雅歌2章8~17節「さあ立って、出て行こう」

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 雅歌からの五回目のメッセージとなります。きょうは2章8節のところから、「さあ立って、出て行こう」というタイトルでお話したいと思います。

2章8節から新しい場面に入ります。ソロモンはこれまで結婚式当日のことを思い出して歌いましたが、ここから婚約の時代を思い起こして歌っています。これが3章5節まで続きます。ここで羊飼いである花婿は、花嫁に「さあ立って、出ておいで」と優しく語りかけています。私たちは花婿なる主の御声に応答して立ち上がり、出て行く者でありたいと思います。

Ⅰ.新しい季節がやって来た(8-13)

まず、8節から13節までをご覧ください。8~9節をお読みします。「私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。山を跳び越え、丘の上を跳ねて。私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ほら、あの方は私たちの壁の向こうでじっと立ち、窓からうかがい、格子越しに見ています。」

ここは故郷にある花嫁の家です。そこに後に花婿となる王が、迎えに来ているのです。結婚を前提に交際するために。

「私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。」

春が来るのを待ちわびていた彼女は、彼が来るのを心待ちにしていました。今か、今かと待ちわびている彼女の思いが伝わってきます。そして彼の声が聞こえたとき、「ほら、あの方が来られる。」と胸をときめかしているのです。

彼はどのようにしてやってくるのでしょうか。ここには、「山を跳び越え、丘の上を跳ねて。」とあります。まるでかもしかや若い鹿のようにです。「かもしか」とは「ガセル」のことで、聖書では美しさの象徴として用いられています。また「若い鹿」とは、軽快に跳びはねる様を表しています。花婿なるフィアンセは、かもしかや若い鹿のように山を飛び跳ね、丘の上を跳ねてやって来るのです。

「ほら、あの方は私たちの壁の向こうでじっと立ち、窓からうかがい、格子越しに見ています。」牢屋の外から格子越しに囚人を見ているというのではありません。久々の再会にフィアンセはすぐにドアをノックするのをためらい、彼女が何をしているのかを外から窓越しに眺めているのです。

そして、このように呼びかけて言われます。「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」(10)この「私の愛する方」とは、花婿なるキリストのことです。もちろん花嫁とは教会のことです。花婿なるキリストは、私たちを「わが愛する者、私の美しいひとよ。」と呼んでくださいます。私たちはそのような者ではありません。自分勝手な者で、罪に罪を重ねるような者ですが、主そんな私たちをそのように言ってくださるのです。感謝ですね。そしてこう言われます。「さあ立って、出ておいで」

その理由の一つが、11節から13節までに述べられます。「ご覧、冬は去り、雨も過ぎて行ったから。地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て、山鳩の声が、私たちの国中に聞こえる。いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香りを放つ。わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」

それは冬が去り、雨も過ぎて行ったからです。つまり、新しい季節が訪れたからです。イスラエルでは、私たち日本人が言う四季のうち「春」とか「秋」という季節を表す言葉がありません。夏と冬だけです。先日フィリピンの姉妹とお話していたら、フィリピンでは夏だけだそうです。一年中夏。日本は春、夏、秋、冬があってとてもきれいだとおっしゃっていました。イスラエルも春と秋がなく、夏と冬だけです。夏は4月から10月頃まで続く長い「乾季」の期間で、冬は11月頃から3月頃までの「雨季」の期間です。11節に「雨も過ぎて行ったから」の「雨」とは、12~2月頃にかけて降る激しい雨のことで、「後の雨」と呼ばれているものです。

イスラエルでは雨のシーズンでも、日本で言うところの秋のはじめに降る「先の雨」と冬の終わりに降る「後の雨」があります。申命記11章14節には「わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨をもたらす。あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。」とあります。この「初めの雨」とは「先の雨」のことで、この雨は乾季で岩のように硬くなった地を柔らかくしてくれる働きがあります。そのように柔らかくなった地を耕して種を蒔くのです。

一方、「後の雨」とは12~2月にかけて間欠的に激しく降る雨のことです。やがて春(夏)の収穫時期が近づくと、穀物を十分に実らせるために激しく降るのです。この「先の雨」と「後の雨」が降らなければ、種まきも刈り入れもできません。それは冬の季節の終わりと夏の季節の始まりを意味していました。

その激しい雨の季節が過ぎて行き、地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来たのだから、山鳩の声が国中に聞こえるようになったのだから、いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香を放つようになったのだから、さあ立って、出ておいで、というのです。

この「花」は複数形になっています。「花々」ですね。冬が過ぎ春がやって来ると、地には花が咲き乱れます。アネモネ、アドリス、ヒナゲシ、チューリップといった真っ赤な花や、蘭やシクラメン、野生のアイリス、クロッカス、キルナスといった青やピンクの花など、色とりどりです。先日、那須フラワーワールドに行きましたが、そこにも花が咲き乱れていました。ハナビシソウ、ルピナス、ネモフィラ、ヒナゲシ、ハルジオンなどです。那須の山々をバックにした景色は最高でしたね。イスラエルでは三千種類もの植物が生息していますから、それ以上です。それらの花が一気に咲き乱れるわけです。

「刈り入れの季節」とは、欄外の説明にもあるように「歌」と訳される言葉で、第三版では「歌の季節がやって来た」と訳しています。前後の文脈を見ると、そのように訳した方が適当かと思います。山鳩の声が国中に響き渡るのです。皆さんは「山鳩」の声を聴いたことがありますか。ネットで検索して聴いてみたら、「トルットゥルール、トルットゥルール」と同じリズムで鳴いていました。それはまさに歌を歌っているようです。真冬の寒く冷たい雨が降っているような時には聞くことができませんが、冬が過ぎて春が来ると、こうした山鳩やキジ鳩が一斉に歌い始めるのです。

冬の大雨の季節が過ぎ去り、春の収穫の季節がやってきたのだから、「さあ立って、出ておいで」というのです。おそらく、花嫁は家の中に座っていたか、ベッドに横たわっていたのでしょう。なかなかやって来ないフィアンセにやきもきしていたのかもしれません。しかし冬が過ぎて春(夏)がやってきたのだから、これまでの自分の殻を脱ぎ捨て、新しいステージに出て行かなければなりません。そうです、これは実を結ばない季節の終わりと、花婿との新しい季節の始まりに対する招きなのです。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来たのだから、さあ立って、出ておいでと。

私たちの人生にも新たな始まりの季節があります。心機一転、過去を振り払い、新しい恵みのステージに一歩踏み出す時があるのです。でもそのためにはだれでも冬を通らなければなりません。それは激しい雨が降る厳しいシーズンかもしれません。しかし、私たちの人生にもそうした雨季が必要なのです。神様は私たちが実を結ぶために、そうしたシーズンを通されるのです。アブラハムやモーセ、ダビデもそうでした。荒野を通るシーズンがありました。その中で養われ整えられていったのです。私たちも同じです。実を結ばないシーズンがあります。それはそれでいいのです。そのシーズンを通って実を結ぶ季節へと変えられていくのですから。無理に結ぼうとしないでください。見せかけは必要ありません。荒野のカチカチと乾いた地面の中で、ふさわしい時が来るまでじっと待てばいいのです。その中で神様が後の雨を与え、地を潤してくださいます。それが過ぎ去ったら、一気に花が咲き乱れます。どんなにずさんな状態でも構いません。ほんの小さな信頼でもいいですから神様を信じて立ち上がればいいのです。そこからすべてが始まります。うめくときもあります。しかし、その中で自我が砕かれていきます。痛みも経験することがあるでしょう。でもそこから、私たちは希望を見い出すことができます。あなたが神の愛に目覚めるとき季節が変わるのです。この時から新しい季節が始まるのです。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

冬は過ぎ去り、雨も過ぎて行きました。あなたにも新しい季節が到来しています。地には花が咲き乱れ、山鳩の歌が国中に聞こえ、いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香を放っているのですから、私たちは愛する主の御声に応答して、立ち上がって、出て行こうではありませんか。

Ⅱ.岩の裂け目にいる鳩(14)

花嫁が立って、出てく理由が、もう一つあります。14節をご覧ください。「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。私に顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしい。」」

また出ました!「私の鳩よ」。ここで花婿は花嫁を「私の鳩よ」と呼んでいます。鳩は、美しさと清らかさの象徴でした。1章15節にも出てきましたね。「あなたの目は鳩。」このような表現は5章2節、12節、6章9節にも出てきます。「嫌だ!鳩だなんて」という方もいらっしゃるかもしれませんが、これは最高の誉め言葉です。それほどあなたは美しく、清らかであるということですから。それは聖霊のシンボルとしても使われていることからもわかります。

なぜそんなに美しいのでしょうか。なぜなら、彼女は岩の裂け目、崖の隠れ場にいるからです。ですから、岩なる主がかくまってくださるのです。ですからここに、「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる鳩よ。」と呼び掛けられているのです。出エジプト記33章20~23節をお開きください。「また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」 また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」」

これはモーセが主の栄光を私に見せてくださいと祈ったときに、主が仰せられたことです。信仰者であればだれも願うことではないでしょうか。主の御顔を拝したいと。しかし主は「できない」と言われました。人は主の顔を見て、なお生きていることはできないからです。

しかしそんな彼に主は、うしろ姿を見せてくださると言われました。どのようにしてかというと、主が通り過ぎるとき、彼を岩の裂け目に入れてくださることによってです。主が通り過ぎるまで、主の手でおおってくださるので見ることはできませんが、主が手をのけると、うしろ姿を見ることができるというのです。私たちはこの目で主を見ることはできません。神と交わることも、神とともに歩むこともできません。神はあまりにも聖いお方だからです。でもその神を見ることができ、神と交わり、神とともに歩む方法があります。それは、モーセのように岩の裂け目に入れていただくことです。その岩とはだれのことでしょうか。

その岩とはイエス・キリストのことです。Ⅰコリント10章4節には「その岩とはキリストです。」とあります。そうです、この岩とはイエス・キリストのことなのです。あなたが岩なるキリストの裂け目に入れていただくなら、あなたは神を見ることができるのです。神と交わり、神とともに生きることができます。

ここで「私の鳩よ」とありますね。「鳩」は美しさの象徴、清らかさの象徴だと申し上げました。ここでは花嫁がその鳩にたとえられています。どうして花嫁が鳩のように美しいのでしょうか。それは岩の裂け目にいるからです。岩なるイエス・キリストにかくまってもらっているからなのです。花嫁だけを見れば、そんなに美しくないかもしれません。なかなか花婿が迎えに来てくれない、いつになったら来てくれるのかと、モジモジして引きこもっていました。ベッドに横になってみたり、縦になってみたりして落ち着かなかったと思います。お世辞にも美しいとは言えなかったでしょう。でも彼女は岩なるお方の裂け目、崖の隠れ場にいたので、「私の鳩よ」と呼んでもらえたのです。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしいと、言っていただけたのです。

それは私たちも同じです。私たちが美しいのは、私たちが美しいからではありません。私たちがすばらしいのは、私たちがすばらしいからではないのです。私たちが美しいのは、私たちがどこにいるかで決まります。私たちが岩の裂け目にいるなら、崖の隠れ場にいるから美しいのです。すなわち、岩なるイエス・キリストの内にいるなら、あなたは美しく、麗しいのです。そして自信をもってこう言うことができます。「私は黒いけれども美しい」(1:5)と。なぜ?なぜなら、岩なるキリストがかくまってくださるからです。私たちの罪、咎、汚れの一切をきよめてくださるからです。自分自身を見たら、とてもそのようには言えません。穴があったら入りたいくらいです。

使徒パウロも自分の姿に打ちのめされてこう言いました。「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。」(ローマ7:18-21)

彼はここで、自分の内には善なるものは一つもないと言っています。善は住んでいないと告白せざるを得ませんでした。しかし、彼はそんな罪深い自分の姿を見たのではなく、その罪を覆ってくださるイエス・キリストのうちに、いのちの御霊の原理を見出しました。それがいのちの御霊の原理です。

「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」(ローマ8:1-11)

重要なのは、あなたがどこにいるかということです。もしあなたが岩なるキリストのもとに身を避け、神の御霊があなたのうちに住んでおられるなら、この御霊によってあなたの死ぬべきからだも生かされるのです。「私は黒いけれども美しい」と告白することができます。クリスチャンになることのすばらしさがここにあります。クリスチャンになることのすばらしさは、イエス・キリストがあなたの内に住み、あなたがイエス・キリストの内にいるということです。それゆえ、あなたがどんなに汚れていても、どんなにパッとしなくても、「さあ立って、出ておいで」と言われる花婿のことばに応答して、出て行くことができるのです。

Ⅲ.狐を捕らえてください(15-17)

そのためにはどうしたら良いのでしょうか。15~17節をご覧ください。15節をお読みします。「私たちのために、あなたがたは狐を捕らえてください。ぶどう畑を荒らす小狐を。私たちのぶどう畑は花盛りですから。」

これは10節から続く花婿のことばなのか、それとも、花婿のことばを受けての花嫁のことばなのかはっきりしていません。新改訳聖書2017では14節までが花婿のことばになっていますが、第三版では15節までが花婿のことばになっています。前後の文脈と意味を考えると、おそらくこれは10節からの花婿のことばではないかと思います。なぜなら、ここに「狐を捕らえてください」とあるからです。これはどういうことでしょうか。

「狐」はヘブル語で「シュアール」と言います。意味は「手のひら、一握り、少量の」です。つまり、「狐」は小さいものの象徴なのです。「かもしか」は美しさの象徴、「鳩」は美しさと清らかさの象徴でしたが、「狐」は小さいものの象徴です。その性格は、陰険でずる賢いことから、ずる賢いものの代名詞としても使われるようになりました。イエス様もヘロデのことを「あの狐」(ルカ13:32)と呼んでいます。狐のように小さくてずる賢いものが侵入して来て、ぶどう畑を荒らすのです。その狐を捕らえてくださいというのです。

当時、ぶどう畑は石垣に囲まれていました。それは外敵からぶどうの実を守るためです。しかし、狐は小さいのでその隙間から入り込み、中のぶどうをかじることがあったのです。その狐を捕らえてくださいというのです。なぜ?「私たちのぶどう畑は花盛りですから。」

ぶどう畑は、二人だけの語り合いの場であり、触れ合いの場です。これまで離れ離れになっていましたが、今やっとその恋が実る時がやってきました。まさに今が花盛りです。ですから、二人だけの時を妨げるものは取り除いてください、というのです。では、二人の関係を妨げる狐とは何でしょうか。

16節と17節をご覧ください。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたは戻って来て、険しい山々の上のかもしかや若い鹿のようになってください。」どういうことでしょうか。

これは花嫁のことばです。花嫁はここで、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」と言っています。すばらしいですね。私たちが主に「あなたは私のもの、私はあなたのものです」と告白できるのは、それほど親密な関係であるということです。これが夫婦の関係です。使徒パウロは、夫婦になった男女の互いの体はもはや自分だけのものではないと言っています。コリント第一7章4節には、「妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。」とあります。

このように互いが互いの中にいる状態は、小羊の妻である天のエルサレムで実現します。「神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、」(黙示21:3)私たちは神と小羊と、霊において一体になるのです。

しかし、注意しなければならないことがあります。それは、自分の思いが強くなることです。花婿の働きを、自分の思いでコントロールし、制限してしまうことがあります。その後のところを見てください。16節の最後から17節にかけてのことばです。「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたは戻って来て、険しい山々の上のかもしかや若い鹿のようになってください。」

「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」ということから、花婿が羊飼いであることがわかります。この方は羊飼いである王なのです。ですから、ゆりの花の間で羊の群れを飼っているわけですが、その花婿に対して花嫁は、そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでには戻って来てくださいと言っています。日本的に言うなら、日が暮れるまでには帰って来てね、ということでしょうか。その頃までには帰って来て、愛を確かめたいというのです。ある注解者はこれを、「夫がしている仕事について、夫と離れている時でも、それを疑うことがない」と解説していますが、そうでしょうか。私はその逆だと思います。夫の仕事に入りすぎています。ちょっとでも離れると、落ち着かなくなっているのです。日が暮れるまでには帰って来てください。険しい山々の上のかもしかや若い鹿のように跳んで帰ってくるのよ、とせかしているように感じます。これでは仕事になりません。

15節のところで、花婿は花嫁に「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえてください」と言いましたが、その「狐」とは、このことではないかと思うのです。つまり、花婿を自分の思うままにしたいという利己的な思い、独占欲です。花婿と花嫁の麗しい関係を破壊する狐は外側にいるのではなく、自分内側にいるということです。そうした「狐」を捕らえなければなりません。花婿を信頼し自分のすべてをゆだねることこそ花嫁の務めであり、そうすることによって二人の関係はより親密で麗しいものとなるのです。それが本当の意味での、私はあの方のもの、あの方は私のものということなのではないでしょうか。

ヤコブ4章2~3節にこうあります。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」  

私たちは願っても自分のものにならないと、人殺しをするのです。でも本当の問題はどこにあるのでしょうか。それは願いに答えてくれない主にではなく、私たちの側です。私たちの主は、この天地を造られた方、創造主です。主はあなたを造られました。この方は完全な方であり、完全な計画を持っておられます。それなのに私たちは、自分の思い通りにならないと、人殺しをするのです。争ったり、戦ったりします。私たちが良かれと思ってしていることが必ずしも正しいとは限りません。意外と自分の思い込みにすぎないことがあります。大切なのは、私たちがどう思うかではなく、花婿なる主が何と言われるかです。

「あなたがたは狐を捕らえてください。」そうすることで、私たちの花盛りのぶどう畑が守られることになります。主イエスの麗しい関係が保たれます。私たちの狐を捕らえましょう。そして、花婿の招きに心から応答しようではありませんか。花婿はあなたを招いておられます。「さあ立って、出ておいで」と言って。新しい季節がやってきました。どんなことがあっても岩なるキリストが、あなたを守ってくださいます。主の御声に応答して、立ち上がり、出て行きたいと思います。

Ⅱサムエル記13章

 Ⅱサムエル記13章から学びます。

 Ⅰ.アムノンの苦しみ(1-19)

 まず1~7節をご覧ください。「その後のことである。ダビデの子アブサロムに、タマルという名の美しい妹がいた。ダビデの子アムノンは彼女に恋をした。アムノンは、妹タマルのゆえに苦しんで、病気になるほどであった。というのは、彼女が処女であって、アムノンには、彼女に何かをするということはとてもできないと思われたからである。アムノンには、ダビデの兄弟シムアの息子でヨナダブという名の友人がいた。ヨナダブは非常に知恵のある男であった。彼はアムノンに言った。「王子様。なぜ、朝ごとにやつれていかれるのですか、そのわけを話してください。」アムノンは彼に言った。「私は、兄弟アブサロムの妹タマルを愛している。」ヨナダブは彼に言った。「床に伏せて、病気のふりをなさってください。父君が見舞いに来られたら、こう言うのです。『どうか、妹のタマルをよこして、私に食事をとらせるようにしてください。彼女が私の目の前で食事を作って、私はそれを見守り、彼女の手から食べたいのです。』」アムノンは床につき、仮病を使った。王が見舞いに来ると、アムノンは王に言った。「どうか、妹のタマルをよこし、目の前で団子を二つ作らせてください。私は彼女の手から食べたいのです。」ダビデは、タマルの家に人を遣わして言った。「兄さんのアムノンの家に行って、病人食を作ってあげなさい。」」

 「その後」とは、ダビデが預言者ナタンによって罪を指摘されたとき、それを悔い改め、バテ・シェバを正式に妻として迎え入れ、ソロモンを生んだ後ということです。13章26~31節は取り上げませんでしたが、これは11章1節の続きで、ダビデがアンモン人のラバと戦い、この王の町を攻め取った時の様子のことです。彼はその町を攻め取ると、彼らの王の王冠を奪い取り、非常に多くの分捕り物を持ち去りました。そして、その町にいた人々を連れ出して、石ののこぎりや、鉄のつるはし、鉄の斧を使う仕事に着かせ、また、れんがの仕事をさせました。ここまでがダビデの生涯の絶頂期でした。これ以降、ダビデの生涯は坂道を転がり落ちるかのように破滅の一途をたどることになります。12章には、ダビデがバテ・シェバと姦淫をした結果、その生まれた子どもが病気で死にました。次にダビデを襲うのが、家庭内の不和です。近親相姦と兄弟殺しの悲劇です。

 1節には「ダビデの子アブサロムに、タマルという名の美しい妹がいた。ダビデの子アムノンは彼女に恋をしていた。」とあります。3章を振り返ってみましょう。3章2節には、ダビデがヘブロンで王であったときに、イズレエル人アヒノアムから産まれた子がアムノンであることが書かれています。つまりアムノンが、すべてのダビデの息子たちの中で長男でした。次男はカルメル人ナバルの妻アビガイルによって生まれたキルアブです。そして三男が、ゲシェルの王タルマイの娘マアカによって生まれたアブサロム、四男はハギテの子アドニヤ、五男はアビタルの子シェファテヤ、六男がダビデの妻エグラによって生まれたイテレアムです。これらの子は、ダビデがヘブロンにいたときに生まれた子どもたちです。そして、これにエルサレムでバテ・シェバによって生まれた子ソロモンがいました。ここに登場するのは長男のアムノンと、ゲシェルの王タルマイの娘マアカによって生まれた三男のアブサロムです。この異邦人の王の娘マアカは、アブさロムの他に娘タマルを産んでいました。そして、ダビデの長男アムノンが、このタマルに恋をしたのです。

アムノンは、妹タマルのゆえに苦しんで、病気になるほどでした。というのは、彼女が処女であって、アムノンには、彼女に何かをすることはとてもできないと思われたからです。「何かをする」とは、何か手を出したりすることです。そんなことはできないと思いました。というのは、モーセの律法では、男が女と寝ることは、イコールめとることと同じことであったからです。性的な結びつきは、そのまま、霊的、精神的、社会的責任が生じる結婚であると考えられていたのです。しかし、姉妹との結婚は禁止されていました(申命記27:22)。タマルを恋い慕っていたアムノンは、それで病気になるほどでした。恋わずらいです。皆さんも、そういう時があったでしょう。胸がキュンとして苦しいのです。ちょっとだけキュンとする程度ならいいのですが、燃え上がるほどキュンとなると苦しくなります。今週の日曜日は雅歌2章からのメッセージでしたが、2章5節に「私は愛に病んでいるのです。」ありましたね。これはどういう意味ですかと、ある方からメールをいただきましたが、あまりにも愛しているので、体のエネルギーがそれに吸いとられるようで苦しいのです。それほど愛しているということです。ここでは愛ではなく恋ですが、恋の病は苦しいのです。

そのアムノンにダビデの兄弟シムアの息子でヨナダブという従兄弟がいました。彼はアムノンの友人で、非常に知恵のある男でしたが、アムノンが苦しんでいるのを見て、「どうしてそんなに苦しんでいるのですか。そのわけを話してください。」と言いました。アムノンは自分の思いを彼に伝えました。「私は、兄弟アブサロムの妹タマルを愛している。」と。

すると、ヨナダブは何と言いましたか。彼はアムノンに、病気のふりをして床に伏せているようにと言いました。父ダビデ王が見舞いに来たら、妹のタマルに食事を作らせて、自分のところによこしてほしいと。仮病を装ってタマルをおびき寄せればいいと助言したわけです。ヨナダブは非常に知恵のある男でしたが、その知恵を悪のために利用したのです。私たちは、アムノンやヨナダブのように自分の欲望を満たすために知恵を悪用するのではなく、神の栄光のために知恵を用いていかなければなりません。

アムノンは、ヨナダブが言った通りにしました。彼は、自分の欲望を満たすために従兄弟のヨナダブの悪知恵を利用して犯行に及んだのです。しかし、これは本当の愛ではありませんでした。アムノンはタマルを愛していたのではなく、自分を愛していたのです。というのは、愛とは、自分の利益を求めず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜ぶからです(Ⅰコリント13章)。彼はただ、自分の欲望が満たされることしか考えていませんでした。それは、愛ではありません。むしろ、愛には程遠い行為です。

次に、8~14節までをご覧ください。「タマルが兄アムノンの家に行ったところ、彼は床についていた。彼女は生地を取ってそれをこね、彼の目の前で団子を作ってそれをゆでた。彼女は鍋を取り、それを彼の前によそったが、彼は食べることを拒んだ。アムノンが「皆の者をここから出て行かせよ」と言ったので、みなアムノンのところから出て行った。アムノンはタマルに言った。「食事を寝室に持って来ておくれ。私はおまえの手からそれを食べたい。」タマルは、自分が作ったゆでた団子を兄のアムノンの寝室に持って来た。彼女が食べさせようとして、彼に近づくと、彼は彼女を捕まえて言った。「妹よ、おいで。私と寝よう。」彼女は言った。「いけません。兄上。乱暴してはいけません。イスラエルでは、こんなことはしません。こんな愚かなことをしないでください。私は、この汚名をどこに持って行けるでしょうか。あなたも、イスラエルで愚か者のようになるのです。今、王に話してください。きっと、王は私があなたに会うのを拒まないでしょう。」しかし、アムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、力ずくで彼女を辱めて、彼女と寝た。」

事は、アムノンが計画した通りに進みました。タマルが彼の家にやって来ると、生地をこねて団子を作り、それをゆでました。それからそれをよそいましたが、彼は食べることを拒み、部屋にいた者たちを全員外に出しました。そして、タマルの手から直接食べたいと、彼女を寝室に呼び寄せました。彼女が食べさせようとして、彼に近づくと、彼は彼女を捕まえて、「妹よ、おいで。私と寝よう。」と迫りました。しかし、タマルは「いけません。兄上。乱暴してはいけません。イスラエルでは、こんなことはしません。こんな愚かなことはしないでください。」と言って拒みました。彼女はモーセの律法を知っていたのです。さらに彼女は、もしこのようなことをしたら、その汚名をどこにも持っていけなくなること、また彼も、イスラエルでいつまでも愚か者と呼ばれるようになることを伝えて、彼の思いをとどまらせようとしました。しかし、残念ながら、アムノンは彼女の言うことを聞こうとせず、力ずくで彼女を辱め、彼女を犯してしまったのです。

その結果、どうなったでしょうか。15~19節をご覧ください。「アムノンは、激しい憎しみにかられて、彼女を嫌った。その憎しみは、彼が抱いた恋よりも大きかった。アムノンは彼女に言った。「起きて、出て行け。」タマルは言った。「それはなりません。私を追い出すなど、あなたが私にしたあのことより、なおいっそう悪いことですから。」しかし、アムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、召使いの若い者を呼んで言った。「この女をここから外に追い出して、戸を閉めてくれ。」彼女は、あや織りの長服を着ていた。昔、処女である王女たちはそのような身なりをしていたのである。召使いは彼女を外に追い出し、こうして戸を閉めてしまった。タマルは頭に灰をかぶり、身に着けていたあや織りの長服を引き裂き、手を頭に置いて、泣き叫びながら歩いて行った。」

アムノンはタマルと関係を持つと、激しい憎しみにかられ、彼女を嫌うようになりました。その憎しみは、彼が抱いた恋よりも大きかったのです。アムノンはタマルに言いました。「起きて、出ていけ。」

どういうことでしょうか。あれほど恋い慕っていたのに、いざ関係を持つとそれが憎しみに変わるのです。不思議ですね。しかもその憎しみは、彼が抱いていた恋よりも大きいものでした。彼はタマルのことを思うと病気になるほど恋していたのに、それがそれ以上に憎しみに変わったのです。まったく勝手な男です。でも、これが男というものです。これは、愛ではありませんでした。単なる欲望にすぎなかったのです。作家の有島武郎は「愛は惜しみなく奪う」と言いましたが、それは愛でなく恋です。愛とは惜しみなく与えるものだからです。愛だと思って関係を持った瞬間に彼が激しい憎しみにかられたのは、それは本当の愛でなく自分の欲望を満足させようとする恋にすぎなかったからです。ですから、欲望を満足させた彼は、それまでの恋心よりもさらに激しい憎悪を抱くようになったのです。満たされたら、もう用なしです。情欲によってついさっきまで愛していると言っていた男が、その女を打つことも十分ありえるのです。それが愛だと思い違いをすると大変なことになります。

アムノンはタマルに「起きて、出ていけ。」と言いました。しかし、タマルは「それはできません」と答えています。そんなことをすれば、罪の上に罪を上塗りすることになってしまいます。というのは、モーセの律法には、このように処女を犯した場合必ずめとらなければいけない、とあるからです。その男は一生涯彼女の夫とならなければなりませんでした。しかし、アムノンはそんなタマルの声に耳を貸そうとしませず、彼女を追い出してしまいました。彼女は処女の王女が着るあや織りの長を裂き、手を頭に置いて、泣き叫びながら帰って行きました。

 Ⅱ.アブサロムの復讐(20-22)

次に、20~22節をご覧ください。「彼女の兄アブサロムは彼女に言った。「おまえの兄アムノンが、おまえと一緒にいたのか。妹よ、今は黙っていなさい。彼はおまえの兄なのだ。このことで心配しなくてもよい。」タマルは、兄アブサロムの家で、一人わびしく暮らしていた。ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った。アブサロムはアムノンに、このことが良いとも悪いとも何も言わなかった。アブサロムは、アムノンが妹タマルを辱めたことで、彼を憎んでいたからである。」

 妹タマルが犯されたことを知り、アブサロムはタマルに「今は黙っていなさい。」と言いました。なぜこのように言ったのでしょうか。もしアムノンを暗殺する好機を狙っていたのであれば、それは秘密裏に決行されたでしょう。しかし、この後のところを見てわかるように、それは秘密裏に決行されたのではなく、王も知り、兄弟たちも臨席している場で正々堂々と行われています。そのように公然と部下たちを動員して殺害するのであれば、いつでも行うことができたでしょう。それなのに、二年間もその時を待ったのは、このアムノンの悪事に対してダビデ王がどのような対処をするのか様子をうかがっていたからです。つまり、王位継承権第一を占めていたアムノンを粛清することで、自分がその王位に着くことを淡々とねらっていたのです。

 しかしダビデは何の行動もとりませんでした。彼は事の一部始終を聞くと激しく怒りましたが、それ以上のことは何もしませんでした。それは、彼がアムノンを咎めれば家庭が崩壊するのではないかと思ったからです。何よりもダビデ自身バテ・シェバとのことがあったので、性的な罪に対して厳しい態度を取ることができなかったのです。

 ここに、彼の家庭環境の複雑さが見られます。それは元はと言えば、彼が神の御心に反して多くの妻を持ったことに原因がありました。それゆえに、こうした複雑な家庭環境が生まれ、様々な問題が生じたのです。そして彼自身の罪、彼自身の弱さもありました。すべての関係の最小単位は夫婦であり、家族です。その関係が壊れると、すべての関係に影響を及ぼすことになります。神のことばに従って夫婦関係、家族関係を構築していかなければなりません。そうでないと、こうした問題に発展していきます。

 ダビデが正しく問題の解決を図らなかった結果、どのようなことが起こったでしょうか。23~27節までをご覧ください。「満二年たって、アブサロムがエフライムの近くのバアル・ハツォルで羊の毛の刈り取りの祝いをしたとき、アブサロムは王の息子たち全員を招いた。アブサロムは王のもとに行き、こう言った。「ご覧ください。このしもべは羊の毛の刈り取りの祝いをすることにしました。どうか、王も家来たちも、このしもべと一緒においでください。」王はアブサロムに言った。「いや、わが子よ。われわれ全員が行くのは良くない。あなたの重荷になってもいけないから。」アブサロムは、しきりに勧めたが、ダビデは行きたがらず、ただ彼に祝福を与えた。アブサロムは言った。「それなら、どうか、私の兄アムノンを私どもと一緒に行かせてください。」王は彼に言った。「なぜ、彼があなたと一緒に行かなければならないのか。」アブサロムがしきりに勧めたので、王はアムノンと王の息子たち全員を彼と一緒に行かせた。」

満2年がたって、アブサロムはアムノン殺害の計画を実行に移します。ダビデ王がアムノンの犯行を聞き激怒しながらも、決して罰しようとしないのを見て、アブサロムは自ら行動を起こします。自分の手でアムノンを殺すことにしたのです。

彼は、羊の毛の刈り取りの祝いをしたとき、王の息子たち全員を招待することにしました。まず王のもとに行き、この羊の毛の刈り取りの祝いに王と家来たちを招きます。しかし、このことでアブサロムに負担になってはならないと、王は行くことを断りました。そこで、では兄アムノンを代理として送ってほしいとしきりに願うと、ダビデは、アムノンと王の息子たち全員を一緒に行かせました。こうしてアブサロムの兄アムノン殺害の舞台が整いました。

28~33節をご覧ください。「アブサロムは、自分に仕える若い者たちに命じて言った。「よく注意して、アムノンが酔って上機嫌になったとき、私が『アムノンを討て』と言ったら、彼を殺せ。恐れてはならない。この私が命じるのではないか。強くあれ。力ある者となれ。」アブサロムの若い者たちは、アブサロムが命じたとおりにアムノンにした。王の息子たちはみな立ち上がって、それぞれ自分のらばに乗って逃げた。彼らがまだ道の途中にいたとき、ダビデのところに、「アブサロムは王のご子息たちを全員殺しました。残された方は一人もいらっしゃいません」という知らせが届いた。王は立ち上がり、衣を引き裂き、地に伏した。傍らに立っていた家来たちもみな、衣を引き裂いた。ダビデの兄弟シムアの子ヨナダブは、証言をして言った。「王様。彼らが王のご子息である若者たちを全員殺したとお思いになりませんように。アムノンだけが死んだのです。それはアブサロムの命令によるもので、アムノンが妹のタマルを辱めた日から、胸に抱いていたことです。今、王様。王子たち全員が殺された、という知らせを心に留めないでください。アムノンだけが死んだのです。」」

アブサロムは、自分に仕えている若い者たちに、アムノンが酔って上機嫌になったとき、自分が「アムノンを打て」と言ったら、彼を殺すようにと命じました。アブサロムの若い者たちは、彼が命じたとおりにアムノンにしました。かくして、アムノンは殺されてしまいました。

 アムノンが殺されたのは、羊の毛の刈り取りをする祝いのときでした。それは、本来は喜びと感謝の日です。喜びと感謝を表すべき場が、虐殺の現場となってしまったのです。これは、神に対する反逆です。さらに彼は、アムノンに酔いが回ったころ、彼を殺すようにと部下たちに命じました。彼は自分の手を下したのではなく、これに部下たちを巻き込んだのです。

 いつまでも憎しみを心に抱いてはなりません。憎しみはやがてこのような悲惨な結果を招くことになります。憎しみから解放される唯一の道は、さばきを主にゆだねることです。ローマ12章19節に、「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。」とあります。これが信仰者である私たちが取るべき態度です。それは私たちの力でできることではありません。しかし、主はそんな私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。神に敵対していた私たちを赦してくださったイエス・キリストの十字架を見上げるとき、その力が与えられます。十字架の主の恵みを覚えて感謝することが、さばきを主にゆだねる原動力なのです。

 アブサロムの若い者たちが、アブサロムが命じたとおりにアムノンを殺すと、王の息子たちはそれぞれ自分のろばに乗って逃げました。彼らがその道の途中にいたとき、ダビデのところに「アブサロムは王の息子たち全員を殺しました。残された方は一人もいらっしゃいません。」という知らせが届きました。うわさというのは、伝わるのが早いですね。すぐに素早く飛び交います。ダビデは、その知らせを聞くと立ち上がり、衣を引き裂き、地に伏しました。

 そこに、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタブがやって来て、証言しました。その内容とは、アブサロムの家来たちが殺したのはダビデの子どもたち全員ではなく、アムノンだけであること、それはアブサロムの命令によるもので、アムノンが彼の妹のタマルを辱めた日からずっと、胸に抱いていたことであるということでした。

 このヨナダブは、タマルを強姦することについてアムノンに悪知恵を入れた人物です。彼はタマル強姦に関してはアムノンと同じ責任を負うべきです。また、アムノンの殺害に関しても、アブシャロムと同じ罪に問われるべきです。それなのに彼はここで、そうしたことには一切触れず、ただアムノンだけが殺されたということをダビデに得意げに報告しています。このような友人は最悪です。損得勘定で動きます。周りのことなどお構いなしです。常に自分の事しか考えません。自分のことだけを考えて行動するのです。箴言13章20節には「箴知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。」とあります。ヨナダブのような愚かな者の友となると害を受けることになります。注意が必要です。

Ⅲ.アブサロムの逃亡(34-39)

最後に34~39節をご覧ください。「アブサロムは逃げた。見張りの若者が目を上げて見ると、見よ、うしろの山沿いの道から大勢の人々がやって来るところであった。ヨナダブは王に言った。「ご覧ください。王子たちが来られます。このしもべが申し上げたとおりになりました。」彼が語り終えたとき、見よ、王子たちが来て、声をあげて泣いた。王もその家来たちもみな、非常に激しく泣いた。アブサロムは、ゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げた。ダビデは、毎日アムノンの死を嘆き悲しんでいた。アブサロムは、ゲシュルに逃げて行き、三年の間そこにいた。アブサロムのところに向かって出て行きたいという、ダビデ王の願いはなくなった。アムノンが死んだことについて慰めを得たからである。」

他の王の息子たちがらばに乗って、ダビデのところに戻ってきました。そして声をあげて泣きました。王も家来たちもみな、非常に激しく泣きました。ダビデは、毎日アムノンの死を嘆き悲しんでいました。一方、アブシサロムは、ゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げました。このゲシュルの王アミフデの子タルマイですが、アブサロムとタマルは、ダビデとこの異邦人ゲシェルの王タルマイの娘マアカとの間に生まれた子どもですから、タルマイはアブサロムにとって祖父にあたります。アブサロムは、祖父のところに逃げて、そこに三年間いたのです。その後、彼はイスラエルに戻りますが、ダビデと再会するのはさらにその2年後になります。

39節は難解な節です。ダビデがアブサロムのところに向かって出て行きたいという願いがなくなったということが、どういうことなのかがわかりません。アブサロムを慕って会いに行くことをやめたのか、アブサロムを憎んで攻めに出て行くのをやめたのかがわからないからです。それは14章1節の「王の心がアブサロムに向いている」ということばで、さらに混乱します。新改訳2017ではこのように訳していますが、第三版では「王がアブシャロムに敵意を抱いている」と訳しているからです。英語の訳では「心配している」とか「慕っている」という訳です。全く反対の意味を伝えています。ここではダビデはアムノンが死んだことについて慰めを得ていたので、アブサロムに対する敵意がなくなったということでしょう。

注目すべきことは、息子に対するダビデの態度です。タマルが強姦されたときもそうでしたが、今回もアブサロムに対して何の対応もしませんでした。これが、後になって問題を作ることになります。子どもに対してどのように対応するかは、親として頭が痛いところですが、少なくとも毅然(きぜん)とした対応が求められます。それができなかったのは、ダビデ自身もまた同じ過ちを犯していたからです。ですから、子どもたちにどのように対応するかということの前に、自分自身が主の前にどのように歩まなければならないのかを教えられ、聖霊の恵みと力によってそれを実行できるように祈らなければなりません。

雅歌2章1~7節「旗じるしは愛」

 雅歌からの4回目のメッセージとなります。きょうは、2章1節から7節までのところから「旗じるしは愛」というタイトルで、花婿なるキリストのすばらしさをお話したいと思います。

Ⅰ.茨の中のゆりの花のようだ(1-2)

まず、1~2節をご覧ください。1節には、「私はシャロンのばら、谷間のゆり。」とあります。

これは、花嫁が花婿に語っていることばです。1章5節で花嫁は、「私は黒いけれども美しい。」と言いました。なぜなら、花婿がそのように見てくださるからです。どんなに日に焼けていても、どんなに肌黒くても、「女の中でもっと美しいひとよ」(1:8)と言ってくださるのです。

そればかりではありません。1章9節には、「わが愛する者よ。私はあなたをファラオの戦車の間にいる雌馬になぞらえよう。」とありましたね。ファラオの戦車の間にいる馬、それは最高級の馬です。それほど美しいのです。また、15節には「ああ、あなたは美しい。あなたの目は鳩。」とありましたね。あなたの目は鳩です。あなたの目は鳩というのは、鳩のように美しく、きよらかであるということです。花婿は花嫁に対して何度も「美しいひとよ」と言うものですから、花嫁はすっかり気分がよくなってこう言っています。「私はシャロンのバラ、谷間のゆり」。人は自分が愛されていることがわかると自分のイメージが変わります。他のだれが何と言おうとも、自分を愛する方がそのように言ってくださるのです。彼女は「私は黒いけれども・・」と言っていましたが、「私はシャロンのばら、谷間のゆり」と言うまでになりました。

「シャロン」とはヨッパ、今はヤッファという町として知られていますが、テルアビブの南の郊外にある都市です。そこからカイザリヤまでの地中海沿岸の肥沃な平原です。砂漠の多いこの地域にあっては、花が咲き草木が生い茂る特別な場所です。そのシャロンに咲くばらのようだ、と言っているのです。

この「ばら」という語は、下の欄外には「サフラン」とあります。新改訳第三版では「サフラン」と訳しています。このことばは聖書の中には他に1か所だけに出てきます。それはイザヤ書35章1節ですが、そこには「サフラン」と訳されています。「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。」ネットで調べてみたら、淡い紫色のきれいな花で、とてもきれいです。まあ、これが日本のサフランと同じかどうかはわかりませんが、とてもきれいな花であることは確かです。花嫁はここで、私はそのシャロンに咲く美しい花だと言っているのです。

それがかりではありません。「谷間のゆり」とも言っています。「ゆり」は、野原にあふれていた草花でした。イエス様も新約聖書の中でこのゆりについ言及しています。マタイ6章28節です。「なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。」この「野の花」の「花」が「ゆり」です。ですから、第三版では「野のゆりが」と訳していますね。これは野原に普通に咲いていた花でした。彼女は慎ましやかに、自分を野に咲いているありふれたゆりの花であるとしながら、ただのゆりの花ではない、谷間のゆりだと言っているのです。谷間のゆりとは何でしょうか。谷間とは、過酷な環境の中でもひっそりとたたずんだ場所です。彼女は自分がそうした野のゆりの花にすぎないが、そうした過酷な環境の中でもたくましく生きているゆりの花だというのです。つまり、美しさとたくましさを兼ね備えて花であるということです。

まさに花婿であられるイエス様はそのようなお方でした。中世のキリスト教の多くの聖画を見ると、青い目をした色白の、弱々しい姿のイエス様の姿を描いたものが多くありますが、実際はそうじゃなかったと思います。イエス様は大工の息子でしたから、もっとがっちりしていたのではないかと思います。何よりも、神の子としての栄光に満ち溢れていたと思います。見た目には他の人とあまり変わりはないようでも、実際には美しさとたくましさを兼ね備えておられました。まさにシャロンのばら、谷間のゆりです。ここでは花嫁がそのように言われています。なぜならキリストがそのようなお方なので、キリストの花嫁である教会もそのようになっていくからです。

そんな花嫁に対して花婿は何と言っていますか。2節をご覧ください。「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、茨の中のゆりの花のようだ。」これは花婿のことばです。どういうことでしょうか。

「茨」とはとげのある小さな草木のことです。その中にあってとりわけ美しいゆりの花、それが花嫁です。この茨とは他の女性たちのことを指しています。1章5節には「エルサレムの娘たち」が出てきました。彼女たちは茨のような存在と言えるでしょう。そうした娘たちの中にあってその美しさが際立っていたのです。確かに彼女はどこにでもいるような野のゆりにすぎないかもしれませんが、しかし、そんな彼女の美しさと比べたら、他の女性たちは茨にすぎないというのです。それほどに花婿にとって花嫁は特別な存在なのです。

実際、イエス様はあなたをそのように見ておられます。あなたはひときわ美しいと。確かにあなたの周りには才能に溢れた人、輝いた人がいるかもしれない。回りのみんなからちやほやされ、羨ましい限りのような人がいるかもしれない。それと比べたら自分は何の才能もなく、いたって平凡で、これといった取り柄があるわけでもないし、本当に情けないと思っているかもしれませんが、そんなあなたを見て主は、「あなたは美しい」とおっしゃってくださるのです。「あなたと比べたら、他の人は茨のようだ!」と。

イエス様の目であなたは唯一無二の存在なのです。イザヤ43章4節にはこうあります。「わたし目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」このように見てくださる主に感謝したいと思います。そして、私たちの目ではなくイエス様の目で自分はどういう者なのかを、正しく受け止めたいと思うのです。

Ⅱ.あの方の旗じるしは愛でした (3-6)

次に、3節から6節までをご覧ください。3節をお読みします。「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。その木陰に私は心地よく座り、その実は私の口に甘いのです。」

これは、そんな花婿のことばを受けて花嫁が語っていることばです。ここで花嫁は花婿を称賛しています。「私の愛する方が 若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。」

「林の木々」とは「(ぞう)木林(きばやし)」のことです。ここでは若者たちが雑木林にたとえられているのです。つまり、花婿が若者たちの間におられるのは、雑木林の中に植わったりんごの木のようだと。これは2節で花婿が言ったことに応答しているのです。2節で花婿は、「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、茨の中のゆりの花ようだ。」と言いましたが、それに応答して、「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の中のりんごの木のようだ。」と言っているのです。それだけ特別な存在であるということです。

どのように特別なのでしょうか。その後のところで語られています。まず「その木陰に私は心地よく座り」とあります。その木陰で心地よく休むことができます。「寄らば大樹の陰」ということわざがあります。どうせ頼るなら、大きくて力のあるものに頼ったほうが安心できるという意味です。雨宿りをしたり、暑い日ざしを避けようとして木陰に身を寄せるときには、大きな樹木の陰が好都合でです。まさに私たちの花婿は「大樹の陰」です。

皆さんは何を大樹としていますか。お金ですか、仕事ですか、それとも資格といった類のものでしょうか。確かに、そうしたものも役に立ちます。しかし、そうしたものが全く頼りにならないときもあります。逆にあなたを裏切ることさえあるのです。これほど必死で働いてきたのにいったいそれはどういうことだったんだろう、ということがあります。仕事であろうと、資格であろうと、そうしたものが役に立たないときがあるのです。しかし、私たちの花婿は、決してあなたを失望させることはありません。この方は林の木々の中のりんご、雑木林の中にしっかりとそびえ立つりんごの木のように、あなたをすべての災いから守ってくださるからです。

詩篇91篇お開きください。これは主に身を避ける人がいかに幸いであるのかを歌った詩です。「1いと高き方の隠れ場に住む者。その人は全能者の陰に宿る。2 私は主に申し上げよう。「私の避け所、私の砦私が信頼する私の神」と。3 主こそ狩人の罠から破滅をもたらす疫病からあなたを救い出される。4 主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。5 あなたは恐れない。夜襲の恐怖も、昼に飛び来る矢も。6 暗闇に忍び寄る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。7 千人があなたの傍らに、万人があなたの右に倒れても、それはあなたには近づかない。8 あなたはただそれを目にし悪者への報いを見るだけである。9 それはわが避け所主を、いと高き方を、あなたが自分の住まいとしたからである。10 わざわいはあなたに降りかからず、疫病もあなたの天幕に近づかない。11 主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ。12 彼らはその両手にあなたをのせあなたの足が石に打ち当たらないようにする。

13 あなたは獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇を踏みにじる。14 「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げる。15 彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与える。16 わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。」」

すばらしいですね。いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿ります。私たちが苦しいとき主を避け所とするなら、主がいつもともにいて私たちを救ってくださるのです。

日本語で「お陰様で」ということばがありますが、この「お陰様で」という言葉は、辞書で調べてみると、神仏の加護の意味がある“御蔭”(おかげ)が語源とされています。教会に来ておられるブラジルの方にお聞きしたら、ポルトガル語では「グラッサス ア デウス」というそうです。直訳は「神に感謝」となるので、「神様ありがとう!」という意味になります。神に感謝することが「お陰様」でということなのです。なぜなら、神は全能者であられるので、その陰に宿る人を完全に守られるからです。そのおかげです。そういう意味でのりんごの木です。

私が福島で牧会していた時、一人の婦人が突然教会に来られました。それは土曜日の朝のことでした。「すみません、お話を聞いていただけるでしょうか」と、ご自分のことを話されました。アルコール中毒だったご主人が自宅の2階からたたき落ち、首の骨を折り1年半の間寝たきりになっているとりことでした。農家の仕事もできなくなったので農機具を処分しようと農機具店に来ましたが、教会があるのを見て来ました、ということでした。お話を聞くとあまりにも悲惨な状況だったので、主がこの方をあわれんでくださるように祈りました。そして、「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)というみことばを引用し、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったこと、そして三日目によみがえってくださり、私たちの救いの御業を成し遂げてくださったことを話し、「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」(ローマ10:13)とお話すると、その場でイエス様を信じなさいました。全能者の陰に宿ったのです。

数日後にご主人が入院している病院に行きました。ご主人は気管を切開し、呼吸器につながれ、植物人間のような状態でした。「こりゃ無理だ」と内心思いましたが、神様が癒してくださるように祈りました。

イエス様を信じてからこの姉妹は意欲的に仕事を探しました。するとある営業の仕事が与えられました。「先生、仕事が与えられました。感謝します。イエス様のお陰です。」と喜びが電話から伝わってきました。「良かったですね。どんなお仕事ですか」と尋ねると、何かの営業のお仕事でした。「日曜日はお休みになれますか」と聞くと、休んでも月1回くらいかなということでした。それで「もう少し祈りましょう。神様は必ず良い仕事を与えてくださいますから」と言うと、「先生ひどい!」というのです。「せっかく仕事が与えられたのに。これからのことを考えると良い仕事だと思ったのに」と。

それで彼女はどうしたかというと、もともと農家の方でしょ、りんごとかさくらんぼとかを栽培していたのですが、そのりんご畑に行ってりんごの木の下で祈りました。祈ったというよりもボーっとしていたといった方がいいかもしれません。すると、義理の両親がご主人のために掛けていた生命保険のことを思い出しました。病院の医師の話では、回復の見込みが有と診断書に書いてくれたので障害保険が降りなかったのですが、あれからもう1年半、ずっとこのような状態が続いているので、もしかすると無にしてくれるのではないかという思いが沸いてきたのです。「どう思いますか」と言うので、「病院で相談したらいいと思います」と言うと、医師は「あ、そうだね、回復の見込みは無いね」とあっさりと「無」にしてくれました。それでご両親が掛けてくれていた保険が下りて、苦しい生活から解放されたのです。

それからしばらくして、私が大田原に来てからのことですが、ご主人が奇跡的に意識を回復し立ち上がることができるまでになりました。そしてなんと杖をついて教会にも来られるようになったのです。教会の創立30周年の時に、後ろから私の肩をたたく人がいたので誰かなぁと思ったら、そのご主人でした。ご主人は介護を受けて自立生活ができるまでになり、イエス様を信じて救われました。ご主人だけではありません。二人のお子さんも、義理のご両親も家族みんな信じて救われたのです。この方に信頼する者は、だれも失望させられることがありません。主の御名を呼び求める者はみな救われるのです。

いと高き方の隠れ場に住む者。その人は全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「私の避け所 私の砦 私が信頼する私の神」と。あなたは何の陰に宿っていますか。いと高き方の隠れ場、全能者の陰に宿る人は幸いです。

ところで、いと高き方の陰に宿るといっても、りんごの木ではちょっと小さいんじゃないですかと心配なさる方もおられるかもしれませんね。でも大丈夫です。この「りんごの木」はヘブル語では「タプアハ」という語ですが、これはりんごの木というよりは杏子の木、アプリコットの木のことです。それは10mくらいになります。ですから、陰として十分なのです。しかし、これがりんごの木であろうと杏子の木であろうと、これは花婿なるキリストのことですから、主イエスの陰に宿ることが大切です。主に信頼する者は失望させられることはありません。

このりんごの木ですが、もう一つのことは、その実は甘いということです。3節に「その実は私の口に甘いのです」とあります。これは、5節にも「りんごで元気づけてください」とありますが、私の口に甘く、私たちを元気づけてくれる神のみことばのことを表しています。詩篇の19篇10節には、「それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」とあります。主のおしえは、金よりも、多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも、蜜蜂の巣の滴りよりも甘いのです。

また、詩篇119篇103節にはこうあります。「あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」それは甘いのです。それはただ甘いだけではありません。それはあなたを励まし、あなたを元気づけてくれます。

あなたはこのみことばを味わっているでしょうか。全能者の陰に宿り、この方が与えてくださる実、みことばを口にすることで元気づけられます。私たちもキリストの花嫁として、主よ、あなたは林の木々の中のりんごの木のようですと、その木陰に宿り、その実を口にする者でありたいと思います。

そして4節をご覧ください。ここにはこうあります。「あの方は私を酒宴の席に伴ってくださいました。私の上に翻る、あの方の旗じるしは愛でした。」

「あの方」とは花婿のことです。花婿が花嫁を伴ってくださいました。どこに伴われましたか?「酒宴の席に」です。「酒宴の席」とは、宴会とか、祝宴の席のことです。田舎娘の花嫁がこうした宴の席に出ること自体恥ずかしいことです。身を引くような思いでしょう。そんな花嫁を気遣って花婿は彼女をひときわ励まし、安心を与え、配慮しているのです。

その花嫁の上に翻っていた旗じるしは何でしたか。「愛」です。愛でした。「旗じるし」とは、兵士がどの部隊に属しているのかを示すものです。それは、誰が軍を率いているのかが一目でわかるような目印でもありました。強い武将なら「俺がここにいるぞ!」と相手を威圧するメリットもありました。その旗じるしが愛だったのです。それはイエス・キリストの十字架によって表された神の愛のことです。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

クリスチャンはみな、この旗じるしの下に呼び集められた者です。イエス・キリストの愛に属するものとされたのです。教会のシンボルが十字架であるゆえんはここにあります。どの教会にも十字架が掲げられているのは、ここに神の愛が示されたからです。これが花嫁である教会の上に翻っていた旗じるしでした。

もし、この旗じるしが「愛」ではなく「聖」だったらどうでしょうか。あるいは、「義」だったらどうでしょう。誰も近づくことができなかったでしょう。私たちはあまりにも汚れているので、どんなに自分で聖くなろうとしてもなれないからです。しかし、神はそんな私たちを愛してくださいました。確かに私たちは汚れた者、罪深い者ですが、そんな私たちが滅びることがないように、神はそのひとり子をこの世に遣わしてくださいました。そして、私たちのすべての罪を背負って十字架で死んでくださいました。それはこの方を信じる者はひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。それが十字架です。神は世界中どこででも、この十字架の旗じるしを掲げて、私たちが帰るのを待っておられるのです。あなたをとっても愛しておられる造り主が。

5節をご覧ください。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで元気づけてください。私は愛に病んでいるからです。」「干しぶどうの菓子」は「干しぶどう」とは異なります。これはケーキ状に圧縮したぶどうの菓子で、ダビデが契約の箱を運んだ者たちに与えたものの一つです(Ⅱサムエル記6:19)。これは今日でも旅人を元気づけるために与えられると言われています。それは腐らず保存が効くので、最高の贈り物とされていました。それはイエス・キリストご自身の象徴でもありました。ヨハネ6章27節には「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。」とあります。イエス様こそいつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物です。私たちには、このような食べ物が与えられています。その食べ物によっていつも力づけてもらうことができるのです。

また、「りんごで元気づけてください」とあります。このりんごもイエス様のことを象徴しています。3節にも「その実は私の口に甘いのです」とありましたが、それは花嫁を元気づけてくれるものでした。詩篇145篇14節には、「主は倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされます。」とあります。主は倒れている者をみな支え、かがんでいる者をみな起こしてくださいます。

マタイ11章28節には、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とあります。有名なことばですね。おそらく教会の看板に書かれてある聖句で一番多いのがこのみことばではないかと思います。もしあなたが疲れているなら、あなたが重荷を負っているなら、イエス様のもとに来てください。そうすれば、主があなたを休ませてくださいます。りんごで元気づけてくださるのです。

6節をご覧ください。花嫁は続いてこう言っています。「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあって、右の腕が私を抱いてくださるとよいのに。」

直訳では「左」「右」です。それが腕なのか手なのかは、はっきりわかりません。新改訳第三版では、「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」と訳しています。創造してみてください。左の腕が頭の下でしっかりと支え、右の腕で優しく抱きしめています。母親が赤ちゃんを抱っこしているようにです。それは確かな保護と細やかな愛情を表しています。

毎日が不安ですという方がおられますか。今月の支払いもギリギリで、この先やっていけるか心配ですと。でも大丈夫です。あなたはこの方の確かな保護を受けているのですから。健康面で不安ですという方がおられますか。安心してください。主があなたを守ってくださいます。それはただ困ったときの神頼みではなく、いつでも、どんな時でも、あなたのすぐそばにいてあなたを助けてくださいます。この方はあなたの花婿です。力強い御腕と細やかな愛の御手をもって守ってくださるのです。

私の好きなみことばの一つに、申命記33章27節のみことばがあります。「いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある。神はあなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じられた。」

すばらしいですね。私たちの下にはこの永遠の腕があります。神が常にあなたを支える腕となってくださいます。敵に立ち向かう力を与えてくださいます。自分で戦うのではありません。死に勝利され復活されたキリストが戦ってくださるのです。私たちは、神に信頼して従っていくだけでいいのです。

Ⅲ.愛が目ざめるとき(7)

最後に7節を見て終わりたいと思います。「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

これは花婿のことばなのか、花嫁のことばなのかはっきりわかりませんが、文脈的には花嫁のことばと捉えて良いと思います。これと同じことばが3章5節と8章4節にも繰り返して出てきます。この繰り返しによって一つの場面を締めくくっているのです。ここで花嫁はエルサレムの娘たちに、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いしています。揺り動かしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思う時までは。私がそうしたいと思う時までは。そっとしてあげてくださいと。

「かもしか」や「野の雌鹿」は、非常に敏感な動物です。ちょっとした物音でも飛び跳ねて逃げて行きます。そのかもしかや野の雌鹿にかけて、揺り起こしたり、かき立てたりしないでほしいと懇願しているのです。どうしてでしょうか。愛とはそういうものだからです。愛とはだれか他の人にせかされて動くようなものではありません。そうしたいという思いが内側から起こされてはじめて動くものです。第三版では「愛が目ざめたいと思うときまでは」となっています。それは恣意的に起こすことがあってはいけないということです。愛は、自分から、あるいは人から強制されてつくり出せるものではないのです。私たちは「この人を絶対に愛して行きます。」とか、「永遠に愛します」と言っても、実行する力がありません。そのためには目覚めが必要なのです。この目覚めがないのに、どんなに自分で愛そうと思っても限界があります。といっても、その目覚めさえ花嫁自身から出てくるものではありません。聖霊なる神のご介入と促しなしにはありません。聖霊が臨み、聖霊が触れてくださり、聖霊が助けてくださって、はじめて本物の愛となるのです。それゆえに「愛の目ざめ」は尊いのです。しかもその愛が「目ざめる」ときは「強さ」を表します。8章6節には「愛は死のように強く」とあります。また、8章7節には「その愛は大水も消すことができません」とあります。。

花婿なる主イエスへの愛も同じです。牧師にどれだけ強く勧められても、兄弟姉妹にどれだけ励まされても、自分の中にそうしたいという思いが与えられなければ燃え上がることはありません。一時的に心が高まることがあるかもしれません。しかし、すぐにしぼんでしまうでしょう。花嫁の心はかもしかや野の鹿のように繊細なので、内側から自然に愛が湧いてくるまで待たなければなりません。その中で聖霊ご自身が触れてくださり、慰めと励ましを与えてくださいます。愛がそうしたいと思うとき、愛が目覚めるときがやってきます。その愛は死のように強く、大水も消すことができないほどの力となって表れるのです。

パウロは、エペソの教会の人たちのためこう祈りました。「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」(エペソ3:14~21)

ですから、私たちも祈りましょう。私たちの内なる人に働く御霊が、あなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、私たちの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いている私たちが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、私たちが満たされますようにと。

Ⅱサムエル記12章

 

 Ⅱサムエル記12章1節から25節までを学びます。

 Ⅰ.預言者ナタン(1-12)

 まず1~6節をご覧ください。「主はナタンをダビデのところに遣わされた。ナタンはダビデのところに来て言った。「ある町に二人の人がいました。一人は富んでいる人、もう一人は貧しい人でした。富んでいる人には、とても多くの羊と牛の群れがいましたが、貧しい人は、自分で買ってきて育てた一匹の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちと一緒に暮らし、彼と同じ食べ物を食べ、同じ杯から飲み、彼の懐で休み、まるで彼の娘のようでした。一人の旅人が、富んでいる人のところにやって来ました。彼は、自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を奪い取り、自分のところに来た人のために調理しました。」ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死に値する。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」」

 ウリヤが死に、喪が明けると、ダビデは人を遣わして、バデ・シェバを自分の家に迎え入れました。彼女は彼の妻となり、彼のために息子を産みました。めでたし、めでたし、です。ダビデがした行為は、人々の目から消え去ろうとしていました。しかし、彼が行ったことは主のみこころを損ないました。

そこで主はナタンをダビデのところに遣わしました。ナタンにつては7章にも出てきましたが、彼は王宮付きの預言者でした。王宮付きの預言者とは、王の個人的な助言者でもありました。7章では、ダビデが杉材の家に住んでいるのに神の箱が天幕に宿っている現実を憂いたダビデが、そのことを彼に相談しました。するとナタンは、「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」(7:3)と即答しましたが、それは主のみこころではありませんでした。ナタンは預言者であったにもかかわらず主に伺うことをせず、個人的な判断をしてしまったのです。

そのナタンがダビデのところにやって来て、一つのたとえ話をします。それは富んでいる人と貧しい人の話でした。富んでいる人には多くの羊と牛の群れがいましたが、貧しい人には、一匹の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。そこへ一人の旅人がやって来ます。そこで富んでいる人はどうしたかというと、この旅人をもてなすために自分の羊や牛の群れから取って料理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を奪い取り、自分のところに来た人のために料理しました。

するとダビデはその男に怒りを燃やし、そんなことをした男は死に値すると死刑を宣告し、その貧しい男に雌の子羊を四倍にして償うようにと宣告しました。ダビデは、悪に対する義憤を抱いていましたが、それが自分のことであるということには気づきませんでした。これが私たち人間の姿です。私たち人間は、罪の中にいるとき罪に対して非常にきびしい態度をとるものの、それが自分の姿であることには全く気付かないのです。ダビデは他人の罪に対しては非常に厳しい態度を取りつつも、それを自分に適用することができませんでした。

私たちも同じです。他人の罪に対しては厳しい態度をとっても、自分に適用することはできません。自分だけはそのさばきを免れることができると思っているのです。私たちは、罪の認識が深くなればなるほど、神の恵みの深さも理解できるようになるのです。

するとナタンはこのように言いました。7~12節です。「ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう言われます。『わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とした。また、わたしはサウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主君の家を与え、あなたの主君の妻たちをあなたの懐に渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、あなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。どうして、あなたは主のことばを蔑み、わたしの目に悪であることを行ったのか。あなたはヒッタイト人ウリヤを剣で殺し、彼の妻を奪って自分の妻にした。あなたが彼をアンモン人の剣で殺したのだ。今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑み、ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ。』主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で奪い取り、あなたの隣人に与える。彼は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れてそれをしたが、わたしはイスラエル全体の前で、白日のもとで、このことを行う。』」

ダビデが憤って死刑を宣告するのを聞いたナタンは、そのたとえ話を適用して、「あなたがその男です。」と言いました。そして彼は次の三つのことを伝えます。

まず、主がいかにダビデに良くしてくださったかです。主はダビデを恵んでくださり、彼に油を注いで王としてくださいました。一介の羊飼いが王になるなど考えられないことです。しかし、主はそのようにしてくださいました。そればかりか、サウルからいのちを狙われていたときも、彼の手から救い出してくださいました。また、主君の妻までも与えられました。これは本当に感謝なことです。彼もそのことを思い出しては言葉にならない感謝をささげていたはずです。それなのに彼はむさぼったのです。「それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。」(8)とナタンは言っています。私たちがむさぼることのないようにする方法は、主の恵みを知ることです。主がいかに自分たちの必要を満たしてくださるお方なのか、どれほどの祝福を与えてくださっているのかを知ることです。そしてそれを忘れないことです。

次にナタンはダビデに罪の結果を告げています。ダビデがウリヤをアンモン人の剣で殺したので、以後、ダビデの家から剣が離れることはない(10)と。これは、このあと13章以降で実現していくことです。

そればかりではありません。ダビデの家にわざわいが引き起こされます。ダビデの妻たちが奪い取られ、白昼公然と置かされることになります(11)。これも16章22節で成就することになります。

ダビデは一時的な欲望を満足させるために罪を犯しましたが、その結果、悲劇をもたらすことになってしまいました。人は種をまけば、その刈り取りもするようになるのです。

Ⅱ.ダビデの悔い改め(13-23)

次に13~14節をご覧ください。「ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる息子は必ず死ぬ。」」

ナタンのことばを聞いたダビデは、すぐに自らの罪を認め告白しました。すると主も、彼の罪を取り去ってくださいました。しかし、彼はこのことで、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、バテ・シェバによって生まれてくる子供は死ぬと宣告されました。

ここには、二つの大事なことが教えられています。一つは、神は私たちの罪を赦すのに早い方であるということです。ダビデは、ナタンから罪を指摘されると、すぐに罪を認め悔い改めました。ここがダビデのすばらしい点です。彼はここでナタンを殺すことも出来ましたがそのようにはせず、すぐに悔い改めました。すると、主もまたすぐに彼を赦されました。13節に「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。
」とあります。Ⅰヨハネ章9節に、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とある通りです。

ダビデは罪が赦されたことの喜びを、詩篇32篇で次のように言っています。「幸いなことよ その背きを赦され罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。私が黙っていたとき私の骨は疲れきり 私は一日中うめきました。昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり 骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ 私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ」

彼は、隠していた罪を主に言い表わすことにより、罪の赦しと解放を体験することができたのです。

しかし、もう一つ大切なことがあります。それは、罪の告白をすればその罪は赦されますが、その結果を刈り取ることもなる、ということです。ここには、ダビデに生まれる息子は必ず死ぬ、とあります。ダビデが罪を犯したことで、彼の家から剣が離れないこと、彼の妻が白昼公然と置かされるようになることについては見ましたが、ここではバデ・シェバによって与えられる息子が死ぬとあります。こんなに悲しいことがあるでしょうか。罪の結果、このような悲惨な結果も刈り取るようになるということを忘れてはなりません。

しかし、ここでダビデがすばらしかった点は、このような罪の中にあっても神の恵みを忘れなかったことです。彼は、神の恵みによって神に立ち返ることができると信じました。私たちはクリスチャンになるともうどんな罪も犯してはならないと思い、それを隠したくなる傾向がありますが、クリスチャンになっても完全になるわけではありません。大切なのはその罪を認め、悔い改めることです。そうすれば、主は赦してくださいます。ヒソプによってではなく、イエスの血潮によってきよめてくださいます。大切なのは、主は赦してくださる方であると信じ、その恵みにお頼りすることです。

15節から23節までをご覧ください。「ナタンは自分の家へ帰って行った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。ダビデはその子のために神に願い求めた。ダビデは断食をして引きこもり、一晩中、地に伏していた。彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らと一緒に食事をとろうともしなかった。七日目にその子は死んだ。ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。彼らは、「聞きなさい。王はあの子が生きているとき、われわれが話しても、言うことを聞いてくださらなかった。どうして、あの子どもが死んだことを王に言えるだろうか。王は何か悪いことをされるかもしれない」と言ったのである。ダビデは、家来たちが小声で話し合っているのを見て、子が死んだことを悟った。ダビデは家来たちに言った。「あの子は死んだのか。」彼らは言った。「亡くなられました。」ダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて主の家に入り、礼拝をした。そして自分の家に帰り、食事の用意をさせて食事をとった。家来たちは彼に言った。「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子様が生きておられるときは断食をして泣かれたのに、お子様が亡くなられると、起き上がり食事をされるとは。」ダビデは言った。「あの子がまだ生きているときに私が断食をして泣いたのは、もしかすると主が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか。私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない。」」

主が宣告したように、ウリヤの妻バテ・シェバによって生まれた子は、主に打たれたので病気になりました。ダビデはこの病気が主によるものであることを知っていましたが、それでも、もしかすると主があわれんでくださり、生きるかもしれないと、その子の癒しを求めて、ひたすら主に祈りました。自分の罪のゆえにその子が死のうとしているのを知って、ダビデは相当苦悩したことでしょう。彼は断食し、徹夜で祈り、地にひれ伏して主に願い続けました。

しかし、7日目にその子は死にました。家来たちは、ダビデの悲しみがその死を告げ知らされることによって増し加わると心配していました。けれどもダビデは、正反対の反応を取ります。子どもが死んだことを悟ると、彼は起きて身を洗い、主を礼拝して、食事を取ったのです。息子が生きているときには断食し、死ぬと食事です。いったいどういうことでしょうか。驚いた家来たちがその理由を尋ねると、ダビデはこう言いました。「あの子がまだ生きているときに私が断食をして泣いたのは、もしかすると主が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか。私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない。」生きているときは、もしかすると主があわれんでくださり、あの子が生きるかもしれないと思ったが、子どもが死んだ以上、その事実を受け入れなければならないというのです。あの子をもう一度呼び戻すことはできません。自分があの子のところに行くことはできても、あの子が自分のところに戻ってくることはできません。この事実を受け止めなければならないのです。彼は信仰者として、主がなされたことをそのまま受け入れようとしました。

自分の祈りが聞かれないとき、その祈りに反してこのようなことが起こるとき、私たちはなかなかその事実を受け取ることができないときがあります。そして、「主よ、どうしてですか」と嘆きです。しかし、主がなさることは完全です。たとえ、自分が祈ったとおりにならなくても、主がなさることはいつも最善であって、それ以下ではありません。ですから、たとえ自分が祈った通りにならなくても、主の答えをそのまま受け止めることが大切です。私は、昨日、改めて「祈りのノート」を作りました。A5のノートを三つに区切り、祈った日と、祈りの課題、答えられた日を書き込むことができるようになっています。主は祈りを聞いておられます。私たちの祈りの答えが何なのかを、ノートを取ることによってはっきりとわかります。もしそれが、私たちが祈ったことと違ったとしても必ずしも祈りが答えられなかったというのではなく、別の形で答えられたということかもしれないし、もしかすると、まだ聞かれていないということかもしれません。時が来れば明確な答えがわかるでしょう。いずれにせよ、そのことによって主が何を語ろうとしていのかを、耳を澄ませて聞かなければなりません。それが、次に進ませる力となるからです。

Ⅲ.ソロモンの誕生(24-25)

最後に24~25節をご覧ください。「ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところに入り、彼女と寝た。彼女は男の子を産み、彼はその名をソロモンと名づけた。主は彼を愛されたので、預言者ナタンを遣わし、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。

ここでソロモンが生まれます。産まれた子どもが死んだことは、ダビデだけでなくバテ・シェバにとってもショックなことでした。それでダビデは彼女を慰め、彼女のところに入り、彼女と寝ました。ここで初めてバテ・シェバのことが「妻」と呼ばれていることに着目してください。ここで彼女は、ダビデの正式な妻となりました。こうした正式な夫婦関係の中でソロモンが生まれたのです。「ソロモン」という名前は、「平和な」とか「平和を好む」という意味があります。この名前は、彼と神との間に平和が与えられたことを示しています。そして、ソロモンの治世が平和なものとなることを表しています。主はその子を愛されたので、預言者ナタンを遣わし、主のために、その子は「エディデヤ」と名づけさせました。意味は「主に愛される者」です。

ソロモンによってもたらされる平和な治世は、イエス・キリストによってもたらされる「平和」の予表でした。イエス・キリストこそ神との平和をもたらしてくださいました。イエス様はご自身の血によってそれを成し遂げてくださいました。キリストによる全世界の平和がやがてこの地上に実現します。イスラエルとパレスチナをはじめ、いま世界中で戦争が繰り広げられています。20世紀は二つの大きな世界戦争がありましたが、それは20世紀にはじまったことではありません。この人類の歴史は、まさに戦争の歴史です。有史以来この地上に戦争がなかった時代はありませんでした。今もアメリカと中国の関係が微妙です。一刻即発の様相を呈しています。

いったいどこに平和があるのでしょうか。イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちに真の平和をもたらすために来られました。そして、それを十字架によって成し遂げてくださいました。それゆえ、この方を信じる者は神との平和が与えられ、この地上で平和をつくることができるのです。「平和をつくる者は幸いです。天の御国はその人たちのもみのだからです。」(マタイ5:9)イエス・キリストを通して神との平和が与えられていることを感謝しましょう。