エレミヤ4章19~31節「エレミヤの苦悩」

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きょうは、エレミヤ書の4章後半部分から、神のことばを取り次ぎたいと思います。タイトルは「エレミヤの苦悩」です。19節に「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。」とあります。はらわたが煮えくり返るということばはありますが、はらわたが悶えるとは、聞いたことがありません。エレミヤは、それほど苦悶したわけです。なぜなら、ユダに対する神のさばきが心臓にまで達していたからです。それは彼らが悔い改めなかったからです。4章18節にあるように、彼らの生き方と彼らの行いが、彼らの身に滅びを招いたのです。そのことをユダの民に告げなければならなかったエレミヤの心境は、いかばかりであったかと思います。

 

きょうは、このエレミヤの苦悩について三つのポイントでお話したいと思います。第一に、エレミヤの苦悩は、はらわたが引き裂かれるような激しいものであったということです。第二のことは、その神のさばきの結果、そこにあったのはただの絶望だけでした。第三のことは、だから神に立ち返れ、ということです。この神のさばきから救うことができるのは、主イエス・キリストだけです。

Ⅰ.私のはらわた、私のはらわたよ(19-22)

まず、19節から22節までをご覧ください。「19 私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。私のたましいが、角笛の音と戦いの雄叫びを聞いたからだ。20 破滅に次ぐ破滅が知らされる。まことに、地のすべてが荒らされる。突然、私の天幕が、一瞬のうちに私の幕屋が荒らされる。21 いつまで私は旗を見て、角笛の音を聞かなければならないのか。22「実に、わたしの民は鈍く、わたしを知らない。愚かな子らで悟ることがない。悪事を働くことには賢く、善を行うことを知らない。」

ユダの不従順に対する神のさばきは、バビロンという国を用いて彼らをさばくというものでした。それを示されたエレミヤは、こう叫びました。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」

ドキッとしますね。はらわたに向かって叫ぶのですから。「はらわた」とは、「腹のわた(曲)」のことで、わたは、綿あめの綿ではなく、曲がりくねって入り込んだ所を言います。百科事典を見ると、それが転じて大腸と小腸を総称し、さらに転じて内臓の総称としても用いられるようになったとありますた、と百科事典にあります(小学館 日本大百科全書)。それは、人間の感情の中心があるところという意味です。日本語にも「はらわたがちぎれる」とか、「はらわたが煮えくり返る」ということばがありますが、それは、耐えがたいほどの悲しみを覚えるとか、言いようがないほど腹が立つという意味で、耐えがたい苦しみ、耐えがたい悲しみ、耐えがたい怒りを表しているわけです。ここには「悶える」とありますので、耐えがたいほど苦悩したということです。なぜエレミヤはそれほど悶えたのでしょうか?19節後半にあります。ユダに対する角笛の音と戦いの雄叫びを聞いたからです。どういうことでしょうか?それはバビロン軍によってエルサレムに破滅がもたらされるということです。エレミヤはそれを聞いたとき、はらわたが引き裂かれるような思いになったのです。

エレミヤの愛国心、そして祖国の滅亡を告げられた悲しみは、いかばかりだったかと思います。ロシアがウクライナに侵攻したことで多くのウクライナ人が祖国を追われました。日本にも数名の避難民が逃れてきましたが、テレビの画面から伝わってくるのは、慣れ親しんだウクライナの土地から出なければならない悲しみでした。これはウクライナだけのことではありません。いつ、いかなる時にこのような事が起こるかわからないのです。もし2011年3月11日に東日本大震災が発生するということがわかっていたら、私たちも必死になって警告を発したのではないでしょうか。でもだれ一人耳を傾けてくれないのです。それがこの時エレミヤが体験したことでした。彼は悔い改めなければユダの国は滅びると聞いたとき、はらわたが悶え、黙っていられなかったのです。

使徒パウロも同じことを経験しました。彼は同胞のユダヤ人がイエス・キリストを拒否し、イエス・キリストの福音を信じようとしないのを見て、このように言いました。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」(ローマ9:2-3)

パウロは、同胞のユダヤ人がイエス・キリストを信じないで、神に敵対しているのを見て、大きな悲しみがあると言ったのです。それは、ここでエレミヤが「私は悶える」と言っていることと同じです。はらわたが引き裂かれるほど悲しかったのです。痛みがありました。そしてそのためには、自分自身がキリストかせ引き離されて、神にのろわれた者となってもよいとさえ思っていたのです。それは、神は一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられることを知っていたからです。

あなたはどうでしょうか。羊飼いのいない羊のように弱り果てている隣人を見て、どのような思いを抱いているでしょうか。エレミヤは、「私のはらわた、私のはらわたよ。私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」と叫びました。イエス様も、そのような群衆を見て、羊飼いのいない羊のような彼らを、深くあわれまれました。はらわたが引き裂かれるほどの悲しみを持っておられたのです。

それは、私たちも同じです。神様を信じないで自分勝手に生きている人を、聖書では罪人と言っていますが、罪ある人は永遠の滅びを招くと本気で知ったなら、黙ってなどいられないはずです。エレミヤと同じように「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える」と、叫ばずにはいられないはずなのです。

スティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」の最後のシーンで、シンドラーが自分の指輪などの貴重品を見ながらこう叫びます。「ああ、これでもう一人の命を救うことができたのに・・・。」シンドラーは自分の身分を利用してナチスから多くのユダヤ人を救ったにもかかわらず、さらに多くの人を救えなかったことを後悔して涙を流したのです。

エレミヤも、ユダが神に背き続けた結果彼らにもたらされる神のさばき、具体的にはバビロンに滅ぼされるということですが、その宣告を示された時、もう黙ってなどいられませんでした。彼のはらわたは激しく引き裂かれました。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える」と言って、嘆いたのです。これこそ、神のさばきの宣告を示された者の自然な応答ではないでしょうか。

エレミヤは、このような悲しい啓示をいつまで受けなければならないのかと神に問いかけます。21節には、「いつまで私は旗を見て、角笛の音を聞かなければならないのか。」とあります。結果的に彼は40年間も語り続けることになるわけですが、この時点では直接的な答えはありません。しかし、別の形で答えが返ってきました。22節です。「実に、わたしの民は鈍く、わたしを知らない。愚かな子らで悟ることがない。悪事を働くことには賢く、善を行うことを知らない。」

主は、この愚かな者たちを「わたしの民」と呼ばれています。このようななじるお言葉というか、責めるお言葉の中にも、神の彼らに対する愛を、愛するがゆえに引き裂かれているお心を読むことができます。この中には、父なる神の涙が見え隠れしているのです。新約聖書には、イエス様もまた、ユダヤ人たちの愚かさを嘆いて、このように語っておられます。「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。実際、あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う時が来ます。彼らがそういうことを行うのは、父もわたしも知らないからです。」(ヨハネ16:2-3)

私たちの回りには、父なる神も、主イエスも知らないために、愚かな人生を歩んでいる人が多くいます。そのため、悪事を働くことには賢く、善を行うことを知らないのです。そして、その身にさばきを招いているのです。その人たちの救いのために、祈らなければなりません。

Ⅱ.私が見ると(23-28)

次に、23節から28節までをご覧ください。「23 私が地を見ると、見よ、茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった。24 私が山々を見ると、見よ、それは揺れ動き、すべての丘は震えていた。25 私が見ると、見よ、人の姿はなく、空の鳥もみな飛び去っていた。26 私が見ると、見よ、豊かな地は荒野となり、町々は主の前で、その燃える怒りによって打ち壊されていた。27 まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。28 このため地は喪に服し、上の天は暗くなる。わたしが語り、企てたからだ。わたしは悔いず、やめることもしない。」」

バビロン軍の侵略によって、ユダに激しいさばきが下されます。ここには、その惨状が語られています。ここには、「私が見ると」ということばが何回も繰り返されています。23節には「私が地を見ると」とあります。また「天を見ると」とあります。24節にも「私が山々を見ると」、25節にも「私が見ると」、26節にも「私が見ると」とあります。何回も「私が見ると」と繰り返して出てくるのです。なぜでしょうか?これを語っているのはエレミヤです。エレミヤはバビロンの侵略によってユダがどうなったのかを見て、それを具体的に伝えようとしたのです。

エレミヤが見たのは、まず地と天でした。彼が地を見ると、そこは茫漠として何もありませんでした。天を見ると、そこに光はありませんでした。山々を見ると、それは揺れ動き、すべての丘が震えていました。つまり、神のさばきが下った時の状態が、天地が創造される以前の混沌とした状態にたとえられているのです。創世記1章2節には、「地は茫漠として何もなく、闇が大水の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」とあります。これと同じ状態です。茫漠としていました。「茫漠」とは、混沌としている状態のことを言います。何もないのではありません。ありましたが混沌としていたのです。ですから、新改訳聖書第2版では「地は形がなく、何もなかった。」と訳しましたが、新改訳聖書第3版からは「茫漠」と訳すようにしました。新改訳2017でもそうです。「地は茫漠として何もなく」と訳してあります。この「茫漠」ということばはあまり使わないので、新改訳2017の翻訳を担当した先生に、「もう少しわかりやすいことばを使っていただけないでしょうか。」とお願いしたら、「そうですね、検討します」というご返事でした。「でも、これは何もなかったということではないので」という説明でした。それで2017が出版された時にどうなったか楽しみに見たら、やはり「茫漠」となっていたのでがっかりしました。

ちなみに、尾山令仁先生が訳されたびっくりするほどよくわかる創造主訳聖書は、ここを次のように訳しています。「地球とは言っても、まだ形が無く、混沌としており、真暗闇で、液状であり、創造主の聖霊は、あたかも雌鳥がその翼を広げてひなをはぐくんでいるかのように、その上を覆っていた。」(創世記1:2)すばらしいですね。原文の意味はこういう意味です。地は形がなく、混沌として、真暗闇で、液状であり。その創造主訳聖書はエレミヤ4章23節をどのように訳しているかというと、こう訳しています。「私が地上を見ると、もうそこには何も無く、天を見ても、そこには光しかなかった。」何も無かったとは、何の形もなかったということではなく、地の上は踏みにじられてもう何もないような状態であったということです。これも正しいと思います。そういう意味です。いずれにせよ、ここで言いたかったことは、地と天は、もう跡形もないくらい破壊されたということです。

次にエレミヤは、カメラがズームインしたかのように、ひとりの人間もいなくなり、空の鳥も飛び去った状態を描いています。25節です。さらにエレミヤは、あの乳と蜜が流れる豊かな地は荒野となり、町々は、打ち壊されているのを見ました。つまり、そこに見たのは絶望であったということです。悔い改めない者にもたらされる結末は、恐れと絶望なのです。それは主の燃える怒りによってもたらされたものです。28節には「わたしが語り、企てたからだ。わたしは悔いず、やめることもしない」とあります。この「語り」、「企て」、「悔いず」、「やめることはしない」という四つの動詞は、それが確実に起こる事を示しています。

しかし、このところをよく見ると、そのようなさばきの中に、救いの希望も語られていることがわかります。27節をご覧ください。「まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。」どういうことでしょうか?これは、全地は荒れ果てるが、滅ぼし尽くされることはないということです。つまり、ユダの民がすべて滅ぼし尽くされるわけではないということです。残された者がいるのです。これを英語で「レムナント」と言います。意味は、「イスラエルの残れる者たち」です。これは、イスラエル民族全体の中にあって真の信仰を持っていた少数の人たちのことです。「真のイスラエル」、「霊的イスラエル」とも呼ばれます。今日のレムナントはメシヤニック・ジューと呼ばれている人たちです。イスラエルのすべてが滅ぼし尽くされるわけではありません。主は、アブラハムと交わした約束のゆえに、ご自身の民を完全に滅ぼすことはなさらないのです。イスラエルに対する神の選びと召命は、決して変わることはありません。ここに希望があります。神の約束は絶対に変わらないということです。

このイスラエルの民全体と「残れる者」の関係について、メシアニック・ジューを代表するラビの一人、アーノルド・フルクテンバウム博士は次のように述べています。

「ユダヤ人全体の中には、いつの時代も信仰ある者が必ずいる。その人々をイスラエルの残れる者(レムナント)という。つまり、全体としてのイスラエルと、残れる者としてのイスラエルと、二種類のイスラエルがあるのだ。両者は民族的には同一だが、霊的には異なる。過去の歴史において、人数の多少はあったとしても、残れる者がいなかったことは決してない・・」

使徒パウロも、イスラエルには二種類あると指摘しています(ローマ書9:6参照)。すなわち、全体としてのイスラエル(民族的なイスラエル)と残れる者であるイスラエル(信仰あるイスラエル)です。また、ローマ9:27ではイザヤを引用して「たといイスラエルの子どもたちの数は砂のようであっても、救われるのは、残された者である」とあり、「それと同じように今も、恵みの選びによって残された者がいます。」(11:5)と述べています。

ですから、現在の「残れる者」であるイエスをメシアと信じ従うユダヤ人(メシアニック・ジュー)が、ユダヤ人の1%しかいないとしても、神がユダヤ人全体を捨てられたことにはなりません。決してなくなることはないのです。」(ドット・モアヘッド著「聖書で学ぶ『約束の地』という小冊子17~18頁より引用、2012.8発行、イーグレープ出版)

すごいですね。神様の救いのご計画は。また、イスラエルに対する賜物と召命は。それはイスラエルに対してだけではなく、私たちに対する約束でもあります。主は私たちにこう約束してくださいました。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ4:13)最後まで耐え忍ぶ人は救われるのです。

私たちの置かれている状況を見てください。今回のロシアのウクライナ侵攻ばかりでなく、先日も震度5強の地震がありました。一昨年からのコロナウイルスはまだ収束していません。いつ、何が起こるかわかりません。一寸先は闇みです。人間関係は破綻し、家族が、社会がバラバラになっています。いったい何が問題なのでしょうか。それは私たちが神に背いたから、神のさばきを受けているからだと聖書は言っています。これは産みの苦しみの始まりにすぎません。これからますますひどくなっていきます。そして患難時代を迎えることになります。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われるのです。私たちもこの残りの者です。神の賜物と召命は変わることはありません。私たちはこの神の救いの計画をしっかりと理解し、さばきの中にも神のあわれみがあると信じて、そこにある神の愛と慰めのメッセージをしっかりと受け止めて、最後まで耐え忍び、神に信頼して歩む者でありたいと思います。

Ⅲ.神に立ち返れ29-31)

ですから、第三のことは、神に立ち返れということです。29節から31節までをご覧ください。「29 騎兵と射手の雄叫びに、町中の人は逃げ去り、草むらに入り、岩によじ登った。すべての町が捨てられ、そこに住む人はいない。30 踏みにじられた女よ、あなたはいったい何をしているのか。緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたて、目を塗って大きく見せたりして。美しく見せても無駄だ。恋人たちはあなたを嫌い、あなたのいのちを取ろうとしている。31 まことに、私は、産みの苦しみにある女のような声、初子を産む女のようなうめき、娘シオンの声を聞いた。彼女はあえぎ、手を伸ばして言う。「ああ、私は殺す者たちの前で疲れ果てた。」」

実際に、どのように神の審判が下るのか。ここには、騎兵と射手の雄叫びに、町中の人は逃げ去り、草むらに入り、岩によじ登った、とあります。すべての町が捨てられ、そこに住む人は一人もいなくなるのです。「踏みにじられた女」とはユダのことです。その時彼らは何をしていましたか。彼らは緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたて、目を大きく見せたりして、美しく見せようとしていました。どういうことでしょうか。「緋の衣」とは、高級ブランド品のドレスのことです。「目を塗って大きく見せる」とは、化粧をして美しく見せようとすることです。つまり、ここではユダの姿が、緋の衣や化粧で自分を飾り立てる遊女にたとえているのです。この遊女はかつての恋人たち、つまりバビロンに()びを売って助かろうとしますが、そんなことをしても無駄です。その滅びから免れることはできません。恋人たちはあなたを嫌い、あなたのいのちを取ろうとするからです。

結局のところ、彼らはバビロンの攻撃によって、悲惨な状況に陥ることになります。それが、31節にあることです。「まことに、私は、産みの苦しみにある女のような声、初子を産む女のようなうめき、娘シオンの声を聞いた。彼女はあえぎ、手を伸ばして言う。「ああ、私は殺す者たちの前で疲れ果てた。」

ここでは、ユダの姿が二つのたとえで表現されています。一つは初子を産む女のようなうめきで、もう一つは、敵の手によって殺される者の姿です。「殺す者たち」とは、バビロン軍のことを指しています。その攻撃によって気力さえも失ってしまうほどの、何もかも空しくなってしまうような状態になるということです。まさに廃人同然のようになるのです。

これが罪のもたらす結果です。ですから、いつまでも罪の中にとどまっていてはいけない。神の忍耐を軽んじて、神に背き、自分が好むように、自分の好き勝手に生きるということではいけないのです。もしそういうことがあるとしたら、このイスラエルやユダのように、神のさばきを受けてしまうことになります。そして、そのような状態から自力で救われようとしてもできません。だから、神に立ち返らなければならないのです。もっと具体的に言うならば、神の救いを受け入れなければなりません。それは、私たちの救い主イエス・キリストです。私たちを罪から解放できるのは、イエス・キリストだけです。ローマ5章9節にこうあります。「ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。」

キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことなのです。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ですから、あなたがキリストを通して神に立ち返るなら、あなたは義と認められ、この神の怒りから救われることができるのです。キリストを通して、神に立ち返りましょう。そして、神の怒りから救われたことを感謝しようではありませんか。

私は小さい頃から口笛が下手で、あまりうまく吹くことができませんが、無意識に口笛を吹いたり、口ずさむときがあります。最もよく口ずさむ賛美は、新聖歌268番です。

  1. 悲しみ尽きざる 憂き世にありても 日々主と歩めば 御国のここちす 
    ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす
  2. かなたの御国は 御顔のほほえみ 拝する心の 中にも建てらる
    ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす
  3. 山にも谷にも 小屋にも宮にも 日々主と住まえば 御国のここちす
    ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす

この世を歩んでいると、誰でもさまざまな苦しみを味わいます。しかし、人間のまことの苦しみと不幸は、外側からの環境によって生まれるものではありません。それは私たちの中に神がおられないために生まれるのです。

悲しみの多いこの世では、高い山、荒野、粗末な家などが、私たちにとって不幸と苦しみになることがあります。しかし、この聖歌の歌詞のように罪の荷を降ろし、主とともに歩むなら、それはどこにあっても御国となるのです。

この世の多くの苦しみと悩みが私たちを不幸にするのではありません。私たちの心にイエス・キリストがおられないから、不幸になるのです。

しかし、イエス・キリストの血によって義と認められるなら、どんなに不幸のように見えても、さながら天国のようになります。聖霊によって、神の愛があなたの心に注がれるからです。このキリストを通して神に立ち返りましょう。これが、私たちが神の怒りから救われる唯一の道です。このキリストによって、私たちは高らかに神を賛美し、神に感謝をささげようではありませんか。

エレミヤ4章5~18節「心を洗いきよめよ」

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 きょうは、エレミヤ書4章5節から18節までのみことばから「心を洗いきよめよ」というタイトルでお話します。前回は、その前の1節から4節までのところから「心の包皮を取り除け」というメッセージでしたね。神から離れたイスラエルに向かって主は、「背信の子らよ、立ち返れ。」と語りました。そうすれば、主はあなたの背信を癒そうと。それで前回の箇所では、もし主に帰るというのなら、わたしのもとに帰れ、と言われたのです。主に立ち返るとはどういうことなのかを、「もし」ということばを用いて説明されたわけです。そしてそれは口先だけの悔い改めではなく、真実な悔い改めが求められるということでした。ただ表面的でうわべだけのものではなく、心から「主は生きておられる」と告白することが求められていたのです。

そのためには、三つのことが求められていました。一つは3節にあるように、「耕地を開拓せよ。」ということでした。耕地というのは、かたくなな心のことでしたね。その耕地に鍬とか鋤を入れて柔らかくしなければなりません。なぜなら、そのようにカチカチと凝り固まった心にどんなに種をまいても実を結ぶことはないからです。種が育つためにはまず、心の耕地を耕さなければなりません。

第二のことは、「茨の中に種を蒔くな」ということでした。茨の中に種を蒔いたらどうなりますか。どんなに芽が出ても成長することができません。茨がそれをふさいでしまうからです。ですから、茨の中に種を蒔いてはなりません。

そして第三のことは、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」ということでした。割礼とは男性の性器の先端を覆っている皮を切り取ることです。ユダヤ人は、自分たちが神の民であることのしるしとして、生まれて8日目にこの割礼を受けました。しかし、ここで言われているのはただの割礼ではなく「心の割礼」のことでした。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。」(ローマ2:28-29)大切なのは、心に割礼を受けるということ、御霊による心の割礼です。すなわち、彼らの心に焦点が当てられていたのです。

きょうの箇所はその続きです。きょうの箇所でも、彼らの心に光が当てられています。14節には「エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。」とあります。「いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか。」と。神のことばを聞いたのなら、あなたの心を洗いきよめなければならない、というのです。

きょうはこのことについて3つのポイントでお話したいと思います。第一のことは、そのためには、身を慎み、目を覚ましていなければなりません。そうでないと、あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っているからです。

第二のことは、神が何と言っておられるのかをよく聞き分けなければなりません。そうでないと、偽りの教えに騙されてしまい、滅びを招いてしまうことになるからです。

第三のことは、その滅びから救われるために、悪から心を洗いきよめよ、ということです。

 Ⅰ.身を慎み、目を覚ましていなさい(5-9)

まず、5節から9節までをご覧ください。「5「ユダに告げ、エルサレムに聞かせて言え。国中に角笛を吹け。大声で叫べ。『集まれ。城壁のある町に逃れよう』と。6シオンに向けて旗を掲げよ。自分の身を守れ。立ち止まるな。わたしが北からわざわいを、大いなる破滅をもたらすからだ。7獅子はその茂みから立ち上がり、国々を滅ぼす者はその国から出て来る。あなたの地を荒れ果てさせるために。あなたの町々は滅び、住む者はいなくなる。」8このことのために、粗布をまとって悲しみ嘆け。主の燃える怒りが、私たちから去らないからだ。9「その日には-主のことば-王の心や、高官たちの心は萎え、祭司は唖然とし、預言者はたじろぐ。」」

ユダに対するさばきの宣言です。「角笛を吹く」とは、危険が迫っていることを示しています。「城壁のある町に逃れよう」とは、城壁など防備のある町に逃れるようというということです。エルサレム以外のユダの町々に住む人々に、侵入して来る敵の軍隊に備えて、防備のある町々に避難するようにと呼び掛けられているのです。なぜなら、北からわざわいが、大いなる破滅が襲い掛かって来るからです。それは神がもたらしたものでした。「北から」とは、バビロンのことを指しています。7節には「獅子」とありますが、それはバビロンのことを象徴しています。「獅子はその茂みから立ち上がり、国々を滅ぼす者はその国から出てくる。」そうです、バビロンがやって来てユダに襲いかかり、破滅をもたらそうとしていたのです。それはユダの民が、預言者を通して語られた神のことばを聞いても、神に立ち返らなかったからです。それで主の燃える怒りが、彼らに向けられたのです。その日には、王の心や、高官たちの心は萎え、祭司は唖然とし、預言者はたじろぐことになります。

その神のさばきから逃れる唯一の道は何でしょうか。8節には「このことのために、粗布をまとって悲しみ嘆け。」とあります。つまり、罪を悔い改めて神に立ち返ることです。それなのに彼らには、そのようにしませんでした。彼らには、そのような信仰が欠如していたのです。

新約聖書には、サタンが獅子にたとえられています。Ⅰペテロ5章8節には、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。敵である悪魔に勝利する秘訣は、「身を慎み、目をさましている」こと、つまり、信仰の目をさましていることです。そうでないと、獅子がユダを食い尽くしたように、霊的な獅子である悪魔があなたを食い尽くしてしまうことになります。あなたは、神のことばによって養われていますか。神のことばが聞こえているでしょうか。

先週もC-BTE(教会主体の神学教育)が持たれましたが、前回はテトスの手紙1章から学びましたが、そこには、パウロが開拓したクレテの教会を破壊する者たちがいました。彼らは反抗的な者、無益な話をする者であり、人を惑わす者たちで、恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、いくつかの家々をことごとく破壊していました(テトス1:10-11)。彼らは神を知っていると公言していましたが、行いでは否定していたのです(同1:16)。そういう者たちが家々に入り込むとどうなるでしょうか。家々が破壊されてしまうことになります。夫婦関係に亀裂が生じ、家族はバラバラになり、教会が破壊されてしまうことになります。なぜなら、家族は教会を構成している最小単位だからです。それがバラバラになれば、当然それを構成している教会の共同体も崩壊してしまうことになります。特に初代教会では、家々が教会でしたから、その家々が破壊されるということは、教会が破壊されることにつながっていったのです。ですから、夫婦とか家族というのはとっても大切なのです。しかし、その夫婦なり家族に関する教えが、神のことばに従った健全なものではなく、この世の考え方やこの世の教えに従ったものであるなら、知らないうちに家々が崩壊していくことになります。

ですから、神のことばである主の教え、健全な教えを聞いて、それに養われていないと、霊的獅子である悪魔に食い尽くされてしまうことになります。いつの間にか信仰から離れ、この世にどっぷりと浸かった状態に陥ってしまうのです。ですから、注意しなければなりません。いつも身を慎み、目を覚ましていなければならないのです。私たちの心を見張っていなければなりません。

 Ⅱ.神のことばを聞き分ける(10-13)

第二のことは、神が何と言っておられるのかをよく聞き分けなければならないということです。10節から13節までをご覧ください。10節をお読みします。「10 私は言った。「ああ、神、主よ。まことに、あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました。『あなたがたには平和が来る』と言われたのに、剣が私たちの喉に触れています。」」

「私」とは、エレミヤのことです。エレミヤは、ここで主に言っています。「あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました。」なぜなら、「あなたがたには平和が来る」と言われたのに、平和どころか剣が喉に触れているからです。どういうことでしょうか。

「あなたがたには平和が来る」と言ったのは偽預言者たちです。ここも二重の『』になっています。これは、当時の偽預言者たちが語っていた言葉です。そのメッセージを信じた結果、欺かれることになってしまいました。それは主なる神が悪かったのではなく民が悪かったからです。神はエレミヤを通して、神に立ち返らないとさばきが来ると宣告していたのに、ユダの民はそれを受け入れませんでした。聞きたくなかったのです。耳障りが悪いからです。そしてそれとは反対の偽預言者たちの言葉を信じました。「自分たちは大丈夫、神のさばきなんか来ないから」「侵略なんてされることはない、自分たちは要塞のあるエルサレムで平和に暮らすことができる」と、まんまと騙されていたのです。

彼らが聞きたかったのはさばきのメッセージではなく、救いのメッセージ、平和のメッセージでした。ですから、どんなに悔い改めて神に立ち返れと言われても、そうでないと神のさばきを免れることはできないと聞いても、そうした言葉には耳を塞ぎ、「あなたがたには平和がくる」という偽預言者たちの語るメッセージを喜び、受け入れていました。つまり、問題は彼らの不信仰にあったのです。

それは彼らだけではなく、私たちにも言えることです。人は皆、こうした偽りの平安や表面的な気休めの言葉を求めています。家内安全、商売繁盛、といった現世的な利益とか、病気が癒される、人間関係が良くなるといった言葉を求めているのです。それ自体は悪いことではありません。でももっと本質的なものを見ていないと、このユダの民のように欺かれてしまうことになります。もっと本質的なものとは何かというと、神との関係です。永遠のいのちです。神との関係がないのに、いくら「平和だ、平和だ」と言っても、それは表面的なものにすぎません。どんなに健康であっても、どんなに問題が解決しても、神との関係がなかったら地獄です。何にもなりません。でも、たとえ病気であっても、たとえ貧しくても、たとえ問題があっても、神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じている人はどんなに幸いでしょうか。最終的に、神の国、天国に行くことを知っているのですから。皆さん、騙されてはいけません。「平安だ、平安だ」という言葉に簡単に飛びついてはいけないのです。あまりにも簡単にそうしたものに飛びつくと、今さえ良ければいいという生き方になってしまい、必ず失望することになってしまいます。まず天を定めることです。そこから上下左右のバランスをとっていくのです。これが生け花の基本だと、以前誰かから聞いたことがあります。まず天を定めて、現在を見ていくのです。神のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられることなのかを求め、心の一新によって自分を変えることです。そうすれば偽りの言葉に騙されることはありません。

11節から13節までをご覧ください。「11 そのとき、この民とエルサレムに告げられる。「荒野にある裸の丘から、熱風は、娘であるわたしの民の方に吹く。ふるい分けるためでも、より分けるためでもない。12 それよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今や、わたしが彼らにさばきを下す。」13 見よ、それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう。その馬は鷲よりも速い。ああ、私たちは荒らされる。」

そのとき、この民とエルサレムに、主のことばが告げられました。それはユダに対して、もっと激しい神のさばきが下されるということでした。それが「熱風」という言葉で表されています。「熱風」とは、砂漠から吹いてくる「シロッコ」と呼ばれる夏の季節風のことです。この「熱風」が、娘である神の民イスラエルの方に吹くのです。何のためですか?これはふるい分けるためでも、より分けるためでもありません。脱穀のようにもみ殻をふるい分ける時にも風が用いられますが、そのようにふるい分けるためでも、より分けるためでもありません。それよりも、もっと激しい風が、神のために吹くのです。それは、神が彼らにさばきを下すための風で、彼らを滅ぼすためのものでした。この熱風は、いったん吹けばすべての植物を枯らしてしまいます。それは戦車のつむじ風のようで、その馬は鷲よりも早いのです。鷲よりも早いのですから、相当早い馬です。それは誰のことでしょうか?それは北からのわざわい、バビロンのことです。バビロンがやって来て、ユダを激しく滅ぼし尽くすのです。それが彼らの目前まで迫っていました。なぜなら、彼らが悔い改めなかったからです。偽りの預言者たちのことばに騙されて不信仰に陥っていたからです。

今から4年前に天に召された世界的な伝道者ビリー・グラハム師は、1989年のゴードン・コンウェル神学校の設立記念礼拝のメッセージの中で、次のように言いました。

「世の中には、これは常に正しいと言えるものと、これは常に正しくないと言えるものがある。この単純な事実を、私たちは見失ってしまった。つまり、私たちは判断基準を失ってしまったのだ。この国には、自分たちの生活を防御するための論理的哲学がない。それゆえ、何かが起きなければ、私たちの生活はより重大な危機に陥るだろう。その何かというのは、霊的リバイバルである。」(ビリー・グラハム,クリスチャニティトゥデイより)

私たちに求められているのは、この「霊的リバイバル」です。神に立ち返ることです。神のことばに生きることです。私たちが聖書に書かれてあることを知らなければ、いとも簡単に、聖書とは違うメッセージを信じてしまうことになります。その結果、私たちの心が神から離れてしまうのです。神を信じていると思っていても、いつの間にか、それとは違う方向へ進んでいくことになります。そこには、神との親しい交わりはありません。

ですから、私たちは注意しなければなりません。自分に都合がいい、耳障りがいいことばではなく、神のことばを聞かなければならないのです。神は何とおっしゃっているのかを聞き、それに従わなければなりません。そうでないと熱風が吹いて来てすべてを枯らしてしまうことになります。

 Ⅲ.悪から心を洗いきよめよ14-18)

 ですから、第三のことは、救われるために、悪から心を洗いきよめよ、ということです。14節から18節までをご覧ください。「エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか。15 ああ、ダンから告げる声がある。エフライムの山からわざわいを告げ知らせている。

4:16 国々に語り告げよ。さあ、エルサレムに告げ知らせよ。包囲する者たちが遠くの地から来て、ユダの町々に対して、ときの声をあげる。17 彼らは畑の番人のように、ユダを取り囲む。それは、ユダがわたしに逆らったからだ。-主のことば-18 あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いたのだ。これはあなたへのわざわいで、なんと苦いことか。もう、あなたの心臓にまで達している。」」

 それゆえ、主なる神は、ユダの人々が救われるために、主の前に悔い改めるように、そして「悪から心を洗いきよめよ」と命じています。

「心を洗う」とはどういうことでしょうか。それは心を入れ替えるということではありません。心を洗うことは、自力ではできないのです。ですから、心を洗うためには、心を神に向け、神に洗ってもらわなければなりません。

旧約聖書に出てくるダビデは、主なる神によって心を洗われるという経験をしました。詩篇51篇7節で、彼はこう言っています。「ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。」

「ヒソプ」とは、壁や岩などに生えるシソ科の植物です。モーセの律法の中に、過越の祭りでほふった小羊の血をそのヒソプの束によって、鴨居と門柱につけるように命じられていました(出エジプト12:22)。ですから、ヒソプで私の罪を除いてくださいというのは、その小羊の血によって、きよめてくださいということです。そうすれば、雪よりも白くなります。これは真っ白になるということです。完全に洗いきよめていただくことができるのです。預言者イザヤはこう言いました。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)主がきよめてくだされば、雪よりも白くなることができます。心を洗いきよめることができるのです。

また、彼はこうも言っています。「神よ。私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇51:10)きよい心を造り、揺るがない霊を与えてくださるのは、神なのです。

いったい神はどのように私たちの心を洗いきよめてくださるのでしょうか。それは小羊の血を心に塗ることによって、すなわち、神の御子イエス・キリストを心に信じることによってです。Ⅰヨハネ1章7節にこうあります。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」御子イエスの血が、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。ですから、聖書はこう言うのです。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

もしあなたが自分の罪を告白するなら、神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての悪から洗いきよめてくださいます。ハレルヤ!何という約束でしょうか。私たちも日々神に背き、罪を犯す者ですが、私たちが御子イエスに向くなら、そして、自分の罪を告白するなら、主はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。

アメリカに有名な伝道者で、リバイバリストであったチャールズ・フィニーという人がいました。最初に「リバイバル」という言葉を使った人で、「最初のアメリカ人リバイバリスト」と呼ばれている人です。

彼がある町で伝道していた時のことです。人相の悪い男に「今晩、わしの店まで来てくれ」と言われました。彼は恐る恐る彼の店に行ってみると、急にピストルを取り出して言いました。「昨晩あんたの言ったことは本当か。」

「どんなことを言いましたか。」

「キリストの血がすべての罪からきよめると言ったさ。」

「それは私のことばではなく、神のことばです。」

「実は、この酒場にある秘密のギャンブルの部屋で、わしは多くの男を最後の1ドルまでもふんだくり、ある者は自殺に追いやった。こんな男でも、神は赦してくれるのか。」

「そうです、すべての罪はキリストの血によってきよめられます。」

「ちょっと待ってくれ。支払いができない奴は、殺し屋を雇い、このピストルで殺させた。こんな男でも、神は赦してくれるのか。」

「私に言えるのは、聖書には、すべての罪が赦されると書いてあるということだけです。」

「ちょっと待ってくれ。通りの向こうの大きな家に、わしの妻と子供たちがいる。ところがわたしはこの16年間、妻をののしり続けてきた。先日は幼い娘をストーブのそばに押し倒し、やけどを負わせた。こんな男でも神は赦してくれるのか。」

すると、フィニーは立ち上がり、その男の手を握りました。そして、こう言いました。「これまで聞いたことのない恐ろしい話を聞きました。しかし聖書には、キリストの血がすべての罪を赦し、きよめると書いてあります。」

すると、その男は言いました。「それを聞いて安心した。」

翌朝、太陽が昇るころ、その男は立ち上がって自宅に帰りました。そして自分の部屋に幼い娘を呼び、ひざに乗せて「パパはおまえを、心から愛しているよ」と言いました。何事が起こったのかと不審に思って中を覗いていた妻の頬に、涙が流れ落ちました。彼はその妻を呼ぶとこう言いました。「昨晩、今まで聞いたことのない、すばらしい話を聞いた。キリストの血は、すべての罪からきよめると・・・」そして彼は酒場を閉め、その町にとって大の恩恵者になったのです。

キリストの血は、どんな罪でも赦し、きよめ、私たちを神と和解させます。キリストの愛はどんな人でもその人の内側から変え、神の平安で満たしてくれるのです。

ですから、もしあなたが神に帰るのなら、キリストのもとに行かなければなりません。そして救われるために、悪から心を洗いきよめていただかなければならないのです。いつまで、自分のためによこしまな思いを宿らせているのですか。今日、もし御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしないでください。主イエスの血によって、あなたの心をきよめていただきたいのです。

15節には、「ああ、ダンから告げる声がある。エフライムの山からわざわいを告げ知らせている。」とあります。「ダン」とは、北イスラエルの最北端にある町です。「エフライムの山」とは、南ユダの最北端にある山です。ですから、これは全イスラエルに告げ知らせよということです。イスラエルのすべての人に悔い改めるようにと勧告されているのです。いや、イスラエルばかりではありません。16節には「国々に語り告げよ。」とあります。それは異教の国々も含むすべての国々のことです。すべての国の、すべての人に対して勧められているのです。何を?悔い改めることです。救われるために悪から心を洗いきよめることです。そうでないと、包囲する者たちがやって来て、ユダの町々に対して、ときの声をあげるようになります。あなたを包囲する者たちがやって来て、あなたを滅ぼしてしまうことになるのです。

それは神に原因があるからではありません。18節にあるように、「あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いた」のです。神が好んでしているわけではないのです。あなたの生き方と、あなたの行いが、これをあなたの身に招きました。これは、神に背いた生き方、神に背いた行いのことです。聖書では、これを罪と呼んでいます。罪とは的はずれ、神という的を外した生き方、行いです。言い換えると、それは自己本位の生き方のことです。これがあなたの身にわざわいをもたらすのです。それはあなたの心臓にまで達しているとあります。それは文字通り、健康にもよくありません。罪はあなたの心と体を蝕むのです。その行き着くところは死です。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

罪の報酬は死です。しかし、神がくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。このようなすばらしい賜物を与えてくださった主に心から感謝します。ですから、もしあなたがまだこの賜物を受けていなのであれば、どうか今、自分の罪を認め、神に立ち返ってください。あなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストを信じてください。そうすれば、あなたの罪は赦され、すべての悪から心をきよめていただくことができます。

ユダの民は、「自分の心を見つめるように」という神からの語りかけを、真摯に受け止めませんでした。その結果、エレミヤがこの預言を語ってから20年後に、結局バビロン捕囚の憂き目にあいました。罪を犯す根源である心を点検しましょう。そして、キリストによってすべての悪から心を洗いきよめていただき、救いの恵み、永遠のいのちをいただき、神とともに新しい人生を歩ませていただきましょう。

Ⅰ列王記4章

 今日は、列王記第一4章から学びます。

 Ⅰ.ソロモンの高官たち(1-19)

 まず1節から6節までをご覧ください。「1 こうして、ソロモン王は全イスラエルの王となった。2 彼の高官たちは次のとおり。ツァドクの子アザルヤは祭司、3 シシャの子たちのエリホレフとアヒヤは書記、アヒルデの子ヨシャファテは史官、4 エホヤダの子ベナヤは軍団長、ツァドクとエブヤタルは祭司、5 ナタンの子アザルヤは政務長官、ナタンの子ザブデは祭司で王の友、6 アヒシャルは宮廷長官、アブダの子アドニラムは役務長官。」

こうして、ソロモン王は全イスラエルの王となりました。「こうして」とは、3章にあったように、ソロモンが主から「あなたに何を与えようか。願え。」(3:6)と言われたとき、彼が自分ために長寿を願わず、富みを願わず、敵のいのちさえも願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、その知恵と判断の心ばかりでなく、彼が願わなかったもの、たとえば、富みとか誉といったものまで与えられました。彼が生きている限り、彼に並ぶものは一人もいなかったほどです。

その彼の知恵と判断力がどれほど優れたものであったのかを示す逸話が、3章後半にありました。まさに大岡越前みたいな裁きをしました。いや、大岡越前さえもその足元に及ばないほどのさばきでした。それは、母親の情に訴えるものでした。

今回は、その知恵が行政においても発揮されていたことが示されています。どんな知恵があっても、それを発揮することができないと意味がありません。ロシアのウクライナ侵略はまさにその例です。プーチン大統領を恐れて側近のだれもプーチンを止めることができません。プーチンは行政においても、知恵がないことを露骨に表しました。しかし、ソロモンは違います。それは王になると、優れた高官たちを任命しました。

まずツァドクの子アザルヤです。彼は祭司です。彼はツァドクの子であるとありますが、孫です。他に4節には、「ツァドクとエブヤタルは祭司」とありますが、おそらくこれは名誉的な称号でしょう。というのは、この二人はダビデの時代に祭司として仕えていましたが、ツァドクは、ソロモンを支持したので引き続き大祭司職に留まったものの、エブヤタルはアドニヤを支持したので、罷免させられていたからです(2:27)。

3節には、シシャの子たちのエリホレフとアヒヤは書記とあります。書記は非常に重要な職責でした。行政、貿易、軍隊などあらゆる国政に関わる記録を担当したのです。

そしてヨシャファテは史官です。「史官」とは、書記の補佐官のことです。王の日課を記録する役目がありました。彼は、王国の歴史に関する正式な文書を残しました。

そしてエホヤダの子ベナヤが軍団長でした。アドニヤに仕えていたヨアブを処刑するようにソロモンが命じたのが、このベナヤでした(2:25)。

次にナタンの子アザルヤは政務長官です。ナタンとは、ダビデがバテ・シェバと姦淫を行った時、そのことをダビデに告げた預言者です。彼はダビデとソロモンに仕えました。それで彼の二人の息子たちは、政府高官に抜擢されたのでしょう。そのうちの一人アザルヤは政務長官でした。そしてもう一人のザブデは祭司で、王の友となりました。父ナタンと同じような立場です。

次に、アヒシャルは宮廷長官とあります。宮廷長官とは、宮廷内を司る長のことです。英語のNKJVでは、「over the household」と訳しています。宮廷全体を司る人のことです。また、アブダの子アドニラムは、役務長官でした。役務長官とは、国のプロジェクトのために人々を借り出させて労役を課すところの執行者です。彼は、後に、神殿建設に貢献するようになります。膨大な数の役務者を徴用しますが、民の間で不評を買い、ソロモンの子レハブアムの時代に民から石打ちに会い、殺されます(12:18)。

次に7節から19節までをご覧ください。「7 ソロモンは、イスラエル全土に十二人の守護を置いた。彼らは王とその一族に食糧を納めた。一年に一か月分の食糧を各自が納めることになっていたのである。8 彼らの名は次のとおり。エフライムの山地にはフルの子。9 マカツ、シャアルビム、ベテ・シェメシュ、エロン・ベテ・ハナンにはデケルの子。10 アルボテにはヘセデの子。彼はソコと、ヘフェルの全地を任されていた。11 ドルの全高地にはアビナダブの子。ソロモンの娘タファテが彼の妻であった。12 タアナク、メギド、またイズレエルの下ツァレタンのそばのベテ・シェアンの全域、ベテ・シェアンからアベル・メホラ、ヨクメアムの向こうまでの地には、アヒルデの子バアナ。13 ラモテ・ギルアデにはゲベルの子。彼はギルアデにあるマナセの子ヤイルの町々と、バシャンにあるアルゴブの地域で、城壁と青銅のかんぬきを備えた六十の大きな町を任されていた。14 マハナイムにはイドの子アヒナダブ。15 ナフタリにはアヒマアツ。彼も、ソロモンの娘バセマテを妻としていた。16 アシェルとベアロテにはフシャイの子バアナ。17 イッサカルにはパルアハの子ヨシャファテ。18 ベニヤミンにはエラの子シムイ。19 アモリ人の王シホンとバシャンの王オグの領地であったギルアデの地には、ウリの子ゲベル。彼は、その地で唯一の守護であった。」

これだけ膨大な領土を治めるには、行政の組織化が必要となります。そこで彼は、王国を12の行政区に分割し、それぞれの行政区に守護(行政官)を置きました。ここに、その12人の行政官の名前があげられています。15節に出ている「アヒマアツ」以外は、ここにしか登場しません。ソロモンは彼らに徴税の任務を課し、それを王宮に納めさせました。それは膨大な量でした(22-28)。しかし、ここにも彼の知恵がいかんなく発揮されています。それは、「一年に一か月分の食料を治めることになっていた」(7)ということです。つまり、年に一か月間だけ、食料を納めたということです。であれば、行政官たちは、必死になって働いたことでしょう。

この行政区域は、良く見るとかつてから存在していた部族ごとの領土の境界線とは必ずしも一致していません。どうして一致していないのかというと、これによって部族間の敵対感情を和らげようとしたからです。

また、守護(行政官)の中には、ソロモンの義理の息子が二人含まれています。11節の「アビナダブ」と、15節の「アヒマアツ」です。どうして彼は義理の息子を登用したのでしょうか。それは、このように彼らを配置することで、不穏な動きを見張ろうと考えたからではないかと思います。

ソロモンは、過去の貢献度を考慮して人材を登用しましたが、ここでは、能力に応じて行政区の割り当てをしました。実に見事な判断です。それは神の視点からは、神がソロモンを祝福するために、必要な人材を用意しておられたということです。これもまた、神がダビデと交わした約束のゆえであり、ソロモンが主を心から愛し、主のみこころに歩もうとしていたからです。主のみこころにかなった歩をするなら主が祝福してくださると信じて、みこころに歩みたいと思います。

Ⅱ.王国の繁栄(20-28)

次に20節から28節までをご覧ください。「20 ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように多くなり、食べたり飲んだりして、楽しんでいた。21 ソロモンは、あの大河からペリシテ人の地、さらにエジプトの国境に至る、すべての王国を支配した。これらの王国は、ソロモンの一生の間、貢ぎ物を持って来て彼に仕えた。22 ソロモンの一日分の食糧は、上質の小麦粉三十コル、小麦粉六十コル。23 それに、肥えた牛十頭、放牧の牛二十頭、羊百匹。そのほか、雄鹿、かもしか、のろ鹿、そして肥えた鳥であった。24 これはソロモンが、あの大河の西側、ティフサフからガザまでの全土、すなわち大河の西側のすべての王たちを支配し、周辺のすべての地方に平和があったからである。25 ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバに至るまでのどこでも、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下で安心して暮らした。26 ソロモンは、戦車用の馬のために馬屋四万、騎兵一万二千を持っていた。27 守護たちはそれぞれ自分の当番月に、ソロモン王、およびソロモン王の食卓に連なるすべての者たちのために食糧を納め、不足させなかった。28 また彼らは、引き馬や早馬のために、それぞれ割り当てにしたがって、所定の場所に大麦と藁を持って来た。」

その結果、ソロモンの王国は繁栄の時代を迎えます。ここには、それがどれほどの繁栄であっかが記されてあります。まずユダとイスラエルの人数です。それは、海辺の砂のように多くなりました。戦時には人口は増えないので、それは戦争のない平和な時代であったことを表しています。それだけ多くの人々が、食べたり、飲んだりして、楽しんでいたのです。

また、ソロモンが支配した領土は、「あの大河からペリシテ人の地、さらにエジプトの国境に至る、すべての王国」でした。それは、神がアブラハムに約束されたことでした(創世記15:18-21)。それが成就したのです。実際支配したのはダンからベエル・シェバまで(25)でしたが、その影響力はすべての地域に及んだのです。

これらの国々は、ソロモンの一生の間、貢物を持って来て彼に仕えたので、相当の量であったと推察されます。

それが22節から28節までに記されてあることです。ソロモンの一日分の食料は、上質の小麦粉三十コル、小麦粉六十コル。それに、肥えた牛十頭、放牧の牛二十頭、羊百匹。そのほか、雄鹿、かもしか、のろ鹿、そして肥えた鳥でした。上質の小麦粉三十コルは6,300リットルです。小麦粉六十コルは、その二倍の12,600リットルです。別に彼がこれらのものを一人で食べていたということではありません。いくら大食いファイターでも無理でしょう。これだけ食べるのは。宮廷で仕えていた人数がどれだけいたかはわかりませんが、いずれにせよ、膨大な量です。ソロモンは、宮廷で仕える人たちのために日々の食料を提供したのです。

これはソロモンが、大河の西側、ティフサフからガザまでの全土、すなわち、大河の西側のすべての王たちを支配し、周辺のすべての地方に平和があったからできたのです。これまでは敵に囲まれ、あるときは従属し、絶えず戦わなければいけない状態でしたが、今は、ぶどうやいちじくの木の下で、つまり城壁によって囲まれる必要がなく、安心して暮らすことができました。

そればかりではありません。ソロモンは、戦車用の馬のために馬屋四万、騎兵一万二千を持っていました。抑止力としての軍隊も持っていたということです。しかし、この点は必ずしも主のみこころにかなっていたとは言えません。というのは、申命記(モーセの律法)には、「王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。」(申命記17:16)とあるからです。ついでに言うなら、「自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。」(申命記17:15)ともありました。それなのに彼は、この三点セットをすべて手に入れていたのです。

何を言いたいのかというと、そのような繁栄の陰にはこうした危険もあるということです。それがもし与えられたものであるのならいいのですが、自らがそれを欲して手に入れようとするなら、そこには崩壊の危険も隠れているということです。

それは私たちにも言えることです。実は私たちにとって一番危ないのは、私たちが苦しい時よりも、満ち足りた時です。そうした状況に置かれると、いつつしか高慢になって神の言うことを聞こうとせず、自分が神になったかのように錯覚するからです。ですから、繁栄の中にあっても、神の民としての生き方を忘れないように注意しなければなりません。主を恐れることこそ、知恵の始まりなのです。

Ⅲ.ソロモンの知恵(29-34)

最後に29節から34節までをご覧ください。「29 神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。30 ソロモンの知恵は、東のすべての人々の知恵と、エジプト人のすべての知恵にまさっていた。31 彼は、どの人よりも、すなわち、エズラフ人エタンや、マホルの息子たちのヘマン、カルコル、ダルダよりも知恵があった。そのため、彼の名声は周辺のすべての国々に広まった。32 ソロモンは三千の箴言を語り、彼の歌は千五首もあった。33 彼は、レバノンにある杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣、鳥、這うもの、そして魚についても語った。34 彼の知恵のうわさを聞いた世界のすべての王たちのもとから、あらゆる国の人々が、ソロモンの知恵を聞くためにやって来た。」

ソロモンの知恵は、行政力と経済力だけではなく、学問にも用いられました。「29神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。30 ソロモンの知恵は、東のすべての人々の知恵と、エジプト人のすべての知恵にまさっていた。」

「東のすべての人々」とは、アッシリヤやバビロンの人々のことを指しています。彼の知恵は、アッシリヤやバビロンの人々やエジプトのすべての知恵にまさっていました。

ソロモンは三千の箴言、格言ですね、これを語り、歌は千五百もありました。聖書の中に収められている箴言には、952の格言があるそうです。ですから、ソロモンが語った箴言の三分の一が聖書に収められた、ということになります。彼の歌は聖書には一つだけ「雅歌」があります。昨年、礼拝で学びました。すばらしい歌でしたね。それは花婿の花嫁に対する愛の歌でしたが、そこにはキリストとその花嫁である教会の愛の歌が暗示されていました。しかも、その最後がすばらしかったですね。覚えていますか。「マラナ・タ」でした。来臨を待望する教会の祈りが預言されていました。このような歌は他に例をみません。ものすごい歌でした。ある人が、「格言を一つでも良いから作ってみなさい。いかに難しいかお分かりになるでしょう。」と言いました。その人は自分の数十年の生涯の中で、たった一つの格言しか作ることができなかったそうです。でも、ソロモンは三千も語ったのです。

また、レバノンにある杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣、鳥、這うもの、そして魚についても語りました。なんと、彼は植物学と生物学にもすぐれていたのです。まさに百科事典のような人です。動く百科事典です。

以前、私が福島で牧会していたとき、アメリカのフィラデルフィアから来たパウエル宣教師夫妻と3年間一緒に働いたことがあります。その夫のダン先生は、とにかく何でも知っているのです。「・・について知っていますか」というと、「それは・・」と言って説明し始めるのです。何でも知っているので、私たちは彼に「動く百科事典」というあだ名をつけました。何でも知っています。しかし、この時のソロモンの知恵は、ダン先生もその足元にも及ばないほどのものでした。周辺諸国の王たちが、そのうわさを聞いて「聞いてみたい」と言って尋ねてくるほどだったからです。後に現在のサウジアラビア、シェバから女王が、ソロモンの知恵を聞きにやって来ます。

いったいどうしソロモンは、これほどの繁栄を手にすることができたのでしょうか。一つには、神の約束がソロモンにおいて成就したからです。たとえば、創世記12章1~9節には、神がアブラハムと契約したことが記されてありますが、それが、ソロモンにおいて成就したのです。また、Ⅱサムエル7章7~17節には、ダビデ契約がありますが、それはダビデの子が世継ぎとなり、平和の約束が実現するということでした。それが成就したのです。

もう一つのことは、神がソロモンに「あなたに何を与えようか。願え。」(3:5)と言われたとき、彼は知恵と判断力求めた結果、神はそれに加えて、彼が願わなかったもの、すなわち、富も誉れも与えると約束してくださいました。ですから、これらのものはすべて神の約束とご計画に基づいて与えられたものなのです。

それゆえ、ソロモンに与えられた課題は、その恵みにどのように応答して生きるかということでした。この疑問に答える形で列王記の記述は続いていきます。そして、ソロモンの人生が私たちに教えていることは、繁栄は時として罠になるということです。このことは、私たちにとっても大きな教訓となります。私たちはいつも主を前に置いて、へりくだり、主を愛し、主の戒めに従って歩む者でありたいと思います。

エレミヤ4章1~4節「心の包皮を取り除け」

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エレミヤ書4章に入ります。きょうは、4節の「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」というみことばから、「心の包皮を取り除け」というタイトルでお話します。「包皮を取り除く」とは、イスラエルの民が先祖からの教えとして継承してきた割礼のことです。創世記17章10、11節に、こうあります。「10次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。11 あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。」

これは、神がアブラハムに語られた約束のことばです。彼らの中の男子はみな、生まれて8日目に割礼を受けなければなりませんでした。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている皮を切り取ることですが、それが神の民であることのしるしだったわけです。

しかしここではただの割礼を受けるようにと言われているのではありません。心の割礼、心の包皮を取り除け、と言われているのです。心に焦点が当てられているのです。

イエス様は、律法の中で一番重要な戒めは、心を尽くして、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛することだと言われました。しかし、心が包皮で覆われていると、心から神を愛することができません。ですから、心を覆っている包皮を切り取らなければならない、取り除かなければならないのです。

きょうは、このことについて三つのことをお話します。第一のことは、信仰には真実な行いが伴うということです。もし神に立ち返るというのならば、悔い改めにふさわしい実を結ばなければなりません。第二に、そのためには心を開墾しなければならないということです。茨の中に種を蒔いてはなりません。そのような種は、決して実を結ぶことはできないからです。第三のことは、主のために割礼を受け、心の包皮を取り除けということです。

 Ⅰ.もし帰るのなら(1-2)

まず1~2節をご覧ください。「1 「イスラエルよ、もし帰るのなら、-主のことば-わたしのもとに帰れ。もし、あなたが忌まわしいものをわたしの前から取り除き、迷い出ないなら、2 また、あなたが真実と公正と義によって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、互いに主を誇りとする。」」

ここには、「もし」ということばが繰り返して書かれてあります。1節には「イスラエルよ、もし帰るのなら」とありますし、また、「もし、あなたが忌まわしいものをわたしの前から取り除き、迷い出ないなら」とあります。また、2節には「もし」ということばはありませんが、「『主は生きておられ』と誓うなら、」というのは、「もし、誓うなら」ということです。ですからここには3回も、「もし」ということばが使われているのです。

なぜでしょうか。なぜ「もし」ということばを繰り返して使っているのでしょうか。それは、主がイスラエルに口先だけの悔い改めではなく、真実な悔い改めを求めておられたからです。確かにこのエレミヤの時代、南ユダ王国はヨシヤ王が宗教改革を行ったりと、表面的には神に立ち返ったかのように見えましたが、それはあくまでも表面的なもので、実際にはそうではなかったのです。まだ偶像礼拝が続けられていました。神殿で主なる神を礼拝していたかと思ったら、一方では偶像礼拝もしていました。つまり彼らの悔い改めは、実に表面的なもの、形式的なものにすぎなかったのです。

ですから主は、「イスラエルよ、もし帰るなら、わたしのもとに帰れ。」と言っているのです。主のもとに帰るということがどういうことなのかを、この「もし」ということばを使って具体的に示そうとされたのです。本当に神のもとに立ち返るというのなら、具体的な行動で示せというのです。神殿で礼拝をしていれば神に立ち返ったということではありません。口先で「主よ、愛します」とか、「主を賛美します」と言っても、そこに心が伴っていなければ、それは本当の賛美ではありません。悔い改めるというのなら、ことばだけではなく、行動によって示さなければならないのです。2節に「真実と公正と義によって『主は生きておられると誓うなら』」とありますが、それはそのことを表しています。ただ表面的に、うわべだけの信仰ではなく、真実と公正と義によって、心から「主は生きておられる」と告白することが求められるのです。なぜなら、人はうわべを見るが、主は心を見られるからです(Ⅰサムエル16:7)。

この『主は生きておられる』ということばですが、二重の『』になっています。これは文の途中だからということではなく、当時の決まり文句であったことを表しています。この後でエレミヤ書を見ていくとわかりますが、やたらめった出てきます。それは本当にすばらしい信仰の告白なのに、そのように告白していながら、まるで主が死んでいるかのように生きているとしたら、何の意味もありません。それはただうわべだけの信仰となってしまいます。それはたましいを離れたからだのように、死んだものなのです。

新約聖書のヤコブ書には、そのことについてこのように言っています。「たましいを離れたからだが、死んだものであると同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)行いのない信仰は死んでいるのです。それはたましいを離れたからだと同じなのです。死ぬとは、からだからたましいが離れることです。それと同じように、信仰に行いが伴っていなかったら、その信仰は死んでいるのです。それは行いがなければ救われないということではありません。私たちが罪から救われるのは私たちの行いによるのではなく、一方的な神の恵みによるものです。私たちの罪のために十字架で死んでくださったイエス・キリストを、私たちの救い主として信じるだけで救われるのです。しかし、本当にそのように信じたのであれば、当然そこには良い行いがついてくるものです。それが無いとしたら、それはたましいを離れたからだのように死んでいることになります。

これは、バプテスマのヨハネが強調していたことです。ヨハネは、バプテスマを受けようとしていて出て来た群衆にこう言いました。「7まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」(ルカ3:7-9)

ドキッとしますね。「まむしの子孫たち」と呼ばれたら。「だれが、迫り来る御怒りから逃れるようにと教えたのか」と迫って来るんですから。そうならないように、悔い改めて出て来ているんじゃないですか。それなのに、「まむしの子孫たち」呼ばわりはひどい!と言いたくなります。

でも、ここでバプテスマのヨハネが言いたかったことは、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」ということでした。自分たちはアブラハムの子孫だ、神の民だと言っても、それにふさわしい実を結ばなければ、そんな木は切り倒されてしまうというのです。よく「私はクリスチャンホームで生まれ育ちました」とか、「親も、またその親も、みんなクリスチャンでした」という方がおられますが、すばらしいですね。それは本当に神様の恵みです。しかし、たとえクリスチャンホームに生まれて来たからといっても、それで自動的にクリスチャンになるわけではありません。イエス様がニコデモに言われたように、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」のです、ですから、たとえクリスチャンホームに生まれて来ても、そこに真の悔い改めがなければ、悔い改めにふさわしい実を結ばなければ、切り倒されて、火に投げ込まれることになるのです。

では、悔い改めにふさわしい実を結ぶとは、どういうことなのでしょうか。ヨハネは具体的にこう述べています。「11「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」12 取税人たちもバプテスマを受けにやって来て、ヨハネに言った。「先生、私たちはどうすればよいのでしょうか。」13 ヨハネは彼らに言った。「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」14 兵士たちもヨハネに尋ねた。「この私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」」(ルカ3:11-14)

どういうことでしょうか。下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげるとか、食べ物を持っている人も同じようにしなさいというのは。つまり、神のみことばに生きるということです。神のみことばに従って生きなさい、ということです。「もし帰るのなら」、本当に神に立ち返るというのなら、あなたの心から偶像を取り除き、真実と公正と義によって、「主は生きておられる」と誓わなければならないのです。言い換えるなら、それは「心から悔い改める」ということです。真実な悔い改めは、水と御霊によって新しく生まれるという心の変革によってもたらされ、それは必ず行動という見える形で表されるのです。

2節後半の「国々は主によって互いに祝福し合い、互いに主を誇りとする。」とは、異邦人の救いのことです。イスラエルが本当に神に立ち返るなら、その祝福は異邦人にまで及び、異邦人も救いに導かれるという大きな祝福をもたらすようになるのです。この預言はまだ成就していません。なぜなら、イスラエル人はまだ本当に悔い改めていないからです。救い主イエス・キリストを信じていません。でもこれは必ず起こります。世の終わりになると、イスラエル人が自分の胸を打って悲しみ、イエス・キリストを信じるようになるのです。主はそのために「残りの者」を残しておられるのです。彼らによってイスラエルがイエスを信じるためです。そして、異邦人の満ちる時、イスラエルはみな救われるのです。パウロはそのことをローマ人への手紙9章から11章までのところで展開していますが、特に11章25節のところでそれを「奥義」として語っています。すばらしいですね。神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神の救いのご計画はこのようにして成し遂げられるのです。

であれば、私たちはその奥義を知らされている者として、真実と公正と義によって「主は生きておられる」と誓わなければなりません。主は死んでおられるのではなく生きておられるということを、行いと真実をもって告白しなければなりません。あなたが、もし本当に主に立ち返るというのなら、主のもとに帰らなければならないのです。

Ⅱ.耕地を開拓せよ(3)

第二のことは、ではそのためにはどうしたらよいかということです。3節をご覧ください。「まことに、主はユダとイスラエルにこう言われる。「耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。」

「耕地」とは、何も生えていない処女地のことです。その「耕地を開拓せよ」というのです。「開拓せよ」という言葉は、「砕く」という意味のことばです。かたくなになった心の耕地に(くわ)とか(すき)を入れて柔らかく耕すようにということです。なぜなら、そうしたカチカチと凝り固まったところにどんなに種をまいても実を結ぶことはないからです。そういう意味では「開拓せよ」というよりも、「開墾せよ」の方がわかりやすいですね。開墾して心を耕さなければなりません。

まだ上の娘が幼稚園の頃でした。「こどもチャレンジ」の付録に「植物の種を蒔こう」というのがありました。それで家庭菜園をすることになったのですが、私は野菜を育てたことがなかったので、どうやって育てたらいいかわかりませんでした。そんな時、どこからか「だったらかぼちゃがいい」という声を聞きました。「かぼちゃならバカでも育つ」と。だったら私でも大丈夫かと思い、ルンルンしながらかぼちゃの種を植えたのですが、一向に芽が出てきませんでした。どうしてかなぁと思ってある人に聞いたところ、「そんなところに植えちゃだめだ」と言われました。そんなとこというのは玄関のちょうど前のところでした。あと植える場所がなかったのです。

私たちは福島で教会を開拓した時、6畳二間と4畳半の借家で始めましたが、子供が生まれるとそこが狭くなったので、近くに中古の一軒家を購入しました。しかし、駐車場をなるべく広く取りたかったので、空いている土地のほとんどをコンクリートにしたのです。それで土の部分は限られていました。ちょうど玄関の前に2~3坪の土地があったのでそこに植えたのです。

子供のシャベルで土を掘り、種を植えて土を被せました。そしてジョウロで水をあげながら、かぼちゃができるのを楽しみにしていました。しかし、一向に芽が出てこない。「バカでも育つ」と言ったのに、全然育ちません。あれっ、どうしたんだろうと思って、ある人に聞いたところ、「それじゃだめだ!」と言うのです。ちゃんと土を耕して種を植えないと、バカでも育つかぼちゃでも育たない・・と。そうなんです。まず土を耕さなければなりません。鍬とか鋤まではいかなくても、土が柔らかくなるまで耕さなければならないのです。考えてみたら、そこは玄関の真ん前で、みんなの足で踏み固められた所でした。しかも硝子の破片とか金属片などが混ざっている土でした。そんな所で育つはずがありません。種が育つにはまず良い土地でなければならないのです。

私はすっかり自信を無くしてしまい、こういうことは私には向いてないと、それ以来、畑はやらないことにしました。

これは霊的にも言えることです。みことばの種が育つには、まず心を耕さなければなりません。堅い心を柔らかくして、みことばの種が成長するようにしなければならないのです。これは具体的には、神のみことばを聞く時には、心を柔らかくして、素直に心に受け入れなければならないということです。へブル3章7~8節にこうあります。「ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」聖霊があなたの心に鍬を入れ、鋤を入れて耕してくださいます。みことばの種を受け入れることができるように。それなのに私たちは罪が指摘されるとそれを拒む傾向があります。砕かれたくないのです。でもそのままではいくら種を蒔いても育ちません。不毛のままです。ですから、もしあなたが御声を聞くなら、心をかたくなにしないで、聖霊の導きに従わなければなりません。

これが預言者エレミヤに与えられていた使命でした。1章10節を振り返ってみましょう。エレミヤが預言者として召命を受けたとき、主はその目的をこのように言われました。「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」

建てるためには壊されなければなりません。植えるためには鍬を入れて、また鋤を入れて耕さなければならないのです。その堅い土を砕かなければなりません。なぜ?そうでないと植えられないからです。その結果、滅んでしまうことになります。だから、人々がどんなに嫌でも、エレミヤは伝えなければならなかったのです。彼らの心を耕すためです。

同じように、聖霊は今も私たちに語っておられます。それはあなたの耳に痛いことかもしれません。厳しく感じるかもしれない。でもそのようにして聖霊があなたの心を耕しておられるのです。ですから、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」のです。耕地を開拓せよ。あなたは心を開拓しなければなりません。神のみことばを受け入れることができるように、開墾しなければならないのです。

また、ここには「茨の中に種を蒔くな。」とあります。茨の中に種を蒔くとはどういうことでしょうか。茨の中に種を蒔くとは、種が芽を出して成長しようとしても茨がそれをふさぐので成長できないということです。それはどんな茨でしょうか。イエス様は、種まきのたとえの中でそれを教えてくれました。それはこの世の思い煩いや富の惑わしなどです。そのような心だと、それが心を塞ぐので実を結ぶことができません。ですから、「耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。」と言われるのです。

あなたの心はどのような畑、どのような土地でしょうか。道端のように人々の足で踏み固められたような堅い土ですか。それとも、岩地のように薄い土地ですか。あるいは、いばらのようにこの世の思い煩いと富の惑わしでふさがれているような畑でしょうか。耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。あなたの心を耕して、良い畑となって、神のみことばの種を受け入れ、多くの実を結ぶものでありたいと思います。

 Ⅲ.心の包皮を取り除け4)

第三のことは、心の包皮を取り除け、ということです。4節をご覧ください。「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。そうでないと、あなたがたの悪い行いのゆえに、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」

悔い改めのもう一つの要素は、主のために割礼を受け、神のもとに帰るということです。ここには、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」とあります。これは心の割礼のことです。

「割礼」については先ほどお話したように、イスラエルの民が神の民であることのしるしとして、生まれて8日目に必ず割礼を受けなければならないものでした。それは男性の性器の先端を覆っている皮を切り取るというものです。イスラエルの民は皆、必ずこの割礼を受けなければならなかったのです。

しかしここで言われているのは、そうした肉体的、外見的な割礼のことではなく、心の割礼のことです。確かに彼らは肉体的には割礼を受けていたかもしれませんが、心においてはそうではありませんでした。表面的にはユダヤ教の儀式を行い、神殿礼拝を行っていましたが、その心は神から遠く離れていたのです。それはちょうど私たちがバプテスマを受け、毎週礼拝を守り、献金もし、奉仕をしていても、心が神から離れているのと同じです。ですから、主は「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」と言われたのです。大切なのは心に割礼を受けることです。

パウロはこのことをローマ人への手紙2章28~29節でこのように言っています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。」とあります。皆さん、わかりますか。たとえ外見上からだに割礼を受けていたとしても、それが本当の意味での割礼ではありません。大切なのは、心に割礼を受けるということ、御霊による心の割礼なのです。実に「心の包皮を取り除く」とは、この神の御霊による心の割礼を受けるということです。もし心が包皮で覆われているとどうなるでしょうか。霊的な事柄に鈍感になります。何を言われてもピンときません。心に割礼を受けていないので、心が肉で覆われていると、メッセージを聞いてもわからないのです。

先週フレミング先生がメッセージで語っていたのは、このことです。聞いてもわかりません。悟ることができないのです。心が肉で覆われているからです。イエス様の時代にもそういう人たちがいました。イエス様が「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」(ヨハネ6:53)と言うと、弟子たちのうちのある者はこう言いました。「これはひどい話だ。たれが聞いていられるだろう。」(ヨハネ6:60)

何が問題だったのでしょうか。心が肉で覆われていたことです。心に割礼を受けていないと、そんな人食いなんて恐ろしい話で聞いていられないとか、トンチンカンなことを言ってしまうのです。だから、心の包皮を取り除かなければなりません。心に割礼を受けている人は、確かに聖書のメッセージは難しいかもしれませんが、ピンときます。「ああ、本当に私は罪深い人間だなぁ。でも、イエス様がこんな私の罪も赦してくださるんだ。本当に感謝します!」と。聖霊が教えてくださるからです。不思議ですね。まだバプテスマを受けたばかりの人でも、いや、まだ受けていなくても、イエス様を信じ、もっとイエス様のことを知りたいと願っている人にはわかるんです。そして、少しづつ変えられていきます。イエス様の似姿に。

ピリピ人への手紙3章2~3節を開いてください。ここでパウロは心に割礼を受けている人の特徴を、このように語っています。「2 犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。3 神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。」

その人はまず、神の御霊によって礼拝します。つまり、うわべだけの、形式的な礼拝ではなく、神を愛し、神を喜び、心から神を礼拝するのです。イエス様はサマリヤの女とお話をされた時、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)と言われました。それはこのことです。第二にその人は、人間的なものを誇るのではなくキリスト・イエスを誇ります。第三にその人は、肉に頼らないで神に頼ります。

デレク・プリンスという以前、東アフリカにある大学の学長をしておられ、その後、伝道者になった方ですが、彼はその大学にいた優れたアスリートたちを前にこう言いました。「君たちは自分がとても強く元気だと思っているだろうが、ほんの小さな一匹のマラリア蚊に刺されると、24時間以内に震えが襲って来るだろう。あなたは震え、熱に苦しみ、事実上何もできなくなるだろう。たった一匹の小さな虫がすべてを変えてしまうことがあり得るのです。」(Derek Prince Ministries Japan)

本当にそうですよね。私たちはどんなに自分の肉体を誇っても、たった一匹の蚊に刺されるだけで死んでしまうこともあるのです。それほど脆弱な者でしかないのです。けれども、私たちを造られた方、私たちの主イエスは、私たちのために十字架で死なれ、三日目によみがえられました。この方は死に勝利され今も生きておられる救い主であられます。私たちが頼りとするのは、この主イエス・キリストです。

あなたは何を頼りとしていますか。神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。」外見上がどうかということではなく、心に割礼を受けているかどうかが問われています。「耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。」「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しましょう。これが、神が私たち一人一人に求めておられる真実な悔い改めなのです。

Ⅰ列王記3章

 今日は、列王記第一3章から学びます。

 Ⅰ.あなたに何を与えようか。願え(1-5)

 まず1~5節をご覧ください。「1 ソロモンはエジプトの王ファラオと姻戚の関係を結んだ。彼はファラオの娘をめとり、ダビデの町に連れて来て、自分の家と主の家、およびエルサレムの周りの城壁を築き終えるまで、そこにとどまらせた。2 当時はまだ、主の御名のために家が建てられていなかったので、民はただ、高き所でいけにえを献げていた。3 ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいた。ただし、彼は高き所でいけにえを献げ、香をたいていた。4 王はいけにえを献げようとギブオンへ行った。そこが最も重要な高き所だったからである。ソロモンはそこの祭壇の上で千匹の全焼のささげ物を献げた。5 ギブオンで主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」」

ソロモンの治世は、エジプトの王ファラオの娘を妻とすることから始まりました。これは政略結婚です。異教の娘と結婚することについては、申命記7章3~4節で禁じられていました。その理由は、異教徒と結婚することによって惑わされ、まことの神から離れてしまうことになるからです。しかし、ソロモンはこうしたことには無頓着でした。結局彼は、最後は神から離れ、外国の神々を拝むようになってしまいます。しかし、ここでのポイントは彼が異教の娘と結婚したかどうかということではなく、このことがきっかけとなってエジプトと和平条約が結ばれたということ、そして、自分の家と主の家、城壁が築き上げられていったことです。

2節には「高き所でいけにえを献げていた」とありますが、この「高き所」とは偶像礼拝のことではありません。主なる神を礼拝していたところです。このときはまだ主を礼拝するための神殿がなかったので、民は高きところで主を礼拝していたのです。しかし、牛や羊ややぎを幕屋の祭壇においてささげなければなりませんでした(レビ17:2-3)。このような点では確かにソロモンは妥協したり、足りないところもありましたが、彼は父ダビデのように神を愛し、神とともに歩んでいました。そのように、たとえ不完全な状態でも主を愛していたソロモンに、主はご自分の恵みを施してくださいました。

それが4節にあることです。ソロモンはある日いけにえを献げるためにギブオンに行きました。ギブオンは、エルサレムから北東に12㎞にあるベニヤミンの地にある町です。そこが最も重要な高き所だったからです。そこでソロモンは、主の祭壇の上に千頭の全焼のいけにえを献げました。これはソロモンの神への愛と献身を表しています。

すると、その夜主がギブオンで夢のうちにソロモンに現れ、こう仰せられました。「あなたに何を与えようか。願え。」どういうことでしょうか。ソロモンは、信仰的には足りないところがありましたが、純粋に神を愛し、神とともに歩んでいたので、主はご自身を現わしてくださったのです。神の前に忠実に歩む者を、神は祝福してくださるのです。

Ⅱ.ソロモンの願い(6-15)

それに対して、ソロモンは何と答えたでしょうか。6節から15節までをご覧ください。9節までをお読みします。「6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。7 わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。8 そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。9 善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」

ソロモンが主に願ったのは、善悪を判断して神の民をさばくために、聞き分ける心を与えてほしいということでした。なぜでしょうか。なぜなら、自分がこのように王になることができたのは、父ダビデのゆえに与えられた神の恵みのゆえであるからです(6)。また、彼は小さな者にすぎず、出入りする術を知らなかったからです(7)。すなわち、彼は王としての自分の力量が不足しているということです。彼はそれことを認めていました。そして、そのうえ彼が治めようとしていた民は神の選びの民であり、しかもその数はあまりにも多くて、数えることができないほどなので、それほどの民をさばくためには、それなりの判断力が必要だと思ったからです(8)。すばらしいですね。彼は利己的な願いを脇に置き、神の民の祝福を優先させました。

それに対して主は、何と言われたでしょうか。10節から15節までをご覧ください。「10 これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、12 見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。13 そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」15 ソロモンが目を覚ますと、見よ、それは夢であった。彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを献げ、すべての家来たちのために祝宴を開いた。」

10節には、「これは主のみこころにかなった」とあります。そして、彼が自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、敵のいのちさえも願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、主は彼の願いを受け入れられ、彼に知恵と判断の心を与えると言われました。そればかりか、彼が願わなかったもの、富も誉れも与えると約束されました。さらに、もし彼が、ダビデが歩んだように、主の掟と命令を守って主の道に歩むなら、彼の日を長くしよう、と言われました。すなわち、長寿を全うするということです。つまり、ソロモンは主の御心にかなった祈りをすることができたので、主はそれを受け入れられたばかりか、それに加えて多くの祝福を与えてくださると約束されたのです。

ヨハネの手紙第一の中にこのような約束があります。「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)何事でも神のみこころにかなう祈りをするなら、神は聞いてくださる。これこそ神に対する私たちが抱いている確信なのです。

先週の礼拝後に教会の総会が行われ、新年度の活動について話し合いが持たれました。その中で私は、教会の駐車場のために祈りましょうと提案すると、Kさんから、駐車場のためだけでなく礼拝堂のためにもお祈りした方が良いのではないでしょうかという提案がありました。私はそれを聞いて、それは神様のみこころだと思いました。英語の礼拝やキッズのミニストリーなどを考えると、今の場所はかなり狭くなりました。もっと広い場所が必要です。しかし、現状を考えると経済的にはかなり厳しく、会堂建設の話を出すのは難しいのではと思い、そこまでは提案しませんでした。せめて教会に来る人が安心して駐車できるスペースを確保出来たらと思ったのです。しかし、駐車場に限らず主のみこころを求めていくことは大切なことです。今すぐにということではありません。まずそのために祈ることから始めていこうと思ったのです。

私たちは、どちらかというと、現状を見て「できる」とか「できない」と判断しがちですが、大切なのはそれが神のみこころであるかどうかということです。何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信なのです。

ソロモンはなぜそのような祈りをすることができたのでしょうか。いったいどうしたらソロモンのように神のみこころにかなった祈りをすることができるのでしょうか。その鍵は、3節と10節にあると思います。

3節には、「ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいた。ただし、彼は高き所でいけにえを献げ、香をたいていた。」とあります。また15節には「ソロモンが目を覚ますと、見よ、それは夢であった。彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを献げ、すべての家来たちのために祝宴を開いた。」とあります。

これを見ると、ソロモンが霊的に強められ、主への献身度が高められたことがわかります。3節の時点で彼は、確かに主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいましたが、まだ高き所でいけにえを献げていました。しかし、彼が夢によってご自身のみこころを示されると、エルサレムの、主の契約の箱の前に立って、全焼のささげ物と、交わりのいけにえを献げました。主の契約の箱とは、主の臨在の象徴です。エルサレムの主の家で、主の前で礼拝をささげたのです。つまり、彼は主を愛し、主の前で主を礼拝する中で信仰が強められ、献身度が高められていったのです。そのような中で主は彼にご自身のみこころを示されたのです。

先日、近藤先生が、月に1度の礼拝でのメッセージのご奉仕のために準備している中で、主が先生に触れてくださり励ましとなっていると話されましたが、それは本当だと思います。私自身、礼拝や祈祷会のためにメッセージを準備する中で主が触れてくださり、深く教えられています。毎週の礼拝ではそのような中から神のことばが語られるのです。聖霊がお一人お一人の心に触れてくださるのは当然のことです。確かに、一人で聖書を読んだり祈ったりする中でも主は語ってくださいますが、であれば、そのような人たちが集まって心を一つにして礼拝する中で、主がご自身のみこころを示してくださるのは当然のことではないでしょうか。

ですから、私たちが神のみこころを知り、みこころにかなった祈りをするためには、ソロモンのように主を愛し、心を尽くして主を礼拝することが求められるのです。そうすれば主は私たちにご自身の思いを示してくださり、御心にかなった祈りができるようになるのです。

Ⅲ.ソロモンのさばき(16-28)

最後に、16~28節をご覧ください。「16 そのころ、二人の遊女が王のところに来て、その前に立った。17 その一人が言った。「わが君、お願いがございます。実は、私とこの女とは同じ家に住んでいますが、私はこの女と一緒に家にいるとき、子を産みました。18 私が子を産んで三日たつと、この女も子を産みました。家には私たちのほか、だれも一緒にいた者はなく、私たち二人だけが家にいました。19 ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。20 この女は夜中に起きて、このはしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って自分の懐に寝かせ、死んだ自分の子を私の懐に寝かせました。21 朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きると、どうでしょう、その子は死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、なんとまあ、その子は私が産んだ子ではありませんでした。」22 すると、もう一人の女が言った。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのがあなたの子です。」先の女は言った。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」女たちは王の前で言い合った。23 そこで王は言った。「一人は『生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、また、もう一人は『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ』と言う。」24 王が「剣をここに持って来なさい」と言ったので、剣が王の前に差し出された。25 王は言った。「生きている子を二つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ。」26 すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。」しかしもう一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言った。27 そこで王は宣告を下して言った。「生きている子を初めのほうの女に与えよ。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親である。」28 全イスラエルは、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。」

そのような時、二人の遊女が彼のところにやって来ました。ある問題についてさばいてほしいと思ったからです。その問題とは、二人は同じ家に住んでいて、それぞれ三日の差で子を産みましたが、片方の女が夜の間に自分の子の上に伏したために死んでしまったのです。するとその女が、死んだ子をまだ生きている自分の子と取り替えたというのです。これは判断を下すのが非常に難解な事件でした。今の時代のようにD.N.A.鑑定ができればすぐに明らかになりますが、そのようなものが無い時代です。しかも、彼らの他にだれも証人がいませんでした。こうした物的証拠がない中で、ソロモンは正義のさばきを行わなければならなかったのです。これは、ソロモンの知恵がどれほどすばらしいものであったのかを証明するために書かれたものです。いったい彼はどのようにしてこの難題を解決したのでしょうか。

ソロモンは、「剣をここに持って来なさい」と命じると、生きている子どもを剣で二つに切り分け、それぞれの女が半分ずつ取るように命じました。すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思い、その子をもう一方に女に与えてくださいとお願いしました。決してその子を殺さないでくださいと。しかしもう一方の女は、それを自分のものにも、他の女のものにもしないで、断ち切ってくださいと言いました。

するとソロモンは、その生きている子を初めのほうの女に与えるようにと言いました。決してその子を殺してはならないと。彼女がその子の母親だからです。つまり、ソロモンは母性本能と人間としての情を理解して、この難解な問題を解決したのです。本当の母親ならば、自分の手から子どもがいなくなることよりも、子どもの命を大事にするでしょう。この本能を利用してどちらが本当の母親なのかを見極めたのです。これは非常に知恵ある、公正な判断でした。

このさばきを見た全イスラエルは、王を恐れました。なぜなら、神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからです。これは、ソロモンの王国が確立したことを意味しています。ヤコブ1章5節に「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」とあります。私たちに必要なのはこの神の知恵です。

私たちの教会では、毎週日曜日に3つの教会で4回の礼拝が行われていますが、私はそのいずれの週報も書いています。週報の中のお知らせや報告などを書くのは簡単かと思いますが、そうでもありません。書いてみるとわかりますが、ことば使いや伝え方、タイミングを間違えると大変なことになります。本当に小さなことですが、教会全体に与える影響は大きいのです。教会はいつも変化していますから、それに応じて一人一人に配慮し、丁寧に書かなければなりません。ですから、全体の状況を的確に把握してないと書けないのです。それを毎週4枚描き続けるのは簡単なことではありません。そのためには知恵が必要です。上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。

私たちには、この知恵が必要なのです。もし知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めましょう。そうすれば与えられます。あなたは何を願っていますか。それが主のみこころにかなった願いであるなら、主は聞いてくださいます。主のみこころにかなった祈りと願いをするために、ますます主を愛し、心から主に従い、愛する兄弟姉妹とともに、主の前で主に礼拝をささげましょう。