ルカの福音書23章32~43節「三本の十字架」

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今日から受難週が始まります。それはイエス様が十字架の死という受難に向かって歩まれた最後の一週間です。ちょうど今週の金曜日が十字架につけられたその日に当たります。そこから数えて三日目の、週の初めの日、すなわち日曜日の朝に、イエス様は復活されます。ですから、来週の礼拝は、イエス様が復活されたことを記念してイースター礼拝を行いたいと思いますが、今日はその前に、イエス様が十字架で苦しみを受けられた出来事からメッセージを取り次ぎたいと思います。タイトルは「三本の十字架」です。

Ⅰ.父よ、彼らをお赦しください(32-38)

まず、32~38節をご覧ください。「32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。」

32節の「ほかにも」とは、イエスのほかにもということです。イエス様の他にも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行きました。彼らがどんなことをしたのかはここにはありませんが、並行箇所のマタイ27章38節を見ると「二人の強盗が」とあります。つまり、彼らは十字架刑に値するような重罪を犯したのです。

彼らが連れて行かれたのは「どくろ」と呼ばれていた場所でした。「どくろ」はギリシャ語では「クラニオン」、ヘブル語では「ゴルゴタ」、ラテン語では「カルバリ」と言います。英語の「カルバリー」は、このラテン語から来ています。それは響きがいいですが「どくろ」という意味です。「がいこつ」ですね。それは死を象徴しているものです。
私は福島で最初の教会を開拓しましたが、その教会の名前は、「北信カルバリー教会」です。なぜそのような名前にしたのかというと、私たちを遣わしたアメリカの教会がカリフォルニア州のガーデナという町にありますが、その教会がカルバリーチャーチという名前だったからです。カルバリーチャペルとは違います。アメリカンバプテストという団体に所属している教会ですが、その教会の牧師は本当にすばらしい牧師で、霊的にも優れていましたが、人格的にもすばらしい人で、何よりも世界宣教、特に日本の宣教に重荷を持っていましたので、その教会の名前から取りたかったのです。それでその地域の名前にカルバリーという名を付けたのです。でも意味は「どくろ教会」です。なぜその場所が「どくろ」と呼ばれていたのかというと、諸説ありますが、その丘の形がどくろの形をしていたからではないかと考えられています。その「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエス様を十字架につけました。イエス様だけではありません。イエスといっしょに引かれて行った二人の犯罪人も十字架につけられました。一人はイエス様の右に、もう一人はイエス様の左に、です。ですから、そこには三本の十字架が立てられていたのです。

34節をご覧ください。「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
これはイエス様が十字架上で発せられたことばです。イエス様は十字架の上で7つのことばを発しましたが、これはその最初のことばです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」つまり、十字架につけられたイエス様は開口一番とりなしの祈りをされたのです。イエス様がこれまで弟子たちに教えて来られたことを自ら実践されました。たとえば、ルカ6章27~28節には「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。」とありますが、これを実践されたわけです。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたを呪う者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。なかなかできないことです。でもイエス様はこれらのことを自ら実践されました。その究極がこの十字架上でのとりなしの祈りだったのです。

この時イエス様はボコボコにされていました。血まみれの状態で、それがイエス様だと判別することができないほどでした。にもかかわらず、イエス様はこう祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分からないのです。」

この「彼ら」とは誰でしょうか。それは直接的にはイエス様を十字架につけた死刑執行人たち、ローマの兵士たちのことでしょう。しかしそれだけではなく、直接手をかけなくても、彼らに死刑を執行させたポンテオ・ピラトもそうです。さらには、イエスを殺そうと企んでいたユダヤ教の当局者たちもそうでしょう。また、そうした宗教家たちに先導されてイエス様を「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ群衆たちもそうです。強いて言うなら、私たちもそうです。私たちもこの「彼ら」に含まれるのです。なぜなら、私たちも自分が何をしているのかわかっていないからです。自分が何をしているのかわからない人たち、キリストを十字架につけても何とも思わない人たちのためにイエス様はこのようなとりなしの祈りをされたのです。

このときイエス様は瀕死の状態でした。その声は虫の息のようでした。ことばを発するのが奇跡に近いような状態だったのです。そういう状態だったのにイエス様はご自分のことではなく、そんな「彼ら」のために祈られました。皆さん、自分の手のひらに釘を押し付けたことがありますか。私は遊びでやってみたことがありますが、釘の先をちょっとでも押し付けると「痛っ!」となります。それを両手両足に打ちつけられていたのですから、相当の痛みが走ったことでしょう。すべての神経がそこに集中したはずです。もう他の人のことなど考えられなかったでしょう。余裕で何かことばを発するなんてできない状態でした。しかしイエス様は自分のことなど全く無視するかのように、「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られたのです。それはイエス様ご自身がそのためにこの世に来られたということをだれよりもよく認識していたからです。ですから、イエス様は激しい痛みと苦しみの中にあってもそのことを忘れず、最後まで忠実に神のみこころを果たそうとされたのです。十字架の上でもなおも一人でも救おうと願っておられたからです。

このことばは、古今東西多くの人たちの心を捉えてきました。まさに心を奪われてイエス様を信じた人たちがたくさんいます。特に紹介したいのは、淵田美津雄(ふちだみつお)という人です。聞いたことがありますか。この人は真珠湾攻撃の総隊長、海軍大佐だった人です。のちにクリスチャンになってキリスト教の伝道者になりますが、彼がクリスチャンになったきっかけがこの聖句でした。
「父よ、彼らを赦したまえ。その成すところ知らざればなり。」
これは文語訳ですが、このことばが彼の心を捉えました。そして彼は救われたのです。そして世界中を伝道して回る伝道者になりました。アメリカと日本の架け橋となって、赦しのメッセージを伝えて行くことになったのです。このイエスのことばによって、その後も多くの人たちが救われていくことになります。

私たちはもう一度自分の信仰の原点を考えなければなりません。自分はどこから救われて来たのかを。私たちはどこから救われて来たのでしょうか。ここからです。このイエス様のとりなしによって救われたのです。これが私たちの救いの原点なのです。私たちもイエスを十字架に磔にした「彼ら」、極悪人たちとちっとも変わりません。それなのにイエス様はそんな私たちのために祈られました。本来ならこの私が十字架につけられておかしくなかったのに、そんな私たちのためにイエス様がとりなしてくださったことによって救われたのです。ここから私たちの救いの物語が始まっているのです。イエス様がこの祈りをささげてくださられなかったら私たちは救われませんでした。

35節をご覧ください。民衆は立って眺めていました。議員たちも、あざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
この議員たちとはユダヤ教の宗教指導者たちのことです。彼らも十字架につけられたイエスを見てあざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
「言った」というよりも「言ってしまった」という方がいいかもしれません。思わず言ってしまったということです。英語で表現するなら「ウップス!」です。聞いたことがありますか、「ウップス!」思わず本音が出ちゃったということです。「あれは他人を救った」それは本当です。他人を救ったなんて本当は言いたくなかったのです。他人を救ったかのように見えたとか、他人を救ったと自慢したとか、そんなふうに言いたかったのに、思わず本音が出てしまいました。「あれは他人を救った」と。そうです、イエス様は他人を救ったのです。イエス様の敵であった彼らでさえも、それを認めざるを得ませんでした。彼らは知っていました。イエス様が神の力で他人を救ったということを。だったら自分を救ってみろと。

皆さん、イエス様は自分を救うことができなかったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。自分を救うことなんてお茶の子さいさいでした。たとえば、イエス様が十字架につけられるためにローマの兵士約600人がイエス様を捕らえに来ましたが、その時イエス様が彼らに「だれを捜しているのか」と言うと、彼らは「ナザレ人イエスを」と答えましたが、そのときイエス様が「わたしがそれだ」と言うと、彼らは後ずさりして、地に倒れてしまいました。「わたしがそれだ」と言っただけで、600人の屈強なローマ兵が一度に倒れたのです。また、イエス様が風に向かって「嵐よ、静まれ」と言うとどうなりましたか。すぐに凪になりました。風や波すらイエス様の言うことに従ったのです。自然の猛威ですらイエス様の権威の前に服するのですから、ローマ兵が何人束になってかかって来ても、イエス様にかなうわけがありません。イエス様は自分を救うことなんて何でもないことだったのです。十字架の上から下りることができました。でもあえてそうされなかったのです。なぜなら、そんなことをしたら私たちを救うことができなくなってしまうからです。イエス様はそのことを十分知っておられたので、そのような彼らのことばに乗ることをしなかったのです。誘惑はあったでしょう。こんなひどいことをされるならさっさとここから下りて天の父のもとに帰って行こうと。でもそうされませんでした。あえて十字架の上にとどまられたのです。それは私たちを愛するがゆえに。釘がイエス様を十字架に留めたのではありません。私たちに対する愛が、イエス様を十字架に留めたのです。そのことをもう一度覚えたいと思います。

36~38節をご覧ください。「36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
ユダヤ教の宗教指導者たちだけでなく、ローマの兵士たちもイエス様をあざけりました。彼らは十字架に磔にされたイエス様の近くに来て、「酸いぶどう酒」を差し出しました。この酸いぶどう酒は、発酵が進んだぶどう酒に水を混ぜ合わせたものです。これは酔うためのものではありません。渇きを潤すためのものです。十字架刑があまりにも過酷な刑だったのであわれみがかけられ、麻酔薬に相当する没薬を混ぜたぶどう酒が差し出されたのです。でもイエス様はそれを飲もうとされませんでした。はっきりした意識を持ってその痛みの一つ一つを感じながら、私たちの罪の贖いを成し遂げられたのです。これが私たちに対するイエス様の愛でした。つまり、イエス様は十字架でご自身の愛を明らかにしてくださったのです。カルバリ山の十字架は、その神の愛の表れだったのです。それほどまでにあなたは愛されているということです。

イエス様はかつて、こう仰せられました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)。人がその友のためにいのちを捨てるということよりも大きな愛はありません。それは最も大きな愛です。誰かを本気で愛そうと思うなら、その人のために、自分のいのちを捨てて身代わりとなる、それ以上に大きな愛はありません。なぜなら、人が犠牲にすることができる最大のものは「自分のいのち」に他ならないからです。そしてあのゴルゴタの十字架、カルバリの十字架で、イエス様はまさにその「ご自分のいのち」を私たちの身代わりとなって捨てて下さいました。しかもそれは神の御子のいのちです。罪の汚れが一点たりともない神の子のいのちです。私たちは多かれ少なかれ罪を持っていますから十字架で罰せられても致し方ありませんが、神の御子は違います。紙の御子イエスはそのような罪を何一つ犯したことがなく、重罪どころか軽犯罪すら犯したことがありませんでした。ローマの法律ばかりか、ユダヤの律法にも違反したことがありませんでした。イエスは全く罪のない完全な方なのに、十字架で死なれました。なぜでしょうか?それはあなたを救うためです。私を救うためです。私たちの罪の身代わりとなるために十字架で死んでくださったのです。これこそ「愛」です。これより大きな「愛」はありません。だから神様は私たちのことを間違いなく愛して下さっているということがわかるのです。だって私たちは、その「しるし」をこの十字架に、しっかりと見せていただいているのですから。

朝鮮戦争の時、二人の若いアメリカ人兵士が、とある塹壕に隠れていました。二人は大の仲良しで、いつも一緒に行動していたそうですが、ある日、二人が隠れていた塹壕に手榴弾が投げ込まれました。すると、それを見た一人が、もう一人の方にウィンクするや、その手榴弾の上に自分の体を投げ出して覆い被さったというのです。当然、その人は亡くなりましたが、その尊い犠牲によってもう一人の方は、無事にいのちが守られました。
その後、生き残った兵士はアメリカに帰ってから、自分を助けてくれた友だちのお母さんに会いに行きました。そしてお母さんに尋ねました。「彼は、手紙の中でボクのことを書いていましたか?」すると「ええ」とお母さんが答えてくれたので、彼はさらに訊ねました。「手紙の中で、ボクのことを愛していると書いていましたか?」すると、そのお母さんは、突然持っていたカップを床に投げつけて、言いました。「あんたは、一人の男があなたのためにいのちを捨てたのに、『彼があなたを愛していたか』って聞くの?」。
私たちも神様に対して、これと同じようなことをしてはいないでしょうか。「あなたは、イエス様があなたのためにいのちを捨てて下さったのに、神さまの愛を疑うのか」と言われるようなことをしていないでしょうか。

Ⅱ.わたしを思い出してください(39-42)

次に、イエスの右と左に立てられた二人の犯罪人の十字架を見ていきましょう。39~42節をご覧ください。「39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」」

並行箇所のマタイ27章44節を見ると、最初イエス様と一緒に十字架につけられた二人の強盗は、二人ともイエス様をののしっていました。しかし、ここでは一人の犯罪人がイエス様をののしり、もう一人はイエス様を信じ、イエス様をののしっていたもう一人の犯罪人をたしなめています。すなわち、ある段階から一人の強盗が変えられたということです。イエスの右と左、全く同じ距離に磔けられた二人の犯罪者。二人とも強盗であり、二人とも罪深い者でした。でも何かが変わったのです。いったい何が変わったのでしょうか。犯罪者の一人は、イエス様をののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。」と言い、もう一人はイエスを信じて、「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」と言い、イエス様に「あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」と懇願しました。いったいこの違いはどこから生じたのでしょうか。

これまでも35節と37節に「自分を救ってみろ」という言葉が使われていました。ここでも一人の犯罪人はそのようにののしっています。「自分とおれたちを救え」と。彼らに共通していたことは何でしょうか。それは、今置かれている目の前の苦しみから救ってみろということです。日本語の聖書はきれいなことばで訳されていますが、原語では、ひどいニュアンスのことばが使われています。「おめえはキリストなんだろ。だったら、てめえ自身と俺たちのことを救ってみろ!」そんな感じです。いわばヤケクソです。このヤケクソは、私たちもよくあるのではないでしょうか。自分の力ではどうにもならない現実に押し潰されるとき、人は皆このようにヤケクソになります。それはクリスチャンだって同じです。それは「神様の愛を疑う程の失望」から湧き上がって来るものです。

しかし、もう一人の犯罪人は違いました。もう一人の犯罪人は、彼をたしなめてこう言いました。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
彼は「ここから下せ」とか、「おれたちを救え」と言ったのではなく、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言いました。つまり、「ここから下してみろ」ではなく、逆に「ここから引き上げてください」と言ったのです。もっと高い次元にいざなってくださいと。もっとあなたの御傍近くに置いてください。もっとあなたを知りたいのです。そうと言ったのです。この苦しみからただ解放してほしいというのではなく、この苦しみの中にあってもなおあなたを知りたいのです。もっとあなたに近づきたいのです、そう言ったのです。詩篇119篇71節にこうあります。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」
すばらしいみことばですね。この苦しみを通してイエス様の苦しみに少しでも預かることができるならそれこそ本望だと。それは本当にありがたい。苦しいけれどもありがたい。これによってイエス様の似姿に変えられるならば、私は喜んでこの苦難を耐えていきたい。そう言ったのです。あなたはどうでしょうか。そのような祈りになっているでしょうか。それとも、もう一人の犯罪人のように「自分とおれたちを救え。」の一点張りでしょうか。「とにかくここから早く下してくれ。解放してくれ。」と。病気になったらすぐに癒してください。困ったことがあったらすぐに助けてください。ああしてください。こうしてください。そういう祈りになってはいないでしょうか。そういう祈りが決して悪いと言っているのではありません。それも大切な心の叫びです。しかし、それはこの一人の犯罪人とちっとも変わらないということです。ただ目の前の苦しみから解放してほしいというだけですから。しかし、仮にイエス様がこの祈りに応えたとしても、結局、この強盗は自分の罪の中に死んでいくことになります。その時は一時の解放を経験するかもしれませんが、究極的には地獄に堕ちて行くことになるのです。確かに目の前の苦しみから解放されたいと願うのは自然なことです。できるだけ早くそこから救ってほしいと思うのは当然のことです。でも主が求めておられることは、自分とおれたちを救えということではなく、「イエス様。あなたが御国に入れられ時には、私を思い出してください」という祈りです。あなたのもとに引き上げてください。もっとあなたに近づきたいのです。もっとあなたを深く知りたい。そう願うことなのです。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」と、この犯罪人のように、苦しみの中で引き上げられること、主のみそば近くに引き寄せられることなのです。

私たちもそうありたいですね。苦しみに会うととかくそこから救ってほしい、解放してほしいということしか考えらなくなりますが、実はその苦しみこそ私たちが神のおきて学ぶ時として与えられるということを覚えたいと思います。そしてもう一人の犯罪人のように、「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」「ここから引き上げてください」と祈る者でありたいと思うのです。

Ⅲ.あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます(43)

最後に、この犯罪人の願いに対するイエス様の応答を見て終わりたいと思います。43節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」」

これは、イエス様が十字架の上で発せられた七つのことばの第二番目のことばです。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
「今日」ということばに注目してください。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」「いつか」「そのうちに」ではなく「今日」です。イエスを信じたその日に、その瞬間にパラダイスです。この「パラダイス」ということばは元々ペルシャ語から来たことばですが、原意は、柵によって囲まれた園、および庭です。旧約聖書の中にもよく使われていますが、そこでは「園」と訳されています。でもそれはただの園ではなく天の園、天の楽園のことを指しています。それが天国です。黙示録を見ると、実際に天国は園のようなところです。そこにはいのちの木が生えていて、いのちの水の川が流れています。早く行ってみたいですね。まさに楽園です。ですからイエスが「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」という時、それはこの天の園、天国のことを指して言われたのです。「今日、わたしとともにパラダイスにいます。」イエス様を信じた今日、その瞬間、イエス様は彼をパラダイスに伴ってくださると約束してくださったのです。彼は死の間際にすばらしい救いの約束をいただいたのです。

皆さんはどうですか。この約束のことばをいただいているでしょうか。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」いや、わたしはまだ聖書を全部読んでいないから無理ですとか、もっときよめられないと無理ですと思っていませんか。でも、そうではありません。あなたが救われるためには、ただイエス様を信じるだけでいいのです。この強盗を見てください。この状態でいったい何ができるというのでしょう。何もできません。彼ができたことはただイエス様のあわれみにすがり、あなたが御国に入れられるときには、わたしを思い出してくださいと祈ることだけでした。そう祈っただけで救われたのです。パラダイス、それは神がいるところ、イエス様がともにおられるところです。そこにいることができるのです。あなたがただイエス様の十字架の御業を信じるなら、あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。なぜなら、イエス様があなたの救いのために必要なすべてのことを十字架で成し遂げてくださったからです。あなたがどのような人であるかとか、あなたに何ができるかといったことは全く関係ありません。あなたがただ神の前に頭を垂れ、へりくだって自分の罪を悔い改め、神の救いを受け入れるなら、あなたも今日、イエス様とともにパラダイスにいるのです。しかし、神の側ではそのために最大の犠牲を払ってくださったということを忘れてはなりません。

イエス様はこの約束を与えるにあたり、「まことに、あなたに言います。」と言われました。「まことに」ということばは、原文では「アーメン」です。イエス様はご自身に救いを求めたその人に「まことに、あなたは今日わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたのです。これはイエス様の感動が伝わってくることばです。何がイエス様を十字架の苦しみの中にあっても「まことに」「アーメン」と感動させたのでしょうか。それはこの犯罪人の一人が自らの罪を認めてご自身に救いを求めたことです。もう自分では何もできないという絶望的な状態にありながらも、イエス様を信じて救われたいと真実に願い求めた姿が、イエス様を感動させたのです。ゴルゴタの丘に立てられた三本の十字架は、無意味に立てられたのではありません。イエス様をあざ笑う者の仲間になるのか、それともこの犯罪人のように自らの罪を認めてイエス様の救いを受け入れるのかのどちらかです。イエス様を信じて、イエス様がおられる天の御国、パラダイスに入れさせていただきましょう。イエス様は、私たちを「まことに」「アーメン」と言って救ってくださるお方なのです。

Ⅱ列王記4章

 

 今回は、Ⅱ列王記4章から学びます。

 Ⅰ.空の器の満たし(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。「1 預言者の仲間の妻の一人がエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは主を恐れていました。ところが、債権者が来て、私の二人の子どもを自分の奴隷にしようとしています。」2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。私に話しなさい。あなたには、家の中に何があるのか。」彼女は答えた。「はしためには、家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません。」3 すると、彼は言った。「外に行って、近所の皆から、器を借りて来なさい。空の器を。それも、一つや二つではいけません。4 家に入ったら、あなたと子どもたちの背後の戸を閉めなさい。そしてすべての器に油を注ぎ入れなさい。いっぱいになったものは、わきに置きなさい。」5 そこで、彼女は彼のもとから去って行き、彼女と子どもたちが入った背後の戸を閉めた。そして、子どもたちが次々と自分のところに持って来る器に油を注ぎ入れた。6 器がどれもいっぱいになったので、彼女は子どもの一人に言った。「もっと器を持って来なさい。」その子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。7 彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行ってその油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

ここからエリシャの預言活動が続きます。これらを読んで行くと気づくことは、エリヤに願ったとおり、エリヤの霊の二倍の分け前がエリシャに与えられていることです。エリヤの霊の二倍の分け前とは、エリヤが持っていた霊の二倍ということではなく、エリヤに働いていた同じ霊をエリヤ以上にという意味です。ですから、ここにはエリヤが行なった奇蹟と似たような出来事がいくつか出てきますが、エリヤとは異なる、対照的な奇蹟も見ることになります。

1節をご覧ください。預言者の仲間の妻の一人が、やもめとなりました。彼女の夫は借金を残して死んだため、債権者がやって来て彼女の二人の子どもを奴隷にしようとしていました。そこで彼女はそれをエリシャに訴えました。当時は、福祉制度がなく、母子家庭に対する生活保護もなく、やもめはひどく貧しい状況に陥りました。そして当時は、借金を払わない代わりに、このように奴隷になることが習慣としてあったのです。

それで、エリシャは彼女に言いました。「何をしてあげようか。私に話しなさい。あなたには、家の中に何があるのか。」

すると彼女は言いました。「はしためには、家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません。」

「油」とは、オリーブ油のことです。この油は粉に混ぜてパンを焼いたり、燈火用に使ったりするものですが、その油を入れる壺が一つしかありませんでした。家の中に油の壺が一つしかないというのは、極貧の家庭であったことを表しています。

するとエリシャはこう言いました。3~4節です。「外に行って、近所の皆から、器を借りて来なさい。空の器を。それも、一つや二つではいけません。 家に入ったら、あなたと子どもたちの背後の戸を閉めなさい。そしてすべての器に油を注ぎ入れなさい。いっぱいになったものは、わきに置きなさい。」

どういうことでしょうか。外に行って空の器を借りて来て、そのすべての器に油を注ぐようにというのです。いったい何のためにこんなことをしなければならないのでしょうか。そんなことをしていったい何になるというのでしょう。だれもがそう思うでしょう。しかし、彼女には主のことば、エリシャのことばに従うことが求められていました。彼女が集める器の数が、そのまま彼女の信仰の量なのです。家の戸を閉めるというのは、この奇跡が公にではなく私的空間で行われたとを示しています。ここがエリヤの時と違う点です。エリヤの場合は公になされましたが、エリシャの場合は個人的なレベルでなされました。

そこで、彼女は彼のもとから去って行き、彼女と子どもたちが入った背後の戸を閉めると、子どもたちが次々と自分のところに持って来る器に油を注ぎ入れました。そして、器がどれもいっぱいになったので、彼女が子どもの一人に「もっと器を持って来なさい。」と言いましたが、子供が「もう器はありません」と言うと、油がピタッと止まりました。これを霊的にも言えることです。主は私たちに生ける水である神の御霊を注いでくださると約束されましたが、渇いた心を持って主の御許に行くなら満たされますが、そうでないとピタッと止まります。満たされません。私たちの器に神の聖霊を満たしていただくためには、「もっと、もっと満たしてください」と、渇いた心をもって主の御前に進み出なければなりません。良い意味で霊的に貪欲になる必要があるのです。

彼女がエリシャに知らせに行くと、彼は「行ってその油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子供は暮らしていけます。」と言いました。この一家は負債から解放されただけでなく、将来の糧まで得ることができました。このようにエリシャの奇跡はエリヤのそれと異なり、個人的なレベルで具体的な必要を抱えている貧しい人たちに対してなされたのです。イエスさまの成された奇跡に非常に似ています。

Ⅱ.シュネムの女(8-17)

次に8~17節をご覧ください。「8 ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこに一人の裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それ以来、エリシャはそこを通りかかるたびに、そこに寄って食事をするようになった。9 女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。10 ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机と椅子と燭台を置きましょう。あの方が私たちのところに来られるたびに、そこを使っていただけますから。」

ある日、エリシャはそこに来て、その屋上の部屋に入って横になった。12 彼は若者ゲハジに言った。「ここのシュネムの女を呼びなさい。」ゲハジが呼ぶと、彼女はゲハジの前に立った。13 エリシャはゲハジに言った。「彼女にこう伝えなさい。『本当に、あなたはこのように、私たちのことで一生懸命骨折ってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。王か軍の長に、何か話してほしいことでもあるか』と。」彼女はそれにこう答えた。「私は私の民の間で、幸せに暮らしております。」14 エリシャが「では、彼女のために何をしたらよいだろうか」と言うと、ゲハジは言った。「彼女には子がなく、それに、彼女の夫も年をとっています。」15 エリシャが、「彼女を呼んで来なさい」と言ったので、ゲハジが彼女を呼ぶと、彼女は入り口のところに立った。16 エリシャは言った。「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになる。」すると彼女は言った。「いいえ、ご主人様。神の人よ、このはしために偽りを言わないでください。」17 しかし、この女は身ごもり、エリシャが彼女に告げたとおり、翌年のちょうどそのころに男の子を産んだ。」

先程は、貧しいやもめの女で、ふたりの子どもを持っていましたが、ここではそれとは対照的に、裕福で夫はいますが、子どものいない女です。

ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこに一人の裕福な女がいて、彼を食事に引き留めました。「シュネム」は新改訳2017の地図には載っておりませんが第三版には載っていて、イズレエルの北10㎞に位置しています。おそらくエリシャは、サマリヤ、イズレエルのエリアを巡回していたのでしょう。それ以来、エリシャはそこを通りかかるたびに、そこに寄って食事をするようになりました。その婦人は霊的に感受性が豊かな人だったのか、ある時夫にこんな提案をしました。それは10節にあるように、エリシャのために屋上に壁のある小さな部屋を作り、彼のために寝台と机と椅子と燭台を置き、エリシャがそこに来るたびに使ってもらいましょうということでした。主に対する彼女の献身が、主のしもべに対する親切となって表れたのです。

ある日、エリシャがやって来て、その屋上の部屋に入って横になると、エリシャは若者ゲハジに、シュネムの女を呼んで来るように言いました。彼はそのシュネムの女の親切に報いたいと思ったのです。エリシャがゲハジを通して彼女に、「あなたのために何をしたらよいか。王か軍の長に、何か話してほしいことでもあるか」と尋ねると、彼女は「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」と答えました。何もありませんということです。どうせなら、折角の機会なんだから、「じゃ、これをしてもらえますか」と言えばいいのにと私なら思いますが、彼女はすべてが神の恵みと受け止め、もう十分に与えられておりますと答えました。謙虚ですね。彼女はどこまで謙虚で美しい心を持っていました。

そこでエリシャは彼女にではなくゲハジに尋ねると、ゲハジは、彼女には子どもがないことを伝えます。それに、彼女の夫も年をとっていました。彼女は主に祝福されて、何の不自由もないように見えましたが、実は、心の奥底では痛みを抱えていたのです。不妊であったという痛みです。ここからわかることは、人は一見不自由でないように見えても、何らかの欠乏や葛藤を抱えているということです。もしかすると、いくら神の人であるとはいえ、この悩みを彼に言っても無駄だと思ったのかもしれません。

そこでエリシャがゲハジを通して彼女を呼ぶと、彼女は入り口の所に立ちました。するとエリシャは彼女にこう言いました。「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになる。」

すると彼女は言いました。「いいえ、ご主人様。神の人よ、このはしために偽りを言わないでください。」あまりにも調子のいいことを言わないでくださいということです。しかし、翌年のちょうどそのころ、彼女はエリシャの言葉どおりに男の子を生みました。

子を産まない胎が命を産み出しました。神には不可能なことはありません。この誕生は私たちが経験する霊的誕生のひな型でもあります。また、私たちが想像もつかないほどの神の大いなる御業です。人にはできなくても、神にはどんなことでもできるのです。

ところが、その子供が大きくなって、ある日、刈り入れをする者たちと一緒にいる、父のところに出て行ったとき事件が起こります。18~28節をご覧ください。「18 その子が大きくなって、ある日、刈り入れをする者たちと一緒にいる、父のところに出て行ったとき、19 父親に、「頭が、頭が」と言った。父親は若者に、「この子を母親のところに抱いて行ってくれ」と命じた。20 若者はその子を抱き、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親の膝の上に休んでいたが、ついに死んでしまった。21 彼女は屋上に上がって、神の人の寝台にその子を寝かせ、戸を閉めて出て行った。22 彼女は夫に呼びかけて言った。「どうか、若者一人と、雌ろば一頭を私のために出してください。私は急いで神の人のところに行って、すぐに戻って来ますから。」23 すると彼は、「どうして、今日あの人のところに行くのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに」と言ったが、彼女は「かまいません」と答えた。24 彼女は雌ろばに鞍を置き、若者に命じた。「手綱を引いて進みなさい。私が命じなければ、手綱を緩めてはいけません。」25 こうして彼女は出かけて、カルメル山の神の人のところへ行った。神の人は、遠くから彼女を見つけると、若者ゲハジに言った。「見なさい。あのシュネムの女があそこに来ている。26 さあ、走って行って彼女を迎え、言いなさい。『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか』と。」彼女はそれにこう答えた。「無事です。」27 それから彼女は山の上にいる神の人のところに来て、彼の足にすがりついた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠し、まだ私に知らせておられないのだ。」28 彼女は言った。「私がご主人様に子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」」

急に頭に痛みを覚え「頭が、頭が」と言いました。父親は若者に「急いでこの子を母親のところに抱いて行ってくれ」と命じると、若者はその子を抱き、母親のところに連れて行きました。そして、母親の膝の上に休んでいましたが、ついに死んでしまいました。死因が何であったかはわかりません。ある学者は日射病ではないかと考えています。

すると彼女は屋上に上がって、神の人エリシャの寝台にその子を寝かせると、戸を閉めて出て行きました。どういうことでしょうか。彼女はまだ諦めていなかったということです。エリシャなら癒すことができると思ったのです。それで若者一人と雌ろば一頭を用意してもらうように夫に呼びかけました。すると夫は、「どうして、今日あの人のところに行かなければならないのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに」と言いました。夫は無理だと思ったのでしょう。彼はエリシャのことを宗教的行事程度にしか見ていなかったのです。すると彼女は「それでもかまいません」と言って、出かけて行きました。長々と説明して、時間を無駄にしたくなかったからです。

彼女は雌ろばに鞍を置くと、若者に命じて言いました。「手綱を引いて進みなさい。私が命じなければ、手綱を緩めてはいけません。」(24)シュネムからエリシャがいたカルメル山までは、片道約30㎞です。彼女はそこまで手綱を緩めることなく、急いで行きました。ここに彼女の必死さがよく表れています。「どうして、今日あの人のところに行くのか」とのん気に構えていた夫とは雲泥の差です。

エリシャは遠くから彼女を見つけると、若者ゲハジに、彼女と夫、そして子とでもの安否を尋ねるようにと言いました。「あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか」彼女は「無事です」と答えていますが、実際は無事ではありません。どうしてこのように答えたのかというと、やはり時間を無駄にしたくなかったからです。彼女が夫に「かまいません」と答えたように、ここでも「無事です」と答えたのです。それだけ時間がなかったということ、それだけ切羽詰まっていたということです。

それから彼女はカルメル山の上にいたエリシャのところに来ると、彼の足にすがりつきました。ゲハジは彼女を追い払おうとしましたが、エリシャは「そのままにしておきなさい」と言いました。彼女が深い悲しみに襲われていると思ったからです。ただし、その悲しみがどのようなものであるかは、まだ知らされていませんでした。

彼女はその問題について告げる前に、「私がご主人様に子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」(28)と言いました。エリシャはそのことばを聞いて、息子に何らかの危機的状況にあることを悟りました。なぜなら、それは子が与えられて死ぬぐらいなら、初めから与えなかったほうが良かったのではないかという意味のことだったからです。それでエリシャはすぐに彼女の家に向かいます。

ここでの主役はシュネムの女、あの母親です。彼女は信仰の人でした。その信仰は、神の人エリシャに会うまで沈黙を守るという形で表現されています。彼女は、自分が直面している問題を、神の視点から解決しようとしたのです。私たちにこのような信仰があるでしょうか。

次に、29~37節をご覧ください。「29 そこでエリシャはゲハジに言った。「腰に帯を締め、手に私の杖を持って行きなさい。たとえだれかに会っても、あいさつしてはならない。たとえだれかがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の頭の上に置きなさい。」30 その子の母親は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。31 ゲハジは二人より先に行って、その杖を子どもの頭の上に置いたが、何の声もなく、何の応答もなかった。そこで引き返してエリシャに会い、「子どもは目を覚ましませんでした」と報告した。32 エリシャが家に着くと、その子は寝台の上に死んで横たわっていた。33 エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになって主に祈った。34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口をその子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分の両手をその子の両手の上に重ねて、その子の上に身をかがめた。すると、その子のからだが温かくなってきた。35 それからエリシャは降りて、部屋の中をあちらこちらと歩き回り、また寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開けた。36 彼はゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい」と言った。ゲハジが彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。そこでエリシャは、「あなたの子どもを抱き上げなさい」と言った。37 彼女は入って来て彼の足もとにひれ伏し、地にひれ伏した。そして、子どもを抱き上げて出て行った。」

最初エリシャは、ゲハジに自分の杖を持たせてシュネムに派遣しようしました。杖は権威の象徴です。しかし、その子の母親が、「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」と言いました。それはエリシャに対する絶対的な信頼を表しています。それでエリシャは立ち上がり、彼女の後について行きました。

ゲハジは二人より先に行って、その杖を子どもの頭の上に置きましたが、子どもは目を覚ましませんでした。ゲハジはそこを引き返してエリシャに会うと、そのことを伝えます。そして、エリシャが家に着くと、その子は寝台の上に死んでいました。

エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになって主に祈りました。祈りに集中するためです。これもイエス様に似ていますね。それから、子どもの体の上に身を伏せて祈り続けると、子どもの体が温かくなってきました。それからエリシャは下に降りたり、部屋をあちこちと歩き回り、また寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開けました。この「七」という数字は完全数ですが、これが主なる神の奇跡であることを表しています。

エリシャは母親を呼ぶと、その子を母親に返しました。彼女はエリシャ足元にひれ伏し、地にひれ伏しました。そして、子どもを抱き抱えて出て行きました。「彼の足元にひれ伏し」とは、エリシャへの感謝を示しています。また、地にひれ伏しとは、主に感謝と礼拝をささげたということです。この奇跡はシュネムの女の信仰に対する神からの答えだったのです。イエスさまの言葉を借りるなら、「あなたの信仰が、救ったのです」(マルコ10:52)でしょう。彼女は、エリシャが聖なる神の人であることを認めて、この人の祈りによっていやされるという信仰を持っていました。だから、引き下がらず、ゲハジのあいさつや、ゲハジが持っていった杖では直らないと言い張ったのです。このように、いやしや奇蹟には、双方の信仰が要求されることが多いです。いやすことができる方と、いやされると信じる信仰です。私たちはどれだけ主に信頼して祈っているでしょうか。主は癒す力を持っておられます。大切なのは、私たちが主は癒すことができると信じて祈ることなのです。

Ⅲ.毒を取り除いたエリシャ(38-44)

最後に38~44節をご覧ください。まず、41節までをお読みします。「38 エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地に飢饉が起こった。預言者の仲間たちが彼の前に座っていたので、彼は若者に命じた。「大きな釜を火にかけ、預言者の仲間たちのために煮物を作りなさい。」39 彼らの一人が食用の草を摘みに野に出て行くと、野生のつる草を見つけたので、そのつるから野生の瓜を前掛けにいっぱい取って帰って来た。そして、彼はそれを煮物の釜の中に刻んで入れた。彼らはそれが何であるかを知らなかった。40 彼らは皆に食べさせようとして、これをよそった。皆はその煮物を口にするやいなや、こう叫んだ。「神の人よ、釜の中に毒が入っています。」彼らは食べることができなかった。41 エリシャは言った。「では、麦粉を持って来なさい。」彼はそれを釜に投げ入れて言った。「これをよそって、この人たちに食べさせなさい。」そのときにはもう、釜の中には悪い物はなくなっていた。」

エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地に飢饉が起こりました。そこには預言者の仲間たちがいたので、エリシャはその仲間たちに食事を提供しようと思って、若者ゲハジに命じました。煮物を作るようにと。預言者の仲間の一人が、野草を見つけ、その実をたくさん持ち帰ったので、彼はそれを刻んで釜の中に入れました。しかし、それは毒のある実でした。皆はその煮物を口にするやいなや、「神の人よ、釜の中に毒が入っています」と叫びました。するとエリシャは麦粉を持って来させ、それを釜の中に入れました。すると釜の中には悪い物はなくなっていました。

この奇跡は、エリシャの働きを象徴するものでした。イスラエルの民は主に背きバアル礼拝に走ったので、霊的ききんを経験しました。バアル礼拝は、霊的死をもたらす「毒」でした。エリシャはその「毒」を取り除き、イスラエルの民に真の霊的糧をもたらそうと献身的に主に仕えたのです。私たちが食する霊的糧の中に毒が入っているようならば、聖霊によってそれを取り除いていただきましょう。

42~44節をご覧ください。「42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。主のことばのとおりであった。」

預言者の仲間たち百人に、大麦のパン二十個と一袋の新穀によって、満腹になるほど食事を与える、という奇蹟です。彼の召使は、「これだけで、どうやって百人もの人にわけられるでしょうか」と言いました。するとエリシャは「この人たちに与えて食べさせなさい。」と言いました。主がこう言われるからです。「彼らは食べて残すだろう。」そこで召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残しました。主が言われた通りでした。

このことからどんなことが学べるでしょうか。これに似た奇跡をイエス様も行いました。しかし、イエス様の場合はもっと大きな規模で行われました。五つのパンと二匹の魚によって男だけで五千人の空腹を満たされたのです。すなわち、私たちが信頼すべきお方は、イエス・キリストの父なる神だけであるということです。バアルの神は豊穣の神でしたが、バアルは彼らの必要を満たすことができませんでした。彼らの必要を満たすことができるのは真の神だけです。私たちは、私たちの必要を満たしてくださるイエス・キリストの父なる神だけに信頼しましょう。

エレミヤ15章1~14節「苦難の時に生きる道」

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きょうは、エレミヤ書15章1~14節から「苦難の時に生きる道」というタイトルでお話します。苦難の時、どこに生きる道を見出すことができるかということです。結論から申し上げますと、それは神様ご自身であるということです。11節をご覧ください。「主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
  主こそ、わざわいの時、苦難の時の生きる道です。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.さばきを思い直さない神(1-4)

 まず1~4節をご覧ください。1節には、「1 主は私に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」とあります。

いのちの水の泉である主を捨て壊れた水溜めを掘ったイスラエル、ユダの民に対して、主はさばきを宣告されました。14章1節では日照りのことについて、主はエレミヤに語られました。日照りの結果干ばつが起こり、飢饉が彼らを襲うことになります。それだけではありません。14章12節には「剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす」と言われました。
  それに対してエレミヤは必至にとりなしの祈りをささげます。彼は主の御名のために、主のご性質にかけて事をなしてくださいと3度も祈りました。きょうのところは、その主の答えです。1節には「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。」とあります。どういうことでしょうか。

モーセは律法の代表者です。また、サムエルは預言者の代表者です。この二人に共通していることは、彼らがとりなしの名手であったということです。彼らは幾度となくイスラエルのためにとりなして彼らを救ってきました。でも、そのモーセやサムエルがとりなしても、主はその祈りを聞かないというのです。たとえモーセやサムエルのような偉大な信仰者がとりなしても、主がさばきを思い直されることはないというのです。モーセとサムエルの時代もイスラエルの民は神に背いていましたが、まだかわいいところがありました。というのは、神に背いても素直にみことばを受け入れ悔い改めたからです。すぐにごめんなさいと言って、私のために祈ってくださいと懇願しました。しかしこのエレミヤの時代はそうではありませんでした。手がつけられないほど反抗的だったのです。エレミヤが神のことばを語っても受け入れるどころかあからさまに反抗しました。エレミヤは涙ながらに祈ったのにそんなエレミヤを目の上のたんこぶのように邪魔者扱いしました。そして、ついには彼を殺そうとまでしたのです。エレミヤの思いに共鳴することなど全くありませんでした。そんな彼らに対して主は、たとえモーセやサムエルがとりなしてもわざわいを思い直されることはないと言われたのです。

2~3節をご覧ください。「2 彼らがあなたに『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』3 わたしは四種類のもので彼らを罰する──主のことば──。切り殺すための剣、引きずるための犬、食い尽くして滅ぼすための空の鳥と地の獣である。」

主は彼らを四種類のもので罰すると言われました。すなわち、「死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』 」
  主は、剣で死ぬか、飢饉で死ぬか、疫病で死ぬか、それでも生き残った者は捕囚として連れて行かれることになると言われました。しかも、死んでも丁重に葬られることはありません。死体が獣に食われることになるからです。

しかし、だからと言って彼らに希望がないわけではありません。これを見たらとても希望なんかないと思われるかもしれませんが、よく見ると、主は彼らを完全に滅ぼすことを望んでいないということがわかります。一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるのです。というのは、主が本当に彼らを滅ぼそうとしておられたのであれば、こんな回りくどいことはしないからです。あのソドムとゴモラを滅ぼした時のように、天から硫黄を降らせればいいわけですから。そうすれば、一瞬にして滅びてしまいます。わざわざ日照りにしなくてもいいのです。いろいろな種類の死を与える必要もありません。一つの種類で十分です。しかも一瞬でいいのです。しかし、主はあえてそういうことをなさらずに時間をかけながら痛みを与えて罰するのは、彼らを滅ぼすことが目的ではなく、彼らを救うことが目的だったからなのです。いわばこれらの罰は彼らが主に立ち返るための道具だったのです。主はこのような厳しい対処をしながらも、決して彼らを見捨てたり、見放したりはなさいません。私たちの神様はそういう方なのです。ですから、これは滅ぼすことが目的なのではなく、あくまでも救うことを目的とした試練だったのです。バビロンに捕え移されることも、彼らにとっては異教的な環境の中で相当の苦難とストレスに苛まれることになりますが、このことを通して彼らは、あの頃がどんなに神様の恵みに満ち溢れていたすばらしい時だったかを思い出し、主に立ち返るためだったのです。それがバビロン捕囚という70年間にわたる神の懲らしめの時だったのです。

それは1章10節のところで、すでに神様がエレミヤを通して語られていたことでした。「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」
  これがエレミヤに与えられていた使命でした。建て上げるために壊さなければなりません。植えるために引き抜くのです。バビロン捕囚の警告のメッセージは、まさに滅ぼすメッセージでしたが、実はそれは建て上げることが目的だったのです。建設的な目的でなされたのです。

4節をご覧ください。ここには「わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。」とあります。

主は彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにします。これは地のすべての民がユダの民が通った悲劇を見て、恐れおののくようになるためでした。どうして彼らはあんなにも恐ろしい体験をしなければならなかったのかと。バビロンが容赦なく彼らを殺したのも、さぞかし恐ろしかったことと思います。
  しかし、ここで特に注目していただきたいことは、その原因が「マナセがエルサレムで行なったことのためである」と言われていることです。マナセはこのエレミヤの時代から遡ること100年前の人物です。彼のことについては歴代誌第二33章1~9節にありますが、南ユダ史上最悪の王でした。彼は主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて主の目に悪であることを行ったり、天の万象を拝んでこれに仕えたりしました。また、自分の子どもたちに火の中をくぐらせたり、卜占(ぼくせん)とかまじない、呪術、霊媒、口寄せ等をし、主の怒りを引き起こしていたのです。こうしたマナセの行いが、それから100年後のエレミヤの時代に大きな影響を及ぼしたのです。こうしてみると、マナセの行ったことがその後の子孫にどれほど大きな弊害をもたらしたかがわかります。私たちの今のあり方が、後に大きな影響を及ぼすことになるということです。

Ⅱ.エルサレム滅亡の預言(5-9)

次に5~9節をご覧ください。「5 エルサレムよ、いったい、だれがおまえを深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。6 おまえはわたしを捨てた。──主のことば──おまえはわたしから退いて行ったのだ。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた。7 わたしはこの地の町囲みの中で、熊手で彼らを追い散らし、彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす。彼らはその生き方から立ち返らなかった。8 わたしはそのやもめの数を海の砂よりも多くする。わたしは若い男の母親に対し、真昼に荒らす者を送って、突然、彼女の上に苦痛と恐怖を臨ませる。9 七人の子を産んだ女は打ちしおれ、その息はあえぐ。彼女の太陽は、まだ昼のうちに沈み、彼女は恥を見て、屈辱を受ける。わたしは彼らの残りの者を、彼らの敵の前で剣に渡す。──主のことば。」」

  エルサレム、ユダに対する神のさばきの宣告が続きます。5節の「いったい、だれがお前を深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。」とは、だれもあわれまないということです。完全に見捨てられることになります。

7節の「熊手」とは脱穀の時に用いられる道具ですが、この熊手でもみ殻を救い上げ空中に飛ばすと軽いもみ殻だけが飛んでいきますが、そのようにユダの民を追い散らすというのです。「彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす」の「彼ら」とは、そのバビロンのことを指しています。バビロンが侵入して来て、妻子たちを奪って行くことになります。

8節の「やもめの数を海の砂よりも多くする」とは、男たちが戦いで死ぬため、皆やもめとなってしまうという意味です。
  9節には、「七人の子を産んだ女は打ちしおれ」とあります。これは、息子を戦争に送り出した母親の嘆きです。「七」が完全数であることから、これほど恵まれた女性はいない、これほど幸せな女性はいないという意味です。しかし、そのような女性でも打ちしおれてしまうことになります。それほどの悲劇なのです。

彼らは自分たちに降りかかる悲劇の根本的な理由が、彼らの罪にあることを悟るべきでした。エルサレムが滅亡したのはバビロンが強かったからではなく、イスラエルが罪を犯したからでした。私たちは苦難の原因を他人や他の環境から探そうとするのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分と神との関係はどうなのかを吟味しなければならないのです。苦難の時に生きる唯一の道は、この神との関係を回復することです。なぜなら、神はそのような者をあわれんで慰めてくださるからです。これが苦難の時の唯一の道です。

Ⅲ.神の慰め(10-14)

ですから第三のことは、そこに神の慰めがあるということです。10~14節をご覧ください。10節だけをお読みします。 「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている。」

この「私」とはエレミヤのことです。エレミヤは、母が自分を生んでくれたので悲しいと言っているのではありません。そうではなく、こんな時代に生まれてしまったことを悲しんで嘆いているのです。お母さんに産んでもらったのはありがたいことだけど、この時代が悪すぎる。こんな時代に生まれて、だれも幸せになんてなれない。あまりにも悲しい。いっそのこと生まれてこない方がよかった。生まれてこない方が幸せだったと嘆いているのです。

続いてエレミヤはこう言っています。「私は全地にとって争いの相手、またまた口論する者となっている。」新共同訳聖書では、「国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。」と訳しています。そういう意味です。エレミヤは国中の人たちから嫌われていました。なぜ?神のことばをストレートに語ったからです。彼らが聞きたいようなことではなく聞きたくないようなこと、耳障りのよいことではなく悪いことばっかり語ったので嫌われていたのです。誤解もされました。彼は本当の愛国者で、そのためには命を捨てても構わないというくらい同胞を愛していたのに、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか彼を憎み、彼を殺そうとまでしたのです。

「貸したことも、借りたこともないのに」とは、何の負債もないのに、という意味です。何の負債もないのですから、何の責任もないはずです。それなのに彼は、国中の人たちに嫌われ、憎まれ、のろわれ、迫害されていたのです。あまりにも理不尽です。

それでエレミヤは自分が生まれて来たことを悲しみました。だったら生まれてこなかった方がよかったと。時として私たちもこのような自己憐憫に陥ることがあります。全く回りが見えず、自分の受けた傷にどっぷりと浸り、他のことを切り捨ててしまうことがあるのです。それは、人生を浪費させてしまう麻薬のようなものです。あわれみは、人を愛の行動に駆り立てるアドレナリンのようなものですが、自己憐憫は、逆に自分からエネルギーを全部奪い取り、自分をだめにしてしまう麻薬のようなものなのです。いったいどうしたらこの状態から抜け出すことができるのでしょうか。どうしたらこの問題を真に解決することができるのでしょうか。その鍵は、その問題を神様のもとに持って行くことです。

11~14節をご覧ください。「11 主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。12 人は鉄を、北からの鉄や青銅を砕くことができるだろうか。13 わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を、あなたの領土のいたるところで、戦利品として、ただで引き渡す。あなたの罪のゆえに。14 わたしはあなたを、あなたが知らない地で敵に仕えさせる。わたしの怒りに火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ。」」

アーメン!主はこう言われました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」そうです、真の解決は主ご自身にあります。エレミヤは抜け出すことかできない長いトンネルの中で、自分の運命をのろいながら、生まれてこない方がよかったと嘆きましたが、そんな彼に対して主は、「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」と言われました。神はエレミヤの嘆きを聞いてくださいました。神が知ってくださる。これで十分です。これ以上の慰めがあるでしょうか。
  アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルはアブラハムのために身ごもるとサラからいじめられたので、彼女のもとから逃げ去りました。主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで彼女を見つけとる、「あなたはどこへ行くのか。」「あなたの女主人のもとに帰り、彼女のもとで身を低くしなさい。」といいました。そうすれば、主は彼女の子孫を増し加えると。そして、生まれて来る子をイシュマエルと名付けるようにと言いました。
  そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「エル・ロイ」と呼びました。意味は「私を見る神」です。主は私を見てくださる方です。私の苦しみを知っておられる方、「エル・ロイ」と呼んだのです。自分の弱さのために悩むことが多い私たちの人生において、私を知ってくださる方がおられるということは、どれほど大きな慰めでしょう。これ以上の慰めはありません。

そして神は、エレミヤに励ましのことばをかけてくださいました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」と。あなたはそんなに落ち込んでいるようだけれども、わたしはあなたを見捨てることはしない。この民のためにとりなすあなたの労苦が報われる時が必ず来る。今あなたに敵対している敵が、わざわいの時、苦難の時に、あなたにとりなしを求めてやってくるようになる、とおっしゃられたのです。すごいですね、神様の励ましは。後になって、このことばが成就することになります。エレミヤ書21章1~2節、37章3節、42章1~6節にあります。彼らはバビロンが攻めて来たとき、エレミヤのところに来て、「私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、主に祈ってください。」(42:2)とお願いしています。するとエレミヤも「あいよ!」と言って応えます。「承知しました。見よ。私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、主にいのり、主があなたがたにお答えになることはみな、あなたがたに告げましょう。あなたがたには何事も隠しません。」(42:4)と言っています。

皆さん、これが解決です。12節の「北からの鉄や青銅」とはバビロン軍のことです。また14節の「あなたが知らない地」もバビロンのことです。神様はエレミヤに、彼が語っていることは必ず成就するから恐れるな、と励ましてくださいました。

エレミヤは、こんなことだったら生まれてこない方がよかったと、自分の運命をのろうほど疲れ果てていたというか、ほとんど鬱状態にまで陥っていましたが、そうやって神様はエレミヤを励まして、なおも彼が主に仕えることができるように助けを与えてくださったのです。私たちが自己憐憫に陥るような悲しみの中で、それでも励まされ、助けられ、立ち上がることができる力はここにあります。神様ご自身が私たちの慰めであり、励まし、助け、希望なのです。

あなたはどうでしょうか。あなたもエレミヤのように誤解されたり、迫害されたり、全く理不尽だと思うような扱いを受けて悲しんでいませんか。もう回りも見えなくなって、こんなことなら生まれてこない方がよかったと思うほど落ち込んでいませんか。でも恐れてはなりません。あなたが神様に目を留め、神様に信頼するなら、あなたの敵でさえも、あなたにとりなしを頼みに来るようになります。そう信じて、神様から勇気と力をいただこうではありませんか。

エレミヤ14章10~22節「神のジレンマ」

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エレミヤ書14章10~22節をご覧ください。きょうは、「神のジレンマ」というタイトルでお話します。「ジレンマ」とは、互いに反対の関係にある2つの事柄の間で板挟みになる状態のことを言います。神はそのような状態にありました。17節に「あなたは彼らに、このことばを言え。「私の目には、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒しがたい。ひどい打ち傷。」主は癒しがたいイスラエルの民の傷を見て、涙を流しておられたのです。ただ彼らをさばきたいのではなく救いたいからです。なのに救えない。そのジレンマです。

Ⅰ.神のさばきの宣言(10-12)

 まず10~12節をご覧ください。「10 この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」11 主は私に言われた。「この民のために幸いを祈ってはならない。12 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」」

14章前半では、日照りのことについて主のことばがエレミヤにありました。そのことばに対してエレミヤは主に祈りました。主の御名にかけて神様に訴えたのです。それは7節にあります。「主よ、あなたの御名のために事を成してください。」(7)8節では「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」と呼びました。名は体を表します。主はイスラエルの望みの神です。苦難の時の救い主です。だから、自分たちを置き去りにしないでくださいと、必死に祈ったのです。それに対する答えがこれです。

何ということでしょうか。エレミヤが必死になって祈ったにもかかわらず、主の御名に訴えてとりなしたにもかかわらず、それに対する主の答えはまことに素っ気のないものでした。いや、ひどくがっかりさせるものでした。主はこう言われました。10節、「この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」
  非常に厳しい言葉です。突き放されるような思いがします。11節では、極めつけのようなことばが語られます。それは「この民のために幸いを祈ってはならない。」という言葉です。耳を疑いたくなるような言葉です。本当に神様がこんなことをおっしゃったのかと。神様がこのように民のためにとりなしてはならないと言われたのはこれが3回目です(エレミヤ7:16,11:14)。しかし、ここではもっと踏み込んで言われています。単に彼らのために祈ってはならないと言うのではなく、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたのです。私たちの神は私たちに幸いをもたらしてくださる方ではないのですか。その神様が「幸いを祈ってはならない」というのはおかしいじゃないですか。何とも冷たく突き放されるような思いが致します。本当に神様はこんなことをおっしゃったのかと耳を疑いたくなってしまいます。

そればかりではありません。12節にはこうあります。「彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」どういうことでしょうか。どんなに祈っても、どんなに献げても、すなわち、どんなに礼拝しても、神様はそれを受け入れないというのです。礼拝は形ではないからです。むしろ、剣と飢饉と疫病で彼らを絶ち滅ぼすことになります。それは彼らがいのちの水である主を捨てて、壊れた水溜めを慕い求めたからです。壊れた水溜めとは偶像のことです(2:13)。彼らはまことの神を捨てて偶像を慕い求めました。その結果、このような結果を招いてしまったのです。

皆さん、この世で最も恐ろしいこととは何でしょうか。それは神様に拒絶されることです。もし私たちがささげる祈りと賛美が神に受け入れられないとしたら、これほど悲しいことはありません。神様は私たちの究極的な希望であり救い主なのに、その神様に拒絶されるとしたらそこには何の希望もなくなってしまいます。それはまさに絶望であり、破滅と死を意味します。彼らは神に背いた結果、その破滅と死を招いてしまったのです。

ここには具体的にそれが三つの災害を通してもたらされると言われています。12節にあるように、一つは剣であり、もう一つは飢饉、そしてもう一つが疫病です。剣とは争いのこと、戦争のことです。飢饉とは食べ物が不足して飢えることです。14章の前半のところでは日照りについて語られましたが、その結果もたらされるものが飢饉です。あるいは、これは物質的なことばかりではなく霊的にも言えることです。霊的に満たされない状態のことでもあります。疫病とは伝染病のことです。新型コロナウイルスもこの一つです。これらのことは世の終わりの前兆として起こると、イエス様が言われたことでもあります。ルカ21章9~11節にこうあります。 「9 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、11 大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」
  皆さん、世の終わりにはこういうことが起こります。すなわち、戦争や暴動、飢饉や疫病です。それは世の終わりが来たということではなく、その兆候として起こることです。そういう意味では、この世は確実に終末に近づいていると言えます。ロシアがウクライナに侵攻して1年が経ちましたが、今後世界はどのようになっていくかわかりません。まさに一触即発の様相を呈しています。その結果、エネルギー価格が高騰しかつてないほどの深刻な食料危機が引き起こされています。また、新型コロナウイルスが発生してから3年が経過しましたが、まだ終息には至っておりません。いったい何が問題なのでしょうか。多くの人は戦争や異常気象が原因だと言っていますが、聖書はもっと本質的な問題を取り上げています。それは罪です。10節にこうあります。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」主を受け入れず、さまようことを愛しています。いのちの水である主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜めを自分たちのために掘ったのです。これが罪です。その結果、こうした剣や飢饉や疫病がもたらされました。私たちは、苦難の原因を他人や環境から探すのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分自身と神様との関係が正しいかどうかを考えてみなければならないのです。私たちと神との関係が壊れると同時に、これまで努力して積み重ねてきたすべての人間的な労苦は一瞬にして崩れ去ってしまうことになるからです。ただ覚えておいていただきたいことは、たとえ壊れることがあったとしてもそれで終わりではないということです。そこに赦しと回復があります。悔い改めるなら主は赦してくださるのです。

毎年自ら命を絶つ人が後を絶ちません。ちなみに、昨年一年間に日本で自殺した人の数は21,584人でした。また、アルコール依存症(80万人)や神経症(400万人)を患っている人の数も増えています。これらのことから気付かされることは、私たちは成功するための訓練は受けていても、失敗した時の訓練は受けていないということです。失敗した時にどうすれば良いのかがわからなくて苦しんでいるのです。でも私たちの人生においては、成功するよりも失敗することの方がはるかに多いのです。また、豊かさよりも貧困の方が、目的を達成するよりも挫折する方がはるかに多いのです。そうした失敗に備えることがいかに重要であるかということがわかります。

その備えとは何でしょうか。その最大の備えは、悔い改めて神に立ち返ることです。そうすれば、主は赦してくださいます。そこからもう一度やり直すことができるのです。問題はあなたが何をしたかということではなく、何をしなかったのかということです。あなたが失敗したかどうかではなく、悔い改めたかどうかが問われているのです。もしあなたが失敗しても、悔い改めるなら神は赦してくださいます。もしあなたが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪からあなたをきよめてくださると聖書は約束しています。

私たちはいのちの水である主を捨て、すぐに壊れた水溜めを掘ってしまうような者ですが、それでもまだ希望があるということです。こうした神のさばきは世の終わりの前兆であって、まだ終わりではないからです。まだ希望があります。まだ間に合います。もしあなたが自分の罪を悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを赦し、回復へと導いてくださるのです。

Ⅱ.偽りの預言者(13-18)

次に、13~18節をご覧ください。イスラエルの民に対して神がさばきを宣告されると、エレミヤはあきらめないで第二の祈りをささげます。13節です。「私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧ください。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、飢饉もあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか。」」

  ここでエレミヤは、偽預言者たちが民に偽りを語っていると訴えています。偽預言者たちは人々に、「大丈夫、あなたがたは剣なんか見ないし、飢饉もあなたがたには起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える」と言っていたのです。イエス様も世の終わりにはこうした偽預言者が大勢現れると言われました。彼らの特徴はどんなことでしょうか。それは人々にとって耳障りの良いこと、都合が良いこと、聞きやすいことを語ることです。否定的なことではなく肯定的なことを語ります。罪だとか、さばきだとか、滅びだとか、地獄だとか、悔い改めだとか、そういうことは一切言いません。聞く人にとって都合がよいことばかり、耳障りのよいことばかりを語るのです。ですから、彼らはエレミヤが語ることを全部否定しました。剣なんて見ることはないし、飢饉も起こらない。かえって、まことの平安が与えられると。エレミヤは相当困惑したことでしょう。自分が言っていることをすべて否定されるのですから。エレミヤだってそんなことは言いたくありませんでした。できれば平安を語りたい。災いが降りかかるなんて口が割けても言いたくないです。でも、主が言われるから、主が言われた通りに語ったわけですが、それとは全く反対のことを言う者たちがいたのです。偽預言者たちです。彼はここでそのことを訴えているのです。

  それに対する主の答えが14~18節の内容です。「14 主は私に言われた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、空しい占いと、自分の心の幻想を、あなたがたに預言しているのだ。15 それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣や飢饉がこの地に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、主はこう言う。『剣と飢饉によって、その預言者たちは滅び失せる。』16 彼らの預言を聞いた民も、飢饉と剣によってエルサレムの道端に放り出され、彼らを葬る者もいない。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上に彼ら自身の悪を注ぎかける。17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」」

どういうことでしょうか。彼らは主の名によって預言していましたが、主は彼らを遣わしたこともなく、命じたこともなく、語ったこともない、と言われました。彼らは偽りの幻と、空しい偽りと、自分の心の幻想を、語っていただけでした。彼らは勝手に神の御言葉を解釈し、自分たちに都合がいいように適用していました。私たちも神の御言葉を預かる者ですが、彼らのように自分に都合が良いように解釈することがないように注意しなければなりません。「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(Ⅱペテロ1:21)

15節と16節には、神はそのような預言者を罰し、またその偽りの預言者に従った者も罰するとあります。そのような預言者だけではないのです。その偽りの預言者に従った者も罰せられることになります。なぜなら、民には、真の預言者と偽預言者とを判別する責任があったからです。ではどうやってそれを判別することができるのでしょうか。イエス様はこう言われました。「16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:16-19)
  実によって見分けることができます。茨からぶどうが、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。イエス様は、木と実のたとえによって、人の内面と外面との密接な関係性を語られました。木の品質は必ず実に現れるということです。それは人間も同じで、聖霊によって内面が霊的に生れ変っている人とそうでない人とでは外側からは分らないかも知れませんが、結ぶ実が違います。イエス様が問題にされたのはその人間の内面です。クリスチャンであるとはその内面の中心に関ることであって、単に行いのある部分がキリスト教的であるということではありません。クリスチャンであるとは、そうでない生き方にキリスト教的要素が少し付け加えることではないのです。御霊によって生まれ変わったクリスチャンは内面が変えられていくのです。人格の中心である心そのものが、自分中心から神中心へと変わるので、自我に囚われていた自分が神の僕(しもべ)となり、神がキリストを通して下さる全く新しい価値観や人生観、喜び、使命に生きる者へ変えられていくのです。勿論、完全にそうなるということではありません。失敗することもあります。でもその失敗しても本質的にそこに向かっているということです。

エレミヤ書に戻ってください。その上で主はこう言われるのです。17~18節です。「17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」どういうことでしょうか。

この「私の目は」の「私」は漢字で書かれているので、これはエレミヤの目のことですが、実は神の目でもあります。それはその後に「おとめである娘、私の民」とあることからもわかります。この「私」とは、明らかに神様のことです。ですから、エレミヤの目は、昼も夜も涙を流して止まることがなかったように、神様の目もまた涙を流し止まることがなかったのです。神はイスラエルの民にさばきを宣告しましたが、その心は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられたからです。ここに神のジレンマがあります。神様はこの民のために祈ってはならないと冷たく突き放しているかのようですが、実際は、神のおとめである神の民が一人も滅びることがないようにと憐れんでおられるのです。それなのにおとめである娘たちは頑なにそれを拒んでいました。神様の憐れみを受けたければ、頑なであることを止めなければなりません。砕かれなければならないのです。でも彼らは頑なであり続けました。ですから神は憐れみたかったのにできなかったのです。さばきの宣告をせざるを得ませんでした。それがこの涙に表れているのです。

イエス様も同じです。ルカ19章41~42節にこうあります。「41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」
  エルサレムに近づいて、都をご覧になられたイエス様は涙を流されました。それはエルサレムが滅んでほしくなかったからです。神の民が滅んでほしくなかった。だからこの都のために泣いて、十字架にまでかかって死んでくださったのです。それなのに彼らは神の愛を受け入れませんでした。だからさばきを免れないのです。まさに断腸の思いです。腸が引きちぎれそうになる思いで語られたのです。

エレミヤも同じです。断腸の思いでした。もう涙せずにはいられませんでした。可哀そうだ!あまりにも不憫でならない!憐れまずにはいられない!でも、彼らはその憐れみを受け取ろうとしませんでした。だからさばきを宣言しなければならなかったのですそれが辛かったのです。そう言わなければ自分も偽りの預言者になってしまいますから。神はご自身を否むことがない真実で正しい方とありますが、そうでなくなってしまいます。だからさばきを宣告しなければならなかったのです。でも滅んでほしくない、救われてほしい、その狭間でエレミヤは苦しんでいたのです。

それは私たちも同じです。私たちも一人も滅びないでほしいからこそ必死になって福音を伝えています。でもその反応というのは、必ずしもこちらが期待するものではありません。世の終わりが来るとか、神のさばきがあるとか、地獄があるとか、そんなのどうでもいいとか、聞く耳を持ってくれません。だから、同時にさばきも宣言もしなければならないのですが、でもこんな厳しいことばを言ったら嫌われてしまいます。その人が心を閉ざしてしまうのではないか。今までの良好な関係だったのにその関係が壊れてしまうのではないかと恐れるのです。口も効いてもらえなくなるかもしれない。そう思うと耳障りのいいことを言ってしまう誘惑にかられるのです。今はちょっと頑なだけれども、ちょっとしたら柔らかくなるのではないか、それこそ寝たきりになったらチャンスかもしれないとか。でもその時が来るとは限りません。だから私たちはエレミヤのように必死になってとりなし、必死になって福音を語ったうえで、それでも聞かなければ聖書が言っていることをそのまま語らなければならないのです。これが私たちのミニストリーなのです。きついですね。信じるも信じないもあなた次第です、ではないのです。それでは偽預言者になってしまいます。本物の預言者は信じても信じなくてもいいではなく、信じるか、信じないかです。天国か地獄か、いのちか滅びか、祝福かのろいか、その中間はありません。信じなくてもいいなんていう選択はないのです。それは耳障りのいい話であり、偽りの平安です。それでは偽預言者になってしまいます。

最近、Facebookでつながっているある方から1冊の本が贈られてきました。タイトルは「セカンドチャンスの福音」です。またかと思って1ページを開いた「はじめに」のところに次のように書かれてありました。
  クリスチャンは、「自分が死んだら天国へ行ける」と信じることができます。聖書にそう約束されているからです。では、私たちの身近な人や、家族や親族、友人などで、未信者の方が亡くなった場合はどうでしょうか。たとえばある親御さんが、こう打ち明けてきたら、あなたは何と答えますか。
  「先月、長男が交通事故で亡くなってしまったのです。突然のことでした。大学卒業を間近に控えた時でした。神様にも関心を持つことはありませんでした。あの子は今どこにいるのですか。どうか教えてください。」 そう涙ながらに懇願された場合、答えに窮する方は多いのではないかと思います。
  まず親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切でしょう。その上で適切な答えをしてあげることが大切です。けれどもこの時、慰めと平安を与えることのできる人が、どれほどいるでしょうか。
  このような時、間違っても「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言ってはいけません。地獄に行っていないからです。お子さんは陰府(よみ)に行っています。陰府と地獄は別です。
  一方、このとき明確な答えを避けて、「わかりません」「どこに行ったかは神様におまかせすることですよ」等と答える方もいるでしょう。しかしそのような答えでは、尋ねたかたは決して満足しないでしょう。その人は明確な答えを求めているからです。
  もし、このような場合、明確な答えができない、あるいは慰めと平安を与える答えができないのであれば、それはあなたがまだ聖書的な死後観を持っていないということなのです。
  もし聖書的な死後観を身につけるなら、このような場合にも明確で、慰めと平安の答えをすることができます。本書でこれから解説しようとするのは、そのような聖書的な死後観です。

皆さん、どう思いますか。聖書のことを知らなければ、「ああ、そうなのか、死んでからでも救われるチャンスがあるのか」と思ってしまうでしょう。これが聖書が言っている福音でしょうか。違います。聖書はそんなこと一言も言っていません。聖書が言っていることは、「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」ということです。イエス様はこう言われました。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36)
  ここで「光があるうちに」と言われているのは、直接的には光であられるイエス様が十字架に付けられて死なれるまでのことを意味していますが、私たちにとって、それは死という闇が襲ってくる時か、あるいはイエス・キリストが再び来られる時(再臨)の時かのいずれかの時です。その間にイエス・キリストを信じなければ、永遠に救いのチャンスは無くなってしまうということです。これがイエス様が言われたこと、聖書が教えていることです。これが福音です。それなのに、どうしてこの福音の真理を曲解するのでしょうか。先ほどの言葉を聞いていて何かお気づきになられたことがありませんか。そうです、それを聞いた人が慰めと平安を与えられるかどうかということに重きを置いていることです。確かに親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切です。確かに「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言うことは控えるべきでしょう。でも聖書にはどこへ行ったのかを明確に示されているので、それと違うことを言うのは控えなければなりません。確かに人は死んだらすぐに地獄に行くのではなく陰府へ行きますが、そこはもう一度悔い改めるチャンスが与えられるところではないのです。そこは死刑を待つ犯罪人が留置されている場所のようなところで、その行先が地獄であることが決まっています。ただ、福音を聞く機会のなかった人が聞くチャンスはあるかもしれません。でもそれは現代においてはあり得ないことです。なぜなら、現代では世界中のいたるところに十字架が掲げられているからです。しかし亡くなったご家族にそれをその場で伝えることはふさわしくないので、「わかりません」「神様にゆだねましょう」と答えるのが最善だと思います。あたかも死んでからでも救われる機会があると伝えることは間違っています。福音ではありません。それでは、ここに出てくる偽預言者たちのようになってしまいます。

エレミヤは嫌われても、拒まれても、神が語れと言われたことを忠実に語りました。でもそれがあまりも厳しかったので回りから嫌われ、憎まれ、殺されそうになりました。それでもエレミヤはただ神のさばきを宣言するだけで終わりませんでした。涙を流して、祈って、必死にとりなして、そのさばきを主にゆだねたのです。それが私たちにゆだねられているミニストリーなのです。

Ⅲ.だから悔い改めて(19-22)

ですから、第三のことは、だから悔い改めてということです。19~22節をご覧ください。「19 「あなたはユダを全く退けられたのですか。あなたはシオンを嫌われたのですか。なぜ、あなたは私たちを打ち、癒やしてくださらないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、ご覧ください、恐怖しかありません。20 主よ、私たちは自分たちの悪と、先祖の咎をよく知っています。本当に私たちは、あなたの御前で罪の中にあります。21 御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座を辱めないでください。私たちとのあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。22 国々の空しい神々の中に、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。私たちの神、主よ、それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたが、これらすべてをなさるからです。」」

エレミヤの祈りに対する神の答えを聞いて、エレミヤはここで再度とりなしの祈りをささげています。必死に食い下がっているのです。つい先ほど、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたにもかかわらずです。これがエレミヤの心でした。そしてこれが神の心でもあったのです。幸いを祈ってはならないと言いながらも、そういう厳しいことを言いながらも、彼らにさばかれないでほしい。彼らが神様に立ち返ってほしい。神様はそう願っておられたのです。神様はあわれみ深い方なのです。エレミヤは預言者でしたが、預言者というのは神のことばを取り次ぐ人のことです。ですから、彼は預言者として神のことばを取り次いでいましたが、それだけでなく彼は、神の心も取り次いでいたのです。これが神の御心でした。エレミヤの姿を見て私たちも痛ましいほどの主の愛に心が動かされるのではないでしょうか。そこまで主は愛してくださるんだと。そこまで思ってくださるんだと。
  エレミヤも民に憎まれ、迫害されて、そんな連中なんてもうどうなってもいい、滅んだほうがいいとすら思っても当然なのに、そんな民のために必死になってとりなしました。それこそが、神が私たちに抱いている思いです。

ここでエレミヤはどのように祈っているでしょうか。21節を見ると、エレミヤは三つの理由を挙げて祈っています。第一に、御名のために私たちを退けないでほしいということです。ここに「御名のために、私たちを退けないでください。」とあります。この御名のためにというのは前回お話したように主のご性質にかけてということです。主は憐れみ深く恵み深い方なのにイスラエルを滅ぼすようなことがあるなら、神の御名に傷がつくことになります。そんなことがあってはならない。あなたの御名のために、この民を退けないでください、そう祈ったのです。
  第二に、彼は栄光の御座を辱めないでくださいと祈りました。栄光の御座とは、神が臨在しておられる所です。神殿で言うなら、約の箱が置かれている至聖所のことです。そこは神の栄光で輝いていました。そこに主が臨在しておられたからです。その栄光の御座が辱められることがないために、自分たちを退けないでくださいと祈ったのです。
  第三に、彼は「私たちとあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。」と祈りました。神がイスラエルの民との契約を破棄するなら、神のことばは信頼できないものになってしまいます。神が真実な方であるのは、その契約をどこまでも守られるからです。その契約を覚えていてくださいと訴えたのです。

八方塞がりになったとき、あなたはどこに希望を見出していますか。私たちが希望を見出すのはこのお方です。イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主、私たちの主イエス・キリストです。この方は決してあなたを決して見離したり、見捨てたりすることはありません。あなたの罪のために十字架でいのちを捨ててくださるほど愛してくださった主は、そして三日目によみがえられた主は、世の終わりまでいつもあなたとともにいてくださいます。そして、あなたを絶望の中から救い出してくださいます。その恵みは尽きることはありません。私たちの主は真実な方だからです。神の激しいさばきの宣告の中にも、主の憐れみは尽きることがないことを覚え、悔い改めて今、主に立ち返ろうではありませんか。