Ⅱ列王記2章

 Ⅱ列王記2章から学びます。

 Ⅰ.エリヤの昇天(1-14)

まず、1~5節までをご覧ください。「1 主がエリヤを竜巻に乗せて天に上げようとされたときのこと、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。2 エリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言った。しかしエリシャは言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。3 すると、ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのところに出て来て、彼に言った。「今日、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください」と答えた。4 エリヤは彼に「エリシャ、ここにとどまっていなさい。主が私をエリコに遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはエリコにやって来た。5 するとエリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「今日、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください」と答えた。」

主がエリヤを竜巻に乗せて天に上げようとされたときのことです。エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行きました。ギルガルという地名については、エリコの北東5㎞に位置しているギルガルなのか、それともベテルから北西に15㎞にあるギルガルなのかはっきりわかりません。しかし、2節でエリヤが「主が私をベテルに遣わされたから」と言っていることを考えると、ベテルから北西に15㎞に位置しているギルガルのことではないかと思われます。エリヤはエリシャを連れて、そのギルガルから出て行きました。

するとエリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言いました。「ここ」とは「ギルガル」のことです。エリヤがエリシャをギルガルに残そうとしたのは、彼が着いて来るかどうかを試すためだったのでしょう。するとエリシャは、「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」と答えました。それで彼らは二人でベテルに下って行きました。エリシャがエリヤから離れたくなかったのは、エリヤが天に召される前に祝福を受けたかったからです。

 すると、ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのところにやって来て、彼にこう言いました。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」

彼らは預言者学校の仲間たちでした。当時イスラエルには、各地に預言者の学校がありました。そこで多くの若者たちが、預言者としての職業に就くための訓練を受けていたのです。彼らは、エリヤとかエリシャのような大預言者のもとに集まり、預言者になるための学びをしていました。彼らはそうした所での訓練を通して、神が語る預言のことばをキャッチできるようになっていたのです。その仲間たちがエリヤがその日に召されることを知っていて、それをエリシャに伝えたのです。

するとエリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください。」と答えました。どうしてでしょうか。エリシャは、その話題に触れたくなかったからです。彼は、エリヤが天に召される前に祝福を受けたかったので、彼から一時も離れたくなかったのです。

するとエリヤは、今度は主が私をエリコに遣わされたと言い、エリシャには、ここにとどまっていなさいと言いました。エリシャをベテルに残して、自分はエリコに向かうとしたのです。するとエリシャは、「いやです、私は付いて行きます。決してあなたから離れません。」と言ってエリコにやって来ました。しかし、そこでもベテルの預言者たちが言ったように、エリコの預言者たちも同じことをエリシャに言いました。するとエリシャは再び答えました。「私も知っていますが、黙っていてください。」彼は何としてもエリヤから祝福を受けたかったのです。

何としても神から祝福を受けようとするエリシャの態度は、私たちクリスチャンの模範でもあります。イエス様は、「7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)と言われました。私たちの主は求める者には与えてくださる方です。主は私たちがエリシャのように必死になって主に祈り求めることを願っておられるのです。

次に、6~14節をご覧ください。「6 エリヤは彼に「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、二人は進んで行った。7 一方、預言者の仲間たちのうち五十人は、行って遠く離れて立った。二人がヨルダン川のほとりに立ったとき、8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水が両側に分かれたので、二人は乾いた土の上を渡った。9 渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。10 エリヤは言った。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。12 エリシャはこれを見て、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた。13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。14 彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。」

次にエリヤはヨルダン川に向かいます。以前と同じように「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから。」と言うと、エリシャも同じように「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」答えました。これが三度目です。エリヤは、エリシャが自分にとって楽な道を選ぶのか、それともエリヤから祝福を受けるために苦労の多い道を選ぶのかの選択を迫ったのです。もちろんエリシャはエリヤについて行く道を選びます。それで二人は一緒にヨルダンに行きました。

しかし、今回はこれまでとは違います。預言者の仲間たちのうち50人が、行って遠く離れて立ちました。この50人は、エリコから着いて来た若い預言者たちです。彼らはエリヤの最期を見届けようとしてやってきたのです。

するとどうでしょう。二人がヨルダン川のほとりに立ったとき、エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打ちました。するとヨルダン川の水が両側に分かれたので、二人はその乾いた土の上を渡りました。あの紅海の水が湧かれた時と同じです(出エジプト14:21-22)。また、ヨシュアがヨルダン川の水をせき止めた時と同じです(ヨシュア3:14-16)。ということは、ここでエリヤとエリシャはモーセとヨシュアの型として捉えることができます。この出来事を目撃した50人の預言者たちは、イスラエルをエジプトから導き出した主が今も生きていて、イスラエルにおられることを確信したことでしょう。それは今日も同じです。この神は今も生きておられます。この神に信頼する人は幸いです。今も偉大な神の力を目の当たりにできるからです。

ヨルダン川を渡り終えると、エリヤがエリシャに言いました。「あなたのために何をしようか」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください。」と言いました。どういうことでしょうか。

エリシャが、ここまで食らいついてエリヤを離れなかった理由が、ここで明らかにされました。それはエリヤの霊のうちから二倍の分を自分のものにしてほしかったからです。これはエリヤの霊の力の二倍の力という意味ではありません。これは、神の御霊がエリヤを通して働かれていたように、いやそれ以上に自分にも働いてくださるように、という願いです。つまり、預言者たちの中で自分がエリヤの後継者になれるようにということです。

それに対してエリヤは何と言いましたか。10節です。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」なぜこれが難しい注文なのでしょうか。なぜなら、だれが後継者になるかは主が決められることだからです。しかしエリヤは、自分が天に上げられるのを見ることができるなら、そうなるだろうと答えました。つまり、エリシャがそれを見たら、それが、彼が後継者に選ばれたしるしであるというのです。

こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行きました。この「火の戦車」は単数形ですから1台の戦車です。それに対して「火の馬」は複数形ですから数匹の馬ということになります。この火の戦車と火の馬が現れて、エリヤとエリシャの間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行きました。

聖書の中で死を経ないで天に上げられたのは、エノクとこのエリヤだけです。これは何を意味しているのかというと、携挙に与る新約時代のクリスチャンの姿です。Ⅰテサロニケ4章13~18節には、このようにあります。「13 眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。14 イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。15 私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。18 ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」

クリスチャンは死んで終わりではありません。イエス様が再臨される時に復活し、一気に天に引き上げられることになります。生きている人は死ぬことがなく天に携え挙げられるのです。エリヤが死ぬことなく天に上げられたのはこの型を示していたのです。そうです、クリスチャンは死んで終わりではありません。死んでも生きる永遠のいのちが与えられているのです。そういう意味では、クリスチャンのこの地上での生涯は、天国への旅の備えであると言えるのです。

エリシャはこれを見ると、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けましたが、エリヤはもう見えませんでした。すると彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂きました。エリシャが「わが父、わが父」と叫んだのは、エリヤが彼の霊的な父であったからです。それはまた、エリヤが預言者たちのリーダーであったことも示しています。その父を失った悲しみが「わが父、わが父」ということばに表れているのです。

「イスラエルの戦車と騎兵たち」とは、当時、戦車と馬が最強の武器であったことを考えると、エリヤは主に用いられた最強の器であったということです。確かに彼は、バアルとの戦いにおいて勝利した最強の預言者でした。

エリヤが自分の着物を二つに引き裂いたのは、それが悲しみを表現していたからです。また、新たにエリヤの身から落ちた外套を身にまとう準備ともなりました。彼はその外套を拾い上げると引き返してヨルダン川の岸辺に立ち、水を打ちました。そして「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言って水を打つと、水が両側に分かれました。すなわち、エリヤの神はここにいるということです。エリシャがエリヤの後継者として選ばれたのです。エリシャがエリヤの預言者としての働きを完全に継承したということです。

人は去って行きますが、主の働きは継承します。先日、M牧師の葬儀に参列しました。M牧師は救われて67年、牧会生活63年の生涯を終えて天に変えられました。1月29日(日)の礼拝で説教され、その日の役員会で後任の牧師を決めると、翌日、膵炎胆石症で倒れられ、その翌日に天に凱旋されました。まさかその翌々日に召されると誰が想像することができたでしょう。しかし、M師が去ってもその働きは継続していきます。私たちの人生は一時的なものですが、永遠に価値あることのために労することができるなら、真に幸いではないでしょうか。

Ⅱ.エリヤの霊がエリシャにとどまっている(15-18)

次に15~18節をご覧ください。「15 エリコの預言者の仲間たちは、遠くから彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言って、彼を迎えに行き、地にひれ伏して礼をした。16 彼らはエリシャに言った。「しもべたちのところに五十人の力ある者がいます。どうか彼らにあなたのご主人を捜しに行かせてください。主の霊がエリヤを運んで、どこかの山か谷に投げたかもしれません。」するとエリシャは、「行かせてはいけません」と言った。17 しかし、彼らがしつこく彼に願ったので、ついにエリシャは、「行かせなさい」と言った。そこで、彼らは五十人を送り出した。彼らは三日間捜したが、エリヤを見つけることができなかった。18 彼らは、エリコにとどまっていたエリシャのところへ帰って来た。エリシャは彼らに言った。「行かないようにと、あなたがたに言ったではありませんか。」」

エリコの預言者の仲間たちは、遠くから彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言って、彼を迎えに行き、地にひれ伏して礼をしました。彼らはヨルダン川西岸、遠くから一部始終を見ていました。彼らは、エリシャがエリヤの外套でヨルダン川の水を打ったとき、川の水が両側に分かれるのを見て、エリシャがエリヤの後継者であることを理解しました。それで.エリシャのところに向かえを行き、地にひれ伏して礼をしたのです。エリシャに敬意を表すためです。

彼らはエリシャに、自分たちのところに力のある50人の者がいるので、エリヤを捜しに行かせてほしいとエリシャに言いました。エリヤが主の霊によってどこかに運ばれたと思ったからです。エリシャは、エリヤが主によって天に上げられたことを知っていたので、「行かせてはなりません」と言いましたが、彼らがしつこく願うので、しょうがなくエリシャは折れて、彼らに「行かせなさい」と言いました。

ここは面白いところです。彼らはエリシャをエリヤの後継者であると認めながらも、エリシャのことばを聞き入れず自分たちの考えを優先させています。私たちも主こそ神であると認めながらも、主のことばを聞き入れず自分の考えを優先させていることがあるのではないでしょうか。それはこのエリコの預言者の仲間たちと同じです。

結局、三日間捜してもエリヤは見つかりませんでした。それで彼らはエリコにとどまっていたエリシャのところに帰ってきました。彼らがエリシャのことばに耳を傾けなかった結果です。

この出来事を通して、エリコの預言者たちは、自分たちがいかに未熟で傲慢であったかを学んだことでしょう。これ以降彼らは、エリヤの後継者としてのエリシャの権威を認め、さらに信頼を置くことになります。自らの未熟さと傲慢さに気付き、教えられやすい心を育てる人は幸いです。

Ⅲ.エリコの水の癒しと熊にかき裂かれたベテルの青年たち(19-25)

最後に19~25節をご覧ください。「19 さて、この町の人々はエリシャに言った。「あなた様もご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産を引き起こします。」20 するとエリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。21 エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう言われる。『わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」22 こうして水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。23 エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、その町から小さい子どもたちが出て来て彼をからかい、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭」と言ったので、24 彼は向き直って彼らをにらみつけ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、子どもたちのうち四十二人をかき裂いた。25 こうして彼は、そこからカルメル山に行き、そこからさらに、サマリアに帰った。」

この町とは「エリコ」の町のことです。彼らはエリシャのところに来て、「この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産を引き起こします。」と言いました。エリシャの噂が町中に知れ渡っていたからです。そこで町の人たちがエリシャのところにやって来て相談しました。

この「流産」という言葉ですが、新共同訳聖書では「土地は不毛です」と訳しています。水質が悪かったので、作物が育たない不毛の地になっていたのです。もしこれが「流産」であるとすれば、主に家畜の流産であったと考えられます。

するとエリシャは、「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」と言って持って来させると、水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言いました。「主はこう言われる。『わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」すると水は良くなり、エリヤが言ったとおり、死も流産も無くなりました。

塩を盛るのは、もちろん塩に効用があるからではありません。このようなデモンストレーションを通して、主が奇蹟を行なわれることを人々に示したのです。イエス様が生まれつきの盲人の目を癒された時もそうです。つばきを地面にかけそれで粘土をつくると、それを盲人の目に塗られました。それと同じです。主はその方法を採らなくても癒すことができましたが、あえてこのようにして癒されました。そのようにして水を癒されたのです。

エリコの水が生活に不毛をもたらしていたことと、バアル礼拝が霊的不毛をもたらしていることの間には相関関係があります。癒されたエリコの水は、主が憐れみ深い方であり、バアルよりも力あるお方であることを示していました。私たちの人生を支えておられるのはだれでしょう。この力ある神です。私たちはバアルのような目に見える偶像ではなく、ただ力ある神に信頼しようではありませんか。

エリシャはそこからベテルへと上って行きましたが、彼が道を上って行くと、その町から小さい子どもたちが出て来て、エリシャをからかい、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。」と言いました。するとエリシャは彼らをにらみつけ、主の名によって彼らをのろうと、森の中から二匹の雌熊が出て来て、子どもたちのうち42人をかき裂いてしまいました。

この箇所を読んでいて戸惑うのは、小さな子どもから「はげ頭」とからかわれたくらいで殺してしまうというのは、ちょっと行き過ぎではないかということです。

この「小さい子ども」と訳されたことばは必ずしも小学生低学年のような小さな子どものことではなく、幼児から青年までを指す幅広い言葉です。英語のKJVでは「some youths」と訳しています。10代の子どもたちです。おそらく彼らはバアルの預言者たちの卵たちだったのでしょう。ベテルは金の子牛礼拝の中心地であったからです。大人数であったことから組織的にエリシャをからかったことがわかります。

また、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。」は、新共同訳聖書では「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と訳しています。「上って来い」と「上って行け」では大きな違いがあります。「上って行け」となると、あのエリヤのように天に上って行くことを指していることになります。ですからこれは、「もしお前が本当に主の預言者であるなら、エリヤがしたように天に上ってみよ、はげ頭よ。」ということなのです。彼らは単に人をからかったのではなく、主の預言者を侮ったのです。これは主に対する侮りなのです。その結果、熊にかき裂かれてしまうことになりました。それは神の裁きでした。神への冒涜に対する神の裁きだったのです。つまり、神を敬い、神に従う者は神から祝福を受け、神に逆らい、神に敵対する者は、神からのろいを受けるということです。エリコの人々はエリシャを敬ったので神から祝福を受けましたが、ベテルの青年たちはエリシャをからかったので、神からのろいを受けることになってしまいました。異なった態度が、異なった結果をもたらすということです。ここではその対比して描かれていたのです。ですから、私たちは神を侮るのではなく神を敬う者に、神に逆らうのではなく神に従う者にならなければならないのです。