エレミヤ7章1~15節「生き方と行いを改めよ」

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エレミヤ書7章に入ります。7章から、エレミヤの第二のメッセージになります。第一のメッセージは1~6章までの内容でした。それはエレミヤが預言者として召命を受けてすぐあとの若い頃に語られたものでした。この7章からの第二のメッセージは、それから約15~20年くらい後に語られたものです。なぜなら、7:2に「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。「主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。」とありますが、これが26:2と同じ内容だからです。26:2には「主はこう言われた。「主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。」あります。ですから、この二つの内容は同じ背景で語られたものであることがわかるのです。そして、これはいつ語られたものかというと、26:1に「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。」とあります。このエホヤキムの治世の初めはB.C.609年ですから、エレミヤが預言者として召命を受けたB.C.627年から18年後であることがわかります。それがこの7章の内容なのです。この時エレミヤは40歳を少し過ぎたくらいだったのではないかと思われますが、これまで南ユダ王国を治めてきたヨシヤ王がエジプトの王パロ・ネコとの戦いに敗れて死に、代わってパロ・ネコによって立てられたエホヤキムが王として立てるという不安定な社会の中で、このことばを語ったのです。それはこれを聞いたユダの宗教指導者たちから反発を招き、捕らえられ、殺されそうになるほどの厳しいメッセージでした。それは、「生き方と行いを改めよ」という内容でした。。

Ⅰ.「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」(1-7)

まず1~7節までをご覧ください。「1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。『主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。4 あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。5 もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、6 寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。

これは、主の宮の門でエレミヤが語った主のことばです。だれに対して語ったのでしょうか。2節には「主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、」とあります。エレミヤは、主の宮、エルサレムの神殿で礼拝をするためにやって来たすべてのユダの人々に対して語ったのです。

それはどのような内容だったかというと、3節にあるように、あなたがたの生き方と行いを改めよということでした。なぜなら、4節にあるように、彼らは「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼していたからです。どういうことでしょうか。

ここには「主の宮、主の宮、主の宮だ」と、「主の宮」という言葉が3回も繰り返して発せられています。この「主の宮」とはエルサレムの神殿のことです。その神殿に向かって、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と連呼していたわけです。ここに、当時のユダの民と宗教指導者たちの思いが表れています。つまり、この「主の宮」さえあれば大丈夫という信仰です。これまでエレミヤが語って来たことを思い起こしてください。エレミヤは神に背いたイスラエル、ユダの民に対して、悔い改めて神に立ち返るようにとずっと語ってきました。そうでないとあなたがたは滅びると。具体的には北から一つの国、バビロン軍がやって来て、いなごが穀物を食い尽くすようにすべてを食い尽くすということでした。これは、その警告に対する反論です。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」。つまり、たとえバビロンが攻めて来ても大丈夫、たとえ飢饉があっても問題ない、この主の宮が立っているエルサレムが滅ぼされるはずがないという主張です。それほど彼らはエルサレムにあった神殿、「主の宮」を過信していたのです。ここにはこんなに立派な神殿があるではないか、この神殿が滅ぼされるはずはない。神が共にいて必ず守ってくださると。

彼らがこのように叫んだのには、根拠がなかったわけではありません。第一に、このエルサレムは自然の要塞に囲まれていた堅固な町でした。ですから、どんな敵が攻めて来ても簡単には落とせなかったのです。第二に、このエルサレム神殿は約350年前にソロモン王によって建てられたものですが、その奉献式でソロモンは、この神殿には主なる神様の名が置かれている、と言いました。つまり、神様が共にいて守ってくださると信じられていました。第三に、何といってもこの時から約100年前に、アッシリヤの王セナケリブが攻め上って来た時も、主は守ってくださいました。当時の王様はヒゼキヤという王様でしたが、彼が主の前に悔い改め、主に助けを祈り求めると、主はさばきを思いとどまり、奇跡的に彼らを助け出されました(イザヤ36~37章)。日本でも「神風が吹く」ということばがありますが、まさに神風が吹いたわけです。ですから、他の町が滅びることがあってもこのエルサレムだけは大丈夫!絶対に滅びないという確信があったのです。それがこの「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」ということばに表れていたわけです。

しかしキリスト教信仰とは、勢いでもなければ迷信的なものでもありません。鰯の頭も信心からと、どんなにつまらないと思えるようなものでも信じればご利益があるというものではありません。その中身が問われるわけです。彼らは表向きには礼拝をささげ敬虔に振る舞っているようでしたが、その中身は神から遠く離れていました。こうした外面的なこと、すなわちハードな面を重視して、もっとも重要なこと、つまり、主の御声に聞き従うという本質的なことをなおざりにしていたのです。皆さん、信仰の中身、信仰の本質とは何でしょうか。それは何度もお話しているように、主の御声に聞くということです。それはただ礼拝で説教を聞くということ以上のことです。主の御声に聞き従うということです。彼らにはそれがありませんでした。

それは、5~7節を見るとわかります。彼らは「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と言っていながら、生き方と行いが伴っていませんでした。たとえば、5~7節には「あなたがたが生き方を改め、あなたがたの間で公正を行い、寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。」とあります。「公正」とは神のことばに基づく正義のことです。彼らには神のことばに基づく行いが伴っていませんでした。ただ「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と叫んでいただけだったのです。ですから、寄留者、孤児、やもめを虐げ、咎なき者の血を流し、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしていました。彼らは、自分では神を信じていると言いながら、その行いは神のみこころにかなったものではなかったのです。彼らが拠り所としていたのは神様ご自身ではなく神の宮、神殿にすぎませんでした。そこにいれば大丈夫、そこに属していれば問題ないと思い込んでいたのです。

これは私たちにも言えることです。たとえば、自分が伝統のある立派な教会に通っているというだけで安心したり、聞けば誰でもすぐにわかるような有名な牧師であるというだけで、自分たちの信仰は正しいものだと思い込んでいることがあります。それはここでユダの民が「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と叫んでいるようなものです。そのような人たちは神ご自身に信頼しているよりも、教会の伝統とか、教会の建物、牧師といった表面的なもので自分の信仰を正当化しているにすぎません。幸い、キリスト教には迷信とかお守りといったものはありません。しかし、もし私たちが表面的な儀式を行うことで自分を安心させていることがあるとしたら、それは迷信と何ら変わりがありません。

新約聖書ヤコブ2:14にはこうあります。「私の兄弟たちは。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」

このようなことばを聞くと、ああ、私は救われていないのではないかと心配される人もおられるかもしれませんが、そういう方はどうぞ心配しないでください。それだけご自分が本気で信仰のこと、救いのことを考えているということなのですから。ここでヤコブが言っていることは、まさにこうした形式的な信仰に対するチャレンジです。自分には信仰があると思っても、その人に行いがないとしたら、そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。信仰には行いが伴うからです。その行いとは、神の御声に聞き従うということです。それは自分の力でできることではなく神の恵みによるわけですから、その神の恵みに応答して生きているかどうかということです。それが、生き方と行いを改めるということです。そうすれば、主はあなたを主が約束してくださった場所に住まわせてくださいます。

今日は、4名の兄姉がバプテスマを受けられました。うれしいですね。しかも、その内3名は小学3年生です。聖書に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(伝道者の書12:1)とありますが、本当に若い日にイエス様を信じて、信仰のスタートを切ることができて、そのように導いてくださった主に感謝します。しかもこの中には私の孫もいて、感無量ですね。ところで、その孫が先ほど証をしてくれましたが、事前にチェックしたところ、こうなっていました。「だから、バプテスマを受けて、私は天国行きのきっぷをもらいたいと思います。」 それを読んだ時「ん?」と思いました。バプテスマを受ければ天国に行くんですか?勿論、バプテスマを受けることは大切なことです。けれども、ただバプテスマを受ければいいということではなく、イエス様を信じてバプテスマを受けるのでなければ意味がありません。多くの人はバプテスマが天国行きの切符であるかのように思っていますが、そうではありません。天国に行くことができるのは、イエス様を信じることによってです。イエス様を信じてバプテスマを受けるなら、だれでも救われます。天国に行くことができます。だから、「イエス様を信じて」ということばを加えてもらいました。イエス様を信じているのでバプテスマを受けるのです。なぜなら、それが神様の御声、イエス様の命令だからです。イエス様はこう言われました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)

バプテスマはすばらしい恵みです。しかし、バプテスマを受けたから大丈夫という信仰は、ここでユダの民が、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ。」と叫んでいるのと変わりありません。バプテスマはイエス様の御声に聞き従うことの応答の一つであって、そのスタートの時なのです。今日バプテスマを受けた4名の兄姉も、既にバプテスマを受けて神の恵みに歩んでいる人も、どうかこのことを覚えて、ますます主の御声に聞き従う歩みをしていただきたいと思うのです。

Ⅱ.強盗の巣にしてはならない(8-11)

次に、8~11節をご覧ください。「8 見よ、あなたがたは、役に立たない偽りのことばを頼りにしている。9 あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。10 そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。11 わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。」

また出てきましたよ、ユダの民の主張が。10節にこうあります。「私たちは救われている」これも先ほどの「主の宮、主の宮、主の宮だ。」と言っているのと同じです。

エレミヤはここで、悔い改めないイスラエル、ユダの民に対して、その罪を責め立てています。9節には、「あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。」とあります。これは律法の中心である十戒を破っているということです。たとえば、「あなたは盗み」とありますが、これは第8戒の「盗んではならない」(出エジプト記20:15)を破る罪です。また「人を殺し」は、第6戒の「殺してはならない」(出エジプト記20:13)です。同様に「姦淫し」は、第7戒の「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)を破る罪であり、「偽って誓い」は、第9戒の「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」(出エジプト記20:16)を破る罪です。そして「ほかの神々に従っている」とは、第1戒の「あなたには、わたしの以外に、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト記20:3)を破る罪です。このように彼らは、ことごとく律法の中心である十戒を破っていました。にもかかわらず彼らは、主の宮の神様の前にやって来て、「私たちは救われている」と言っていたのです。どういうことでしょうか。彼らの礼拝の姿勢がズレていたということです。彼らは「私たちは救われている」と言いながら、あらゆる忌むべきことを行っていたのです。すなわち、そこには真の悔い改めが伴っていなかったということです。それは主に受け入れられるものではありません。「私たちは救われている」というのはただの思い込みであって、実際はそうではなかったということです。

それに対して主はこう言われます。11節です。「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた。」

「あなたの名がつけられているこの家」とは、主の宮のことです。神を礼拝するはずの神殿が、強盗の巣になっているというのです。「強盗の巣」とは「強盗のアジト」のことです。強盗が自分のアジトに逃げ帰るように、神殿に逃げ帰っている、神殿が律法を違反する者の隠れ家になっているというのです。

実は、新約聖書の中にこのことばが引用されています。聖書を読んでいる方はすぐにピンときたかと思いますが、引用されたのはイエス様ご自身です。イエス様は宮きよめの時にこのことばを引用されました。マタイ21:12~13です。「12それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」」

このようなイエス様の姿を見て、中には「ちょっと理解できないなあ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。神殿で売り買いしている人たちを見て、気が狂ったかのようにその人を追い出したり、両替人の台とか、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されたのですから。ちゃぶ台をひっくり返すということばがありますが、まさにそんな光景です。エレミヤの場合はただことばで指摘しただけですが、イエス様の場合はことばだけでなく実際に行動に移されました。文字通りちゃぶ台をひっくり返されたわけです。神殿で商売をしていた人たちを追い出して、宮をきよめられました。心の中では商売人たちの姿を見て「それはどうかなぁ」と思うことはあっても、実際にそこまでする人はほとんどいないのではないかと思います。事実、これが決定的な出来事となってイエス様は十字架に付けられることになります。それほど激しい行為だったのです。いったいなぜイエス様はそこまでされたのでしょうか。それは「祈りの家」であるはずの神殿が「強盗の巣」になっていたからです。神の家は祈りの家でなければならないのに、そうではなかったのです。いけにえさえささげればよいと、不当な利益をむさぼり、神殿を強盗の巣としていた彼らに対して激しく憤ったのです。

それは私たちにも言えることであって、私たちも口では「私たちは救われている」と言いますが、彼らと同じようなことをしていることがあるのではないでしょうか。

聖書の解説と適用が付いている「バイブルナビ」というのがありますが、その中に次のように解説されてありました。的を得た解釈と適用だと思いましたので引用したいと思います。「ユダの民がどのように神殿を扱ったかということと、現代人が教会をどのように扱うかということの間には、いくつかの類似がある。①彼らは神殿を毎日の生活の一部にしなかった。私たちは崇拝にふさわしく準備された美しい教会堂に行くかもしれないが、週日は神の存在を離れて忘れてしまっていることが多い。(いわゆるサンデークリスチャンということですね)②神殿の概念の方が信仰の中身よりも大切になっていた。教会に通い、団体の一員であるということの方が、神のために自分の生活を変えることよりも大切になっている。③民は神殿を避難所にした。多くの宗教団体を隠れ家として、それが悪い問題から守っていれると考えている。」。

どうでしょうか。よくまとまった解釈と適用ではないでしょうか。

信仰生活は、神との人格的な関係であるということを覚えておきたいと思います。そして、神との人格的な交わる中で神のみこころに従い、神の愛に応答することこそがその本質なのです。神殿に入るだけの形式的なものではありません。イエス様とつながり、イエス様との関係の中で実を結ぶ者でありたいと思います。

Ⅲ.シロの教訓から学べ(12-15)

最後に、12~15節をご覧ください。「12 だが、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住まわせた場所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のゆえに、そこでわたしがしたことを見てみよ。13 今、あなたがたは、これらのことをみな行い──主のことば──わたしがあなたがたに、絶えずしきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかったので、14 わたしの名がつけられているこの家、あなたがたが頼みとするこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に対して、わたしはシロにしたのと同様のことを行う。15 わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。』」

では、どうすればいいのでしょうか。第三のことは、シロの教訓から学べということです。12節には、シロにあったわたしの住まいを見て来なさいと呼び掛けられています。「シロ」とは犬の名前ではありません。そこはかつてイスラエルの礼拝が行われていた中心地でした。そこはエルサレムから北に30㎞ほど行ったところにありますが、ヨシュアがカナンを占領したとき、そこに会見の天幕を立てました(ヨシュア18:1)。それ以来この「シロ」が、イスラエルの礼拝の中心地となったのです。ところが預言者サムエルの時代に、イスラエルはペリシテ人との戦いに敗れ、その神の箱が奪われてしまいました。彼らは神の箱があれば大丈夫、絶対に勝利できると戦いの最前線に持って来たのですが、結果は散々たるものだったのです。このエレミヤの時代から500年も前のことです。そのサムエルの時代とこのエレミヤの時代には一つの共通点があります。それは主の箱を持って行きさえすれば戦いに勝利できる、この宮さえあれはば大丈夫だと思い込んでいたことです。それを絶対的な拠り所としていたことです。しかし、それは単なる思い込みにすぎませんでした。そのことを知るためにシロに行って、そこで主がなさったことを見て来なさいと言われたのです。シロが廃墟となったように、今エルサレムに対しても同様のことをすると。それは彼らが表面的なものを拠り所にして、本質的なものを見ていなかったからです。

そればかりではありません。15節には「わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。」とあります。「エフライム」とは北イスラエル王国のことです。北イスラエル王国、エフライムはアッシリヤによって滅ぼされてしまいました。B.C.722年のことです。かつて彼らの兄弟北イスラエル王国がアッシリヤによってその地から追い払われたように、彼らも主の前から追い払われることになると言われたのです。つまりエレミヤはここで、冷静に歴史的事実として現わされた神のさばきに目を留めるようにと言っているのです。そこから学ぶように・・・と。皆さん、歴史は繰り返します。歴史を学ぶ大切さはそこにあります。過去にどんなことがあったのかを学び、それを教訓にして、将来に向かっていくのです。

このようにユダの民は10年以上もエレミヤから神のことばを聞いてきたのにもかかわらず全く聞こうししなかったので、シロのように、またエフライム、北イスラエルのように神のさばきが彼らを襲うようになると告げられたのです。

このことからどのようなことが言えるでしょうか。真の安全を得る方法は、形式的な信仰や儀式的な張りぼてのような中身が伴わない信仰では得られないということです。そうした生き方と行いを改めて、神のことばに従って生きなければならないということです。

では、どうしたらそのような生き方ができるのでしょうか。もう一度12節をご覧ください。ここには、シロにあった神様の住まいのことが言及されていました。それは「わたしの名を住まわせた場所」と言われています。それは神が住まわれる所という意味です。しかしよく考えてみると、この天地万物を創られた神が、人間が作った幕屋に住まわれるはずがありません。事実、この神殿を建てたソロモン自身も、奉献式の祈りの中でこのように言っています。「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」(Ⅰ列王記8:27)

そうです、実に、天も、天の天も、神様をお入れすることなどできません。しかし、それを可能にした方がおられます。それは私たちの主イエス・キリストです。ヨハネ1:14には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。「ことば」とは、勿論イエス様のことです。イエス様は世の初めから神とともにおられた神です。すべてのものは、この方によって造られました。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもありません。この方こそまことの神であり、救い主であられます。この方が人となって、私たちの間に住まわれたので、私たちは神と出会うことができるのです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)つまり、キリストを通して私たちは神と出会い、神が私たちの間に住まわれたということです。「住まわれた」ということばは「幕屋を張られた」という意味ですが、まさに神がキリストを通して私たちの間に幕屋を張られた、私たちの間に住まわれたのです。

しかしよく考えてみると、罪に汚れた人間の間に神が住むことはできません。神は聖なる方であり、ほんの小さなしみやしわでも交わることができないからです。しかしその神の方からその道を開いてくださいました。一方的な恵みによって幕屋を張ってくださったのです。ことばが人となって、私たちの間に住まわれたのです。それが十字架でした。イエス様が十字架に付けられ、無実の人の血が流されたことによって、その尊い犠牲によって、本当は誰も近づくことができない神様と交わる道が開かれ、神が住まわれる、「神ともにいまし」という神の約束が実現したのです。神の宮である教会は、一方的な恵みによって神が私たちと出会うところなのです。それをあたかも人間が作った神殿に神様を閉じ込めておけるかのような錯覚を持つのは間違っています。ここに儀礼的というか、形式的な礼拝が生じてくる原因があったのではないでしょうか。

そうならないために必要なことは何でしょうか。私たちが神と出会うように導いてくださったまことの神であられるイエス様を信じ、イエス様から目を離さないことです。イエス様から目を離すと、神への恐れと感謝を忘れてしまい、こうした形式的な礼拝に陥ってしまうことになります。自分は毎週礼拝に来ているから大丈夫だ、バプテスマ(洗礼)を受けたからもう安心だ、奉仕もしているし、献金もささげているから問題ないというのは、神様が望んでおられるまことの礼拝ではありません。勿論、こうしたことも大切なことですが、それが信仰の中心ではないのです。神が願っておられる信仰とは、私たちの罪のために十字架で死なれ、その血によって罪を贖い、ご自身のみもとへと引き寄せてくださった神の御子イエス・キリストに感謝し、その神の恵みに応答して、神のことばに従って生きることなのです。それが生き方と行いを改めるということなのです。イエス様によって与えられたこの恵みを無駄にしないようにしましょう。神への感謝と恐れが私たちの中に本当にあるならば、それに応答して生きようとする思いが必ず生まれてくるのではないでしょうか。

Ⅰ列王記10章

 今日は、列王記第一10章から学びます。

 Ⅰ.シェバの女王(1-13)

まず、1節から5節までをご覧ください。「1 ときに、シェバの女王は、主の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとしてやって来た。2 彼女は非常に大勢の従者を率い、バルサム油と非常に多くの金および宝石をらくだに載せて、エルサレムにやって来た。彼女はソロモンのところに来ると、心にあることをすべて彼に問いかけた。3 ソロモンは、彼女のすべての問いに答えた。王が分からなくて、彼女に答えられなかったことは何一つなかった。4 シェバの女王は、ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、5 その食卓の料理、列席の家来たち、給仕たちの態度とその服装、献酌官たち、そして彼が主の宮で献げた全焼のささげ物を見て、息も止まるばかりであった。」

「シェバ」とは、アラビア半島にあるイエメン辺りのことです。イエメンは豊富な香料を産出する国でした。先日の礼拝説教はエレミヤ書6章からでしたが、20節に「いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。」とありました。それは、このシェバが豊富な香料を産出する国であったからです。そのシェバの女王がソロモンの名声を聞き、彼のもとにやって来たわけです。何のためでしょうか。彼を試すためです。彼がどれほどの知恵を持っているのかを試すために、難問をもって彼のもとにやって来ました。

シェバの女王は、大勢の従者を率いて、また、バルサム油や多くの金、および宝石を携えてエルサレムにやって来ました。彼女はソロモンに会うと、ありとあらゆる質問をソロモンに投げかけました。するとソロモンは、そのすべての問いに答えました。彼が分からなくて答えられなかった問いは何一つありませんでした。

シェバの女王は非常に驚きました。それはソロモンの知恵と、彼が立てた宮殿、その食卓の料理、列席の家来たち、給仕たち、給仕たちの態度、その服装、献酌官たち、そして彼が主の宮で献げた全焼のいけにえが、彼女が想像していたものよりもはるかに優れていたからです。神の知恵は、こうした一人一人の態度や振る舞い等、見える形で表れるのです。それは神様によって与えられたものだったのです。神の知恵によって生かされている人は何と幸いでしょうか。主を恐れることが知恵の初めです。私たちも主を恐れ、主に従い、主から知恵をいただいて、与えられた人生を歩みましょう。

次に、6~10節をご覧ください。「6 彼女は王に言った。「私が国であなたの事績とあなたの知恵について聞き及んでいたことは、本当でした。7 私は自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、なんと、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさより、はるかにまさっています。8 なんと幸せなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる、このあなたの家来たちは。9 あなたの神、主がほめたたえられますように。主はあなたを喜び、イスラエルの王座にあなたを就かせられました。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義を行わせるのです。」10 彼女は百二十タラントの金と、非常に多くのバルサム油と宝石を王に贈った。シェバの女王がソロモン王に贈ったほど多くのバルサム油は、二度と入って来なかった。」

シェバの女王はソロモンに言いました。それはこういうことです。彼女が実際にソロモンに会うまでは懐疑的でしたが、実際に来てみて、それが本当であったことがわかったということ。いや、その半分も知らされていませんでした。ソロモンの知恵と繁栄は、自分が聞いていたうわさなどよりも、はるかにまさっていました。彼女はソロモンのそばで仕え、いつもその知恵を聞くことのできる人たちをうらやましく思い、「なんと幸せなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる、あなたの家来たちは。」(8)と感嘆の声をあげました。

そして、このように言って主をほめたたえました。9節です。「あなたの神、主がほめたたえられますように。主はあなたを喜び、イスラエルの王座にあなたを就かせられました。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義を行わせるのです。」これはシェバの女王のことばです。なんと彼女はイスラエルの神、主をほめたたえました。異邦人の女王が、イスラエルの神、主をほめたたえたのです。5:7には、異邦人のツロの王ヒラムもイスラエルの神をほめたたえました。それはイスラエルの神、主によって与えらされたものであると認めたのです。また、それは主の御計画によるものであることを認めました。さらに、それは主がイスラエルをとこしえに愛しておられる証拠であると語っています、また、主がソロモンをイスラエルの王としてお立てになったのは、公正と正義を行わせるためであるという目的にも触れています。すごい洞察力ですね。それほどソロモンの知恵が際立っていたということでしょう。それで彼女はソロモンに百二十タラントの金と、非常に多くのバルサム油と宝石を贈りました。これほど多くのバルサム油は、二度と入ってきませんでした。相当の量のバルサム油を贈ったのです。ソロモンが神によって立てられた王であると認めたということです。

11~13節をご覧ください。「11 また、オフィルから金を積んで来たヒラムの船団は、非常に多くの白檀の木材と宝石を、オフィルから運んで来た。12 王はこの白檀の木材で、主の宮と王宮のための柱を作り、歌い手たちのための竪琴と琴を作った。今日まで、このような白檀の木材が入って来たことはなく、見られたこともなかった。13 ソロモン王は、シェバの女王が求めたものは何でもその望みのままに与えた。さらに、ソロモン王の豊かさにふさわしいものも彼女に与えた。彼女は家来たちを連れて、自分の国へ帰って行った。」

「ヒラムの船団」とは、ソロモンとツロの王ヒラムが協力して運営していた船団のことです。「オフィル」とはアラビアのことを指しています。つまり、ヒラムの船団が、オフィルから非常に多くの金と白檀の木材と宝石を運んで来たということです。これらがソロモンの資金源でもありました。ソロモンはこのヒラムの船団が運んで来た白檀の木材で主の宮と王宮の柱を作り、歌い手たちのための竪琴や琴を作りました。白檀は表面が黒く、中は赤褐色の非常に堅い木材なので、建築の柱やこうした楽器などを作るのに適していました。それが今日まで見たことがないほどの量が運ばれて来たのです。ソロモンはシェバの女王に、彼女が求めるものは何でもその望みのままに与えました。それでシェバの女王はすべての面で満足して、自分の国へ帰って行きました。

このシェバの女王について、新約聖書にも言及されています。マタイ12:42でイエス様はこのように言っておられます。「南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。」(マタイ12:42)

シェバの女王は、ソロモンの知恵を聞くために、約2,000キロの距離を旅したのです。しかし、ここにソロモンよりももって優れた方がおられます。私たちの主イエス・キリストです。であれば、2,000キロはおろか、それ以上の関心を示すのは当然のことではないでしょう。しかし、イスラエルの耳は閉ざされていました。あなたはどうでしょうか。イエス様の知恵を聞くために、あらゆる犠牲を払っているでしょうか。イエス様はあなたのすべての犠牲を払ってもあなたの必要を満たすだけの価値があるお方なのです。この方に聞き従いましょう。

Ⅱ.ソロモンの富(14-22)

次に、10~14節をご覧ください。「10 ソロモンが主の宮と王宮との二つの家を二十年かけて建て終えたとき、11 ツロの王ヒラムが、ソロモンの要請に応じて、杉の木材、もみの木材、および金を用立てたので、ソロモン王はガリラヤ地方の二十の町をヒラムに与えた。12 ヒラムはツロからやって来て、ソロモンが彼に与えた町々を見たが、彼はそれらが気に入らなかった。13 彼は、「兄弟よ。あなたが私に下さったこの町々は、いったい何ですか」と言った。そのため、これらの町々はカブルの地と呼ばれ、今日に至っている。14 ヒラムは王に金百二十タラントを贈っていた。」

一年間にソロモンのところに入って来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントでした。1タラントは33キログラムです。仮に1グラムが4,500円だとすると、とてつもない数字になります。1キログラムで450万円となります。であれば1タラントはその33倍ですから、1億4850万円となります。その666倍ですから、現代の価値で989億100万円となります。約1,000億円です。 それだけの量の金が、毎年ソロモンのところにはいって来たのです。

ところで、この666という数字ですが、ご存知のように聖書では「7」が完全数で、「6」はその手前であって不完全を意味しています。黙示録13章に世界を牛耳り、自分を神として拝ませようとする反キリストが出てきますが、その獣の数字が666です。それは「人間を表す数字である」(黙示録13:18)とあるので、これはソロモンに代表される世界の富と栄華を神としている人間の姿を表しているのではないかと考えられます。ソロモンのところにはこうした金のほかに隊商から得たもの、貿易商人の商いから得たもの、アラビアのすべての王たち、およびその地の総督たちからのものがあったので、相当の富と財宝がありました。こうした富を、主を愛するために用いるなら神の栄光を現わすことになりますが、もし金銭そのものを愛するならば、反キリストと少しも変わらなくなってしまいます。

ここでソロモンはそれらの金を何のために用いたかというと、大盾や盾に使いました。大盾1つに六百シェケルです。1シェケルは11.4グラムですから、6,840グラムとなります。ですから、約3千万円の金を使用したという計算になります。それが200個ですから、大盾だけで6億円です。盾は1つにつき3ミナ(1ミナは570グラム)ですから、1個につき約770万円です。それを300個作りましたから、約23億円となります。ソロモンはそれらをレバノンの森の宮殿に置きました。全くの無駄遣いです。意味がありません。

さらに彼は大きな象牙の王座を作り、これにも純金をかぶせました。それは王の威光を示すためでした。王座の背もたれの上部は丸くなっており、ひじ掛けの脇には二頭の雄獅子が立っていました。さらに王座に上る6段の階段の両側には、合計12頭の雄獅子が立っていました。これほど豪華な王座は、それまで誰も見たことがありませんでした。

また、ソロモンが飲み物に用いる器はすべて金です。銀のものはありませんでした。ソロモンの時代には銀は価値あるものとはみなされていなかったからです。すべて純金製です。ソロモンはヒラムの船団のほかにタルシシュの船団も持っていて、こうした船団が金、銀、象牙、猿、孔雀などを運んで来たのです。

このことからも、ソロモンの神への信頼は失われていったことがわかります。なぜなら、モーセの律法には、富の蓄積を禁じているからです。申命記17:17には「また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。」とあります。王は多くの妻を持って、心がそれることがあってはならなかったし、自分のために銀や金を過剰に持ってはならなかったのですが、ソロモンはこの両方をいとも簡単に破っていました。ここに、私たちへの警告があります。過剰な金や銀を持つことで、私たちの心が神から離れてしまうことになります。そうした富を持つことで神に信頼することを忘れてしまうからです。イエス様は、「あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6:24)と言われました。私たちは神にも仕え、富にも仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじることになるからです。ソロモンと同じ失敗を犯さないために、私たちも自らの心を見張らなければなりません。

Ⅲ.ソロモンの栄華(23-29)

最後に、23~29節をご覧ください。「23 ソロモン王は、富と知恵において、地上のどの王よりもまさっていた。24 全世界は、神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとして、彼に謁見を求めた。25 彼らはそれぞれ贈り物として、銀の器、金の器、衣服、武器、バルサム油、馬、ろばなどを、毎年携えて来た。26 ソロモンは戦車と騎兵を集め、戦車千四百台と騎兵一万二千人を所有した。彼はこれらを戦車の町々、およびエルサレムの王のもとに配置した。27 王はエルサレムで銀を石のように用い、杉の木をシェフェラのいちじく桑の木のように大量に用いた。28 ソロモンが所有していた馬は、エジプトとクエから輸入されたもので、王の商人たちが、代価を払ってクエから手に入れたものであった。29 戦車はエジプトから銀六百、馬は銀百五十で買い上げられて、輸入された。同様に、ヒッタイト人のすべての王やアラムの王たちにも、王の商人たちの仲買で輸出された。」

ソロモン王は、富と知恵において、地上のどの王よりもまさっていました。それは、ソロモンに対する 神の約束が成就したということです。その結果、非常に多くの支配者たちがソロモンに謁見を求めました。彼らはそれぞれ贈り物として、銀の器、金の器、衣服、武器、バルサム油、馬、ろばなどを、携えて来たので、ソロモンはとても富める者になりました。

ソロモンは戦車と騎兵を集め、エルサレムの彼のもとに配置しました。当時、戦車は最強の武器でした。ソロモンは軍事力を高めるために、戦車千四百台と騎兵1万2千人を所有したのです。また、銀を石のように、杉の木をいちじく桑のように大量に用いました。銀も杉の木も大変高価なものでしたが、ソロモンはそれを大量に用いることができました。

しかし、彼はさらに馬をエジプトとクエから輸入しています。戦車は銀六百、馬は銀で百五十です。それは大変高価な買い物でした。いったい何のために彼はこれらのものを輸入したのでしょうか。ヒッタイト人のすべての王たちや、王の証人たちの仲買で輸出するためです。すなわち、仲買人として利益を得るためです。

しかし、戦車や馬を大量に保持することは、モーセの律法に反していました。申命記17:16には、「ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。」とあります。その理由は、目に見えるものに信頼を置き、神に信頼しなくなってしまうからです。誤った信頼感は、私たちを危険に方向へと向かわせることになります。いったい私たちの助けはどこからくるのでしょうか。私たちの助けは主から来ます(詩篇121:2)。そのことを覚え、ただ主にだけ信頼しましょう。

このように、ソロモンの富と栄華の背後で、主への愛と献身が徐々に失われていたのを見ることができます。主を愛しているけれども、多くの富を持ち、その富によって知らないうちに心が主から離れていったのです。ヘブル2:1に「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」とあります。自分は大丈夫と思っているうちに、舟は沖へ押し流され、気づいたときは取り返しもつかない状況になっていることがあります。私たちも押し流されないように、主から聞いたことをしっかり心に留めておきたいと思います。

エレミヤ6章16~30節「幸いな道はどれか」

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きょうは、エレミヤ書6章の後半の箇所から「幸いな人はどれか」というタイトルでお話します。この6章は、預言者として神のことばを語ったエレミヤの最初の預言のまとめとなる箇所です。神に背いたイスラエル、ユダの民に対して、神に立ち返るようにと語りますが、民は全く聞こうとしませんでした。それに対して神は滅びを宣告されました。北からのわざわい、バビロン軍がやって来て彼らをことごとく破壊すると。それでも彼らは聞こうとしなかったのです。彼らは頑なで、どんなに悪を取り除こうとしても取り除くことができませんでした。それで神は彼らを捨て去ることになります。きょうの聖書箇所の30節には「彼らは捨てられた銀と呼ばれる。主が彼らを捨てられたのだ。」とあります。彼らに必要だったことは、へりくだって、悔い改めることでした。幸いな道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいの安らぎを見出すことだったのです。

Ⅰ.「私たちは歩まない」(16-20)

まず16~20節までをご覧ください。「16 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。17 わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。18 それゆえ、諸国の民よ、聞け。会衆よ、知れ。彼らに何が起こるかを。19 この国よ、聞け。見よ、わたしはこの民にわざわいをもたらす。これは彼らの企みの実。彼らがわたしのことばに注意を払わず、わたしの律法を退けたからだ。20 いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のささげ物は受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない。」

「道の分かれ目に立って」とは、新改訳聖書第三版では「四つ(つじ)に立って」と訳しています。「四つ辻」とは、十字路のことです。東西南北に視界が開けた場所のことを指しています。四方とも開けているので、どの方角にも進むことができるわけですが、そこに立って見渡すようにというのです。幸いな道はどれであるかを。しかし往々にして私たちは、自分がどちらの道を進んで行ったらよいのか迷います。それで主はこう言われます。「いにしえからの通り道、幸いな道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。」

「いにしえからの道」とは、昔からの道という意味で、これは神の律法のことを指しています。この道はすでにイスラエルの歴史を通して、そこに歩めば幸いな人生を送ることができると実証されていた道でした。にもかかわらず、彼らは何と言いましたか。彼らは「私たちは歩まない」と言いました。こういうのを何というんですかね。こういうのを反抗的と言いますね。彼らは実に反抗的だったのです。

「律法」と聞くと、私たちの中にも否定的なイメージを抱く人がおられるのではないでしょうか。でも「律法」そのものは良いものです。それは、人間が正しく歩ために神が与えてくださった道しるべです。それは、私たちを幸いな道へと導いてくれるものなのです。しかし残念なことに、この律法の要求を完全に満たすことができる人はだれもいません。ですから、律法によって義と認められることはできません。もしそのように求めるなら、律法が本来目指しているものからずれてしまうことになります。いわゆる律法主義となってしまうのです。律法主義は、律法を行うことによって救いを得ようとすることであって福音ではありません。でも律法そのものは救い主イエス・キリストへと導いてくれる養育係です。イエス・キリストこそ、律法本来が指し示していた方であり、私たちが救われる唯一の道なのです。そのイエスに導くもの、それが律法です。律法によって私たちは自分の罪深さを知ることで、そこからの救いを求めるようになるのです。ですから、律法は良いものであり、幸いな道なのに、彼らは、「私たちは歩まない。」と頑なに拒んだのです。

17節に「見張り人」とありますが、これは預言者のことです。神は預言者を立て、迫り来る神のさばきからのがれるようにと警告したのに、彼らは何と言いましたか。彼らは「注意しない」と言いました。また出ましたよ。「こうしなさい」というと、必ずそれと反対のことを言う。こういうのを何というかというと、「あまのじゃく」と言います。人の言うことやすることにわざと逆らう人のことです。ひねくれ者です。「角笛に注意しなさい」というと「「注意しない」と言いました。反抗期のこともが親に逆らうように逆らったのです。

18節と19節をご覧ください。それゆえ、諸国の民は聞かなければなりませんでした。何を?彼らに対する神のさばきの宣告を、です。それは彼らの企みの実、たくらみの結果でした。身から出た錆であったということです。彼らが主のことばに注意を払わず、それを退けたからです。

20節のことばは、少し唐突な感じがしますね。18節と19節で言われていることと、どんな関係があるのかわかりません。「いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のささげ物は受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない。」どういうことでしょうか。

「シェバ」とは、今のサウジアラビアの南部、イエメンの辺りにある国です。聖書には「シェバの女王」として有名です。そこから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がささげられます。そうです、「乳香」とか「菖蒲」とは、礼拝のために用いられた香りだったのです。いったい何のためにこれらをささげるのかと、神は問うておられるのです。こうした香りのささげものや彼らの全焼のささげものは受け入れられず、彼らのいけにえは、主にとっては心地よくないものだからです。それは主に喜ばれるものではありませんでした。つまり彼らが当たり前にしていることが的を外していたのです。彼らが当たり前にしていた礼拝が、神に受け入れられるものではなかったということです。それはただ形だけの、形式的なものにすぎませんでした。彼らは形では神を礼拝していましたが、その心は遠く離れていたのです。なぜでしょうか?神のみことばから離れていたからです。神のことばを聞こうとしていなかったからです。ですから、神が何を求めておられるのかがわからなかったのです。

皆さん、これは大切なことです。信仰生活においてこの一番大切なことを忘れると、その中心からズレると、このように周りのことというか、それに不随するものに心が向いてしまうことになります。皆さん、教会にとって最も大切なことは何でしょうか。それは祈りとみことばです。つまり神のみことばを聞いてそれに従うことです。それが祈りです。教会の中心は美しく立派な会堂でもなければ、どれだけの人が集まっているかということではありません。どれだけ地域社会に奉仕しているかとか、どれだけすばらしい賛美がささげられているかということでもないのです。教会の中心は、信仰生活の中心は、神のみことばを聞いてそれに従うことです。そのみことばに生きるということなのです。

イスラエルの最初の王様はサウルという人物でしたが、彼はこの中心からズレてしまいました。彼は神様からアマレク人を聖絶するようにと命じられたのにしませんでした。聖絶というのは、完全に破壊するという意味です。どんなに価値があるように見える目ものでも、神が聖絶せよと言われるなら聖絶しなければならないのにしなかったのです。彼は肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶しました。それゆえ、サウルは王としての立場から退けられることになってしまったのです。その時、主が言われたことはこうでした。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)

いったいサウルは何を間違えたのでしょうか。何を履き違えたのでしょうか。礼拝とは何であるかということです。その本質が何であるかということをはき違えたのです。サウルは、立派なものをささげることで神が喜んでくださると思い込んでいましたが、神が喜ばれることはそういうものではありませんでした。神が喜ばれることは、ご自身の御声に聞き従うことだったのです。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさるのです。

この時のイスラエルの民もそうでした。彼らは、外国からの高価な香りや多くの立派なささげ物を神が喜んでくださると思っていましたが、それは全くの彼らの勘違いでした。神が喜んでくださるのは、神のみことばに聞き従うことなのに、それがないのに、どんなに高価なささげものをしても全く意味がないのです。神のことばを拒むことによって彼らの礼拝がダメになってしまった、崩れてしまいました。つまり、人生の中心部分が壊れてしまったわけです。その結果、いにしえからの通り道、幸いな道を見失うことになってしまいました。

皆さん、私たちも注意しなければなりません。人生の中心部分を見間違うと大変なことになってしまいます。私たちの人生の中心とは何ですか。それは何度もお話しているように、神を喜び、神の栄光を現わすことです。ウエストミンスター小教理問答書にはこうあります。

「人の主な目的は、何ですか。」

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

皆さん、これが私たちの人生の中心です。神は人をそのように造られました。ですから、この人生の中心部分が壊れると、幸いな道を失ってしまうことになります。

英国の有名な神学者C・S・ルイスは、50年前に幸福を次のように定義しました。「車はガソリンで走るようにできているのであって、それ以外のものでは走れない。神は人間という機械が神によって走るように設計された。私たちは、神ご自身が燃料となり、食する糧となるように設計された。私たちには、他に頼るものはない。だから、宗教を度外視し、私たちのやり方で幸せにしてくださいと神に願うのは正しくない。神が、ご自分と無関係に幸せや平和を私たちに下さるなどということはあり得ない。そのようなものは、存在しないのだから。」

まあ、現代はガソリンに代わる新しい燃料が研究されていますが、今から50年前はガソリンしか考えられなかったわけで、その燃料こそ神ご自身だと言ったのです。それ以外のものを燃料としようものなら、走ることはできません。神との関係こそ、私たちが走ることができる燃料なのであって、その中心を外してはならないのです。その中心は、神のことばに聞くことなのです。

Ⅱ.恐怖が取り囲んでいる(21-26

第二のことは、その結果です。21~26節をご覧ください。「21 それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを与える。父も子も、ともにこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」22 主はこう言われる。「見よ、一つの民が北の地から来る。大きな国が地の果てから奮い立つ。23 彼らは弓と投げ槍を固く握り、残忍で、あわれみがない。その声は海のようにとどろく。娘シオンよ。彼らは馬にまたがり、あなたに向かい、一団となって陣を敷いている。」24 私たちは、そのうわさを聞いて気力を失い、苦しみが私たちをとらえた。産婦のような激痛が。25 畑に出るな。道を歩くな。敵の剣がそこにあり、恐怖が取り囲んでいるからだ。26 娘である私の民よ。粗布を身にまとい、灰の中を転げ回れ。ひとり子を失ったように喪に服し、苦しみ嘆け。荒らす者が突然、私たちに襲いかかるからだ。」

その結果、彼らはどうなったでしょうか。21節には「それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを与える。父も子も、ともにこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」」とあります。その結果、主は彼らにつまずきを与えます。「つまずき」とは、22節にある北から攻めて来る大きな国がやって来るということです。これはバビロンのことです。彼らは残忍で、あわれみがありません。情け容赦なく攻め寄せてきます。彼らは馬にまたがり、一致団結して攻め寄せてくるのです。

そのようなうわさを聞いたユダの民はどうなったでしょうか。24節、彼らは、そのうわさを聞いて気力を失い、苦しみ悶えました。産婦のような激痛が走ったのです。それは、恐怖が彼らを取り囲んだからです。これがエレミヤ書のキーワードの一つです。このことばは他に、20章3節、10節、46章5節、49章29節にも出てきます。繰り返して語られています。たとえば、20章3節には、「主はあなたの名をパシュフルではなく、「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる」。と」(エレミヤ20:3)とあります。これはエレミヤが偽預言者のパシュフルに語ったことばです。「パシュフル」という名前には「自由」という意味がありますが、偽りのことばを語るパシュフルは自由ではなく不自由だ、「恐怖が取り囲んでいる」と言ったのです。それはパシュフルだけではありません。神に背を向けたすべての人に言えることです。神に背を向けたすべての人にあるのは「恐怖」です。恐怖が彼らを取り囲むようになるのです。

まさに預言者イザヤが言ったとおりです。イザヤ書57章20~21節にはこうあります。「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水と海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」

皆さん、悪者どもには平安がありません。「悪者ども」とは悪いことをしている人たちというよりも、神を信じない人たちのことです。神の救いであるイエスを信じない人たちです。そのような人たちは自分を信じ、自分の思う道を進もうとしています。そういう人はあれ狂う海のようです。常にイライラしています。決して満たされることがありません。言い知れぬむなしさと罪悪感で、心に不安を抱えているのです。水が海草と泥を吐き出すように、彼らの口から出るのは泥なのです。口汚くののしり、いつも高圧的な態度で人を怒鳴りつけています。それが悪者の特徴です。心に平安がないからです。平安がないので、常に人を攻撃していないと気が済まないのです。仕事で成功しても、どんなにお金があっても、何一つ足りないものがないほど満たされていても平安がありません。心に罪があるからです。罪が赦されない限り、平安はありません。常に恐怖が取り囲んでいるのです。それは荒れ狂う海のようで、静まることがありません。泥を吐き出すしかありません。

26節には、それはひとり子を失ったようだと言われています。これは最悪の悲しみを表しています。なぜなら、自分の名を残せなくなるからです。自分たちの将来が無くなってしまいます。このように神から離れ、神のみことばを聞かなくなった結果、彼らは恐ろしい神のさばきを受けるようになったのです。

Ⅲ.心を頑なにしてはいけない(27-30)

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、心をかたくなにしてはいけないということです。27~30節をご覧ください。「27 「わたしはあなたを、わたしの民の中で、試す者とし、城壁のある町とした。彼らの行いを知り、これを試せ。」28 彼らはみな、頑なな反逆者、中傷して歩き回る者。青銅や鉄。彼らはみな、堕落した者たちだ。29 吹子で激しく吹いて、鉛を火で溶かす。鉛は溶けた。溶けたが、無駄だった。悪いものは除かれなかった。30 彼らは捨てられた銀と呼ばれる。主が彼らを捨てられたのだ。」

これが、エレミヤが1~6章まで語ってきた内容の結論です。27節の「試す者」とはエレミヤのことを指しています。主はエレミヤを試す者として立てられました。それで彼は神のことばを語っていろいろと試してみたわけです。たとえば、5章ではエルサレムの通りを行き巡り、そこに正しい人、真実な人がいるかどうかを探し回りました。でも結果はどうでしたか?そういう人は一人もいませんでした。「義人はいない、一人もいない」です。

次にエレミヤは、別の方法で彼らを試しました。それは彼らを懲らしめて悔い改めるかどうかということです。しかし、彼らはみな頑なな反逆者でした。そうした彼らが、ここでは青銅や鉄、また銀にたとえられているわけです。銀を精錬するように、神の民を懲らしめてみたらどうなるでしょうか。当時、鉱石から銀を取り除くためには炉の中に鉱石を入れ、吹子で吹いて、鉛を溶かしたそうです。そのように彼らを精錬して悪を取り除こうとしましたが、残念ながら無駄でした。鉛は溶けましたが、悪いものは取り除けなかったのです。いくら精錬しても、不純物、銀かすが残ったのです。それゆえに彼らは、「捨てられた銀」と呼ばれ、廃棄物として取り扱われることになってしまいました。

皆さん、神は愛する者を精錬されます。へブル人への手紙にはこうあります。「6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」(へブル12:6-7)

主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられます。ですから、訓練と思って耐え忍ばなければなりません。そして、イスラエルの民のように、心を頑なにしないで、神のことばに聞き従わなければなりません。聖書にこうあるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(へブル3:7-8)

あなたはどうでしょうか。あなたはどのような御声を聞いておられますか。もし、今日御声を聞くなら、心を頑なにしてはいけません。その御声に聞き従ってください。なぜなら、主ご自身があなたのために先ず十字架で死んでくださったからです。主が懲らしめを受けてくださいました。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを受けるためです。この方があなたの救い主です。その方がこう言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)これが真理の道、いのちの道、幸いの道なのです。

イザヤ書30章21節にはこうあります。「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。」

あなたが人生を歩むとき、右に行ったらいいのか、それとも左に行ったらいいのか悩む時があるでしょう。しかし、これが道です。これがいのちの道、幸いな道なのです。主は聖霊を通して、「これが道だ。こけに歩め」と言っておられます。どうか道を間違えないでください。永遠に変わることがない神のみことばこそ、真理の道なのです。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに変わることはない。どうかこの道を歩み、たましいにやすらぎを見出してください。特に若い方々には自分がやりたいと思うことがたくさんあるでしょう。でもそのすべてが正しいとは限りません。どうか道を踏み外さないでください。もし踏み外したと思ったら、すぐに主に立ち返り、主が示される道を歩んでください。あなたがへりくだって主のみことばに従い、幸いな人生を送ることができるように祈ってやみません。