Ⅱ列王記3章

 今回は、Ⅱ列王記3章から学びます。

 Ⅰ.イスラエルの王ヨラムとユダの王ヨシャファテの失敗(1-12)

まず、1~12節までをご覧ください。3節までをお読みします。「1 アハブの子ヨラムは、ユダの王ヨシャファテの第十八年に、サマリアでイスラエルの王となり、十二年間、王であった。2 彼は主の目に悪であることを行ったが、彼の父母ほどではなかった。彼は、父が作ったバアルの石の柱を取り除いた。3 しかし彼は、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪に執着し、それから離れることがなかった。」

ユダの王ヨシャファテの第18年に、北イスラエルの王アハブの子ヨラムが王になりました。ヨラムはアハブの2番目の息子です。1章に長男のアハズヤのことが記録されてありました。彼は屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥り、エクロンの神バアル・ゼブブに伺いを立てましたが、結局エリヤの預言の通り死にました。その後を継いだのが弟のヨラムです。彼は北イスラエルを12年間治めました。そのヨラムについての言及がここに記されてあります。

2節によると、彼は主の目に悪であることを行ったが、彼の父母ほどではなかったとあります。彼の父母はアハブとイゼベルで、北イスラエル王国史上最悪の王でした。イスラエルにバアル礼拝を導入したからです。ヨラムはそれほど悪くはありませんでした。でも主の目に悪であることを行いました。彼は父アハブが導入したバアル信仰を排除しましたが、北イスラエル王国の初代の王であったヤロブアムの罪から離れなかったからです。つまり、バアル礼拝を排除しましたが、金の子牛を神とする信仰は捨てなかったということです。彼は父母の最期を見て、自分なりに考えるところがあったのでしょう。それで外面的にはバアル像を取り除き、体裁を整えましたが、自分の内側にある偶像を取り去りませんでした。でも大切なのは体裁を整えることではなく内側が変えられることです。なぜなら、神との関係は外側からではなく内側から築き上げられるものだからです。それは聖霊の働きによってのみ可能なことなのです。そして、イエス・キリストを信じる時、その変化が起こります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Ⅱコリント5:17)とある通りです。イエス・キリストを信じ、ご聖霊の働きによって、日々私たちの心を変えていただきましょう。

次に、4~8節までをご覧ください。「4 さて、モアブの王メシャは羊を飼っていて、子羊十万匹と、雄羊十万匹分の羊毛をイスラエルの王に貢ぎ物として納めていた。5 しかしアハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルの王に背いた。6 そこで、ヨラム王はその日にサマリアを出発し、すべてのイスラエル人を動員した。7 そして、ユダの王ヨシャファテに人を遣わして言った。「モアブの王が私に背きました。私と一緒にモアブに戦いに行ってくれませんか。」ユダの王は言った。「行きましょう。私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」8 そして言った。「どの道を上って行きましょうか。」するとヨラムは、「エドムの荒野の道を」と答えた。」

アハブの子ヨラムの時代に、モアブの王がイスラエルに背きました。アハブ王の時代に北王国イスラエルの隷属国家となったモアブは、毎年、いやいやながら貢物を収めていましたが、アハブ王が死ぬと、ここぞとばかり、イスラエルに背いたのです。アハブの後継者となったアハズヤはモアブに対して何の手も打ちませんでしたが、その弟のヨラムは、モアブ制圧するために直ちにイスラエル軍を動員しました。

ヨラムはその際にユダの王ヨシャファテに人を遣わして、一緒にモアブとの戦いに行ってくれるように要請しました。するとヨシァファテは何と答えましたか。7節です。彼はこう言いました。「行きましょう。私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」(7)

彼は調子に乗るタイプの人間でした。頼まれると何も考えずに「あいよ」と受け入れてしまう人間だったのです。これが初めてではありません。これは2回目です。最初はⅠ列王記22章4節にありますが、彼はイスラエル王アハブに協力してアラムとの戦いに参戦した際、殺されかけたことがありました。ヨシャファテはここで再び同じ失敗を繰り返しているのです。人は一度失敗しても懲りないで、同じ失敗を繰り返してしまうということです。わかっちゃいるけどついつい調子に乗ってしまうのです。しかし神は、そんな彼の愚かな失敗を用いてさえ奇跡を行い、ご自身の栄光を現わされます。それがこの後で見るエリシャの奇跡です。神は人の失敗さえも用いてご自身の栄光を現わすことがおできになる方なのです。このようにして見ると、パウロがローマ11章33節で語ったことばが心に響いてきますね。

「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」

神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょうか。神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。私たちも失敗や過ちを繰り返すような愚かな者ですが、神の知恵と知識の富の深さに信頼し、神にすべてをゆだねたいと思います。

その神の御業がどのようなものだったかを見ていきましょう。ヨシァファテが「どの道を上って行きましょうか。」と言うと、ヨラムは「エドムの荒野の道を」と答えました。死海の北側からモアブに入ることもできますが、ヨラムは南側のルートであるエドムの荒野を通る道を選びました。

9~12節までをご覧ください。「9 こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王と一緒に出かけたが、七日間も回り道をしたので、陣営の者と、後について来る動物たちのための水がなくなった。10 イスラエルの王は、「ああ、主がこの三人の王を呼び集めたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」と言った。11 ヨシャファテは言った。「ここには、主のみこころを求めることができる主の預言者はいないのですか。」すると、イスラエルの王の家来の一人が答えた。「ここには、シャファテの子エリシャがいます。エリヤの手に水を注いだ者です。」12 ヨシャファテが、「主のことばは彼とともにあります」と言ったので、イスラエルの王と、ヨシャファテと、エドムの王は彼のところに下って行った。」

こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王と一緒に出かけて行きましたが、七日間も回り道をしたので、水がなくなってしまいました。乾燥地帯では、これは非常に危険なことです。するとイスラエルの王(ヨラム)は、主につぶやき嘆いて言いました。「ああ、主がこの三人の王を呼び集めたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」

おもしろいですね、彼は自分の考えによって計画を立てて動いて来たはずなのに、困難に遭遇するとそれを神のせいにしています。それは不信者の特徴です。

そんなイスラエルの王ヨラムと違い、ユダの王ヨシァファテには信仰が残っていました。彼もまた主のみこころを求めることなく行軍を開始しましたが、それでも困難に遭遇した時に、主に助けを求めました。彼は「ここには、主のみこころを求めることができる預言者はいないのですか」(11)と言っています。

するとイスラエルの王の家来の一人が、シャファテの子でエリシャという人がいること、そして彼はあの預言者エリヤの手に水を注いだ人物だと言うと、「主のことばは彼とともにあります」と言って、イスラエルの王と、ヨシャファテと、エドムの王の3人はエリシャのところへ下って行きました。「エリヤの手に水を注いだ」というのは、エリヤに仕えた者という意味です。どうしてここにエリシャがいたのかはわかりません。当時は、預言者や占い師たちが軍隊に同行するのが一般的でしたので、それでエリシャも彼らに同行していたものと思われます。「主のことばは彼とともにある」とは、彼が真の預言者であるという意味です。通常は、預言者が王の前に出てくるものですが、ここでは王たちが彼のもとに下って行きました。それだけエリシャの権威が高く評価されていたということです。

ここに一つの対比が見られます。すなわち、主に拠り頼む者とそうでない者人です。ヨラムとヨシャファテは困難に遭遇した時右往左往しましたが、エリシャは全く動じませんでした。常に主のみこころを求めながら生きる人は、風に揺らぐ葦のようではなく、どんな強風でも動じない大木のように生きることができるのです。

Ⅱ.エリシャの預言(13-19)

次に13~19節をご覧ください。「13 エリシャはイスラエルの王に言った。「私とあなたの間に何の関わりがあるでしょうか。あなたの父の預言者たちや、母の預言者たちのところに行かれたらよいでしょう。」すると、イスラエルの王は彼に言った。「いや、モアブの手に渡すために、この三人の王を呼び集めたのは、主だ。」14 エリシャは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。もし私がユダの王ヨシャファテの顔を立てるのでなければ、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。15 しかし今、竪琴を弾く者をここに連れて来てください。」竪琴を弾く者が竪琴を弾き鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、16 彼は次のように言った。「主はこう言われます。『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』17 主がこう言われるからです。『風を見ず、大雨を見なくても、この涸れた谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、動物もこれを飲む。』18 これは主の目には小さなことです。主はモアブをあなたがたの手に渡されます。19 あなたがたは、城壁のある町々、立派な町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石をもって荒らすでしょう。」

すると、エリシャはイスラエルの王に言いました。「私とあなたの間に何の関わりがあるでしょうか。あなたの父の預言者たちや、母の預言者たちのところに行かれたらよいでしょう。」と。

あなたの父母の預言者たちとは、バアルの預言者たちのことです。つまり、私はあなたと何の関係もないのだから、何か尋ねたければバアルの預言者たちの所へ行って助けを求めればいい、という意味です。

するとイスラエルの王はとんでもないことを言います。自分たちをモアブの手に渡すために呼び集めたのは主であると。主がそんなひどいことをするはずがないじゃないですか。それは身から出た錆、全部自分たちの考えに従って行動した結果です。それなのに、こんなことになったのは主のせいだと責任をなすりつけるのはひどい話です。

それでエリシャは、イスラエルの王に関わることを避けたかったのですが、ヨシャファテ王の顔を立てるために、すなわち、ヨシァファテ王への敬意のゆえに、この問題に介入しようと言いました。どのように介入するのでしょうか。

彼は、琴を弾く者を連れて来るようにと言います。そしてその琴を弾く者が竪琴を弾き鳴らすと、主の手がエリシャに下り、こう言いました。「16主はこう言われます。『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』17 主がこう言われるからです。『風を見ず、大雨を見なくても、この涸れた谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、動物もこれを飲む。』18 これは主の目には小さなことです。主はモアブをあなたがたの手に渡されます。19 あなたがたは、城壁のある町々、立派な町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石をもって荒らすでしょう。」」

どういうことでしょうか。涸れた谷に超自然的に水が溜まるということです。風を見なくても、大雨を見なくても、この涸れた谷には水が溢れるようになるので、兵士たちも家畜も、動物もこれを飲むようになります。新改訳第3版では、「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』」と訳しています。新共同訳聖書もそうです。英語のNKJVもそうです。谷が涸れているのですからみぞを掘る必要などありませんが、神の御業をより印象付けるためにその涸れた谷にみぞを掘るようにと言うのです。主がその涸れた谷を水で溢れさせてくださるからです。人には水を創り出すことはできませんが、神が与えてくださる水を受け取るためのみぞを掘ることはできます。同じように、私たちは主が私たちの器を水で溢れさせてくださるために整えなければなりません。

しかし、これが主のなさりたい最終的なゴールなのではありません。これは主の目には小さなことです。主の成さりたい最終ゴールは、モアブを彼らの手に渡されることです。それが本当に成されることを示すために、主はこの涸れた谷を水で満たされる奇跡を見せてくださったのです。20節を見ると、エリシャが言ったように、エドムの方から水が流れて来て、その地は水で満たされました。

Ⅲ.モアブの敗北 (20-27)

最後に、20~27節をご覧ください。「20 朝になって、ささげ物を献げるころ、なんと、水がエドムの方から流れて来て、この地は水で満たされた。21 モアブ人はみな、王たちが自分たちを攻めに上って来たことを聞いた。よろいを着けることができる者はすべて呼び集められ、国境の守備に就いた。22 翌朝早く起きてみると、太陽が水の面を照らしていた。モアブ人は、向こう側の水が血のように赤いのを見て、23 こう言った。「これは血だ。きっと王たちが切り合って、同士討ちをしたに違いない。さあ今、モアブよ、分捕りに行こう。」24 彼らがイスラエルの陣営に攻め入ると、イスラエルは立ってモアブ人を討った。モアブ人はイスラエルの前から逃げた。イスラエルは攻め入って、モアブ人を討った。25 さらに、彼らは町々を破壊し、すべての良い畑にだれもが石を投げ捨てて石だらけにし、すべての水の源をふさぎ、すべての良い木を切り倒した。ただキル・ハレセテにある石だけが残ったが、その町も石を投げる者たちが取り囲み、これを打ち破った。26 モアブの王は、戦いが自分に不利になっていくのを見て、剣を使う者七百人を引き連れ、エドムの王のところに突き入ろうとしたが、果たせなかった。27 そこで、彼は自分に代わって王となる長男を取り、その子を城壁の上で全焼のささげ物として献げた。このことのゆえに、イスラエル人に対する激しい怒りが起こった。そこでイスラエル人は、そこから引き揚げて、自分の国へ帰って行った。」

朝になると、水がエドムの方から流れて来て、その地が水で満たされました。主の奇跡が起こったのです。モアブ人たちはみな、イスラエルの王、ユダの王、エドムの王たちが自分たちを攻めに上って来たことを聞くと、可能な限りの兵士を動員して、エドムとモアブの国境地帯に軍を配備しました。翌朝、彼らが早く起きてみると、太陽が水の面を照らしていましたが、モアブ人たちは向こう側の水が血のように赤いのを見て、それはきっと王たちが切り合って、同士討ちをしたに違いないと思い、分捕りに行こうと言いました。すなわち、戦死した兵士たちから武器を略奪すべきだと判断して、戦いの準備のないまま敵陣に突入したのです。その結果、イスラエルは立ってモアブ人を討ったので、モアブ人はイスラエルの前から逃げ去りました。イスラエルは攻め入ってモアブを討ったので、イスラエルの大勝利に終わりました。さらにイスラエルは町々を破壊し、すべての良い畑にだれもが石を投げ捨てて石だらけにし、すべての水の源をふさぎ、すべての良い木を切り倒しました。モアブの王は、戦いが自分たちに不利になっていくのを見て、兵士700人を引き連れ、エドムの王のところに突き入ろうとしましたが、果たせませんでした。

それでモアブの王はどうしたたかというと、自分に代わって王となる長男を取り、その子を城壁の上で全焼のささげ物として献げました。全く忌まわしいことです。モアブの王は最後の抵抗を試みて精鋭部隊をエドムに送り込もうとしましたが、失敗しました。けれども、イスラエル人を撤退させるのに、結果的に効果的な方法を取りました。それは自分の息子を、モアブの神ケモシュにささげることです。そうすることで、イスラエルに対する激しい怒りが起こることになるからです。人間の生贄は、当時、異教の中ではごく普通に行なわれていましたが、それがイスラエルが原因であるとなると、そこには激しい怒りが引き起こされることになります。結局、イスラエル人は、そこから撤退し、自分の国へ帰って行くことになりました。その怒りがいわば抵抗勢力となったのです。また、それが城壁の上で行なわれたことで、イスラエル人がそれを見て嫌悪感を持ったこともその理由です。

しかし、そうした忌まわしい嫌悪感を抱くような偶像礼拝を見せられながら、イスラエルはその後、そうした偶像礼拝にどっぷりと浸かるようになります。このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。そうした状況に陥ることがないように、主のみこころは何か、何が良いことで正しいことなのかを知り、主のみこころに歩ませていだきましょう。

エレミヤ14章1~9節「苦難の時の救い主」

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エレミヤ書からお話しています。きょうは、エレミヤ書14章1~9節から「苦難の時の救い主」というタイトルでお話します。8節に「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」とあります。そうです、イスラエルの神、主は、苦難の時の救い主なのです。それこそ、苦しい時の神頼みです。それでいいんです。苦しい時に本当に頼りになるのはこの方しかいないのですから。私たちの神様は、苦しい時に救ってくださる方です。きょうはこのことについてお話したいと思います。

Ⅰ.日照りのことについて(1-6)

 まず1~6節をご覧ください。ここにはユダの民の苦しみについて描かれています。「1 日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。2 「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。3 高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」」

日照りのことについて、エレミヤに主のことばが下りました。「日照り」とは雨が降らない状態のことです。ここでは「日照り」ということばが複数形になっていますから、一度だけでなく何度も起こることを意味しています。その結果、ユダは悲惨な状態となります。それは自然災害ではなく、イスラエルの罪の結果もたらされるものでした。エレミヤ書2章13節に「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」とありますが、彼らは二つの悪を行いました。一つは「いのちの水の泉」である主を捨てたということです。そしてもう一つの罪は、「多くの水溜を掘った」ということです。しかも水を溜めておくことができない壊れた水溜めです。これは偶像のことです。彼らは自分たちを救うことができない偶像に頼りました。彼らにとって主なる神だけがまことの生ける水であったのに、主だけが渇いた心を潤すことができたのに、その主を捨てて偶像に走ってしまったのです。その結果、日照りがもたらされることになりました。

イスラエルでは、水はとても貴重なものでした。オイルとか鉱石といったものよりもはるかに価値あるものだったのです。日本では水道の蛇口をひねればすぐに水が出てきますが、イスラエルではそうではありません。水はまさにいのちを繋ぐものでした。水が無ければ生きていくことができませんでした。それは彼らにとって最も大事なもの、いのちよりも大事なものであったのです。あなたにとって最も大事なもの、欠かすことができないものは何でしょうか?それが私たちの神でなければ、それは壊れた水溜めに水を溜めておくようなものです。水を溜めておくことができません。渇きを満たすことはできないのです。一時的に満たすことができるかもしれませんが、ずっと満たすことはできません。
 イエス様はこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)
 神だけがあなたの心を満たすことができます。神だけがあなたにいのちの水を与えることができるのです。ですから、この生ける水を捨てたら日照りになってしまいます。干ばつがあなたを襲うことになるのです。

 それは、いにしえからの昔から警告されていたことでした。たとえば、申命記28章24節にはこうあります。「主はあなたの地に降る雨をほこりに変え、天から砂ぼこりが降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。」聖書では、雨は祝福の象徴として描かれています。聖書が教えていることは、もし神の御声に聞き従うならば豊かに雨が降り、従わなければ日照りが来るということです。そのように警告されていたのです。ですからこれは初めてのことではありません。エレミヤの時代から遡ること千年も前からモーセの律法を通して何回も繰り返して語られていたことだったのです。それが今ここでもう一度語られているのです。千年前のいにしえの昔からの警告が、このエレミヤの時代に現実のものとなりました。

その日照りのことについて何と言われているでしょうか。2~3節をご覧ください。「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。」

ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地にひれ伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫び声を上げることになります。「門」とは権威のシンボルです。そこは権威と格式がある場所で、そこで町の役人たちが問題について討議したり、商人たちが取引を行ったりしていました。その門が打ちしおれることになります。一切の権威が失墜してしまうのです。

「高貴な人」とは、社会的に地位の高い人のことです。そうした高貴な人が召使いに水を汲みに行かせますが、彼らが水溜めのところに来ても水は見つからず、空の器のまま帰ることになります。「水溜め」とは「貯水槽」のことです。貯水槽が空っぽなので町が全く機能しないのです。政治、経済、宗教、その他すべての活動が停止状態になります。水がないと何もすることができないからです。同じように私たちも、いのちの水である神様がいなければ何もできません。イエス様はご自身をぶどうの木にたとえてこう言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)
 私たちもイエス・キリストなしでは何もすることができません。ただ渇くだけです。ここでは「彼らは恥を見、卑しめられて、頭をおおう。」とあります。「頭をおおう」とは、苦悶のしるしです。日本語で「頭を抱える」と言いますが、まさにそういった状態になるのです。

それはエルサレムだけではありません。4節をご覧ください。ここには、農村部までも深刻な影響を及ぼすと言われています。「4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。」

以前もお話しましたが、イスラエルには乾季と雨季の二つの季節しかありません。この雨季に雨が降らないと深刻な状態になります。その雨季は秋と春の二回です。秋の雨は収穫が終わった後の9~10月頃に降る雨で、「先の雨」と呼ばれています。この雨は、次の作物の種を蒔くために欠くことができない雨です。そうでないと地面が割れて種を蒔くことができないからです。一方、春の雨は3~4月頃に降る雨で、「後の雨」と呼ばれています。この雨が降らないと収穫を期待することができません。作物が実らないからです。ここでは「地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう」とありますから、9~10月頃に降る秋の雨、先の雨のことを言っています。この雨が降らないと地面が割れて、種を植えることができません。それで農夫たちは恥を見、頭をおおうことになるのです。

それだけではありまん。5~6節をご覧ください。「5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」どういうことでしょうか。この日照りによって野山にいる動物たちも大きな影響を受けることになるということです。つまり、エルサレムだけでなく、農村部だけでもなく、野山に至るまで国全体が打撃を受けることになるということです。国全体が疲弊してしまうことになります。しかも人間だけでなく動物に至るまでもです。野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てることになります。若草がないからです。自分が食べるのもやっとで、母乳をあげることもできません。子どもを捨てなければならないほど追いつめられるのです。雌鹿はイスラエルでは最も美しい動物のシンボルとなっています。その美しく優しい雌鹿ですら、そうならざるを得なくなるのです。

また、野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる、とあります。青草がないからです。聖書では、野ろばは最もたくましい強靭な動物のシンボルとして描かれていますが、その野ろばですら、ジャッカルのようにあえぐようになります。ジャッカルは、廃墟と化した町に住む獣として聖書に描かれていますが、そのようになってしまうのです。青草がないからです。

いったいどうしてこのようなことになるのでしょうか。それは先に申し上げたように、イスラエルの民が彼らの神、主を捨てたからです。13章22節には、「あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたがたの多くの咎のためだ。」とある通りです。現代は、自分の力で何でもできると考えがちです。しかし、私たちと神様との関係が正しくなければ、神が天から雨を閉ざされることもあるということを覚えておかなければなりません。私たちの物質的祝福は、すべて天からの恵みとして与えられているのです。それは、神との関係によってもたらされるのです。それなら、私たちは神との関係をより親密なものにするようにすべきではないでしょうか。
  新年の礼拝でホセア書6章3節からお話しました。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」
 今は後の雨の時代です。主が暁の光のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られ、私たちの心を聖霊の雨をもって潤してくださるように、主を知ることを切に追い求めましょう。

Ⅱ.主の御名のために(7)

次に7節をご覧ください。「7 「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます。

このようなイスラエル、南ユダの状況を見せられて、エレミヤはいてもたってもいられなくなり、とりなしの祈りをささげます。7章16節には、「あなたは、この民のために祈ってはならない。」と言われていたにも関わらず、です。また、11章14節でも、「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。」と言われていたにも関わらず、です。エレミヤは2回も彼らのために祈ってはならないと言われていたにも関わらず、それを破ってまでもとりなしの祈りをささげたのです。ユダの惨状を見て、黙っていることなどできなかったからです。

エレミヤはどのように祈りましたか。彼はまず「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます。」と祈りました。「彼らの咎が」ではなく「私たちの咎」です。「彼らの背信」ではなく「私たちの背信」です。「私たちはあなたの御前で罪の中にいます」と祈りました。つまり、エレミヤはユダの民と一つになっているのです。その上で、正直に自分の罪を認めて告白しました。「まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます」と。エレミヤは罪の赦しを受けるために必要なことは何かを知っていました。それは罪を認め、主の御前に告白することです。Ⅰヨハネ1章9節には、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」とあります。私たちは罪人です。あなたの前に罪を犯しましたと認めてそれを言い表すなら、神はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。

もう一つのことは、エレミヤはここで「主よ、あなたの御名のために事をなしてください」と祈っていることです。私たちはこんなに苦しんでいるのですから、もうすべてを失ってしまったのですから、ですから私たちのために事をなしてくださいというのではなく、あなたの御名のために事をなしてくださいと祈ったのです。どういうことでしょうか。
 「名は体を表す」と言いますが、名はその人自身、その人の性質を表しています。たとえば、私は「大橋富男」という名前ですが、この名前は私を表しているんです。つまり、私は富んでいる男なのです。物質的には富んでいませんが、霊的には富んでいます。イエス様を信じたことで神の子とされ、神のすべての資産を受け継ぐ者とされました。ですから、富んでいる男なんです。いい名前ですね。お母さん、ありがとうです。それまではあまりいい名前だと思いませんでした。なんでこんな名前にしたんだろうと、ちょっとコンプレックスがありました。響きがよくない。どうせだったら、「翔平」が良かった。大橋翔平。どうしてこんな名前にしたのかとある時母に聞いたことがあります。そしたら母が教えてくれました。それは兄のクラスにとても頭のいい子がいて、その名前にすれば頭がよくなるんじゃないかと思ったと。何と単純な理由なんだろうとがっかりしましたが、クリスチャンになってから考えてみたら、いや、なかなかいい名前じゃないかと思うようになりました。私は神と人々の大きな架け橋となってイエス様の愛をもたらしていくという意味で富んでいる男だと。Big Bridge Rich Manです。このように、名は体を表しているのです。
  エレミヤがここで「あなたの御名のために事をなしてください」と祈ったのは、この神のご性質に訴えたからです。自分たちの行いによるなら今受けている災いは当然の結果です。私たちが罪を犯したのですから、すべてを失って当たり前です。でもあなたはあわれみ深い方ですから、そのあわれみによって赦してくださいと祈っているのです。

出エジプト記34章6~7節にこうあります。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」主は咎と背きの罪を赦される方です。主よ、あなたの御名のために事を成してください。あなたはこういう方ではありませんか。あわれみ深い方、情け深い方、怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられる方。ですから、主よ、あなたのその御名のために事をなしてくださいと祈ったのです。先ほど引用したⅠヨハネ1章9節もそうですね。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」ここには「神は真実な方」とあります。真実とは何ですか。約束を守られる方という意味です。ですから、私たちは罪を言い表すことができるのです。神は真実な方ですから。神はあわれみ深く、情け深い方ですから、怒るのに遅く、恵み深い方ですから、咎と背きの罪を赦してくださる方ですから、この御名によって祈ることができるのです。

Ⅲ.苦難の時の救い主(8-9)

第三に、エレミヤが訴えたもう一つの主の御名、主のご性質を見て終わりたいと思います。8~9節をご覧ください。「8 イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。9 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。主よ。あなたは私たちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです。私たちを置き去りにしないでください。」」

エレミヤの祈りが続きます。ここでエレミヤは、「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ」と言っています。これも主のご性質です。主はイスラエルの希望である方、私たちの希望なる方です。エレミヤは今、エルサレムを見ても、農村を見ても、野山を見ても、どこにも希望を見出すことができませんでした。どこを見ても、あるのは絶望だけでした。今はそういう時代じゃないですか。どこに希望があるでしょうか。若い方々に聞いてみてください。希望がありますか?町に希望がありますか?田舎に希望がありますか?野山に希望がありますか?ありません。これから経済はどうなっていくんだろう。老後は大丈夫だろうか。年金を払ってももらえそうもないし。いくら政党が代わっても政治は変わらない。世界情勢はどうでしょう。最近発表された終末時計によると、世界に残された時間は90秒だそうです。ロシアがいつ核を使用するかわかりません。核戦争になったらどうなるかなんて誰でもわかっていることです。自然環境はどうでしょう。地球温暖化で、世界中のあちらこちらで大洪水が発生しています。このままでは地球がどうなってしまうのかわかりません。明らかに20年前、30年前と時代が変わりました。どこにも希望が見出だせない、末恐ろしい時代となっています。

しかし、私たちには希望があります。それは主イエス・キリストです。この方こそ私たちの希望です。エレミヤの時代は、イスラエル、南ユダは、神ではなく外国との同盟関係に頼っていました。いわゆる外交とか軍事力、経済力といったものに頼っていたのです。でも、それらは本当の意味で望みとはなりませんでした。壊れた水溜めと同じで、一時的な気休めでしかなかったのです。むしろ、それらがもたらしたのは絶望でしかありませんでした。

でも、イスラエルの望みである方、私たちの神は、決して私たちを裏切りません。がっかりさせません。エペソ2章11~13節にこうあります。「11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」 
  かつて私たちは、肉においては神から遠く離れ、この世にあって望みもなく、神もない者でしたが、そのように遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって神に近い者とされました。神様がおられることが希望なんです。何も持っていなくても、神様さえ持っていれば希望があります。すべてを失っても神様だけは決して失うことはありません。だから神様が希望なんです。他のものは失われ頼りにしていたものも変わりますが、神様はいつまでも変わることがありません。イスラエルの神は望みの神なのです。あなたはこの希望を持っておられますか。

またエレミヤはここで、イスラエルの望みの方を、苦難の時の救い主と呼んでいます。皆さん、私たちの主は苦難の時の救い主です。よく「苦しい時の神頼み」と言いますが、それでいいんです。私たちの主は苦しい時に救ってくださる神だからです。ピンチの時に頼りになるのはこの方だけです。日光東照宮に行ってもだめです。それはあなたを救ってはくれません。そこには3匹の猿がいますが、それらは「見ざる、言わざる、聞かざる」です。何も見えません。何も言わないし、何も聞こえません。田んぼの中のかかしのようなものです。何の頼りにもなりません。銀行に行っても無駄です。お金を貸してくれるかもしれませんが、あなたを窮地から救い出すことはできないからです。弁護士はどうでしょうか。確かにある程度はアドバイスしてくれるかもしれませんが、相当の弁護料が求められます。苦難の時にあなたを救うことができるのはたった一人だけです。それは私たちの主イエス・キリストです。主はまどろむこともなく、眠るここともありません。この方に頼むべきです。

家族のことで悩み苦しんでおられる方からメールをいただきました。自分のことなら我慢することができるけど、子ども、孫のこととなるとどうすることもできないのを痛切に感じます(涙)。神様は私、子ども、孫を通して何を伝えたいのでしょう。孫はもう終わりです。子どもは立ち上がることができません。それが何よりも悲しくて言葉になりません。
 このメールを見て私は思いました。このことを通して神様は何を伝えたいのでしょうか。それは、神様は苦難の時の救い主であるということです。「わたしに頼れ」とおっしゃっておられる。この方に信頼し、この方にすべてをゆだねるべきです。そうすれば、この方があなたを救ってくださいます。

詩篇50篇15節に、すばらしい約束があります。ご一緒に読んでみましょう。「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」苦難の日に主を呼び求めるなら、主があなたを助け出してくださいます。
  また、詩篇91篇15節はこうあります。「彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。」
 あなたが苦しい時に主を呼び求めるなら、主はあなたに答えてくださいます。主は苦難の時の救い主なのです。そんなの虫のいい話じゃないかと思うかもしれません。私のような者の叫びは聞いてくださらないと思うかもしれません。しかし、それはあなたが、主がどのよう方かを知らないからです。主がどのような方なのかを知れば、それがわかります。この方は苦難の時の救い主であるということを。私たちは真実でなくても、この方は常に真実な方です。ご自身を否むことかできないからです。ですから、苦難の時の救い主であられる主は、苦難の時の救い主であり続けてくださるのです。どんなに虫のいい話だと言われても、主は真実な方ですから、状況がどうであれ、私たちがどうであれ、苦難の時の救い主であり続けてくださるのです。

8節後半から9節までをご覧ください。ここでエレミヤは「どうして」「なぜ」ということばを連発して、主に必死に訴えかけています。「どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。」

言い換えると、これは、あなたの御名に反することではないですかということです。どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。そんなことないでしょ。あなたはこのような方なのですからと、必死になって訴えでいるのです。私たちもこのように祈りたいですね。必死になって主の御名にかけてた祈るべきです。

アメリカン・フットボールのインディアナポリス・コルツチームの監督だったトニー・ダンジーさんは、息子が無くなったとき深い悲しみに打ちひしがれました。しかし、彼は葬儀場に慰めに来た人々にこう言いました。「皆さんにお伝えしたい重要なことがあります。私はここで涙を見せていますが、これは悲劇の中でなされるお祭りだということです。なぜなら、私たちの人生の目的と意味は、ただイエス・キリストにあるのですから。今、この瞬間にも主は私と皆さんの中に、その愛を現わしてくださいます。なぜ私にこのようなことが起こったのかも、なぜ息子が死んだのかも私にはわかりません。しかし、神がその答えを持っておられるということと、変わらずに私を愛しておられること、そして私のためのご自身のご計画があることを知っています。私は「なぜ」の代わりに、「何を」と質問するようになりました。「私がこれを通して何を学べるのか」「私がこれを通して神の栄光のために何をすることができ、ほかの人を助けるために何をすることができるのか」と問いながら歩んでいきます。」(ファン・ヒョンテク、「いつでも希望は残っている」)
 すばらしいですね。本当に主がどういうお方なのか、どのようなご性質なのかをよく知っていないと言えないことばだと思うのです。それを知れば「なぜ」の代わりに「何を」と質問することができるようになるはずです。このように主の御名を知って、主に従うなら、その人の人生にさらに多くの恵みが増し加えられるのは間違いありません。

エレミヤは、主の御名にかけて祈ったとき、一つの真実に到達しました。それは「主よ。あなたはわたしたちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです。」ということです。主は私たちの真ん中にいてくださいます。ど真ん中にいてくださる。ここにもいてくださいます。その真理に目が開かれたのです。であれば、それで十分ではないでしょうか。

主は同じことを私たちに求めておられます。あなたは日照りで渇き切っていないでしょうか。どこを見ても希望はないと、嘆いておられないでしょうか。しかし、イスラエルの望みである方は、苦難の時の救い主であられます。この方に信頼してください。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)とある通りです。あなたが素直になって自分の罪を認め、告白するなら、神様はあなたをきよめてくださいます。神様は苦難の時の救い主なのです。この方は、あなたのただ中にいてくださいます。この方に信頼して、歩んでいきましょう。

Ⅱ列王記2章

 Ⅱ列王記2章から学びます。

 Ⅰ.エリヤの昇天(1-14)

まず、1~5節までをご覧ください。「1 主がエリヤを竜巻に乗せて天に上げようとされたときのこと、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。2 エリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言った。しかしエリシャは言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。3 すると、ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのところに出て来て、彼に言った。「今日、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください」と答えた。4 エリヤは彼に「エリシャ、ここにとどまっていなさい。主が私をエリコに遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはエリコにやって来た。5 するとエリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「今日、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください」と答えた。」

主がエリヤを竜巻に乗せて天に上げようとされたときのことです。エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行きました。ギルガルという地名については、エリコの北東5㎞に位置しているギルガルなのか、それともベテルから北西に15㎞にあるギルガルなのかはっきりわかりません。しかし、2節でエリヤが「主が私をベテルに遣わされたから」と言っていることを考えると、ベテルから北西に15㎞に位置しているギルガルのことではないかと思われます。エリヤはエリシャを連れて、そのギルガルから出て行きました。

するとエリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言いました。「ここ」とは「ギルガル」のことです。エリヤがエリシャをギルガルに残そうとしたのは、彼が着いて来るかどうかを試すためだったのでしょう。するとエリシャは、「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」と答えました。それで彼らは二人でベテルに下って行きました。エリシャがエリヤから離れたくなかったのは、エリヤが天に召される前に祝福を受けたかったからです。

 すると、ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのところにやって来て、彼にこう言いました。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」

彼らは預言者学校の仲間たちでした。当時イスラエルには、各地に預言者の学校がありました。そこで多くの若者たちが、預言者としての職業に就くための訓練を受けていたのです。彼らは、エリヤとかエリシャのような大預言者のもとに集まり、預言者になるための学びをしていました。彼らはそうした所での訓練を通して、神が語る預言のことばをキャッチできるようになっていたのです。その仲間たちがエリヤがその日に召されることを知っていて、それをエリシャに伝えたのです。

するとエリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください。」と答えました。どうしてでしょうか。エリシャは、その話題に触れたくなかったからです。彼は、エリヤが天に召される前に祝福を受けたかったので、彼から一時も離れたくなかったのです。

するとエリヤは、今度は主が私をエリコに遣わされたと言い、エリシャには、ここにとどまっていなさいと言いました。エリシャをベテルに残して、自分はエリコに向かうとしたのです。するとエリシャは、「いやです、私は付いて行きます。決してあなたから離れません。」と言ってエリコにやって来ました。しかし、そこでもベテルの預言者たちが言ったように、エリコの預言者たちも同じことをエリシャに言いました。するとエリシャは再び答えました。「私も知っていますが、黙っていてください。」彼は何としてもエリヤから祝福を受けたかったのです。

何としても神から祝福を受けようとするエリシャの態度は、私たちクリスチャンの模範でもあります。イエス様は、「7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)と言われました。私たちの主は求める者には与えてくださる方です。主は私たちがエリシャのように必死になって主に祈り求めることを願っておられるのです。

次に、6~14節をご覧ください。「6 エリヤは彼に「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、二人は進んで行った。7 一方、預言者の仲間たちのうち五十人は、行って遠く離れて立った。二人がヨルダン川のほとりに立ったとき、8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水が両側に分かれたので、二人は乾いた土の上を渡った。9 渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。10 エリヤは言った。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。12 エリシャはこれを見て、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた。13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。14 彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。」

次にエリヤはヨルダン川に向かいます。以前と同じように「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから。」と言うと、エリシャも同じように「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」答えました。これが三度目です。エリヤは、エリシャが自分にとって楽な道を選ぶのか、それともエリヤから祝福を受けるために苦労の多い道を選ぶのかの選択を迫ったのです。もちろんエリシャはエリヤについて行く道を選びます。それで二人は一緒にヨルダンに行きました。

しかし、今回はこれまでとは違います。預言者の仲間たちのうち50人が、行って遠く離れて立ちました。この50人は、エリコから着いて来た若い預言者たちです。彼らはエリヤの最期を見届けようとしてやってきたのです。

するとどうでしょう。二人がヨルダン川のほとりに立ったとき、エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打ちました。するとヨルダン川の水が両側に分かれたので、二人はその乾いた土の上を渡りました。あの紅海の水が湧かれた時と同じです(出エジプト14:21-22)。また、ヨシュアがヨルダン川の水をせき止めた時と同じです(ヨシュア3:14-16)。ということは、ここでエリヤとエリシャはモーセとヨシュアの型として捉えることができます。この出来事を目撃した50人の預言者たちは、イスラエルをエジプトから導き出した主が今も生きていて、イスラエルにおられることを確信したことでしょう。それは今日も同じです。この神は今も生きておられます。この神に信頼する人は幸いです。今も偉大な神の力を目の当たりにできるからです。

ヨルダン川を渡り終えると、エリヤがエリシャに言いました。「あなたのために何をしようか」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください。」と言いました。どういうことでしょうか。

エリシャが、ここまで食らいついてエリヤを離れなかった理由が、ここで明らかにされました。それはエリヤの霊のうちから二倍の分を自分のものにしてほしかったからです。これはエリヤの霊の力の二倍の力という意味ではありません。これは、神の御霊がエリヤを通して働かれていたように、いやそれ以上に自分にも働いてくださるように、という願いです。つまり、預言者たちの中で自分がエリヤの後継者になれるようにということです。

それに対してエリヤは何と言いましたか。10節です。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」なぜこれが難しい注文なのでしょうか。なぜなら、だれが後継者になるかは主が決められることだからです。しかしエリヤは、自分が天に上げられるのを見ることができるなら、そうなるだろうと答えました。つまり、エリシャがそれを見たら、それが、彼が後継者に選ばれたしるしであるというのです。

こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行きました。この「火の戦車」は単数形ですから1台の戦車です。それに対して「火の馬」は複数形ですから数匹の馬ということになります。この火の戦車と火の馬が現れて、エリヤとエリシャの間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行きました。

聖書の中で死を経ないで天に上げられたのは、エノクとこのエリヤだけです。これは何を意味しているのかというと、携挙に与る新約時代のクリスチャンの姿です。Ⅰテサロニケ4章13~18節には、このようにあります。「13 眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。14 イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。15 私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。18 ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」

クリスチャンは死んで終わりではありません。イエス様が再臨される時に復活し、一気に天に引き上げられることになります。生きている人は死ぬことがなく天に携え挙げられるのです。エリヤが死ぬことなく天に上げられたのはこの型を示していたのです。そうです、クリスチャンは死んで終わりではありません。死んでも生きる永遠のいのちが与えられているのです。そういう意味では、クリスチャンのこの地上での生涯は、天国への旅の備えであると言えるのです。

エリシャはこれを見ると、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けましたが、エリヤはもう見えませんでした。すると彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂きました。エリシャが「わが父、わが父」と叫んだのは、エリヤが彼の霊的な父であったからです。それはまた、エリヤが預言者たちのリーダーであったことも示しています。その父を失った悲しみが「わが父、わが父」ということばに表れているのです。

「イスラエルの戦車と騎兵たち」とは、当時、戦車と馬が最強の武器であったことを考えると、エリヤは主に用いられた最強の器であったということです。確かに彼は、バアルとの戦いにおいて勝利した最強の預言者でした。

エリヤが自分の着物を二つに引き裂いたのは、それが悲しみを表現していたからです。また、新たにエリヤの身から落ちた外套を身にまとう準備ともなりました。彼はその外套を拾い上げると引き返してヨルダン川の岸辺に立ち、水を打ちました。そして「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言って水を打つと、水が両側に分かれました。すなわち、エリヤの神はここにいるということです。エリシャがエリヤの後継者として選ばれたのです。エリシャがエリヤの預言者としての働きを完全に継承したということです。

人は去って行きますが、主の働きは継承します。先日、M牧師の葬儀に参列しました。M牧師は救われて67年、牧会生活63年の生涯を終えて天に変えられました。1月29日(日)の礼拝で説教され、その日の役員会で後任の牧師を決めると、翌日、膵炎胆石症で倒れられ、その翌日に天に凱旋されました。まさかその翌々日に召されると誰が想像することができたでしょう。しかし、M師が去ってもその働きは継続していきます。私たちの人生は一時的なものですが、永遠に価値あることのために労することができるなら、真に幸いではないでしょうか。

Ⅱ.エリヤの霊がエリシャにとどまっている(15-18)

次に15~18節をご覧ください。「15 エリコの預言者の仲間たちは、遠くから彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言って、彼を迎えに行き、地にひれ伏して礼をした。16 彼らはエリシャに言った。「しもべたちのところに五十人の力ある者がいます。どうか彼らにあなたのご主人を捜しに行かせてください。主の霊がエリヤを運んで、どこかの山か谷に投げたかもしれません。」するとエリシャは、「行かせてはいけません」と言った。17 しかし、彼らがしつこく彼に願ったので、ついにエリシャは、「行かせなさい」と言った。そこで、彼らは五十人を送り出した。彼らは三日間捜したが、エリヤを見つけることができなかった。18 彼らは、エリコにとどまっていたエリシャのところへ帰って来た。エリシャは彼らに言った。「行かないようにと、あなたがたに言ったではありませんか。」」

エリコの預言者の仲間たちは、遠くから彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言って、彼を迎えに行き、地にひれ伏して礼をしました。彼らはヨルダン川西岸、遠くから一部始終を見ていました。彼らは、エリシャがエリヤの外套でヨルダン川の水を打ったとき、川の水が両側に分かれるのを見て、エリシャがエリヤの後継者であることを理解しました。それで.エリシャのところに向かえを行き、地にひれ伏して礼をしたのです。エリシャに敬意を表すためです。

彼らはエリシャに、自分たちのところに力のある50人の者がいるので、エリヤを捜しに行かせてほしいとエリシャに言いました。エリヤが主の霊によってどこかに運ばれたと思ったからです。エリシャは、エリヤが主によって天に上げられたことを知っていたので、「行かせてはなりません」と言いましたが、彼らがしつこく願うので、しょうがなくエリシャは折れて、彼らに「行かせなさい」と言いました。

ここは面白いところです。彼らはエリシャをエリヤの後継者であると認めながらも、エリシャのことばを聞き入れず自分たちの考えを優先させています。私たちも主こそ神であると認めながらも、主のことばを聞き入れず自分の考えを優先させていることがあるのではないでしょうか。それはこのエリコの預言者の仲間たちと同じです。

結局、三日間捜してもエリヤは見つかりませんでした。それで彼らはエリコにとどまっていたエリシャのところに帰ってきました。彼らがエリシャのことばに耳を傾けなかった結果です。

この出来事を通して、エリコの預言者たちは、自分たちがいかに未熟で傲慢であったかを学んだことでしょう。これ以降彼らは、エリヤの後継者としてのエリシャの権威を認め、さらに信頼を置くことになります。自らの未熟さと傲慢さに気付き、教えられやすい心を育てる人は幸いです。

Ⅲ.エリコの水の癒しと熊にかき裂かれたベテルの青年たち(19-25)

最後に19~25節をご覧ください。「19 さて、この町の人々はエリシャに言った。「あなた様もご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産を引き起こします。」20 するとエリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。21 エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう言われる。『わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」22 こうして水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。23 エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、その町から小さい子どもたちが出て来て彼をからかい、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭」と言ったので、24 彼は向き直って彼らをにらみつけ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、子どもたちのうち四十二人をかき裂いた。25 こうして彼は、そこからカルメル山に行き、そこからさらに、サマリアに帰った。」

この町とは「エリコ」の町のことです。彼らはエリシャのところに来て、「この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産を引き起こします。」と言いました。エリシャの噂が町中に知れ渡っていたからです。そこで町の人たちがエリシャのところにやって来て相談しました。

この「流産」という言葉ですが、新共同訳聖書では「土地は不毛です」と訳しています。水質が悪かったので、作物が育たない不毛の地になっていたのです。もしこれが「流産」であるとすれば、主に家畜の流産であったと考えられます。

するとエリシャは、「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」と言って持って来させると、水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言いました。「主はこう言われる。『わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」すると水は良くなり、エリヤが言ったとおり、死も流産も無くなりました。

塩を盛るのは、もちろん塩に効用があるからではありません。このようなデモンストレーションを通して、主が奇蹟を行なわれることを人々に示したのです。イエス様が生まれつきの盲人の目を癒された時もそうです。つばきを地面にかけそれで粘土をつくると、それを盲人の目に塗られました。それと同じです。主はその方法を採らなくても癒すことができましたが、あえてこのようにして癒されました。そのようにして水を癒されたのです。

エリコの水が生活に不毛をもたらしていたことと、バアル礼拝が霊的不毛をもたらしていることの間には相関関係があります。癒されたエリコの水は、主が憐れみ深い方であり、バアルよりも力あるお方であることを示していました。私たちの人生を支えておられるのはだれでしょう。この力ある神です。私たちはバアルのような目に見える偶像ではなく、ただ力ある神に信頼しようではありませんか。

エリシャはそこからベテルへと上って行きましたが、彼が道を上って行くと、その町から小さい子どもたちが出て来て、エリシャをからかい、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。」と言いました。するとエリシャは彼らをにらみつけ、主の名によって彼らをのろうと、森の中から二匹の雌熊が出て来て、子どもたちのうち42人をかき裂いてしまいました。

この箇所を読んでいて戸惑うのは、小さな子どもから「はげ頭」とからかわれたくらいで殺してしまうというのは、ちょっと行き過ぎではないかということです。

この「小さい子ども」と訳されたことばは必ずしも小学生低学年のような小さな子どものことではなく、幼児から青年までを指す幅広い言葉です。英語のKJVでは「some youths」と訳しています。10代の子どもたちです。おそらく彼らはバアルの預言者たちの卵たちだったのでしょう。ベテルは金の子牛礼拝の中心地であったからです。大人数であったことから組織的にエリシャをからかったことがわかります。

また、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。」は、新共同訳聖書では「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と訳しています。「上って来い」と「上って行け」では大きな違いがあります。「上って行け」となると、あのエリヤのように天に上って行くことを指していることになります。ですからこれは、「もしお前が本当に主の預言者であるなら、エリヤがしたように天に上ってみよ、はげ頭よ。」ということなのです。彼らは単に人をからかったのではなく、主の預言者を侮ったのです。これは主に対する侮りなのです。その結果、熊にかき裂かれてしまうことになりました。それは神の裁きでした。神への冒涜に対する神の裁きだったのです。つまり、神を敬い、神に従う者は神から祝福を受け、神に逆らい、神に敵対する者は、神からのろいを受けるということです。エリコの人々はエリシャを敬ったので神から祝福を受けましたが、ベテルの青年たちはエリシャをからかったので、神からのろいを受けることになってしまいました。異なった態度が、異なった結果をもたらすということです。ここではその対比して描かれていたのです。ですから、私たちは神を侮るのではなく神を敬う者に、神に逆らうのではなく神に従う者にならなければならないのです。

エレミヤ13章12~27節「酒壺に満たされた酒」

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きょうは、エレミヤ書13章12~27節のみことばから「酒壺に満たされた酒」というタイトルでお話します。前回は、ぼろぼろになった帯についてお話しました。それはユダとエルサレムの大きな誇りを表していました。主はその帯をぼろぼろにすると言われたのです。それは彼らが主のことばを聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に歩み、それに仕えたからです。彼らは主に結び付けられて主と一つとなり、主のために生きるように造られたのにそうではなかったからです。すごいですね、このように主はエレミヤの行動を通して、ご自身のみことばを示されたのです。ことばによる預言も力がありますが、行動を通しての預言はもっと力を感じます。

きょうのところでは、一つのたとえを通して語られます。それは酒壺に満たされた酒のたとえです。イエス様も多くのたとえを用いて話されましたが、たとえ話や例話を巧みに用いて語られるとピンとくるというか、わかりやすく感じます。このたとえを通して主は何を語ろうとされたのでしょうか。結論から申し上げると、神の民はいつまでも変わらないということです。いつまでも神に立ち返らないので、主は彼らの酒壺を怒りの酒で満たされるのです。

Ⅰ.酒壺に満たされた酒(12-14)

 まず12~14節をご覧ください。「12 あなたは彼らにこのことばを伝えよ。『イスラエルの神、主はこう言われる。酒壺には酒が満たされる。』彼らがあなたに『酒壺に酒が満たされることくらい、分かりきっているではないか』と言ったなら、13 あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、14 彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。』」

主はエレミヤに言われました。彼らにこのことばを伝えよと。「彼ら」とはイスラエルの民、南ユダの民のことです。彼らに伝えるべきことばとは、「酒壺に酒が満たされる」ということでした。酒壺とは、イスラエルの民のことを指しています。その中に満たされる酒、ぶどう酒とは、神の怒りのことです。ここでは、ぶどう酒が神の怒りとして用いられています。この酒壺は、ぶどう酒を約40リットルも入れることができる大きな容器でした。その酒壺が神の怒りで満たされるのです。

それに対して、イスラエルの民が「酒壺に酒が満たされることなど当たり前ではないか、そのくらい、分かりきっていることだ」と言ったら、彼らにこう告げるようにと言われました。13~14節です。「見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。」どういうことでしょうか。

これは、神様が徹底的に彼らをさばかれるということです。具体的にはバビロン捕囚の出来事を指しています。彼らはそれがどういうことなのかわかりませんでした。それで、酒壺にぶどう酒が満たされるのは当然ではないかとのん気なことを言っていたのです。しかし、そんなのん気なことを言っている場合ではありません。そこには全く容赦のない神の怒りのぶどう酒が注がれるようになるからです。主はその地の全住民を、王から一般庶民に至るまで酔いで満たし、互いにぶつけて砕き、滅ぼされるのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。15~17節をご覧ください。ここにその理由が述べられています。「15 耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。16 あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。17 もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」

それは彼らが高ぶっていたからです。彼らは主が語られることばを聞こうとしませんでした。主の御声に聞き従おうという気持ちはこれっぽっちもありませんでした。たとえば、主が「酒壺には酒が満たされる」と言っても、「そんなの当たり前じゃないか、酒壺はそのためにあるんだから」と言って、そのことばに秘められた神の思いを素直に受け取ろうとしませんでした。主はそんな彼らに、その高ぶりを捨てて、主に栄光を帰するようにと言われたのです。

ぶどう酒は、神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴でもあります。たとえば、イエス様はカナの婚礼において水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行い、その結婚式を祝福されました。また、最後の晩餐において御子イエスの血潮の象徴となったのはぶどう酒でした。ですから、ぶどう酒は神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴ともなり得るのです。神の器であるあなたという壺の中に注がれているのは怒りのワインでしょうか。それとも、祝福のワインですか。神の怒りを祝福に変える唯一の方法は、高ぶりを捨てて、神に栄光を帰することです。神のためにと思ってやっていることが自分のためにしていることもあります。聖霊様によって、心を吟味していただきましょう。

ところで16節には、「まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。」とあります。やがて闇に包まれる時がやって来ます。夕暮れとなって何も見えなくなる時がやって来るのです。その時では遅いのです。
  恵泉キリスト教会会津チャペル牧師で、山形大学名誉教授の三留謙一先生から、新年のご挨拶にとご自身が書かれたトラクトを送ってくださいました。そのトラクトのタイトルがなかなかなのです。「天の故郷への帰還・・・まだ可能です」先生は昨年心臓冠動脈のバイパス手術を受けられましたが、それはまさに、一度死んで復活した「死からの擬似体験」のようだったと言います。もしかするとそのまま死ぬかもしれないという不安の中で、これまで何回もクリスチャンは必ず天の故郷に帰れますというメッセージを聞き、また自分も牧師として語ってきましたが、自分が死に臨むことは、全くの未知の領域でした。ですから手術前の一週間、「今週が人生最後かも」という思いが消えず、眠れない夜を過ごしました。
 しかし、手術室に向かう車椅子の上で、突然、天から平安が降ってきて、不安が消えていきました。これが、イエス様が、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14:27)と言われた平安なのかと、手術室に入っていきました。そして、手術は無事終わり翌朝目を目ましたとき、永遠のいのちの恵みのすばらしさ、凄さを改めて感じたと言います。それは、天の故郷の朝のようだったと言います。新聖歌151番「永遠(とわ)の安き来たりて」の歌詞にある通りです。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
  あなたもこの天の故郷への帰還が可能です。「イエス様、どうぞ私の心に来て、救ってください。」と祈るなら、あなたも天の故郷に帰ることができます。そして一度イエス・キリストを信じた者に対する神の約束は、何があっても変わることはありません。三留先生は、最後に次のように語って証を閉じています。
 「一度限りの人生、永遠のいのちほど価値あるものはありません。私も82歳になりましたが、80歳でも、天の故郷への帰還は、まだ可能です。輝かしいイエス様を見上げて、一緒に行きましょう。天国までの道を。」
 アーメンですね!天の故郷への帰還は、まだ可能なのです。しかし、それが閉じられる時がやって来ます。主が闇を送り、あなたがたの足が夕暮れの山でつまずくようになる時がやって来るのです。つまり、手遅れになる前に自分の罪を悔い改めてイエス様を信じなければなりません。今はまだやり直すチャンスが与えられています。でもそのチャンスが無くなる時がやって来る。それは肉体の死を迎える時であり、また、イエス様が再臨する時です。それが終わりの時です。その後でどんなに歯ぎしりしてもその時は残されていません。その時が来たらもう遅いのです。大丈夫、セカンドチャンスがあるから・・・。ありません。皆さん、このような教えに惑わされないでください。ありませんから。そんなことは聖書のどこにも書いてありません。聖書が言っていることは、私たちが悔い改めるチャンスとして与えられているのは、私たちがこの地上に生きている間だけであるということです。どんなに有名な牧師が言ったとしても惑わされないでください。私たちが悔い改めるチャンスは、この地上に生きている時だけなのです。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)ですから、その前に高ぶりを捨て、主に栄光を帰せなければなりません。悔い改めて、神に立ち返らなければならないのです。

16節の後半にあるとおりです。「あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。」どういうことですか。あなたがたが光を待ち望んでも、それはもう遅いということです。主はそれを死の陰に変え、暗黒とされるからです。イエス様はこう言われました。「9 昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」(ヨハネ11:9~10)
 イエス様は世の光として来てくださいました。この光がある間にご自身のところに来なければなりません。昼間歩けば、つまずくことはないからです。でも、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。
  クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「光のあるうちに」という本を書かいておられますが、いつまでも光があるわけではありません。人それぞれ光のところに来る時が与えられているのです。それに応答しなければ、闇があるだけです。

もしこれに聞かなければどうなるでしょうか。17節にこうあります。ご一緒に読みましょう。「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」
 もし、主のことばに聞かなければ、主の群れが捕らわれて行くことになります。具体的には、バビロン捕囚のことです。そのことを聞いたエレミヤは嘆き、涙にくれました。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれていますが、ここでもその姿を見てとれます。何度語っても聞いてくれない、心を頑なにして神のことばを拒んだ結果、彼らは捕らえられてバビロンに連れて行かれることになってしまう。エレミヤはそのことを聞いて涙が止まりませんでした。私だったらムカついていたかもしれません。これだけ言っているのになぜわからないのかと。でもエレミヤは涙にくれました。目に涙があふれました。彼は自分の故郷アナトテの人たちから憎まれ、殺されかけていたんですよ。自分を殺そうとする人のために語ることばなどありません。そんな人なんてどうなっても構わないと思うのが普通でしょ。なのにエレミヤはそのアナトテの人々をはじめ、ユダの人たちが捕らわれて行くのを見て嘆き、涙にくれたのです。エレミヤはまさに涙の預言者でした。

これが私たちの主の涙でもあります。主の心なのです。エレミヤの姿は、私たちの主イエスの姿を表していたのです。そういえば、イエス様も自分を十字架につけた人たち、自分を殺そうとした人たちのために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
 これがイエス様の心です。ですから、エレミヤの涙はイエス様の涙、父なる神の涙だったのです。神の預言者として、神の思い、神の心を表していたのです。すなわち、神は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるということです。どんなに頑な人でも、どんなにキリスト教は嫌いだという人でも、どんなに神なんて信じないと言う人でも、すべての人が悔い改めて、真理を知るようになることを望んでおられるのです。イエス様はそのために十字架にかかって死んでくださったのです。

ですから、私たちは高ぶりを捨てて、主に、栄光を帰せなければなりません。主があなたに闇を送らないうちに、まだあなたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。酒壺にぶどう酒が満たされないように、神の御前にへりくだり、神の御言葉に聞き従う者になりたいと思うのです。

Ⅱ.なぜこんなことが私の身に起こったのか(18-22)

次に、18~22節をご覧ください。「18 「王と王母に告げよ。『低い座に着け。あなたがたの頭から、輝かしい冠が落ちたから。』19 ネゲブの町々は閉ざされて、だれも開ける者はいない。ユダはことごとく捕らえ移される。一人残らず捕らえ移される。20 あなたがたの目を上げ、北から来る者たちを見よ。あなたに対して与えられた群れ、あなたの美しい羊の群れはどこにいるのか。21 最も親しい友としてあなたが教えてきた者たちが、あなたの上に、かしらとして立てられるとき、あなたは何と言うのか。激しい痛みがあなたをとらえないだろうか。子を産む女のように。22 あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたの多くの咎のためだ。それで、あなたの裾はまくられて、あなたのかかとは傷を負うのだ。」

高ぶって、主の御声に聞き従わなかったユダの民は、捕らえ移されることになります。その神のさばきがここに宣言されています。18節の「王」とは、南ユダの最後から二番目のエホヤキン王のことです。「王母」とは、その母親のネフシャタのことです。その前にエホヤキムという王様がいましたが、彼はバビロンの王ネブカデネザルに反逆したので、バビロンに捕え移されてしまいました。これが第一次バビロン捕囚です(B.C.597)。この時にダニエルも捕え移されました。その後を継いだのが、このエホヤキンです。この時彼はまだ18歳だったので、実質的には彼の母のネフシャタが後見人となって実験を握り、国を治めました。このことはⅡ列王記24章8節に記されてありますので、後でご確認ください。そこには彼女の名前も出ています。その治世はわずか三か月でした。その後、ゼデキヤという王が立てられますが、このゼデキヤの時にエルサレムは完全に陥落することになります(B.C.586)。これが第二次バビロン捕囚です。

そのエホヤキン王と母親のネフシャタに告げられたことばがこれです。「低い座に着け、あなたがたの頭から輝かしい冠が落ちたから」どういうことでしょうか。彼らが王の位から引きずり降ろされるということです。彼は王となってわずか三か月でしたが、この預言のとおり、王位から引きずり降ろされることになります。彼だけでなくユダの民のすべてがことごとく捕え移されることになるのです。19節には「ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいない。」とありますが、ネゲブとは、南ユダの南端にある町です。ですから、ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいないというのは、南端に至るまですべてバビロンの支配下に置かれるということです。一部だけではありません。すべてです。南ユダ全体がバビロンの支配におさまることになるのです。

20節の「北から来る者たち」とは、そのバビロンのことです。イスラエルは神の羊にたとえられていますが、その美しい羊の群れがどこかに散らされてしまうことになるのです。羊は羊飼いがいなければ生きていけない存在です。羊飼いがいればどんなに敵が襲ってきても全く恐れる必要はありません。たとえ死の陰の谷を歩くことがあってもです。主がともにおられますから。主がともにおられるので何も恐れる必要はないのです。でも彼らは真の羊飼いではなく他のものに頼りました。周辺諸国とかと同盟関係を結んで目の前の問題を解決しようとしたのです。神との関係よりもこの世との関係を重視しました。その結果、散らされてしまうことになったのです。それは私たちも言えることです。神との関係を無視し、この世に解決を求めるなら同じような結果を招いてしまうことになります。

それは21節にも見られます。「最も親しい友」とはバビロンのことです。南ユダは当初、台頭してきたアッシリヤという国に対抗するために神様ではなくバビロンと手を結ぼうとしました。同盟関係を結んで共通の敵であるアッシリヤに対抗しようとしたのです。しかし、そのバビロンが彼らのかしらとして立てられ、彼らに激しい痛みを与えることになってしまいました。人間関係ってこんなものですよね。この人に頼ればと思ったのに裏切られ、ひどい目にあってしまうということがよくあります。ここでもそうです。バビロンに信頼したら、そのバビロンによって滅ぼされることになってしまいました。

その時、彼らは「なぜ、こんなことが私の身に起こったのか」と言うようになるでしょう。23節です。皆さん、なぜ、こんなことが自分の身に起こったのでしょう。その理由は明らかです。それは、多くの咎のためです。その咎のためにあなたの裾はまくられ、あなたのかかとは傷を負うことになるのです。あらゆる不幸の原因がここにあります。すなわち、神を神としないことです。

交通事故を起こした人が、「このままでは、いつか事故を起こすかもしれないと予想していた」という話を聞いたことがあります。それと同じように罪に対するさばきも、何の前触れもなくやって来るのではありません。神はさまざまな方法を通して、私たちに語りかけておられます。私たちはその語りかけを聞いたら、その時点で悔い改め神に立ち返らなければならないのです。

Ⅲ.あなたの心を神に明け渡して(23-27)

では、どうしたら良いのでしょうか。ですから第三のことは、あなたの心を神に明け渡してくださいということです。23~27節をご覧ください。「23 クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう。24 わたしは彼らを、荒野の風に吹き飛ばされる藁のように散らす。25 これが、あなたへの割り当て、わたしがあなたに量り与える分である。─主のことば─あなたがわたしを忘れ、偽りに拠り頼んだためだ。26 わたしも、あなたの裾を顔の上までまくるので、あなたの恥ずべきところが現れる。27 あなたの姦淫、あなたの興奮のいななき、あなたの淫行のわざ──数々の忌まわしいものを、わたしは丘の上や野原で見た。ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないままなのか。」

「クシュ人」とは、今のエチオピア人、スーダンの人たちのことです。いわゆるアフリカの黒人の人たちのことです。黒人の人がその皮膚を、変えることができるでしょうか。できません。やろうとした人がいました。マイケル・ジャクソン。でもできません。表面的にはできるかもしれませんが、完全に変えることはできません。豹がその斑点を、変えることができるでしょうか。できません。それと同じように、悪人を善人に変えることはできません。つまり、神の民の心を変えることはできなということです。しかし、人にはできないことでも、神にはどんなことでもできます。神は人の心さえも変えることができるのです。

使徒パウロはこう言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
  だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。この「新しい」ということばは、根こそぎ新しくされるという意味です。それは「心を入れ替える」というレベルではありません。よく言うでしょう。「きょうから心を入れ替えて」と。そういうレベルではないのです。これは新しい創造です。全く新しい人として造り変えていただくことができるのです。どんなに猫や猿を訓練し、良い服を着せたとしても、猫や猿が人間の子どもになることはできません。猫や猿が人間の子どもになるためには人間のいのちを持たなければなりません。それと同じように、新しい人として生まれ変わるためにはイエス・キリストにあって神のいのち、聖霊を持たなければならないのです。一般に良い人間になろうとすることは人間の努力や教育によって進歩することを意味しますが、キリストによって新しく生まれるとは、キリストを信じることによって神のいのちである聖霊を受け入れ、聖霊に心の内に住んでいただくことを意味します。つまり、イエス・キリストを信じることによって、神の聖霊をいただき、私たちの魂に宿っていただくことによって、神の子どもとして新しい人として生まれ変わることができるのです。ハレルヤ!

それは人にはできません。ただ神だけができることです。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。もう過去に捉われたり、縛られたりする必要はありません。過去に受けた傷をもう一度思い起こす必要もありません。どうしてそうなったのかと精神分析を始める必要もないのです。すべての罪が赦されたからです。キリストにあって、あなたの過去はすべて過ぎ去ったのです。イエス様は水をぶどう酒に変えられたように、罪人を聖人に変えることができるのです。一瞬にして。私たちはこういうでしょう。それは無理だと。持って生まれた性格を変えるなんて不可能だと。もし変えられるとしても、10年、20年、30年、いや100年かかると。100年も待っていられません。しかし、安心してください。だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られます。一瞬にして、です。どうやってそんなことが可能なのでしょうか。「キリストにあって」です。神がキリストにあって新しくしてくださいます。「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。」キリストを信じ、キリストの御霊、神の聖霊を受け入れ、内に住んでいただくことによって、あなたも新しくなることができるのです。

使徒パウロは、ローマ人への手紙7章24節でこう叫んでいます。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。しかし次の瞬間、彼はこう言うのです。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(ローマ7:25)どうして彼はそのように言うことができたのでしょうか。主イエス・キリストを通してです。
 「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」(ローマ8:2-4)

それは人にはできないことです。でも、神にはどんなことでもできるのです。神は肉によって弱くなった私たちのために、ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰してくださいました。キリストの十字架の血は、私たちのすべての罪を完全にきよめることができるのです。ですから、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られるからです。神は真黒な罪人をまっ白にしてくださいます。雪よりも白く、羊の毛よりも白くしてくださるのです。聖書にそう約束されています。私たちはクシュ人の肌の色どころじゃない、墨よりも黒い、真黒な心を持っています。しかし、キリストはそうした心さえも変えてくださいます。外見はちっとも変ってないかのように見えるかもしれませんが、いや以前よりもシミが増えてきたなぁと思う人もいるかもしれませんが、中身は全く新しい人です。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく変えられるからです。

27節の最後のことばをご覧ください。ここには「ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないのか。」とあります。この言葉を心に刻みつけたいと思います。これは神の心の痛み、心の叫びです。あなたはいつまで、きよめられないのか。マタイの福音書23章37節でイエス様は、神の招きを好まず拒んでいるイスラエルの民を嘆き、涙してこう言われました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」何度も何度も悔い改めるチャンスを与えらたのにその招きに応じず、自ら滅びに向かって突き進んで行ったご自身の民を嘆かれたのです。

この神の思いを感じていただきたいと思います。神様はたださばきを宣告しているのではありません。そうした厳しい現実の中にも神のあわれみは尽きることはありません。神は一人も滅びないで、すべての人が救われることを願っておられるのです。その思いをしっかりと受け止めていただきたいのです。そしてへりくだって、神の御声に聞き従いましょう。あなたの神、主に、栄光を帰してください。イエス様は「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)と言われましたが、闇が来る前に、夕暮れが迫る前に、光であられる主イエスを信じましょう。そして、あなたの心を神に明け渡し、聖霊によってきよめていただこうではありませんか。