ヨハネの福音書14章1~11節「心を騒がせてはなりません」

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 ヨハネの福音書14章に入ります。きょうのタイトルは、「心を騒がせてはなりません」です。今もそうですが、私たちの人生には心を騒がせることばかりです。そんな中にあってどうしたら心騒がせずにいられるのでしょうか。主からのメッセージをご一緒に聞きましょう。

 

 Ⅰ.心を騒がしてはなりません(1-3)

 

まず、1節から3節までをご覧ください。

「1あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

 

最後の晩餐の席で、イスカリオテのユダはイエスからパン切れを受け取ると、すぐにその場を出て行きました。するとイエスは、「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。」(13:31)と言われました。なぜユダが出て行ったことが人の子にとっての栄光なのでしょうか。それは前回のところでお話ししたように、イエスが十字架で死なれるからです。それは最初の人アダムとエバが罪を犯した時から、全人類を救うために神が計画しておられたことでした。それが今、成し遂げられようとしていたのです。それは父なる神にとっても同じです。イエスが十字架で死なれることによって、神がどのような方であるかがはっきりと示されることになります。つまり、十字架によって神の愛と神の恵みが、すべての人に明らかになります。ですから、十字架は人の子が栄光を受け、神もまた人の子によって栄光を受けられる時なのです。

 

しかし、イエスがそのように言いますと、イエスは不思議なことを言われました。それは、13:33にあるように、イエスはもう少しの間彼らとともにいますが、その後いなくなり、彼らがイエスを捜しても見つけることができないということでした。彼らはそこに来ることができないからです。いったいそれはどういうことか。シモン・ペテロは弟子たちを代表してイエスに尋ねました。「主よ、どこにおいでになるのですか」、「なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」するとイエスは彼にこう言われました。38節です。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

ペテロはイエスのためにいのちも捨てると言いましたが、そんなことできません。なぜなら、ペテロはイエスを裏切るようになるのですから。鶏が鳴く前に、彼は三度イエスを知らないと言うと預言されました。

これを聞いた弟子たちはますます不安になったことでしょう。これまで三年半の間ずっとイエスを信じてついて来たのに、いったいこれから先どうなってしまうのかと思うと心配でたまらなかったことと思います。

 

どんな人でも先が全く見えないと不安を感じるものです。この先どうなるのかが分かっていたら、だれも悩んだり、苦しんだりはしません。先が見えないからこそ不安になるのです。このような時、人はいろいろな方法で解決を模索します。ある人は、自暴自棄になりお酒などによって不安を紛らわそうとします。またある人は、考えても何の解決も見えないのだからできるだけ考えないようにしようとします。またある人は、それでも自分の力で何とか解決しようと必死になってもがきます。しかし、そこには何の解決もありません。なぜなら、そのようにして一時的に問題から逃れたとしても、依然としてそこに問題が残り続けるからです。ではどうしたら良いのでしょうか。どうしたら真の解決を得られるのでしょうか。神に信頼することです。神に信頼して、すべてを神にゆだねることなのです。なぜなら、神はすべてを支配しておられるお方だからです。その神を信じ、その神に避け所を求め、神によって解決を求めることです。そうすれば、問題それ自体と取り組んでも、自分の知恵や力によってではなく、全地全能の神の知恵と力によって解決をすることができるのです。

 

イエス様は、弟子たちが先行き不透明な中で不安に陥っていたとき、彼らにこのように言われました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1)

ここでイエスが言われた「心を騒がしてはなりません」という言葉は、このヨハネの福音書の中で何回も使われてきた言葉です。たとえば、11:33には、「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、」とありますが、この「心を騒がせて」がそれです。不思議なことに、ここで心を騒がせていたのはだれかというと、イエス様ご自身でした。愛する姉妹マルタとマリアの兄弟ラザロが死んで、彼らが泣いているのをご覧になられたイエスは、霊に憤りを感じ、心を騒がせました。この言葉は「タラッセッソー」というギリシャ語ですが、「悩ます」という意味の言葉です。イエスは死を支配している悪霊と対決しようとして心を騒がせたのです。また、13:21でもこの言葉が使われています。「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。」とあります。ここでも心を騒がせたのはイエス様でした。イエス様は、ご自分を裏切る者がいることを語られると、心を騒がせられたのです。3年余り自分のすぐそばにいてずっと親しく交わってきた者たちの中に自分を裏切る者がいるということは、どんな悲しかったことでしょう。そして何よりもそのことを悔い改めず、その結果永遠に滅びてしまうことを思うと、心を騒がせずにはいられなかったのです。

 

ここで「あなたがたは心を騒がせてはなりません」と言われたのは、イエス様ご自身です。それなのに、なぜイエス自身が心を騒がせたのでしょうか。そこに悪魔との戦いがあったからです。ラザロが死んだときは、死を支配している悪魔との戦いがありましたし、イスカリオテ・ユダの裏切りの背後にも、実は悪魔の働きがありました。確かにすべてのことが神のご支配にありますが、そうしたことの中には悪魔の働きがあるのです。ですから、私たちが心を騒がせる時というのは、そこに悪魔の力が働いている時なのです。どんな人でも悪魔が支配しているこの世にあっては、心を騒がせることで満ちているのです。

 

では、そのようなとき、私たちはどうしたら良いのでしょうか。ここには、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」とあります。自分が当面している問題の背後に悪魔の力を感じ、その悪魔と対決しなければならないとき、それを自分ひとりでしなければならないとしたら、不安で、心細くて、どうしようもないでしょう。しかし、この悪魔との戦いにおいて、主が私たちに代わって戦ってくださると信じ、この主に信頼し、主に身を寄せるなら、主が平安を与えてくださるのです。しかし、残念ながら、私たちがどんなにイエス様を信じているとは言っても、いざ現実の生活において問題に直面すると、そうした信仰はすぐにどこかへ吹っ飛んで行ってしまうのです。つまり、イエスを信じていない人と全く変わらない状態になってしまうのです。確かに、イエス様を信じて罪から救われ永遠のいのちが与えられていますが、この世にあっては不安と恐れに苛まれながら生きることになるのです。この時の弟子たちはそうでした。彼らもイエスを信じていました。しかし、そんな彼らに対してイエスは、「心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。それは、私たちが心を騒がせるような時、このことを一層はっきりと自覚する必要があったからです。自分ではイエス様を信じ、イエス様に信頼していると思っていても、実のところそうでないことがあるということを。日ごろイエス様に信頼している人でも、もう一度この原点に立ち返るとき、心の中から不安が消えていきます。これこそあらゆる問題の解決の原点なのです。

 

では、どうして神を信じ、またイエスを信じるなら不安や恐れが消え去るのでしょうか。ここが大切なポイントです。その理由が2節にあります。「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。」

「わたしの父の家」とは神の国、天国のことです。イエス様は、「わたしの父の家には住むところがたくさんあります。」と言われました。そこに彼らのために場所を用意するために行かれると言われたのです。つまり、私たちが生きているこの世にあっては、そこは悪魔が支配している所である以上、心を騒がせなければならないことがたくさんありますが、それをこの世という視点で見るのではなく、この世を越えた視点、天国という視点で、また現在という時間を越えた永遠という視点で見るなら、今まで問題だと思っていたことが、全く問題ではなくなってしまうということです。不思議ですね。あれほどイライラしていた気持ちが、いざ天を見上げたとたんスーっと静まっていくのを感じることがあります。これが、イエスが教えてくださった解決です。天の御国を見よ・・・と。

 

お花の師匠さんから聞いたことですが、花を生けるときは、まず、天を決めるということです。天を決めてから、上下左右に、様々なバランスをとっていく、ということでした。これは、私たちの人生においても言えることではないでしょうか。まず天を決めるのです。そこから上下左右、様々なバランスをとってゆくなら、人生のすべてが神の平安で満たされるのです。

 

イエス様は、山上の説教の中でこのように言われました。「25ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:25-34)

イエス様は、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」と言われました。まず天を決める、まず神の国とその義とを第一に求める。これが真の解決です。

 

時として、私たちの心を騒がせる問題は、住宅の悩みから来ることがあります。住む場所が狭かったり、物を置くスペースが足りなかったり、家中が物で溢れている、自分の居場所がないなどです。ある住宅メーカーのアンケートによると、現在の住まいで不満に思う点の1位は何だったかというと、男女ともにこれでした。「収納が足りない」38%です。2位以下は「庭・ベランダが活用できていない」31%、「狭い」30%、「キッチンの使い勝手が悪い」29%、「間取りが暮らしに合わない」27%となっています(SUVACOユーザ調査概要)。しかし、天国には、住む所がたくさんあります。その場所を備えるために、イエス様は父のもとに行くと言われたのです。そこはどのような所でしょうか?そこは、何か功績があった人や、特別に主と教会のために尽くした人だけが入ることができる場所ではありません。そこは、今この世のことで心を騒がしているような信仰の弱い者でも、ひとたび主の十字架の血によって罪を贖っていただいた者であれば、だれでも入ることができる所です。そのことを知ったらどうでしょう。本当に平安が与えられるのではないでしょうか。それこそ、この世の平安ではありません。神の平安、天から与えられる平安です。

 

そして主は、さらにこう言われました。3節、「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

天国は、イエス様が私たちのために用意してくださる所であり、イエス様がともにおられる所です。どんなに天国が光り輝く所であり、快適な暮らしであったとしても、主がともにおられるのでなければ、私たちのたましいは、決して満足を得ることはできません。なぜなら、私たちのたましいは、場所や環境によって満足するものではなく、主イエスご自身がともにおられることによって与えられるものだからです。

 

イエス様は、この天国に行って、場所を用意したら、また来て、あなたがたを迎えてくださいます。これは、主がもう一度来られる再臨の時か、もしくは、私たちのこの世での人生が終わる時かのいずれかの時のことです。いずれにせよ、主は私たちをこの天の御国に導いてくださるために、もう一度来てくださいます。ですから、この世にあってどんな患難があっても恐れることはありません。心を騒がせてはならないのです。心を騒がせるようなことが起こったから、神を信じ、またイエスに信頼すればいいのです。これは、今、世界中の人たちが聞かなければならない聖書のみことばであり、神からのメッセージです。

 

Ⅱ.わたしが道であり、いのちであり、真理なのです(4-6)

 

次に、4節から6節までをご覧ください。

「4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 

イエスは、ご自分がどこに行かれるのかを、すでに繰り返して、弟子たちに語って来られました。ですから、弟子たちはそのことを知っていたはずですが、これを聞いた弟子の一人のトマスは、イエスにこう言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

 

霊的な真理を語られたイエスに、トマスは「これからどこに行けばいいのかわからない」と言いました。ことばが噛み合っていません。トマスという名前を聞くと、皆さんがすぐに思い浮かぶのは、疑い深い人ということではないでしょうか。ヨハネ20章を見ると、イエスが復活したとき彼は、イエスが復活したということを他の弟子たちから聞いても信じることができませんでした。そしてこう言いました。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません。」(20:25)

随分現実的というか、疑い深い人ですね。そういうタイプの人がいます、というか、ほとんどの人がそうです。見ないと信じることができません。見ても信じない人もいます。ですから、トマスは私たちそのものなのです。イエス様が天国の話をしても、その意味を理解することができません。「主よ、どこに行ったらいいのですか。その道を教えてください。できれば地図に書いてもらえますか・・」。どちらかというと彼は、この世のことには長けていましたが、霊的なことには疎かったのです。

 

そこで、イエスはその道が何であるのかをはっきりと示されました。6節です。ご一緒に読みましょう。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

私たちはしばしば救いについて誤解し、どの宗教も結局最後に到達するのは同じ神様なのだから、何を信じても同じだと考えがちですが、そうではありません。イエスは、そのような考えをきっぱりと否定されました。そしてはっきりと、ご自分が道であり、真理であり、いのちであり、ご自分を通してでなければ、だれも父のもとに行くことはできないと言われたのです。このようなことを言うと、特に断定的な言い方を極端に嫌う日本人には、なんと排他的なんだろうと思われるかもしれませんが、イエスはこのようにはっきりと言われました。なぜイエスはこのように言われたのでしょうか。それは、ほんとうにイエスこそ道であり、真理であり、いのちであられる方だからです。

 

古来多くの人々が道について語ったり、示したりしてきました。また、真理について教えてきました。いのちに至る方法について説いてもきました。しかし、それらのものはすべて人間によって定められた道であり、真理であり、いのちにすぎません。しかし、イエスの場合はそうではなく、ご自身が道そのものであり、真理そのものであり、いのちそのものなのです。だから、このように宣言することができたのです。イエスが父なる神のみともに至る唯一の道であられるのは、イエスご自身が真理そのものであり、いのちそのものであられるからです。もっと別の言い方をするならば、イエス・キリストは神であられるということです。ですから、天地万物を造られた神のみもとに行こうと思うなら、この神が定めた方法でなければ行くことはできないのです。その方法とは何ですか?その方法とは、イエス・キリストです。神はご自身の御子イエスをこの世に遣わされ、この方によってご自分のところに来る道を用意されました。それが十字架と復活だったのです。

 

「御名を掲げて」という賛美は、このことを歌った賛美です。1989年、アメリカのリック・ファウンズによって書かれました。ファウンズは、朝の祈りの時に聖書を読みながらこの曲を作曲したと言われています。

御名をかかげて あなたをたたえます 救いのために あなたは来られた 救いの道を与えに 天よりくだり 来られた 十字架により いのちあがない よみがえられた

 

キリストは、私たちを罪から救うために天から来られました。それは十字架による罪の贖いと、三日目によみがえられることによって完成されました。これが、私たちが救われるために神が計画しておられたことだったのです。ですから、使徒たちはこのように宣言したのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)私たちが救われるべき名は、すなわち、私たちが天国に入れていただくためには、この御名を信じなければならないのです。

 

あなたはこの御名を信じましたか。信じて、罪を赦していただきましたか。神の子どもとされましたか。イエスが道であり、真理であり、いのちなのです。この方以外には、だれによっても救いはありません。このイエスの御名を信じて、天の御国に入れていただきましょう。そうすれば、あなたも天国の視点で物事を見ることができるようになり、すべての不安と恐れは消え去るのです。

 

Ⅲ.わたしを見た人は、父を見たのです(7-11)

 

最後に、7節から11節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。

「7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

 

今度は別の弟子のピリポです。イエス様が、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」と言われると、その父を見せてくださいと言いました。そうすれば、満足しますと。おそらく、ピリポが想定したのは、かつてモーセが見たような神の栄光のことでしょう。神は霊ですから、肉眼で見ることはできません。ならば神の臨在の象徴である神の栄光を見せてくださいと言ったのです。そうすれば、満足します。そうすれば、確かに神がおられることを信じることができます。

 

私がイエス様を信じたのは18歳の時でした。今の妻に誘われて教会に導かれましたが、最初はなかなか信じることができませんでした。だって信仰って一生もんでしょう。そんな大切なことをそう簡単には決断できないと思ったのです。私にも将来がありました。前途が希望に満ちていました。その将来を輝かしいものとするために絶対に道を誤りたくないと思ったのです。ですから、当時通っていた教会の牧師に「イエス様を信じてください」と言われても、なかなか信じることができませんでした。でも教会に行き始めて半年くらい過ぎた頃、私はどちらの道に進むのかを決めなければならないと思いました。すなわち、イエス様を信じるのか、信じないのかということです。それで、ある晩布団に入った時ピリポのように祈りました。「主よ。私に父を見せてください。そうすれば満足します。」実際にこの眼で見たら信じられるのではないかと思ったのです。するとどうでしょう。障子越しに月の明かりが部屋の中を照らしました。まさにイエス様が現れるような雰囲気でした。私は心の中で祈り続けました。「イエス様、イエス様、今です。どうぞ来てください。ここに現われてください。」しかし、何分待っても現れませんでした。結局、残ったのは寝不足だけでした。よく考えてみたら、神は霊ですから、私たちが思っているような形で現れることはないのです。大切は見て信じるのではなく、見ないで信じることです。幸い、神はこんな肉にすぎない私に聖霊を通して信仰を与えてくださいました。そして、イエス様を信じますと告白した時から、実にたくさん、いろいろな時にご自身の栄光を見させてくださいました。特に、聖書のみことばを学ぶとき、そこにはっきりとご自身を現わしてくださいました。神は見ることができませんが、神を信じる者にご自身を見せてくださるのです。ですから、見ないと信じないというではなく、見ないでも信じる人は幸いです。見ないで信じる人に、主はご自身を見せてくださるからです。

 

そんなピリポに対して、主は何と言われましたか。9節から11節をご覧ください。

「イエスは彼に言われた。「9ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。10わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。11わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」

イエス様はピリポの質問に驚かれました。こんなに長い間、彼らと一緒にいたのに、イエスを知らなかったからです。彼らはイエスとともに長い間生活し、イエスの教えを聞き、イエスの奇跡を見、イエスの人格に触れました。それなのに彼らはイエスを知らなかったのです。もし知っていたのなら、「私たちに父を見せてください」とは言わなかったでしょう。なぜなら、イエスを見た者は、父を見たのだからです。

 

ヘブル書1:3には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」とあります。イエスは神の栄光の輝きであり、また神の本質の完全な現われなのです。ですから、この方を見た者は、父を見たのと同じなのです。

 

あなたがたは、神が分からないと言っているけれども、すごく簡単でしょう。なぜなら、あなたが見ているこのわたしが、神を現わしているのだから。ほら、わたしを見てごらん。ここに神がいるんですよ、そうおっしゃっているのです。私たちは、自分の経験をとおして、自分なりの勝手な神概念を持っていますが、でも本当にあなたが神を見たいと思うなら、イエスを見なければなりません。なぜなら、イエスこそ神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れだからです。イエスを見るなら、神がどのような方かを、はっきり見ることができます。

 

最後にイエスは、「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」と言われました。

トマスやピリポのような人は、今でもたくさんいます。懐疑的で、自分の目で見なければ信じないという人たちです。でも、イエスを見る人は、父を見るのです。イエスこそ、道であり、真理であり、いのちです。天国に至る唯一の道なのです。この方を信じるなら、何を恐れたり、心配したりする必要があるでしょうか。この方は私たちを天の御国に導いてくださいます。私たちが信頼すべきお方、それは私たちの救い主イエス・キリストです。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われる主イエスに信頼し、先が見えないこの不透明な時代にあっても、天から与えられる希望と平安をもって歩ませていただこうではありませんか。