちが町に入ったその日、サムエルがいけにえをささげるためにその町に来ていたというだけでなく、ちょうどそのときサムエルが彼らのところにやって来たので、彼らはその町で会うことができたのです。これはまさに神のタイミングでした。神は私たちの見えない所で働いておられ、このように必要な出会いを与えてくださるのです。

 

そればかりではありません。15節から21節までをご覧ください。

「主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて告げておられた。「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」サムエルがサウルを見るやいなや、主は彼に告げられた。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」サウルは、門の中でサムエルに近づいて、言った。「予見者の家はどこですか。教えてください。」サムエルはサウルに答えた。「私が予見者です。私より先に高き所に上りなさい。今日、あなたがたは私と一緒に食事をするのです。明日の朝、私があなたを送ります。あなたの心にあるすべてのことについて、話しましょう。三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないようにしてください。見つかっていますから。全イスラエルの思いは、だれに向けられているのでしょう。あなたと、あなたの父の全家にではありませんか。」サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」」

 

サムエルは、前もってサウルのことを聞かされていました。「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」と。そして、サムエルがサウルを見るやいなや、主は彼に告げられました。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」と。

そんなこともいざ知らず、サウルは門の中でサムエルを見つけると、「予見者の家はどこですか。教えてください。」と尋ねました。サムエルは自分がその予見者であることを告げると、いけにえをささげた後で一緒に食事をするようにと誘います。さらに、雌ろばは見つかっていることを告げ、サウルが本当に心配しなければならないことは、全イスラエルのことであると告げるのです。そして、イスラエルの王権は彼に与えられると預言しました。

 

するとサウルは何と答えたでしょうか。彼は驚いてこう言いました。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」

どういうことでしょうか。彼はイスラエル部族の中で最も小さな部族に属しているということ、そして、その部族の中でも一番つまらない者だと言うのです。サウルは非常に謙遜でした。いなくなったろばを捜しに出て、王権を発見したという人は、世界広しと言えども、彼しかいないでしょう。サウルは、最初は謙遜な器でしたが、やがてその性質を失ってしまいます。神は今でも謙遜に、神と人に仕える器を求めておられるのです。

 

Ⅲ.サウルをもてなすサムエル(22-27)

 

最後に22節から27節までを見て終わります。

「サムエルはサウルとそのしもべを広間に連れて来て、三十人ほどの招かれた人たちの上座に着かせた。サムエルは料理人に、「取っておくようにと渡しておいた、ごちそうを出しなさい」と言った。料理人は、もも肉とその上にある部分を取り出し、サウルの前に置いた。サムエルは言った。「これはあなたのために取っておいたものです。あなたの前に置いて、食べてください。その肉は、私が民を招いたと言って、この定められた時のため、あなたのために取り分けておいたものですから。」その日、サウルはサムエルと一緒に食事をした。彼らは高き所から町に下って来た。それからサムエルはサウルと屋上で話をした。彼らは朝早く起きた。夜が明けかかると、サムエルは、屋上にいるサウルに叫んだ。「起きてください。あなたを送りましょう。」サウルは起きて、サムエルと二人で外に出た。二人が町外れへと下っていたとき、サムエルがサウルに「しもべに、私たちより先に行くように言ってください」と言ったので、しもべは先に行った。「あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから。」」

 

サムエルは、サウルとそのしもべを広間に連れて来て、30人ほどの招かれた人たちの上座に着かせ、最高のもてなしをしました。というより、すでに彼を王になる人として、丁重に接しています。他に招待された人たちの中に彼らを座らせ、上等のももの肉を与えました。これは、サムエルがサウルのためにわざわざ取り分けておいたものです。サウルは破格の扱いを受けました。同席した者たちはさぞ驚いたことでしょう。しかし、一番驚いたのは誰よりもサウル自身であったと思われます。

 

食事が終わると、サムエルとサウルは、ある町の屋上で二人だけで話をしました。おそらくこのときサムエルは、主から受けていた啓示を彼に伝えたことでしょう。そして翌朝早く、サムエルはサウルを起こすと、彼を町外れまで見送りますが、しもべに先に行ってくれるように言ったので、しもべは先に行きました。それでサムエルは神のことばを彼に聞かせました。

 

この時、サムエルはどんな気持ちだったでしょうか。8:6には、このことはサムエルの目には悪しきことでした。これまで自分が必死に主に仕えてきたのに、そのことを認めないで民が勝手に求めた王を今、目の前にして複雑な気持ちだったことでしょう。それなのに、ここにはそんな彼の迷いは微塵も見られません。彼は神のことばをサウルに告げ、彼に油を注いでイスラエルの王とするのです。どこまでも主に忠実なサムエルの姿を見ます。私たちも、自分の目には悪しきことがたくさんあっても、あるいはそれが受け入れられないことでも、そのことにも主の摂理と導きがあると信じて、自分の思いや感情ではなく、主のみこころに歩ませていただきたいと思うのです。