エレミヤ書6章16~30節「幸いな道はどれか」

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きょうは、エレミヤ書6章の後半の箇所から「幸いな人はどれか」というタイトルでお話します。この6章は、預言者として神のことばを語ったエレミヤの最初の預言のまとめとなる箇所です。神に背いたイスラエル、ユダの民に対して、神に立ち返るようにと語りますが、民は全く聞こうとしませんでした。それに対して神は滅びを宣告されました。北からのわざわい、バビロン軍がやって来て彼らをことごとく破壊すると。それでも彼らは聞こうとしなかったのです。彼らは頑なで、どんなに悪を取り除こうとしても取り除くことができませんでした。それで神は彼らを捨て去ることになります。きょうの聖書箇所の30節には「彼らは捨てられた銀と呼ばれる。主が彼らを捨てられたのだ。」とあります。彼らに必要だったことは、へりくだって、悔い改めることでした。幸いな道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいの安らぎを見出すことだったのです。

Ⅰ.「私たちは歩まない」(16-20)

まず16~20節までをご覧ください。「16 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。17 わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。18 それゆえ、諸国の民よ、聞け。会衆よ、知れ。彼らに何が起こるかを。19 この国よ、聞け。見よ、わたしはこの民にわざわいをもたらす。これは彼らの企みの実。彼らがわたしのことばに注意を払わず、わたしの律法を退けたからだ。20 いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のささげ物は受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない。」

「道の分かれ目に立って」とは、新改訳聖書第三版では「四つ(つじ)に立って」と訳しています。「四つ辻」とは、十字路のことです。東西南北に視界が開けた場所のことを指しています。四方とも開けているので、どの方角にも進むことができるわけですが、そこに立って見渡すようにというのです。幸いな道はどれであるかを。しかし往々にして私たちは、自分がどちらの道を進んで行ったらよいのか迷います。それで主はこう言われます。「いにしえからの通り道、幸いな道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。」

「いにしえからの道」とは、昔からの道という意味で、これは神の律法のことを指しています。この道はすでにイスラエルの歴史を通して、そこに歩めば幸いな人生を送ることができると実証されていた道でした。にもかかわらず、彼らは何と言いましたか。彼らは「私たちは歩まない」と言いました。こういうのを何というんですかね。こういうのを反抗的と言いますね。彼らは実に反抗的だったのです。

「律法」と聞くと、私たちの中にも否定的なイメージを抱く人がおられるのではないでしょうか。でも「律法」そのものは良いものです。それは、人間が正しく歩ために神が与えてくださった道しるべです。それは、私たちを幸いな道へと導いてくれるものなのです。しかし残念なことに、この律法の要求を完全に満たすことができる人はだれもいません。ですから、律法によって義と認められることはできません。もしそのように求めるなら、律法が本来目指しているものからずれてしまうことになります。いわゆる律法主義となってしまうのです。律法主義は、律法を行うことによって救いを得ようとすることであって福音ではありません。でも律法そのものは救い主イエス・キリストへと導いてくれる養育係です。イエス・キリストこそ、律法本来が指し示していた方であり、私たちが救われる唯一の道なのです。そのイエスに導くもの、それが律法です。律法によって私たちは自分の罪深さを知ることで、そこからの救いを求めるようになるのです。ですから、律法は良いものであり、幸いな道なのに、彼らは、「私たちは歩まない。」と頑なに拒んだのです。

17節に「見張り人」とありますが、これは預言者のことです。神は預言者を立て、迫り来る神のさばきからのがれるようにと警告したのに、彼らは何と言いましたか。彼らは「注意しない」と言いました。また出ましたよ。「こうしなさい」というと、必ずそれと反対のことを言う。こういうのを何というかというと、「あまのじゃく」と言います。人の言うことやすることにわざと逆らう人のことです。ひねくれ者です。「角笛に注意しなさい」というと「「注意しない」と言いました。反抗期のこともが親に逆らうように逆らったのです。

18節と19節をご覧ください。それゆえ、諸国の民は聞かなければなりませんでした。何を?彼らに対する神のさばきの宣告を、です。それは彼らの企みの実、たくらみの結果でした。身から出た錆であったということです。彼らが主のことばに注意を払わず、それを退けたからです。

20節のことばは、少し唐突な感じがしますね。18節と19節で言われていることと、どんな関係があるのかわかりません。「いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のささげ物は受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない。」どういうことでしょうか。

「シェバ」とは、今のサウジアラビアの南部、イエメンの辺りにある国です。聖書には「シェバの女王」として有名です。そこから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がささげられます。そうです、「乳香」とか「菖蒲」とは、礼拝のために用いられた香りだったのです。いったい何のためにこれらをささげるのかと、神は問うておられるのです。こうした香りのささげものや彼らの全焼のささげものは受け入れられず、彼らのいけにえは、主にとっては心地よくないものだからです。それは主に喜ばれるものではありませんでした。つまり彼らが当たり前にしていることが的を外していたのです。彼らが当たり前にしていた礼拝が、神に受け入れられるものではなかったということです。それはただ形だけの、形式的なものにすぎませんでした。彼らは形では神を礼拝していましたが、その心は遠く離れていたのです。なぜでしょうか?神のみことばから離れていたからです。神のことばを聞こうとしていなかったからです。ですから、神が何を求めておられるのかがわからなかったのです。

皆さん、これは大切なことです。信仰生活においてこの一番大切なことを忘れると、その中心からズレると、このように周りのことというか、それに不随するものに心が向いてしまうことになります。皆さん、教会にとって最も大切なことは何でしょうか。それは祈りとみことばです。つまり神のみことばを聞いてそれに従うことです。それが祈りです。教会の中心は美しく立派な会堂でもなければ、どれだけの人が集まっているかということではありません。どれだけ地域社会に奉仕しているかとか、どれだけすばらしい賛美がささげられているかということでもないのです。教会の中心は、信仰生活の中心は、神のみことばを聞いてそれに従うことです。そのみことばに生きるということなのです。

イスラエルの最初の王様はサウルという人物でしたが、彼はこの中心からズレてしまいました。彼は神様からアマレク人を聖絶するようにと命じられたのにしませんでした。聖絶というのは、完全に破壊するという意味です。どんなに価値があるように見える目ものでも、神が聖絶せよと言われるなら聖絶しなければならないのにしなかったのです。彼は肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶しました。それゆえ、サウルは王としての立場から退けられることになってしまったのです。その時、主が言われたことはこうでした。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)

いったいサウルは何を間違えたのでしょうか。何を履き違えたのでしょうか。礼拝とは何であるかということです。その本質が何であるかということをはき違えたのです。サウルは、立派なものをささげることで神が喜んでくださると思い込んでいましたが、神が喜ばれることはそういうものではありませんでした。神が喜ばれることは、ご自身の御声に聞き従うことだったのです。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさるのです。

この時のイスラエルの民もそうでした。彼らは、外国からの高価な香りや多くの立派なささげ物を神が喜んでくださると思っていましたが、それは全くの彼らの勘違いでした。神が喜んでくださるのは、神のみことばに聞き従うことなのに、それがないのに、どんなに高価なささげものをしても全く意味がないのです。神のことばを拒むことによって彼らの礼拝がダメになってしまった、崩れてしまいました。つまり、人生の中心部分が壊れてしまったわけです。その結果、いにしえからの通り道、幸いな道を見失うことになってしまいました。

皆さん、私たちも注意しなければなりません。人生の中心部分を見間違うと大変なことになってしまいます。私たちの人生の中心とは何ですか。それは何度もお話しているように、神を喜び、神の栄光を現わすことです。ウエストミンスター小教理問答書にはこうあります。

「人の主な目的は、何ですか。」

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

皆さん、これが私たちの人生の中心です。神は人をそのように造られました。ですから、この人生の中心部分が壊れると、幸いな道を失ってしまうことになります。

英国の有名な神学者C・S・ルイスは、50年前に幸福を次のように定義しました。「車はガソリンで走るようにできているのであって、それ以外のものでは走れない。神は人間という機械が神によって走るように設計された。私たちは、神ご自身が燃料となり、食する糧となるように設計された。私たちには、他に頼るものはない。だから、宗教を度外視し、私たちのやり方で幸せにしてくださいと神に願うのは正しくない。神が、ご自分と無関係に幸せや平和を私たちに下さるなどということはあり得ない。そのようなものは、存在しないのだから。」

まあ、現代はガソリンに代わる新しい燃料が研究されていますが、今から50年前はガソリンしか考えられなかったわけで、その燃料こそ神ご自身だと言ったのです。それ以外のものを燃料としようものなら、走ることはできません。神との関係こそ、私たちが走ることができる燃料なのであって、その中心を外してはならないのです。その中心は、神のことばに聞くことなのです。

Ⅱ.恐怖が取り囲んでいる(21-26

第二のことは、その結果です。21~26節をご覧ください。「21 それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを与える。父も子も、ともにこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」22 主はこう言われる。「見よ、一つの民が北の地から来る。大きな国が地の果てから奮い立つ。23 彼らは弓と投げ槍を固く握り、残忍で、あわれみがない。その声は海のようにとどろく。娘シオンよ。彼らは馬にまたがり、あなたに向かい、一団となって陣を敷いている。」24 私たちは、そのうわさを聞いて気力を失い、苦しみが私たちをとらえた。産婦のような激痛が。25 畑に出るな。道を歩くな。敵の剣がそこにあり、恐怖が取り囲んでいるからだ。26 娘である私の民よ。粗布を身にまとい、灰の中を転げ回れ。ひとり子を失ったように喪に服し、苦しみ嘆け。荒らす者が突然、私たちに襲いかかるからだ。」

その結果、彼らはどうなったでしょうか。21節には「それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを与える。父も子も、ともにこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」」とあります。その結果、主は彼らにつまずきを与えます。「つまずき」とは、22節にある北から攻めて来る大きな国がやって来るということです。これはバビロンのことです。彼らは残忍で、あわれみがありません。情け容赦なく攻め寄せてきます。彼らは馬にまたがり、一致団結して攻め寄せてくるのです。

そのようなうわさを聞いたユダの民はどうなったでしょうか。24節、彼らは、そのうわさを聞いて気力を失い、苦しみ悶えました。産婦のような激痛が走ったのです。それは、恐怖が彼らを取り囲んだからです。これがエレミヤ書のキーワードの一つです。このことばは他に、20章3節、10節、46章5節、49章29節にも出てきます。繰り返して語られています。たとえば、20章3節には、「主はあなたの名をパシュフルではなく、「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる」。と」(エレミヤ20:3)とあります。これはエレミヤが偽預言者のパシュフルに語ったことばです。「パシュフル」という名前には「自由」という意味がありますが、偽りのことばを語るパシュフルは自由ではなく不自由だ、「恐怖が取り囲んでいる」と言ったのです。それはパシュフルだけではありません。神に背を向けたすべての人に言えることです。神に背を向けたすべての人にあるのは「恐怖」です。恐怖が彼らを取り囲むようになるのです。

まさに預言者イザヤが言ったとおりです。イザヤ書57章20~21節にはこうあります。「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水と海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」

皆さん、悪者どもには平安がありません。「悪者ども」とは悪いことをしている人たちというよりも、神を信じない人たちのことです。神の救いであるイエスを信じない人たちです。そのような人たちは自分を信じ、自分の思う道を進もうとしています。そういう人はあれ狂う海のようです。常にイライラしています。決して満たされることがありません。言い知れぬむなしさと罪悪感で、心に不安を抱えているのです。水が海草と泥を吐き出すように、彼らの口から出るのは泥なのです。口汚くののしり、いつも高圧的な態度で人を怒鳴りつけています。それが悪者の特徴です。心に平安がないからです。平安がないので、常に人を攻撃していないと気が済まないのです。仕事で成功しても、どんなにお金があっても、何一つ足りないものがないほど満たされていても平安がありません。心に罪があるからです。罪が赦されない限り、平安はありません。常に恐怖が取り囲んでいるのです。それは荒れ狂う海のようで、静まることがありません。泥を吐き出すしかありません。

26節には、それはひとり子を失ったようだと言われています。これは最悪の悲しみを表しています。なぜなら、自分の名を残せなくなるからです。自分たちの将来が無くなってしまいます。このように神から離れ、神のみことばを聞かなくなった結果、彼らは恐ろしい神のさばきを受けるようになったのです。

Ⅲ.心を頑なにしてはいけない(27-30)

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、心をかたくなにしてはいけないということです。27~30節をご覧ください。「27 「わたしはあなたを、わたしの民の中で、試す者とし、城壁のある町とした。彼らの行いを知り、これを試せ。」28 彼らはみな、頑なな反逆者、中傷して歩き回る者。青銅や鉄。彼らはみな、堕落した者たちだ。29 吹子で激しく吹いて、鉛を火で溶かす。鉛は溶けた。溶けたが、無駄だった。悪いものは除かれなかった。30 彼らは捨てられた銀と呼ばれる。主が彼らを捨てられたのだ。」

これが、エレミヤが1~6章まで語ってきた内容の結論です。27節の「試す者」とはエレミヤのことを指しています。主はエレミヤを試す者として立てられました。それで彼は神のことばを語っていろいろと試してみたわけです。たとえば、5章ではエルサレムの通りを行き巡り、そこに正しい人、真実な人がいるかどうかを探し回りました。でも結果はどうでしたか?そういう人は一人もいませんでした。「義人はいない、一人もいない」です。

次にエレミヤは、別の方法で彼らを試しました。それは彼らを懲らしめて悔い改めるかどうかということです。しかし、彼らはみな頑なな反逆者でした。そうした彼らが、ここでは青銅や鉄、また銀にたとえられているわけです。銀を精錬するように、神の民を懲らしめてみたらどうなるでしょうか。当時、鉱石から銀を取り除くためには炉の中に鉱石を入れ、吹子で吹いて、鉛を溶かしたそうです。そのように彼らを精錬して悪を取り除こうとしましたが、残念ながら無駄でした。鉛は溶けましたが、悪いものは取り除けなかったのです。いくら精錬しても、不純物、銀かすが残ったのです。それゆえに彼らは、「捨てられた銀」と呼ばれ、廃棄物として取り扱われることになってしまいました。

皆さん、神は愛する者を精錬されます。へブル人への手紙にはこうあります。「6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」(へブル12:6-7)

主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられます。ですから、訓練と思って耐え忍ばなければなりません。そして、イスラエルの民のように、心を頑なにしないで、神のことばに聞き従わなければなりません。聖書にこうあるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(へブル3:7-8)

あなたはどうでしょうか。あなたはどのような御声を聞いておられますか。もし、今日御声を聞くなら、心を頑なにしてはいけません。その御声に聞き従ってください。なぜなら、主ご自身があなたのために先ず十字架で死んでくださったからです。主が懲らしめを受けてくださいました。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを受けるためです。この方があなたの救い主です。その方がこう言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)これが真理の道、いのちの道、幸いの道なのです。

イザヤ書30章21節にはこうあります。「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。」

あなたが人生を歩むとき、右に行ったらいいのか、それとも左に行ったらいいのか悩む時があるでしょう。しかし、これが道です。これがいのちの道、幸いな道なのです。主は聖霊を通して、「これが道だ。こけに歩め」と言っておられます。どうか道を間違えないでください。永遠に変わることがない神のみことばこそ、真理の道なのです。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに変わることはない。どうかこの道を歩み、たましいにやすらぎを見出してください。特に若い方々には自分がやりたいと思うことがたくさんあるでしょう。でもそのすべてが正しいとは限りません。どうか道を踏み外さないでください。もし踏み外したと思ったら、すぐに主に立ち返り、主が示される道を歩んでください。あなたがへりくだって主のみことばに従い、幸いな人生を送ることができるように祈ってやみません。