Ⅰ列王記8章

今日は、列王記第一8章から学びます。前回と前々回は、ソロモンの神殿と宮殿の建設について学びました。今日の箇所は神殿が完成してそれを神に献げる奉献式に関する記事です。

 Ⅰ.主の契約の箱を運び入れる(1-11)

まず、1節から11節までをご覧ください。「1 それからソロモンは、イスラエルの長老たち、および、イスラエルの部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムのソロモン王のもとに召集した。ダビデの町シオンから主の契約の箱を運び上げるためであった。2 イスラエルのすべての人々は、エタニムの月、すなわち第七の新月の祭りにソロモン王のもとに集まった。3 イスラエルの長老全員が到着すると、祭司たちは箱を担ぎ、4 主の箱と、会見の天幕と、天幕にあったすべての聖なる用具を運び上げた。これらの物を祭司たちとレビ人たちが運び上げた。5 ソロモン王と、王のところに集まったイスラエルの全会衆は、ともに箱の前に行き、羊や牛をいけにえとして献げた。その数はあまりにも多く、数えることも調べることもできなかった。6 祭司たちは、主の契約の箱を、定められた場所、すなわち神殿の内殿である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れた。7 ケルビムは、箱の一定の場所の上に翼を広げるのである。こうしてケルビムは箱とその担ぎ棒を上からおおった。8 その担ぎ棒は長かったので、棒の先が内殿の前の聖所からは見えていたが、外からは見えなかった。それは今日までそこにある。9 箱の中には、二枚の石の板のほかには何も入っていなかった。これは、イスラエルの子らがエジプトの地から出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれた際に、モーセがホレブでそこに納めたものである。10 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。11 祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」

神殿完成のためのメイン・イベントは、契約の箱を移動させることでした。ソロモンは、イスラエルの長老たち、部族のかしらたち、一族の長たちをすべて、エルサレムの自分のもとに召集しました。ダビデの町シオンに置かれていた契約の箱を、すぐ北に位置する神殿の丘まで運ぶためです。それはエタニムの月、すなわち第七の新月の祭りに行われました。この祭りは仮庵の祭りです。神殿は、前年の第八の月(ブルの月)に完成していました(6:38)。ですから、それから約11か月が経過していたことになります。なぜ奉献式をこんなに遅らせたのでしょうか。たぶん、この仮庵の祭りに合わせて行おうとしたからではないかと思います。そうすれば、より多くの民が集うことができるからです。

イスラエルの長老たち全員が到着すると、祭司たちは契約の箱を担ぎ、会見の天幕と、天幕にあったすべての聖具を運び上げました。5節をご覧ください。ソロモン王と、王のところに集まった全会衆は、ともに箱の前に行き、羊や牛をいけにえとして献げましたが、その数はあまりにも多く、数えることも調べることもできませんでした。覚えていますか。ダビデが、オベデ・エドムの家から契約の箱を運び出した時のことを。牛がよろめいたのでウザが神の箱に手を伸ばしそれをつかんだ時、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はその場で打たれてしまいました。それでダビデは、箱をかつぐ者たちが六歩進む度に、肥えた牛をいけにえとしてささげました(Ⅱサムエル6:1-15)。ここでソロモンも同じようなことをしています。しかし、ダビデのときよりもはるかにいけにえの数が多かったようです。それはあまりにも多くて、数えることも調べることもできませんでした。

そのようにして祭司たちが主の契約の箱を運ぶと、定められた場所、すなわち神殿の内部である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れました。契約の箱には長いかつぎ棒がついていましたが、ケルビムは箱とその担ぎ棒を植えからおおいました。箱の中には、モーセの律法を記した2枚の石の板のほかには何も入っていませんでした。以前は他に二つの物が入っていました。マナのつぼと、アロンの杖です(出エジプト16:33)。マナは、イスラエルが荒野の旅をしているとき、主が毎朝イスラエルのために与えられた食物ですが、このことを記念するために、つぼに取っておきなさいと主が命じたものです。またアロンの杖は、レビ人コラがアロンとモーセに逆らい滅ぼされた後、イスラエルの民がアロンとモーセに与えられた権威を認めていなかったので、主が12部族のかしらを集めて、だれが主に選ばれた祭司であるのかを示すために入れたものに行われたものです。契約の箱の前に置かれた12本の杖の中で、アロンの杖だけにアーモンドの実が結ばれ、花が咲きました。この二つがなかったのは、契約の箱がペリシテ人の地にあったとき、それを取り除いたからではないかと考えられます。あるいは、それはイスラエルが約束の地に行くまでに必要な、一時的な神の証しだったのかもしれません。いずれにしても、契約の箱において大事なのは、この2枚の石の板です。つまり、神のことばです。

祭司たちが聖所から出て来たとき、すなわち主の契約の箱を至聖所に収めた時、雲が主の宮に満ちました(10)。これは主の栄光と臨在を現しています。これは、神がソロモンの建てた神殿を受け入れ、そこに臨在することをよしとされたということです。モーセが幕屋を完成された時も同じでした(出エジプト40:34-35)。それは神殿が完成したからということよりも、ソロモンをはじめイスラエルの民が主を心から慕い求め、主のことばに歩もうとする信仰を、主が喜ばれたということです。それが信仰から出たことであれば、主はそれを喜ばれ、ご自身の栄光と臨在を現してくださるのです。

Ⅱ.ソロモンの祈り(12-53)

12~13節をご覧ください。「12 そのとき、ソロモンは言った。「主は、黒雲の中に住む、と言われました。13 私は、あなたの御住まいである家を、確かに建てました。御座がとこしえに据えられる場所を。」」

「主は黒雲の中に住む」とはどういうことでしょうか。新改訳第三版は「暗やみの中に住む」と訳しています。これは、主は濃い雲の中にご自身の臨在を現わされるということです。そして同時にこれは、主が暗やみの中に住んでいる人間のところに来て住まわれるということを示しています。ヨハネ1章14節には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられる。」とあります。主は、罪と不法の中に生きている人々の中に、暗やみの中に住んでいる私たちのところに住まわれ、ご自身の栄光を現わされる方なのです。ですからソロモンは、主が臨在してくださることを目的に、主が住まわれる家を建てたのです。

14~21節をご覧ください。「14 それから王は振り向いて、イスラエルの全会衆を祝福した。イスラエルの全会衆は起立していた。15 彼は言った。「イスラエルの神、主がほめたたえられますように。主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて、こう言われた。16 『わたしの民イスラエルをエジプトから導き出した日からこのかた、わたしは、わたしの名を置く家を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町も選ばなかった。わたしはダビデを選び、わたしの民イスラエルの上に立てた。』17 それで私の父ダビデの心にはいつも、イスラエルの神、主の御名のために家を建てたいという思いがあった。18 ところが【主】は、私の父ダビデにこう言われた。『あなたの心にはいつも、わたしの名のために家を建てたいという思いがあった。その思いがあなたの心にあったことは、良いことである。19 しかし、あなたはその家を建ててはならない。あなたの腰から生まれ出るあなたの子が、わたしの名のために家を建てるのだ。』20 主はお告げになった約束を果たされたので、私は主の約束どおりに父ダビデに代わって立ち、イスラエルの王座に就いた。そしてイスラエルの神、主の御名のためにこの家を建て、21 主の契約が納められている箱のために、そこに場所を設けた。その契約は、主が私たちの先祖をエジプトの地から導き出されたときに、彼らと結ばれたものである。」」

これまで神殿に向かって、栄光の主を拝していたソロモンは、神殿の庭にいるイスラエルの民の方を振り向いて彼らを祝福します。ここで彼が語っていることは、神殿建設の経緯についてです。それは主が語られたとおりになされたことであるということです。ここには「主は、・・・と言われた」ということばが繰り返して出てきます。それは主がダビデに命じられたことでした。それゆえ、ダビデはいつも、主の御名のために家を建てたいという思いがありましたが、それは彼のすることではなく、彼の腰から生まれる彼の子がすることであると言われました。それでソロモンは父ダビデに代わりその約束通りに主のために家を建て、主の契約の箱を置くためにその場所を設けたのです。それは、主が彼らの先祖をエジプトから導き出されたときに、彼らと結ばれたものです。つまり、この神殿建設は、シナイ契約の延長線上に実現したことなのです。

この神殿建設をもって、主が約束された土地を獲得するという戦いは実質的に終了しました。そして、ダビデに約束された契約も成就しました。また、そのことによって主の臨在の約束が確認されたのです。つまり、この神殿建設は、神のイスラエルに対して約束してくださったことが実現したことを示しているのです。神の約束は永遠に変わることがありません。このみことばの約束に立って歩む人は何と幸いなことでしょう。主はその人の人生に、ご自身の御業を現わしてくださるのです。

22~53節は、ソロモンの奉献の祈りが記されています。まず22~24節をご覧ください。「22 ソロモンはイスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、天に向かって両手を伸べ広げて、23 こう言った。「イスラエルの神、主よ。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です。24 あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに約束したことを、ダビデのために守ってくださいました。あなたは御口をもって語り、また、今日のように御手をもってこれを成し遂げられました。」

ソロモンはイスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、天に向かって両手を伸べ広げて祈りました。私たちは、祈るとき、目を閉じて、こうべを垂れて、手を組んで祈りますが、聖書の中では、両手を差し伸べて、立って祈るのを見かけます。両手を上に差し伸べるのは、天におられる神に対して、自分が服従し、主が言われることを心を開いて受け入れることを意味しています。

ソロモンはまず、神への賛美と信頼を告白しています。ここには「契約と恵みを守られる方です。」とあります。具体的には、父ダビデに約束してくださったことを、大いなる御手をもって成し遂げてくださったことへの感謝と賛美です。

そして、彼の願いが続きます。25~30節です。「25 そこで今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたことを、ダビデのために守ってください。『あなたがわたしの前に歩んだように、あなたの子孫がその道を守り、わたしの前に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に就く者がわたしの前から断たれることはない』と言われたことを。26 今、イスラエルの神よ。どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたおことばが堅く立てられますように。27 それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。28 あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、今日、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。29 そして、この宮、すなわち『わたしの名をそこに置く』とあなたが言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。30 あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この場所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたの御住まいの場所、天においてこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。」

ここでソロモンはどんなことを願っているでしょうか。ここでソロモンが願っていのは、神の民の祈りを聞いてほしいということです。27節は有名なみことばの一つです。天地を創造された方が、人間が建てた宮などに住むことなどできません。しかし、主はそこに「わたしの名をそこに置く」と約束されました。つまり、主の宮の中にご自身の臨在を現わしてくださると約束されました。それゆえ、神のしもべがこの宮に向かって祈りをささげるとき、それを聞いてほしいというのです。

31~32節をご覧ください。「31 ある人が隣人に罪を犯して、のろいの誓いを立てるよう求められ、この宮の中にある、あなたの祭壇の前に来て誓うなら、32 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行って、悪い者にはその生き方への報いとしてその頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義をもって報いてください。」

ここにはソロモンの第2の願いが記されてあります。それは「ある人が隣人に罪を犯して、のろいの誓いを立てるよう求められ、この宮の中にある、あなたの祭壇の前に来て誓うなら、あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行って、悪い者にはその生き方への報いとしてその頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義をもって報いてください。」ということです。どういうことでしょうか。これは隣人との争いごとに関することです。だれかが他者に罪を犯して問題になり、お互いに譲らないときは、神殿の祭壇の前で自らが有罪か無罪かを証言しなければなりませんでした。それが「のろいの誓いを立てる」ということです。しかし私たち人間には、究極的には公正な判断を下すことはできません。けれども、主はすべてを知っておられます。そこで、主が公正なさばきを下してくださいと祈っているのです。

第3の願いは33~34節にあります。「33 あなたの民イスラエルが、あなたの前に罪ある者となって敵に打ち負かされたとき、彼らがあなたに立ち返り、御名をほめたたえ、この宮であなたに祈り願うなら、34 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、あなたが彼らの先祖にお与えになった地に、彼らを帰らせてください。」

これは、敗戦の原因となった罪が赦されるようにとい祈りです。ソロモンは、罪を犯すことと敵に打ち負かされることを、直接的に関連付けています。事実、イスラエルの民は主の前で悪を行なっているときに、周囲の住民や国々に打ち負かされました。たとえば、アイの戦いで敗北したのは、アカンが神の命令に背いて聖絶の一部を取っておいたからでした(ヨシュア7:1-11)。また、ペリシテ人との戦いに敗れたのも、祭司エリの二人の息子ホフニとピネハスが、主の前に罪を犯したからです(Ⅰサムエル:1-11)。そのようなとき、イスラエルの民がすべきことは、神に立ち返り、悔い改めて祈りをささげることです。ソロモンは、この主の宮、神殿でそのような悔い改めの祈りをするとき、その祈りが聞かれるようにと願っているのです。

第4の願いは、35~36節にあります。「35 彼らがあなたの前に罪ある者となって、天が閉ざされ雨が降らなくなったとき、彼らがこの場所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたが苦しませたことによって彼らがその罪から立ち返るなら、36 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦してください。彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に雨を降らせてください。」

これは干ばつの原因となった罪が赦されるようにという祈りです。もし天が閉ざされて雨が降らなくなったとき、その原因はどこにあるのかというと、それは罪です。そのために主が天を閉ざしておられるのです。今週の礼拝でエレミヤ書5章後半からお話しましたが、まさにこのことです。エレミヤ5章25節にこうあります。「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」ですから雨が降らなくなったときは、単に雨が降らないので降らせてくださいと祈るのではなく、まず自分たちが主の前に自分の罪を認め、その罪から立ち返って、雨を降らせてくださいと祈らなければなりません。ここでも大事なのは、状況が良くなることではなく、状況をとおして主との関係を保つことにあります。

第5番目の願いは何でしょうか。災害の原因となった罪が赦されるようにという祈りです。37~40節です。「37 この地に飢饉が起こり、疫病や立ち枯れや黒穂病、いなごやその若虫が発生したときでも、敵がこの地の町々を攻め囲んだときでも、どのようなわざわい、どのような病気であっても、38 だれでもあなたの民イスラエルが、それぞれ自分の心の痛みを知って、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら、どのような祈り、どのような願いであっても、39 あなたご自身が、御座が据えられた場所である天で聞いて、赦し、また、かなえてください。一人ひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心をご存じです。あなただけが、すべての人の子の心をご存じだからです。40 そうして、あなたが私たちの先祖にお与えになった大地の上で彼らが生き続ける間、いつもあなたを恐れるようにしてください。」

ここでは想定される災害が列挙されています。たとえば、飢饉とか、疫病、立ち枯れや黒穂病、いなごやその若虫の発生、敵からの攻撃、さまざまなわざわい、病気などです。それらの背後には、やはり罪の問題があります。このような場合には、悔い改めの祈りが必要です。それがどのようなわざわい、どのような病気であっても、神の民イスラエルが、それぞれ自分の心の痛みを知って、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら、その祈りを聞いてほしいというのです。それは彼らがいつも主を恐れるためです。主は、私たちが主を恐れるために、こうしたわざわいをもたらすことがあります。わざわいは、神が私たちを見捨てたしるしではなく、神を恐れるための手段の一つであることを覚え、へりくだって主の御前に歩みたいと思います。

第6番目の祈りは、神を恐れる異邦人が祝福されるようにという祈りです。41~43節をご覧ください。「41 同様に、あなたの民イスラエルの者でない異国人についても、その人があなたの御名のゆえに、遠方の地から来て、42 彼らが、あなたの大いなる御名と力強い御手と伸ばされた御腕について聞き、やって来てこの宮に向かって祈るなら、43 あなたご自身が、あなたの御座が据えられた場所である天でこれを聞き、その異国人があなたに向かって願うことをすべて、かなえてください。そうすれば、地上のあらゆる民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じようにあなたを恐れるようになり、私が建てたこの宮で御名が呼び求められなければならないことを知るでしょう。」

ソロモンは、神を恐れる異邦人のためにも祈っています。これは驚くべき内容です。というのは、神殿奉献は、イスラエルにとって国家的行事です。その最中に、異邦人のことも忘れずに、彼らの上に祝福が注がれるようにと祈っているからです。旧約聖書を注意深く見ると、神の祝福と契約にあずかっているのはイスラエル人だけでなく、異邦人もそうであることがわかります。主がアブラハムに約束されたのは、彼の子孫が大いなる国民になることだけでなく、彼によってすべての民族が祝福を受けることでした(創世記12:3)。ですから、ソロモンは異邦人の祈りも聞いてください、とお願いしているのです。

7番目の祈りは、戦に勝利するようにという祈りです。44~45節です。「44 あなたの民が敵との戦いのために出て行くとき、遣わされる道で、あなたがお選びになった都、私が御名のために建てた宮に向かって主に祈るなら、45 天で彼らの祈りと願いを聞いて、彼らの言い分を聞き入れてやってください。」

イスラエルの民が敵との戦いにおいて勝利することができるのは、彼らが主の宮に向かって祈る民だからです。しかし、それは何でもかんでもということではなく、「遣わされる道で」とあるように、主のみこころにかなった戦いに限定されています。約束の地カナンでの戦いは、まさにその良い例です。それは主が遣わされた戦いでした。

8番目の祈りは、46~50節です。「46 罪に陥らない人は一人もいません。ですから、彼らがあなたの前に罪ある者となったために、あなたが怒って彼らを敵に渡し、彼らが、遠くであれ近くであれ敵国に捕虜として捕らわれて行き、47 捕らわれて行った地で我に返り、その捕囚の地であなたに立ち返ってあわれみを乞い、『私たちは罪ある者です。不義をなし、悪を行いました』と言い、48 捕らわれて行った敵国で、心のすべて、たましいのすべてをもって、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖にお与えになった彼らの地、あなたがお選びになったこの都、私が御名のために建てたこの宮に向かって、あなたに祈るなら、49 あなたの御座が据えられた場所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえて、50 あなたの前に罪ある者となったあなたの民を赦し、あなたに背いた、彼らのすべての背きを赦し、彼らを捕らえて行った者たちの前で彼らをあわれみ、その者たちがあなたの民をあわれむようにしてください。」

これは、捕らわれの地から帰還できるようにという祈りです。ソロモンは、イスラエルが捕虜として敵国に捕らわれて行った時のことを想定しています。彼はこのような状況を想像することができました。なぜなら、レビ記や申命記で、モーセがすでにこのような最も屈辱的で、悲惨なイスラエルの境遇を預言していたからです。

ソロモンはここで、「罪に陥らない人は一人もいません」と言っています。彼は人間の罪の性質についてよく知っていました。義人はいない、一人もいない。罪に陥らない人など一人もいません。パウロは、「すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」(ローマ3:23)と言っていますが、その言葉がソロモンの口からも発せられています。私たちは、自分が何でこんなに罪深い者なのだろうか、なんでこんなに自分で憎むようなことを行なってしまったのか、と悔いるときがありますが、主は初めからそのことをご存知で、それでこのような汚れた者に近づいてくださり、あわれみと回復のみわざを行なってくださるのです。

さて、捕虜として敵国に連れて行かれた時、私たちはどうするべきでしょうか。そのときには真心から悔い改め、エルサレムの神殿の方を向いて祈る必要があります。それが約束の地に帰還する唯一の方法です。そうするなら、神はその祈りを聞き、民を約束の地に帰還させてくださいます。このソロモンの祈りをそのまま実行していた人がいます。ダニエルです。イスラエルの民は、事実、バビロンによって捕囚の民となりました。その中の一人がダニエルですが、彼は一日に三度、窓を開けて、エルサレムのほうを向いて、祈っていました(ダニエル6:10)。彼は、「私たちが罪を犯しました。あなたは正しい方で、正しいことを行なったのです。」と祈りました。その祈りのとおり、イスラエルは約束の地に帰還することになります。

捕囚の民として連れて行かれるということが起こると、私たちは神が自分たちを見捨ててしまわれたのかと思いがちですが、神はいかなる時にも、私たちを見捨てることなく、私たちの帰りを待っておられます。私たちに求められているのは、真心から悔い改めて、神に祈ることです。そうすれば主は私たちの祈りを聞いてご自身のもとに帰してくださるのです。

最後の願いは、51~53節にあります。「51 彼らはあなたの民であり、あなたがエジプトから、鉄の炉の中から導き出された、ご自分のゆずりの民だからです。52 どうか、あなたのしもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いに御目を開き、彼らがあなたを呼び求めるとき、いつもその願いを聞き入れてください。53 あなたが彼らを地上のあらゆる民から選り分けて、ご自分のものとされたのですから。神、主よ。あなたが私たちの先祖をエジプトから導き出されたとき、あなたのしもべモーセを通してお告げになったとおりです。」

ソロモンは最後に、「どうか、あなたのしもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いに御目を開き、彼らがあなたを呼び求めるとき、いつもその願いを聞き入れてください。」と祈っています。なぜなら、彼らはあなたの民だからです。イスラエルの行ないは、そのさばきを受けるにふさわしい行ないですが、あなたが彼らを選ばれたのですから、お願いします、と言っているのです。イスラエルの民は、地上の諸国の民から区別され、神の計画を推進するための器として選ばれました。出エジプトの出来事も、モーセの律法も、神による選びの証拠です。その選びのゆえに、その民のどんな祈りにも耳を傾けてくださいというのです。

ソロモンはイスラエルの歴史を振り返り、主がいかにご自身の契約に忠実な方であるかを確認しました。そして、その信頼の目をもって未来を見つめ、主の恵みと守りがこれからも続くとの確信を持ったのです。この視点は、私たちにとっても大切です。使徒パウロはこう教えています。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」(ローマ8:32)

主イエスの十字架の愛を思う時、私たちは将来への希望を持つことができるようになります。神の変わらない愛を信じて、主にすべてをゆだねましょう。

Ⅲ.民を祝福するソロモン(54-66)

最後に、54~66節を見て終わります。「54 こうしてソロモンは、この祈りと願いをことごとく主にささげ終えた。彼は、それまでひざまずいて、天に向かって両手を伸べ広げていた主の祭壇の前から立ち上がり、55 まっすぐに立って、イスラエルの全会衆を大声で祝福して言った。56 「主がほめたたえられますように。主は約束どおり、ご自分の民イスラエルに安住の地を与えてくださいました。しもべモーセを通してお告げになった良い約束はみな、一つも、地に落ちることはありませんでした。57 私たちの神、主が、私たちの先祖とともにいてくださったように、私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちをお見捨てになることがありませんように。58 私たちの心を主に傾けさせ、私たちが主のすべての道に歩み、私たちの先祖にお命じになった命令と掟と定めを守らせてくださいますように。59 私が主の御前で願ったこれらのことばが、昼も夜も、私たちの神、主のみそば近くにあって、日常のことにおいても、しもべの訴えや、御民イスラエルの訴えを正しくかなえてくださいますように。60 こうして、ついに地上のあらゆる民が、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知るに至りますように。61 あなたがたは、今日のように、私たちの神、【主】と心を一つにし、主の掟に歩み、主の命令を守らなければならないのです。」62 それから、王と、一緒にいたすべてのイスラエル人は、主の前にいけにえを献げた。63 ソロモンは主へのいけにえとして、牛二万二千頭と羊十二万匹の交わりのいけにえを献げた。こうして、王とすべてのイスラエルの人々は主の宮を奉献した。64 その日、王は主の宮の前庭の中央部を聖別し、そこで全焼のささげ物と、穀物のささげ物と、交わりのいけにえの脂肪を献げた。主の前にあった青銅の祭壇は、全焼のささげ物と、穀物のささげ物と、交わりのいけにえの脂肪を受け入れるには小さすぎたからである。65 ソロモンはこのとき、ともにいた全イスラエル、すなわち、レボ・ハマテからエジプト川に至るまでの大会衆と一緒に、七日と七日の十四日間、私たちの神、主の前で祭りを行った。66 八日目に王は民を帰らせた。民は王に祝福のことばを述べ、主がそのしもべダビデと、その民イスラエルに下さったすべての恵みを喜び、心満たされて、彼らの天幕に帰って行った。」

ソロモンは、この祈りと願いをことごとく主にささげ終えると、まっすぐに立って、イスラエルの全会衆を大声で祝福して言いました。56節です。彼は、主が約束どおり、イスラエルの民に安住の地を与えてくださったことをほめたたえています。主がモーセを通して語られた約束は、一つも地に落ちることはありませんでした。みな成就しました。それは私たちに言えることです。聖書に書かれている主の約束は、一つも地に落ちることはありません。みな実現します。

そのことを前提に、ソロモンはここで3つのことを願っています。一つ目は主がともにいて、彼らを見離さず、見捨てることがないように(57)ということです。二つ目のことは、58節にあるように、彼らの心を主に向けさせ、彼らがすべてのことにおいて主の道に歩、主が命じられた命令と掟と定めとを守らせてくださるようにということです。そして三つ目のことは、主が祈りと願いを聞いてくださるようにということです(59)。それは何のためでしょうか。それは、地上のすべての民族が、主だけが唯一の神であることを知るようになるためです。イスラエルは自らの祝福だけでなく、地上のすべての民族に祝福をもたらすために存在しているからです。

これは、私たちにとっても重要なことです。私たちは何のために存在しているのでしょうか。それは私たちの祝福だけでなく、地上のすべての人たちの祝福のためでもあります。そういう意味では、私たちがそのような存在となれるように祈らなければなりません。

それから、ソロモンと、一緒にいたイスラエル人は、主の前にいけにえを献げました。それは牛2万2千頭、羊12万頭の交わりのいけにえでした。これは「和解のいけにえ」です。血と脂肪と内臓は焼いて煙にし、肉を礼拝者が一緒に食します。この交わりのいけにえの目的は、「交わり」にありました。神と民が交わり、民と民が交わります。相当の数の牛と羊がいけにえとして献げられました。この主へのいけにえは、イエス・キリストを象徴していました。キリストは私たちの罪の贖いとして死んでくださったことによって、彼を信じるすべての人が神と和解させられました。「すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。」(Ⅱコリント5:19)神との和解こそ、福音がもたらす祝福です。神との交わりを喜んでいる人は幸いです。私たちもこの和解をもたらす者となりましょう。